カウンター 読書日記 2011年02月
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●持丸長者-幕末維新篇
 
 ★新政府に謀殺された幕末の偉才 

 
 このようにして外国商人の魔手から日本経済を守った天才策士・小栗が帰国したとき、日本にとっては幸運にも、彼を引き立てた井伊直弼は水戸藩と薩摩藩によって桜田門外で処理されてすでにこの世になかった。初代外国奉行の堀利煕が老中・安藤信正と激論して万延元年(一八六〇年)に切腹自殺したあと、小栗が後任の外国奉行に任じられて要職に就き、以後、江戸町奉行、歩兵奉行を経て、元治元年八月十三日(一八六四年)勘定奉行・小栗上野介忠順となった。さらに軍艦奉行から再び勘定奉行に戻って幕府の経済政策建て直しに数々の知恵を絞り、慶応二年八月(一八六六年)には海軍奉行を兼務、同年十二月に陸軍奉行も兼務して、勘定・海軍・陸軍を握る徳川政権第十の実力者となった。この任期中の業績として最も大きな足跡を残したのは、慶応元年(一八六五年)に造船所の建設を進言して、横須賀製鉄所を建設したことである。また翌慶応二年、従来のがんじがらめの幕府の統制を解除し、横浜・長崎・箱館における諸藩の自由貿易を認めて、武器と軍艦でさえ運上所に届け出れば購入してもよいと、各藩に対して、外国から近代化の道具を購入するよう奨励した先見性にある。

 小栗が建設した製鉄所とは造船所をめざしたものであった。そのため、勘定吟味役の小野友五郎を迎えてプランが練られた。日本最高の天才的な数学解析頭脳と航海測量術をもって咸臨丸の航海長をつとめた男だ。ここに、箱館で医学院の建設、薬園・病院・水道・養蚕に多大な功績を挙げた軍艦奉行・栗本鋤雲を実務者とし、総監督としてフランス海軍技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーを迎えて詳細がつめられ、軍艦奉行・肥田浜五郎が、製鉄所で使う工作機械を担当した。小栗は選りすぐった六五人の技術者と二五〇〇人の労働者をこの製鉄所の建設にあてるほど、力を入れた。後年の歴史では、明治維新の下に埋もれた名前ばかりだが、まぶしいほどの才人が揃っていた。横須賀だけでなく、長崎造船所がアジア最大の能力を持つことができたのも、ヴェルニーが建設に参加したからである。

 肥田は、当時の洋式造船技術のなかで日本人が遅れていた蒸気機関という動力について、長崎海軍伝習所の第二期伝習生として共に学んだ榎本武揚と共に、日本最高の実践的製造技術を持っていた。高島秋帆の弟子だった伊豆韮山代官・江川太郎左衛門に蘭学を学んだ肥田は、小野と同行して咸臨丸の機関長をつとめ、二人でサンフランシスコのアメリカ海軍工廠で造船現場をつぶさに観察し、精密機械の工作技術を正確に盗み取ると、そこに江戸時代の職人技術を活かして、日本独自の機械工作技術に育てあげたのである。明治・大正から、戦後日本が中小企業の町工場から技能オリンピックで優勝する世界屈指の精密機械工を次々と生み出す礎は、こうして肥田浜五郎によって着々と築かれることになった。

 横須賀製鉄所は、機械工場であり、一方ではレンガ製造工場でもあった。日本全土に残る美しいレンガ造りの洋館もまた、ここから始まったと言える。同時に学校も経営する広大な技術者養成所としての企画が進められ、フランス語も教えられた。小栗上野介はさらに築地ホテルを清水喜助に建設させて、現在の大手建設会社・清水建設誕生の出発点をつくった。同じ開港時期の万延元年(一八六〇年)に横浜に進出した鹿島岩吉が、横浜随一の外国貿易商である英一番館と米一番館を建設し、ここで洋風建築に先鞭をつけ、明治十三年に鹿島組を創立して、現在の大手建設会社・鹿島が生まれた。清水も鹿島も腕利きの大工であった。

 小栗は、横浜にフランス語学校を設立し、日本最初の株式会社・兵庫商社を設立して郵便制度と鉄道の建設計画を推進し、慶応三年には、関西ではこの兵庫商社(鴻池)が、また関東では三井の手を通じて「金札」という紙幣発行に踏み切った。関ヶ原の戦い以来、江戸幕府として初めての紙幣発行である。

 だが、パリ万国博覧会に日本代表を送り込んだところで、幕府瓦解という事態を迎えることになった。横須賀製鉄所はドックが完成しないうちに明治政府の手に委ねられ、横須賀造船所から海軍工廠へと変貌を遂げることになった。レンガ製造技術は、わが国化学の開祖と言われる宇都宮三郎によって明治時代に品川白煉瓦会社と浅野セメントの誕生をもたらした。郵便制度は前島密によって築かれ、鉄道建設は小野友五郎らの測量術をもって新橋~横浜問の鉄道敷設へと受け継がれる運命にあった。その時、日本の繊維産業を巨大な金の卵に育て、造船王国・日本を生み出した、持丸長者育ての親・小栗はこの世にいなかった。

 
 小栗上野介は、将軍徳川慶喜が朝廷に恭順することに反対して徹底抗戦を主張し、鳥羽・伏見の戦い直後の慶応四年一月十五日に慶喜から勘定奉行を罷免され、二月には断腸の思いを胸に秘めて、知行地である上野国(群馬県)榛名山西南の麓、群馬郡権田村に引きこもった。最後は閏四月五日に薩長軍に捕われ、新政府に恭順の意志を示すが聞き入れられず、翌六日、榛名湖の南十キロほどのところ、鼻曲山から流れ下る烏川の河畔、水沼川原で斬刑に処せられた。小栗の抗弁を聞き入れずに処刑したのは、新政府軍で岩倉具定(ともさだ)配下の東山道先鋒総督府軍監・原保太郎と豊永寛一郎とされ、処刑を命じたのは官軍の戊辰戦争東征大総督・有栖川宮熾仁と伝えられる。

 
 明治になって大隈重信が、「小栗上野介は謀殺される運命にあった。明治政府の近代化政策は、そっくり小栗がおこなおうとしたことを模倣したことだから」と語ったと言われる。

 日本経済を救おうと粉骨砕身、精根を傾けた男は、数々の真実と共に、新政府によって抹殺されなければならなかった。 

 
 ●持丸長者-幕末維新篇       <了>。
 


スポンサーサイト

●持丸長者-幕末維新篇
 
 ★小栗上野介の天才 

 
 のちの三井の大番頭・三野村利左衛門と組んだ男として知られる小栗忠順(ただまさ)は、次のような出自であった。遠祖は平将門の従兄弟にあたる平貞盛の弟・繁盛から出て、徳川家康の父・松平広忠時代から徳川家に仕えた。小栗家四代目・小柴又一が家康の家臣となり、姉川・三方ヶ原・長篠の合戦に活躍して槍の達人として聞こえた。この旗本屈指の名家、新潟奉行・小栗忠高の息子として江戸駿河台に生まれた小栗剛太郎が、のちの忠順その人である。数え年八歳かから漢学を学び、剣術、柔術、砲術、馬術、弓術を修得して、文武両道に秀でた才人として台頭した。ペリー来航後、次々と出没する異国船から江戸を守るため浜御殿の警備役を任じられたが、早くから「大いに貿易を進めるべきである」との開国論を公言する開明派であった。安政二年、二十九歳の時、父忠高が新潟奉行在任中に死去したため家督を相続した。

 小栗忠順がすぐれていながら井伊直弼によって抜擢された理由は明白だった。外国と折衝した岩瀬忠震、永井尚志、井上清直、川路聖謨たち幕府最高頭脳が処分されたのは、この四人が一橋家の徳川慶喜を将軍に望んで活動したからである。四人は文化年代より前の生まれだが、小栗は文政十年生まれで、初代の外国奉行たちより十歳以上若く、将軍継嗣争いの時にはまだ江戸城から遠くにいて、争いに無縁だった。

 もともと江戸時代後半から飾り職位とみなされてきた大老職を、老中の上に立つ最高権力者に復活させた井伊はおそろしく知恵の働く男であり、幕末・明治を生きた福地源一郎は著書『幕末政治家』のなかで、井伊直弼について次のように評している。

 ―「時勢に逆行し、世論に背反し、不測の禍害を徳川氏に与えて、その衰亡の命脈を促したり」との断案を受けること、決して辞すべからざるところなりといえども、幕府の権威を維持して異論を鎮圧し、その強硬政略を実施するにおいては、あえて断行して仮借する所なきがごとき、決して尋常政治家がなし得るべきことではない― と。
 
 つまり己の周辺を固めることに関して、井伊直弼は愚かではなかった。そこで、新将軍に忠義をつくす若い男を求めていた井伊が、小栗の図抜けた頭脳に目をつけたのである。かくて、小栗は井伊に抜擢されて本丸目付となり、外国掛に任ぜられた。さらに安政の大獄のために井伊が殺されたあと、すぐれた外国奉行に代って、またすぐれた外国奉行の小栗忠順が誕生することになった。この時代には、まだ上野介ではなく、豊後守という官職名だった。

