カウンター 読書日記 2011年01月
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●日韓併合100年と『坂の上の雲』
 

 ➔ ■報告/討論:全国シンポジウム「松山から『坂の上の雲』を問う」 

 
 2010年11月13日  於:愛媛大学

 パネラー
 井口和起
 高井弘之
 醍醐
 安川寿之輔

 



 
 
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●読書日記。
 
 街場のメディア論 内田

  『街場のメディア論』 特に、第六講・読者はどこにいるのか。

  著作権を論じて内田は言う。・・・
  海賊版横行の中国も「コピーライトが株券のように取引される」アメリカも、
  「オリジネイターに対する『ありがとう』というイノセントな感謝の言葉を
  忘れている点では相似的。」p147

  ビーチボーイズのブライアン・ウイルソンの父親(マネージャーでもあった)
  とのコピーライトをめぐる暗いエピソードも印象的。p141~142  
   

 一刀斎夢録 上下

  『一刀斎夢録』 紹介は文春のウエブにまかせるが、
  ときに、<明治維新=八百長革命>の視点がにじむところが面白い。

  安部公房『榎本武揚』、山田風太郎<明治小説全集>特に『地の果ての獄』
  を想い起こしながら・・・

 西尾幹二のブログ論壇

  ウエブの書籍化だが、テーマに沿って整理されていて、助かる。

 禁書開封3・4 西尾

  読みにくい文章だなと思っていたら、講演がもとになっているようだ。
  その所為か、著者のモノにしては論理の進め方が雑。

 苦役列車

  「立ち読みでいいんじゃないか」という一冊。

  ************** 

 
  ★ CIAテロ容疑者秘密移送 日本を中継地化 ➔東京新聞 

 



●大逆事件
      [高画質で再生]

埋もれた声 大逆事件から100年-ETV [ブログ]







 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(49)―2
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(49)―2

 
 ★「古学」「惟神道」「チゥトン系科学」の三本建 

  
 要するに、公武合体理念の淵源が、織豊政権の政治思想と江戸初期以来伏流していた復古思想にあることを説くのだが、ここに「三本建の教学復古運動」とは、第一が「孔子以後諸子百家によって歪められてきた儒学、ことに中世以降わが武門政権唯一の教学として中華政権に対する日本の経済的付属関係を強化する上に役立ってきた宋学に対する反抗運動、すなわち原始儒学舌学)の唱道」で、これを成したる者が山鹿素行・伊藤仁斎・伊藤東涯・荻生徂徠であった。

 第二は「奈良朝以降、平安町・鎌倉時代・室町時代の久しきに亘り、日本固有の教学である惟神道を剋して、国民思想の上に大盤石の如く被さってきた本地垂迹説及び諸神宿業説の廃毀運動で、支那仏教の重圧を排除して国民の思想生活を本地垂迹説もしくは諸神宿業説の羈絆から解放する」たえに努力した先人が、賀茂真淵・本居宣長・契沖・伴信友・平田篤胤である。
 
 第三の流れは「蘭学に根源するチゥトン系科学思想の摂取である。徳川時代は一般に鎖国時代とされ、この間に日本文化が欧米先進国に比較し二百年も三百年も遅れたかのやうに成心づけられて居るが、それは甚だしい誤りである。徳川時代は経済的にも思想的にも決して絶対の鎖国主義ではなく、寧ろ貿易統制時代といった方が当たって居る。慶長五年、徳川家康はオランダ東インド会社の商船・リーフデ号の船員を接見し、北方エウロッパに発祥成長しつつある科学文化が、南方エウロッパのラテン系宗教文化と全くその本質を異にして居る事実を知った(中略)。若し日本にエウロッパ文化を排斥した事実があるとするならば、それはラテン系宗教文化を排斥したのであって、チウトン系科学文化を排斥したのではなかった(中略)。それらの科学思想に促されて、日本独自の科学思想も相当なものを生んで居る」として、三浦梅園・志筑忠雄・帆足万里を挙げ、「廃仏毀釈の急先鋒の平田篤胤でさへ、蘭学には非常に好意と尊厳とを持って居った。日本の復古思想は決して反動思想ではなかった」という。
 
 白柳の結論は、「この三本建の教学自主運動が、幕末近海に黒船の出没するまでの間に、封建的旧体制の廃残物とそれの発する有毒ガスとに充ち満ちた日本国土の清掃作業を完了して、新しい皇室中心主義に基調する近代日本建設の工匠達を迎える準備を整えて居たのである」と言うにあり、「開国とは実質的には幕府による貿易統制の撤廃を意味するだけのこと」と解されるが、本格的開国となればラテン系一神教思想と文化の受け入れも不可避で、因って幕府は祖法のキリシタン禁令を保てなくなり、結局、開国は幕府倒壊・王制復古の形で実顕せざるを得ないこととなったのであろう。 

