カウンター 読書日記 2011年04月
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●今日の一冊 ― 『草森紳一が、いた』
 
  『草森紳一が、いた。』


  『草森紳一が、いた』部分


 ●震災で崩れたのを機に、こうしようか・・ああしたほうが・・・

 遅々として片付かない蔵書の一冊に加わった因果な?一冊。

 「日本の古本屋」メールマガジンで知って、早速取り寄せたもの。

 『草森紳一が、いた。―友人と仕事仲間たちによる回想集』 


  
 詳細は、 ☛ここから。 





 

スポンサーサイト

●疑史 第78回
 
 ●疑史 第78回

  堀川辰吉郎と閑院宮皇統(5)      評論家落合莞爾

 
 明治維新を遡ること十年、安政五年(一八五八)は頗る多事の年であった。一月、水戸藩を中心とする攘夷論を抑えるために朝廷の威光を借りようとした幕閣が、日米条約締結を朝議に出した処、岩倉具視・中山忠能ら中下級公家八十八人が条約案の撤廃を求めて列参、座り込みをしたので、孝明天皇は条約締結反対を決断し二十日に不許可の勅答を下した。中下級公家の列参が天皇を動かして条約勅許の阻止を実現したことで幕府の権威は失墜し、世情は幕末に向かって大きく前進を始めた。

 通説は、この列参を中下級公家の幕府に対する鬱屈から出たものと説くが、むしろ彼らの待遇改善要求が条約勅許を機に噴出したと観るべきである。公家社会を幕藩体制の一角に押し込めていたのは、幕府の法制「禁中並びに公家諸法度」であるから、この列参も広く謂えば幕府に対する反抗ではあるが、彼らが処遇の改善を要求した相手は幕府でなく、五摂家・九清華家ら上級公卿であった。自分たちを抑圧しつつ、朝幕間を周旋して利得を専らにする上級公卿に対し反感を募らせた中下級公家は岩倉に煽動され、条約反対を名分に幕府掣肘の形勢を示し、以て上級公卿を震憾させて処遇改善を取り付けようとしたのである。かかる些事が幕府権威の失墜を引き起こしたのは予想の外で、これが幕末現象となった。以後の朝廷は、公武合体と勤皇倒幕の間を揺れながら維新に向かうが、その中心に孝明が端然と座し閑院宮皇統を従え岩倉具視ら側近公家を用いて「堀川政略」を進めていたことを洞察し得ず、左右からの風圧に靡く葦なぞと見做していては、歴史は解けない。

 上級公卿に対する贈賄の甲斐もなく日米条約が不勅許となり、老中堀田正睦が京洛の地で悩んでいる間に、江戸では将軍家定の継嗣を巡り老中松平忠固と紀州藩附家老水野忠央らの南紀派が井伊直弼の大老就任を工作していた。その功成って四月二十三日に大老に就いた井伊は、将軍継嗣を紀州慶福(家茂)に決し、日米条約の締結を強行する。井伊に反感を抱く水戸斉昭は、子息の水戸藩主徳川慶徳を始め、尾張藩主徳川慶勝・越前藩主松平慶永ら親藩を糾合して無勅許締結の非を鳴らすが、井伊幕閣より隠居謹慎の処分を受け、これが安政の大獄の発端となった。公武合体論者の老中阿部正弘と組み、一橋慶喜を病弱の将軍家定の継嗣とするために、養女篤姫を家定の御台所に送り込んだ薩摩藩主島津斉彬は、井伊に抗議すべく薩摩兵五千を率いて上洛せんとしたが、出発を前にして病を発し、七月十五日を以て急死する。異母弟久光派による斉彬の毒殺は、邦家のために惜しむべきことであった。

 南紀派の井伊直弼が大老に就いたので六月二十日家茂が将軍継嗣に決まり、六月二十五日諸大名を招集してその旨を公表した家定は七月五日一橋派の諸大名の処分を決定し、翌日急死する。死因について、大奥御使番の藤波が実家に宛てた手紙に「ごく内々ながら、御どく薬にて・・・水戸・おはり・一ッ橋・越前、まづヶ様なる所、皆くみして居候云々」とあるのが措信に耐え、家茂の決定を憤った一橋派が、不要になった家定を、井伊大老に対する警告の意味で毒殺を敢行したと見て良い。将軍急死が公表された八月八日、孝明天皇から水戸藩に宛てて「戊午の密勅」が下された。内容は①条約無勅許締結に関し幕閣の責任追及、②公武合体の主旨で幕府支援、③攘夷推進の主旨の幕政改革を推進するよう、水戸藩に命ずるものであった。之を知った井伊が、諸藩への直接的な勅命は幕藩体制の根本を揺るがすとして弾圧を決行したのが安政の大獄で、翌六年は攘夷派の朝野要人と志士の逮捕・処罰で終始した。

