カウンター 読書日記 2009年11月
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●満洲国の断面 (5) 
 ●満洲国の断面 (5)  

 ★お好きなレコードをかけましょう p39

 甘粕協和行進歌を作らせること
 飾紐による礼装を実施すること


 この年(1938年)の三月、私(武藤富男)は当時大連にあったマンチュリア・デイリーニュースという英字新聞の記者・日高昇と組んで、英文協和会号というグラフを出すことを考え、甘粕に相談したところ、彼は直ちに賛成した。日本的東洋的なものに偏して、西洋的なものを排斥しているという感じを、満洲国も協和会も人々に与えていたから、私は逆手を打って英文のグラフを作って、協和会の寛容さと建国精神のおおらかなことを世界に示そうとしたのである。甘粕は私に向ってよくこういうことを言った。

 「日本的なもの、東洋的なもので凝り固まった人の言うことや書くことは一方に偏し、万人を納得させるカを持ちません。一度西洋的なものを遍歴した後、東洋と日本とに帰った人が、その知識と体験とをもって、東洋的なもの、日本的なものを書くと、そこにはほんとの味と深みとを出すことができるのです。」

 甘粕は当時駅前の大和(ヤマト)ホテルの一室に起居していたが、書棚を見るとヨーロッパに関する本が多く、殊にヨーロッパの歴史と諸民族に関する文献をたくさん読んでいた。大連に自宅があって彼はたまの日曜日に家族のところに帰った。或る時私は彼を自宅に訪問した。

 応接室には電気蓄音機があり、甘粕は私の顔を見ると、まず「あなたの好きなレコードをかけましょう。西洋音楽がお好きですか、日本のものがお好きですか」と問う。西洋音楽だと答えると、「器楽がお好きですか、声楽がお好きですか、それともオーケストラがお好きですか、お好きなものをかけましょう」と言う。「独唱が好きです」と言うと、「それでは最近手に入れたジョセフィン・ベーカーの歌をかけましょう」という具合である。

 私の最も喜ぶことをしてあげようというのが彼の態度である。そして彼が音楽、殊に西洋音楽についてもっている教養は並々ならぬものがあった。

 こういうわけだから、彼は英文協和会号にも直ちに賛意を表した。そこで私はその編集に着手し、毎日協和会館に出ていって精を出していると、関東軍第四課に呼びつけられた。第四課長は片倉、参謀は永井八津次。永井は私に向って、「君は英文協和会号を作っているそうだな」と言ったので、これはてっきりやかましやの関東軍から怒られるものと思ってヒャッとしたが、案に相違して永井は「補助金を出すからなるべく良い物を作ってくれ、どの位あげたらよいか」と言う。これは有難い話だと思ったので、あてずっぽうに「一万円(今の三百万円)もあれば良いものが出来ますよ」と言ったら、「そうか待ってくれ」と言って奥へ入り、片倉と相談し手の切れるような百円札百枚を持って来て私にくれたので、いささか驚いた。甘粕が片倉に話したなと思った。

 もっともこの頃、鮎川義介に満洲重工業会社を起こさせ、アメリカの資本を導入して、大規模な産業開発をやらせようという計画が実現しつつあったので、その情勢も手伝ったにちがいない。

 甘粕は協和会に歌がなくてはいけないから、歌を一つ作って下さいと私に申込んだ。 P41・・・以下略。

 ***************

 *満州国の承認は、はじめヴァチカンとサルヴァドルのみだったが、

 康徳4年(昭和12 1937)11月 イタリアが満州国を承認。
 翌1938年 ドイツが承認する。

 1938年4月 イタリア使節団の満州国来訪 

 同年 夏 満州国、イタリアへ答礼訪問 訪欧修交経済使節団
 団長:経済部大臣・韓雲階 甘粕は副団長兼事務総長として実質団長の任を果す。
 
 **************

   続く。
 
 


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●満州国の断面 (4)
 ★嫌いな人物は菅原道真 (p17-24)

 初めて甘粕に会見してその人物に魅せられること
 甘粕に頼まれて協和会宣伝科長を引きうけること

 
 「これから協和会と政府との連絡会議に出てくれないか。両者が連絡を密にするために、毎月一回政府の中堅官吏と協和会の幹部とが懇談する会をもつことになった。国務院総務庁からは君に出てもらいたい。頼む」と古海忠之(現在中共抑留中)から言われたのは、康徳四年(昭和十二年)八月のことであった。古海はその頃、国務院主計処長で協和会の指導部長を兼ねていた。

 協和会へ出入りすることはあまりぞっとしないが、問題の甘粕という男はどんな人物か見てやろうと思い、私は承諾の返事をした。そして八月のなかば頃、古海につれられて、大同公園の北側にある協和会本部に行き、会議室で初めて甘粕と会った。政府の官吏は七、八人来ており、協和会側は甘粕以下古海その他部科長十人ばかり並んでいた。

 甘粕というのは顔面蒼白で残忍酷薄な顔をしているかと思って行ったところ、案外快活な表情をしているので驚いた。血色が良く、端正な顔をしており、時々声を立ててアハハと笑い、簡潔な言葉で適確にものを云いあらわしていた。

 私は「おや」と思った。これは右翼ではなくてインテリだ、というのが私の印象であった。鼻は均斉がとれていたが、鼻頭が酒焼けのためか少し赤かった。眉と眉との間に、タテシワが二本あった。このシワが彼の前歴と、彼の歩いてきた苦難の道とを示しているように思われた。表情の中で暗いところといえばそれだけで、他はすべて明朗で、また理知的であった。

 会議の席上、彼はガリ版刷りの二つの原稿を出した。一つは「支那事変について」もう一つは「協和会問答」と題するパンフレット用草稿であった。それを列席の官吏たちに配って彼はこう言った。
 「人にわかるように物を書くのに難しいことです。自分が百、知っていることを二つか二つ出して、人の身になって表現に苦しむことにより、初めてわかり易いものが出来るのですが、自分の知っていることをやっと表現するようでは、人にわからせることは出来ないのです。協和会で出すパンフレットは、自分がやっとわかったことを、やっと云い表わしているのですから、人にわからせることが出来ません。そこに現在の協和会運動の困難があります。この一つのパンフレットの原稿は、その見本みたいなものですが、これをごらんになって御意見をお述べ下さい。」

 パンフレットの原稿にざっと目を通すと、なるほどこれは大変な文章である。主語と述語とうまくつづかないところもあるし、何と云っているのか、言いた人自身がはっきりわからないでいると思えるところもある。意気はまことにさかんであるが、一人で声高に叫んでいて、人がついてこられないようなところもある。こういうものをそのまま印刷して出したところが、大衆はほとんどこれに興味をもたないだろうと思ったので、私は甘粕に向って、二日間の余裕を下されば、私がこの原稿に筆を入れましょう、と言った。甘粕は「お願いします」と言って経く頭を下げた。なかなか謙遜な人だと思った。

