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落合論文・補
  *大本教
 第二次弾圧 1935年
 
 
 1935(昭和10)年12月、日本の近代宗教史上最大の宗教弾圧がおこなわれた。
 当局者は、「大本教を地上から抹殺する」と公言して、その私設を根こそぎ破壊した。検挙された出口王仁三郎以下の幹部は、不敬罪・治安維持法違反で起訴され、憎悪に燃える天皇制官僚達によって、仮借ない追究・拷問をうけた。
 
 天皇の宗教的権威を、究極的には否定していた大本教は、天皇制ファシズム下では、その存在を許されるべくもない「邪教」であり、二度にわたる大弾圧は、近代天皇制国家と国家神道の本質を、事実において余すところなく示す結果となった。

 以下、事実関係を確認していく。
 

  昭和10年12月 王仁三郎はクーデター準備中の皇道派系右翼・青年将校グループから多額の資金援助を求められる。
 二・二六事件の直前のことである。

 *12月8日 特別検察隊250名が綾部を襲い、大本教幹部150名を検挙する。
 別働隊300名は亀岡の天恩郷に乱入。総統補出口日出麿ら60名を検挙
 旅行先の松江で王仁三郎は検挙。
 東京の昭和神聖会本部など7ヶ所が襲われ、出口伊佐男らが検挙される。
 『筆先』『霊界物語』をはじめ、文書・原稿・日記・メモ・武器類など、『不逞の目的』を裏付ける証拠物件を重点的に、約5万件が押収される。
 本部事務所・神殿などの主要な建物は、封印されて警察の管理下におかれ、鉄条網を張りめぐらして立入りを一切禁止した。
 わずか8日間で全国109ヵ所の支部が捜索され、京都市内に護送留置された幹部は44名に達した。

 *12月15日 内務省・京都府特高警察・京都地検は、共同で押収物件の整理を開始。弾圧を正当化する資料をつくりあげた。

 昭和11年1月 京都で大審院検事局・内務省警保局・京都府特高警察・京都地検の合同会議が開かれ、起訴と同時に大本教の解散と建造物の破却を実施することを決定。自白の強要がはじまる。
 王仁三郎は長髪をつかまれてひきずりまわされ、たびたび失神した。
足をくくられ廊下をひきずりまわされて後頭部の皮膚がすりむけた者
ひとにぎりの毛に血がべっとりついて抜けた者 焼火ばしを尻にあてられ責め立てられた者
あおむけに寝かされて鼻や口から水を注ぎ込まれた者
竹刀がササラになるほど打たれ、顔の見分けがつかなくなった者もまれではなかった。
『幹部の誰それは自白したぞ』とだまして、たくみに自白を引きだそうとそうとした。
出口日出麿(当時39歳)は尋問がはじまった直後に精神に異常を来たした。

 予審においては、自白を拒否すると、被告は2ヶ月も3ヶ月も、精神的動揺とあせりから自白に応じる気持ちになるまで放置された。
 拷問によって獄死または自殺をとげたり、保釈後に死亡した大本教信者の数は、事件中だけでも20名を越えた。

  <具体的事例>の列挙。
 幹部の栗原七蔵。64歳。自殺。抵抗むなしく『自白させられた直後のことだった。
 幹部の岩田久太郎。62歳。獄中で病死。岩田は肺を病んでいたが、充分な手当を許されないまま病状が進行し、一杯の水すら与えられず、『水、水』とつぶやきながら絶命した。
 埼玉県の信者の宮川剛。50歳。浦和署から京都に送られ、はげしい拷問をうけて中京区刑務支所に収容されたが、その後『重病』として日赤病院にうつされ、まもなく息をひきとった。病名は不明だが、体には拷問によってできた黒い斑点が随所にみられた。
 福島県の信者の神正彦。22歳。京都に連行された父の神守が王仁三郎の信任をうけていたので、その『自白』をとるため、病身にもかかわらず拷問をうける。病状が悪化して半死半生のまま家に帰され死亡。
 福島県の信者の加藤利七。水責め火責めなどの拷問をうけ、帰宅後、余病をおこし死亡。湯灌のさい、遺族が臀部に数条の暗紫色の傷あとがあるのを発見。

