カウンター 読書日記 2010年11月
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 ● 詳細は、後ほど。


 
             







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●最近の読書から。

                      日本の独立

                      創価学会 もうひつの日本
 

 ●植草氏の新刊『日本の独立』。

 『月刊日本』誌の購読者以外にはお薦め。

 価格(込\1800)の割には大冊(500頁超、35ミリ厚)で、雑誌よりは活字も大きく読み易い。

 **************

 ●「創価本」2冊は、チェックのためだが、<島田vs矢野>本は未読。

 『カルト創価の終焉』は、「立ち読み」で十分。

 

 

 


 



●『ユダヤは日本に何をしたか』新版
                     ユダヤは日本に何をしたか 新版

 
 ●中野正剛と甘粕正彦について、参考となる論考をアップしておきます。

 当ブログ(主に落合氏の論考)の関連記事は、左下の検索に「中野正剛」と入力していただければ、出てきます。 

 
 ⇒ ★関連記事

 
 ************* 

 
 ●『ユダヤは日本に何をしたか』新版   渡部悌治  成甲書房 2009年刊 

 
 ★大川に接近した甘粕正彦の真意  p156~

 
 満州の赤化が満鉄の調査局を中核としてようやくその激しさを増してきた頃、時の満鉄副総裁・八田嘉明は、赤化防止の方策を立て、安田生命問題のとき、北一輝とともに大川と袂を分かった島野三郎氏を東亜経済調査局長の椅子に据えようとしていた。このポストを狙っていた大川周明が、河本大作を操って自分が局長になる工作をし、それが実現して大川の局長就任となったのである。だが、それによって満鉄内には赤色勢力が滔々として流れ入り、防共の策も立たぬほどになったのである。このあたりの経緯については、戦時中、成城の島野氏の自宅を訪ねて詳しく聞いたところである。後になってから大川周三氏(周明実弟)に確かめたが前述のとおりの経緯ということであった。

 満鉄を赤の巣窟にし、大川に甘粕を加え、さらに黒川を足して満州協和会を作り、さらに石原莞爾が加わり、それに支那問題研究所とソルゲ・ルートの昭和研究会及び国際問題研究所まで取り入れた頃には、ユダヤの企てていた中国を中核とした一連による極東攻略の陰謀も、ほぼその実現の域に達していたのではなかったか。

 それゆえにこそ尾崎秀実は獄中にあって、「日本の革命準備は、九分どおり成れり」とうそぶいていたのではなかったのか。

 大杉栄殺害に関係した甘粕が、満州に渡る機会を得たのは参謀本部の人選による。甘粕が大川に師の礼をとり、大川の周辺に身をおこうとした真意が何であったかは不明だ。

 甘粕が金を出し、大川が人選にあたるということで、私の友人・香川文雄君が偶然にも選ばれてドイツに留学することになったことがある。満州からわざわざ東京・渋谷の私の下宿まで、渡独留学のことについて相談に来たのであったが、今さらドイツにまで出かけて勉強でもあるまい。ドイツで出来る勉強なら日本でも出来る。つまらぬ真似はしないことだということになって、留学の件を甘粕に返上した。だが、機縁というのは不思議なもので、香川君の代わりに選ばれたのが、やはり知人であり、同郷の★斉藤信治氏であった。留学先はカイロであった。日独交換学生を望んでいたのだが、同輩に出し抜かれて失意のうちにあったときの朗報であった。東北大学の小山教授の人選で、大川が甘粕に推薦したのである。★留学の目的は回教研究ということであった。もちろんこれは甘粕の特務機関用務であったと思われる。

 大川の弟の周三が、特務関係の仕事で南方に行けるつもりでいたところ、それが沙汰止みとなり、東京の近親のもとに身を寄せていた頃、その南方行きの沙汰止みは単なる甘粕の邪魔くらいにしか考えていなかったが、それは周明の行動に疑いの持たれるふしがあって、達識の士が周明の行動を調査させていたからであった。

 この調査にあたった者たちは中野学校系であった。行動に移る前の事前説明において、その説明にあたった人物が甘粕正彦その人だったのである。甘粕はその説明のなかで、大川がユダヤ財閥と特殊な関係を持って行動していることを明確に指摘したというのである。


 鮎川義介、大川周明、石原莞爾らが、ユダヤ利用論者であったことは周知の事実であった。甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその一連の者として厳重に監視するよう指示したことは、一体どう解釈したらよいのか。表面は大川の指示によって動いていたように見せて、裏では大川の動きを封ずる策に出ていたとみるべきであったであろうか。

 石原莞爾が戦後、郷里の山形に仮寓していたとき、私の友人でかつて石原の秘書であった桐谷誠君を使って、石原の対ユダヤ観を徴させたことかあった。桐谷君に石原は「利用論者」と告げたということであった。これで石原将軍もユダヤ利用論者であったことが明確になったのである。

 甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその手先の者として厳重に監視するように指示したのは、いったいどう解釈したらよいのか。表面は大川の指示で動いているように見せて、実は大川の動きを封じる策に出ていたとみるべきであろうか。甘粕は「南方に出張しました」と言っては大川宅に立ち寄り、妻女にワニ革のバッグなどを土産として持参していた。

 
 ★大杉栄殺害の裏にユダヤ禍 

  
 北一輝が刑死して、その遺骸が北家に送り届けられたとき、焼香に来た大川を北夫人が拒絶した話が伝えられていた。その大川は機会をとらえて、北と自分の関係が最後までうまくいっていたように見せようとしていた。自分が北に信じられていたということを、ことさらに印象づけようとして、極端に作為したのはどうしたことか。それは遠藤無水氏や横山雪堂和尚に尋ねる必要もなかった。愛国陣営の大川に対する不信を糊塗するための作為にすぎなかったのである。

 革命者として一家を成した北一輝が、単にその場その場だけの気分に駆り立てられる煽動屋にすぎなかった大川を、どの程度相手にしていたかは、北の腹のうちにあったことであり、私の想像は許されない。

 猶存社に堀やす子(*堀保子。堺利彦の義妹で大杉栄夫人)がおり、北の弟(*吉)が大杉栄からフランス語を学んでいたりしたためか、甘粕が大杉らに手をかけたことを知ったとき、北は激怒したという。その北一輝がヨッフェ問題では、その来朝を願っていたところの大川や満川亀太郎らとは反対の行動をとり、これが原因で北が大川や満川らと訣別するにいたった、と言われるほどの態度に出たのは何ゆえか。
 *北一輝『ヨッフェ君に訓(おし)ふる公開状』は、大正12年5月9日付で約3万部が全国に配布されたという。

 ヨッフェの来朝の工作をしたのは藤田勇だともいわれ、あるいはその以前に、大杉栄が後藤新平の内意を受けて北京に潜行し、事前の工作をしていたのだとも言われていた。その大杉を死なせた甘粕が、出獄してから川渡(かわたび)温泉に身を潜めていた理由は何か。単なる静養のためではなかったはずである。
     
 朝日新聞の国見特派員が甘粕を川渡温泉の高友旅館に探しあてる前に、既に渥美先生の懐刀の熊谷甚平(寂)先生が甘粕を訪ねている。そのとき甘粕は身辺に危険を感じ、身を潜めていたという。

 甘粕が出獄後、身辺に危険を感じなければならなかった理由として熊谷先生から説明をうけたが、大杉は愛国陣営から好感を持たれていたからだったという。大杉たちが憲兵隊員に連行されたときも、淀橋署員が尾行していたし、検束されたことが直ちに警視庁に通報されたのも、大杉に対する警察当局の特別の慮りからだったと当時の愛国陣営では考えていたようである。またある者は、大杉は警視庁の特命を帯びて危険思想の陣営に入りこんでいたものだとも想像していた。

 この大杉の★警視庁密偵説の真偽を確かめるため、私が私設秘書をしていた貴族院議員で元警視総監の赤池濃氏に尋ねたことがあったが、氏は言下に否定された。ちょうど会話が大和の水平社や朝鮮人の頭目の鄭寅学のことにふれていたときであった。「私が警保の当路にあたったときのことであり、間違いない」とのことであり、故意に事実を蔽うふうでもなかった。生前の赤池氏からは、大杉栄と後藤新平との接触のこととか、ヨッフェ来朝の真意などについても聞いておくべきことが多くあったが、空襲を受けて話も中断し残念なことをした。その後間もなく大阪駅で暗殺の厄にあわれ、まったく心残りであった。

 大杉栄の警視庁密偵説を赤池濃氏にただしたことには付記することがある。甘粕が大杉を殺さなければならなかった理由を、甘粕自身の口から聞くこととする。

 ―上海のガーデンブリッジを渡り、一つ目の四つ角を右に入ったところに、酒池肉林の地下室を持つキャバレーがあり、その奥の部屋に、長身で黒眼鏡に鳥打帽の男が入っては消えてゆき、数日間は出て来ない男といえば、それは上海においての大川周明のことであった。大川は上海に現われると、その宿舎とされていたホテルやビルには入らずに、大抵は、まずこのキャバレーを通路としていずこへか消え、上海に出先機関を有するユダヤ財閥と連絡を保っていた。

 その大川の動静を探らせるための機関員に対して、予備知識を与えるために大川を解剖した甘粕の説明のなかに、甘粕の渡満のきっかけとなった大杉栄事件があった。甘粕の言うところによれば、大杉は★後藤新平の内意を受けて、ヨッフェ来朝に使いし、それが成功したので、いよいよ名声を博するようになった。甘粕がその大杉を抹殺しなければならなくなった理由は、★大杉がユダヤ財閥と深い関係を持っていたからであり、その殺害は、ユダヤと大杉との関係を絶つためであったという。警視庁は、親英米派である重臣どもの息がかかっていて実行できないから、憲兵隊でこれを始末するしかなかったというのであった。

 甘粕のこの説明のなかで、特に興味を覚えるのは、彼がはっきりユダヤ禍を口にしたことである。そのユダヤの陰謀が日本に禍いしていたこと、さらにはユダヤの陰謀に大杉が関与していたことを甘粕が知っていたということである。日本の重臣どもが既にユダヤの虜となっており、その重臣の意によって動く警視庁では、このユダヤの禍根は絶ち切れぬと甘粕らが判断してかかった事実は、ユダヤ問題をナチスの宣伝とした大川や石原らの主張に反駁するに足る証左といえよう。 

 
 ★頭山翁に問うた中野正剛自刃の原因 

 
 確かな人から確かなことを聞いておきたいと思い、私か確かめに訪れていった人物に頭山満がいる。それは中野正剛の死について真相を知りたいと思い、末永節翁と中野佐柿(さかき)先生に相談したところ、中野の遺書は頭山翁に宛てたものだけだから、東京・渋谷の常盤松に翁を訪ねてみたらどうかとの指示によったものである。

 古い話だが、小泉輝三朗の『大正犯罪史正談』が出版されたとき、赤松克麿や三田村武夫らにひどく叩かれたものだが、私は特に、《中野正剛の謎の項》に深い興味を覚えていた。

 ユダヤに日本を売り渡した者たちによって招来された敗戦後の今日では、外国から金をもらってその手先になっても、節を売ったとして自らを恥じることもなく、他もまたこれを売国奴として難ずることもなくなったが、昔はそうではなかった。張学良経由の米国からの対日謀略資金を、キリスト教婦人運動家たちの手を経て受け取っていた者や、労働者が残業までして最高一ヵ月に十円程度だった頃、日本共産党に巣喰った煽動屋たちはソ連から月二百円ずつの支給を受け取っていたものであった。

 中野正剛がきわめて勢い盛んであった頃のことであったが、私たちは中野が右翼ではあっても、真に愛国陣営に属する者であるかとうかということを疑っていた。それで中野が死んだということを聞き、その死がわれわれの疑念をはらしてくれる何かを持っているのではないかと期待したのである。そこで私は中野の死の直後、先輩を訪ねて中野が死ななければならなかった理由を問うたことがあった。先輩は即座に答えて、それは中野がロシアからもらった金を苦にしたからだと言うのであった。

 正剛の死はきわめて立派なものだったと言われていた。その模様については頭山翁からも築地の高乃屋の女主人からも聞かされた。それほどまでして死んだ中野の死が、単に東条の弾圧の結果だという風評は、にわかには信じえなかった。東条の圧迫といわれていた政治管制は、なにも東方会に限ってなされたものではなかったからだ。

 これでは説明にならないので、今度は、中野の取調べが進められると、累が宮様に及ぶことになるから、中野は責めを一身に負って、事実が明るみに出るのを防いだのだという解釈が出た。一身に負うなら負えばよろしいので、死ねば負えないことになる。説明にはならない。

 私自身もその渦中にあったからふれておくが、当時、宮様担ぎ出しには二つの流れがあった。中野がそのどちらかに加わっていたということは、当時は聞かなかった。近衛は東条内閣の末期、弟を使って、次期政権への野心を重慶に表明していたが、既に重慶の軍令部には、東条の次には東久邇宮の内閣という情報が入っていた。もちろん、この情報も黒田善治の判断によって修正され、日本の重大危機にあたって、皇族が内閣の首班になるなどということはありえないという見方に変わったのであるが、宮様担ぎ出し工作は実際あったのである。東亜連盟、ゾルゲ関連系統による東久邇宮、私たちによる高松宮様内閣構想であった。東久邇宮様担ぎ出しは、最後の狙いを赤色政治犯の釈放におき、終戦への早期借置を急務とし、ソ連の対日参戦をも計算の上で、対英・米工作にソ連を仲介させ、次に重慶を足がかりにした対米和平工作をするという東条抹殺の運動であった。

 これに対し私たちのものは、敵国と通ずる君側の奸を除き、一挙に宮様内閣を樹立し、必戦の態勢を打ち立てようとしたものである。しかし、この頃には陛下の大綱も既にソ連仲介、対連合国和平交渉に傾かれており、時機は既に去ったとの感が深かった。

 それで、中野がそのどちらかに加わっていたということは聞いていなかったので、中野取調べの進むにつれ、彼がのっぴきならぬ立場に追い込まれることになるのだとすれば、その理由はやはり純正愛国陣営が言っていたごとく、ロシア系の資金を受け取っていた事実が明るみに出されることを苦慮したからのものと考えられたのである。

 中野への工作費が、ロシアから渡されたものであることがはっきりすれば、日本の右翼も左翼も、ともに同じくユダヤに踊らされてその資金と指令とを受けて操られていたことの立証がなされる。そのため、私はこの中野の死の原因を徹底的に洗い出す必要を感じていたのであった。