 目から鼻へ抜けるような小栗の天分が世に広く知られるようになったのは、咸臨丸を随伴船として、日米修好通商条約の批准書を交換するためポーハタン号で渡米した時か収である。この渡米中、小栗はサンフランシスコとフィラデルフィアで造幣局を二度も訪れた。ここで、日本人が損害を受けている通貨問題を明らかにし、アメリカ人を論破した時の出来事は、幕末の伝説となっている。くわしく述べよう。ことの発端は、その三年前に遡る。

 安政四年五月二十六日(一八五七年)、下田奉行・井上清直らがアメリカ総領事ハリスと、通商条約の締結に先がけて日米両国の貨幣を交換する割合を定めるため、下田で日米約定(下田条約)を調印した。これは全九条から成り、アメリカと日本の貨幣を同種同重量で交換することを取り決めた。つまり金は金で、銀は銀で、同じ重さで交換することになった。当時、アジア地域で唯一の国際通貨はメキシコドルで、これは洋銀と呼ばれていた。この洋銀と、幕府が発行する長方形の1分銀の交換比率を、1ドル(メキシコドル銀貨1枚)=3分(1分銀3枚)と定めたのである。

 含まれる銀の重さでは、洋銀24.1グラムと天保1分銀3枚で25.5グラムなので、一見するとほぼ平等な交換比率である。だが、実は金と銀の交換率が日本国内と外国では異なっていた。
 
 欧米では金1=銀15の交換比率だったのに対して、日本国内では金1=銀5の交換比率であった。そのため、実際に外国商人が日本に人ってくると、これが日本に重大な問題をもたらした。
 
 外国商人は、日本の両替商でメキシコドルを1分銀に交換したあと、これを小判に交換して本国に持ち帰った。するとその金が外国では高価なので、たちまち1ドルが3ドルになるという手品が実現し、外国から持ち込んだ少量の銀で大金を手にすることができた。この取引きにより、日本で大規模な金の流出と銀の流入が発生したのである。前頁の図9に図解した式(*略)を、順に追ってゆくと、狡猾な外国人の手品の種が理解できる。実に面白い算数ではないか。

 この問題に幕府が気づいたのは、金銀が交換され、金の大量流出が始まってからであった。

 そこで開港翌年の安政七年一月十八日(一八六〇年二月九日)に、日米修好通商条約の批准書を交換するための使節団が品川(築地)を出発してアメリカに向かった。外国奉行の正使・新見正興、副使・村垣範正、目付として小栗忠順が任命され、日本使節を迎えるためアメリカから派遣された軍艦ポーハタン号で七七人もの侍がアメリカに乗り込んで、至るところで絶大な歓迎を受け、日本人の礼節がアメリカ人から讃辞を浴びた。大統領のジェームズ・ブキャナンと会見し、国務省で批准書の交換を終えたあと、いよいよ一八六〇年六月十四日に小栗忠順はフィラデルフィアのアメリカ造幣局を訪れた。造幣局長官ジェームズ・スノウデンと会って、日本の小判とアメリカの金貨との交換条件に疑義を唱えたのである。

 さて、日本の1分銀3枚とアメリカの1ドル銀貨1枚が等価として交換され、アメリカ人はその1分銀を1両小判(金貨)に取り替え、日本から金貨を次々と持ち帰っていたわけである。この時、すでに日本は、前記の天保小判に代って、前年の安政六年(三港開港の年、一八五九年)に、純度は同じだがひと回り小さい安政小判を発行していた。「正」の字が極印されているので正字金(しょうじきん)と呼ばれた。小栗は造幣局で、その安政小判三枚を取り出した。そしておもむろに、わざわざ日本から持参した、台座に象牙が施された精緻な秤を使って、アメリカ人の目の前でその重さを測り、三枚とも重量が完全に等しく、日本の小判がいかに精巧に作られているかをまず実証してみせた。

 次いで小栗は、小判の中に含まれる金をアメリカ人の手で自ら分析するように言った。造幣局のアメリカ人係官は、自信ありげな小栗の言葉を耳にして、面白い申し出だと思いながら、言われるままに小判を分析してみたが、なるほど、小判三枚とも、含まれている金の純度がほぼ完全に均一で、57.2%であった。日本では、重さも純度も、このように精巧に金貨を鋳造していることを納得させると、いよいよ、これからが日米の頭脳の対決となった。

 日米の協定では、小判と金貨が完全な純金と仮定して、重さだけを基準にして、3両=4ドルの交換比率が通用している。しかし、アメリカの金貨にはどれぐらいの金が含まれているかが問題になる。そこで、一ドル金貨に含まれる金の含有率と含有量をアメリカ人に答えさせたあと、1両小判と1ドル金貨に含まれる金の量を比較してみせた。その結果、含まれる純金の重さは、
  日本の1両小判に含まれる純金    = 5.14グラム
  アメリカの1ドル金貨に含まれる純金 = 2.08グラム  であった。

 3両=4ドルなのだから、それぞれを三倍、四倍すれば、実際に交換している純金の比率が求められる。 つまり、次の純金を同じ価値として交換しているのである。
  3両  = 金5.14グラム×3枚 = 金15.42グラム(日本)
  4ドル = 金2.08グラム×4枚 = 金 8.32グラム(アメリカ)

 これでは二倍近くも不平等な交換比率で、いかに日本が損をしているかということが、すぐに分る。しかし日本人をなめていたアメリカ人が、小栗の論理の鋭さに驚いたのは、そのあとだった。ここまでは純金だけを議論してきたが、さらに小栗は、日米の金貨がどちらも純金ではないなら、日米の金貨に含まれている金以外の不純物がどのような金属で、どれぐらいの量であるかを、これもやはり疑いを持たれないよう、アメリカ人自身に分析させたのである。

 その分析の結果、日本の小判に含まれる金以外の不純物は、微少の銅のほかは、ほとんど銀であるのに対して、アメリカ金貨の不純物が安価な銅ばかりであることを、造幣局員は認めなければならなかった。そこで小栗は、同行した計算係の者に、銀の含有量も加味した価値を計算するように命じた。すると部下は、算盤玉をはじいて「一両小判の価値は、金3ドル41セントに、銀16セントを加えますと、合計金3ドル57セントに相当します」と、あっと言う間にその複雑な計算をやってのけた。これは、純金の比率と不純物の比率と、それぞれの異なる価格をドルに換算して足し合わせるので、相当に面倒な算数である。アメリカ人も同時に計算してみたが、長い時間手間取って、ようやく答を出してみると、日本人の言う通りだったので、その計算の早さにたまげた。

 ここで小栗は言った。実際の貿易では、アメリカの1ドル銀貨四枚(4ドル)が、1分銀12枚となり、これが小判3両に化けて、アメリカに持ち出されている。

 その小判3両は、いま計算した通り、本来(3ドル57セント)×3枚、つまり10ドル71セントなのだから、これが4ドルでは、通商条約によって日本政府が2倍以上も損失を受けている。きわめて不利な通商であり、金が安値でアメリカに流出しているのは不平等である。こう指摘し、その明晰な頭脳をしてアメリカ人を驚嘆させたのである。

 アメリカ側は、小栗の話があまりに理路整然としているので、反論もできず、貿易の不平等さを認めざるを得なかった。しかし条約はたった今、批准されたばかりであった。小栗もまた、このように事実を指摘しただけで、この場をおさめた。

 さて、小栗はなぜワシントンに引き返して交換比率の変更をアメリカ政府に申し入れず、黙ってここで引き下がったのであろうか。

 この謎を解くのは、日付である。小栗がフィラデルフィア造幣局を訪れたのは、和暦では、井伊直弼が桜田門外の変で殺されて二ヶ月近く経ち、安政を改暦した万延元年四月二十五日にあたっていた。ちょうどその四月、日本国内では幕府が万延小判という新小判を鋳造していた。小栗が造幣局でアメリカ人に分析させた安政小判に代って、純度は同じだが、重さを約三分の一に引き下げる金貨の悪鋳をおこなっていたのである。つまり小判に含まれる金が三分の一になったのだ。そして万延元年四月十日から新小判として万延一分判金、万延二分判金、万延二朱判金、万延小判金の四種の通用開始を命じていた。このため、外国商人は三倍のもうけがなくなってしまい、おかげで金貨の海外流出がぴたりと止まったのだ。四月に小栗がアメリカで指摘した不平等問題が、国内ではすでに解決されていたことになる。まったく同じ四月に、アメリカと日本で、何という奇遇であろう。いや、奇遇であるはずがない。

 何という頭のよさ。国際的に、日本の通貨を外国の略奪者から守った見事な外交経済政策であった。元禄時代の荻原重秀にも匹敵する、この頭脳的な改鋳を、一体、勘定奉行の誰が計画し、命じたのであろうか。少なくとも、改鋳の三ヶ月も前の安政七年一月十八日に江戸を出発して渡米中の小栗忠順ではないと考えられる。しかも小栗はこの時、改鋳を命ずる勘定奉行ではなく、外国掛である。しかし……

 幕府の記録をたどってみよう。小栗ら使節団のポーハタン号が江戸を発った二日後の安政七年一月二十日に、幕府が「安政小判(正字金)と天保小判(保字金)の増価を命じた」との記録がある。増価とは、同じ貨幣でありながらそれが世に通用する価値を引き上げることである。この時の増価令では、天保小判一両を三両一分二朱に、安政小判一両を二両二分三朱として通用せよというのだから、古い天保小判を持っていれば一夜で一両がたちまち三両以上の価値を持つ。大変なことである。逆に考えれば、小判一両分に含まれる金が三分の一になるということである。

