カウンター 読書日記 2010年02月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(38)ー2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(38)ー2
   

 ★「(大谷光瑞)伯の好意」は秘密探査事項の具体的指示 


 十月十六日、汽車で保定を出た日野は鄭州で下車し、以後の騎馬行の準備のために二泊してから十九日に鄭州を出た。呉禄貞が軍機大臣・鉄良から許可を得た調査旅行は、陜西・甘粛・新疆・蒙古を対象地域とするが、日野に随行するのが真の目的であったと看て良い。無論、鉄良も固より承知で、当初から新疆まで随行する手筈は、「その筋」からの工作に応じたものであろう。日野と同じく北京から出発した呉禄貞が、北京から同行していた可能性もあろうが、むしろ「鄭州での準備」が、呉禄貞の合流を待つ意味であろう。『伊犁紀行』には、「荷物は従僕に託して支那馬車に付し、予は専ら騎馬による」との言があるが、バリバリの騎馬将校であった呉禄貞も、当然騎馬によった筈である。

 日野が北京で教示を請うた堀師は、大谷光瑞師の一行と合流し、日野一行と相前後して西安入りする。長安での光端師との邂逅は、明治三十九年十月二十八日であった。「予(日野)の陜州に着するや、たまたま本派本願寺大法主・大谷光端伯、同尊由師の一行(略とあるが、・・・)が、布教かつ歴史研究のため、西安すなわち長安に向うに邂逅し、その後同地に到るまで相前後せり」と、その模様を『伊犁紀行』に記した。光端師は日野に対し「多大の同情を寄せられ」たが、先端師自身のカラコルム探検の体験談話、その経験からの携行品についての注意は有り難かった。「この邂逅は、空谷の跫音を聞くが如く、予は痛く伯の懇切に感激せり。伯の好意はこれに止まらず、カシガル駐在の英国貿易事務官・マカートニ氏を初め、英領印度における紳士への紹介状を与えられ、かつ写真器械一組、時計一個をも貸与せられたり。特に記してここに伯の好意を謝す」と、特記している。表側はそうだが、実は日野はこの時に光端師から、探査事項に対する具体的な指示を受けたものと思う。大谷と日野の濃厚な接触は、内外多数の眼に触れたから、理由付けが必要である。この贅筆は、裏の真相を表の綺麗ごとに変換する目的の作為と診なければならない。
 

 ★西太后の電報に救われた ― 呉禄貞、日野も釈放に奔走
 

 西安で光瑞師一行と別れた日野強・上原多市・呉禄貞の三人が、蘭州に到着したのは十二月九日であった。ここで前記のごとく、呉禄貞が甘粛巡撫に革新的所見を述べたので、康有為の残党と怪しまれて逮捕される。近代化と漢族自立を目指す革命の気運が高まり、正軌軍人の中にも清朝政府にとって危険分子が生まれていた時機である。贋軍人と看倣されて即刻死刑に瀕した禄貞が辛くも命拾いしたのは、陜甘総督・升允の計らいによるものであった。升允は軍機処に問い合わせの伝報を打つが、鉄良は既に辞めていたので一件は西太后の耳に達し、西太后が鉄良を呼び出して直接事情を聴き、蘭州に電報を打たせたために呉禄貞は助命された。

 十二月九日に蘭州に着いた日野は、以後は馬車を利用することとし、その準備が整い同地を発ったのは十八日であった。急ぎの探査活動の最中に、馬車の支度に九日間とは、鄭州に比べて長過ぎると思う。実際には随行者呉禄貞の釈放工作に奔走していたのであろう。ともかく、升允と西太后の往復電報が呉禄貞の命を救った。そうすると、『伊梨紀行』蘭州の項に、「電報と時間」と題し、「当地、北京間に要する電信到達時間の差異概ね次の如しと。第一官電(時を設けざるもの)二時間、第二官電(暗号にして多く料金を要するもの)六時間、第三普通のもの一日間」と記したのは、釈放の経緯と関係があるように思える。

 日野は明治四十年十月二十七日、カシミールの首都スリナガルに入り、イギリス駐在官で探検家として有名なヤングハズバンド大佐と会見した。ここに主要任務を終えた日野は、日本領事派遣の稲垣中佐と原通訳の出迎えを受け、帰路に就く。