 私が中野正剛の死の理由を知るために、渋谷の常盤松に頭山満翁を訪ねた日、翁は病臥しておられた。枕元でゆっくり話すつもりであったところ、起き直られて丹前を羽織られ、私はその横に坐して、耳近く話すことにした。病中のことであり、三点にしぼってご教示を願った。それは次の点についてであった。

 一、中野は右翼といわれながら、ロシアの《赤い金》、背後関係のある第三国の資金を受けたといわれるが、赤色革命関係の金を実際に受け取ったことがあるのか。中野の死は、それを苦にしたものか。
 二、日支事変は日支闘争計画によって起こされたものであり、日本の敗戦と革命とを招き、支那を米・英・ソと連合させて、日支戦争を世界戦争に発展させたのだから、翁が蒋介石は話せばわかるといって事を進めても、いたずらに敵側に乗ぜられるばかりだと思うがどうか。
 三、大川周明と米国ユダヤとの資金関係、及び二・二六事件のとき、岡田首相は官邸にいなかったのだということ。その真偽。

 以上三項目のうち、第三項の大川と米国ユダヤとの交渉に関するものは知らぬとのことであった。岡田啓介が二・二六事件の起きた日に官邸にはいなかったことについては、世間ではどう言っているかとの問い返しであった。岡田はあの夜は赤坂の料亭で、頭山翁その他と会っていたのだと言い、岡田の弟の松尾大佐はぜひ岡田に会って話す必要があったので、戻らぬ兄を待って一泊したために兄啓介と間違われて殺されたのだと言われている。岡田の天機奉伺が遅れ、後藤文夫が臨時首相代理となった理由もそこにあった。もしそれが本当ならば、岡田を官邸から助け出したという★迫水久常の正体を明かす必要がでてきますと話したところ、いちいち頷かれていたが寡黙、ついに語るところがなかった。

 蒋介石とはよく話しさえすればわかってくれるのだということについては、翁が日ごろ考えておられた構想をいろいろ話されたが、やはり蒋を昔日の彼と同一視しておられ、彼がユダヤーフリーメイソンの指令によって動き、ユダヤのサッスーン財閥と結託して、支那の金銀をユダヤに提供して、紙幣という紙屑と取り換える制度を立て、己れの利得は外国のユダヤ銀行に預託して、中国をユダヤに売り渡したのですよと話し、米英の援助で対日戦を継続しているので、和平の心などありませんと説明しても、翁の理解を得ることは既に遅すぎていた。

 第一の主題の中野正剛に死を覚悟させた理由について、東条の退陣工作に宮様を関係させたことで、累の皇族に及ぶことを恐れたからだという憶測もあるが、以前ロシアから赤い工作資金を受け取ったことが明るみに出ることを慮ったためというのが正しい見方ではないですかと尋ねたところ、巷間の噂や、赤色資金の情報の出どころなどを聞かれたのでお答えしたのだが、ロシアからの赤い金のことについては、一言もそれを否定する言辞はなかったのである。私はこれによって、中野の死の理由は、検察の調べがその赤い金に関したことであったと理解し、右翼に身を置きながら、左翼の金を受け取っていた汚点ゆえに身を潔くするための自刃と確信したのであった。

 翁の語るところは、故人にきわめて同情的であり、愛弟子を追憶して悼む心情に切なるものがあった。ことに中野の後半生における生活態度の立派さを褒めてやまなかった。その語るところを略述すれば、

 ― 中野も若い頃には数多く馬鹿げたことをしたものだ。しかし一切を清算してしまった今は、それは許してやれ。後半生における彼の精進ぶりは、立派に昔の愚行を償ってあまりあるものであり、ことに彼が妻に死なれた後の生活やその心境は、まさに透徹した清らかさを持っていた。まことに見上げた神韻の域に心身を置いたというべきで、遠く余人の及ふところではなかった。ようやくあの男もものになると思っていたところ、今度のようなことになってしまい、まことにかわいそうなことをした。中野の若い頃の愚行は責めてはいけないよ。

 ― というものであった。
 それで、頭山翁の以上の言辞から、中野がまだ血気さかんであった頃、いわゆるロシアからの資金と関係があったということを理解し、小泉輝三朗著するところのものによって、その証左を得たとしたのである。

 小泉氏は、東方同志会系の人たちからいろいろと反駁を受けたが、中野自らが師事していた頭山翁の私に語られた口吻を跳ね返すに足る中野側の論拠に接したことはない。

 ************* 

 

 

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)-2 

 
 ★紀州徳川家の古陶磁換金を阻んだ吉薗周蔵 

 
 それはさて、辰吉郎が博多から上京した頃、堀川御所生まれの重要女性が、堀川御所を出て紀州和歌山に移った。戸籍上では辰吉郎と同じ明治二十四年生まれの其の女性は、和歌山市郊外海部郡加太村の池田酒店の娘として突然降臨した。加太村K家の伝承では既に七歳で、「まるで天狗さんに育てられた子のようであった」と謂うから、実際の生年は明治二十年生まれとしで良いのであろう。女性の戸籍名は松下トヨノであるが、豊子と自称した。

 私(落合)が松下豊子の名を聞いたのは、恩師稲垣伯堂画伯から紀州家由来の古陶磁を引き受けた平成二年のことである。当初、焼物研究の師匠として選んだ岸和田市の研究家・新屋隆夫が初会の日にその名を□にした。「自分は、陸軍大将・荒木貞夫から義理の孫と認められていたが、荒木大将から松下豊子さんを紹介され、《この御方の美術品の面倒を観るようにと命じられた》)と謂うので、先考に尋ねたところ松下豊子は謎の貴婦人であると教えられた。わが叔母(実母の妹)たちも、その父・小畑弘一郎から聞いて松下豊子の噂を知っていた。その後、和歌山に隠棲した私(落合)は、至るところで豊子の話を聞いたが、ことに和歌山市加太では、今でも中年以上では知らない人は居ないと言って良い。

 紀州家古陶磁の来歴を探究していた私(落合)が、岸和田市の陶芸家・南宗明夫妻に案内されて、貝塚市の五味紡績の社主を訪ねたのは平成六年頃であった。その際にもK家の名が出たが、五味夫人の話では、昭和三十年にK家の当主に案内されてきた松下豊子と名乗る女性から、「紀州徳川家に素晴らしい東洋古陶磁があるので、その展観施設を作る計画に加わらないか」と誘われた。五味家の当主も乗り気になり、適地を探して一緒に行動して鎌倉まで行った事もある、とのことであった。

 それから数年経った平成八年、吉薗周蔵が大正九(1920)年に奉天で作った『奉天古陶磁図経』が周蔵遺族から手元に来た。ほぼ同時に、周蔵が昭和三十年に記した「紀州徳川家に入った焼物のこと」と題した手記も入手した。それによると、昭和三十年初頭に、千葉の犢橋(*現、花見川区)に住む周蔵を、陸軍中将貴志彌次郎の養嗣子・貴志重光が訪ねてきて、「自分は紀州家古陶磁の売却商談を進めてきたが、神戸の買手から真贋混淆を指摘されて頓挫中なので、真贋弁別のために貴殿が奉天で作った図譜を借りたい」と申し出た。

 紀州家の徳川為子夫人と松下豊子が企てたその商談に荒木大将も関与している、と聞いた周蔵は、真贋混淆のまま売却する意図を覚り、張作霖と紀州家を仲介した貴志彌次郎が、将来の真贋混淆を何より懼れていた遺志を慮って、図譜の貸与を断った、とある。この記載から、紀州家では昭和二十九年頃から古陶磁の一部を換金する動きがあったが、周蔵の非協力もあり失敗し、計画を展観施設の設立に変更したとの推察ができた。 

 
 ★将軍・家茂も和宮も生きて子をなした?

 
 K家は江戸中期に淡路島から加太村に移って造船業を営み、後に材木商に転じた富豪であるが、昭和三十年代に当時の当主がトヨノの財務に携わったことを遺族は今も記憶している。「関わったのは古陶磁ではなく、慈覚大師を祀る宗教施設の建立計画であった」と遺族は謂うが、五味家の伝承と合わせて判断すれば、宗教施設の建立資金を紀州古陶磁の売却によって捻出せんとした訳で、直接換金が難しいことを覚って展観施設の設立に変更したのであろう。

 何故慈覚大師なのか。それは皇女・和宮が将軍・家茂に降嫁するに当たり、公武合体を象徴する婚貨として持参した北朝重代の秘宝が、慈覚大師自作の十一面観音像と仏舎利であったからである。和宮からそれを相続したトヨノが祭祀施設の建立を志し、紀州徳川家もその志に賛同して、古陶磁の一部換金を図ったようだ。トヨノの言では「和宮の秘宝は徳川家の蔵に在ったが、渋沢栄一が持参した」とのことであった。明治十年に箱根塔ノ沢温泉で脚気により薨去した和宮が、実はその後も生存していたことをトヨノから聞いていたK家の先代は、トヨノが和宮の実子か実孫であると信じていたという。そうなれば家茂も大坂城で死んではおらず、隠れ住んだ二人が秘かに子供を儲けたという話になる。私(落合)が右(↑)の一件を「その筋」に確かめたら、「和宮が兄・孝明帝に、(家茂様のようにお隠れ遊ばしませ)との示唆をなされた」との答えであった。

 第二次長州征伐軍を率いた家茂は、慶応二年(1866)七月二十日大阪城で急死、四ヵ月後に家茂の義兄・孝明帝も突然崩御された。小判改鋳に乗じて家茂の公武合体献金を捻出した小栗忠順も、一年後に薩摩兵に惨殺される。これらは公武合体の本当の筋書に法ったものと考えざるを得ないが、家茂と和宮の間に生まれた娘ならば、正に公武合体の象徴である。トヨノがその娘の実子なら、次の一言の謎を解く手懸りになる。

 
 ★替え玉説の可能性と岩倉具視が厳秘した自害説

 
 「今の天皇は南朝であるが、私は北朝である。もし男だったら私が皇位に就いていた」とトヨノが漏らしたのを直接聞いた人がいる。この言の解釈については、本稿はまだその段階ではないが、現時点で考察する限り、トヨノは男系血統を論じたと視るべきであろうから、トヨノの実父は北朝皇統に属する男子で、母が和宮の御娘という筋合になろう。和宮に関する重要関係者の動向は、慶応二年七月二十日家茂が大坂城にて死去(暗殺の噂が高い)、同年十二月二十五日孝明天皇崩御(暗殺の噂が高い)、慶応四(明治元)年閏四月小栗忠順殺害(一種の暗殺)というものである。その後、二十四歳の和宮は明治二年一月十八日に京へ向かい、五年半御滞在され、七年六月二十四日に東京へ帰られた。三年後の十年八月七日、脚気治療のため箱根塔ノ沢へ湯治に行き九月二日薨去、とある。

 和宮を巡る巷説に、①降嫁の当初からの替玉説、 ②中仙道の某宿で自殺し他人が入れ換わった説、などがあるが、昭和三十四年に芝増上寺墓地から和宮の御遺体を発掘した時、発掘調査団に宛てて来た手紙が興味深い。和宮に仕えた御祐筆の孫からのもので、「明治五年ころ、岩倉卿と祖母が主になって少数の供廻りを従え、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊に逢い、宮を木陰か洞穴の様な所に匿い、祖母も薙刀を持って戦いはしたものの、家来の大方は斬られて傷つき、やっと追い拂って岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早之までとお覚悟あってか立派に自害してお果てなされた」との内容で、岩倉が一切を厳重に秘したと語る。

 世を謀るには影武者が基本であるから、替玉説はいかにも有りうる話であるが、静寛院宮の京戻りも、同じく世に隠れた家茂と堀川御所あたりで一緒に暮らすためならば合点が行くし、在京の五年間には、本人か替玉による秘かな江戸往復があってもおかしくはない。     

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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)
 <了>。

  





●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)-1
  京都皇統の二大重要人物・堀川辰吉郎と松下トヨノ 

 
 ★故意に流された明治天皇落胤説 

 
 先月稿では、明治二十年に堀川御所を出た七歳の辰吉郎を博多で迎えた杉山茂丸の背景を述べた。本稿は、活字資料のほとんど存在しない辰吉郎の博多時代を、中矢伸一『日本を動かした大霊脈』から窺うことにする。中矢前掲は、『日本週報』昭和三十四年六月十五日号から十一回にわたり隔週掲載された森川哲郎の「不思議な人物」を再編成したもので、副題を『堀川辰吉郎一代記』とするが、その記事内容は森川が辰吉郎から直接聞いたままを記した聞書である。特徴は、辰吉郎が生年を明治十七年と自称したのを真に受けたために時制が史実に合わず、祖述者の中矢を混乱させている点である。

 辰吉郎は、井上馨の兄重倉の五男と入れ替わったため戸籍上の生年は明治二十四年であったが、実際の生年について、森川の祖述者として十七年説に立つ中矢は、大正天皇の御生年との絡みで十二年説をも重視する。本稿は、近来仄聞した「明治二十年辰吉郎七歳の時に、堀川御所で松下トヨノが出生したのを機に、博多へ遷った」との話を信じて明治十三年生まれで一貫することにする。

 誕生地は本人の言でも京都堀川で、実母については語らないが、「博多湾の岸壁にそった城郭のような広壮な邸宅」で辰吉郎に仕えた養母は堀川千代といい、「京都の堀川御所から彼の養育のために来た女」であることを、辰吉郎は千代の死後に知った。蓋し、辰吉郎の博多行きに合わせて、京都皇統が養育係の千代を派遣したのであろう。

 実年齢に従い現地の小学校に入ったと見られる辰吉郎は、桁外れの悪童ぶりを発揮して退転校を繰り返したので、千代はその都度「玄洋社総裁の頭山満、右翼の大物であった杉山茂丸、時の県知事に」相談したと中矢は記す(原文まま)。有体に言えば、堀川御所命で千代は、辰吉郎の日常をこの三人に報告していたわけだ。県知事とは安場保和のことで、福岡県知事としての特別任務が玄洋社支援と辰吉郎の監督だったから、これは当然である。中矢前掲著には頭山が随所に登場するのに対し、茂丸の出番がこの一か所だけなのは、辰吉郎自身が茂丸との関係を隠し、代わりに頭山の名を出したからであろう。死ぬまで茂丸との関係を秘した辰吉郎が、此処にだけ茂丸の名を挙げたのは、茂丸が真の傅役であったことを暗示したものではなかろうか。