 十進法で示すと、天保小判の三両一分二朱は3.375両になるが、一両に含まれる金の重量を天保小判と万延小判(悪貨)で比べると3.417である。つまり増価は、この三ヶ月後におこなわれた万延小判の悪鋳と誤差1%しかなく、まったく同じである。したがって、ここにおける増価今は、のちに万延小判を鋳造する計画をあらかじめ含んだ上で、実施されたものであった。

 不思議な符合ながら、この三両一分二朱という数字は、まったく別の有名な伝説に登場する。のち、幕末に破綻の危機に直面していた江戸三井両替店を窮地から救い出し、ついには三井銀行を設立し、三井総元方で筆頭取締役に就任する「三井の大番頭」三野村利左衛門の出世物語である。三野村がまだ三井に入る前、美野川利八と名乗っていた時のことであった。「洋銀との交換比率を調整するために、天保小判一両が万延小判三両一分二朱と交換される布令が出る」との噂を、旧主の小栗家に出入りするうち耳にし、天保小判を買い集めて巨利を得た男が三野村利左衛門である。三井の社史として有名なこの三野村伝説は、次のような意味を持っていた。

 まだ両替商のはしくれ、脇両替と呼ばれた美野川利八が、万延小判の発行という幕府の重大計画を「小栗家から」事前に聞き知ったということは、ポーハタン号が江戸を発った二日後におこなわれる幕府の増価を、小栗邸の者、つまり小栗本人が知っていたことにほかならない。つまり小栗がアメリカヘ出発する前に、増価が決定されていた、ということになる。小栗が出発する前に、すでに「万延元年四月に実施される万延小判の発行という金貨の悪鋳」が小栗の計画の中にあり、それを利八にそっと教えたのである。

 すべてを仕組んだのは、小栗忠順当人であった。実は、美野川利八(三野村利左衛門)が小栗の知遇を得たのは、ほかならぬ金座後藤が、自分の親戚筋にあたる深川の干鰯問屋・丸屋で働く美野川の利発さに目をつけて小栗に世話したからである。したがって小栗は勘定奉行になる前から、小判の改鋳を指揮する金座後藤と接して、金銀貨幣の裏にある問題をくわしく知る専門家となり、そのため目付として抜擢され、アメリカ造幣局を訪れて交渉する役を仰せつかったのである。小栗はおそらく日本を出発前に、勘定吟味役に日米の通貨に含まれる金銀の純度をすべて分析させ、計算の数字を頭に入れてから、自分がアメリカに渡った留守中、「フィラデルフィア造幣局を訪れる予定の四月」に金貨改鋳をおこなうよう命じてアメリカに向かって出発したに違いない。アメリカでその悪鋳の正当性を造幣局長官に証明し、反論できないようにしてから、素知らぬ顔で日本に帰国したのである。

  続く。 

 



●持丸長者-幕末維新篇
 
 ●持丸長者-幕末維新篇      広瀬 隆  ダイヤモンド社 2007年2月1日 

 第二章 ペリー来航の衝撃  より。 

 
 ★時代に遅れた明治維新の志士たち 

 
 これら幕府の良心となった人間に共通するのは、ただ外交官としての有能な官僚ではなく、民衆の病気の治療や、産業の育成に測り知れない果実を後世に残した人格であった。そのすぐれた人間を次々と処罰追放した安政の大獄は、言うまでもなく、徳川慶喜か徳川慶福かという将軍継嗣をめぐる勢力争いに発端があった。慶喜を将軍に推した人間は、「ロシア人など皆殺しにしてしまえ」というほど過激な攘夷派の徳川斉昭から、その正反対の側に立って開国を主張する藩主や外国奉行まで膨大な数にのぼり、彼らは、攘夷と開国の両方の意見が対立しているからこそ、年長で判断力のある慶喜が将軍となって、自ら幕政を統一して外国の脅威に立ち向かうべきであると主張した。それに対して井伊直弼が慶喜の擁立に反対したのは、年長の者でなければ将軍の資格がないという前例をつくれば、のちに徳川家が断絶する危険あり、という言い分である。しかも彼は、幕府が朝廷の言い分など聞いて政治を決断する必要はないと、独裁権力者として振る舞った。それが彼に後世、間違った「開国功績者」の名を与えたのである。

 井伊が(➔★家定の)次嗣将軍にわずか十三歳、和歌山藩主の徳川慶福(よしとみ)を独断で決定し、慶福が徳川家茂(いえもち)を名乗ると、月明けて安政五年七月五日には、家茂が徳川将軍家を相続した。同日、条約反対を唱えて井伊直弼を難詰した水戸の徳川斉昭、名古屋藩主の徳川慶恕(よしくみ)、福井藩主の松平慶永(春嶽)が隠居を命じられ、将軍世嗣として待望されていた一橋家の徳川慶喜に登城停止が命じられた。開国反対の攘夷派を処断するだけなら釈明の一理もあろうが、気に入らなければ開国派の取り巻きも次々と粛清した井伊直弼のなしたことは、幕府の権威を誇示するための、矛盾に満ちた醜い権力争いだけであり、外国とやりあっているこの時期に、国政に通すべき筋一本さえなかった。

 先に示した年表(*ここでは略)中の◆印の六点は、日本人の大好きなのちの明治維新の志士あるいは明治政府の代表者となる集団が、どれほど時代に遅れていたかを示す。

 岩倉具視は日本の紙幣に肖像画が用いられたことがあり、明治維新の顔とも言える新政府代表者である。実際、岩倉は維新直後から政府NO2である副総裁の位に就き、続いて軍事NO1の海陸軍務総督へ、さらに財務NO1の会計事務総督から、政務NO1の議政官上局議定へと次々に歴任して、ついには外務NO1である外務卿(外務大臣)となり、明治四年には特命全権大使の任を帯びて、不平等条約を改正するためにアメリカ、ヨーロッパを歴訪した。だが、この人物が幕末に何をしたであろう。


 安政五年三月十二日(一八五八年)に、廷臣八十八卿列参(れつぎ)事件と呼ばれる大騒動か起こった。岩倉具視ら八十八人の公卿が日米通商条約に抗議する座り込みをおこない、幕府が開国して通商を始めることに猛烈に反対したのである。開国に反対しても、この時代には、ごく自然な考えであった。阿部正弘によって取り立てられ、のちに初代外国奉行となった水野忠徳は、「日米通商条約による交易にはすぐれた面があり、良策である。しかし、自給自足でしっかりと成り立っている日本が急いで無条件に開国すれば、外国人がやってくるために、民衆の生活の糧を奪われるおそれが高い」と判断し、国民の生活を守るために無条件の開国通商には反対した。これは正論である。ところが、岩倉たちの座り込み通商反対は、まるで違っていた。日本の民衆のことなど眼中になく、自分たち京都の公卿と朝廷の権威が、開国によって失墜することをおそれた保身のための頑迷な攘夷、すなわち外国人排斥、鎖国運動であった。

 さらに、次の老中首座・堀田正睦のもと、日米修好条約が結ばれ、安政六年(一八五九)に長崎・横浜・箱館が開港されても、朝廷と公家の頑迷さは変わらなかった。ヨーロッパ・アメリカとの貿易が大規模に始まって港が活気を帯びた四年後、文久三年(一八六三)になっても朝廷が幕府に横浜の港を閉鎖するよう命令を出し、江戸町奉行が致し方なく輸出を制限して、生糸輸出が激減し、日本の商人たちと、生糸生産地の農家が大きな被害を受けたのである。 

 
 これほど開国に反対した岩倉だが、座り込みから十年後に維新政府が誕生すると、掌を返したように日米通商のために骨折り、特命全権大使としてアメリカに到着するとすぐに髷を落として洋服にネクタイ姿となり、その写真を「新しい日本の姿」だとばかり日本に送りつけた。明治天皇がそれを見て、早速岩倉に倣って断髪すると、日本全土がびっくりしてチョンマゲ姿が激減し、維新政府は「これが文明開化だ」とのたまう。幕末の行動と対比して、何という節操のなさであろう。

 
 岩倉具視だけではない。生糸貿易が始まって四年も経ったというのに、文久三年五月十日には長州萩藩が下関海峡を通過中のアメリカ船、続いてフランス船、オランダ船を砲撃して、逆に反撃されて自滅した。七月二日には生麦事件のため、イギリスと薩摩藩が戦争をしている。ただしこの二つの出来事は性格が違い、長州萩藩の砲撃は、自分から仕掛けた無知無謀な外国人排斥攻撃である。薩摩藩のイギリス攻撃は、薩摩藩主の父で、実質的な藩の実権者だった島津久光の行列が武蔵国生麦村(横浜市)に差しかかった時、横浜在住のイギリス人四人が行列前方を乗馬のまま横切った。これを無礼と怒った薩摩藩士・奈良原喜左衛門が斬りかかり、イギリス人一人が死ぬという生麦事件がその前にあった。島津久光は名君・斉彬の弟であり、喜左衛門の弟・奈良原繁は明治時代に日本鉄道会社社長となり、その息子・奈良原三次は奈良原式飛行機を発明して日本航空界の草分けとして名を成した。かねてから日本の礼節をわきまえず、傍若無人な態度を示していたイギリス人の尊大さに、日本の武士が怒って斬りつけたのも自然と見える。