 仕事の余暇を見つけて私は二つの原稿を細かに訂正し、それを甘粕に届けた。それから一週間ほど たって甘粕は私に会見を申し込んできた。夕方協和会から車を廻してよこしたので、それに乗って行くと、協和会館の前で甘粕が待っており、二人はその車で料亭桃園に行った。

 甘粕は私が原稿を直したことに大変感謝し、「直して下さった通りの原稿で出版します」と言った。それから酒肴が運ばれたが、私は自分の信仰から酒は飲まなかったが、甘粕は芸者の酌で盃をあげた。飲みながら彼は芸者に向ってこんなことを言った。

 「おい、お前たちは顔も違うし芸も違うのに、賃金が同じとは何ごとか。お前のようなまずい顔をして芸の下手な芸者が、ほかの芸者と同じ賃金をとるとはけしからん、賃金を返せ。」するとその芸者は甘粕に眼をむいて、私に向ってこう言った。
 「このおじさんに欺されて、ひどいめにあっているのよ。百円よこせば一千円やると云ったから『ハイ』と返事したら、それは一千円ではなくて、一銭たったので、九十九円九十銭お前に貸しがあると云って、いつも私も責めるのよ。」

 それからたわいもないことを言って芸妓をからかった後、甘粕は私に向って、あなたは日本歴史のうちで誰が好きですか、と聞いた。私は「日本武尊が好きです。この人は武人であり、詩人であり、その一生は英雄的で、しかも悲劇的です」と答えた。

 すると甘粕は「あなたはどんな人が嫌いですか」と聞いた。「さあ」といって私が考えていると甘粕はこう言った。

 「私の嫌いな人は二人あります。その一人は菅原道真で、もう一人は乃木大将です。菅原道真は左大臣まで昇進したが、大政大臣になりたくて猟官運動をやった。ところがそれに失敗して藤原時平のために官を追はれ、筑紫に流されることになったが、宇多上皇にすがって留任運動をやった。君しがらみとなりて止めよ、というのはその時の詩です。×(こんりゅう)の袖に隠れて自分の地位を守ろうとしたのです。陛下を自分のために利用する今頃の政治家によく似ているではありませんか。ところが失敗して、筑紫に流されることになった。その詩も泣きごとをこぼしている。駅長悲しむなかれ、時の変り改むるを、とつぶやいている。筑紫に流されてから詠んだ詩も、国を思い天子を思うよりは、己れを主にしている。秋思の詩篇独り断腸、恩賜の御衣なおここにありなどと、自分中心の態度です。」

 なかなか面白い見方で、そう言われれば、なるほどそうかと思う。では乃木大将をどうして嫌いですかと尋ねると、「今の時世だとこの人は大佐までしかなれない人物ですよ」と簡単に片附けてしまう。そこで私は「ではあなたの好きな人物は誰ですか」と聞いた。すると彼はこう答えた。

 「私の好きな人物は悪源太義平です。彼は人のために尽くして損ばかりしている。人のために損をしつづけて、一生を終ってしまった。保元の乱には待賢門の戦で平の重盛を追いかけて、もう一歩で彼を討取るところまで行ったのに、自分の家来、鎌田兵衛が平家の武士・与左衛門景安に押えられ、首をかき切られようとしているのを見て、重盛を討つことはいつでもできるが、自分の愛する家来が殺されてしまったなら、再び帰ってこない、と思い、重盛をのがして鎌田兵衛を救った、そこに彼のよさがあるではありませんか。歴史は決して真実を伝えません。つまらない男が偉大な人間のように取扱われたり、ほんとは立派な人物が名も現われずに埋もれたりするのです。歴史の記録は表面的であったり、時々偽りであったりします。真実が埋もれたままで歳月の経過によって忘れられてしまう場合がしばしばあるのです。」

 この言葉を聞いて、私はハッと思った。大杉殺害事件の真相は、新聞に報道されたのとは違うのではあるまいか。それは表面的な歴史の記録にすぎず、その真実はおおいかくされて表に現われずに失われてしまうのではなかろうか。いま目の前で話している甘粕という人物が、ほんとに大杉夫妻を絞殺し宗一をも殺めた下手人であろうか。このような教養の高い人がそんな大それたことをしたのであろうか。この時私は大杉事件について疑いをもちはじめた。

 関東大震災が起こったのは、私が一高三年生、十九才の時であった。翌年の二月一日、紀念祭の飾物に、明寮何番であったか、「締めてかくす、甘粕大尉」という題で、越中ふんどしを出した。大杉らを絞殺して古井戸にかくしたという意味である。

 下品な飾り物と、いまわしい事件にまつわる印象とが、私のうちに甘粕正彦像を形づくっていたのだが、それがこの夜の会合でくずれつつあった。甘粕に一度も会いもしないでまた大杉事件の真相を調べもしないで、新聞の報道や人の噂で人物を推量していたことの誤りを私は悟った。来りて見よ、という言葉があるが、人物は会見し語り合って見なければわからないものだと思った。私の甘粕に関する考え方は前後二回の会見で急変していった。

 もともと私は東京地方裁判所判事から、昭和九年四月満洲国司法部に転じ、ついで法制局参事官になったので、いわば法律の専門家である。十一年間法律で立ってきており、満洲国の法制通をもって自任している。それが、得体の知れない協和会の宣伝科長になってくれ、といわれたのだから少しあわてた。ところが私のうちには人前で物を言ったり、宣伝したりすることの好きな性質があり、私は自分を顧みて、求心的な人間ではなくて遠心的な人間であると自覚していたので、二回の会見で私のこの性質を見抜いたな、と感じ、彼の鑑識眼に恐れをなした。そこで即答を避け、考えてみましょう、と言って別れた。

 当時の協和会というのは宣言や綱領は立派で、その指導精神は★辻政信の手にかかって、総務長官・大達茂雄を辞職させる態のものだが、実際ははなはだ弱体な組織で、中央本部及び地方本部に働いている協和会職員の多くは、満洲建国に参画した日本人のうちで、政府の官吏にならなかったか、なれなかったものが主である。中には相当の人もいたが、大ていは能力において、知識経験において、官吏としての適格を欠いているか、或いは性格や精神が激し過ぎて、官吏には向かないような人が多かった。

 在満日本人の中にも、協和会とは何であるかを理解しているものは少なく、中にはこれを関東軍の諜報機関と思っているものもあるし、文化団体と取っているものもあった。また関東軍が上から作ったナチス、ファシスト党の模造品であると思っているものもいた。満人(漢民族)はこれに親しむというよりは、むしろこれを恐れ警戒していた。だから法制処参事官から協和会の宣伝科長になるということは、いかにも落ちぶれるような気持で、まるで箱入り娘がマネキンに転落するようかものであった。

