カウンター 読書日記 2010年06月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)-2 
 
 ★原敬暗殺を嘆く周蔵 頭山満が漏らした一言 


 昭和八年十一月八日上原は他界したが、周蔵は裏の配下の立場上表立って葬儀に出られず、翌年の命日に上原邸を訪ねると、同じ立場の人物が来ていた。

 ■『周蔵手記』別紙記載(原文カタカナ/縦書き)
 閣下の葬儀には 堂々と出る訳にもいかん と思ひ、翌年の今 自宅を訪ねると 偶然中野と頭山が来てゐたのに驚く。こいつらも 全く表にはやふ見えんから、今頃閣下の墓に腹探りの挨拶だらふが、金目の物でも捜すつもりか、何ぞ 家捜しをしたらしい。
 帰りがけ 「お前の調査だったらしいな。あの原敬事件の基は。上原さん あれ 俺に流して呉れて 俺が一寸動いたよ」と云はる。
 調査によって あんな立派な首相を死なせたかと 後悔す 後悔す

 玄洋社の巨頭・頭山満と議会政治家として鳴らした中野正剛が、上原の一周忌を待って故人邸を訪れ秘かに弔意を表したのは、それほど玄洋社は上原ないし薩摩ワンワールドとの関係を表面に見せたくなかったのである。これが、私(落合)が洞察によって得た史的知見の上位集合たる薩摩ワンワールド説の一証を成すが、薩摩と玄洋社の秘密関係を裏付ける事実は、この他にも『周蔵手記』の中に断片的に出てくる。即ち、玄洋社軍人・明石元二郎が上原の股肱を自任し、長州閥を心底無視していたことで、これを証明するのは日露戦争時の秘話である。ロシアの後方撹乱を担当したスエーデン大使館付武官の明石大佐が、参謀総長・山県元帥はじめ長閥が支配する参謀本部に対して、工作資金として百万円を要求したが、参謀本部には秘密裏に、西本願寺の大谷光端師から一千万円を受け取っていた。明石は、光端師の資金は全額を費消したのに、参謀本部の資金は二十五万円を使い残して返金したのである。

 つまり明石大佐は、表面上では参謀総長・山県元帥に服従したかに見せ、心底で真の上官と仰いでいたのは別人であった。その後の人間関係から観て、其の人は上原勇作(当時、少将で野津第四軍参謀長)と見るしかない。この知見から洞察されるのが、後に上原を首頭と仰ぐ薩摩ワンワールドの存在で、そこで上原の経歴を閲すると上原を育てた高島鞆之助中将が浮上し、高島に焦点を当てると、高島こそ明治中期以後の薩摩ワンワールドの首頭であったと断ずるしかなくなる。更に遡れば薩摩三傑の生き残り吉井友実に行き着き、これにより、史的知見の上位集合体として、薩摩ワンワールドの具体像が把握されたのである。


 ★忘れられた重要人物・杉山茂丸と【謎の貴公子】堀川辰吉郎


 薩摩ワンワールドが在英海洋勢力の一角を担い、英露の地球的規模での地政学的対決いわゆるグレート・ゲームとして日清・日露の両戦役を遂行したことは容易に洞察されるが、両戦役に至る過程を閲すると、これに大きく関わった怪人物が目につく。即ち杉山茂丸である。その事績は明治期のどんな大政治家、いかなる大実業家よりもよりも広範囲で、しかも国事に偏っている。唯一の異例は、元老・井上馨の協力を得て安場保和を福岡県知事に就け、石炭の大鉱区を玄洋社に払い下げさせて、その財源を作ったことである。しかし玄洋社は、政府や正規軍が表向き関与できぬ大陸政策の実行部隊として作られた民間国事結社であるから、その財務基盤を創ったことは、やはり国事中の国事である。更に特筆すべきは、日本の工業化を進めるための興業銀行創設を叫んだことで、渡米した茂丸は金融王・J・P・モルガンに直接会って、巨額の融資予約を取りつけた。外交政策では、軍備拡張を唱えて薩摩派を支援し、敢えて選挙大干渉を行わしめた。しかも戦後の講和談判において、伊藤内閣の方針であった遼東半島領有に反対を唱え、外相・陸奥宗光の宿舎に押し入って、講和案の動向を監視した。以上すべてが一介の黒田浪人の着想すべき事ではなく、仮りに着想したとしても当路や周囲が相手にする筈なく、茂丸の本姓の鑑識が必須となる。以下は私(落合)の洞察でなく、さる筋からの伝達である。洞察だけでは細部を特定できぬ故、最後は伝達を仰がざるを得ない。

