カウンター 読書日記 2010年03月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(39)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(39)
  呉達閣、周恩来、王希天をめぐる”点と線” 


 ★日本で丹波衆を師匠に芥子栽培まで学ぶ? 


 日本陸軍士官学校・清国学生隊第一期を出て帰国し、士官三傑の一人として清朝陸軍内で嘱望された呉達閣は、保定陸軍第六軍で統制(師団長)の要職に任じていたが、明治四十四年十月十日に勃発した辛亥革命に際して清軍の鎮圧活動を妨害しようとして十一月六日、石家荘駅の駅長室において暗殺された。享年僅かに三十二歳であった。

 禄貞の隠し子とされる呉達閣は、伝記によると、光緒二十(一八九四・明治二十七)年の農暦四月十三日、満洲(東三省)吉林省の九台県で生まれた。奇しくも吉薗周蔵より五日だけ若い。禄貞十四歳の時の子とは、幾ら早婚の清国でも早いが、有り得ぬことはなく、既に血統を謀る以上生年の偽りもあろう。一応公称の通り信じると、生家は農牧を営み、祖籍は河北省楽亭県で、曾祖母に満族・屈氏が入り母は張氏である。

 禄貞暗殺の時十七歳の達閣は、家庭教師に学んでいたが、来日以後の行状を見ると、幼少時に文武から芥子栽培に亘るまで様々な修業を積んだと観る外ない。諜報術も言わずもがなで、師匠は恐らく満洲で馬賊として清動していた丹波衆であろう。緑林仲間の張作霖を裏面指導していた王文泰こと出口清吉、奉天で賭博場を開いていた江崙波こと辺見勇彦、その辺見の名を借りた牧口某らは、幼少期に土佐伊予の境の習練所で文武両道の厳しい訓練を受けていた。後輩育成も家職の一つであろうから、彼らが直に達閣の指導に当たった可能性もある。満洲は芥子栽培の本場で、阿片は馬賊の本職でもあったから、意識すれば、芥子学習の機会は多い。

 大正六年十月、周蔵が渡辺ウメノに芥子栽培の秘訣を請うたところ、「詳しい事はこの人から聞くが良い」と紹介されたのが、孫の渡辺政雄の下宿に住んでいた呉達閣で、「達閣はんは、オマンの知りよる槇玄範はんとも心安い仲や」と聞いた。槇玄範はウメノのいとこ・上田吉松の実子である。一年前に来日した呉達閣は、語学校に通って日本語を習い、すんなり一高特別予科に合格した。その間、東京と京都以外に旅行する余裕はなく、青森県下北半島の小目名に住んだ槇玄範と親しいなぞ通常あり得ることではない。丹波衆の元締めたるアヤタチ(怪立)上田吉松の実子玄範と清人の達閣が親しいとなると、達閣は幼少時に秘かに来日して玄範の訓練を受けていたのではないか。南開中学切っての秀才周恩来があれだけ日本語に苦しんだのに同学年の達閣と王希天は苦にもせず、易々と一高予科に合格した。

 因みに、近来「周恩来のいた上御霊前の家に住む某氏」と耳に挟んで、ピンと来たのは、某氏を丹波衆の外郭と観たからである。周恩来の住居なら取りも直さず呉達閣の寓居である。大正六年秋、周蔵が渡辺政雄を訪ねた家に達閣と周恩来は居たが、★其処は先月稿に述べた「吉田阿達町」でなく上御霊前だったのではないか。大正三年に上御霊前に居たウメノは、三年後に尋ねたら修学院村に越していて、東北から帰省した孫の政雄を縁者宅に預けていた。縁者は当然丹波衆で、その宅はウメノ旧居のあった上御霊前ではなかったか。とすると、吉田阿達町の下宿は、大正七年一高予科に復学した達閣が三高文科を本科に選び、京都に移って来てからの住所ということになる。この可能性の方が高いので、前回説を然るべく★訂正したい。


 ★メソジスト派が支援した南開中学に集まった面々 


 光格天皇以来、北朝皇統に仕える丹波衆は諜報員として活動した。上田吉松が津軽薄医の娘に産ませた鬼一郎が医師の槇家に入り、三代目・槇玄範となった。当地で大本教を開いたことは、『大畑町史』にある。玄範の弟の上田鬼三郎(喜三郎)は、綾部で出口王仁三郎となって大本教を広めた。満洲には多数の丹波衆が渡り、馬賊となって新興曰本の対ロシア戦略を支えた。呉達閣か満洲に里子に出されたのも、父禄貞の出生から始まる丹波衆の満洲経綸の一端と考えられる。

