カウンター 読書日記 2009年07月
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●匠秀夫遺稿刊行によせて  河北倫明
 ●『「佐伯祐三」真贋事件の真実』― p380 に河北倫明に関して次のような記述もある。(*再録)

 **************

 4 河北は知っていた

 匠秀夫の「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」に河北倫明の序文がある。その末尾を掲げる。

 「・・すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受け取っている。匠さんのこの本が、この異風の人物にも一定の照明をあてる機会を作って下さったことを、喜ばずにはいられない・・」

 吉薗明子は河北と知り合って以来、次のような話を何度も聞かされたが、ついにその意味が分からなかった。「まあ、焼物なんかは、ぼくは芸術と認めていないから、あれでも良かったんだが・・・絵画は芸術だからねえ・・・とにかく佐伯なんかどうでもいい。ぼくは佐伯なんて大嫌いだよ。・・・それより周蔵だ、吉薗周蔵のことが分かれば、すべてはっきりするんだ。とにかく周蔵を調べろ」

 明子はそれを、河北が「嫌いな佐伯だが、無理に応援してやっているんだ」という恩着せと理解し、そのたびに何かと御機嫌をとった。それにしても、河北がいつも焼物のことだけを持ち出すのが、不可解だった。

 実は、河北は最初から吉薗周蔵について知っていた。

 それは佐藤雅彦を通じたものだった。佐藤雅彦は父の進三が京都の出身で、自身も京都住まいが長かった。河北が京都国立博物館長を勤めていた永い間を通じ官舎には入らず、高級和風旅館の柊屋を常宿にしていた。佐藤は美術館行政のボス河北の知遇を得、京都でさらに昵懇の間柄となり、その政治力を活用しながら、茶道関係とも深い関係を持ち、真倣ともどもに陶磁を動かしていた。その中には奉天古陶磁(ホンモノ)も、かなり多かったのではないか。

 古美術の談義は、来歴から始まる。佐藤は紀州古陶磁を河北に説明するに際し、関係者として吉薗周蔵の実名をあげ、小森忍から聞いた話を詳しく伝えた。河北が吉薗明子が周蔵の遺児と知ったとき、何とも不思議な態度を見せた鍵は、ここにあった。 ・・・以下略・・・

 ****************

 この「・・・実は、・・最初から吉薗周蔵について知っていた・・」河北倫明の「序文」を以下に紹介しておこう。

 ●匠秀夫遺稿刊行によせて  河北倫明 (『未完 佐伯祐三の「巴里日記」』より)

 このたび刊行される『未完 佐伯祐三の「巴里曰記」』は、編集者の言によれば、末期ガンと戦いながら「はいつくばり、とりつかれたように筆を走らせていた」という匠秀夫さんの痛ましいとも思われる遺稿である。匠さんは、私どものもっとも信頼する近代曰本美術の研究家であり、また初代の茨城県近代美術館長として活動された美術界の重要人物でもあった。匠さんが亡くなったのは、平成六年九月十四曰午後0時10分、東京お茶の水の順天堂病院においてである。

 その少し前の七月の頃であったか、いま執筆中の本が出るときには、ぜひ一筆序文を書いて欲しいという匠さんからの伝言を私は受けた。匠さんの仕事なら喜んで書きましょうというのがその時の私の答えであった。それには一つの理由がある。私事にわたるから引用するのが少し面映ゆいが、匠さんの力作の一つ『三岸好太郎』のあとがきの中に次のような一節がある。

 「戦後、ある時、河北倫明氏の『青木繁-生涯と芸術』を読んで、著者が天才青木の人と芸術を精査、論考しているのに感嘆するとともに―こうした性格の著書は未だに日本の近代洋画史の領域で多いとはいえない―河北氏が未見の中学先輩-青木の実像を日本の近代美術史の中に定着させようとした努カヘの感動が、その時以来私の心に深く刻みこまれたものと思われる。」

 これと同じような内容の私信を、戦後のある時、じかに北海道の匠さんから受けとった記憶もあるが、以来、次々と拝見する匠さんの優れた仕事について私は常に共感を持って接してきたことを忘れない。その匠さんは、一九九三年七月食道ガンを手術、一時小康を得て退院したものの、九四年五月には再人院し、それ以後の執筆中に先の伝言を受けたのである。もうあとがないという依頼だなというある予感が私の胸中を走ったことは事実である。

