カウンター 読書日記 2010年08月
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●休養中。
                         木製イヤフォン

 
 ↑は、
 Thinksound Rain 9mm Wooden, Noise Isolating Headphone blk/choc

 NYタイムズ August 16 の記事が偶然目に止まった。

 ★Wood Is Good for Headphones  By RIK FAIRLIE 

 
 ⇒ http://gadgetwise.blogs.nytimes.com/2010/08/16/why-wood-is-good-for-headphones/?nl=technology&emc=cta4  

 記事は、コピペしてご覧になってください。

 
 ***********

 と、思いましたが短い評論なので全文コピーします↓。 Thinksound社の宣伝にもなるし・・・(笑)。

 When I was in college, I had an enormous pair of stereo speakers housed in wood cabinets. Back then, most speaker makers favored wood because it radiated a rich, warm sound.

Now a handful of companies offer wooden earbud headphones, suggesting that they recreate that natural resonance for iPods and other portable audio devices. Can it possibly work?

I tried a pair of Rain headphones from Thinksound ($100 list but you can get them for $59.12 at Amazon) and found that the wood earbuds do deliver a balanced, natural resonance that is lacking in many headphones for portable audio players. They may not have the same bass boost as that of the Beats by Dr. Dre Tour, but I really like the realistic and balanced sound.

The Rain earbuds employ a 9-millimeter driver and fit snugly in your ear to create passive noise reduction that filters out ambient noise. (Thinksound provides four sets of silicone ear inserts to ensure a good fit for a range of ear sizes.)

The in-ear headphones are quite compact and have a simple, elegant design aesthetic. One of the company’s founders, Aaron Fournier, was previously a lead audio engineer for Tivoli Audio, and the headphones look like portable cousins of the company’s hardwood table radios. Thinksound gives you a choice of two finishes: black chocolate and silver cherry.

Thinksound says the Rain headphones have “the smallest eco-footprint possible.” The packaging is crafted from recycled materials and uses minimal plastic components and PVC-free cables.

For smartphone users, Thinksound says it will sell in early September a new headphone with an integrated microphone. The new model will use a slightly smaller 8-millimeter driver and will be priced at $100. If you’re looking to upgrade the audio on your iPhone 4, they’re a good bet.





●休養も大事。
                     ヘッドフォン聞き比べ アンプ_1

                     ヘッドフォン聞き比べ 3種_1


  今日の仙台は、暑さも「一休み」。

  ダウン気味だった身には「救い」で、


  こんな日は、


  心おきなく【サウンド】に浸りたい。



 

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)-2
  孝明帝の孫にして荒木貞夫の草?「松下トヨノ」なる女性  

  
 ★明治天皇側室は虚報 母は孝明帝息女、父は有栖川宮 

 
 戸籍資料では加太に全く縁のないトヨノが幼時加太で育ったことは事実で、K氏の先代は、「松下さんは七歳の時に、まるで天狗さんに連れられて来たように、加太に現れた」と語っていたが、春日神社の向かい側にあった池田酒店に降臨したらしい。前出の戸籍の出生日が正しいならば(その保証は必ずしもないが)、降臨は明治三十年で、江戸時代から加太に住んでいた富商K家を頼ってきたものと思われる。トヨノが降臨した池田家の養女で中谷家に嫁いだ辰子は、トヨノは「島津の殿さんの子を生んだが、その子が風邪で死んだため島津家を出て、細川家家老の岩瀬家に預けられて、その子を産んだ」という。トヨノには伊丹の航空管制官をしていた子息がいたと新屋は語るが、K家の言でもトヨノは、「私は日本で最初に飛行機に乗った女」と言って、航空機との関係を語っていたらしい。

 加太の戸籍資料にはトヨノに関連する記載はないが、地籍資料にはトヨノの痕跡が残る。和歌山市加太字南仲町所在、地番一三四〇番地の家屋の保存登記に、所有者として東京都麹町区富士見町二丁目松下トヨノの名があるからである。新屋によれば、ここは元紀州藩の米蔵があり、二万円の大金を投じた竹中工務店の建築で、外見は瀟洒な日本家屋だが地下室があるという。この土地家屋は昭和五十三年七月二十七日のトヨノの死亡を機に、九月二十七日付で福岡県粕屋郡粕屋町の岩瀬幸之輔が相続した。法律上、贈与とは異なり相続権は親族にしか認められないから、伊丹空港の管制官をしていた岩瀬幸之輔がトヨノの遺児であることは戸籍上も明確である。

 こうして松下トヨノの実体がしだいに明らかになった。これまで巷間流布していた説に、トヨノが幼少にして明治天皇の寵愛を受けて某貴人を産んだというものがあるが、明らかに為にする虚報である。現在私(落合)が憶測する処では、トヨノの父は未詳で、母は孝明帝の娘である。生まれ育った京都市堀川通り六条の堀川御所は孝明帝の皇胤の隠れ住処であった。前述のK氏は、トヨノの父を有栖川宮と信じていたと家人はいう。有栖川宮には陸軍大将・熾仁親王(一八三五~九五)か、その子で海軍大将元帥の威仁親王(一八六二~一九一三)が該当するが、トヨノ出生年の一八九四年からすると、どちらの可能性もある。 

  
 ★石原莞爾手遅れ発言と貴志彌次郎の示唆と 

  
 吉薗周蔵の遺族もトヨノに関する伝承を伝えているが、真偽は定かとまでは言えない。ただし、『周蔵日記』にはその記事が散見する。最初は昭和十二年七月末弟である。参謀本部第一部長石原莞爾から、「たまには理由を付けて、お出で」と言われていた吉薗周蔵は、盧溝橋事件の事を新聞で知って知りたいと思い、西瓜を届ける口実で石原莞爾に会いに行った。石原は周蔵に、「満蒙問題の解決として満洲事変を起こしたことは誤りでなかったと確信するが、誤ったかと思うのは、あの奔馬のような松岡を見逃したことだ。甘粕に誘われて君と会ったあの時(注・昭和五年四月)明石閣下の話を君から聞いていれば良かったと、今は思っている」と語った。「明石閣下の策士たる姿勢を、君ほどに話す人を他に知らない。故に、明石閣下の真実を聞いて、今参考になっている。戦争は長引かせてはいかん、と君に犬弁舌されたというあの内容を閣いていれば、自分は松岡を逃がさなかった」と石原は言い、「国際連盟の脱退が失敗だったかどうかの答えはもっと先になるが、少なくとも今の状況に東条などが出てくる計算など出来ていなかった」と悔やんだ。

 九月に入り、石原が関東軍参謀副長として渡満すると聞いた周蔵け、「もう手遅れ」という石原にそれでも期待することにして、癌で療養中の貴志彌次郎中将を訪ねた。石原に会って手遅れ発言を聞いたと言うと貴志は衝撃を受け、「石原さんがそう言うの?」と言った。時々、荒木大将や甘柏の手伝いをしていることを告げると、貴志は「荒木さんは自分と郷里は同じで和歌山だ。荒木さんの手伝いをしているのなら、大したことではないが、知っておいた方が良いから」と言い、「荒木さんには、女の草が一人付いておられる、と聞いている。それがどうして、中々の人であるらしく、陛下とも懇意にされていると言ったことも、耳に入っている」と教えてくれた。

 周蔵は思わず、「陛下と懇意なるは、草ではなく、後援者なのではありますまいか」と応答した。陛下にまで道を持っているのは相当の婦人であろうから、「荒木には草がいるから疑われぬように」と、貴志が教えてくれたと周蔵は思った。「郷里和歌山の婦人で、山井・松下・草壁などと名乗る。姓は変えるが名はトヨ子、トモ子のどちらかだ」とも教えてくれた。

 二回目は昭和十四年で「周蔵手記・本紀」の最終部分である。荒木大将が何時の間にか「張子の虎の如し」となっていた、と記した後に、「貴志さんの云われたる女の事、偶然聞く」とある。トヨノと荒木との関係を耳にしたのであろう。

 次に出てくるのが、昭和三十年一月の「紀州徳川家に納まった焼物の件」である。一月早々に、貴志彌次郎の養嗣子・重光が周蔵を訪ねてきて、「奉天古陶磁」の「図譜」に関して幾つかの要望を出した。貴志重光の要望は紀州家の頼貞夫人の命を受けたものだが、その紀州家の背後には松下豊子なる女史がいて、その公認の保証人が荒木大将であることを、この時期の周蔵はすでに知っていた。上原勇作の遺言で後継者の荒木貞夫に仕えた周蔵は、戦後も荒木の活動を支援していて、前年末に荒木に会ったが、その折に荒木が「図譜」の件を頼んでこなかったのは、疚しい処があるからと推察した。松下なる婦人は井伊家も手玉に取ったと、親しかった井伊家から周蔵は聞いていた。何しろ宮中から「松下の事、よしなに」と頼まれて、協力している間に、いつの間にか手玉に取られていたということらしいが、真相は分らない。 

  
 ★トヨノが残した『黒皮の手帳』「地下室の金塊は?」の衝撃 

 
 吉薗遺族の言では、松下トヨノが宮中秘事を書きつけた黒皮手帳の一件があり、それを知った松本清張が翻案したのが『黒革の手帳』である。『週刊新潮』昭和五十三年十一月十六日号から五十五年二月十日号まで「禁忌の連歌」第四話として連載され、単行本が刊行された。七五六八万円を横領して銀座の高級クラブのママに転進した女性銀行員の、魑魅魍魎とした世界を背景に描いた作品で、過去に何度もドラマ化されているが、そのいかなる部分が翻案なのか知るすべもない。

