カウンター 読書日記 2010年12月
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●今年の読了数。
 
 ●メディア・マーカーのおかげで、書籍の購入履歴と読了数が、わかるので重宝している。

 今年の読了数は、(*古書はほとんど登録不可で除く。雑誌も同様)118冊だった。

 ➔<参考>

 


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●年の瀬。
  年末の2冊

  年末のソース (800x600)

 
 ●年の瀬。

 一冊『貝と羊の中国人』は、ブロ友のお薦め本。

 但し、「トラちゃん」は、ことオーディオに関しては小生とは異次元の住人。

 オーディオに関心のある方、一度「音連れ」てみては・・・

 ⇒オーディオ(Audio)文明(世界遺産)に想う_なお&トラちゃん

 


 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-2
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-2

 
 ★最大の御事績は「学習院」の設立

 
 光格天皇の事績は「尊号一件」を始めとして数多く、本稿には枚挙する紙数がないが、特筆すべきは京都学習院の設立である。公家の子弟のための公的教育機関たる大学寮が平安末期の安元の大火(一一七七年)以来廃絶していたので、光格帝は再建を目指したが、在世中には実現せず、次代の仁孝帝に持ち越された。仁孝帝が幕府の承認を得て学校の設立が決定したのは天保十三(一八四二)年で、光格帝崩御の二年後であった。弘化三(一八四六)年には御所の建春門外に講堂が竣工し、翌年には講義が開始されて、三条実万が初代の伝奏(学長)に就任した。当初の名称は、幕府を意識して「学習所」「習学所」など一定しなかったが、孝明帝が嘉永二(一八四九)年に「学習院」の勅額を下賜して、以後は学習院を公称とした(明治期に東京に設立された学習院と区別するため、今は「京
都学習院」と呼ばれている)。学習院は公家の子弟を生徒とし、儒学を主として和学を取り入れた教科の会読・講釈を中心とした授業を行った。

 安政の大獄により下獄中の吉田松陰は、安政六(一八五九)年十月、学習院をして「四民共学の天朝の学校」とすべき遺志を門人・入江九一に託したという。本質的には軍事学者の松陰が、今日では政治哲学だけが強調されているのは平和ボケの最たるものであるが、要するに松下村塾とは、政治哲学だけでなく★軍事的実践(テロリズム)を説く学校であったわけで、学習院も、松陰の遺言に徴するまでもなくテロリスト養成所であった。軍事的実践を旨とする下級武士がここに登院して尊攘派公家と交わり、尊王統幕を実行する人脈を形成した。職能集団の公家の中でも、武事を家職とする羽林家は、幕府対策上から表面は文弱に見せてその実秘かに武略を研究していたようで、武門の下級藩士に当たる青侍には武術を習わせていたと聞く。

 この学習院が、文久二(一八六二)年七月頃から急増した朝廷と諸藩の間の折衝の場になり、投文・張紙などの横行に対応するため、翌年二月には陳情建白の類を受け付ける機関となった。長州藩は高杉晋作、桂小五郎ら多数の藩士を「学習院御用掛」に任じ、他藩でも土佐藩の土方楠左衛門、福岡藩の平野国臣、熊本藩の宮部鼎蔵さらに筑前の神官・真木和泉らを「学習院出仕」に任じたので、学習院は後に維新の志士と呼ばれる尊王攘夷の急進派が日々登院して国事を論ずる場所となり、諸藩の志士と尊攘派の公家が攘夷決行の密謀をめぐらす場所となった。ところが、文久年八月十八日の政変が起こり、公武合体派が三条実美ら尊攘派の公家を処分するに際し、学習院に対しても長州藩士ら関係者の出入りを禁止し、また陳情建白の受理も停止した。以後学習院は本来の教育機関としての姿に戻り、明治元年には「大学寮代」と改称したが同三年に廃止され、後に東京学習院に引き継がれた。

 
 ★中山忠伊=光格帝落胤説の真否と中山家系譜の謎

 
 学校歴史には出てこないが、光格天皇をめぐる重要な謎に中山忠尹の一件がある。安政八(一七七九)年に光格天皇が九歳で帝位に就くや、権大納言・中山愛親は天明二(一七八二)年に議奏に挙げられ、光格帝の側近として輔翼した。寛政四(一七九二)年の「尊号一件」に当たっては、正親町公明と共に正副勅使として江戸に下向、老中松平定信と交渉した。

 ここからがインターネットから転載した教科書歴史にない異説である。

 すなわち、正親町公明と共に閉門・逼塞の実刑を受けた中山愛親は、憤激の余り秘かに倒幕を図るが、幕府の察知する処となり、愛親の子の権大納言中山忠尹が、父と光格帝の反幕的行動に関する一切の責任を取り、文化六(一八〇九)年に自死した、とする(落合注・真否未詳)。いうまでもなく、これは尊号一件より十七年後である。

 さらに「それでも倒幕の志を棄てない光格天皇は、第二皇子・小松中官長親王を、忠伊【ママ】の子の中山忠頼に頼み、養子にしてもらいました。この子の名前も中山忠伊。おそらく、自害して果てた愛親の息子にちなんで名づけられたのでしょう。そして、この忠伊が、自分の祖父【愛親】・光格天皇の遺志をついで討幕運動に身を投じ〈天忠党〉を結成。また、中山忠能の実の息子・忠光も、〈天誄組〉の首領となって大和に挙兵するのですが、これはもうちょっと後の事件です」と説くのである。

 家禄二百石の中山家は大納言を極官とする羽林家で、栄親→愛親→忠尹→忠頼→忠能→忠愛と男系を以て続くが、異説として愛親の父が栄親の弟の正親町実連とする記録も存在しており、何となく謎に包まれている。また、愛親が満十五歳四ヵ月足らずの時に忠尹が誕生したのも、有り得ぬことではないがやや不自然に思う。その中山家の系譜に、さらに大きな謎が加わったのである。

 上記のインターネット記事で「中山忠尹」を「忠伊とも称した」とするのはいかにも恣意的と思われるので納得がいかないが、一応、史料に照らして解釈する。まず、光格帝の皇子は記録上八人生まれたが、成人したのは第四皇子・恵仁親王(後の仁孝帝)だけで、他の七人は乳幼児のうちに没した。記録にない庶子の存在も在りも得なくはないが、問題は所謂「第二皇子・小松中宮長親王」が皇嗣中に占むべき位置である。中山忠尹が自死したとされる文化六(一八〇九)年までに生まれた皇子のうち三人は生後直ぐに他界、ただ一人生き延びた第四皇子・恵仁親王はまだ九歳で、今後無事に育つ保証もない。現に、その後に生まれた四人の皇子は悉く夭折、結局恵仁親王たった一人が成人されたのである。こうした状況にあって、夭折しなかった皇子が他にも存在したならば、生母の身分に関わらず皇嗣候補として貴重な存在で、中山家に養子に出す余裕なぞ有るべくもない。つまり、光格帝に当時「小松中宮長親王」なる皇子が存在したのなら、仮に庶腹であっても皇籍から外すことはまず有り得まい。

 因みに、仮に恵仁親王はじめ皇子がすべて夭折した場合には、その日のために置いた世襲親王家(それも閑院宮家)から皇嗣を選ぶこととなるので、宮廷の混乱も特にない。事は苟も皇嗣問題であるから、いざとなれば世襲親王家をアテにする所存で、光格帝の庶子を「小松中宮長親王」と称して中山家の養子に入れたなぞ有り得まいが、閑院宮皇統ならばどうか。つまり、インターネットにいう「中山忠伊=光格天皇落胤」説は首肯し難いが、閑院宮家の庶子ならば全くあり得ぬことではないと思う。当時、養子に準じた猶子という縁組制度があったから、或いは光格帝は、閑院宮流の庶子を秘かに猶子とし「小松中宮長親王」と称したのかも知れぬ。

 ともかく、中山忠尹が「光格天皇の遺志をついで討幕運動に身を投じ〈天忠党〉を結成」したというのは学校歴史にはない異説で、本稿も之を論ずるに典拠がないが、「中山忠能の実の息子・忠光も、〈天誅組〉の首領となって大和に挙兵するのですが、これはもうちょっと後の事件です」と説く「天誅組」の方には史実があるが、紙数が尽きたので、これについては、次月号に譲る。 

 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)     <了>。 

 

 ★参考 光格王朝と閑院宮皇統

  光格 系図 (579x800)   ←各画像をクリックして下さい。

  光格 上
  光格 中
  光格 下


 

 
 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-1 
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)                落合莞爾

 -光格帝の御事跡と閉院宮系天皇子孫=京都皇統の経綸

 
 ★世襲親王家閑院宮と「光格王朝」の誕生 

 
 近来「江戸の幕末ないし日本の開国は、実は光格帝に始まった」との所説を耳にすることが多い。先年も、竹田恒泰慶応大学講師が、講演でその事を強調していた。竹田講師は竹田恒和日本オリンピック委員会会長の長男で、伏見宮皇統に属する北白川能仁親王の四代孫に当たる。以下では、伏見宮皇統から分岐した閉院宮皇統から出て「光格王朝」を開始した光格天皇の御事績が幕末の発端をもたらした所以と、その末裔で維前後の日本を経綸した「京都皇統」について述べることとする。

 前月稿(「手記47」)で堀川辰吉郎と松下トヨノを京都皇統と論じたが、「京都皇統」とはいうまでもなく造語である。そもそも、わが皇室の根本観念をなす「万世一系」は、必ずしも特定の血統に拘泥したものではなく、各時代において皇位を保持した系統が時宜に応じて交代しながら、連綿として皇室を継承してきたことを意味するもので、皇統のこうした交代は恰も西欧でいう王朝交代に似た外観を呈しているが、彼我の差異を論じるのは本稿の主意でない。ついでにいうと、大和民族の根本観念たる「単一民族」というのも、縄文系・倭系・ツングース騎馬人系はいうに及ばず、漢系・百済系、さらにはポルトガル系タカスなどの渡来諸民族の混合体であって、しかも完全な混血には至っていないのに、敢えて単一民族と観念したものである。

