カウンター 読書日記 2009年09月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー2 
                   奉天図経 佐伯祐三真贋事件 p370_1 
                             ★『奉天圖経』 
                      (『「佐伯祐三」真贋事件の真実』 p370より)      

                   
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー2      ◆落合莞爾
  紀州家、大谷光瑞、関東軍・・・奉天秘宝模造計画とその行方 
 


 ★片方は割れてしまった 秘宝中の筆頭「九龍壷」


 上田恭輔が書き残した一文と『奉天圖経』の記載によれば、清朝代々
の蔵役人で陶磁学者の孫游先生が奉天秘宝中の筆頭と極めたのは「青花釉裏紅・九龍圖酒會壷」であった。高さも幅も八十センチに及ぶ堂々たる蓋付酒會壷で、コバルトの藍色と銅の紅色を釉の下で発色させる釉裏紅青の難しい技法が頂点に達した明初氷楽年間の制作と見られる。

 双角五爪の龍を九頭描くが、中でも正面を向いた龍の顔は神々しい威容に満ち、九五の位とされる皇帝を象徴している。もとは二品あったが、一つは関東軍参謀長・浜面少将が泰天特務機関長・貴志少将の反対を押し切って動かしたところ、事故で割れたらしい。輸送は泰天持務機関の責任で行われたため、事故の責任を被せられて苦しむ貴志のために、周蔵は満洲に持参した金銭で弁償を申し出た。張作霖が貴志の立場に同情して金銭で納まったと記すが、浜面はおそらく満鉄窯で倣造する目的で、調べるために持ち出したのであろう。貴志は元々倣造に反対で抵抗したが、同じ少将でも先任の浜面に押し切られた。その際、張作霖が浜面に反対もせず他人事として見ていたのは、泰天秘宝の真実の所有者でない証左である。真の権利者は大谷光瑞で、倣造は光瑞師の方針だからこそ誰も反対いなかったのである。因みに周蔵は『奉天圖経』に、「二つある九龍壷の片方は壊れたが、残ったもう一つの価値が倍になるから損にはならない」との感想を記している。

 ★六点あるはずの「定州紅玉」 残る四点はいつ、どこへ?


 孫游先生が九龍壷を最高としたのは、それが中華皇帝の象徴で、わが皇室の「三種の神器」のような特別の意味があるからであろう。管見では、泰天秘宝中の筆頭と目すべきは「定州紅玉盤□瓶」である。北宋持代の定州窯は、古来名陶中の名陶として名高いが、現状公開されている品のほとんどは牙白、即ち象牙色を帯びた「白定」で、その他ごく少数の「柿定」「黒定」がある。宋代の文献では「紅定」「緑定」が在ったとされるが、現状は世界中どこの美術館にもなく、昭和期を代表する陶磁学者・小山富士夫も、支那陶磁の三大難問として、柴窯・北宋官窯・紅定窯を挙げているほどある。紅定窯がしばしば話題に上るのは、蘇東披の詩「試院煎茶」に「定窯の花姿は紅玉を琢く」とあるのが実在の証拠とされるからである。もう一つ、北末の宮廷譚に「皇帝が皇后の部屋を訪れたら紅定窯の花瓶があった。皇帝が誰から入手したかと尋ねたら、皇后は某大臣の贈る処と答えたので、皇帝は皇后と臣下の贈答を禁止した後宮規則に反するとして、手にしていた玉斧(皇帝の象徴)で花瓶を打ち砕いた」との逸話があり、これも紅定実在の証拠とされている。しかしながら、現実にその存在を見ることがないから、陶磁学者・尾崎洵盛は金彩定窯の褐色を以て紅定と見做し、中国の陶磁書は遼寧省出土の赤褐色にくすんだ陶片を示して「これぞ幻の紅定窯の破片か」としている始末である。