 革命の翌年、吉林陸軍小学を目指した達閣は、辛亥革命で同校が取消になり、吉林省立一中に入学するが、革命党の地下工作員・王者師と知り合い入党する。翌大正二年、官憲の圧迫が身辺に及ぶことを察知した達閣は吉林省を去り、天津南開中学に転入する。同校は、清末の進士・厳修(字は範孫)が張伯苓を招いて明治三十七(一九〇四)年に設立し、当初は天津敬業学堂と称したが、三十九年天津南開学校と改称した。大正元年に天津南開中学と改称したのは曰本の学制に倣ったもので、名称の通り旧制中等学教と同等の教育機関となった。明治九年生まれの張伯苓は、天津水師学堂に学んで海軍士官となった後教育界に転じ厳修の下で新学を修めた。張伯苓が厳修と共に設立した南開学校は、キリスト教メソジスト派の支援を受けていた。メソジスト派がヴァチカン系ワンワールド(国際秘密勢力)に属したのは当然で、世界各地で秘密工作を行ったのは、他のキリスト教諸派と択ぶところはない。康有為の洋教運動に加わった厳修も、海軍士官教育を受けた張伯苓も、ワンワールドの一拠点たる天津で入会したものと思われる。南開中学が曰本の学制に倣ったのは、卒業生を円滑に曰本の高等教育教関に送り込むためで、背後にワンワールドの曰本工作の意図を見るべきである。

 してみると、中学と教称した南開学校に達閣が編入したのも、曰本研究と留学のためで、決して偶然とは言えまい。達閣の実父・呉禄貞が、明治三十九(一九〇六)年の秋、京都皇統の意を受けた曰野強少佐の新疆探索に随行した時、蘭州で甘粛巡撫に語った発言から、康有為派と看做されて死刑に瀕したことは前月稿で述べたが、呉禄貞もワンワールドに入っていた。大正二年に南開中学に転入した十九歳の呉達閣は丁班に編入されたが、同年九月に十五才の周恩來が転入してきて隣に座った。周恩來の天津行は、世話になっていた叔父の天津転勤に伴うもので、特に妖しい点はなく、転校先が南開中学だったのを運命というべきであろう。 


 ★王希天と張作霖をつなぐ“深い関係”のカギは・・・ 


 しかしながら王希天の南開中学転入は偶然とも思えない。明治二十九(一八九六)年吉林省長春で生まれた希天は、達閣より二歳下で恩来より二歳上である。大正元年に吉林一中に入った(仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』)というから達閣と同学年であるが、達閣は翌年天津に移り南開中学へ転入した。希天も大正三年秋の学校紛争で退学させられ、南開学校出身の教師の計らいで南開中学に転校した。再び呉達閣と同学年になり、周恩来とも知りあうが、今度は希天が大正四年に一足先に曰本に留学、二年の語学研修の後で大正六年に一高特別予科に入学した。達閣は一年後の大正五年に渡日し、六年に一高予科に合格、ここで三度希天と同学年になった。周恩來は更に一年遅れて大正六年に日本に渡る。

 近来中国で流れる風聞は、王希天の家は張作霖家と代々深い関係にあったと謂う。王の父・王立廷は長春で馬具など皮革商品を扱う豪商であった(仁木ふみ子前掲)。一方、張作霖の父の張孝文は直隷省からの流民で奉天省海城県に住んだ。古野直也『張家三代の興亡』によれば、父・孝文は女房に百姓をさせていた博打好きの遊び人で、旅先の義県で博打中にイカサマを見破られ、遊び仲間の王某にその場で射殺された。張作霖十四歳の時で明治二十年頃のことらしい。白雲荘主人著『張作霖』によれば、頓死したのは張作相の家であった。奉天育ちの張学良が、長春で育った五歳年上の王希天と、幼時より知っていたとする風聞は俄かに首肯し難いが、一概に否定すべきではない。私(落合)の甘粕正彦論を「証拠があるか」と謗るのはまだしも、己の洞察欠如を顧みず「荒唐無稽」と侮る売文家がいるが、歴史解明の要訣は理論物理学と同じく洞察に在り、重要なのは「物証より論証」である。