 茂丸は、実は福岡藩士黒田長溥の実子で、したがって島津重豪の実孫であった。つまり茂丸は裏の黒田藩士として玄洋社のオーナーとなり、国事を推進したのである。島津氏から養子に入った長溥が藤堂家から養子を迎え、実子・茂丸を竜造寺氏男系の杉山氏に入れた所以は、「明治維新」というヨリ高次元(上位)の史的知見集合体に属するというから、目下の本稿の範囲でなく、ここで述べることが出来ない。

 かくして、『周蔵手記』から得られた薩摩ワンワールドと謂う史的知見の集合体を、更に上位に進めるには、杉山茂丸を洞察する外ないことが分かった。そこで杉山の事績を閲する時、特異な位置に在るのが、謎の貴公子・堀川辰吉郎である。幼時玄洋社で育てられ、長じて学習院に入学した辰吉郎は明治三十二年弱冠二十歳にして、日本に亡命してきた清国の革命家・孫文の秘書となった。以後は形影相伴う辰吉郎を孫文が「日本皇子」と紹介したため、清人間の孫文に対する信用が飛躍的に高まり、革命の実現性が高まったことが知られているが、これは孫文を支援した玄洋社の計らいであることは明らかである。

 ここで辰吉郎の本姓鑑識が必要になるのは当然である。結論から説くと、辰吉郎は明治十三年に堀川御所で生まれた。実父は孝明帝の血筋である。堀川御所は堀川六条の日蓮宗本圀寺の旧境内に、明治天皇の京都行在所を名目として設けられたが、その実は、維新後も京都に留まった孝明帝の京都皇統の住居であった。明治二年、宮廷改革を図った薩摩三傑即ち西郷隆盛、吉井友実、大久保利通により、孝明帝以来の古参女官が宮中から追放されて京都に留められたとされるが、実は京都皇統に奉仕するため、堀川御所に入ったのである。辰吉郎は井上馨の兄・重倉の五男として戸籍を作ったが、生地に因み堀川姓を称した。以上は、私(落合)の洞察ではなく去る筋からの伝達である。さらに興味のある人は月刊情報誌『みち』★の栗原茂論文を参照されたい。

 明治以後のわが国体は、明治皇室と京都皇統の二元方式によって運用された。京都皇統こそ薩摩ワンワールドと杉山茂丸、玄洋社などを下部集合として含む史的知見の上位集合である。薩摩ワンワールドは在英海洋勢力の一角を占めるが、その本質は国策遂行団体で、英国筋からの伝達は杉山茂丸を通じていた。茂丸が薩摩ワンワールドの誘導者になったのは、辰吉郎に最も近かったからである。京都皇統に属する下位集合として、他には大谷光端師が率いた京都社寺勢力、孝明帝と同系の鷹司家を初めとする旧堂上の一部、光格帝の生母・大江巌代(大鉄屋岩室氏)に由来する丹波大江山衆(穴太上田氏・大本教)、公武合体を進めた会津松平氏・紀州徳川氏が存在した。その実態と活動を追究するのが、今後始まる本稿第三部の作業である。 


  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)  <了>


  ★『みち』 月2回刊
  発行:文明地政学協会 TEL・FAX 03・5951・2145 





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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)ー1 ◆落合莞爾
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)ー1 ◆落合莞爾 


 ★「張作霖がをらなくなれば、満洲を思ふままにさせる」

 
 平成八年一月、偶々観ることが出来た『吉薗周蔵の手記』の内容に驚愕した。手記であるから総論あるいは解説に当たる部分がなく、すべて具体的な行動と見聞の記録である。その内容が史家の通説と微妙に、時にはかなり異なるから、内容の真否の検証から始めた。僅か一行の記載でも、公開史料に照らしながら論理的に質すと、その意味が次第に浮上してくるが、テニオハ一つでも原文の文意が変化するから、一字も忽せに出来ない。当初は、私的感情・私的史観は固より、史的通説を一切排して文理的解読に徹し、公開史料と口碑伝聞に照らして解釈を施した。これを本誌(『ニューリーダー』誌)に百十八回続けたのが本稿の前半で第一部に相当する。

