カウンター 読書日記 2010年09月
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●『アメリカン・ドリームという悪夢』 (8)
 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』 
 
  ************** 

 
 ◆クレヴクールの『一米国農夫からの手紙』
  続きです。
 
 
 ターナーは次のように書いている。

 アメリカのデモクラシーは理論家のドリームから生み出されたのではなかった。それは、サラ・コンスタント号でヴァージニアにもたらされたのでも、メイフラフー号でプリマスにもたらされたのでもなかった。それはアメリカの森から出て来て、それが新しいフロンティアにタッチするたびごとに、新しい強さを獲得した。憲法ではなく、それにふさわしい人々に開放された自由な土地と天然資源の豊穣さが、アメリカにおける民主的なタイプの社会を、その帝国領土を占めたこの三世紀の間、形成してきたのだ。

 これは、ターナーの「フロンティア学説」の主張として明快そのものだが、これを、クレヴクールの主張と対比すると重大な問題点が浮上する。ターナーの「フロンティア」はクレヴクールの第二、第三の地域と開拓民を含むと考えるのが自然だが、問題は、第三のフロンティア最前線の人々である。これらの人々に対するクレヴクールの人間集団としての評価は低い。上の引用の末尾には「どんな社会にも除け者にされた人というものはあるものである。けれども、この社会の不純不遇な分子こそ我々にとって前駆者となり開拓者となってくれる人々である」とある。これらフロンティア最前線の人々がアメリカ人の国民的性格の形成に大きく貢献したのか、しなかったのか?私の念頭から振り切ることのできない問題がここにある。ハリウッドの西部劇映画では、こうした荒んだ心の人間に多数出会うではないか。

 私にとって、クレヴクールの第三の手紙「アメリカ人とは何か」よりも遥かに心惹かれるのは最後の第十二の手紙「フロンティアマンの懊悩」だ。新天地アメリカでの小農園経営者としてのクレヴクールの牧歌的な幸福は、一七七六年の独立の内戦の発生によって突然崩れた。それまでの平穏な日々の継続を強く願ったクレヴクールは必然的に親英反独立派とみなされ、反英独立を叫ぶ周囲の農園経営者たちからの激しい敵意を浴びて追い詰められてしまった。一七七八年、クレヴクールは家族の世話を友人に頼み、いったんフランスに帰国するつもりで、ニューヨーク市に入ったが、理不尽にも英国当局から反英の嫌疑をかけられ投獄された。翌年にはノイローゼの状態にまで落ち込んだようだ。この経験は第十二の手紙「フロンティアマンの懊悩」に深く影を落としているが、クレヴクールの分身であるその農民は、反英にも反米にも徹しきれず、両者の板挟みになって懊悩したこのフロンティアの一農民としての、追い詰められた最後の決断として、辺境のインディアンの社会に進んで入り、「白人インディアン」となるのである。苦渋の決意をするその部分を『クレヴクールーアメリカ農夫の手紙』(研究社)から引用する。長いが必読に値する。


 ・・・私は注意深くこの計画を思いめぐらしました。将来の見通しや成り行きに思いをはせながら、塩も調味料も麻布も、その他の衣類もほとんど持たずにやってゆかなければならない新しい暮らしぶりのことを私は考えました、狩りの技術もおぼえなければならないし、新しい慣習も身につけなければならず、新しい言葉も話さなければなりません。子供たちの教育に伴う危険も耐えなければなりません。このような変化はおそらく、遠くから見ているから怖いような気がするのであって、経験して慣れてしまえばさほどでもないのかもしれません。上手に焼き上がった菓子かパウンド・ケーキか、うまく焼けたロースト・ビーフか鹿肉の燻製か、キャベツかカボチャか、どちらを食べたからといって、それが私たちにとってなんだというのでしょう。端正な手織地を着るか上等のビーバーの毛皮を着るか、羽毛のベッドで眠るか熊の毛皮の上でか。どちらにしようと、気にするほどのことではないのです。言葉の難しさ、インディアンたちの酒乱に対する恐怖、そして最後に私の小さな子供たちがあの不思議な魔力にかけられはしまいか、感じ易い年頃だけにいっそう危険だ、といった不安があれこれ思い出されて私ははっとします。
 小さい時にインディアンのあいだに里子に出された子供たちがヨーロッパの慣習をもう一度取り戻すことができなくなるのは、どのような影響力によるものでしょうか。この前の戦争の時、私は心配顔の大勢の親たちに会いましたが、その人たちはふたたび平和が戻ったので、子供たちが連れてゆかれて監禁されているはずのインディアン部落に行ってみると、言葉にも言えないほど悲しいことに、すっかりインディアンになついて親を忘れてしまった子供たちが大勢いたし、また、比較的に年長だったため父や母を想い起こすことのできた子供たちも、父母たちといっしょに帰ることは頑として拒否し、実父母たちが惜しみなく注ぐ愛情の吐露におびえて、保護を得るために養父母たちのもとへ駆け寄ったのです!
 信じ難いと思われるかもしれませんが、これは私が信頼できる人たちから千にものぼる実例として聞かされた話しです。私が行こうと考えている○○部落には、十五年ほど前に一人のイングランド人と一人のスウエーデン人が住んでいまして、その人たちの物語は、お話しする時間があれば感動を呼ぶものと思われます。この二人は連れて行かれた時すでに成人していました。二人は幸いにも戦争捕虜の大罰を逃れ養子として命を助けてくれたインディアンの女性と結婚せざるを得なくなりました。習慣の力によって二人はついに完全なまでにこの野蛮な生活の流れになじみました。私がそこにいるあいだにも、この二人には友人たちから、見受けの身代金として、かなりの額のお金が送られてきました。年老いた主のインディアンたちは選択を二人に任せ、思案の一つもしないまま、君たちはずっと以前から自分達と同じように自由の身だったと、二人に告げました。二人は留まることを選んだのですが、私に話してくれたその理由は、あなたをびっくりさせることと思います。
つまり、もっとも完璧な自由、暮らしぶりの楽なこと、私たちとかくありがちな不安や気の滅入る孤独がないこと、耕作した土地が特に上質であったこと、というのも狩猟に頼りきりにはしなかったわけですが―これらすべての、そのほか私の忘れてしまった数多くの動機が、私たちのこれほどまでにも恐れている生活をこの二人に選ばせたのです。
 ですから、インディアンの生活は私たちが一般に考えているような悪いものであるはずがありません。インディアンの社会的な絆には、特別に魅力的な、私たちの自慢に思っているものより遥かにすぐれたものがあるに違いありません。
 というのも、何千人ものヨーロッパ人はインディアンですし、これら原住民の中には好んでヨーロッパ人になったというのは一人の例もないのですから!
 私たちが暮らしている虚構の社会より、もっと私たちの生来の気質に合うものがあるに違いありません。そうでもなければ、どうして子供たちや、まして大人たちでさえも、短期間のうちにどうしようもないほどインディアンの生活に捉えられてしまうのでしょうか。
 インディアンの風習にはきわめて魅惑的なものが、造物主の手そのもののしるしが消し難くついたものがあるに違いありません。その証拠に、インディアンの青年を一人つかまえて、可能なかぎりの最良の教育をしてやり、愛情を、贈り物を、それで駄目なら富を、与えてみても、それでもこのインディアン青年は、とうの昔に忘れたはずだとあなたの考える故郷の森を、ひそかに思いこがれるでしょう。そして、捉えうる最初のチャンスを逃さずに、あなたがこれまで与えてきたいっさいの物をいさぎよく棄てて、先祖のむしろの上に寝たさに、言いようのない喜びをもって帰ってゆくでしょう。
 ○○氏は数年前、自宅で死んだ善良な老インディアンから、その孫にあたる九歳の少年を迎えました。氏は、立派な人で尊敬にふさわしい彼の祖父の想い出を考慮して、親切にもその少年を自分の子供たちといっしょに教育し、同じように世話をし、優しくしてやりました。氏は少年を立派な仕事につかせるつもりでおりましたが、春の季節になって家族そろって森にカエデ糖をとりに出かけた時、少年は突然、姿を消して、それから一七ヵ月たって初めて、この篤志家は少年がボールド・イーグルの部落に辿り着いて、今もそこに住んでいることを聞き及んだのです。
 私たちがインディアンのことを、身体器官が劣っているの、バンに困っているの、そのほかなんと言ってみたところで、インディアンはヨーロッパ人と同じように頑丈で立派な体格を持っております。寺院もなく、牧師もなく、王様もなく、法律もなくとも、インディアンは多くの点で私たちよりすぐれているのです。そう申し上げる証拠に、インディアンは生きてゆくうえでなんの気苦労も持たず、眠りを妨げる心配事もなく、あるがままに人生を生き、いかなる困窮にも無類の忍耐を示し、死に際しても自分たちがこれまで行なってきたことや、あの世で経験すると思われていることに対してもなんらの不安も抱きません。どのような哲学思想ならば、これほど多くの幸福への必要条件を私たちに与えてくれるものでしょうか。
 インディアンが私たちより遥かに密接に造物主に結びついていることは、いかにも確かなことです。インディアンは造物主の直系の子供たちです。森の住人はその汚れのない子孫です。平野の住人はその本来の掟から、そもそもの意図から、遥かに遥かに隔たった堕落せる種族です。だから決意を固めたのです。(229~232p)・・・