 昭和三十年と言えば、松下トヨノが加太のK氏の協力を得て、紀州家伝来の「奉天古陶磁」の一部を換金しようとしていた時期である。目的は、慈覚大師を祀る施設を建てるための資金作りであったと伝わるが、周蔵が「図譜」の提供を拒んだこともあり、結局換金が成功せず、そのままになったらしい。因みに、公武合体のために、孝明帝の皇妹・和宮が将軍家茂に降嫁した折、持参した北朝皇統の秘宝が仏舎利と十一面観音像であった。家茂の薨去後、落飾して静寛院宮となった和宮は明治十年に薨去するが、件の秘宝は北朝皇統に返還され、松下トヨノが所持することとなった。蓋し、皇統の実在を証する数少ない物証である。

 地元の和歌山市ことに加太には、生前のトヨノに接した人士がまだ多い。世間話が好きだったトヨノが毎日訪れた「いなさ」の主人の息子は今も健在で、トヨノの思い出を話してくれる。修験道の根本たる友ケ島を抱えた加太で、旧家中の旧家は「行者迎之坊」を語源とする向井氏であるが、その当主が語るトヨノの晩年は、隣人に介護された日々で、隣人たちはトヨノの尋常でない身分を薄々感じていたが深く追究しなかったという。トヨノの没後、加太の寓居の所有権が転々していたことを知ったのは平成八年で、早速新屋隆夫に告げたら、「それじゃ、地下室のあの金塊はどうなりましたか?」と言い出したのには驚いた。新屋は、私(落合)に告げた以外に、トヨノから多くを聞いていたのである。

 ホル・ワット臨時政府の軍事顧問に就いた荒木大佐が、ロシア中央政府の命でブラゴベヒチェンスクのシベリア砂金を黒竜江省に隠匿したことは、本稿で既に述べた。砂金は予備役中将・貴志彌次郎が回収し、四分の一を上原勇作・田中義一と宇垣一成で分け、残りは満鉄に預けた後に張作霖に与える手筈であったが、方針変更で張作霖は暗殺され、砂金は上原の裏の女婿・甘粕正彦の満洲工作資金になった。しかし、中心人物が報賞に与らぬ道理はなく、荒木も幾らかの金塊を得た筈で、それをトヨノの寓居に隠したと、新屋は聞いていたのであろう。

  

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)   <了>。

 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)-1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)-1
  孝明帝の孫にして荒木貞夫の草?「松下トヨノ」なる女性 


 ★紀州に残る奇妙な足跡 「皇室の裏の女官長」

 
 京都皇統の中心人物として、堀川辰吉郎の他にも孝明帝の血を引く貴種がいた。姓名を松下トヨノといい、和歌山市加太に住み、地元では謎の貴婦人として知られていた。私(落合)の先考・井口幸一郎は、知人の元和歌山県警部から聞いたとして、次のように語った。昭和二十二年に昭和天皇が全国巡幸の途中和歌山に来られた時、御召自動車の先導役を拝命した警部のサイドカーに、名乗りもせず勝手に乗り込んできた中年婦人がいた。警部と言えば泣く児も黙る時代だったが、件の婦人は警部の心情なぞ気にも掛けず、「私が指示します」と言いながら、あっちへこっちへと指図する。婦人の威容に押されて従わざるを得なかった警部は、「あんな悔しいことは忘れられん。あの女は一体、何者やったんか」と先考にぼやいた。

 婦人の名を松下豊子と聞いた先考は、以来風聞に注意を払っていたが、ある時南海電鉄の駅員から、「松下さんが和歌山市駅から乗られたとき、赤絨緞が無いからゆうて、駅長と助役がホームに白い砂を撒いてました」と聞き、豊子が皇族扱いを受ける身分であることを覚った。また、高松宮殿下が和歌山に来られた時、出迎えの知事夫人が大きな花束を抱いて国鉄東和歌山駅(現JR西日本和歌山駅)の表玄関で待っていた処、駅の柵の端っこにある木戸に豊子が現れて、「あなたー、こちらよー」と呼んだら、殿下はさっさとその方に向かわれたので、知事夫人は面目を失い暗然と立ち尽くしたことが噂となったとも言っていた。

 先考だけではなく、骨董趣味が嵩じて売買もしていた外祖父・小畑弘一郎も、「これは加太の松下はんから持ってきたが、明治天皇がお使いになったもんやで」と言って、塵紙を見せてくれたことがあった。戦前和歌山市屈指の料亭であった家に嫁いだ叔母も、姑の茶道仲間に、紀州家頼貞公爵の未亡人・岡本連一郎中将未亡人らとともに、松下豊子がいたと語った。

 平成元年、紀州徳川家伝来の紀州古陶磁の研究を引き受けた私(落合)が、当時全く不案内だった古陶磁の手解きを請うたのは、岸和田市在住の市井の研究家・新屋隆夫であった。大正末年に生まれた新星は、旧制中学時代に同級生の紹介で荒木貞夫大将に会い、以後「義理の孫」として扱われていたが、「昭和二十八年頃、荒木からユネスコの東洋部の役職に就けてやると言われて古美術の研究に勤しんでいたところ、紀州家当主の徳川頼貞参院議員が急死したためにその話が消えた」と語った。「戦犯の荒木大将がねえ?」と訝ると、「荒木のお爺ちゃんは、実は六日しか刑務所に入ってませんぜ。チャーチルに手紙を書いたら直ぐに出してくれた、とゆうてました」と説明されたので、私(落合)は初めて荒木貞夫に関心を抱いた。

 新屋は荒木から松下豊子を紹介され、「古美術品の面倒を見てあげて欲しい」と命じられたので、月に一度ならず和歌山市郊外の加太に赴き、豊子の所蔵する古美術品の換金などの処理に当たった。また、高松宮が和歌山に来られた時には、豊子の指示で同じ列車に乗り込み、少し離れた座席から不審者を警戒したこともあったという。豊子からは、戦時中に住友金属和歌山製鉄所の拡張に関与し、南海電鉄にも多大の後援をしたこと、さらに「終戦直後にマッ力―サー元帥と会い、諸般の世話をしたお礼に自動車を貰った」とも聞いたが、その身分については結局、「皇室の裏の女官長」という以外に知らないようであった。

 その後、紀州古陶磁の研究を進めるうちに知り合った岸和田市在住の陶匠・南宗明から、貝塚市の五味紡績という富豪に、以前古陶磁の美術館を建てる話が待ち込まれたと聞き、五味家への案内を請うたのは平成六年頃だった。五味夫人の話では、昭和三十年ころ、加太のK氏に連れられた松下豊子という婦人から、「紀州徳川家伝来の古陶磁を展覧する施設を作るから、協力せよ」と求められて、一年ほど奔走したが実現に至らなかった由であった。 

 
 ★複雑怪奇極まりない ″戸籍ロンダリング″ 

 
 以上の風聞から、松下豊子なる婦人は、男爵・荒木貞夫大将と親しく、何故か皇族同様の待遇を受け、紀州徳川家とも親しかったことが読み取れた。そこで戸籍資料を見ると、本名は松下トヨノで、明治二十四年十月二十五日出生、父松下熊吉・母まつゑの三女であった。東京市赤坂区丹後町四十六番地松下家の女戸主トヨノは、大正十二年九月十二日に、大阪市旭区友渕町六十番地一の戸主・黒板英次郎と婚姻届を出して黒板家に入籍し、松下家を廃家にした。その十年後の昭和八年十月六日、トヨノは英次郎と離婚するが、実家が廃家に付き新たに松下家を創立する。昭和十年四月五日に麹町区永田町二丁目二十九番五の戸主・高木七郎が養女・貞子を連れて松下家に入夫し、トヨノに代って戸主となった。ところが七郎は翌十一年五月二十三日を以てトヨノと協議離婚して松下家を去り、連れ子の養女・貞子も去ったので、トヨノは再び女戸主となった。実家・高木家が廃家だった七郎は、同地に新しく松下家を創立する。

 以上の経緯からすると、麹町区田町二丁目二十九番地五に、松下トヨノ家と松下七郎家が並立していたことになるが、昭和三十二年法務省令第二十七号により同戸籍を改製して編成された新戸籍では、永田町二丁目二十九番地五の松下家は、戸籍筆頭者が松下七郎、妻がトヨノとなっている。問題の本質は戸籍法ではないから、これ以上立ち入らないが、関係者がこれだけ複雑な戸籍ロンダリングを実行したのはトヨノの素性を隠すために外ならない。

 荒木貞夫から「義理の孫」として扱われ、荒木の命で松下トヨノに古美術品掛りとして仕えた新屋隆夫は、トヨノが黒板勝美の弟に嫁したと聞いた。黒板家は大村藩士で長崎県彼杵郡下波佐見村田ノ頭郷に住み、兄の勝美が東大史学科で日本古文書学を大成し、日本史研究の基礎を築いた事で知られるが、弟の伝作は東大工学部を出て月島機械製作所を創設しており、さらに妹・カヨは今里酒造へ嫁して戦後の財界四天王の一人今里広記(日本精工)を生んだ。正に世に顕れた一族であるが、その弟とされる黒板英次郎については、田ノ頭郷誌を見ても存在が確認されない。しかしトヨノと親交のあった加太のK氏が、「松下さんは黒板博士に嫁したことがあった」と語ったことを家人は記憶していて、正確ではないにしても、トヨノが黒板家との縁組を口にしていたことは確かである。因ってこれ以上の吟味は後回しにして、前進することにする。