 しかしながら、紅定窯は実際に制作され、今日も存在することは紛れもない事実である。貴志彌次郎が招来した奉天秘宝の図録『奉天圖経』には、「定州紅玉」と称する品が六点あり、そのうち二点は私(落合)が存在を確認、紀州文化振興会刊行の拙著(筆名、一色崇美)『陶磁図鑑3 元代と明初の染付釉裏紅』に掲載した。時に平成三年で私が『奉天圖経』の存在を知る五年前であった。鑑定に当たって私は、実物を眼前にして苦しむばかりであった。何しろ、世界中の陶磁書をひっくり返しても記録が全くないのである。一点について、「□がスパッと開くその厳しさは恐ろしいほどで、芸術至上主義の北宋の感覚以外には考えられない。これこそ幻の『紅定』と見て、狂いはまずあるまい」と解説したのが、ズバリ当たった。品名も単に「紅釉」としたが、『奉天圖経』が「定州紅玉」と記している。これは孫游の伝で、蘇東披の詩を借りて「ただの定窯ではない」との意味を強めた名称であろう。周蔵の解説文には、「宝物ノ中デモ代表サレル逸品ノ例。皇帝ノ秘宝ノ逸品。一点シカナイ」と記している。もう一点の「紅釉大碗」を、「南宋の景徳鎮でも作られたという紅定」と鑑定したのは大きな間違いで、『奉天圖経』にはやはり定州紅玉としてある。ここらが、平成二年正月から研究を始めた俄か陶磁研究者の限界であろう。

 さて、問題は残りの四点である。実を言えば、『奉天圖経』を見て以来十二年間、私は秘かにこれを探してきた。何しろ、人は知らなくとも世界の秘宝中の秘宝である。状況から見て紀州家からは既に流出したと見て、まず間違いはない。とすると、いつ頃、どこへ行ったのか。


 ★千年の夢を眠る? 「緑定蓮池水禽文瓶」 


 奉天秘宝中、「定州紅玉」に劣らない逸品に「緑定」がある。平成二年に一点を実見した私は、北宋の緑定と断定し、前掲図鑑に掲載した。初めて見た時、陶磁学の手ほどきをしてくれた師匠が、改まって目にされた言は、「貴方が生涯数万点の陶磁器を見るとしても、これ以上の品を見ることは絶対にあり得ません」であった。これこそ世界陶磁器中の最高品と評価されたのである。

 五年後に『奉天圖経』を知ったが、これはやはり緑定で間違いなかった。『奉天圖経』に緑定の瓶は二点あり、ほとんど同形同大の一対のもので、一つは解説文に「瓶。緑地二黒地二黒イ線。定窯北宋」とあるが、現物の拓本を添えているから、私が見た方と分かる。
 未見の方は、解説文に「瓶。緑色圖ニテ水鳥(アヒル、鴨)蓮池ト花。定窯北宋」とあるだけで、具体的にはどんな文様だか分からないが、前者とは多少異なっている筈である。一対というが、全く同じ図柄でなく、どこかで小部分を置換して対照的にしてあることが多い。未見の、この一品もどこへ消えたのか?

 前掲図鑑を刊行した途端に、学芸員から様々な反応があった。陶磁界の有名人ほど確信犯的な否定論者で、例えばY文華館学芸員は「こんなもの台湾に行けば、幾らでも売っていて、二~三万も出せば簡単に手に入る。そんなことも知らないのか」と、わざわざ電話をしてきた。偽物だから展示を止めよと主張するのである。それならば、一個でも現実に買って来て私に見せればそれで決まりだが、ありもしない台湾産ではムリなことだ。それを電話で済まそうとは、美術館の権威だけで外界に通じると錯覚しているらしい。

 この現状では、永年の経験を誇る学芸員といえども、行方不明の紅定・緑定を初めて見た時に何を言い出すか、およそ見当が付く。間違って台湾製とされ、ごみ箱に棄てられる虞れも多大である。それが私の憂いとなり、この十二年間行方不明の逸品を探していた私は、近来の仄聞で「あの資金は紀州徳川家だけが出したのではない」と教えられた。突如閃いたのは、「それなら、その金主にも秘宝の幾つかが渡った筈ではないか」ということである。早速某筋に確かめたところ、明言ではないが正解との感触を得た。つまり、定州紅玉六点中の四点、緑定二点中の一点などは、当初から紀州徳川家に入らなかったと見ても良いのである。

