カウンター 読書日記 2010年04月
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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(40)―2
                          美は乱調にあり_1

                           瀬戸内・『美は乱調にあり』
                           ・・野枝の二歳年下の妹によれば、
                           大杉と伊藤野枝も「転向の用意をしていたんですよ」という。


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(40)―2 


 ★キリスト教化を装い中国人を利用したワンワールドエ作


 大正十一年には労働問題が深刻化した。前年のワシントン会議で軍縮が決まり、多数の軍人と海軍工廠、造幣廠で除隊、解雇が発生し、民間でも失業が増加した。十月には東京の下町の労働者が競合関係にある民国人労働者の退去を陳情した。民国人労働者の存在は大きな社会問題化しつつあった。この過程で王希天は確かに目立った働きをしていた。国外退去命令を出す警察署への交渉には、多くの場合王希天が登場した。

 僑日共済会の母体は中国青年会(YMCA)である。仁木前掲には、「十一年九月五日、青年会、学生総会、聖公会の代表は、中国人労働者の多い大島地区の状況視察に出かけ、さらに王希天は(・・中略・・)労働現場の視察を重ね、中日各団体の指導者たちと討論を重ねて、僑日共済会発足となったのであった」とある。

 中国留学生か政治運動、社会運動に動員される例は、先般の北京オリンピックの聖火リレーに際し、その一端を顕したが、これは中国人社会固有の特徴らしい。当時も、民国人労働者の退去、排斥問題に留学生が介入した。日本人でこれに加担したのが、陸奥広吉伯爵を筆頭に、救世軍の山室軍平、明治学院の賀川豊彦、沖野岩三郎らのキリスト教徒であったが、それとは別に★聖公会の名が上げられている。

 関東大震災後で倒壊した聖路加病院の再建に尽くしたポール・ラッシュは、震災後に初渡来したように言われている(尤も、インターネット検索なので保証の限りではない)が、この頃すでに日本に潜入していた。陸奥広吉は、有体に言えば、ポールのスパイであったと聞く。カミソリ大臣の嫡子でベルギー大使までした伯爵がと、周蔵ならずとも情けないが、これはワンワールド内の序列の然らしむる処かと思う。当時、ワンワールドはキリスト教化の外形を採りながら、中国人労働者の日本進入に乗じて日本社会に対する工作を図っていたことが歴然である。

 ともかく十一月二十七日、規約改正によって希天は会長になり、中国青年会の仕事を辞めて僑日の方に専心することになった。この間、警視庁外事課の極秘文書『大正十一年六月十五日現在 支那関係事務概要』には、民国留学生中の要注意人物の名前が挙げられている中に、王希天は特記されているが、呉達閣は全く見えないのは、役割を分担したのであろう。
 
 
 ★大震災を奇貨に死亡を装う甘粕正彦「王希天偽装襲撃」


 そうこうしている間に、九月一日、関東大地震が起こる。王希天は神田のYMCAから大島町の僑日共済会に通っていたが、YMCAは地震で倒壊し、住んでいた留学生たちは中華聖公会に避難した。王希天は民国公使館、教会、留学生総会などと対日震災救済会を組織してひとまず留学生たちの救済に当たり、九日になって大島に出かけた。そこから先はいろんな証言があるが、主として民国労働者や陸軍の下級兵士・久保野茂次の伝聞で、断片的で思い込みも激しく、全容を伝えるものはない。

 王希天襲撃の実行に当たったのは第一師団隷下の野戦重砲兵第三旅団第七連隊所属の垣内八洲夫中尉(後大佐)であった。紀州藩で貴志彌次郎や私(落合)の生家・井口家と同輩の紀州根来者の後裔で、連隊第一の剣道の達人であったから、この任務を受けたのであろう。真相は、佐々木兵吉中隊長の命を受けた垣内中尉が、九月十二日の早暁、中川堤防の上、逆井橋の近くで王希天に背後から一刀を浴びせたが、止めは刺さなかった。そう命じられていたからである。