 
 ★民主党「平成の改革」は「天保の改革」の猿真似 

 
 維新の端緒は、光格上皇の崩御と大御所・家斉の薨去から始まる「天保の改革」の失敗である。「天保の改革」(一八四一~三)は、大御所・家斉の薨去を契機として老中首座・水野忠邦が幕府側から幕政の窮迫を改革せんとしたもので、その要点は、①人返し令、②株仲間解散命令、③金融統制令、④上地令が主なるもので、外交政策では⑤「外国船打払令」を「薪水給与令」に改訂し、また⑥として「奢侈の禁止」と「冗費の節減」であった。

 ①は、貨幣経済の発達により農村から都市部へ人口が移動して、年貢の徴求に支障が出たため、江戸滞在の農村出身者を強制的に帰郷させて年貢の安定化を確保しようとしたものである。②は、商人による流通独占を排除して経済の自由化を図ったが、既存流通システムの阻害により却って混乱を来した。③は、債権回収に公権力が介入せず当事者の話し合いに任せる「相対済まし令」に加え、旗本・御家人の札差に対する債務の金利を切り捨て元金だけを年賦払いとし、さらに統制年利も一五%から一二パーセントに切り下げて旗本御家人を救済したが、当然ながら貸し渋りが生じた。④は、江戸・大坂の周囲に散在する大名旗本の領地を没収して幕府の直轄地とする行政区画の根本的改革案で、大都市の治安を維持して幕府の行政力を強化する狙いがあった。⑤は二年前に勃発したアヘン戦争の結果から、外患を考慮した外交政策の転換である。この他、⑥の「贅沢の禁止」と「無駄な支出の削減」はどの時代の諸改革にも付き物である。

 今年(*2010年)のことだが、対米従属主義政官財の三面癒着を基軸とした自民党体制からの脱却を叫ぶ民主党が参院選で勝利して、「平成の改革」を実行に移そうとした。そのマニュフェストは余りにも「天保の改革」に似て正にパロディを成すが、今日の世相がそれだけ天保時代に似ている訳だから笑うに笑えない。
 
 まず①が出生の増加を狙う「子供手当」で、耕作人口の確保を図った「人返し令」のパロディであるが、財政負担の増大に比して効果が明確でなく、大半は親のパチンコ代に流れる見込みと聞く。②の「米作農家の戸別補償」と「高速料金無料化」は、流通合理化を短絡的に図った「株仲間解散」のパロディとなり、経済学の基本的法則の効果で前者は市場米価の暴落を招き、後者は代替手段の高速バス・フェリーから新幹線・航空路線に至るまで経営に大打撃をもたらした。③は最高裁が認めた「過払い返還請求権」(金利上限令)を後追いした「債務総額を年収三分の一に制限する令」で、サラ金の取り立てに起因する凶悪犯罪と自殺の防遏を図ったのは好いが、「金融統制策」のパロディとして、貸し渋りが生じるのは昔も今も同じである。むしろこれにより、サラ金苦が直接生活難に転じるため、路上犯罪は激増するが自殺件数は減らず、知人・家族間の恩借の踏み倒しが人間的紐帯の分断をもたらし、社会の劣化が目に見えている。④は「消費税率引き上げ」で、党首が口にしただけで民主党は参院選挙を惨敗し、政策の表面に出せなかった。これが「天保改革」の根本政策として諸侯領地の区画整理を目指したものの、諸大名の猛烈な反感を招いて撤回を余儀なくされ、結局改革挫折の直接的要因となった「上地令」のパロディである。さらに、⑤の「子供手当」が出稼ぎ華僑の在郷子女までも対象にし、「教科書無償化」を反日教育機関の朝鮮学校にも及ばすのは、「薪水支給令」の善隣外交精神の行き過ぎたパロディである。⑥の、予算削減の過程を劇場ショー化した「業務仕分け」は「冗費削減」のパロディで、これだけはマスコミの人気を呼んで興業的な成功を収めた。

 上記諸施策は悉く民主党の集票手段に過ぎず、個別利得をぶら下げて低所得層の民心を誘引し、或いは隣国にへつらって友好発言を乞い、以て得票を買わんとの意図がミエミエである。一旦は総選挙に勝利した民主党も、政策の大本が無益なバラマキ政策であることが露呈し、且つは対米従属の現況を無視して隣国に迎合する軽薄さが、世界から見透かされる体たらくである。これでは「平成の改革」にかけた国民の期待は無残に破れるのが当然で、反面教師の役を果たした民主党は自壊に向かうしかないが、惟うにこれこそ「真の改革」のために国民が払わざるを得ない必要コストであったのであろう。

 なお、本稿第四十七回の内容の一部を訂正しなければならない。①K家は、江戸中期に加太村に移って来て造船業を営み、後に材木商に転じた富豪で、三代前に淡路島の船越家から養子を迎えた。②明治二十七年生まれで、一時松下トヨノと縁組の話があったK家の先々代は、トヨノが加太村に出現した時のことを「まるで天狗さんが連れてきたように」と語っていた。③トヨノが相続した和宮の秘宝は、「徳川家の蔵番をしていた渋沢栄一が、トヨノの処に持参した」とのことである。また④K家の先代は、和宮には謎があると感じていたが、明治十年から後にも生きていたと断言していたわけではない。以上、謹んで訂正いたします。