 『周蔵手記』大正十五年十一月条には、周蔵がたまたま訪ねた貴志彌次郎宅で、若松安太郎(本名堺誠太郎)に会い、「奉天宝物を堺漁業の船で『堺』まで運ぶ手伝いをした」と聞いたことを記し、「安太郎氏ハ ロシア側ノ筈ダガ 船デ動クハ ヤリヤスカッタノデアラフカ」と感想を加えているが、宝物は奉天から満鉄→東清鉄道でハバロフスクまで運び、そこから堺漁業の船で輸送したようである。張作霖の支配する満洲で、張作霖のために行う輸送なのに、何の障害があったのか良く分からないが、或いは列強の監視の目を恐れたのか、奉天宝物は大連経由を避け、ソ連を経由して日本へ積み出された。「堺マデ」とあるが、水産物を運ぶなら鳥取県の境港の筈で、耳で聞いたサカイを大阪府の堺と勘違いしたとも思われる。或いは、鳥取港で魚を降ろした後、漁船を大阪堺へ回したとも考えられるが、これ以上考究する必要はあるまい。

 ともかく奉天宝物は、日本に到着した後で、紀州徳川家に入る分と大谷光瑞ファンドに入る分が分けられたと、推定したい。とすると、紅定・緑定などの未だ行方の知れぬ逸品は、大谷ファンドに入ったまま奥深い蔵のなかで今も千年の夢に眠っているものであろうか。


  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)   <了>。                      
 


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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー1
                     ドキュメント真贋 金らん手_1
 
                       金襴手(明代嘉靖年製)
                       『ドキュメント真贋』より。



 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー1      ◆落合莞爾
  紀州家、大谷光瑞、関東軍・・・奉天秘宝模造計画とその行方


 ★模造品で裏金を・・・関東軍の勝手な介入 


 愛親覚羅氏は、堀川辰吉郎と満洲保全策を協議した結課、奉天督軍兼省長に就いた張作霖の自立を支援して、満洲(東三省)を間接占有する方針を固めた。そこで愛親覚羅氏は初めて奉天秘宝の存在を辰吉郎に明かし、これを換金して張作霖に与えることを提案したものと思われる。当時、日本の張作霖に対する窓口は、軍事外交方面は関東都督府(大正八年四月から関東軍に変更)参謀部であったが、参謀本部は顧問軍人を差遣していわゆる〔内面指導〕に当たらせていた。張作霖政権との行政的折衝は、実質的に行政機関であった南満洲鉄道奉天公所が当たり、公使館のごとき役割を担った。明治四十年に初代公所長に就いた佐藤安之助少佐は、夏目漱石『満韓ところどころ』にも出てくる支那通の現役軍人であった。佐藤は四十三年から一年間欧州に出張、その間中佐に進級して四十四年十一月に帰国した。一年後の大正二年十二月には奉天に復任、関東都督府司令部附兼満鉄附に補せられて四年九月まで在任した。

 満鉄に深く関わった佐藤よりも、満鉄奉天公所の主として更に有名なのが次長・鎌田彌助で、菊池寛の『満鉄物語』にも登場する奉天の名物男だが、実体は上原が満鉄に張っていた草であった。『周蔵手記』には、周蔵がウィーンから帰朝した直後の大正六年六月、上原勇作大将の大森宅で紹介された鎌田を、重要民間人でかなり閣下の信用を得ているとの観察の後に「満鉄関係二席ヲ置イテヰルラシイ。タマニ來テヰル?」と記している。

 大正七年七月、関東都督府参謀長に就いた浜面又助少将は、上田が奉天秘宝倣造計画を進めているのを知り、倣造品を利用して関東軍の裏金を作ろうと考えた。上田と相談して私益を図ったと聞かされた周蔵はそう信じていたが、それでは満鉄の協力は得られない。少なくとも大義名分が必須で、上田は光端師の指令、浜面は宗社党救済がそれであろう。ともかく上田と浜面の倣造計画は、九年の春に陸軍中央の諒解を得たが、五月に奉天特務機関長に就いた貴志彌次郎はそれを、「東京ハ現地ヲ知ラナイカラ、浜面ノ話ヲ ウマイ話ト思ッタノデハナイカ」と推察している。上田と浜面が合議して作った倣造案は、所有者(受託者)の張作霖に断ることなく、また買手候補の紀州家の都合をも無視した全く勝手な計画であった。それを陸軍が認めたのは、奉天秘宝が単なる美術品でなく重要な戦略物資だったからである。何しろその予想市場価格は、張政権が当時保有した純資産額の百万両(テール、白雲荘主人『張作霖』による)を数倍も上回るものであった。