 論語の中に、次のような言葉があることをかねがね私は頭にとどめていた。すなわち「鳥の将に死なんとするときは、其の鳴くや哀し、人の将に死なんとするときは、其の言うや善し」。

 死を前にした鳥の鳴き声はかなしいし、また死に臨んだ人間のことばは真実なものだといったような意味であろうが、私はこの言葉の中に生命あるものが本来そなえた厳粛な真実が含まれることを感じないわけにはいかない。そして、匠さんの依頼の言葉も、さらにまた瀕死のからだで書きつづけたこの未完の遺稿そのものも、まさにこの「人之将死、其言也善」の気配と内容のこもったものとして、厳粛に受けとめずにはいられなかったのである。

 この遺稿本文の内容については、じかに読者諸賢が汲みとられるところであろうから、余計な口をさしはさむ必要はないが、匠さんが念頭においていたのは、佐伯祐三という短命な画家の生涯が初めから終りまで数多くの謎につつまれているその謎解きのための、研究者としての真摯な挑戦であったと見るべきである。未完とはいえ、この『佐伯祐三の「巴里日記」および吉薗周蔵宛書簡』をまとめた遺稿は、その解決のためへの手がかりを示唆するものとして大へん貴重といわなければならない。そして、その点こそが匠さんが最後の情熱を振りしぼって立ち向かった理由だったろうし、またこの書の無類の魅力と価値も同じようにこの点に関わって
くるであろう。

 私の簡単な序文らしいものは以上で終ってしまうことになるが、ひとことだけ感想をつけ加えておきたい。それは佐伯祐三から<ヤブ>と親しまれ、<イシ>と頼られた相手である吉薗周蔵その人のことである。ことに『巴里日記』の最後には、切ない独白のことばで、

 やるだけはやった
 その事 医師ハ分ってくれるやろ
 有りがとうございました

 という深沈とした印象的な語句が記されている。その当の相手であった吉薗周蔵という人物について、私どもは近頃まであまりに知らなすぎた。たまたま先年、吉薗明子氏の「自由と画布」の冊子が出るに及んで、実は周蔵その人の肖像画に私どもはすでに公開の場で接していたことに驚いたのである。

 一九六八年十月、東京セントラル美術館でひらかれた「佐伯祐三展」に、中折帽子をかぶった異風の肖像画があったことはかすかに覚えていたが、そのとき「エトランジェ」と題されていたあの像こそが、当の吉薗周蔵の姿だったのである。「自由と画布」によれば、そのときの周蔵のパリ滞在は一九二八年の二、三月というから、祐三のモラン旅行の前後のことになるのであろう。私なども、セントラルの展覧会に多少の協力をしていながら、「エトランジェ」という題名にも、一九二六年ころという年代推定にもあまり不審を抱かなかったことについて、いま不明を詫びるほか仕方がない。

 しかし、別方(ママ)からみれば、これはある時期までは、佐伯に関する遺作遺品の公表を避けること、そしてある時期が来たら、それを世に公表して欲しいとの遺言を残して死んだ吉薗周蔵自身の意志がそのまま守られていた結果というべきである。その意味では、匠さんが感じていた多くの謎を含む佐伯芸術の研究は、その時点ではまだ機が熟していなかったとするのが正しいであろう。

 最後に、率直な私見を許していただくならば、私は吉薗周蔵という人物こそ、佐伯芸術をこの世に存立させるための基盤を作った近代特異の精神科医の草分けであったといえるように思っている。いうならば、祐三は周蔵のある意味での作物でもあるかのような趣きさえ付きまとっている。それまでの古い日本が社会的に無視してきた精神医学の先駆者として、周蔵は在地豪族の家産や資力をみごとに蕩尽しながら、佐伯祐三というユニークな芸術的個性の社会における存立を企図してやまなかった。すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人・西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受けとっている。匠さんのこの本が、この異風の人物に一定の照明をあてる機会を作って下さったことを喜ばずにはいられない。
                                (美術評論家・文化功労者)

 *************** 

 〔註〕 1995年3月頃の執筆である。


 因みに、この「巴里日記」の来歴は以下の通り。

 吉薗周蔵は昭和39年に死亡したが、そのことを知らない米子は折から沸騰する〔佐伯ブーム〕の中ブームの仕掛け人たる画商から佐伯作品の供給を強く求められた。

 その当時(昭和40・41年)の<米子→周蔵>書簡で「残っている絵をいただきたいのです・・」と書いた。

 米子は返信で周蔵の死を知り、次に「周蔵の形見として、佐伯祐三がパリで描いた<周蔵の肖像画>と、佐伯が周蔵宛てにつけていた『黒い革表紙の日記』をもらいたい」と懇願する。