 すべては王希天本人の希望で、大震災を奇貨として死亡を装い民国留学生の日本工作隊長から足抜けする目的で、渋谷憲兵分隊長兼麹町分隊長の甘粕正彦大尉に依頼したもので、襲撃は甘粕の計らいによるものであった。甘粕は、愛人が上原勇作とポンピドー牧師の妹との間の混血娘であったから、ポンピドーを介して王希天と極めて近い関係にあり、大正十一年頃から王希天を調略していたが、国事の為でなく、甘粕個人のための調略であったという。しかし、突然の大地震の下では憲兵分隊長の甘粕には、公私ともにやるべきことが多すぎた。

 甘粕の王希天偽装襲撃工作を支援したのは、野戦重砲第三旅団参謀の砲兵大尉・遠藤三郎であろう。甘粕と同じ山形出身で陸士は二年後輩である。後にフランスに留学した時も、刑余の甘粕を支援している。戦後、反戦将軍として持て囃されたが、在仏ワンワールドとしても甘粕の下位で在ったものと思われる。 


 ★フランスで得たあるネタ 大杉栄惨殺の真の理由


 上原勇作の後継候補として、秘密裏に渡仏して在仏ワンワールドに入会した甘粕が、その事実を大杉栄に握られたのは、大杉が青山教会に潜入させていた女間諜・伊藤野枝の働きによるものである。大杉はこのネタを、上原勇作の政治的ライヴァルでもあった後藤新平に売り込み、裏付けを取るために、後藤の資金を得て十一年十一月に密出国し、上海経由で渡仏した。十二年五月にはメーデー集会で演説して逮捕され、フランスを追放されたが、帰国後後藤に報告を提出したので、当然、上原・甘粕から監視を受ける立場となった。そこへ突然発生した関東大地震は、大杉と伊藤を始末する絶好の機会となった。大杉と伊藤野枝の動向を追っていた甘粕は、大杉らを麹町憲兵分隊に拘留している間、フランスで探索した証拠品を求めて家探しをしていた。大杉らが殺害されるのは十六日である。

 辛うじて一命を取り留めた王希天を、急場に駆けつけて救助した甘粕
は、応急手当てをした上、野方村上高田の第二救命に送って、渡辺政雄の治療を依頼した。渡辺は正式医師免許を持つ外科医である。渡辺の治療を受けた王希天はやがて回復したが、片脚を失っていた。その身体になっても、「これくらいはやらなくちゃ、足抜けなんてとても出来ないから」と言い、甘粕はもとより、垣内など襲撃者を恨むことはなかったと云う。思えば、王希天が周居應の変名を用いるのは三年前からである。その時から足抜け計画を持っていたとも思えないが、去年からは、四谷では王さんと呼ばず周居應と呼ぶように「タノンマス」と念を押したのは、既に実行の段階に差し掛かっていたからであろう。だからこそ、日本官憲を刺激するべく活発な行動を取ったのである。

 ところで呉達閣の動きはどうか。現在台湾で発行されている人名事典によれば、大正十年に東京帝国大学法学部に入った呉達閣(別名・呉瀚濤)は十三年に卒業して大学院に進み、一年で修士号を得た。十四年には吉林省の官費を以てアメリカに留学する。当初はシカゴ大学の大学院に入るが、一年後にイリノイ大学の大学院に移り、公法学・外交学・国際関係論・世界史を専攻して、昭和五年にphDの学位を得た。同年七月、瀋陽の東北大学からの電報で招聘された達閣は、文法学院専任教授として政治思想史・国際公法・憲法・英文政治学・経済学原理を教えた。翌年、満州事変が勃発、東北大学の北京移転に伴い、呉達閣も北京に遷って授業を続け、市政及び行政学を教え、また国立北平大学法学院教授を兼ね、憲法及び政党概論を講じたという。公式記録は上の如きもので、<何でも来い>の学風は、正に大道芸人風である。


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(40)  <了>。

 



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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(40)-1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(40)-1   

  王希天が自ら望み甘粕正彦が企んだ震災下の虐殺 


 ★唐突に十二月から始まる「上高田日誌」空白の謎 


 大正十年三月、周蔵は野方町上高田九六番地の第二救命院を訪れた。六年秋に京都から連れてきた渡辺政雄をここに住まわして、ケシ栽培の研究を頼んでいたが、近来多忙のために足を向けなかったのである。そこで偶然来ていた呉達閣(別名・呉瀚濤)と周居應と会い、周の本名が王希天であることを知った。

