カウンター 読書日記 2009年12月
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)ー2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)ー2
   

 ★「まだ同じ奥さんですか?」周・呉 再会の場の空気が凍りついた。

 達閣と丹波衆の秘められた関係を、周恩来がどこまで知っていたのか知る術はないが、王希天を含めた三人はワンワールド南開支部員として、生涯秘密を分ち合ったと思われる。ウイルソンによれば,昭和十一年(1936)の西安事変の後、共産軍ナンバー2の周恩来に、国民党側の停戦条件を持ってきた使節団の中に呉達閣がいた。

 呉達閣と再会した周恩来は、久闊を叙した後、「奥さんはお元気ですか」と尋ねた。
「何とか元気で」
「お子さんは?」
「一人います」
 とのやり取りまでは良かったが、周が「まだ同じ奥さんですか?」聞いた途端、達閣の態度が冷たくなった。ウイルソンはこれを、「国民党員の生活が腐敗している」と共産党が常に非難していたことから、誤解を招いたものと解しているが、浅見であろう。

 台湾の人名事典によれば、これに先立つ昭和五年イリノイ大学で博士号を取った達閣は、七月に張学良の要請で瀋陽・東北大学文学院の専任教授となり、六年九月の満洲事変後は東北大の北京(北平)移転に伴い北京に移り、北京大学法学院教授を兼ねた。同年東北軍が国民党と合体し、陸海空軍副総司令に就いた張学良の北平司令部ができると達閣は上校機要秘書に任命される。

 昭和八年関東軍に熱河を陥された張学良が引責辞任して出国した後は、達閣は国民党員として活躍することになる。

 達閣は最初の妻・朱との間に一子を成したが、朱の死後に苑潤蘭を娶って二女を得た。つまり、「子供が一人」とは朱の子のことであるが、「まだ同じ奥さんですか?」と突っ込まれた達閣は、京都での秘事の暴露を警戒して、咄嗟に冷然たる態度を装ったものと推定される。

 大正六年の夏休みに京都に逗留した達閣が、同族の看護婦と同棲した丹波衆の定宿に渡辺政雄が住んだのも、達閣と親しくなったのも、すべて丹波衆の意図であろう。九月に初来日した周恩來が、東京に落ち着かず京都へ移ったのは、最大の保護者・達閣が、夏休み以来京都に行ったままだったからである。

 周蔵はこの時、周を観察して「京都の大学に行く資格あるも行かず、毎日見物して遊んでをる由。まるで石光さんと同じやふだ。多分、日本を偵察してをるのであらふか」と記した。予備役陸軍少佐・石光真清は、血液型分離法の探索のために五年から六年にかけて欧州に行った周蔵の道案内をしてくれたが、貨客船が停泊するたびに上陸して港街を観察していた。毎日京都を見物して回る周の姿が、石光を髣髴させたのである。

 秋も深まり、同棲相手を京都に残して達閣は帰京して一高特別予科に戻り、周も東京に戻って東亜高等予備学校に通った。達閣と周が十月になっても東京に戻らず、定宿でゴロゴロしていたからたまたま周蔵に会うこととなり、周蔵の手記から、九十年後に秘密の一角がこうして崩れたのである。
 
 ★願書を書いただけで京大に入学しなかったのはなぜか


 周と京大について、「政治、経済の授業を受けるために、東京の神田の住所で願書を書くには書いたが、実際に提出したかどうかは分からない」とウイルソンは言う。「周恩来は京都大学の聴講生になりはしたものの、時々授業に出ただけ」とはハン・スーインの言である。折から京大でマルクス主義を宣伝していた河上肇と周の結び付きが注目されるが、結論から言えば、周は京都大学にいかなる形でも入学していない。

 ウイルソン説の根拠は下記である。京都北郊の山口村の山林業・大田貞次郎は戦時中、野菜などを京都市内の親類知人に配っていたが、昭和十九年秋に一軒から礼に貰った和紙の束に墨色良く字体も見事な書付があり、しまっておいた。それは周恩来の署名がある履歴書と京大入学願書で、昭和五十四年に来日した周未亡人が真筆と認めた。

 願書は京大法学部の政治経済科選科に入学するためのもので、時期を大正七年とし日付を記入していないので、七年春の入学試験のために準備したものと分かる。住所は「東京市神田区表猿楽町三番地竹村方」となっており、全体の経緯が研究者にとっては謎であった。

 創価大学の上記研究を基に私(落合)が推量するのは、「六年九月に初来日した周は、一旦上京して神田表猿楽町の友人の下宿に逗留したが、東亜高等予備校に籍を置くや、直ちに京都に向かい、達閣の下宿に居候した。京都では、来春京大の法学部政治経済科選科を受験したいと考えて例の願書を準備したが、下書きなので住所はとりあえず猿楽町の友人下宿とした。その頃、渡辺政雄を訪ねてきた周蔵と知り合ったが、京都の大学に行く権利とは、来春の聴講生計画を周蔵が錯覚したのである。やがて一高予科在籍の達閣が帰京するので、周も同じく帰京した」というものである。

 創価大の研究者は、「来日間もない六年の後半に周恩来が京都まで旅行したということは考えにくいので、その年の末頃に、先に京大に留学していた南開学校の同窓の友人に預けたものではないかと考えられる」とする。研究者は、常識による先入観から六年秋の京都滞在の可能性を否定してしまい、京都逗留は八年だけとする誤った結論に達したのだが、「周蔵手記」を見ていないから、こんな特殊事情に想い及ばないのも当然で、已むをえまい。

 大正六年九月に初来日した周恩来が東京に落ち着かず、一旦京都へ向かったのは、頼るべき保護者の達閣が、夏休み以来京都に行っていたからである。一高特別予科に合格していた達閣が京都に逗留していたのは、前述した丹波衆との関係が根底にあるが、河上肇がマルクス主義を講義する京大を念頭に置いて、一高から三高への転校を図っていたとも思われる。事実、達閣は翌年三高に転じた。吉田阿達町の下宿に例の看護婦を置いたままだったのかも知れない。
 
 ★ワンワールド中国支部 「南開中学」の実態 


 達閣の勧めで、翌春の京大選科受験を予定した周は、入学願書の下書きを書いたが終に使うことがなかった。この願書は、他の荷物と一緒に、達閣が定宿に預けておいたのだろう。七年になり、一高と東京高師の受験に失敗した周は一時帰国し、九月に再入国するが、以後八年春までの動向は明らかでない。

 南開同学との間の書信の往来から見ると、東京に下宿していたことは確かであるが、下宿の所在すら明らかになっていない。前述した大工・八代氏の下宿に居たのは、或いはこの時期かも知れない。前年(大正六年)の秋とすれば、僅か二ヶ月ほどの東京生活の中で下宿の移転があまりにも頻繁で、また矢代氏下宿の時間があまりにも短く、女房たちの噂になったとは考えにくいからである。因みにその噂とは、ある種尾篭なことで、周の大物振りが取り沙汰されて他日を期待されたという埒もない一件である。

 ともあれ、周恩来は八年の春、前年に一高特別予科から三高文科に転じていた達閣の下宿に居候して長逗留する。達閣と住んでいた妻をウイルソンは「政府の給費生」と説くが、当時の民国政府の給費制度は女子を対象にしていない。ハン・スーインに至っては、達閣の妻が「南開時代からあなたのお酒好きは度が過ぎていたわ」と周を諌めた、と謂うが、南開は男子校であり、周や達閣らが校外で女学生と交友していたとは考えにくいから、これは舞文曲筆以外にあるまい。

 すべてを解く鍵は、達閣と丹波衆の秘められた関係にある。呉達閣は、実は清国に潜入した丹波衆が、満洲に遺してきた血統と仄聞する。それは、愛親覚羅氏の大陸統治が終焉に差し掛かったことに対応して、京都堀川御所の皇統が秘かに打った手であった。相手も相手で、南開学校の三羽烏と謂うべき呉達閣・王希天・周恩来が揃って日本に留学したのも、決して偶然ではあるまい。キリスト教メソジスト派の支援を表看板に、近代教育のために建てられた南開中学の実態は、ワンワールド(国際秘密勢力)が中国に置いた重要拠点の一つであった。創立者が日本の学生を基準にしたのは、卒業生を日本に送り込む目的を秘めていたからである。南開中学の設立自体、日本調略のために特務を養成する目的でもあったと見て不自然ではない。

 ******************


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)
     <了>。
 
 


スポンサーサイト

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)ー1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)  落合莞爾

  ― すべての謎の鍵は「呉達閣と丹波衆の関係」にある
 
 
 ★皇統の「草」に任じられた丹波衆、アヤタチの血筋
 

 前月号で、周恩来の京都逗留が、一般に信じられている大正七年の秋ではなく、六年の秋であったことを明かした。その証拠となるべき事項と、反対に矛盾する事項を並べて検討して見る。

 まず、大正六年九月上旬に神戸港で周恩来を迎えたのは、旧友・呉達閣であった。これはウイルソンしか書いていないから、恐らく昭和五十五年六月にウイルソンが台北で会った達閣から直接聞いたものであろう。達閣が神戸港に迎えに行ったのは自身が京都にいたからで、当時東京にいたのなら、わざわざ神戸まで出迎えに行く筈はない。反論としては、大正六年春に一高特別予科に入った達閣が、秋に京都に住んでいる筈がない、と言うであろう。再反論すれば、そこには特殊な事情があったのである。

 大正六年十月、祖母ギンヅルに同行して京都に逝った周蔵は、修学院に住む渡辺ウメノから、結核に罹った孫・渡辺政雄の看護を依頼された。ウメノは周蔵が三年前にギンヅルの指示で、芥子栽培の秘伝書を貰いに行った相手である。参謀総長・上原勇作の命令で芥子栽培の研究をしていた周蔵は、栽培上幾つかの疑問に直面していたので、これを好機に、ウメノに教示を乞うた。するとウメノは、「それなら政雄の友人の呉達閣に聞くが良い、達閣は玄範の友人でもある」と教えられた、と伝わる。

 その足で(周蔵が政雄を)尋ねた下宿に呉達閣は居た。周蔵より五日だけ若く二十三歳であった。創価大の中国人研究者の調査で、呉達閣(瀚濤)が八年春に住んでいた下宿の所在は左京区吉田阿達町と分かったが、六年秋の下宿も多分同じであろう。「佃煮や干物などを扱う店を花街の方に出してをるらしい」という主人の素性は、恐らく渡辺政雄らと同じ族種の丹波衆で、後述する達閣と丹波衆との特別な関係から、ここが達閣の定宿となったものと思われる。

 下北半島の医師三代目・槇玄範は、丹波穴太の上田吉松が津軽藩主の息女に産ませた子・鬼一郎で初代玄範の養子になり、異父弟・上田鬼三郎は出口ナオの婿養子に入り出口鬼三郎となった。その玄範が、来日したばかりの民国留学生・呉達閣の友人とは、何を意味するのか。呉達閣も実は丹波衆でアヤタチの血筋という以外にない。

 仄聞する処、明治維新後のわが皇室外交を総攬したのは堀川御所の京都皇統で、大陸有事に備えて配下の丹波衆に清国入りを命じ、清国各所にいわゆる「草の根」を張らせた。その一例が、大本開祖・出口ナヲの次男・出口清吉で、明治二十八年の台湾平定中に戦死を装って姿を消すが、五年後の北清事変の最中に軍事探偵・王文泰として軍功を挙げたことが『京都日の出新聞』に報じられたという。北清事変後、満洲に渡って緑林の頭目となった清吉は、弟分の張作霖を親日に誘導したのである。