 **************

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(49)   <了>。 

 

 


●東京新聞。
 

 ■金正男氏「父は世襲反対だった」 核放棄には否定的 
  ― ★東京新聞 2011年1月28日 朝刊

 
  ➔■金正男氏インタビュー

 

 

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(49)―1
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(49)―1         ◆落合莞爾
  ― 明治維新の揺藍となった「京都学習院」の意義再考

 
 ★「聖地」に設けられた公武志士の交流の場

 
 前月稿では「京都皇統」の所以と「光格王朝」の事績を略述し、併せて学習所(京都学習院)設立の意義に及んだが、顧みていささか「軍事的実践(テロリズム)」を強調し過ぎたきらいがあった。本月稿では、文明地政学協会発行の月刊情報誌『世界戦略情報みち』平成二〇年六月号に所収の栗原茂論文「建春門外学習所」に従ってそれを修正する。

 上記論文で栗原は、「もし学習所なかりせば、幕末・維新は間違いなく日本を滅亡に導き、現在の日本人は無国籍の民として彷徨の旅を続けているに違いない。黒船来航の現実は戦国争乱の国内抗争とは異なり、原爆投下が立証するように、学習所がなければ勤皇も佐幕も大政奉還でさえも、海外列強に破壊されていたことであろう」と説き、建春門外に設けられた学習所(京都学習院)こそ幕末・維新をもたらした決定的な要因とする。

 ご発案された光格帝の治世に開設は間に合わなかったが「仁孝天皇も近未来を見透かしており、公武の志士が自在に交流できる場を聖地に設けて、幕政の間抜けと競わず争わない統一場を準備された」のが学習所で、「似非文明が黒船と謂う偽装で日本に上陸してきた時、之を封じる神通力が学習所の自在性に集束した」。しかしながら、「これを政府御用達の論説は公武合体の人格レベル情報に止めている」として、栗原は今日の教科書史学の浅薄と認識不足を批判する。

 要するに、学習所は本来、似非文明の侵入に対抗して日本の近未来を切り開くための「公武志士の交流の場」として、聖地に設けたもので、主旨は公武合体の政治理念を醸成する処にあったもので、前月稿で私(落合)が強調したごとき「軍事的実践(テロリズム)の意義探究と方法の訓練を主目的とするもの」ではなかった、と修正すべきものと想う。

 因みに、栗原の文明史論は甚だ特異で、学校史学に慣れ、或いは売文者流の史書に泥んだ人士には俄かに受け入れ難いであろうが、昧読すれば実に端倪すべからざる洞察に満ちている。ただその言たるや頗る奇警にして、平易冗長な表現しか知らぬ現代人をして辟易せしむるきらいは避けられぬ。私(落合)が栗原に親炙して所論を傾聴するのは、偏にその情報源の特殊性を察するからで、栗原には何処かから御用史学の是正を命じられているフシがあり、いかにも晦渋な表現もそれが理由かと憶測する。

 
 ★倒幕テロヘ一足飛びに進んだわけではない

  
 「聖地」とはむろん京都御所のことで、学習所が建春門外に所在した意味を強調するのは、現行の皇居千代田城は行在所に過ぎないから、一刻も早く西遷して再び「聖地」に立地すべきことを国民に訴えるものであろう。更に、「(御用史学の)最も重大な過失は聖地の理に目覚めないまま、明治天皇の下向に備えた孝明天皇の喫祓を読めない点である」とは如何なる意味か。「喫祓」とは甚だ難解であるが、熟考すると、「秘かに閑院宮皇統を京に留めて堀川御所に潜ませたのは、明治帝の東遷に備えたもので、孝明天皇ご自身の意志によるもの」と読み取るしかない。

 建春門外学習所に集った公武の人士は、堂上方では久邇宮朝彦・有栖川宮熾仁の両親王、公家衆では七卿落ちの三条実美・三条西季知・東久世通禧・錦小路頼徳・澤宜嘉の他に岩倉具視・中御門経之・姉小路公知らであった。幕藩側では、防長藩が藩主・毛利敬親をはじめ高杉晋作・桂小五郎・吉田松陰・久坂玄瑞・周布政之助・赤根武人ら、薩摩藩は有馬新七・田中新兵衛、土佐藩は武市半平太・池内蔵太・中岡慎太郎・吉村寅太郎、肥前藩は藩主・鍋島直正と江藤新平、肥後藩は横井小楠・宮部鼎蔵・元田永孚、福岡藩は平野國臣らであった。

