カウンター 読書日記 2010年07月
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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)-2 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)-2           
  史的知見の上位集合体「薩摩ワンワールド」の具体像

 
 ★孝明天皇-堀川氏-玄洋社 京都に秘匿された皇統勢力 


 その理由を第十四条に、「水戸宰相・頼房は副将軍を賜るが、その意味は、将軍が国政を誤った時には老中・役人をして評定せしめ、水戸家の指図を以て尾州・紀州の両家から適任者を選び、将軍相続を奏聞することにある。万一両家に其の任に応ずる人が居ない時は、いずれの諸侯からでも天下を鎮めるべき器量を選んで奏聞すべきである。ただし奏聞者は水戸家に限るものとする」と規定している。この規定により、恰も「神聖ローマ帝国における選帝侯」の立場に就いた水戸家では、二代藩主・光圀以降、将来有り得べき将軍選定作業に備うべく、ひたすら歴史研究に勤しむこととなった。蓋し、水戸藩が彰考館の開設と「大日本史」編纂を始めた所以である。

 『南紀徳川史』の編者・堀内信が、「『公武法制』の原本は、ある秘本より抄出したものだが誤字が多い。秘密だったために転々筆写して来たものと思われる」と謂う通り、『公武法制』は江戸幕府の極秘法規であった。政体たる幕府将軍職の変更手続きを明定するその内容は、時の国家憲法そのものであるが、法制史上これを論じた学者を見ないのは、極秘に扱われてきたために、今日まで憲法学者がその存在を知らながったからであろう。

 ともかく、その内容を漏れ聞いた雄藩が、幕府将軍選定の事態に備え、秘かに対応策を巡らせたのは当然である。対応策の主柱は、南朝皇胤を秘密裏に確保し保護することにあった。蓋し、幕府将軍職が天子の信認を基とすることは国體上自明であって、そのために雄藩は自前の天子候補の確保を図ったのである。

 その天子候補が悉く南朝皇胤であったのは、選帝候たる水戸家が大義名分論に立ち、南朝正統説を宣揚したからである。彦根・井伊氏が擁した三浦氏は宗良親王系で、また防長毛利氏が保護した地家氏(大室氏)は護良親王の後裔が入った名和氏系と推量され、仙台伊達氏が擁した小野寺氏は長慶天皇系である。親藩では、水戸徳川家が会津藩に匿わしめた熊沢氏は、後亀山系信雅王の後裔で、熊沢蕃山の外祖父もその系統であった。紀州徳川家が、護良親王が調月村井口左近家に遺した子孫縁類を探索して異例の厚遇をしたのも、同じ意図であろう。

 維新を推進した薩長土肥の四藩では、長州藩が元治元年に楠公祭を挙行し、薩摩藩も同年楠公社の創建を企て西郷隆盛らが奔走した。肥前藩では副島種臣の実兄・枝西神陽が楠公義祭同盟を始め、土佐藩では武市瑞山が土佐勤王党を興して楠公精神を追慕した。維新の大業漸く成り、明治政府は国家を挙げて湊川神社を祀り楠木正成を顕彰したが、南朝皇統復活についてはどのようになされたか。これに関しては巷間数多の著書が出ており、インターネットにおいても盛んに論じられている。教科書史学とは氷炭相容れざる内容であるが、要約すれば、護良親玉五代孫を始祖とする地家作蔵の子の大室寅之祐が、長州藩の計らいで孝明帝皇太子・祐宮親王と入れ替わったと謂うものである。細部においては正鵠を得ないにしても、最表層より数層深いレヴェルの歴史事象が顕れたと観るべきであるが、その当否の判断は諸賢に俟つこととする。

 明治四十三年の教師用統科書の改訂に関して浮上した南北朝正閏問題が、明治末期の朝野を揺るがしたのは、翌年の大逆事件裁判で、幸徳秋水被告が南朝正統論と明治皇室の関係に言及したためであるが、問題の根底には世俗的勢力争い、即ち両皇統の配下の末端における角逐があったものと考えられる。とかく分業体制は末端における統合を避けられないから、東京皇室と京都皇統の二元体制の下で、実行勢力の間に軋轢が生じるのはやむを得ない。