 多くの読者、特にアメリカ人のほとんどは、この手放しの、そして白人の誇りを逆なでする、インディアン礼賛を、
★モンテーニュ以来の「高貴なる未開人」というロマンティックな幻想の近代的な焼き直しにすぎないと受け取りたいだろうが、そうではない。新天地アメリカに流入した下層白人たちが、数千人のオーダーでインディアン社会に吸収されて、「白いインディアン」となる一方、インディアンの白人文明への同化は、少なくとも、初期には、ほぼ皆無であったというのは、まぎれもない歴史的事実なのである。前項で引用したフランクリンの発言もその一部である。

 クレヴクールの『手紙』がアメリカ論に引用される場合にその重心は「第三の手紙」に偏在して、「第十二の手紙」の白いインディアンの問題が本格的に論じられた場合を私は知らない。類似の事情がトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の引用や論議にも見られる。その第一巻の第二部第十章は「合衆国の国土に住む三つの人種の現状と予想されるその将来に関する若千の考察」と題する長い一章で、インディアン、黒人、白人の関係とその将来についての、トクヴィルの九ヶ月という滞在期間の短さを思えば、驚くべき洞察の数々を読むことができる。インディアン論はその最初の部分を占め、インディアンに対するスペインとアメリカの態度の際立った違いを指摘することで終わっている。これについては次の第四章で詳しく取り上げるが、クレヴクールの『手紙』の場合と同じく、北米原住民問題の黙殺の傾向を強く示すアメリカ論一般は、トクヴィルのインディアン論についても、ほとんど言及しようとしない。

 ハンナ・アレントの『革命について』(一九六三年)では、アメリカ革命は輝ける真の革命であり、フランス革命は失敗した革命であることが主張されているのだが、その第一章に、クレヴクールの名が出てくる。

 ・・・新大陸は貧民の避難所であり、「保護所」であり、集会場となっていた。そこでは新しい人類が生まれており、彼らは「温和な統治の絹の絆で結ばれ」、「死よりも悪い絶対的貧困」が払拭された「気持のよい均質性」の条件のもとで生活していた。そこで、このようにのべたクレーヴクールはアメリカ革命に激しく反対した。彼はそれを「ふつうの地位にある人びと」にたいする「貴人たち」の一種の陰謀であると考えた。(志水訳32p)

 ここに、ハンナ・アレントの筆を通して述べられているクレヴクールのアメリカ革命観も極めて興味深い。クレヴクールは、彼の言う第一のグループ、東部沿岸地帯についてはあまり語っていないが、そこでは、すでに大商人、製造企業家、大農園主が出現して、貴族的な上層階級を形成し始めていた。東北部では造船業などに多くの賃金労働者が雇用され、南西部では、ヴァージニア州のジェファソンやワシントンに代表される政治的野心を持った超大農園主の力が強大になっていた。これらの「貴人たち」が、その政治的野心を満たすために「ふつうの地位にある人びと」の「愛国心」を人工的にかき立てて、独立戦争を始めたとするクレヴクールの見解を、一小農園経営者の情緒的反応として庁付けてしまうのは適当であるまい。

 『一米国農夫からの手紙』に見られる、いわば、ジェファソンの「独立宣言」批判と、上述の「白いインディアン」の問題、この二つを軸として以下のアメリカ創設論を展開しよう。
 
 ◆クレヴクールの『一米国農夫からの手紙』
  <了>。 
 
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 ★<<参考>> ⇒   Do not close your eyes ! 



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●『アメリカン・ドリームという悪夢』 (7)
 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』 
 
  ************** 

 
 ◆クレヴクールの『一米国農夫からの手紙』
  以下、全文引用です。
 
 
 クレヴクール(一七三五~一八一三)は、独立前後のアメリカを文学的筆致で描写し、洞察を加えた半小説的著書『一米国農夫からの手紙』をロンドンで出版して、ヨーロッパで大いに評判になったが、アメリカでは、初期アメリカの研究者以外はあまり取り上げない。初期のアメリカ論としては、トクヴィル(一八〇五~一八五九)の『アメリカのデモクラシー』があり、こちらは、近頃のアメリカ論一般にわたってしきりに引用されるが、クレヴクールとトクヴィルのアメリカ論をくらべて読むと、実に面白い。トクヴィル(当時二五歳)が親友のボモン(ニ八歳)とともに、アメリカとカナダの一部を視察調査したのは、一八三一年五月から一八三二年二月までの九ケ月余りにすぎないが、新生アメリカとその将来に関する洞察の質と量には驚くべきものがある。

 クレヴクールの生涯は波乱に満ちたもので、一七三五年フランスの貧乏貴族の子として生まれ、一九歳で英国に移り、次に北米大陸にやって来た。カナダ滞在を経て一七六四年にはニューヨークで英国臣民となり、一七六九年から数年間、黒人奴隷を雇って平穏な農地経営に従事した。これがクレヴクールのアメリカ生活の至福の期間であった。アメリカの独立戦争(一七七五~八三年)が始まると、戦争に反対したため、英国軍から投獄されたが、一七八〇年出獄して、家族を残したままフランスに戻った。クレヴクールを一躍国際的な有名人にした『一米国農夫からの手紙』(原文英語)は独立戦争終結前の一七八二年にロンドンで出版された。手紙小説の形をとったこの新大陸紹介の書は二年間に五ヶ国語に翻訳され、ベストセラーになった。

 トクヴィルにくらべてクレヴクールのアメリカ体験がより長く直接的で、個人として、深刻でもあったことは特筆に値しよう。

 『一米国農夫からの手紙』は十二の手紙からなっているが、アメリカ論に最もよく引用されるのは「アメリカ人とは何か」と題された第三の手紙である。当時の英国北米植民地十三州は南から、ジョージア、サウス・カロライナ、ノース・カロライナ、ヴァージニア、デラウェア、メリーランド、ニュージャージー、ペンシルヴァニア、ロード・アイランド、ニューヨーク、コネティカット、マサチューセッツ、ニューハンプシャーと北米東岸沿いに並び、その数百キロ西側には、美しいアパラチア山脈をふくむアリゲニー山系が南北に連なって、東岸地帯と大陸中央の大平原との境をなしていた。クレヴクールはこの植民地空間を三つの地帯に分け、植民地人を三つのグループに分けて話を進める。

 或る有識のイギリス人がこの大陸に初めて上陸したとすれば、彼の心にはさまざまな感情や思想が湧いて来て胸を躍らせるにちがいないが、その感情や思想を親しく知りたいものである。そのイギリス人はこの美しい国土の発見と開拓の時代にめぐり合わせたことを非常に嬉しく思うにちがいない。彼はこの長い沿岸を美しく飾っている一連の開拓地を目のあたりに見るとき、かならず国民としての一片の誇りを覚えるにちがいない。その時彼はこう独り言をいうのである。これが内争にかりたてられ、さまざまな惨苦と欠乏に苦しめられ、不安と焦燥のあげくこの地に避難して来た、同じイギリス人の営みなのだ、と。これらのイギリス人たちはその国民のもつ優れた天分をこの地にもたらしたが、その天分があったがために彼等は今日の自由を享受し、今日の富裕をなすにいたったのである。この地に来ると、このイギリス人は故国のもつ勤勉な性質が新しい形で発揮されているのを見、またヨーロッパで栄えているあらゆる技術と科学と発明がここでもまた芽生えているのを見出す。さらにここには美しい都市、富裕な村落、広い田園、それに見苦しくない家々や立派な道路や果樹園・牧場・橋梁の満ち満ちた広大な国土があるが、そこが百年前にはすべて荒蕪の森林におおわれた未墾の土地であったとは。・・・彼はいまや新しい大陸にやって来たのである。これまで見たこともない別の新しい社会が彼の眼の前に姿を現わしているのである。この社会は、ヨーロッパにおけるように一切のものを所有する大領主たちと、何ものをも所有しない一群の人民から成り立った社会ではない。ここには貴族も下僕も僧正も教会権力もないし、少数者に目に見える権力を与えている目に見えない権力というものも存在していない。また幾戦千の人間を使役する大製造家もいなければ贅沢の極致といったものもない。富者と貧者のへだたりはヨーロッバほどに大きくはない。少数の町を例外とすれば、我々はノヴァ・スコチアからウェスト・フロリダにいたるまですべて上地の耕作者である。我々は耕作農民からなる人民であり、広大な国土にわたって散在し、立派な道路と航行に適した河川によって互に交通し、おだやかな政治の絹のように柔らかな絆によって結合され、法律が公平なので万人がその力を畏れることなくそれを尊敬している。各人が自分自身のために働くので、我々はみな自由で拘束されない勤勉心にもえている。この地に上陸したイギリス人が田舎の地方へ旅行してみたとしても、そこには敵意のある城郭や尊大にかまえた邸宅は見当らないし、またそれにひきくらべて粘土造りの小屋や粗末な茅屋に家畜と人間が一緒になって暖をとり不潔な煤けた貧しい家に住んでいるのも見られない。我々の住居には、どこへいっても相応な資産の快い均一性があらわれており、丸木小屋のうちで最も粗末なものでも乾燥した心地よい住居となっている。・・・   (『原典アメリカ史』第一巻、岩波書店、332~4p)

 英領アメリカは多くの植民地にわかれているが、大きく一つの連合体をなし、海岸に沿って延長千五百マイル幅約二百マイルにわたって散在している。私はこの社会を少なくとも南北の中部に位する諸植民地に見られる状態について検討してみたい。アメリカの社会にはヨーロッパに見られるようなさまざまな包含いや等級はないかもしれないが、アメリカにはアメリカなりの独白の色彩かおる。たとえば、海辺に住む人々が森林地帯に住む人々とは著しく異なっているはずだと考えるのは自然であり、両者の中間地帯はまた別個のはっきりした一群をなしているわけである。・・・