 丹波衆が皇統の「草」に任じたのは、「何でも食い何処でも寝られる。死むだと思うな、必ず生きてをる」と評される体質と能力を買われたのである。大正八年秋、「手の者」を求める周蔵に布施一が紹介したのは、上田吉松が越後国柏崎荒浜の倭人女性に産ませた辺見こと牧口某であった。布施は辺見をサンカァと呼び族種の特質を上のように解説したのである。
 

 ★厳しく封印された周恩来の京都滞在時期とある所業 
 
  
 ウメノが孫の政雄を預けた家は、「何より変わってをるは、下宿も離れの間借も支那人が多いとのこと」であったが、中国人が固まって住むのは、何よりも食事の問題である。支那人専用の下宿は、賄いを中華風にするのが必要条件である。珍味屋を営むという大家は中華食材の入手に不自由なく、賄い人も中華料理の心得があり、支那人下宿の条件を満たしていたのであろう。

 周蔵はその下宿に泊まることになったのか、一室で「別紙記載」を書いた。「これを書いてをると、≪日記を点けるは良い事なり。自分もさふしやふかと思ふ≫と、他人の物のぞき込んで声をかけたる人物がをる。孫息子(政雄)と大分懇意であるらしい支那人の居候なる人物、周と云うらしい。名乗らる」。政雄と大分懇意であるらしい支那人とは無論呉達閣のことで、その「居候なる人物」の周恩来を周蔵は「人品卑しからず」と評している。

 九月に来日した周恩来は、その後どうしていたのか。ウイルソンは、「神戸港で旧友の呉達閣の出迎えを受け、直ぐに東京に向かった。東京ではまず神田の東亞予備校に入学した。親切な婦人の世話で、他の中国人学生二人と一緒に、日本人の大工の家の二階に下宿することとなった。牛込の山吹館という映画館の近くで、学校にも近かった」と言う。

 ハン・スーイン(『長兄』)も、「東京に着くと南開中学の同窓生たちが(中略)彼は、大工の家の二階に、ほかの二人の留学生と一緒に(中略)その小さな家は牛込区にあり」と、簡略化こそすれ、ウイルソンとの間にとくに矛盾はない。

 その後に出た矢吹晋編「周恩来『十九歳の東京日記』」が、「九月、天津港から日本に船出し、横浜港に着いた。日本ではまず早稲田に住み(張瑞峰と同室)、ついで神田の≪日本人の旅館≫に下宿し云々」というが、その根拠は六年十二月二十二日付の周から友人宛の手紙に、「早稲田の張瑞峰(字:蓬仙)の下宿から日本人旅館(玉津館)に移った」とあるからである。創価大の研究者は来日直後の周の居所を猿楽町辺りと見ているが、居候した友人の下宿であろう。早稲田と牛込山吹町の下宿の異同はよく分からないが、「大工の家の二階」に該当すると思われるのが、周蔵の知人の請負師・藤根大庭が所有していた三軒続きの棟割長屋である。藤根配下の三人の叩き大工が住み、女房たちが二階を下宿にしていた。その一人で運送屋も兼ねていた八代(矢代か)の下宿人が周恩來であった。佐伯祐三のアトリエを建てた八代の角刈りの面影は佐伯祐三作『Y氏像』として今に残る。南開からの留学生を世話していたという「親切な婦人」は、おそらくメソジストで、キリスト教の繫がりから、クリスチャンの八代の下宿を紹介したものと思う。

 ウイルソン説でもハン・スーイン説でも、周は七年の秋に達閣夫妻に京都に招かれ、そのまま八年春の帰国まで京都に長逗留したことになる。周の最初の京都滞在は、実は、(両人の言う大正七年ではなく)六年の秋であったのだが、そこで丹波衆の看護婦と同棲したことは、達閣にとって後々まで重大な秘密であるから、ウイルソンに詳しく語らず、誤解するに任せたのであろう。勿論、周恩来、王希天以外の南開の同学たちにもそのことを厳秘にしたのは当然のことである。

 周恩来日記によれば、七年秋の周は、連日のごとく南開同学と間で書信を往復しており、文通相手には京都の呉達閣の名もあるが、維新號事件の後「支那料理屋の二階でゴロゴロしてをった」王希天を始めとする在京組が多いから、周は東京にいたと見るしかない。留日日記の日本版を編集した矢吹晋が、「しかし、実像は知れぬ」と嘆じたのは、二冊の伝記が言う京都逗留説との矛盾に悩んだからであろう。

 この期間の周の行動記録がないのを怪しんだ矢吹は、「『東京日記』の大のテーマは、その空白を読むことかも知れない」と示唆したのは流石であるが、惜しいかな、呉滌愆が京都に移った達閣の別名とは知らなかった。知っていれば、周が七年秋に京都の達閣宅に居候していたなぞ有り得ないと覚り、延いては伝記の誤謬を正し得たであろう。
 
 
    続く。 


 

●疑史(第63回)
 ●疑史(第63回) 甘粕正彦と石原莞爾  評論家 落合莞爾
 


 周蔵も予て、そのことを疑問に思っていた。「閣下ハ何故 ソノ方策ヲ 採ラレタノデアラフカ。田中義一ヲ ウルサイト思フ余りニシテハ 計ガナサレナカッタ ト思ユル」。

 張作霖始末には、上原も秘かに関わっていることを、周蔵は当初から勘づいていた。閣下はなぜ、従来の方針を変えて張作霖を切り捨てたのか。シベリア出兵の失敗は参謀総長・上原勇作と次長だった福田雅太郎の責任に帰せられ始めると、田中義一が宇垣一成と組んで、眼上の瘤の上原元帥を押さえ込もうとした。具体的には田中・宇垣が陸軍の人事権を掌握し、上原派と角逐した。典型的な例は、大正十三年一月七日の陸相人事で、当時は陸相の後任候補は、陸相(田中義一)参謀総長(河合操)・教育総監(大庭二郎)の陸軍三長官が合議で選び、元帥の形式的了承を得て、首相に推薦する慣例になっていた。

 三長官会議では福田雅太郎、尾野実信、宇垣一成の順に推薦する事を決定し、田中はそれを以て上原元帥の了承を取付けたが、清浦首相に提出する際に名簿の順序を逆にして、宇垣を陸相にしてしまう。この策謀に上原は激怒したのは当然である。こうして陸相に就いた宇垣は、ここぞとばかり数多くの上原派将軍を追放した。大正十四年五月には、福田雅太郎、尾野実信、石光真臣、貴志彌次郎らを予備役に編入し、上原の手足をもぎ取った。上原が田中・宇垣を憎むのは当然だが、田中を煩いと思う余り、裏からけしかけて従来の満洲政策を変改させ、張作霖を殺らせるように運んで田中の失敗を誘ったというのならば、閣下にしては余りにも浅はかだ、と周蔵は思う。

 四年七月二十四日に首相を辞した田中は、九月二十九日に急逝するが、死因については、今でも自殺などが取り沙汰されている。周蔵はここで上原関与説を記している。
 「田中ガ失脚ニナッテモ マダ飽キ足ラズ、○○ヲ抱キ込ムマデニシタノカ。中野ノ女ノ言デアルカラ 話ガ半分ダトシテモ疑問ハ残ル。又、不確ナコト故 誰ニモ語ラズ」。

 張作霖暗殺が関東軍によることを隠蔽した田中が昭和天皇の叱責を受け、失脚してもなお飽き足らず、上原は○○を抱き込むことまでした。これは中野正剛の愛人多喜の言だから、周蔵は話半分に聞いたが、確かに疑問はある。いずれ不確かな事だから、誰にも語るまいと決めた周蔵は、甘粕にもそれは語らずに満洲を後にした〔文中○○の部分は周蔵の意思を汲んで何文字かを伏せ字にした〕。このあと、田中義一の死亡の際の状況を詳しく記しているが、ここでは省略する。

 周蔵がパリの藤田嗣治に手紙を出した日時は不明だが、五年末か六年初頭のことらしい。「満洲まで甘粕さんに会いに行ったが、これから先のことは不明」と藤田に報告したのが一応、甘柏記録の二十八回目となる。ついでに多喜のことを世間話として書いたが、藤田からは返事は来なかった。藤田は五年九月からニューヨーク、十二月からシカゴで個展を開くために渡米しており、パリに戻ったのは六年一月であった。

 ●疑史 (第63回) 甘粕正彦と石原莞爾 <了>。 

   


●疑史 (第63回) 
 ●疑史 (第63回)

  甘粕正彦と石原莞爾   評論家 落合莞爾
 


 昭和四年二月、フランスから帰国した甘粕正彦は七月に大連に現れ、秋には一家を挙げて満洲に移住したが、それ以前の動静は明らかでない。角田房子『甘柏大尉』によれば、大川周明の東亜経済研究所に出入りしていたというが、満洲問題を研究していたのは間違いない。春から夏にかけて再渡欧していた周蔵は甘粕の帰国を知らず、『周蔵手記』昭和四年十二月条にも、「甘粕サン 日本二戻ラレズ 朝鮮二落チツカレル事トナル」と記した。実情とは異なるかも知れないが、上原元帥からそう聞かされたことは確かで、そうすると、たとい短期間でも朝鮮に滞在していた可能性がある。

 甘粕正彦が『周蔵手記』に登場する二十七回目は、昭和五年四月条である。「四月、満洲へ發ツ。甘粕サン 満洲二移住サレタラシイ。訪ヌル。ニカ月程ノ予定」と記したのは、甘粕が朝鮮に落ち着いたと信じていた周蔵は、朝鮮からの移住と解釈したのであろう。満洲に移住したと聞き、張作霖爆殺後の背景と情勢について甘粕から教わろうと考えた周蔵は、満洲に出掛けた。「例ノ金塊ヲ持ッテ行ク。甘粕サンハ コレカラ キリガナク 資金ガ必要デアラフカラ、大シタ金額デハナイガ、預金ヲハタイテ行ク」と記したのは、昨春の欧州からの金塊運搬の功を賞して、上原元帥から頂戴した金条三本を甘粕に贈るために持参し、さらに甘粕の今後の活動に思いを致し、預金を全額はたいて持参することにした。

 手記は続く。「例ノ金塊、貴志サンハ 半分ホド集メタ処デ 張作霖ハヤラレタラシイ」。例の金塊とは、ロシア皇帝の命を受けたコザックが大正七年三月二十一日、ヴラゴヴェヒチェンクのロシア国立銀行から黒河のロシア領事館に移した二八五〇万ルーブルの砂金である。純金量では二二トンとなる計算で、上原はその四分の一だけを陸軍に納め、うち百貫(三七五キロ)を戦利品として参謀総長・上原勇作、陸相・田中義一、陸大校長・宇垣一成(いずれも大正八年当時)の三人で等分した。上原は取り分の三四貫(一二七・五キロ)をスイスの教会などに預けており、周蔵に命じて三年初春に渡欧させ、回収させたのである。大連で金塊を受け取った貴志倆次郎と町野武馬は、一旦満鉄に預託して七月頃に張作霖の資金とする予定、と語っていた。上原は、その中から三貫目だけを東京へ運ばせて私用とし、そこから金条三本を取り出して周蔵に賞与したのである。

