カウンター 読書日記 2009年10月
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●疑史 (第62回) 甘粕先生FMニ入社
                      満州国の断面_1


 ●疑史 (第62回) 甘粕先生FMニ入社
 
 甘粕正彦の在仏時代、ことにルーアンの下宿に住んだ昭和三年一月から四年一月までの一年間を、巷間の甘粕伝奇は□を極めて陰影化する。その本歌はソルボンヌ出の角田房子が著した『甘粕大尉』であるが、さらに基底を探れば澄田ライ四郎☆と遠藤三郎☆の証言がある。両人は共に砲兵畑でフランス組の軍人だから、上原勇作元帥と縁の深い事は言うまでもないが、本当を言えば、フランス留学で砲兵科ならば、上原などは飛び越して直ちにワンワールド結社に想到すべきであろう。角田前掲はルーアン時代の甘粕を陰影に描写した後、一転して、「こうした事情であったにもかかわらず、フランス時代の甘粕はフリーメーソンに関係していた。または日本人メーソンであった―という説がある。大東会編『甘粕先生の年譜』(昭和四十年発行)にも〔パリーではFMのグレート・トリアント・フランスに入社、ヨーロッパの枢要地を視察・・・〕と書かれている」と紹介する。そして「グレート・トリアント・フランスとはグラン・トリアン・ド・フランスのことだろうが、これはフランスのフリーメーソンそのものを指す名称だから、〔FMの〕という記述も正確ではない」と、この分野の知識をひけらかしたが、「大杉事件という過去を持つ元憲兵・甘粕とフリーメーソンが結びついたとすれば興味深いが、渡仏中の世話をした澄田睞四郎、遠藤三郎の二人は〔噂を聞いたこともなく、信じられない〕という。〔武官時代にフリーメーソンを調査し、本省へ報告書を出したことがある〕と語る澄田は、この秘密結社に精通している。彼は〔あの当時の甘粕が近づけるような結社ではない。彼の語学力を考えただけでも不可能だ〕と語った」と述べ、結論では否定している。

 大正十三年にフランス陸大に留学した澄田大尉は、卒業後もフランス駐在を命ぜられ、一旦帰国するが、昭和八年中佐時代に再渡仏して駐仏大使館付武官となり、二年間駐在した。「武官時代にフリーメーソンを調査し、本省へ報告書を出した」とは、この時期である。フランスのみならず、欧米

 先進国が後進国から留学生を受け入れる目的は、留学生を厚遇して自国のシンパにする事にある。そのためには秘密結社に勧誘するのが原則で、上原勇作も例外でなく明治十四年のフランス留学時に、後にシャン・コクトーが総長に就く秘密結社(ダビンチ・コードで有名)に入り、ユダヤ系アルザス人ポンピドーー家の妹をあてがわれた。相手の兄はメソジスト派牧師だが、在仏ワンワールドの領袖であったことは言うまでもない。二人の間に生まれた娘(ジルベール?)を、上原が甘粕と秘密結婚させた契機は未詳であるが、その娘から日本でフランス語を教わった甘相は、二人して秘かにフランス留学をした。その時期は、甘相中尉が戸山学校での怪我を理由に歩兵科から憲兵に転科するまでの空白期間、すなわち大正六年秋から七年七月にかけての一年弱で、療養中の温泉場を抜け出ても、家族や部下は敢えて疑うことがなかったのである。こんな無理をしたのは、陸軍参謀総長の上原にしても、甘粕を陸軍の正規留学生としてフランス陸大に留学させることが難しかったからではあるまいか。ポンピドー牧師は、以前には天津南関学校で教えていたと推理する。理由は後稿で明らかにするが、ともかくポンピドー牧師は支那人彭披得として来日し、神田区三崎町の中華メソヂスト教会の牧師になり、八年に帰仏した事官は大正十一年の警視庁外事謀の資料にある。その主要なる活動拠点は青山教会で、そこに潜入したのが大杉栄のスパイ伊藤野枝であった。

 要するに、フランス陸大卒の澄田・遠藤の二人については、在仏ワンワールドとの関係を吟味する必要がある。角田によれば、澄田はこの秘密結社に精通しており、「あの当時の甘粕が近づけるような結社ではない。彼の語学力を考えただけでも不可能だ」と語ったが「甘粕が近づけるような結社ではない」とは「フランス陸大という正規の手続きを踏んでいない甘粕が・・・という意味にも取れる。おそらく原田は留学時代に在仏ワンワールドに入社し、駐在武官の時、ワンワールド本部の了解の下に秘密結社の報告書をまとめ、陸軍省に送ったのではないだろうか。つまり澄田は「甘粕は近づけなかったが、フランス陸大に入った自分は近づけた」と仄めかせたわけで、それならば、澄田が「自分はフリー・メーソンに精通した」と高言するのも筋が通る。澄田はかなり深い関係と見てよいが、上原・甘粕ほどではあるまい。『甘粕大尉』の著者角田自身もソルボンヌ卒の経歴からして怪しく、著作の動機を疑うが、遠藤はそれほど深人りしたとも思えない。

 甘粕の仏語力について角田が嘲笑的なのは、「陸軍一の仏語遣いの自分でも、軍人仏語は通用しなかった。まして甘拍なぞは・・」との澄田の言に乗せられたのであろう。ところが甘粕に親灸した人物は正反対を述べている。満洲国の司法に携った武藤富男は甘粕に私淑した。戦後は明治学院院長に就いたが、その著(『満洲国の断面』☆だったと思う)の中で、甘粕と一緒に渡欧した際に垣間見た甘粕の仏語力を、「小鳥が囀るように」と賛仰している。裁判官とは、事実を法律的に整理するのみならず人間観察を心掛ける職種であるから、こんなことはまず間違わないだろう。甘粕のフランス語は軍人仏語ではなく、ポンピドーの姪から日夜教わった本場のフランス語だったのだ。
 ☆『満州国の断面ー甘粕正彦の生涯 (1956年) 後日紹介。

 甘粕正彦が『周蔵手記』に登場する二十六回目は昭和四年十二月末条で、「甘粕サン 日本二戻ラレズ 朝鮮二落チツカレル事トナル」と記すことは先月にも述べた。甘粕が四年二月二十三日に帰国したのを周蔵が知らなかったのは、折から妻の巻を伴い再渡仏していたからであろう。『周蔵手記』の昭和四年の部は、まず「三月ニ入ッテ親爺殿來ラル」条が、次に前掲「十二月 甘粕サン 日本二戻ラレズ」条が、順序は逆だがその後に「九月、藤田氏帰國サル」条がある。三月から九月まで空白の理由は、春から夏にかけて夫婦で渡仏しており、その件を「別紙記載」にしたからではあるまいか。

 周蔵が渡仏の際、警察の目をかい潜ったことは、吉薗家の伝承にある。警察に拘留されていた田中清玄を手引きして逃がしたのが理由である。田中清玄は周蔵の岳父・池田庄太郎の縁戚であった。戊辰戦争で敗れた会津藩は、斗南藩に国替えされ、藩士は下北半島に移されたが、家老・田中家は大畑村の池田庄太郎一族と婚姻し姻族になった。藩士たちの多くと共に田中家も下北から函館に移り、清玄が生まれた。清玄は二年四月に東京帝大に入学すると、早速幡ケ谷に住む菅又主計を訪ねるが、壁を隔てた隣家が、たまたま周蔵宅であった。

 菅又の父は、戊辰戦争で什れた会津藩士の死体を処理させる
ために家老・町野主水が秋田から呼び寄せた者たちの頭であった。主計もまた主水の子息陸軍大佐・町野武馬に仕え、陸軍軍属として陸軍内の処理屋をしていた。その主計を後藤新平が「周蔵に紹介し、大正十三年に幡ケ谷へ引っ越して来たと「別紙記載」に記している。帝大入学後、すぐに東大新入会に加わり共産主義運動に身を投じた清玄は、菅又家の隣家に住む遠縁の周蔵とたまたま知り合い、しばしば訪ねて來ては政治や思想を論じる仲となった。周蔵と十二歳年下の清玄とが夕闇に包まれても飽きずに舌戦を戦わしていたと、近くに住んでいた池田庄太郎の娘の池田チヤ(明治四十年生まれ)は証言する。周蔵は、三年十月、清玄が検挙されたことを知り、磯子署から脱走する手引きをした。

 一方『田中清玄自伝』には「昭和三年、ロシアから帰ってきたのがしゃべりやがって、十月にも一度、横浜で検挙された。磯子署へ入れられたが人違いだろうって、こっちは何も喋らなかった。そして屋上で運動のときに、ちょっと便所に行きたいからって言って、窓から飛び下りて逃げてやった。ちょうど下を見たら、建築現場で砂地だったんです・・・」とある。ベストセラーになった自伝だがホラ話が多いから内容を悉く信ずべきでない。さりとて丸きりの架空話でもなく、解釈が自己に好都合なのである。自力で脱走したと言うが、警察署からの脱走は流石に至難で、署の窓には頑丈な格子が嵌まっており、飛び出せない。身一つで脱出したのであれば、その一部始終を誇らしく語るべき処を、急所には触れずさりげなく流すところが不自然である。この時の脱走は、実は周蔵の手引きによるのだが、周蔵を陸軍特務とは知らなくとも舌戦を通じて愛国者と分かるから、愛国者に助けられたことは共産党員仲間の手前、絶対に言えなかった。転向した後もそれは公表できず、自伝では自力脱走と装ったのであろう。