 辰吉郎の尋常ならざる日常が巷間憶測を呼び、やがてその貴種たることが噂となるのをとっくに計算済みの堀川御所側は真相隠蔽のために、実父が明治天皇であるとの虚説を故意に流したものと思われる。この種の策略は世間心理を利用するのが要諦で、真相を全く隠蔽してしまえば辰吉郎はただの我儘坊ちゃんとして扱われ、結局大役を果たすことが出来ない。辰吉郎の実父について中矢前掲は、断言を避けながらも明治天皇落胤説に立ち、中島成子の実子・中丸薫も父辰吉郎の明治天皇落胤説をかざすが、宮内庁はそこを質されるとハッキリ否定するので、世間一般の扱いは、中矢前掲を単なる奇書とし、中丸を女天一坊として冷笑する。尤も、明治帝の落胤でないのは確かで、宮内庁を責めるわけにはいかない。両人は結局、堀川御所発の噂に嵌められているわけである。とすれば、中丸と中矢が口を揃えて辰吉郎の実母という千種任子(1856~1944)は、実際にも明治天皇の典侍であったから、作り話の一環と視るべきである。辰吉郎の実母は何れ堀川御所に住んだ女性に違いなく、岩倉具視の親族と囁かれているが、それ以上は聞こえてこない。

 「皇統譜に中丸薫の記載有り」と仄聞した時は、正直言って「まさか」と思ったが、その直後に「京都皇統」の存在を教えられて成程と思った。中丸薫が辰吉郎の娘であることを強く否認する中矢も、「辰吉朗の拳銃の腕前を中島成子が讃えた」と述べ、辰吉郎と成子を無縁とは言わない。因みにこの一件には、海軍切っての俊秀で、故あって辰吉郎に仕えた海軍大佐・矢野祐太朗が絡んでいると聞くので、備忘のためここに記しておく。

 
 ★学習院を退学処分に  「大陸に渡らせたら」 

 
 博多時代の辰吉郎の悪戯の中で特筆すべきは二件で、一つは「博多名物の放生会の夜に盛装して集まってくる人たちの着物の紋を、彼ら悪童たちを指揮して、片っ端から切り取って集めさせた」ことである(中矢前掲)。被害者は善男善女で一丁羅の晴着を台無しにされた損失は少なからず、有谷な要素の何もない愚劣な所業と謂うべきである。もう一つは、子供同士の院地打ちに地元のヤクザが絡んできたのを怒った辰吉郎が、ヤクザの家に放火したところ周囲の家屋に延焼したもので、前に輪を懸けた悪質な犯罪である。警察が辰吉郎はじめ悪童を一網打尽にしたのは当然で、厳しい処分が待つ筈を、千代が抗議しまた頭山満や県知事が介入したために内済となり、千代は全財産を投げ打って被害者に献身的に尽くしたという。

 放火事件の時期について中矢前掲は、「時の頃は明治二十七、八年の九月半ばであった。当時十一歳であった辰吉郎は・・・」と謂うが、こんな重大犯罪を収めようとする福岡県知事は辰吉郎の保護監督の密命を帯びた安場保和しかいない。したがって、その時期は安場が愛知県知事に転ずる明治二十五年七月以前、すなわち二十四年九月半ばと視るしかない。確かに辰吉郎の実年齢は十一歳で小学校五年生に当たり、是非も覚束ない年齢であったから、千代では押さえが利かず、暴挙に走ったのであろう。

 中学一年まで博多に居た辰吉郎は、福岡を訪れた井上伯に千代と頭山満が加わって、辰吉郎の進路を相談しているのを立ち聞きした。上京させて学習院に入れようというのである。実年齢から推せば、時は明治二十六年で、安場は既に愛知県知事に転出してその場におらず、井上馨は内務大臣である。辰吉郎は井上伯に伴われ、千代と共に上京して学習院中等学科に転じたが校風に合わず、乱暴を重ねてやがて退学する。時の学習院長を、中矢が乃木希典将軍とするのは大錯覚で、乃木は当時少将・歩兵第一師団長で、十四年後の四十年一月に学習院長に就く。当時は陸軍少将、子爵・田中光顕が学習院長であった。

 田中学習院長から退学処分の通知があり、頭山と井上馨と千代の三人が辰吉朗の今後を相談した時、頭山が一言した。「この男の規模では日本に合いませんな。どうでしょう、いま孫文が私の手元に亡命しています。彼に預けて、大陸へ渡らせたら」との言であったが、それを聞いた辰吉郎は、「それから間もなく、生涯の盟友になる孫文に、柳橋の料亭で引き合わされた」(中矢前掲・原文まま)。その時期を中矢は、「明治三十二年、『一代記』によれば、辰吉郎十五歳春のことであった」と記すが、原典たる森川哲郎『堀川辰吉郎一代記』は辰吉郎からの聞き書きで自称通り明治十七年生まれとしているから、十五歳とせざるを得ないが、祖述者の中矢自身は内心明治十二年説を持しているため、年齢については原典を承服できず、わざわざ「『一代記』によれば」と断ったものであろう。

 辰吉郎の学習院転入が中等学科二年生とすれば、実年齢から推して明治二十七年の筈であるが、長くは在校しなかったようだから、退学の時期は大凡二十八年頃と見て良い。しかしこれは、辰吉郎が博多の小学校以来ずっと正常に進級した場合のことで、退校・転校の繰り返しの中で何年か足踏みしていたならば、その年数だけ遅れる。内務大臣井上馨は二十七年十月から朝鮮大使に転じ、二十八年十月までソウルで過ごしているから、退学後の方針をめぐる前記の談合に井上が参加しているのなら、退学の時期はやはり二十八年末と見た方が自然である。 

 
 ★孫文との出逢いはいつか 秘められた三年間に何が 

 
 ともかく学習院を中退した辰吉郎は、革命家孫文を援けて活動することとなる。天性の革命家・孫文は、明治二十八年十月の最初の挙兵(広州蜂起)に失敗、十一月日本に密航してきた。これが初来日で翌年ハワイ経由で英国に渡り、十カ月ロンドンに滞在し、連日通った大英博物館の図書室で南方熊楠と知り合い友誼を結ぶ。ここも清朝の追及が厳しく、英国を追われた孫文は、三十年八月再び日本に亡命した。この時に孫文を匿い保護したのが宮崎滔天・平山周らで、背後には玄洋社と黒龍会がいた。辰吉郎が孫文に引き合わされたのは多分この再来日の時期で、明治三十二年説を疑う必要はないだろう。

 中矢前掲によれば、辰吉郎は孫文に逢う前に「この頃、孫文より少し遅れて、日本に中国革命の大志士が、清朝政府を追われ」て渡ってきた康有為に逢った。明治二十八年九月光緒帝の下で政治改革「戊戌の変法」を図った康有為は、保守派の西太后と寵臣・袁世凱に阻まれて失敗し、同志の譚嗣同らは処刑された。中矢によれば、危機に瀕した康有為を救ったのは偶々北京を訪れていた前総理・伊藤博文で、大陸浪人・平山周、山田良政らに命じて救出せしめたが、「その事実を、辰吉郎は、井上伯に連れられた席上で伊藤公(原文まま)本人の口から聞いたと証言している」という。孫文と康有為の初来日は殆ど同じ時期で、康有為はその後も再三来日するが、文脈からしてこれは康の初来日の時、すなわち明治二十八年末あたりと推察される。因みに伊藤博文は、二十八年八月に日清戦役の功績で侯爵に陞爵したばかりで、公爵陞爵は四十年である。

 以上を総括すれば、明治二十八年に学習院を追われた辰吉郎を大陸問題に関わらせようと考えた杉山茂丸は、朝鮮駐劄特命全権大使から同年十月に帰還した井上馨に頼み、亡命客の康有為に引き合わせた。時に辰吉郎は実年齢十五歳で、その後孫文に出逢う明治三十二年春までの三年有余の間どこで何をしていたのか。それを森川に語らなかったのは意図的で、その期間にこそ辰吉郎の真の秘密があると私(落合)は思う。


      続く。
 



 ●疑史 (第73回)  清朝宝物の運命(終)
 
 ●疑史 (第73回)  清朝宝物の運命(終)      
評論家・落合莞爾 
 
 中華史上最高の名君を論ずる時、民族感情もあって一概にはいかぬが、清朝の康煕帝を挙げる者が最も多いという。ツングース族の黒水靺鞨は十一、二世紀の交に族称を女真と称えて歴史に顕れたが、完顔部の首長・阿骨打が契丹族の「遼」を滅ぼして一一一五年に帝位に就き、国号を「大金」と称した。折しも日本は平安末期で、源平両氏が軍事力を以て朝廷で頭角を顕しつつあった頃である。

 「金」は契丹族の「遼」、漢族の「北宋」を亡ぼして中華本部の北半分を支配し、漢字と契丹文字の影響で女真文字を作った。西北異民族が建てた征服王朝は、漢字に倣って独自の文字を創るのが慣例で、突厥文字を初め契丹文字・西夏文字・蒙古文字・満洲文字などを考案したが、所詮民族文化を誇るだけに止まり、中華文明の芯核たる漢字を超克することは出来ず、徒に文化遺物と化した。共産主義革命で成立した中華人民共和国が用いる簡体字も、見方によっては西北文字の一種であるから、後代には「中共文字」などと呼ばれることもありえよう。これに対し、日本の仮名や朝鮮のハングル(諺文)は、漢字そのものを民族語の文法に適合させるために創った表音文字で、自ずから性格が違う。大韓民国が中華の影響を排するために漢字の使用を廃したのは短慮に過ぎるが、その代わり金正一を正日に変えたり、金正銀を正恩に変える操作が可能となった。

 さて阿骨打の大金帝国が新興の蒙古帝国に滅ぼされて後、華北に入っていた女真族は漢族に紛れてしまうが、満洲に残った女真族は「元」の支配下で隠忍自重し、「明」代には部族に分れて明に朝貢したが、やがてマンジュを称する建州女真の首長ヌルハチが一六一六年「後金」を建て、満洲部族連合の王として「金国大汗」を称した。後金二代目皇帝の皇太極(ホンタイジ)は一六三五年に蒙古のチャハル部を征した時、「北元」皇帝の末裔から大元皇帝のレガリアたる玉璽を献上されたのを機に、女真族・蒙古族・漢族の推戴を受け、天命を感じて国号を[清]と改めた。後金の三代目が山海関を越えて中華本部に入り、中華帝国大清の初代皇帝になった。すなわち康煕皇帝で康煕以後、雍正・乾隆と続く清初三代は中華史上でも空前絶後の最盛期であった。

 ルネッサンスにより物質科学的精神を解放した西欧文明が、その物理力を以てインド亜大陸・東南アジア圏に侵攻し、更に中華大陸を窺う勢いを示したのに対し、物理力では十二分に対抗できた筈の中華帝国は殆ど手を拱いた形で終始するが、中央アジアでは回・蔵の地を中華帝国の辺境として編入した。すなわちチベットを藩属せしめ、ウイグル族の地を領土に編入して新疆(ニュー・テリトリー)と称したが、その間に欧州諸国による西南・東南アジア・シベリアの占領が進む。之をもたらした要因を、一説には支配級の満洲族が中華本部の護持に汲々として対外発展の気力を自ら封じたとするが、蓋し満洲を「封禁の地」として過疎のまま維持したことは、朔北シベリアをコサックの蹂躙に任せロシア帝国の成立を助けたわけで、肯綮に当たるものがある。

 アジア的停滞は漢族支配の明朝によって明確化した傾向であって、異民族のせいにするのは如何なものかと思うが、折角漢族支配を恢復した中華本部が、世界史の分岐点に当たるこの時期に再び異民族支配に戻ったのが、偶然か或いは必然的要素があるのかは、中華史の一大問題であろう。

 さて、乾隆帝は乾隆四十七年(一七八二)四庫全書の完成を見るや、奉天宮殿を大改装して文遡閣を設けた。恐らく、これに紛れて皇太極を祀る北陵(正式名称は昭陵)にも改装を施して秘密倉庫を造り、紫禁城に秘蔵していた歴代の古陶磁に康煕・雍正・乾隆三代が特命で設けた御窯の御庭焼を併せ、厳秘裡に奉天に送って秘密倉庫に隠匿させたのであろう。「奉天古陶磁」これである。

 大正初年に二代目醇親王から「奉天古陶磁」を譲り受けた堀川辰吉郎は、これを張作霖支援の原資とするために、大正六年初頭に一先ず張作霖が強奪した形とし、大正十四年初頭に紀州徳川家から代金七百五十万円を受け取った張作霖が、それを奉天兵工廠の拡充資金とする。この時日本に渡来した「奉天古陶磁」は、大谷先瑞師の指示で、間もなくその一部が流出して世界各地の美術館の目玉となり、日本に残ったものは多くが重要文化財に指定された。流出品は全てオリジナル品で、清初三代の皇帝の御庭焼は最後まで紀州に残った。私見によれば、御庭焼を選んで残したのは意図的で、それは御庭焼が特殊な性格のものだったからである。

 清初三代の皇帝が景徳鎮官窯の振興を命じ、官窯品の品質向上に執着したことは記録にも残り、遺品も多い。殊に第二代雍正帝はその短い治世の間、政務に寧日無き中で、唯一の趣味は陶磁器の製作であった。官窯製品は紫禁城・円明園離宮・熱河避暑山荘で装飾・実用など宮廷生活に用いられ、或いは皇帝蒐集品として保管されたが、他に十万余件が予備品として奉天宮殿に秘蔵された。ところが、乾隆帝が奉天北陵に隠した「奉天古陶磁」の中に在った清初期の御庭焼は、並の官窯とは異なる特設の御窯で造られたらしく、その製作動機も、主として倣古を目的としたものであった。倣古品は一般の官窯でも宣徳・成化の明代窯業最盛期のオリジナル品を模倣して大いに造ったが、御窯の倣古品はそれらとは全く異なっていた。

 中華文明の本質は陶磁文明である。当時それを最もよく知る者が清初三代の皇帝で、この故に官窯を振興させて新作と復古を進めたが、同時にオリジナル品を上回る倣古品の製作をも秘かに試みていた。それが御庭焼で、意匠・作行において已にオリジナル品に勝り、もはや倣古品を超えて、古作を超克した「克古品」の域に達していた。乾隆帝はおそらく、之を天元の玉璽と同じく満州族・漢族・蒙古族が推戴する複合民族国家中華皇帝のレガリアとして奉天に送り、北陵に秘蔵せしめて学者家系の孫氏に管理を命じたのである。