 ともかく、奉天の張氏と長春の王氏が代々深い関係にあるとは一見不可解で、まさか張孝文射殺犯の王某が王立廷と関係がある訳ではあるまい。張学良は明治三十四年に奉天省(現在の遼寧省)台安県で馬賊の頭目・張作霖の長男に生まれた。学良二歳の時、父は新民府で清朝の正規軍人となり、翌年日露戦争に際会するが、成行を眺めた後に日本に加担し、戦後は奉天総督の下で討伐に明け暮れて寧日がなかった。一方、吉林で育った希天は、学良十三歳の大正三年に天津に移り、翌年日本に渡る。それ以前に、幼い学良が長春に行くことは有り得ないから、仮に希天に出会ったとしたら、希天が新民府辺りを来訪した場合しかない。

 白雲荘主人『張作霖』によれば、日露開戦の前年、八角台で馬賊生活を送っていた張作霖を清朝に帰順させようとした新民府の知府・増総子と、張作霖夫人の実家の趙氏が諮って差し向けた宣撫使が新民府巡警局長・王
奉延で、新民府有数の有力者で警察署長の他に陸軍将校の肩書を有し、後に陸軍参謀にも任じたほどの才物であった。王奉延の働きで、めでたく帰順に成功した張作霖が馬賊仲間を率いて官兵となるや、増知府と趙氏は王奉延を白旗堡の巡警局長に転任せしめ、張作霖は帰順後一年足らずで新民府の兵権を掌握した。或いは、この王奉延が希天の父・王立延と関係があったかも知れず、学良の母の実家で新民府の富豪・趙氏も、吉林の王氏と縁戚であった可能性もあるのではないか。


 ★「誰一人として、王と周を同一人とは思っておらん」 


 周蔵が呉達閣と再会したのは大正十年であった。渡辺ウメノの依頼に応じ、大正六年秋以来、府下野方村の上高田九六番地に設けた第二救命院にウメノの孫の政雄を住まわせ、芥子の研究栽培を委託していた周蔵が、三月に尋ねると客人が二人いた。「周蔵手記別紙記載・上高田日記」に曰く、

 「呉達閣と謂う人物には(政雄の親友だから)さして驚かなかったが、もう一人の人物には驚く。本を探しに四谷まで行ったら教会の前で出会った由」。もう一人の人物は周蔵に語りかけた。「(ヨシソノさん。私の顔に髭を付けて見てくれないか」と云わる。意味が呑み込めんでおると、《白髪交じりの髭をここに想像してみてご覧よ》と云わる。驚く。実に驚く」。

 周蔵は、呉秀三の勧めで前年十月一日から四谷の帝国針灸漢方医学校に通い、校長・周居應から漢方を学んでいた。言われた通り達閣の連れの顔に髭を想像して見たら、同先生なので驚いた。周蔵を指して政雄は、「《この人物は、これでも★薩摩隼人だからね。日本人の中では一番コスモポリタンだから、心配要らないよ」と云う。周さんは、《良く分かってをる》と云わる」。薩英戦争に敗れた薩摩藩は、イギリスの国力と世界の大勢を覚り、英国を本拠とするワンワールド海洋勢力に進んで加わり、★在英ワンワールド薩摩支部が生まれた。「薩摩隼人が日本人の中では一番コスモポリタン」とはその事を謂う。今日の史家も、まるで気付かぬ其の秘密を政雄が知っていたのは、丹波穴太の上田アヤタチの血筋だからで、ここに重大な意味がある。

 周蔵は、周先生が変装している理由が解らない。「自分は意味が理解出来ないでおったが、辺(政雄)さんから説明受くる。大体周先生は、体を悪くしたと云うことで、当分灸の学校は休むと言っていたのだ。《帝國針灸はだふなるか》と云うと、《あれまたやるから》と答えらる」。

 彼らの帰った後で、政雄は説明した。「まず辺さん云はるに、周先生は本名を王キテン、希天と書くとのこと。去年(大正九年)四月から名古屋の八高に入った由。何でも一昨年の前(大正七年)かに神田で演説をやってつかまり、呉達閣もつかまり、その後支那料理屋の二階でゴロゴロしておったが、周先生は四谷にシンキュウ帝國医専を作られた由」。

 仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』に「八年春に一高予科を卒業した希天は同年秋に八高に入り二年間を名古屋で過ごすが、結核で一年問休学したため八高は退学を余儀なくされ、長岡海岸で療養生活を送る。大正十年秋、東京へ帰ってポンピドー帰国の後、牧する者のいないメソジスト教会の代理牧師として云々」とあるのは、希天の表帳簿であるから、「周蔵手記」と矛盾していて当然である。まず、結核は仮病と伝わる。何しろ周居應こと王希天は、震災下の亀戸で虐殺されたと装い、生き延びて百木姓を名乗り、千葉県布佐に住んで長寿を全うした。周蔵死後も遺族とは親交があったから、吉薗家に多くの伝承がある。

「誰一人として、王と周を同一人とは思っておらん由。あきれる。《呉先生(呉秀三や癲狂院ではだふか)と聞くと、《呉先生でも知らぬ筈》とのこと。《仲間のポール・ナニガシかポンピダフなる人物しか知らないだらふ》と言う」。
 「周蔵手記」の上記部分はこれまでに何度も掲載したが、今回も出したのは稿料稼ぎの二番前じではない。私(落合)が次第に真相に近付き、解説が深化していることを示すためである。

★甘粕正彦と組んで虐殺被害者を装う 


 八高を仮病で退学した希天は秘かに東京に舞い戻り、元年秋以前に周居應の名で四谷に帝国針灸漢方医学校を開いた。周蔵・達閣より二歳下で二十五歳の希天が、老人に化けて日本人相手に漢方を講義するのを、スパイ術を石光真清から一応学んだ周蔵さえ、見分けがつかなかった。民国(大正)元年、周蔵が陸軍大臣・上原勇作にお目通りした年に、十八歳の呉達閣は吉林陸軍小学を受験し、革命で閉校されたため吉林一中へ入るが、それ以前に文武及び諜報術を修めていた。周蔵が京都の下宿で、達閣を武道の達人で大道芸人風と評したのは、諜報術の一端を誇示したからであろう。達閣と希天は、吉林一中でも南開中学でも一高予科でも、一年間ながら同学年であった。達閣も希天も中学以前に諜報術を修業したことは明らかで、吉林一中、南開中学時代にも諜報術の洗練を怠らなかった。希天は殊に天才肌だけにかなりの域に達していた筈で、達閣も伝記は相撲の達人と伝えている。

 丹波衆の血を引く呉禄貞の実子達閣は家職を継ぐため幼時から諜報術を修めたが、富豪の子息希天がその道に入ったのも、結局その家系に原因するものと推察するしかない。人名事典の公称経歴では、大正七年に一高特別予科に復学した達閣は、三高分科を卒業後東京帝大法科本科に入学、大正十三年に卒業、学績優良を以て大学院に進み、一年で修士の学位を受けた。大正十四年には吉林省官費を以てアメリカに留学、シカゴ大学大学院に入る。

 大正十年三月、東大に入学するために上京してきた達閣が、学友で同志の王希天と四谷の城西教会に行ったところ、神田の本屋へ行った政雄と偶然出くわした。仁木ふみ子前掲に「長岡温泉で療養後、大正十年秋、東京へ帰ってポンピドー帰国の後、牧する者のいないメソジスト教会の代理牧師」とあるのは公称で、実は九年に老人周居應に化けて四谷で帝国針灸漢方医学校を開いた。そこへ通うように周蔵に指示した東大医学部教授・呉秀三は、周居應の一面を知っていたが、その正体が王希天なる民国留学生とは知らなかった。呉秀三も上原勇作との関係深く、ドイツ留学でワンワールドに加わったと見られるが、深入りしなかったのであろう。

 唯一王希天の正体を知る「仲間のポンピドーとポール・ラッシュ」とは、前者はメソジストで、後者は聖公会の聖職者である。ヴァチカン・ワンワールドに加入していた希天は、来日直後から神田の中華YMCAを活動拠点として、帰国するポンピドーの後のメソジスト教会の代理牧師を引き受けた。希天のワンワールド加入の時期は、一年間在籍しただけの南開中学時代ではあるまい。幼少から文武と諜報術の修業をさせられたのは、「家職がワンワールド結社員だから」であろう。