 志士は西南雄藩だけでく、松代真田藩の佐久間象山、米沢上杉藩の甘粕継成、福井松平藩の由利公正、小浜酒井藩の梅田雲浜、鳥取池田藩の河田佐久馬など、譜代どころか徳川親藩にまで及んでいた。こうして観れば、「学習所に集った公武の志士たちの間に国事を図る雰囲気が醸成されて幕末開国をもたらした」との説は甚だ肯綮に当たるが、これら志士が当初から幕府倒壊を目指した筈はなく、まず図ったのは公武合体であった。尤も、下級武士と公家羽林衆に軍学者の交りから、勢い討幕を目的とした具体的軍事手段(テロリズム)の探究が生じたとしても不自然ではあるまい。

 幕藩体制の動揺は幕府・諸侯・武士階層の財政逼迫に始まった。原因は、城下町居住義務を負った武士階層が都市住民化して消費生活が貨幣経済化していくなかで、その財政基盤が幕府の祖法たる重農主義と米本位制に立脚しており、滔々浸透する貨幣経済に対応できなかったことである。すなわち消費構造の進化により、国内総生産に占める食糧ことに米穀の割合が低下したから、年貢米に依存する幕府・諸侯・武士階層は相対的窮乏が避けられず、逆に取扱高が質量ともに増大した商人が富裕化し、諸侯と武士階層は体制・生活の維持の資金を商人階層からの借入で補わざるを得なくなった。幕藩体制は財政面において上の基本的矛盾を抱えていたため、光格帝即位の一七七九年頃には幕政当路者も早晩破綻を免れないことを予感し、体制変換の必要性を認識する処となっていた。

 
 ★「オミ」「タミ」「キミ」 暗闘で解く維新の理念

 
 古今東西いかなる体制にあっても、その変換に際して体制幹部(オミ)と末端(タミ)の大多数を整理する必要に迫られる。指導者(キミ)はたとい旧体制の放棄を秘かに決意した場合にも、それを隠し通すのが通例なのは、そもそも旧要員が新体制を運営できるくらいならば世話はないが、不可能だからこそ旧階級の整理が必要となる。それを旧体制の象徴たるキミが自身で行い得ないのが情の理で、整理実行の担い手は、旧体制を支えてきたオミの中から登場すべきこととなる。

 白柳秀湖が『文芸春秋』昭和十六年十一月号で述べた「明治維新の三段展開」によれば、幕藩体制下における体制変換の実行要員は、徳川氏に対して対等の地位で働き掛けることのできる歴史的立場にあった外様及び親藩の諸侯であった。しかし これら諸侯は、幕府に対してはオミであるが、領国においては自らがキミであるから、現在の体制秩序を直ちに廃棄して国家の機構を根底から 建て直す急激な改革はできない。旧体制は至る所に破綻と亀裂を生じ、収拾は最早不可能と見えてきたが、これら諸侯が旧体制によって保障さ れた地位は余りにも高く、それによって被る恩恵は余りにも大きかった。諸侯にはそれぞれの伝統と立場により、改革に対する理念は必ずしも一様ではないが、ある程度までの現状維特派であることには変わりなかったのである。

 このような現状維持勢力が指導した幕末の政治的雰囲気が生んだ新体制の理念が、公武合体であることは当然であった、しかも公武合体は、急造された政治理念でなく、深い史的淵源に立つと白柳はいう。「そもそも、公武合体的革新理念は織豊両氏の勤皇と共に由来久しきもので、日本近海に黒船の出没するようになってから俄に頭を擡げた問題ではなかった。日本の明治維新が、支那の国民革命などと比較してその根底頗る深く、英米資本主義の糟糠を嘗めた進歩主義者による一夜作りの近代国家運動などと比較にならぬのは、その淵源するところが遠く織・豊両氏の勤皇運動にある」からで、「慶長・元和の間、政権はひとたび徳川氏の手に帰し、織・豊両氏によって着手された皇室を中心とする近代国家=日本の統一運動は、家康・秀忠・家光三代の統制貿易政策に基調する半郡県的封建国家体制の樹立により、表面跡形もなくその姿を消し去った如く思われて居るが、実は決してさうでない。織豊両政権によって点火された皇室を中心とする近代国家日本を建設すべき清地工作としての教学自主運動は、三本建の復古思想となって、二世紀半の徳川時代を貫流し、それが幕末に及び合流して王政復古・明治維新の基礎理念を成して居るのだ」と言う。

 *****************

   続く。

 維新革命前夜物語 




●疑史 第75回-2
 
 ●疑史 第75回-2             評論家・落合莞爾

 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(2)