 新将軍家茂に対する内親王降嫁は、安政の大獄下でヒビの入った朝幕関係を修復するための公武合体策の決め手として浮上したと通説はいうが、そもそも公武合体策は六代家宣の侍講新井白石が唱えた政治理念で、享保十年(一七二五)十月十八日の霊元上皇と将軍吉宗の修学院中之御茶屋における極秘の直接会談で合意した朝幕間の基本契約である。具体策の一つが朝幕縁組で、これを受けて閑院宮家の五十宮倫子女王(上皇の曾孫)が十代将軍家治(吉宗の孫)に入輿するが惜しい哉男児に恵まれず、二女子も夭折した。朝幕ではその後も降嫁の機会を待っていたから、安政五年六月に将軍後継が家茂に決まるや、内親王降嫁が浮上して当然であった。当初は、この年生まれた富貴宮(御母九条夙子)が候補で、適齢の皇妹和宮は既に有栖川宮と婚約中のため遠のき安政六年四月二十七日に翌年冬の人輿の予定が決まる。富貴宮は八月に夭折するが、これに先立つ五月、議奏久我建通らが宮中で和宮の降嫁を内議して、以後は和宮が降嫁候補となる。万延元年(一八六〇)四月十二日、京都所司代酒井忠義から関白九条尚忠を通じて和宮の降嫁を願い出たが、有栖川宮との婚約などを理由に却下した天皇は、重ねての奏請に遭い、侍従岩倉具視の意見を徴したところ、「幕府が条約を破棄し鎖国に復元するならば認めるべき」との奉答があった。岩倉は少壮公家と謀り、朝威を借りんとする幕閣の意図を逆手に取り「攘夷の実行と朝廷の許可なしに重要国事を決定しないことの確約」の条件をつけて降嫁を認めるよう、天皇を説得したのである。幕府から「十年以内に破約し、攘夷を実行する」との奉答を得た天皇は、降嫁をあくまで固辞する和宮に対し、「前年生まれた壽萬宮を降嫁させ自らは譲位する」との決意を示したので、和宮は天下のために降嫁を承ることとなった。万延元年(一八六〇)八月十八日、天皇は結婚了承の内意を伝え、十一月一日に降嫁が公表された。

 降嫁に尽力した久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直の四公家と堀河紀子・今城重子の二女官は、和宮を人質に差し出した「四奸二嬪」として尊攘派から非難され、文久二年(一八六二)尊攘気運が高まると、三条実美ら尊攘派の公家十八人が連名して処罰を求める願書を八月十六日に提出、「四奸二嬪」は蟄居、落飾を命じられた。堀河紀子は岩倉具視の異母妹で天保八年(一八三七)に生まれ、嘉永五年(一八四八)に出仕して孝明の寵愛を受け、安政六年(一八五九)三月二十二日に壽萬宮を産むが文久二年(一八六一)五月一日夭折。同年十月八日に産んだ理宮も翌三年に夭折した(公表事歴)。

 ところが両宮の生存を暗示する状況証拠があり、ことに壽萬宮はその後の事歴と写真から昭和十年代までの生存が明白である。安政五年ころ「堀川政略」が始動し堀川御所の建築が進められる中で、孝明直孫を残すための要員と決まった両姫宮は、文久二年から三年にかけて夭折を偽装して所在を移されたのである。安政六年五月、降嫁候補が和宮に交代したのも、「堀川政略」の都合と考えられる。通説が、①幼過ぎる富貴宮よりも、適齢の和宮を幕府が強いて望んだと謂う片方で、②富貴宮が夭折したから、とするのは相矛盾している。朝廷が、当初候補の富貴宮の存世中(八月夭折)に和宮に切り替えて内議した理由が、富貴宮の健康問題にあるのなら、三月二十二日に生まれた壽萬宮を身代わりにすべきである。和宮に切り替えた理由を、幕府が公武合体の果実たる御子誕生に好都合な和宮への交代を望んだからと謂うが、右の経緯からすると、交代の理由はむしろ朝廷側にある。むろん朝廷側でも御台所の年齢を意識したことは有り得るが、むしろ「堀川政略」の具体化の中で、孝明の直孫を残す目的から、夭折を装った二皇女を堀川御所に隠すと決まった可能性が高く、それならば富貴官の薨去も疑わしくなる。和宮が一転して関東降嫁の候補とされたのは、孝明の妹で直流?ではないため、堀川御所に入る皇女の身代わりとなったのではないかとも推察される。

 慶応二年十二月二十五日、孝明崩御の場所は御所ではなく、堀河紀子邸とされる。四年前に宮中退出と掌侍辞職を命ぜられて霊鑑寺の尼僧となった筈の紀子が、孝明天皇の御幸を待つために秘かに構えた私邸である。その「紀子邸に住んでいた孝明の二人の幼い姫宮が、孝明暗殺の数日前に堀河家に移された」との説(宮崎鉄雄『明治維新の生贅』)が、壽萬宮と理宮が生存していた傍証となる。孝明の死因は、表向き天然痘とされるが、当時から暗殺の噂が立ち、死因として毒殺説と刺殺説が挙げられた。昭和十五年、大阪学士会の講演で毒殺説を立てた医事史家佐伯理一郎博士は、宮中侍医伊良子光順の日誌を解読した結論として、「天皇が痘術に罹患した機会を捉え、岩倉具視が堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」と断言し、「岩倉の姪(?)で、霊鑑寺に尼僧をしていた当の婦人から聞いた」と付け加えた。一方刺殺説は、寵姫私邸の便所に潜んだ長州藩の刺客伊藤博文が、槍で刺殺したと謂うもので、急遽現場に喚ばれて診察した複数の外科医の証言を掲げて、謀主を岩倉具視と指摘する。『中山忠能日記』にも「御九穴より御脱血」と、刺殺を仄めかす記載があり、その他の風聞や間接証拠も世上に多く、いつまでも決着がつかない。

 実はこれも「堀川政略」の一環で、孝明の生存を隠蔽するために関係者が故意に虚報を流布したのである。まず天然痘説は無論虚報で、状況も造りものである。毒殺説は、犯人とされる岩倉兄妹自らが流布したもので、刺殺説の『中山忠能日記』などもその伝である。内科・外科の医師数人が招かれた現場は作り物で、死体はむろん替え玉であった。医者の証言は騙されて行なった偽証であるが、佐伯博士に対する紀子の証言のごときは故意の偽証である。毒殺説と刺殺説の両方を流したのは、論争を招いて決着を付かなくするための、極めて巧妙な手口と見て良い。後人見事にこれに嵌められ、両説激しく論争するが、孝明生存の真相を見抜いたものは今まで本稿以外にない。

 ●疑史 第78回     了。

 *章末の年表は略す。

 