 ところが人物の持つ魅力は大きなものである。毛嫌いしていた協和会も、甘粕という人物に引きつけられ、何となく面白いところのように感ぜられる。三回会っただけだが、甘粕という男は自分の想像していた人物とは全く違っている。その違っているところが何とも言えない魅力となった。役人になって十一年、いろいろな人物に出会ったが、これほど興味ある者にぶつかったことはない。一つ甘粕の下で働いてみようという気になった。

 主計処長の古海忠之は官吏の地位はそのままで、協和会指導部長をやっているので、私もそれにならい、法制処参事官のままで宣伝科長になるなら承諾しようと腹を決め、古海とも話し合い、また当時上司であった松木侠(現鶴岡市長)にも相談し、その承諾を得て甘粕に返事をした。

 甘粕は喜んで私を迎え、その年の十一月一日附で私は現職官吏のまま協和会宣伝科長を兼任することとなった。これが私の後半生の転機になろうとは、その時は気がつかなかった。今にして思えば、甘粕にこの時引かれたことが、それから後二十年の私の生涯を決定した。

 **************

   続く。

   



●満州国の断面 (3)
 ●甘粕のフランス語能力について「疑史 第62回」で落合氏はこう書いている。

 「・・・甘粕の仏語力について角田が嘲笑的なのは、「陸軍一の仏語遣いの自分でも、軍人仏語は通用しなかった。まして甘拍なぞは・・」との澄田の言に乗せられたのであろう。ところが甘粕に親灸した人物は正反対を述べている。満洲国の司法に携った武藤富男は甘粕に私淑した。戦後は明治学院院長に就いたが、その著(『満洲国の断面』☆だったと思う)の中で、甘粕と一緒に渡欧した際に垣間見た甘粕の仏語力を、「小鳥が囀るように」と賛仰している。裁判官とは、事実を法律的に整理するのみならず人間観察を心掛ける職種であるから、こんなことはまず間違わないだろう。甘粕のフランス語は軍人仏語ではなく、ポンピドーの姪から日夜教わった本場のフランス語だったのだ。・・・・」

 順不同となるが、先ず↑の相当部分を紹介しておきます。  


 ★映画会社ウーファを見る (p86-90) 

  スペインを訪問しフランコに会うこと
  米甘粕を嫌い使節団入国を拒むこと 


 それから東ドイツのケーニヒスベルクに入った。哲学者カントの墓があるこの都は、物凄い反共気分でコッホという地区指導者がいる。ヒトラーの大久保彦左衛門格である。ここの農産物見本市には、満洲国承認前に満洲国旗を掲げて、満洲大豆その他の農産物を出品したとすこぶる得意であった。

 ケーニビスベルクを最後として、ドイツ旅行を終り、十月十日にわれわれはベルリンのテンペルホーフ空港からスペインに飛んだ。

 スペインはまだ革命の動乱都市で、首都バルセロナは共産軍の手にあり、首府は北スペインの小都ブルゴスにあった。人口五万の田舎町ブルゴスは、おびただしい軍隊と政府官吏とでごった返していた。

外務大臣ホルダーナ、ファランヘ党書記長クェスタ等の招宴が次々に催されたが、驚いたことに、宴会は夜の九時頃から始まり、十二時頃までつづく。息子は共産軍、父親はフランコ軍などというのが何組もある。父子、兄弟が分れて闘っているのである。

 フランコ将軍は、われわれのため、わざわざ前線からブルゴスに帰って来た。十九日、モロッコ儀仗兵の一隊に護衛されて、われわれはフランコの館(やかた)を訪れ、彼に会見した。丸顔で色白、膚は美しく、髪とひげは黒く、すこぶる美男子で、これだけ端麗な顔をいまだかって見たことがなかった。

 甘粕は何処で情報を得たか、会見後、こんなことを私に語った。
 「フランコよりもえらいのがいたのです。それがスペインの天下を取るべき男だったのですが、その人の乗った飛行機が、戦争中山に激突したため、死んでしまいました。フランコの謀略だったといううわさがあるのです。」

 使節団一行は、ヨーロッパの訪問を終った後、一ヵ月の間は自由行動をとることとし、めいめい思い思いの国に遊んだ。

 甘粕は私をつれて、ベルリンで二つのものを見に行った。一つは映画会社ウーファである。スタジオからセット、道具、衣裳、機械に至るまで丹念に彼は視察した。もう一つはアルバイトーディーンストで、青年を組織化して義務制とし、国土の開発をやらせている勤労奉公隊である。 甘粕は被服から道具、給与、職階、仕事の種類にいたるまで詳細に調べて、品物は一々点検し、隊員と会見して、親の職業から家庭の状況までたずねた。その調べ方の機に入り細をうがっているのに、私は感心した。
 
 それから彼はパリに行った。パリにいる甘粕は、まるで籠を離れた小鳥が木々を飛びまわってさえずるように、フランス語を巧みにあやつりながら、あるいは大使館に現われ、あるいは酒場に姿を見せた。日本の外交官や武官や実業家を料亭に招いてごちそうするかと思うと、裏町のとんでもないところを見学したりした。

 彼はこういうところには、決して私をさそわなかった。その代り風早義確を同伴した。帰って来て、コンビネーヨンという人肉市場のあることを私に教えてくれた。年とって性的に衰えた夫を鼓舞するために、夫婦が何十組と集まって、合意の上で、一時的に妻を交換場所がパリにあり、そこへは独身者者の男女も出入し、性の完全なる乱れを実行する。いかにヨーロッパには淫蕩な場所があるかを説明した。 


 十一月九日、使節団はナポリに集結した。
もともと、われわれは、中央アメリカのサルヴァドルに行く予定であった。これは小国であるが、満洲国を一番目に承認したからである。サルヴァドルに行くには、アメリカ合衆国に上陸し、そこから飛行機で行くのが、最も便利なので、使節団は日本の外務省を通じてアメリカに人国許可を交渉したが、アメリカ政府は二つの理由をあげてこれを拒絶した。一つは満洲国を承認していないこと、もう一つは、使節団の中に、好ましからざる人物が一、二あること、というのである。日本の外務省の説明によると、この一、二とは外交辞令であって、実は一人だけ、すなわち、甘粕正彦である。そこでサルヴァドル訪問は取りやめ、ナポリに集結した一行は、ふたたび海路インド洋を通り、日本に行くこととなった。

 船が地中海に入ると、甘粕は一同を集めてきついお達しを布告した。彼はこう言った。
 「日本は今、支那事変遂行中で、外貨を必要としています。みなさんにお渡ししたポンド(英貨)に、余りがあるならば、それは日本に持ち帰って、そのまま正金銀行に納むべきものです。ところが日本の円が国際市場にだぶついているため、これから先の港々には、両替屋がたくさんおり、一ポンド十七円のところを、二十二円から二十六円までで、交換が行われております。十七円のものを二十五円で売れば、もうかることは事実ですが、それは国家に対する背信行為ですから、ポンドのあまりを円に替えることをしないで下さい。それで、みなさんは日本に着くまでは、もう円が要らないでしょうから、私が全部それをあずかります。持っている円を全部袋に入れて、金額を書いて、私にさしだして下さい。」