 周蔵は時々見回りに行った上高田での見聞を「上高田日誌」の形で残しているが、渡辺から「こんなことして何になるか」と聞かれ、「特務の心得として必ず点けろと、石光(真清)さんに教えられた」と答えた。「上高田日誌」によると、政雄は大正七年の春から手伝いの女を一人入れて耕作を始めたが、四月には四寸迄に伸びたケシは、八月には取るには取れたが、質が良くない。翌八年には、ケシ苗を育てるムロを作ったところ、芽生えが早く、勢いも良かったが、五、六月に移植に失敗して全滅した。急いで直蒔きしたら芽が出たが、雨が続いてこれも全滅する。

 右(上)に続く記事は、唐突に十二月から始まっており、「政雄が土に灰を混ぜて来年を待っておる」との内容であるが、八年の事か元年の事か分からない。大正九年は周蔵にとっては実に多事の年で、一月に上原勇作邸で憲兵中尉の甘粕正彦に引き合わされ、三月には甘粕から山県元帥暗殺未遂犯の伊達順之助の隠避を依頼され、五月には奉天特務機関長・貴志彌次郎の支援のために満洲に行かされ、朝鮮を経て帰国の途中熱病に罹りながら、八月末に帰宅した。十月からは松沢病院長・呉秀三の勧めで漢方を習うため、四谷の帝国針灸漢方医学校に通うが、校長の周居應が実は王希天であった。周から大森に連れて行かれ、女子医専の設立を計画中の額田兄弟医師に会わされる。他にも大谷光瑞師の要請で面倒を見ていた佐伯祐三の結婚、更には会ったこともない婚約者の出産などもあった。

 これだけ忙しいと上高田に行けないのも分かるが、ある年の記録がいきなり十二月から始まるのはいかにも唐突である。大正元年の「上高田日誌」には、私(落合)に見せたくない内容があって、除かれている可能性もあろう。ともかく、十年の三月に上高田に行ったら、先月稿で述べた如く、其処に周居應と呉達閣がいたわけである。

 「上高田日誌」のその続きは、「二月 周先生カラ アヘンノ苗ハ水分ヲ嫌フヨ ト教ハル由」とあるから、時は既に大正十一年の二月に遷っている。この間、周居應こと王希天は、時々政雄を見舞いに来て、ケシの栽培法を指導していたのである。周蔵がその二年前に、鎌田医師からこの人に学べと教えられ、周居應の帝国針灸医学校に入ったのは、ケシの一種コマクサの製剤法を教わるためであった。しかも王希天は、ケシの栽培にも通暁していた。


 ★ケシ栽培に精通し、高度の諜報術を体得した王希天 


 周蔵より二歳下で、当時二十四歳の王希天になぜそのような知識があったのか。吉林省は長春生まれで、十二歳で小学校に入り、高小を出て大正元年に吉林一中に入学したのは十六歳で、呉達閣と同学年になった。三年生の時に学校紛争で退学になり、天津南開中学へ転校、再び呉達閣と同級になった。この経歴からすると、王がケシ栽培と漢方医学を体得したのは天津へ移る以前の十八歳までと見るべきであろう。希天が学んだのは農事、漢方ばかりでなく、変装諜報などは朝飯前の高度の諜報術を体得していた。

 呉達閣も、周蔵が大道芸人風の武術の達人と観察していたから、彼らはある特殊な事情から幼少時に何処かで基礎的訓練を受け、天津に移ってからも、南開中学の周辺で本格的な訓練を受けたと見るべきであろう。しかも、希天はその期間に既に長子を成していた。真に恐るべき早熟の天才肌であった。

 ある特殊な事情として私(落合)が推察するのは、丹波の大江山衆の関係以外にない。呉達閣が士官三傑の一人呉禄貞の実子で、呉禄貞が丹波衆の血筋であることは、伝承に基づき先月稿で述べたが、長春の皮革商・王立廷の子息に生まれた希天にも、同じような事情があるのではないか。馬賊の跳梁する吉林での鍛錬は、天津南開中学の外郭での訓練に、カリキュラム的に繋がっている筈であり、ここに丹波大江山衆と天津南開中学を拠点としたワンワールド衆の深い関係を想像せざるを得ない。