 一年の休稿期間の後、第一部で得られた史的知見の相互間の有機的連関の研究に取りかかった。第一部の各個別知見は、より上位の史的知見の集合体に属し、その集合体がさらに上位の集合たる「歴史実体」に属するので、アーサー・ケストラーのいわゆる<ホロン構造>である。歴史実体の解明はまず個別知見相互の有機的関連性明らめる作業から始めねばならない。即ち現在連載中の第二部であるが、この作業の基本は一に懸かって洞察である。

 洞察によって個別知見相互の有機的関連を仮定し、之を用いて公開史料や口碑伝聞を検証すると、今まで見えなかったものが見えてくる。つまり、同じ史料であっても旧来の意味と異なる意味が観えてくるが、そうなると、荒唐無稽に見えた口碑伝聞にも実質が備わって来て、貴重な資料性が保証されるのである。一例を挙げる。

 『吉薗周蔵手記』
■昭和二年十月条(原文カタカナ・横書き)
 張作霖を弾かふと云ふ話が田中(義一)の方にあると云ふことを、自分は耳に入れている。但し、アテにはならない。

 ■昭和三年六月条
 張作霖死亡の事 聞く。一体だふなっているのであらふか。誰かに聞きたいが 甘粕(正彦)さんをらず、話せる人はなし。(中略)
 自分は 去年の内に 張作霖始末の事、中野(正剛)の女から拾った。
 一応は種元を明かさず、張作霖始末の噂ありと、閣下(上原勇作)には出した。(中略)

 その女の情報だから、自分も 半分は信用できなかった。私娼窟崩れの女だし、所詮は 自分のことは裏切るだらふと思っていた。然し 女の云う通りであった。(中略)
 女の云ふには 田中義一は 蒋介石と交換条件にて 決めたと云ふ。
 張作霖がをらなくなれば、満洲を思ふままにさせると 云ふことだらふ。 


 ★張作霖爆殺は田中義一と蒋介石の密談で決まった 


 要するに、関東軍による張作霖爆殺は、昭和二(一九二七)年十一月五日の田中義一青山私邸における田中―蒋介石会談で田中が決めた、と『周蔵手記』は謂う。国民党首頭を名目上引退して来日した蒋介石が首相・田中義一との直談判を望み、「張作霖を消してくれれば満洲を任せる」との条件を出したので、田中は之を応諾した。これが『周蔵手記』がもたらした個別知見である。

 外務省には田中側で通訳に当たった佐藤安之助少将が作った当日の議事録が残されているが、これを単純に文理解釈すれば上記の知見は容易に裏付けされる。そこで私(落合)は先年この件を『新朝45』に発表したが、読者の反応は鈍かったようだ。理由は幾つかあろうが、まさか荒唐無稽と受け取られたわけではあるまい。仄聞する処、某元大使が拙稿を読んで、「私もあの議事録を読んだが、そのようには取れない」と説いたと聞くが、ではどう読むというのか。

 蒋介石が、軍事指導失敗の負責を称して国民党委員長を辞任したのが
真っ赤な偽装だったことは、その後の行動から明白で、これも上記知見を支える一証明である。また、『蒋介石秘録』で蒋介石が語る青山会談の模様は、重要部分が佐藤の記録と背馳しており、下手な作り話であることは誰にも分る筈だ。佐藤は会談の重要性に鑑み、田中と蒋のやり取りを忠実に記録したと見るべきで、文面に「張作霖を殺してくれ」の明言はないが、意図的に削除したものではあるまい。蒋の意向は根回しの段階で田中側に正確に伝えられており、青山会談は田中がそれを直接確認する場であるから、会談で実際に用いる用語を予め打ち合わせていたと洞察すべきである。即ち佐藤の記録の表現には通諜虚偽表示的要素があるが、文理上意味が充分に通じるのである。某元大使は、あえてそれを曲解することで、何かを守ろうとしているのであろう。