 ★吉薗周蔵の真贋分別法 『奉天圖経』が示す価値


 辛亥革命の後、明治四十五年四月に関東都督に就いた福島安正中将は、松本藩士ながら陸軍長州派に属していた。自ら粛親王に推薦した同藩士の川島浪速が、高山公通(鹿児島)大佐、守田利遠大佐(福岡)らの九州軍人たちと謀って懸命に支援した宗社党の清朝復興運動に対して、冷淡であったことは前述した。これは福島の国際感覚によるもので、民国への内政干渉を避けたのであろう。福島が大正三年九月に関東都督を辞め、中村覚中将に後を譲った後、陸軍の満洲政策は二派に分かれた。関東都督府に拠った旅順派は、関東軍参謀長・浜面又助を始め、宗社党と組んで満蒙の地に新たな清国を建てようとしていた。四年十二月に陸軍参謀長に就いた上原勇作大将は、満蒙政策に関して奉天派に属した。張作霖が嫌がる倣造工作に内心反対であったが、表立って反対しなかった理由は、上田の背後にいる大谷光瑞師を慮ったものであろう。

 浜面案が認可された直後の五月、上原総長は腹心貴志彌次郎を奉天特務機関長に補し、張作霖との懇親および秘宝の換金工作を命じ、貴志支援のために専属特務・吉薗周蔵を奉天に派遣した。周蔵の出発に際して上原が、「オ前ンハ 正義ノ型ヲ示シテ來レバ 良カ」と訓示したのは、要するに「倣造は正義に背くと叫んでこい」との意味である。

 果たせるかな奉天に赴任した貴志は、満鉄窯の試作品を見てその出来映え驚き、将来これらが真贋問題を起して購入者の迷惑となる虞れを覚えた。貴志が任務を嘆いたのは、売却相手が紀州徳川家だったからである。生家が紀州藩根来者ゆえにこの任務を負わされた貴志は、旧主家に迷惑を掛ける結果だけは避けたかった。真贋の判定に役立つのは写真撮影であるが、その写真はまた倣造にも利用される。秘宝の売上金を貰う都合で秘宝の形式的所有者になった張作霖は、内心では倣造工作を嫌い、写真撮影に協力しなかったという。

 貴志の立場に同情した周蔵は、熟考の上真贋を容易に判別する方法を案出した。その実行には占有者の協力が不可欠であったので、貴志を通じて張作霖に具申した処、作霖は大いに喜び、張氏師府内の保管室に机を運びこむなど、いろいろ便宜を図ってくれた。貴志少将と特務機関付の二等兵・森薫の助力で、周蔵は、貴志が日本に運ぶと決めた古陶磁について必要な作業をほぼ完了した。

 周蔵の真贋分別法とは、秘宝の一品一品につき、各部の実寸を記録し、文様の一部を薄紙に写しとって『奉天圖経』を作成することであった。今に残る『奉天圖経』を見ると、世界各地の美術館が現在展観する重要古陶磁の殆どは奉天秘宝から出たことが分かる。『周蔵手記』には、紀州家に一旦納まって間もなく財務顧問・上田貞次郎の手によって、秘宝が少しづつ流出したことを記す。今日、世界に散在する古陶磁の傑作は、ほとんどが流出品と照応するが、ともかくも、日本からの流出により、今日の世界は、支那古陶磁の名品を眼にし得ているのである。

 ★大谷光瑞ファンドが介在? 幻の超特級品とその行方

 奉天秘宝はそもそも成立の事情に始まり、→奉天城内に隠匿、→日本への渡来、→業者により内外に流出した過程がすべて秘密に包まれてきたところに、特殊性がある。したがって、各国の陶磁学者は、各美術館の所蔵品を個別に研究対象とするだけで、それらが嘗て同じ宝庫に、一団として存在した史実に気が付いていない。それはやむを得ないが、日本の陶磁学者らが秘宝の存在を薄々知りながら、別の理由から口を閉ざしてきたのは、到底学者の風上に置けない行状である。

 ところで、今日世界の各地で展観され、陶磁愛好家を唸らせている逸品も、『奉天圖経』の中に在っては、特級品の名に値するのはごく数点である。つまり、世界に知られた名陶磁器は良くても一級品のレベルである。超特級品と呼ぶべきものは、幻の「紅定窯」「緑定窯」を筆頭に、元代明初の「青花釉裏紅」、あるいは明代嘉靖年製の「五彩金襴手」などであり、そのうち数十点は近年まで紀州家の周辺に残っていたし、今もその所在は確認できる。しかしそれ以外の数十点は、世界の有名美術館の蔵品中にも全く見えない。滅失したとは思いたくないから個人所蔵と見るしかないが、一体誰の元へ消えたのか。