 持っている円を取上げたところで、ポンドを両替するのを防げるものではないが、甘粕にはまだ甘粕の考えがあるだろうと思って、私は黙っていた。みんな甘粕の命令に従って、袋に円を入れて、彼にさしだした。

船がポートサイドを過ぎて紅海に入るとや、甘粕は私のもとに来てこう言った。
「驚いたものです。あれほど言ってあるのに、ポートサイドで二十二円で円に替え、船の郵便局から妻子に宛てて送金したものがあるのです。私は郵便局に行って調べて来ました。それは鮮系の使節団員です。」

私は司法官を七年間勤めたが、甘粕ほどの勘をもっていなかった。これは彼が憲兵だったからではなく、人間性について、異常な臭覚をもっているためであった。

 ************

   続く。
 
 


●『満州国の断面―甘粕正彦の生涯』 (2)。  
 ●『満州国の断面―甘粕正彦の生涯』(2)。   
 

 ★辻政信のえがいた波紋 (p7~)

  大達茂雄関東軍と衝突すること
  甘粕正彦協和会に現われること


 「人殺しが、満洲国の政治に関係するとは何といういやなことであろう」
私は思った。

康徳四(昭和十二年)四月、甘粕正彦が満洲帝国協和会の総務部長として乗りこんで来たというニースが伝わったのである。その時分、私は国務院法制処(法制局)の参事官をしていた。

話は前にもどるが、前の年の十二月十日の午後、新建築が出来上ったばかりの国務院片舎の三階廊下を、企画処に向って歩いていると、総務庁長(総務長官)大達茂雄が、ズボンのポケットに両手を入れて、にこにこしながら反対側からやって来た。何処へ行くかというから企画処の会議へと答えると、「会議はさぼってしまいなさい、官邸に行って碁を打とう」と言う。そこで大達に連れられて長官官邸に行った。

官邸は落成が済んだばかりで、結構調度は豪勢なものであった。引っ越して間もない大達は私を案内して各部屋を示し、「どうです、立派なものでしょう。こういうところに入りたいとあなたは思いませんか、羨ましくはありませんか」と言って、上級生が下級生に対するように私をからかった。

それから夜おそくまで碁を打って、玄関で別れる時、大達はしんみりした口調で、「こんな立派な家にも長くはいられない。浪人になればあばらや住いだよ」と言ったので、おかしなことをいう人だと思った。

ところがそれから四、五日経って、大達茂雄が関東軍と衝突して官を辞するといううわさが立った。大達と同じ内務畑の出身で、当時私の直接の上司であった大坪保雄(現=著作出版時=衆議院議員)や、その他二、三の消息通に尋ねると事情は次のようであった。

話はさらに前へ戻るが、この年、二・二六事件の直後、当時陸軍大尉であった★辻政信(現衆議院議員)が、関東軍司令部の幕僚として東京からやって来た。

この人物は、制限速度を無視して走るタクシーみたいで、日系官吏が、あれよ、あれよと言っている間に、突拍子もない勢いで政策街道を驀進し、満州国の政治を大ゆすりにゆすぶった。

この年の春から夏にかけて彼がやったのは、行政機構の改革、建国大学の創立で、それが片付くと協和会の強化に乗り出した。その結果が、この年の九月一五日附で出された協和会に関する関東軍司令官の声明である。これは黄表紙のパンフレットに印刷されており、誰に見せても差支えないものであった。ところがもう1つ白表紙のパンフレットというのがあった。表紙には「満洲国の根本理念と協和会の本質」という題が記され、永久保存、軍事機密となっていた。

 大達茂雄は関東軍に呼ばれて、参謀長・板垣征四郎から、この白表紙パンフレットを渡された。紫の袱紗(ふくさ)をかぶせて盆にのせてあるのを、まるで勅語でも受けるようにうやうやしく受取らなければならなかった。この白表紙パンフレットは大達に渡された後、日系官吏に配られることになっていた。大達が国務院に帰って白表紙を開いてみると、彼の考えによれば、とんでもないことが記されていた。

 白表紙の要点はざっと次のようである。「満洲国の政治は独創的王道政治であり、哲人政治であり、議会政治を否認する。協和会は満洲国の精神的母体でかつて、協和会員たるものは最高熱烈なる建国精神の体得者でなければならぬ。協和会員が野に在り、官にあって建国精神を実践してゆくとき、動議世界は満洲の地に創建される。関東軍司令官は天皇の御名代であり、師ふ(しふ)として皇帝を指導する。満洲国の宗主権は、皇道連邦の中心たる日本の天皇にあり、皇帝は、皇道連邦内の一独立国の主権者である。協和会が健全な発達を遂げた時、関東軍司令官は逐次その指導権を協和会にゆずり、沈黙の威を以て、満洲国の後見をする。」

この位のことなら、当時の満洲国としては、それほど驚くには当らないのであるが、問題は議会制度の否認と皇道連邦思想とにあった。

日本を中心とする皇道連邦のさきがけが満洲国であり。そこで議会政治を否定して、協和会政治でゆくということは、やがては日本の議会段治を否定し、憲法を否認することを示唆している。白表紙の文章は明確に日本の議会政治を否定してはいないが、少なくとも全体のニュアンスが日本の憲法に反することを書いていると大達は解したのである。

そこで大達は「日本憲法を否認するようなことを記したパンフレットを、自分は陛下の赤子として、日系官吏に配るわけにはいかない」という決意を固め、白表紙パンフレットを金庫の奥へしまいこんでしまった。そして関東軍司令官・植田謙吉に会見して、「軍司令官たる者は、たまには幕僚の言を退けてしかるべし」と建言し、当時日満両国で非難されていた幕僚政治に一撃を食わし、白表紙パンフレットのいきさつを説明し、自分の立場を明かにした。

そして辞去するやいなや、総務長官として軍司令官の尊厳を汚したのは申訳ないという理由で司令部に辞表を提出した。

白表紙、黄表紙二つのパンフレットの作文は辻政信の筆になったもので、当時の参謀副長・今村均は赤線で訂正し、陸軍省軍務かにいた片倉哀も訂正意見を出したが、両方とも用いられず、辻が殆んど原案のままで参謀長・板垣征四郎を動かし、軍司令官の決裁を経て大達に押附けたものであった。

ところが大達がこれに反撃を食わせ、辞表提出にまでいったので、関東軍司令官は少々あわて「総務庁長に前以て相談せずにこういうことを決めたのは悪かった。今後はこういう重大なことは、前もって相談をすることにする、また白表紙はそのまま金庫の中にしまっておいて、必ずしも日系官吏に配らなくてよい」というところまで折れて出た。