 序に言えば、大正三年、中山忠英が★大日本皇道立教会を創立して初代会長に就任した。忠英は、文久三年(一八六三)天誅組の乱を首謀して失敗、亡命先の長州で十九歳で暗殺された中山忠光の遺児である。同会は、南朝を正統としてその皇道に沿う教育を行う主旨を掲げたが、真の目的は南北朝の融和、つまり東京皇室と京都皇統の末端に於ける親和にあった。歴代会頭には、大隈重信を初めとし大物華族が任じたが、創立者の中山忠英が急死したために、その業績は進展せぬまま昭和五年十一月十八日を以って創価教育学会に変身する。即ち後の★創価学会である。

 明治三十七年の日露戦争に際しては、玄洋社員が企画した満洲義軍を称する特別任務隊が、大本営参謀・福島安正少将の承認の下に、ロシア軍の後方を撹乱した。満洲義軍は、軍事探偵と特別任務(特務)に止まらず清人有志との提統をも図り、大本営幕僚・花谷仲之助少佐(陸士旧制六期・三十八年四月中佐)の指揮の下に活躍した。軍人・通訳五十五名に加えて、玄洋社員十四名が参加した満洲義軍は、明治三十七年六月には遼東半島安東県に入り、現地馬賊に呼びかけて四個隊を編成したが、その数は最盛時には五千人を数えたという。

 当時の現地馬賊の頭目には日本人が多く、「江崙波」こと辺見勇彦、「天鬼」薄益三、「鉄甲」根本豪などの名が巷間の馬賊書を賑わすが、彼等は満洲軍総司令部附・橋口勇馬少佐(陸士旧制六期・三十八年三月中佐、のち少将)の指揮下に入り、配下の満人たちを率いて活躍した。

 満洲一円の緑林(いわゆる馬賊)に日本人が多かったのは、満洲を対ロシアの地政学的最重要地とする国家的見地から、玄洋社が国事のために送り込んでいたのだが、同じく緑林でも、王文泰について知る人は稀である。王文泰は、後に大本教の開祖となる出ロナヲの次男として明治五年に生れた本名・出口清吉である。正に丹波大江山衆であるが、実は公卿・嵯峨家の出自と謂われる。嵯峨家は、当主・実愛が王政復古に尽力した上、嫡子・公勝の室に中山忠光★の遺児ナカ(南加)を迎えており、伏線が感じられるが、仔細は窺う由もない。

 日清戦争後の台湾島平定に際し、近衛上等兵として出征した清吉は、凱旋の帰途輸送船内で蒸発するが戦病死として扱われ、母・出ロナヲに弔慰金が支給された。五年後の義和団事変で、王文泰と称する日本人軍事探偵が顕著なる功績を挙げたと「京都日出新聞」が報じたが、それが出口清吉であった。その後満洲で緑林に投じた清吉は、三歳下の張作霖と出会い、頭目仲間として行動を共にする。清吉の活動が辺見勇彦らのように詳しく伝わらない理由は、辺見らと異なり日本陸軍に所属しなかったからであろう。張作霖と歩調を合わせた清吉は、満洲義軍に加わらず日露開戦時に旗幟を鮮明にしなかったが、これにも理由があるものと思われる。 

            
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)   <了>。 

  ★創価学会 等については、後ほど。

 

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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)-1
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)-1                         
  史的知見の上位集合体「薩摩ワンワールド」の具体像        ◆落合莞爾 

 
 ★孝明天皇-堀川氏-玄洋社 京都に秘匿された皇統勢力 


 これから述べるのは、日本近代史の実相である。明治維新を企画・推進した極少数の人士が、治世の最重要事として威重に隠蔽したため、後代の政治家は素より、専門史家すら全く知ることなしに、今日まで見過してきた歴史の秘事である。因って、教科書史学の説く所とは根本的に異なるが、十数年来、日本近現代史の裏面を探求してきた私(落合)が、世に隠れた事実に導かれて此処に至ったものである。

 史実の探求と偽史の訂正を積み重ねて辿りついた論理的帰結ではあるが、それだけでは何処まで行っても一種想像の産物に過ぎない。それを敢えて本稿で述べたのは、実は「其の筋」から裏付けを得ていたからであるが、記述が断片的ならざるを得なかったのは、日本近代史の真相の根源に横たわる「皇室の二元制」に、私(落合)としては直接触れたくなかったからである。俗に謂う【情報源の秘匿】である。