    続く。 





●宇都宮太郎日記(3) 引用・紹介。
                      宇都宮日記の全巻_1

 ●落合莞爾・「疑史」(七十回)の記述・・・

 ・・・『宇都宮太郎曰記』の解題で桜井良樹は、「宇都宮は、上原の政治的参謀の位置にあった」とするが、それ以上立ち入らないのは学校史学の限界であろう。宇都宮が上原の股肱として尽したことは、上原系事業のミノファーゲン製薬が、後に子息・宇都宮徳馬に与えられたことでも分るが、その宇都宮にして、高島鞆之助と上原勇作との間の極秘関係をどの程度まで知っていたのか、分らない。・・・

 の関連で『陸軍大将宇都宮太郎日記』の(2)から引用・紹介をしてきたが、
 未紹介の『第三巻』から1918年8月19日と1919年10月24日の日記を紹介して一区切りとしたい。
 
 *************

 以下引用。

 ************* 

 
 大正七年
 八月十九日  月  晴 

 
 午前歩兵第四十旅団(長、内野辰次郎)司令部、歩兵第七十九連隊(長、富塚貞一郎)、初度巡視。

 
 午前十一時三十分、新任第十九師団長・中将子爵・高島友武来り申告す。今朝九時過の汽車にて着任せるなり。中将は故・鞆之助中将の養嗣子にして、二十七、八年戦、故・中将台湾の南進軍司令官として渡台の折には、共に大尉にして、余は参謀として、(友武)中将は副官として随行、爾来懇親の間柄なり。往時を追懐して今昔の感深し。

 ・・・以下略・・・

 ************** 

 
 大正八年
 十月二十四日  金  晴 

 
 ・・・前略・・・ 

 上海の渋川雲岳(一部の人には悪声もある人物)、東京よりの帰途再び来鮮。
是非面会し度しとのことに、此夜引見せしに、国家改造を企図し居る或る人(姓名を明かさず)より宣伝を托されたり、国家重大の事に付き一読せよと申出に付き、見ても賛成出来ざるやも知れず、左る秘密の物を見るの意なしと答へしも、是非とのこと、然らば、
(一)見た上其儘差置けぬと認められたる場合には断然随意の処置を取ることあるべき事、
(二)見るも之に対して可否賛否の意見を言はざること、
(三)之を見たりとて為めに余が意思行為に何等の拘束を受けざること、
 以上三ヶ条を約し、渋川承諾を確め一読することを承諾す。

 
 其物とは、題して『国家改造案原理大綱』と謄写版摺りの一冊子なり。
此夜十二時半まで懸りて一読せしに、中には同感の点も少なからざれども、実行如何と思ふ点や修正を要する点、亦た不同意の点もこれあり。


 一言すれば、
 皇室を奉戴す、貴族を全廃す
 普通選挙、両院制度、
 私産を三百万円に制限 以上は国有   (*現価 概 三百億円か、違反者は死刑)
 土地は三万円以下、市にては市有、   (*時価で三万円以下と)
 個人の産業は一千万円以下、其以上は国営
 徴兵維持、全国皆兵
 英米等の経済上若くは海洋上の軍国主義の打破、
 東部西伯里、濠州等への発展

〔欄外〕 明石大将危篤の電報至る。 ・・・以下略・・・

 ************

 以上。
 


●宇都宮太郎日記(2) 引用・紹介。
                       宇都宮太郎日記 写真_1


 ★第二巻解題 <続> 
 
 ④ 上原勇作陸相の擁立

 
 次に政治とのかかわりについて述べていくことにする。

 前年以来、宇都宮は陸軍における長州閥支配の打破と積極的大陸政策の推進をめざし、上原を陸軍大臣に就任させようとして、老朽淘汰=新進抜擢を主張して接近してきた田中義一と連絡をとりながら行動してきた。しかし一九一一年八月の第二次西園寺公望内閣成立の時には、寺内の側近である石本新六が就任して、それは失敗に終わった。ま
た参謀総長にも、一九一一年一月二〇日に長州系の長谷川好道が就任した。ところが陸相に就任したばかりの石本が病気のために四月二日に亡くなったため、上原の陸相就任が実現することになった。三月二九日に田中より知らせが入り、翌日には上原と内相談していることなどが日記からわかる。宇都宮は、上原の政治的参謀の位置にあった。

 四月五日、上原の親任式が行われた。その日の日記には、「根本的軍備問題を解決し〔中略〕長州陸軍を帝国陸軍と為し、老境に向ひたる陸軍を若返らせる」機会がようやく到来したと記されている。なお寺内は、この就任には一抹の不安を抱いていたようであり、維新以来先輩が経営してきた陸軍を健全に保持し発展させることが上原の任務であると、あらかじめ釘を刺すよう岡市之助次官に指示していた。

 しかし宇都宮の思い通りに物事が動き始めたわけではなかった。ちょうど同じ頃に参謀次長が、尊敬する先輩の福島安正から大島健一に変わることになった(四月二五日)。大島は宇都宮から見ると、山県と家令的関係を持つ以外は「腹も無く識見も無く、唯だ浅薄なる博識家」で、このような人事では「同志の立場は層一層の困難」を増すものと感じられた。つまり一勝一敗の人事異動だったのである。宇都宮は続けて、「勇気は寧ろ百倍せり。益々奮戦苦闘すべきのみ」(四月一一日)と記し、怒りをぶつけている。

 宇都宮は、上原のもとで陸軍を改革するための第一歩として、上原の周囲に腹心者を配置するよう画策した(八月五日日記)。その第一が、秘書官として上原と同県の井戸川辰三を付けることであり(七月二〇日任命)、第二に藩閥外の奈良武次大佐を高級副官として抜擢することであった(九月三〇日実現)。宇都宮は、一九一〇年の特命検閲の際に奈良の力量を認識したと記している(一一月一〇日日記)。

 
⑥ 二個師団増設問題 

 
 宇都宮が期待した上原陸相による陸軍の改革は、実現しなかった。上原の陸相時代はわずか八か月でしかなかった。上原は、ニ個師団増設問題をめぐって一二月二日に帷幄上奏を行って陸相を辞任し、政友会を与党とする第二次西園寺内閣もそのあおりを受けて総辞職してしまうからである。大正政変と呼ばれている事件である。一九一二年秋からの宇都宮日記は、これに関する記事が中心となる。本日記からは、上原が二個師団増設に固執した理由や、この問題をめぐる諸政治勢力の動きが、これまで以上に明確になる。

 宇都宮の二個師団問題に関する動きを見ておこう。一九一一年八月一七日、参謀本部の部長会議で六個師団増設を至急実施することが決定された。これは一九〇七年に定められた「帝国国防方針」と「国防に要する兵力量」に基づき提出されたものであった。上原陸相実現の日に記されている「根本的軍備問題の解決」とは増師を指している可能性が高い。一九一三年度予算で陸軍が要求したのは、増師計画の一部分、朝鮮に常駐する二個師団の増設であった。

 これについて記事が多くなるのは、★原敬内相が反対しているらしいという記事(八月二四日)以後のことである。九月七日の記事では、増師を必要とする理由を列挙している。日露両国軍の兵力差が甚だしいこと、現在はそういう状況にはないが、もし国交が破裂すれば危険な状態にあること、新師団が完成するまでには長い時間がかかること、二個師団ではまだ不足であることである。また宇都宮が増師にこだわったのは、この問題が国際関係の変調に備えるためだけではなく、これまでそれを阻んできた長州閥が支配する陸軍による消極的な軍事政策の改革と、それを固定化してきた政界状況の変化を表わす象徴的な問題だったからである。

 宇都宮は一一月中旬までは増師を、大蔵大臣秘書官の安倍午生(ロンドンで旧知)や日本銀行副総裁の水町袈裟六(同県人)などの財政当局者や元老の松方正義、さらには小泉策太郎や犬養毅、大石正巳などの政党人に働きかけ実現しようとしている。当時野党の位置にあった国民党領袖の★犬養とは、辛亥革命時に渡清費用を用立てて以来のつき合いがあった。宇都宮徳馬の回想によれば、両者は肝胆相照らす仲であったという。一〇月八日には「政界の将来、中心点の変更、帝国将来の事」に関して意見を交換し、さらに翌月八日にも会談して、軍備拡張が必要な「裏面の理由」を説明している。「裏面に理由」は具体的には記されていないが、政権の枠組変化の可能性も含むものであったろう。

 二個師団問題が政局に関する重大問題の様相を帯びてきたことが窺えるのは一〇月三一日の記事からである。この日、上原に「御参考の為めの囈語」(宇都宮資料)と題するメモを渡している。その内容は、辞職も辞せずという強硬な態度を取ること、そうすれば最後には妥協でき内閣も維持できるというものであった。上原は、宇都宮の意見に同意し、これにしたがって辞職を賭して増師の実現を図ったのである。しかし宇都宮と上原が決定的に違っていたのは、上原がほんとうに辞職に突き進んでしまう傾向があったのに対して、宇都宮は内閣を維持する、つまり妥協するということを前提に強硬な交渉を考えており、最後には上原の辞職を押しとどめようとして動いたことにある(一一月一三日に上原から、進退および後任者について内談を受けた時にも、最後には何らかの妥協ができると進言している)。

