カウンター 読書日記 2010年05月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(41)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(41)      ■落合莞爾
   -王希天は虐殺されたのではなく偽装襲撃で失踪した

 
 ★当時の将校紀律を考えれば、窃盗・横領などありえない


 民国留学生王希天は、関東大震災直後の大正十二年九月十二日早暁、逆井橋近くの中川堤防で垣内八洲夫中尉の一刀を浴びた。死体は発見されなかったが、前年中華僑日共済会の会長に就任して反日活動をしていたことを憎む帝国陸軍による虐殺と看倣され、王希天事件として今も知られている。殺害事件といわれるが、正確には失踪事件と呼ぶべきである。

 事件の真相は、王希天が民国留学生グループからの足抜けを図るための偽装襲撃で、むろん一命は取り留めたが、隻脚になる程の大芝居を打ったことで、世問に死亡を信じさせた。足抜けを企画したのは憲兵大尉甘粕正彦で、時に渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長であった。実行に際し、甘粕と同郷で陸士二期後輩の砲兵大尉・遠藤三郎が秘かに協力したと考えられる。

 震災発生当時、野戦重砲兵第三旅団下下の第一連隊第三中隊長であった遠藤大尉は、震災直後の九月五日付で第三旅団参謀に捕せられた。首都防衛の任に当たる第一師団に属し国府台に本拠を置く野重第三旅団は、地震発生の直後に第一師団から出動命令を受けていた。第三旅団参謀として遠藤大尉の任務は、民国人労働者の収容所と決まった習志野の旧捕虜収容所に彼らを収容することであった。

 昭和五十年に発表された野重第一連隊第六中隊の兵卒・久保野茂次の日記には、「第六中隊長佐々木大尉が□実を設けて王希天を連れ出し、逆井橋の鉄橋近辺で予め待機していた垣内八洲夫中尉と出会い、王希天を休憩させた処を垣内中尉が背後から切り掛けた」とあるが、ここまでは事実に近い。ただし、「そして彼の顔面及び手足等を切りこまさきて、服は焼き捨ててしまい、携帯の拾円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった」とあるのをそのまま信じて日記の発見と公開に力を尽くしたのが鎌ケ谷市会議員・石井良次で、日教組の仁木ふみ子も、著書『震災下の中国人虐殺』で日記を紹介した。彼らは、久保野日記が続けて、「そして殺したことは将校間に秘密にしてあり、殺害の歩哨にさせられた兵より逐一聞いた」というのを確かな証言と見たらしいが、それが誤りの元である。

 殺害時に歩哨に立った兵は当然第六中隊所属だが、階級は不明で、日記の書き込みからするとその名は高橋春三らしい。ともかく、これは証言でなくて流言であるから、吟味を省くことはできない。久保野の伝聞では、顔面手足等を切り刻んで服は焼き捨てる形で死体を処理した者が、携帯の拾円七十銭と万年筆を奪」い、歩哨の高橋はそれを見ていた。殺害者(実は襲撃だけ)が垣内中尉であることは明白だが、後述のように、垣内は一刀を浴びせただけで後ろも見ずに帰宅したと見るべきで、「顔面及び手足等を切り刻んで服は焼き捨て、携帯の金と万年筆を奪った」のは垣内中尉ではない。では死体処理と金品横領を誰がしたというのか。

 左翼人の観念的反軍思想からすれば、「佐々木中隊長も垣内中尉も、人を殺す位だから横領などは当然」と単純に考えるのだろうが、当時の帝国陸軍将校を律していた紀律を知らぬからである。いかに人倫にもとるとも、殺害は命令であり紀律に反していないが、窃盗・横領は陸軍紀律に背馳し、発覚したら厳罰を免れないがら、その可能性はまずない。


 ★「やってしまえ」「始末せい」は何を意味するか 


 当時参謀本部の総務部長で、九月三日付で関東戒厳参謀長を兼ねた阿部信行少将は、佐々木大尉がら聞いた話として、「亀戸警察署がら王希天を引き取ってくれと言われたので、十二日午前三時下士官一名と警察に引き取りに行って、分隊本部に行く途中放還した」と語り、佐々木と同行したのは下士官一名とした。また旅団参謀遠藤三郎大尉も、佐々木大尉と垣内中尉が身柄を引き取りに行った、と語っている。無論すべてが真実ではないが、王希天一人の引き取りに兵士を数名も連れて行く必要はなく、佐々木中隊長は高橋春三だけを連れて行き、垣内中尉は別に行勤したのであろう。