 「上高田日誌」に戻る。「因って、水を吸う竹藪が都合良しとのことで、竹藪を借りたい」との政雄の言で周蔵は、竹藪の地主の鈴木質店に話してくれるよう、藤根に頼んだ。現在「日興パレス」と云う名のマンションが建つその地は、藤根の依頼で鳶の細井が借りてくれた。

 その竹藪に直播きしたケシの育ち具合を、三月、四月と周蔵が見に行くと、本数は少ないが幹は太かった。七月になり、竹林のケシから収穫したアヘンは良質で、周居應(=王希天)は大層喜んだ。王希天の助言によって、四年ぶりで、やっとケシらしいケシができたのである。元来ケシ栽培の実務に窮した周蔵が教えを請うたのは、政雄の祖母のウメノが紹介した呉達閣であった。「周蔵手記」には、これより前の大正十年十一月条に「周先生は相変わらず御調子が良い」とあるが、東大法学部に通っていた呉達閣に関する記事は全然ない。達閣はまた、京都以来の政雄の親友であった。その政雄が東大法科の学生として東京に居るのに、その名が「上高田日誌」に出てこないのは真に不可解であるが、無論事情があるのであろう。


 ★周蔵にも理解しがたかった南開ワンワールドとユダヤ


 ケシ栽培の成功を喜ぶ周居應は、「周さんとは言わず、王さんと呼んでほしい」と言った。「タノンマスト 云ハル」と、その口調を周蔵がわざわざ傍線付きで書いたのは、こなれた日本語に秘かに舌を巻いたからであろう。「四谷の帝国針灸医学校では周先生と呼ぶように」とのことであった。彼らが通う四谷城西教会に関心を持った周蔵が、政雄に尋ねると、「ダフヤラ 日本人デモ名ダタル人物、多ク通フラシイ」とのことである。「キリスト教徒の外人なら分かるが、日本人は一体、教会に何をしに行くのか」と問うと、「意外と日本の内部情報を売っているのではないか」と政雄は答えた。

 政雄も政雄で、「目分は彼ら(南開ワンワールド)の仲間ではないから」と言いながら、いわゆるユダヤについて、いろいろ教えてくれた。政雄がその事を良く知るのは、生家が丹波亀岡のアヤタチ上田家の血筋だからである。周蔵の聞く処では、外務大臣・陸奥宗光の子息・陸奥広吉が民国留学生を援助している。共済会の設立にも協力を約したという。ここでいう共済会は一般名称でなく、大正十一年九月二十一日、大島町三丁目二七八番地に王希天が設立した僑日共済会の事である。つまり、陸奥伯爵が希天らの支援をしていた。

 仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』によれば王希天は、「大正十年秋、(療養先の長岡温泉から)東京へ帰って、ポンピドー帰国のあと牧する者のいないメソジスト教会代理牧師として、また中日青年会幹事として働き、留学生に大きな影響を与えた」とある。実際は、仮病の結核の療養を装いながら、大正九年秋には周居應の変名で、白髪交じりの付け髭で老人に扮して四谷に帝国針灸漢方医学校を開いていたのだが、本名の王希天では、九年八月に(多分アルサスヘ?)帰国したポンピドーのあと牧師不在となったメソジスト教会の代理牧師となり、また中国青年会(神田北神保町に在ったYMCA)の幹事にもなった。

 周蔵から見ると、彼ら民国留学生は日本を探っているように見えるし、また彼らの都合に合わせて無知な日本人を教化しようとしているのになぜ陸奥宗光が国家の力をこういう者に貸そうとするのか分からない。彼らが考え違いをしていると思う周蔵は、★広吉が留学先の英国でワンワールドに入会し、外人娘を嫁に貰って来たのを知らなかったようだ。陸奥は共済会の会長となった王希天に毎月五〇円の援助を申し入れたが辞退された。