 


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)ー2
 
 ★新井白石の皇室維持策 八代将軍吉宗の大秘事

 
 しかし公武合体の政治理念から遠ざかった幕藩体制は、五代将軍綱吉の頃になると、滔々として流入する貨幣経済により根本的矛盾が露われ始めた。これに気付いた六代家宣の侍講新井白石が、未来政治のために公武合体論を唱え、具体化の第一歩として側用人老中格の間部詮房と謀り、正徳四年(一七一四)、霊元上皇の皇女で東山上皇(一七〇九年天皇退位)の異母妹に当る生後一か月の八十宮と六歳の七代将軍家継の婚約を決めた。教科書歴史はこれを、「白石と間部の強力な後ろ盾だった六代家宣が急死したため、幼い七代家継を擁して門閥派と戦う両人が、朝廷の権威で家継の立場を強化することを図ったもので、当時幕附と対立関係にあった霊元上皇も、幕府と結託して上皇に対抗せんとする近衛基煕の権力基盤を粉砕すべく、この縁談を歓迎された」という。正徳六年(一七一六)納采の儀を済ませるが、その二ヵ月に家継が死去したため縁談は自然解消となり、史上初の将軍家への皇女降嫁には至らなかった。

 白石はまた、皇室維持のための補完皇統として世襲宮家の新設を家宣に進言した。霊元天皇(在位一六六三~八七)が夙に要望されていた世襲宮家の増設を、幕府は拒否していたが、白石と霊元上皇の間に秘かな交渉があり、上皇の御意思を体したと思われる白石の提言に従い、東山天皇の皇子直仁親王を初代とする新宮家の創立を宝永七年(一七一〇)、幕府は承認する。この間、正徳六年(一七一六)に七代家継が夭折し、紀州家の吉宗が八代将軍に就いて年号を享保と改めた。霊元上皇も享保三年(一七一八)に至り、孫の直仁親王に対して閑院宮の宮号と所領千石を下賜された。

 享保十年(一七二五)十月十八日、秘かに上京した将軍吉宗が、修学院離宮の中之御茶屋で霊元上皇と直接面談し、今後の公武合体策を話し合った。この驚くべき秘事を近来「その筋」から仄聞したが、幕府記録には吉宗の上京なぞ微塵も記さないから、このようなことを披歴すれば史家の顰蹙は免れず、売文の輩からは、あるいは荒唐無稽と謗られるであろう。しかしながら、歴史の真実発掘を生命とする本稿においては、苟も合理的根拠がある以上、隠蔽するわけにはいかない。

 現に、紀州家に伝わってきた後水尾天皇愛蔵の光悦赤茶碗「紅葉之錦」の箱書には、日付と共に「修学院中之御茶屋で一瓢庵が之を賜る」と明記しているが、賜与者の名はない。ところが霊元上皇の紀行文『元陵御記』に、これに対応する記事があり、賜与者は霊元上皇で、御父後水之尾天皇の愛蔵品を「一瓢庵」に手渡したことが察せられる。

 そこで「その筋」に問い合わせた処、「一瓢庵」とは吉宗の号で、箱書も本人の筆と教えられた。公武合体合意の物証たるこの重宝を、吉宗は江戸城に置かず、紀州家に送って秘蔵させていた、とのことである。

 初代閑院宮直仁親王の第六皇女五十宮倫子内親王と、九代家重の世子家治(のち十代将軍)が婚約したのは寛延元年(一七四八)で、霊元上皇の曾孫と吉宗の孫の縁組であった。将軍の座を家重に譲った後も幕政を掌握していた吉宗が、二十二年前の修学院における霊元上皇との約束を果たしたのである。五十宮は将軍家治の御台所として二女を儲けたが、あいにく男児に恵まれず血統上の公武合体はならなかった。安永八年(一七七九)後桃園天皇が夭折したため、五十宮の甥の師仁親王が閑院宮家から入って皇位を継ぎ、光格天皇となる。多くの古儀を復活して朝廷権威の復元に益した光格天皇を幕府が支援したのは、皇室と幕府が連携して公武合体思想の具体化に踏み出したものと観るべきである。

 
 ★安政年間、澎湃と湧く「尊皇賤覇」「南朝思慕」

 
 安政年間に至り、公武合体論が現実味を帯びる。老中首座に就いた阿部伊勢守正弘が盟友の薩摩藩主島津斉彬を語らい、内憂外患に処するための公武合体的政策を実行に移すこととし、幕藩体制に変革を施した。阿部はまず、従来譜代大名が独占していた幕政に、親藩・外様の雄藩大名を参加せしめた。今風にいうならば、「譜代党の独裁に終止符を打ち雄藩党との大連立を図った」わけで、これにより政体は公武合体の理念に一歩近づく。しかしながら、阿部が先例を敢えて破り、親藩から登用して幕閣の外交顧問に就けた水戸斉昭が、外交上の難問に取り組む阿部に対して、閣内に在りながら水戸学伝統の攘夷論をかざし悉く異論を唱えたので、外交方針における改革的開国思想と伝統的攘夷思想との対立が露わになり、これが幕末現象の第一となった。

 安政三年(一八五六)十三代家定の御台所が薨去して、継室の議が起こった時、阿部正弘は島津斉彬と謀り、斉彬の従妹で養女の篤姫を、重ねて近衛家の養女にして、江戸城本丸に迎えた。これにより島津家は将軍家に最も近縁となり、斉彬は公武合体政策の枢軸に相応しい地位になった。この折斉彬の密命を帯びて京に上り、篤姫の養女入りを近衛家の老女村岡と諮ったのが薩摩藩の下級武士西郷吉之助であった。主君斉彬の進める公武合体的な新体制樹立運動に対し、当時は何の異存もなかった西郷は、京で幾多の志士・浪人及び下級公家と接触して、知識階層の下層部に湧き上がる差別打破の声を聞いた。知識階層における上下の対立を西郷が悟った場所は、弘化四年(一八四七)に建春門外で開講し、嘉永二年(一八五七)に孝明天皇から勅額を下賜された学習院と推量される。

