カウンター 読書日記 2010年10月
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●今日の一冊。
                 親鸞再考 001

 
 ●今日の一冊は、佐々木正・『親鸞再考』(法蔵館、2010年2月)。 



 先日のETV特集、「埋もれた声~大逆事件から100年~」が契機。

 自らに課した<法然ー親鸞と大逆事件>という設定は、今のわたしには重すぎたが、

 事実関係で教えられることは多い好著だった。

 左、本田哲郎・『釜ヶ崎と福音』(岩波、2006年3月 再読)の表紙は、

 ニューヨークの「炊き出し」の貧者の列に並ぶキリスト・・・。





 





スポンサーサイト

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(46)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(46)
 -明治日本を専断主導したのは薩長藩閥ではなくこの怪物 

 
 ★薩摩ワンワールドと手を携えた政治結社群 

 
 本稿の淵源は、佐伯祐三絵画の伝来を巡って私(落合)が偶々入手した吉薗周蔵の手記にある。平成八年三月以来、百十八回かけて解読した分がその第一部に当たるが、一段落した後一年の休載のあと第二部に入り、「手記」以外の外部資料から周蔵の生きた世界の真相を探究した。例えば、周蔵が仕えた元帥・上原勇作の背後関係を洗うと、在英ワンワールド勢力の日本支部と見るべき薩摩軍人の結社の存在が浮かび上がり、これより進んで樺山資紀と高島鞆之助が台湾政策の基本を固めたことや、鈴木商店の真相及び周蔵が東亜煙草会社に関与した所以などが、連鎖的に明らかになった。

 それも一段落した今春、維新史の闇を透かして見えてきたのは、薩摩ワンワールドを包含する広大な政治的勢力の存在である。当時の玄洋社や西本願寺は、事実上強大な政治結社であって、薩摩ワンワールドと手を携えて日本を動かしていたことが明白になった。更に、丹波の上田氏を頭領とする大江山衆が、宗教を足掛かりにして、国内は勿論満洲にまで進出し、国家と陸軍の大陸政策の露払いをしたことも把握できた。その広大な政治勢力を統べていたのは、軍人でも政治家でも宗教者でもなく、堀川辰吉郎という白面無冠の貴公子で、辰吉郎を輔翼した者もやはり無冠の浪人・杉山茂丸であった。

 この観点に立てば、従来の学校歴史が説くごとく、薩長藩閥が日本の政治を専断的に主導したとは到底考えられない。そこで本稿は、この政治勢力の全体像を明らかにすべく、本年六月号(第四十二回)を以て実質的に第三部に入った。本月稿はその三回目で、前月に続いて杉山茂丸を論じていく。

 さて、前月稿に述べた経緯、すなわち茂丸が元老院議官・安場保和に福岡県令就任を請うた処、安場が上司・山田顕義の承諾を条件にしたので、後藤象二郎の紹介で司法大臣・山田顕義に会う処までは良いとしても、安場と玄洋社の結託を警戒していた山田が、茂丸の弁舌に屈して終に安場の福岡県令就任を認めたとするに至っては、皮相どころか苦し紛れのコジツケと観るしかない。弘化元年(一八四四)年生まれの長州藩士・山田顕義は、戊辰役で賞典禄六百石を受けた功臣で、明治七年に陸軍少将、明治十二年参議に就き、以後各省の卿を歴任して十七年の華族令で伯爵に叙せられ、当時は司法大臣であった。安場は天保六年生まれで、山田より九歳年上だが、戊辰役の賞典金は三百両の中級功臣で、福島県令などを経て、時に元老院議官、男爵叙爵も明治二十九年である。政界の実力は山田とは段違いであるが、山田の部下というわけではない。

 炭鉱払い下げの筋書きを書いた策士が誰か、いまだ明確ではないが明治史上最大の実力者であることは間違いない。その策士は玄洋社育成を実行に移すに際し、長州人であるが山縣有朋と反目して政界で特殊な位置にいた山田参議の支持を取り付けたわけで、長州派の分断を図る存念であろう。安場は、子分の熊本県学務課長・八重野範三郎から佐々友房を通して玄洋社の内情を聞き、福岡県令としての己の職責を理解し、納得したから県令を受けたので、山田の指示に従ったのではない。ともかく、安場保和は明治十九年二月、炭鉱払い下げ策を実行すべく福岡県令に就いた。

 
 ★京都皇統の密名で動くもうひとりの人物・佐々友房

 
 戦国武将・佐々成正の子孫と称した佐々友房は、肥後藩士として肥後勤皇党に属した。西南戦争で西郷軍に加わって入獄したが、出獄後は教育界に入り、国家主義を鼓吹する学校を創立して明治一五年に済々黌と改称、国家有為の人材を多数輩出してきたのが現在の*熊本県立済々黌高校である。国権主義に立つ佐々は、二十二年九月熊本国権党を組織し、第二回帝国議会が開設されると衆議院議員に立候補して当選を果たす。友房の子息・弘雄も参院議員で、孫にも参院議員・紀平梯子と警察官僚・佐々友房がいるが、紀平悌子が市民運動政治家・市川房江の後継者となったのは興味深い。(*姜尚中の出身校でもある。)

 友房こそはどうみても只者でない。そもそも熊本国権党の実情は玄洋社の友好団体で、肥後藩士出身の安場もこれに与していた。友房が茂丸に対して行ったことは、玄洋社の実質社長・頭山を紹介して入社に導き、筑豊炭田の玄洋社への払い下げのために安場を県令に就けさせ、熊本人の内閣書記官長・井上毅(のち法制局長官・子爵)を紹介したことなどである。茂丸の主要人脈作りに、佐々ががくも勤しんだのは、京都皇統の密命を直接的に受けたものと視て良いであろう。

 辰吉郎は井上馨の兄・重倉の五男が死んだので、身代わりとして入籍したもので、戸籍上は明治二十四年生まれとなったらしい。玄洋社に預けられた辰吉郎が長州人の籍に入るのは不可解だが、重倉は玄洋社員と仄聞するし、長州三巨頭の中でも井上馨は京都皇統と密接な関係にあった。ともかく安場福岡県令の申請で、四か月後の十九年六月総理大臣・伊藤博文から九州民営鉄道敷設の許可が下りた。黒幕の茂丸は時に二十三歳であった。

 同年八月、清国北洋艦隊が示威航海のため長崎に寄港したが、その水兵が長崎市内で軍威を嵩にきて暴行を働き、之を眼前にした国民間に国権意識が沸騰した。元来反藩閥の民権主義団体であった玄洋社が国権主義に転じたのはこの事件が契機で、人権の前にまず国権の確立をと謂う訳で、熊本国権党もその流れである。

 因みに、軍事力が充実した時に対外暴挙に出るのは中華国家の通例で、爾来百二十年経った平成二十年代の今日その虞が再来しつつあるが、これに応じてわが国内でも国権意識が昂揚するのは当然で、となれば、「対華事勿れ主義」を標榜する現政権党も、党内に国権派が台頭して分裂の危機に曝され、現状のように選挙中心主義と政権争奪ゴッコに終始してはおられまい。間もなく国家意識を主軸にした大連立時代の到来が予測される所以である。

 
 ★井上馨を狙った者、その命を救った者

 
 明治二十年三月、旧藩主・黒田長淋の薨去により上京した頭山満に会った茂丸は、国家主義に転じた玄洋社の政治活動資金として炭鉱鉱区払い下げを切り出し、躊躇する頭山を説得して承諾させる。堀政昭『杉山茂丸伝』によると、頭山を納得させた茂丸は上京中の安場福岡県令を訪ね、さらに農商務大臣・井上馨に相談して、海軍予備炭田として閉鎖中の筑豊炭田の払い下げを要請した。玄洋社の炭鉱払い下げの詳細は本稿の主旨でなく時期を調べていないが、井上馨は十八年から二十年九月まで外務人臣で、その後は宮中顧問官を経て二十一年七月に農商務人臣に就く。つまり、茂丸が訪ねた時には井上は外相であったが、井上本人が炭鉱払い下げの筋書きに関わっていたから訪ねたのである。この年、堀川御所から博多に移る辰吉郎が、後に井上馨の兄・重倉の戸籍に入籍したことを視ても、京都皇統と井上馨の間には深い関係が在ったと観るしかない。