 十二月二十四日に神戸港に着いた日野が、途中で京都に立ち寄り、西本願寺に大谷光端伯爵を訪れて西安における謝意を述べ、翌二十五日に帰京して参謀本部に復命した。かかる場合、何より重要な参謀本部への復命を一日延ばして、光端師に謝意を述べに行ったのは、それが真の復命だったからである。例の「その筋」が「京都皇統」であることを示す一証であろう。

 ★袁世凱の命令で暗殺される ― 日本人の血統ありやなしや

 一方、蘭州から北京に送還された呉禄貞は、東三省総督・徐世昌に登用されて明治四十年五月に奉天に赴き、東三省教練所総弁に就任する。同年八月、日本政府が韓国統監府間島臨時派出所を開設したことにより、清韓国境問題が日清間交渉に移行し、所謂「間島問題」が始まったので、徐総督は、間島問題の処理に日本を知る禄貞を活用しようとした。局子街に派遣されて国境を測定、地図を作成した呉禄貞は、留日経験のある宋教仁と共に国境画定の交渉に加わるが、四十一年に提出した『延吉辺務報告』により、間島を清国領と論証し、その功で督弁吉林辺務大臣に就く。

 四十三年北京に戻り、紅旗蒙古副都統に就いた呉禄貞は、軍事訓練視察のため独仏旅行に出たが、帰国後、革命同志が調達した銀二万両(テール)を慶親王に献金して、保定陸軍第六鎮の統制(師団長)に就いた。一九一一(明治四十四)年の辛亥革命に際し、日本陸士の後輩・閻錫山が山西省で挙兵するや、清朝政府は呉禄貞の第六鎮に山西討伐を命ずるが、閻錫山と連絡を取り合った禄貞は石家荘を押さえ、武昌鎮圧に向かう清朝軍の補給路を断つと共に、清朝から革命鎮圧役を託された袁世凱を足止めした。苦境に立った袁世凱は、禄貞の部下の標統(大佐)・馬田(ケイデン)を買収して、石家荘駅の駅長室で禄貞を暗殺せしめた。禄貞の享年まだ三十一歳であった。

 呉禄貞の子が、明治二十七(1894)年吉林省生まれの呉達閣との説を私(落合)は仄聞した。

 達閣より二歳下で南開中学の同級だった王希天は、吉林に生まれ大正三年に十八歳で天津へ移り、更に翌年日本に渡るが、吉林時代に既に長男・王振せきを成していた。禄貞十四歳の時の子とは多少早いが、有り得ぬことではない。既に血統を偽るならば生年の偽りも亦あろうが、一応公称される経歴の通りに理解することにする。

 更に、呉禄貞も日本人の血を享けているとも聞いた。父が丹波衆(前稿で栗原茂の謂う大江山衆)であるらしい。呉禄貞の生年はわが明治十三年に当たる。堀川辰吉郎と同年で、京都皇統による大陸経綸が既に始まっていた。按ずるに、靖国に渡った丹波衆が現地で成した男子(呉禄貞)を、現地の適当な家系、すなわち農牧家の呉家に託して実子として育てさせたものか。

 更に、其の子の長ずるに及んで日本の陸軍士官学校に入れるが、その前に、清国社会の慣習に従って若年にして男子(呉達閣)を成さしめ、其の子も亦日本へ留学せしめたが、一高の夏休みに京都に呼んで、丹波衆の看護婦をあてがう。以上が私(落合)の洞察に基づく仮説である。

 ★「フリーランスのスパイ」 帰着の地は大本教だった

 上記を実行するには、丹波衆が清国内の勢力家と組むしかないが、さほど難事でもなさそうである。呉禄貞と日野強との間には、眼に見えぬ紐帯が確かにあった。だからこそ、軍人として前途に青雲が待つ禄貞が、一年間もの軍務放棄を厭わず、日野少佐の西域調査に随行したわけである。軍機処大臣・鉄良も必要な支援をし、西太后にもそれは通じた。

 その紐帯の本質は、ワンワールド海洋勢力と手を組んだ京都皇統以外に考えられない。京都皇統は、その支援勢力の主たる一派、すなわち京都社寺勢力の代表たる大谷光瑞師をして、日野の活動を指導、支援せしめ、其の復命を聴いたのである。

 帰国した日野は、明治四十一年に明治天皇の御前で講演の栄を賜り、四十二年五月に『伊梨紀行』を公刊し、六月二十六日を以て陸軍中佐に進級し、近衛歩兵第二連隊付となった。四十五年中華民国が成立すると、日野中佐は「陜西省方面二至り諜報勤務二従事シ、特二該方面二於ケル共和政反対党ノ動静ヲ偵知スル」よう命令を受けた。要するに、宗社党の首領たる升允を探れとの指令である。