 知識階層内の差別打破要求と関連して、国民精神の奥深い処に澎湃と起こってきたのが、尊皇賤覇の思想と南朝思慕の念である。尊王賤覇とは、鎌倉幕府以後の武家政権を暫定政体と看做し、建武中興のごとき天皇親政の政体を、新たに樹立すべきとする政治思想である。また南朝思慕とは、武力を以て足利氏に打破された南朝こそ正統として、皇統の南朝復元を待望するもので、これらの思想は、階級打破の欲求と共に知識階級下層部の政治意識の水面下に広がっていた。いずれも幕府当局者からすれば、俄に認めがたい思想であるが、家康が元和元年(一六一五)に定めた幕府の秘密憲法「公武法制応勅」の主旨に照らせば、これにも一理があった。「公武法制」には、「朝廷政治の失当なるによって天下の政権が武家の幕府に移った経緯はあるものの、幕府とは固より一時的な政体である」と規定し、その上で水戸藩主を代々幕府副将軍に任じ、選帝侯的な職務を定めていた。すなわち、水戸侯が幕府の悪政を認定した場合には、新将軍を尾張・紀州の二家から選び、両家にその人なき場合には天下の諸侯から選ぶべきことを定めていた。水戸藩の二代藩主光圀が始めた歴史研究に、歴代藩主が藩費を傾けたのは、偏に新将軍選定に際しての参考とするためであった。国の本来の在り方たる「國體」の本義を追究したのも、またそのためであった。

 
 ★水戸学が説く「万世一系」 正当性とはそもそも何か

 
 水戸学は、明人の亡命者朱舜水の、心理二元的な陽明学に基づく江館水戸学と、朱子学の影響を受けた森尚謙の水藩水戸学に別れて対立したが、後者は理気二元論による公武二元論を建て、「国家のあるべき形は、天皇と天皇が委任した政体の二元制である」との考え方に逢着した。知識階層の基礎的教養たる儒学を基礎として、神話や神道研究などの国学思想を加えた水戸学は、幕末の志士・浪人の政治思想と行動に決定的な影響を与えて、維新の原動力になった。水戸学が「変転する政体の長たる覇者は血統に拘泥する必要はないが、永久不変の國體の核心たる皇統は万世一系たるべし」とする万世一系論と共に主張したのが、朱子学の正統主義に基づく南朝正統論である。

 そもそも「万世一系」とは、皇祖皇宗のY遺伝子が当代の天皇まで、DNA的に連綿と引き継がれることを意味するが、単に皇祖皇宗のY遺伝子を保有するだけの家系なら、子孫の分岐繁殖を反映して今日では何千家も存在する。しかしその中に、歴史上現実に皇位を継いできた本流と、それ以外の支流があり、本流を以て正統とする訳だから、その理念は伝統主義ということになる。ただし正統の条件としては、各代がその前代から「正当」に皇位を継いだことが必要で、代々「正当」に継承してきた家系を「正統」とするのに異論はないが、もし継承の「正当性」において何らかの瑕疵があれば、それ以後の家系は、正統性に問題を含む「閏統」ということになる。

 ここから問題は、継承の「正当性」とは何かという点に移行する。それはつまり、血統の正当性と手続の正当性ということであろう。血統の正当性については、①前代との血統的近縁性を最重視すべきか、②その場合何親等まで許容すべきか、それとも③世襲宮家のごとく特定天皇からの分岐家系を重視すべきか、などに関しては定説もない。結局、先例慣習に従う他はないが、それにも客観的基準はないのである。現に光格天皇を選ぶ際には、閑院宮か伏見宮かで議論が白熱した。幕府将軍においても全く同様で、七代家継と十三代家定の後継選びが難航したのが好例である。

 また手続的正当性とは、皇位継承が所定の手続を経て行わるべきことを意味するが、史学上で問題とされたのは、皇位の象徴たる「三種の神器」の継承の有無と、その方法であった。上記の論点を研究した水戸学は、結論として南朝を正統と判断した。ここにおいてか、幕末現象の隠れた対立軸として南北朝問題が出没してきたのである。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)    了。 

 

 ★ブロガーの責(スキャナーの精度+ブロガーのミス)による誤植を訂正。

 「一読者」様より<不思議なこと。>として「不思議なことだが,この連載には,通常は有り得ないような誤植が多々ある。 【一埋→一理】 こういったことを,どう理解してよいのかわからない。」という指摘があり、訂正しました。

 ありがとうございました。
 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)

  -公武合体理念から乖離した江戸幕藩体制の流転     ◆落合莞爾 

 
 ★公武合体思想と國體観念の正しい理解 

 
 江戸日本の開国に向けての政治運動は光格天皇の御宇に胚胎したが、その基づくところの政治理念は本来は公武合体思想であった。公武合体運動とは、教科書歴史の説くところでは、「弱化する幕府権力を朝廷の権威を以て強化せんとする目的で安政ころから起こった政治運動」とされているが、この見方は狭きに過ぎ、況や皇室と将軍家の縁組を以て公武合体と解するなぞは失当というしかない。

 「國體」とは国の本来あるべき姿の謂いである。(「国民体育大会」との混同を避けるため、敢えて旧字体を用いる)。日本列島には古来、「日本社会はいかなる時代にも万世一系の天皇を芯核として成り立つ」との国家観念が伝わってきた。ここにいう「万世一系」とは明治憲法の法学的概念とは異なるが、それはともかく、この国家観念から派生する「永久不変なる國體に対し、天皇から統治権を委託された政体は時代により変転する」との政体観念をも含めて、國體観念というのである。