 蒋の依頼を受けて田中との会談を根回ししたのは松井石根中将で、明治四十年から四年間の清国差遣中に孫文の大アジア主義に傾倒した国民党シンパの代表格で、蒋介石とは親交あり、一方で田中義一側近として大正十四年五月から参謀本部第二部長の要職に就き、この難事に最適任であった。おまけに実弟・松井七夫は大正十三年から張作霖顧問で、その動静を把捉出来る立場であった。親中派の松井石根は、国際政治の見識を買われて予備役中に召集を受け、上海派遣軍司令官に補せられ、戦後南京事件(いわゆる南京虐殺)の責任を取らされてBC級戦犯として絞首された。松井の無実を陳情された蒋介石は、「閣下は日本軍全体の責任を被られたのでやむを得ない」として動かなかったが、後に訪台した岸信介に対して、「冤罪であった」と泣いて其の死を悼んだという。これは洞察と謂うより想像だが、強引な戦犯容疑による松井の死刑は、青山会談の口止めと観ると辻棲が合う。

 ところで、『周蔵手記』による本件知見と矛盾する史料が最近出てきた。張作霖暗殺を赤軍特務が実行したとする旧ソ連の秘密文書である。暗殺現場の状況自体が関東軍犯行説の強固な物証であるから、赤軍説は俄かには首肯し難く、出先諜報員の赤軍本部に対する誇大な功名話に過ぎぬと謗る筋もある。ところが意外にも、私(落合)の重要情報源が支持しているから、丸きりの作り話でもなく何らかの実はあるのだろう。 


 ★あの中野正剛も玄洋社も上原勇作の支配下にあった 


 上記は公開史料の話だが、本件に関する口碑を最近仄聞した。維新の功労者で明治末まで日本政界の最上層部にいた人物の末裔で尊父も大正政界を往来した方が、「蒋介石が満洲を呉れると言った」と端的に言われたと、知人から聞いた。面白い事に、この方の父と某元大使の親族は、大正時代には貴族院に座を占め、政治的にも極めて近い間柄であった。本件の真相を知りながら公言を避けるのは、おそらく何かを守るためで、それは某元大使と共通する階級的利益で、両氏の差異は程度の差ではないかと思う。同じような口碑伝聞は、注意を払っておればどんどん集まってくるから、それらを整理・統合して歴史実体を掴むのが、本稿第三部の作業であるが、私(落合)一人の手に余る。

 第一部で得た個別の史的知見は相互に矛盾せず、密接に関連している。例えば上例ではどうか。周蔵は、在仏ワンワールドの一派に傾倒する薩摩治郎八の動静を探るため、薩摩の秘書を尾行したところ、新宿の私娼窟いわゆる歌舞伎横町に入ったので、一計を案じて娼家の主人を買収し、秘書の馴染みの敵娼から、秘書のピロー・トークを引き出した。偶然にもその私娼窟で遭遇したのが、病気のために中野正剛に捨てられ、身を落としてきた多喜である。周蔵は、多喜に客を付けぬよう主人に頼み、二百円で身受けして奥多摩の寺で療養させた。病気を治して容色以前に勝る多喜を、周蔵は妻の水産物店の店員として抱え、中野の前に出したら、中野は忽ち焼け棒杭に火を点けた。周蔵が中野正剛の動静を探ったのは上原の命令ではないが、「何でも必要と思ったら自発的に調査して良かよ」と上原から言われていたので、試みたら、この結果になったのである。そもそも周蔵が中野に関心を持ったのは、軍人政治家上原がシベリア砂金事件の際、「議会工作は中野正剛一人居れば充分」と豪語したので、関心を強めたのである。

 周蔵を恩人として尊ぶ多喜を通じて、張作霖暗殺計画に関する中野正剛の情報を知った周蔵は、半信半疑のまま、情報源を秘して上原元帥に報告した。上原が中野を秘かに使ったのは、中野の属する玄洋社そのものが上原の配下だからである。『周蔵手記』も明記せず、いかなる史書・史料にも載らないこの秘密関係の証明する例を挙げよう。

 それは大連アヘン事件に関するものである。大正八年秋に上原から大連アヘン事件の調査を命じられた周蔵は、辺見こと牧口某に二千五百円で調査を丸投げするが、辺見は周蔵の期待に応じ、元樺太庁長官・平岡定太郎をアヘン携行容疑で現地官憲に逮捕させた上、重要な報告をもたらした。即ち内閣拓殖局長官・古賀廉造が、アヘン統制政策を悪用して大連の売捌人に不当利益を得させている実情で、周蔵はこの報告を四十三枚に記して上原に提出した。それが上原から玄洋社の頭山満に渡され、政友会総裁・首相の原敬が腹心の古賀を使って政友会の資金作りをしている証拠とされ、憂国青年中岡艮一が憤激して原敬を殺害したのである。