 外相として不平等条約の改正を担った井上は、欧化主義を唱えて鹿鳴館外交を展開していたが、改正案に外国人判事登用を盛り込んだのを政府法律顧問のボアソナードに暴露され、農商務人臣・谷干城の猛烈な反対に遭った。茂丸は、井上馨の改正案に反対して下野した谷干城を牛込邸に訪ね、本人に向かって異議を述べた。堀前掲書は、その時期を、巻末年譜には明治二十年、本文では二十二年とするが、おそらく後者が正しいと思う。

 維新の功臣・谷干城は、明治四年薩長土三藩の御親兵募集に応じて初任陸軍大佐、西南戦役では少将熊本鎮台司令長官として西郷軍を撃退、勇名を馳せて中将に登り、十七年の華族令で子爵に叙せられた当時の政界の重鎮である。京都皇統を支援する勢力には土佐派も加わっていて、谷干城による井上の条約改正案反対も玄洋社と軌を一にするものであったが、茂丸は「自身の代案を示せ」と、谷の急所を突いた。無冠の茂丸が子爵陸軍中将の谷に面悟して異議を呈したのは、谷が必ず応対するとの確信が有ったからで、茂丸の黒田長溥の遺児たる素性が谷に伝わっていたと観るしかない。堀前掲書を始め巷間に茂丸伝記は多いが、ひたすら茂丸の野人振りを強調するものばかりで、なぜ茂丸に限って謂うような野人振りが当時の支配層に通じたのかを説明したものは一つもない。いかに野人を気取っても、支配層が相手しなければ世に顕れないのは当然で、茂丸の隠れた貴種性を補助線にして初めて茂丸の謎が解けるのである。

 二十年七月二十六日の谷子爵の反対意見書呈出と閣僚辞任に国民が喝采した反面、井上は国権派壮士から生命を狙われる。谷の辞任後の農商務大臣に就いた井上が、二十一年秋に九州入りした際、玄洋社員・来島恒喜が暗殺を図るが、井上に炭田払い下げの大恩がある頭山は来島を説論して井上を救った。井上辞任後は伊藤博文総理が兼摂していた外相に二十一年二月から大隈重信が就き、条約改正に腐心する。大隈の案が二十二年四月に外紙『ザ・タイムス』に報じられたことから、大隈は十月十八日来島から爆弾を投じられて、片脚を失った。大隈襲撃の背景に茂丸ら玄洋社幹部がいたことは紛れもない事実で、茂丸の末裔や周辺は之を不名誉としているが、政治の本質に関わることであって小市民的道徳律を適用すべき事項ではない。

 
 ★朝鮮知識人と英商と明治陸軍の将星たちと

 
 不平等条約改正は国民の悲願であったが、実現するには結局「力」しかない。そこで、「弱い国と戦って勝ち、その現実を世界に見せつけるこししかない」と茂丸に教えたのは金玉均とともに朝鮮国から亡命していた宋秉峻であった。叩くべき相手は清国で、攻撃の主目的地を奉天として、旅順・大連・威海衛も攻撃対象とすべきことを教えた。清朝にとって発祥地たる満洲の重要性は誰でも思いつくが、宋の発言が満洲の地政学的重要性を意味していたのかが興味を惹く。日・漢・満・露に挟まれた半島国家の伝統的外交策は、時の周辺最強国に阿諛する事大主義であるから、地政学的思考とは往々にして矛盾するが、当時の朝鮮知識人が地政学を体得していたのなら、真に驚くべきことである。

 その地政学こそ、明治二十二年頃から茂丸の思考を規定したものであり、契機は香港との石炭貿易を通じて知り合った英商・★シーワンである。筑豊炭田の石炭は、安場県知事(十九年七月官名変更)が二十二年七月から実施した門司港の整備に因って輸出が可能となり、香港貿易の途が開けた。これより前、茂丸は尾張藩士出身の陸軍少尉・★荒尾精に会う。外国語学校(フランス語)を中退し明治十一年陸軍教導団に入った荒尾は、成績優秀につき、十三年一月陸軍士官学校旧制五期に入学、十五年二月に少尉に任官した。下士官を養成する陸軍教導団長は、八年二月以来十二年二月まで実に三年間も高島鞆之助で、高島大佐は十年二月長崎警備隊指揮官を兼務し、西南戦役に際しては少将別働第一旅団司令長官となり、十月に凱旋する。その後、欧州出張に出る十二年二月までの一年余は教導団長専任であったが、十三年三月帰朝して熊本鎮台司令長官に就任するまで、ずっと教導団長の職にあった。荒尾の教導団時代は十一年から十二年十月で、前半は高島の団長専任時代であったから、欧州出張前に高島が荒尾の士官学校進学を決めたとの推測は充分成立つ。

 歩兵十三連隊付少尉の荒尾は、十八年参謀本部出仕を命じられ、清国担当の軍事探偵になった。茂丸が参謀本部付軍事探偵の荒尾に会うのは十八、九年の頃で、場所は大阪であった。大阪鎮台司令官は高島鞆之助少将で、この出遭いには高島の関与が考えられる。佐々友房が茂丸に頭山を紹介したのと軌を一にするもので、勿論偶然ではない。十九年に清国出張を命じられた荒尾中尉は、眼薬「精水」で知られる岸田吟香が上海で開いていた薬局「楽善堂支店」で働き、岸田の信認を受けて漢口に楽善堂支店を開き、参謀本部から命じられた特別任務の活動拠点とした。

 二十一年、ロシアがシベリア鉄道敷設計画を発表したのを観た荒尾は、ロシアの南下を防ぐために清国との連携が肝要と考え、二十二年四月に帰朝して、貿易を通じて日清間の連携を強める主旨で、日清貿易研究所の設立を全国で呼び掛けた。荒尾が博多を訪れたのは二十二年十二月二十ー日で、その頃、茂丸は筑豊石炭の輸出商談のために香港に向かっていた。既に、荒尾が日清貿易研究所を上海に設立する資金を、茂丸が石炭貿易の利益で支援する約定が出来ており、荒尾は、清国商人・譚蘭亭の紹介で知った英商・シーワンを、茂丸の石炭貿易の案内役として紹介し、シーワンがイギリス船ベンラワー号を茂丸に貸すことで茂丸の石炭貿易が始まる。シーワンの正体をまだ知らぬが、海洋勢力の本宗たる在英ワンワールドの世界戦略を茂丸に教授したことからして、これも只者でない。

 ここら辺りの茂丸を取り巻く人脈の形成と進展は、偶然の累積では到底説明できることでなく、系統立った策略の下に動いている、その策源地が京都皇統に在るのは確かで、辰吉郎を博多に移したのも同じ策士であるが、問題はそれが誰かである。薩摩ワンワールドの初代総長・吉井友実は、当時宮内次官兼枢密顧問官で、二代目総長を第四師団長(大阪鎮台司令長官を改称)高島鞆之助中将に譲ろうとしていた。上述の荒尾と茂丸の出遭いの一件からしても、薩摩ワンワールドが策源地と解すると、符節の合うことが多い。

 
 ★あの高島鞆之助が孫文を支援した陰に玄洋社あり

 
 茂丸の石炭貿易による利益を以て二十三年九月に開所した上海の日清貿易研究所は、全くの国事工作機関であった。四年後の日清戦争の際、山崎・鐘崎・藤崎の三人の所員が玄洋社の声援を受けて満洲に渡り、金州で清国兵に捉われて軍事探偵として処刑されることでも明らかである。国事工作の資金を私的貿易の益金で賄うのは世の条理に反する。通常は政商なる者が存在し、国家から利権を貰う見返りに私的利益の中から国事資金を提供したり、乃至は国事活動そのものを行う。ところが政商にも真仮の二種あり、真の政商は究極の目的を財貨の私的穫得におき、国事をそのための手段とするもので、大倉喜八郎これである。仮の政商はこれに反し、真の目的を国事として、非合法ないし極秘活動における政府の関与を隠蔽するために私営事業を装うもので、代償として国家から無形の援助を受ける。この観点からすると、茂丸の石炭輸出事業は正に後者である。とすれば茂丸は真の私人
ではなく、本質を在野の国策遂行家と視て浪人政治家と規定すべきである。