 手掛かりは、当持の購入資金が紀州家だけでは足りず、大谷光瑞師の基金に仰いだという事情にある。つまり奉天秘宝は、日本流来の直後に二手に別れ、一部が紀州家に入り、残りは光瑞師のファンドに渡ったのではないか。もしそうならば、世界各美術館の蔵品も、全部が紀州家から流出したものではなく、光瑞ファンドが一旦取得して、資金回収のために放出した品も多いことになる。『周蔵手記』には、上田貞次郎は、紀州家での茶会の折に拝見を願い、小さな物を選び秘かに持ち出した」とある。ところが内外に流出した品の中には、例えば至正様式で有名になったデヴィッド瓶などの巨大な品がある。これなど、とても秘かに持ち出せる代物ではないから、或いは大谷ファンドを経由して流出したものかも知れない。

  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー2 へ<続く>。
   



●疑史 第60回 ★甘粕サンヲラズ、話セル人ハナシ 
 ●疑史 第60回     評論家・落合莞爾

 ★甘粕サンヲラズ、話セル人ハナシ


 『周蔵手記』昭和三年六月条は、名前だけだが甘粕が登場する二十四回目である。六月中に張作霖死亡を聞いた吉薗周蔵は、「一体ダフナッテ ヰルノデアラフカ。誰カニ聞キタイガ 甘粕サンヲラズ 話セル人ハナシ。閣下二会イ二行カフト思ッタ。行ッテミタガ 腰巾着ノ宇都宮シカヲラズ、ダメ」と記した。この春、フランスからスイスに掛けて一緒に金塊回収工作をした甘粕はまだフランスに居るから、こんな場合に教わる相手がいない。そこで上原元帥を直接訪ねたが、腰巾着の宇都宮直賢中尉しかおらず、役に立たない。実行者は関東軍の河本でむろん首相・田中義一は知っていたと云う宇都宮に、「上原閣下は?」と問うと、「バカヲ云フナ。閣下ガ知ッテヰレバ、張作霖ハ死ヌ訳ガナイダラフ」とのたまう。確かに表向きはそうである。しかし宇都宮はそのように言わされている、と周蔵は推察した。宇都宮は閣下の表帳簿で、閣下が一声怒って見せれば、その通りを世間に伝えるだけの役割である。閣下は田中義一を許せないと言い「何ダッタラ 陛下二言上スルモヤブサカデハナイ」と怒ったが、がっかりもされておるとの事であった。「心配スルナ。閣下ハ ソノ位デハ ヘタバラナイ。大丈夫ダ」との言を子供だましと見抜いた周蔵は、「勿論 ソノ位デハ ヘタバランダラフト思ユ。結局 コレデ一番困ルノハ 田中義一デハアルマイカ」と記した。自分なりに推理を始めたのである。

 前年(昭和二年)秋に、張作霖始末の計画を中野正剛の愛人・多喜から聞いた周蔵は、情報源を隠して一応「張作霖始末の噂あり」とだけ上原元帥に届けておいた。新宿大黒座の横丁、通称歌舞伎町の私娼窟の主人から情報を得ていた周蔵は、中野正剛の愛人が病気のために捨てられ私娼に身を落とした事を知り、直ちに身請けして奥多摩の寺に住まわせ、養生させた。一旦捨てて置きながら、病気を治した多喜が身仕舞いを整えて眼前に現れたら、中野は忽ち「焼け棒杭に火」を着けた。多喜の立場を、周蔵夫人の巻が経営する水産物屋に勤める形にしたから、中野は余計に気が楽で、見事に引っ掛かったのである。しかし周蔵は半信半疑で、私娼窟崩れの女だし、いずれ裏切るだろうと思っていたが、事実は多喜の言った通りとなった。

 「関東軍ガヤル。関東軍ノ中ニ ヤル人間ガ誰カトナルト 河本ダト云ッタ」との言を思い出しながら、周蔵は思考を巡らす。何故、中野がそれを女に言ったのか。中野がそれを知っているからで、それは上原閣下も知っているということになる。「女ノ云フニハ田中義一ハ蒋介石ト 交替条件ニテ決メタト云フ。張作霖ガヲラナクナレバ、満洲ヲ思フママニサセル ト云フコトダラフ」。