 残りの四分の三、すなわち一六・五トンの砂金は、ホルワット臨時政府の軍事顧問となった荒木貞夫中佐が、上原の指示により黒竜江省の各所に分散して隠匿した。それを貴志彌次郎が、三年の四月頃から回収して回った。周蔵や藤田嗣治、若松安太郎らはこれまでの経緯を知っていたから、金塊は張作霖の軍資金になるものと推量していた。むろん貴志もそう信じていた。まして貴志は上原の命令で、大正九年以来九年にわたり張作霖との親交に尽くしてきた。しかし、貴志が黒竜江省の各地から金塊を半分ほど集めた頃、六月四日に張作霖は爆殺された。現場へ直行した貴志は、火薬や導火線の様子から関東軍の犯行と分析した。信じていた国策の根本が枉げられ、親友・張作霖を殺された怒りに貴志は震えた。関東軍は、犯行は南方革命党の志士によるものとの虚報を流した。

 「貴志サンハ、上層部二 申告ト云フヨリ 告發ヲサレタトノコト」。告発とは、首相・田中義一への申告を謂うのだろう。貴志が自ら調査の上で得た、爆殺を関東軍の犯行とする見解を、田中に伝えたことは広く知られている。巷説は、田中義一が陸軍内部と関東軍を恐れて貴志情報を握り潰したため、自らの寿命を早めたと謂うが、真相はそうではない。二年十一月五日の青山における田中・蒋介石会談で決まった密約、すなわち「日本の手で張作霖を始末すれば、事実上の満洲租借を認める」との極秘合意が、実現に向けて動きだしたのである。田中とすれば大成功で、問題は証拠隠滅と犯人のすり替えだけであったが、それを貴志が崩した。親友張作霖を殺され、これまでの辛苦が水泡に帰した貴志は、田中の行為を田中に告発したことになる。張爆殺をコミンテルンの犯行とする説が近年台頭しているが、反共一途の張作霖と違い、蒋介石はコミンテルンにも媚を示したから、肯綮に当たるフシもある。コミンテルン工作と河本大作工作が競合した可能性はあるが、実行者をコミンテルンとする説は如何なものか。

 手記は続く。「今更、軍部デ ドノヤフニ後悔サレヤフト、マフ死ンダ者ハ戻ラズ、事ノ方向性ハ 変ッタノデアル」。張作霖暗殺は、上原元帥の下で進めてきた根本方針、即ち日本が支援して満洲に張作霖の地方政権を立てさせ、対露緩衝国家とする方針の一大転換であった。数千万の一般国民の中で、永年上原勇作に親炙してきた周蔵だけがその事を理解し、上の記述となったのである。

 周蔵は大連で、フランス以来二年ぶりで甘粕正彦に会った。「甘粕サンハ サスガ コレ位デ動揺サレルデモナク、石原氏ト密ニ ヤッテヰカレルラシイ」。大連に移住した甘粕は、関東軍参謀・石原莞爾と親交していた。米沢藩士を父に持つ甘粕にとって、庄内藩出身の石原は山形県の先輩で、陸士も三級上の二十一期であった。「自分モ同席ニテ 支那料理ヲ喰ハシテ貰フガ、石原氏 私服ノタメ 階級分ラズ」。甘柏は、石原莞爾が同席する支那料理に周蔵を招いてくれた。このあと戦中戦後にかけて周蔵が親炙する石原莞爾との、これが最初の出会いである。

 時に石原は四十一歳であったが、和服で現れたから階級は分からない。大正十一年からドイツに留学した石原は、十四年に帰国して陸大の兵学教官となり、昭和三年八月中佐に進級、十月関東軍に転じて作戦参謀に補された。「ソノ遠大ナル構想ハ、驚クバカリデアル。三十年計画ノ 日本ヲ描イテヰテ、正二着實ニ ソレニ向ケテヰルノデアルカラ、コノ両名ノ思想ニハ驚ク」。石原の唱えた世界最終戦論は、戦争史を弁証法的に構成したもので、之れに則って世界の将来を予測し、人類平和の理想を達成せんとする石原の思想は驚くべきものであるが、甘粕もそれに同調して、石原理論を着実に実行するための行動面を担当する気であるらしい。

 満洲政策にはもともと二つの流れがあった。満洲の地に愛親覚羅氏による後清国を建てて日本の保護国とすべきとする旅順派と、現地で張作霖を育成して地方政権とし、日本が支援すべきとする奉天派である。日米間の最終戦争に勝利するために満洲の重要性を論じる石原の眼前から、折しも張作霖が消え、満洲直営化の時期は早まった。時の流れで状況は変化していき、それに合わせて張作霖も愛親覚羅も変心して行くから、奉天派や大連派の理念も万古不易ではない。甘粕が石原に同調したのなら、奉天派のトップ上原元帥も満蒙直営派に転向した可能性がある。畢竟これは、背後の在英ワンワールドが極東戦略を転換し、蒋介石の単独支援を決めたのではないか。

 張作霖の暗殺に関しては、石原と甘粕の見解は一致していた。「ヤハリ 張作霖ヲヤッタコトハ誤リノヤフデアル」という。理由は「コレデ 蒋介石ガ大キク浮上スルト云フ誤リガ 其処二起コル ト云フコトナノダラフ。角カデモ、東西ノ横綱ガアッテ ウマクイク。蒋介石ダケニナリ、ソレシカ人物ガ居ラズデハ 敵ノ思フ壷トナル ト云フコトカ」。

 暗殺以前の状況は、辛亥革命後の群雄割拠の終盤が見え、南方革命軍の蒋介石は北伐を進め、奉天馬賊軍の張作霖も北京に入って北洋軍閥を引き継いだ。いよいよ漢土統一を賭けて両者が雌雄を決する局面となったが、形勢は予断を許さなかった。両雄対立は、満洲の地政学的意義を重視し豊富な天然資源の確保を望む日本にとっては、当分は決して都合の悪い状況ではなかった。昔の相撲と同じで、東西に分かれて両側に横綱がいるからこそ、バランスが取れて興行的に成功する。しかるに、張作霖が消えて蒋介石の一人横綱となれば、究極の敵コミンテルンの思う壷となる。それなのになぜ張を殺ったのか。

   続く。

   


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (36)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36)-1
  周恩来と呉達閣、そして周居應こと王希天の蠢動


 ★幾多の作家もその正体に迫れなかった「呉達閣」
 
 周恩来の旧友であり恩人であった呉達閣は、今日の人名事典では、諱を呉瀚濤、字滌愆で引かなければ探すことはできない。一九八四(昭和五十九)年に『周恩来』を発表したディック・ウイルソンが、同著執筆のために天津の南開中学(現在は南開大学)を調査した際、周恩来を保護した同級生の名を呉達閣と知ったのは当然である。

 ウイルソンに先行する二冊の伝記、すなわち松野谷夫『中国の指導者-周恩来と其の時代』と許芥『周恩来-中国の蔭の傑物』の中に「韓某」の名で出てくる級友が、実は呉達閣であることに気付いたウイルソンは、一九八〇(昭和五十五)年に台北で本人に会った時、それを確認したのであろう。松野や許の周恩来伝の取材に(直接か間接か確認していないが)応じた時、呉達閣は自分の名を「韓某」の偽名にする条件を付したものと思われるが、その意味を軽視したウイルソンは、呉が敢えて偽名にせねばならぬ理由を深く探究しなかったのである。

 映画『慕情』の原作者ハン・スーイン(韓素音)が、一九九四(平成六)年に発表した周恩来伝『長兄』が、ウイルソン著を下敷きにしたのは当然であるが、ハンが偽名使用の件を捨象してしまったのは、ウイルソンを更に上回る鈍感さであった。

 ハンは一九八八(昭和六十三)年の南開大学の周恩来セミナーに出席して、最新の論文や資料を収集したが、その時点では呉達閣は生きていた。九十五歳の高齢であったが、諱を呉瀚濤と変えて国民党政府の総統府参事に就いていた(同年十二月二十二日に死去)。ハンが南開大学で得たという「最新の論文や資料」が、南開学校出身の呉達閣をどのように扱っていたのか興味深いが、いずれにせよ、呉が諱を達閣から瀚濤に変えていたことに、ハンが全く気が付かなかったのは確かである。

 台湾で刊行された人名事典の『国史館現蔵民国人物伝記史料彙編』にも、『民国人物小伝』にも呉達閣の名は見当たらず、呉瀚濤として出てくる。両書とも記載内容は似たようなもので、必要個所を以下に抜粋するが、呉が周恩来の級友で周の日本留学に尽力したことや、西安事件で周恩来と再会したことには全く触れていない。敵性人物と親しく西安事変に重大関与した事実を台湾の一般社会に隠すために、諱を達閣から瀚濤に変えたのであろう。


 ★留学生たちを憤慨させた日華協定の裏の秘密協定 


 呉達閣は光緒二十(一八九四)年の農暦四月十三日、満洲(東三省)は吉林省の九台県で生まれた。新暦では五月十七日で、奇しくも吉薗周蔵より五日だけ若い。生家は農牧を営み、祖籍は河北省楽亭県で、曾祖母に満族の屈氏が入り、母は張氏である。

 民国元年(大正元年)春、吉林陸軍小学を受験するが、同校が辛亥革命で取消になり、吉林省立一中に入学する。時に十八歳の達閣は、革命党の地下工作員王者師と識り革命党に入るが、翌二年、官憲の圧迫が身辺に及ぶことを察知して吉林省を去り、天津南開学校に転入して丁班に編入された(民国と大正は同年であるが、以下は年号を省略する)。

 同年九月、周恩来が十五才で南開学校に転入した時、隣の席にいた大男が四歳年上の呉達閣であった。五年になるや、呉は吉林省官費生として日本に留学、六年春に第一高等学校特別予科に合格する。七年春、段祺瑞の秘密対日借款に反対して留日学生が多数帰国し、抗日救国団を組織した時、呉も上海に渡って抗日運動に加わった、とある。留日民国学生の帰国理由を日本の史家は、シベリア共同出兵阻止のためとするのは皮相である。後に述べる「周恩来留日日記」には、「中日新約(日華共同防敵協定)の成立を憤慨して。留学生の間に全員帰国の議論が高まった」と記している。一つの歴史的流れの異なる側面をそれぞれ強調しているのだが、渦中にいた周恩来の日記が最も正鵠を得ている事は言うまでもない。留学生たちは日華協定の裏の秘密協定の内容を嗅ぎ付けたのであった。

 呉達閣が六年春に一高入試に合格した後、七年春までの一年間のことは、台湾の人名事典に記載がない。ところがこの間の動静を窺わせる資料が出てきた。それは周恩来の『旅日日記』で、長い間中国でも部分的にしか紹介されていなかったが、一九九八(平成十)年に発表され、邦訳が『周恩来≪十九歳の東京日記≫』として翌年に出た。この日記は大正七年一月一日から始まっている。

 そこで七年一月一日から始まる「周恩来日記」から、呉達閣に関する記事を抜粋して、以下に示すが、折から、本稿が何度も取り上げてきた南開三羽烏の一人王希天の記事も散見されるので、希天の記事も併せて彼らの動静を追ってみる。日記の中では中国人の習慣で、達閣を字(アザナ)で「滌愆」と呼んでいるが、本稿は「達閣」で通すこととする。周は、この当時は猿楽町の玉津館に住んでいた。

 ★「王希天」も含め日本で頻繁な接触と書簡往来


 早速一月一日条に「達閣を含む三人の学友が午後に訪ねてきたことと、達閣から年賀葉書を貰ったこと」を記す。二日の朝も来た達閣は、四日にも来て一緒に東亞高等予備校に出かけ、この時に達閣は南開同学会の副幹事に選ばれる。六日南開の旧友王希天に会う。七日達閣・希天と会う。十日には貸間に移る。十三日に達閣の引越しを聞く。十七日駅で達閣に出会う。二十五日達閣来る。