 荒尾は明治二十六年年七月に予備役編入、ニ十九年三十九歳で病没するが、日清貿易研究所はその後東亜同文書院に発展し、根津一が院長に
就任する。日清貿易研究所を荒尾と共同運営した根津一は、横浜師範学校から陸軍教導団歩兵科を経て、十一年十月に教導団砲兵科から成績優秀のため陸士旧制第四期砲兵科に進むが、教導団で一年後輩の荒尾も根津を追いかけて陸士旧制第五期の歩兵科に入る。根津が荒尾の親友であったことは、同時に根津が茂丸とも近かったことを示している。

 根津は経歴からしても高島鞆之助の子飼いで、陸軍を去った後も高島の腹心であったと見て良い。明治三十年代から四十年代に掛けて、高島と根津の関係は、『宇都宮太郎日記』に見られる。参謀本部第二部長・宇都宮太郎少将が、高島の家政窮乏を憂いてしばしば東亜同文書院長・根津一に相談しているが、四十四年十二月、宇都宮が根津を訪れたところ、根津は孫文革命党を支援する善隣同志会の創立を図り、その会長に高島鞆之助を仰ぐ所存であった。

 『日本の下層社会』で知られる横山源之助は、その著『怪物伝』で頭山満を評し、「その交際してゐる人物を調べて見ると、平岡浩太郎、金子元三郎とも交れば、京橋に三興社を創立して石油事業に関係してゐる杉山茂丸や、北海道に幅を利かせてゐる結城寅五郎の如きは、曾て彼の恩恵を受けた門下生。かといふと、大井憲太郎、岡本柳之助、遠藤秀景のやうな物騒な連中とも交際(つきあ)ってゐる。子爵高島鞆之助とも懇意であれば、谷干城子爵とも睨懇、故人児玉参謀長とも親しければ、金子男爵(金子堅太郎)とも知り合ってゐる。特に故近衛公爵とは最も親かったやうである」とし、高島との関係を特筆した。

 高島が孫文革命を支援したことも玄洋社との密接な関係を示唆するもので、大正二年、第二革命に失敗した孫文の日本亡命を首相・山本権兵衛に認めさせたのは高島であった。孫文は赤坂の頭山満邸の隣家に匿われたが、高島邸に保護されたことも伝わっていて、高島の神戸別邸を用いた可能性もあるとされている(『大阪偕行社附属小学校物語』)。

 こうして見ると、其処此処に玄洋社と薩摩ワンワールドの関係が窺えるのであるが、これを指摘した史家を未だ全く観ないのは、一体なぜなのか? 
 
                        <了>。
 




●『アメリカン・ドリームという悪夢』
 
 先日、藤永茂氏の『アメリカン・ドリームという悪夢』を紹介しました。
 (←左下のカテゴリーからどうぞ。) 

 

 そこでは、同氏の著・『「闇の奥」の奥』については、写真のアップのみで済ませていました。

 ★「さてはてメモ帳」氏が写真を添えて紹介しています。

 ご一読を! ⇒ 




●疑史 第72回

 ●疑史 第72回    ★清朝宝物の運命(5) 


 先次大戦後、満洲は中華人民共和国東北地区となり、辰吉郎と醇親王の謀った満洲計略は満洲国建国だけの線香花火に終わったかに見える。此処までの経緯は畢竟在英ワンワールドの意図に沿ったものと思われるが、彼らの建てた河豚計画(ユダヤ教徒の満洲移住計画)は未だ全く終っていないから、満洲問題はパレスチナ問題の今後の推移を観てから結論すべきであろう。

 前月稿に続き、満洲族の漢族潜入仮説を略説する。その前に「満洲」(マンジュ)の語源を述べると、元来仏教の文殊師利菩薩を指す満洲語で、文殊を信仰した建州女真族の総称でもあるが、族称に「文殊」の文字を使うのを避けて「満洲」又は「満珠」を当てたものである。この語はまた民族の発祥地(現在の中国東北地区)を指す地名としても用いられた(同地区は英語でマンチュリア)。今日の史家やマスコミは「満州」を常用するが、これは戦前の庶民が頻繁に用いるために簡略化した表記を、上記の由来を知らず、或いはマン
チュリアを中華本部の一地方名(州)と看倣した誤用で、漢字制限のためと強弁する者もいるが、それならば八重洲も「八重州」と改むべきことになる。

 中華人民共和国において「満族」と呼ぶのは、現支配層を構成する漢族が満洲族の民族的覚醒を警戒してマンジュという言葉に敏感なためだという。二〇〇〇年の人口調査で一〇六八万人しかいない満族は、清朝期の支配階級だったために今日でも漢族に比べて教育水準が高く、一九九〇年の調査によれば人口一万人当たり大学進学者教は千六百五十二人で、全国平均の一三九人、漢族の一四三人より遥かに高い。

 また文盲・半文盲率も僅か一・四%で全国平均の二二・一%、漢族の二一・五%とは比較にもならない。辛亥革命で満洲に追放される筈だった満洲族は、革命後も満洲を漢土に編入した漢族に抱えられたため、国家中枢から排除された少数民族となったが、如上の教育水準を観れば、満州族が今日でも一種の貴族・士族的立場にあることが窺える。

 英国は謂うに及ばず、仏伊露などの上層階層にユダヤ種が潜入していると指摘されるが、ある民族が意図的に異族潜入を図る例は世界史上少なからず、その場合多数派民族への同化を装うのは当然である。わが史上にも例あり、本年発表の豊田有恒『世界史の中の石見銀山』によれば、安土城天守閣の完成の翌年即ち一五八〇年に、スペイン国王フエリッペ二世に滅ぼされて亡国となったポルトガルの貿易商人が大挙して秘かに来日して各所に潜入したが、一部が石見銀山を驚異的に発展させた。当初の鉄砲鍛冶も実はポルトガル人で、余談だが、少年の頃に読んだ吉川英治『神洲伝馬侠』に、★「鼻欠け幻斎」とかいう南蛮人の鍛冶屋が敵役で出てきた。巷間史書で戦国時代のイメージを形成していた私は、異人がそのような形でこの国に居住していることを信じられず、吉川の創作と視てその荒唐無稽を悪み、以後全く読まなくなった。ところが本年豊田説に接し、吉川が南蛮人鍛冶の口碑を確かに耳にしていたことを覚った。吉川が、さりげなく「鼻欠け幻斎」を重要人物として登場させてリアルに描いたのは、学校系の史家先生が彼の少年小説を荒唐無稽として嗤うことを計算した上で、嗤い返す心算があったのでないか。

 当時東アジア来往のポルトガル人の大半は、一四九二年にスペインを追放された旧ユダヤ教徒の子孫であった。その九十年後再びスペインの追撃による危険を感じた彼らが、日本人となって永住するために日本女性と通婚し、乃至は「托卵」して、多数の混血児★タカス(日本版マカイエンサ)を産ませた。種子島で刀鍛冶・八板金兵衛がポルトガル人に娘を差し出して秘伝を受けた例は周知だが、タカスが外来の素性を隠して鉱山業、銃砲製造や絹織物など貿易関連産業に潜入した史実は、多数の邦人男女がポルトガル人奴隷商により輸出された史実と同様、学校系史家の黙殺と黙秘に因って未だ国民周知の歴史認識となっていない。伊集院で鉄砲鍛冶となったタカスは鹿児島城下に移り加治屋町方眼に住んだが、彼らが薩摩藩士として維新を主導し、明治政府の主要部分を占めた秘史を本稿は既に明らかにしてきた。