 この『黒い革表紙の日記』が匠著により紹介された↑の『巴里日記』である。

 また、この<周蔵の肖像画>=『エトランジェ』 で、これは匠著のP296に「複写」として載っているとおり、1968年の東京セントラル美術館で開催された「佐伯祐三展」に出品された。

               
 


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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)ー2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)
 

 ★蒙古挙兵「タイシャボー事件」の背景を探る
 
 北京では、参謀本部が派遣した松井清助大尉と木村直人大尉が、蒙古独立工作を画策していた。粛親王の義弟・カラチン王やパリン王、ヒント王などの蒙古王族を主体にして蒙古軍を結成し、曰本から運んだ武器で蜂起させ、各王の領地を革命政府から独立させ新政権を立てる計画である。曰本で武器を調達する役目を貴志と多賀が担い、松井が武器の秘密輸送計画を練ったが、曰本人馬賊・薄天鬼(益三)もこれに加わった。四十五年五月二十五曰に武器輸送を開始し、支那荷馬車四十七台からなる輸送隊が、松井大尉の指揮下で薄天鬼に護衛されて公主嶺を出る。多賀少佐も追って公主嶺を出発、途中奉天に立ち寄り、高山大佐と貴志中佐に会って画策した。

 しかしながら、松井らの軍事行動は早くも民国官憲の注意を引き、東三省総督・趙爾巽の知るところとなった。趙総督から武力阻止の命令を受けた鄭家屯の歩兵統領・呉俊陞と蒙古独立軍はタイシャポーで衝突、激戦となるが、奮闘空しく松井たちは民国官兵に捕縛される。都築前掲は「貴志と高山が時計その他貴重な持ち物を売り払って阿片を仕入れ、この阿片を賄賂にして、ようやく薄天鬼たち捕虜を救出することができた」という。銃殺寸前、九死に一生を得た松井らは六月二十六日に生還し、その後も独立工作を続けたが、九月二十八日になり、参謀本部次長・福島安正中将から突然中止の命令が下り、奉天特務機関長・高山大佐は同日付で守田大佐に更迭された。

 右が第一次満蒙独立運勤(タイシャポー事件)のあらましであるが、陸軍中央が突然中止命令を出した背景について、巷間に二説ある。その一は、英国が漢・満・蒙の一体国家を望んでいたから、満蒙独立を妨げるべく日本陸軍を誘導したとするものである。その二は、陸軍中央が孫文の革命政府を支持していたから、との理由を挙げる。辛亥革命の根底が在英ワンワールドの戦略ならば、両説は一致する。蓋し、辛亥革命の目的はプロパーチャイナ(中華本土)における漢族主体の独立国家樹立にあるから、北洋軍閥と南方革命党の融和は、東亜の安定を望む海洋勢力にとっても望ましい。しかしながら、元来中華本土に含まれない満蒙の地の独立は、漢族の自立にはむしろ資するものと思うが、如何であろうか。


 ★確執深める張作霖と袁世凱 「宗社党事件」に至る顛末


 革命後、旧清国領土は中華民国の表看板をよそに、事実上の群雄割拠に至ったが、大別すれば概ね三つの勢力があった。華北が北洋軍閥による北京政府、華南が孫文革命党による広東政府、満洲が緑林上がりの張作霖による奉天政権で、あたかも三国志の如く鼎立したが、中でも優位に立つ北洋軍閥の頭領・袁世凱は、人民共和の政体は国情にそぐわぬとして帝政の復活を図り、自ら皇位に就こうとした。一方、奉天の軍権を握る第二十七師長・張作霖中将は、張錫鑾に代わって奉天将軍となり名実ともに奉天軍のトップとなろうとして、大総統・袁世凱に工作したが、張作霖と宗社党の関係を疑う袁世凱は、腹心の段芝貴を奉天将軍に就けた。これを見た張作霖は、当分隠忍自重の腹を固め、袁世凱に迎合してその洪憲皇帝就任に賛成したが、袁世凱は内外の反対に抗しきれず、五年三月に至り帝位を諦めざるを得なくなる。すると張作霖は態度を一変し、宗社党に接近したので、危険を感じた段芝貴は四月十九日、奉天を張作霖に明け渡して北京へ逃げ帰った。張作霖は盛武将軍に就き、多年の願望を達成したが、同時に日本の援助を得て自ら奉天王国を樹立する事を考え始め、宗社党に対する態度を曖昧にした。これに対し、宗社党とそれに与する大陸浪人たちは憤激し、五月二十七日、旅順から来る関東都督・中村覚大将を奉天駅に出迎えるために急ぐ張作霖の馬車を狙って爆弾を投げたが、張作霖の旭日昇天の勢いはそれをものともしなかった。因みに、この工作に参加していた伊達順之助は、大正十四年の郭松齢の反乱に際し、張作霖を助けることになる。