 *3月13日 王仁三郎・すみ以下の大本教幹部61人は、不敬罪・治安維持法違反などの理由で起訴され、内務省は大本教を禁止した。
 起訴理由は、大本教が『国体』の変革を目的として結社を組織し、政権の奪取を企てたということが中心点であったが、自白以外にはなんの証拠もない言いがかりである。
 政府は、裁判の結果を待たずに、大蔵省達118号『神社に紛らわしき奉斎施設の撤去』を理由に大本教の全施設の破壊に着手。
綾部・亀岡の教団所有地5万坪を『概ね賃貸価格』という超安値で強制的に売却した。

 開祖出口ナオの墓は 綾部の町営墓地に築かれていたが、当局が町議会に圧力をかけて墓地廃止を決定させて墓の移転をせまり、もとの墓は破壊。墓地の池を玉石で埋め、苑内の樹木は根こそぎ引き倒した。
信者の納骨堂は破壊。教職者。信者の墓石から、『宣伝使』『修斎何等』などの大本教に関係する文字を削り取った。

 亀岡天恩郷、綾部梅松苑の宏壮な神殿・建造物を跡かたもなく破壊し、用材は再建をおそれて短く切断した。
 亀岡に建てられていた総石造りの月宮殿はダイナマイトで破壊。本部内の地蔵・観音などの石像は首を切り落とされた。
 施設・動産の破却処分が開始され、大本教に関係のない美術品や家具什器類は売却され、大本教に関係するものは償却された。
 関係8団体の支部の解散命令が実施され、礼拝施設は個人・団体の別なく破壊され、大本教関係の書籍・物品は一切没収された。
 信者に対しては、キリシタンの踏み絵そのままの執拗な転向の強制が行われ、大阪では信者に神体を踏ませて棄教を強制するなどの暴圧すら行われた。

 大本教の弾圧と共に記憶しておく必要があるのは、政府の弾圧と歩調を合せたメディアの活動であろう。戦後多くのメディアが、政府の政策に追随してしまったことに対して反省の意思を表した。確かにその時、その場にいた者にとっては そういった行動しか選択肢が無かったと想像するのだが、政府の言動に流されてどのような行為を行ったのかは 明らかにすべきだろう。また、今後同じ行為を繰り返さない「いましめ」の意味で 知っておく必要はあるだろう。

 まず、第一次の弾圧の際は 関西の有力紙誌を中心とするジャーナリズムは、きそって大本教の拠点である綾部に乗り込み、避難攻撃を行った。
 既成宗教も大がかりな攻撃に乗りだした。
 教育界でも大本教攻撃の波が広がり、大正9年、島根県では、教師で大本教の布教をする者には退職を勧告し、信者の生徒には校長が警告を与えることを決定。金沢では信者の生徒が校長に呼ばれて棄教を勧告されたうえ、諭旨退学処分をうけた。岡山の第六高等学校では入信者が続出し、あわてた文部当局は取り締まりの強化を指令した。

 大正10年5月、王仁三郎らの予審が終結し 当局は事件の報道禁止を解除。マスコミは予審決定の全文を発表。各新聞。雑誌は一斉に大本教攻撃の報道を再開したが、事実を報道した記事はほとんど無く、政府に追従した興味本位の内情暴露記事が紙面を埋めた。政府のマスコミ操作はこのような方法によって、「国賊」・「邪教」のイメージを世人に植え付けたのである。

 次に、第二次弾圧の時の状況を見てみよう。この時は、権力に迎合したマスコミの報道は、第一次弾圧のときを上回る激しさで「邪教」大本、「国賊」王仁三郎攻撃の筆陣を張った。信者たちにとっては、社会からの迫害も深刻であった。日本帝国主義の最終段階には、全国民はファシズム支配の下で、近代天皇制イデオロギーの宣伝ときびしい思想統制を加えられていた。国内は天皇崇拝と「忠君愛国」の一色でぬりつぶされ、狂信的は「滅私奉公」の精神があおりたてられていた。
 この風潮のなかで、大本教に加えられた「非国民」「国賊」という非難は、大本教信者のひとりひとりへの偏見による差別や攻撃となって現われた。この攻撃は単に侮蔑、嘲笑のみにおわらず、村八分にされて孤立する者、職業や地位を追われたり、取引を停止されて廃業に追い込まれる者、住居を追われる者などが全国で続出し、信者たちの日常生活はいたるところで脅かされた。

   <大本教>完。
 

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