 紀州家の購入資金七百五十万円のうち五百万円を肩代わりした大谷光瑞師は、資金回収のため一部を売却するが、売却対象に歴代の古陶磁と清初官窯の新作品を選び、御庭焼を紀州家に留めたのは、醇親王からおそらく辰吉郎を通じて、乾隆帝の素志を聞いていたからであろう。木稿を書きながら思い出したのは、本願寺忍者を自称して先方から接近してきた某氏が、「奉天古陶磁」について「張作霖はこれを待った因縁で満洲王となり、手放したので落命した。これは滅多な扱いをしてはいけません」と申し起こしてきたことである。恐らく「九龍の壷」が中華皇帝のレガリアであるとの注意を喚起するための、本願寺からのメッセージであろうか。

 私(落合)の想像では、光瑞師が上田恭輔に命じて満鉄窯で「奉天古陶磁」の倣造を始めたのも、日本人の手で清初御窯の「克古品」に匹敵するものを造ろうとしたものと見て善い。大正五年頃から上田恭輔に古陶磁研究を命じ、六年には小森忍を抜擢し、その技量に中尾萬三の薬学知識を併せて、満鉄予算を傾けて取り組んだので、謂わば「光瑞御窯」であるが、日本人陶工の力量が窯業極盛期の官窯に到底及ばないことを悟った光瑞師は、早ぐも方向転換を図り、上田に自立して倣古品製作に進むことを命じた。自立を決意した上田は、販路確保のため、満鉄窯の名義で関乗車参謀長浜面又助に接近する。一方、浜面は粛親王救済資金を造る目的で倣造工作への加担を陸軍中央に具申して認可を得た。


 紀州家に御庭焼を残したのは、辰吉郎か光瑞師の建てた基本方針によるもので、中華皇帝のレガリアを安易に流出させるわけにはゆかぬからである。「奉天古陶磁」の嵌め込み先として、財源が深い上に経済事業も消極的のため、多少の経済変動に煩わせられる心配のない紀州家を選んだのは、時機の到来するまでレガリアを安全に秘蔵せしむる主旨であったようだ。醇親王は正に満洲の将来を「奉天古陶磁」中の「克古品」と共に、堀川辰吉郎に託したのである。


 因みに、昭和七年建国の満洲国が悍恟した五族協和は、かつて皇太極を皇帝に推戴した満州族・漢族・蒙古族に、日本族・朝鮮族を加えた複合民族国家の理念を示すものであったが、醇親王の長男溥儀が就いた満洲国皇帝にはレガリアは渡らなかった。恰も、満洲国の前途を危ぶみ反対の姿勢を示した醇親王が北京を動かず、満洲国と一線を画したのと軌を一にするものがある。満洲国では甘粕正彦が官窯の設置を計画し、昭和十八年吉林省の五万坪の地に新設した厚徳官窯の製陶所長を小森忍に委嘱して清初御窯の再現を図ったが、日本の敗戦と共に烏有に帰した。

 日本の敗戦と時を同じくした中国の国共内戦が共産党軍の勝利に終わり、新たに生まれた中華人民共和国は、正に「後清」ともいうべき複合民族国家であったが、東西冷戦のために日中間の交渉は二十年に亘り閉ざされることとなった。「奉天古陶磁」を日中国交回復に活用しようと考えていた大谷高光瑞師は、終戦直後に満洲で発病しソ連軍に抑留されたが、二十二年に帰国して翌年病没、光瑞師の八歳下で明治十七年生まれの醇親王も昭和二十六年に病没する。

 光瑞師の遺志は、東本願寺の大谷光暢師が夫人の智子裏方を通じて継承を申し出て、了承されたが、冷戦の影響で日中の国交回復は進まず、レガリアは空しく紀州家周辺の蔵で眠りながら、発現の時機を待っていた。昭和四十一年の辰吉郎の逝去に間に合わなかった日中国交回復は、四十七年に田中角栄・大平正芳によって達成され、「奉天古陶磁」は終に出番を得なかった。平成元年に智子裏方が薨去、次いで徳川為子夫人も他界したので、「奉天古陶磁」は庇護者を喪い、稲垣伯堂画伯を介して紀州文化振興会に移ったのである。

 最近、牽牛子塚古墳が八角陵と判明して斉明天皇の御陵と確定した。斉明の属する大智天皇系の陵墓が悉く八角陵だからで、これに寄せた学校史家の見解は、仏教意識の高まりによる蓮華文とか、道教思想によるものとするが、墓制は文化の芯核として最も保守的で、一時的な流行や思い付きを採用するものでは決してない。

 「八」こそは、東北アジアの騎馬民族の聖数であり、これを用いる処に天智系皇統がその本質を顕しているのである。「八」が軍制・政治制度に顕れるのは、蒙古族ないしツング
ース・チュルク族の「契丹八部」、女真族の「満洲八旗」、北朝の北魏・北周などの「八柱国」など枚挙に暇がないが、わが朝に於いても応神天皇を表す「八幡」は騎馬系統に属する族種の象徴数である。聖徳太子に所縁の法隆寺夢殿と広隆寺桂宮殿も八角堂で、その祖形は騎馬民族が部族会議を催した八角の天幕であり、それを高層化したものが奉天宮殿の主棟の大政殿である。

 東亜の風雲は急である。五族が真に協和する時期の到来を願って已まず、その節にはレガリアがその姿を現すだろう。 

 ************* 

 
 ●疑史 (第73回)  
 <了>。
 
 




●『大逆事件 死と生の群像』
 
 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ  
  末木文美士(すえき ふみひこ) トランスビュー2004年6月 

 
 第十章 社会を動かす仏教一内山愚童・高木顕明
 
 四 内山愚童の「天皇と仏教」批判  

 
 高木顕明が大逆事件そのものとしてみるときは周辺に位置したのに対して、内山愚童はかなり中核的な役割を果たした。内山自身は直接テロに関わったわけではないが、自ら地下出版した『無政府共産』では、はっきりと天皇を批判しており、宮下太吉がテロを志したのにも影響を与えた。

 内山は明治7年(1874)新潟県の小千谷に生まれた。幼名・慶吉。父・直吉は和菓子の木型を作る職人で、慶吉は小学校を卒業すると父の見習いをしていた。17歳のとき父が事故で亡くなり、家長となったが、20歳のときに上京して、井上円了の家の書生または家庭教師になったという。明治30年(1897)、叔父の青柳憲道(曹洞宗の僧)の縁で神奈川県愛甲郡宝蔵寺、坂詰孝童について得度し、天室愚童と称した。この後、参禅修行を重ね、明治34年には神奈川県足柄下郡温泉村(現箱根町)大平台の林泉寺住職・宮城実苗の法を嗣いだ。同36年林泉寺に入り、翌年住職となった。大平台は貧しい土地で、内山はここで住職を続けるうちに社会主義に関心を深め、『平民新聞』の創刊(明治36)以来の読者であった。

 その後、平民社の社会主義者と交流して名を知られるようになり、伊藤證信の無我苑の運動にも共鳴し、交流を持っている。『平民新聞』廃刊(明治40年)以後、社会主義運動が穏健派の議会政策派と強硬派の直接行動派に別れた中で、内山は直接行動派に近づき、「革命は近づけり」という意識を持つようになった。明治41年、社会主義者たちが赤旗を持って街頭行進をしたところ、有力な指導者たちが逮捕され有罪となった赤旗事件があり、社会主義運動は壊滅の危機に瀕した。その状況に危機感を募らせた内山は秘密出版を志し、自ら執筆したパンフレット『無政府共産』を各地の社会主義者に送り、その後も二冊刊行した。明治42年、その件に関する出版法違反で逮捕され、家宅捜査で見つかったダイナマイトの不法所持と併せて同43年有罪判決を受けたが、獄中で大逆事件について再起訴された。こうして同44年1月18日に死刑判決を受け、24日に処刑された。明治42年に逮捕されたとき住職を退き、同43年有罪判決で曹洞宗から攬斥処分を受けた。曹洞宗が攬斥処分を取り消したのは、1993年であった。

 高木顕明がきわめてはっきりと仏教の立場を表明しているのに対して、内山は必ずしもその点が明瞭でない。確かに、『平民新聞』第10号(明治37年)には、「予は如何にして社会主義者となりし乎」という問いに対して、「予は仏教の伝導者にして曰く一切衆生悉有仏性、曰く此法平等無高下、曰く一切衆生的是吾子、これ余が信仰の立脚地とする金言なるが余は社会主義の言ふ所の右の金言と全然一致するを発見して遂に社会主義の信者となりしものなり」と答えている。それぞれ『涅槃経』『金剛般若経』『法華経』の文句に基づいており、これによるならば、仏教の信仰に合致するから社会主義に入ったということになるが、後述のように、必ずしもそうした理論的な理由によるものとは思われない。

 しかし、石川三四郎ら、林泉寺を訪れた社会主義者たちに座禅を勧めたり、伊藤證信に対して、「折角因縁あって住職した今の地が、三百年来、曹洞宗の信仰の下にあり乍ら、高祖道元の性格は勿論、其名も知らぬといよ気の毒な人ばかりであるから、之を見捨てて去る時は、千万劫此地に仏種を植ゆる事は出来ぬ」(明治38年11月初句頃。柏木隆法『大逆事件と内山愚童』所収) と書いているように、一時期は宗門人として生きる覚悟を強く示している。同じ書簡には、「何人も今の世に在って、真面目に道の為に働かんとする者は、魔窟より発する本山の偽法には堪えられません」と書いて、本山のやり方に義憤を露わにしている。そうした正義感が、貧しい大平台の人々の生活に触れる中で、その社会主義を深めていくことになったのであろう。

 内山の著作としては、地下出版した『無政府共産』と、獄中で書いたとされる草稿「平凡の自覚」が知られている。ただ、いずれにおいても直接仏教に関わるような思想や用語は用いておらず、仏教との関係ははっきりせず、その点が問題となる。「平凡の自覚」に関しては、獄中の執筆ではなく、もっと早い時期に書かれたものではないかという説もある(森長英三郎『内山愚童』)。大逆事件の被告が獄中で書いたものは、秘密保持のために遺族に渡されなかったはずにもかかわらず、この手記は遺族に渡されており、獄中の手記としては疑問があるからである。この点に関しては私には何とも言えないが、後述のように、獄中で書いたことがはっきりしている「獄中にての感想」と似た書き方のところもある。「平凡の自覚」は『無政府共産』に較べれば穏健であり、個人の自覚による社会改良という方向を示している。そこでは、資本家を倒すことではなく、「自覚セル資本家」のあり方をも説いており、社会協調主義的な面が見られる。

 「平凡の自覚」(諸書に収録されているが、ここでは神崎清編『新編獄中手記』による)は、現存の原稿は途中で切れており、最後のほうが散逸している。前書きに続いて、最初の目録では、個人ノ自覚・家庭ノ自覚・市町村ノ自覚・国家ノ自覚・世界ノ自覚・工場ノ自覚とあるが、実際には個人ノ自覚・家庭ノ自覚・村民ノ自覚・市町村ノ自覚・工業界ノ自覚・農業界ノ自覚と進んで、その中途まで現存する。

 その原稿では、まず「自覚」について説明する。「他カラ教ハツタ者デモ、自分が発見シタモノデモ、ソレニハ関係ナシニ、自心二深ク消化セラレテ吾物ニナツタ処ヲ自覚ト云フノデアル」。その自覚は、宗教家・政治家・哲学者などでいろいろ異なっているが、ここでは、「学者モ無学者モ貴キモ賤キモ富メルモ貧シキモ、共力(協力)シテ自覚セネバナラヌ者ガ、ナケレバナラヌ」と、すべての人に共通する自覚をあげている。これを内山は「平凡ノ自覚」と呼ぶ。

 その具体的なところを、「自覚的行動」という項目に記す。そこでは、「一個人ノ発達モ国体トシテノ発達モ同ジイ者」とする。「一個人ノ幼少ノ時代ニハ凡テノ利害が父兄・長者ノ意ノママデアルケレドモ、成長シテカラハ、自己ノ意二逆フテ父兄二盲従スル事ナク、即チ自覚的ニ行動スル」。それと同様に、国体も幼稚な頃は強い人に服従しているが、「事由ノ力量ヲ自覚スル迄二進ンデ来ルト、・・・各個人が参与スル事ニナリマス」。こうして、民本主義、民主主義になるというのである。このように、自覚の問題は、個人だけでなく、同時に政治の問題に関わってくるところに、社会主義者としての内山の面目がある。

 もう一点注目されるのは、続いて、「宗教家ノ自覚、学者ノ自覚ハ、ドウデアリマスカ知リマセンケレドモ、私共平凡ノ自覚二満足シテ居ル者ハ、人民各自ガココ迄、自覚シテクレバ充分デアルト思フノデアリマス」とあるところである。このように、ここでは★「平凡ノ自覚」が「宗教家ノ自覚」と異なるとされている。そのことは、すでに冒頭部分でも言われており、かなり強調されている。先にも触れたように、内山の著述には仏教的な用語や概念がまったくなく、そればかりか、このように宗教との相違が強調される。

 それならば、彼の「平凡ノ自覚」は仏教と無関係なものであろうか。簡単にそうも言えない。このように区別が強調されるところに、逆説的に宗教が強く意識されていると考えられるからである。高木が素直に信仰の立場に立つのに較べて、内山には宗教に対する屈折した思いがある。それは先に触れたように、内山が宗門の現状に対して厳しい批判的な見方をしていたからである。処刑のとき、教誨師から念珠を掛けるように勧められて拒否したというが、そこにも、形式化した仏教に対する批判の意が籠められていたと思われる。少なくともある時期からは、既存の宗派仏教には絶望していたのではあるまいか。

 確かに社会の問題を「自覚」というところから捉えようというのは、社会思想のレベルだけでは考えられず、禅の影響があるかもしれない。また、「平凡」を強調するところには、内山自身がかつて自ら挙げたように、「一切衆生悉有仏性」の発想があるかもしれない。社会問題を「自覚」に還元することは、社会主義の本流から言えば、真の問題を隠蔽するものとも言えるかもしれない。

 しかし、別の観点から見れば、個人の自覚の上に社会問題を考えていこうという姿勢は、思想史的にきわめて重要な意義のあることともいえる。これまで指摘してきたように、日清・日露戦争間に、日本の思想界ははじめて本格的に個の自覚の問題とぶつからなければならなかった。しかし、必ずしもそこでの個の確立は十分に成しえなかった。その中で、「自由・平等・博愛」「独立独歩・自治自適・自由自在」に目覚めた平凡な個人から社会問題へと出発しようという内山の構想は、まさにあるべき個のあり方を提示するものとして注目される。