海の近くに住む人々は肉よりも魚をよけいに食べ、またあの荒れ狂う海の天候に見舞われることも少なくない。このことが彼等をより大胆で進取的にし、かつは陸上の窮屈な職業を軽視する風を生ずる。彼等はさまざまな人と会ったり話したりするので、人間の交渉が広くなる。海は人々に交易を好む心、産物を一地から他に輸送する欲求を起させ、またさまざまな資源のあるところへ連れてゆき、そこに労働がはじまる。ところが中間開拓地に住む者は、数からいっても遥かに多いし、海岸の人とは非常に異なった人々とならずにはいない。土地の耕作という仕事は単純であるだけにそれに従事する中間開拓地の人々を純朴にするけれども、政治が寛大で教会の戒律もあまり厳しくはなく、その身分も独立した自由土地保有者であるため、この人たちのもっている気持というものは、ヨーロッパの同じ種類の人々に比べるとほとんど全く別異のものといわざるを得ない。同じ種類の人々とはいったものの、ヨーロッパにはこういう種類の人々はいないのである。・・・勤勉と立派な暮しと、利己心と、訴訟好きと、地方政治と、公民としての誇りと、宗教的自主性とが、これら中間開拓地の人々の特徴をなしている。海岸からさらに奥へ入ると、より新しい開拓地へやって来る。そこには中間地帯と同じ力強い相貌が一層粗野な形で現われている。宗教の影響力は余り強くないように見え、習俗もまだ大分粗雑である。

 いまや我々は大森林地の近く、すなわち、最近に人が住むようになった地域の近くに来たわけである。ここでは人々はさらに一層政治の力がとどかない遥かさきのところに置かれているように見え、そのことが彼等を或る程度自由に放任している。だが、政治があらゆる隅々まで行きわたるなどということがどうしてできよう。人々がここへ追いやられて来たのは、運が悪かったため、何か仕事を始める必要のため、広い土地を手に入れたいと考えたため、仕事がなかったため、いつも経済が苦しかったため、或は昔の借財があったためなどであるから、そういう人たちが集ってみたところで大して愉快な光景を呈するわけがない。不和な、すなわち団結や友情がないとき、或はこうした僻地に泥酔や怠惰がはびこっているときには、口論や不精や不幸な事件が後から後からと起らずにはいないものである。・・・だからアメリカの姿をあるがままに見、アメリカがその開発の端初において微力なまた野蛮な状態にあることを正しく認識しようと思う者は、この延々と連なる辺境を訪ねてみなければならない。辺境は最もあとから来た開拓民の住むところであり、そこに開拓の最初の労苦、すなわち、土地開墾の方法がさまざまな形態をとっているのを見ることができるだろう。また辺境では、もって生れた気質とあまり当てにならない勤労心のままに行動しているが、その勤労心は少しく道徳上の掟の力でもってしっかりしたものにしないと衰えてしまうことが往々ある。ここには、近くに模範となる力や羞恥心による抑制となるものが何もないので、多くの人々がアメリカ社会の最も忌わしい部分をあらわしているが、これらの人々は一種の決死隊ともいうべきもので、あとから来る立派な堅実な人たちの群より十年ないし十二年も先にやって来ているのである。それだけの年月がたつうちには、この種の人のうち、成功して人柄も正しくなるものもあるが、さもない者は悪行を犯し法に触れてその土地を追われ、他の同類と一緒になって、さらに奥地に向って進み、もっと勤勉な人たちに場所を譲ることになるだろう。勤勉な人たちは前の者が手をつけた仕事を完成し、丸太小屋を具合の良い住居に改良し、最初の激しい労働が終ったことを喜びながら、二、三年のうちにはこれまでの野蛮な地域を美しく肥え、より秩序だった土地に変えてしまうであろう。このようにして我々は進歩するのであり、このようにしてヨーロッパ人は大陸の奥地を目指して前進するのである。どんな社会の不純不遇な分子こそ我々にとって前駆者となり開拓者となってくれる人々である。・・・   (339~342p)

 ここに描かれている新しい「アメリカ人」は、海岸地方の住民、海岸と森林山脈との中間地帯の開拓住民である自由土地保有者、その先に住む奥地開拓民の三つのグループからなり、クレヴクールがアメリカ人の代表と考えたのは自由土地保有者たちだった。独立時のアメリカの人口の九割が第二グループの農民であり、当時最大の商業都市でさえ人口は二万にすぎなかった。上の『一米国農夫からの手紙』の第三の手紙「アメリカ人とは何か」の抜粋引用文から読めるように、クレヴクールのアメリカ人社会はあまりにも牧歌的に理想化されているが、第二グループの一員としての文学的体験報告として貴重である。このグループの人間たちが占める地理空間から「アメリカ人」という新しい性格の人間集団が生み出されるというクレヴクールの着想は、やがてフレデリック・ターナー(一八六一~一九三二)の「フロンティア学説」に受け継がれてゆく。

   続く。



●『アメリカン・ドリームという悪夢』 (6)
 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』 に戻る。

  ************** 
 
 
 ◆ジェームズタウン、ヴァージニア植民地の始まり 
 以下、全文引用です。
 

 北米大陸には北米インディアンと総称されることになる先住民が大昔から生活していたが、一五〇〇年代中頃から、スペイン、フランス、イギリスなどが植民地の建設を試み始めた。はじめの数十年間、その試みがしばしば挫折失敗した主な理由は、植民事業が本国の富裕な貴族や大商業資本家の投資(投機)の対象として行われたため、期待された利潤が上がらない場合には、現地の人々の苦難など気にせずに放棄したことと、それに、先住民の抵抗が結構強かったことであった。

 一六〇七年、会社組織で着手されたイギリスのヴァージニア植民地も最初の一〇年は絶滅の危機に瀕したが、ヴァージニア会社の大口出資者に対して、一六一八年、多数の小口出資者が始めた経営改革運動(サンズの改革)が功を奏して立ち直った。この頃から北米大陸東岸地帯(ニューイングランド)へのイギリスの非国教徒の集団移住が始まる。本国て宗教的弾圧を受けた人々が新大地で新しい集団生活を始めることを主要な夢とした点に彼らの特徴があったが、生活空間を確保するには先住民を排除撲滅する必要があったことに変わりはない。

 なぜ、そして、どのようにして、北米に黒人奴隷制が持ち込まれたか? これは重要な問題だ。私が今から記述することは、反米感情を下敷きにした歴史の書き直しではないシュブァイカート・アレンの『愛国者のアメリカ史』にもジンの『民衆のアメリカ史』にも、また、あれこれの学問的アメリカ合州国史に目を通しても、つまり、右からでも左からでも、おおよそ同じような答えが与えられている。

 英国の北年大陸最初の恒久的植民地は、一六〇七年の春、英国王ジェームズの名をとったヴァージニアのジェームズタウンに開設された。いや、正確には、開設が試みられたと言うべきである。クリストファー・ニューポートの指揮の下、入植者一〇五人が三隻の小型船に乗って到着したが、その半数は身についた技能もなく、ただ新大地での資金的成功を夢見るだけの、紳士たちで、一二人の人足、数人の大工、鍛冶屋、石工、床屋、洋服屋がそれぞれ一人といった構成は、未知の土地での植民地開拓にふさわしいものとは到底言えなかった。ニューボート船長は追加の開拓民と物資食糧を運んで来る約束をして英国に帰ったが、その後の建設や農地の開墾が思わしく進まないまま、最初の冬とともに、食糧不足と疾病の危機が到来した。翌一六〇八年一月にニューポートが一二〇人の開拓民を連れて戻って来た時には、はじめの一〇五人のうち僅か三九人しか生き残っていなかった。

 ジェームズタウン植民地を全滅から救ったのは、冒険心にあふれた快男児ジョン・スミスだった。ジェームズタウンから少し奥地に踏み込んだ所で、インディアンに囚われ、あわや斬首の刑に処せられるところを、酋長ポワタンの娘ポカホンタスが救命を嘆願して九死に一生を得た。この縁でスミスはボワタンからコーンなどの食糧の供給を受けることに成功し、三九名がニューポートの到着まで生き延びることができたのである、スミスは一六〇九年に英国に帰ったが、同年、英国からジェームズタウンに向かった輸送船団が途中バーミューダ諸島の海で嵐に遭い、食糧の補給が絶え、その上、その冬はボワタンの率いるインディアンは友好的な姿勢を変えて、ジェームズタウンを飢餓状態に追い込むことによって、英国植民地の海への追い落としを図ってきた。いわゆる、飢餓の時(Starving Time)が襲ってきたのだ。開拓民たちは次々に倒れ、一六一〇年の春には六〇人だけが辛うじて生き残った。六月はじめ、彼らは遂に植民地を放棄して英国に帰ることを決意し、四隻の小型帆船でジェームズ川を下って海に向かった。まさにその時、遥か沖合に九隻の船影が認められた。新しくジェームズタウン植民地の総督に任命されたデラウェア卿の率いる五〇〇人と物資と食糧を積んだ船団であった。