 南開三羽烏は日本を足場にした後、呉達閣がアメリカ→張学良秘書→国民党、周恩来がフランス→中国共産党と持場を固め、西安事変により世界史の転回をもたらした。王希天が甘粕と組んで虐殺被害者を演じたのは、ワンワールドから脱退するためであったと聞く。  


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(39)   <了> 
 
 

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 ●疑史(第65回)

 ●疑史(第65回)  甘粕正彦と石原莞爾と東條英機  評論家・落合莞爾


  *************

 前月は番外編としたが、再び甘柏正彦論に戻る。「周蔵手記」に甘粕の名が出てくる三十一回目が、「昭和十二年十月頭条」である。同年九月に入って吉薗周蔵は、参謀本部第一部長の石原莞爾少将から、間もなく関東軍参謀副長として満洲に行くと告げられた。「もう遅い」と石原は言ったが、周蔵は九月二十七日付で関東軍参謀副長に就いた石原を満洲に訪ねることにした。

 「十月頭、石原サンノ後ヲ追フ気分デ、満州二行ク。甘粕ガ カナリノ官権ヲ握ラレテヲルノニ驚ク。正二軍服ヲ着ナイ軍人デアッテ、元々ガ強イ人デアラレルカラ、優勢デアル事二驚ク。金主デアルラシク、地位ヲ持ッタ軍人ガ、ヤタラ ヘーコラシテヰルノガ、見ルニ辛ラカッタ」。昭和四年秋以来、満洲を拠点とした甘粕は、昭和七年三月に満洲国建国の功労で民政部警務司長(警察庁長官)に任じ、翌年宮内府諮議、十二年四月から協和会中央本部総務部長に就いた。甘粕が関東軍の軍人を牛耳ったのは、周蔵も観察しているように金の力であった。その源泉は、大正七年三月にブラゴヴェヒチェンスクのロシア国立銀行金庫から黒河のロシア領事館に移されたシベリア砂金で、日露間の武器代金の決済のため、ロシア中央政府の命令でホルワット臨時政府に送られたと聞く。

 砂金は上原参謀総長の命令で黒竜江省の各地に隠匿され、張作霖支援の資金とする予定であったが、田中義一と蒋介石の青山会談で張作霖支援が殺害計画に変更されて不要となり、上原の後継者甘粕正彦の満洲での活動資金となった。この砂金を用いて甘粕は、東条英機以下の関東軍上層部と、岸信介ら満洲国高官を操縦して、権勢並びない立場を作ったのである。満洲国建国の功労と称して甘粕に贈与された金山は、実は廃鉱で、シベリア砂金をロンダリングするための装置であった。

 十一年十月に商工省工務局長から満洲国に移り、実業部総務司長を経て七月に産業部次長に就いた岸信介(明治二十九年生まれ)と総務長官・星野直樹(明治二十五年生まれ)が、明治二十四年生まれの甘粕よりも年下ながら、国家機構上では甘粕より上にいた。法匪と呼ばれようと、肩で風切る勢いであったが、何しろ甘粕は関東軍を動かせた。

 「石原サンハ 《云ッタ通り 来ルニ及バズ ダッタラフ」ト云ハル。《マフ内地二戻ッテ 紙ノ札ヲ 金トシテノ証シニナル 不動産ニデモ 代ヘル算段ヲシタ方ガ良イヨ》ト云ハル。《自分ハ ソンナ気ハナイ》ト云フト、《軍人デハナイカラ、コノママデハ 最後二損ヲスルヨ》ト云ハル」。この忠告を、さすがに庶民の事を良く知る石原の言葉と思い、周蔵は感謝した。以前、石原が仙台に居た頃に二度程訪ねたが、その折部下の一人から、石原の気づかいに感心したと聞いた。昭和八年から丸二年、石原が歩兵第四連隊長として仙台に勤務した時のことである。初年兵の入営の朝、雨中を兵舎外に並んでいた初年兵は、大部分が羽織袴姿であった。そこへ営門から乗馬で入ってきた石原から、いきなり「紋付は借り物だぞ」と怒鳴られたと石原の部下は語った。紋付を雨に濡らしては、返す時に問題になると、注意したのである。従来の連隊長なら、そんなことを気にもせず並ばせておくが、このような思いやりが、あの図抜けた頭脳から出てくることが不思議とさえ、周蔵には思えた。