 『将軍の遺言-遠藤三郎日記』には、「一刀、後ろから切りつけただけ。そのあと、どう始末したかは知らない」とある。前後の文を見ていないが、これは遠藤が垣内を代弁したものと思われる。しかし元中将遠藤三郎は、事件から半世紀経った昭和五十三年にインタビューに応じて次のように語ってもいる。「私の(参謀をしている第三旅団座下の第一)連隊の(第六中隊の)佐々木(兵吉)という大尉が、王希天は危険な人物だから習志野(の収容所)にやったら何をするか分からんがかやってしまえと。旅団長(金子少将)は、殺せとはいわないが《やってしまえ》といったそうです。其の佐々木の下に戸山学校を卒業したばかりの腕自慢(垣内八洲夫中尉)がいて、それが首切ってみたいと云うんだ。それで、佐々木とその中尉が王希天を、特別に受領書まで出して警察からもらって来て、中川の堤防まで連れて行って殺し、川に流してしまったらしいんだよ」と。第七連隊が王希天を拘束したが、貰い下げに行ったのは第一連隊の第六中隊で中隊長が佐々木大尉、垣内は隊付中尉だった(前月号を修正)。

 金子旅団長が佐々木中隊長に「殺せとはいわないが《やってしまえ》と言った」のを、「殺すなよ」と命じた意味ではなく、「殺せとは明言しながったが、やれと言った」との意味に取れるから、この言は遠藤の前言と矛盾する。ジャーナリストの田原洋が、昭和五十六年に和歌山市木ノ本の垣内八洲夫元大佐の自宅を訪ねて、本人から「後ろより一太刀浴びせて、そのまま帰宅した」と聞いた。

 張学良の正体を暴いた『張家三代の興亡』の著者古野直也は、父の古野縫之助少将(陸士十七期砲兵科)の部下に垣内がいたので、夏休みに和歌山市の垣内の実家に滞在した事があると語った。隣り合う梅原村の陸軍中将・貴志弥 次郎の実家と同じく、紀州藩根来者の直系の垣内家は、ビタミンAの発見者農学博士・高橋克己の生家でもある。堂々たる門構えの旧家の嫡子に生まれて陸士三十一期を出た垣内が、命令を受ければ襲撃こそすれ、王希天の金品を横領するなど有りえない。真相を探るべく和歌山まで赴いたのには敬意を表するが、折角本人に会いながら、真相洞察の好機とし得なかったのを田原のために惜しむしかない。昭和六十年には宮武剛が垣内家を訪ねて「旅団司令部から佐々木中隊長に命令を出した。どんな内容か私は知らん、とにかく(王希天を始末せい)という命令を、佐々木さんから貰ったんですよ」との言を本人から引き出した。垣内の言は終始一貫しており、事実と見るしかない。 


 ★「後は知らぬ」と繰り返すのはそれこそ真実であるから


 かれこれ通観するに、久保野の伝聞は死体処理の些末だけで、実行現場の雰囲気が感じ取れない。久保野は兵舎内に流れた噂を記したまでで、そのまま事実と見ては誤る。ストレスの多い兵舎内では嫌軍意識から根拠のない噂が流され、それに共感したわけだが、久保野が聞いたのは、十月半ば以後に王希天の失踪が取り沙汰されるようになってから、意図的に兵舎内に流布された作り話であろう。目的は「王希天の遺体が発見されない理由を合理的に説明しようとしたもの」で、むろん甘粕大尉の仕業である。

 以上からして、《王希天を始末せい》との旅団長命令に接した佐々希中隊長が、中隊付の垣内中尉に実行させたのは事実だが、問題は、その命令が正確には《王希天を始末せい》ではなかったことである。単純に《始末せい》ならば当然止めを刺さねばならない。しかも、今回は反日支那人に対する単なる凝らしめではない。生き延びて喋られては困るから、永久□止めが必要なことは垣内中尉も当然承知している。