 
 鉄砲伝来の折、種ヶ島に在住していた美濃国関の刀工・八板金兵衛は鉄砲製作の秘訣を探るためにポルトガル人に娘を与えたが、対岸大隅国の日置伊集院の刀鍛冶集落にもやがて混血児が生まれて鉄砲鍛冶となり鹿児島城下加治町方限に移り、その子孫が薩摩藩士となり、薩英同盟の主役として明治維新を主導する。おそらく絹紡織の分野でも、欧州の先進技術が白糸の輸入港であった摂泉の堺港から丹波綾部を通り、大需要地の京へ入った筈で、日葡の混血種が媒介したのは当然であろう。鉄砲・絹と並んで巨大な影響を与えた工業技術が、粗銅から金銀を取り出す「吹き分け法」である。生野銀山の産銀量が、十六世紀の末に一挙に増大したのが帰化ポルトガル人による事を、作家豊田有恒が発表
(*『世界史の中の石見銀山』、祥伝社新書、2010年6月)してからまだ一年も経たないが、生野など一部の銀山は別として、江戸初期の各銅山は粗銅のまま輸出しており、これにより南蛮・紅毛商人の得た利益は莫大なものがあった。寛永十七(一六四〇)年、ポルトガルはスペインから独立し、旧ユダヤ教徒は再び帰るべき郷国を持った。同年、将軍家光がポルトガル船の長崎来航を禁じた目的は、多量の金銀を含む粗銅が際限もなく流出するのを防遏するためで、キリスト教の禁制などは当時既に完全に行われていて、殆どその必要を見なかったことは、寛永十四年の島原事件の後に発令された幕府の法律を点検してみると好く分かる、と白柳は言う。

 因みに、江戸初期、多量の金銀を含む粗銅をそれと知らずに売り渡し、オランダ商人に不当な利益を与えていた住友家が、★「白水」と名乗る外国人(英人ハクスレーとも)から金銀吹分けの法を学んで収益が格段に増加したとの伝承を、私(落合)は住友軽金属の新入社員として教わったが、その後
李氏朝鮮国の記録に「漁労民の白水朗(わが国の海士で彼の地では賤民)が灰吹き法を倭人に教えたので倭国を強大にしてしまい、大いに国益を損なった」との記載があることを知り、このことかと思ったが、さらに紀州粉河の伝説に接した。

 川上から粉が流れてきたために川水が白く染まり、上流に人家があると知った漁師大伴孔子古は、川を遡って老夫婦に遭う。粉河の地名はこれに由来するとされ、別名を「白水」ともいう。この老夫婦が橘姓井口氏で、古代から井口氏の荘園だったこの地に八世紀後半大伴氏が侵入し、以後は大伴氏が武力で支配者となり、在来の井口氏が経済面を担当した。孔子古の草創とされて、子孫の児王氏と恩賀氏が代々支配してきた粉河寺であるが、寺紋の「菱井桁」に井口氏との深い関係が顕れている。「菱井桁」は★住友家(屋号「泉屋」すなわち「白水」)の商標でもある(住友の家紋は「抱き茗荷」)。

 粉河鍛冶は銅器の製造で知られるが、家紋といいまた「白水」の伝説と言い、住友家の淵源が粉河に在った可能性は大きい。因みに、住友家は、ポルトガル領マカオの要塞砲を鋳造したが、いつの頃か血統にオランダ人が入ったと仄聞するが、だとすれば、「蘭人が住友家に托卵して混血種を生ませ、これに灰吹き法を教えた」のが或いは事の真相かも知れぬ。

 白柳は続けていう。「されば、翌年に貿易統制の制度すなわち長崎商館制度が完成すると間もなく、幕府はキリスト教に関係のない洋書すなわち科学書の繙読を許可し、以後は西
欧の新学説やこれに基づく新発明の機械器具が数年遅れで輸入されたから、同時に流入した西欧の科学思想に刺激されて、日本独特の科学思想にも相当なものが生まれた。幕末に至り、維新の改革が迫った時には、古神道学者や復古主義者達は全部進歩主義者であった」。すなわち、維新開国の思想基盤は、朱子学に毒されていない古来の儒学(古学)と、惟神の古神道及び、西欧チュートン系の科学思想の三本立ての教学であった。之に対して、終始日本社会の進歩を妨げていたものは、悉く仏教徒と宋学者であった、と白柳は断言するのである。

 堀川戦略の骨子は、国家経綸の一部を秘かに京都皇統に分担させることであった。すなわち、堀川辰吉郎が東京皇室に代わって特に皇室外交と国際金融の分野を執り行いこれを輔翼したものが杉山茂丸が実質社主の玄洋社であったが、詳しくは次号以下に。 

    ●疑史 第75回   <了>。

 

 

●疑史 第75回 -1
 
 ●疑史 第75回-1            評論家・落合莞爾

 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(2)

  
 閑院宮皇統から出た光格帝の血筋が、維新後京都の堀川御所に潜んで成した子孫を仮に京都皇統と呼ぶが、その一人が堀川辰吉郎である。井上馨の兄重倉の戸籍に入ったため明治二十四年生まれとされている辰吉郎の実際の生年は明治十三年らしい。辰吉郎七歳の時、同じく孝明帝の孫でいとこに当る松下トヨノが堀川御所で生まれ、これを機に辰吉郎は福岡の玄洋社に預けられたと聞くから、戸籍では明治二十四年とされている松下トヨノも、実際の生年は明治二十年ということになる。