 これに関して奇怪な一通の書簡がある。昭和四十年に佐伯米子から周蔵夫妻に宛てたもので、「画商から注文されたので加筆して売りたいから、祐三の下描きを貰いたい」という内容だが、文中で当時を回顧し「・・あなたもそうでしたはね。一時お上の目から隠れてらしたでせう。パリにいらした時も、日本を出るのがひと苦労だったと云ってらしたでせう。佐伯に聞きましたら、今だから言はれますけれど、脱獄の手助けされたらしいと話してました。今思ひますに、きっとほんとの事だと思ってをります。あなたは、そういう方だから・・・」と語っている。周蔵が佐伯祐三の陣中見舞いを□実に、金塊回収のために渡仏したのは三年一月であるから、右の文意は、周蔵が三年二月ころにパリで佐伯に脱獄幇助を話し、それを佐伯が米子に洩らしたという流れを意味する。それが事実ならば、脱獄の手助けは二年秋から暮にかけてとなるが、当時の周蔵は九月に上原元帥から渡仏任務を下され
その計画に専心していた。そもそも周蔵は、予てより佐伯を警戒しており、大事を洩らす間柄ではない。しかも祐三と米子は、二年暮ころから家庭内別居の状態であったから、夫婦の問で周蔵の噂をする機会もまずあるまい。田中清玄の脱走は、前述した通り三年十月で間違いなく、その時には佐伯は既に遺骨になり、米子に抱かれて帰国の途上にあったから、パリで周蔵と会うべき道理もない。つまり米子は、夫と周蔵の真の関係を知らず、その上時間の矛盾にも気付かず、当推量で右の手紙を書いたらしい。とすると手紙に言う佐伯とは、夫の祐三ではなく、米子の結婚前の愛人で帰国後にも何かと交渉があった義兄の佐伯祐正のこととなる。脱獄幇助のネタ元はおそらく祐正で、タダの真宗坊主でなく本願寺の僧だから、この情報を得ることはできた。しかし、このネタの内容には真実が潜んでいる。警視庁は田中の脱走の手引きを周蔵がしたと見当を付け、内偵していた。そこを振り切って、周蔵夫妻は四年の春に再渡仏したのである。その目的は佐伯祐三の死因確認だと言い、佐伯住居の近くの雑貨屋で米子が殺鼠剤を購入したことを突き止めた周蔵は、砒素を用いた毒殺と断定したと、何度も記している。尤も、夫婦揃って外遊の目的はそれだけではあるまい。渡英経験のある妻の巻もタダの主婦ではなかった。現地で外人を相手に何事かを図ったもので、それは貿易関係で何かの取決めをしてきたものではないかと思う。


 疑史 第62回  <了>。


 *****************


 ☆澄田睞四郎  すみた・らいしろう


 群馬県出身
 日本陸軍軍人
 陸軍中将
 砲兵
 澄田智の父
 陸軍士官学校(24期)卒
 陸軍大学校(33期)卒
 1937(昭和12)年11月1日 独立野戦重砲兵第15連隊長
 1938(昭和13)年7月15日 少将 野重砲兵第6旅団長
 1939(昭和14)年10月2日 重砲校長
 1940(昭和15)年9月28日 大本営参謀 仏印派遣団長
 1941(昭和16)年8月25日 中将
 1941(昭和16)年9月3日 第39師団長
 1944(昭和19)年11月22日 第一軍司令官

  ⇒ ★参考
  ⇒ ★参考

 

 ☆遠藤三郎

  ⇒ ★参考  

 
 ☆武藤富男

  ⇒ ★参考  


 



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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34)
               中丸薫の著作_1


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34)ー2

 ワンワールド薩摩派総長の錚々たる系譜と数々の歴史秘事
   

 ★無視され続ける大物 杉山茂丸と堀川辰吉郎

 日本国家の進路を決める中で、決定的な役割を果たしたのは杉山茂丸である。明治二十二年石炭輸出のために香港に渡った杉山は、イギリス商人・シーワンを通じて在英ワンワールドに接触し、その伝令使となる。折から吉井が罷去し、高島が陸軍中枢に入り、在英ワンワールドはその指示を薩摩派に伝えるルートに杉山を選んだ。この頃から杉山は玄洋社の枠を飛び出して、国事それも日清開戦に向けて傾いていく。

 巷間の稗史に散見される杉山の逸話は本質に迫ったものではないが、皮相を観てさえその大物ぶりを感得できる。これだけの大物を教科吉史学が全く無視する不自然性は、昭和史において笹川了一を無視するよりも遥かに酷い。本稿はかくして杉山茂丸の実像探求に向かうこととなったが、そこに浮かんできたのは☆謎の貴公子堀川辰吉郎である。杉山の追究は畢竟辰吉郎を探求することに外ならず、本稿が辰吉郎の実像解明に向かうのは必然である。

 明治十三年京都堀川御所で生まれた辰吉郎を、杉山は玄洋社に引き取り育て、長ずるや学習院に送った。学習院は一般人民を受け入れなかったから、辰吉郎を貴種とする巷説には根拠がある。現行の官製歴史(教科書歴史)は故意か無知によるのか、この二人の事績を完全に無視するが、かくも歴然と顕れた人物を無視する以上、その説く日本近代史が根本的に虚構に陥るのは当然である。

 杉山と異なり、辰吉郎は稗史にもあまり登場しなかった。辰吉郎が革命家孫文に就いて清国各地を歴遊、各地で「日本皇子来」と歓迎されて孫文の信用を高めたとの説は古くからあり、辰吉郎と中島成子の間に生まれたと云う国際政治評論家・中丸薫は「父が孫文の片腕として長い間行動をともにしていたため、母・中島成子も中国に渡っていた。父・堀川辰吉郎は明治天皇と御側女官の権典侍・千種任子(ちくさことこ)との間に生まれ、井上馨に預けられた後、政財界の重鎮だった頭山満に教育され、自由民権運動に挺身する頭山満、伊藤博文らと行動をともにし、中国で革命活動を行っていた孫文が、日本に亡命して頭山のもとへかくまわれたのが縁で、孫文の片腕として中国に渡りました」という。身内の事を公言する時に通常割愛する個所を省略したため、副島隆彦が実父は韓景堂だと指摘したらしいが、韓に嫁したのは成子本人の言で、朽木寒三「馬賊と女将軍」にも出ている。戸籍上の父が韓であっても実父がそうとは限るまい。

 ★維新の真相はこの人物の追究で明らかになる 


 明治三十九年生まれの成子は大正十二年満洲に渡り奉天赤十字病院に看護婦として奉職し、関東軍の嘱託となり、張作霖顧問・町野武馬により北京の張学良邸に家庭教師として送り込まれ、張作霖爆殺後に満洲旗人・韓景堂の夫人となった。満鉄幹部の夫の実家で大農場を経営した成子は、満洲事変後は名流夫人として愛路夫人団団長、日本国防婦人会の満洲支部理事などに就き、満洲各地で社会事業に邁進した。昭和十二年七月七日盧溝橋事件が勃発した日は、三人の子供を連れて大連の星が浦に保養に来ていた。四人目は生後一か月余りで、自宅(奉天か)に残してきたらしい。そこへ北京特務機関から電報が来て、夫の了解を得た成子は北京に赴き、特務機関の政治部の連絡官に就き軍政を手伝い、日華傷病兵の看病など赤十字的な仕事に就く。

 右の四人目の子供が中丸女史で、中丸著には「母は抗日運動が高まる中国大陸において、日中両国の対立によって急増する難民の救済事業に貢献し、北京の屋敷は二千人を収容出来る難民宿泊施設と化していました。私が生まれたとき、北京の屋敷には中国の富家たちからの高価な祝いの品が、次々と運び込まれたそう
です。ところが、生まれて四十五日目に盧溝橋事件が起こり、日中関係は不穏な雲行きに包まれました。中国から絶大な信頼を得ていた母は関東軍(日本軍)に必要とされ、私は母の手から引き離されました。預けられた先は、当時北京大学教授たった松村正之とその妻・ちかの家です」とある。

 朽木著は辰吉郎を隠し、中丸著が韓景堂を隠すから、そこに溝ができる。因みに数年前、夫妻して拙寓を尋ねられた中丸女史が、紫禁城で生まれたと言われた時、やや奇異に感じたが、後日辰吉郎が明治四十三年から紫禁城に住んだと聞いて、肯綮に当たる感がした。韓叉傑(成子)盧溝橋事件の直前に紫禁城で出産したというのもまた奇異ではあるが、やがて解明できると思う。辰吉郎を明らかにすれば明治維新の真相とワンワールドの関係が分かるのだが、これを如何せんか本稿は迷う。文中の爵位・階級を観て真の重要人物の低さを察し、その意味を覚られたい。
 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34)  <了>