 ヴァージニアのジェームズタウン植民地の最初の一二年間の惨状を記録した文書が残っている。それに基づいたシュブァイカートノアレンの『愛国者のアメリカ史』とジンの『民衆のアメリカ史』の記述(の一部)を、以下に訳出してみよう。綺麗事ばかり語っていては、北米大陸に乗り込んで来た ジェームズタウンに着いた他の船も一六〇九~一〇年の冬の、【飢餓の時】を経験するためにやって来たようなものだった。ジェームズ砦に立てこもった英国人入植者は、犬、猫、鼠、毒茸、馬の皮を食べ、遂には死人の屍も食べた。バーミューダで動きの取れぬようになった輸送船団の残りの船がヴァージニアに到着した時には、すべての入植者たちは英国に帰るべく、船ですでに海に出ていたのだ。

 この凄まじい飢餓の極限状態は言い伝えではなく、記録した公式文書が残っている。
先述したヴァージニア植民地議会の議事録に、ジェームズタウン植民地の創設から十二年間の状態の記述が含まれているのである。ジンの『民衆のアメリカ史』の方(24p)には、一六〇九~一〇年の冬の、【飢餓の時】について、その文書からの引用がある。以下の翻訳は山本幹雄著『異端の説教師ギャリソンーひとつのアメリカ史診断』(法律文化社、一九九九年、6-7p)に基づいている。

 人々の多くは地面に掘った洞窟のような穴の中に住んでいた。そして、一六〇九~一〇年の冬には、彼らは・・・耐えがたい飢えにかられて、本来最も忌むべきものである人肉や人糞を食べた。それも、インディアンのだけではなく、自国人のそれも食べた。埋葬された死体を二日後に墓から掘り出して、すっかりむさぼり喰らう者たちもいたし、他の連中は、自分たちほど飢えで消耗せず、より良い状態の他人の体をうらやんで、待ち伏せし、殺して食べるぞと脅した。そのうちの一人の男は、彼の胸に抱かれて眠っていた妻を殺して、バラバラに切り刻んで塩漬けにし、それで食いつないでとうとう頭を除いて全部きれいに平らげてしまった。・・・

 ところで彼らが住んでいた洞窟のような穴とは何だったのか? 別の史書で、一儲けを当て込んでヴァージニアに渡って来た英国人入植者たちは、地道に農地を開墾する労を嫌がり、「新大陸」で金を掘り当てようと当てずっぽうに大地を掘ってみたがヴァージニアには金が見付からなかった、と書かれてあるのを読んだ記憶がある。彼らが住んでいた穴とは、金を求めて、行き当たりばったり、大地を堀り返してできた洞穴だったのではないかと思われる。アメリカン・ドリームの最初の追求とその挫折と言うべきか。

 ジンの『民衆のアメリカ史』をもう少し読み進めてみよう。

 トマス・スミス卿の十二年にわたる統治に対する苦情を申し立てた三〇人殖民者による嘆願書には、次のようにある。
 トマス・スミス卿の統治下のこの十二年間、非常にきびしく残酷な法のもとで、植民地は、ほぼ全域にわたって欠乏と悲惨の極みにあったと我々は断言してはばかりません。この時期の一人あたりの配給量は、一日たった八オンスの挽き割りコーンと半パイントの豆だけで・・・かびが生え、腐り、クモの巣とウジがいっぱいで、とても人間が食べられるしろものではなく、けだものにも不適でした、この状況のため、多くの人々が、救いを求めて野蛮な敵(インディアン)のところへ逃げ出しましたが、彼らは再び連れ戻されると、絞首刑とか銃殺とか列車で引き裂かれるとか、いろいろなやり方で死刑に処せられました。・・・そのうちの一人は二、三パイントのオートミールを盗んだかどで、舌を千枚通して刺され、鎖で木にしばられて、とうとう餓死してしまいました。

 ここで、多くの白人が救いを求めてインディアンの部落に逃げ込んだという事実に注目しよう。インディアンの側には食糧があり、彼らの中に入れば餓死せずにすんだことが、この場合の、白人の逃亡の理由だが、これは、ジエームズタウンの一六〇九~一O年の冬の【飢餓の時】にたまたま生じた珍奇な現象ではなかったのである。北米インディアンの社会に足を踏み入れた白人が、そのまま留まって白人社会に戻らなくなってしまう現象は一六〇〇年代のみならず、一七〇〇年代にも続いた。「白いインディアン」の発生である。アメリカ合衆国の「父祖」の一人とも言えるベンジャミン・フランクリンも次のような観察を残している。

 インディアンの少年が我々の問で育てられ、我々の言葉を学び、慣習に慣らされても、もし、彼がその親族のところに会いに行って、彼らとしばらくインディアン風にとりとめない時を過ごすと、帰って来るように説得することはとても無理だ。しかし、白人が、男であれ女であれ、若い時分にインディアンに捕虜として連れ去られ、しばらく彼らの中で暮らすと、白人の友人たちが身代金を払って受け戻し、おりとあらゆる優しさで、英国人の間に留まるように説得してみても、短い時間のうちに、我々の生活様式とそれを支えるために必要な気苦労や苦痛に嫌気がさして、森の中に逃げ帰るいいチャンスを掴むやいなや、森に帰ってしまって、もう二度と連れ戻すことは無理である。
  
 この白人の原住民化の現象は青少年に限られず、成人にも多く見られた。この歴史的事実を研究したジェームズ・アクステルは、その理由を、当時のインディアン社会での人間関係が相互信頼の上に築かれ、お互い平等寛容で、争い事が少なく、北米のアングロサクソン植民地の白人社会よりも際立って生きやすい社会であったことに求めている
(本書105p。上に引用した嘆願書が描く白人社会の苛酷さと対照的であったのだ。白人の原住民化の現象(白いインディアン)は、オバマ大統領とそのスピーチ・ライターのチームを含めて、多くのアメリカ人の表面的記憶から消されている。しかし、アメリカ人の集団深層心理となれば、話は別である。「白いインディアン」の問題はあとで再び取り上げる。 

 ◆ジェームズタウン、ヴァージニア植民地の始まり    <了>。 

 

 

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (45) 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (45)-2            落合莞爾
  -底知れぬ来歴と事跡を持つ怪人・堀川辰吉郎と杉山茂丸 

 
 ★祖父は島津重豪、父は黒田長溥という貴公子 

 
 杉山茂丸は元治元年(一八六四)生まれで、辰吉郎より十六歳年長であった。戦国大名・竜造寺の男系を継ぐ父・杉山三郎平は馬回り組百三十石で、藩主・黒田長溥のお伽衆であった。茂丸の実父は黒田長溥と仄聞するが、七歳時にお目通りした長溥から茂丸の名を頂いた話にもその辺りが窺える。因みに長溥の実父は島津重豪で、茂丸は名君島津斉彬の大叔父にも当たるから、その門地の高さが皇統辰吉郎の傅役を仰せつかった所以であろう。

 自著と伝記の数が多いにも関わらず、茂丸の真相を伝えたものが少ないが、堀雅明『杉山茂丸伝』(平成十八年刊行)は一見に値する。来島恒喜の大隈重信襲撃など幾つかの玄洋社員の要人襲撃件の黒幕を茂丸と指摘したことで、茂丸の曾孫・杉山満丸から、筆者は「杉山文庫」の引用・使用を斯られたらしい。昔も今も政治の主たる手段が暗殺である真実を知らぬ庶民的常識と、殺人を絶対的悪と決め付ける敗戦思想に阿附する限り、さもありなんと思うが、日本近代史上稀有の人物の事蹟を、末裔の故を以て独占するとはいささか了見が狭くはないか。新知見に対して真剣に耳を傾け合理的に判断することこそ、真に遠祖を尊崇する道ではないかと、茂丸末裔の為に之を惜しむ。

 茂丸の若い頃の事績については、堀前掲の年譜に詳しい。数え十七歳になった明治十三年九月、行商姿で初めて上京した茂九は、赤坂の旧黒田藩邸を訪ねて長溥に拝謁した。一介の旧家臣の子に旧藩主が拝謁を賜るのは異例で、武家の旧習たる元服を機に、誰かが茂丸父子の対面を図ったものであろう。堀前掲の年譜に、その年茂丸は上野公園で野宿し、翌十四年は山岡鉄舟の家で暮らしたとあるが、放浪の一少年が天皇側近で侍従番長の山岡家に寄留するなど尋常でなく、黒田家から山岡に秘かに依頼したものであろう。この後、大阪に移った茂丸少年が、賞典禄一千石の功臣・後藤象二郎および西南戦争以来の豪商・藤田伝三郎と会うのも、決して偶然でなく、誰かが謀ったものであろう。華族令が布かれた三年後に、山岡は子爵、後藤は伯爵に叙せられ、藤田も後年男爵になった。当時すでに大物で、その後も事績を重ねていく彼らが、無冠の茂丸に会ったのは、放浪中とはいえその実体が貴公子だったからと視るしかない。 

 
 ★京都皇統と薩摩ワンワールドとの深い縁 

  
 明治十七年、二十一歳の茂丸は伊藤博文を暗殺する目的で再び上京する。旅費を出した肥後人・佐々友房は西南戦争で西郷軍に与し、山獄後に教育者に転じた人物で、警察官僚・佐々淳行と参院議員・紀平悌子の祖父に当たる。茂丸は上京の翌年、山岡鉄舟の紹介状を用いて伊藤に会うが、逆に説得されて暗殺を断念し、北海道へ逃亡した。帰京後に茂丸が頭山満と初めて会う手の込んだ筋書にも佐々は一役買っている。