 袁世凱が自ら帝位を望んだ事は、満蒙の地に潜んでいた宗社党を刺激し、討袁扶清運動を激化せしめる。なかでも蒙古近代の人傑パプチヤップ将軍は、宗社党の首領・升允と結んで粛親王第五王子の憲奎を奉じ、川島浪速を統帥とする軍事行動により、袁世凱の北洋軍閥を排除して満蒙を一体として独立国を樹立せんとした。すなわちタイシャポー事件の五年後、大正五年春に起きた第二次満蒙独立運動(宗社党事件)である。

 しかるに挙兵に先立つ六月六日に袁世凱が急死したため、大隈内閣は従来の姿勢を一変して中止を命じたので、満蒙独立の壮図は空しく潰え、パプチャップも無念の戦死を遂げた。当時、日本の対満政策は旅順派と奉天派に分かれていた。関東都督府に拠った旅順派は、宗社党と組んで満蒙の地に新たな清国を建てようとし、外務省と一部軍人の奉天派は、張作霖を支援して満洲に独立政権を樹立させようとしていた。四年十二月に陸軍参謀総長に就いた上原勇作大将は、満蒙政策に関しては奉天派に属していたのである。 


 ★接収された「奉天秘宝」背後に潜む大谷光瑞師


 大正五年、奉天の軍権は悉く盛武将軍・張作霖に帰した。中華民国大総統袁世凱の命令も、関内からの風に乗って東三省には届くが、実効はない。その袁世凱も六月六日に急逝したので、誰を憚ることのない事実上の泰天王となった張作霖は、大正五年暮れから六年二月にかけて、七度にわたり、泰天城内の秘庫から泰天秘宝を接収する。その際、わざわざ満鉄総裁の特別秘書・上田恭輔を招いて現場に立ち会わせたのはいかにも不審な行動だが、これには理由があり、後に述べる。

 周蔵が作成した『奉天圖経』によれば、秘宝の一部は「張作霖ノ軍部」すなわち奉天城内の張氏帥府に移され、残りは清朝二代皇帝の皇太極の廟所たる北陵に移され、その中にある「番小屋」に隠されたのである。早くもその翌月、すなわち大正五年三月には、東京高等工業学校窯業科長の平野耕輔が大連に呼ばれて満鉄の窯業科長となる。さらに、平野の推薦により小森忍が京都市立陶磁器試験場技手を六月二日に辞任し、翌日付で満鉄に入社して窯業科研究主任となった。すべて奉天秘宝を【倣造】するためである。この手回しの速さを見ると、上田恭輔の力だけでは到底無理である。つまり、その背後に、西本願寺法主の大谷光瑞師がいた、と観る以外にないのである 


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)  <了>。
 
 

 ★ブロガー註

 参照: 左のカテゴリーから【佐伯祐三真贋事件】をクリックしていただき、

      『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』の第二部末章、
      第二部 第二章 貴志彌次郎と周蔵
       々   第三章 奉天古陶磁の倣造

       の二章を是非御一読ください。



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)ー1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)ー1
 二次にわたる満蒙独立運動に携わった群雄たち ◆落合莞爾


 ★満洲国構想の魁を成す「宗社党」結成さる 


 北清事変(明治三十三年)から辛亥革命(同四十四年)にかけて、清朝皇室内の有力者は立憲君主制を主張していた粛親王であった。北清事変の臨時派遣隊司令官だった福島安正少将が、同郷の陸軍通訳・川島浪速の器量を見込んで粛親王に紹介したところ、たちまち招聘された川島は粛親王と義兄弟の盟を結び、北京警務学堂を創設し、学長に相当する総教習に就いた。その地位は五年後の三十九年八月に町野武馬大尉が引き継ぐ。