 *************** 

 以下、中丸薫著(↑写真)より関連箇所を中心に少し紹介しておきます。
 


 ■『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』 中丸薫
 2004年2月29日 徳間書店


 第7章 輪廻転生と因果応報の理

 ★日中友好に奔走する両親のもとに生まれた私 p199

 輪廻転生や因果についてより理解できるよう、ここで少し私自身の話をしましょう。

 私の人生はとても数奇で、密度の濃いものだと思っています。普通なら何回かの人生に分けて体験するようなできごとを、1回の人生で凝縮して体験しているような気がします。

 私は北京で生まれました。父が孫文の片腕として長い間行動をともにしていたため、母・中島成子も中国に渡っていたのです。父・堀川辰吉郎は、明治天皇と御側女官の権典侍・千草任子(ちくさとうこ)との間に生まれ、井上馨に預けられた後、政財界の重鎮だった頭山満に教育されました。そして、自自民権運動に挺身する頭山満、伊藤博文らと行動をともにし、中国で革命活動を行っていた孫文が、日本に亡命して頭山のもとへかくまわれたのが縁で、孫文の片腕として中国に渡りました。孫文は父の姿を見て一目で気に入り、「日本の天皇の血を引く方がついてくだされば、革命は成功する」と言って、父が中国へ渡る許しを頭山に請うたそうです。父としては名誉な話でした。しかし、そのために父の首には孫文と同じだけの賞金がかけられ、中国の大地を孫文とともに駆け回ることになったのです。幸い、革命は成功して、孫文は中国からも台湾からも、「中国の父」とたたえられているのは皆さんご存知のとおりです。

 一方、母は母で、抗日運動が高まる中国大陸において、日中両国の対立によって急増する難民の救済事業に貢献し、北京の屋敷は2000人を収容できる難民宿泊施設と化していました。母は私をおなかに宿していたときも、内蒙古徳王政府工作のため、馬にまたがってゴビ砂漠を往復したといいます。その血潮を、おなかの中にいた私も感じたに違いありません。なぜなら私も後に結婚して最初の子どもを宿したとき、飛行機を乗りついで世界中を飛び回っていたからです。

 私が生まれたとき、北京の屋敷には大きな長持で20棹にも達す亘豪奢な反物や珠玉の装身具など、中国の富豪たちからの高価な祝いの品が、次々と運び込まれたそうです。私はまるでお姫様のように扱われていたのです。

 ところが、生まれて45日目で盧溝橋事件が起こり、日中関係は不穏な雲行きに包まれました。中国から絶大な信頼を得ていた母は関東軍(日本軍)に必要とされ、私は母の手から引き離されました。預けられた先は、当時北京大学教授だった松村正之とその妻・ちかの家です。松村の屋敷では、朝、目を覚ますと必ず中国人医師がベッドヘ来て脈をとるという、何不自由ない、温室のような生活を送っていました。

****************


 ■『この国を支配・管理する者たち』中丸+菅沼光弘
   2006年2月28日 徳間書店


 第3章 ユダヤと皇室ー闇の権力の見えざる繋がり 

 ★皇統譜(p148-9)

 高松宮妃・喜久子様は、今生きていらっしゃれば94歳ですが、2005年の初めのころ、葬儀が出ました。あの方は徳川家からいらしていて、政(まつりごと)も含めて、そういう一切にはすごく詳しい。皇室の中には、宮内庁が持っている系統図のほかに、皇統譜というのがあるそうです。あることに関して、今の皇太子が喜久子様のところに行って、「中丸薫様とお会いすることについて」とお聞きしたときに、喜久子様のほうが皇太子に対して、「それはあなたが辞を低くして、正面から中丸薫様をお迎えする。そういう立場の方ですよ」といわれたそうです。

 それを皇太子がみずからだれかに伝えたという形で、私はお聞きしたのですが、その意味は、皇統譜にきちんと書いてある。例えば昭和天皇は、私たちは大正天皇の子供と思っていますが、そうではないのです。昭和天皇は明治天皇のお子なのです。彼を育てた人が、やはり明治天皇のお嬢様の1人、しのぶという人で、「しのぶ、この子はやがて天皇になる人だから、おまえが育てなさい」といって育てさせたというのを、私は家族から聞いています。でも、それは宮内庁の系統図には載っていない。

 そういう意味で、皇統譜というのがあって、その中に明治天皇、堀川辰吉郎、そして、私の名前が全部あるそうです。私は、5歳のときに中国から、山梨に帰ってきてから養父母の松村正之夫妻の籍に入っています。そこまでの籍は、私は皇統譜にあるそうです。それも最近聞いたことなのです。

 育ての父の何回忌かが甲府であって、親戚にみんな集まってもらったときに、私を預かるに当たって、7代前までの戸籍抄本を取り寄せてくれといわれた。日本人は普通2~3代前までがやっとで、7代前は大変です。私か大人になって、子供もいて、家族を持ってから、「そういうことがあったんですよ」といわれました。

   続く。




●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34) 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34)ー1   ◆落合莞爾

 ワンワールド薩摩派総長の錚々たる系譜と数々の歴史秘事

 『ニューリーダー』誌 10月号 発行:はあと出版株式会社


 ★本稿続編はいかなる発展を遂げてきたか


 本稿は本来、吉薗周蔵という無名の人物の残した「周蔵手記」の解読・分析から始まった。平成八年三月号から始まった前篇は時系列に洽って手記の逐条解読を試み、約一〇年続けたが、満洲国の建国と岸信介の渡満を以て一応締め括った。一年間の休載を経て再開した続編は、本月を以て第三十四回となるが、前篇と異なり「周蔵手記」記事の背後事実の追究を主たる方針とした処、次々に新たな事実を発見し、それらが相関し連鎖して、日本近代史の真相が当初は思いも掛けなかった広がりを見せてきた。
 事実の一つ一つは、世の常識人ならば眉を撃めそうな奇談・径説ばかりであるから、三十三回に亘る各稿の一、二を読まれた向きには、或いは私が陰謀史観で固まった偏執狂に映るであろう。しかしながら、本稿は確信犯的妄想による安易なものでは決してない。人一倍懐疑的を自認する私が、巷間僅かに散見する民間伝承を蒐集し、厳しい論理を以てこれを吟味し、その真実たるを確信し得るものを選抜し、因果律を当て嵌めた論証の過程が本稿続編である。個々の事実を断片的に観る限り俄かに信じ難いかも知れぬが、それらが明確な因果関係を以て繋がる時、ジグソウ・パズルの全貌が見えてくる。すなわち日本近代史の思いもよらぬ真相が明らかになってくるが、その涯がどこまで広がるのか、今は見当が付かぬ。その後新たに発見した事実や知見もあるので、今回は史実探究を小休止し、本稿続編を振り返って発展過程を整理してみたい。

 ★『元帥上原勇作伝』が隠した高島との関係


 本稿の続編は、大正元年から昭和初年まで二十年にわたり吉薗周蔵の直属上官として指令を下してきた上原勇作(元帥陸軍大将・子爵)の実像探求から始めた。周蔵に日誌を点けるよう命じたのも上原である。上原は薩摩閥の寵児として維新功臣たちから引き立てられ、陸軍内で順調に出世した。勇作後援団の中心は、自邸に寄留させて大学南校に通わせ、後に岳父となる野津道貫(元帥陸軍大将・侯爵)と見るのが当然で、荒木貞夫(陸軍大将・男爵)編集の『元帥上原勇作伝』もそのように記す。しかし「周蔵手記」に散見する上原勇作関連の記事から、真の勇作応援団長は野津の義兄高島鞆之助(陸軍中将・子爵)であったことは明白で、勇作の叔母吉薗ギンヅルと高島の幕末以来の関係によるものであった。野津は高島の依頼もあり、勇作の面倒を観て後に長女をも与えたのである。

 問題は、『元帥上原勇作伝』が上原と高島との関係を何故に隠したかである。大勢の名士を編集委員に並べ正伝の装いを凝らしながら、故意に世を偽る必要性は何処に在るのかを探ることこそ史家の使命だが、推理はさして難しくない。荒木には、自身のために上原を隠す必要があり、そのために高島を隠す必要があったと見れば、まず間違いないのである。そこで本稿は高島を洗うが、高島はさすがに己を隠すことに専心した痕がある。西郷・大久保・吉井の薩摩三傑の推薦により、宮中で侍従となった高島は明治天皇に近侍し、宮内小輔・吉井友実(宮内次官・伯爵)を支えて頭角を現すが、佐賀の乱に際して陸軍に移り大佐となり、西南戦争では別働隊の設置を提唱して自ら別働第一旅団長に就き、戦史に残る偉功を建てた。若くして将官に昇った高島は第四師団長として軍政手腕を謳われ、大山巌(元陸軍大将・公爵)の後継と決まって明治二十四年第一次松方内閣の陸相に就く。国家予算が乏しく世論も非戦主義に靡く中で、西郷従道(元帥海軍大将・侯爵)の跡継ぎとなった海相・樺山資紀(海軍大将・伯爵)と高島とで、陸軍軍政を掌握し、国際金融の秘事に携わる首相・松方正義(公爵)と三人して薩摩新三傑となり、以後の対清・対露策を総攬した。

 これに対し長州では、井上馨(侯爵)・伊藤博文(公爵)・山縣有朋(元帥陸軍大将・公爵)が新三傑となって、政体の表面を担当したわけである。

 陸軍の次期棟梁と目され日清戦準備で手腕を見せた高島が、歴史に残る選挙大干渉の責任を取って陸相を辞任、予備役に編入したのは政治上やむを得なかった。しかし陸軍の実質的首脳の高島が、日清開戦後も陸軍の要衝に就かず枢密顧問官の閑職に在ったのは一見不可解であるが、この意味は維新以来の高島の経歴を研究すれば幽かに浮かんでくる。