 陸奥と彼らの共通の奥底が、いわゆるユダヤだとの説明を、政雄から受けた周蔵は、そのユダヤが何かが分からない。政雄は「一つの人種で国を持たぬ種族」と謂う。しかし、それがなぜ周先生(王希天)と関係があるのか。「難しい、理解しがたい」と記した。「それに日本人も多いとのこと。国を持たぬ人種に日本人が何故多いのか。難しい。宗教の事かとも思う」。


    (40)-2 へ続く。

   




●疑史 (第66回)
 ●疑史 第六十六回  

 ★キッチナー元帥と奉天の古陶磁    評論家・落合莞爾 


 近来、中国政府は流出文物の回収に血眼である。新興財閥を使い、蒐集した文物を政府に寄贈した場合に税制の恩典を与える仕組みで、政府が労力を煩わさずに済むが、評価の公正を確保するために公開オークションによることが条件らしい。そこで各財閥は続々と独自のオークション会社を設立している。

 中国からの古文物の流出は一九一一年(明治四四年)十月十日に起きた辛亥革命により本格的に始まった。元来貿易収支の恒常黒字国であった清国は、アングロ・ユダヤ商人が持ち込んだアヘンにより逆調化し、一九世紀の後半は完全に赤字になった。以来貧窮化した民間から家什民具の如きは流出したが、古文物の目ぼしい物は悉く清朝皇室に集中していたから、日清戦後の列強侵略に遭った期間も、辛亥革命前では離宮が外国軍に襲われた義和団事件だけが例外で、目立った流出はなかった。

 明治四十二年、イギリス国王エドワード七世は、同盟国日本が宇都宮で陸軍大演習を行うに際し、皇族の名代としてインド軍司令官・キッチナー元帥を派遣した。中国陶磁の蒐集家であったキッチナーは、その機会を利用して北京に立ち寄り、次いで戦史研究の目的で旅順・南山・遼陽の日露の激戦地を視察するため、駐満第十一師団長・伊地知幸助中将の遼陽の宿舎に泊った。接伴の任に当ったのは満鉄総裁特別秘書の上田恭輔である。

 上田は『支那陶磁雑談』で当時を追憶する。アメリカに留学して博士号を取り、パリにも遊学した上田は美術に詳しかったから、奉天宮殿の磁器庫に康煕以後嘉慶までの歴朝官窯の御窯品が千六百六十種類、数量にして一万個を超すことを元帥に話した。すると元帥は興奮し、見学が許されるかと聞くから、遠来の貴人を断る筈はないと上田は答えた。重ねて元帥が、「もし見学に行ったら一点位は呉れるだろうか」と問うので、「歴代の御物ですから、それは無理でしょう」と上田は答えた。それが常識だったのである。しかしキッチナーが「いや、必ず呉れる筈だ」と自信ありげに云う。実は、北京では国賓待遇で幼帝溥儀主宰の宴会を受け、卓上に出た「桃花紅」の香合を褒めたところ、思いもよらず贈呈されて味をしめたからだが、上田はそれを知らなかったらしい。

 元帥から、「見学に行けば必ず一点を頂戴出来るように交渉せよ」との要請を受けた上田は、困惑しながらも満鉄奉天公所長・佐藤安之助中佐に斡旋を依頼し、奉天駐在英国領事・ウイルキンソンにも頼んで、東三省総督兼管三省将軍の錫良に一品下賜を懇請せしめた。錫良としては、下賜はともかく、奉天政府の極端な財政難の折から、元帥の突然の来奉を賄う費用(現時の邦貨で二~三億円)の目途が付かぬため、「北京に伺いを立てたが返事がまだない」との口実を構えて、おいそれと返事をしない。元帥は元帥で「頂戴出来ぬとあらば、見学には行かない」と不機嫌で上田に当たる。その場合には、一行は奉天の手前の蘇家屯駅から安奉線に乗り、朝鮮を経由して日本へ向かう予定で、明日は遼陽を立つと云う段になった。