 さて、ここに「京都皇統」とは、百十九代光格帝(在位安永八【一七七九】年~文化十四【一八一七】年)に始まり、仁孝帝を経て孝明帝(在位弘化三【一八四六】年~慶応二【一八六六】年)に至る三代の閉院宮系天皇の子孫を指すもので、其の所以を陳べるに、百一三代東山帝の御子で百十四代中御門帝の同母弟の直仁親王が宝歴七(一七一〇)年、世襲親王家として新たに閑院宮を創立したことに始まる。これは将来、直系皇嗣が途絶える場合に備えたもので、新井白石の建言というのは作り話との説もあるが、ともかく霊元上皇により、直仁親王に対して閉院宮号と所領壱千石が与えられた。

 これが功を奏するのは七十年後で、安永八(一七七九)年東山帝の四代孫たる百十八代後桃園帝が二十二歳で夭折して、皇嗣選定の必要が生まれた。皇嗣の候補は、皇統の予備として設けられた世襲親王家に求める外なく、伏見宮家の貞敬(一七七六年生まれ)と閉院宮の二代目典仁親王の第一皇子美仁(一七五八年生まれ)、及びその弟の祐宮師仁(一七七一年生まれ)の三親王に絞られたが、先帝の遺児で生まれたばかりの欣子内親王の女婿となるために独身が条件とされて、まず美仁親王が除かれた。

 残る二人の内、後桜町上皇(百十七代桜町女帝)と前関白の近衛内前は貞敬親王を推したが、いかに世襲親王家の筆頭とはいえ、伏見宮家は現皇統とは既に十数代を隔たっていた。十日に亘る議論の末、関白九条尚実の推す師仁親王が、先帝の七親等(百十六代桃園帝及び後桜町女帝とは六親等)で現皇統と血統が最も近いことから、先帝の猶子となって皇統を継いだ。これすなわち光格帝で、遡れば伏見宮貞成親王に至る北朝血統であるが、世襲親王家の閑院宮から出たことで、ここに「光格王朝」の始祖と視るのである。初代閑院宮直仁親王は東山帝の御子で中御門帝の弟であるが、その御子の二代目典仁親王は、光格天皇の父として今日では慶光天皇と呼ばれるから、以後光格帝・仁孝帝・孝明帝と続くこの系統を「閑院宮皇統」と称して差し支えはない。 

 
 ★幕統を総覧した徳川家斉  関白職を独占した鷹司家 

 
 孝明帝の後は維新により政体が一新、東京遷都により皇室制度に著しい改変がもたらされ、「万世一系」の初代を明治天皇とする明治憲法(滝川幸辰博士説)が欽定されたが、南北朝正閏問題が論じられるや明治大帝は南朝正系を勅裁されたのに鑑みると明治大帝を王朝の始祖と視るのが至当である。以後、大正・昭和を経て今上に及ぶ現皇統を「東京皇室」と称えるが適切と思うが、この辺を論ずるのは別の機会にする。としもかく本稿の主張は、明治維新以後、孝明帝の直系が意図的に世に隠れ、京都堀川御所に潜んで秘かに国事に関わった秘事である。閑院宮皇統の本流とも視るべきこの系統を、「東京皇室」との対比で「京都皇統」と呼ぶのが適切であろうと思う。

 さて「京都皇統」の事績を一覧すると、光格天皇の父ゆえ明治以後慶光天皇の尊号で呼ばれる二代閑院宮の五歳下の同母妹の五十宮倫子内親王は、宝暦四(一七五四)年に十代将軍家治の正室になった。東山天皇の孫で兄が慶光天皇、甥が光格天皇の倫子内親王と将軍家治の結婚は、後講釈ではあるが公武合体と謂うも差し支えない縁組であったが、男児に恵まれぬ内に、五十宮が明和八(一七七一)年三十四歳を以て薨去され、閑院宮系皇統の血は結局幕統に入らなかった。

 倫子内親王と同年の異母弟淳宮は、寛保三(一七四三)年に摂関家の鷹司家を継ぎ、鷹司輔平となる。その曾孫の輔煕が明治五(一八七二)年に隠居、家督を九条家から入った煕通に譲るまでの三十年もの間、鷹司家は実質的に閑院宮系皇統の一支流であった。

 安永八(一七七九)年九歳で皇位を継いだ光格天皇は三十七年間在位して、文化十四(一八一七)年に十七歳の第四皇子仁孝天皇に譲位したが、以後も上皇として禁裏に君臨し、天保十一(一八四〇)年に六十九歳で崩御した。即位より通算して六十年に亘り、真に王朝創始者に相応しい生命力を示したが、年数だけでなく顕著な事績を数多く残した。

 光格帝が即位した時の、叔母の夫の徳川家治が幕府将軍であったが、光格帝の在位八年目の天明六(一七八六)年に他界した。世子家基が夭折していたので、幕統予備の御三卿たる一橋家から家斉が入って翌年十一代将軍に就き、五十年後の天保八(一八三七)年に世子家慶に譲った後も大御所政治を布き、天保十二(一八四一)年に六十九歳で没するまで、実に五十四年間も幕政を総覧した家斉の事績は、正に政体の「家斉王朝」の創始者に相応しく、光格天皇の御事績に対応するものと謂えよう。

 家斉が幕統を継いだ天明七(一七八七)年、慶光天皇の実弟鷹司輔平(一七三九~一八一三年)が関白に就き、寛政三(一七九一)年まで十四年に亘り、甥の光格帝を善く輔佐した。輔平の後は四年間だけ一条輝良が関白に就くが、寛政七(一七九五)年には輔平の子鷹司政煕がこれに代り、文化十一(一八一四)年まで十九年間、従兄弟の光格帝を支えた。その後一条忠良が関白に就くが、九年後の文政六(一八二三)年政煕の長男政通に替わり、安政三(一八五六)年九条尚忠に譲るまで三十三年に亘って関白に就く。光格上皇と仁孝天皇を輔佐した鷹司政通は、孝明天皇の信頼も厚かった。かくて、一七八七年から一八五六年までの七十年の内、閑院宮系鷹司家が三代に亘り五十七年もの間、関白職を独占したのである。 

 
 ★「明治皇室」を監督する「京都皇統」の重要人物 

 
 さらに鷹司家は、家格が摂関家(五摂家)に継ぐ清華家(九清華)の一つ徳大寺家に入って、閑院宮系の活動領域を広めた。すなわち、輔平の子で政煕の弟の実堅が徳大寺の養子になり、さらに輔平の孫政通の子の公純が大叔父・徳大寺実堅の養子になる。徳大寺実堅は仁孝帝の信認が厚く、後述の学問所(京都学習院)設置の意向を受けて、武家伝奏として幕府と交渉した。実堅の後を継ぎ、多事多端の幕末に禁裏の重責を担った徳大寺公純の三人の男子が、「東京皇室」の侍従長兼宮内卿に就いた徳大寺実則、内閣総理大臣・西園寺公望、及び住友財閥の当主・住友吉左衛門友純となる。この三人は徳大寺公純→鷹司政通→鷹司政煕→鷹司輔平→閑院宮直仁親王→東山天皇と、男系で続く閑院宮皇統の六代目で、「京都皇統」と極めて近い関係にある。

 かくて光格帝即位以来幕末までの九十年間、閑院宮系皇統が帝位と関白職をほぼ独占して名実ともに御所を統御したが、明治四(一八七一)年に徳大寺実則が侍従長兼宮内卿に就き(明治二十四年内大臣に異動)、明治大帝の崩御まで常に近侍したのは偶然の人事ではない。思うにこの人事の真の目的は、世に隠れた「京都皇統」の秘事を守ることにあり、有体に言えば、「京都皇統」の立場で「明治皇室」を監督する枢機の位置に徳大寺実則を充てたものと考えられる。

 明治大帝崩御により徳大寺実則は辞任、後を受けて大正天皇の侍従長になったのは鷹司煕通であった。陸士旧制二期卒で、早くから東宮武官・侍従武官を歴任して陸軍少将に昇った煕通は、関白九条尚忠の子で鷹司輔煕の養子となったが、実は徳大寺実則の女婿でもあるから、この人事にも「京都皇統」との関係を見取るべきであろう。

 光格天皇の御生母・大江磐代は、鳥取藩の陪臣(家老荒尾氏の家臣)岩室宗賢と大鉄屋の娘オリンの間に、延享元(一七四四)年に生まれた。父方岩室家の先祖は近江国甲賀郡岩室郷の地頭で地名を苗字にしたが、本姓は大江である。母の生家は「大鉄屋」という鉄問屋で、豪商淀屋の系類と謂われ、姓は堀尾氏との説があるが未詳である。父宗賢が浪人し、上京して町医者となったが、その家格は天皇生母としては例外的な低さである。

 幼名をツルと称した磐代は、早くから橘姓を名乗り、中御門天皇の皇女成子内親王の侍女となった。成子内親王が閑院宮典仁親王に嫁ぐ時、従いて閑院宮家に入り、典仁親王の寵愛を受けて三人の皇子を儲けた。磐代が産んだ長男が第六皇子師仁親王すなわち光格天皇、次男が第七皇子盈仁入道親王で聖護院門跡を継ぎ、一人は夭折した。

続く。
 



●疑史 第74回
 
 ●疑史 第74回                 評論家・落合莞爾 

 ★辰吉郎と閑院宮皇統(1) 