 そもそも戦争の帰趨を決するのは開戦に先立つ廟算である。戦争の火蓋が切られても維新以来の武臣が並みいる陸軍は高島の出馬を必要としなかった。東京政体の裏を秘かに押さえていた吉井友実が明治二十四年に逝去し吉井が行っていた秘事を引き継いだ高島は、その方面に尽力していたのである。明治二十五年八月陸相を辞した高島は、欧州出張から帰朝した児玉源太郎(陸軍大将・伯爵)に杉山茂丸を紹介するが、これは、高島の後の陸相に就いた大山の下で陸軍次官に就任する児玉に、陸軍ワンワールドの秘事を引き継いだと観て良い。杉山により在英ワンワールドの意向を知った児玉は、以後は山縣長州閥とは一線を画すことになる。

 ★これまた隠された吉井との関係とある国際的大秘事


 吉井の担当した秘事は国事を超絶する国際的大事で、明治維新の真相が潜んでいた。吉井は薩摩三傑の唯一の生き残りで、薩英戦争以来在英ワンワールドとの窓口で、その職務を全うせんがために維新後は卿・参議の顕官を敢えて避け宮中に潜んだのである。ワンワールド薩摩派の総長に就いた吉井の後継は早くから高島と決まり、吉井の次男友武(陸軍中将・子爵)が高島の養嗣子になった。「周蔵手記」には管見の及ぶ限り吉井の名を観ないが、京に数軒在った薩摩屋敷の総支配人格の吉井と、その一軒の女中頭であった周蔵の祖母ギンヅルが睨懇だったのは謂うまでもない。本稿が指摘する今日まで、巧妙に己を隠しきった吉井の秘事は、今後追究すべき課題であろう。

 日清戦後、新領土・台湾で土匪の蜂起が生ずるや、高島は直ちに現役に
復帰して台湾副総督となり、総督の海軍大将・樺山に代って南進軍を指揮し土匪掃討を果たした。日清戦争そのものは余人に任せても、海洋勢力の最重視する台湾関係だけは高島・樺山が直接手にする必要があったからである。凱旋した高島は初代拓殖務大臣として台湾政策の根本を立てつつ陸相を兼摂した。明治三十年九月高島は拓殖務相を辞めて陸相専任となり軍政中枢に戻ったかに見えたが、僅か四か月にして陸相の座を桂太郎(陸軍大将・公爵)に譲る。時に五十四歳の高島は、以後大正五年に逝去する迄十八年もの間、何をしていたのか世間に見せず、家政の困窮をひたすら天下に喧伝した。高島の落魂を世間は不思議がるが、三宅雪嶺のごときは「慢心と才能の枯渇」と切り捨てている。しかし、実際には軍部はおろか政界でも高島待望論は根強く、参謀総長・韓国統監・首相と、何度も最重要職に擬せられている。

 高島の股肱を以て任じた宇都宮太郎(陸軍大将)の日記が平成十九年刊行され、参謀本部員宇都宮少佐が明治三十三年に高島を参謀総長に就けるべく「起高作戦」と称して運動した様子が明らかになった。その中に「高島の意思を直接叩いた処、本人も満更ではない」と記すのは宇都宮の観測であって、高島の内心である保証はない。二年前の陸相辞任と予備役編入を桂太郎の策謀による高島排斥と謂う巷説も高島が世を謀ったもので、これに乗せられたところに宇都宮の限界があった。

 世界史的(地政学的)見地からすると真相は全く異なり、実はワンワールド薩摩派が桂と児玉源太郎を日露開戦論に取り込む代償として陸軍の主導権を長州派に譲り、高島自身は裏面に回って地政学的観点から台湾政策に当たったのである。その理由は、日清戦争の本質を洞察すれば理解も難しくない。松方内閣を督励して日清戦争に漕ぎつけた在英ワンワールド(海洋勢力)の真意は、遼東半島でなく台湾島の確保に在った。台湾経営の要所は樟脳・阿片・煙草・砂糖でいずれも重要物資であったが、ことに樟脳は当時の最先端兵器たる無煙火薬の原料として不可欠だったからである。

 高島が台湾総督府を乃木希典(陸車大将・伯爵)に任せたのは、西南戦争以来の知己で媒酌も高島夫妻が行った隠れ薩摩派だったからである。乃木が土匪討伐に窮して総督を辞めた後の総督府を児玉源太郎と後藤新平(伯爵)に任せた高島は、枢密顧問官の閑職を利し、上原勇作の叔母吉薗ギンヅルと薩摩の実業家・日高尚剛を使い、台湾の重要産業を間接的に支配した。目的は商業動機どころか、並みの国事を超えたワンワールド海洋戦略の実行にあった。在英ワンワールドからすれば、日本陸軍の軍政などよりも台湾政策の方が遥かに重要であったのだ。

 ★陸軍軍政より台湾政策 ワンワールドの戦略


 上の説はおそらく本稿を以て嚆矢とするであろうが、決して妄想ではない。根拠の一つは、巷間各書に見える杉山茂丸の言動である。玄洋社に拠る一介の浪人が、なぜに日清講和に□を挟み遼東半島割譲の不可を鳴らしたのか。なぜに杉山が、児玉の台湾経営策をすっかりお膳立てしたのか。杉山が非戦主義の長州派から桂と児玉を引き離し、日露開戦を目的とする秘密結社を作ったのはなぜか。それは、英露の世界史的対立たるグレート・ゲームの中に日本を置いて観て、初めて理解が可能となるのである。

 在英ワンワールドから合湾政策の総攬者に任じられた薩摩派総長の高島は、杉山を密使として児玉に台湾経営の要旨を教え、陸軍の対露戦準備を参謀総長川上操録六(陸軍大将・子爵)と陸軍大臣・桂太郎に任せた。その川上が三十二年五月に急死して、後任参謀総長の大山巌(元帥陸軍大将・公爵)が、ややもすれば長州派の非戦主義に引きずられて対露戦の戦機を逸するのを恐れた青年将校宇都宮少佐らが、大山から高島への参謀総長交代を謀ったのである。宇都宮の打診に対して色気を見せたのは高島のポーズに過ぎなかった。謀は密を要す。ワンワールドの戦略は極秘を本領とするから、高島も用心深く周囲をたばかり、股肱の宇都宮にも自らの秘事を語らなかった。

 右を観ただけでも、文献に頼る歴史研究は絶対にダメと分かるであろう。逆に言うと、各界名士の証言を集め正式な装いを凝らした偉人伝の真の目的は、深奥の秘事を伏せるために一般史家を誤解に導くことに在る。本稿続編は「周蔵手記」の断片から、から維新後の情勢を分析することにより、吉井友実↓高島鞆之助↓上原勇作のラインが薩摩派総長を継いできた事実を発見した。その淵源はイギリスの極東戦略に薩摩藩士が呼応したからで、英露の世界史的角逐たるグレート・ゲームの中で、英国を根拠とするワンワールド海洋勢力が、その戦略を薩摩閥を通じて日本国家に実行せしめた事も論証することができた。

 国内政治を秘かに牛耳り、非戦主義の長州閥を巧妙に操って二度の外征を敢行した薩摩閥は、国内事情しか念頭にない向きには野蛮で好戦的と映るかも知れないが、日本が海洋勢力の一端を担う以上、避け得べくもない選択であった。東征南下の野望を隠そうともしないロシアに日本が妥協していたならば、満洲はロシア領になり、朝鮮半島は保護国、北海道も日本領ではなかったのは必至で、それを理解しながらも、軍事・財政の不安から開戦を避けようとした長州閥の思考も首肯し得る。しかし、イギリスからの間接的な支援が加わると分かって、バランスが変わった。

 ★無視され続ける大物 杉山茂丸と堀川辰吉郎
  へ続く。 
 




●『真贋 大江山霊媒衆』 栗原茂
■『真贋大江山系霊媒衆』 ★序章 大江山系シャーマニズムとは? <続>

 ●統一場を啓く共時性

 日本を和と仮定すれば、東西混淆の洋は南北を巻き込む遠心力のもとに、求心力が働く核心の和に集中するのが回転トルクのベクトルである。短絡的な文明史観に陥る人の通弊として、和を保つ努力が稀薄になると、和洋折衷の千切り取り思想に奔るという傾向が生じてくる。

 富国強兵を誘引する兵制改革は日清戦争の顛末情報を正確に伝えられず、抜き差しならない日露開戦も止むなき成り行きに流されたが、歴代の神格に支えられた天皇の透徹史観は常に備えを怠らない。フランス仕込みの陸軍とイギリス仕込みの海軍が橇を合わせる何ぞは夢物語なのである。光格天皇の御代を振り返り通暁すれば、すでに答は出されており、アメリカ独立戦争やナポレオンの執政などの事例を引いて多くを語る必要はあるまい。

 光格天皇は神変大菩薩の諡を贈号して役小角シャーマニズムを蘇らせた。さらに約四〇〇年にわたって途絶えた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時復活祭なども挙行した。東京遷宮の強行さえ超克する神格天皇ゆえ、祐宮兼仁(ともひと)親王(光格天皇)と同じ称号の祐宮睦仁親王(明治天皇)が新開を啓く奥義も、相応の未来透徹から生じている。