 明治天皇東遷の陰で、秘かに堀川御所を造営して孝明帝の子女を匿ったのは如何なる意図に出たものか。禁裏関係筋から、いまだに「聖地は本来富士山を西から見る土地であるべきもの」とか「今の東京城は行在所に過ぎぬ」との言を聞くが、ことほど左様に禁裏側は、維新政府の必要から行われた皇居東遷を心中歓迎していなかったらしい。或いは、皇居東遷が、西南雄藩と倒幕派公卿の連立政府の成立を意味するからであろうか。ともかく堀川戦略は、御所建春門外に在った学習所(京都学習院)が目指した公武合体理念が尊皇倒幕思想に置き換わる新事態に対応するためのもので、孝明帝を中心に公武合体派が、京都に堀川御所を秘かに造営して閑院宮皇統を残す「堀川戦略」を立てたものと思われる。因みに学習所は、光格帝の発案に始まり仁考帝が設置したもので、本来の目的は公武合体のための公武志士の交流の場であったが、維新後に東遷して現在の東京学習院になり、単なる貴族学校に変じた。

 堀川戦略の中心人物が、維新政府の高官として宮中改革を進めた★吉井友実、西郷隆盛、大久保利通の薩摩三傑であることは確かである。就中自らこれに処したのが吉井で、各省の卿を歴任して当然の身ながら進んで宮内省に入り、官歴をほとんど局長級で終始して中々次官にさえ就かなかったのは、姿勢を屈めて明治宮城の護持に専念していたのである。吉井と相携えたのが実質閑院宮の鷹司家から入った★徳大寺実則で、実弟が西園寺公望と住友友純であるから隠然政財界に通じていたが、宮内卿兼侍従長として明治天皇に常侍し、片時も傍らを離れなかった。長州人では、辰吉郎の戸籍上の叔父となった★井上馨で、公武合体資金や玄洋社への炭田払下げなど各所に、堀川戦略に関与したフシが窺える。

 公武合体を理念的基盤とする堀川戦略の財務的基盤は、前月稿で述べた小栗上野介の公武合体資金であるから、当然ながら徳川氏側にも関与者がいた。まず将軍家茂の側近であった★勝海舟で、西郷・大久保ら薩人とも昵懇で、維新後は家定未亡人・天璋院と誼を通じて旧幕臣の要となり、明治海軍増強のための資金供給に携わった。今一人は一橋家旧家臣で、井上馨の後援下に実業界に対する資金供給を担当した「実業王」★渋沢栄一であった。

 幕末開国運動は、結局は尊皇倒幕の形で実行されたが、当初は公武合体の政治理念の実現を目指したものであった。異色の在野史家・社会評論家として知られた白柳秀湖によれば、公武合体的政治理念の淵源は、遠く織田信長・豊臣秀吉が尽力した「皇室を中心とする近代国家日本」の統一運動に端を発し、慶長元和の間に樹立した徳川政権の家康・秀忠・家光三代の貿易統制政策に基づく半郡県的封建国家体制の樹立により、公武合体思想は表面跡形もなくその姿を消し去ったかの如く思われているが、実は決してそうでない。『文芸春秋』昭和十六年十一月号所載の「明治維新の三段展開」で白柳は言う。「公武合体的政治機構の上に近代国家日本が建設されていかねばならぬという理念は、何も幕末、英米仏露の軍艦が迫りくるに及んで初めて唱道された説ではなく、既に六代将軍家宣の時、新井白石が公武合体論を唱えて、来るべき新体制運動の高潮時に備え、徳川政権の補強工作としている。白石がこの説を唱道した動機は、当時漸く勢いを成しつつあった民間の尊皇賤覇論の暴脹に備えようとするにあり、その要旨は、【上に朝廷があり下に公卿及び諸侯があり、幕府は両者の中間に在りて天下の政治を執り行うものであって、決して支那に於けるいはゆる覇者を以て論ずべき性質のものでない】といふにあった。白石の時代はまだ徳川氏の全盛期であったから、この説はただ純然たる学問上の言説に止まり、何ら客観的情勢の之に応ずるものがなかったが、安永・天明と過ぎ、弘化・嘉永以後、尊皇攘夷論の漸く高潮し来るにつれ、実際政策として注意を惹くやうになった」。