 この生麦事件の犯人処罰と賠償を求めてイギリス戦艦が鹿児島湾に入り、薩摩の汽船三隻を拿捕したのだから、薩摩側が砲撃で応じ、イギリス側に大打撃を与えたのも当然である。しかし鹿児島城下が焼かれ、薩摩藩の砲台が壊滅した結果、外国と事を構えることの愚かさに気づいた薩摩藩が開国論に転じ、イギリスと手を結んで倒幕に動くことになった。長州も、下関事件と時を同じくして井上馨、伊藤博文らが長崎のグラバーと組んでイギリス密航留学を敢行し、土佐でも、ジョン万次郎の海外思想と世界の大勢を河田小龍から学んだ坂本龍馬と後藤象二郎が、攘夷の愚かさに目覚めることになった。かくて慶応元年(一八六五年)に西郷隆盛が坂本龍馬と京都で会見し、長州との提携が成ったことを、多くの日本人は明治維新成功の最大の転換点とみなして讃えてきた。

 しかし年表(*略)にある通り、
こうした出来事は、幕臣が苦労した一八五九年の開港から見れば、いずれもはなはだしく時代後れの気づき方である。薩摩藩が長州に送り込んだ外国製武器の購入資金を生み出したのは、朝廷が港の閉鎖を迫り、その混乱に乗じて五代友厚と西郷隆盛らが九州海域で巧みに展開した密貿易である。すべては、日本の生糸貿易と近代化が始まってから、はるかにあとの出来事である。維新の志士たちには、開国や貿易開始についてまったく功績のかけらもない。彼らが後年におこなったとされる近代化は、ほとんどが幕府の盗作であった。
 
 ところが維新の志士や薩長土肥の新政府は、こうした先人の労苦に後ろ足で泥をかけ、奥羽越列藩同盟と呼ばれた地方の農民が生糸の生産に果たした血のにじむ努力に報いるどころか、その地方に残忍な攻撃を仕掛けた。それが戊辰戦争の東征であった。そうして生糸貿易であがる利益を、自ら明治政府の資金源としている。恥ずかしいほどの不条理である。「幕府」対「朝廷」という武家社会の武力闘争を持ち込むことによって、民衆の救済に奔走していたすぐれた人間の行動がどれほど妨害されただろうか。

 病気の治療に専念していた医師・松本良順たちが烈しい怒りを覚えたのは、そのことであった。長崎に養生所を開いて貧民への治療を始めた良順の怒りは、東北を攻撃する新政府軍に向けられ、医師として自ら会津戦争に飛び込んだ。慶応四年四月、会津籠城を決断して、同志と共に会津城内に野戦病院を開設して、新政府軍の攻撃にさらされる東北軍の治療に奔走したのが松本良順であった。会津鶴ヶ城が落ち、最後には横浜で潜伏中に捕縛され、死一等を減じて禁錮の判決を受けたが、明治六年には、良順の優れた能力を求める政府によって初代陸軍軍医総監として明治政府医療界の最高位に迎えられ、戊辰戦争で開かれた会津野戦病院が日本の陸軍軍医制度、事実上の日本の国家医療制度の濫觴となったのである。親しい市川団十郎に牛乳を飲ませて牛乳を飲む習慣を日本に普及させ、大磯海岸を宣伝して海水浴という習慣を日本に定着させた功労者、それも松本良順であった。

 つまり腐敗した幕府上層部と井伊直弼、新撰組、尊皇攘夷の志士いずれも、日本の宝である農民、職人、商人、医師という民衆の生活が眼中になかった。剣を振り回し、鉄砲の威力を誇示する無用の闘い(内戦)を展開した出来事の数々が、ほとんどの歴史物語で、日本人の生活の焦点を見誤って美化された、武士を中心としたストーリーなのである。

 さて、ここで年表に疑問が出てくるのは、幕府の経済政策で最大の功績をあげる勘定奉行・小栗上野介が、悪漢井伊直弼の安政の大獄の中から台頭した人物だということである。小栗とは、どのような存在だったのか。

   続く。

 ➔★家定について参考。

  



 ●持丸長者-幕末維新篇
 
 先日、「疑史 76回」で記したように、『持丸長者』から数回、紹介していこうと思う。

 理由のひとつは、「疑史77回」(未紹介)の章末に落合氏が下のように記しているからで、

 その章末部分だけを紹介しておく。

 
 ********* 

 
 ●疑史 第77回  堀川辰吉郎と閉院宮皇統(4)   評論家・落合莞爾 

 
 ・・・略・・・
 
 万延元年(一八六〇)一月、条約調印と通貨交渉のために、新見豊前守を正使とする幕府使節が出発したが、その四日後、天保小判一両を三・三七五両に通用させる増歩令が出され、四月には万延小判(雛小判)が新規発行される。小栗忠順は遣米使節に目付として同行するが、これに先立ち、元中間の三野村利左衛門に命じて、秘かに天保小判を買占めさせた。三月三日に井伊大老を暗殺した水戸浪士が、井伊の罪状の第二条として小判買占めの私曲を掲げたが、取り調べの結果、「上のために行った」と判り、井伊に咎めはなかった。大老の命令で買占めを実行した小栗は、利益金を隠匿したために、慶応四年(一八六八)官軍の命を受けた高崎藩・吉井藩らの藩兵のために斬首された。
小栗は利益金を赤城山に埋蔵したと偽装して、秘かに京に送り、本願寺に保管して「堀川政略」の基金としたのである。これだけの大事を悠々実行した小栗忠順が、雑兵の手に徒死する筈もなく、姓名を変えて再び渡米し、明治史に残る一大事を成すのであるが、其れは後日に述べる。

 つらつら思うに、治承寿永の乱と言い、幕末樵耕の変乱と言い、実態は想像を超えた大計画の下に諸事が運ばれた一大リストラ戦争であった。計画した中心人物は、自らの死を以て世間を欺隔する必要があったが、実際に死ぬ必要はないから生き延びた。平家の公達は固より、孝明天皇・睦仁親王・壽萬宮・徳川家茂・小栗忠順らは皆それである。

 ************

 小栗忠順

 
 ●持丸長者-幕末維新篇      広瀬 隆  ダイヤモンド社 2007年2月1日 

 
 ★あとがき 

 
 ・・・略・・・
 結論を述べるなら、本書で詳しく述べたように、日本を開国して近代化に着手したのは、明治政府ではなく、徳川幕府であった。こうなると、見過ごせないのは、日本の近代化を進めた幕末のすぐれた人間たちまでも、傲岸な幕府権力者と同じ箱に入れて愚弄する、多くの人の姿勢である。これでは歴史が、われわれ自身の愚かさとしてはねかえってくるだろう。

 この間違いの原因は、明治維新後に、明治政府と明治文化の主導者たちが自分たちを美化し、脚色して書き残した記録をもとに、後代に膨大な数の物書きがこれを歴史事実として固定化し、映画とドラマがその通りに描き、それがすべての日本史であると教えてきたことにある。そのため日本人は、すぐれた人格者の名前と業績を知らず、まったく無駄な名前を数々頭にたたき込まれてきた。数々の伝説・伝記にはよほどの注意を要する。

 明治維新を礼讃し、維新の志士を英傑と祭り上げるのもよい。が、それは観音開きの扉の片面にすぎない。タワシでごしごし磨いて侍 魂を光らせ、武士道を脆拝しても、もう片方の汚れが落ちるものではない。幕末に、日本人を病から救おうと必死に努力を傾けていた医師たちを含め、農民、職人、商人のことなど眼中になく、維新の動乱は、勤皇か佐幕かという武士同士の闘いを民衆生活のなかに持ち込み、実に暴虐の限りをつくしている。そのとき、国民大衆は被害者であり、見物人にすぎなかった。

 明治維新は、歴史では自由思想の革命と讃えられてきたが、実際には日本人大衆の手になる自由思想の革命ではなく、ただ権力支配者が交代するだけの、一部の人間によるクーデターであった。さらに、史実を一行ずつ丹念に追えば、明治政府が主導した日清戦争・日露戦争勝利によって懐胎した日本人の優越的な思想と感情が一方的にふくらみ続け、ついには大正、昭和にかけて暴走し、日本人全体がとんでもない間違いを犯したことは、すでに悲痛な敗北の歴史に実証された動かし難い事実である。

 日清戦争・日露戦争までの日本はよかったが、それ以後に間違えた、という物書きの言は、でたらめも甚だしい。しかし現在のわれわれが重々知り尽くした知識だけから、明治時代の人間を誇ることはできない。当時の人間は、ゆうべも暮れ落ちれば真っ暗闇という世界に生きていた。外界を知ることさえ、至難の日々であったろう。日本に初めて電灯が灯ったのは明治十一年(一八七八年)三月二十五日のことである。それも、アーク灯による瞬間的な実験にすぎない。エジソンが白熱電球の実用化に成功したのはその翌年、明治十二年のことである。人はみな、地球の成り立ちさえほとんど知ることなく、本心よりきわめて信心深い情感に満たされ、ことあれば神に祈り、仏に祈った。家族を病に奪われようとする時、病の原理さえ知らぬ彼らの祈りがどれほど切実、真剣、悲痛なものであったかと、想像せずにはいられない。