 
 前月まで数回にわたって論じた「清朝秘宝の運命」の中で、之に関わった堀川辰吉郎が京都皇統に属することを明らかにしたが、以下に辰吉郎の背景たる「京都皇統」について略述する。

 辰吉郎は孝明天皇の世に隠れた直系で、遡れば孝明→仁孝→光格と三代の天皇が続く閑院宮系皇統の直系である。江戸幕末が光格帝に始まるとの論が近来盛んで、慶応大学講師竹田恒泰氏も、先年の講演でその事を強調していた。竹田講師の父は竹田恒和日本オリンピック委員会会長で、伏見宮皇統から出た北白川能仁親王の曾孫に当たる。

 宝歴七(一七一〇)年、直系皇嗣が途絶える場合に備えて、新たに世襲親王家を創立することに幕府の了承が得られ、東山帝の子で中御門帝の同母弟に当たる直仁親王に、霊元上皇から閉院宮号と所領一千石が与えられた。七十年後の安永八(一七七九)年、東山帝の四代孫の後桃園帝が二十二歳で崩御して、ここに皇嗣選定の必要が生まれた。皇嗣の候補は世襲親王家に求める外なく、伏見宮貞敬(一七七六年生)と二代目閑院宮の第一皇子美仁(一七五八年生)、及びその弟の祐宮師仁(一七七一年生)の三親王に絞られたが、生まれたばかりの先帝の遺児欣子内親王の女婿となるには独身が条件で、まず美仁親王が除かれた。残る二人の内、後桜町上皇(百十七代桜町女帝)と前関白近衛内前は貞敬親王を推したが、十日に亘る議論の末、関白九条尚実の推す師仁親王が先帝の七親等で現皇統と血統が最も近いことから、先帝の猶子となって皇統を継ぎ、光格帝となった(在位安永八【一七七九】年~文化十四【一八一七】年)。

 光格帝は、男系血統を遡れば後崇光院太上天皇(伏見宮貞成親王)に行きつく北朝直系であるが、世襲親王家の閑院宮から出たことを以て「光格王朝」の始祖と視るべきものであろう。また閑院宮二代の典仁親王が、光格天皇の父として明治以後慶光天皇と呼ばれることから、直仁親王→慶光→光格→仁孝→孝明と続く直系を、「閑院宮皇統」と称しても、差し支えはないと思う。

 光格帝の事績については巷間史書の記載も多く、また『ニューリーダー』十二月号(*後日紹介)にも詳述したからここには省くが、何を以て幕末の嚆矢とするかが問題で、それを京都学習院の開設と考えるのが一つの観方である。光格帝が設立を企てた学習院は、光格帝崩御二年後の天保十三(一八四二)年に、仁孝帝が幕府の承認を得て開設に漕ぎつけ、当初は幕府を意識して、「学習所」「習学所」など名称も一定しなかったが、孝明帝が嘉永二(一八四九)年に「学習院」の勅額を下賜した以後は学習院を公称とし、明治期に東京に設立された華族子弟のための学習院と区別するため、今は「京都学習院」と呼ばれている。

 公家の子弟を生徒とし、儒学を主として和学を取り入れた教科の会読・講釈を中心とした授業を行った学習院が、文久二(一八六二)年七月頃から急増した朝廷と諸藩の間の折衝の場になり、さらに翌年二月には陳情建白の類を受け付ける機関となったのは、公家側の情報蒐集の名目の下に、以前から尊皇諸藩の下級武士の登院を許していたからである。安政六(一八五九)年十月、安政の大獄により下獄中の吉田松陰は、門人・入江九一に、「学習院をして『四民共学の天朝の学校』たらしむべし」との遺志を託した。平和ボケの今日、その政治哲学だけが強調されている松陰の本質は軍学者で、その松下村塾は政治哲学だけでなく★軍事的実践(テロリズム)を説く学校であった。松陰は、学習院の本質を洞察して右の遺言を託したのである。

 職能集団の公家の中で武事を家職とする羽林家では、中山大納言のごとく、幕府対策上表面は文弱を見せながら、秘かに武略を研究していたフシがある。当時の学習院には、公家方が軍事的実践を家職とする公家侍と尊王諸藩の下級武士を集めて、秘かに尊皇思想と軍事学を習得させる目的があったのかと思う。尊皇各藩も之に応じ、「学習院御用掛」あるいは「学習院出仕」と呼ぶ要員を学習院に派遣し、主なものに長州藩の桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作、福岡藩の平野国臣、肥後藩の宮部鼎蔵、土佐藩の土方楠左衛門らがいた。かくて学習院は、尊王攘夷の急進派が、広く公家と諸藩志士を糾合して日々国事を論じ、倒幕の陰謀を巡らす場となった。

 ところが、文久三年に「八月十八日の政変」が起こり、公家の公武合体派が三条実美ら尊攘派を処分するとともに、学習院に対しても長州藩士ら関係者の出入りを禁止し、陳情建白の受理も停止した。以後の学習院は、本来の教育機関としての姿に戻り、明治元年には「大学寮代」と改称したが、同三年に廃止され、後に東京学習院に引き継がれた。

 こうして観れば、松陰の遺言に徴するまでもなく、学習院が公家の子弟に対する軍事教育を隠れた目的とするのは明らかであり、その設立を決心された光格天皇は、胸中それを秘められていたものであろう。蓋し、事を興すにはまず人材の養成から始めねばならず、光格帝の学習院設立計画を以て江戸幕末の嚆矢とする所以である。仁孝帝に皇位を譲った後も上皇として御所に君臨した光格帝は、天保十一(一八四〇)年に崩御されたが、次の仁孝帝も六年後に崩御、弘化三(一八四六)年に十五歳で即位された孝明帝の、慶応二(一八六六)年末の突然の崩御を以て、光格王朝は終わった。

 ここからが、私(落合)が仄聞した学校歴史にない★秘史である。何時の頃からか詳らかでないが、この国の支配層の間では、開国に向けての工程とそれに伴う次代の政体の探究が始まり、その実行のために皇統の入れ替えを図った。皇統の変改はこの上もない重大事であるから、関係者は極く少数で、同期する関係者たちの第一世代が、光格天皇(一七七九~一八四〇)・関白鷹司政煕(一七六一~一八四一)・将軍徳川家斉(一七七三~一八四一)・薩摩藩主島津重豪(一七四五~一八三三)らである。鷹司政煕は光格帝の叔父に当たるから、禁裏側は親族がペアを組んだものである。幕藩側は、家斉の叔母・一橋保姫が重豪の正室で、家斉の正室が重豪の娘という間柄で、これも縁戚のペアである。巷説では、家斉側に頼まれた重豪が将軍・家治の世子家基を暗殺して家斉の将軍就任を導いたというほど親密度の高い仲であった。

 関係者の二世代目は、孝明帝(一八三一~一八六六)・関白鷹司政通(一七八九~一八六八)将軍家茂(一七四六~一八六六)・福岡藩主黒田長溥(一八一一~一八八七)である。孝明帝は光格帝の孫で、関白政通は政煕の子だから、二人は又従兄弟のペアである。また将軍家茂は家斉の孫、黒田長煕は重豪の実子であるから、幕藩側もペアである。この中で、孝明帝の妹で家茂の正室になった和宮親子内親王(一八四六~一八七七)が触媒の役割得を果たす。

 右の二世代にわたる関係者が、皇統の変改を核とする幕末維新の仕上げをしたと仄聞するのだが、詳細を語るほどの情報をまだ得ていない。ともかく公認史実と異なる事実は、

  ①孝明帝は慶応二年には崩御されず、維新後も御生存。
  ②孝明帝の御子は、維新後も生きて堀川御所に住んだ。
  ③和宮は明治十年には薨去されず、その後も御生存。
  ④家茂も慶応二年には薨去していない。

  以上が真相ということであるが、これには和宮の家茂への降嫁と東京遷都が深く関係しているらしい。

 そこで、第一世代の動向を観ると、天明七(一七八七)年、庶民「天明の飢饉」の苦難からの救済を求めて天皇に訴える「御所千度参り」が発生した。参拝者が一日七万人に達した時、十六歳の光格帝は、新任関白の鷹司輔平を通じて武家伝奏に命じ、京都所司代に対して窮民救済に関する申し入れさせたところ、すでに五百石の救恤米を決定していた幕府は、新たに千石を追加して朝廷に報告した。皇室権威の復元を目指して朝廷儀式を復旧した光格帝は、文化十(一八一三)年には石清水臨時祭を、翌年には賀茂臨時祭を復活した。この間、幕藩側では、将軍家斉と島津重豪の間で何かを談合し、協定が結ばれたらしいが、内容は未詳である。

 第二世代は、一八五〇年代から六〇年代にかけて、幕府側か皇室の伝統的権威と幕府を結びつけて、江戸幕府体制の再構築を図る公武合体政策を建てた。幕府権力の再強化や雄藩の政権への参加を目的としたもので、皇妹和宮の将軍家茂への降嫁が文久二(一八六二)年に決定、翌年に婚儀が行われた。之に先立つ万延元(一八六〇))年、新見正興を正使、小栗忠順を監察とする遣米使節がポーハタン号で米国に派遣されたが、使節団の米国訪問中の三月三日、大老・井伊掃部頭が水戸・薩摩の浪士に暗殺された。

 直ちに寺社奉行・町奉行・勘定奉行に大目付・御目付を加えた江戸幕府の最高裁たる「五手掛り」が聞かれたが、書記に当たった評定所留役・小俣景徳が、後に帝国大学史談会で次のように証言した。被告たちは「攘夷鎖港のことで幕府の処置が宜しくないと謂うことを第一にして、掃部頭に私曲があった事を申した・・・あの時分に金の格が大層違ってきた、それは掃部頭が改鋳の触れの出る事を知っていて、金貨の買い占めをさせて儲けたことがあるというのであります」。「それは事実あったことでありますか?」。「あったようでございます」。