 「平凡の自覚」についてこれ以上立ち入ることは略し、「獄中にての感想」(吉田久一 「内山愚童と高木顕明の著述」、『日本歴史』131、所収)について触れておこう。「獄中」とはいっても、出版法違反で逮捕された明治42年(1909)10月26日付のもので、大逆事件起訴以前である。はじめのほうが散逸しており、途中からしか残っていない。表題は仮のもので、実際には個人的な感慨を記したものではなく、理性的に行動すべきことを説いた論である。

 ここでも、学者などでなく、「一般の無学者にも、それ相応に理性に従って後悔なきの行動をとることができる」と、「平凡の自覚」と同じような論調で論じられている。ただ、「其理性に従って行動した為に、断頭台上の露となっても、十字架上の辱かしめを受けても、寒風骨を刺す北海の地下獄に半生を終るとも、泰然自若たることが出来る。これが人生の幸福と云ふものである」と、厳しい刑罰を予想して、それに動じない信念の確立を説くところに、獄中での切迫した状況がうかがわれる。

 最後に、『無政府共産』について見ることにしよう。本書は諸書に収録されているが、柏木隆法『内山愚童と大逆事件』所収本による。本書は前述のように、赤旗事件の後、社会主義壊滅の危機感の中で、地下出版の第一号として出されたパンフレットである。旧式の印刷機を林泉寺の本尊の須弥壇の袋戸棚に隠し、自ら活字を拾って作り上げた。表紙には「入獄紀念無政府共産」とあるが、「入獄紀念」は赤旗事件の入獄者を記念するということである。地下出版はその後、『帝国軍人座右之銘』(大杉栄の訳文の改変)、『無政府主義・道徳非認論』(バシンスキー、大石誠之助訳)の二冊を出している。

 本書は「小作人ハナゼ苦シイカ」として、もっぱら小作人に訴える形で進んでいく。そのポイントは、「なぜにおまいは、貧乏する。ワケをしらずば、きかせうか。天子、金もち、大地主、人の血を吸ふダニが居る」と歌われている。これは『日本平民新聞』第一四号付録『労働者』に載った「社会主義ラッパ節」の替え歌であるが(柏木隆法『内山愚童と大逆事件』、101頁)、その際、元歌の「華族」を「天子」に替えたところに、本書の主張がある。金持ちや大地主を攻撃するだけならば、社会主義に共通することであり、危険思想とされても、合法的な出版が不可能ではなかったであろう。しかし、その批判が直接「天子」に向かうことにより、その出版は敢然として「不敬」に挑むことになった。


 今の政府を亡ぼして、天子のなき自由国に、すると云ふことがナゼ、むほんにんの、することでなく、正義を おもんずる勇士の、することで あるかと云ふに。今の政フや親玉たる天子といふのは諸君が、小学校の教帥(ママ)などより、ダマサレテ、おるような、神の子でも何でもないのである、今の天子の祖先は、九州の スミから出て、人殺しや、ごう盗をして、同じ泥坊なかまの。ナガスネヒコ などを亡ぼした、いはば熊ざか長範や大え山の酒呑童子の、成功したのである、神様でも何でもないことは、スコシ考へて見れば、スグ しれる。


 天子を正面から批判し、「今の政府を亡ぼして、天子のなき自由国に、する」ことを訴える論調は、もはや完全に非合法な活動へと踏み込むものである。「何事も犠牲なくして、出来るものではない。吾と思わん者は、此正義の為に、いのちがけの、運動をせよ」、あるいは、「無政府共産と云ふ事が意得せられて、ダイナマイトを投ずる事をも辞せぬと云ふ人は、一人も多くに伝道して願ひたい」と、実行を迫ることになる。

 この内山の呼びかけは、あまりに過激として同志たちに無視された中で、正面から応じたのが宮下太吉であった。宮下は、・・・(既述の経歴なので)中略・・・

 そこで問題は、この『無政府共産』が仏教と関係するか、ということである。本書は最初に、小作人がなぜ一生懸命働きながら苦しいか、という問いに、「そは仏者の云よ、前世からの悪報であらふか、併し諸君、二十世紀といふ世界てきの今日では、そんな迷信にだまされておっては、末には牛や馬のやうにならねばならぬ、諸君はそれをウレシイト思うか」と、仏教の業説が「迷信」として批判の対象とされている。

 この場合も、仏教が意識されていることは確かであるが、「平凡の自覚」以上に、仏教との直接の関係は見がたい。「平凡の自覚」の場合は、そこに屈折した禅的な発想を見ることが不可能ではないが、『無政府共産』の場合は、そこに仏教を見ようとするのはかなり無理があろう。むしろ最初に仏教の業説示否定されているところに、因襲的な仏教に対して批判的になっている姿勢が見られる。

 内山が三番目に地下出版したバシンスキー『道徳非認論』は、大石誠之助の訳と考えられているが、平民の自覚を防ぐために、「これまでは宗教が其ノ道ぐ・具として甚だ有力なものであったが今日では最早昔日における程の効能がなくなった」として、宗教に対して否定的な見方を示している。その表紙には、「道徳と宗教とは、泥坊の為に番頭の役を勤むる者なり」と、明確に規定されている。

 内山が仏教を捨てたとは単純には言えないであろうが、内山においては仏教と仏教批判、そして仏教離れが屈折したかたちで深く関連している。批判という形で宗教、仏教に投げかけた問題を見るべきであろう。

 
 ★五 土着思想の可能性 

 
 大逆事件と仏教という問題は、大逆事件で刑に服した三人の僧侶の問題に限られるものではない。何よりも三人を出した宗派の問題であった。三人を出した曹洞宗・浄土真宗大谷派・臨済宗妙心寺派は、それぞれ慌てて三人を攬斥処分にするとともに、宗門寺院に諭達を発し、曹洞宗・臨済宗妙心寺派では宮内省などにおうかがいを立てたり、陳謝したりした。時代の制約とはいえ、★「尊皇護国ヲ以テ立教ノ本義トシテ此ノ宗門ヲ開創セラレ」「天恩二感激シ奉り日夜孜々トシテ報効ノ実蹟ヲ奏センコトヲ熱衷スル」(曹洞宗の諭達、吉田久一 『日本近代仏教史研究』、481頁)と何の躊躇もなく言い切る宗門に内山が絶望しきっていたとしても、それをとがめることはできないであろう。

 大逆事件によって逆説的に明らかにされた当時の社会主義者たちのネットワークは、上からの宗教利用と異なり、草の根レベルでのキリスト教と仏教、社会主義、部落解放運動、非戦思想などの交渉と習合、協力の関係を明らかにする。それは、先の大沢正道の批判とは逆に、純粋純血の輸入思想と正反対であるからこそ、土に根ざした思想の定着の可能性を明らかにしてくれる。

 彼らの復権は1990年代になってからであり、彼らが時代にあまりに先走って開いた可能性は、いまだに十分に受け止められていない。明治の仏教が垣間見せたわずかな可能性をどのように切り開いていけるかは、なお今後に残された課題である。

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 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ 
<了>。
 

 

●『大逆事件 死と生の群像』
 
 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ  
  末木文美士(すえき ふみひこ) トランスビュー2004年6月 

 
 第十章 社会を動かす仏教-内山愚童・高木顕明 
 三 高木顕明の社会主義 

 
 249p~
 内山がかなり強いアナーキズムの思想を抱き、直接行動に踏み込もうとしていたのに対し、ともに紀州新宮の大石誠之助(1867~1911)このグループに属する高木や峯尾は、はるかに穏健であった。大石はアメリカ留学帰りの医師として財力もあり、地元の名士として人望も厚かったが、持ち前の正義感から社会主義へと入っていった人である。幸徳秋水とも親交があり、そこから共同謀議の濡れ衣を着せられることになり、そのグループのメンバーとともに一網打尽に逮捕されることとなった。その中でも高木は、逮捕されたとき46歳と、逮捕者の中でも年長であり、それまで新宮の浄泉寺住職として、地道な実践を重ねてきていた。それだけに、その社会主義も深い信仰と実践に裏打ちされたものを持っていた。

 高木は元治元年(1864)愛知県西春日井郡に生まれた。17歳頃までに出家して、尾張国小教校に学んだ。もともと山田姓であったが、30歳のとき道仁寺の高き義答の養子となり、高木姓を名乗るようになった。その頃から新宮を中心に布教活動に従うようになり、明治32年(1899)36歳のときに正式に浄泉寺の住職となった。浄泉寺はその檀家に多数の被差別部落があり、そこから差別問題に関する認識を深め、同時に、日露戦争に対しては非戦論を唱え、また、公娼制度に反対するなどの活動の中から、社会主義に接近した。
「余が社会主義」(1904*浄泉寺HPで読める。)は、このような中で書かれた彼の社会主義宣言である。

 その後も、「虚心会」を開いて部落改善運動に取り組んだり、新宮の社会主義の中心人物であった大石誠之助のグループと交わり、幸徳秋水の談話会を浄泉寺で開催したこともあった。こうしたことが大逆事件連座につながることとなった。明治43年(1910)逮捕され、翌年死刑判決後に無期懲役に減刑され、秋田刑務所に服役中の大正3年(1914)に自殺を遂げた。起訴されたとき、住職を差免され、判決時に大谷派から排斥されていたが、1996年ようやく処分が取り消されて名誉を回復し、今日その活動が評価されつつある。

 高木の社会主義思想は「余が社会主義」に述べられている。短い文章であるが、論旨が明瞭で、その思想をよくうかがうことができる。その緒言には次のように言う(以下、「余が社会主義」の引用は、真宗ブックレット『高木顕明』所収のものによる)。

 余が社会主義とはカールマルクスの社会主義を稟けたのでない。又トルストイの非戦論に服従したのでもない。片山君や枯川君(堺利彦)や秋水君の様に科学的に解釈を与へて天下二鼓吹すると云ふ見識もない。けれども余は余丈けの信仰が有りて、実践して行く考へであるから夫れを書いて見たのである。何れ読者諸君の反対もあり御笑ひを受ける事であろー。しかし之は余の大イニ決心のある所である。

 この箇所には高木の大きな自負が寵められている。緒言の前半は謙遜のように見えながら、じつは後半の揺るぎない自負と自信を導くための導入である。高きの社会主義はどこまでも自らの信仰に立ち、その実践の中から育ったものであり、決して頭だけの理論で生まれたものではない。頭だけの知識人がどれほど笑おうと、信仰と実践に立つ自分の信念は誰にも負けないという覚悟のほどが示されている。あえて片山(潜)、(堺)枯川(利彦)、(幸徳)秋水の名を挙げたのは、一面では彼らへのコンプレックスであるとともに、他面では彼らに負けないという自負でもある。

 大沢は、高木らの社会主義が「仏教思想そのもののなかから内発的に創りだされていったものではなく」と否定的に見ているが、少なくとも高木としては、それを仏教自体から出てくるものと考えている。そして、本論において、平民社をも含めて、外から持ち込んできた社会主義をしばしば批判の対象としている。身についた仏教の中から出てくるものこそ本物であり、外から持ち込んできたものは借り物にすぎないというのである。

 頭で考えられた社会主義ではなく、信仰と実践から出てきたものだという自負は、本論のはじめに、「社会主義とは議論ではないと思う。一種の実践法である。或人は社会改良の預言ぢゃと云ふて居るが余は其の第一着手ぢゃと思ふ」といっているところにも示される。「余は社会主義は政治より宗教に関係が深いと考へる」というのも、決して無理やり社会主義を仏教と結びつけたというわけではなく、以下を読んでいけば、きわめて自然な発想として彼の信仰から生まれていることが知られる。

 社会主義を政治の問題でなく、信仰の問題とするのは、一方にキリスト教社会主義があることを見ても、必ずしも不自然なことではない。仏教を地盤とした社会主義の構築は十分に可能であるが、成功した例は必ずしも多くはない。その中で、高木の実践に鍛えられた思想は一つの手がかりを提供しているように思われる。

 本論は、社会主義を信仰の対象と信仰の内容という二面から考察する。信仰の対象はまた、教義・人師・社会の三つがある。教義は南無阿弥陀仏であり、人師は彼の理想とする人で、釈迦やその他の仏教者、とりわけ親鸞を挙げる。社会は極楽という理想世界である。ここで注目される点を挙げてみると、第一に「南無阿弥陀仏」に平等を見ている点である。「詮ずる処余ハ南無阿弥陀仏には、平等の救済や平等の幸福や平和や安慰やを意味して居ると思ふ」と述べている。これは必ずしも無理な解釈ではない。法然の『選択本願念仏集』では、阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」という名号を選んで衆生に与えた理由として、誰にでもできる易行であるということを挙げ、阿弥陀仏の「平等の慈悲」を強調している。もちろん親鸞も基本的に法然を受けている。

 ただ、法然にあっては、その平等性は宗教的な観点に関してのみ言われるもので、現実の社会の変革は当然ながら意図されていない。しかし、高木は極楽を理想世界と見て、必ずしもそれを来世のこととは見なかった。「真二極楽土とは社会主義が実行せられてある」といわれるように、それは理想の社会主義の実現を我々に示してくれる模範だというのである。極楽を手本として、現世にその平等の社会主義の社会を実現しなければならない。

 高木は、こうして浄土教の教義に社会主義を読み込む。釈尊は「霊界の偉大なる社会主義者」であり、親鸞もまた、「心霊界の平等生活を成したる社会主義者」であるという。戦後、服部之總らマルクス主義者によって親鸞の再発見がなされるが、高木の親鸞並びに浄土教解釈はそれを先取りするものである。しかも、高木は釈尊や親鸞の社会主義を「現今の社会主義者とは議論は違ふ」として、単純に当時の社会主義と一括されることを拒否している。高木の浄土教的社会主義は、十分に浄土教の近代的解釈の範囲内で出てきうるものであり、それほど無理のあるものではない。

 もう一つ注目されるのは、
「此の南無阿弥陀仏に仇敵を降伏するという意義の発見せらるゝであろーか」と、念仏者が日露戦争に対して開戦論を主張していることを批判していることである。「余は非開戦論者である。戦争は極楽の分人の成す事で無いと思ふて居る」とはっきり言明し、念仏者でありながら戦争を主張する南条(文雄)や比較的身近にいた開戦論者の仏教者・毛利柴庵(牟婁新報)の名を挙げて批判している。後のほうでも、繰り返し非戦論を主張している。日露戦争時にはキリスト教徒の非戦論が名高く、仏教者の非戦論はないわけではないものの、これほどきっぱりと表明されたものは他には見られない。高木の態度は高く評価されなければならない。