 先人が史実を敢えて隠蔽し、時には偽史さえ行ったのは、素より治世上の理由で、それを公開するのは流石に躊躇された。だが通説を黙過すれば真実は歪んだままで、世に虚偽を伝える偽史に加担してしまうから、断片的にせよ語らざるを得なかったのだが、今般「その筋」から示唆があった。「今や公開の時に当たれり」と謂うものである。

 以下、二〇世紀世界史の一大要因で、今から世界史的意義が顕れると考えられる満洲問題から語り出すこととしたい。

 日露戦争の結果、日本の国力を目の当たりにした愛新覚羅氏は、満洲族の将来を賭けて日本に接近を図った。漢族自立が眼前に迫る中を、今後の満洲政策を諮るために西太后は、重臣・袁世凱を代理人として折衝に当たらせたが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて之に応対せず、愛新覚羅氏との折衝に当たったのは、孝明帝の血統を継ぐ堀川辰吉郎を奉じる京都皇統勢力であった。明治元年、維新政府は徳川氏の江戸城を東京城と改称し、新たな住居として新帝明治天皇が住すこととなったが、先帝孝明天皇の血を継ぐ一部皇統は秘かに京都に残り、公卿・社寺・公武合体派など幕末以来の諸勢力の輔翼を受け、東京皇室と維新政体が直接関わることが難しい特殊な国事に当たることとされたからである。

 京都に残った皇統の中核は、俗姓堀川を称する辰吉郎で、後見人に杉山茂丸(一八六四~一九三五)が選ばれて以来、杉山の拠る玄洋社が辰吉郎支援勢力として台頭した。その背景は、玄洋社の母胎・黒田藩が幕末に薩摩島津氏から藩主を迎えて血統を変じ、島津氏の別派と化していたからである。茂丸は龍造寺の男系杉山姓を称したが、実は島津重豪の九男で黒田藩主となった黒田長溥(一八一一~一八八七)の実子で、島津重豪の実孫でもあるから、島津斉彬・久光兄弟の父・斉興とは従兄弟の関係にあった。長溥が実子茂丸を龍造寺系杉山家に入れ、藤堂家から長知を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮は、無論教科書歴史の所説とは全く異なるが、これを理解せざれば日本近代史の真相を得られない。

 維新後、在野志士を志した黒田藩士が結成した政治結社・玄洋社は、社長に頭山満・平岡浩太郎を仰いだが、隠れた社主は茂丸であった。辰吉郎は杉山茂丸を傅役として福岡で育てられた後、上京して学習院に通う。皇族・華族の子弟教育を専らとして、平民の入学を初等科に限った当時の学習院に、辰吉郎が入学したことは、その貴種たる証である。長じた辰吉郎が、わが国の皇室外交と国際金融政策を秘かに担う次第こそ明治史の秘中の秘で、これを知る者は今や杉山家の周辺にさえほとんどいないが、その観点から史書を渉猟すると、痕跡は随所に散見される。一例は、明治三十二年日本に亡命してきた清国人革命家・孫文を支援するため、辰吉郎が孫文の秘書となり行動を共にした事である。孫文が、常に身辺に伴う辰吉郎の正体を日本皇子と明かすことで、清人間における信用を高め得たのは、素より玄洋社の計らいであった。

 要するに京都皇統は、清朝倒壊後の満洲の宗主権保全を図る愛新覚羅氏(西太后没後、その中心は光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父・醇親王載澧)と、満洲族支配を倒して漢族独立を図る革命家・孫文の双方を支援したのであるが、両者の目的は同じく満漢分離の実現にあり、両立は本来可能であった。

 漢族の自立革命によって成立した中華民国は、孫文の掲げた民族自立主義を実際に貫徹しなかった。中華民国が漢族の純粋民族国家でなく、漢族主体の多民族国家(中華思想に拠る合衆国)になったのは、当時の国際政治の現実がもたらしたもので、あくまでも結果である。