 当時の金銀比価は、国際相場の十五・三対一に対し日本国内は四・六対一で、米ドルが三・三倍に評価されるドル高両安のために大量の金貨が日本から流出し、之に対処するため小判の改鋳による金量の低減が計画された。日米修好通商条約の通貨条項を改訂するために渡米する小栗忠順は、渡米前に配下・三野村利八に命じて天保小判を買い占めさせた。三野村の大儲けは当時から評判であったが、水戸浪士たちは井伊大老が小栗に命じたものである事を知っていたのである。「五手掛り」は事実を認定したが、「それを吟味すると、上(カミ)にまで及びますので、それに先方もそれは枝葉で、飽くまでも攘夷と条約締結が表向きになっておりますので」として、このインサイダー取引を井伊掃部頭が幕府利益のためにしたものと判断した。

 鳥羽伏見の戦いの後、江戸城における評定で新政府軍に対する交戦継続を主張して罷免された小栗は、三野村に米国亡命を勧められたが応じず、勘定奉行を辞任して領地の下野国・権田村に隠遁した。慶応四(一八六八)年、無血開城の江戸城に入った官軍は、例のインサイダー取引による莫大な利益を知っていたから、城内の金蔵が空なのは小栗が隠匿したと判断し、小栗が大量の荷駄を赤城山に運びこむのも目撃されていたから、直ちに派兵して小栗を捕え、厳しく吟味するが結局解明できず、小栗ら三人を斬首した。真相は、この利益金は秘かに京都西本願寺に運ばれ、孝明帝に献金されて公武合体基金となったと聞くが、無論大老井伊直弼の発意であろう。幕末開国に向けた工作も既に最終段階に達していたから、この孝明基金は王政復古ではなく、明治以後の国事に充てられることとなった。


 
  ●疑史 75回 へ続く。

 




●師走。
                005 (640x452)

                餅カット

                来年の準備も完了


 

 ● アッという間に、大掃除~新年の準備まで、すべて完了! 

 十年一日のごとく、初春の「三日坊主」用も準備 OK!

 
 




 

●『米軍のグアム統合計画』 ー4
                   沖縄の海兵隊はグアムへ行く


 
 ●『米軍のグアム統合計画』 

 
 ■あとがき (p153~159) 

 
 米国の計画が完了すれば、「常夏の観光地・グアム」は大きく変貌する。

 在沖海兵隊のグアム移転は、すでに日米両政府の予算がつき始めた。フィネガヤン地区とアプラ港地区に日本政府の資金で建設される消防署、隊舎、司令部庁舎の設計は契約が完了し、アンダーセン空軍基地やアプラ湾での基盤整備事業も米国で入札手続きが始まった。米国は駐機場や飛行場水道光熱施設の整備、埠頭改修にもまもなく着手する。

 アンダーセン空軍基地を中心とする空軍、アプラ湾の海軍基地を中心とする海軍のほか、アンダーセン空軍基地からアプラ湾、グアム中部や東岸、さらにはテニアンまで基地を広げた海兵隊、フィネナガヤンにミサイル防衛任務隊をおく陸軍、すなわち米四軍の一大前方展開基地ができる。グアム駐留の米軍部隊だけでなく、米本土や日本から航海・飛来してくる艦船や軍用機の演習場にもなるだろう。

 ここで当然起こる疑問は、すでに沖縄に総面積二万三三〇〇ヘクタールにのぼる三四もの軍事施設をおき、海兵隊一万二千人、空軍五千九百人、海軍千三百人、陸軍千七百人を駐留させている米国が、なぜグアムにほぼ似た機能をもつ軍事拠点を建設するのか、ということだろう。

 米国が太平洋戦争で確保し、終戦以来軍事基地として使用してきた沖縄では、日米安全保障の基軸だとして本島の中央部を占拠されて住民の間に過大な基地負担や相次ぐ事件・事故・騒音に対する怒りや不満が絶えない。本土他府県のような「普通の県」として発展できないことへの苛立ちも強い。「脅威」がソ連から中国、北朝鮮、さらにはイラクヘと変わろうとも、一貫して沖縄は「戦略的に重要な前方展開基地」と主張するのも、米国の言い分に過ぎず、六〇年以上も米軍基地を押し付けられてきた県民には納得しがたい。住民の不満は、基地撤去運動につながって外交問題化し、日米関係や日米軍事同盟をヒビ割れさせる可能性を秘めている。

 一方、グアムは米国の最西端に位置する米国領。沖縄より米本土西岸やハワイに近い一方、弾道ミサイルや核兵器を有する中国や北朝鮮からは沖縄より遠いという、米国にとってきわめて戦略的な場所に位置している。米国が「不安定の弧」と呼ぶ東アジアや中近東にも、緊急に部隊を展開できる。米国領で、しかも島の三分の一を米国防総省が所有しているため、米軍の訓練や移動に制限もない。すでに空軍と海軍が駐留している島に航空機と艦船で緊急移動する即戦部隊の海兵隊が一万人近くも加われば、グアムは米国西岸からアフリカ東岸に至る地球の半分を管轄地域(AOR)とする米太平洋軍の一大前方展開拠点になる。

 米国としては、アジア・太平洋の軍事拠点をハワイと沖縄だけでなく、グアムにも置いた方が、米国や同盟国の安全保障、対テロ防衛、将兵の訓練、展開、休暇、後方支援などのために都合がよい。万一、沖縄から撤去せざるを得なくなったときに備えるためにも、自国領グアムに訓練基地を建設し、部隊とその家族を駐留させたい。それは、米国が進めている米軍再編(リアラインメント)・変革(トランスフォメーション)計画ともマッチする。しかも、グアムにおける施設やインフラの整備費は、算定額一〇二・七億ドルのうちの六〇・九億ドルを日本政府が負担するというのだから、米国としては公然と「他人のマワシ」で相撲がとれるわけだ。沖縄の基地問題をいくらかでも緩和する一方で、自衛隊がグアムやテニアンの米軍基地を利用して共同演習ができるようになれば、「日米同盟」を強化したい日本政府にとっても都合がよい。

 日米がロードマップに合意したのは、同時多発テロを受けて国民の間に不安感を駆り立て、「新たな敵」に対応するため「先制攻撃論」を唱え、ウソまでついてイラク戦争に突入した◆ブッシュ政権と、同政権の単独行動主義とイラク攻撃を支持した◆小泉・超親米政権であったという事実は、改めて指摘したい。

 特殊な状況のもとで特殊な政権同士が交わした合意であったことを考慮すると、小泉政権とは明らかに異なる対外政策と。日本の姿”を打ち出した鳩山民主党政権が、ロードマップ合意を見直すのは当然であろう。ところが、国内では大手メディアを中心にブッシュ・小泉合意を「絶対視」し、見直した場合の両国関係の悪化を懸念する声もある中で、新政権は普天間航空基地の沖縄県内移設という「縛り」からなかなか抜け出せないでいる。

 こうした日本国内の立ち往生状況をよそに、米国は、沖縄から九千人近くの海兵隊員をグアムに移すこととし、そのための駐留・訓練施設をグアムに建設する計画を着々と進めている。米国は、沖縄の嘉手納以南の基地の閉鎖・返還も、在日米軍再編ロードマップに従って、普天間基地の代替施設の目鼻がついてから、と強弁するが、米国のグアム基地計画を読むと、普天間基地を含む在沖海兵隊の「日本国外=米国内」移転は、米国にとって既定の方針だったことがうかがえる。

 沖縄から海兵隊がグアムに移れば日本や東アジアにおける抑止力が減退するという主張も、グアムではすでに沖縄から移転する海兵隊を受け入れるための施設整備に着手していることやグアムの戦略的位置を考えれば、反論する値打ちさえない。

 
 悲しいことに、米軍の「グアム統合開発計画案」も「グアム統合軍事マスタープラン」もインターネットで公開され、これらにもとづく「環境影響評価案」もグアム住民の意見を徴するためにインターネットで公表されているにもかかわらず、日本のメディアではまったく黙殺されている。中央紙の記事や社説、テレビの報道番組に登場するのは、自由民主党政権の日米関係を踏襲せよ、鳩山政権は小泉政権とブッシュ政権の間で交わされた「ロードマップ」合意を順守して早く普天間基地を沖縄県内(名護市辺野古)に移設すべし、そうしないと日米関係がこじれる、という声ばかりだ。二〇〇九年末に北沢俊美防衛大臣に同行してグアムを訪れた記者たちも、グアムの既存米軍基地や基地建設計画について調査報道することはなかった。防衛省が二〇一〇年一月にグアム移転事業の本格的開始を公表しても、メディアはそれを「普天間基地の沖縄県内移設がなければ海兵隊のグアム移転もない(だから鳩山政権は日米合意を順守すべし)」というゲーツ米国防長官などの発言に関連づけて詳しく報じることはなかった。

 なぜメディアは、米国が進めているグアム基地建設計画を無視するのか。これは最近の報道機関の保守化や、記者クラブ(発表もの)依存による真実を探究しようというジャーナリズム精神の衰退と関係しているのかも知れないが、もう一つ、公表されている文書が仮定法(「この選択肢だと・・・」「この計画が実行されれば・・・」)や軍事術語の多い英文で書かれている上に分量は膨大で内容も多岐にわたるため一人の記者ではとうてい読みこなせない、しかもかなりの情報を補充しないと記事にしにくい、といった問題が「無視」「黙殺」につながっている可能性もある。 