           続く。
   


●疑史 第68回  ★清朝宝物の運命    
  ●疑史 第68回  ★清朝宝物の運命    落合莞爾 

 前月まで二回に亘り奉天宮殿の清朝秘宝について述べたが、実はこの他に、成立の経緯を異にする宝物が奉天にあった。それは乾隆皇帝が極秘に隠匿秘蔵した数千点に及ぶ各種美術品で、成立の時期を「四庫全書」が完成した乾隆四十七(一七八二)年と推定する根拠は、乾隆帝がこの年に奉天に文遡閣を建て、宮殿の改装など大工事を行っているからである。つまり、奉天宮殿の大工事に紛れて宮殿外の数か所に宝物の秘納庫を設けられたものと推量するのである。

 正確な場所は分からないが、天正五年暮れから六年二月にかけてその宝物を接収した奉天省長兼督軍の張作霖が、一部を奉天軍司令部(張氏帥府)に移したものの、残りを北陵内の番小屋に保管していたことから見て、秘納庫は元々広大な北陵の中に、数か所に分けて設けられていたものと思う。奉天北陵は清朝第二代皇帝皇大極の廟所であって、清朝時代には番兵が常駐して厳しく警護していた。例えば紀州藩が下津長保寺を、金沢藩が卯辰神社を重代の宝物の秘庫としたように、秘宝の隠し場所は古今東西に亘り、古社寺と相場が決まっているが、蓋し北陵は宝物隠匿に最も相応しい施設であった。

 宝物の倉庫として既に奉天宮殿を利用しているのに、乾隆帝がわざわざ隠し蔵を設けた理由を、皇帝が漢族意識に染まったからだと吉薗周蔵は説明している(『周蔵手記』)。則ち、表面に見せる何倍もの財貨を隠す漢族富豪の風習として、貴重な財物は絶対他人に見せないが、それにも法則がある。所有財物を四級に分け、A級は存在さえ絶対に見せない。B級は、普段は隠しておき必要に応じて敵の上使(交渉相手)にやや見せる。相手に褒めさせて強引に押し付けるという巧妙な贈賄が目的である。C級は日頃から応接間に飾り、D級のごときは居間に転がしておいて、客の目に留まったら躊躇なく与える。清朝の支配者満洲族も永年漢族に囲まれて暮らす裡に漢族の気質に染まり、紫禁城にはC級を日常に飾り、B級を秘蔵し、A級宝物にあっては存在そのものを隠す癖が付いたと云うのである。

 大正九年七月奉天に派遣された吉薗周蔵に上記の説を吹き込んだのは、既に紹介した満鉄総裁秘書の上田恭輔であった。それを聞いた周蔵が、漢族特有の財貨隠匿習慣だけに絞ったのは説明として不完全で、その根底にある面子―メンツー意識を知らねば、完全な理解は無理だろう。識者によれば、面子意識の本質は、極度に形骸化された虚栄心が漢族の根底的行動規範として固定したものらしい。虚栄心には様々な形態があるが、その最たるものは磊落を気取る事で、要するに吝嗇の謗りを受けたくなく、その結果として「他人に所有物を褒められたら無条件で与えよ」との行動規範が固定化したが、形骸化した虚栄心に過ぎず、本音は与えたくない。そこで、絶対に他人に与えたくないA級品は、その存在を隠すことで、規範と本音の矛盾を回避したわけである。乾隆帝の如く一天万乗の主であっても、意識が漢族化したからには、その根底的行動規範に従わざるを得ず、因って自らA級品を選んで泰天城に送り、厳重に隠匿した。上田のそんな説明を、周蔵は単純化して理解したのである。

 乾隆帝の奉天秘宝は、A級品ばかりであるから、愛親(新)覚羅氏の中でも本流しか存在を知らされていなかった。明治四十四年、辛亥革命の結果清朝が倒壊した時、その存在を知っていたのは幼帝溥儀の実父・醇親王と僅かの側近だけであった。前年紫禁城に入り、内廷の小院に住んでいた堀川辰吉郎がその存在を告げられたのは、愛親覚羅氏の本貫の地たる満洲(清朝の東三省)の宗主権を確保するための原資として、その活用を委ねられたのである。