 
 ★愛新覚羅氏との密約で紫禁城に住んだ辰吉郎 

 
 ともかく愛新鋭羅氏と京都皇統の密約は具体化し、杉山茂丸らの苦心の結果、辰吉郎は明治四十三(一九一〇)年紫禁城に入り、内廷の小院に住んだ。その間、辰吉郎が喫緊の要地たる満洲をしばしば探訪したのは当然で、情報誌『月刊みち』紙上に、安西正鷹が「辰吉郎は満洲の覇者張作霖と泥懇になり、その長子・学良と義兄弟の盟を結んだ」と述べているのを、否認すべくもない。

 辰吉郎はまた、国民党ナンバー・ツーとして終始蒋介石を支えた張群の長子に愛娘の一人を嫁がせたという(中矢伸一 『日本を動かした大霊脈』)が、孫文の死去後も国民党との関係が途絶えなかった一証であろう。また、他の愛娘は富士製鉄(現社名・新日鉄)の創業者で日本財界の重鎮となった永野重雄の子息・辰雄の室に迎えられた。前首相・鳩山由紀夫の父鳩山誠一郎(大蔵事務次官・外相)が辰吉郎に親炙した事も、辰吉郎の出自を黙示するであろう。

 それもさることながら特筆すべきは、辰吉郎が世界各国で、ことに王室内部に、その子供を残した秘事であろう。欧州各王室は婚姻政策に拠って緊密に結びついているが、国體を慮って王室連合加入を躊躇う東京皇室に替わり、辰吉郎が裏面で実践したわけで、これぞ皇室外交の真髄と謂うべきである。

 明治維新は、西南雄藩の下級浪士を中心とする志士たちが、日本社会の近代化国際化を目指し、政体の変改を希求して推進したものである。薩長土肥の諸藩において維新志士たちの拠ったイデオロギーは「楠公精神」で、楠木正成が後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒した「建武中興」に政体変改の模範を求めて、その再現を図ったが、彼らの目的を政体変改だけに限るのは表層的理解である。楠木正成の思想は、南朝皇統を正統とする名分論にあったから、楠公精神を標榜した志士が目指したのは、江戸幕府打倒と王政復古による単なる政体変改でなく、南朝(大覚寺統)の復活と北朝皇統との交替にあった。

 皇統の交替は「国體」の変改をいささかも意味しない。皇室の相続に関する問題は、国體観念には影響しないのである。そもそも日本の国體は、日本列島に人間が住み着き社会を成して以来、徐々に醸成され、連綿と受け継がれてきた観念で、国家社会の在り方の根本を規定するものである。有史以来、「政体」には幾多の変動があったが、国體に変改はなかった。つまり国體の観念は「日本」と一体不可分で、国體が厳として存する限り日本は存続し、日本が在る限り国體がそれを支えているのである。

 後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、天皇親政の「建武新政」を建てたが、この新政体は歴史進展の法則たる封建制の進行には逆らえず、直ぐに崩壊して足利氏が室町幕府を開く。足利氏が開府に当たり皇室の信認を必要としたのは国體上当然であるが、幕府将軍に就いた足利氏は、両統迭立の先約に背いて、持明院統(北朝)のみを皇室とした。大覚寺統はこれに対し、吉野などの天嶮に拠って南朝皇室を立て、北朝と対立したので、茲に両統が並立する事態を招く。両統の対立は鎌倉時代に皇室の内紛から生じたもので、幕府の仲介により、迭立(たすき掛け相続)を合意したが、貫徹できないために此処に至ったので、固より変則事態ではあるが、国體自体を損壊するものではない。

 名分論に立って室町時代以来の北朝専立を改め、南朝の復活を目指す動きは、江戸幕藩体制にも潜在していた。元和元年、大坂夏の陣により徳川氏が覇権を確立するや、徳川家康は「元和元年八月應勅」と銘打った『公武法制』を定めた(『南紀徳川史』)。其の第十二条に、「尾州大納言義直と紀州大納言頼宣両人は将軍と並んで三家と定める。これは将軍が万一傍若無人の振舞を致し国民が迷惑する時は、右の両家から代りが出て天下政道を治めるためである。このため両家は、諸賦役を免除されて官職従三位を賜り、尾州は六十二歳、紀州は六十六歳で大納言を賜り、国中の諸侯は将軍に準じて尊敬致すべきこと」と定めている。つまり、徳川御三家とは本来、幕府将軍家及び将軍職の直接継承資格を有する尾張家・紀州家の三家を指すものであって、水戸家は入らない。

