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続・落合論文
  陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(5)

 (5)-2 難渋を極める新領土・台湾統治、一時は軍政施行も
 

  新領土の台湾を統治するため、台湾総督府を置くこととなり、明治28年5月10目、樺山資紀は海軍大将に任じ、初代台湾総督に補せられた。21日台湾総督府仮条例が制定され、旅順に駐屯していた近衛師団が、台湾授受のために十隻の輸送船に分乗して台湾に向かう。29日樺山総督は、近衛師団長・北白川能久親王中将と共に台湾に上陸し、六月二日基隆沖の横浜丸船上において清国全権李経方と会見し、台湾授受式を行う。台湾では割譲を機に各地で混乱が起きる。

 台湾巡撫唐景松が5月25日台湾民主国の独立を宣言して自ら総統に就くが、本音は本土商人の財産確保にあり、近衛師団との戦闘もおざなりで、恐れるに足りなかった。
 しかし、台南には清朝政府から台湾防衛を命ぜられた黒旗軍の劉永福将軍が駐屯していた。劉は元来、反清秘密結社・天地会の一員で、辺境の武装組織・黒旗軍に参加したが、清朝正規車に駆逐されてベトナムに逃げ込む。そこで清仏戦争に遭い、西太后の密命で黒旗義勇軍を率いてフランス軍を駆逐した功績で一等義勇男爵に叙せられた。両広総督張之洞は6月5目、唐に対し「台湾民主国総統の印綬を劉永福に渡して大陸へ引き揚げよ」と訓令したが、翌6日基隆は陥落し、清朝の元高官らは倉皇として支那本土へ引揚げてしまう。後には3万5千の陸軍兵が残され、略奪乱暴の限りを尽くした。

 これを憂慮した台湾の有力商人が、治安回復のため日本車に早期入城を要請したので、日本車は清軍残兵を掃討して降伏兵を大陸に送還し、6月17日台北城内に入って閲兵式を行い、総督府施政式を執行した。
日本軍は、19日南進を開始し、台北から新竹までの問で住民の激しい抵抗を受けるが、22日新竹が陥落すると一変して歓迎を受けた。しかし、住民の抵抗や後方撹乱はその後も収まらず、樺山総督は一個師団では不足と判断して、増援を請うこととし、28日大本営に対し一個混成旅団の増援を請求した。

 一方、台南商人から地方住民の頭領たることを要請された劉永福は、承諾して台南郊外の安平に移り、以後は台湾ゲリラの首領として日本車に徹底抗戦した。ゲリラ化した住民相手の平定は難航し、7月13日樺山総督は大兵力を用いて台北・新竹間を鎮圧することを決意し、18日民政から軍政への移行を指示した。
日本車は激しい掃討を行ったが、抗日勢力も引き下がらず、樺山総督は8月6日台湾総督府仮条例を廃止し、軍令を以て台湾総督府条例を制定し、民政を一時中止して軍政を施行することとした。また台南平定に必要な南方作戦に対応するため、副総督を置くこととし、枢密顧問官・高島柄之助か予備役から現役中将に復帰し、8月21日付で台湾副総督に任命された。

 これより先、8月5日、日清戦争の功績を賞する叙爵が早くもあり、勲功により伊藤博文が、軍功により大山巌・西郷従進・山県有朋が侯爵・旭日桐花大綬章を受けた。また同じく軍功で、樺山資紀・野津道貫が伯爵・旭日大綬章を、川上操六・伊藤祐亨が子爵・旭日大綬章を、それぞれ受勲した。

 

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