大達の側近は「軍司令部がそこまで折れるなら、辞表は撤回した方がよい」とすすめたが、大達は「それがいかんのだ。そういうことをすると軍はまた同じことをやる。この機会に押切って軍に反省させなければならぬ」と頑張り、遂に康徳三年(昭和十一年)十二月十六日、老母に孝養とつくすために官を辞したと新聞に発表し、協和会問題についての秘密は何も語らす、新京を去ってしまった。

大達は康徳元年(昭和九年)法制局長官として満洲に赴任したのであったが、私はその翌年の四月、満洲国の司法部刑事課長から、大達によばれて法制局参事官になった。それから一年半にわたり大達に仕え、彼の卓抜な意見と、出処進退のあざやかさとに啓発されることが多く、部下として、また碁敵(ごがたき)として彼と親しく交った。

 当時の法制処(元の法制局)の日系参事官は、私の外に飯沢重一、田村仙定、木村鎮雄、寺岡健次郎、鯉沼昵等六名で、みな大達を尊敬していたから、大達が協和会問題で満洲を去るようになると余計に協和会を毛嫌いした。その頃流行してきた協和会服を着ることをいさぎよしとせず、みな背広で通し、協和会服を着ないことが大達
への忠義立てであるかのような、また筋金の入った日系官吏であるかのような感じをもっていた。

ところが大達の後任に星野直樹が財政部(後の経済部)から乗りこんできて、職員一同に講堂で挨拶した。星野は協和会服を着て現われたので、われわれ背広組はあっと思った。間もなく法制処長・大坪保雄は大達に殉じて職を退き日本へ帰ってしまった。

この事件が起こるまで、私自身は協和会の何ものであるかを知っていなかった。というよりは馬鹿にしていたのである。右翼の浪人たちが集まって、自分には力がないくせに、軍の威力借りて何かやろうとしているのだろう、満州国にとっては、なくもがなの存在だくらいに考えていた。ところが、事態が大達辞職にまで進展し、星野が協和会服を着て総務庁長(総務長官)として乗り込むということになると、協和会というものが軽視できない存在であり、関東軍司令部は、日系官吏を直接内面指導している上に、もひとつ協和会というものを作って政治的横車を押しているのかしらと思うようになった。

当時の日系官吏は、すべて関東軍の命令に唯々諾々として従っていたのかというと、そうではない。国務院総務庁の官吏、殊に建国後日本政府から招聘された官吏の中には、関東軍が満洲の政治の実権を握っているのが正しいかどうかを疑う者がかなりあった。

ほんとうは、日本の天皇から遣われた文官の師フ(しふ)が皇帝を指導すべきであるという論も行われた。軍司令官は如何なる根拠によって天皇の御名代となったかなどと疑問を発する者もあった。

 実際われわれ三十台の若者たちは、満洲国の政治はヒューマニズムに根ざさなければならないと思っていた。王道とか皇道とか云うが、それは表現の問題であり、近代教育を受けたものとして、ヒューマニズムを離れることのできないのが、われわれの持味であった。そして関東軍が横車を押すと、いつでもヒューマニズムによってこれと闘うのが日系官吏の一つの役割であった。

ところが、大正十二年の関東大震災に乗じ、大杉栄とその妻・伊藤野枝とを絞殺しし、更に大杉の甥で七才にしかならぬ宗一をも殺害して、三人の死体を古井戸に投げこみ、懲役十年み処せられて、牢から出て来た甘粕という男が、関東軍の引きで協和会の総務部長になるとは、なんといういやらしいことであろう。原敬を暗殺した中岡艮一が、安東の近くで何かをやっていると聞いたが、甘粕の協和会入りもそれと大同小異だと考えたのは、決して私だけではなかった。

 藤山一男という人物がいた。当時政府の恩賞局長であったが、私はこの人とは官職を離れて親しく交っていた。彼は幼時人形浄瑠璃文楽に弟子入りして名取となり、後五高から・東大経済学部を卒業して、第一次大戦の好況時代、三十才で相場師になり、大正九年の大ガラで失敗して世を捨て、下関の近くの長門一ノ宮で橡(くぬぎ)畠を開墾して七年間百姓をし、転じて大連に来て福昌草工公司の職員になって功績を挙げ、満洲建国に参画して初代実業部総務司長(次官)に就任した。珍らしい文化人で、絵を描き、小説をものし、歌をよみ、作曲をし、ピアノ、サキッソフォンを演奏し、太棹の三味線を一棹持って欧米を旅行し、音楽家となり、絵描きとなり、白人を驚かせたという人物である。

この藤山と会談している時、談たまたま甘粕のことに及んだ。すると藤山は次のように私に語った。

「甘粕は君、素晴らしい人物だよ、協和会へ行って見給え、テキパキと煩雑な事務を処理している。こんな事務的才能を持った男を私は見たことがない。それに彼は情の人、義侠の人だ。実は三年前の話だが、五一五事件の直後、首謀者の一人橘孝三郎が満洲に逃げて来た。その時僕は或る筋から、橘をかくまうことを頼まれた。そこで実業部の独身宿舎に橘を隠した。暗号を決めて幾つ天井をたたけば飯、幾つたたけば用便というふうにして、数日間、彼をかくまった。新京警察署(関東州庁管下)は彼がかくまわれていることに感ずいて、実業部の独身宿舎に泊まっている職員を全部引張り、ブタ箱に放りこんで責めたてた。ところが誰も白状しない。とうとう僕も引張られてブタ箱に一昼夜入れられた。
                          
甘粕は当時満洲国政府民生部警務司長(内務省警保局長に当る)であったが、僕が留置された二日目に彼は新京警察署に乗りこんできて、警察署長をつかまえて談判した。「令状なしで満州国の簡任官(勅任官)を逮捕監禁するとは何事であるか。これは日満間の国際問題である。直ちに釈放すればよし、さもないと、これを外交問題として取上げるがどうか』とおどしつけた。僕はこれを署長室の隣りで聞いていた。調べを受けるためにブタ箱から出されていたのである。警察署長は震え上って即時に僕を釈放した。それで、帰宅するとすぐ橘を満洲国の警察官に変装させてハルビンに逃がした。その時僕は初めて甘粕を知った。甘柿はこういう男だ。」

藤山からこの話を聞いても私は余り感心しなかった。それは軍部右翼的な勢力を背景にして警察署長をおどしたに過ぎないと思ったからである。

「われわれは満洲の地にユートピアを造ろうとして渡ってきた。国士気取りで白刃をひらめかし、大言壮語をして、人をおどかし、その実、軍にへつらって地位を得たり、生活をたてたりしている人間を、満洲国は必要としない。実はそういう人間は満洲の地から去ってもらいたい。われわれが行おうとしている政治は、四千万国民の衣食を足らし、近代文化をこの地に建設し、自由と繁栄とを人々が楽しみ得る国を作り上げることである。兇状持ちの甘粕が協和会に入り、軍と結んで日本の右翼的勢力を満洲に張られてはやり切れない。」