 
 遅ればせながら、米国のグアム基地建設計画のポイントを、本書で紹介することができた。普天間問題や米国のアジア太平洋戦略、日米同盟を含む米軍再編問題を考える上で、これは決定的に重要な資料であり、本書が活用されることを願ってやまない。多くのメディアにもぜひ取り上げていただき、一人でも多くの国民にその内容を伝えてほしい。

 ただ、沖縄から海兵隊をグアムに移せばよい、で済む話ではない。スペイン植民地、米海軍軍政府、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、米国の未編入領土という名の植民地・・・といった、近年の「亜熱帯の楽園」という名前の裏で惨苦の歴史をくぐり抜けてきたグアム住民の歴史に思いを致すと、一六〇九年の薩摩侵攻以来の、とくに沖縄戦とその後米軍基地を担わされてきた沖縄住民の歴史と重なるだけに、もろ手を挙げて賛成というわけにもいかない。執筆中、ずっと心に引っかかっていたが、まずは在沖海兵隊の移転がきっかけになったグアム基地拡張計画に焦点をあて、グアム住民の声を若干お伝えすることにとどめた。

 最後になったが、本書をまとめるにあたって、高文研の梅田正己氏にはひとかたならぬご助力を得た。梅田氏と編集スタッフの皆様に、心からお礼を申し上げたい。

 二〇一〇年一月 那覇市金城にて  吉田 健正

 ***********  

 
 ●『米軍のグアム統合計画』   <了>。





●『米軍のグアム統合計画』ー3
 
 ●『米軍のグアム統合計画』  

 
 ■Ⅴ章 グアム住民はどう見ているか

 略・・・

 ★「植民地」グアムの訴え (p144~147)

 
 グアム住民の不満の背景には、第TI章で述べたグアムの政治的地位にある。一九五〇年に米連邦議会が定めたオーガニック法(グアムの憲法)により、グアム住民はアメリカ国民となったが、大統領を選ぶ投票権はなく、米下院に送る代表に議決権はない。つまり、グアム住民はアメリカ人でありながら、国政での発言権を認められていない。基地建設計画も、遠く離れたアメリカ政府が一方的に決定したもので、グアム住民には自分たちの声を反映させる機会は与えられなかった。グアムは、国連では、世界に残っている一六の非自治領(NSGT)、すなわち植民地と位置づけられている。

 二〇〇七年六月二〇日に国連の「脱植民地化二四か国特別委員会」で、ホープーアントノネットークリストバルを代表とするグアムのチャモロ住民が、米国の軍事基地拡張が進ごグアムの「植民地的地位」と住民の「民族自決権」にもっと関心を払うよう、国際社会こ呼びかけた。

 クリストバル女史によれば、「グアムの植民地化は、住民の心に影響を与えてきた。グアムのチャモロ人は、さまざまな肉体的・精神的健康問題と法的問題を体験している。人々は、矯正施設、保護観察リスト、精神病施設での割合が高く、家庭内暴力、薬物乱用、ティーンエージャー自殺、学校落ちこぼれ、その他の社会的問題の比率も高い」。カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジアーアメリカ学部のキースーカマチョ助教授は、「米国も国連も、グアムのチャモロ人を民族自決に向けて準備する努力を怠ってきた」と指摘した上で、米国の対グアム政策の歴史を「無関心、無知、人種差別主義、単独行動主義」と形容した。 これにチャモロ人の祖先の土地や文化への強い愛着心を考え合わせると、今後の米国政府の行動次第では、こうした不満はグアム植民地解放運動に発展しないとも限らない。

 
 ★米軍による事件・事故への心配 

 
 すでに空軍と海軍が大きな基地を構えるグアムに海兵隊基地が加われば、事故や事件も増えるだろう。二〇〇五年一月八日には、グアムのアプラ港を母港とする攻撃型潜水艦サンフランシスコがグアム近くの海底の山に衝突して、乗組員一人が死亡、二四人が負傷した。

 二〇〇八年二月二三日には、アンダーセン空軍基地を離陸したばかりのB2ステルス爆撃機が基地内で墜落した(二人のパイロットは緊急脱出して助かった)。米空軍がもつ全二十一機のB2ステルス爆撃機はミズーリ州のホワイトマン空軍基地をホームベースにしているが、アンダーセン空軍基地にローテーションで飛来して、四か月の飛行訓練を行うことがある。事故機も、他のB2やB2ステルス爆撃機と訓練を終えて、ホワイトマン空軍基地に帰る寸前だった。

 また同年七月二一日には、アンダーセン空軍基地を飛び立ったB52爆撃機がアプラ港の北西海上で墜落、搭乗員六人全員が死亡した。原囚は水平尾翼の不調と思われるという。 米兵による犯罪に関する報道は少ないが、米軍準機関紙『星条旗』(二〇〇六年四月一七日)によると、アンダーセン空軍基地で性的暴行や家庭内暴力などの飲酒事件が相次いだため、同基地の第三六航空団、第七四航空機動中隊、海軍ヘリコプター海上戦闘中隊の全員に三日間の飲酒禁止令が出されたという。米軍人・軍属・家族と地元住民との軋蝶は、現在のところ、伝えられていない。

 一方、前掲の山口氏の『グアムと日本人』によれば、(グアムで働く正規雇用員のうち、実に三人に一人(三一%)が連邦政府あるいは現地政府に雇用された公務員であり、その大半を先住民のチャモロ人が占めている。そして連邦政府に雇われた公務員の多くが基地関係者であり、現地政府の公務員の相当数が基地に関する仕事に従事している」。これらの基地関連公務員が、基地建設計画に異議を唱えたり、計画を批判したりするのは、きわめて難しいだろう。  

 ************** 

 
 ■Ⅴ章 グアム住民はどう見ているか   <了>

   続く。 


 






●『米軍のグアム統合計画』ー2
 
 ●『米軍のグアム統合計画』   吉田健正  高文研  2010.2.10 刊

 ■序章 米軍再編とグアム  <続き> 

 
 ★「環境影響評価案」が伝えるグアム軍事拠点化の全容

 


 本書では、グアムの歴史、政治的地位、軍事史、経済などを見ながら、米国がなぜグアム基地拡大計画を進めているのか、米側の資料をもとに検証したい。

 第1章では、グアムとテニアンが果たしてきた軍事的役割の歴史と、現状を概観する。太平洋戦争における激戦地、その後の対日爆撃拠点としての両島が担わされてきた役割、朝鮮戦争やベトナム戦争でグアムが米国の出撃基地として使われた歴史である。ここではまた、グアムとテニアンの米国領としての政治的地位についても説明を加えた。

 第Ⅱ章では、在沖米軍基地に関する一九九〇年代から二〇〇六年の在日米軍再編ロードマップに至る経過を追う。小泉政権下の日米軍事同盟強化、沖縄の基地負担軽減という名を借りての海兵隊普天間航空基地の沖縄県内移設や沖縄からグアムヘの海兵隊員・家族の移転に関する合意について、その背景や狙いを理解する助けになるだろう。米国から見たグアムの戦略的適性についても、詳しく触れた。

 第Ⅲ章では、在沖米軍基地の規模や形態に照らしながら、米海軍施設本部の「環境影響評価案」に基づいて、グアム基地建設計画の概要を紹介する。とくに普天間基地の沖縄県内(名護市辺野古)移設に関して、この文書が、グアム北端の広大で、しかも冷戦終結後はそれほど使用されていなかったアンダーセン空軍基地とその周辺を、司令部機能、居住機能、飛行場機能、航空訓練機能などの観点から推奨している点を検証する。この文書によれば、海に面する北東側と北西側にそれぞれ二本の滑走路を備えるアンダーセン空軍基地は、沖縄から移転する第三海兵遠征隊の飛行部隊が固定翼機やヘリコプターの飛行訓練、離着陸訓練、搭乗・搭載訓練を行う条件(実現可能性)を満たして余りある。

 米国は、在沖海兵隊の移設について、オーストラリア、フィリピン、韓国などのアジア・太平洋諸国に打診したが、いずれも難色を示した。
日本政府だけが、普天間航空基地の国内(沖縄県内)を受け入れただけでなく、海兵隊のグアム移転にからむ施設・インフラ整備費の分担(六割強)にも応じた。日本と地域の安全保障を日米両国で担うためである。その意味では、グアムにおける基地建設は。【日米共同計画】だと言えよう。本書で触れているように、日本の自衛隊機はすでにアンダーセン空軍基地やグアム近海で米軍と合同演習を行っている。米国がなぜグアムに白羽の矢を立てたのかについても説明した。

 グアム基地整備・拡張計画の中心は、沖縄から移転する海兵隊の、飛行訓練だけでなく、射撃訓練、強襲揚陸訓練、都市型戦闘訓練などのためのさまざまな訓練施設、隊員と家族のための居住空間を準備しようというものだが、「環境影響評価案」によれば、訓練は北マリアナのテニアンでも行われる。グアムでは旧海兵隊飛行場や弾薬庫地区と接するアプラ港に原子力空母の接岸埠頭や水際作戦を行う強襲揚陸艦の接岸埠頭を整備する、またアンダーセン空軍基地に接し、海兵隊司令部が予定されている地域に陸軍ミサイル防衛任務隊を新設する計画も盛り込まれている。そこで、第Ⅳ章では、これらの計画を要約して、米国のグアム基地強化構想の全容が把握できるようにしたい。

 最後の第V章では、米軍基地拡張計画に対するグアム住民の声を紹介する。基地拡張計画は、これまで観光収入と基地収入の落ち込みにより悪化したグアム経済を浮揚させると期待する向きもあるが、建設事業は一時的なものであり、しかも民生には考慮が払われていない。長期的には、基地関連の事故や事件、グアムの径済、人口構戌、社会、文化、自然環境への悪影響を懸念する声も強い。グアム住民は、米国の市民権をもちながら米国の「未編入領土」すなわち植民地として、人権憲章を含む合衆国憲法の全面的適用を受けない。しかもグアム政府職員も先住民のチャモロ人も多くが基地収入に依存しているため、基地拡張には反対の声を挙げにくい、という現実もある。