 守護大名による封建制に立つ商業的色彩の濃かった室町政権が、終焉を迎えて戦国の世となった時、澎湃として起こったのが「日本列島を統一して皇室を中心とした近代国家」を建設せんとする政治理念で、その推進実行者は織豊政権であった。ところが、関ヶ原の役以後織豊政権に代った徳川政権が政体を一転して半ば郡県的な封建制に戻し、いわゆる鎖国政策を取った。通俗史観はこれを排外主義の顕れと看做すが、白柳によれば、「慶長五(一六〇〇)年、オランダ東インド会社の派遣した蘭船リーフデ号の船員ヤン・ヨーステン及び英人航海士ウイリアム・アダムスに接見した家康が、北西欧に育ちつつあるチュートン系科学文化が南欧ラテン系の宗教文化と全くその本質を異にして居る事実を知った。これより先、家康はラテン系の宗教カトリックが国を毒する弊害に驚き、之を国禁とした秀吉のカトリック排斥政策を、更にそれ以上熱心に承継していたが、リーフデ号の船員を接見して、英蘭などのチュートン系欧州の科学文化の尊重すべき所以を知った。若し日本に欧州文化を排斥した事実があると言うなら、それはラテン系宗教文化を排斥したのであって、チュートン系科学文化を排斥したことはない」のである。つまり、宗教に仮託して国家侵略を図る耶蘇会を警戒しカトリックを排斥しただけであって、チュートン系科学文化を排斥したことは決してないと強調する。

 鎖国の理由はもう一つ、「三代将軍家光の時に至って日本人の海外渡航が絶対に禁止せられたのは、日本の金・銀と金銀を多量に含む粗銅が、際限もなく海外に流出するのを防遏するためであった」。一五八〇年スペイン王フェリッペⅡ世がポルトガル王位を継承し、スペインとポルトガルの同君連合(国家統合)が成立する。之に先立つ一四九二年、フェルナンドⅡ世のレコンキスタによってスペインを追われたユダヤ教徒が大挙してポルトガルに入り、旧教に転向し或いは旧教徒に扮した。その多くが東南アジアに来て、折から鎖国中の明帝国と日本との間の仲介貿易に従事していたが、故国における突然の新政権の出現に危険を覚えて帰国の望みを絶ち、秘かに日本に帰化したことを前に本稿で述べた。交易相手の日本人に一身を託した彼らの、或者は鉄砲鍛冶となり、或いは絹紡織に携わって、日本人との混血種と欧州の先端工業技術とを残して、歴史の闇に溶けて行ったのである。

   続く。

 

 

●『ユダヤ人の起源』
 
 以前の⇒★寛容の文化も参照してください。

 以下、少しずつ紹介していきます。

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 ●ユダヤ人の起源

 ■第四章 沈黙の地―失われた(ユダヤの)時を求めて 

 
 ★フェニキア人とベルベル人―謎の女王カーヒナ 

 
 ・・・前略・・・イスラム教徒軍の最高司令官で、イベリア半島最初のイスラム教徒総督となったターリク・ブン・ジヤード(彼のアラビア語名からジブラルタルの名前がつけられた)は、ディーフヤー・アル=カーヒナの部族であるニフーサ出身のベルベル人だった。彼は七〇〇〇人の兵を率いてスペインに到着したが、地元民からの新兵を加え、その数はじきに二万五〇〇〇人にふくれあがった。「彼らの中には多数のユダヤ人もいた」とディヌールは述べている。彼の主張を補強するためスペインの研究者を参照したとき、このシオニストの歴史学者は、研究者のなかに、「アラブ人によるスペイン征服に参加したすべてのベルベル人が『改宗ユダヤ教徒』だったと考えている」者がいることを、明らかな当惑とともに認めている。

 スペイン征服がそもそもの最初から、イスラム教徒のベルベル人とユダヤ教徒のベルベル人との共同作戦として構想されたと主張するとしたら、もちろん誇張にすぎるだろう。しかし、イベリア半島における両宗教間の実り多い協力関係が、侵入の開始とともに飛躍的な発展をとげたこと、しかも、そのなかで優位に立ったユダヤ教徒が、彼らの共同体の実質的な拡大を利する新たな道を切りひらいたことは理解できる。しかしながら、以前からのユダヤ教徒に異教徒やキリスト教徒を改宗させる可能性があったのは、アラブ人の侵入の初期の段階に限られた。この時期は、キリスト教の覇権が退行過程にあったし、イスラムヘの集団改宗がまだはじまっていなかったからである。九世紀以降、ユダヤ教徒の活動の余地は限定されたが、ユダヤ教への改宗の動きが完全に消滅したわけではなかった。

 イベリア半島におけるイスラムヘの改宗の動きは、だからといって、南欧全域からの、ましてや北アフリカ沿岸部からのユダヤ教徒の引きつづく流入に終止符を打ちはしなかった。スペインのユダヤ人に関する重要な著作のなかで、イツハック・ベーアは、早くもその時期から、賛嘆の念をこめて次のように書き留めていた。「アラブ人のスペインは、まるでユダヤ人にとっての避難所に変わってしまったかのようだ」。このようにして、ユダヤ人共同体は人口数の観点から、繁栄をとげることができたのだったが、それは、一つには地元民の改宗のおかげであり、もう一つには征服者や移民の波がつづいたおかげでもあった。共同体と、アル・アンダルス王国を覆っていたアラブ人の寛容政策とのあいだでつくられた、他に例を見ない共生の枠組みのなかで、ユダヤ人共同体は文化的に花開いたのであった。イスラム教の環境のなかでのこのようなユダヤ人の生活は、硬直化しつつあった中世の一神教世界のなかでも、「多宗教社会」が存在し得ることを証明したものである。まさに中世のこの時期においては、信仰の違いを理由として、「他者」を侮辱し、時には他者を迫害する傾向までが感じられはじめていたのだった。ところが、これと時を同じくして、ヨーロッパのもう一方の端で、いっさいの宗数的狂信から解放された―この特性こそ、そのブランド・イメージだった―別の帝国が興隆しつつあった。 