 次に、信仰の内容としては、第一に「思想の回転」を挙げる。これは回心とも言うべきもので、「一念皈命(きみょう)とか、行者の能信」とかいうことであるが、それも単純な信仰世界の問題にとどまらない。一部の特権者のために「一般の平民が犠牲となる国二棲息して居る」のであるから、「実に濁世である。苦界である。闇夜である。悪魔の為めに人間の本性を殺戮せられて居るのである」。その中で、御仏の声を聞き、光明を見つけて、「真二平和と幸福を得た」のであるから、いまや「御仏の成さしめ給ふ事を成し御仏の行ぜしめ給ふ事を行じ御仏の心を以て心とせん」ということになる。ここには、精神主義に見られた受け身一方の阿弥陀仏信仰ではなく、積極的に御仏の行を自ら果たしていこうという実践的姿勢が見られる。

 それゆえ、信仰の内容の第二は「実践行為」である。我々は「大爵位とか将軍とか華族とか云ふ者に成りたいと云よ望みはない。・・・生産の為めに労働し、得道の為に修養するのである」。こうして「念仏に意義のあらん限り心霊上より進で社会制度を根本的に一変するのが余が確信したる社会主義である」。

 以上、「余が社会主義」を検討してみた。そこでは、浄土真宗の立場に立ちながら、そこからどのようにして社会主義が可能であるか、その可能性を切り開こうとしている。それは決して無理な理論づけではなく、高木自身の仏教者としての実践の中から生まれてきたものとして説得力を持つ。また、ともすれば受け身一方になりがちな浄土教の立場に立ちながら、あくまで積極的な努力を求める点でも、新しい方向を開くものである。「余が社会主義」に見る高木の社会主義は、暴力革命やテロに結びつく要素は少ない。その後も一貫して社会主義を主張したが、その基本的な方針を変更したようには見えない。

 高木は1994年に処分が取り消されて名誉が回復され、被差別部落解放や非戦論の実践を伴うその社会主義に対する再評価が進みつつある。ただ、今のところそれが浄土真宗という宗門内の問題にとどまっているところが大きく、その枠をどのように乗り越えられるかが一つの課題であろう。それには、大石誠之助を中心として地方に根ざした活動を進めた新宮グループの社会主義全体から見直してゆくことが必要と思われる。そのグループの中では、キリスト教徒で連座を免れ、一生小説などによって事件の真相を訴え続けた沖野岩三郎(1876~1956)も注目される存在である。与謝野鉄幹を通して、大逆事件の弁護士として名高い平出修を被告たちに紹介したのも沖野である。

 その新宮グループのもう一人の仏教僧、臨済宗の僧・峯尾節堂1885~1919)について
もここで触れておこう。峯尾はもともと新宮の出身で、幼時に父と死別して、寺に入り、妙心寺で修行した。しかし、僧としての生き方に疑問を持ち、大石誠之助のグループに加わったが、社会主義にも完全には共感できず、大逆事件の頃には大石とも離れていた。したがって、高木以上に事件のとばっちりを受けた冤罪性が強い。死刑判決後、無期懲役に減刑され、千葉監獄に服役中、流行性感冒で亡くなった。

 峯尾の著述としては、服役中に書いた「我懺悔の一節―我が大逆事件観」(神崎清編『新編獄中手記』所収)が残されている。回心して「陛下は私の生命の親様であります」という天皇主義の立場に立って、大逆事件を振り返ったものであり、その限界はあるが、事件の当事者による証言として重視されている。

 思想的には、「あゝ恐るべきは科学一方で即ち唯物論的見地に立って世を解釈し人を救ふとするの人である。私の失敗・堕落も、元はと云へば如来を信じ乃至天地間に厳たる因果律の存在するといふやうな天地的洪大な東洋思想が欠如して、唯々物慾にかられて其の日を空しく消費してゐた不敬虔な精神に胚胎してゐる」というところに尽きるであろう。社会主義者が転向して東洋思想を賛美するようになることは、大沢正道の指摘するように、この後パターン化するが、その原型ともなるものである。僧であったことはこの文中には出てこないが、もともと僧であっただけに、その方向へ向かいやすかったであろう。獄中では、禅よりも親鸞の他力思想に接近した。逮捕後、臨済宗妙心寺派より擯斥処分に処せられたが、1996年に処分を取り消された。

 ************* 

    続く。
 



●『大逆事件 死と生の群像』
                      明治思想家論

 
 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ  
  末木文美士(すえき ふみひこ) トランスビュー2004年6月 

 
 ★第十章 社会を動かす仏教  内山愚童・高木顕明 241P~

 一 社会変革をめざす仏教 

 
 ここまで個人思想家を中心に取り上げながら、明治の思想史の中での仏教の役割を考えてきた。ごく常識的にいえば、明治の思想史は、初期の啓蒙主義から自由民権運動へと進み、その退潮の中で、帝国憲法の発布(明治22、1889)、議会開設(明治23、1890)により、立憲君主国として近代国家の形態を整える。しかし、同時に教育勅語の発布(1890)により、学校教育の場を通しての国民道徳の形成へと進むことになる。そして、その後の「教育と宗教の衝突」論争を通してキリスト教が非難の槍玉に挙げられた。それに対抗する形で、個の内面の深化が、とりわけ日清・日露戦争間の10年にひとつの頂点に達した。これまで主として考察してきたのは、その間に仏教が果たした大きな役割であった。

 その中で、田中智学のように、そのような枠に納まりきらず、より社会的な活動に進んでいくものもあった。その面から見れば、清沢満之にしても、宗門改革や教育活動に最後まで意欲を燃やしており、決して社会的な側面を無視していたわけではない。しかし、満之の活動は挫折し、智学の活動は国家へと収束して、批判性を失っていった。清沢没後の精神主義一派にも日露戦争に対する非戦論的な動向か見られたが、それも大きな広がりを持つにはいたらなかった。

 それでは、社会的な問題に対して、批判的な目を持ち、底辺から社会の問題を考え直し、変革しようという仏教者は他にいなかったのであろうか。確かに、そのような面はキリスト教のほうが目立った活動をしている。明治期の社会主義の重要な部分はキリスト教徒によって担われている。だが、仏教者にも社会に目を開いた活動がなかったわけではない。

 日清・日露戦争期に確立した日本の資本主義体制は、同時に貧困問題や労働問題を惹き起こすことになり、社会運動・労働運動が活発化し、やがて社会主義へと展開してゆく。その間、仏教者の間でも社会的意識に目覚めた活動が始まる。当初活動の中心となったのは古河勇(1871~1899)で、明治27年(1894)に経緯会を結成して、伝統的な教団に対して批判的な自由な立場を主張した。しかし、古河が若くして没したため、その活動は頓挫し、経緯会も明治三一年には解散された。

 その後、境野黄洋らが中心となって、仏教清徒同志会(明治32)から新仏教徒同志会(明治36)へと新たな活動に向かうことになった。そこには、高島米峯、加藤咄堂、伊藤左千夫などが集まり、雑誌『新仏教』を刊行して論陣を張った。新仏教徒同志会の綱要は次のように謳っている。

  一、吾徒は仏教の健全なる信仰を根本義とす
  二、吾徒は信仰及道義を振作普及して社会の改善を力む
  三、吾徒は宗教の自由討究を主張す
  四、吾徒は迷信の勦絶(そうぜつ)を期す
  五、吾徒は従来の宗教制度及儀式を保持する必要を認めず
  六、吾徒は宗教に関する政治上の保護干渉を斥く

 ここには政治的な干渉を退け、自主的な社会改善へ向かう志向が明白に表明されている。『新仏教』の執筆者は、右から左まで多岐に亙り、必ずしも一方に偏ったものではないが、一方で旧弊を改めない伝統的な仏教への批判を行なうとともに、他方では清沢満之らの内省主義に対して、社会意識を失ったものとして厳しい批判を突きつけた。社会主義者たちにもかなり積極的に発言の場を与え、堺利彦や石川三四郎も寄稿している。

 活動の中心になった境野黄洋(哲、1871~1933)は、哲学館(東洋大学)の出身で、ま
た村上専精の高弟として仏教史学者としても大きな成果をあげ、後には東洋大学の学長ともなっている。他方、同じ真宗大谷派内の精神主義批判の先鋒に立つなど、強い社会的な問題意識を堅持した。また、やはり中心の一人であった高島米峰は幸徳秋水とも親しく、その遺稿『基督抹殺論』の刊行に尽力している。他にも、『牟婁新報』を刊行して、菅野スガ(幽月)・荒畑寒村らの先鋭的な社会主義者を記者として招いた毛利清雅(柴庵、さいあん)なども注目される。

 さらに、仏教系の社会運動としては、伊藤證信(1876~1963)の無我愛の運動が明治37年(1904)に始まっていることも注目される。伊藤は真宗大谷派の僧であったが、脱宗して自由な立場に立ち、仏法の根本を無我の愛に見て、その実践運動を展開した。明治38年に無我愛に基づく共同体の場として東京巣鴨に無我苑を開き、そこには経済学者・河上肇が教職をなげうって参じたことがよく知られている。初期の伊藤は日露戦争に反対し、社会主義とも近い思想を表明していたことから、内山愚堂も親交を持っていた。

 その運動はまた、西田天香(1872~1968)の一灯園の活動とも通ずるところを持って  おり、明治だけでなく、大正・昭和へかけて運動を展開するが、やがて天皇主義、国家主義の中に呑み込まれてゆく。そのあたりについて、ここではこれ以上立ち入らないが、栄沢幸二『近代日本の仏教家と戦争』(専修大学出版局、2002)という好著があることを紹介しておく。

 
 二 大逆事件と三人の僧侶

 
 そうした中で、一躍社会の注目を引いたのは、大逆事件に三名の仏教者が参与していたことであった。即ち、内山愚童、高木顕明、峯尾節堂二である。内山は曹洞宗の僧で、死刑判決を受けて、処刑された。高木は浄土真宗大谷派の僧で、死刑判決の後、無期懲役に減刑されたが、刑務所で自殺した。峯尾は臨済宗妙心寺派の僧で、同じく死刑を無期懲役に減刑され、服役中に病死した。いずれも強い社会的な関心を持ち、それが冤罪によって十分にその思想を成熟させるに至らず、不遇の死を遂げるに至った。

 以下、彼らの思想の検討に入るに先立って、大逆事件についてごく簡単に触れておこう。・・・中略・・・

 ・・・
 このように、大逆事件はその実態を長いあいだ国民に知らせないまま、控訴なしの大審院の一回限りの判決で、「恐るべき無政府主義者の陰謀」を裁いたのである。その実態が明らかになるのは、はるか後の昭和の敗戦以後であり、三人の僧侶の名誉の回復はじつに1990年代にまで下らなければならなかった。

 大逆事件に関与した仏教者の思想と活動については、吉田久一の『日本近代仏教史研究』(1959)が先駆的であると同時に、関連した資料を丹念に調べ、研究の基礎を作った。その後、内山については柏木隆法『大逆事件と内山愚童』(JCA出版、1979)、森長英三郎『内山愚童』(論創社、1984)などの単著がある。高木については、彼が住職をしていた浄泉寺の現住職・山口範之が復権に尽力し、浄泉寺のウェブサイトは高木に関する詳しい情報を掲載している。また、真宗大谷派の真宗ブックレットの一冊として『高木顕明―大逆事件に連座した念仏者』(真宗大谷派宗務所出版部、2000)が刊行されている。

 ところで、大逆事件に連座した仏教僧について、日本のアナーキズム研究者として名高い大沢正道は、
「アナキズムと思想の土着-大逆事件に連座した三人の僧侶」(中村雄二郎編『思想史の方法と課題』、東京大学出版会、1973)という論文で、この三人の仏教者の言動に問題を投げかけている。大沢は、「これらの僧侶のなかに現われてきたアナキズムは、もちろん、仏教思想そのもののなかから内発的に創りだされていったものではなく、逆にアナキズムが都市から地方へと浸透していく過程で、仏教が、というよりは地方知識人として現実の矛盾に苦闘する良心的な僧侶が、それを受容する、あるいはそれにひきつけられるというかたちで形成されたもの」(大沢論文、385頁)と見ている。その結果、伝統的な仏教と新来のアナーキズムとの「折衷主義路線があえなく挫折し、伝統思想の変革も、外来の革新思想の定着も結実し得なかった」と批判して、その理由を「社会主義ないしはアナキズムと、仏教思想という二つの異質な思想を、その表面上の共通性で結びつけ、わが国のあしき伝統である混合主義の論理によって、異なった次元に配置し、補完、共存、親和の関係でくくった」(同、397~398頁)ことに求めている。大沢の断罪はかなり厳しいものである。

 確かに彼らの社会主義や無政府主義がどれだけ仏教そのものと内在的に関係しているかは、必ずしも明瞭ではないところがある。とりわけ、内山の場合、社会主義・無政府主義に深入りしていく中で、仏教批判的な面をかなり強めていったと思われる。また、峯尾の場合、社会主義に必ずしも強く賛同したわけではないが、大石グループと関係を持ったことで逮捕されることになった。

 しかし、彼らが「異質な思想」としての仏教と社会主義を折衷しただけという大沢の評価は、あまりに無理解な酷評であるように思われる。内山にしても高木にしても、高等教育を受けていない中で、まさしく「土着」の思想としての仏教に立脚しながら、草の根レベルで実践的な思想を鍛え、展開しようとしているのである。とりわけ高木の場合は、きわめて自覚的に仏教に内在しながら社会主義へと展開しようとしており、仏教社会主義といってよいものである。内山も、仏教との格闘の中から無政府主義を深めていっている。

 彼らは確かに高等教育を受けた最先端の学者や活動家たちが、海外の動向を紹介しながら展開した純粋な社会主義、無政府主義とは異質なものであるかもしれない。しかし、海外直輸入の純粋理論のほうが、地道で泥臭い実践の中で苦しみながら生みだした草の根的な運動理論より優れていると、一概に言えるであろうか。むしろ逆ではあるまいか。そのような目で見直すとき、高木や内山の活動や思想には、荒削りで未展開のままで芽を摘み取られた新鮮な可能性と魅力が満ち満ちており、今日、むしろそこから学ぶべきところが大きいように思われる。

 ************** 

 
第十章 社会を動かす仏教一内山愚童・高木顕明 
へ続く。

 