 しかし垣内は敢えて止めを刺さなかった。紀州根来者の直系で連隊一の剣豪の垣内なら一撃で殺すのがむしろ自然なのに、「一太刀浴びせてそのまま帰宅した」のは特別な理由があったからである。「どんな内容か私は知らん。とにかく《王希天を始末せい》という命令を貰った」と垣内は単純化するが、命令はもっと
具体的で、「貴様は後ろより一刀を浴びせるだけで止めは刺すな。後の始末はこちらでやるから、そのまま帰れ」といったものであった。「どんな内容か私は知らん」とは、「どんな内容(事情)があるのか、深く考えなかった」との意味で、何かあるとは思っても深く考えないのが軍人の弁えである。だからこそ後年になっても、「その後、どう始末したかは知らない」と嘯くので、そこに垣内の正直さを見るべきである。

 以上からして、金子旅団長の名で出た王希天襲撃命令は、計画に秘かに一役買っていた旅団参謀の遠藤大尉が出したと見れば筋が通る。遠藤の言に矛盾が生じたのは、年月の経過と共に真相が一部を露呈したのである。垣内の一刀で傷ついた王希天は、予め伏せてあった甘粕の部下により秘かに救助され、野方村上高田に運ばれた。遠藤が「川へ流した」と言ったのは勿論筋書き通りで、佐々木大尉が歩哨を立てたのは、一刀を浴びせる場面を
見せて殺害の証拠を故意に作ったフシがあり、同心と見るべきである。事情を知らされていない垣内が、「後は知らぬ」としか言わないのは正直だからである。 


 ★甘粕正彦という補助線を引くと二つの事件が見える 


 第一師団長・石光真臣中将と金子旅団長はどうであったか。大正十一年十月二十日付で第一師団長に就いた石光真臣中将は、兄・真清と同じく上原勇作元帥の股肱であった。石光は七年六月から憲兵司令官に就き、八年十月から九年八月までは甘粕正彦を副官に従えた直属上官であった。図らずも大震災に際会した甘粕は、懸案の二件すなわち大杉栄・伊藤野枝の謀殺と王希天の偽装殺害を実行する機会に恵まれた。九月十六日の前者に於ける甘粕の関与は明白であるがその四日前の九月十二日早暁に行われた後者も甘粕の企画であることを知る人は、今は本稿の読者だけてあろう。甘粕正彦という補助線を引くことで、大杉事件と王希天事件を覆う全体が把握されるが、その観点からすると、石光第一師団長が、上原元帥の意を受けて両事件における甘粕の活動を間接的に支援していたとしても、決して不自然ではない。

 金子旅団長は石光師団長と同じく砲兵科で、上原勇作の系列である。旅団参謀の遠藤三郎砲兵大尉とは意思疎通が良くて当然で、旅団長命令の名義人として協力したのであろう。遠藤はこの後、十二月に参謀本部付に転補、翌十三年十月に参謀本部員となり、十五年三月から昭和四年十月までフランス陸大に留学したが、そこで昭和二年七月から四年二月までフランスに滞在した甘粕の面倒を見させられた。これで明らかなように甘粕とは同心であった。

 王希天の失踪に関する最初の報道は、十月十三日の上海各紙であった(仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』)。情報源は僑日共済会副会長の王兆澄である。仁木によれば、王兆澄は王希天の八高時代からの親友で、既にアメリカ留学が決まっていた王希天と会長を交代すべく、八月三十一日午後には事務引き継ぎを済ませていた。ところが、翌日に大震災が発生し、九月二日には王兆澄が小石川で暴漢に襲われて負傷したので、王希天はなお会長として行動したためにこの奇禍に遭った、としている。王希天のアメリカ留学をこの記事以外に眼にしないが、親友呉達閣(呉瀚濤)が大正十四年に東大大学院を出てシカゴ大学に留学している処からして、不自然ではない。何しろ希天と達閣は、吉林一中で同級になり、以後は前後しながら天津南開中学、東京の一高と、形影相伴うが如く三度も同学になった仲である。次にはアメリカの大学で同窓になったとて、少しもおかしくはない。