 「トカク、頭ノ切レル人間ハ 他ヲ無視シ 冷タイモノデアラフニト 石原サンノ人間味ニハ、頭ノ切レルトハ 違ッタモノヲ感ヂル。日蓮上人ノ生レ代リ、或イハ スベテ日蓮上人ノ示唆ニヨル、ト云ハルル時、冗談カトモ思フガ、庶民ニマデユキ屈ク 思ヒヤリヲ知ルト、ツクヅク 冗談デハナイノダ ト思ユル」。石原莞爾は、自ら日蓮上人の生まれ変わりと、本気で信じていた。少なくとも、周蔵にはそう言った。冗談とは思った周蔵も、石原の人間愛に他の天才とは明らかに異なる点を感じ、「冗談どころか本当かもしれん」と思ったのである。

 因みに、先日高校の同窓会に出たところ、共産党の市会議員を数十年勤める学友が、不肖に名前の由来を聞くから、「母が不肖を受胎された頃、第十六師団長たった石原中将が一日和歌山へ来られた。そこで父が将軍の名前を頂いたと聞く」と答えたら、「石原なんて、あんなもん戦争屋の人殺しやないか」と応じたのには驚いた。史観の対立は容認せねばならず、人により好悪の違いもあり、人物月且にも差異はあろう。それを許すのが思想の自由と信じて、史観の違いを超えてその市議に投票してきた同窓生も多い。しかしこれを聞いて自分は、今まで考えが甘かったと覚った。

 これが石原莞爾に対する日本共産党の価値観なのだ。確かに石原は終世軍人であったから、下品に渉るが、戦争屋との言い方もあろう。しかし、いやしくも地方政治家なら、軍隊が単に殺戮を目的とする機関でないことくらい心得ていよう。現に共産主義社会では軍事行動を重視し、軍備の充実を眼目としているではないか。そのことを是認しながらも日本共産党は、反日的立場を未だに固持して、祖先の行為を自ら貶めているのである。戦後の学校歴史が満州事変を単純に否定するから、石原莞爾に対する曲解も正当化され、無知を誇って罵倒三昧に終始する。国費で行う教育が国民の歴史を改ざんし、反国家・反社会勢力を別しているのである。

 石原と甘粕と満洲国の関係が実際はどうであったか、「周蔵手記」に戻る。「満州ハ変ッテシマッテヰタ。軍人ダケデハナク、日本ノ官僚ガ法匪ト云ハレルラシイガ、大層 肩デ風ヲ切ッテ ノサバッテヲル。以前二 石原サンカラ聞カサレタ、満蒙二描イタ青写真ハ マッタク無クナッテヰタ。一日タリトモ 長クヲルノハ 嫌デアッタ。コンナ日本人ノ顔ヲ 見ルノモ嫌ダト 思ッタ」。昭和に入って進みだす日本の社会主義化は、満洲で実験された。社会主義を支えるのは法律体系で、作るのは官僚である。

 「甘粕サン、満州二映画會社作ルノ由。資金ノ事デ 内地二行ク予定トノ事。再来年クライニト、予定シテヰル由」。満映の経緯は、公称では次の通りである。昭和十二年国策会社として満洲映画協会が設立され、資本金五百万円を満洲国と満鉄が折半し、初代の理事長に川島芳子の兄の金壁東が就いた。しかし成績が上がらないので、二年後に甘粕を二代目理事長に就けたのは、甘粕の処遇を案じていた岸信介と武藤富男である。


 しかしながら真相は、周蔵が昭和十二年十月に甘粕から聞いた通りで、再来年くらいに映画会社を作る予定で、資金作りに内地へ行くと言っていた。すべては甘粕が二年越しに企画したもので、岸と武藤は狂言回しに過ぎなかった。そもそも映画はフィルムと映写機があれば作れるものではなく、脚本から劇場までに渉る長大な工程で完成される巨大複雑な産業システムであって、甘柏が満洲でこれを実現するには、天津のワンワールド勢力の支援を必要とした。そのための二年間だったのである。