●『大逆事件 死と生の群像』
                    ポスト・モダンと天皇教の現在

 
 ●『ポスト‥モダンと天皇教の現在-現代文明崩壊期に臨んで』


 著 者 竹内芳郎  一九八九年四月二〇日 初版第一刷発行
 発行者 関根栄郷
 発行所 株式会社筑摩書房

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 VI 現代世界における日本仏教の課題
 付論 『意味への渇き』 への諸家のコメントについて

 
 最近著『意味への渇き-宗教表象の記号学的考察』は、なにしろ独力で旧石器時代から現代にいたる人類の全宗教表象を視野に収めつつ宗教を論じたものなので、さだめし多くの誤解や無理解が残ったことと思い、そこを今後すこしずつ埋めてゆくためのよすがとして、多少でも協力していただけそうな各分野の専門研究者の方々に、公刊何日かまえに抜刷りまたは著書そのものをお送りし、ご意見を伺うことにした。その結果の重要と思われるものだけをここに掲載し、問題追求の志を同じうする読者の方々のご参考の便に供したいと思う。

 まず原始宗教の章に関しては、・・・
*以下、<原始宗教>、<国家宗教>、<普遍宗教>、<キリスト教>、<イスラーム教>に関して、著者・竹内と当該宗教の一級の研究者・宗教者との真摯な議論(概ね竹内・著への「賛意」や「異論なし」が表明される。)が交わされるが、ここでは省略する。・・・
 
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 ・・・197p~
 ★(『意味への渇き』の、)日本における宗教表象の特質の章のうち、親鸞については、阿満利麿氏にコメントを依頼してはと思い立ち、『ちくま』誌編集部にわざわざ懇願して氏のコメント原稿を同誌211号に掲載してもらうようとりはからった。しかし、これは無惨な結果におわってしまった。私にたいする氏の批判は、正直言ってすこしも常識論の域を超えていないばかりか、理論展開の次元の混同や論理的に矛盾してしまっている箇所さえあり、あまつさえ、『歎異抄』の「業報」思想にたいして私とはまったく対蹠的な否定的評価を下した加藤周一氏への批判をもって私への批判の代用とするにいたっては、とても並みの神経では肯いかねる底(*態)のものだ。したがって、これにたいして私の方で一つ一つお答えしたところで、その答えはすこしも生産的意義をもち得ないと判断したので、ここではとりあげないこととする。

 それよりもさらに残念だったことは、教祖にたいする宗派外の者からの批判はすべて無理解による雑音だとして排除してしまおうとする氏の一貫した基本姿勢であって、これこそ既述のように、日本宗教者にひろく見られる通弊であって、これでは仏教を現代世界に賦活せしめることなぞ、とても不可能だと痛感させられた。私の親鸞論をお読み下さればすぐさま感じとっていただけると思うが、実は私は親鸞にたいしては二十歳まえから深い敬愛の念を抱いて今日まで来ており、そうであるだけに、氏のような傲岸な態度は、むしろ親鸞自身のためにも悲しむべきもののように思えた。私の人選のまったくのミスであり、この点については『ちくま』誌編集部にも深くお詫びしておかねばならない。

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 ★日蓮に関しては、
日蓮精神を現代に活かそうと奮闘している異色の宗教家・丸山照雄氏からコメントをいただく意図をもって、氏と面談した。しかし、結果はおなじく無惨なものにおわってしまった。日蓮については、私は一面ではきわめて高く評価していると同時に、他面ではやり切れないという思いもつよく、そこはきびしく批判しておいた。むろん私の誤解もあろうかと思い、その点の反批判を期待して氏と面談したわけだが、氏はそれにはまったく答えてくれず、それに代えて、もっぱら親鸞と真宗にたいするはげしい攻撃に終始してしまった。ただ、ここには重要な思想問題が伏在しているようにみえるので、あえてそれを紹介しておこう。氏の所論はつぎのとおり―

 親鸞は土着的なもの、特殊的なものから出発しつつそれらを捨象して普遍に到達した。ところが日蓮は逆に普遍から出発して特殊的なもの、土着的なものへと至り、それらを普遍のなかに包摂することができた。だから日蓮は偉大であり、親鸞はダメだ。事実、今日の真宗の最もラディカルな部分をとってみても、彼らは国家宗教としての「靖国」をつぶすのに一切の神社を敵視する運動方針をとっており、これは親鸞の「神祇不拝」に発するものだが、これではけっきょく、わが国の貴重な伝統文化の抹殺におわってしまう。これに比して、日蓮の方は神祇抱え込みであって、宗教的にはるかに寛容であった、と。

 私に言わせれば、この議論はあきらかにおかしい。氏の念頭には、最近のキリスト教「解放の神学」が土着宗教をかつてのようにあたまから排撃せず、むしろこれを包摂する新態度をうち出しているので、これを見習おうという思いがあったと思われ、この善意はたしかに評価できる。ただ、氏はコンテクストが彼我ではまるで逆であることを忘却しているという、致命的な誤りをおかしているようだ。キリスト教の場合、もともとはきわめて排他的な一神教として出発していながら、最近それについての痛烈な自己反省が生まれ、そこからもっと包容的な新態度が形成されるようになったのだ(それでも折衷主義なら何でもよいというものではなく、「キリスト教の将来は、正しい折衷主義とは何であるかの規準を確立する能力にかかっている」と、L・ボフも語っている)。ところがわが国の信仰風土では、もともと神仏混淆の方が伝統であり、そういう風土のなかで普遍宗教としての仏教を屹立させるためにこそ、法然や親鸞はまず「神祇不拝」の新態度をうち出したのである。とりわけ当時の仏教は、この神仏混淆をつうじてこそ国家宗教化してしまっていたのだから、国家宗教との対決を第一の任とする普遍宗教の初心にもどろうとするかぎり、「神祇不拝」はむしろ不可避の通路だったと言えよう。のみならず、今日でも、全国の神社の総元締めたる、神社本庁が「靖国」支持の最大の支柱となっており、しかもこのことに全国のどの神社も抗議の声ひとつ挙げようとせぬ-何たるだらしなさ!-そのかぎりでは、真宗のなかで「靖国」と闘っている人たちが神社一般に敵意を示したとしても、一体誰がこれを非難できるであろうか。
 
 それだけではない。親鸞はいかに「神祇不拝」を説いたといっても、いやしくもそれ
を権力に訴えて他に強制するなぞということは一切しなかったし、それどころか、そうした傾向を示したわが子善鸞を義絶さえしていることは、歴史上はっきりしている。これに反して日蓮の方は、いかに神祇包摂だといっても、それを説く自分の法華経信仰をまさに幕府の政治権力によって全国民に強制することをめざし、それに同調しない者たちは由比ヶ浜に連れだして斬首すべきだとさえ叫んでいる。つまり、彼の〈宗教的寛容なるものは、さきに見た明恵の場合とおなじく、背後に権力による宗教弾圧を秘めでいたのである。しかもこの論理は、現代にいたるもなお確実に生きているのであって、「神祇不拝を貫くキリスト者は不寛容でけしからぬ」とする例の「自衛官合祀」問題に見せた今日の最高裁判決(一名の反対意見か除く)こそ、その何よりの範例ではないか。最も革新的たるべき日蓮仏法が、いつも行政権力への隷従を旨としている今日の最高裁の判決と、こうして論理の上で完全に一致してしまうのである。ここに日蓮仏法の克服すべき負の一面があることに、一点の疑いもあるまい。

 しかるに丸山氏のようなきわめてラディカルな宗教改革者でさえ、こんな自明のこともわかろうとはしない。相も変らず宗祖を無謬のものとして囲いこんだまま自閉してしまい、宗祖をのり超えることこそ宗祖の真精神を現代に賦活する所以だという否定の弁証法が、まるでわからないままでいる。日本仏教には、その最も革新的な部分をふくめてさえ、ほんとうには超越性原理が確立していない証拠である。

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★道元に関しては、
すでに執筆時から袴谷憲昭氏とのあいだでかなり立ち入った意見のやりとりがあり、道元についての氏の論考も多数送られてきていた。けれども、同意見の点と対立意見の点とが相半ばし、しかも両者がきわめて複雑に相交錯していて、いまにいたるもそれを解きほぐすことに成功していない。したがって論点整理の仕事は将来の課題に残し、ここでは議論を割愛しておきたい。ただ、私の駒沢大学での講演ならびにその後の討論の経験に徴するに、この大学の仏教者の方々には、むろん袴谷氏もふくめて、道元を囲え込んで自閉してしまう態度は見られず、むしろ自由闊達な討論を歓迎する気風すらみとめられた。これは日本仏教者のあるべき態度への第一歩として、高く評価さるべきだと思う。

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★最後に「解放の神学」については、
山田経三氏にご意見を求めたところ、早速、電話で、私の見解に全面的に共感するとお伝え下さった。ただ、三八五ページに、異端訊問をおこなったのがイエズス会員であるかのような記述があるが、これはドミニコ会員に訂正すべきだとのご注意を受けた。もういちど調べなおしたうえ、誤りであればお詫びして次の機会に修正したいと思っている。

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 ★付論『意味への渇き』への諸家のコメントについて      <了>。

  



●『大逆事件 死と生の群像』

                     意味への渇き
                     

 ●『意味への渇き』からの引用を続ける。

 
 第五章 日本における宗教表象の特質

 D 鎌倉仏教の革命性とその限界

 
 320p~・・・ところで、このように悪しかおこなえない人間、罪深くしかあり得ない人間、というよりもむしろそのような人間だとみずから自覚するほかはなかった人間、「とても地獄は一定すみかぞかし」と覚悟をきめた人間-そういう人間が「深き淵より」呼ばわる声が、「他力」の信仰となって迸る(ほとばしる)こと、しかも絶対的な人格神への絶対的な帰依の心となって迸ること、これは見易い道理だろう。「自力作善の人は、ひとへに他力をたのむ心か(欠)けたるあひだ、弥陀の本願にあらず・・・煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを哀しみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、最も往生の正因なり」〔『歎異抄』〕、というわけだ。ここには、仏教伝統の「業」思想がふかく踏まえられており、実際、『歎異抄』十三段冒頭に見える「善悪の宿業」をめぐる親鸞・唯円の問答のやりとりほど、説得的かつ感動的に「業」思想を説いた例を、すくなくとも私は仏教思想史上他にひとつも知らない。そして、それを踏まえて考えるとき、他力浄土門が自力聖道門にたいして単なる「易行」なのかそれともむしろ「勝行」なのかといった議論も、すべて空しくなる。なるほど法然が、念仏を易行としてのみならずさらにすすんで他にまさる勝行として称揚し選択(せんちゃく)したとき、他の(*既存・主流の自力聖道門)宗派から思い上りもはなはだしいとはげしく弾劾を受けたわけだが、しかしその選択の理由づけを『選択本願念仏集』によって見るとき、「末法の世」論や経典出自論-こうした議論は現代の私たちには無意味だ- とは別に、「一切衆生をして平等に往生せしめむがため」という、信仰における万人平等性*が挙げられており、これはまさに普遍宗教の真面目躍如として、すでにしてきわめて説得的であった。ところが親鸞となると、『教行信証』でこそ著作の性格上、仏法の正統者意識をもって念仏の「最勝直妙の正業」〔行巻〕たる所以を力説している - この議論も現代の私たちには無意味- ものの、『歎異抄』でははるかに屈折していて、「たとひ諸門こぞりて、念仏はかひ(甲斐)なきひとのためなり、その宗あさし、いや(卑)しといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします」とへりくだり、さらに『末燈鈔』を見ると、「この念仏する人をにくみ、そしる人をも、にくみそしることあるべからず、あわれみをなし、かなしむこころをもつべし」という、イエスの教えとおなじ一種の愛他精神にまで徹底している。けだし、他力の信仰自体も己れのはからいでできることではなく、ひとえに「弥陀の御もよほし」〔『歎異抄』〕によるのだとの他力信仰の徹底化のゆえであって、この見地からすれば、聖道門の自力信仰自体ですらも、ほんとうはその人固有の力によるものではなく、「弥陀の御もよほし」によってその人にさずかったものだとも、言えば言えたであろう。ここにわが国における信教態度の伝統的な〈だらしなさ〉の結果としての寛容とはまったく異質の、むしろ己の信仰の絶対性に徹した末にはじめて生まれ得た真の宗教的寛容の、ほとんど神々しいまでの姿がある。 


  * 法然はここで、造像起塔、智慧高才、多聞多見、持戒持律などを本願(往生の条件)とすればいかに救済において差別、不平等が生じてしまうかを、実に説得的に語っているが、その結論が、「一枚起請文」中の結句 ― 「念仏ヲ信ゼン人ハ、たとひ(釈尊)一代ノ(説)法ヲ能々(よくよく)学ストモ、一文不知ノ愚鈍の身ニナシテ、尼入道ノ無智ノともがらニ同じうしテ、ちしや(智者)ノふるまいヲせずして、只一向に念仏すべし」、となるわけである。・・・


 実際、親鸞まできた他力信仰の徹底性たるや、まことにおどろくべきものがあり、「念仏は行者のために、非行非善なり」、「念仏には、無義をもて義とす」、「善悪の二つ、惣じてもて存知せざるなり」〔『歎異抄』、『末燈鈔』〕ぐらいならまだしも、『歎異抄』中の一挿話-「いくら念仏を称えても一向に踊躍歓喜の心がおこらないのはどうしたことでしょうか」との唯円の疑問にたいして、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり・・・仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と応じているのをまのあたりにするとき、その信仰の凄さにおもわず絶句するのほかはない。こういう立場からすれば、「念仏まうさんごとに罪をほろぼさんと」考えたり、「本願の嘉号を以ておのれが善根とする」態度をとったり、あるいは逆に「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざる」態度をとったりすることは、すべて「本願誇り」(「如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさん」とするもの)として邪道だということになるが、しかし、「本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ」として、それさえも弥陀の慈悲心にあたたかく抱きかかえられることとなる。こうしてみると、この信仰では一切がゆるされることとなり、「易行道」の名にふさわしく、すこぶる気が楽になりそうにもみえるが、しかし、実際にこのように信じ切るまでに信仰を徹底させることは、聖道門の「難行道」とすこしも違わず、ひどく困難なように私にはおもわれる。事実、『教行信証』に説かれている彼の信仰の理論的表現を見るとき、私たちはそれが自力聖道門における表現とあまりにも酷似しているのに、しばしばおどろかされるのである。たとえば ― 

 念仏は「不回向の行」〔行巻〕、「非作の所作」〔真仏土巻〕、と表現されている。私の信仰への決断自体、実は仏の方からのはからいであり、往相(自利)も還相(利他)もふくめてすべての回向が仏からの回向であって私からのそれでない以上、あるいはそう信ずべきである以上、この表現は的確である。けれども、やはりいかにも禅的ではないか? (たとえば道元の「静中の無造作」と比較。〕また、「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」-これまた彼自身の痛烈な体験*に裏づけられたもので、けっしてきまり文句の反復ではないが、やはり禅的である。さらに、涅槃諸経典などを引用しつつ、真実とは如来であり、虚空であり、仏性であるとされ〔信巻〕、また非作の所作は解脱であり、虚無であり、如来である、一切有為は無常であり、虚空は無為なるがゆえに常であり、仏性であり如来であるとされ〔真仏土巻〕、極楽もまた「無為涅槃の界」とされ〔化身上巻〕、「西方寂静無為の楽は、畢竟逍遥して有無を離れたり」、「仏に従ひて逍遥して自然に帰す。自然は即ちこれ弥陀の国なり」と語られるとき、念仏信仰もまた結局はおなじみの東洋的無為自然主義、禅的な悟達の世界とあまりかわりないものへと帰着してゆく**。したがって、ただひとつ肝要なことは、我のはからいを排除すること(「他力と申し候は、とかくのはからひなきを申し候也」〔『末燈鈔』〕)、「親鸞八十八歳御筆」(八十六歳時の筆になる『末燈鈔』五もほぼおなじ)で説かれている「自然法爾(じねんほうに)」ということ、以外にはないこととなろう。だが、どうしてこのように他力が自力と相接近してしまうのであろうか?