 大正二年に帰国した日野は、大佐に進級して予備役編入した。因みに陸士同期の西川虎次郎は四十年、高山公通は四十一年に大佐になった。日野ら諜報畑は進級が遅いのが通例で、将官にならないと停年が来る。予備役となった日野は、日本軍政下の山東半島で缶詰業や煉瓦製造会社を経営したが、実態は岡田が「フリーランスのスパイになった」と説明している。大正七年「青島還付問題」が起こると、在留邦人を代表して陳情のために帰朝したが、やがて大本教の宗旨に共鳴して青島から撤退し、丹波綾部で大本教幹部となり、大正九年綾部で死去した。

 山東を本拠とする紅卍会(こうまんじかい)は大本教の国際版で、日本の総裁は堀川辰吉郎である。京都皇統を支えた勢力の一つで、丹波衆の拠って立つ大本教が日野の帰着の地であったことも、本稿の趣旨の一傍証とは言えまいか。
 

  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(38)  <了>。

 


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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(38)ー1  落合莞爾
                                いりきこう 伊犁紀行_1



 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(38)ー1

 日野強(ひの・こわし)探査行と大谷光瑞探検隊の「真史」を暴く 


 ★「北洋士官の三傑」呉禄貞と日野強の探査旅行の真実 


  周恩来の南関学校での同級生で、周の日本留学を支援した呉達閣のことを台湾の人名事典には、一八九四(明治二十七)年に吉林省の農牧家に生まれた」とあるが、日本の一部では、実父は呉禄貞と囁かれている。

 日野強『伊犁紀行(いり・きこう)』に付した岡田英弘の解説によると、呉禄貞は湖北省雲夢県の人で、明治十三(一八八〇)年に生まれ、湖広総督・張之同により、第一期の陸軍日本留学生として派遣された。明治三十三(一九〇〇)年の義和団事件に際し、唐才常が湖北・漢□で反清の挙兵を計画すると聞くや、直ちに帰国した禄貞は、安徽省大通における秦力山の自立軍に参加する。挙兵が僅か二日で敗れて、再び日本に戻った禄貞は、同年十二月陸軍士官学校の清国学生隊第一期騎兵科に入り、翌三十四(一九〇一)年十一月に卒業した。日本人では中村孝太郎大将、建川美次中将ら陸士第十三期生と同期になる。

 因みに、同時期の清国学生隊には張紹曽と藍天蔚がいた。禄貞とこの二人は、後年「北洋士官の三傑」と謳われる。張紹曽は、やはり張之同の官費援助を受けて日本に留学、禄貞と同期で清国学生隊第一期砲兵科を卒業し、袁世凱に登用されて砲兵将校となった。北洋系ながら革命派として知られ、直隷派の軍人として国務総理も務めた。また藍天蔚も張之同の推薦により日本に留学、成城学校を経て第二期工兵科を出た。卒業年度が明治三十七(一九〇四)年と遅いのは、工兵科の修業期間が長いためであろう。

 再び岡田英弘の解説に戻る。帰国した禄貞の傘下には革命志士が雲集したが、禄貞は明治三十六(一九〇三)年十二月、陸軍騎兵科監督として招かれ北京に移る。しかし北京の保守的満洲人の間にあって満足せず、三十九(一九〇六)年の秋に軍機大臣・鉄良の許可を得て、陜西・甘粛・新疆・蒙古の調査旅行に出掛けた。ところが蘭州に赴いた時、甘粛巡撫に革新的所見を述べたので、戊戌の政変に敗れた康有為の一派と疑われ、軍機処からの出張の公知も遅れていたこともあり、贋軍人と看做されて逮捕された。即刻死刑に瀕するが、陜甘総督・升允の計らいで辛くも命拾いする。

 実はこの時、日本陸軍参謀本部員の日野強少佐が同行していた。と謂うより、禄貞の調査旅行とは、陸軍参謀本部員の日野強少佐の探査旅行に随行したのが真相であったらしい。明治二十二年、陸士の旧制十一期を出た日野強は、近衛歩兵第二連隊の中隊長だったが、三十五年七月一日付で参謀本部に入り、満韓国境方面に派遣される。ここで日露開戦に備えた戦備調査をした日野は、以後十年に渉って特務活動に従うこととなる。日露戦役中は黒木為率いる第一軍に属して清人を用いたロシア軍の撹乱工作を行い、三十八年十二月十四日付で少佐に進級して大隊長となるが、翌年七月一日付で参謀本部に戻るや、同月下旬にその筋より新疆視察の内命を受けた。新疆地方は所謂シルクロードの東半分で、乾隆帝の西征により清国領となったが、南下を望む帝政ロシアが、清国の弱化に応じて浸食していた。日野に下された探査の目的は、大陸勢力・ロシアの南下に備えて、新疆地方の地誌民俗などあらゆる情報を収集することであった。 