 一一月一日、宇都宮は安倍午生の来訪を受ける。妥協点を探るためであった。内閣側の妥協案は、一九一三年度予算に計上することは見合わせ、しかし一九一四年度よりの着手は約束するというものだった。これに対して宇都宮は、たとえ少額でもいいから、今度の予算に継続年度割の頭だけは出すよう要求した。
 宇都宮は、内閣との関係を、内務省警保局長で同県人の★古賀廉造を通じて探っていた。古賀は政友会の中心的人物である原敬内相と、極めて近い間柄にあった。一一月二二日の閣議にあたって、古賀は宇都宮に、上原陸相が閣議で増師案を説明すれば、閣僚は直に否決することは決してないから、軽率に辞表を出すようなことはしないように、上原に伝えて欲しいと伝えた。この日の閣議は、その通りであり、宇都宮はそれをもって内閣には、内心妥協の意が十分あると観察した。

 ではなぜ決裂に至ったのであろうか。そこには三つの原因があったようだ。第一は上原の考え方であり、第二は薩派海軍の独自の動き、そして第三が、宇都宮はこれを最も重視しているようであるが、長閥の陰謀であった。その第一と第三の原因が日記に、はっきりと記されている。

 第一については、一一月二一日の日記が重要である。西園寺首相が上原陸相に対して二二日の閣議の席上で説明して欲しいと要請したことに対して、上原が「兵額を定むるは大権に属し、大臣と総理との間に相談上裁を仰ぐべきものにして、閣議にて決すべきものにあらずと返答」したというのである。これはこの問題が、兵額決定をめぐる権限に関する原則問題であり、上原は内閣にはその権限はないと考えていたことを示すものである。兵額決定に閣僚は関与するものではなく、陸相・首相の相談で行うべきだとする上原陸相の主張は、軍令部と内閣が海軍の兵力量決定をめぐって対立した一九三〇年ロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題を彷彿とさせる論理である(ただしこの時に上原は、首相の関与は認めており、閣議の関与のみを拒否している)。この年の八月に、陸相と参謀総長とが帷幄上奏して、増師について天皇の了解を得ていたということが『財部日記』に記されており(一二月二日)、それが上原の増師にこだわる姿勢と、帷幄上奏による辞職を正当化する論理にもつながった。

 さて事態は、一一月二四日になって深刻化する。薩派有力者の★樺山資英より、西園寺首相が増師提案を拒否することを決心し、衝突は避けられないという情報が伝わってきたのである。そして上原も「陸軍に殉死の決心」(一一月二五日日記)を固める。宇都宮の観察は外れたのである。ただし一方では、増師反対の張本人と思っていた原内相が譲る意思があるようにも観察された(同日)。ここから宇都宮は、薩摩出身で原の信頼の厚い内務次官・床次竹二郎との交渉に入り、二六日に古賀を加えた三者で解決策が検討された。内閣維持を図るという点で意見は一致していた。床次の提案は、一九一四年度(つまり再来年)よりの予算化を約束する、その証拠として閣議での決定、議院での宣言および政友会の党議をまとめることを約束するというものだった。これを上原に伝えたところ、上原は「最早妥協の余地無きものと観念」しているようであった。宇都宮は、その態度が「官僚系長州系に少しく偏傾」していると感じたので、「政友会等非長閥派」に傾くのも、長閥に傾くのも良くないと忠告した。

 床次は二七日上原陸相と終日意見交換を行い、宇都宮は、翌日床次の提案(一年延期)を受け入れることで妥協する腹を決め、★高島鞆之助を通じて上原陸相に働きかけてもらった(二九日)。「御参考の為め」と題する、その時のメモが残されている(一一月二八日付、『上原文書』にもある)。その要点は、辞職すれば二、三年増師は不司能になり、また多数党(政友会)と終始敵対関係になるから、内閣が妥協を欲している以上、一九一四年度からの約束で妥協するのが良いというものであった。上原は気持ちが動き、閣議では依然として主張を変えなかったが、一日の熟考を首相に請求した。まだ妥協の道は残されていた。宇都宮は、上原が意見を変えないよう、他人との接触をしないよう求めた。

 妥協の可能性があったにもかかわらず、決裂を決定的にした第二の要因は薩派海軍の動きであった。これは宇都宮日記には出てこないが、海軍次官の財部彪、薩摩出身の官僚・山之内一次と押川則吉、大久保利武などが、原内務大臣、床次内務次官、牧野伸顕農商務大臣(牧野も薩摩出身)ら内閣側の妥協工作を妨げる方向で動いており、西園寺はそれに従っていたことが『財部日記』からわかる。★薩派も一枚岩ではなかったのである。宇都宮は、陸軍内では上原派とされ、上原派は薩派と位置づけられている。しかし上原派の実態はかなり不鮮明であり、かつ薩派の分裂からも、宇都宮を薩派として片づけてしまうことはできない。確かに薩摩系軍人と深いつながりはあったが、宇都宮は独自の道を探っていたように思われる。

 決裂を決定づけた第三の原因は、宇都宮が最も意識していた長州閥の動きであった。山県、寺内、岡、田中らが、この時に意識されていたメンバーである。上原が妥協も考えた一一月二九日、岡陸軍次官が小田原に山県を往訪した。この時の山県の意見が、決定的であったようである。夜一〇時、宇都宮が田中を訪問して、その後の様子を窺ったところ、★田中は一意突進の意見を語り、上原も突進案に変化していたというのである。この変化に裏面の事情があると宇都宮は感想を記しているが、それは山県の意見が岡を通じて上原に伝わったという意昧であろう。山県は強硬な増師論者であった。

 一一月三〇日、決裂が決定的となった。宇都宮は早朝に上原を訪ね、妥協して内閣を維持し、たとえ一年延期でも増師案を成立させることが有利だと「最后の進言」を行った。しかし一二月一日午前の上原・西園寺会見で、上原は増師をあくまで主張することを伝え、宇都宮に辞職を明言し、二日午前参内して天皇に直接辞表を捧呈した。その際に、以前八月に参謀総長と連署上奏した二個師団増設案が閣議では容れられなかったと、直接天皇に謝る帷幄上奏の形式をとったのである(『財部日記』一二月二日)。 

 
 ⑥ 大正政変 

 
 ここに内閣は危機に陥った。宇都宮は日記に「政局は是れより一転、天下再び彼等官僚、即長閥の有たるに終はるを免れざらん乎」と記した。長閥にしてやられたという感想なのである。

 辞表が提出された一二月二日の夜、宇都宮は★樺山資英より一つの提案を受ける。高島鞆之助、床次が相談した結果として、上原に来年度実施を黙契した上で増師案を撒回し、「政友会と結び飽まで長閥と決戦」する意志があるかどうかを尋ねて欲しいというものであった。これに対して宇都宮は、成功するか疑問であり、それより政友会の意気込みがあるなら、今回は政府をいったん長閥の手に渡して、「上原とは将来を黙契し、国民党の犬養等とも連合し、政友会内の官僚分子は其去に任せ、大挙咆哮捲土重来の策を至当とする」という意見を答えている。ここから、この時期の宇都宮が、政友会・国民党と結んだ政権の組み替えを構想していたこと、それに対抗するものが長州派と政友会の官僚分子の結びついた政権であったことがわかる(ただし政友会の官僚分子が誰かは不鮮明)。

 上原の辞職を受けて後任陸相捜しが始まった。しかし山県は後継陸相の推薦を拒否し、西園寺内閣は大臣を揃えることができず、五日に総辞職を表明することになる。これは田中義一が案出した可能性の高い西園寺内閣を倒閣に導くシナリオに沿ったものであった。六日から、後継首相奏薦のための元老会議が始まった。このシナリオでは、後継首相に寺内正毅を山県が推し、寺内内閣が成立して増師問題を解決することが想定されていた。しかし会議では大山巌がめすらしく異議を申し立(★大山が反対したことは知られていたが、その発言の重みを指摘したのは、この日記が初めてであろう)、松方の推薦に傾いた。会議の様子は、大山から井戸川、上原という経路で宇都宮に届いていた。

 宇都宮が、長州閥による「内閣乗取の為めの陰謀」(つまりシナリオがあったこと)に気付いたのは、日記によると七日の日に寺内に宛てた「秘電」を見たからである。たぶんこの電報は、七日午前○時二分に田中から発せられたもので「寺内文書」に残されているものである。その電文には、「何等協定スルコトナク」とか、「成功無覚束」などの言葉があり、それを読んで、その筋書きを理解したようである。

 宇都宮は、松方の組閣を応援する方向で動き始めた。床次に、松方の参謀役となるよう要請し(一二月七日)、増師一年延期、海軍も多少の延期もしくは繰り延べ整理等を実行するという条件で政友会と妥協し、原、松田、牧野の入閣、上原陸相、斎藤海相の留任が良いという意見を伝えている(一二月八日)。宇都宮は政友会や原を敵とは見ていなかった。しかし一〇日、松方は組閣を辞退した。病躯老齢を理由としたが、宇都宮は、別の理由が恐らくあったであろうと記している。まさにそれは山本権兵衛らが、山県が我が儘を働いている間は上手くいかないと松方に忠告したからであった(『財部日記』一二月九日)。

 宇都宮の政局に関する記述は、それ以後一七日に桂が内閣を引き受けることが明らかになるまで、ぷっつりと途絶える。また記されても内閣のメンバー以外、出てくるのは上原の行き先捜し(教育総監か待命か)程度である。桂に政局担当の野心があったというのは、一二月二日・一七日に記されているが、それを特に咎めだててはいない。宇都宮は、松方辞退後の桂内閣に向けての動きとはコネクションを持っていなかった。