 明治十六年七月に熊本県学務課長に就いた八重野範三郎が、佐々友房から茂丸の父・三郎平の名を聴き、訪ねた処、茂丸の消息を調べて欲しいと頼まれたので、上京の際に佐々を伴って茂丸を訪ね、次いで茂丸を誘って頭山満に会わせたというのである。頭山と会った茂丸は、以後長州高官の暗殺を罷める決意をし、意識的に長州人脈と手を組むことを頭山に約束した。その後の茂丸の行動が長州一辺倒なのは、頭山との約束を実行したから、と堀前掲は説く。間違いではないがあくまでも皮相で、その根底に京都皇統の戦略があった事は謂うまでもなく、長州人との表面的交際の裏に薩摩ワンワールドとの深い関係があった事は、本稿で立証した。

 頭山との約束の一つが福岡振興のための鉄道敷設である。その資金源として、海軍予備炭田として封鎖中の筑前炭鉱を取得するために、茂丸が元老院議官・安場保和を福岡県令に迎えようとしたというのも皮相であって、その奥を洞察せねばならぬ。天保六年(一八三五)、熊本藩二百五十石の上士に生まれた安場は、戊辰戦争で賞典金三百両を受けた功臣で、大蔵大丞に挙げられた時、上司の大蔵大輔・大隈重信を弾劾するほどの豪胆さがあった。岩倉使節団に参加して中途帰国の後、福島・愛知の県令を勤め、福島県令の時に既成の水運計画を変じて鉄道敷設を進めたことから、鉄道先駆者として知られていた。人材発掘に努め、胆沢県大参事の時、給仕の中から後藤新平(後に安場の女婿、大政治家、伯爵)と斎藤実(海軍大将、首相、子爵)を見出した事は良く知られている。明治十三年から元老院議官を勤めた安場に、佐々の紹介で会った茂丸が、いきなり福岡県令就任を乞うたら、安場は兄事する司法大臣・山田顕義の許可を条件にしたという。しかしながら、二十三歳の茂丸は黒田藩士の倅で玄洋社員と言う以外に、何の後ろ盾もない。既に県令を歴任した上、元老院議官を勤めてきた安場が、普通なら耳を傾けるような相手ではなかった。ここにも、筋書きの無理が露呈しているのである。 

 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(45)   <了>。 
 

 

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(45)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (45)-1            落合莞爾
  -底知れぬ来歴と事跡を持つ怪人・堀川辰吉郎と杉山茂丸 

 
 ★明治天皇落胤説は「為にする虚伝」

 
 京都皇統が隠れ住んだ堀川御所では、明治二十年松下トヨノが生まれたのを機に、七歳に育っていた辰吉郎は博多に移る。黒田藩士の政治結社たる玄洋社に預けられ、実質社主の杉山茂丸や社長の頭山満から武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるためである。辰吉部について述べた書物は数少ないが、その一つ中矢伸一者『日本を動かした大霊脈』(徳間書店・平成十四年)は辰吉郎に関する伝聞を羅列しており、情報の乏しい辰吉郎の輪郭を掴むのには極めて役立つが、タイトル通り宗教色に傾き、内容にも学習院長・乃木大将の事績に不用意と思われる誤りがあるから、参考にするならば、その点に注意すべきである。

 他には辰吉郎の遺児を称する国際政治評論家・中丸薫の幾つかの著書がある。自ら「堀川辰吉郎と中島成子の間に生まれ、北京大学教授・松村夫妻の養女となった」と語る中丸は「辰吉郎は明治天皇と千種任子の子」と明言する。中丸の唱える辰吉郎の出自に対しては、インターネット上で、「生母に擬される花松典侍すなわち千種任子の事績に合わない」との批判が盛んで、堀川姓の所以についても「岩倉具視の関係ならば、堀川でなく堀河の筈ではないのか」と攻撃されている。中丸薫を辰吉郎の遺児と認めない中矢は、明言を避けながらも「辰吉郎は明治天皇が某典侍に産ませた皇子」と、実質的には落胤説である。堀川姓についても「博多で預けられた地元の名家」と説明して、ネット勢の批判をかわしている。

 伝聞として曖昧化する中矢に比べ、中丸は明治天皇落胤説を真正面から唱えるから本来不要な中傷・非難を蒙っているわけだが、結論を言えば、中丸も中矢も辰吉郎の出自に関する「為にする虚伝」に惑わされているのである。辰吉郎の真相は、本稿が明らかにしたように孝明帝の男系の男子であって、父は無論明治天皇ではない。辰吉部の明治帝落胤説は、要するに「為にする虚伝」であって、主目的は北朝皇統の存在を世に隠蔽することにある。おそらく「その筋」に隷する末端が、意図的に流布したもので、中丸も中矢も最も信頼する筋からそれを聴かされたために、堅く信ずるに至ったものであろう。「敵を欺くにはまず味方から」の戦術に中てられて誤信した両人に邪心はなく、誤信の理由も明らかであるから、出自詐欺の謗りはいかにも酷で、寛恕さるべきであろう。

 しかしながら週刊誌などが、「宮内庁に確認したら、辰吉郎の明治天皇落胤説は否定された」として、中丸を出自詐称と誣いるのは、実は「為にする虚伝」とワンセットで、これまで散々流してきた虚伝を宮内庁を用いて浄化する仕掛けに一役買わされているのだから、これこそ批判さるべきである。マスコミが日頃標榜する使命に従うのならば、まず辰吉郎の真相解明と、中丸が実母と称する中島成子の追究から開始すべきであるが、それをしないのは、追究能力の欠如だけではなく、宮内庁談話で辰吉郎落胤説を否定して一件落着として、それ以上の追究を封じる策略に、加担ないしは利用されているからである。

  
 ★「何を書き留めたか」より「何を隠したか」に注目せよ 

  
 中丸蕉の出生は昭和十二年五月二十三日とされるが、当時、中島成子は満人富豪で鉄道技師の韓景堂の妻で、既に女子を産んでいた。成子自ら 序文を寄せた朽木寒三著の成子伝『馬賊と女将軍』には、「盧溝橋事変の起きた昭和十二年七月七日、成子は末の女の子が生まれて一カ月余りで、三人の子を連れて大連星が浦の海水浴場に保養にきていた」とする。ところが、その二十八年後、朽木の遺した資料により神野洋三が書いた成子伝『祖国はいずこ』には、「長女出産のあと暫く子宝に恵まれなかった成子は、昭和十二年夏に出産予定があった」としながら、「出産後の保養中の星が浦に、北支那方面軍参謀の山下奉文少将から電報が来て、北京で特務機関員になった」と明言する。同著の後書で神野が、「作中の登場人物の一部を仮名にしたり、家族や私生活については創作である」と斯ったのは、成子の伝記とは言いながら史実を故意に隠したからで、隠蔽対象に中丸薫自身が入っているのは謂うまでもない。

 自著の幾つかで、中島成子が実母と述べた中丸は、二冊も公刊されている伝記がいう成子の年譜と自ら伝聞した母の実像との、照合と訂正を怠ったから、両方を読んだ読者の混乱を誘うのは当然で、現に副島隆彦から「中丸の実父は韓景堂であるとの指摘を受けている。正に樹を観て森を察せざる批判ではあるが、戸籍資料の背景を知らずに金科玉条としたために誤解を生んだ例は他にもある。例えば、吉薗周蔵の娘・明子が、両親が遺した佐伯祐三絵画の由来を明らかにするため、河北倫明の指示によって家伝を記した『自由と画譜』を公表したが、家伝の内容の吟味を省いたために、戸籍資料との矛盾を学芸員・小林頼子に追究され、それが原因で塗炭の苦しみを嘗めさせられた。中丸も吉薗明子も、「渡る世間はみな味方」とのお嬢さん的な思い込みから、自家伝承の吟味をおろそかにしてこのような批判に会うたが、私(落合)自身も以前の本紙連載で橋本龍太郎の系図を論じた時、早とちりして祖父・卯太郎の再婚を見落としたことがあるから、偉そうなことは吉えない。韓景堂の妻たる者が辰吉郎の子を産んだ理由と、北京特務機関に入ったことの関連を追究すれば、辰吉郎の一面が見えるが、それもしないで中丸を批判するのは失当である。

 前掲二書が伝える辰吉郎の事績は、出自の他には大した誤りはなさそうだが、およそ伝記を読む場合、「何を書き留めたか」よりも「何を隠したか」の方に注目すべきで、辰吉郎と玄洋社との関係を述べる中矢が、頭山満だけを挙げて杉山茂丸を無視しているのが興味深い。尤もこれは、中矢が故意に隠したのでなく、辰吉郎と茂丸の関係に関する情報が中矢に届く前、つまり一般社会に発せられる前に、茂丸側が意図的に削除したものであろう。杉山茂丸は辰吉郎に匹敵する謎の大人物であるが、自著が多いので知られ、それにも拘らず辰吉郎について書いたものを聞いたことがない(寡聞かも知れず、もしあるのなら、御高教をお願いしたい)。

  続く。 



●疑史 第71回 
 ●疑史 第71回         落合莞爾。
  
 ★清朝宝物の運命 (4)