 中国で孫文が清の王朝を倒そうと辛亥革命を起こさんとする時、長崎から出て東京日比谷に松本楼という料亭を創業した梅屋庄吉が、家産の大半を注ぎ込んで孫文への財政支援をおこない、熊本の宮崎滔天が、孫文を全面的に支援し、中国の封建社会を崩壊させるのに大きく貢献した。朝鮮半島では、大正八年三月一日に日本の植民地化に激怒する全国的な「三・一独立運動」が勃発すると、日本の美術工芸研究家の柳宗悦が独立運動に共感を示して論説『朝鮮人を想ふ』を発表し、日本人の非道さを堂々と世に訴えた。ソウルに朝鮮民族美術館を設立したのが彼である。岡山県倉敷の大原美術館の建設者として著名な大資産家、倉敷紡績社長の大原孫三郎たちがその柳宗悦を援助して、東京駒場に日本民芸館を設立し、日本の大衆文化を守ろうとした。それらのすぐれた日本の先人がいながら、なぜ同じ日本が、台湾、朝鮮と中国を手始めに、アジア全土の侵略をおこなったのか。

 本書は、私にとっては、日本の近現代史の流れを追う『持丸長者』三部作のうち、幕末・明治維新時代に焦点をしばった一冊目である。最後の第四章では、維新後に明治政府が犯した過ちの全体的な流れにふれ、その結果としての植民地台湾における製糖業について、ほんの一端だけを記したが、この時代に勃興した産業のすぐれた発展について、二冊目を執筆中である。

 最も興味深く、日本技術界の維新であった印刷、製紙、写真をはじめとして、巨大な資産を築きあげた鉄道、石炭、電力、あるいは新時代に向かってビール、肥料、ガラス、セメントが切り拓いた化学工業、さらには石油・ガス産業の勃興、自動車、鉄鋼、電気製品、建設、金属、医療、製薬、酒造、映画、石鹸、どれをとっても事始めとなった創始者の知恵ほど、われわれの心を奪うものはない。その歴史を解いてくれるのは、持丸長者の群像であろう。

 日本人の過去の過ちに無縁な日本人は一人もない。しかし誇らしくも、日本人のすぐれた歴史的な文化に無縁な日本人も一人としてない。

 二〇〇七年一月五日      広瀬 隆

 ***************

  続く。 

 

 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-2
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-2 

 
 ★将軍継承問題という追い撃ちも加わって 

 
 幕末現象を引き起こした第三の対立軸は将軍継嗣問題であった。将軍家定が病弱のために在位中から起こっていた後継争いは、病気が悪化した安政四年(一八五七)頃から本格化した。後継将軍に紀州慶福を推す南紀派が井伊直弼・松平忠固ら譜代党で、一橋慶喜を推す一橋派が実父水戸斉昭と島津斉彬ら雄藩党であった。堀田が江戸を留守にしていた安政五年四月、南紀派の謀略で井伊直弼が大老に就く。条約問題に関して当初無勅許調印に反対であった直弼が幕閣を掌握する立場になったが、折から幕府の中では「朝廷の御反対は、実は国体を損わぬようにとの配慮からなされたるもの」との認識が台頭しつつあり、直弼は孝明帝の勅許を得られぬまま六月十九日に日米修好通商条約を調印する。これが違勅調印であるとして、一橋派から猛烈な攻撃を受けた。継嗣問題に関しそれまで具体的意見を出さなかった家定は六月二十五日、諸大名を招集して慶福を将軍継嗣にする意向を伝え、七月六日薨去する。大統を継いだ紀州慶福は、名を家茂と改めて十四代将軍に就く。井伊直弼を大老にした南紀派の政略が見事に功を奏したのである。将軍継嗣及び条約調印をめぐって越前侯・尾州侯及び一橋慶喜らと江戸城に無断登城の上、直弼を詰問した斉昭は、逆に直弼から江戸の水戸屋敷で謹慎を命じられ、他の一橋派も直ちに処分された。

 この井伊直弼の処断は水戸藩を痛く刺激し、憤った水戸藩士らが朝廷に働きかけて、孝明帝から「戊午の密勅」を得たという。密勅は、①条約の無勅許問題の追及と説明の要求を幕府にせよ、②御三家及び諸藩が幕府に協力して公武合体の実を成し、墓府は攘夷推進のための幕政改革を遂行せよ、との内容で、さらに③上記内容を諸藩に周知せしめよ、との副書があった。要するに密勅は、井伊の排斥を諸大名に呼びかけたもので、幕藩体制の秩序を無視していた。かかる朝廷の幕政介入は正に前代未聞であったから、直弼は尊皇攘夷派を強権を以て弾圧し、水戸藩には密勅の返納を命じる一方、条約の無勅許調印の責任を自派の堀田正睦・松平忠固に着せて閣外に追放、新たに太田資始・間部詮勝・松平乗
全を老中に起用し、密勅に関与した志士・公家を弾圧した。之が悪名高い「安政の大獄」で、その剛腕な政治手法により、直弼は幕末現象の基底にある対立軸を大きく揺すぶり、維新の到来を速めたのであった。

 因みに、原理的攘夷主義と現実的開国論という矛盾を包含していた阿部幕閣が、眼前のアメリカ艦隊を相手に外交政策の選択に苦しんだ姿に、近来の民主党を重ねて見るのは歴史趣味の一楽である。往時の阿部・堀田・水戸・井伊・松平忠固に、今日の鳩山・菅・小沢・仙谷・前原のいずれを比し得べきか。さしずめ八方美人の阿部に鳩山、開国派の堀田に軟弱外交の見本の菅、因循攘夷派の斉昭に親中排米派の小沢、水戸の仇敵たる剛腕直弼には同じく小沢の仇敵仙谷が当て嵌る気がする。現実を重視して開港に賛成しながら「徒
らに勅許を仰ぐは混乱の元」と論じた松平忠固に比すべきは、日米同盟に立って媚中派を牽制する保守主義の前原であろうか。ただし、これはあくまでも相似象学上の政治的比喩ゲームであって、当人の人格識見において比すものではない。

 
 ★西郷吉之助が京都で 肌で感じた激派の熱 

 
 話を安政三年(一八五六)に戻す。
 島津斉彬の養女・篤姫を近衛家の養女に入れる工作のため上京していた西郷吉之助は、在京の間に尊王倒幕を叫ぶ多くの志士・浪人と接触し、主君斉彬が代表する既成勢力が現状維持のために進めている新体制樹立運動の外に別個の暗流が滔々として湧き出ているのを目の当たりにした。要するに知識階級の下層部からは、公武合体論のごとき微温的なものではなく、政治体制の抜本的な改革を望む声が出ていることを、西郷は肌で感じたのである。彼ら激派の思想は如何にして醸成されたか。弘化三年(一八四六)仁孝帝が御所建春門外に設けられた学習所に、嘉永二年(一八四九)に至り孝明帝が「学習院」の勅額を下賜され、以後は学習院と呼ばれるが、設立以来四十歳以下の堂上・非蔵人の子弟に儒学・国学を講じていたとされる。ところが、安政六年大獄の囚人・吉田松陰が門人・入江九一に対し、学習院を中心に京に「四民共学」の「天朝の学校」を設立する構想を語った事実をどう解するか。学習院の周辺に、公武志士交流の場として何らかの実態が既に存在したことが窺えるが、安政五年八月八日の「戊午の密勅」の成立にも、学習院が深く関わっていると見るべきであろう。

 因みに水戸藩が朝廷に請うたとされる「戊午の密勅」は、武家伝奏・万里小路正房から水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門に下され、代りに受領した子息・知明が微行して東海道を下り、水戸藩家老・安島帯刀を通じて藩主水戸慶篤に渡された。副使は薩摩藩士で別に中山道を東行したという。鵜飼吉左衛門から安島帯刀宛への書簡には、直弼暗殺計画が記されていてこれが幕府に漏洩したことで安政の大獄は一層厳重な処分となったと言われている(直弼の謀臣長野主膳から井伊直弼に宛てた手紙に記載があるという)。その計画とは、薩摩藩兵二~三百人が上京して彦根城を落城させるというもので、伊地知正治からの伝聞とされる(落合注:彦根藩主とはいえ直弼は大老職で江戸常府のため、彦根城では暗殺など不可能と思うが、この点を博雅の士の高教に侯つ)。

 このころ京都にいた西郷は、七月二十七日斉彬の訃報に接して悲嘆久しい中でその遺志を継ぐことを決意し、八月には近衛家から託された孝明帝の内勅を水戸・尾張藩に届けるため東行したが、水戸藩家老・安島帯刀に拝受を打診したところ拝辞されたので、空しく京へ戻った。後日、入れ違いに来た鵜飼知明から安島が受けたことを聞いて、大変驚いたという。このことから、水戸藩要請とされる「戊午の密勅」だが、薩摩藩が黒幕であったことが明らかで、とすれば、以前から公家と薩摩藩士の秘密の交流の場がどこかに在った筈である。薩摩京屋敷や近衛邸には幕府の眼が常に光っており、いやでも目に付くので、有志が漢学・古学の勉学会を装って学習院に集うなどは、最も目的に適った方法ではなかったか、と思う。