     続く。
  

 

●疑史 第69回 清朝宝物の運命(続)
                       真珠湾の審判 _1


 ●疑史 第69回 清朝宝物の運命(続) 

 明治末期、海洋勢力と大陸勢力の地球的規模の角遂、即ちグレートゲームが織り成す世界史は、従来両勢力の緩衝地帯であった中近東を統治していた中世帝国オスマン・トルコの解体に向かっていた。複合民族国家オスマン・トルコの支配階級はトルコ種で、スラブ・アラブ・イランなどの諸種族を統治していたから、海洋勢力の本宗イギリスは、民族自決を標榜してこれら諸民族にオスマン・トルコからの独立をけしかけ、封建領主に対する露骨な軍事援助により、多くの民族国家を樹立せしめた。

 同じく複合民族国家の大清帝国は、支配階級は満族及び縁戚関係にある蒙古族であったが、領土領民の大部分は漢土漢族であった。客家の孫文が革命を指導し漢土(中華本部)における漢族の自決を実現したが、旧清国はあたかも乗っ取り合併によって成立した企業集団を再分割するにも似た状況となり、漢族自治から排除される側の満蒙族の故地と人民に付する統治権の帰趨が問題となった。

 矢田行蔵・『満蒙独立秘史・紀州出身軍人の功績』によると、辛亥革命から三ヶ月経った明治四十五年の初春、北京では川島浪速が粛親王を擁し、満蒙を打って一丸とする新国家建設の計画を建て、蒙古王族のカラチン王やバリン王と往来して議を進めていた。粛親王の義弟カラチン王の所論は、「元来蒙古は支那の一部ではない。清朝そのものから恩顧を被った為、その統治に服したのであって支那の国家そのものとは何らの関係はない。今、清朝が亡びた以上、蒙古は当然支那とは関係なしに、独立すべきものである。しかしながら、蒙古にはその実力がないから、日本の支援によって、それを実現しなければならない。仮に民国が満洲朝廷を倒して、漢人の土地を快復するのは当然とするも、その為に蒙古まで自国の領土と見るようなことは、丁度他家の遺産を自分の所有とするも同然で、甚だしい誤りと云わねばならない」と謂うもので、パリン王も之に共鳴し、また自領が満州に接していたヒント王も同様であった。

 海洋勢力の傘下に入り、大陸勢力の本宗たる帝政ロシア及び黄河流域勢力に対抗して極東の確保を担った日本は、漢族革命後に対処するため同年一月、参謀本部が高山公通大佐を参本付に補して北京に派遣すると、川島浪速が上の計画を明かしてその賛意を取り付けた。ここに日本は、中近東におけるイギリスの相似象を成すこととなったのである。高山大佐の指揮下に入った多賀宗之少佐と松井清助大尉は、宣統帝の熱河蒙塵の噂を聞き、身柄を途中で奪取して満蒙新国家の君主と仰ぐ計画を立てたが実行できず、代案として世襲親王家の粛親王を二月六日に旅順に落とし、之に応じて奉天将軍兼東三省総督・趙爾巽が起つことになった。高山大佐は参謀本部次長・福島安正中将に、
「粛親王兄弟は満洲蒙古において勤皇軍を起し、祖先の地に拠り他日民国の離散するを待たんとす。この北方に興る一国は一に我国の援助によるに至らんとす。右につき内地当局にたいし適当の御尽力ありたし」 

 と打電したので、福島次長は高山らを奉天に移転させて、配下の人数も増やした(これを以って奉天特務機関の嚆矢となす)。漢族の養子だが祖先が満族の趙爾巽は、国体護持を主張して清朝支持を明確にし、歩兵統領・張作霖・呉俊陞に命じて革命派と対立させ、満洲の革命派をほとんど消滅せしめた。