 公武合体の「公」とは國體の根底にある精神的権威のことで、具体的には天皇及び側近の公家衆を意味する。また「武」とは天皇から大政を委任された政体すなわち世俗的権力のことで、具体的には幕府将軍と幕藩体制を意味する。中世キリスト教世界では、王権神授説により皇帝と教皇が権威と権力の場を棲み分けたが、社会の進化の過程で精神的権威と政治権力の分離が進むのは、蓋し歴史の通則であろう。公武合体思想とは要するに、「公武の分離を前提に、両者における政治的価値観の合致とそれに相応する政治機構を常に求める政治理念」になろうか。

 武力による全国統一を果たした織・豊両氏は、公武合体理念による近代的国家体制の樹立を目指したが、両氏に替った徳川政権は歴史法則を逆行して、半ば郡県制度的な専制国家体制を樹立したのは、専ら国益上の見地からで、強固な貿易統制策を必要とした当時の世界情勢に対応したものである。すなわち室町末期から、国産銅地金が多量の金銀を含有したまま南蛮紅毛の貿易商によって不当に安く海外に流出しており、これを放置すれば日本社会の経済基盤の崩壊は必至であった。さらに重大な国家問題として、教科書歴史は今も黙殺するが、多数の邦人男女が九州沿岸から奴隷として秘かに輸出されていた。

 
 ★硝煙目当ての奴隷輸出 隠蔽ざれた国辱的史実

 
 室町時代は世界史上の大航海時代でスペインーポルトガルら南蛮人による洋上貿易が発展したが、主たる貿易品目の一つは男女奴隷で、南蛮人が奴隷狩りの形で原住民を拉致した例も他国にはあるが、輸串王は多くの場合当地の部族長で、他部族ないし領内の下層民を以て輸入品の代価に宛てたのである。当時の日本では火薬が必須輸入品で、戦国大名が何より必要とした鉄砲には煙硝が欠かせない。鉄砲そのものは国産を始めたが、硝石は国産しないから、その入手のために各大名はあらゆる努力を払ったのである。

 戦国大名たちはポルトガル商人と同根の宣教師に諂う(へつらう)ため、キリシタン布教の解禁はもとより自ら進んで洗礼を受け、領民の奴隷輸出さえ行ったが、すべて煙硝を入手するための手段であった。今日民主党の菅政権が、経団連が必須とするレアメタルの確保のために、中国政府による領土侵犯や邦人の公然拉致を黙認しているのと同断である。

 室町時代は勿論のこと、元和堰武の後にも、外様大名の多い九州地方では領民の奴隷輸出が秘かに行われたが、室町時代の記録にも江戸時代の稗史にも何ら記さない。これは当の領主も恥を知っていたからで、新政体江戸幕府もこれを国辱と感じ、ひたすら隠蔽を図った。明治政府もまた皇国史観に反する処から隠蔽したものと思われる。

 しかし数代にわたり政体が必死に隠蔽したので、さすがの白柳秀湖も気付いていないようであるが、薩摩の坊津を始め九州各所には、今も奴隷輸出の伝承がはっきりと残っている。吉薗周蔵も家人に対し「東南アジアの各港で、その昔性奴隷として売られてきた日本女性の末裔を数多く目にした」としばしば語ったと聞く。この国辱的史実を、専ら自虐史観に立つ戦後文化人が黙殺しているのは不可解であるが、マルクス史観と中華思想が混淆した敗戦史観に頼り過ぎて、真の日本史が見えないのであろうか。

 
★「島原の乱」はキリシタン征伐のためではなかった

 
 三代家光の治世に生じた「島原の乱」は、教科書歴史ではキリシタン信徒による宗教一揆と説明されるが、実態は領主松倉重政・勝家父子の暴政に対する百姓の反乱であった。幕府から一揆の原因を問われた松倉勝家が、「領民のキリシタン信仰の強固なるに因る」と弁明したのは、一揆の指導者がキリシタン大名の旧領主小西行長と有馬晴信の浪人だったことを利して、自らの暴政を糊塗せんとする強弁に過ぎない。当時のキリシタン勢力を過大評価する巷間史書も多いが、日本人の宗教観・社会観が元来一神教と相容れざることは、明治維新から今日に至るまでの、信教の自由を保障された日本における一神教の教勢推移が明白に証明する。白柳が「キリスト教の禁制などはその頃もうすでに完全に行はれて、ほとんどその必要を見なかったこと、島原事件の前後、幕府によって発布された法律を子細に点検して見るとよく分かる」という通りで、江戸幕府には、島原一揆に関わった数万人を、キリシタンを理由に皆殺しする必要なぞなかった。

 松倉勝家がキリシタン征伐の名目でルソン遠征を企てたことと謂い、勝家のキリシタン弾圧の残虐さを誇張した宣教師の態度といい、また数万人もの一揆勢を皆殺しにする一方で松倉重政を密殺した幕府の態度といい、いかにも不目然さが付きまとうから、島原の乱には、奥底にもっと重大な秘密があったのではないかと思う。

 有名な「島原の子守歌」は、明治時代に島原半島から大勢の「カラユキさん」が出国した証拠であるが、この地は室町時代から邦人奴隷の密輸出港であった。江戸初期に転封してきた新領主松倉氏は南蛮貿易に熱心で、ここを拠点に領民男女を密輸出していたのである。奴隷商人と宣教師は同根であるから、妄想を逞しくすれば、「かの島原信徒たちは、奴隷輸出を免れんがために、進んで洗礼を受けた」とも考えられる。