 なお各章には、「グアムの政治的地位」や「トランスフォメーション」のように、本文で十分説明できなかったことがらについて、「注記」に似たメモを加えた。

 本書は、対米同時多発テロ(二〇〇一年)後の米国のアジア・太平洋戦略と安全保障政策、それを支える「日米同盟」を理解する上で貴重な資料になり得ると思う。膨大な、しかも「仮定法」(もし環境影響評価手続きが完了すれば・・・、もし予算がつけば・・・)を多用した資料を短期間で読み込み、紹介しようとしたため、十分かつ正確に計画の概要と意図をお伝えできたか、不安がないわけではないが、沖縄の普天間基地移設問題に深く関わる重大な事実を一日でも早く伝えたいという思いにせかされ、何よりも時間を優先させた。

 本書「はじめに」の最後(四ページ)に述べたように、防衛省(ホームページ)でも、二〇一〇年一月末現在、海兵隊のグアム移転計画はすでに実施の段階に入っていることを告げている。

 統合グアム計画室のジョン・ジャクソン室長も、「われわれの計画に変更はない。今年、(基地建設計画の着手に必要な環境影響評価最終報告がまとまったあと)決定書が署名され次第、米軍は米国政府と日本政府が資金提供するプロジェクトに対する建設請負契約を結ぶ予定である」と述べている(グアムの日刊紙『パシフィツク・デイリー・ニューズ』二〇一〇年一月二七日付)。日本国民を置き去りにして、事態は確実に進行しているのである。

 **************

 
 ■序章 米軍再編とグアム   <了>

  続く。

 




●『米軍のグアム統合計画』ー1
 
 ●『米軍のグアム統合計画ー沖縄の海兵隊はグアムへ行く』  吉田健正(よしだ・けんせい)
   高文研 2010.2.10 刊 

 
 ■序章 米軍再編とグアム

 ★観光の島から再び軍事拠点へ 

 
 豊かな自然に囲まれた常夏の観光地グアム。
 この地を訪れる観光客は、年間一一四万人(二〇〇八年)。うち八五万人が日本からの訪問者だった。日本人観光客が四人のうち三人を占め、二位以下の米軍関係者観光客、韓国や台湾からの観光客を大きく引き離している。グアム観光の中心地、「恋人岬」などで知られる西沿岸のタモンには、日本資本のリゾートホテルも立ち並ぶ。

 そのグアムで、いま、米国が大規模な前方展開軍事基地の建設計画を進めている、太平洋戦争以来、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争で重要な軍事的役割を果たしたグアムが、再び軍事拠点として生まれ変わろうとしているのである。

 それとともに、一部の観光地を除いて電気・水道・道路などのインフラ整備が遅れていた多くの地域でも開発が進むことになる。グアムの地形や自然も変わり、経済も社会も大きく変貌する可能性がある。軍事基地拡張計画が完了すれば、グアムの陸上、近海、上空には、アジア太平洋に展開する米軍だけでなく日本の自衛隊なども訓練や作戦にやってくる。グアム自身が大きな転機を迎えようとしている。

 東南アジア系と見られる人々(チャモロ族)が住み着いたグアムは、「大航海時代」に世界一周を企てたマゼランの一行が到着し、一五六五年にスペイン植民地となったが、一八九八年のアメリカ・スペイン(米西)戦争で米国領に変わった。真っ白い砂浜、サンゴ礁特有のエメラルド色の海、椰子の木、亜熱帯気候、独特の石柱や言語・舞踊・音楽・風俗で知られ、「南海の楽園」とも称される。足跡の形をした細長いグアムには、その歴史を反映して、スペイン統治、米国統治、太平洋戦争などの記憶を残す名所旧跡も多い。

 首都は、島中央部西岸に位置するハガニア(またはハガニャ。旧名アガナ)。大聖堂やヨハネ・パウロニ世教皇像などスペイン統治時代の名残を強くとどめる。島の人口はおよそ一七万人(二〇〇七年)だが、その内訳は多様だ。二〇〇〇年の調査によると、全人口の約三七%はチャモロ人、三八%がフィリピンや他の周辺の島々からの移住者、六%は中国などのアジア系、七%が米本土などからのコーケイジアン(白人)移住者、そして一〇%が混血だという。したがって言語も、英語三八%、チャモロ語二二%、フィリピン語二二%と、入り混じる。

 「アメリカの一日が始まる場所」と言われるように、マリアナ諸島の南端(北緯13度28分、東経144度30分)、ハワイの西六一〇〇キロ、米本土西岸から一万キロに位置する米国最西端の領土である。東アジアにおける米国の同盟国・地域にも近い。韓国(ソウル)まで三二〇〇キロ、日本(東京)まで二五〇〇キロ、台湾(台北)まで二八〇〇キロ、フィリピン(マニラ)まで二六〇〇キロ、オーストラリア(シドニー)まで五〇〇〇キロという距離だ。
東アジア地域へは沖縄より若干遠いものの、ハワイやカリフォルニアからはより近い。

 この位置こそ、米国がグアムを西太平洋における重要な戦略的軍事拠点と考える最大の理由である。ハワイのホノルルに司令部を構え、米国本土西岸からアフリカ大陸東岸までの広大な一帯を管轄する米太平洋軍にとって、米本土やハワイより戦略的な位置にある。しかもグアムは、米国属領として米国憲法が全面的には適用されないだけでなく、同盟諸国の場合と異なり、基地建設や部隊の行動に関して条約上の制約も受けない。それに、淡路島とほぼ同じ面積(沖縄本島の約半分)しかなく、「ドット(点)」と称されるように、地図では針の先ほどしかないが、島の三分の一は米国防総省の所有地だ。

 グアムには、現在、アンダーセン空軍基地、原子力潜水艦や原子力空母が寄港するアプラ軍港、海軍弾薬庫地区、海軍通信基地などがおかれている。オロテ岬には海兵隊飛行場跡もある。太平洋戦争から冷戦時代にかけて米軍が。【不沈空母】あるいは。【槍の先端】と呼んできたこの島の基地は、一九八九年の冷戦終結後ほとんど放置され、道路、飲料水施設、港湾、滑走路なども荒れたままになっていた。強大な台風が電力網や電話網をずたずたにしてしまうこともある。最近になって滑走路のひとつが復旧されたアンダーセン空軍基地では、米本土、ハワイ、日本などから訓練のため爆撃機や戦闘機が飛来し、アプラ軍港にも原子力潜水艦などが寄港することかあるが、米国の前線基地として軍用機や艦船で「賑わった」ベトナム戦争当時の面影はない。空軍基地や軍港を抱えるこの中古【不沈空母】が、沖縄からの海兵隊移駐を契機に、新たに整備・拡大されようとしているのだ。

 在沖海兵隊のグアム移転に伴い、グアムの北一六〇キロに位置するテニアン島でも軍事訓練基地建設が進むことになる。南北二〇キロ、東西一〇キロのひし形をしたテニアンのほぼ三分の二(六四四〇ヘクタール)は、米国防総省が一九七六年に北マリアナ自治領政府から五〇年期限(延長可)で借りた軍用地である。北端の広大なハゴイ空軍基地を含むその北半分は軍事専用地、テニアン民間航空に近い南半分は民間に一時的に貸し出されて農耕地などとして利用されているリースバック地(LBA)で、島の南三分の一だけが非軍事用地だ。

 テニアンは長い間、とくに冷戦終結後、ハゴイ空軍基地に爆撃機や戦闘機が飛来してきたり、米軍が射撃訓練や上陸演習に使ったりする以外はほぼ放置されてきた。しかし今回の計画では、沖縄から移転する海兵隊の訓練施設がグアムだけでは足りないため、射撃演習場などの建設が構想されている。

 
 ★米軍計画に明示された普天間航空隊基地のグアム移転 

 
 グアムは、先述のとおり一犬軍事基地として、二〇世紀の大きな戦争で米軍の重要な出撃・補給拠点として利用されてきた。しかし冷戦終結後は、基地の縮小、訓練機能の縮小が相次ぎ、軍事基地の島というより、観光地としてのイメージが強くなった。米軍人の数も、わずか三〇〇〇人(二〇〇八年三月末現在)に減った。一九五〇年代に核弾頭とミサイルが持ち込まれ、ベトナム戦争時にB52を中心とする戦略爆撃機が絶え間なく離着陸していたアンダーセン空軍基地には、現在も爆撃機・戦闘機・偵察機などが訓練のため飛来し、かつては原子力潜水艦や原子力空母などがひんぱんに立ち寄っていたアプラ港は攻撃潜水艦などが補修や演習のために利用してはいるものの、以前とは比べられないほど利用度が減っている。
 ところが、今世紀に入って、このグアムが軍事基地として再び注目を浴びるようになった。

 きっかけは、二〇〇〇年の選挙で選出された◆ジョージ・W・ブッシュ大統領が導入したトランスフォメーション(二十一世紀に向けた軍事大変革)計画である。ブッシュ大統領の登場と二〇〇一年九月一一日に同政権と米国・世界を震憾させた同時多発テロ、そしてその直後に作成された「統合世界態勢・基地配置戦略(IGPBS)」と「四年ごとの国防政策レビュー(QDR)」イニシアチブを受けて、二〇〇二年十二月、日米両政府が日本とアジア太平洋における米軍再編の協議を開始。これにより、二〇〇五年一〇月二九日、「日米同盟一未来のための変革と再編(ATARA)」合意が生まれ、翌○六年五月一日、日本の小泉政権と米国のブッシュ政権の間で「再編実施のための日米ロードマップ」が合意された。
 この「ロードマップ」からわずか二か月後、米太平洋軍司令部は「グアム統合軍事開発計画」を発表した。そしてこの計画案は、二年後の○八年四月、国防総省の「グアム統合軍事マスタープラン素案」として承認され、翌○九年一一月にはマスタープラン(基本計画)を実現するための膨大な文書「環境影響評価案」(要約プラス九冊)が公表されたのである。