 何とか接待費の遣り繰りを付けた錫良総督は、急遽進元帥一行の宿泊施設を奉天宮殿内に新設し、天津のアスターハウス・ホテルから多数のボーイを呼ぶ段取りを付け、北京からようやく一品贈呈の許可を得たと報じてきた。その吉報は、伊地知師団長主宰の送別宴会の席上に、奉天英国領事館と満鉄奉天公所の双方から同時に電報でもたらされた。忽ち上機嫌になった元帥は、一行を引き連れて奉天に向かい、宮殿内域の商品陳列所を改造した俄か迎賓館に入ることとなり、独りで磁器庫の見学に向かった。


 上田が同行しなかったのは、元帥一行の旅程を朝鮮総督府と打ち合わせることと、折から、ロシア蔵相・ココツェフトとの非公式の会談のためにハルビンに向かう枢密院議長・伊藤博文に随行していた満鉄総裁・中村是公に(おそらく電報で)報告する必要があったためで、満鉄奉天公所に留まった。時に旧暦九月十三日、新暦では十月二十六日であった。午前九時に伊藤の乗った特別車両はハルビン駅に到着し、降り立ったプラットホーム駅でロシア儀杖兵を閲兵している時に伊藤は暗殺される。犯行は、伊藤に随行していた貴族院議員・室田義文の証言を無視して、韓国人テロリスト安重根によるものと看做されて、今日に至っている。

 ところが、キッチナー元帥の如上の行動を、日本陸軍が偶然を装って伊藤博文と遭遇させ、互いに面晤させて伊藤の進める日露協商に対する海洋勢力側の意思を伝える目的があったとする解釈がある。国際協調主義の信念を強く保持していた伊藤は明治三十四年、後任首相桂太郎の策によって日露協商推進のためにペテルブルグを訪問中、突如日英同盟を締結されて政治的権力を失ったが、ロシアの蔵相兼首相(大臣会議議長)ココツェフとの非公式会見は後藤新平の周旋によるもので、日露戦後の満洲・朝鮮問題を話し合うためと推測されていた。真相は分からないが、とにかくイギリスを本拠としたワンワールド海洋勢力系の意向には合致しないことは確かである。もし偶々にせよ、キッチナーが奉天に滞在中なら、特別列車の運行予定を変更して短時間の表敬会見はむしろ当然で、その機会に率直な意見交換が有り得た状況であった。実際は、伊藤一行は一日違いで奉天駅を通過し、キッチナーが奉天に着いた時にはハルビン駅で襲撃された後であったが、或いはこれは、錫良が面子にこだわったために奉天宮殿の磁器庫見学が一両日遅れ、それにより生じた齟齬かも知れないし、この企みを事前に察知した伊藤が、奉天での元帥との邂逅を故意に避けたとの見方もあろう。

 当時の人的配置を見れば、キッチナー一行の接遇に当たった伊地知中将は、紛れもなく薩摩ワンワールドの一員であった。当時、薩摩ワンワールドの総長は高島鞆之助で、その地位を間もなく上原勇作中将に譲ろうとしていた。満鉄総裁・中村是公は、台湾総督府以来の後藤新平の腹心である。後藤は、岳父・安場保和が杉山茂丸の要請を受け、福岡県知事として石炭採掘権を玄洋社に払い下げてその財政基盤を創造したことから、当然玄洋社との関係が深く、また上原勇作とは、後の原敬暗殺に際して、手を取り合って玄洋社員を使嗾した仲で、さらには、後の大正十四年の事ながら腹心・中村是公の五女愛子が上原勇作の長男七之助と結婚する間柄でもある。

 上田恭輔は、日露戦中に児玉源太郎の奏任通訳となり、満鉄設立のためにイギリス東インド会社の研究をした事で知られているが、台湾総督府以来の後藤・中村ラインで、後藤の関与が濃厚な児玉の急死により満鉄の初代総裁に就いた後藤が、二代目総裁に据えた中村是公の特別秘書となっていた。伊藤を実際に銃撃したのは、韓国駐箚軍参謀長兼憲兵隊長の★明石元二郎少将が選抜した狙撃手と見られる。明石は玄洋社系軍人で、上原勇作の股肱であった。こうして観れば、上田恭輔が中村是公の意を受けて、キッチナーの奉天訪問を企んだ仮説にも根拠はある。