 ★「その筋」とは「京都皇統」でありワンワールドである。


 「その筋の内命」を、岡田は「もちろんこれは、参謀本部の命令であった」と解説しているが、参謀本部員が従うべき命令は参本命令以外にないのだから、これは言わずもがなで、態々「その筋」とした日野の本意を得ていない。つまり、形式的には参謀本部を通じたにせよ、実質は別筋からの内命だったことは明らかである。

 当時、かかる形で陸軍参謀本部を動かし得たものは、「東京皇室」か「京都皇統」しか有り得ない。


後述するように日野は、西安で大谷光瑞師の昭陵探検隊に別れるに当たり、「予は予の旅行について、多大の同情と便利を与えられたる大谷光瑞伯一行とここに決別せざるべからず至りたり」と『伊犁紀行』に記した。日野の一行が光瑞師の探検隊と連動している処からしても、「その筋」とは、光瑞師の上司たる「京都皇統」すなわち堀川辰吉郎と観る以外ないのである。

 因みに、『世界戦略情報-みち』第二七九号で栗原茂は、「光端を描く個人情報には辟易やまないが、日野の伊犁紀行後に展開される大江山系シャーマニズムと光端の関係を解く情報は寡聞にして知らない。これを解く鍵は堀川辰吉郎であるが、堀川については伊犁紀行が重大」と説く。栗原茂の情報源は、恐るべき高深度に存すると思われる。

 明治三十九年九月二十日、北京に到着した日野は、第一次大谷探検隊に加わった西本願寺の堀賢雄師や英国軍人らから懇切な教示を得て、諸般準備の末、十月十三日午前七時十五分、北京発の汽車で河北省保定に到着した。ここに三日間滞在し、この間、直隷総督・袁世凱の軍事顧問として保定に滞在中の賀忠良こと陸軍大尉・多賀宗之と談じ、多賀の子飼の特務で陸軍武備学堂教官をしていた原尚志こと上原多市を随員として借りた。これも当然「その筋」の手配であるから、日野が帰日後に提出した詳細な報告『伊犁紀行』にも多賀大尉の名を秘して、ただ「在留邦人(文武学堂に教習たる人)」と記すのみである。上原に至っては清人の従僕であったかのように記している。

 呉禄貞が日野に随行したことは、東京駒込の東洋文庫所蔵のモリソン旧蔵『伊犁紀行』から窺える。すなわち、その上巻も見返しにモリソン自筆の書き込みがあり、「日野少佐は蘭州までは呉禄定と日本人の××(判読不能)に同行された。中国人の将校・呉禄定は、升允によって蘭州から送還された」とあることで、判明したのである。因みにモリソンは、袁世凱の政治顧問のオーストラリア人で、例の著書は日野が自らモリソンに贈呈したものであった。

 『伊犁紀行』には、西域探査旅行に呉禄貞が随行したことを、全く記していない。岡田によると、他の資料にも一切伝えられていないと謂う。呉禄貞の随行一件はそれほど機密で、慎重に扱われた。後年モリソンを北京に訪問した日野が、『伊犁紀行』を手ずから贈った際に、直接語ったこの極秘事を、その場でモリソンが書き留めたものと岡田は推定する。日野が極秘事を明かしたのは、モリソンが「その筋」に繋がるからで、「その筋」がワンワールドの海洋勢力に属していることを物語って余りある。岡田の、この貴重な歴史資料の発見に対して、史家は感謝を惜しんではならない。尤も、かかる「真史」(「偽史」の反対)を隠蔽するのが御用史家の務めであるから、岡田は東京外大教授として矛盾の中にいながら、これを発表したものと看られる。岡田が官職上解明を憚った「真史」を解明するのが私(落合)に与えられた天命である。 


    続く。



●疑史 番外篇


 ●今月の「疑史」は<番外篇>で、★「引見強要と『憲法の変遷』」というタイトル。


 文字通りの「番外」記事なので、紹介は致しません。

 
 以上。

  



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