 島津斉彬の突然の薨去によって薩摩藩政を掌握した異母弟の島津久光が、井伊による安政の大獄で天下のお尋ね者となった西郷を奄美大島に軟禁したのは、罰より保護の意味であった。久光は文久元年(一八六一)十月、自ら公武の周旋に乗り出す決意をするが、京都での手づるが全くなく、大久保の進言により西郷を召還し、旧役に復して上洛の先発となし、京大阪で上国の形勢を偵察させた。西郷にとって安政三年から七年ぶりに見る京は、尊攘激派の志士が徘徊し甚だ革命的雰囲気に満ちていたが、このとき西郷は久光の不興を買い、薩摩へ送還される。

 
 ★各藩下士階級連盟締結 明治維新の本質現わる 

  
 西郷が尊皇激派に抱いた共感は、根底に公家社会と武士社会における下層部の処遇改善欲求があったものと思われる。すなわち、公家社会においては平(ヒラ)堂上の摂家清華に対する処遇慣習の改善要求があり、安政五年の岩倉具視の八十八人列参は根底には、実はこれが潜んでいた。堂上とは、広義では公卿になることができる摂家・清華家・大臣家・羽林家・名家・半家の総称であるが、狭義では羽林家以下を指し、その場合は平堂上とも呼ばれた。列参を企んだ岩倉侍従は、養家は羽林家で生家が半家の堀河家であったし、中山大納言も羽林家で、いずれも公家としては下級に属する平堂上であった。公家社会では家格によって昇進も家禄も厳しく固定され、平堂上は本家筋の摂家から婚姻始めすべてを規制されていたという。

 一方、武士社会においても下級武士の処遇改善欲求が生じていた。下級武士とは騎乗を許されない徒士身分のことで、各藩の行政を実際に動かしていたのはこの階級であった。足軽とか同心と呼ばれ、全員が職掌集団たる「組」に属して、頭たる中級武士の指揮監督下にあった。その処遇は長屋住まいの石高二十石余りで、現価の年収四百万円程度であろうか。今日の地方公務員よりは低待遇で、常に家族ぐるみで副業をしていた。この他に半士半農の体で郷士と呼ばれた階層は、天下統一の過程で敗退した旧封建領主で、大地主として農業を営みながら各地に散在し、生活は困窮しておらずとも、藩士から厳しい身分的差別を受けていた。この階層からは徒士身分に登用された者もいて、また養子縁組を以て徒士身分に紛れ込んだ者も多く、家系的に見れば彼らと下級武士との境界は溶けかかっている。ともかく、各藩では上級武士階層と下級武士・郷士階層との間に処遇的懸隔は大きく、そのため異なった階級意識を有していた。公武合体の政治理念を信奉したのは各藩の重役・上士だったが、下士・郷士階層は必ずしもそうではなかった。安政三年の昔、西郷吉之助か京で感じ取ったのは、正に下士・郷士階層の感覚であった。

 詳細、今は略すが、文久元年(一八六三)八月、江戸麻布の長州藩の空屋敷で、長州藩の久坂玄瑞、土佐藩の武市半平太、薩摩藩の樺山資之がたまたま会し、この時三人で各藩の下士階級の連盟を締結した。様々な幕末現象が煌く中に在って、目には見えにくい明治維新の本質がここに姿を現したのである。

 文久三年(一八六三)八月、朝廷は筑前の平野國臣、久留米の真木和泉・水野丹後・木村三郎・池尻茂左衛門・宮部鼎蔵・肥後の山田十郎、長州の益田右衛門介・桂小五郎・久坂玄瑞、津和野の福羽文三郎、土佐の土方久元ら尊攘倒幕派の諸藩士・浪士に学習院出仕を命じた。これは雄藩が公家との接点たる場を求め、藩士を御用掛の名目で学習院に送り込もうと望んだのに応えたものであるが、薩摩藩は、一足先に既に公家との交流を深めていたことは、既に見た通りである。問題はそのような公武の交流活動が始まった時期であるが、これより十年ほど遡る安政初年あたりと見て良く、それに京都学習院が深く関わったのではなかろうか。

   ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)    <了>

 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-1
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-1

  -公武合体に淵源した明治維新の展開を敷衍する 

 
 ★新井白石が唱道し阿部正弘が実行する 

 
 先月稿は、『文藝春秋』昭和十五年十一月号所収の白柳秀湖論文「明治維新の三段展開」を引きつつ、明治維新の根底が公武合体の政治理念に淵源することを述べた。今月も引き続きこれを敷衍していく。

 江戸幕府の開祖・徳川家康から秀忠・家光と続く三代は、貿易統制を主眼とした鎖国政策を実行するために、半ば郡県的な封建国家体制を樹立した。その拠って立つ重農主義的財政基盤は、滔々として浸透する貨幣経済との間の矛盾によって早晩破綻を免れぬもので、そのことを先見する人士がやがて閣老の中にも出てくる。十八世紀の初頭、六代将軍家宣の重臣・新井白石は、国家体制を封建制から近代制に改めるための政治理念として公武合体論を唱えた。白石の論旨は「上に朝廷を仰ぎ下に公家及び諸侯があり、幕府はその間に在りて天下の政治を執行するべきもの」と謂うもので、目的は徳川政権の補強策であった。

 当時はまだ徳川氏の全盛期で泰平の世であったから、その意義は世に実感されることなく純然たる学問的論説に止まり、客観的情勢もこれに応じるものはなかったが、時代が安永天明(十八世紀後半)と過ぎて弘化嘉永(十九世紀後半)に差し掛かり、尊皇攘夷論が漸く高潮してくるに連れ、政策としての現実的を帯びてきた。

 すなわち天保の改革に失敗した水野忠邦の後を受けて、弘化二年(一八四五)老中首座に登った阿部伊勢守正弘が、新井白石が唱道した公武合体論を実行に移したのである。阿部は政体徳川幕藩体制の運用を一部改め、将軍と少数の譜代・旗本による寡頭政治から、親藩・外様の雄藩との連携合議方式に変えた。言ってみれば、譜代党による一党支配体制から、親藩党・外様党を含む大連立体制に移ったのである。かくて連立政権に入った雄藩から、阿部は水戸藩の老公(前藩主)徳川斉昭を海防参与(外交顧問)として幕政に招聘したが、他の雄藩諸侯すなわち尾張藩徳川慶勝、越前藩松平慶永、薩摩藩島津斉彬、長州藩毛利慶親、土佐藩山内容堂、肥前藩鍋島閑叟、筑前藩黒田長溥、宇和島藩伊達宗城らも幕政に発言権を持つようになった。彼らは謂ってみれば、政調会の委員のようなものであろうか。

 雄藩諸侯のうち阿部正弘の公武合体的政策に最も協力したのは島津斉彬で、その真摯重厚な性格からして朝廷からも幕府からも信頼最も厚く、家系的にも公家と将軍家に深い血縁を有していた。すなわち島津家は、家祖・忠久の因縁で摂家筆頭の近衛家と親しかったうえに、先々代・重豪は将軍家斉の叔母保姫を正室に迎え、自らの息女茂姫(後の広大院)を家斉に嫁していた。斉彬も島津安芸の息女で従妹に当る篤姫を養女にし、阿部正弘と相談の上で重ねて近衛家の養女に入れ、将軍家定の御台所に送り込もうとした。斉彬の狙いは篤姫を通じて将軍家定を操り、その継嗣に英才を以て聞こえた一橋慶喜を据えることにあったと言われる。

 時に安政三年(一八五六)斉彬腹心の下級武士西郷吉之助が斉彬の密命を帯びて上京、近衛家老女・村岡と相計らって養女縁組をまとめた。維新を主導した改革者西郷隆盛も、このころは主君の公武合体思想を尚んでいた。公武合体の推進に打ってつけのキーパーソン島津斉彬に対して、水戸老公以下の前掲有力諸侯が一致協力し、公武合体の理念の下に画策していれば、新国家体制の 樹立も円滑順調に行われたであろう。

 
 ★二つの対立軸・外交政策と譜代対親藩・外様勢力争い 

 
 しかしながら、現実の維新史が波乱曲折の幕末現象を現出せざるを得なかった主因は、何を措いても外交政策の不一致である。それは老中首座(首相)・阿部正弘ら開国派と海防参与・水戸斉昭ら鎖国派の意見の対立から生じた。すなわち嘉永六年(一八五三)、突如浦賀へ来航した米国東インド艦隊のペリー提督が呈出した米国大統領フィルモアの国書へ対応せんがため、阿部が海防参与(外交顧問)を委嘱した水戸斉昭の、水戸学の伝統をかざす攘夷論は極めて強固で、閣内不和の決定的要因となった。

 しかもこの頃、幕末現象をもたらす第二の対立軸が生まれていた。従来幕政を壟断してきた譜代党と、幕政に新しく参画した親藩・外様党の勢力争いである。江戸城内の伺候席の中でも有力譜代大名の居る溜之間は、儀式の際に老中の上に座すほど格式が高く、重要事項に関して老中から諮問を受ける立場であった。その溜之間上席で譜代筆頭の彦根藩主に嘉永三年(一八五〇)、井伊直弼が就いた。譜代党のリーダーとなった直弼は、阿部が先例を破って海防参与に起用した水戸斉昭が、攘夷論を唱えて閣内を乱す有様に反感を強めていたが、翌七年ペリーの威圧に屈した阿部が日米和親条約を締結せんとするや、これを攻撃する斉昭と溜之間詰上席の直弼との対立は頂点に達した。斉昭は阿部に、開国派の老中・松平乗全と松平忠固の更迭を要求し、安政二年(一八五五)阿部はやむなく両名を解職する。これに対し直弼は、溜之間詰から新老中を起用することを求めたので、阿部は天保の改革時の老中で漸進的開国主義者の堀田正睦を再登用して首座を譲り、自身は幕閣の実権を握ったまま老中として残った。