 こうして、グアムではいま、「ロードマップ」と「グアム統合軍事マスタープラン」を受けて、沖縄から移駐する海兵隊員およそ八千人、その家族九千人を受け入れるため、米国がアンダーセン空軍基地を整備し、空軍基地南西のフィネガヤンに司令部や住宅地域などを整備する事業を進めている。

 そこでこの海兵隊であるが、「ロードマップ」では、沖縄からグアムに移駐するのは海兵隊の司令部と支援部隊、および家族とされていた。
 ところが、米国防総省のグアム基地建設計画では、海兵隊普天間航空基地(普天間飛行場)の施設や訓練機能を、広大なアンダーセン空軍基地に移設する、また沖縄にある海兵隊の射撃演習場、都市型(対テロ)戦闘訓練場、ジャングル戦訓練場、そして沿岸強襲揚陸訓練場とそっくりの訓練施設を、島中東部の南アンダーセンやバリガダなどに設置する計画が含まれている。さらに、海兵隊がアプラ港沿岸の旧海兵隊飛行場を使用する、同沿岸に海兵隊用ヘリコプター着陸帯を建設する計画なども盛り込まれている。加えて、グアムの北に位置する米国自治領・北マリアナ諸島のテニアンの内陸部、沿岸、空域は、グアムに駐留する海兵隊の演習場となる。

 広大なアプラ港に位置する軍港には、既存の原子力潜水艦寄港埠頭に加えて、新たに原子力空母接岸埠頭を建設し、フィネガヤンには陸軍のミサイル防衛部隊も配備する予定だ。 

 
   続く。

 

●『戦争依存症国家アメリカと日本』-4
 
 ●『戦争依存症国家アメリカと日本』-4

 
 ★沖縄県民大会を伝えた外国メディア

 
 米国では在沖米軍基地に対する関心は低いが、その必要性に疑問を呈したり、閉鎖を要求する識者がいないわけではない。

 たとえばジョージ・ワシントン大学のマイク・モチヅキ准教授は、「(駐冲)海兵隊の抑止力」についての杉田弘毅・共同通信編集委員の問いに答えて、こう述べている。

 「朝鮮半島や中台間の有事を抑止する任務を、沖縄の海兵隊が持つとは思わない。沖  縄はこれらの地域に近いから海兵隊がいた方が良いとは思うが、どれほど必要かという質問は提起されるべきだ。紛争の性格も変わっており、海兵隊は装備を沖縄に常置し、有事の際に兵員が飛んでくる形でも任務を遂行できる。沖縄にいなければ、任務を遂行できないのか、と海兵隊に問うべきだ」(『沖縄タイムス』二〇一〇年八月一四日)

 また一〇年四月に来日したティモシー・J・キーティング前米太平洋軍司令官も、「沖縄は訓練の機会、(すでに投入して回収できない)埋没費用を考えると(駐留場所として)都合が良い」と指摘する一方で、「関東平野など他に受け入れ先があるのなら、どうしても沖縄でなければならないとは思わない。海兵隊が(どこかに)前方展開できるのであれば、太平洋軍として異存はない」、海兵隊の沖縄県内の駐留は「より好ましいが、絶対に必要というわけではない」と語っている(『朝日新聞』一〇年四月一五日電子版)。

 二〇一〇年四月二五日に沖縄の読谷村で聞かれた普天間基地の閉鎖・撤去を求める県民大会は、米国でも大きな反響を呼んだ。

 同日付けの『ニューヨーク・タイムズ』は、黄色いシャツを着て、あるいは黄色い帽子をかぶって握りこぶしを挙げ、沖縄からの基地撤去を要求する住民たちの写真とともに、「沖縄で九万人が米軍基地に抗議」と題する記事を載せた。

 米軍人の間で広く読まれている準米軍機関紙『星条旗』も、普天間基地の即時閉鎖とすべての部隊の県外移設を求めた県議会の超党派決議に支持を表明するため、仲井真知事や自民党議員を含む「何万もの人々が普天間計画に反対する集会」を開いたと、参加者の声を交えて報じた。

 ロイター、AP、AFP、共同〈英文〉など、世界のメディアに記事を配信している主要通信社も、県民大会の模様と参加者の声を伝えた。 

 
 ★北米の市民団体「沖縄ネットワーク」の活動 

 
 北米を拠点に活動する連帯組織 Network for Okinawa(NO)は、二〇一〇年四月二三日、五百を超える団体が署名した普天間基地の閉鎖を要求し、沖縄での新基地の建設に反対する手紙をオバマ大統領と鳩山首相に送ったほか、米国の首都ワシントンの日本大使館の前でデモ集会を開いて同じことを訴え、四月二八日の『ワシントン・ポスト』に全面広告を掲載した(前ページ写真 *略)。

 NOのインターネット・サイト“Close the Base”(基地を閉鎖せよ)によると、NOの構成団体は、平和学研究所(IPS)、生物多様性センター(CBD)、平和のための退役軍人の会(VFP)、グリーンピース、ピース・フィロソフィーセンター、真の安全保障を求める女性たち(WGS)、Usピース・ボート、ピース・アクション、アメリカ保守防衛同盟、アメリカン・フレンズ奉仕会(AFSC)、メソジスト教会、日本法律家連盟などである。

 NOは、二〇一〇年六月一四日、五月末の日米共同声明に「強く反対する」というステートメントも発表した。その中で次のように述べている。
「新基地の建設は民主主義の理念に反し、環境を脅かし、日本にとっても米国にとっても安全保障の向上とはならない」
 「沖縄の海兵隊の存在に戦略的価値はない。・・・沖縄の米海兵隊の多くは日本や沖縄  を守るのではなく、イラクやアフガニスタンで戦っているのだ。海兵隊の沖縄での訓練は、多くの日本人が信じ込まされているような『日本を守る』という建前とは全く関係ない目的で行われているのである」

 NOの窓口になっている政策研究所の代表ジョン・フェッファー氏は、二〇一〇年三月二三日に、「オバマ政権は、米軍基地について、耳は開けているものの、聴いてはいない」という記事で興味深いことを書いている。
「三月中旬に聞かれた普天間基地をめぐる議会の公聴会で、ローラバッチャー共和党  上院議員が国防総省の役人に在日米軍の兵力を尋ねたところ、『調べてあとで回答しま  す』と答えたという・・・。これに対し、ローラバッチャー議員は、われわれの能力とニーズについて明確な考えがなければ、沖縄に新基地を建設する合理性はない、と指摘した」

 もう一つ、公聴会でエニ・ファレオマバエガ民主党議員が、もし中国が脅威でなく、冷戦が二三年も前に終結しているとしたら、米国はなぜ大軍(約四万七〇〇〇人)を日本に駐留させる必要があるのか、またなぜ世界中に七百以上の基地を配備し、世界一の武器輸出国なのかを間うた。これに対しても、国防総省の担当者はまともに答えられなかった。

 こうした事例を挙げた上で、フェッファー氏は、「米国は、(ブッシュ)前政権と全く同じ防衛戦略を維持しようとしながら、一方で、多国間協調や『グローバル・パートナー』としての地位へのコミットメントを訴えている」として、これは「七歳児にも分かる矛盾」だと批判した。

 NOのサイトにはこんな声もある。
 二〇一〇年八月に沖縄を訪れた平和団体「ピース・アクション」のポール・マーティン氏は、「基地と住宅地が近くて驚いた。米国内ではあり得ない」と在沖米軍基地の危険性を指摘し、「帰国後、沖縄に対する政策を改めるよう米国の上下院議員に働きかけ、一般市民に沖縄の現状を伝えて米軍基地閉鎖につなげたい」と述べた。
 またテニス・J・クシニッチ連邦下院議員(民主党)は、二〇一〇年四月二五日、「日本国民への連帯メッセージ 在日米軍基地をめぐって」を発表した。同議員はその中で、「下院歳出委員会防衛小委員会の委員長に手紙を送り、普天間基地に駐留する米軍海兵隊の名護市への移転計画についての私の懸念を表明しました。海兵隊がその部隊を名護市へと移そうとするに際し、その議論には地元住民の視点がまったく存在していないからです」と述べ、その具体的な問題点として。
 「稲嶺(名護)市長の選出は、自分たちの環境と暮らしを守ろうとする地元の人々の勇敢な闘いにおける重要で象徴的な勝利でした。沖縄の人々の懸念が考慮されなければなりません。基地移転への彼らの強い反対、そして新たな軍事基地建設から生じるであろう環境上、経済上の損害を脇に押しやることはできません。その地の海洋生物に自然の生息地を提供してきた脆弱なサンゴ礁は、地元漁民の経済的基盤とともに脅かされています」
 と書いている。

 このように、米国にも、国会議員を含め、沖縄の米軍基地の存在や県内でのたらい回しに深い危惧を抱く人たちが少なくない。

 しかしそうした声は、日本の主要メディアからは伝わってこない。伝わってくるのは、日米同盟強化論、在沖海兵隊抑止力論の声ばかりである。

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 ●『戦争依存症国家アメリカと日本』 Ⅲ章   <了>。

 
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 未明に目覚めたので、話題の作品を一気に読んだ。内容は略。

 いかにも映画向きのストーリー展開だなあ・・という印象。

 カバー(ダブルカバーになっている)によっても、ずいぶん印象が違うものだ。


   悪人 文庫

   悪人 文庫カバー映画 (640x480)




 ●『戦争依存症国家アメリカと日本』-3
                       若泉 遺書

密使若泉敬 タイトル

若泉 祈り

若泉 墓前に立つ

ニクソン・佐藤会談 談笑

 
 ★広がる一方の本土と沖縄の「温度差」 

 
 以上見てきたような主要メディアによる報道は、「米軍基地の島・沖縄」のメディア(沖縄タイムス、琉球新報および琉球放送、沖縄テレビ、琉球朝日放送等)の報道や解説とは、同じ国のメディアかと思わせるほどの対照を見せる。

 日本本土に住む日本人と沖縄に住む日本人との心理的乖離、いや日本本土による完全な沖縄「差別」である。

 一九六〇年代末に佐藤栄作首相の密使として米国と沖縄返還を交渉した★若泉敬氏は、沖縄戦で多くの親族を失った沖縄住民に米軍基地を押し付けて、それを知らぬげに自らは「平和と繁栄」の中に暮らす日本本土を「愚者の楽園」と呼んだが、こうしたメディアはこの「愚者の楽園」という言葉を思い起こさせる。
   ★ブロガー註:NHKスペシャル「密使・若泉敬 沖縄返還の代償」をぜひ!