 ともかく、伊藤博文が明石少将の指揮でハルビン駅頭に倒れたその日、キッチナーは単身奉天宮殿内の翔鳳閣の二階の磁器庫でほとんど半日を費やし、午後四時になると大きな箱を二つぶら下げて意気揚々と迎賓館に帰ってきた。「オヤ元帥閣下、あの電信には一品とあったじゃありませぬか?」と訝る上田に、キッチナーは、「ソーさ。支那古来の風習に因って一品と言へば一對のことであり、一個のことでは無いじゃないか」と即答したので、その厚顔ぶりに上田は二の句が次げない。

 上田は、この事件でもう一度驚かされた。後日偶然に奉天宮殿の古陶目録の台帳のコピーを入手し、多大の興味を以て通覧していると、「江豆紅太白尊一百四十八件」の項目の下に細字を以て「内二件、宣統元年九月十三日に於て総督・錫良、巡撫程徳全偏旨を奉遵して英国元帥・希基拉(キッチナー)将軍に送る」と記入してあった。ところが同頁の「紅豆紅八道碼瓶二十八件」の下にも同じ文句が書いてある。電文をかざして、「一品は一対だから二個寄越せ」と強請したキッチナーに清国大官が便乗したのだ。しかも「八道碼瓶」は「太白尊」より遥かに巨物で、その価値は計り知れないのである。正に、上には上があることを、上田は実感した。

 第一次大戦中の大正五年六月五日、特命を受けて装甲巡洋艦ハンプシャーでロシアヘ向かったキッチナーは、ドイツ潜水艦によりバルト海で沈没し(ウィキペディア)、幕僚と乗組員六四三名が死亡したが、キッチナーの遺体は発見されなかった。その後、元帥の遺言状に基づき、遺産を処分して幕僚の遺族に分配するため、中国陶磁のコレクションを競売に付した処、「江豆紅太白尊」一対が四千五百ポンドで落札された。金兌換停止当時の事で正確にはいかぬが、当時の英貨一ポンドは本位制下の金含有量で一〇・六五円に当たり、これを適用すると四万八千円になり、今日の物価では四億円を超すことになる。とすると、総督と巡撫が横領した「八道碼 瓶」は(どんなものなのか私には分からないが)どれほどの価値があるのか。それが市場に出ないのは不思議である。

 前に、北京でキッチナーが、皇帝溥儀から「桃花紅合子」一対を頂戴したとの推測を述べたのは、★細川護貞・『怡園随筆』に以下の文があるからである。

 昭和三十一年十一月十日、パーシヴァル・デヴィッドと細川護貞は博物館の一室で会った。初来日のデヴィッドは護貞の父・細川護立侯の蒐集品を見に来たのである。護貞が持参した父の遺品「桃花紅」の対の香合を眺めていたデヴィッドは語りだす。「キッチナーはインド駐在から格下げの中国駐在を自ら希望した。ある時、清国皇帝の招宴に連なり、宮殿の名器に嘆声を発した処、高官から《何かお気に召されたか?)と問われ、桃花紅の香合一対と花瓶一対が好みに合うと答えた処、下賜されたので、二対の名品はキッチナーの所有となった。その死後、この二対はパートリッジ氏の所有となり、次いでワイドナー・コレクションに入り、現にアメリカのナショナル・ギャラリーの所有に帰している。

 実は、上田が見た奉天の古陶台帳の写しは日本にもある。国立国会図書館アジア歴史センターの「清国革命動乱の際奉天宮殿宝物売却凡説一件」と題した記録の中に在り、上田の云う贈呈の記録もそのまま書かれている。他には、そんな記録はないから、北京ではともかく、奉天では余程の例外だった。その中に香合一対の贈呈記録はないから、元帥遺品の中に在る香合は、北京でせしめてきたもので、両者をまとめた話になったのだ。

 『怡園随筆』のこの項には間違いが多いが(例えば戦前も日本に来ているデヴィッドを初来日としたり、キッチナーが中国駐在になったり)、おそらく護貞の聞き誤りであろう。こうして訛伝が生じて世人を惑わすが、決して意図的ではないので、偽史ではない。むしろ史実を立体的に見る材料となるなど、書き遺してくれたことを感謝すべきであろう。  
 

 ●疑史 第六十六回    <了> 






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