 辛亥革命後の満洲族の動向に関する通説は「漢文化に馴染み過ぎて自ら漢族化し、満洲族としてのアイデンティティを失った」とし、所謂亡国の民と看做している。世界にはかかる例も少なくないが、ほとんどが被圧迫民族か少数化した先住民である。これに対し、満洲族はいやしくも清朝の貴族・支配層として権力・経済力と世界史的知識を有していたから、もしその気があれば、表向きの満漢通婚禁止令をかいくぐり、秘密通婚や「托卵」の形で漢族家系へ潜入するのは容易であった。地球上で漢族社会の存在が絶対に無視し得ない現実であることは、統治者の満洲族が一番善く知っていた。故に、世界史上稀なる政治力と統治能力を有した満州族は、清朝の初期から表向き満漢通婚を禁止しながら、実は意図的且つ積極的に漢族へ潜入し、或いは自ら漢族化を図ったとの推定が可能である(さもなくは、辛亥革命後の満洲族の無策ぶりは目に余る)。思うに、今日の中華人民共和国の政権中枢には、満洲族ないし満洲血統が、漢族を装って多数参与しているのではないか。以上が、洞察史学により構築した「満洲族漢族潜入仮説」である。

 さて、乾隆帝が逸品を選んで奉天北陵に秘蔵した「奉天古陶磁」は醇親王から堀川辰吉郎に渡り、奉天特務機関長・貴志蝋仲介により大正十四年紀州徳川家に入った後、大半が昭和初期に流出して現在世界中の美術館に飾られている。大正九年に貴志支援の密命を受けて奉天に赴いた吉良周蔵薗周蔵は、愛新覚羅氏の命令で「奉天古陶磁」を管理していた学者・孫游から親しく教示を受け、現物を実写した図に蔵帳の記載と孫游の解説を加えた手作りの冊子(「奉天古陶磁図経」)をまとめた。この十数年来それを研究してきた私は、「奉天古陶磁」には乾隆帝の遺志が込められていることを痛感する。清初三代すなわち康煕・康正・乾隆の三帝が倣古陶磁の製作に熱心した事は、史書に記され現物も遺されている。紫禁城伝来のオリジナル品と共に紫禁城・奉天宮殿及び熱河避暑山荘に蔵されていた清初倣古品は、辛亥革命後に一部が流出したが、大部分は今も台北と北京の故宮博物院にあり、近年調査が進められている。その結果、従来オリジナル品と思われていた品の多くが倣古品であることが判明した。

 周蔵が「図経」に所載した逸品の多くは、購入資金の大半を賄った大谷先端師が資金回収のために売却した結果、今は世界各地の美術館を飾っている。美術館の時代考定ですべてオリジナル品とされ、「図経」の記載とも一致している。ところが紀州徳川家に残った品の中に、「図経」にはオリジナル品と記載される特殊な倣古品がある。当初は「図経」の記載通りのオリジナル品と信じていた私は、実物に即して研究するうちに、それらが倣古品であるのに気付き、陶技が絶頂に達した清初期の作品と考え直したことで、雍正倣古品の真の器量が初めて観えてきた。

 その代表例は「奉天古陶磁」の最高品とされる「青花釉裏紅九龍大酒會壷」で、当初は永楽品と見立てていたが、今は清初品と確信する。「図経」には、これに類する倣古品が幾つか、オリジナル品に混じっていて、中には明初の年款を書いた品もある。「図経」にはオリジナル品と記載されているが、実際は倣古品である(ただし、上記九龍壷だけは「図経」に年代記載がない)。つまり、蔵帳には元代や明代と記してあり、孫游先生もそれを信じていたが、実際には清初三代期の倣古品である。そのいずれも、オリジナル品を凌駕する見事な出来栄えで、倣古年款を入れていない品の方が多い。

 この問題は、「図経」の作成の経緯を考察することで解決した。醇親王から辰吉郎が買い取った「奉天古陶磁」を、大正三年初に秘納庫から張氏帥府と北陵内の番小屋に移したのは、紀州家で換金して張作霖の軍資金にするためである。以前の秘納庫では整然と並べられて蔵帳(漢字だけ)だけで識別できた「奉天古陶磁」は、この移動で混淆してしまい、輸送の担当者が、同類と看做した品々を寄せ集めて並べたから、蔵帳と現物の厳密な対応が崩れた。そこで周蔵は、孫游先生の指導の下に、蔵帳を頼りに窯名・形態・寸法などを察して「図経」を作成したのであったが、幾つかの倣古品をオリジナル品と取り違えたのも無理からぬことで、この時に誤って記載したものと思われる。問題は、それら倣古品が通常の倣古品とは異なり、オリジナル品さえ超える見事な出来栄えであることで、おまけに年款を記さないものが多く、倣古品かオリジナル品かの断定が最後まで出来なかった。それを、モデルとなったオリジナル品と比較しながら、倣造の仔細を推定することにより、倣古品と断定されたのは最近で、清初三代にこのような驚くべき倣古品が作られていたことを明確に認識するに至ったのである。

 因みに両故官博物院蔵の倣古品には、①実際製作期の年款を入れたものと、②倣古対象期の年款(倣古年款)を入れたものと二通りあるが、それらを区別した基準は善く分っていない。ただ、倣古品には大別して二種類あり、古拙性まで含めて古物を忠実に写そうとしたものと、古代の精神を汲み取りながら当代の好尚に即し,当代の技術で作ったものがある。古物そのものを写そうとした前者は「倣古品」で良いが、古代の精神・感覚を尚びつつ、当代の技術で再現を図った後者は、「尚古品」とても称すべきであろう。

 ところが「図経」所載の倣古品は、両故宮博物院蔵の倣古品とは作行きが全く異なり、ここに「窯の性格の違い」、即ち通常官窯とは異なる御窯の存在が実感される。要するに、清初三代の皇帝が自ら指導して漢文化の精粋たる古陶磁を再現したものである。乾隆帝にとって、それら御窯品は祖父康煕と父・康正および乾隆自身が、眼前の漢文化を克服するために精魂を込めて造ったものであった。単に古物の模造に成功した「倣古品」ではなく、栄光に満ちた漢族の古文化を満州族が克服したことを証する「克古品」であったから、満洲族のレガリヤとして乾隆帝が奉天に隠したと考えるべきで、そこにこそ紫禁城に遺された通常倣古品との違いがある。固より乾隆帝は、表向き満漢平等を謳う清朝社会にそれを公開して誇るがごとき稚気は微塵もなく、大人の知恵を以て奉天に運ばせ、厳重に隠したのではあるまいか。

 辰吉郎から「奉天古陶磁」の管理処分を任された光瑞師は、奉天で実物を観た時に乾隆帝が克古品に懸けた思いを覚ったのであろう。日本渡来後にそれらを換金するに当たり、売却対象にはオリジナル品を選び、「御窯克古品」をすべて紀州家に遺したのは無論意図的で、乾隆帝の遺志を汲んだのである。上田・小森の倣造工作の謎もこれで解ける。光瑞師は清初三代皇帝の顰に倣って、日本人による克古品を企てたのである。しかしながら我彼の力量差は大きく、小森の腕で「克古品」作りは無理と見た光瑞師は、以後彼らが販売用倣古品の製作に転じるのを放置するしかなかった。 

                 <了>

 **************


 ★過去の参考記事です。↓ 


  ⇒ ★マカイエンサ 
  ⇒ ★真方衆



●今日の一冊。
                    マンチュリアン・レポート

                    西安事件関連書

                    張家三代の興亡


 
 今日の一冊は、浅田次郎の『マンチュリアン・レポート』。 



 張作霖爆殺から西安「事件」へ、著者の「渾身」ぶりをチェック!

 下の3冊は、ブロガーのお薦め書だが、

 この3冊と紹介中の落合論文を手許におけば、小説も堪能できる。

 *追記* 『張家三代の興亡』を忘れていました。
 『三代の興亡』↑ 中の関連個所は、後程紹介しましょう。


 「物語」の主人公=レポートの作成者、志津邦明はもちろん著者の創作だが、

 実名で登場する人物も多い。

 張作霖、張学良、★町野武馬、馮玉祥、愛新覚羅家・・・等々。

 ← の「ブログ内検索」で過去記事をご覧ください。


 






●世界の情報開示への闘い。

 昨日、日本の情報隠蔽体質を嘆いたが、世界では様相一変の兆しが!