 甘粕の調略に乗って留学仲間からの足抜けを図っていた王希天は、当初どのような筋書きを考えていたものか。大震災は予期しえないから、渡米を装って姿を消す計画で、そのために僑日共済会の会長職を王兆澄に譲ったのであろう。王兆澄は習志野事件の発覚を恐れる日本官憲の追求をかわしながら山城丸で上海に着き、習志野における僑日同胞の被害を調査して、被害者総数は四百七名に及ぶという事実を新聞に発表した。王希天の故郷の吉林省長春では、十月十七日に初めて失踪が報じられ、吉林省議会は外交部に王希天事件の調査を要求した。希天の弟も兄の行方不明事件について対日交渉を外交部に要求した。

 民国政府は、前代理国務統理で外交総長もした王正延外二名を被害調査委員に任命し、一行は十二月七日に到着した。一行は十三日に吉野作造宅に集まるが、日本人の来会者に小村俊三郎と服部マスとがいた。因みに、小村は侯爵・小村寿太郎の甥で、北京留学後に外務省通訳となり、清国・民国在勤を経て大正三年に退官した中国通である。また、服部はキリスト教式女子教育で知られた日本女子大の卒業生で、民国留学生を世話したことで知られている。来日した周恩来に牛込の下宿を世話した親切なクリスチャン婦人とは、服部マスであろう。 

  
 ★では王希天と張学良を結ぶ補助線は何か?

  
 外交交渉でなく被害調査にきた王正延一行は、大島町事件などについて調査し、当然王希天の失踪にも及んだ。一行は帰路十二月一日に奉天に着く。王正延は奉天領事の内山清に対し、「王希天が殺害されたことは確かだが犯人が問題で、この点は当事者の佐々木大尉が知悉している筈だから、取り調べの上で甘粕事件と同様の法的処分をし、民国政府に対して自発的に処理すれば、円満に解決する」との内意を漏らしたが、日本政府は対応しなかった。ところが、奉天総領事・船津辰一郎から十一月二十七日付で、張学良から親友・王希天の捜査依頼を受けた旨の報告文が外交史料館にある(仁木ふみ子前掲)。

 王希天が張学良の親友とは、いかなる事情によるものか。王希天の経歴は前月、前々月号で述べたが、明治二十九年長春生まれで大正元年吉林一中に入り、三年秋に学園紛争で退学して天津南開中学へ転校、呉達閣・周恩来と同級になったが、二人に先駆けて四年秋に日本に留学する。一方、五歳年下の張学良は、明治三十四年に奉天省台安県で馬賊・張作霖の長男に生まれ奉天で育った。大正五年、南開中学校長・張伯苓が奉天でした講演を聴いて感動し、以後は張伯苓の学外弟子を自認するが、その前年に王希天は日本に渡ったから、これは契機にならない。巷間「張氏と王氏は数代に亘る深い関係」と噂されるが、親類縁者ということか。白雲荘主人『張作霖』によれば、新民府の増知府と張作霖の舅・趙氏の依頼を受けて、馬賊だった張作霖を清朝に帰順させた宣撫使の王奉延は新民府有数の有力者で、新民府巡警局長の他に陸軍将校の肩書を有し、後には陸軍参謀にも任じたほどの才物であった。張作霖が馬賊仲間を率いて帰順し官兵となるや、増知府と趙氏は王奉延を白旗堡の巡警局長に転任せしめたので、張作霖は一年足らずで新民府の兵権を掌握した。正に作霖の恩人である王奉延が、希天の父・王立延と親族関係にあったのか、或いは作霖の舅の趙氏つまり学良の母方が吉林の王氏と縁戚だった可能性もある。

 大正十年、二十歳の張学良が来日して各地の陸海軍施設を見学するが、この時メソジスト教会の線で王希天と再会ないし知り合った可能性もあろうが、確率は低い。最後に検討すべきは張作霖と王立延が元々王文泰(出口清吉)を通じて繋がっていた可能性である。荒唐無稽に見えるが、王希天を根本から洗うと丹波衆の匂いがしてくるから、一概に否定はできまい。