 一説には、この時のキリシタン数万人は李氏朝鮮国へ追放され、朝鮮半島にキリスト教徒の多い原因を成したというが、もしそのような事実があったのなら、国辱と幕府権威の失墜を避けるため、江戸幕府には松倉氏と領民の双方の口を封じる必要があったことになる。

 ともかく、国家経済の根幹たる金銀と、国家の基本要素たる人民を、硝石入手のために流出させるのは、国益を損する上に、政体としてこれ以上ない恥辱である。これを防止するためには、各藩の自由貿易を禁じなければならず、徳川の初期三代はその目的で強固な貿易統制策を全国的に実施した。そのために権力の中央集中を実現した新政体が幕藩体制で、貨幣浸透の歴史法則を逆行した重農主義を経済基盤とし、且つ譜代大名が幕政を独裁する郡県制的な専制主義を政治制度としたために、幕藩体制の本質は「武」が「公」を凌ぐものであった。 

       続く。
 



●疑史 第77回
 
 ●疑史 第77回 

 
 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(4)    評論家・落合莞爾 

 
 江戸幕末に生じた諸々の現象の根底に横たわる対立は三点あった、①開国の是非、②幕藩体制の存廃、⑤皇統の南北論これである。そのうち最大の対立点は、実は皇統の南北論であったが、下記の「堀川政略」が奏功し、奇跡的な円滑さで南朝復元が実現する。その真相を、朝廷も明治新政府も厳重に隠蔽したのは、「万世一系思想」の通俗的理解に捉われ、ないしは迎合したからであろう。爾来百四十四年、インターネット社会が到来して偽史隠蔽はもはや無理となり、真相を探究し公開する事業が私(落合)に託されたのである。

 皇統の南北交代を目的とする政略の核心は、孝明天皇が崩御を装い皇太子睦仁親王や閑院宮皇統の一部と共に堀川御所に隠棲され、奇兵隊士・大室寅之祐が皇太子と入れ替って明治天皇として即位することであった(先月稿では「堀川戦略」と呼んだが、今後は「堀川政略」と呼ぶ)。「堀川政略」の立案者は孝明天皇以外にはあり得ず、近親閑院宮皇統と岩倉具視ら側近公卿がこれを輔翼したのである。おそらく天皇は、外寇の接近と幕藩体制の破綻の迫る中、蒼生に潜在する南朝復元願望が噴出してきた新事態を見抜かれ、救国のために南北朝の合体を図られたものと察せられる。

 南朝思慕の念は、教科書歴史に拠れば、幕末に至り水戸学・国学の影響から下級武士・郷士・神官・上級町人らの間に芽生えたとされるが、実の処は北朝に対する歴史観的違和感と足利政権に対する反感が室町時代以来、識字階級に潜在していた。理由は、三代将軍足利義満(一三五八~一四〇八)が真の北朝皇統を暗殺してわが子を皇統に送り込み、後小松帝(一三七七~一四三三)と伏見宮貞成親王(一三七二~一四五六)としたとの簒奪説にある。義満が現に受けた待遇、すなわち①実子が天皇になった皇族が受くべき「太上天皇」の謐号を受けたこと、②継室日野康子が「後小松天皇の准母」とされたこと、が簒奪説を裏打ちする。これを進んで義満の家礼になった上流公卿たちの阿諛と言い繕う者もいるが、わが朝にあっては、古今を通じて、いかなる権臣にもこの待遇をしない。

 義満簒奪説に立つならば、実態は南北朝の対立ではなく、後醍醐皇統と足利王朝との対立となり、ことは天皇の「万世一系」性に関わる重大事なのである。南朝思慕の念は、足利将軍が権力を保持していた時期には表面化せず、江戸時代に入っても、足利政権を復活した形の徳川政権に対する畏れから、表明する者は少なかったが、水戸藩二代藩主徳川光圀が楠公忠臣論を公に鳴らすや、一転して南朝正統論が世を風靡する。光圀が建てた水戸学は、水館派の朱子学的と江館派の陽明学的に別れるが、前者の名分論から導かれた南朝正統論が、後者の知行合一精神と結びついた時、水戸藩内に南朝復元計画が秘かに芽生えても不思議はない。

 幕祖家康の定めた江戸幕府の秘密憲法『元和元年応勅公武法制』は、水戸中納言を副将軍とし将軍廃立の権限を与えた。すなわち水戸中納言は自ら将軍に就かず、幕府の悪政を認定した時には尾張・紀州の両家から新将軍を選び、両家に適材なき時には広く諸侯から将軍を選ぶ権限である。歴代の水戸藩主が歴史研究を怠らなかったのも、畢竟将軍廃立の職責に備えたものと観るよりない。しかるがゆえに、水戸学の南朝正統論は決して空論でなく、その真意は政体変改を機に現行北朝を排して南朝皇統を復元することで、光圀が後南朝の熊野宮信雅王の子孫を探し当てて会津藩領澤村に保護した主旨もそこにあった。「公武法制」の内容を窺い知った雄藩も将軍廃立の日に擁すべき新天皇を予備すべく、隠れた南朝皇統を探し求めた。古来、反乱勢が天皇に請うて倒幕の綸旨を賜る例から、北朝天子を擁する徳川氏に対抗するには南朝発給の綸旨を必要と考えた、井伊氏の尊良親王系三浦天皇、毛利氏の光良親王系大室天皇、伊達氏の後亀山系小野寺天皇のほか、紀州徳川家が高禄を給した護良親王系井口氏も、皆これ南朝の末裔である。土佐勤王党員で宮内大臣を長く務めた伯爵田中光顕は、後年三浦天皇を称する三浦芳聖に、「吉田松陰先生は、足利偽朝を倒して長州萩にいる南朝後裔を天皇に立てねばならぬと言われた」と語ったという。江戸幕府でも、変乱の際に新天皇として擁立するため、東叡山寛永寺に皇子を招いて、輪王寺宮法親王とした。