 沖縄のメディアに、在沖米軍基地のマイナス面―米兵の事件・事故、基地周辺を飛ぶ米軍機の危険性や騒音、米軍演習中の被弾事故、普天間海兵隊基地の移設問題、汚染・・・といったさまざまな問題、また県民の生活よりも米軍の活動を優先する日米地位協定と日本政府の対応に関する記事などが載らない日や週はまずない。本土に住む人で、二〇〇九年の鳩山政権誕生以来広く報道されてきた普天間基地移設問題は別にして、こうした出来事について新聞で読んだりテレビで見たりしたことのある人はどれほどいるだろうか。

 日本政府は、米軍基地の存在にともなうこうした県民被害に対して、きわめて消極的な対応しか見せない。日本国民であるはずの沖縄県民の声よりも、日米軍事同盟とそれを支える在沖米軍基地の活動を優先する日本政府と主要メディアの姿勢が、沖縄県民をいらだたせる。

 日米は、安保条約にしたがい、日本に「駐留する米軍との円滑な行動を確保するため」、米軍による基地使用と米軍の地位を定めた地位協定を結んでいる。外務省のサイト「日米地位協定Q&A」には、この協定について、「在日米軍の特権を認めることを目的としたものですか」「米軍には日本の法律が適用されないのですか」「在日米軍は治外法権なのですか」などの質問と回答が載っているが、回答はいずれも現状肯定だ。沖縄の実態とあまりにかけ離れている。

 たとえば地位協定に基づく「民事特別法」によれば、在日米軍の要員が公務中に他人(日本人)に損害を加えた場合、その賠償責任は米兵や米軍ではなく、国(日本政府)が負うことになっている。二〇〇八年八月、通勤途中に対向車線に突入してバイクと衝突、運転していた沖縄の男性を死なせた在沖海兵隊員は、自動車運転過失致死容疑で書類送検されたが、那覇地検は「公務中の事故」を理由に不起訴にした。そこで遺族は、この民事特別法に基づいて国を相手に損害賠償を求め、一〇年一〇月、那覇地裁で米兵と遺族の間で和解が成立。地裁は、国に米側に代わって七一〇〇万円を支払うよう命じた。二〇〇五年十月には、日米合同委員会で、米側は殺人や強姦などの「凶悪犯罪」については起訴前の容疑者の身柄引き渡しに「好意的な考慮を払う」ことに同意したものの、「考慮を払う」かどうかは米側次第である。

 嘉手納爆音訴訟や普天間爆音訴訟でも、裁判所は当事者である米軍を「国権の及ばない第三者」と認定して、国に高額の賠償を命じた。米国が基地を返還する際、カドミウム、水銀、PCB(ポリ塩化ビフェニール)、鉛、ヒ素などの有害物質が見つかっても、米軍には原状回復の責任がないため、汚染物質を取り除くのは日本政府だ。

 ところが、外務省は、在日米軍や米軍人が「日本の法令を尊重し、公共の安全に妥当な考慮を払わなければならないのは言うまでもありません」「米軍の施設・区域内でも日本の法律は適用されています」と言いながら、ただし、「一般国際法上」、駐留する外国軍隊には「特別の取決めがない限り接受国の法令は適用されず」、「日本に駐留する米軍についても同様です」として、米軍の行為や、公務中の米軍人・軍属の行為には日本の法律は「原則として適用されません」と説明する。なお、「公務執行中でない米軍人や軍属」およびその家族については、地位協定に「特定の分野の国内法の適用を除外する」との規定があり、日本の法令が適用されるのは、そうした規定が該当しない場合だけだ。そうした規定を改定すれば済む話であるが、外務省は「国際法上」の通例だとして逃げている。

 日本国民であるはずの沖縄県民をこうした軍事植民地状態におく日本政府に、沖縄は地位協定の改定を求め続けてきたが、政府はその要求を「運用改善」という言葉でかわしてきた。沖縄住民の人権よりも、日米軍事同盟とそれを支える在沖米軍基地の活動を優先する日本政府、そしてその姿勢を批判しない主要メディアが、沖縄県民をいらだたせる。

 日米安保(日米軍事同盟)とそれを支える在沖基地に対する本土国民と沖縄県民の「温度差」が、さらに沖縄県民の反感と政府不信を高める。

 「普天間基地爆音訴訟」の控訴審判決が福岡高裁那覇支部で言い渡された二〇一〇年七月末、島田善次原告団長が県外から来た報道記者に対して、普天間基地移設問題をめぐる大手メディアの報道の仕方に、「あなた方は司法よりもたちが悪い。読むに耐えない」と非難の声をぶつけた。「届かぬ声、募る苛立ち」と題する『沖縄タイムス』社説(七月三一日)の言葉を借用すれば、
 「五月末に鳩山由紀夫前首相が名護市辺野古への移設に合意したことで、すべてが解  決したかのように普天間報道はぴたりとやんだ。ここにたどり着くまで、沖縄偏重の基地配置を見直すという論点はほとんどなかった」
 「沖縄だけに(米軍)基地を押し込め、日米両政府の従来政策はなぜか検証されない。 権力と一定の距離を保ち、批判的に検証することがメディアの役割のはずだが、普天間は県内移設やむなし、という政治方針を後押しするような報道が目立った」
 という本土のメディア状況に対する告発の叫びだったといえる。

 『朝日新聞』が二〇一〇年五月に行った沖縄県民世論調査では、「沖縄県内の米軍基地を、将来的にどうすればよいと思いますか」 という質問に、「いまのままでよい」と回答したのが十一%だったのに対し、「縮小する」は四二%、「全面的に撤去する」は四三%に達した。「縮小・撤去」は合わせて八五%に及ぶ。

 また、米軍普天間飛行場を名護市の辺野古周辺に移設する日米合意を受け、毎日新聞社と琉球新報社がやはり一〇年五月末に沖縄県民を対象に実施した合同世論調査でも、在沖米軍基地は「整理縮小すべきだ」が五〇%、「撤去すべきだ」が四一%にのぼった(合計九ニ%)。辺野古移設については、「反対」という回答が八四%に達し、「賛成」はわずか六%だった。

 さらに、日米安保条約については、「維持すべきだ」がわずか七%だったのに対し、一四%は「破棄すべき」、五五%は「平和友好条約に改めるべきだ」と回答した

 この安保についての沖縄での世論調査結果は、日本世論調査会が二〇一〇年三月に三〇〇〇人を対象に面接して行った全国世論調査(回収率六三・五%)の結果とは、大きく異なる。それによると、国民の一七%は日米同盟を「強化する」、五九%は「現状のままでよい」と答えた。同盟関係を「弱める」は一六%、「解消する」は三%にとどまった。また、日米安全保障条約が日本の平和と安全にどれほど役立っていると思うか」という質問には、一六%が「大いに」、六二%が「ある程度」と答え、あわせて七八%が安保条約を評価した。

 この全国世論調査では、沖縄県に在日米軍基地のおよそ七五%が集中している事実を、四五%が「知っている」、四六%が「ある程度知っている」と回答した。国民のほぼすべてが沖縄の過重負担を知っていることになる。

 また普天間基地の移設先については、回答者の一八%が日米合意どおりの「キャンプ・シュワブ沿岸部」、一二%がそこ以外の「沖縄県内」を挙げたのに対し、三八%が「国外」、二一%が「沖縄県以外の日本国内」と、合計五九%が沖縄県外を希望した。

 しかし、この全国世論調査の三ヵ月前、○九年一二月に共同通信が全国の知事を対象に行ったアンケートでは、米軍の訓練や施設を受け入れる都道府県は皆無だった。米軍再編に伴う沖縄の米軍基地負担軽減について、◆小泉純一郎首相(当時)は○五年六月、「(沖縄の負担を)本土に移そうというと各自治体が全部反対する。実に難しい。総論賛成各論反対だ」と嘆いた。沖縄の負担軽減には賛成だが、米軍基地を移設しようとすると強く抵抗するというのである。ニンビー(NIMBY Not in my backyard)、すなわち「自分の裏庭に移されるのはいやだ」というわけである。

 日本が「日米同盟」という名の下に米軍基地の駐留を認め続け、沖縄の人口が日本全体の一%以下、国会議員が全体の約一%という状況が続く限り、そして主流メディアがこの小さな少数派の声を無視し続ける限り、よほどのことがなければ、在沖基地に関する「ニンビー」状態が変わることは考えにくい。メディアが沖縄=抑止論を唱えれば、なおさらだ。 

   続く。

  





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