 「周蔵手記」の本紀は昭和十四年を以て終わるが、最後は甘粕に関する三十二回目の記事である。「満洲キネマノ事、甘粕サンカラ聞く。応援者ハ 薩摩トツキアフ 連中ラシイ。カクトヲ氏モ 関係シテヰルヤフダ。尤、カクトヲ氏ヘノ薬ハ 甘粕サン回リデアルカラ、全テ連鎖ナノデアラフカ」。甘粕は二年前の言の通り、昭和十四年に内地に来て、周蔵に満映(満洲キネマ)の事を説明した。新たに映画会社を興すのではなく、満映の二代目理事長を継いだのである。甘粕が映画事業の応援を取り付けてきた相手は、薩摩治郎八と交際するワンワールドの連中で、別派のジャン・コクトーとも関係しているようだが、周蔵は甘粕経由で延命アヘンをコクトーに出しているから、すべてが連鎖していると、周蔵は感じた。 


 「ナチスハ ユダヤヲ 追放シテヰルノデアルニ、甘粕サンハ ユダヤ系ノ秘密結社ト繋ガッテヰテノ、キネマデアル ヤフデアルニ、東条ハ?」。昭和十二年に締結した日独伊防共協定は、帝国陸軍の意向で十三年夏から十四年にかけて強化された。ドイツの政権党ナチスはユダヤ人の追放を始めたが、甘柏はユダヤ系秘密結社と繋がったからこそ映画事業を進めることができるのに、甘粕と結託した東条は何を考えているのだろうかと、周蔵には疑問が沸いた。「石原サンノ説ナラ、東条ノ頭ニハ 主義モ思想モナイトノ事デアルカラ・・・アルイハ 思考ハ甘粕サンニ任セテヰル ト云フ事ナノデアラフカ。深ク考フルト 実ニ嫌ダ。然シ、親父殿ノ説ナラ、起ッタ事二 収マラナイ事ハナイト云フ」。

 石原が東条と比較される度に、「自分には思想があるが東条にはない」と公言していたことは広く知られている。思想理念を重視して世俗権力をバカにした石原は、甘粕の工作で東条に妨害され、経綸を実行に移せず失意のままに死んだ。どんな組織でも一つの社会であるから、必ず権力者が生まれる。当時の陸軍が統制派の制する処となった経緯は省くが、青年将校の内外情勢に対する危機感が集合無意識となって、独裁者東条英機を生んだ。憲兵をゲシュタポ、ゲーペーウーに等しきものとして活用した東条は、満洲で産するアヘンを資金源として、秘かに配下勢力を養った。法律に則り官権・軍権を以て個人の自由を奪い、金銭・地位を与えて人の行動を誘導する。これをしも金権支配と呼ぶが、組織支配の要諦中の要諦で思想も理念もへったくれもない。

 国運の行く先に塗炭の地獄を予見した石原の、言の通りに事態は進む。剛腕政治家が、甘粕正彦に操られて日本を破滅に導いていくのを、眼の当たりに見た周蔵は、「深ク考フルト 実二嫌ダ」と嘆いた。

 マックス・ウエーバーが「経済と社会」で、社会支配の三大類型として「合法的支配」、「伝統的支配」及び「カリスマ的支配」を掲げたが、「合法的支配」社会が、社会構成員たちの弱さによって非合理的に運営され、結果的に非合法をもたらすのが「全権的支配」である。金権支配を樹立した権力者は、国民の批判を恐れる必要なく、勝手気ままに政敵を束縛し、人権を蹂躙する。政党助成金を制度化して国帑を以て配下を養い、政治資金規正法を強制しながら自らは縛られない。資金を与えて議員とした配下を投票マシンと看看做して議場を投票所と化す。批判の絶えた政界に在って自制心は働かず、理念なき頭を国際秘密勢力に操られて国益を破毀し、隣国の蹂躙を受けて国民は嘲弄され、社会の伝統は損壊する。平成僥季の世に当たり、読者には同感を抱かれずやと思う。


 問題は甘粕で、周蔵は基本的に「国事を主として心身をそれに捧げた」と観ていたが、一方でワンワールドとの強い絆も知り、真相は終に理解しえなかった。軍服を着ない軍人の甘粕が、自決の機に至り、態と(わざと)短銃を捨てて青酸カリを求めたのは、いかにも軍人にそぐわない。周蔵がその真相を記した「別紙記載」は、今は★国家機関が押収して真相の暴露を防いでいるのではないかと思う。


 ●疑史(第65回)   <了>






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