 ●Wikileaks(ウィキリークス)より。⇒クリック

 
 ★アフガン紛争関連資料公開事件 [編集]
 詳細は「en:Afghan War Diary」↓を参照 

 
 2010年7月25日、ウィキリークスにてアフガニスタン紛争に関するアメリカ軍や情報機関の機密資料約75000点以上が公表された。提供された資料は9万点以上に及ぶという。これは2004年から2009年にかけての記録で、パキスタンの情報機関「ISI」とアフガン武装勢力との関係や、未公表の民間人死傷案件、アフガン側のアメリカへの情報提供者の身元情報が含まれていた[24]。これに対しアメリカのロバート・ゲーツ国防長官はFBIに捜査協力を要請した。国防総省内の内部告発者のみならず、ウィキリークス側にも捜査の手を広げようという意図があると言われている[25]。

 米軍側はイラク駐留米軍情報部門での経歴がある軍人が情報源との見方をしている[26]。

 **************。

 
 参照は ⇒クリック

 
 ★イラク戦争についても ⇒クリック





●隠蔽体質。

 ●裁判に不利な<取り調べメモ>は、すみやかに廃棄せよ! 


 なんと、これが最高検の内部通達というのだから、呆れ果てる。

 所属組織に不利な「文書の廃棄」といえば、思い浮かぶのは敗戦時に廃棄された<帝国国防方針>である。

 旧日本陸海軍の最高指針を定めた「厳秘」の文書であり、昭和史関連書ではしばしば引用されるものだ。

 天皇裁可の原本は宮中に、写本は5部のみで、配布先は首相、陸相、参謀総長、海相、軍令部長の5者だった。

 終戦時に全て「焼却処分」され、現存する<帝国国防方針>は、関係者の記憶をもとに復元されたものである。

 隠蔽体質は変わらない。 

 






●尖閣領土問題と孫崎氏の「日本人のための戦略的思考」。
 ●尖閣領土問題と孫崎氏の「日本人のための戦略的思考」。 

 以前紹介した、孫崎・『日本人のための戦略的思考入門』は、「相手をやっつける手段からの脱却」を今後の日本に肝要な戦略構築法として強く主張した。

 尖閣領土問題(対中国問題)「でも」揺れ続ける我が国にとって重要な指摘である。

 「尖閣領土問題」と言うものの実質は、領土の問題ではなく、漁業権やガス田開発利権絡みの経済的利害の問題なのは明らかで、ならば、これは「対話」と「調整」の問題だろう。

 ともかくこの間の政府の対応は「あれか・これか」で、「戦略的思考」とはほど遠いものだが、これほどの「コジレ」の初因は、元民主党幹事長・枝野の<中国との「戦略的互恵関係」を全面的に否定する発言>にあった。彼のテレビに映しだされた
「大見得」は、記憶に新しい。

 枝野の只今の「所感」をぜひ拝聴したいものだ。



 エセ強硬派・前原の「所感」は、現外相なので、国会の論議にお任せしよう(笑)。








●隠ぺいされる「スキャンダル」。
                     西岡

               


 パソコンの入れ替え作業で、記事更新が滞りがちです。

 
 ●<起訴 即 懲戒免職>とは、今やこの国の司法も落ちるところまで堕ちたと思う。

 


 そんなに慌てふためいた体たらくの動因は何なのか?

 一体「なに」をやりたいのか? 「なに」を隠したいのだろうか?

 *************

 奇妙なことだが、この間の「騒動」で唯一「不可触」の大問題がある。

 もちろん、「裏金スキャンダル」がそれで、我々「国民」の健忘症とは怖いものだ。

 *************

 雑誌・「噂の真相」のトップ屋として、東京高検検事長・則定の首を取った・・・

 西岡研介は健忘症とはもちろん無縁で追及を持続する。

 ⇒ ★週刊朝日
 
  

 
 「驚愕」の事実が、「三井でっち上げ逮捕=裏金隠避工作」の発端となった人物、

 亀谷直人(山口系暴力団の元組長)の獄中手記というかたちで明らかにされていく。

 詳細は、誌に任せるが、記事中匿名扱いされている「T」とは、渡真利忠光。

 亀谷・渡真利から仲介を依頼された「ヤメ検」とは、元大阪高検検事長・荒川洋二。

 
 ************* 

 

 

●ノーベル<戦争>賞。
 ●わたしが、ノーベル平和賞と聞いて、すぐに思い浮かべる受賞者は、以下の三人だ。

 1973年 ヘンリー・キッシンジャー ~

 1974年 佐藤栄作 ~
 
 2009年 バラク・オバマ 

 

 以上、三受賞者とも、発表の瞬間には、

 「ふざけた冗談だな」と思ったものだ。

 これでは、 「ヘイワ」 ならぬ ”HEY WAR”PRIZE ではないか・・・と。

 **************

 と、書いていると・・・
 

 
 ・・・流石は、オバマ! ⇒ ★オバマ政権核実験
   
 


●『昭和天皇・マッカーサー会見』(4)
                     20世紀のファウスト_1


 ●『昭和天皇・マッカーサー会見』(4) 
 
 「松井文書」へ進むことにする。
 少し長くなりますが、引用・紹介をして、後に補・註を記して行こうと思います。 

 
 ●第三章 「松井文書」の会見記録を読み解く 

  
 ★「松井文書」とその背景 

 
 占領期、昭和天皇と連合国最高司令官マッカーサー及びリッジウェイとの会見は計一八回に及んだが、これまでマッカーサー会見の一部を除いて会見内容は全くのベールにつつまれてきた。しかし、一九四九年七月の第八回天皇・マッカーサー会見からリッジウェイの離日会見まで通訳を務めた故松井明が、担当した会見の記録はもとより、それ以外の会見の経緯や政治的背景についても詳細に記述した「天皇の通訳」と題する文書(以下、「松井文書」)を残していた。彼は外務省政務局第五課長として情報関係の仕事をしていたが、
当時の吉田茂首相に命じられて通訳を担当することとなったのである。

 これまで天皇・マッカーサー会見について「公式記録」として明らかになっていたのは、第一、三回と第四回の前半部だけであった。ところが「松井文書」には、日本の安全保障問題に重要な意味をもつ第四回の後半部の記録が転載されており、さらには講和問題に密接にかかかる第九、十回会見の記録がすべて書き記され、またマッカーサーの離日に際する会見での天皇の実に興味深い発言も記録されているのである。これに加えて、全くの空白であった天皇とリッジウェイとの七回にわたる会見記録もすべて記載されており、そこでは再軍備問題や朝鮮戦争をめぐる軍事問題、内外の政治問題に関する天皇の情勢認識などが具体的な発言の形で詳しく書き残されているのである。

 この度、『朝日新聞』がこの「松井文書」の写しを入手し、去る八月五日付の紙面で特集記事としてその概要を紹介した。筆者はこの文書の全文を閲読する機会を与えられたが、数々の新たな発見に知的興奮をかきたてられる一方で、戦後史の空白を埋めるであろうこの一級資料に研究者としてただ一人向き合っていることの。〔居心地の悪さ〕を感じざるを得なかった。本来であれば、重要な資料であればあるほど、誰もがアクセスできることで活発な論争が展開され歴史認識が高められていく、ということでなければならない。しか し「松井文書」については、なお著作権の問題がクリアーされていないため、上記の『朝日新聞』の特集記事も、「著作権法上の「正当な範囲内」」にとどめられたのである。