 以上のように、大正政変の背景には、いくつもの勢力対抗があった。政友会と陸軍省の対立、長州閥と薩摩閥との対立と単純化することはできない。この日記からは、複雑な対立関係のなかで、上原陸相を補佐していた宇都宮や井戸川が妥協に向けて動いていたこと、これに薩派の一部が呼応していたことがわかるのである。

 なお一二月一〇日に参謀本部の部長会で国防方針と用兵綱領に関して審議が行われ、変更しないことが決まったと記されているのが注目される。もともと二個師回増設要求は、国防方針実現の一環として提出されたものであり、それに変更を加えないという決定は、増師案にこだわるという決意の表明であったといえよう。なおその後に「但し対米作戦を一層具体的に立案するの要を認む」という記述がある。議事内容なのか宇都宮の単なる意見なのか明確ではないが、いよいよ陸軍も★アメリカを想定敵国として意識するようになりはじめたことを語っていて興味深い。これに関して資料中に参謀本部「未来の米国大統領ウイルソン氏の略歴並同氏の標榜する新政策の米国に及ぼすべき影響の判断」(一九一二年一一月)と題する書類がある。 

 
 ⑦ その他 

  
 その他、一九一二年の日記で注目される記事、および宇都宮の身辺のことについて記しておく。家族関係では、三女となる峯子が五月二〇日に誕生した。これで家族は、子供五人、夫婦二人の大家族となる。宇都宮は、仕事に忙殺される中で、家族と連れだってしばしば東京の郊外を散策し、子供たちと一緒に過ごす時間を大切にしている。大演習での出張から帰宅したときに、子供らが歓声を挙げる様子に、「門外の事は兎に角、家庭に在ては吾ながら吾が身の幸福少からざるを感ず」(一一月一九日)と記す宇都宮。なかなか自分の思い通りに物事が運ぶことのなかった宇都宮にとって、暖かい家庭の存在が、行動力の源泉になっていたことを感じさせる。

 宇都宮は前年(一九一一年)の一一月二二日に★東宮御用掛を命じられた。その実際の仕事は軍事学の進講で、はじめて御殿に参上して行ったのが、二月一九日であった。宇都宮は、その時のことを「無上の光栄」と記している。その後進講は八月二四日の御用掛罷免まで、三月四日、五月一五日、同二二日、六月五日、同一九日、同二六日と計七回行われた。短期間であったのは、七月三〇日に明治天皇が亡くなり大正天皇が践祚したからであり、宇都宮に問題があったわけではない。むしろ大正天皇が宇都宮のことを気にいっていたらしいことは、一九一四年一月一二日に天皇自らの指名により小鴨五羽を下賜されたり(「異例なり」と記している)、第七師団長時代に天皇が御料馬の試乗を命じたり(一九一五年四月一〇日)、宇都宮にかけた言葉から想像できる。一九一六年四月の師団長会議の時の陪食後、特別にお召しがあり「北海道のサル蟹を献上せよ」と言われ、健康などを尋ねられたのである(四月八日)。「サルカニ」は色々な書き方で出てくるが、「ザリガニ」の一種で、宇都宮もわからなかったようである。大正天皇の様子がわかり面白い。なお天皇関係の記事として、この他、明治天皇薨去および大喪、大正天皇即位式の模様が日記には詳しい。

 この年(一九一二年)、宇都宮は、ある会に入会する(五月二八日)。これは毎月二八日に赤坂三河屋で行われる会で★二八会といい、会の目的は特にない。ただし全会一致で推薦された者しか入れないもので、会費は一〇円(したがって重縁会ともいう)であった。宇都宮は、誰かに田中義一と同時に推薦され入会を許されたという。「何人の悪戯にや」と記しているが、たいへんこの会が気にいったようで、旭川に赴任するまで、毎月のように出席する。そのメンバーは、後の記述も総合すると、外交問題に深い関心をいだく代議士・ジャーナリスト・運動家・外交官・軍人・実業家であった。この会は、宇都宮の人間関係を拡大する役割を果たした。宇都宮が旭川に赴任する時には早川千吉郎宅で送別会を催してくれ、内田康哉、後藤新平、倉知鉄吉、福田和五郎、大谷誠夫、安藤保太郎、井上敬次郎、寺尾亨、内田良平、林田亀太郎、長島鷲太郎、小泉策太郎、秋山真之らが集まっている(一九一四年五月二一日)。ただしその後に出席したことが確認できるのは、一九一五年一一月の一時帰京の時と、朝鮮から戻った一九二一年六月の二回あるだけである。 

 
 
 第二巻解題  <了>。



●宇都宮太郎日記(2) 引用・紹介。
 ●陸軍大将 宇都宮太郎日記(2)より、当該部分の引用・紹介。

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 ★第二巻解題 
  大正時代初期の宇都宮太郎―参謀本部第二部長・師団長時代   櫻井良樹 



 本巻(2巻)で扱う一九一二(明治四五)年から一九一六(大正五)年の五年間は、宇都宮太郎の人生においては五〇歳台前半の五年間にあたる。一般にこの年代は、それまでの職務経験を活かして責任ある地位につき、組織を動かしていく時期である。その期間のちょうど中頃の一九一四年五月一一日に、宇都宮は陸軍中将に任ぜられるとともに、長くつとめた参謀本部第二部長から旭川の第七師団長に補せられ、ついで一九一六年九月には大阪の第四師団長に転じる。

 本解題では、一九一二年と、一九一三年から一九一四年の転任までの時期、さらにそれ以後の師団長としての時期の、あわせて三つの部分に分けて、日記を解説していく。また付論として、久保田文次氏の文章を付した。そこでは、宇都宮の活動の中心となった辛亥革命前後の中国情勢への対応を、前巻の終わりから本巻にかけて登場する何人かの中国・アジアと関係の深い人物を取りあげて紹介する。なお註について、本日記を出典とするものは、文意から年月日が判明するためにそれを省略し、そうでないものは月日を適宜括弧内に付した。宇都宮資料中の書類・書簡についても本文中に記し詳細は省略した。 


 ★ 1 一九一二年 ― 参謀本部第二部長

 ① 辛亥革命の展開と宇都宮太郎 


 一九一二年一月、宇都宮は海外情報を扱う参謀本部第二部長として、それまででたぶん最も忙しい正月を迎えていた。前年一〇月に勃発した辛亥革命への対応に追われていたからである。前巻(1巻)解題でも述べられているように、宇都宮の革命への処方箋は、前年一〇月一五日に起草した「対支那私見」(第一巻四八三頁参照)にもとづき、それを事態の推移にしたがって修正しながら展開していくというものであった。

 中国清勢は、めまぐるしく変転しつつあり、一月一日に孫文を臨時大総統とし、中華民国が南京を首都として建国された。その一方で清朝側と革命派との間の講和交渉も進展しており、一月二〇日には清帝の退位条件が出されるなど、清朝の崩壊が目前に迫る状況となった。日本政府は、この間、前年末の閣議決定によって事態を静観していたが、革命が満州地域へ波及しそうになると、山県有朋や寺内正毅などは、満州秩序維持のための出兵を唱えるようになる。それは動員寸前にまで進行しており、宇都宮も、派兵予定師団の参謀に会ってアドバイスを与えていることが、一月二一日の日記からわかる。

 宇都宮は、この時に際して「尚は及ばざるにあらず」(一月二一日付)という意見書を記して各方面に働きかけている。その意見は一月二八日の日記に詳しい。宇都宮は、清国皇帝の退位決行前に居中調停を行うこと、南方派を承認して建国に助力し各種の援助を与えて良好な関係を結ぶこと、北方に関しては満州朝廷の崩壊をくいとめ兵力を派遣して防御的に擁護し事実上の保護国とするという意見(つまり中国二分策)を内田康哉外相に語ったのだが、内田は絶対に不可能だと反対したというのである(資料中にも「支那関係にて内田外務大臣柴五郎への信書」がある)。

 宇都宮は、この時には派兵を主張しており、前月の意見書「居中調停に付」では否定していた出兵を主張しているのは奇妙に感じられる。しかし前月のものは革命派を圧迫するための攻勢的動作を取る兵力使用であり、今回のものは清朝擁護のための兵力使用であった。宇都宮の狙いが中国における勢力均衡状態を維持させること、それにより日本の影響力を高めることにあったことがわかる。

 しかし二月一二日、とうとう宣統帝は退位し清朝は滅亡する。革命派と袁世凱との間に妥協が成立し、孫文は臨時大総統を袁世凱に譲り、袁は清朝の滅亡と中華民国の成立を承認することで革命は収拾されることになったのである。清朝の崩壊を目の当たりにして宇都宮は、一人の義士も起って殉ずることがない満州朝廷の腐敗を嘆くとともに、ここまで日本外交が失敗に失敗を重ね好機を逸したことを遺憾であると記した(二月一三日)。

 この間に宇都宮が深くかかわったことに満蒙工作がある。これは一般的に第一次満蒙独立運動(満蒙挙事)と呼ばれ、宇都宮資料中に残されている意見書によると、満蒙の分離独立により清朝の維持を図るもので、趙邇巽などの勤王党あるいは適当な満州族・蒙古族の親貴(粛親王・喀拉沁(カラチン)王など)を擁立した挙兵計画であった。前年中に満蒙に派遣した特務機関の多賀宗之少佐、それに一月末以後新たに派遣した高山公通・守田利遠大佐、蒙古調査から帰朝したばかりの松井清助大尉や大陸浪人の川島浪速を通じてなされたものである。鍵となる人物である川島の名前が、革命勃発直前の一九一一年一〇月七日の日記に登場している(初出は一九一〇年三月一四日)。このときに宇都宮は、川島を「粛親王等の顧問として信用ある」人物として認め、対清意見を語り協力を求め、共に尽力を約束していたというから、まるで革命勃発を予期していたような絶妙のタイミングであった。