これが私の偽らざる感想であった。
 
**************

  続く。 
 



●『満州国の断面―甘粕正彦の生涯』 (1)
                         満州国の断面_1


 ●疑史 (第62回) 甘粕先生FMニ入社 で触れられていた、●『満州国の断面―甘粕正彦の生涯』 の紹介を始める。

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近代社 昭和31年9月10日 \230

茨城県立図書館


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 ★<目  次>


辻政信のえがいた波紋
嫌いな人物菅原道具
三十分で手を打つ
用件は三分間に
悲しい時に旗行列
大杉につながる両雄
お好きなレコードをかけましょう
日本人をなめるな
シンガポールでは船から釣
ドウチェと甘粕
勲章を返す専門家
大切な史料をなくす
ローマ王毒殺説
フューラーと甘粕
財閥を使いまくるナチス
ダンチヒの廊下を通る
映画会社ワーファを見る
ほら馬鹿が来ましたよ
憎まれたらやり切れない
岸流兵法の第一課
粉骨砕身は美辞麗句
李香蘭の月給は二百五十円
二重橋の前で一升徳利
妖気にあてられる
発財(フアーツアイ)!発財!
グランド劇場の前でニヤリ
岸流兵法の第二課
メロンと爆弾
鮎川なら資金は出る
いよいよ降参内閣
腰抜けの軍人はご免
木箱一つに百万円
最後 職場で
硯箱の下に遺書
右を日人、左を満人
甘粕正彦の解剖
 甘粕観のまちがい
 私の甘粕観
 甘粕の生き方
 甘粕の性格
 大杉事件起らざりせば
 
大杉事件の真相
 大杉事件あるいは甘粕事件とは何か
 日本陸軍の秘密
 上からの命令か
 殺害方法の不自然
 寺子屋を開いて藤山にささやく
 結論

甘粕正彦小伝

 以上、<目次>。

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 まず、興味深い一章から。


●大杉につながる両雄 (p35)

正彦、豊彦と食を具にすること
甘粕絶えず身辺を警戒 


 昭和十三年三月、賀川豊作が満鉄に招かれて満洲に来た。当時満州国には会作社運動、日本式に云えば産業組合運動が始まっており、産業部(通産省、農林省に当る)では五十子巻三という
官吏がその中心をなしており、協和会中央本部でもこの問題に力を入れていた。そこで賀川豊彦を協和会に呼んで懇談会をしようということになった。私は新京の日本キリスト教会の長老をしていたので、使者に立つことになり、協和会からの招待状をもって賀川豊彦を中央ホテルに訪問し、初めて彼に会った。

 賀川は私の顔を見るや、自分はこの宿を引払ってあなたの家に泊まると云い出し、その晩から二晩私の家に泊まった。それが縁になって今日の私と賀川との関係ができたのであるが、賀川は協和会の申入れを快諾して、協和会館の会議室で甘粕、五十子を初め、政府、協和会の首脳部と合作社問題について会談した。

 賀川は矢つぎばやにいろいろな質問を発した。合作社の社員は全国では何名いるかと尋ねたが政府側は人数がわからないと答えた。人数のわからないような合作社運動ではまだだめだと賀川は言った。合作社法を作って上からおっかぶせたばかりで、部落の居住者全粕を社員にするという政策をとっていた頃であるから、社員数はわからなかったのである。

 賀川は農業保険の必要性を強調した。保険制度は生命保険にしろ、損害保険にしろ、資金の都市集中を来たし、農村の資金を都市の施設のために奪ってしまう。これは資本主義の害悪であるから、合作社による農村保険制度を確立し、農村の資本を農村に還元して災害の保険となし、また農村の施設を作らせなければならないと主張した。

 会議がすんでから甘粕は「賀川の農村保険論は大した見識です。満洲国では、これを実行しなければなりませんね」と言った。

 その晩公記飯店で協和会主催による賀川の歓迎会を開いた。メインテーブルには甘粕と賀川が並んで坐り、私は二人に向って席をとった。

 いつもなら日本の料亭で、酒を飲み、芸妓をはべらしてさわぐ甘粕が、賀川のそばで行儀よくしているのだから、一寸しゃちこばった気分であった。甘粕の従姉・甘粕なべ子がキリスト教の伝道者であることを話題にして、賀川は甘粕と語ったが、話ははずまなかった。

しかし私自身はすこぶる愉快だった。豊彦、正彦と二人とも名前に彦がついており、経歴も性格も相違しているのも面白いし、賀川は若い時大杉と親交があり、大杉はよく賀川を訪れて本を
借りに来たそうだから、賀川は殺された大杉のことを思い、殺したといわれている甘粕のそばに坐って感慨が深かったにちがいない。

 甘粕の傍で働き、いっしょに料亭へ行って飯を食うことが多くなると、彼の挙動に具常なものがあることに気がついた。それは普通の人にはわからない微妙なことである。彼が部屋に入るため、ふすまやドアを開ける時には、私たちがするようにいきなりガラガラと開けることをしない。まず襖の前にちょっと立止まる、半秒か一秒の間、まるで祈るかのような静かな態度をし、心持頭を左右に振る。ほとんどかわらないほどの微動である。それから襖を開ける。

 初めはこれに気がつかなかったが、後をついて歩くと、どこでもそういう態度をとるので、なぜこの人はこういうことするのかと考えるようになった。武勇伝を読むと、武士は塀を乗りこえる時に、塀のこちら側から向側へひらりと飛びこむようなことはしない。一度塀の上にのぼって中をのぞき、安全であることを確かめてから降りるのが武道の心得だそうであるが、彼の態度はどうやらこれに似たものであることがわかった。つまり物蔭に彼を害する敵が居ることを警戒しているのである。ガラッと襖を開けて暗殺者にやられるかもしれないという危険を常に彼が感じていたので、身を護るために一瞬立止まり、襖のむこうの気配をうかがって、安全なのを確めてから開けるのである。

 彼を狙っている敵とは何であろう。最初私はこれを左翼であると考えた。大杉を殺したことを恨んでいる人たちがあり、彼に復讐しようとしているのかも知れないと思った。それともまた左翼の勢力全体が甘粕を敵に回して阻っているのかと思った。しかしこれは考えが浅い。


 甘粕は左翼の転向者をじつによく面倒を見た。日本で治安維持法の刑を受けて出獄してきた人を、協和会本部や他の団体に世話をして入れていた。転向したとはいうが、少々怪しいと思われるものでも、彼は寛容な態度でめんどうを見た。


 だから彼の警戒は左翼に対するものではなく、国際的な暗殺者に対するものだったようである。彼は私たちの知らない国際的謀略を絶えずやっており、常に英米、中国などに敵をもっていた。この敵に対する警戒が彼の異常な挙動になって現われたのであろう。

   続く。 
 



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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)-2
  -周恩来と東亜近代史の理解に不可欠な怪人「呉達閣」     
 