 ただ、実は松井自身にあっては、八十年にこの文書をまとめたのは、あくまでそれを出版することを目的としていたのである。翌八十一年十月二日付の侍従長入江相政の『日記』(第十一巻)には、「松井明君がマッカーサー及びリッジウェイの御通訳の顛末を出版したいとのこと。
とんでもないこと。コッピーを渡される」と記されている。さらに三週間を経た同二十二日付の『日記』には、宮内庁長官の報告として「この間からの懸案の松井明君の通訳の記録の出版。侍従長、次長、官長すべて反対と告げ思ひとまって(ママ)もらった由。そして侍従長の秘庫に入れておいてくれとのこと」と 出版を抑えきった「顛末」が記されている。

 しかし松井はそれでも諦めきれず、
八九年、天皇の逝去を経て文書の概要をフランス語版として出版し、さらに九四年一月、自らが没する四ヵ月前に『産経新聞』紙上で断片的ではあるが文書のごく一部を公に語ったのである。上部からの拒否にもかかわらず松井をここまで突き動かしたのは、「昭和天皇が占領期に果たされた役割について後世の人たちに知ってもらうため」であり、何よりも「歴史を綴る必要」というところにあったのであろう。

 ただいずれにせよ、天皇と最高司令官との会見は事実上の「トップ会談」としての性格をもっており、だからこそ「公式記録」もまとめられたのであった以上、それを所管する宮内庁や外務省が正式の資料公開に踏み切るべきである。とはいえ、現状においては上記のような著作権の問題があるため、本稿においてはその、〔制約〕のなかで、できる限り研究者や一般読者が、〔生の資料〕として利用できるような形で叙述するように努めたい。なお「松井文書」は天皇・マッカーサーの第一回会見から順次記述されているため、ここでもそれに従い、政冶的にきわめて重要な意味をもつ天皇・マッカーサー会見を中心に、これまでの研究史をふまえつつ分析を加えていきたい。

 ************* 

 
 ★第十一回会見(*1951年4月15日
 戦争裁判への「謝意」

 
 天皇とマッカーサーとの会見は、第二回会見以来ほぼ半年に一回のペース(四十九年だけは三回)で行われてきた。しかし、第十回会見(*1950年4月18日)以降は、朝鮮戦争勃発のためか、
天皇が★ダレスへのアプローチを重視したためか実情は不明であるが一度も持たれることはなく、結局マッカーサーが戦争の指揮をめぐって解任され帰米する前日が、両者にとって最後の会見となった。「松井文書」は実に興味深い両者の会話を生々しく再現している。

 別れを惜しむ挨拶が交わされた後、ここでも天皇はすぐに朝鮮戦争の戦況に話題を移し、マッカーサーが交代しても米国の戦争政策が変わらないか否かを問いただしている。これに続いて天皇は、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と述べたのである。これに対するマッカーサーの応答は、「私はワシントンから天皇裁判に付いて意見を求められましたが勿論反対致しました。英ソ両国は裁判を主張(英国に付いては意外に思った)していたが、米国はその間違いを主張し、遂に裁判問題は提起されなかった。現在尚天皇裁判を主張しているのはソ連と中共のみであります。世界中の国が反対しているのにソ連は法的根拠も示さず之を主張しているのであります」というものであった。これに対して天皇はただちに、「共産主義思想の当然の結果でありましょう。日本の安定を破壊し国内治安を乱して革命へ持って行かんとするものでありましょう」と応じた。

 マッカーサーの発言については、当初に英国やソ連が天皇を戦犯として訴追することを求めていた、といった事実関係の誤りが含まれている。とはいえ、「日本人に戦争は罪であったと思い込ませようとした」「戦後日本の思考空間を支配してきた」(江藤淳)として「東京裁判史観」の名で非難が浴びせられてきた東京裁判について、天皇自らの発言として「謝意」を表していたことは誠に興味深いものがある。さらに、それに応えてマッカーがサーが自らの〔尽力〕を語ったことによって、はしなくも東京裁判が、東条らに全責任を負わせる一方で天皇の不訴追をはかるという「日米合作の政治裁判」であったことが当事者同士の会話によって確認されることになった。同時に重要なことは、両者の議論において、本来は天皇の戦争責任に関する問題が、いつのまにか共産主義の脅威の問題に見事にすり替わっている、ということなのである。

 ************ 

 
 ★天皇・リッジウェイ会見
 「一衣帯水論」

 
 マッカーサーの後任である
リッジウェイと天皇との全七回にわたる会見の全容が「松井文書」によって明らかになった。もっとも、最初の会見(五一年五月二日)が講和・安保条約をめぐる第一次日米交渉の山を越えた後であり、政治的には天皇がダレスヘのアプローチを重視したためであろうか、両者の会談内容は朝鮮戦争をめぐる軍事情勢に集中した。それは、例えば天皇が、「兵員の交替」問題、ゲリラ戦への対応策、制空権の問題、「中共軍の戦略」、「避難民」対策等々を詳細に問いただすなど「高度に軍事的」であり、かつて大元帥として軍の責任者に下問する姿を彷彿とさせるものである。

 したがってここでは、政治的に重要と思われる諸問題に絞って検討しておきたい。まず特徴的なことは、天皇の情勢認識が鮮明に現われていることであり、その核心は
「朝鮮有事」と「日本有事」の直結である。すでに最初の会見から天皇は、朝鮮戦線における国連軍が「極東の防衛」に果たしている役割に「感謝」の意を表明し、「日本にとっては釜山が一衣帯水であると同時に北海道も一衣帯水の関係にあるわけであります]と明言した。

 こういう「一衣帯水」論の背景にあるのは、第二回会見(五十一年八月二七日)で述べているように、ソ連が「大きな過ちを犯す可能性」への危機感、つまりはリッジウェイが引き取って具体的に言及した「第三次世界大戦を惹き起こす」可能性への強い危惧であった。

 ************* 

 
 ★「原子兵器」発言 

 
 第四回会見(五十二年三月二七日)でも天皇は、朝鮮戦争に「ソ連が直接介入するような兆候はないか?」と改めて問うたが、これに続く議論の中で、
「〔共産側が〕仮に大攻勢に転じた場合、米軍は★原子兵器を使用されるお考えはあるか? この問題に対しては恐らく貴司令官も答弁する立場に無いと言われるかも知れないが?」との質問を発したのである。リッジウェイは直ちに「原子兵器の使用の権限は米国大統領にしかない」と答えたが、こうした回答を当然のごとく予測しながら、なぜ天皇は「原子兵器」発言を行ったのであろうか。もちろん、マッカーサーの解任問題と関係させつつ、使用されないであろう確認を求めたという解釈も成り立つであろう。しかし、この質問のまさに直前にリッジウェイが共産中国の宣伝戦に触れて、「大量虐殺手段の武器禁止の大々的宣伝を開始し、延いては原子兵器の禁止へ持って行こうとの一つの布石」との見方を披瀝していることを考えると、ソ連が介入するような大攻勢の場合に中国の「使用禁止」の、〔策略〕をこえて「原子兵器を使用する」覚悟があるか否かを問いただした、と見ることもできるであろう。いずれにせよ、被爆国としての〔琴線〕に触れる問題での大胆な発言にただ驚かされるばかりである。
 以上のように天皇は朝鮮戦争を、「天皇制打倒」をめざして日本にも進撃してくるであろう国際共産主義の攻勢の始まりと見ていた。この点で、「大陸の政治動乱がわが島国を直接に脅かさなかったことは歴史の事実」であり、
「ソ連は断じて日本に侵入しない」と確信して、「日本有事」と「朝鮮有事」を峻別していた吉田の情勢認識とは明らかに食い違うものであった。

 ************** 

 
 ★安保条約の認識 

 
 さて、以上の情勢認識を持っていた天皇にとって、安保条約の成立は当然待ち望まれたことであった。講和・安保条約の調印後に皇居で行われた第三回会見(五十一年九月一八日)で天皇は、「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約〔講和条約〕が締結せられた」ことを喜ぶとともに、「日米安全保障条約の成立ちも日本の防衛上慶賀すべきことである」と率直に述べた。そして、つづく第四回会見でリッジウェイが行政協定をめぐって、「防衛費」(防衛分担金)や占領期の施設返還の問題などで日本側に不満が出ていることについて「日本国民も辛抱してもらいたい」と述べたのに対し天皇は、「吉田内閣によって国民の啓蒙の有効な措置がとられるものと信じる。私としては良く了解できるし、大多数の国民も理解しているものと思う」と答えた。