 二月二日、周は谷中霊梅院の友人厳智開(南開学校設立者厳修の子)の下宿へ移り、美校生保田龍門と知りあう。十日達閣来る。十一日達閣が来たので其の下宿について行く。十七日達閣来る。二十日達閣を訪ねる。二十三日、二十四日にも達閣の記事あり、引っ越しの件である。二十四日谷中の下宿を引き払い友人の下宿に移る。二十五日達閣と王希天らが来る。

 三月一日新居に移る。三~六日東京高師入試。十、十一日に達閣との手紙往復は、高師の入試に周が落ちた一件である。十五日達閣来り、翌日手紙を出す。三十日達閣来る。四月四日、達閣・希天来る。五、六日も同様。十九日達閣、二十日希天来る。二十八日達閣来る。

 五月二日達閣と会う。日華共同防敵協定の締結を巡り、留日学生の間で同盟帰国の機運高まるが、一高生の希天・達閣と蓬仙が帰国運動の中心で、周も加わった。六日希天・達閣を訪ねるが会えず、午後達閣来る。この日神田維新號に集会した留日学生は、西神田署に連行されたが、直ぐに釈放された(周は参加せず拘束を免れたが、ウイルソンには逆を云っている)。

 七日昼希天に会い、午後希天を横浜に送る。九日希天の葉書を受け取る。十日達閣来る。十一日達閣の帰国を見送る。二十一日達閣に手紙を出す。二十三日達閣のために預金を下ろす。二十五日達閣の葉書を受け取る。三十日希天の手紙を受け取り、返事を出す。 

 六月十日、達閣からの送金を調べるも不明。下宿に帰ると達閣が来ていた。十一日達閣に手紙を出す。十四日達閣の送金は依然不明。十六日達閣より来信。十七日希天より来信。二十日達閣より来信。二十一日達閣へ返信。
七月二~三日、一高受験。周は日本語の会話も作文も不得意で、合格しなかった。三日達閣に手紙。五日希天に手紙。十九日希天から手紙。希天に返信。二十一日達閣から手紙。
ざっと、このような動静が浮かび上がるが、五月十一日に帰国した達閣は直ぐに戻ってきて、六月十日周の下宿に姿を現した。王希天も一時帰国をし、直ぐに戻ってきたらしい。

  続く。
 

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36)-2

 周恩来と呉達閣、そして周居應こと王希天の蠢動 

 
 ★周蔵「驚く。実に驚く」 白髭をつけると・・・


 ところで、周蔵が、以前京都で出会った達閣に再会したのは大正十年であった。野方村の上高田九六番地に設けた第二救命院に、渡辺政雄を住まわせて芥子の研究栽培を委託していた周蔵が、三月に尋ねると客人が二人いた。「呉達閣と謂う人物には(京都の下宿時代から渡辺の親友だから)さして驚かなかったが、まふ一人の人物には驚く。本を探しに四谷まで行ったら教会の前で出会った由」。以下も「周蔵手記」の「別紙記載・上高田日記」である。

 もう一人の人物は、「≪ヨシソノさん。私の顔に髭を付けて見てくれないか」と云はる。意味が呑み込めんでをると、≪白髪交ぢりの髭をここに想像してみてご覧よ≫、と云はる。驚く。実に驚く」。前年十月一日から四谷の帝国針灸漢方医学校に通い、校長周居應から漢方を学んでいた周蔵は、もう一人の人物がその周先生なので驚いた。周先生に渡辺は「≪この人物は(自分を指して)これでも薩摩隼人だからね。日本人の中では一番コスモポリタンだから、心配要らないよ」と云う。周さんは、≪良く分かってをる≫と云はる」。

 
 薩摩藩士たちは薩英戦争に敗れるや、即座にイギリスの国力と世界の大勢を覚り、英国を本拠とするワンワールド海洋勢力に進んで加わり、在英ワンワールド薩摩支部が生まれた。「薩摩隼人が日本人の中では一番コスモポリタン」とは、其の事を謂うのである。今日の史家も気付かぬ其の秘密を政雄が知っていたのは、丹波穴太の上田アヤタチの血筋だからである。ここに重大な意味がある。

 
 「自分は意味が理解出来ないでをったが、辺さんから説明受くる。大体周先生は、体を悪くしたと云うことで、当分灸の学校は休むと言っていたのだ。≪帝國針灸はだふなるか≫と云うと、≪あれまたやるから≫と答えらる」。
彼らの帰った後で、周蔵は政雄から説明を受けた。「まづ辺さん云はるに、周先生は本名を王キテン、希天と書くとのこと。去年(九年)四月から名古屋の八高に入った由。何でも一昨年の前(七年)かに、神田で演説をやってつかまり、呉達閣もつかまり、その後支那料理屋の二階でゴロゴロしてをったが、周先生は四谷にシンキュウー帝國医専を作られた由」。

 仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』には、「八年春に一高予科を卒業した希天は同年秋に八高に入り二年間を名古屋で過ごすが、結核で一年間休学したため八高は退学を余儀なくされ、長岡海岸で療養生活を送る。大正十年秋、東京へ帰ってポンピドー帰国の後、牧する者のいないメソジスト教会の代理牧師として云々」とあるが、これは希天の表帳簿であるから「周蔵手記」の記載と矛盾して当然である。

 まず、結核は仮病と伝わる。何しろ周居應こと王希天は、震災後に生き延びてから百木姓を名乗り、千葉県布佐に住んで長寿を全うした。周蔵の死後も周蔵一家と親交があったから、多くの伝承があるわけである。
「誰一人として、王と周を同一人とは思ってをらん由。あきれる。≪呉先生(呉秀三)や癲狂院ではだふか≫と聞くと、≪呉先生でも知らぬ筈≫とのこと。≪仲間のポール・ナニガシかポンピダフなる人物しか知らないだらふ≫と云う」。

 八高を仮病で退学した希天は、秘かに東京に舞い戻り、九年秋より前に、周居應の名で四谷に帝国針旧漢方医学校を開いた。1896(明治年29)年生まれの希天は、周蔵と達閣より二歳下の二十五歳であったが、老人に化けて日本人相手に漢方を講義するのを、スパイ術の基礎を学んだ周蔵さえ見分けがつかなかった。希天はその諜報術を、南開学校時代にマスターしていたのである。メソヂスト派を看板にした南開学校は、国際秘密勢力が中国に設けた重要拠点で、希天が「よく解ってをる」と答えたのも当然であった。コスモポリタン仲間のポール某とは、聖公会牧師のポール・ラッシュのことで、震災後に初来日したとの経歴は表帳簿である。ポンピドーはメソヂスト牧師で、宗派は違っても、奥底ではヴァチカン・ワンワールドに連なる彼らは、日本調略のために来日していた。

 周居應こと王希天を周蔵に紹介したのは東大医学部教授の呉秀三で、呉は薩摩ワンワールド三代目総長の上原勇作と親しかったから、ここにコスモポリタン=国際秘密勢力の脈絡を見るべきである。希天は折から呉秀三の勧めで弟子入りした周蔵を、額田兄の妾が営む大森の料亭に案内した。希天の親しかった額田兄弟医師は呉教授の配下で、やはり筋道が見える。
 
 ★「空白の七か月」の真相は周蔵手記別紙記載にあった


 さて、周恩来の日記に戻る。一高受験にも失敗した周恩来は帰国を決意し、七月二十八日に出立した。三十一日夜奉天に着き、達閣に発信。八月一日天津に到着、帰家。六日希天の手紙を受け取る。家族に囲まれて一カ月を過ごした周は、九月四日東京に帰着するが、以後の日記は受発信のみで、他の記事はない。さらに七年十二月二十三日を以て周の日記は途絶し、八年の四月五日に「雨中嵐山」を詠むまで、資料は極めて少ない。留日日記日本版の編者矢吹晋は、九月から四月までを「空白の七か月」とし、この空白期について、「伝記作家たちはさまざまに書いている」として、代表的な説を二つ紹介する。

 金冲及の『周恩来伝』に拠れば、一時帰国後の周は「東京の神田三崎町にあった王樸山の家の二階に寄宿していた」とあり、(勉強熱心で沈着冷静な日常を過ごしていたが)南開学校が大学部を創設すると云う知らせを受けて帰国を決意し、三月、南開学校同学で第三高等学校に学ぶ呉瀚濤の京都下宿にしばらく滞在、四月天津に向けて帰国した。これが第一の説である。

 一方、ディック・ウイルソン前掲には、空白期における対照的な周恩来像が描かれているという。すなわち「七年秋には、周恩来は京都の呉瀚濤夫婦(ともに国費留学生)の家に身を寄せている。呉夫婦は以前から周恩来の滞日中の生活費を工面していたらしい。呉は周恩来に当時、京都帝大経済学部で教鞭をとっていた川上肇の思想を通してマルクス主義を紹介し、京都大学入学を勧めたらしい。周恩来も神田の住所で願書を書いたが、提出の有無は不明である」とのウイルソン説著を、第二説とする。

 京都に周を招いた南開同学の名を、ウイルソン前掲は勿論ハン・スーイン『長兄』でも、はっきり呉達閣と謂い、呉瀚濤の名を用いていない。その人物の名を、矢吹はなぜ呉瀚濤と変えたのか。おそらく金冲及『周恩来伝』(1989年2月)に呉瀚濤とあるのに、引きずられたのであろう。しかし矢吹は、呉瀚濤が呉滌愆であることに全く気が付いていない。同一人物だと知っていたら「滞日中の生活費を工面していたらしい」なぞとは書く筈がない。

 大正七年九月四日東京に帰着して以後、周の日記には受発信の記録だけが連日のようにあるが、京都にいる達閣からの受信は九月二十日に始まり、以後は十月五日受信。十二日受信して返信。十九日受信。二十一日受信。十一月に入り二十八日発信、二十九日受信して葉書で返信とある。他の留日学生仲間との書信往復は連日のごとく、受発信の場所は当然東京の下宿であろう。達閣の呼びかけで京都に移り、居候して過ごしたとされるが、受発信の様子では、京都に往ったとしても高々数日で、長逗留していたとは思えない。

 
 ここらで真相を云おう。実は、周恩来が京都市左京区吉田中阿達町の達閣の下宿に同居して居たのは、大正六年の秋であった。周蔵が手記の「別紙記載」に書き残したから、間違いない。

 
 六年春に一高特別予科に合格した達閣は、秋には京都に住んでいた。同居の妻を、ウイルソン前掲は「同じく国費留学生」とするが、当時の民国の国費留学制度では、対象はすべて男子校であった。同棲していた女性は看護婦と伝わるが、人名事典がいう呉瀚濤の先妻朱毓芬でない事は確かであろう。おそらく、丹波のアヤタチ家系の女性で、丹波衆がアヤタチ血筋の達閣に同族の女性をあてがったのである。
 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36) <了>。
 

●満洲国の断面 (18)
 ★いよいよ降参内閣

 ソ軍満洲侵入に備え古紙幣回収策を樹てること
 再び新京を訪れ終戦十九日前に甘粕と語ること 

 
 日本に転任後も、私は甘粕が上京する度毎に必ず会っていた。彼は東条英機に会いに来た。東条に直言しうる人は、甘粕一人であるという噂があった。東条の政治のやり方について、また側近について、また閣僚について、彼は自分の意見をズバズバと東条に言っていたようである。東条も彼の言うことには耳を傾けていたらしい。