 田中義一と蒋介石が張作霖暗殺を取り決めたが、交替条件(交換条件)があった。蒋介石は、北伐完成を目前にしながら、最大の障害たる奉天軍閥・張作霖を自力で排除する自信がなく、日本陸軍に張作霖の始末を打診したというのは理屈に会う。むろん無条件ではなく交換条件を出した筈で、それは田中首相が最も欲しがるものでなくてはならず、「張が居なくなったなら、満洲は当分日本が自由にしてくれて良い」との言質を与えたことは、吉薗周蔵でなくとも見当が付く。

 昭和二年八月十二日に国民革命軍総司令の職を辞した蒋介石は、日本留学以来の腹心・張群と二人でしばらく故郷の浙江省奉化で静養していたが、九月二十二日に上海に向かう。船上で蒋介石から「これから視察のために外遊する。まず日本に向かう」と告げられた張群は、上海から一足先に日本に渡り、田中義一との会談の下準備をした。九月二十八日に乗船した蒋介石は、二十九日の昼に長崎に着き、雲仙を経て、汽車で神戸に着いたのは十月三日であった。同行した国民政府財政部長(財務大臣)・宋子文は、蒋の財務スポンサーである。蒋介石が宋子文を伴い訪れた有馬温泉には、宋子文の実母・睨桂珍が療養のため逗留していた。睨に会い三女・宋美齢との結婚の承諾を求めるのが、蒋来日の表目的であった。筋書通り睨の快諾を得た蒋は、このあと奈艮、箱根、熱海を経て十月二十三日に帝国ホテルに入る。東京では玄洋社の頭山満、黒龍会の内田良平、財界巨頭渋沢栄一、満鉄総裁山本条太郎ら旧知の人物と会い、外務省の招宴も受けたが、訪日の最大目的は田中首相との私的会談であったことを、『蒋介石秘録』は明かしている。会談は昭和二(一九二七)年十一月五日午後一時半に始まった。場所は青山の田中義一私邸で、田中首相の通訳として予備役陸軍少将・佐藤安之助、蒋介石には張群が就き、会談は四人で行われた。時に蒋介石は四十歳、田中は六十四歳であった。

 訪日に先立ち、蒋が張群と宋子文を日本に飛ばしたのは前捌きのためである。訪日後も温泉場に長滞在し、東京でも玄洋社の頭山満、黒龍会の内田良平、財界巨頭の渋沢栄一、満鉄総裁山本条太郎ら満洲関係の要人と会いながら日を送ったのは、前捌きの進捗を待っていたわけである。すべてが整い十一月五日に行われた田中・蒋の青山会談で、交換条件付の張作霖暗殺契約が交わされたと見るしかない。同席した張群と佐藤安之助は単なる通訳ではなく、一種の会談保証人と見るべきである。その席で佐藤が筆記した会談記録に、張作霖排除依頼や満洲貸与の予約などは、当然ながら明記していないが、どう観てもそのように読める文面に満ちている。以前このことを『新潮45』に発表したら、某元大使が「自分もその会談記録を目にしたが、あれはそのようには読めない」と語ったと聞くが、それならどう読めるというのか。

 佐藤が筆記した青山会談の記録は、十一月十四日付で外務次官・出淵勝次から在支那公使及び在上海・在漢口・在奉天の総領事に宛てて写本が送付された。原記録中の「公使」を「外交官」と修正するように首相から注意されたと佐藤がメモしたほどで、田中は細かく目を通している。他方、中華民國総統府(台湾)に保存されている記録は張群作成になるもので、之れを基にした『蒋介石秘録』には蒋介石は田中に催促されて自分が先ず意見を言ったとするが、事実に反している。これ以外にも佐藤筆記録とは、内容がかなり異なっている。

 蒋が述べた意見とは「第一に日本の対華関係の改善が必要で、腐敗した軍閥(注:具体的には張作霖)を相手にせず国民党を相手にすべきである。第二に国民革命軍は今後絶えず北伐を継続し、統一事業を完成させるであろうが、日本政府はこれに干渉を加えず助力(注・具体的には張作霖の始末)して欲しい。第三に日本の対華政策は武力を放棄し、経済を大本とすることがどうしても必要である」というもので、後年になり「北伐に不干渉を求めたもの」と釈明するが、注記の通りに読む方が合理的である。蒋が「今回の訪日の目的は両国の政策について閣下と意見を交換し、何らかの結論を得るためである」と田中の意見を求めたら、田中は「北伐は目標を南京において長江以南の統一を旨とすべきと思うに、なぜそうしないのか」と問うてきたので、「革命の目標は全国の統一にあり、もし統一できなければ東亜の安定はなく、中国の大禍であるばかりか日本の福でもない」と答えた。ここで「革命の目標は全国の統一にあると言った時、田中はさっと顔色を変えた。中国分断の野心を抱いていた田中は統一を言明されて不快を露にしたのである」とまで潤色した所に、『蒋介石秘録』の文学性つまり舞文曲筆が露呈している。