 外交問題をめぐる次なる対立は安政三年で、老中首座・堀田正睦が米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印問題である。安政四年(一八五七)阿部正弘が急死した後、名実ともに老中首座になった堀田正睦は、直ちに松平忠固を老中に再任して次席格とし、溜之間詰主導による堀田=松平の連立幕閣を形成した。この連立幕閣は、安政四年十月二十一日ハリスを江戸城内で将軍家定に謁見せしめ、その要求してきた日米修好通商条約を翌安政五年を期して調印し、六月中旬より実行することを約した。この時堀田は、同じ開国派の越前侯・松平慶永の意見を容れて、遅れ馳せながら朝廷に上奏して勅許を得るとともに、内容を全国の諸大名に示して利害得失を論ぜしめたので、ここにおいてか条約締結是非の論が国を挙げて沸騰する。

 堀田はまず、林大学頭を先発させて条約締結の経緯を上奏するが、既に決定し後に勅許を乞う不埓を詰られるのは、朝廷の背後に諸大名の支持と澎湃たる世論があったからである。安政五年一月自ら上京した堀田は、条約締結時の苦しい事情を朝廷に開陳し改めて勅許を乞うたが、侍従岩倉具視の暗躍により中山大納言以下八十八人の下級公家が結束し、列参して上奏讒訴したため、折角の上級公卿買収策も水泡に帰し、空しく江戸へ引き上げてきた。

   続く。
 






●疑史 第76回 (続)
 
・                      持丸長者 広瀬隆
                         広瀬隆・『持丸長者』

 
 ●疑史 第76回(続)              評論家・落合莞爾
 
 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(3) 

 
 井伊大老暗殺の後、幕政を執った老中・安藤対馬守信正が、阿部正弘の故智に学び、さらに進んだ公武合体策を実現したのが皇妹和宮の降嫁である。降嫁が孝明帝の勅許を得たのは万延元年十一月のことで、関白九条尚忠、侍従岩倉具視がこれに奔走した。この策は、天下の諸武士・浪人の過激な尊皇攘夷論を緩和し、且つ諸藩の倒幕主義者の論拠を破砕する目的を以て行われたのだが、実際には却って反対の結果を招いた。降嫁の報が伝わると、尊皇賤覇を唱える諸国の志士は憤激に耐えず、御輿を奪い奉らんと言う輩も出て、物情騒然とする有様であった。

 日米修好条約中の通貨条項の改訂のために、使節小栗忠順が出発するのは安政七年一月一八日で、通貨改訂を反映した貨幣の改鋳、すなわち万延雛小判の新鋳は同年の三月十八日に実行される。その間に年号は安政から万延と改まるが、この間の大事件は井伊大老の暗殺であった。改鋳のインサイダー情報を利用して天保小判を買占め、その利益で幕府の裏金を作ったのは、井伊直弼の命を受けた小栗忠順で、実行者は小栗家の中間上がりの三野村利左衛門である。

 万延は二年(期間は一年一か月)で終わり、次の文久元年からは本格的な幕末になる。帰国後の小栗は加増されて外国奉行になり、翌二年には勘定奉行となる。その年二月十一日に将軍・家茂と和宮の婚儀が挙行された。例の裏金は、和宮降嫁に際して孝明帝に献金されたと前に述べたが、幕末の工程表を見るに、井伊大老は献金とは関係がなく、献金は家茂上洛に伴う公武合体強化策の一環と見るべきであろう。幕府は天保小判を万延小判の3.375両として増歩通用させたが、幕府関係者自らその制度を要したとは思えない。

 薩摩に並ぶ一方の雄藩たる長州藩は、阿部正弘と島津斉彬による公武合体的経綸を徒らに眺めていたが、井伊直弼に替った安藤信正が公武合体政策を継承し、和宮降嫁のことで天下の志士浪人の激昂を買うに及ぶと、幕府の困惑に乗ずべく、藩老長井雅楽をして時局を説かせた。本来開国論者の長井は文久元年、公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白して藩論とされたが、さらに幕府に説くべく、藩主敬親と共に江戸に入り、老中安藤信正・久世大和守と会見して正式に同策を建白する。幕府は長州藩に公武間の周旋を依頼したので、政体の経綸は枢軸を薩摩藩から長州藩に移して公武合体的政策を推進することになり、久世の内示を受けた長井は京に引き返して朝廷に開国論を献じ、九条・中山・正親町・三条の諸卿を動かして、朝議を一変させようとした。

 しかしながら、長井のこの挙に際して各藩の尊王攘夷論者が挙って反対し、長州藩でも下級武士階級を代表する久坂玄瑞は、書を土佐藩の武市半平太に送り、「今や天下の諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽の志士糾合、義挙の外は迚も策これ無く」と、クーデタしかないと激語した。諸国の下級武士はこれ以前から一斉に倒幕派に傾いており、その理由に万延小判の新鋳が銀の対金比価を大幅に引き下げ、収入を銀貨で受け取っていた下級武士の家計窮迫を招いた、との説がある。公家の攘夷列参も武土の尊王倒幕も、遠因が政治思想よりも下級階層からの経済的・処遇的不満にある点で、正に軌を一にするものである。長州藩に失望した天下の攘夷倒幕論者の輿望は、期せずして薩摩藩主・島津久光に向かう。文久二年、久光は幕府の命令を受けずに大兵を率いて京に上り、孝明帝に策を献じて禁裏警護を命ぜられる。長州が幕府側で公武合体策を画策したのに対し、薩摩は朝廷側から公武合体的新体制を献策したのである。

 紙面残り僅かゆえ先を急ぐと、この後慶応四年までの僅か数年間に、幕末事象は頗る多岐にわたり変遷するが、その中で開国後の政体を見通された孝明帝は「堀川戦略」を立てられた。その時期はおそらく、帝の義弟・徳川家茂が上洛した文久三年ではないかと推測する。因みに、この年に長崎のグラバー邸が完成している。「堀川戦略」の骨子は想像するしかないが、おおよそ次のようなものではなかったか。

?六条堀川の日蓮宗本圀寺の境内に秘かに堀川御所を設ける。
? 孝明帝は時期を見計らって崩御を装い、そこに隠れる。
? 皇太子・睦仁親王は遁世して堀川御所に隠れ、新天皇には南朝系人物が入れ替る。
?孝明帝の女官らの多くは新天皇に仕えず、堀川御所に入る。
?公家と少数の女官らが皇居で新天皇に仕える。
?この事態に対応するため、新天皇の宮廷を改革して女官を遠ざけ、閑院宮皇統の徳大寺実則が側近として近侍し、事情を知るごく少数の武官が侍従として警護する。

 新天皇は長州藩の「奇兵隊天皇」大室寅之祐で、父は南朝の血を引く地家作蔵、母は浄土真宗興正寺派の娘と巷間報じられるが、尊皇倒幕派の政治理念として南朝皇統復活の声が高まっていた時宜に最も適う選択であった。そもそも「万世一系の皇室」とは、南北両統の連合体を謂うのだから、違和感はない。教科書歴史は、東京遷都は此の頃は未だ決まらずとするが、新帝の御所が京都御所ならば堀川では近すぎる。

 思うに、「堀川戦略」の基底には既に東京遷都があったのではないか。ともかく、閑院宮皇統の中心家系は、堀川御所を拠点に今までになかった国体的活動を始める。それは開国により、この国が初めて直面する新事態に対応するもので、皇室外交と国際金融の二点であった。

 ●疑史 第76回   <了> 

 **************

 
 ★ブロガーお薦めの参考著作は、↑の広瀬隆・『持丸長者 幕末維新編』
 (ダイヤモンド社2007年2月)で、

 その、第二章・ペリー来航の衝撃 は是非一読をお薦めします。

 特に、<小栗上野介の天才>という一節。 p199~213

 後ほど紹介します。

 

 

●疑史 第76回 
 
 ●疑史 第76回              評論家・落合莞爾
 
 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(3)

 
 公武合体の政治理念の下に幕藩体制を改編して近代国家日本を建設せんとする政治思想は、夙に新井白石が唱えていたが、光格天皇の御代に胎動を始め、現実昧を帯びるのは嘉永年間(一八四八~五四)であった。時の老中首座・阿部伊勢守正弘は、政体を従来の譜代大名中心から親藩・外様の雄藩との連携方式に変え、水戸斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させたが、他の有力諸侯には尾張の徳川慶勝、越前の松平慶永、肥前の鍋島閑叟、筑前の黒田長溥、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、長州の毛利慶親、宇和島の伊達宗城らがいた。『文芸春秋』昭和16年11月号所収の「明治維新の三段展開」で白柳秀湖はいう。「彼らが完全に一致協力して公武合体主義を支持し、互いに己を空しゅうして国家のために経綸を画策するところがあったならば、公武合体は決して机上の空論ではなく、新体制樹立の仕事も維新史に見たごとき波乱曲折を経ることなく、順調に円滑に埓が開いていた」と。