 
 ごく最近のことに、「乾隆帝が奉天に隠した宝物は堀川辰吉郎が秘かに買い取った」と聞いた。情報源は「その筋」というしかないが、その売主を二代目醇親王、時期を大正三~四年頃とするのは、私(落合)の推測である。清朝末期の光緒帝は明治四十一年十一月十四日に不審な崩御を遂げるが、最高実力者西太后(一八三五~一九〇八)も翌日に他界し、次の皇帝に四歳の溥儀が即位して宣統帝と称し、皇帝の実父で光緒帝の弟・西太后の甥に当たる醇親王が監国摂政王に就いた。清朝の軍権を掌握した醇親王は、戊戌変法の際に西太后に与して兄光緒帝を裏切った袁世凱を四十二年正月に罷免、四十四年五月には軍機処を廃止して責任内閣削を実施し内閣を組織した。辛亥革命が始まると、醇親王は隆裕太后(光緒帝の皇后)の命令により全権を袁世凱に譲らされ、十一月十六日付で袁世凱内閣が成立する。

 イギリスを初め列強は、孫文革命政府のナショナリズムがもたらす排外主義を畏れて、北洋軍閥の総帥袁世凱の保守性に期待した。列強の輿望を感じ取った袁世凱は、自分と反目する醇親王が実権を握る清朝を見切り、清朝政府と南京臨時政府の間に立って妥協を成立させた。条件は、宣統帝の退位と自らの南京臨時政府大統領就任で、宣統帝と醇親王には革命後も安全を保障し引き続き紫禁城の居住を認める優待条件を示した。この案を醇親王は受け入れ、軍事力に不安を抱えた南京臨時政府も従わざるを得ず、宣統帝は明治四十五年(大正・民国元年)二月を以て退位し、以後も満族皇帝として紫禁城に住むこととなり、醇親王はその後見役となった。同年一月に南京で臨時大統領に就任した孫文は前述の条件に従い、三月その地位を袁世凱に譲る。

 清室の中心は明治四十一年末以来醇親王であった。従って四十二年に、訪日途上の英国元帥キッチナーに北京で宣統帝の名で桃花紅合子を賜ったのも、奉天宮殿で江豆紅太白尊を贈呈したのも、すべて醇親王の計らいである。義和団事変の後、ドイツ公使殺害の謝罪使としてドイツに渡った醇親王は、世界の大勢すなわちワンワールドの存在と意志を知って帰国し、開明思想に基づいて清朝の政体を立憲君主制に移行させたが、時既に遅かった。これより前、保守思想の権化西太后も漸く清朝倒壊の時機を覚り、腹心袁世凱を通じて日本皇室に今後の満洲経略を諮ったが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて対応を避け、京都皇統の堀川辰吉郎にすべてを委せた。清朝の中心醇親王は明治十六年生まれで辰吉郎より三歳年下に当たる。同世代の両人はワンワールドに対する認識を共有することからも見識相通じて、爾後の満洲経略を練った。四十二年に中島比多吉が紫禁城に入って溥儀の傳役となり、翌年には辰吉郎が紫禁城の小院に寓居を構えるが、すべて醇親王の計らいであることは言うまでもない。

 粛親王と蒙古族升允が率いた保皇宗社党は、清国領のうち中華本部(プロパー・チャイナ)を中華民国に残し、満蒙地域を分離させる方策を定めたが、彼等の満蒙独立運動を支援したのが陸軍参謀本部と関東都督府陸軍部(関東軍)であった。海洋勢力の本宗イギリスが清国旧領の分割を望まなかったためか、革命政府は孫文の民族主義には背馳する大漢族主義を国体に選んだので、新生中華民国は清国と変らぬ複合民族国家に停った。しかも国家支配層が満族旗人から漢族軍閥に交替したために軍事的にも国家的統一を欠く羽目になり、各省の治安は自立割拠した地方軍閥に依存せざるを得ず、北京政府を守れるのは清朝以来の北洋軍閥しかなかった。要するに中華民国の政体は、帝政でも共和政でもなく、割拠した軍閥による一種の封建政体であった。これらはやがて北京(華北)・広東(華南)・泰天(満洲)の三大地域覇権に収斂して二十世紀の三国時代を現出し、国共内戦を経て国家統一を実現するが、その原動力は何であったのか。一般には、中華民族主義が本来統一国家を悲願としていたと説かれるが、さんざん苦労して実現したものは、近代ナショナリズムの原則とは全く異なる複合民族国体である。識者が、中華思想究極の理想たる大一統(中華文明に因るワンワールドの実現)へのベクトルを指摘し、その序曲としての国内統一と説くのには、やや肯綮に当たる部分もある。私(落合)自身は、この問題はワンワールドの世界経略を抜きにしては考察不可能と思うが、目下それ以上の想像を慎んでいる。

 民国初年、醇親王から乾隆帝の泰天秘宝の存在を明かされた辰吉郎は、西本願寺法主・大谷光瑞師管理下の国体資金を用いて早速買い取った。目的は国事に用いるためで、代金はおそらく、革命後不如意になった醇親王と宣統帝の諸用に供されたのであろう。わが皇室にとって清室所蔵の古陶磁が単なる隣国の珍玩でなかったことは、辛亥革命の直後、泰天宮殿内磁器庫の清朝陶磁が放出されるとの風説を聞いた外務大・臣内田康哉が、「その筋において購入の意志あり。価格などを探れ」との訓電を奉天総領事・落合謙太郎に発した事で分るが、乾隆秘宝はそれよりも更に重大な意味を有していたのは論を挨たない。

 辰吉郎と光瑞師は、買い取った乾隆秘宝中の「奉天古陶磁」をネタに、二つの作戦を建てた。一つは換金して奉天の新興軍閥張作霖の軍資金とすることである。大正三年に奉天の軍権を掌握した張作霖は、丹波皇統奉公衆の出口清吉が明治三十年代から親日傾向に誘導してきた緑林の頭目で、之を養成して奉天に親日的覇権を維持するのが日満合作の基本的戦略であるが、兵器近代化の資金が日本からの援助であることを隠蔽するために、張作霖が自力で乾隆秘宝を強奪した形を装うこととした。そこで張作霖に、大正五年末から六年二月に掛けて七回に亘って宝物強奪(真相は移管)をゆっくり実行させることとし、その都度光瑞師は配下の上田恭輔を立ち会わせた。満鉄調査役兼総裁特別秘書の上田は、満鉄製図工の三井良太郎に命じて、「奉天古陶磁」を一点ずつ測量した上で克明に写生させた。中身は乾隆帝の思いが籠もる清初三代の御窯倣古品が多かったが、それらと唐三彩を除いた伝世の古陶磁四百五十点の図譜を三井は作成した。「奉天古陶磁」を紀州徳川家に嵌めこむ商談を基本任務とする上田が、取り敢えず商品カタログとして作った三井図譜は、実質的寄託先の張作霖を監視するための管理資料としても必要だったのであろう。もう一つは「奉天古陶磁」の報道である。その真の目的を、ワンワールドの文化戦略と推定する理由は、事後的に報道工作に多くの白樺派と共産主義の文化人が関わっているからで、彼らがワンワールドの末端であることは言うまでもない。

 洪憲皇帝に就こうとした袁世凱は五年六月に急死する。これを中矢(伸一)は辰吉郎の工作と謂うが、頗る肯繁に当たる。南方革命派の孫文とも奉天覇権の張作霖とも昵懇だった辰吉郎が、愛新覚羅氏に代って帝政を維持せんとした袁世凱を排除するのは当然である。張作霖による仮装強奪は、袁の死を待って実行されたが、倣造計画は既に袁の生前に始まっていた。そう見る理由は、上田が五年春に支那陶磁研究の必要を説く論文を『明治紀要』に発表しているからで、上田は仮装強奪の直後、満鉄試験場内に窯を作り、京都から名工・小森忍を招いて倣造を始めた。

 大正九年春、関東車参謀長・浜面又助少将が上田恭輔と組み、関東軍として満鉄窯の倣造工作に参加する計画を具申した処、陸軍中央から許可が下りた。浜面の目的は、粛親王に対する戦費補填の資金捻出にあると観るのは、満蒙独立運動の戦費を一人で工面した粛親王に対して関東軍が補償責任を負っていたからである。ところが、陸軍中央の一人上原勇作参謀総長は、九年五月に紀州藩士・貴志彌次郎少将を奉天特務機関長に任じ、張作霖との懇親と上田がもたついている紀州家商談の促進を命じた。同時に個人付特務の吉薗周蔵を奉天に派遣し、貴志の支援と浜面・上田の倣造工作妨害を命じた。これはおそらく、上原のワンワールドでの同志である光瑞師から内密の依頼を受けたものであろう。関東軍を倣造工作に巻き込んだ上田は気付かなかったが、光瑞師は浜面の真意を「倣造品でなく本物の売却金にまで粛親王を与らしめること」と看破った。関東車の介入が計画全体に齟齬を来たす怖れを感じた光瑞師と上原参謀総長は、表向き諒承しながら裏面で妨害に出たのものと思われる。

 満鉄倣造品の出来栄えについて吉薗周蔵は、大正九年の『周蔵手記』では、「小森の手腕により本物そっくりに出来た」と感心しているが、後年には「上田・小森の作品はどうやら本物になれないらしい」との記述に変わる。これが真相で、倣造工作は結局成功しなかった。九年夏奉天に来た吉薗周蔵が大金を持っていると知った上田は、倣造窯を私営化する資金を作るため、三井図譜を五千円で周蔵に売却する。いずれ再製作すれば良いとの考えであったが、あに図らんやとうとうその機会に恵まれなかった。上田が後年しばしば周蔵を訪れて三井図譜の借覧を求め、買い戻し話まで切り出すのは、小森の倣造品を本物に近づけるためには三井図譜を必要としたからである。