 上京すると、甘粕は暇をみつけて、隅田川や東京湾に釣に出かけた。昭和十九年六月、戦局がますます非になって来る頃、彼は満洲国大使館に参事官の高橋源一(宮城県小原村長)を訪れ、釣に行くために服装をととのえねばならぬから心配してくれと頼んだので、高橋夫人は持っている衣料切符全部を甘粕に贈った。

 東條内閣が総辞職すると、甘粕は日本に来なくなってしまった。

 昭和十九年七月東條内閣の総辞職とともに、当然私も官を退くべきであったが、情報局次長・村田五郎がもう少し残ってくれといい、私のために斡旋してくれ、緒方竹虎が私のために勅人情報官のポストをつくってくれたので、私は第一部長を辞し、緒方の下で情報官として在任した。

 昭和二十年三月、鈴木内閣が誕生するや、大本営報道部長・松村秀逸(現参議院議員)は、私のところに来て、「この内閣は降参内閣だぞ。ソ連から中立条約不継続の意志表示があれば、それを機会に降参するつもりだ」と内緒で打明けたので、いよいよ降参の近づいたことを知った。

 この年の五月の初め、大陸連絡会議があって、武部六蔵と古海が東京にやって来た。日本の軍需工場の一部を満洲に移すという陸軍の計画にもとづき、連絡会議が開かれたのである。

 山王ホテルの宿舎に武部を訪れると、彼は私に向って、「日本はどうも敗戦主義だ。今の内閣には戦意がないよ」と言ったので、私はふところから、自作の要綱を出して、彼に示した。それにはこういうことを書いてあった。

 「もし日本に政治家があるとするならば、ソ連と直ちに交渉を開始し、ソ連をこちらに引つけて、ソ連軍を満洲国領内に引込んでしまう。すると世界の戦局は変り、戦争は終結し、日本は外国軍の占領をまぬがれることができる。いずれにしても、満洲国がソ連に占領されることは覚悟しなければならない。そこで満洲国総務長官としてなすべきことが三つある。

 第一は、満洲中央銀行の紙幣二十億円を、ここ一ケ月以内に新たに刷り上げてしまうことである。そして今流通している旧紙幣を全て回収し、刷り上げた新紙幣を流通させ、回収した旧紙幣は廃棄処分にしたこととして、実は廃棄せず、個人の手で保存し、ソ連軍が侵入すると決まったならば、この旧紙幣を日本人に分配しておけば、日本人は生活に困らない。しかもそれが旧紙幣であるから怪しまれることがない。これが日本人の生活を保証し得る唯一の道である。満洲国が滅びても、紙幣は直ちに無効にならない。必ず旧紙幣との交換が行われるから、紙幣さえ持っていれば、日本人は経済力を失わない。

 第二は国籍法を制定し、満洲在往の諸民族を満洲国人とし、在満日本人ももちろん満洲国民としておくべきである。

 第三は日本人の有っている土地を満人の名儀に変え、登記済証を前所有者たる日本人の手持たせておくべきである。

 旧紙幣を保管すべき人物は甘粕をもって最適任とする。」

 武部はこれを見て「君はおかしなことを考える人物だね。僕はソ連に満洲国を全部やることに反対だ。いよいよとなれば、旅順、大連、満鉄は仕方がないだろうがね」と言った。そして私の提言を取り上げなかった。

 それから古海に会ってその話をすると、古海は「ふん」といって、私の書いた要綱に眼を通し、それを自分のポケットに入れ「これを持っていると君が憲兵隊に引っ張られるといけないからぼくが預っておく」と言った。

 それから私は二人と協議して、とに角、日本政府がこれから打つであろう手を、満洲国のために探る必要がある。そして刻々に情報を送らねばならないという結論に達した。そこで私は情報局をやめて、満洲国政府総務庁参事官、東京駐在を命ず、という辞令を貰うことに、話は決まった。

 武部、古海は五月二十四日の大爆撃で山王ホテルをやられ、火の海をくぐり抜けて生命を全うし、無事満洲に帰った。

 甘粕は、その頃すでに敗戦を見通していた。根岸寛一はこの年の五月、甘粕と二人きりで新京の大和ホテルで話した。根岸は「自分は満洲で死ぬのはいやだから、満映をやめて日本に帰る、古野伊之助から日映をやってくれと頼まれているから」と言ったところ、甘粕は根岸を引止めようとした。根岸が、戦争が負けであるという見通しを語ると、甘粕もしぶしぶそれを承認した。甘粕にとっては、敗戦はわかっているが、敗戦を考えることは堪えられなかったようである。

 そこで二人は、最悪の事態に備えて、東京に大東亜映画研究所を作り、大陸から引揚げてゆく若い映画人たちをここに収容し、彼らの生活を保障し、将来の発展に備えるという案を立てた。間もなく華北電影公司とも協議し、案がまとまり、匿名組合として大東亜映画研究所を設立し、根岸がその代表者となり、甘粕が満映から資金二百万円を送るということになった。

 根岸寛一は日本に帰った後、十五万円を甘粕から送ってもらったところで、終戦になって、この案は中絶してしまったが、甘粕は若い映画人の将来を考えて、こういう手を打ったのであった。

 この頃、甘粕は秘書の菅谷(斎藤)亮男を連れて、大連に行き、久しぶりで○子島へ魚釣に行った。斎藤に向って「もう二度とここへは来られないなあ」と言った。その時甘粕は、自宅から会津の小鉄と、先祖が五代将軍からもらったという刀と、二振をもって新京に向った。或いは小鉄で割腹することを予期したのかもしれない。

 七月一日附で私は再び満洲国官吏となった。その頃東京は殆んど焼野原で、敵の艦載機が、日本全土の上を飛んでおり、満洲行は頗る危険であったが、情報をとるには機密費が要るから、武部、古海に会って金をもらおうと思い、かたがた再度満洲国官吏に任ぜられながら、挨拶に行かないのは、敵の艦載機にやられるのがこわく、命が借しいのだろうと思われるのも嫌だと考え、七月六日の旅客機で私は新京へ飛んだ。

 無事新京へ着くや、私は武部に当座の費用として三十万円の機密費をもらいたいと申込んだところ、「差当り五万円持って行ってくれ、それは満洲国大使館を通してて受けとってくれ、それから情報は一切大使館を通して送ってもらいたい、君と僕との直接取引はやめよう」ということであった。

 甘粕は私の来たのをたいへん喜んで、湖西会館で歓迎会を開き、この時もまた私の招びたいと思う者を全部招んでくれた。彼は私が満洲国に帰り、省次長となり、満洲の他方行政をやった方がよいと私に勧めた。満洲国が滅亡に瀕していることを、まだ気付かないのかな、と私は思ったか、そうではなかった。

 七月二十七日朝、飛行機で新京を発つことになったので、二十六日夜は午前一時になるまで甘粕と語った。私はソ連の満洲国占領はなんらかの形において早急に実現することを述べ、武部、古海に告げた古紙幣政策を提案し、旧紙幣二十億円を廃棄処分にしたこととし、実はこれを保存して日本人に配り、その生活を維持すべきで、その役割は甘粕にあることを強調し、是非これをやっていただきたいと言ったところが、甘粕はこう答えた。

 「戦局の推移については、私もあなたと同意見です。しかし旧紙幣を預る仕事は、私のすべきことではありません。それはあなたのなすべきことでしょう。あなたがおやりなさい。」

 「いや、私は満洲国のために日本政府をスパイするのが役割です」と私は言った。甘粕はそれからあまりものをいわず、沈んだ顔をしていた。すでに捨てているなと、私は感じた。

 翌朝午前七時、私を飛行場に送るための車に旧部下・中川忠次郎が乗って大和ホテルに迎えに来た。甘粕はいつものように、きちんと服装を整えて、ホテルの車寄せに立ち、もと私の家の女中で他へ嫁した大島つねという婦人と国通社員の千葉庄二夫妻と四人で、私を見送ってくれた。直立不動の姿勢で、見送してくれる甘粕を、車の窓から見て、私は後ろ髪を引かれる思いであった。

 十一年を経てもなお、その姿が私の脳裏には強く刻みつけられ、他のことは記億がうすれて行くが、これだけは浮き彫りのように残っている。

 七月二十七日、私の乗った飛行機は無事米子に着いた。そこでこの飛行機は敵の艦載機に焼かれてしまった。私は生命を全うして、爆撃の中をくぐり抜け、七月三十日朝、東京に帰った。

 ソ連が満洲国に侵入したのは八月九日、私が甘粕と別れてから十三日目であった。八月十日の朝、私は総理官邸の新聞記者室に馬場という旧部下を訪れ、御前会議の模様を聞き、政府がスイス、スウェーデンを通してポツダム宣言受諾を申し入れたことを知ったが、武部との約を重んじて満洲国大使館の桂定次郎公使を通して、暗号電報で、これを武部に送ったのが千慮の一失であった。それは何処かで押えられて、武部には達しなかった。総理官邸から出たその足で東京逓信局に行き、知人に頼んで、電話で武部に連絡し、甘粕にも伝えておけば、八月一日以降の全満洲における混乱はなかったはずである。これは私の重大な責任問題で、今日でも私の過失から多くの人々を苦しめたと申し訳なく思っている。

 ソ連侵入と聞いて、私が一番先に考えたことは甘粕はどうなるだろうということであった。他の人は何としてでも生きていくだろうが、甘粕には困難がある。しかしもし甘粕が生きようととこころざせば、彼のことであるから、どんな手でも打つであろう。恐らく彼は大連にのがれ、大連から魚釣に使っていた自分所有のモーターボートに乗って天津に逃れ、ソ連の難を避けて日本に帰ってくることができるだろうと考えた。

 しかしそれは武藤式の考え方で、甘粕の態度ではなかった。以下は終戦時甘粕の周囲にいた人々の話を聞いて事実を確かめた上、記す。

 ***************

  続く。
 


●満洲国の断面 (17)
 ★メロンと爆弾

 甘粕湖西会館を建て外交的手腕を振うこと
 再び協和会に乗りこんで大粛清をやること 

 
 満映の西北に、道路をへだてて、甘粕は湖西会館という瀟洒なクラブを建てた。これは南湖の西に位し、南嶺に臨み、建国忠霊廟を望見し、風光明媚な場所であった。映写室兼宴会場があり、ヴェランダや芝生も美しかった。新京特別市長・関屋悌蔵と組んで、市の土地に作ったものであり、市長も使うことになっていたが、実際は甘粕が社交のために専用するクラブとなってしまった。

 建国十周年の祝典には、甘粕は音楽家の山田耕作を招待した。山田とともに、辻輝子、伊藤武雄、斉藤秀雄など十数名の音楽家が来満した。甘粕はこの会館でこれらの音楽家をもてなし、満洲における音楽興隆への協力方を頼んだ。またドイツ公使、イタリー公使などをも招待して、映画会、音楽会を開いた。

 尾上菊五郎が建国十周年使節として大谷竹次郎と来満したときも、彼はここで一行をもてなした。私も同席した。
 
 大震災の時、尾上菊五郎の稽古場が憲兵隊の臨時事務所になり、甘粕は菊五郎やその母堂や息子と親しくなった。ところが甘粕の姿は九月十六日に見えなくなってしまったので、菊五郎も母堂も心配していた。