 ところが、旧体制が行き詰り新体制の樹立に向かって一歩踏み出した場合の常として、現状維持派が指導権を握る時局は一致協力を欠くのが歴史の通例で、阿部正弘が画策した公武合体的政策が惨澹たる失敗に終わったのも、全くそのためである。阿部の政策を推進したのは薩摩藩主・島津斉彬で、人物の真摯重厚において、公家及び将軍家に対する親密さにおいて、孝明天皇は素より公武双方からの信頼が諸侯の中で最も厚かった。

しかしながら、外交上の難問題の処理について、阿部正弘と水戸斉昭との間には著しい相違があり、意見の一致を見なかった上に、長州藩は薩摩藩のライヴァルとして、島津斉彬の独走に対し心中平らかならざるものがあった。折しも嘉永七年、ペリー提督の威圧に屈した幕府は、朝廷の勅許を得ることなく日米和親条約を結び、二年後の安政三年(一八五六)には米国総領事ハリスから条約の修正及び開港地の増加と貿易開始の要求を受けた。

 同じ年、島津斉彬は一門の島津安芸の女・篤姫を将軍家定の御台所に入れるために近衛家の養女としたが、その際斉彬の密使として京に入り、交渉をまとめたのは西郷吉之助であった。その頃の西郷には主君斉彬の公武合体思想に何の異存もなかったのである。ところが「この工作のために京に滞在した西郷は、尊皇倒幕を叫ぶ幾多の志士浪人と接触し、斉彬に代表される既成勢力すなわち現状維持の公武合体派の他に、別個の暗流が滔々とわき流れ出ているのを目の当たりに見た」と白柳は言う。この間、公武合体の本尊・阿部正弘が安政四年に他界し、間もなく斉彬も急死したので、西郷はその公武合体主義者の殻を遠慮なく脱ぎ、諸藩士階級連盟の尊皇倒幕主義陣営に馳せ参ずることができた。

 安政四年、米国総領事・ハリスを将軍・家定に謁見せしめた幕府は、その要求を入れて老中・堀田正睦が日米修好条約を締結し、同時に条約の内容を各藩に示して利害得失の意見を徴した。当時随一の外国通を以て知られていた堀田正睦は、予て抱懐する漸進的開国主義の経綸を実行に移すため攘夷論の先鋒たる水戸斉昭を引退させていたが、ここにきて開国論者の越前侯・松平慶永の稟議を容れ、遅ればせながら朝廷の勅許を得ることにした。まず林大学頭を先発させて新条約締結の経緯を上奏するが、時の朝廷はもはや昔日の朝廷ではなく、事後に勅許を奏請することの不埓を難詰される。安政五年には堀田自身が上京し、調印前後の苦しい事情を具に奏上し、改めて勅許を望んだが、侍従・岩倉具視の暗躍により中山大納言以下八十八名が結束のうえ列参した讒言上奏に阻まれた。これにより、関白九条尚忠を初め近衛・鷹司の諸公及び伝奏・議奏の諸卿に対して施した大々的な買収戦術が水泡に帰したのである。

 教科書史観では孝明帝は強烈な攘夷論者とされているが、事実は程遠く天皇は内心堀田の意図したごとき漸進的開国を望んでおられた。この真実を世にまげて伝えたのは、列参事件を美化せんとする攘夷派公家の子孫らが図ったものであろう。実は、この列参事件の本質は下級公家の待遇改善運動が形を変えたものらしい。蓋し江戸期の公家社会は、上層公家が美味の大方を嘗める典型的な格差社会で、かかる事件が何時か生じる素地があり、偶々条約勅許問題が遭遇したものとの見方もある。また幕府の中では、「朝廷は【国体を損わぬように】との御配慮から反対をなされたもの」との認識が台頭しつつあった。

 ともかく孝明帝の勅許を得られぬまま、安政五年六月十九日に日米修好条約が調印される。折から将軍・家定が病に倒れ、後継を巡って紀州慶福を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派が対立する「安政の将軍継嗣問題」が起きた。老中松平忠固と紀州藩老の新宮領主水野忠央の工作により、正睦の上洛中に南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、正睦は条約締結の違勅を問われて老中職を罷免され、ここに安政の大獄が起きる。その大旋風の吹き荒れる中で、いつの間にか幕府の御尋ね者になっていたのが薩摩藩の下級武士西郷吉之助であった。西郷の旧主斉彬が急死したのち藩政を掌握した異母弟・島津久光は、井伊の反動政治に迎合する姿勢を示すために佐幕派の藩老島津将曹を復活させ、改革派の西郷を大島に流謫した。万延三年三月、井伊直弼が暗殺されるや久光は方針を転換し、小松帯刀を家老に登用して、下士から大久保市蔵らを登用した。また西郷の罪を許し、京大阪の間に放って文久二年の上洛の先導とする。

     続く。 

  

 

●興のおもむくままに。
 
 ゴング 海を渡ったサムライたち ←クリック  

 ゴング2010.9月号 畑正憲の記事 ←クリック

 第一次世界大戦を考える ←クリック

 カプラの冬 ←クリック

 ●前述の『ゴング格闘技』に長期連載中の

 増田俊彦・「木村正彦はなぜ力道山を殺さなかったのか!」は力作。

 力道山伝はとっくに出尽くし、語りつくされたと思っていたが、

 「視点」が違う。

 ブログのほんのサワリの紹介だけでは物足らずバックナンバーを求めた。

 なかには、拾い物の記事もある。

 畑正憲の記事↑(2010年9月号)がそうで、内容は表題とは、異なり、

 闘争(試合)における「見切り」「気魂」を論じて、見事!

 あるときは、自身のヒグマとの闘いを語り、

 そして、元ジュニアウエルター級チャンピオンの平仲明信を「斬る」。

 ***************

 ●京都大学人文科学研究所の共同研究「第一次大戦の総合的研究」の

 中間的成果報告を一般読者向けに平易に概説した・・・というシリーズの一冊。

 表題の「カブラ」とは、言えば「みずっぽく、不味い」じゃがいもの代用食で、

 この歓迎されざる「餌」が穀物・ジャガイモの不作や敵国の包囲によって、

 1916~17年の冬には、ついに家庭の食卓にのぼる。「カブラの冬」である。

 「カプラの冬」・<食糧難➔飢饉>(餓死者76万2796人)という悲惨な現実と、

 記憶が、ドイツ革命(敗北)とナチズムへと接続していく・・と著者は言う。

 我が子や肉親(主に老人)の餓死は、民衆の憎悪を二つの方向に向かわせる。

 ひとつは敵国へ、いまひとつは国内へ。ドイツ帝国政府(革命)とユダヤ人(ナチズム)である。

 憎悪の連鎖は、捩れながら(たとえば、帝国への憎悪は共産主義者への憎悪へ等)、

 続いていくが、それは略。・・・

 大戦後も半年もの間経済封鎖が続いたため、子供たちの犠牲はさらに増えたという。

 当時のある山村の「地獄」を記者はこうレポートした。(1919年) 以下、引用。

 「・・(担当医は記者に説明する)・・『この子をご覧ください。この子は信じられないほどの量のパンを消費していたのに、ちっとも丈夫になりませんでした。私(医師)はこれらのパンが全部藁布団の下に隠されていたことに気づいたのです。
飢えの恐れがこの子のなかに深く巣くってしまったので、この子は食べものを口に入れずに、それを蓄えていたのです。間違った動物本能が、実際の苦痛よりも飢えの恐怖のほうをいっそう恐ろしいものにしてしまったわけです。』」・・・

 ************

 

 

●復刊に感謝。
 山田風太郎全集 復刊

 風太郎全集と武揚伝

 山田風太郎書簡集

 山田風太郎 人間風眼帖

 アジア記者クラブ通信 223号
 
 ●初めは、エッセイだったが、つぎがこの「明治もの」。

 河出版「明治小説集」を全国各地の旅館・ホテルで読みふけってもう三十年にもなるのか・・・

 先日ふとしたきっかけで、連作・『地の果ての獄』を手に取り、

 当時は不可能だったまったく新しい「読み」ができることに驚いた。

 しかし「愛書家」ではなく、生まれついての整理下手から、

 どこに埋もれているやら見当もつかず、そもそも探す気力が出てこない。

 筑摩文庫版が復刊、ということで助かった。

 日記・エッセイは大体読んでいるつもりだったが、

 神戸新聞総合出版センターの二冊は未読で、これもたのしみ!

 **********

 『アジア記者クラブ通信』223号(2月号)

 太田昌克氏の講演・「官僚主導で引き継がれた<密約>」で報告された、

 事実にはあきれ果てた。

 一読をお薦めします。 ➔ ★アジア記者クラブ 

 
 

 


●お薦め!
 
 ➔ ★金王朝の “深い深い謎”

 飯山一郎氏のブログ連載 ↑を、

 先日紹介した先哲・故山崎明郷著『卑弥呼の正体』を脇に読み進めば、

 北東アジア古代史への見方が一変する。

 *************
 
 ➔ ★増田俊也の憂鬱なジャンクテクスト

 ゴング格闘技

 相撲界の八百長含みの「朝鮮」差別に嫌気がさして飛び出した関脇・力道山と、

 彼・リキの策略ー「決戦」で「敗れた」木村政彦の物語。

 *************


 昔 「半島」・・・いま 「モンゴル開発」・・・

 




●読書日記
 
 婢伝 五稜郭 と 安部公房 ←クリック

 山形 古代史2冊 ←クリック

  

 







上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。