 貴志彌次郎の苦心が実り、紀州家に秘宝が渡ったのは、貴志が中将に進級して下関要塞司令官に転じた大正十三年であった。奉天兵工廠増強のための資金需要が膨らんだ張作霖には結局七百五十万円が渡されたが、紀州家は二百五十万円しか負担できず、残りは光瑞師所管の国体資金で賄われた。当初醇親王に渡した代金と合わせると、国体資金の出椙総額は五百万円を遥かに超え、それを回収するため、光瑞師は「奉天古陶磁」の多くを秘かに売却した。現在世界各地の美術館が、世界の秘宝とか中華文明の精髄として展示する逸品の大多数は、この時に光端師が売却した品である。残った名品を、光瑞師は戦後の日中国交回復に役立てようとしたが、病没のため果たせなかった。

 粛親王らの満蒙独立運動に対し、醇親王が同調しなかった理由について、学校史学で教える処は、満族の漢族化か進み漢族社会を出る気概に欠けたとする。要するに民族的自覚の喪失と解して、満族を「亡国之民」視するのであるが、私見は、実情はその逆ではないかと疑う。つまり清朝二百七十年の間に、満族の一部が将来の漢族自立を見通して漢族社会に秘かに浸透し隠れた支配階級を形成したので、今さら漢族社会を脱却して新国家を建てるのを徒労の暴挙と考えたからではないか。「満漢通婚が許された明治三十五年以後の僅か十年ではあり得ない・・」との批判に対しては、そのずっと以前から満族の漢族進入が進んでいたとする仮説である。

 南北戦争後に出来た黒人国リベリアに帰ったアフリカ系米人も、先次大戦後に悲願が叶ったイスラエル共和国に遷ったユダヤ族も全体の少部分で、多数は現住社会に根差して新社会を望まない。被圧迫民にしてこれだから、清国の支配階級満族が漢族自立後について全然無策であったとは思えない。

  
 ●疑史 第71回  清朝宝物の運命   <了>。
 



●『日本人のための戦略的思考入門』-(1)。
                    日本人のための戦略的思考入門


 ★『日本人のための戦略的思考入門』 孫崎亨(うける)祥伝社新書2010年9月 
  
 ・・・ロスチャイルドの番頭(とも言われる)キッシンジャーは、かつて日本の外交担当者等をこう嘆いたという。

 「日本人は論理的でなく、長期的視野もなく、彼らと関係を持つのは難しい。日本人は単調で、頭が鈍く、自分が関心を払うに値する連中ではない。ソニーのセールスマンのようなものだ」と。 

 
 *************

 菅―オバマの日米首脳会談のテーマは、普天間問題と尖閣諸島問題だった。

 報道によれば、「尖閣諸島への日米安全保障条約の適用が確認された」故に、「日米同盟が確認された」というが、信じろと言う方が無理というものだ。

 仮にオバマが菅に約束・明言したとして、ほとんど意味の無い言葉で、正しい日本語に直せば、「迷言」となる。

 孫崎著の一節を引用して、一言で言っておくと、

 「・・・日本人の多くの人は、日米同盟の下、米国は領土問題で日本の立場を強く支持していると思っている。だが、実態は違う。竹島では韓国の立場を支持し、尖閣諸島では日中のどちら側にもつかないと述べている。北方領土は安保条約の対象外だ。びっくりすると思う。しかし、これが実態だ。」(164p)

 以下、↑孫崎著に詳述されるが(155p~)、それは後記することにして、

 『日本人のための戦略的思考入門』を読み始めよう。

 
 第一章 戦略とは何か―「相手をやっつける手段」からの脱却。 

 
 私(著者)は、戦略を「人、組織が死活的に重要だと思うことにおいて、目標を明確に認識する。そして、その実現の道筋を考える。かつ、相手の動きに応じ、自分に最適な道を選択する手段」であると定義したい。

 一見、何でもない。だが、通常、戦略の定義に「相手の動きに応じ、自分に最適な道を選択する手段」という記述はない。しかし、戦略を考える時、「自分に最適」の意識を持つことは、極めて重要である。

 正直、私自身、かつては戦略を異なった形で定義していた。「自分に最適な道を選択する手段」ではなく、「相手より優位に立つ手段」と見ていた。領土の奪い合いや戦争では、自分の得は相手の損だ。「相手より優位に立つ」「相手をやっつける」視点で戦略を考える。それを洗練させたものが過去の戦略だった。

 世界の多くの政治家は「相手より優位に立つ」ことを求めて政治に臨んできた。アメリカを代表する国際政治学者であるジョセフ・ナイ教授は、「キッシンジャーやニクソンは、アメリカの国力を極大化し、アメリカの安全保障を阻害する他国の能力を極小化しようとした」(『国際紛争』有斐閣)と記述している。

 これは、いわゆる「ゼロサム・ゲーム」である。ゼロサム・ゲームとは、経済学・数学における
「ゲームの理論」からきた用語で、参加者の得点と失点の総和がゼロになる状況を言う。つまり、自分の得は相手の損、相手の得は自分の損。勝つためには、相手のマイナスを探し、弱点を突けばよい。・・・。 
 
 (ここで、著者はゼロサム・ゲームの典型として<麻雀>を、「相手に応じて最適の道を選択する」典型として<囲碁>を挙げる。そして、囲碁の格言に戦略論の基本を見る。) 

 
 ・・・囲碁の古典的格言に
「囲碁十訣」がある。これが見事に戦略論の基本をついている。

  1★食不得勝 むさぼれば、勝ちを得ず
  2★入界緩宜 界(相手の勢力圏)に入っては、宜(よろ)しく緩やかなるべし
  3★攻彼顧我 彼を攻めるに、我を顧みよ
  4★棄子争先 子(少数の石)を棄てて、先を争え
  5★捨小就大 小を捨てて、大に就け
  6★逢危須棄 危うきに逢えば、すべからく棄てるべし
  7★慎勿軽速 慎みて軽速なるなかれ
  8★動須相応 動けば、すべからく相応ずべし
  9★彼強自保 彼強ければ、自ら保て
  10★勢孤取和 勢い孤なれば和を取れ

 「攻彼顧我」は後に述べるようにマクナマラ戦略の柱である。「動須相応」はゲームの理論である。「逢危須棄」、この域にはなかなか達せられない。不良債権、危険なものを大やけどする前に棄てる勇気、これも極めて重要な哲学である。・・・

 
 著者は、この本の著述に際し、広く古今の戦略論や外交政策論にあたるのはもちろん経営戦略論やゲームの理論にまで手を広げたという。 

 
 ・・・そして、「ゲームの理論」を見て、新たな確信が出てきた。「日本の戦略はどうあるべきか」を考える際、戦略を「相手より優位に立つ手段」と規定するのは、狭すぎると気づいた。「自分に最適の道を選択する手段」の視点を持つことで、選択の幅が広がる。そして究極的に勝利することができるのである。・・・

 
 ●『日本人のための戦略的思考入門』-(1)。
   <了>
 

  




●なぜ今、この時期なのか?
                  検察と正義


 ●なぜ今、この時期なのか? 
 
 「エース」などという呼称自体がふざけているのだが、まあいい。

 その「洩巣」・前田事件=証拠改ざん・隠蔽=は、やはり前田個人の「暴走」

ではなかった。

 いままで半年以上も「隠」されていたのだが、

 その半年は、今後の日本の進路・戦略を決める重要な時期だった。

 ************

 前田の手がけた事案はほかにも朝鮮総連本部詐欺事件や小沢一郎秘書の事件などがあり、それらの事件でも、以前から、恫喝-証拠改ざん-真実の隠蔽の疑いが語られてきた。

 もし、小沢一郎秘書の事件が<前田=検察>のでっち上げだとしたら、
 (その可能性は大だ!)、

 その後の一連の、小沢一郎の「政治とカネ」の国策捜査はあり得なかったし、

 「小沢叩き」を仕組んだ連中も別の戦術を構えなければならなかっただろう。

 検察審査会も不要だった。

 *************

 最高検の「素早い対応」・検証も、この半年以上に及ぶ「隠蔽」という事実を前にすると、

 かすんでしまうが、ここは検察崩壊⇒再建の奇跡を信じてみようか?