 粛親王は辛亥革命に際して宣統帝(愛親覚羅溥儀、遜帝とも呼ばれる)の退位に反対したが、退位はもはや避けられない情勢で、溥儀が退位して中華本部(プロパーチャイナ)を漢族支配に戻した場合、愛親覚羅氏は女真族の故地満洲に還るのが自然である。ところが満洲の地には清朝多年の無為から政治的・軍事的空白が生じ、主として漢族から成る流民・馬賊・革命党が入り混じる混沌の地と化して、清帝の権威も通じる術もなく、狩猟・遊牧を事として農業に馴染まぬ女真族・蒙古族は、土地を占領した漢族農民に対し、経済的に屈伏する他なかった。清朝遺臣が最も危惧したのは、漢族主体の革命政権が満漢癒合の旧清国領土を引き続き領有することであった。そこで粛親王と川島が建てたのは旧清領から満洲を切り離して日本の保護国とすることで、後の満洲国構想の魁を成すものである。因みに、旧清国領土の外蒙古・ハルハ地方では、革命直後土侯たちが最高活仏・ホトクト八世を君主ボグト・ハーンとして推戴して大蒙古国を樹立し、ロシアの後援を得て北京政府の支配から脱していた。

 宗社党とは蒙古旗人・升允ら清朝遺臣が川島と謀って結成した結社で、世襲八親王家の筆頭・粛親王を盟主とし、遜帝溥儀の復辟を目指したものである。革命直後、四十四年の暮から翌年に掛けて、宗社党の鉄良らが川島浪速ら大陸浪人と手を組み満蒙独立を企てると、これを察知した参謀本部は四十四年十二月に多賀宗之少佐を、四十五年二月には高山公通大佐を北京に派遣した。高山大佐が川島から清朝皇族の動向を聴取して満蒙独立運動の主旨を了解したので、参謀本部はその支援のため、四十五年一月十九日付で高山大佐を奉天特務機関長に補し、二月十四日付で守田利遠大佐を参謀本部附として派遣した。宣統帝の熱河蒙塵の噂を聞いた高山大佐は、途中で溥儀の身柄を奪い満蒙独立の要とする計画を立てたが、簡単に成功すべくもないので、まず粛親王を日本租借地の旅順に落とし、東三省総督趙爾巽を語らって、満洲で挙兵せんと図る。高山大佐により、粛親王は商人を装い無事旅順に亡命したが、高山は独断専行を咎められて内地に召喚され、後事を多賀少佐に託した。

 満蒙独立運動に対する政体(東京政府)の態度は、国際世論に怯えたため冷淡に終始し、外務省の出先機関でも、奉天総領事・落合謙太郎のごときは川島を警戒し、監視を強めていた。陸軍でも福島安正中将麾下の関東都督府は宗社党に非協力的で、ただ韓国駐箚憲兵隊司令官の明石元二郎・中将だけが武器援助を申し出ていた。この苦境の中で、川島らが頼みとしたのは、折から清朝皇族の動向を偵察するため、参謀本部が奉天に派遣した貴志彌次郎中佐であった。

 ★上原勇作の〔隠れ腹心〕にして張作霖の親友・貴志彌次郎


 張作霖爆殺の直後、その鎮魂のために『張作霖』を著した白雲荘主人が、張作霖の家族ぐるみの親友と明言する貴志彌次郎のことは、張作霖を語るのに欠かせない。吉薗周蔵も貴志に親炙して、生涯尊敬したが、今ではその存在すらも忘れられているので、以下にはやや詳しく紹介しておきたい。

 明治六年六月、紀州海部郡梅原村で紀州藩根来者の家に生まれた貴志の、幼年学校以前の学歴は、防衛省にも記録がない。陸軍士官学校の新制第六期を卒業して二十八年に歩兵少尉、三十年中尉、三十九年に大尉と累進した貴志は、この間三十四年十月に陸大十八期に入校したが、日露戦争のため三十七年二月に中退、三月の動員で出征する。川村景明中将の率いる独立第十師団隷下の大阪第二十連隊の中隊長となった貴志は、独立第十師団が第五師団と併せて野津第四軍となると、第四軍参謀長・上原勇作少将の知遇を得て、以後はその隠れた腹心となる。