 一月下旬から本格的な工作が始まり、二月二日に川島は北京から粛親王を旅順に脱出させた(二月四日大連着、その後の生活費の面倒もみていることが八月一三日の日記からわかる)。また、二月一日に開元へ向けて小銃五〇〇挺・弾丸二〇万発の送付が決定され、同時に蒙古王への借款供与に向けた動きが開始された。しかしこの挙兵計画は、二月二〇日に閣議で厳正中立が決定されたことにより中止される。宇都宮は高山等に傍観を指示、川島を召還する電報を発した(二月二六日日記)。後に川島に対して、その尽力のためとして五〇〇〇円という大金を振武資金より贈与しているのはその労をいかに宇都宮が多としていたかを示すものである(五月四日日記)。ちなみに振武資金とは、清国からの陸軍留学生を教育するために政府が一八九九年から一九〇九年まで、成城学校(後に振武学校)に補助していた年額一万円の資金が積み立てられていたものである。

 なお一九一三年一二月一七日に川島浪速が来訪した時に、粛親王の子供を日本に留学させること、宇都宮自身が世話をすると語っている。川島が粛親王の子供を芳子と名付け養女として育て、その芳子が後に「男装の麗人」と呼ばれ活動したことは有名な話である。宇都宮の言う粛親王の子供が川島芳子のことであったとしたら面白い。もっとも
芳子が日本に来たのは一九一五年のことであり、もはや宇都宮は援助できる位置にはなかった。ただ同年四月一四日に宇都宮が師団長会議で上京した時、粛親王の王子輔国公憲徳に面会して、決して悲観せず、修養し時の到るのを待つべきだと激励しているのは、この時の関係からだろうか。

 三月一〇日に袁が、いよいよ大総統に就任する。その日の日記に宇都宮は、袁のことを、あらゆる詐術を用い世間を欺いて天下を盗んだ悪運の強い人物と記し、それが可能であったのは満州王朝が漢人に嫌われ、失政の結果天下の人心を失い、いっぽう漢民族には適当な統治者が無く、列国の態度もあって袁の野望が実現したのだと分析し、そしてまだまだ問題はこれで結了したわけではなく、これから益々やらねばならないことがあるが、これまでは日本の対応は全くの失敗であったという感想を記している。

 この三か月後の六月、奉天近郊の鄭家屯付近の遍照というところで、蒙古王への武器輸送をめぐる日中両国人の衝突による日本人の死亡事件が起きる。満蒙独立運動を引き継いだものであった。宇都宮が多賀少佐や守田大佐に関与させていたことが七月二二日の日記や「支那事変に対する発電案」という宇都宮資料の中の記事からわかる。

 一方、前年以来の華南方面工作も進められたが、これも実りはなかったようである。一月に嘉悦敏中佐が雲南へ、井上璞大尉が広西へ、三月には岩本千綱退役中尉が雲南・貴州へ派遣された。彼等に対する訓示類が宇都宮資料に残されている。たとえば嘉悦に対するものの要旨は、干崖の刀安仁を援け雲南方面に独立国を作り、勢力をなるべくベトナムのトンキン湾方面に伸ばし、将来必要の場合にはイギリス領ビルマまたは清国を衝かしめるという壮大な構想にもとづくものであった。さらに五月二一日には、日野強中佐を陜西・甘粛省に、水町竹三少佐をインドに、武田額三大尉をカムチャツカ方面に密派するという決定がなされている。日野の派遣は「中華民国と相容れざる有力なる一勢力」との連絡を図ろうとするものであった(約一年後の一九一三年五月三一日の日記によれば失敗に終わった)。このようなところからは、参謀本部が北方や雲南・貴州といった全中国を視野に入れて動いていたこと、その動きを資金面も含めて宇都宮が組織化していたことがわかったのである 

 
 ② 革命後の対中政策 

 
 革政派と袁世凱との当初の約束では、首都は南京に置かれ、袁も南下することになっていた。しかし二月二九日に起こった北京・天津の兵乱を口実に、袁は北京にとどまることになった。この兵乱に際して宇都宮は、再び情勢が紛糾する好機と一時は期待したようである三百一日日記)。ところが混乱は拡大せず、以後中国情勢の展開は袁に握られていくことになる。そして革命は一段落を告げ、宇都宮も猛烈な忙しさから開放されることになり、四月ニ八日からはようやく日曜休暇が取れるようになった。

 四月一二日に宇都宮は、一時帰朝中の駐清公使・伊集院彦吉に面会した。これは、北京で革命の推移を実見して来た伊集院から詳しく情勢を聞くためであったろう。宇都宮は外務省の対応に不満を持っていたため、伊集院の行動についても不審を抱いていたようであるが、それが誤りであり、意見も自分と大同小異であったことを知る。そして翌年の日記(一九一三年一二月一六日)では、外交上事実上の顧問と言うまでになり、信頼し合うようになる。

 袁による権力の掌握と中国の統一は、宇都宮にとっては、理想と最もかけ離れたものであった。したがってそれ以後は、袁に対抗する南方革命派勢力の拡大に再び期待すると同時に、南満州および東部内蒙古における日本影響力の確保と拡大を目指して行動して行くことになる。それは、たとえば四月二〇日付の「支那分割の止を得ざる場合に於ける我占領地域」という意見書に見ることができる。そこではタイトルとは異なり、中国の領土的分割はなるべく避け、市場として重視し、特に東部内蒙古に日本の地歩を築いていくことが必要だという主張がなされている。宇都宮が希望していたものは、日本人の移住権・土地所有権と商租権(営業権)の獲得であった。

 革命派の軍人である藍天蔚と会談した七月一一日の日記は興味深い。宇都宮は白人勢力と対抗するために日中の提携を主張し、中国が強くなることの必要を論じた。藍も日中提携論で応じたという。そしてそれは以前に張之洞に説いたものと同じだったという記事である。しかし宇都宮が張に説いたのは日露戦争以前であり、日本は、その時とは違って中国大陸に多くの利権を有する国になっていた。したがって同じような論でも日中提携の位相は異なっていた。だから宇都宮も藍に、「両国の一致を害するものは満州問題也」と語っているのである。「満州問題」というのは、日本が日露戦争の勝利によってロシアから譲り受けた南満州における権益の問題であり、その中心は期限付きであった関東州租借権と南満州鉄道経営権の延長を指すものである。宇都宮は、日本がそれを放棄することはできないが、双方の顔の立つようにすることが必要だと語り、それを蘇丹(スーダン)式という語句で表現している。スーダンは、この時期、イギリスとエジプトとの共同統治であったが、実質的にはイギリスの影響下にあった地域である。宇都宮は満州を同様な地域とすることをめざしていたのである。

 満蒙利権の拡大については、四月一一日の日記が一番理解しやすい。喀拉沁王や巴林王、さらには東翁牛特(オンニュート)王など蒙古諸王へ借款を与えて、牧畜業の経営権や鉱山の採掘権を獲得しようとするもので、資金は満鉄・外務省・参謀本部・岩崎久弥からの提供資金などによるものであった。これにかかわったのが、前巻でも登場する片谷伝造という人物であり(その報告書が宇都宮資料に存在する)、片谷は、この年さらに援助を得て事業を進めたのである。

 また熱心に取り組んだことに、蒙古探検計画がある。これは参謀本部の黒沢主一郎中佐を団長とし、川島浪速も同行する蒙古地域の資源・利源調査である。七月二二日の日記には、陸軍大臣官邸に三菱商事・三井物産・大倉組・本願寺の有力者を集めて会議を行ったことが記されている。ずいぶん大がかりな計画であった。しかし警戒した外務省の反対により実現に至らなかった。八月九日の日記では、中華民国承認以前(日本が列強諸国と共に中華民国を承認するのは翌年のことである)に蒙古探検を決行して蒙古に地歩を進めることは、最も必要だけれども、内閣の決心が無ければ厦門事件と同様の失態に終わるだろうから中止も仕方ないと、閣議の事なかれ主義を批判している。厦門事件は一九〇〇年北清事変の際に、台湾から対岸の厦門に向けて派兵が行われた事件で、その直後に、列強の批判を恐れた日本政府が帰還を命じて中止された事件である。それとこの探検を並べて語っているのは示唆的である。

 いっぽう華南方面に関して注目されるのは江西省への働きかけで、日記には台湾銀行頭取・柳生一義や大陸浪人の中野二郎の名があがっており(一九一二年五月二四日、一九一三年五月一九日、七月一五日)、また白岩竜平の江西鉄道借款についての記述もある(一九一二年八月二日)。これも成果はなかったようである。

