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落合論文・補
  *大本(大本教・おほもと)について、要点を記していく。

 参考;村上重良著「国家神道と民衆宗教」・同「大本神諭」の解説
 

  大本教の開祖出口ナオは1836年(天保7年)12月16日に丹波国(京都府)福知山に生まれた。(大工職・桐村家に生まれ、後、叔母・出口ユリの養女となる。))貧しい暮らしの中20歳で大工・四方政五郎と結婚し、明治維新をはさむ25年間に11人の子をもうけた(うち、8人が成人した)。

政五郎は腕はいいが、酒好きの浪費家で、僅かな収入は浪費に追いつかず、1884年(明治17年)には、一家はついに破産状態に陥った。1887年(明治20年)、それまでも中風で寝たきりだった夫の政五郎(旧姓・四方で出口家の婿となる)は病死し、52歳で未亡人になった。それ以後もナオの家庭的不幸と生活苦は続く。

1892年(明治25年)新暦2月3日に神がかりになり、以前から親しみを感じていた、金光教会をしばしば訪れるようになり、「お筆先」という神の啓示にしたがった書をしたためるようになる。日清戦争中の明治27年11月には綾部に金光教会を開く。この後、明治30年には独立して布教を始めた。明治31年には亀岡近郊の貧農の生まれの上田喜(鬼)三郎(後の出口王仁三郎-大本教の聖師となる)と出会う。

 明治30年、妙霊教会の熱心な信者となった上田喜三郎は、明治31年に高熊山の洞窟で修行し神がかりと病気なおしをはじめる。この年に静岡県清水の稲荷講社の中監督に任じられ、鎮魂帰神二課の高等科得業の免許を得る。

 明治31年ナオと、帰村して「霊学会」を始めていた喜三郎は合同で「金明霊学会」をつくり、布教活動を始めた。明治32年喜三郎はナオの五女・すみと結婚した。しかし、ナオの天皇制イデオロギーと相容れない本質と開明と発展を求める喜三郎は対立。喜三郎は王仁三郎と改名させられる。このような忍耐を続けていた(旧幹部の中で浮いた存在となっていた)王仁三郎は明治38年に綾部を去り、京都の皇典研究所に入学して神職尋常試験に合格。明治38年には伏見稲荷の御岳教西部教庁の主事となるが、ナオの苦境を知り明治41年からは綾部にもどり、教会の建て直し、教勢拡大に尽力した。(「金明霊学会」は警察の圧迫によって 布教活動が進展しない状況であった)。

8月には教会名を「大日本修斎会」と改め、神殿も落成して全国展開をはじめる。教義の体系化にも着手する。
 大正5年(大正3年?)には「皇道大本」と改称し、王仁三郎が教主の地位に就き「皇道論」を発表。大正7年には綾部に五六七殿をはじめとする大建築が完成し、亀岡の亀山城跡に大道場を建設。「大正日日新聞」を買収して宣伝を開始、めざましい発展を遂げた。この時期には、全国に二百五十余の分所・支所を擁して、信者は五万人を越えた。

 (1917年ロシア革命、1918年シベリア出兵・米騒動) 1919年(大正8年)、5月に第1回目の警告が出された。内容は「世の立替え直し」「神政復古」「大正維新」「私有財産の否認」等の宣伝し、綾部を聖都のように説いてはならない。また、これらを新聞・出版物・講演で説くことも禁止するというものであった。こういった状況下でも布教活動は行われたので、1920年(大正9年)には二回目の警告が出される。内容は「皇室に対する不敬、日米戦争や日本対世界大戦、憲法廃止、土地私有制及び金銀為本制度の廃止、天変地異や悪疫流行などに関する予言や言説は、演説・講演・出版その他いかなる方法によらず絶対に発表を禁止すること。鎮魂帰神はひかえること。」といった内容であった。この1920年8月には、『大本神諭』火の巻が発禁処分をうけている。
 ジャーナリズムは、「邪教」として、大々的に攻撃し、大本教が進出した台湾では、植民政策と治安に害を及ぼすとして、その出版物を発禁処分とし、内務省に取締りを要請してきた。
 
 こうした官憲の圧力によっても活動が停止せず かえって活発化したので、1921年(大正10年)2月12日に大本教に内乱予備罪を適用し、捜索を行った。出口王仁三郎をはじめ 幹部の一斉検挙が行われ自白の強要による不敬罪の適用が行われた。この後7年にわたって法廷闘争が続いたが、公判中に大正天皇の大葬(1927年5月)に伴う大赦があり、王仁三郎らは免訴となった。
 この裁判は、終始、大本教・教義をめぐって争われ、法廷は事実上、国家神道イデオロギーと大本教・教義の対決の場となった。 
 これが第一次の弾圧と呼ばれている。

 綾部の本宮山神殿の破壊で信者の四散をはかる官憲に対し、堅い団結を維持し続けた。幹部の離脱が相次ぎ 教団は危機的な状況となったが、王仁三郎による「霊界物語」の口述による新しい経典の作成によって再出発した。布教は再開し昭和4年には支部総数は772に達し 昭和10年には1990箇所にまで急増した。さらに大本教は芸術活動の推進、機関誌の発行、日刊紙「北国夕刊新聞」「丹州時報」「東京毎夕新聞」などの一般新聞も傘下におさめ、宣伝活動を展開した。
 しかし、この昭和10年の末から 第二次の弾圧がはじまる。(天皇制ファシズムの台頭期である。)

       (続)


 
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