 三十七年八月の遼陽会戦に際し、偵察を命じられた貴志大尉が、高梁(コーリャン)畑を案内する協力者を探していた時、偶然遭った于冲漢は、元東京外国語学校講師で大本営附の謀者となっていたが、戦後に勲六等に叙せられ、後年には満洲国建国に加わり、満洲国参議になった大物である。

 凱旋後、貴志が狩野派の画師に描かせた絵は、ロシア兵が馬上捜索に当たる中、草葉の陰で息を殺す貴志大尉を描いた秀作で、生家の貴志庄造邸に今も掲げられている。この激戦で重傷を負い、子供の出来ない身体となった貴志は、親友で二年先輩の満洲軍参謀・岡田重久少佐の弟の重光を、婿養子に迎える。戦傷を癒した貴志は、満洲軍参謀・田中義一中佐が乃木第三軍の参謀を入れ換えた時、第三軍に移されて乃木稀典大将に親炙した。防衛省の記録には「三十七年三月、第三軍附」とあるらしいが、何かの誤りであろう。晩年の貴志は、親友張作霖の爆殺を憤る余り、上原勇作の名を口にせず、乃木大将の回顧に明け暮れたという。

 満洲軍参謀・田中義一中佐に見込まれた貴志は、三十八年十二月に参謀本部員となった田中義一に抜擢されて参謀本部員になったようであるが、防衛省の記録には、その記載がないらしい。ともかく、三十九年三月に陸大に復校した貴志は、十一月に卒業して陸軍省軍務局出仕となる。参謀本部員田中義一中佐は四十年五月、陸軍近代化のために自ら望んで麻布の歩兵第三連隊長に就き、十一月には貴志を招いて第三連隊附とし、軍隊内務書の改定を命じた。田中はこの時大佐に進級し、貴志もようやく少佐になる。陸士六期では、早い者は三十八年少佐に進級した。例えば、大分出身で同期ただ一人の大将となった南次郎は三月に、また熊本出身で陸大十四期恩賜の津野田是重は五月に、少将で退役した東京出身の佐藤安之助も七月に、それぞれ少佐に進級している。因みに『曰本陸海軍の制度・組織・人事』には津野田に関し、「先妻は陸軍中将・高島鞆之助の女」とあるが、『旧華族家系大成』の高島家の項には該当する女性が見当たらないから、庶腹であろう。秀才肌で胆力も備えた津野田は、いかにも高島の女婿らしく、三十六年フランスに駐在、曰露戦役時には第三軍参謀として乃木軍で勇名を馳せた。大正八年四月に、第二選抜で少将進級したが、直ぐに予備役編入したのは、参謀総長・上原勇作と衝突した結果という。高島の娘だった先妻と別れた(死別?)ことも影響して、いつの頃にか、高島-上原派から離脱していたのであろうか。

 四十二年、東三省総督・徐世昌から奉天講武学堂教官の派遣要請を受けた陸軍省軍事課長・田中義一大佐は、貴志彌次郎少佐の派遣を決める。『宇都宮太郎日記』二月五曰条には、「歩兵少佐・貴志彌次郎本部に来訪す。貴志は田中義一の頼により奉天の講武学堂に推薦せしなり」とあり、田中が参謀本部第一部長・宇都宮少将に依頼して、貴志の推薦を取り付けたことが分かる。このような履歴から、巷間で田中の腹心と観られている貴志は、実は前述のごとく上原勇作の「隠れ腹心」であった。陸軍特務・石光真清と同様、上原との関係を極力隠したのは、策士・上原の指示によるものである。


 ★奉天挙兵失敗が機縁に 町野武馬の張作霖工作


 川島浪速から北京警務学堂総教習の席を引き継いだ町野武馬大尉は、反革命の立場から、秘かに北京を脱出して、奉天巡防頭領・張作霖を訪ね、満洲の独立を持ちかけた。張作霖は革命に反対、溥儀の退位にも反対であったから、町野は一か月もの間奉天城内の張作霖邸に滞在し、溥儀を担いだ満洲独立の作戦を練った。ところが、一夜休養のために城外の満鉄付属地に出掛けた町野は、瀋陽館で偶然川島浪速らに出くわす。二人は種々協議したが、粛親王を担いで清朝復辟を目指す川島ら宗社党と、張作霖と組んで満洲独立を図る自分とは、方向が異なることを確認し、町野は川島と別れて北京へ戻った。