 既に観たように、奉天宮殿と熱河避暑山荘の清朝什宝は革命直後、早くもその処置が列強の関心を呼び、陶磁器と文遡閣の書籍に対してはわが皇室も取得希望を漏らしたが、大正2年に大総統・袁世凱が国務総理・熊希齢に命じて北京に移送させ、終に放出しなかった。乾隆帝の奉天秘宝がその間も奉天北陵に静まり返っていたのは、それだけ秘密が保たれていたのである。大正三年欧州大戦が勃発、日本の対華二十一箇条要求や袁世凱の帝政復帰工作が進む中で、堀川辰吉郎の命を受けた大谷光瑞が、乾隆秘宝を用いた工作を秘かに立案していた。

 この辺で堀川辰吉郎の正体を明かさねば、本稿はもはや諸賢に認めて貰えまい。辰吉郎は明治十三年、孝明帝の血統を享けて京都の堀川御所に生まれた。明治二年、西郷・吉井・大久保の薩摩三傑が宮中改革を図り、孝明帝の女官を京都に留めたことは周知であるが、その女官たちは、維新後も京都堀川御所に住した京都皇統に仕えたのである。堀川御所は明治天皇の行在所を名目に設けられた施設で、堀川通り六条の日蓮宗本圀寺旧境内にあった。足利尊氏の叔父・日静上人が鎌倉本勝寺をこの地に移し、皇室鎮護の霊場として本国寺と称したが、水戸光圀により本圀寺と改めたこの名刹は昭和四十六年に山科区に移転したが、旧境内は実に広大で、現在の西本願寺もその一部を割譲されたものである。堀川御所は昭和三年に廃止されたと聞くが、皇統の本拠としての意義を果たし終えたからであろう。

 京都皇統の中核的人物として生まれた辰吉郎は、井上馨の実兄・重倉の籍に入ったが、生地に因み堀川姓を称した。(重倉については未詳だが、玄洋社員と聞く)。幼くして玄洋社に預けられた辰吉郎は、上京して学習院に入る。皇族・華族の子弟教育の機関で一般民の入学を初等科に限っていた学習院に入学したことは、辰吉郎の貴種たるを暗示する。明治三十二年、清国の革命家・孫文が日本に亡命した時、その支援を図る玄洋社は、実質社主・杉山茂丸の計らいにより、弱冠辰吉郎を孫文に付して、その片腕とした。

 ここに至り、杉山の本性も明かさねばならぬが、茂丸は実は福岡藩主・黒田長溥の実子で、島津重豪の実孫に当たるが、長溥が実子・茂丸を杉山(竜造寺氏の男系)の籍に入れながら、藤堂家から養子を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮を解くには紙面がない。ともかく、常に伴う辰吉郎を日本皇子と称したことで、孫文の清人間に於ける信用が俄かに高まったのである。

 杉山は玄洋社の石炭貿易を通じて、明治二十五年から上海の英国商人と相識り、在英ワンワールド勢力の実体を深く認識し、海洋国日本としては彼らとの提携に賭ける他ない事を覚り、以後は彼らの意向を日本政界に伝達すべく、渾身の力を注いでいた。近世史は、地政学でいう海洋勢力大英連邦と大陸勢力露西亜帝国によるグレート・ゲームの展開に他ならず、玄洋社の孫文支援は、海洋勢力の元締めたる在英ワンワールドの意向に沿うものであった。日清・日露の戦争も正にその一環で、海洋勢力の戦略上其の不可避なることを知る杉山は、ややもすれば非戦主義に傾く長州閥を調略・分断し、これも在英ワンワールドの薩摩支社となっていた薩摩閥の三巨頭、松方正義・樺山資紀・高島鞆之助を側面支援して開戦に踏み切らせたのである。

 愛親覚羅氏が日本に接近するのは、日本の実力を目の当たりに見た日露戦争の後である。接近は西太后の側近・袁世凱を通じて行われたが、東京皇室は固より、政体・桂太郎内閣も敢えて対応を避けたのは、東京皇室と京都皇統の間に国務分担の密約があり、皇室外交と国際金融は京都皇統の分野だったからである。愛親覚羅の意を受けた杉山は、明治四十三年に辰吉郎を紫禁城に送り込むが、前年には中島比多吉が紫禁城に入り、幼帝溥儀に仕えて事前準備をしていた。