 皇統南北論は、幕藩体制の中核をなす下級武士・下級公家らの体制批判、すなわち待遇改善要求とも連動していた。米穀生産を財政基盤とする幕藩体制において、主な俸給生活者は武士・公家及びその使用人らであった。貨幣経済の浸透と商品生産の多様化が進むと、国民総生産における米穀生産の比率は低下するが、これは、俸給を玄米で受け取る俸給生活者階級の国民経済に対する地位が相対的に低下することを意味するから、武士・公家の、ことに下層部の窮乏化は著しく社会的地位も低下し、代わって経済的・社会的地歩を高めたのは、増大する商品の取引の自由を享有しながら租税負担の少なかった商人階層であった。

 俸給生活者階級の経済的窮乏化を救う措置を何ら講じ得ない幕藩体制に対する不満は、滔々とした暗流となって湧き上がろうとしていた。安政三年(一八五六)、将軍家定に輿入れ予定の篤姫(後の天璋院)を近衛家の養女とする一件で、主君島津斉彬の密命を受けた西郷吉之助が京都で見た情景がそれであった。幕藩体制を支える知識階級下層部が経済的窮乏のために動揺を始めれば、幕藩体制は安定を失い、体制の上層部が着々と進めている公武合体運動も、上滑りに終るしかない。西郷がそれを知ったのは、おそらく建春門外の学習院であろう。下級公家の研修所として弘化四年(一八四七)に開講した学習所は、嘉永二年(一八四九)に孝明天皇から「学習院」の勅額を賜る。安政初年には各藩の志士が秘かに出入りするようになり、下級公家と交流し、国事を論ずるに及び。体制維持のため公武交流の場が、体制批判の場に変じたのである。

 水戸中納言斉昭は、「公武法制」所定の職責を果たすべき時期の到来に備えた。弘化四年、水戸斉昭の十歳の七男慶喜が、将軍家慶の命で御三卿の一橋家に養子入りする。嘉永六年(一八五三)家慶が病死すると、後嗣の家定が病弱のため、将軍後継問題が生じた。将軍就任資格を有する一橋慶喜が最有力候補となるが、大老井伊直弼ら南紀派の推す紀州慶福(後の家茂)との争いで一橋派は南紀派に敗れる。さすがの斉昭も、幕政の現状を未だ悪政に至らぬと見て、「公武法制」を持ち出すことはしなかったのである。

 泉湧寺所蔵の孝明天皇御尊影を描いたのは側近の堤哲長である。家禄三十石で家格名家の下級公家の哲長は、貧乏を凌ぐために秘かに町医者渡世をしていた。天皇が世情を熟知しておられたのは、側近公家の情報によるもので、公家の背後に光格天皇の登極を機に堂上方忍者となった丹波大江山衆がいた。堤哲長は、妾の渡辺ウメノが丹波穴太村のアヤタチ上田吉松の従妹に当るところから、ウメノを通じて大江山霊媒衆の情報を得ていたのである。

 当初は公武合体を期しておられた孝明天皇が側近と「堀川政略」を謀られたのは、仄聞するに学習所が開講した弘化四年(一八四七)で、嘉永五年(一八五二)ころに六条堀川の日蓮宗本圀寺の境内に秘密御所を営む計画が立てられた。すなわち、将来の開国に伴う皇室の東遷に備えて、閑院宮皇統を京都に残すための施設「堀川御所」である。その後、社会の根本的改革のためには政体の抜本的改変が必要と判断された天皇が、幕藩体制の破棄を決断されたのは安政五年(一八五八)前後のことで、同期して皇妹和宮の降嫁および幕末通貨問題が生じた。「堀川政略」の骨子は南北皇統の入れ替えで、崩御を装った孝明天皇と皇太子睦仁親王が堀川御所に隠棲し、皇太子と入れ替えた長州藩奇兵隊士大室寅之祐を東京に遷し、次代天皇(明治天皇)として即位させるものであった。

 当初降嫁予定の皇女富貴宮が夭折したため、皇妹和宮が新たに降嫁候補に挙げられたが、有栖川宮との先約のために縁談は難航する。そこで和宮の代わりに候補となったのは生まれたばかりの壽萬宮で、岩倉具視の実妹堀河紀子を母とする正に「堀川政略」の申し子であったが、余りにも若過ぎるため幕府の強い希望で和宮に決定した。その萬壽宮を、翌文久元年(一八六一)に夭折したと装い、秘かに堀川御所で育てたのも、「堀川政略」の一環である。天皇義弟となった将軍家茂は、「堀川政略」を理解してあらゆる努力をした。天皇の偽装崩御に合わせて、自らも大坂城で脚気急死を装ったのである。

 幕末の通貨問題は、既に述べたから簡単にする。金本位国の日本では、銀地金の不足に対処するため、金貨単位の一分(四分の一両)を表示した名目通貨の一分銀を大量に発行した。「金一分」と表示するものの、その三分の一の含有銀量しかない一分銀は、実質は銀製の紙幣というべきものである。日米修好通商条約の通貨条項は、アメリカの要求で同種通貨を同量通用としたから、一$銀貨が一分銀三枚と交換できた。一$銀貨を一分銀に両替し、天保小判に再両替すると四分の三枚となり、それを上海で金地金として売ると、三$になって元金は三倍になる。実際には、天保小判が品不足のため、両替相場には小判にプレミアムが付き、三倍とまではいかなかったが、総領事ハリスを筆頭に居留外人たちはこの取引に狂奔した。