 すなわち、祐は「う」を「示す」天子の真事を顕わす表意であり、連続性を断つ局面のとき、天子が超克の型示しで民心一つに纏め上げる振る舞いから、霊言「あおうえい」五十音図をフル活用する意を潜ませるのだ。

 統一場を啓く共時性は開かれた空間に顕われて、素元の因子が恒久リサイクル・システムにより、分子結合構造を成すが、分子の結合法すら弁えない閉じられた空間では、霊言五十音図の原義を勘違いして外来文字と結ぼうとする本末転倒さえも起こる。例えば、漢字「安」から霊言「あ」が生まれたように勘違いして、分子構造「安」の還元論から素元「あ」を突き止めようとするのだ。この還元論が似非教育の病巣であり、実証現場を知らない文学の仮説が史観の原義を狂わせている。

 ●大江山系シャーマニズムの留意点

 光格天皇による神変大菩薩号贈号で蘇るシャーマニズムは吉野(金峰山)に根ざしている。御所の消失で聖護院三年間の仮御所生活をした光格天皇の神意によるが、東京遷宮の暴挙を犯した人意は大江山系シャーマニズムを編むと兵制に基づく擬似天皇制を仕立て上げた。これが役小角らの呪術的伝承とともに、似非の神を奉じるユダヤ病ウイルスの増殖と重ね合わさり、日清開戦や日露休戦を通じて広く大陸各地に拡散していく。似非教育下で巣立つ純心の傷には慈悲の念を禁じ得ないが、展開図法による擬似立体史観では総合設計が成り立たず、結局は部分接合が仮説の重ね着となり、本義の立体史観である共時性を伴う統一場は完成に至らない。

 筆者は落合(井口)莞爾の純心を深く愛して、その史観設計に取り組む努力に多大の敬意を表するも共振は得られない。なぜ落合を引き合いに出すかというと、善くも悪くも、落合ほどの大仕事を成し得た生き証人はおらず、ニギリ・ホテン・トバシの渦中で純心を失わず、自ら稼ぎ出す多額資金に溺れず、歴史の焼き直しに献身的努力を怠らないからである。

 惜しむらくは最高学府に巣くう性癖を拭いきれず、思考回路が構造不全のまま情知が先んじるため、実証現場の意を整えきれず、共時性を伴う統一場を形成できない。

 しかし筆者は井口に期待している。人の本能的属性は純心を失わなければ、必ず瞬時の閃きによって覚醒したうえ、積み上げた素養が役立つ時が必ず訪れよう。それが純心の本義だからである。落合が誤る還元論を改めたとき、筆者も井口と場の共時性を保ちながら意の共振状態を形成するに違いないと期待している。

 本稿では落合説を根幹から揺るがす因子の不全を時に指摘するかもしれないが、現行下の状況では落合説の誤謬を質す次元ではない。
 
 さて、大江山系シャーマニズムの留意点であるが、出口家また大本教幹部の編む史料も所詮はオカルトロマンであり、落合説も含め密教を解くような文法では、迷路を彷徨う仮説を重ねるしかあるまい。

 ●大江山系シャーマニズムとは

 大江山系霊媒衆がなにゆえに近代に出現したのか。その要諦を禊祓(みそぎ・はらい)すれば、役行者は時空の伝道師であって、その託宣は上古の代に使い古された言質を繰り返して、場の非時性を訴えるだけの求道にすぎないことが分かる。

 つまり、新開を啓くものなどは何もなく古語を新語に置き換えて、単なる時代的徒花にも均しい亜流の増殖を拡散させるだけの存在にすぎないと言わざるをえない。

 落合が解読した『吉薗周蔵手記』は労作であり、生ける屍が政官業言に跳梁していく近現代史を描いており、大江山系シャーマニズムを解く仮説では出色の著作と言えよう。

 むろん、詮ない個人情報には限界があり歴史の真事に通じないが、大江山系シャーマニズムの問題提起としては、他に類例のない設計パーツを揃えていると評価することができる。

 大江山系シャーマニズムの本質は、本筋を外した亜流であるところにあり、政策に綾なす徒花として咲きほころぶ現象にすぎない。

 光格天皇の神変大菩薩は純血皇統に立脚する聖地(結界)に根ざすのだが、亜流の大江山系霊媒衆は混血の統御に立脚するため、更地(俗界)を紡いで繕う版図(ロードマップ)に重点を注ぐことになる。

 人類文明最古の皇紀暦を刻む日本史が何ゆえもっとも遅れて記紀を編んだのか。それは人類の知を剌激して已まない問題であるが、捉え方を誤ると、記紀も単なる物語でしかなくなる。

つまり、大江山系シャーマニズムのような亜流は須佐之男命(すさのおのみこと)を尊崇するが、スサノオは総じて神話の主役であり、ワンワールドを企んで勇躍するコスモボリタンたちが奉ずる似非の神に共通する。

 記紀がスサノオを主神とするのではなく、そのスサノオを窄(たしな)める天照大神を中心に定めるのは深い理由あってのことであり、最古を刻む皇紀暦が記紀編纂を遅らせた理由でもある。

 考古渉猟は情知を刺激して已まないが、記紀の解読すらいまだ暗中模索の状態であり、過去と未来とを透徹する基礎校本に成り得ていない。ここに、大江山系シャーマニズムを解く意義があるのであって、その意義とは現行下の妖怪変化に対抗して自らを強化し、欺し欺される生活から脱却する素養を磨く土台を整えることにある。

 例えば、大江山出自の大本教教団が衰退すると、現行下の徒花に相当する創価学会のような新興勢力が出現して、際限ない宗教ビジネスを目指す妖怪が霊媒衆を食い物にしていく。つまり、大江山系シャーマニズムを題材として過去と未来を透かすと、地名の大江山は単なる象徴にすぎないが、その歴史はやがて室町幕府を滅ぼすことになる鉄砲伝来に通じて世界史全般に及んでいくのである。

 ●八紘為宇の誤訳

 日本書紀の(*巻第三)神武即位前己未年三月に「兼六合以開都、掩八紘而為宇」とあり、この紀の記述に基づいて<八紘一宇>なる語が生まれ、これを大日本帝国は海外進出の口実として、軍国主義を高めるスローガンに掲げたという通釈一般説がある。

 また「宇」は家をイメージしており、「八紘」つまり地の果てまでを一つの家のように統一支配する野望を秘めた語であるとか、あるいは元来は日本国内を一つに纏める必要があって生まれた標語だったとか、「八紘一宇」という語の解釈は様々あり、国際社会でも広く物議を醸す言葉となっている。

 しかし、日本書紀の記述はあくまで「八紘為宇」であり、「為宇」と「一宇」とではたった一字の違いながら、意味するところが微妙に、そして深く違ってくる。

 大江山系シャーマニズムは近現代を司るロードマップに荷担し、その影響力は国際社会にも通じて、生ける屍の増殖拡散を促している。近代オリンピックと称する五輪大会は、金・銀・銅のメダルを競い争う運動会で人の本能的属性を露わにするが、学芸を競い争うノーベル・ショーも金・銀・銅の物性を論じる分野に力を注いでいる。

 記紀は三種の神器として鏡・玉・剣の機能性を論じつつ未来透徹の禊祓を説くが、似非の神を奉じる文明史観は誤訳を恥じずに、勝手な仮説を講じて共時性に伴う場の歴史を破壊していく。大義名分の演出を問えばキリないが、その核心は神の正体を掩蔽するものであり、神々に肖(あやか)ろうとする人の本能的属性が為せる業に支配される。

 脳内を狂わせる周波数を使うテレビ機器が出揃うころ、仏文学一九二〇年代末の流派としてポピュリズムと嘯く「立体的平面思考」が普及していく。例えば球は立体であるが、球を平面化した円に準(なぞら)え中心を描く設計があり、楕円の場合は中心点二つだから、集束も一つではない。それと同じように、真理は複数の場合もありうるとして、物質リサイクル・システム恒久化原理を否定する愚昧も出てくる。

 「八紘一宇」というスローガンも同様の思考不全から生じており、それらは大江山系シャーマニズムの影響であり、未来透徹が求められる現在において、記紀解読の誤謬を正すのは急務なのである。

 ●天気予報を嘲笑う気象攻勢

 現行下の社会を透かそうとすれば、共時性に伴う場の歴史を整える必要がある。人の違いが五十歩百歩とは、国連の井戸端会議でも立証されており、環境に伴う族種の異質性を訴えて部分を論じても詮ない話にしかならない。

 もともと生命は安定しようとする要求をもち、不飽和の状況下では要求度も低いが、飽和状態に陥ると要求度が高まり、様々な手段を講じて淘汰も辞さない現象を歴史に刻むのである。

 朝令暮改の天気予報を嘲笑うかのように、近年の気象は文明の如何に構わず、その脆弱性を露わに暴き出している。土石流に巻き込まれ事物損壊する様は言うまでもないが、気象は元気・病気など含めて気を象るものであり、気は圧を受けて変わり、不飽和が飽和に転じるメカニズムとも通ずる。文明は神の正体を暴き出すため苦心惨憺しており、天体を地球から観測する術を磨くと、宇宙船を放ち地球を観測する段階にまで達したが、情報は未だ神の正体を見極めていない。

 前項で「神の正体を掩蔽する」と馴染みの薄い語を用いたが、これは地球から天体を観測するとき使う語であり、掩蔽(occultation)とは通過(transit)や食(eclipse)に比べて、近い天体が大きく見えて遠くの天体を完全に覆い隠すとき使われる。