 ところが二月十二日宣統帝が退位し清朝が崩壊すると、趙爾巽は機敏に袁世凱支持に回り、新政府の奉天都督(東三省総督の後身)に就いた。呉俊陞・張作霖も軌を一にして、袁世凱と趙の新体制を支持したので、粛親王・川島らは一挙に孤立した。

 北京では松井清助大佐と木村直人大尉が蒙古独立工作を画策していた。カラチン王・パリン王・ヒント王ら蒙古王族を主体にして蒙古軍を結成し、日本から運んだ武器で蜂起させ、各王の領地を中華民国政府から独立させて新政権を建てる計画で、新たに派遣された貴志彌次郎中佐が多賀少佐と協同して日本での武器調達を担い、松井が武器の秘密輸送計画を練り、これに日本人馬賊薄天鬼(益三)が加わった。五月二十五日に武器輸送を開始し、支那荷馬車四十七台からなる輸送隊が、松井大尉の指揮下で薄天鬼に護衛されて公主領を出る。多賀少佐も追って公主領を出発、途中奉天に立ち寄り、高山大佐と貴志彌次郎中佐に会って画策した。

 しかしながら、松井らの軍事行動は早くも民国官憲の注意を引き、奉天都督・趙爾巽の知るところとなった。蒙古独立軍は、趙都督武力阻止命令を受けた鄭家屯の歩兵統領・呉俊陞とタイシャポーで衝突し激戦となるが、奮闘空しく松井たちは民国官兵に捕縛される。この時貴志と高山が時計その他貴重品を売り払って仕入れた阿片を賄賂にして、ようやく簿天鬼たち捕虜を救出することができた。銃殺寸前九死に一生を得た松井らは六月二十六日生還し、その後も独立工作を続けたが、九月二十八日に関東都督・福島安正中将から突然中止の命令が下り、奉天特務機関長・高山大佐は同日付で守田大佐に更迭された。中止の理由を福島は、外交上の必要から蒙古工作中止の閣議決定がなされたと説明した。

 以上が第一次満蒙独立運動(タイシャポー事件)のあらましであるが、陸軍中央が突然中止命令を出した背景について、巷間数説ある。
  その一は、漢・満・蒙の一体国家を望んでいた英国が満蒙独立を妨げるため誘導したもので、日本政府日英同盟の下で海洋勢力(在英ワンワールド)の指揮に従わざるを得ず、支那通軍民の活発な活動も政府の外交方針に影響を与えることはなかったと謂う。
 その二は、陸軍中央が革命政府を支持しており内政干渉を避けたとの説であるが、革命により漢族主権を恢復した中華本部の安定が海洋勢力にとって望ましいにしても、元来中華本部に含まれない満蒙の独立は漢族自立にはむしろ資する筈で、その点で肯い難い。さらに日本政府が日露協商に向けてロシア側に配慮したとの説は一応理に適うにしても、所詮イギリスの意向を無視して出来ることではない。

 注目すべきは、海洋勢力は当時から満洲をユダヤ族究極の安住の地として予定しており、その大目的のために日本の関与による満蒙独立を排除したと謂う説で、その後イギリスがバルフォア宣言によりパレスチナにユダヤ国家を作ったのを見ると、あながち否定できない。

 高山は独断専行の咎めを受けて同年九月、歩兵第二連隊長として内地に召還され、多賀少佐が残って(表向きは九月付で福州駐在)蒙古諸王との連絡に任じた。多賀は辮髪に支那服を纏って賀忠良と名乗り、その後も大正二年十月から数ヶ月の第三連隊付少佐以外は、漢土に常在して軍政官や軍事顧問を務めた。正にアラビアのロレンスの相似象である。

 手元に、昭和九年頃に作成された『粛親王家對川島家事件概略』と題する文書があるが、書き出しは「明治四十四年清国の崩壊により、故粛親王は難を旅順に避け、密かに清朝の再興を謀りたり。大正四年に至り、当時の総理大臣・大隈伯の斡旋により、大蔵喜八郎男より金百万円を借りて、いわゆる蒙古軍事件を起したりしが、不幸にして失敗に終れり。その後日本国軍部より粛王府に更に軍事費補償の意味で五十万元を支給せり」とある。