 四十二年三月から四十四年三月まで、貴志が東三省講武学堂教官として近代的軍事教育を施した生徒の中に、張作霖の馬賊時代からの腹心で、後に満洲国国務総理になる張景恵がいた。当時、張作霖は洮南府にいたから、貴志は会っていない筈だが、互いの存在を意識していたのは当然で、あるいは面識があった可能性さえある。貴志の教え子には北大営の連隊長など奉天軍の幹部がいたが、その一人の第三連隊長に貴志は、「ここで独立・反革命の烽火を挙げれば、必ず張作霖が城内から呼応して合流し、東三省の独立を宣言する手筈が出来ている」と説いたという(都築七郎『伊達順之助』)から、張作霖との間に何らかの協定が出来ていたようである。おそらく前述の町野の工作によるものであろう。

 ともかく、貴志中佐の調略によって、北営の二個大隊が決起し、旧暦五月五曰を期して奉天城に向かったが、思わぬ事情で頓挫する。奉天城を目指して進軍する北営兵が、富豪宅の並ぶ北門街に近づくや、支那兵の伝統を発揮して略奪暴行に走ったからである。城内からこれを見た張作霖は、泰天巡防統領の本分として、直ちに略奪兵に対する銃撃を命じたので、決起部隊は多数の死傷者を出して四散し、奉天挙兵は惨めな失敗に終わった。町野の意図と、貴志の思惑はこうして齟齬したが、奉天督軍張作霖顧問として大正三年に奉天に派遣された町野が、同九年奉天特務機関長となった貴志少将と手を携えて張作霖工作に勤しむ機縁は、実にこの時に生じたわけである。

  続く。                      
 


●疑史第58回 甘粕正彦と大杉事件の真相
 ●疑史第58回 甘粕正彦と大杉事件の真相   評論家・落合莞爾
 
 
 甘粕が入所してから一年以上経つ。以下は前月号を受けて、『周蔵手記』の十七回目の甘粕記録たる大正十四年三月末日条の続きである。「薩摩ハ帰國シテヰルト 憲兵隊カラ知ラセ受クル。嬉シカッタ。自分ノ解読ガ正シカッタコトニナル。甘粕サンガ満点ヲ下スッタノダカラ 誤リハナイト思ッテヰタガ 薩摩ノ帰國ガ分ッテ 安心ス。後ハ コレカラノ動キダケダ」。憲兵隊が薩摩治郎八の帰国を周蔵に知らせてきたのは、むろん獄中の甘粕の手配である。

 同じく三月末日条の続きは、藤田嗣治からの暗号手紙の解読である。「對ノ金時計ヲ買フヤフニ勧メラレテヰル。ソレカラ 高イ山二登ル樂シミヲ 覚ヘタヤフダ。→同志ハ 大金ヲ遣ハセル情報=示唆ヲ与ヘタ。ソレハ 莫大ナ金額ヲ必要トスルモノダ。→ 要ハ 金ヲ使フ道ヲ作ッタコトダラフ。コノ人物ハ 金ガ無ケレハ 百姓ノ小作ヨリ始末ガ悪イ。裸二 金ヲ着テヰルダケダ」。フランスで薩摩治郎八に大金を遣わせるように示唆を与えたのは同志・藤田嗣治である。裸に金を纏ったような治郎八は、秘密結社に入って得意であるが、その資金が日本の国益に反して使われることを警戒した上原は、薩摩家の金を遣い果たさすべき策を立てて、工作を藤田に命じた。パリ日本文化会館の建設と寄贈である。周蔵は、同志・藤田に返事を出した。「今回ノ地震ハ 下町カラ特二御茶ノ水上ノ旧大名屋敷ガ 被害ニアッタサフダ。初台ノ櫻ガ美シイト 初台ノ下屋敷二移ッタ 新大名ト知り合ッタ云々」とは、震災前に御茶の水上の駿河台に在った薩摩邸が震災に逢い初台に引っ越したこと、及び【新大名】薩摩治郎八の帰国後の動静を、藤田に書き送ったのである。出す前に一応、刑務所の甘粕に見せに行ったところ、「甘粕サン十分二意味通ヅトノコト。安心ス」。