 菊五郎は憲兵隊本部へ出かけ、甘粕の消息を聞いたが、けんもほろろの挨拶で数カ月経て初めて新聞で事情を知った。しかし、甘粕が人殺しをしたとは信じられなかった。

 菊五郎は甘粕と当時の思い出を語り、歓談尽くるところを知らないほどだった。

 
 話は飛ぶが、甘粕と石原莞爾とは親しい間柄であった。それでいて満洲国に関しては、一種の政敵関係にあった。

 私は石原莞爾には、一度しか会わなかった。協和会宣伝科長のときに、北支側で作ったポスターが協和会に送られてきた。日本の兵隊が城門の上に乗って足を拡げて万才を唱えており、城門の下に支那の民衆が歓呼の声を上げているというポスターであるが、城門を低く描きすぎているために、まるで日本の兵隊の重い靴が支那の民衆の面を踏まえているような画であった。甘粕と私とがこのポスターを見ているとき、石原が入って来た。

 私は「このポスターを眺めていると、日本の兵隊が泥靴で支那民衆の頭の上を歩いているように見えるな」
 と言った。すると石原莞爾は

 「君、事実はその通りだよ」
 と応じたので、面白いことをいう人物だと感じた。

 総務庁次長・松木侠(現鶴岡市長)は石原の崇拝者で、

 「石原さんは天才だ。満洲建国当時、満鉄も日本政府も満洲を利権の対象として考え、いかにして満洲の地に日本の利権を確保し、また拡大するかということを策していたのに、石原さんはこの対立意識をさらりと捨てて、日本人が満洲国の中に入り込んで、満洲国の構成分子になり、民族協和でゆくのだと主張した。そこに満洲建国の精神がある」と私に語ったことがある。

 ファシスト使節団長・パウリッチに民族協和を説明したとき、彼はこれに興味をもち、その思想は誰の創意によるかと問うたので、私は石原莞爾と答えた。パウリッチもこれにはひどく感心していた。
 ところが、甘粕にかかると、石原将軍もあまり値打のある人物ではなかった。甘粕は次のように言った。

 「石原莞爾は私の親しい同僚です。彼は大彼までは勤まる人ですが、将にはなれない男なのです。彼は参謀としてはすばらしいが、衆をひきいる男ではありません。彼のまわりにいる人物を見てごらんなさい。性格が弱く、能力の低いものばかりです。石原にくっついて自分の地位を保とうとする人間だけしか、彼にはつかないのです。だから、やくざ級のものが沢山彼のまわりを取りまいています。協和会がうまくいかないのは、石原を取りまいている連中が幅を利かしていろからなのです。」

 ある時、甘粕は私にこう言った。

 
 「石原が満洲にいることは、今日では満洲国のためにならぬから、私は彼に帰れと言いました。」

 それは、石原が満洲を去った後のことであった。

 その頃、宴席で食後のメロンがでて、みなが爆弾の大きさとメロンとを比べて、話がはずんだとき、甘粕はこんなことを言った。

 「私は爆弾を一個、押入れの中にしまっておきましたが、どうしたわけかそれが見つからなくなったのです。関東軍の或る男★に、私の言うことをきかせなければならぬことがあり、言うことをきかなかったら、その爆弾を使おうと思って、押入れを探したのですが、見つかりませんでした。そこで代りにピストルを持って行きました。」

 私は「ぶっ放したのですか」と聞いた。

 「いや、その必要はなかったのです。彼は私の言うことを聞きました」

 と甘粕は言った。私はその時、どうもこの相手は石原莞爾ではないかと直感した。

 
 協和会は昭和十五年頃には、相当な発達を遂げ、各省におかれた省本部、各県におかれた県本部いずれも充実し、全満にわたって、組織は強固になっていた。一方、支那事変の戦局が苛烈になるにつれ、軍の要請によって、政府が民衆の財力や労力を搾取する政策は強化されていった。

 そこで、民衆(満人大衆)の味方をもって自任する協和会日系職員は、政府を通して民衆を圧迫してくる軍の政策とぶつかり合うことになった。同じ日本人でありながら、政府の職員すなわち官吏は民衆に強く当たり、協和会職員は民衆の側についた。そのため宣徳達情、上位下達を使命とする協和会の組織が、逆に国政を阻害する結果となり、協和会そのものが満洲国政冶のジレンマをなすに至った。この情勢を打開し得る人物は、甘粕以外にはなかった。

 そこで、昭和十五年十二月末、関東軍は甘粕に協和会総務部長再任を頼んだ。甘粕は満映理事長兼任のままならば引受けると言って、期間を三ヵ月にするという条件を付し、私のもとにその許可を受けに来た。こういうときの甘粕は、きちんと礼儀を守って、もとの部下に対し、監督官庁としての敬意を払い、事情を述べて許可を乞い、且つ三ヵ月の間、半日だけ協和会に勤務するが、満映で午前に働くか、午後働くか、どちらにしましょうかということまで、私の指示を仰いだ。

 翌十六年一月、甘粕は再び協和会中央本部に乗り込んだ。一週間たつと、建国以来未曾有の大粛清が行われた。今度は、前もってリストを用意しておき、総務部長として乗りこむやいなや、満洲国に来て協和会以外の職場で働いたことのない日本人は、原則として解職るから、他の職場に入って経験をつむこと、政府と協和会職員の人事交流をやることというような方針をたて、職員の全面的大更迭を発表し、これを実行してしまった。更迭の数は千数百人に及び、新聞紙の二面を埋めつくした。

 このようにして彼は、協和会の職員と政府とが協力するような体制をつくり上げた。

 協和会職員と政府との摩擦は、今日から見ると必ずしも非難すべきことではなたかった。彼らが建国の理想とした王道精神から言えば、官の圧迫に対して民衆の側に立って抗争することが、本来の使命だったにちがいない。しかし、当時の事情はこれを許さず、甘粕をして大鉈をふるわしめたのであった。

 こういう点から、満洲の政治を見れば、それは二つのイズムをもっていたといえよう。

 一つは石原イズム、

 一つは甘粕イズムであった。
 
 ****************

   続く。 




●満洲国の断面 (16)
 ★岸流兵法の第二課

 岸信介日本に於いて新党樹立を企てること
 甘粕、武藤に出馬を思いとどまらせること 


 昭和十五年七月、星野直樹は第二次近衛内閣の企画院総裁となって満洲を去り、武部六蔵が総務長官として赴任した。古海忠之が次長となった。私は武部のもとにおいても、その地位を保ち、昭和十六年の夏、満洲国通信社法、新聞社法を交付して、通信社及び新聞社を完全に政府の監督下におさめ、その重役の任免権を握り、経営的にも編集的にも、言論機関を完全な国家統制の下においた。

 大東亜戦争が勃発して間もなく、昭和十七年の一月末、私は満洲国通信社長を日本からつれて来ようというので、同盟通信社の社長・古野伊之助に会うため上京した。古野との会談で松方三郎(現共同通信社長)に来てもらうことに話を決め、ついでに、東条、星野にも挨拶した。

 すると、商工大臣・岸信介から会見を申しこまれ、当時築地にあったバラック建の商工省に連れて行かれ、大臣室で岸と話した。

 話は元に戻るが、昭和十四年十月、岸が商工次官となって満洲を去るときに、私たち数人の満洲国官吏が岸に会見した。

 その際集まったのは、私のほかに管太郎(現衆議院議員)、山管正誠(現弁護士)、都甲謙介(ソ連抑留中死亡)、竹下佐一郎(現北陸新聞企画局長)、五島徳次郎、田川博明、毛利富一などであった。私たちは岸とともに日本の将来を論じ、日本で新党ができるとときは馳せ参じようと約束した。岸はその時まだ四十二才であったが、政治資金の作り方について、私たちのために一席弁じてくれた。


 「政冶資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らねばいけない。問題が起ったときは、その濾過機が事件となるので、受取った政治家は、きれいな水を飲んでいるのだから、かかりあいにならない。政治資金で汚職問題を起すのは濾過が不十分だからだ。」


 これが私の学んだ岸流兵法の第二課であった。


 さて、商工大臣室で岸に会って見ると、案の条、新党の話であった。「いよいよ挙国一致、新党を作って大東亜戦争をやりぬくことになった。真珠湾やマレーの大戦果で、国民は有頂天になっているが、これは、年の若い特攻隊員数十人の手柄によるもので、日本の実力ではない。実はこれからが大へんなのだ。だから、新党をつくり、その政治力によって戦力の増強を回り、この戦争をやり抜かねばならぬ。ついては、かねての約束通り、満洲国から、四、五人の同志をつのり、今度の総選挙に打って出て、新党結成に参加してもらいたい」と云うのである。


 その時、岸は「新党を作っても党首がなくて困る。東条は裸にすれば橋本金欣五郎以下だ。山本五十六は国民的尊敬は受けているが、政治家ではない」と言ったので、私は「尊公自ら買って出たらどうか」と水を向けたところ、岸は「ほん」と言った。

 それから私は冗談半分に、
 「選挙資金は十分出すか、また選挙干渉をするか』
 と聞くと、岸は
 「出す、そしてやる」と返事をした。

 それならよいだろうというので、私は岸の申入れに応ずることになり、新京に帰り、山菅(当時竜紅省次長)、都甲(当時大同学院教頭、後の北安省次長)、五島、田川(協和会参事)竹下(弘報処参事官)その他と協議した結果、私と山菅と都甲の三名が官を退いて日本に帰り、総選挙に打って出ることに決まった。一週間後に出発することとし、飛行機の座席を三つ取った。

 その晩、私は古海忠之のところに行って、そのことをうち明けると、古海はすでに岸の将来を見通しており、

 「それは壮挙だ。大いにやり給え。ぼくが武部長官の諒解を得てやろう。ことによると将来、ぼくも馳せ参ずるかもしれない。岸は大物になるかるね。それに選挙は男子一生に一ペんはやっておくべきものだ」と言った。

 それで私はよい気特ちになって、大和ホテルに甘粕を訪れ、いきさつを話した。

甘粕は私の話を聞くや、沈痛な顔になってこう言った。

 「今日まで二年半のあいだ、武部長官はあなたを信任して来ました。しかるに、あなたが岸に誘われて、長官の信任を裏切るのはよくないことです。古海を介して長官に話したのでは、礼を失します。あなた自身、長官のもとに出向いて相談をし、その諒解を得るのが道です。」

 なるほどその通りだ、古海には政治的野心があるから、甘粕ほど透徹した物の見方ができないとわかり、私は自分の非を悔いて、その足で夜おそく武部六蔵をおとずれ、事情を話した。武部は私の話を聞いて、うーんと唸った。そして次のように言った。

 「実は三月の初め、張国務総理が、建国十周年謝恩特派大使として日本を訪問することに決まり、君に隨員になってもらうつもりでいた。それはそうとして、君が職を賭して日本に帰るというならば、君に代る人もあるから、敢えて君を引止めない。しかし、政府の要職にある二人の人物をかたらって、ことに、竜江雀次長として赴任後三ヵ月しか経たない山菅を引連れ、徒党を組んで満洲国を脱出するというのは穏かでない。君一人が岸の陣営に馳せ参ずることは自由だが、勅任官三人がいっしょになって行くところに政治問題がある。」

 「すると長官は、われわれのやらうとすることに反対なのですか」
 と私が言うと、武部は

 「そうだ。たとえ私が承認しても関東軍司令部は恐らくノーと云うだろうな」
 と答える。そこで私は

 「関東軍司令部がノーと云っても、これを押し切って、われわれが日本に渡り、総選挙に打って出たとすれば、どういう結果が起りますか」
 と聞いた。すると武部は

 「それは君、総務長官の進退問題だよ」
 と答えたので、これはなかなかえらいことだ、長官の首をかける結果となるなと思った。

 そこで、暫く考えさしてくれと武部に言って、そこを辞し、また甘粕のところへ引き返し、「武部は、おれの首の問題だと云っていましたよ」と報告したところ、甘粕は


 「武藤章と岸信介が組んでやっている新党問題は、はたしてうまくゆくかどうかわからかいというのが私の勘です。この問題は即決せずに、私に任せて下さい。二、三日中に東京へ行きますから、陸軍の連中と会って、事情を探ってみます。その上であなたに返事をしましょう」