 第二次満蒙独立運動は大正四年、袁世凱の帝政復帰に反対する大隈内閣の方針を受けて、川島浪速が企てたもので、関東都督府陸軍部(後の関東軍)をはじめ、現役・予備役の軍人と民間の志士浪人が多数加わっていた。入江種矩大尉指揮の下に粛親王の第七王子・金璧東を奉じる馬賊隊が、打倒袁世凱の義旗を挙げる一方、青柳勝敏大尉が蒙古の英傑パプチャップの軍政を指導して満洲に侵入、その虚に乗じて木澤暢大尉が一挙奉天城を占領するという計画で、これに先立って、袁世凱と通じる奉天督軍・張作霖の暗殺を予備役少尉・三村豊と民間志士伊達順之助・志賀友吉が企てたが、失敗した。

 挙兵に先立つ六月六日の袁世凱の突然死により、大隈内閣は方針を一変して満蒙独立計画の中止を命じたが、パプチャップの蒙古義軍は既に活動を開始していた。七月二十二日に内蒙古の突泉県で洮南鎮守使・呉俊陞
麾下の民国官軍と衝突した蒙古義軍は、以後連日の戦闘の末、八月十四日に郭家店を占領したが、日本政府の変心により、進退窮まるに至った。参謀本部は閣議決定を受けて、蒙古軍を無条件で撤兵させるため、支那課長・浜面又助大佐を急遽現地に派遣した。孤立無援となり武器もない蒙古義軍を素手で放置すれば、帰還の途上で民国官兵により殲滅されるのは必至と見た浜面大佐は、職を賭し独断を以って砲四門と小銃二千四百挺を義軍に与える。九月二日に郭家店を出発した蒙古義軍は、途中民国官兵と戦いながら林西城に至り、十月六日熱河都督麾下の林西鎮守使軍と交戦するが、この戦闘においてパプチャックが戦死し、第二次満蒙独立運動は終わりを告げた。

 この混乱の中、八月付で西川乕次郎少将に替わって歩兵二十五旅団長・高山公通少将が関東都督府参謀長に補せられた。関東都督は二年前に福島安正から中村覺に交替したが、関東都督府を策源地として粛親王と同心の上満蒙独立運動を推進した彼らは旅順派と呼ばれた【先月号で大連派としたのは誤り】。浜面又助もその一人で、七年七月付で高山に替わって関東都督府参謀長となる(八年四月に関東軍参謀長と呼称変更)。

 『粛親王家對川島家事件概略』には、満蒙独立運動の結果、粛親王府に残ったのは、政商大倉喜八郎からの資金と陸軍機密費を合計した百五十万円から諸費を差し引いた四十五万円であった。粛親王側ではこれを年八分で満鉄に預ける案を立てたが、川島浪速が反対し実弟の鉱山事業に投資すると称して費消してしまう。これを座視できない関東軍参謀長・浜面又助は、粛親王ら宗社党の支援のために関東軍で裏金を作った。大正八、九年頃、関東庁殖産課長・黒崎貞也とともに関東軍司令官・立花小一郎に談じて賛同を得たうえ、司令官より関東長官・林権助に商談して貰い、大連の土地五万三千坪を粛親王に貸下げ、その又貸しで親王に利益を得せしめるに至った経緯が述べられている。

 粛親王を担いだ旅順派に対して、張作霖を支援したのが奉天派である。奉天派の頭領は明治四十五年四月から十二月まで陸相に就いた上原勇作で、一年余の病臥の後大正三年四月に教育総監、四年二月に参謀総長と陸軍の中枢にいた。上原が奉天派たる所以は高島鞆之助の後を継いで在英ワンワールド薩摩支部のグランド・マスターであったことにある。実効支配に重きを置く国際法からして国際社会が認めた民国政府を混乱させるのは得策ならずとする外務省も奉天派に与した。

 上原の上には京都皇統の堀川辰吉郎が居たのだが、それを知る者は極めて少ない。辰吉郎は、光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父・醇親王と秘かに結んでいて、ここから「乾隆秘宝」問題が生じて、大正九年奉天特務機関長・貴志彌次郎少将が活躍するのだが、今月の紙数は尽きた。 

 

  ●疑史 第69回 清朝宝物の運命(続)  <了>。
  

 





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