 ★京の奇妙な下宿で邂逅した「支那人の居候なる大物」

 問題は政雄の下宿である。「孫息子を預けたる家は、佃煮や干物などを扱う店を花街の方に出してをるらしいが、何より変わってをるは、下宿も離れの間借も支那人が多いとのこと」と「別紙記載」にある下宿は、左京区吉田中阿達町にあった。「創大アジア研究』「日本留学期の周恩来と京都訪問についての一考察」(川崎高志)によれば、『中外学者再論周恩来』(中央文献出版社)に、本部広哲氏の研究により「現在の左京区の区役所になっている場所にあった、二軒並びの北側であったと考えられている」とあるから判明したのである。「これを書いてをると、〔日記を点けるは良い事なり。自分もさふしやふかと思う〕と、他人の物のぞき込んで声をかけたる人物がをる。孫息子と大分懇意であるらしい支那人の居候なる人物、周と云うらしい。名乗らる。京都の大学に行く資格あるも行かず、毎日見物して遊んでをる由。まるで石光さんと同じやふだ。多分、日本を頂察してをるのであらふか」。この「孫息子と大分懇意であるらしい支那人」が呉達閣で、「居候なる人物」が周恩来その人であった。呉達閣こそ周恩来と張学良を繋ぐ重要人物で、この人物の事績が明らかになれば西安事件の真相が暴露されて国共合作の意味が明らかになり、従来の東亜近代史が転覆して、世界史の観方が一変する。

 何度もこのテーマを掘り返してきた本稿が、今回は呉達閣に焦点を当てる理由は、この重要人物の探究を、中華民国国民党と中国共産党の双方が故意に、しかし秘かに抑止している事に感づいたからである。

 私(落合)が、「周蔵手記」の解読に取り掛かったのは平成八年の二月であった。それから十三年、日夜解読に勤しんできたが、この条ほど解釈に苦しんだ例は少ない。後述する「一年のずれ」が解明できないからである。こんな場合には、必ずそれに相応する真相が潜むことは、十三年の経験で分かっている。従来は、何かに残された記事の断片や、いずこからともなく寄せられる情報から史家が見逃したその一端を暴くことができたから、私(落合)は諦めなかった。今回はまず呉達閣から始める。台湾刊『民国人物伝記史料』によれば、呉達閣のことを、諱(いみな・本名)は瀚濤「カントウ」、字(あざな・通称)は滌愆「デキケン」とする。始め達閣だったが都合により改名したのか、最初から偽名だったのかは確認できない。英人記者ディック・ウイルソンが昭和五十九年に発表した『周恩来』は呉達閣の名を用いるが、これに出てくる呉の記事を、以下に掲げよう。

 諱と字、偽名を巧みに用い本質を糊塗し史家を翻弄する

 ①大正二(一九一三)年夏、周恩来が 天津南開中学第四級に入学。隣席に呉達閣がいた。
 ②大正六年九月、日本留学中の呉達閣が仲間と留学資金を出しあい、周恩来を日本に呼ぶ。
 ③同月、神戸港に着いた周恩来を呉達閣が出達え、周はすぐに東京へ 移る。
 ④大正七年秋、夫婦で京都にいた呉達閣が、周恩来を京都に呼び、居候させる。
 ⑤大正八年、五四運動に呼応して周恩来が帰国を決意、周夫人は指輪を売って旅費を与える。
 ⑥大正十一年、周恩来はフランスで共産党勧誘文書を作成、京都の呉達閣に送るも返事なし。
 ⑦昭和十二年、周恩来は西安事件後の国共協定で、国民党使節団員の呉達閣と偶然会う。

 ウイルソンは、彼以前に出た周恩来伝の松野谷夫『中国の指導者―周恩来とその時代』(昭和三十六年)及び許芥翌『周恩来』(昭和四十三年)につき、「許芥、松野は韓という姓を使っているが、同一人物である。筆者は本書を執筆する目的で、一九八〇(昭和五十五)年に台北で彼と会った」と言っている。台北に移った呉達閣は、「韓某」の偽名を用いる条件にして、伝記執筆のための情報を許芥に提供したのであろう。ここでウイルソンが、何故に偽姓を用いたかを追究していないのは、呉達閣の本質に全く気付かなかった証拠である。周恩来の旧友の名は「韓某」でなく、「呉達閣」が本名と聞いたウイルソンは、周の伝記を執筆する目的で、国際法学者となっていた呉達閣を訪ねた。中国人は友人間では諱(本名)を呼ばず字(号)を以てすると聞くが、例えば名刺には「周恩来 翔宇」、書簡にも「翔宇 周恩来」と記名しているから、公式的な場合は勿論、一般的にも諱を名乗っている。台北で会った相手は「呉達閣」と呼び掛けると応じたが、諱を「瀚濤」と告げなかったので、ウイルソンは彼の諱(改名?)を終に知らなかった。台北まで行って本人に会い、「韓某」が偽名と確認しながら、「瀚濤」と変えたことは知らなかったウイルソンは、呉達閣の本質に気付かなかった。呉達閣の本質を知らずに著した伝記が周恩来の真相を伝えていないのは当然のことで、またも「裏付け」重視で誤謬に満ちた俗流史学の一源流を成すこととなる。

 平成に入り、周恩来伝の決定版と銘打つ伝記『長兄』が出た。著者韓素音(ハン・スーイン)は映画『慕情』の原作者として知られ、周恩来に十一回も会い、ウイルソンにも協力して貰ったというが、この著も「呉達閣」の改名を知らず、呉達閣の本質を、延いては周恩来の本質を見誤った点ではウイルソンの著と同断である。周恩来を理解するには、呉達閣を理解せねば始まらない。

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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)  <了>。 
 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)
 -周恩来と東亜近代史の理解に不可欠な怪人「呉達閣」     ◆落合莞爾


 ★周蔵の祖母ギンヅル上京 薩摩閥や大本と繋がる女傑


  新中国の国家指導者として今も国民に尊敬され、日本人の間にも好感を以て迎えられる周恩来が大正年間に日本に留学した際、京都の学生下宿で吉薗周蔵と知り合ったことは、既に何度か述べた。周恩来の日本留学に尽力したのは、天津南開中学の同級生・呉達閣であるが、この人物の一端が明らかになり、二十世紀の東洋史を根底から見直す重大事である事が分かった。以下では、今までに把握したことを述べていきたい。