 ところで宇都宮は、中国から来日する陸軍留学生と長くかかわりをもっていた(第一巻解題三〇頁参照)。またなるべく多くの応聘将校を中国に送ることを主張していた。しかし革命の勃発と混乱により、応聘将校の派遣は難しくなり、留学生も急進帰国し学生を収容した振武学校も閉鎖されてしまった。それらの復活を宇都宮が推進していた形跡を見ることができる。一九一二年三月二五日、田中義一を訪ねた日に、日中関係がどうなろうとも、なるべく多くの将校を送ることを語り、同意を得ているし、おしつけがましく行うことはだめだが、どの官庁でも好機を捉えて積極的に応聘を行い、武官は中華民国承認前でも語学研究という名義で派遣すべきだという意見書も書いている(宇都宮資料)。たとえばその一つが国際法学者である有賀長雄の袁世凱顧問への応聘を進めることであり、宇都宮は説得役をつとめている(一九一二年八月九日、九月一日、ニ日)。

 また振武学校学生監の水村宣明に学校再開の準備をさせ(七月一五日)、駐日公使館一等書記官郭左洪から留学生について相談を受けた時、再開できると語っている(九月三日。一二月になって学生が派遣されてきた(一二月二七日)。日記には湖北省からの学生五十余人、あるいは黎元洪、黄興、蘇陽等の依頼で来た学生九十余名と記されている(一九一三年一二月一一日)。これらの学生は、振武学校ではなく、東亜同文書院の中学部に預けられ、日本語の研修が行われた(一九一三年一月一四日)。日記には、東亜同文書院院長の根津一や東亜同文会幹事の柏原文太郎の名がしばしば登場する。将来は陸軍士官学校へ進ませる心算であったと思われるが、約一年後の一九一三年一二月に、中国政府の命により召還され、進学者は出なかったようである。一九一二年に編纂が開始された『支那陸軍学生教育史』もまとめられ、いよいよ再開の見込みがなくなった振武学校は、一部が日中両国軍人関係者の会館(振武義会付属倶楽部)にあてられ一九一四年四月二九日日記)、他は陸軍省あるいは関係学校等に寄付されることになった(同年一月一六日日記)。 

 
 ③ 南洋事業とベトナム 

 
 ここで辛亥革命以前からの動きである南洋とベトナム関係の記事をまとめて紹介しておこう。一九一〇年以来の小山秋作によるインドネシア諸島租借事業は、一九一二年に入っても継続していた。二島について許可証を得たという記事が一月一〇日に見え、七月一〇日には南洋企業という会社を設立するにいたったことが報告されている。同じ頃から始まった佐野実という人を使用してのインドネシアのセレベス(現在のスラウェシ島)での実業開拓に関しては、一九一三年三月二七日に約三年振りに来訪を受け、多少有望の事実を聞き、さらに援助を行っている。

 興味深いのは、★柳田国男の名前が出てくるところである。一九一三年九月一一日、床次竹二郎の紹介で倉田隆吉という人物が南洋事業に志して来訪した。それに関して二九日に、法制局参事官兼内閣書記官であった柳田が床次の代わりを兼ねて倉田のために旅費を出してくれるよう相談に来ているのである。五〇〇円を振武基金より与えているが、この時与えた訓示(一一月四日)の中で、イスラム教徒の支持を得るように学校を造ったり事業を興したりすることを要求している(不成功だったようで一九一六年一一月六日に大阪の宇都宮のもとを訪れ報告している)。このほかにボルネオ島に関して雑貨商村田与吉に対する援助が一九一二年七月末に始まり、中井喜太郎の南洋(インドネシア)調査にも機密費を支出している(一九一二年五月二一日)。

 ベトナムについては、宇都宮が第二部長時代に参謀本部に安南班を設け、松井石根を同地に派遣したことが伝えられている。松井が派遣を命じられたのは一九一三年四月二五日のことだから、それはこの頃のことであろう。

この他、一九一一年に始まった高月一郎というフランス領東京(トンキン)で事業を経営している人物との関係が、資金援助という形で継続している(一九一二年七月四日に七〇〇円、ただし翌年は断っている)。さらに東遊運動で来日し、その後、日本を追い出されることになったベトナム人留学生の何人かが、振武資金から補助を受けて滞日し続けていることが記されている。★東遊運動とは、日露戦時に浦佩珠(ファンボイチャラ)がベトナム独立運動の援助を求めて来日したことをきっかけにして行われたベトナム人の日本留学運動である。日仏協約締結(一九〇七年)後、フランス政府からの要請もあり、日本政府が留学生団の解散を命じたことにより、留学生の多くは日本を去っていった。一九一〇年五月に東亜同文会の柏原文太郎に相談を受けたことがきっかけであったようだが、一九一二年九月三日の記事では六人の学生に学資の援助をしていたことが記されている。それが陳有功(大阪高等医学校)と玩典であり、阮典には毎月一五円ずつ与えていたことがわかる。陳有功(後に陳仲克と改名)は、一九一二年越南光復会設立に参加、一九一三年には中国の官費留学生として東京高等師範に入り、その後ドイツに留学して医学を修めた人物である。また少し後の時期には黎野臣というベトナム人学生の名も見える(一九一四年五月一八日、一九一六年四月一六日)。

 なお、宇都宮が大陸浪人たちに資金援助をしているという話は、いつの間にか広まっていたようで、怪しげな人物が色々な伝手を使って宇都宮に接近してくる様子も日記から窺われる。

 
      続く。



●疑史(第七十回)  清朝宝物の運命(3)

 ●疑史(第七十回)  清朝宝物の運命(3) 


 世界近現代史における満洲(現在は中華人民共和国の東北地区)の意義について本稿が述べた先月号に、奇しくも山浦嘉久(『月刊日本』論説委員)も之に触れている。三月二十六日の韓国海軍哨戒艇「天安」の沈没事件に関して国際軍民合同調査団が発表した「百三十トン級の小型潜水艇から発射された大型魚雷による」との見解に対し、「北朝鮮がその種潜水艇を保有しているとしても、かかる大型魚雷を発射するのは不可能で、人間魚雷か某国の最新技術を使うしかない」との某軍事筋の指摘を挙げつつ、真相不明のこの事件により、アメリカの国際戦略が一歩進んだと説いた(『満州のイスラエル-誰が「天安」を沈めたか-』)。

 確かに、国際軍民合同調査団が事件の元凶と看倣した北朝鮮では、事件直後の五月に金正日総書記が倉皇として訪中し最新鋭戦闘機の供与など軍事援助を要請したが、拒否された。また、北朝鮮が韓国に向けて頻りに事件の合同調査を呼び掛けているのも、不意討ちをした側としては極めて不目然な対応というしかない。因みに、第三国のロシアも真相不明との立場で、韓国との合同調査を望んでいることも、事件の複雑さを暗示している。

 ところが、真相不明の本事件により自国の安全保障の切実さを眼前に見せ付けられた日本では日米軍事同盟上の懸案たる普天間問題が一瞬で吹き飛び、従来標榜してきた下級メーソン的夢想が破綻した鳩山首相は辞任を余儀なくされた。逆に韓国では、北朝鮮の関与を疑問視する声が高まって対北強硬路線の李明博政権が統一地方選で敗北し、米朝野合に対する現政権の障碍性が大幅に減じることとなった。米朝野合の目的は、謂うまでもなく中華帝国の封じ込めにあるが、その先に「新満洲国」の建設という遠大な計画があり、中東問題の根本的解決としてイスラエル共和国の満洲移設を果たすための橋頭堡が北朝鮮だと、山浦は説くのである。

 日本陸軍の「河豚(ふぐ)計画」は、欧州のユダヤ難民を満洲に迎え、以てソヴィエト・ロシアに備えることを目的としたが、結局実行に至らず、欧州のユダヤ難民は、バルフォア宣言によりパレスチナの地を与えられて現在のイスラエル共和国を建てた。そこが原住アラブ族の居住地だったために生じたパレスチナ問題は、時間の経過とともに悪化するばかりである。翻って「河豚計画」を診れば、当時の北満黒龍江省の地は元来満洲族の土地で原住人口が少なく、漢族の移住者も未だ希薄であった。

 満洲政権が当地に漢族を移住させたのは、やはり帝政ロシアに備える住民の壁を意図したものだから、当地に新イスラエルを建てる計画は、パレスチナヘの強制的移住に比べて格段の合理性があった。要するに「河豚計画」とは、満族政権に替わった日本が、漢族に加えてユダヤ族をも誘致しようとした案である。今日の論者は「河豚計画」を日本陸軍の立場からのみ論ずるが、根底にグレイト・ゲーム即ち地政学的発想があるのは当然のことで、しかも一神教内の対立を絡めた発想者は、どうみても海洋勢力の本宗たる在英ワンワールド以外には有り得ない。

 在英ワンワールドの傘下で世界政略の一翼を担った明治日本は、東アジアにおける対露防衛を担当し、日清・日露両戦役で見事その重責を果たした迄は良かったが、その後は海洋勢力内での軋轢が生じ、米英両国と対立することとなった。折から重工業化に向けて進み出した日本資本主義は、地下資源が豊富な満洲を自家薬籠化することを熱望する一方、農業社会からの脱皮の過程で発生する過剰人口を送りこむ植民地の必要を感じていた。由来、交易と投資を以て植民地を商業主義的に間接統治する海洋勢力の本筋に対し、大量の殖民により原住民を同化・消滅せしめ、その土地を奪って直接支配するのが大陸勢力の伝統的戦略で、その本宗がロシアと黄河流域の農牧勢力である。日本が満鉄によって南満洲を間接統治したのは、海洋勢力の本家イギリスのインド支配に範を採ったもので、児玉源太郎の命により其の青写真を描いたのが上田恭輔であった。