 因みに、通過は日面通過の略であり、天体による見かけの大きさが、遠くの天体より小さく見えるときに使うが、例えば、水星や金星など惑星が太陽面を通過していく様を指している。また食とは特定の天体が別の天体にできる影に入って隠れる様をいう。

 だが、この「食」なる用語が情報化されると、まさに神話スサノオ文明を象徴する解釈論となって、大同小異を伴いつつ大江山系シャーマニズムとも通ずることになる。つまり、朔望時に目視可能な現象で月食また日食という語は広く使われるが、月食は兎も角として、日食などありうるはずがない。月は太陽と地球の間を移動して、陽光を遮り地球一部に自らの影を及ぼし、太陽を食したような錯覚を生じさせるが、錯覚するのは人の都合で、月には何の責任もない。実証現場ではすでに日食を掩蔽と正している。

 ●神話スサノオ伝説の文明概略

 古代四大陸文明を基準とする仮説を究めていくと、文明の一般論は総じて神話スサノオ伝説に集束されて、記紀編纂が何ゆえに後発であるかの理由も定まり、陽光アマテラス祭祀の意義も、そして月光ツキヨミ輔弼の義も明らかになり、畢竟してスサノオ文明が電光(雷光)を放つ理由も解けて、未来が透けてくる。

 気象攻勢による土石流が暴き出した情報量は膨大であり、それは気象操作基地(アラスカ州ガコナ)の隠匿情報まで普く知らしめるに至った。記紀を参照しつつスサノオの伝承を引き継ぐ文明を実証的に検証してみると、通説の大陸文明すなわち大河・車輪・金属を利用する点で共通する歴史に転機が訪れるのは、非時性を同じくしながら場の歴史で大陸文明に優るとも劣らず、完全に異なるマヤ文明を掠奪してからである。

 以後、侵略文明は異質文明に関する情報の隠匿を徹底するため、マヤ文明本拠地・ユカタン半島の破壊を敢行すると同時に移転先を定め、「メシカ」と自称したアステカを再現して擬似文明体制を仕立て上げた。

 いま、カテリーナやグスタフなどと名付けられるハリケーンによって天誅が降されるのは、侵略文明に対する戒めであり、いかなる時代にあっても常に難儀を祓うのは神である。こうした現実を含め、「神とは何ぞや」という問が解けなければ、未来を透徹するなど不可能であり、霊媒衆の筆先に降る位相も単なる幻想で消えるだろう。

 これら実証考古の事物を透かすのが記紀であり、それは不飽和を保つ神世に始まり、飽和状態に陥る人世を救う禊祓の原義を活かし、神武天皇即位を皇紀元年としている。

 而して、以下の年代表記には皇紀暦を主に用いて、便宜的に西暦を括弧内に記すことにする。その理由は共時性に伴う場の歴史を基準にして記述を進めたいからであり、実証考古から導く教本に記紀は必須であり、世界最古の暦に基づかなければ、歴史が千切れてしまうからである。

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   ★ 序章   <完>。
                      
 




●『真贋 大江山霊媒衆』 栗原茂
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)
 
 ★杉山茂丸、堀川辰吉郎へと繋がる大江山衆・出口清吉  再録。 

 
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 王文泰こと出口清吉のその後は、出口和明が『出口王仁三郎入蒙秘話』に述べるが、会員制情報誌『みち』に平成二十年九月一日号から連載する栗原茂の「大江山系霊媒衆」が、背景を詳細に解説している。甚だ難解な内容だが、これほどの超深度にまで達しないと、歴史の闇は見透かせない。超深度と呼ぶのは、王仁二郎曾孫の出口和明でさえ知らない事実を述べるからであるが、表現が晦渋なのは、真相の全面公開を憚って当座は黙示の形にしたものと思う。・・・

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 ↑の栗原氏の連載が 
『真贋大江山系霊媒衆』 として刊行されたので、

 以下、<目次>から<序章>までを紹介していく。

 発行:2009年9月1日 ★文明地政学協会(Tel&fax 03-5951-2145)
    

<目 次>

序章   大江山系シャーマニズムとは?

第二章  日野強の伊利(伊犂・いり)紀行

第三章  日野強と支那革命  

第四章  日野強の宗教観  

第五章  日野強の人種論

第六章  人種・語族と霊媒衆

第七章  徳川鎖国体制と大江山  

第八章  大江山系と非大江山系  

第九章   東京行宮後の大江山系霊媒衆

第一〇章  堀川辰吉郎の神格  

第一一章  堀川辰吉郎の紫禁城入り

第十二章  堀川辰吉郎の求心力  

第十三章  皇統奉公衆とは?  

第一四章  満洲建国の大義は死なず

第一五章  克己自立の奉公へ向けて  

第一六章  透徹史観に透かす現況と未来  

終  章  奉公を貫く舎人たち  

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 ★序章   大江山系シャーマニズムとは?

 ●出口清吉について


 出口清吉(出口なおの二男)は明治五年(一八七二)に兵庫県綾部で生まれた。同二五年(一八九二)に東京の近衛師団へ入隊する。同二七年(一八九四)日清戦争勃発のとき、台湾へ出征しており、翌二八年八月一八日に戦死というのが軍籍上の公式記録である。

 ところが清吉と一緒に綾部から出征した戦友・足立の話では、帰還の際も清吉と一緒だったが、台湾から日本へ向かう船中て病死したため、その遺体は全身包帯巻きの姿で海中に葬られたとされている。

 また、清吉の所属した部隊は戦死者ゼロというのが軍や役場における公開情報であり、綾部町役場に残る抄本では清吉の死亡日を明治ニ八年七月七日と記している。ちなみに、出口家関係の霊媒による説では、清吉は死なずに神の使いとなって難局打開のため働く姿を詳しく述べており、特に出口なお三女(福島久)に降りた清吉霊がよく知られている。

 大本教のお筆先においては、清吉を「日の出の神」と呼んでいるが、その名前を冠した往時の「京都日出新聞」は北清事変(一九〇〇)の殊勲者として王文泰の名を報じており、同新聞の明治三八年(一九〇五)八月十三日付二面記事では、「軍事探偵王文泰」との見出しで、年齢三〇歳前後の人物が十数年来にわたって支那人に扮し内偵活動を行なうと紹介している。

 つまり、「王文泰」なる支那人変名を使って大陸で活躍する清吉の消息を伝えているのである。さらに、その後の清吉を詳しく描いているのは、出口王仁三郎の入蒙経緯を記した入蒙秘話である。そこに多くの軍人が登場するので、当時の軍と大本教の関係につき、少し触れておく必要がある。

 ●大本教入信の主要軍人


 軍関係の重要人物と大本教との関係は、大正二年(一九一三)五月に福中鉄三郎(予備役海軍機関中佐)が大本に入信したのが嚆矢である。二年後の大正四年(一九一五)には福中を介して飯森正芳(同)も入信した。飯森は戦艦「香取」乗組員二五〇人を甲板上に集めて大本教の講話を行なうほどの熱心な信者となったが、一方で飯森は「赤化中佐」とも俗に呼ばれており、トルストイ主義を自ら奉じて無政府主義者や社会主義者の札付きとも平然と親交を結んだ豪放磊落な性格で知られていた。

 大正五年(一九一六)十二月には、横須賀海軍機関学校の英語教官だった浅野和三郎とその実兄である浅野正恭(海軍少将)も大本教に加わってくる。やがて浅野和三郎は王仁三郎をも凌ぐ一大勢力を大本教内に有し、実質的に大本教ナンバーワンと目される時期もあり、日本海海戦の名参謀として有名な秋山真之の入信にも荷担している。

 秋山真之の入信がきっかけとなって桑島省三大佐(のち中将)や山本英輔大佐(のち大将)ほか、四元賢吉大佐や矢野祐太朗中佐(のち大佐)などの海軍軍人が陸続と大本教へと入信するようになる。

 こうした影響力は陸軍にも及んで、大将七年(一九一八)入信の小牧斧助大佐を契機として石井弥四郎(予備役大佐)や秦真次中佐(のち中将)などの入信が相次ぐことになる。

 さて王仁三郎の入蒙経綸であるが、王仁三郎に強い影響力を及ぼしたのは日野強(ひの・こわし)陸軍大佐(一八六五~一九二〇)が筆頭とされている。日野は日露教争に先立って軍令により満洲と朝鮮を踏査した経験があるが、日露戦争後の明治三九年(一九〇六)七月、陸軍参謀本部から天山山脈に囲まれたイリ地方を中心に支那新疆省を視察せよとの密命を帯びて出発した。日野の踏査紀行は後に『伊梨紀行』(芙蓉書房刊*1973年、復刻版)という著書として刊行されている。それは新疆地方を中心にカラコルムを経てヒマラヤを越えインドまで達する壮大な探検物語である。

 出口王仁三郎入蒙の相談相手として陸軍は、退役後に支那青海で缶詰業を営んでいた日野強を呼びもどし綾部に送りこんだが、海軍は退役大佐で大本信者の矢野祐太朗に大陸現地の奉天で王仁三郎の受容工作を進めさせていた。