 「周蔵手記」に周恩来の名は、私(落合)が見た限り二回だけ出てくる。「別紙記載」大正六年「九月ニナルト早ク、婆サンガ上京、出テ来ル」で始まる条である。祖母ギンヅルが日高尚剛と連れ立って日向から上京してきた目的は、「高島サンニ関フル事モアルヤフダシ、(上原)閣下ニ用モアルノデアラフ」と周蔵は推察した。高島とは前年一月に他界した子爵・高島鞆之助のことである。日清戦争の前後に二度陸相に就き大勝利をもたらした高島の功績は歴史の彼方に消えたが、台湾副総督として台湾を平定し戦争の仕上げをした偉功は当時から国民に伝わらず、まして初代拓殖務大臣として台湾経営の根本策を定めた事績は、児玉源太郎・後藤新平に仮託されて史家を騙し、史家はそれを受け売りして民衆を惑わしてきた。明治三十一年に陸相を辞して以来十八年、枢密顧問官の閑職で世間を韜晦していた高島の裏面は、在英ワンワールドの要請に応じ、樟脳・砂糖の台湾産品と阿片・煙草の台湾需要品に関する基本政策を取り仕切っていたのである。

 ギンヅル・日高の薩摩コンビは幕末以来、芥子・人胆製剤「浅山丸」の製造に専心していたが、明治二十四年逝去した吉井友実の後を襲って薩摩ワンワールド(在英ワンワールドの薩摩支部)のグランドマスター(総長)に就いた高島の指令下にあって、鈴木商店や東亜煙草などを間接支配していたのである。大正五年一月に高島が逝去し、吉井の次男で高島の養嗣子の陸軍少将高島友武が子爵の家督を継ぐが、薩摩ワンワールド総長の後継は、ギンヅルの甥で男爵陸軍大将の上原勇作と決まっていた。大正六年九月、ギンヅルが日高尚剛を従えて上京した目的は、高島・上原に関係したものと周蔵は察したのである。

 ギンヅルのもう一つの目的は、京都の渡辺ウメノから至急の相談事があったので、周蔵を同道させることにあった。周蔵は上原勇作の命令で熊本医専薬事部に入り、芥子栽培を研究していたが、大正三年にギンヅルから、「芥子に関わる古書を買ってこい」と言われて、ウメノを訪ねた。御霊前に住む町医師・渡辺家の娘ウメノは、ギンヅルの旦那正三位・堤哲長の旧妾であった。母が丹波穴太、上田家の出で出口鬼三郎の祖父・上田吉松のいとこに当たるウメノは、哲長の許を去った後にその妾になった。ウメノから民間医術の伝授を受けた哲長がモグリ医者として幕末を生き抜き、それを見習ったギンヅルが浅山丸で巨利を博した。ウメノの医学知識は、生家の渡辺医師というより、母の実家・上田家に伝わったアヤタチ医学であった。哲長より七、八歳の年長と周蔵が推定しているウメノは、遅くとも文政三年(一八二〇)の生れで、大正三年には九十四歳を超えていた。
 折しも皇道大本は興隆期で、開教者の一人のウメノは綾部に移り出口邸に寄留していた。綾部を訪れた周蔵は、出口鬼三郎にも出会い、下北の小目名に潜んでいる実父・上田吉松の様子を聞かれた。ギンヅルは、哲長の新旧妾の誼みで仲の良いウメノに、哲長の孫の周蔵を引き合わせ、さらには出口鬼三郎にも紹介する目的で、芥子関係古書の受領を□実に周蔵を綾部に派遣したものと推察される。前置きが長いので、周恩来と何の関係があるのか、との怪訝顔が目に浮かぶが、実は大有りなのである。近来、極秘史実を最近認識し、これに基づき従来の歴史解釈を一層深化させることが出来たので、以下にそれを説明する。

 ★公家堤哲長の孫同士 渡辺政雄の面倒を見る


 大正六年十月十日昼過ぎに京都駅に着いたギンヅルと周蔵は、早速綾部を訪ねたが、ウメノは修学院に引っ越したとのことで、そこへ回った。三年の間に老いさらばえて衰弱したウメノは、医専に在学中の孫の政雄が八月に休暇で帰って来たところ、肺を病んでいた。老齢で面倒を見ることが無理な自分に代わって宜しく頼む、とのギンヅルに対する依頼であった。「医大をやっと畢る処にきて、こげんかことになって」と、薩摩弁を使って泣かんばかりに言う。京都で生まれ育ったウメノが、ギンヅル・周蔵を相手と観るや薩摩弁を使う。ここに尋常ならざる丹波衆の断面が露われているので、史家はいかなる場合でも、かかる一次的情報を決して見逃すべきではない。御高承の通り、理論物理学の方法論を用いる洞察史学の落合流を、俗徒は常に「裏付けを欠く荒唐無稽」と謗るが、眼前の事実を察するを得ざるに、そも裏付けを奈何せん。裏付けを求むる前に、かかる些事の所以をまず考究すべきである。

 ウメノの書簡であらかた用件を察して周蔵を帯同してきたギンヅルから、「何とかなるか?」と聞かれた周蔵は、「結核は自分が親炙する牧野三尹先生の専門である」を以て答えとなし、修学院を辞して政雄の下宿を訪ねる。肺結核の理由を、政雄は「医専ヲ北ニシタタメニ、風邪ヲヒクコト多ク」と説明した。医専の名前は、周蔵遺族から「ナベさんは盛岡で、医専創立者の三田家の女性と親しくなった」と聞いていたので、うっかり「盛岡医専」と書いてしまったが、今回調べたらそんな医専はなかった。

 盛岡には、地元富豪の弟・三田俊次郎が県立岩手病院を収得し、これを実習場として明治三十年に設立した私立岩手医学校があったが、明治四十五年の医育改革により廃校した後、昭和三年になって三田俊次郎が岩手医専として再開する。その間の大正六年頃には影も形もなかったから、政雄が通った「北の医専」はここではない。尤も、岩手医学校の創立者は三田氏であるから、全くの誤伝ではない。おそらく、京都の医師渡辺家は盛岡の三田氏と繋がりがあり、政雄は岩手医学校に入る予定だった。ところが明治四十五年に岩手医学校が閉校となり、東北帝大医学専門部(仙台医専)に大学した。当時医専は帝国大学に付属していたから、北の医専ならそこしかない。医専の修学期間は四年だから、おそらく大学は大正二年で、仙台医専時代に政雄は三田氏の女性と同棲したのである、仙台医専は東北帝大医学部創設に伴い、大正四年を以て生徒募集を廃し、七年の卒業者が最終となる。政雄は六年に仙台医専を卒業して京都に帰ったが、御霊前の家は既に処分していたので、下宿を探したのである。ウメノは公家・堤哲長の娘を生んだが、その(娘の)子が政雄だといい、「畑違いだが哲長さんの孫同士で、従兄弟であるから仲良くしてやってくれ」と言われた周蔵は、血が同じであれば親しめるものでもないと思ったが、温和な政雄に好感を抱いた。しかし政雄にはしたたかな面も窺えた。ウメノは「まだ医師に成れていない」と謂う政雄は、実際には医師免許を取得していて(?)、専門は外科だと云う。医専を卒業すれば無試験で医師免許が得られたのである。しかし、大本教に巻き込まれたくないから医師免許を隠したと聞き、政雄を理解した周蔵は、政雄を預って東京で面倒を見ようと思った。

  続く。

 
 



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