 佐藤筆記録の内容は『蒋介石秘録』とはかなり異なるが、より真実に近いのは当然である。なぜなら、『蒋介石秘録』で蒋が述べたとする革命理論・国家統一論は単なる理想論であって、当時の現実に即応せず、実行性は皆無である。こんな書生論を吹き掛けるために、わざわざ一国の総理に会いに来たと言っても誰も信じまい。これに対して佐藤筆記録は、田中が細かく眼を通した上で外交的判断に資するため関係公使と総領事だけに宛てた文書で、当初は極秘扱いであった。現在外務省編集・原書房発行の『日本外交年表並びに主要文章』に収録されているのは予定外で、当初は発表を全く予定していない。しかも会談の九日後に送付されており、政治的都合に合わせて書き換えたことも絶対にあり得ない。双方の発言内容には政治的な作意・虚偽があったとしても、それをそのまま記録するのが筆記録の性質上当然である。合意の上で一部をオフ・レコにすることはあり得るが、そこを省くとしても、会談内容そのものを変改したのでは筆記録作成の意味がない。つまり後年になって公刊した『蒋介石秘録』の内容で佐藤筆記録と異なる部分は、蒋介石の都合で作られた虚偽たることは明らかである。皮肉にも、蒋がわざわざ事実を偽った心底からして、青山会談の内容には蒋にとって都合の悪い事実があったことが透けて見える。それは何だったか。言うまでもあるまい。

 当初はジャブを応酬していた青山会談は、半ばから本題に入った。蒋が来日目的を「田中閣下に自分の胸中(実は提案)を述べて、閣下の教え(実は答え)を聞くことにある」と説明したのは、会談を装うが、実質的には外交交渉であるとの意味である。蒋は日本の利権について理解を示しつつ、それには革命成就に協力するのが交換条件、と持ち出した。革命の成就とは軍閥一掃を意味する。蓋し孫文革命は、清朝打倒という民族主義的目的は達成したが、逆に封建的軍閥の発生を招いたため、政体の近代化には失敗した。軍閥の一掃により政体を近代化せねば国民革命は成就せず、政体を近代化して初めて日本と利害が共通するのだから、革命の達成=軍閥の掃討を日本が支援して欲しい。これが蒋の真意であった。軍閥の掃討には当然武力が必要だから、前掲の蒋介石発言のうち第三「日本の対華政策は武力を放棄し、経済を大本とすることが必要である」は丸で正反対である。このあと話がより具体的になり「支那人民が排日を叫ぶのは、彼らが嫌う軍閥(張作霖)と日本が組んでいると、誤解しているからである。だから日本がわれわれ革命側を助けて革命を早く完成させれば、国民の誤解は一掃されるだろう」と言いだしたのは、「軍閥」と婉曲に呼んできたのは具体的には張作霖のことだと明らかにし、「張作霖掃討を支援されたし」と要請したわけである。航空戦力が発達していない時代のことで、軍艦で渤海を越したとしても、蒋介石軍には張作霖の掃討はできない。「われわれを助けて革命を早く完成させれば」とは、事実上「お宅の方で張作霖を処分してくれれば」を意味し、「そうなれば、満蒙問題も解決しますよ」と明言した。これが田中に対する蒋の申し出で、青山会談の焦点であった。満蒙問題が対ソ緩衝地帯の確保だとは誰でも知っている。それが解決するとは、当分の間、満洲を租借の形でも日本の自由にさせる、との意味しかない。むろん田中はそのように受け取り、根回しの通りと確信したから、語調を変えた。「日本は張作霖に対して一切の援助をしていない。満洲の治安維持だけに関心がある。安心ありたし」と断言したのは蒋に対する答で、「オラの方は張作霖を切ってもええで。安心してや」との意味であった (続く)。
                    
 





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