 行政協定の交渉を担当した岡崎勝男さえ「反米感情の温床」になることを危惧した不平等な行政協定を「良く了解できる」と評価するほどに、天皇にとっては安保条約が結ばれたこと自体が「慶賀すべき」ことであったのであろう。ただその際注目すべきは、条約発効を目前に控えた第五回会見(五十二年四月二六日)で天皇が、「日米安全保障条約に基づき貴司令官の統率の下に米軍が条約に規定された防衛義務を担当される訳であります」と述べている点である。当時の西村条約局長も、「〔米軍による〕日本防衛の確実性が条約文面から消えうせた」と嘆いたように、この条約は米軍による日本防衛を義務づけていないにもかかわらず、なぜ天皇は右のような発言を行ったのであろうか。前回の会見でリッジウェイが、米軍駐留の目的が米国の「政治的野心」や日本政治への「干渉」にあるのではなく、あくまで「日本の独立を保障する」ことにあると力説したためであろうか。

 なお天皇は再軍備問題について第二回会見で、「もちろん国が独立した以上、その防衛を考えることは当然の責務であります。問題はいつの時点ていかなる形で実行するかと言うことになると思います」と述べ、漸進的な再軍備の必要性を明言していた。

 以上に見てきたように、「松井文書」によって、
天皇がリッジウェイとの会見で、マッカーサーとの場合よりもはるかに直裁に生き生きと自らの情勢認識や主張を語っていることを知ることができたことは、大きな収穫と言える。 

 ************* 

 
 ★「松井文書」が明らかにした天皇像
 『独白録』の論理の否定 

 
 「松井文書」が明らかにした占領期における天皇の言動から何が言えるであろうか。まず明白なことは、戦争責任にかかわる「弁明書」としての『独白録』で展開された論理それ自体の否定、ということであろう。『独白録』を貫く論理は、内閣が機能しなかった二・二六事件と終戦時を例外として天皇は、「閣議の決定」については「仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる」という、「立憲政治下に於る立憲君主」としての立場に徹した、ということである。つまり、「余りに立憲的な」と述べるほどに憲法に忠実に従った結果、戦争への道を阻止できなかった、ということなのである。

 しかし、「松井文書」が生々しく描き出したように
天皇は、戦後の新憲法の施行後も、「象徴天皇」という憲法上の規定に何ら縛られていないかのように「政治的行為」を展開した。七十五年に天皇・マッカーサー第三回会見(46年10月16日)の記録を掲載した『サンケイ新聞』において担当記者は、「〔会見から〕半年後の〔昭和〕二十二年五月三日(憲法施行)以後は元首から象徴と変わって現実の政治から、まったく離れられる」と記した。当時はまだ、第四回会見の前半部の記録も「沖縄メッセージ」も明らかになっていなかったからであろうが、現実の天皇の行為は、こうしたサンケイ記者の〔期待〕をものの見事に裏切るものであった。 

 ************* 

 
 ★『独白録』の論理と現実 

 
 天皇の、〔憲法感覚〕がこうしたものであるとすれば、はたして『独白録』で展開された論理は正しいのであろうか。第一回会見を前後して焦点となった「東条問題」について検討してみると、天皇は開戦を決定した四十一年十二月一日の御前会議について、「政府と統師部との一致した意見は認めなければならぬ」「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云はなかった」「東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない」と述べ、あくまで「立憲君主」としての立場を貫いた旨を強調した。

 しかし『木戸幸一日記(下)』によれば、御前会議前日の十一月三〇日に、高松宮が海軍の〔厭戦気分〕を伝えたため海軍大臣らを呼んで事情を聞いた天皇は、「相当の確信」をもった返答を確認したうえで、
「予定の通り進むる様首相〔東条〕に伝へよとの御下命あり」との決断に踏み切り、木戸は「直に右の趣を首相に電話を以て伝達」したのであった。

 「予定の通り進むる様」とは、翌日の御前会議で開戦を決定せよということであり、「彼程、朕の意見を直ちに実行に移したものはない」と天皇自ら評価するような東条が、こうした「御下命」に忠実に従ったことは言うまでもない。

 つまり、御前会議では「一言も云はなかった」と述べるように「立憲君主」として振る舞った天皇は、〔裏舞台〕では、東条に強制されたのではなく、逆に天皇が東条に「下命」して御前会議の最終方針を事実上決していたのである。ここには、いわゆる「専制君主」(あるいは「親政」の担い手)と「立憲君主」との間を巧みに行き来する天皇の姿が象徴的に示されている。とすれば、新憲法下において「象徴天皇」でありつつ「己が好む所」に従って「政治的行為」に勤しんだ天皇の言動は、むしろ戦前以来の行動パターンにおいて〔一貫性〕を持っていた、と言うべきであろう。 

 ************* 

 
 ★「靖国問題」をめぐる〔ねじれ〕 

 
 こうした
天皇の言動における建前と実態との乖離は、戦争責任問題を考える際の国民レベルの議論に大きな、〔ねじれ〕をもたらすことになった。その典型例が「靖国問題」であろう。本来靖国神社には「聖戦」で倒れた「英霊」の御霊が祀られるのであり、「聖戦」とは「天皇の意を体した戦争」を意味する。他方『独白録』で展開された天皇の立場は戦争に反対した平和主義者としてのそれであり、その逝去の際もメディアの大半はそうした基調で戦前の天皇像を描き出した。つまり、「宣戦の詔書」の問題はともかくとして、実態においてあの戦争は「天皇の意に反した戦争」であった、ということである。

 ところが、天皇は平和主義者であったと主張する立場と、あの戦争は「自存自衛の戦争」であり、そこで倒れた「英霊」のために首相は靖国神社に公式参拝すべきであると主張する立場とが、何ら自己矛盾を惹き起こすこともなく〔共存〕するという、まことに奇妙な、〔ねじれ〕現象が長く続いてきたのである。そして、戦後の日本は今日に至るまで、この、〔ねじれ〕の問題を正面から突き詰めてこなかった。その背景としては、人間個人としては退位問題などで苦悩したであろうが、結果的には法的にも道義的にも戦争責任を明示的にとることのなかった天皇がその在位を継続したことで重大な、〔タブー〕が形成された、という問題を挙げることができるであろう。いずれにせよ、この間、天皇が開戦の決定を「下命」した東条の合祀問題が「靖国問題」の焦点となっていることは歴史の皮肉としか言いようがない。

 ************** 

 
 ★戦後の「国体」としての安保体制 

 
 東京裁判に「謝意」を表しつつその地位を守りぬいた天皇にとって、独立後の日本の安全保障体制がいかに枠組まれるかということは、「国家元首」として自ら乗り出すべき最大のイ。シューとみなされたのであろう。なぜなら、天皇制にとって最も重大な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていたからである。・・・

 
 これで、●『昭和天皇・マッカーサー会見』(3)へ繋がりました。

 以下、他著も参考にしながら、註記・補記を書き記していきます。 

 
    続く。
 

 
                   天皇のスパイ_1_1





●TBS・「報道特集」
                        田中角栄 消された真実_1
                        『田中角栄 消された真実』
                         木村喜助 弘文堂2002年


 ●テレビ報道番組も堕ちたものだ。 

 「流行」の特捜批判を「ヤメ検(特捜)」が嘆く・・・という構図が、

 大手を振って、まかり通っている。

 今夕、偶々目にした「報道特集」も「構図」に乗ったアホラシイ番組だった。

 登場した「ヤメ特捜」・村田恒の厚顔ぶりにも驚いたが、

 「拝聴」のみで、番組が終了したのには呆れてため息が出た。

 *************

 今次、噴出する検察(その「象徴」としての特捜)の問題の根源は、

 ロッキード事件時の捜査手法にある。

 ロッキード事件の悪しき習慣がまかり通った結果が現在の惨状なのだ。

 確たる証拠もなく、角栄氏の「憤死」に救われた「僥倖」を、

 特捜手法の「輝かしい勝利」へとでっち上げた連中とその下僕が、

 いま、我々の「忘却」を見越してご託宣を垂れ流す。

 
 **************

 ⇒★「古川利明の同時代ウォッチング」 の過去ログに、今夕(↑)の村田恒が「ご登場」している。 


 ★「抑止力」としての権力行使(2006年 05月 10日)