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 ★ユダヤ教徒のカガンか? 奇妙な帝国が東方に興った。
 へ続く。 
 
 

  カガノヴィッチとスターリン ←カガノヴィッチとスターリン。




●読書日記。
 ユダヤ人の起源

 東亜香料史研究 ←クリック

 


 ●『ユダヤ人の起源』 と古書・『東亜香料史研究』。 

 
 
 参考: ➔『ユダヤ人の起源』の書評―柄谷行人

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 ●ユダヤ人の起源     シュロモー・サンド   
 2010.3.25 発行:浩気社 発売:武田ランダムハウス

 <目次>

 日本語販への序文 9
 監訳者まえがき 17

 はじめに―記憶の堆積と向きあって 25
    変動さなかのアイデンティティと約束の地 26
    受け継がれてきた記憶と、「対抗歴史」 45

 第一章 ネイションをつくりあげる―主権と平等 59
    「用語の検討」―プープル(民族)とエトニー(種族) 61
    ネイション―閉じ込め、境界を定める 70
    イデオロギーからアイデンティティヘ 81
    種族的な神話から“想像上の産物としての市民” へ 89
    ネイションの「君主」としての知識人 101

 第二章 「神話=史」―はじめに、神がその民を創った 115
    ユダヤ人の時間の素描 117
    「神話=史」としての旧約聖書 126
    人種とネイション 135
    歴史学者間の論争 140
    原ネイション的な視線―「東洋」の見方 148
    種族主義的な段階―「西洋」の見方 160
    『シオン』誌における歴史記述のはじまり 166
    政治と考古学 175     `
    大地は反逆する 184
    隠喩としての聖書 195

 第三章 追放の発明―熱心な布教と改宗 203
    紀元七〇年 205
    追放なき離郷―不分明な地域における歴史 213
    わが意に反して移住した「ユダの民」 223
    「その国の民々の多くがユダヤ人になったJ 232
    ハスモン朝は隣人たちにユダヤ教を押しつけた 238
    ヘレニズム世界からメソポタミアヘ 247
    ローマ帝国におけるユダヤ教の布教活動 255
    “ラビのユダヤ教”の世界における改宗 264
    ユダの住民の「悲しき」運命について 272
    「その国の民」の記憶と忘却 278

 第四章 沈黙の地―失われた(ユダヤの)時を求めて 291
    「幸福のアラビア」―ヒムヤル王国のユダヤ教への改宗 295
    フェニキア人とベルベル人―謎の女王力-ヒナ 304
   ★ユダヤ教徒のカガンか? 奇妙な帝国が東方に興った 321
   ★ハザール人とユダヤ教―二つの愛の物語 332
    ハザール人の過去をめぐる近代の研究 346
    謎―東欧のユダヤ人の起源 358

 第五章 区別―イスラエルにおけるアイデンティティ政策 375
    シオニズムと遺伝 385
    「科学的な」あやつり人形と人種差別的な人形つかい 406
    「種族」国家の建設 417
    「ユダヤ人の民主主義国家」―撞着語法か 433
    グローバル化時代の種族主義 454

 謝辞465

 原著注 493(i~xxxvi)

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●今日の一冊。
 赤いポスト白書  ←クリック 

 

 ●『阪神淡路大震災 赤いポスト白書』

  白川書院 1996年2月10日 


 

 あの日から16年。


 阪神・淡路大震災時における郵便局員とそれを取り巻く人々の敢闘録-なのだが、

 わたしが読んだきっかけは、

 故・米原万里さんの『打ちのめされるようなすごい本』中の書評

 (文春文庫版では-p36~37)でした。

 





●読書日記。
福井日銀総裁の素顔

円の支配者

日銀 円の王権

維新革命前夜物語

香薬東西 山田憲太郎

ティファール スチーム・クッカー ←写真はクリックして下さい。


 
 ●『超マクロ展望・・・』以後の読書。

 『円の支配者』を基に描いた日本近・現代史として読めた、

 『日銀 円の王権』が中では、一番のお薦め。

 著者・吉田祐二は、以前『日本の真実』(副島編、成甲書房、2007年)に、

 ★日本銀行はロスチャイルドが作った という一章を発表していたが、

 研究成果は着実にあがっているようで、次著も楽しみになった。

 

 古書2冊は、紹介中の ●疑史 および ●吉薗周蔵の手記 

 の参考・確認・補強のため。

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 スチーム・クッカーは、着いたはいいが、

 いまは、調理するものがない(笑)。

 


 




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