 と言うのであった。

 甘粕は数日後、東京から私に電報を打ってよこした。

 「情勢変化す、今回は思い留まれよ」というのであった。

 新党結成は結局崩れて、翼賛政治会となってしまった。満洲の新聞は少しも実情を知らなかったが、日系官吏徒党を組んで立候補すという抽象的な情報を、日本側から嗅ぎつけたものか、「日系官吏と総選挙立候補の可否」などという論説を書いた。

 このことのために、私は武部六蔵の信任を失い、大分地位があやしくなって来た。しかし、立候補思い切りが決定するや、武部は私を謝恩特派大使・張景恵の随員として、日本に送ってくれた。

 この年の四月、日本での任を果して帰ってくるや、武部は私をシャム公使館参事官に送ろうとすることに決めたので、私は満洲新聞社の社長・和田日出吉に会い、月給千円で新聞記者に雇ってくれと申しでて、その承諾を得、いよいよ新聞記者になる覚悟を決めたが、武部はそれを知って、私の左遷を思い止まった。そして、私はまた一年居座ることとなった。

 この頃には、甘粕は満洲国弘報界の元老の役割を勤め、ことごとに私の後楯となり、地位を擁護してくれた。私が何かの政策を実行しようとして反対が起こると、甘粕は蔭になり、日向になって、その障害をとり除いた。

 ある時、私があまり長く弘報処長を勤めたので、これを代えた方がよいという議が、関東軍司令部に起り、どこかの省次長に転任させるという噂があった。すると、甘粕は私を前にしてホテルの自室から参謀副長の秦彦三郎に電話をかけ、


 「おい秦か、君は武藤を転任させるか、させない。そうか、そのままにしておくか、よろしい」と言って電話を切り、

 「秦が大丈夫といえば大丈夫です」 と言った。


 ****************

   続く。 




●満洲国の断面 (15)
 ★発財(ファーツァイ)! 発財! (*部分)  

 略・・・
 ・・・このようにして、資本金二百万円の映画館会社が出来上がり、全国各地に映画館の建設が進められ、映画というものが、初めて満洲の辺境に入って行くことになった。

 映画館の行渡らない奥地には、十六ミリトーキーと発電機とをもった巡回映写隊が、幾組も出張して、県公署や県協和会本部と組んで、娯民映画、啓民映画を上映して民衆に見せた。

 巡回映画は、私の部下であった堀正武参事官(一万田・大蔵大臣秘書官)が、満映を指導して実行し、後に藤山一雄の世話で、★大塚有章という人物が満映の巡映課長になった。大塚は共産党大森ギャング事件の巨頭で、昭和の初め、党資金を得るため、大森の銀行を襲撃し、七年の刑を終って満洲に渡り、同郷のよしみで、藤山一雄を頼ったところ、藤山は甘粕にこの人物を頼みこんだので、甘粕は転向者としてこれを受け入れ、巡映課長に任じたのであった。

 *****************

 ★グランド劇場の前でニヤリ

 甘粕国際的謀賂を趣味とすること
 劇団を援助し交響楽団を作ること

 昭和十五年九月、日本軍部が仏頂インド支那に進駐すると間もなく、甘粕の行方がわからなくなった。満映では、大連のお宅に帰られたと言っていたが、私はどうもおかしいと感づいた。二週間ほど経って、彼は社に帰って来た。

 「仏印乗り込みですか」

 と、かまをかけると、彼はさりげない調子で言った。


 「ちょっと海南島へ行って来ました。仏領インド支那の人たちで軍隊をつくり、これを海南島で訓練して待機する必要があるのです。」

 映画会社の社長がとんでもないことをするものだと思った。


 その頃、甘粕は満映の北支進出を考えはじめた。北支は人種的に満洲国と不可分の関係にあるから、日本が北支に深入りするよりも、満洲国が北支と結びつく方がほんとであろというのが、彼の持論であった。そこで彼は北京に映画館を一つ買い入れ、新民戯院と名づけ、満映が作った映画をここに送り込んで上映する計画を立て、これを実現した。

 さらに北京に撮影所を作って、京劇を撮影し、これを満洲に持ちこんだ。映画は文化の低い所から高い所には流れこまない。文化の高い所から低い所に流れこむ傾向がある。だから、北京で作った映画を満洲に入れるのがほんとで、満洲で作った映画を北京に入れるのは逆であると言っていた。

 この頃、上海に中華電影公司というのがあり、川喜多長政(現・東亜商事社長)が、副理事長で、軍と結びついて所謂上海映画の統制権を握っていた。

 甘粕は川喜多と折衝し、上海にも満映の作品を入れることに成功した。

 昭和十六年の春、上海共同租界の映画館グランド・セアターに満映の作品「国法無私」が上映され、入口に日満支三国旗が掲げられた。甘粕は映画館の前に牧野光雄と立って、この旗を仰ぎ、にやっと笑った。


 三島徳太郎★(仮名)という人物がいた。政府の官吏で、蒙古行政をやった男であったが、この頃、★官を退いて謀略活動をはじめた。チベットの安珍ラマが北京に来ているから、日本人一人をラマ憎に化けさせ、安珍ラマにつけてインド経由でチベットに潜入させ、チベットの情報をとり、将来、日本の大陸政策に資するようにしようと考えていた。そして、関東軍の係の軍人と連絡を取り、日本の参謀本部にも行き、満鉄あたりから資金を出させることに成功した。

 三島と私とは、★数年前から親しい間柄であったが、彼はこの計画を実行するために、甘粕の援助を借りなければならないことになり、私に紹介方を頼んで来たので、新京の大和ホテルで、三島と甘粕とを会わせた。

 三島を甘粕に紹介すると、甘粕は

 「あなたも私と同じ趣味ですか」 と言った。

 「はあ」と三島は答えた。

 とんでもないことを趣味としている二人の人物を引合わせて、私は、世の中には面白い型の人間がいるものだ、と思った。

 半年ほど経って、甘粕は私に次のように言った。

 「あなたが紹介した三島という男はひどい人ですねえ。私が長い間可愛がって訓練しておいた人物が北京にいたのです。ところが三島はそれを引張り出して、安珍ラマにつけ、チベットヘ入れてしまいました。私のなわばりを荒しては困りますね。」

 それで私は三島の成功を知った。甘粕は三島の悪口を云ってはいるが、内心はその腕前に感心しているようであった。それにしても、その道にはその道で、プロデューサーと俳優とがあり、プロデューサー仲間で俳優の取りあいをやるものかと感心した。


 満洲国は軍国主義の本場と思われていただけに、音楽、演劇、文学、美術みな萎縮していた。関係者も何か国策の線に従わなければ、命脈が保てないような錯筧に陥っていた。 
 
 そこで私は昭和十五年の秋、芸文指導要綱というものを作って、美しいものをどしどし作り出すことによって、満洲国を美化するという政策を立て、政府及び関東軍を動かして、これを納得させ、予算も相当に取った。こうして満洲国のルネッサンスを図ろうとした。甘粕はこういうことが大好きて、政治的にも実質的にも全力をあげて私を推してくれた。

 彼は協和会総務部長在職中、音楽家の大塚惇を招いて、交響楽団の編成を計画していたので、満映の業績があがると、新京放送局にも呼びかけ、本格的に新京交響楽団の結成に乗り出した。

 東京へ行ったとき、彼は山田耕作と接触し、優秀な音楽家を送ってくれるように山田に頼んだ。また市長の才長の関屋悌蔵と組んで満系音楽家の教育施設、新京音楽院をも作り、これを援助した。

 今東映にいる藤川研一 (公成)は満人俳優を組織化して、大同劇団をつくり、ゴーゴリの監察官などを漢語に翻訳して上演したり、中国の新劇などを試みたりしたが、経営不振でいつも苦しんでいた。私が援助方を頻むと、甘粕は満映から補助金を出してこれを助けた。大同劇団は熱河工作に活躍し、漸く形ができ上ると、北京に乗りこんで上演した。芸はうまいが、言葉がズーズー弁だという批判を受けた。北京語に比べると、新京弁は東北弁みたいにズーズー弁だったのである。

 昭和十五年から十六年にかけて、満洲の文運大いに興り、演劇、音楽、美術、文学共に花を開いたかの観があった。

 甘粕はまた画家を愛した。日本から来た画描きが彼のところに画を売りに行くと、たいてい買ってやった。ずい分下手くそな画でも、言い値で買い上げた。しかし、美術の鑑賞眼は非常にすぐれていて、余程いい画でないと、目分の部屋や会社の重役室にかけることはしなかった。

 ****************

   続く。



●満洲国の断面 (14)
 ★二重橋の前で一升徳利

 甘粕青木経済部次長を襲って外貨を出させること
 所謂国策映画を排し娯民映画啓民映画を作ること  


 その頃、東洋一と称するスタジ才が出来上った。彼は私を案内して、その内部を示しながら、こう言った。

 「東洋一は図体の大きいことだけです。中味と来たらすこぶる貧弱なものです。あなたと二人で、ベルリン郊外にあるウーファのスタジオを見に行きましたね。おぼえておいででしょう。あちらに一棟、こちらに一棟と分割してスタジオが建てられております。そして、大きな映画を作るときには、これに附設して臨時のスタジオをつくることができるだけの余地を残してあります。また、すばらしい温室があって、四季の植物、熱帯植物までもあったのをいっしよに見ましたね。

 ところが、ここでは大きなビルの中に、部屋割をして六つのスタジオを作ってある。だから動きがとれない。大きた建物の中に、スタジオをひとまとめにして作ったのは、明かに失敗です。しかし、通風機の音が、たえず聞こえてきて、トーキイの音響効果が悪い。またこんな大きな建物の外側に金をかける位なら、建物を安直にし、費用を節約し、それでセットを豊富にし、温室を作り、交響楽団をもつべきものでした。また、スタジオも新京たけに作らずに、これを北満と南満とに作り、風物の変化を取りいれ易くすべきでした。

 また、この施設をごらんなさい。ある所は機械でやっているが、ある所は機械が手に入らないために、手で仕事をしています。せっかく機械でスピードを出していても、流れ作業が手に移るために、機械工業が手工業の速度に落ちてしまい、政府の生産能率は上がらないのです。たから手でやっているところを機械に代えてしまわない限り、予定通りの生産をあげることはできない 甘粕は、スタジオの充実に乗り出すや、まず、第一に、ドイツのツァイスその他から、最新式の必要な機械を購入し、スタジ才の完全機械化を図ることに着手した。

 甘粕就任前、満映の幹部は、経済部(通産省に当る)に外国為替割当の申請を幾度もしたが、軍需優先の時代であったから、映画など緊急の必要がないというので、いつも却下されていた。このいきさつを知った甘粕は、就任三ヵ月目に、外国為替獲得に乗り出した。

 朝七時、経済部次長・青木実(現常盤相互銀行頭取)に電話をかけ、これからお宅へ行くと云う。青木は寝ているところを起こされ、すこぶる不機嫌で、ご用があるなら、役所で会いましょうと返事をすると、甘粕はいや、すぐ行きますと言って、電話を切り、直ちに青木のの家に乗りこみ、応接間に坐りこんでしまう。