 ただし、期限つきで。
 

  


 



●私の闇の奥
 ●紹介中の『アメリカン・ドリームという悪夢』の著者藤永茂氏のウエブサイト⇒【私の闇の奥】の紹介です。
 
 2010/09/22
 ★クリントンとアメリカの罪は重い

 2010年8月26日、フランスの有力紙ル・モンドが、コンゴについての極めて重要な国連報告書の草稿(ほぼ決定稿と思われる)を入手したことを報じました。545頁におよぶ報告書には、1993年から2003年までの10年間にコンゴ民主共和国で行なわれた600件の深刻な虐殺事件についての調査結果が記述されています。漏洩した国連報告書はネット上で入手可能です。
 この国連報告書の大変なところは、1994年のルワンダ・ジェノサイドを見事に終結させた正義の英雄ポール・カガメが、実は彼自身がルワンダとコンゴでジェノサイドを執行した人物であったことを指摘しているからです。これまで世界が信じていたルワンダ・ジェノサイド神話のどんでん返しです。・・・

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 国の内外を問わず、権力・支配者の情報操作の凄まじさには驚くばかり。

 確かな事実・情報を積み上げていく以外にこの情報操作攻勢を破る方途はないのだろう。

 早急な判断は、しばしば判断停止に通じると自戒しています。

 
 


●『アメリカン・ドリームという悪夢』 (5)
 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』に戻る。

 1607年、イギリスの植民地投資家たちが勅許を得てヴァージニアのジェームズタウンに植民地を開いてから、英国政府が意図的に海外棄民した罪人を含む数百万にのぼる貧民たちを誘ったのは、ドリーム=【土地】と【財産】の所有という夢であった。

 しかし、その豊かな大地は「神が白人に与え賜うた」無人の広野ではなかった。何百万という先住民が豊かな生活を営んでいたのである。

 **************

 ◆なぜアメリカ史の学び直しなのか 
 
 ◆感謝祭 
 

 予定の着岸地(ジェームズタウン)から北東600キロのプリマスに錨を下したのは、1620年11月10日だが、すぐには上陸はせず、まず偵察隊が上陸してみる。

 すると予備情報とは違い、あるはずのインディアン集落は遺棄されて人影もなく、何らかの伝染病の蔓延が疑われた。ピルグリムたちは死体が埋葬された墓地や地下に埋められた大量のトウモロコシに行き当たり、これは押収した。陸上生活の準備に手間取り、一ヶ月は船内生活を強いられる。(12月)

 総勢102名の一隊に厳しい冬が襲いかかる。新鮮な野菜はなくビタミンCの不足による壊血病などの疾病のため、翌1621年の春には52名が生存していたという、
惨憺たる出発であった。

 そんな中にも、季節はめぐりプリマスに春、夏が訪れる。

 近郷のインディアンたちは、白人の集団に女や子供も居ることから、すぐには敵視せず「見守る」姿勢を取り、英語を話せるスクゥアントという男を差し向けて来た。そして彼らはピルグリムたちに魚の獲り方や海藻を肥料に使うことを教えたという。

 近郷のインディアンの友好的な援助がなければ、ピルグリム一隊のその後を想像することは容易だろう。

 ところが、現在でも「最初の感謝祭」の伝説は、↑とは大きく異なる。

 ・・・1621年の秋、ピルグリムとインディアンはあれこれの食べ物をお互いに持ち寄って収穫を神に感謝するお祭りをした・・・という「伝説」と化す。

 11月の第四木曜日と以後の連休はアメリカ人が大いに楽しむ「ホリデー」で、最初の感謝祭の「挿絵」には普通ピルグリムたちが、裸のインディアンをお祝いの食事に招いている場面が描かれている。挿絵には「・・インディアンたちは、こんなご馳走は見たことがなかった・・」という説明が付く。
 連休前の小学校では、子供たちがこのような内容の劇を見せられ、「アメリカという国は、このように神を敬い、野蛮なインディアンにも親切に接した、勤勉な人びとによって始められたのだ」とインプリントされる。

 実際には、白人側の食糧の内容は極めて貧弱で、インディアン側が五頭の鹿や多くの野生七面鳥などを持参した。プリマス植民地の定着・成功はインディアンたちに負うところが大きかったにも拘わらず、である。

 感謝祭が現在のように米国の国家的祭日として持ち上げられたのは、南北戦争の最中の1863年、リンカーン大統領がアメリカ人の
愛国心を鼓舞するために初めて国家的祭日にしたのである。

 奴隷解放宣言もこの年だが、リンカーンは同時に、解放された奴隷をアフリカ大陸か、カリブ諸島に送り出してしまいたいと真剣に考えていたのも事実である。

 **************

 プリマス植民地の開拓指導者の一人エドワード・ウィンスロウが1621年に書いた「ニューイングランドへの入植者への助言」から、ピルグリムたちが土地のインディアンから助けてもらう様子がはっきりと読み取れる。

 「わたしたち同胞のうち少数のものは、こちらにきてからすこしの間に、七軒の住み家と四軒の納屋とを建て、またそのほかの建物のためにもいろいろな手はずを済ませた。・・・そしてインディアンのやりかたににならい、ニシンを畑の肥料にした。・・・牡蠣は近くではとれないけれども、ほしいならいつでも、インディアンに持ってきてもらえる。・・・この土地に欠けているのは勤勉な働き手だけだ。・・・

 あなた方の住む世界が、過大な人口に圧迫されるほどにもなっていることをお考えになれば、この欠如はあなた方の胸を痛ましめるであろう。以上の事柄は、私ができるだけ身近に体験して知ったものの実相であるから、それをあなた方に知らせたがいい、と私は考えたのである。
 わたしたちをかくも恵み深く導き給う神に、わたしたちのために感謝をささげていただきたい。・・・」

 (アメリカ学会訳編『原典アメリカ史』第一巻、岩波書店、1950年、117~119p、藤永氏が少し改訳) 


  

 

●『アメリカン・ドリームという悪夢』  (4)
                   朝日一面トップ 検事の資料改ざん_1


 ◆なぜアメリカ史の学び直しなのか 
 ◆2組の「父祖(ファーザーズ)」 
 
 ◆感謝祭
 
 ◆ジェームズタウン、ヴァージニア植民地の始まり
 ◆クレヴ・クールの『一米国農夫からの手紙』
 ◆白い奴隷、白いインディアン、黒い奴隷
 ◆アメリカ独立宣言 

 
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 少し寄り道。 

 ●<帯>に、「勁くしなやかな 思想と言葉」と記された、鶴見俊輔の近刊
『思い出袋』(2010年3月岩波新書)に、鶴見が戦前のアメリカで学んだ「近代欧米史」について一文がある。(p194~)

 その一文 
★体験を読み直すに鶴見が「ともかく大学入試を受けることにして」受験科目を「英語(これが難関。英文学と読みかえるほうが実態に近い)、近代欧米史の二科目」として、そのうちの米国史の参考書だけは後見人のシュレジンガー(シニア)に相談した。

 彼が推薦してくれたのは、次の三冊だったという。

 ① 『米国社会精神史』 シュレジンガー自身の著。
 ② 『アメリカ文明』  チャールズ・A・ビアード(シュレジンガーの師)の大冊。
 ③ 『アメリカという叙事詩』 ジェイムズ・トルズロー・アダムズ。

 この三冊にミドルセックス校で教科書として使われていた二冊、
 ④ 『米国史』 マジー。
 ⑤ 『近代ヨーロッパ史』 カール・ベッカー。「私(鶴見)にはベッカーのヨーロッパ史は面白かった」

 を加えた五冊だった。・・・

 しかし、
「・・これらの本の叙述が私にとってくつがえされたのは二十六年後と三十五年後の二度である。」という鶴見の「体験」を以下引用する。

 ************

 ・・・最初は、戦後に日本でヴェトナム戦争反対の運動で米軍からの脱走兵を助けたことによる。
 そのとき、ベ平連代表の小田実が米国に行ってふたりの米国人と来日を約束してきた。ひとりは白人、もうひとりは黒人で、ふたりとも学生非暴力調査委員会(SNCC・スニック)の役員だった。
 この運動の歴史を読んで、私は、一九三九年にミドルセックス校で読んだ、黒人は一八六五年の南北戦争の終わりで選挙権を与えられた、というのが事実でないことを知った。

 米国に住む白人とおなじく、選挙の権利は与えられはした。しかし行使することは妨げられた。特に南部においては。南部では、投票所に行こうとする黒人は【kkk】などの白人グループにかこまれ、それを排して行こうとすれば首つりの私刑にあった。

 それを集団の行動によって突破したのが、フリーダム・ライド(バスの中で白人・黒人を分ける場所指定に従わない行動)の実践で、やがて学生非暴力調整委員会の運動に移行する。

 小田実はこの会のふたりを呼んで、北海道から沖縄まで、日本を縦断するティーチ・インをおこなった。白人はハワード・ジン(2010年1月死去)、黒人はラルフ・フェザーストーン。フェザーストーンは沖縄の集会で、そこに集まった現地の人びとの反応から、日本は沖縄と沖縄以外に分断されているという感想を持ち帰った。

 ティーチ・インが京都であった夜、ジンは檀王法林寺に泊まり、フェザーストーンは私の家に泊まった。彼は、米国に帰ってから、乗っていた自動車を爆破されて殺された。一九七〇年三月九日。

 米国での受験勉強を修正したもうひとつのことについては次に書く。(引用・終わり)

 ************ 

 
 ★岩の上の読み聞かせ に「もうひとつのこと」が記されている。

 
 現在、人口三十万の小国アイスランドに人は住んでいなかった。ノルウェイから政治上の少数派が追い出されてこの地にたどり着き住みついたが、部族同士の争いが絶えず「源平合戦のような叙事詩を残した」。

 この対立・抗争の中からやがて協定が生まれ、会議を積み重ね、憲法を採択して、アイスランド共和国建国へ至ったのは、九三〇年のことだった。

 「・・・七十年前に私(鶴見)がミドルセックス校で習った近代史
(*『近代ヨーロッパ史』)には、そのことが語られていなかった。
 イギリスの圧制を逃れて、新大陸のアメリカに向かう新教徒が、こういう社会をつくろうと、船の中で相談してできたのが、<メイフラワー号の約束>という白人建国の物語である。それはやがて、一七七六年七月四日、米国フィラデルフィアの大陸会議で承認されたジェファソン筆の独立宣言、その後引き続いて米国憲法制定につながる。
 アイスランドの憲法制定はそれより八百年前のことである。アイスランドはその後併合されたが、一九四四年に完全独立を達成した。」

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●田中宇氏の「分析」を読む。

 
 ●今日は、田中宇氏の ⇒★国際ニュース解説 の紹介です。
 
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日中対立の再燃 2010年9月17日  田中 宇


 

 



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