 ・・・略・・・
 今や、「国策捜査」や「ファッショ」という言葉は、腐れ検察の枕詞にすっかりなってしまいましたが、少なくとも、私が知っていたかつての検察庁は、「抑止力としての権力行使」ということをちゃんとわきまえていました。
 それは、この前、三井環のオッサンと酒を飲んだとき、「どうして、加納駿亮と仲が悪くなったのか」という話をしたとき、彼が大阪高検のヒラ検事のときに担当したある事件の処理を巡ってだ、というふうに聞かされました。

 その事件は、96年秋に京都地検が摘発した京大病院の臨床治験を巡る汚職事件で、当時、三井のオッサンは大阪高検のヒラの検事として、京都地検の担当をしてました(こういう地検の独自捜査は、着手にあたって必ず高検と協議をする)。 
 ところが、京都地検がこの事件に着手し、関係先をガサ入れ、専任講師を逮捕したとき、三井のオッサンは姫路に出張していて、大阪に戻ってきて初めて「着手」を聞かされました。
 で、資料を読むと、内偵不足が明らかで、「これでは立件できない」と高検の上層部に進言したことで、教授の逮捕は何とか見送りになりました。そして、専任講師も処分保留で釈放され、その後、起訴猶予処分になりました。

 三井のオッサンによれば、この事件では、結局、渡された金が「論文の謝礼」ということで、ちゃんと領収書も発行したり、確定申告もするといった、公明正大な「表のカネ」だったというのです。ですから、そこには「賄賂性がないんだ」というのです。
 サンズイ(=贈収賄事件)には、立件にあたって、3つの大きなポイントがあり、それは「金銭等の授受」、「職務権限」に加えて、「賄賂性の認識」の立証が必要不可欠なのです。
 つまり、賄賂を受け取った側に「賄賂性の認識」がなかれば、それはサンズイにはならないのです(ただ、金を贈った方は「賄賂申し込み罪」で罰することはできますが)。

 んで、なぜ、こういう意見を彼が進言できたかというと、その前にいた高松地検次席検事のときに、香川医科大における同様の汚職事件を手がけ、1年あまりの内偵を経て、渋る法務省をも説得し(なぜなら、こうしたケースは判例がなく、初めての摘発事例だったので)、やっとこさ関係者の逮捕にもっていって、有罪判決を勝ち取っていた経験があったからです。 

 で、その事件では、渡されたカネの流れが3本あって、そのうちの2本は論文謝礼などといった表のカネだったのですが、そこに挟む形で、裏金、すなわち、賄賂が1本入っていて、それをサンズイでサクッと立件した、というのです。
 その意味では、この事件は鈴木宗男が摘発されたやまりんからのあっせん収賄罪ともリンクすると思います。
 あのやまりんからのカネの400万円(検察は500万円と主張)は彼の官房副長官就任の「祝儀」で、それもちゃんと領収書を発行しているというのです。その後、やまりんはいろいろとモンダイが出たので、彼以外にもカネをもらっていた議員もいたので、そういうのと一緒に横並びで、全額、返金しているのです。私もいろんなサンズイを取材してきましたが、「領収書を発行する賄賂」なんて、聞いたことがありません(笑)

 権力を行使するということは、「法律を執行する」ということですが、その適用にあたってはあいまいさがあってはなりませんし、「拡大解釈」などもってのほかです。そうやって、法の厳密な適用を逸脱し、でたらめな法執行をやってしまったら、捜査機関は「誰が、何をやっても逮捕できる」ということです。それは、「凶暴罪=共謀罪」成立云々以前の問題です。
 少なくとも、かつては検察内部にも、このように「抑止力としての権力行使」というものを、きちんとわきまえていた人間が、幹部にもいました。また、そういう人材がいたことで、「法執行の乱用」を未然に内部でブレーキをかけていたのです。 

 確かに、三井環氏は、高松地検次席検事時代(91年4月-94年3月)に、独自捜査で計47人の被疑者を逮捕するという、「中小地検における独自捜査のギネス記録」を打ちたてましたが(これは、当時、最高検の公判部長をしていた逢坂貞夫のオッサンに「高松ばっかり独自捜査で被疑者をあんなにパクッてしまったら、大阪地検特捜部の面子が丸つぶれだ」とまで言わしめている)、私が彼を評価するのは、こうした「独自捜査の鬼」としての能力としてもさることながら、こうした「権力行使の抑制」ということをきちんとわきまえていたからです。

 それは、私が毎日新聞に入って最初の高知支局で、彼が高知地検の次席検事をしていたので、そのときの警察事件の捜査指揮を見ているので、よく知っていますが、特に1課事件(殺し、タタキ)で、物証の詰めを相当なところまで警察に要求し(それは誰が見ても被疑者が特定できていて、新人記者だった私ですら、事前に被疑者に接触して、「一問一答」を取っていたほどの殺しだった)、なかなか逮捕にGOサインを出さなかったのを覚えています。それくらい裏づけには慎重でしたね。
 しかし、それでいて突っ込むときはまたすごかったというか、選挙違反事件で、高知県警の2課が「もうすぐ人事異動があるんで、このへんで打ち止めにしてほしい」と懇願するのを無視して、ガンガンと関係者の身柄を取らせていましたから。そこの「アクセルとブレーキ」の組み合わせが絶妙で、その按配がまさに「バランス感覚」だったと思います。


 話を彼の大阪高検のヒラ検事時代に、ストップを命じた京大病院の事件に話を戻しますと、このとき直属の上司として、大阪高検の次席検事だったのが、ぬあんと、加納駿亮だったわけです。
 書くと長くなりますが、この京大病院の事件の顛末を、
三井氏が高松地検次席検事時代に高松高検検事長だった村田恒氏(ロッキード事件の捜査班にも入り、現場の感覚も知っている)に手紙で書いたところ、それを酒の席で漏らした話が回り回って加納の耳に入ってしまい、「三井の野郎、チクりやがったな」と、彼を敵視し、トイレや廊下で会っても目を逸らすようになったといいます。

 んで、そうやってシカトするだけならまだいいのですが、その後、三井氏が名古屋高検の総務部長から大阪高検の公安部長に戻ってきたときに、加納の横槍で検事の棒給を据え置いたままにするという暴挙までしてしまったのです。「それは、私個人に対する怨念を超えて、高検公安部長という職に対する冒涜である」と。これにさすがに、三井のオッサンもキレてしまったのです(笑)

 この前、その三井のオッサンと酒を飲んだとき、しみじみと言ってましたが、「あの京大病院の事件がすべてだった。アレがなかったら、加納の件で内部告発することもなかったな」と。
 で、私が「だとすると、田舎の検事正を一つ二つやって、今ごろは大阪高検の検事長の椅子にふんぞり返って座って、調活を湯水のように使い倒して、こんなところで私と酒を飲んでることもなかったのですよね(笑)」。
 しかし、こうして、彼が権力中枢にいながら、「極めてまっとうなことをした」がゆえに、最終的に「口封じ逮捕」にもっていかれたことを考えるとき、私は「腐れ検察庁」に対する憤りと怒りがさらにこみ上げてきます。原田明夫、松尾邦弘、但木敬一以下、法務・検察の首脳全員を「共謀罪」で逮捕して、拘置所の塀の中に放り込んで、服役させろと本当に思います。・・・略・・・ 

 *************** 

 
 春秋の筆法を倣えば、

 
 「村田恒先生、三井環氏冤罪事件を産み、

 <検察大崩壊⇒改革>を招来す。

 奇しくも、めでたき大業 也!」 
とでも言えるのだろうか。
 





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。