 王希天が来日前に残してきた長子・王振圻は医者になり、文革で被害を受けそうになった時には周恩來が救った。王希天は昭和四十九年に革命列士に追認され、家族は列属の待遇を受け、王振圻の長女は北京で旅社の支配人になった。王希天の真相を周恩來は知っていたと思う。


  
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(41)  <了>。
  

   


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●疑史(第67回)  清朝宝物の運命
                             張家三代の興亡 古野直也_1



 ●疑史(第67回)  清朝宝物の運命 評論家・落合莞爾

 先月は奉天宮殿の宝物に関するキッチナー元帥の逸話を紹介したが、今月も政清権力と文物の関係の一端を述べる。国立国会図書館のアジア歴史センターに「清国革命動乱の際奉天宮殿宝物売却凡説一件」と題した一群の文書がある。最初は辛亥革命の二か月後の明治四十四年十二月二十日付のロンドンの山座圓次郎臨時代理大使から外務大臣・内田康哉に宛てた電報で、内容は以下の通りである。

 ①清朝が先月約四〇万ポンドの「宮室財宝」を売り出し、独亜正金・香港上海及び露亜の各銀行が買い取ったが、右はほんの一部に過ぎず、義和団事変の際、英米軍が監守してそのまま清国宮廷に引き渡した財宝は殆ど九百万ポンドに値した。

 ②しかも、その後西太后が蓄積した財貨は莫大で、今後数年間外国借款の支払いに充てるに充分の余裕がある。現に今回売り出された砂金のごときは、一八七〇年代に広東省より北京へ貢いだものを三十年間も手を着けず、当時の封のままを渡したのである。

 ③右の財宝は勿論国家に属すべきもので、それは清国皇帝=清国政府だったからであるが、それだけでなく、従来の外国借款は元利支払いの全てを皇帝の上諭を以て保証しているから、当然その支払いに充てらるべきものである。

 当時の金本位制で一ポンドは約一〇・六五円であるから、清室が十一月に売却した砂金は邦貨四百二十六万円に当たり、現代の物価では四百億円を超す。一九〇〇年の北清事変の際に、英米軍が守って清室に引き渡した財宝の価値たるや邦貨にして九千五百万円、現価で一兆円に近い巨額であった。革命により大清帝国は崩壊したから、政体が作った借款(国債)の弁済を債権者は懸念したが、清国は皇帝=国家であって皇帝が借款を保証していたから、皇室財産による代位弁済は充分可能であった。その事を山座大使は外相に報告したのである。

 明治四十五年一月六日、参天総領事・落合謙太郎は内田外相に「奉天宮殿二於ケル官物二関スル件」を報告した。「北京政府ハ過般、当奉天ノ宮殿二保存シアル諸種ノ宝物ヲ調査シ、至急報告スヘキ旨、趙総督二命令シ来リタルハ事実ト認メラルル」も、「右ハ売却セムカ為ノ調査ナルヤ、将又整理ノ為ナルヤハ、世上斉シク疑問ト為シツツアリシ」が、「当館警察署員ノ探知スル処ニヨレバ、右調査ハ全ク売却セムカ為ニシテ、該宝物ノ購入二関シ清国人ハ勿論、殊二近来諸外国人ノ競争ガ甚ダ熾烈」で、中でも「英国人某ノ如キ目下各方面二盛二運動を試ミツツアリ」との内容である。

 次いで一月十七日、落合総領事は内田外相に宛てて「宮殿二於ケル宝物調査二関スル件」を報告した。要約すると「趙総督は先般北京政府より宮殿在庫宝物の調査の内命を受け、総督公署内政科に於いて衛兵十五名が警戒する中で其の品目・価格等の調査を急いでいる。書籍は既に調査を終了し、目下は諸器物を調査中である。調査官の言では、宝物中で最も価値のあるのは書籍で、低く観ても千二百万両の価値がある。その他の器物・金銀宝石等は調査未了なるも、約一千万両の価値があるとのこと。調査の目的を聞くと、単に例年の調査に過ぎないと云うが、実は売却のための調査らしい。先般清国官憲が外人に鑑定させたら三千万両の価値があることが判明したと各新聞紙上に報道するのは事実無根で、清国当事者は秘密裏に宝物の調査を行っている」となる。