 矢野は奉天において武器斡旋を業とする三也商会を営みつつ、大陸浪人の岡崎鉄首らと組み、満蒙独立を志していた廬占魁と渡りをつけ張作霖ルートの取り込みに成功するが、その裏には堀川辰吉郎の手配があったことはほとんど知られていない。岡崎鉄首は玄洋社の末永節(すえなが・みさお)が大正十一年(一九二二)に創設した肇国会のメンバーだった。

 肇国会は満蒙およびバイカル湖以東シベリア地域を「大高麗国」と名付け中立ワンワールド構想の下に大陸工作を行なっており、その活動は犬養毅や内田良平らの支持を得ていた。

 肇国会による大高麗国ロードマップは王仁三郎入蒙経綸の版図と重なり、その思想的背景をなしたと見ることができる。

 大正十三年(一九一四)二月一五日、王仁三郎は朝鮮経由で奉天に到着すると北村隆光と萩原敏明に迎えられて、その日の内に岡崎らが手配した廬占魁との第一回会談に臨んでいる。続いて岡崎鉄首、佐々木弥市、大石良、矢野が加わって第二回会談が行なわれた。

 村上重良『出口王仁三郎』(新人物往来社、一九七五)によれば、大石は大正九年五月新設された奉天特務機関「貴志機関」(初代機関長・貴志彌次郎少将、貴志はのち張作霖顧問)の有力なメンバーであり、奉天軍第三旅長の軍事顧問兼教官に任じた人物である。宗教学者の村上はまた、「奉天軍閥が盧を迎えた背景には、かねてから盧の利用を考えていた日本陸軍の貴志機関の工作があり、王仁三郎と盧の提携も貴志機関が終始、その推進にあたったことはいうまでもない」とも指摘している。

 ●奉天特務と出口王仁三郎


 いま貴志彌次郎少将(のち中将)については省くが、村上は「王仁三郎と廬の提携は貴志機関工作構想に従い、町野武馬大佐や本庄繁大佐(のち大将)らも上原勇作の密命で動いた」とまでは読むが、惜しむらくは堀川まで達していない。

 王仁三郎は入蒙に際して多くの変名を使っている。日本名「源日出雄」のほか、朝鮮名の「王文泰」や支那名「王文祥」などが知られる。王仁三郎の入蒙経綸に際しては推進派と弾圧派の対立があり、推進派の矢野や貴志などに対して、弾圧派は後に大佐となる寺田憲兵中尉ら七人を奉天に差し向けている。弾圧派は徹底的に王仁三郎を尾行するが、その動きは推進派も先刻承知しており、王仁三郎を入蒙の方向とはまったく異なる町(赤峰、せきほう)に案内した。

 この赤峰の町で王仁三郎と出会うのが王清泰と名乗る清吉であった。清吉は蒙古人を装って小興安嶺山中に住む道士で押し通すが、両者は尋常でない互いの関係を直ちに認識した。弾圧派は王清泰の正体を徹底調査しており、「年齢五〇前後、流暢な日本語は山陰訛り、蒙古人の間で生き神と崇められ徳望が高い」などの情報を総合して、清吉は日本人だと突き止め、関東軍に協力するよう求めた。

 これに先立って推進派に与した矢野は、大正七年(一九一八)二月二七日から三月三日まで、台湾沖膨湖諸島を発ち支那を経て佐世保に到着する日程を刻んでいる。この道筋は出口清吉の足取りを踏むものであり、その目的は京都日出新聞に報じられた王文泰の情報と写真を入手することにあった。

 他方、同じ時期の王仁三郎の記録は「三月三日から八日まで、京阪地方に出張」とあるが、子細アリバイは不明であり、佐世保で矢野に会って王文泰(清吉)の情報と写真を渡されたことは容易に泰せられる。

 ところで王清泰と名乗る清吉を取り込んだ弾圧派は、ミイラ取りがミイラになる話と通じて、昭和一四年(一九三九)まで親密に清吉と接触していた長谷川久雄が記録を残したことから、王仁三郎の入蒙経綸が清吉に引き継がれた裏付けを立てることになる。その長谷川久雄とは王清泰の尾行を行っていた弾圧派の一人である。

 ●出口清吉=王文泰=王清泰

 赤峰の宿で王清泰と神意を交わした王仁三郎は蒙古で女馬賊と出会うことになる。女馬賊は三千人に及ぶ部下を擁する頭領で籮龍(ら・りゅう)と名乗るが、流暢な日本語を話し、王仁三郎に忠誠を尽くすと約する。その籮龍(ら・りゅう)の父は誰あろう台湾から入蒙した王文泰であり、日本名を「デグチ」とも言うという。そのほかに「籮(ら)清吉」とも称し馬賊として頭角を現わした人物とのこと。因みに、母は蒙古人であると籮龍は王仁三郎に話している。

 つまり、出口なお二男の清吉は並みいる「クサ」(草・諜報員)と異なり、少年期に表芸から裏芸まで徹底して仕込まれていく資質を持ち合わせることから、杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していたのだ。出口王仁三郎は出口清吉の身代りとなって軍閥の腐食と心中するが、清吉ラインは大東亜戦争後の今も健在で平成大相撲を支えていることは知る人ぞ知る。

 さて史家としては、出口の氏姓鑑識が必須の心得であり、大本教を論ずるには、何ゆえに霊媒衆を出口姓としたのか、また王仁三郎(上田鬼三郎)を養子とした背景にどんな企みが潜んでいたのかなどの問題とともに、最大の課題は大江山系シャーマニズムを解く能力が問われよう。

 維新政府が行なった最大の弊政は、天皇一世一元制(明治元年九月八日)の制定であり、これは明治五年(一八七二)十一月五日のグレゴリオ暦採用にも通じており、皇紀暦を踏みにじる最大の汚点として政策全般に及ぶ迷走を呼び起こしていく。

 その迷走の例を挙げれば、東京遷宮(一八六九)、仏式陸軍と英式海軍の兵制布告(一八七〇)、寺社領没収(一八七一)、壬申戸籍実施(一八七二)などが数えられよう。

 特に神仏分離令(一八六八)により平田派国学神官を中心にして廃仏毀釈の運動が高まって多くの仏教系事物が破壊・焼却されたことは、大化改新の前夜に生じた狂気の様相を彷彿させる。これらは西洋の天啓思想に汚染されての所業ゆえ混迷ますます深まり、一方で平民苗字許可制(一八七〇)を施せば、他方で士族と平民の身分制存続(一八七一)という矛盾を重ねていく。その混迷が大江山系シャーマニズムを覚醒させる要因に成ったのである。


   続く。
 


   


● 疑史 第61回 ★甘粕正彦夫妻のフランス留学
 ● 疑史 第61回 甘粕正彦夫妻のフランス留学
                    評論家・落合莞爾


 甘粕正彦が『周蔵手記』に登場する二十四回目の昭和三年六月条には、甘粕は名前だけだが、先月に述べた外にもう一度出てくる。張作霖爆殺を聞いた吉薗周蔵は、尊敬する貴志彌次郎に思いを馳せた。この春、上原元帥の命令を受けた周蔵は、甘粕を頭として藤田嗣治、若松安太郎の四人でアルザス、スイスまで行き、黒河砂金を回収して四月に帰国した。金塊は三十四貫(127.5キロ)もあったが、三貫を閣下の手元に残し、残りは周蔵を大連駅に迎えた貴志彌次郎と町野武馬に渡した。この金塊は張作霖支援に使うものと周蔵は推測したが、閣下は貴志をも関わらせたから、貴志もそう思った筈である。貴志の話では、一旦は満鉄に預け張作霖の資金となるのは七月かと言い、それまでの間は黒竜江省の各所に分けて隠した金塊の回収に歩くと言っていた。

 聞くところによると、貴志は陸軍人事を握った田中義一・宇垣一成のラインから、上原派ということで冷飯を食わされているらしい。ことに貴志は、張作霖とは無二の親友となっていたから、余計に田中から疎んじられたのではないかと思う。上原元帥が、股肱の臣である貴志を、何処まで守るのかも疑わしい。そう思ったのは、貴志に張作霖工作を命じた上原閣下が、今度の張作霖暗殺にも秘かに関与していることを感じていたからである。ここで周蔵は、尊敬していた貴志と甘粕正彦を比較している。「甘粕サンノ場合ハ、個人ガ性格キツク 閣下ノ裏ヲ握ッテヰル所多ク、マタ民間ニナッテシマハレタ以上、甘粕サンガ 告発ナンテ云ヒダシタリシタラ 大事デアラフカラ、存在ソノモノガ 強迫ノ意味ニモナラフ」。しかし「貴志サンハ 行動コソ勇シイガ、温和デアルカラ 損デアラフ。ソレニ予備役ト云ヘド 軍人デアルシ」。そのあと一行を付け加えた。「日本ハ 不遇ノ方向二 動クノデハアルマイカ」。周蔵は、張作霖爆殺の一事を以て日本の国運衰微を洞察したのである。何度も上原宅を訪ねて会えなかったが、読書を続けているとは聞いた。上原の日常に変化なしという証拠である。玄関番の宇都宮中尉に、自分の舌癌の事を伝えて欲しいと頼んだ周蔵は、これを理由に上原の草から手を引こうと考えた。