 万延元年(一八六〇)一月、条約調印と通貨交渉のために、新見豊前守を正使とする幕府使節が出発したが、その四日後、天保小判一両を三・三七五両に通用させる増歩令が出され、四月には万延小判(雛小判)が新規発行される。小栗忠順は遣米使節に目付として同行するが、これに先立ち、元中間の三野村利左衛門に命じて、秘かに天保小判を買占めさせた。三月三日に井伊大老を暗殺した水戸浪士が、井伊の罪状の第二条として小判買占めの私曲を掲げたが、取り調べの結果、「上のために行った」と判り、井伊に咎めはなかった。

 大老の命令で買占めを実行した小栗は、利益金を隠匿したために、慶応四年(一八六八)官軍の命を受けた高崎藩・吉井藩らの藩兵のために斬首された。小栗は利益金を赤城山に埋蔵したと偽装して、秘かに京に送り、本願寺に保管して「堀川政略」の基金としたのである。これだけの大事を悠々実行した小栗忠順が、雑兵の手に徒死する筈もなく、姓名を変えて再び渡米し、明治史に残る一大事を成すのであるが、其れは後日に述べる。

 つらつら思うに、治承寿永の乱と言い、幕末維新の変乱と言い、実態は想像を超えた大計画の下に諸事が運ばれた一大リストラ戦争であった。計画した中心人物は、自らの死を以て世間を欺隔する必要があったが、実際に死ぬ必要はないから生き延びた。平家の公達は固より、孝明天皇・睦仁親王・壽萬宮・徳川家茂・小栗忠順らは皆それである。


 



●『ベクテルの秘密ファイル』
  
  ベクテルの秘密ファイル 着

 ●最近、日中は片づけ夕刻~夜は「お見舞い」の日々が続いている。

 先日注文の本がもう到着。

 二冊注文したので、一冊は読んでみようと思う方へプレゼントします。

 ご希望の方はコメントください。

 コメントは公開になりませんので安心してどうぞ。

 送料も当方で負担します。

  




●『ベクテルの秘密ファイル』

  ベクテルの秘密ファイル

  ベクテルの秘密ファイル



 ●一昨日紹介した『ベクテルの秘密ファイル』が購入不可で

 古書もあるにはある(例:アマゾンMP)が、信じられない価格である。

 そこで、提案だが、

 この際じっくり原書に取り組むというのはいかがだろう?
 
  

 *********** 
 
 マルゼン・ジュンクドウ では・・・

Friends in High Places: The Bechtel Story: The Most Secret Corporation and How It Engineered the World Updated
McCartney, Laton (Author) Ballantine Books
US$ 19.00 ネット価格 2,415円(2,300円+税)
Pub Date:1989/04/08 ISBN 978-0345360441 (0345360443) DDC 658.045
Paperback 229×152×13mm 288pages English

 *但し、納期は2~4週間かかる。

 **********

 私の注文(AMAZON)では(*原書と人名等異同があるという訳者・広瀬隆の記述が気になったので注文したのだが・・・)以下の通り。

Order #: 102-0530465-3210〇〇〇
Shipping Method: Priority International Courier *高いが3~4日で落掌できるし間違いない。
Shipping Preference: Group my items into as few shipments as possible
Subtotal of Items: $16.56
Shipping & Handling: $15.98
------
Total for this Order: $32.54 (*¥2880)

 **********


 講義開始が5月にずれこんだ学生諸君にも強くお薦めする。

   




●視点と情報力。
 ●新也トーク ★レベル7公表の空虚。


 ☞ ・・・そう言えば10日くらい前だったか責任説明の渦中にある東電のあの図体のでかい副社長が銀座のクラブをはしごしていたという情報がそこに勤めている者を通じもたらされたが、その件はすでに週刊誌ネタになっているのだろうか。
 

  



●日記。
 
 ① 【福島原発】2011/4/12/火★最悪の「レベル7」引き上げの意味


  ベクテルの秘密ファイル


 ② 『ベクテルの秘密ファイル』 1988年 L・マッカートニー、 広瀬隆訳。

   




●山崎淑子オフィシャルサイト。

 ●以前当ブログで☞★山崎淑子インタビューとして紹介した闘士山崎さんが、

 ついに「山崎淑子ジャーナル」をひっさげて復活再起した。

 以下、メールから一部を紹介する。

 ***********

 長らくの無沙汰を致しました非礼を、どうかお赦しください。

 さて、このたび、7割がた山崎のオフィシャルサイト「山崎淑子ジャーナル」が完成し、

 やっと稼働し始めましたので、皆様に、ご案内申し上げます。

 ➔★山崎淑子ジャーナル

 ◆殊に、下記貼付の通り、サイト内にアップロードしました資料:ー「長崎の声」が、

 たいへんな反響をいただいております。

 ぜひ、ご覧ください。

 そして、1人でも多くの方々に、この「被爆地、長崎からの悲痛な叫び」を

 拡散してください!

 ☞◆長崎からの叫びに全世界は耳を傾けよ!ー「今も続く民族絶滅作戦」

  




●写真日記。
 
  原子炉時限爆弾


  ハロー整備

  ハロー プラグから


  ハロー駆動系




  ●無心に何かに没頭するひと時。

 
 

 


●狂った国賊<東京電力>。
 
 制御不能の怪物の暴走を「想定外」の決まり文句でごまかし続けた

 その挙句の果が今夕の「低濃度水の放流」だ。

 通常時規制の100倍が低濃度と言いくるめる。

 これが、精神病理学の問題でなくてなんであろう。


 こうして、ついに公海まで汚染されていく。

 
 草莽蹶起!

 方法を議論すべきときか。


 石巻の旧友のように「度し難い低能度とは付き合いきれぬ」と

 ため息をつくのも今はわかる。

 
 
 <訂正> 2011.4.5 0415

 ①「低濃度水」は「低濃度汚染水」に訂正します。

 ②「・・『想定外』の決まり文句」に「止むを得ない措置・処置」を追加します。

 






上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。