 それから青木に面会し、外国為替の割当を頼みこむ。

 「東洋一と称するスタジオは出来たが、図体ばかりでかくて、中味はからっぽです。これでは仏作って魂入れずだから、何としてでもドイツ為替をもらいたい。軍事費に比べれば九牛の一毛にすぎない。しかも、人心を捉える点から云えば、政府は軍備よりも大切だ」と例の簡潔な口調で押してゆく。

 筋を通すことと、つっぱりの強いことで定評のある青木も、甘粕の攻撃を受けては防ぐ術もなく、何とかしましょうと返事をしてしまう。

 社に帰るや、甘粕は、経済部へ行って外国為替をもらって来なさいと命じ、直ちにシベリヤ鉄道を通って、ドイツに機械を買いに行く人選と、出発の日取りとを決め、ついでに小遣いをやって、欧洲状勢の視察までさせる段取をつけてしまう。こうしてスタジオは初めて充実し廻転されることとなった。

 人事とスタジ才の整備が一段落すると、甘粕はスタジオ運営の能率化を図った。理事長宣の壁面には、各種のグラフが張られ、第一から第六のスタジオまで、空いている時がないように使う仕組である。うまくいかないと、責任者を呼んで注意する。

 次ば映画の内容を面白くすることに努めた。

 これについて、甘粕と私とはいつも意見が一致していた。劇映画はなるべく面白いものを作れ。観衆がこれを見て、泣いたり笑ったり、感動したりして楽しむものでなければならぬ。国策映画などというと、無味乾燥になって、人の心をほごすことができない。日本では盛んに国策映画などといって、劇映画に国策を盛り込んでいるし、また業者も、そんなことをして軍や政府にへつらっているが、満洲国の国策は面白い映画を作って民衆を楽しませることにあるのだから、日本の真似はするな。面白くもない国策映画ほど、くだらないものはない。こういうことで、人心を収攬しようという考えは間違いである。戦時体制下の緊張をやわらげ、民衆に生きる喜びを与えるのが、劇映画の使命である。産業や経済建設や建国精神を示す映画は文化映画として、真正面から取り組んでゆきなさい。映画を濁してはいけないというのが、二人の一致した意見であった。そこで甘粕は、劇映画、文化映画という言葉を廃して、★娯民映画、啓民映画とした。民を楽しませる、民を啓発するという意味である。社の機構も、これに合せて、娯民映画部、啓民映画部というのを作った。

 料亭へ行って、芸妓の中に百面相の上手なのがいると、甘粕は

 「武藤さん、こういうのは映画にどうですか、満洲土着の芸人たちの演芸の中に、こういうのを混ぜ合せて、娯民映画を作りましょう」などと冗談をいう。

 今日では当り前のことだが、当時の情勢では日満両国にこれだけ思い切ったことを言い、且実行できる人は、甘粕をおいて他になかったであろう。

 こういう調子だから、純粋な意味での劇映画が次から次へと作られた。もっともスタッフが貧困だったから、独創的なものは少なく、金色夜叉をほん案して、貫一・お宮に満洲服を着せ、熱海の海岸を星が浦にしたのや、『己が罪』を満洲ふうに書き直した程度のものが多かった。

 甘粕はどうしても満系の中に、シナリオ・ライターと監督とを作らねばならと考え、木村荘十二を日本から招いて、映画人養成所を創立し、十年先には、満系のシナリオライターの作品を満系の監督と俳優とで演ずるように備えた。またフィルムの国内自給を考え、豆がらからフィルムベースを作る案を立て、研究費を出して満鉄の試験所に研究を依頼した。

 こういう次第だから、甘粕をもって、右翼の浪人とみなし、彼が満映の理事長になれば、日本精神や、建国精神を劇映画に仕込んで、人に押しつけ、映画を無味乾燥にするだろうと思っていた
人々は、全くその逆なのに驚き、なるほど甘粕は文化人であると、みなが承認するようになった。

 この頃から、国民精神総動員という言葉が、日本にはやりはじめたが、甘粕は日本でそのポスターを見、帰って来て私にこう言った。

 「日の丸の下に国民精神総動員などという文字を書いたポスターを到るところに貼ってありますが、こんなことで、精神が総動員されると思っているのがまちがいです。宮城の前を電車が通
るとき、帽子を脱いで頭を下げさせることになったようですが、こんな馬鹿なことをさせる指導者は、人間の心持がわからない人たちです。

 こういうやり方は偽善者を作ることになります。頭を下げたい人は下げたらよろしいし、下げたくなかったら下げなくともよろしい。国に対する忠誠は、宮城の前で頭を下げる下げないで決まるわけではありません。悪いことをしていながら、宮城の前を通るとき、頭を下げたとてそれが何になりますか。日本の政治家のやっている形式主義は、日本人を偽善者にし、二重人格者にするおそれがあると思います。私は二重橋の前に一升徳利をぶら下げて行って、宮城を見ながらあぐらをかいて、酒を飲んでやろうと思いました。」

 「こういう精神指導を誰がやっているのでしょう」
 と、見えすいたことを聞くと、甘粕はこう答えた。


 「そりゃ、軍人どもですよ。それから軍人に迎合する人たちですよ。軍人というものは、人殺しが専門なのです。人を殺すのは、異常な心理状態でなければできないことです。一種の気ちがいです。毎日毎日、如何にして、人間を多量に、そして能率的に殺すかを研究し、訓練しているのが軍人なのです。その軍人が現職のまま法科大学に籍をおいて、法律や経済を習ったことが間違いのもとです。その時分から軍入が政治に口を入れるようになったのです。気ちがいが政治をやれば、政治がゆがむのは、あたりまえのことです。」


 自分が軍人出でありながら、軍国主義批判はなかなか手きびしい。だから英米に関係のあるレコードや音楽を禁ずるなどという日本のやり方には、頭から反対で、私と一緒になって、人心の自然に反するような統制をやるのはまちがいだと主張した。

 音楽は、英米人の作であろうが、露独伊人の作であろうが、区別すべきでない。典雅壮麗なものであれば何でもやるべし、というのが、甘粕の主張であった。

 その頃、私はは治安部(内務省に当る)のもっていた検閲を、すべて弘報処(情報局)に吸収し自分の権限下に入れてしまった。治安部から私のもとに引きとられた幹部たちは、中国から輸入する映画の検閲にあたって、かたくななことを主張するので、私は困った。

 例えば、唐や宋の皇帝を主題とした訣画が出て、皇帝が失恋して悲しむというような、ロマンティックな場面があると、それは満洲国の皇帝の尊厳を害するからいけないというので、上映禁止をする。

 すると、甘粕はこれに抗議してくる。

 洽安部から引取った官吏をすぐ転任させてしまうと、反動が強く、反って検閲権を取りもどされ、益々かたくなになってしまうことを恐れ、私は、自ら中国映画を見た上で、甘粕と検閲係の間に入って、折衷策をとって、両方の顔が立つように骨折ったものである。

 甘粕はこういう点では、自由主義の立場にあった。

 ***************

   続く。




●満洲国の断面 (13)-2
 ★岸流兵法の第一課 (2)
 
   
 
 それから一週間ほどたって、甘粕は大連から出て来て、新京の大和ホテルに泊まり、私に会いたいと言って来た。ひどく暑い日の夕方、私はホテルの前庭で彼と立話をした。彼はこう言った。

 「飯沢重一(当時主計処長、現弁護士)が岸の使いで私のところに来ました。満映の理事長になってくれと申しこまれました。しかし私は他になりたいものがあるのです。」

 「何になりたいのですか」と聞くと甘粕はこう言った。

  「満洲房会会社の社長になりたいのです。みんなが住宅難で困っているから、資金をうんと集めて、一挙に住宅を何万戸も作り、住宅難を緩和してやりたいと思います。」

 「いやだ」と言わずに、実は住宅会社の社長になりたい、と言うからには、脈があるぞと思って、私はこう言った。

 「満映理事長問題の火元は実は私です。あなたに頼まれて、一年間、協和会宣伝科長をやったのですから、今度は私を助けると思って引受けて下さいませんか。」

 すると甘粕は「考えてみましょう」と答えた。

 当時満映の理事長は金璧東で、天津に住んでおり、全く名義上のもので、満映は手当だけ送っていた。そして実権は専務の根岸寛一にあった。根岸は興業界のヴェテランで、根岸興業部、日活の重役という経歴の持主。その道の大家だから、これに首を振られては具合が悪いので、話の決まらぬうちに打明けてしまえば、案外すなおに受けるかもしれない。受けない時は権力ずくだと腹を決め、彼を呼んで、一部始終を話したところ、根岸は一寸深刻な顔をしたが、「お受けしましょう」と一言答えた。

 それから私は大連に行って満鉄の理事、中西敏憲に会見した。満映の資本の半分は満鉄がもっているので、甘粕理事長就任の了解を求めると、中西は快諾した。

 ここまで来れば甘粕引張り出しの態勢は出来上ったと私は思った。

 川は硬化しているが、まだ望みがないわけではない。僕がいろいろと手を打ってこの人事を実現してみせるから、君はその含みで、あまり正直なことは言わないようにし給え。」ここで私は岸流兵法第一課の伝授を受けたわけである。

 間もなく私のところへ電話がかかって来た。「熱河省次長にご栄転でおめでとう」というのである。新聞記者らしい。私はそれを否認しておいたが、関東軍では、すでに武藤追払いの議が起っていると察した。

 ところが、この時面白いことが起った。新京憲兵隊が動き出したのである。渡辺千之という憲兵曹長、目下ソ連抑留中)があった。これは正義感の強い男で、満映の腐敗について、かねてからいろいろと情報を私のところへもって来ていたが、私の改革案を噂に聞いて感ずるところがあったと見え、
 「あなたのやっていることを妨げる軍人を調べあげて、槍玉にあげましょう」と申しでて来た。

 忽ちにして彼は報道部某将校の関係している料亭やカフェーや、その他婦人関係を、こと細かに洗ってしまった。何月何日に誰と来て芸妓は誰、女給は誰、泊まったか泊まらないかまで調べあげたのだからたまらない。その結果は新京憲兵隊から軍司令部に報告された。

 一方岸は参謀長のところに乗りこんで「武藤が満映の改革をやろうとする時、それを妨げる者が軍の中にいるが、国家のために改革をやらせるようにしてもらいたい」と申しでたという話が憲兵隊の方から私の耳に入ってきた。報道部に人事の移動があったのは、その直後であった。

 そして甘粕の満映入りは確定し、私の首もまたつながったのであった。

 甘粕、満映理事長就任決定というニュースが町に流れると、ニッケギャラリーをはじめとし、新京の町々の喫茶店や、力フエーでは、文化人が甲論乙駁、批評やうわさがとりどりであった。右翼浪人が映画会社の社長になるところに、軍部の独裁的専横があるという意見も出るし、満洲一の非文化人が、満洲一の文化機関を支配するのだという逆説をとなえる人もある。

 この頃、東宝の社長・植村泰二が来満したので、満映の幹部は料亭桃園で歓迎の宴を開いた。その際植村は「今度社長に就任と決まった甘粕というのはどういう人物か」と尋ねた。或る部長が「甘粕は軍の尻押しで満映の社長という地位につくだけで、一介の満洲浪人にすぎない」
 と説明した。製作部長をしていた牧野光雄は言った。
 「いや、そうではない、私は甘粕の公判記録を読んだが、血もあり涙もあるえら者らしい。」

 宴席のこの会話は、芸妓を通じて甘粕の耳に入ったとか入らぬとかいう噂まで飛んだ。

 *********************

  ★岸流兵法の第一課 <了>。

  続く。
 
 




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。