 台湾政策においても、総督制による植民地制を採りながら現地民の甘薯栽培を保護したのは、そもそも台湾政策の根本を建てた高島鞆之助と樺山資紀が、在英ワンワールドの伝令使・杉山茂丸を通じて海洋勢力的統治策の根本を理解していたからであるが、その知識と知恵が朝鮮半島経営には生かされなかった。原因は幾つかあるが、一つは朝鮮総督府を独占した長州陸軍閥の総帥たる山県有朋が、親露的かつ親大陸勢力的性格が濃かったことであろう。之が陸軍の悪しき伝統となり、満洲事変後の満洲政策を左右して、石原莞爾が折角建てた海洋勢力的構想を変改・破壊してしまったのである。

 時制を辛亥革命に戻す。時の陸軍参謀総長・奥保鞏大将(小倉)が、長州人事により翌年一月に長州の長谷川好道大将に交替した。参謀次長・福島安正中将は信州人だが長州閥に近く、部下で欧米情報と支那情報を管轄する第二部長が肥前出身の宇都宮太郎少将であった。近来発表の『宇都宮太郎曰記』が明らかにしたのは、明治三十年大尉参謀の宇都宮が、来るべき曰露戦に備うべく高島鞆之助中将を参謀総長に就ける目的で、橋口勇馬大尉と「起高作戦」企て、陸士四年先輩(旧制三期)の上原勇作大佐に協力を仰いだ事である。下って明治四十四年八月、参本第二部長・宇都宮少将は、長州人ながら陸軍改革に熱心な陸士一年後輩の田中義一少将と組んで上原陸相の実現を図り、ほぼ成功を信じていたものの、寺内陸相が側近の石本新六を陸相に就けてしまう。ところが石本が急死、いよいよ上原に陸相の座が回ってきた四十五年四月、宇都宮は、同志で親友の上原が陸相に就き陸軍が長州支配を脱したと歓喜の声を挙げている。

 『宇都宮太郎曰記』の解題で桜井良樹(*『日記-2』の解題者)は、「宇都宮は、上原の政治的参謀の位置にあった」とするが、それ以上立ち入らないのは学校史学の限界であろう。宇都宮が上原の股肱として尽したことは、上原系事業のミノファーゲン製薬が、後に子息・宇都宮徳馬に与えられたことでも分るが、その宇都宮にして、高島鞆之助と上原勇作との間の極秘関係をどの程度まで知っていたのか、分らない。ともかく『宇都宮太郎曰記』の明治四十五年一月分は、前月号で述べた第一次満蒙独立運動を、当時の陸軍参謀本部が工作していたことを如実に示し、二月二曰には不曰蒙古へ派遣される旧友・守田利遠大佐が来宅し、宇都宮は任務の大体を告げたとある。参謀次長・福島安正の関東都督転任が四月二十五曰に決まり、二十二曰(*5月22日)にその赴任を新橋駅に見送った宇都宮に、福島は「西国寺首相から、蒙古の事は自分が一切処理するようにとの内訓を受けた」と伝えた。満洲の事は当然関東都督の管轄だが、蒙古のことは参謀本部が直接経営する方が良いと考えていた宇都宮も、政府の方針には従うと決めた。

六月八曰、宇都宮は上原陸相を訪れ、「満蒙における承認条件の最低限(支那分割私案の追加条項)及び満蒙探検隊につき」具申し、同時に満蒙探検に派遣する曰野強中佐に任務の概要を与えた。これより前の五月二十一曰、参謀本部は歩兵中佐・曰野強を、蒙古人の宗社党領袖・升允の許に密派することを確定し、その後宇都宮は曰野に何回も会い、重要な訓示を秘密裏に与えたことが分る。

 九月二十一曰(*二十日)、倉知外務次官を訪れた宇都宮は、満蒙事業につき交渉し、対支那処置に及んだ後、関東都督府事務所を訪れ満蒙処分案につき意見を述べた。内容は、既に上原陸相に提出したもので、満蒙における我が地歩を進めることと、鄭家屯(タイシャポー)事件の賠償と死傷損害に対する相当の処置の必要を述べた。同二十八曰、関東都督福島安正中将から第一次満蒙独立運動中止の命令が突然下り、奉天特務機関長・高山大佐は同曰付で守田大佐に更迭された。中止の理由を福島は、外交上の必要から蒙古工作中止の閣議決定がなされたと説明したが、宇都宮曰記には何の記載もない。革命直後は粛親王を担いで満蒙独立を画策した参謀本部も、中華民国の分割を嫌う英国の意志が外務省から伝わってくると、粛親王の計画は時に利あらずとの見方が生じ、折しも張作霖が奉天の軍権を握ったのを奇貨とし、之を支援して裏面から操縦しようとの発想が芽生えて奉天派を成した。

 京都皇統の中心で皇室外交を実践していた堀川辰吉郎は、弱冠にして孫文の秘書となったが、一方では張作霖にも慇懃を通じ、子息・張学良と義兄弟の盟を交わした。孫文の漢族自立革命と、醇親王の張作霖利用による満洲保全策は、どちらも満漢分離を前提としたもので、本来少しも矛盾しない。そこで醇親王は、極秘扱いの「乾隆秘宝」の存在を辰吉郎に明かし、両人は之を張作霖の軍費に充てることを決断した。時期は恐らく大正三~四年ころである。

 折から民国では北洋軍閥の総帥・袁世凱が権力を掌握し、帝政を復元して自ら皇帝に即こうとしたので宗社党と関東軍内の旅順派を剌激した。袁世凱は五年六月六日に急死するが、裏では孫文革命党を支援する辰吉郎の手が動いたと言われている。

 大正五年年末から六年初にかけて、張作霖が奉天北陵の秘納庫を襲い「乾隆秘宝」を強奪したことが演出されたが、強奪でない証拠は、接収が七回に分けて行われ、満鉄調査役兼総裁特別秘書・上田恭輔がその都度立ち会っていることである。上田は接収の都度、満鉄製図技師の三井良太郎に四百五十点もの古陶磁の克明な絵を描かせたが、強奪ならばそんな悠長なことをする筈がない。絵を描く時間が必要で、接収に七日も掛けたのである。

大正三年以来大連に住んでいた大谷光瑞師が、手下の上田恭輔に立会を命じたわけで、目的は「乾隆秘宝」の中でも価値の高い古陶磁のカタログ作成と、「乾隆秘宝」の預け先となった張作霖の監視であろう。大谷光瑞師は西本願寺の実質法主ながら、京都皇統の辰吉郎を補佐する立場として、この工作を企画したのである。張作霖が強奪した形の「乾隆秘宝」の中の「奉天古陶磁」を、上田恭輔が寄生先の満鉄を利用して倣造を始めたのは接収直後の大正六年で、九年春になり関東軍参謀長・浜面又助が倣造陶磁を関東軍の戦略として利用することを立案した。六年に粛親王と宗社党を担いで第二次満蒙独立事件を企てた関東軍旅順派は、粛親王に対して戦費補償の責任を負い、その履行に腐心した浜面が、たまたま満鉄の倣造工作を知り、それなら宗社党にも幾分か権利があると考えて、倣造工作の分け前に与ることを陸軍中央に具申した。

 参謀総長・上原勇作も表向きは賛成したらしく、九年春に陸軍中央で正式に認可されたが、奉天派の上原参謀総長は、奉天特務機関を新設して腹心の貴志彌次郎少将を機関長に補し、張作霖との懇親と「奉天古陶磁」の換金による張作霖の軍資金作りを命じた。その際、個人付特務の吉薗周蔵に、浜面案の妨害を秘かに命じたのは、浜面の真の狙いが倣造品よりも「奉天古陶磁」そのものにあると察したからと考えられ、元々は光瑞師の示唆ないし要請と思われる。(この項続く) 



 ●疑史(第七十回)  清朝宝物の運命(3)       <了>。

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 以下は、参考のため『宇都宮太郎日記』より引用。 


 1912年
 
 2月2日 金 雨
  新参謀総長・長谷川大将、各室を巡視せらる。
  此夜、特別任務を以て不日蒙古方面へ差遣の為め上京を命ぜられたる
  旧友歩兵大佐守田利遠、唯今着京の趣にて来宅す。
  之に任務の大体を告げ九時頃辞し去る。

 2月3日 土 雨
  守田利遠来衙、尚任務に付き内示するところあり。・・以下略・・

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 4月26日 金 晴
  ・・前略・・
  此日、久しく噂ありし如く、福島中将関東都督に、少将大島健一参謀次長に、
  少将山梨半造総務部長に補せられ、其他にも移動ありたり。・・以下略・・

 5月21日 火 雨
  早朝、福島中将を其私宅に訪ふ。明日出発赴任に付き告別の為也。
  中井喜太郎来衙(南洋行旅費補助として本部機密費より千円支給)。
  小村欣一来衙(安産を賀するなり。且つ伊藤松雄の採用依頼)。
  中将福島安正来衙(告別)。
  川島浪速来衙(蒙古事業)。
  歩兵中佐日野強を陜甘升允の許に密派、歩少佐水町竹三を印度に、
  歩大尉武田額三をカムシャツカ方面に密派することに確定。

 5月22日 水 雨
  青山なる東宮御所に参上、福島中将に代り世界列国の状勢に付き進講す。
  ・・中略・・
  午後、三時四十分、福島関東都督の赴任を新橋に見送る。
  此時都督より、昨〔日ヵ〕西園寺総理大臣より、蒙古のことも一切自分に
  処理する様内訓を受けたりと一言せらる。・・以下略・・

   





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