 銀一両(テール)は邦貨一・六円に相当し、一千万両は現在の邦貨千六百億円にも及ぶ。落合総領事は早速、東三省総督・趙爾巽に会見して風説の真偽を確かめた処、総督は一応否定したが、一月二十三日に至り秘書官を遣わして落合総領事に伝言させた。「実は、北京政府の内命により、当地の宮殿に在る陶器類だけ成るべく一括して売却したいので、希望の向きには内覧させる。尤も売買の決定は北京政府が行う。また、この話は内うちの事である」と。

 この知らせは同日、第四〇号の電報で内田外相に届く。日本政府は、宝物の中でも特に陶器類に関心を寄せたと見え、内田外相は二十六日落合総領事に対し、「貴電第四〇号ノ陶器類ハ大体価格何程ナルヘキヤ電報アレ」との第四二号電を発した。これに対し落合総領事は、「貴電第四二号に関し、陶器類の価格は判明せず。試みに交渉使に見積りを問いたるも、分り難しと答たり。二十三日米英仏独人等、該陶器を見物に来るもの多し。交渉使に聞けば未だ売買を話し入りたるものなしとのこと。並に、交渉使より陶器及び銅器の目録を得たるに付、早便を以て郵送すべし。銅器及び書籍も、或は売却の意あるにあらずやと思わるる事実あり」と返電してきた。交渉使の名は明らかでないが、東三省総督・趙爾巽の幕僚であろう。

 落合がこの時、早便で外相に送った目録は、先月稿で上田恭輔が「偶然そのコピーを入手した」と述べたのと同じもので、款銘別に分け漢式名称の品目が並ぶ。数量は康煕款だけで百三十四類・個数は三四、六六七件に及ぶが、その中に上田がキッチナー元帥に話した「黄南京の丼一、九四四件」も「黄釉中碗一八四四件」として確かに記されている。

 先月稿のテーマの「江豆紅太白尊」と「江豆紅八道碼瓶」も記載があり、その両方に、「内於宣統元年九月十三日総督錫・巡撫程奉諭旨提出二件、送英国元帥希基拉将軍」の但書が確かにある。目録の内容は康煕・錐正・乾隆の款銘品が各三万作を超え、嘉慶款は少なく、他に無款品と明代の青花品がごく僅かにあり、合計では十万件を超す。陶器目録の他に銅器目録があり、商・周・漢併せて青銅器は数百作に及ぶ。

 明治四十五年二月九日、内田外相は「四庫全書売却ノ風聞アリ、若シ事実ナルニ於テハ、其筋二於テ購入ノ希望アルニ付、事実ノ真偽及ビ値段返電アレ」との第六八号電を発した。「其筋」とはわが皇室であろう。これに対し落合は、交渉使を通じて先方の意向を聞き、「『四庫全書』は多分売却しない。陶器と銅器は売却することに決したが、南方から反対を伝えてきたので、どうなるか解らない」との答を得て、二月十五日付で返電した。

 辛亥革命により共和政に移行した清国は、この年一月一日を以て国名を中華民国と定め、年号を民国元年と称した。孫文が南京で臨時大総統に就任したが、行政の実権は清朝末期以来北洋軍閥が支配する北京政府にあった。二月十二日を以て宣統皇帝が退位し、満洲族の帝政は崩壊したが、奉天の文武官僚は、趨総督以下清朝の旧臣がそのまま革命新政府の官僚に横滑りした。「四庫全書」と陶器・銅器の売却に関する方針とは、北京政府の方針で、清室の意向も斟酌しているから、革命派の南方政府が異議を唱えたのである。

 革命直後、新生中華民国の政権が今後どう転ぶか予断を許さない中で、莫大な価値の奉天宮殿宝物の帰趨は、満洲皇室と民国政府だけでなく列強の関心を惹きつけたが、結局、この後二年間は動かなかった。民国の政権は大正(=民国)二年二月の総選挙における国民党の圧勝をよそに、北洋軍閥の袁世凱に帰したので、これを不服とする革命派は七月に第二革命を起こすが、直ちに失敗して孫文は台湾に亡命する。この動きは奉天宮殿の宝物にも及び、大総統袁世凱の意向を受けた北京政府の国務総理熊希齢が、熱河避暑山荘と奉天宮殿の所蔵宝物の北京移動を命令したのである。