 * 親鸞は、一方では、「弥陀の五却思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばく(多く)の業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」〔『歎異抄』」とつね日頃述懐しながら、他方では、最晩年(八十五歳)になってからでも、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実(こけふじち)のわが身にて 清浄の心もさらになし」、「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆへに 虚仮の行とぞ名づけたる」〔『正像末浄土和讃』愚禿悲歎述懐〕と、煩悩不尽を歎じつづけていた。

 ** ここにはむろん、禅の「無」の思想と相重なって老荘のそれも同時に感じられるはずだが、このようになってしまったのは、★森三樹三郎『無の思想』〔一九六九〕によれば、浄土経の中心たる『大無量寿経』の中国での漢訳にさいして、当時支配的だった★老荘思想がそのなかに大量に入りこんだせいであって、それが親鸞晩年の「自然法爾」思想にも決定的な影響をあたえているという。


 問題は、どうも人格神としての阿弥陀仏の性格のあいまいさにあるような気がする。他力とは、(悟達を志向する自力とは対蹠的に)絶対的な〈帰依〉の感情を基盤とした信仰形態であり、そしてその帰依の感情は、活き活きとした人格神を絶対他者として定立しなければ、けっして発動できるものではない(ユダヤ、キリスト、イスラーム諸教の場合を考えよ)。ところが法然・親鸞における「阿弥陀仏」は、一方ではたしかに、どんな煩悩具足の悪人でも救済してくれる慈悲あふれた人格神であると同時に、他方では、法身、報身、応身、化身などと変幻万化するおよそ把えにくい存在であって、その抽象性たるや、さきに引用した『教行信証』中の仏性=如来=真実=虚空=無為=自然などの特徴づけと、『末燈鈔』中の「無上仏とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはまふさず」云々の説明文、さらに『唯信鈔文意』中の「法身(ほっしん)はいろもなし、かたちもましまさず。しからば、こころもおよばれず、ことばもた(絶)えたり」云々の説明文とを重ね合せるとき、思い半ばに過ぎるであろう。強いて表現すれば、それは純粋な〈はたらき〉-衆生済度のための- とでも評するほかはないかもしれない。そもそも仏教は、第四章Cで見たとおり、人格神なぞ一切立てぬ法=空を根幹とした無神論的な宗教だったのであり、にもかかわらず後世いわゆる大乗仏教がやたらと雑多な人格神を林立させたために、以後、仏教はすくなくとも神=仏概念において、収拾すべからざる混乱におちいってしまったとおもわれる。事実、当の親鸞自身でさえも、ほんとうに絶対神としての弥陀仏に帰依していたのであろうか? けっしてそうでないことは、『歎異抄』中の有名な次の一文にあきらかである-「親鸞におきては、『ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし』と、よきひと(法然上人)の仰をかふむりて、信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん。また、地獄にをつべき業にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」。つまり、彼が心底から帰依していたのは、弥陀仏であるよりもむしろ、それを説く★生ま身の法然その人の方だったのだ! 彼ほどふかい帰依の宗教感情をもった人-この点で彼に並ぶ人を私はひとりも知らない- が、人格神を立てないことは、絶対にあり得ない。ところが大乗経典の★捏造した弥陀仏では、このふかい帰依感を充たすには足りない。そこで、本来いささかも神性をもたぬ生ま身の人間たる法然の方へと、感情転移をひきおこしてしまったのではないか。だが、こうした矛盾は、たまたま彼において、その信仰の徹底性のゆえにこれほどまでにどぎつい形で露呈したというにすぎず、実は仏教の本質それ自体にはじめから伏在していた超越性原理における★或る種のあいまいさに起因していたものであって、このあいまいさは、やがてさまざまな問題をひきおこしてきたように思われる(たとえば仏教には、一方では殺仏殺祖の過激な精神があるかとみれば、他方で★師資相承の血脈(*のち一時、【男系長子相続】にまで至る!)を立宗の不可欠な条件とする風があるなど、なんとも不可解な現象である)。だが、それをあきらかにするためにも、もうすこし、この派のもたらした貴重な宗教革新の実態を追ってゆくこととしよう。

 浄土真宗の信仰が「摂取不捨」の〈信仰における万人平等主義〉(『教行信証』における、「竪出(じゅしゅつ)」・「竪超」と対立する「横超」の論がこれを支える)をもたらしたことは、既述のとおりだが、これは法然においてすでに確立していたことは、『歎異抄』中の次の感動的な一挿話にあきらかである― 「善信(親鸞)が信心も、(法然)上人の御信心も一なり」という親鸞の発言に、思い上りもはなはだしいとばかり、相弟子たち万場騒然となるなか、ひとり法然はこの発言を全的に支持して、「源空(法然)が信心も如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一なり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまひさふらはじ」、と断じたという。にもかかわらず、ここから出発して、「親鸞は弟子一人も持たずさふらふ・・・ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり」と言い放ち、弟子づくり、寺づくり、教団づくりをすべて否定して、弥陀のまえでの「同信、同行、同朋」の平等な人間関係*に徹していったのは、やはり親鸞の方であった。(法然ではまだそこまではいたらず、彼は人びとにたいして人師の立場をとりつづけていたという〔増谷前掲書〕)。ところで、親鸞によって一歩踏み出されたこうした現実世界での人間平等への志向が、やがて真宗信仰者だけの人間関係の枠を超えて社会関係全体にまで拡大膨張しはじめ、中世の封建的身分支配の総体を根柢から脅かすようになったとしても、それは当然の帰結であって、それが一向一揆として爆発したわけだ。この一揆が「百姓の持たる国」、「年貢対捍(ねんぐたいかん、納入拒否)」をスローガンに掲げ、またその内部組織も、やはり「ご同朋」思想にもとづく「講」を中心とした門徒たちの平等な寄合い、談合という、リゾーム状の横の連帯意識を基本とした**ところには、千軍万馬の戦国武士たちをさえ戦慄せしめたという農民たちの往生決定の安堵感にもとづく死を怖れぬ断固たる殉教精神とともに、いかにも浄土真宗信仰の面目躍如たるものがある(事実、既述のように、中国でも浄土門信仰はしばしば民衆叛乱の原動力となってきていたのだ)。これにたいして当時の真宗本願寺は、★本願寺教団の発展・延命を至上価値に置き、それに有利とおもえば大いに一揆を利用し、それに有害とおもえば大いにこれを抑圧するという態度をとったこと、周知のとおりだが、これはすでに始祖の信仰態度を大きく裏切り、平然と大寺院・大教団をつくったのみか始祖の自覚的な妻帯の決断に悪乗りして★男系世襲制までも制度化し、とっくに「王法為本」の元の木阿弥にもどってしまっていた本願寺としては、あまりにも当然の態度だったと言えよう。

 とりわけ一五八〇年のいわゆる「勅命講和」をもって一揆を終息させるや、本願寺はますます権門・貴族と結托してゆき、それ自身、巨大な権力装置と化してゆく。だが、本願寺なぞはいま論外としても、親鸞自身、もしもその生前にこのような一揆の勃発に遭遇していたら、どのような態度をとったであろうか? やはり一種の「本願誇り」として、これを非難したであろうか? これはあくまで仮定の問題なのだから、断定的なことはなにも言えはしない。ただ、こうした一揆は、すくなくともその最上の部分において、彼の信仰から帰結してくる自然の勢いだったにせよ、彼自身の宗のひとつの大きな限界があったこと、これもまた確実であろう。

 
 * 平等な人間関係のなかには、当然ながら男女関係のそれも入る。法然も親鸞も、むろん女性成仏をはっきりみとめていたが、しかし、両人とも「変成男子」の伝統的見解をまだ踏み超えた形跡はない〔『無量寿経釈』、『浄土和讃』、大経意十など参照〕。

 ** ただし、笠原一男『一向一揆』〔一九五五〕によると、寄合い・談合の可能だったのは、中・小名主層の農民たちにかぎられ、下人層にまでは及ばなかったという。そのため前者の成長・増加のみとめられなかった関東では、初期真宗教団の基礎がいちはやく築かれながらも真宗の飛躍的発展は見られず、それが見られたのはむしろ近畿・北陸・東海・中国地方の先・中進地帯であり、一揆もそこでこそ熾烈だったという。

 *** 一揆にたいする本願寺の態度については、笠原前掲書、山折哲雄『人間蓮如』[一九七〇]など参照。とくに後者は、親鸞とは対蹠的な蓮如〔一四一五~九九〕の信教態度の内面まで踏み込んで活き活きとこれを描き出している好著である。


 最後に、そして総括として、親鸞にきわまったこの浄土門信仰は、仏教思想のなかでも稀有なほどのその★一神教的な超越性信仰をもってして、原始宗教、国家宗教、普遍宗教を切れ目なくつなげてしまっていたわが国の例の〈長提灯式〉宗教風土の総体にたいして、ほとんどただひとつ、真に革命的な鉄槌を下した。まず最初に、葬式や祖先供養など〈イエ・家〉の宗教に対立する彼の言句を挙げるが、これがその後の浄土真宗をふくむ今日の日本仏教の常識にとってもいかに衝撃的な意義を有するかに着目されたい―「某(それがし)閉眼せば、加茂川河にいれて、魚にあたふべし」、「親鸞は、父母の孝養のためにとて、一返(遍)にても念仏まうしたること、いまださふらはず」。つづいて、ムラの宗教たる神祇崇拝、各種の民間信仰に対する嵯嘆と反逆―「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ ト占祭祀つとめとす」、「仏に帰依せば、終にまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」、「余道に事ふることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」。国家権力ならびにクニの宗教にたいする彼の態度については、既述したとおり。ところで、わが国の伝統的信教風土にたいするこのようなラディカルな挑戦は、一方では、いままで民衆支配の具となってきた諸神諸仏の重圧からはじめて解放される道を示したものとして、最下層の民衆からたいへんな熱狂をもって 迎えられると同時に、他方では、当然のことながら支配層からはおそるべき危険思想と看なされ、きびしい弾圧をひき出してしまった。この弾圧を前に親鸞は後退し、「念仏を信じたる身にて、天地のかみ(神)をすて申さんとおもふ事、ゆめゆめなき事也」と念仏衆に消息文を送り、また、「南無阿弥陀仏をとなふれば 梵王・帝釈帰敬す 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり」と、神祇を念仏者の守護霊として位置づけようともした。また、真宗が漂泊するワタリ職人たちから定着農民たちにまで拡がってくれば、ムラの宗教を単純に拒否するだけでは埓があかず、これを巧みに己れの信仰行為のなかにとり込むことも考案されたようだ―

たとえば、秋の収穫祭や春の予祝祭を、それぞれ報恩講や蓮如忌のなかに吸収する、といった具合に〔阿満前掲書参照〕。こうしたもろもろの妥協をあたまから非難することは、むろんバカげてもいよう。けれども、既述のように、この信仰では超越性原理にあいまいさを残したままだったために、旧宗教習俗をとり込みながらもそれをあらたな宗教原理でもって合理化しつつ、あらたな世俗内宗教倫理を形成することには、ついに失敗してしまったかにみえる。その結果、その始祖においてこれほどまでにラディカルな革命性を露呈した浄土真宗も、その後は大局的には旧仏教とほとんど変らぬ一宗派、ひたすら図体ばかりが大きい一宗派にすぎぬものとなってしまった。ただ日本の伝統宗教のなかでただひとつ、いまでも微弱ながら内部刷新の動きが見られること、現世利益のための呪術的祈願への拒否反応がつづいていること、例の〈差別戒名〉をつけたのは曹洞宗に多かったようだが、その屈辱から被差別部落民を救ったのはおおむね浄土真宗だったこと、靖国神社国家護持への反対を明確化していること、とりわけ東本願寺がおそまきながら(今年八七年)侵略戦令への加担にたいする自己批判を公表したことなどには、やはり偉大な始祖をもつことのできたこの宗派ならではのものが感じられるようである。

               *** 

 
 ●『意味への渇き』
の引用・紹介は、<一区切り>とします。

 




●雑記。
 
 お金目当てでは楽しめない=脳科学実験で初確認―教育上の参考に・玉川大など
                      時事通信 11月16日(火)5時22分配信

 面白いことでもお金稼ぎが目的になると楽しめなくなり、自発的なやる気が低下することが、脳活動の変化として裏付けられた。玉川大の松元健二准教授やドイツ・ミュンヘン大の村山航研究員らが15日までに行った実験の成果で、米科学アカデミー紀要電子版に発表される。これまで心理学の行動実験では知られていたが、脳科学実験で確認されたのは初めて。教育上の参考になりそうだ。

 松元准教授によると、勉強やボランティア活動をしている★子供に、思い掛けない褒美をあげるのは励ましになる。しかし、最初から成績に応じた小遣いを約束すると、「やらされている」感覚が生じ、小遣いをもらえなくなったときに意欲が低下する恐れがあるという。

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 そうだろう。

 何らかの目的で、何かを imprint された ★子供。

 哀れな 大人。
 
 

 

 



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