 二十五回目は昭和三年十月条で、ここにも甘粕が名前だけ出てくる。若松安太郎と会った周蔵は、淋しい話を聞く。アムール河の河口漁業からはとっくに手を引き、あとをロシア人がやっている。軍の仕事の時に備えて道筋を作っているから気にならないが、「張作霖ノコトモアリ、スッカリ時勢ノ変化二 純粋性ヲ感ヂナク ナラレタ由。軍ノコトカラハ手ヲ引カレヤフト 思ハレル由。歳ハ五十七二ナラレルトノコト」。周蔵は「実は自分も舌癌の痛みが酷いので、閣下には手を引かして貰うことを伝えた」というと、安太郎は「コレカラハ?」と聞いた。ここで甘粕の名が出る。「甘粕サンガ戻ラルルヲ待ッテ 考フルヤフニシヤフト云フト、又、個人ナラ手傅フヨト云ハル」。張作霖の暗殺が、永年上原の草を勤めてきた猛者たちに廃業を決意させたのは、彼らの上原に対する信頼が消滅したからである。明けて昭和四年三月条にも「國デ認メタル偉人ノ 策略汚レヲ目ニスルコト多イ」と記している。

 甘粕が『周蔵手記』に登場する二十六回目は、一年後の昭和四年十二月末条である。「甘粕サン日本二戻ラレズ 朝鮮二落チツカレル事トナル」とある。仮出獄して九か月後の昭和二年七月十三日に、甘粕夫妻は神戸港からフランスに向かい八月三十日にパリに到着する。以後一年半のフランス生活を今に伝えるものは、(巷間の甘粕伝奇によれば)『遠藤三郎日記』しかない。甘粕と同じ米沢出身で、陸士二級下(二十六期)の遠藤は、大正六年砲工学校高等科を優等で卒業、同十一年十一月に陸大三十四期を恩賜で卒業した。そもそも砲兵は陸軍内のワンワールド系兵科で、元締めは元帥上原勇作である。また遠藤と甘粕は同郷軍人として親交したから、二人の関係が、部分的にせよ甘粕の裏側にまで及んでいた可能性も否定できない。

 九歳から生涯にわたり日記を点けた遠藤は、大正十二年九月の関東大震災下で起こった亀戸・大島事件の見聞を記したことでも知られている。八月に砲兵大尉に進級した遠藤は、震災当時は第一師団麾下の野戦重砲兵第三旅団第一連隊第三中隊長で、任地は国府台であった。因みに第一師団長は上原股肱の石光真臣中将で、第三旅団長金子直少将も砲兵科で、上原系と観てよい。震災処理のため、九月五日第三旅団参謀に転じた遠藤大尉は、朝鮮人と支那人労働者を習志野の旧捕虜収容所習志野に収容する処置を行い、以後も外国人保護に力めたので、九月十二日ころ亀戸辺りで行方不明になった民国留学生・王希天を論ずる書に必ず登場する。王希天が逆井橋で第一連隊第六中隊付の垣内八洲夫中尉(三十一期)の一刀を浴びて片脚を失ったのは事実だが、その後は巷説と全く異なり、旧知の憲兵大尉甘粕正彦に救援されて生き延び、上高田の救命院に運ばれて吉薗周蔵に匿われた。王希天はその後百木、渡辺など日本姓を名乗り、千葉県の布佐で長寿を全うする。遠藤は十月に始まった大杉事件の公判にも出席しているが、震災下に甘粕が行った王希天の救援に、遠藤が関係したかどうかまでは分からない。戦後になり反戦反軍備の運動に挺身した遠藤は、革新派から反戦将軍と呼ばれて歓迎されたが、日本の国益からすると首を傾げざるを得ない。しかし、遠藤は大正十五年三月からフランス陸軍大学に留学しており、フランス仕込みのワンワールド思想家としてなら、その行為は筋が通っているのであろう。

 角田房子『甘粕大尉』によれば、昭和二年八月三十日パリに到着した甘粕は、早速澄田睞四郎を訪ねた。澄田は甘粕と陸士同期(二十四期)だが砲兵科で、大正十三年からフランス陸軍大学に留学し、卒業後もフランス駐在を命じられた。七月に砲兵少佐に進級し、十月に陸大教官に内定した澄田は、帰国前にフランス語を学びたいという甘粕のため、パリから百キロ離れたオルレアンに、下宿を探してやった。出国に当たって甘粕は半年分の滞在費を携行したとのことで、当時は金に困っている様子は見えなかったと澄田は回顧している。

 実はその二か月前の九月、上原元帥は周蔵に「今年暮レカラ来年ニカケテ、フランス・スイス二行ッテ貰イタカ」と命じた。任務の内容が金塊三十四貫の極秘運搬と聞き、驚いた周蔵が「甘粕サンニ依頼シテモ良イカ ト云フト、甘粕ニハ別ノ目ヲヤッテヲル。イヅレ合流トハ ナルデアラフガ」と言われたと『周蔵手記』に記す。☆つまり甘粕は、上原元帥の指令の下に、フランス留学を装いながら当地で何かの工作を行っていた。留学に夫人を連れて行くこと自体アリバイエ作と思われるが、九月ころオルレアンに移ったのも工作上の必要であろう。十一月に帰国する澄田砲兵少佐を見送った甘粕は、再びパリに戻るが理由は明らかでなく、やはり工作上での必要と観るしかない。佐野真一 『甘粕正彦・乱心の曠野』によれば、大正十五年三月からフランス陸大に留学中の砲兵大尉遠藤三郎が、甘粕夫妻と再会したのは昭和二年十一月十一日であった。オルレアンからパリに戻った甘柏は、遠藤大尉の世話でルーアンの下宿に移る。遠藤は十一月二十日にルーアンの下宿に甘粕夫妻を案内して交渉を纏めたが、実際の入居は三年一月から一年間であった。甘粕のルーアン移住も工作上で何らかの必要あっての事と観てよい。

 甘粕は二月十三日付で、弟・甘粕二郎宛の手紙で二千円を無心をしている。現価数百万円の大金で、理由は妻ミネの出産費用である。巷間に溢れる甘粕伝奇が、ルーアン時代の甘粕を、言語も通じず金もなく、ひたすら競馬に溺れた陰影な生活と主張する根拠は、甘粕が弟の二郎にしばしば無心をした手紙である。弟に無心していたことを知らなかった遠藤も、『遠藤三郎日記』に、甘粕に金を貸した事を記している。遠藤から九月二十六日に金十ポンド、同二十八日に金一千フランと借りた甘粕は、浪費の原因については競馬としか説明していない。手紙や日記の内容を虚偽とは言わないが、薄々承知でも深く考えず、偏されてやるも良しとするのが友愛(結社愛)ならば、二郎や遠藤がそれをしても不目然ではない。つまり遠藤は無意識にせよ、甘粕のアリバイ作りに協力した可能性がある。二郎については遠藤よりも更に一歩踏み込んでいると思うが、ここでは追究を省く。

 件の手紙や日記は、恰も罌粟(けし)栽培を広げるために地方を歩く周蔵のアリバイ作りを目的に、画学生・佐伯祐三が救命院の患者として周蔵の診療を受けたと装う創作『救命院日誌』と同じ効果がある。ともかく、甘粕は芝居のうまい男であった。澄田と遠藤のフランス陸大への派遣も当然上原人事だから、甘粕の工作には澄田と遠藤が関わっていた可能性もなくはない。遠藤については前述したが、澄田ははっきり、ワンワールド結社員であったと観てよい。昭和七年にリットン調査団の随員を務めた澄田中佐は、八年六月からフランス駐在武官、十年九月から陸大教官となり、昭和十三年少将に進級、十五年九月には大本営陸海軍部幕僚として仏印国境監視委員長(澄田機関)に就き、日本軍の仏印進駐に携わった。仏印進駐の後は中央から遠ざけられ、三十九師団長、第一軍司令官となるのを東条の逆鱗に触れたものと解釈されているが真相は不明で、たとい東条と不仲になったとしても、東条を動かしていた甘粕とは同志の関係を維持していたと観るべきである。長男の短期現役海軍主計中尉・澄田智も仏語に堪能として澄田機関に派遣、国策の次元を超えた仏印工作に従事したと観られている。後に日銀総裁になるが、父子ともに在仏ワンワールドとの関係が濃厚である。

 一月二十八日にパリに着いた周蔵は、上原から費用として三万円(現価一億円以上)を預かっていたのは前述の通りで、この資金は半分を甘粕が取り、残りを周蔵と藤田嗣治、若松安太郎で分けた。配分割合は上原も承知というより、甘粕を金塊回収班の頭に就けた上原自身の指示であろう。周蔵は渡仏の名目たる佐伯祐三陣中見舞を済ませた後、ポール・クレーの絵をスイスに観に行くことを装って、藤田嗣治とベルンに向かう。ベルンの町外れの小さな教会に着いたら、近くの路上に安太郎が甘粕と一緒に立っていた。これが甘粕との再会で、時期は二月上旬である。一万五千円の大金はこの時に甘粕に渡った筈である。何に使ったか。むろん競馬などの小博打ではなく、もっと大きな博打、すなわち上原元帥の指示によりワンワールド的工作に費やしたものであろう。

 遠藤三郎が再びルーアンに行き、甘粕の下宿を訪問したのは三月十一日で、甘粕が周蔵から活動費一万五千円を受け取ってから、一ヵ月後のことである。『遠藤三郎日記』の内容は信じて良いが、その意味については深く吟味する必要がある。私の仮説では、遠藤はもとより、澄田もワンワールド同志として甘粕を支援していた。

    続く
                      
 





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