 関東都督府司令部付で満鉄奉天公所長を兼ねる佐藤安之助中佐は、大正(=民国)三年三月十一日付の電報を以て、参謀総長・長谷川好道大将に以下の報告をした。「奉天宮殿宝物の北京輸送に関し、多分その一部は奉天に残すものと地元は期待していたが、実際にはすべてを北京に運び、将来一点たりとも奉天に残さない事に決定したとの噂に、地元の官民が北京政府の暴挙として憤慨している」と。

 帝政復帰を図る袁世凱が、新皇室を建てて洪憲皇帝に就き、清室の財宝を引き継ごうと謀った。しかし満洲族の旗挙げの地奉天は、大清帝国の陪都として三百年間泰天府と呼ばれ、住民は清室から農地を賜った満洲族が多く天領民の気風があった。辛亥革命後も実質的に清朝支配が続き、奉天都督・張錫営以下清朝の旧臣であったため、奉天の官民は、漢族主体の北京政府が満州族の愛着する奉天宝物を根こそぎ奪い去るのを是としなかったのである。奉天の軍権を実質的に掌握していた馬賊上がりの漢族張作霖は革命反対・清朝存続を唱えたが、この北京政府命令には従った。かくして奉天宮殿と熱河避暑山荘の清家宝物は、悉く紫禁城に遷され、武英殿を含めた外朝の一角に新設された「古物陳列所」に展観された。「四庫全書」も北京へ運ばれ、結局、日本政府も皇室も望むものを購入できなかった。

 「大日本窯業協会雑誌」三四四号に、大正九年十二月の小森忍の論説「昌徳官と武英殿の古陶瓷器」を掲載する。日く「武英殿の古陶器は、実に其の数、数千を数ふべく、陳列諸宝器の冠たるものであろう。まづ後周の柴窯より、宋の粉定、均窯、龍泉窯、哥窯、汝窯あり、元均窯あり」と列挙し、続けて「明末、嘉靖、萬暦の五彩あり、宣徳、成化の霽紅あり・
・・その他明清朝に於ける・・・研麗眼を奪うの彩磁が又雑然と並んでいる」とあるが、前に観たように、奉天宮殿の陶磁目録に明代彩磁は一件もないから、これらはすべて熱河避暑山荘のものである。熱河は皇族が毎年夏を過ごす建物であるから、小森の挙げた宋定窯・宋均窯・龍泉窯・哥窯・
汝窯や明代の五彩・宵紅などは、室内を飾る装飾品か秘蔵を目的に収蔵されていた品である。これに比し奉天宮殿は実質的には倉庫で、清初三代の款銘品を主に貯蔵していたが品目的にはかなり偏っていた。

 革命により民国政府に譲与された紫禁城は外朝と内廷に別れていた。儀式の場であった外朝は革命直後に民国政府に明け渡されたが、生活の場の内廷には宣統帝溥儀が民国十三年までそのまま住み、皇帝の称号と宣統の年号を保持し、独自の廷臣と千二百名の衛兵を従えつつ、経費を清室財産から支弁していた。すなわち溥儀は清国の皇帝を退位したが、満州族及び蒙古族にとってはいまだ皇帝であった。民国政府は、領土の真中に居住する溥儀を遜帝(引退した皇帝)と呼び外国君主として扱ったのは、一応の理に適っていた。

 民国十三(一九二四)年十一月五日、「国民軍」を率いる西北のクリスチャン将軍馮玉祥がクーデタにより北京に入り、溥儀の退去を強請した。「政変ごとに帝政復活の動きがあり、共和政の体制に有害」との理由を掲げたが、「事実は馮玉祥が清朝の財宝を奪って換金するのが目的であった」(古野直也『張家三代の興亡』)。この後、内廷の文物の大部分は政府に没収され、故宮博物院の収蔵となり、奉天宝物とともに台湾に移った。革命後に千二百万両(現在の物価で二千億円)と言われた『四庫全書』は結局奉天(瀋陽)に返されず、甘粛省博物館に在る。


      疑史(第67回)   <了>

   





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