 辰吉郎を盟主と仰ぐ京都皇統の芯核は孝明帝の祖父・光格帝由来の宮中勢力で、光格帝と実賛同血統の鷹司家を始めとする旧堂上の一部である。之に加えて、孝明帝の皇妹・和宮が将軍・家茂(紀州慶福)に降嫁した公武合体に発する紀州藩・会津藩の勢力もあった。辰吉郎傘下の実行部隊は玄洋社だけではなく、京都に根拠を張った寺社勢力がそれで、東西本願寺が当時の棟梁格であった。外郭の中で、最も強大な勢力は前述の薩摩ワンワールドで、在英海洋勢力の支部として杉山茂丸の指示に従いながら、辰吉郎の経綸を実行していた。また丹波大江山衆は、光格帝の実母・大江磐代(大鉄屋岩室氏)に由来する禁裏の外郭で、亀岡穴太村の上田吉松を頭として江戸時代から禁裏の諜報に携わっていたが、多くは玄洋社に誘われて満洲に渡って馬賊となり、或いは清国本部に潜入して国事に備えていた。彼らが創めた大本教が、玄洋社と並んで辰吉郎支援の実行部隊となり大正時代には民国内に実質支部の紅卍会を建て、辰吉郎はその日本総裁となる。

 上田吉松と結んで大本教を開いた綾部の出口ナヲの次男・清吉は、高島鞆之助の計らいで近衛に入隊し、日清戦争後の台湾土民平定に参加したが、凱旋中の輸送船上で蒸発し、北清事変で軍事探偵・王文泰として手柄を挙げた後、満洲に渡って馬賊に投じた。この王文泰が馬賊仲間で三歳年下の張作霖を指導し、親日に誘導して日本陸軍の支援を取り付け、満洲の覇王に養成するのである。堀川辰吉郎は辛亥革命後、しばしば満洲に赴いて張作霖と慇懃を通じ、長子・学良と義兄弟の盟約を交わしたと謂う。

 辰吉郎は、漢族自立を図る孫文、満洲保全を望む愛親覚羅氏の双方と親しく交わったが、その立場に毫も矛盾はなかったのは、蓋し双方とも満漢分離で一致していたからである。革命後の中華民国が民族独立に傾かず、旧清国領を保全して多民族の合衆国となった理由は良く解らないが、やはり在英ワンワールドの意向であることは間違いない。粛親王の宗社党と結び、満蒙独立を図った陸軍内の大連派は、このために大きく当てが狂ったのである。新生中華民国が群雄割拠となったのを国情の必然と覚った袁世凱は、共和政は不可能として帝政復帰を図るが、これを孫文にとって重大な障害と観た辰吉郎は、革命党に手を回して大正五年に袁を毒殺させたと聞く。袁の暗殺に先立って、乾隆秘宝を用いた張作霖支援を企てていた辰吉郎は、西本願寺の実質的法主・大谷光端を語らい、秘宝中でも価値の高い歴代の古陶磁を用いた作戦を立てさせた。大正三年から大連に移り現地の文化人を配下に収めた光端師は、満鉄秘書役・上田恭輔に古陶磁研究を命じ、これを受けた上田は大正五年の春、『明治紀要』に「支那陶磁ノ研究ヲ薦ム」を発表した。

 宗社党の満蒙独立運動を支援した大隈内閣が、袁世凱の急死と同時に方向を転換し陸軍内大連派に撤兵を命じたのは、在英ワンワールドの意向に基づくものと思われる。そのため、粛親王と宗社党を支援していた日本陸軍内の大連派には、彼らの損害を補填すべき義務が生じ、参謀本部支那課長の浜面又助大佐は、その財源探しに四苦八苦していた。在英ワンワールドの戦略に従う辰吉郎は、張作霖を地方政権として育成し、満洲を特殊地域化する戦略を立てた。張作霖が乾隆秘宝を接収したのは大正五年十二月で、大連派に対するジェスチュアとして、秘宝強奪の形を取った。         [この項続く」


 ●疑史 第68回  ★清朝宝物の運命  <了>。
 

 




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