 同年七月条に十八回目の甘粕記録がある。「甘粕サンハ 元気ニシテヲラレル。所内ノ評判ハ抜群ノヤフダ」。千葉刑務所通いを欠かさぬ周蔵は、甘粕が元気で、所内の評判も抜群なのに喜んだ。同じ条に、直接甘粕のことではないが、下の記事がある。上原邸で「ポンピダフ氏ト 出合ッタノデ帰リハ一緒二帰ル。ツイデニ寄リマセンカト云ハレ 夜ヲ御馳走ニナル。コノ人物ノ生活ヲ見テヰルト 日本ノ文化ノレ遅レト 加藤君ノ云フ物真似思想ノコト ツクヅクト思ハズニハ ヰラレナイ。アルザス料理ヲ馳走ニナリ、宗教ノコト、人種ノコト、國ノコト、文化ノコト 色々ト伺フ。立派ナ人物デアル」。

 報告に伺った上原邸で、周蔵はたまたまポンピドフ牧師に出会った。牧師は大正元年八月に帰国したと警視庁外事課資料にあるが、いつの間にか再来日していたのである。自宅に誘われた周蔵は、話のなかで牧師を立派な人物と思ったが、「然シ迷ヒモアルヤフダ。當然デアルガ 本人云ハルヤフニ 何時カ 對フランストナッタ時 迷ハレルデアラフ」と観察した。独仏両強に挟まれたアルザスは歴史的に両強の綱引きの対象とされてきて、今はフランス領である。ユダヤ系としては珍しく農業に携わる住民は、国籍はフランスであっても本音はどうか。いつの日か、フランスに敵対しなければならぬ状況もあり得る。その時には迷いが生じるのではないか、と思ったのである。

 大正十五年正月末日条に十九回目の甘粕記録がある。「甘粕サンハ元気デヲラレル云々」とあり、周蔵が相変わらず千葉通いを続けていたことが分かる。二十回目は同年七月条である。シベリア金塊事件に触れ、新聞が陸軍の不正を攻撃しており、石光真清の弟で昨年予備役入りした石光真臣中将が告発状を出したが、黒幕は上原である。「閣下ハ 自分ハ皮ヲ切ラセ、然シ軍部ノ責任ニセズ、田中(義一・元陸相・現政友会総裁)ガ責メラレテヰル。結局、政府内二 人ガ必要トナルモ 中野(正剛代議士) 一人デ充分 ト云フコトダ」。シベリア金塊事件を上原は、参謀総長として多少の非難を受けることを厭わず、しかし陸軍全体の責任にはせず、当時の陸相田中義一の全責任に持って行った。田中を攻撃するための人材が政界内に必要となるが、玄洋社系の代議士・中野正剛一人で充分間に合うとのことである。上原は、対立する田中・宇垣(一成・現陸相)から昼行灯と影口されているのは百も承知で、自らそれを決め込み煙幕を張りめぐらしたが、「新聞ニハ一行モ載ラズ、誰一人言ヲシテヲラズハ、気ガツカナイト云フコトト、何ヨリ中野正剛の弁舌ノ巧ミサニアラフ」。世間が誰一人上原が黒幕と気が付かないのは仕方ないが、「アノ宇垣スラ 気ガツカナイハ 将来ガ思ヒヤラレル。結局、泰山鳴動シテ、鼠モ出ズ。然シ 田中ハ打撃ヲ受ケタデアラフ」と憫笑した周蔵は、面会した甘粕にそれを話すと、「ウッカリ甘粕サンニ云フト、三年前ナラ 自分ガ首ヲ取リ二向ッタヨ ト笑ハル」。権力者の失墜を図るには、義憤をかざす暗殺が最も効果的で、成否を問わない。結局鼠一匹出なかったが、山県も田中も確実に打撃を受けたのは、上原の策謀である。三年前の甘粕は渋谷憲兵分隊長で、上原の特命の下に跳梁していた。三年前なら中野正剛の演説でなく、自分が田中暗殺計画を企てたとは、大正八年の山県暗殺計画は自分だと自白したに等しいが、囚人面会にしては際どい会話も国事犯の特典で大目に見られたのである。続けて「甘粕サン 出ラレルラシイコト 閣下カラ聞クガ、マダ云ハズ」とある。上原から甘粕の仮出所を耳にしていたが本人に告げなかったのは、さすがに場所が刑務所だからであろう。十月九日、甘粕は出獄した。十三年一月の皇太子御成婚の恩赦で七年六ケ月に減刑され、その後の模範囚ぶりから仮出所を認められた。実質二年十ヵ月で出所したのは、まさに上原の言った通りになった。

 十月末日条、二十一回目の甘粕記載は、「コノ月ノ何ヨリ喜ビハ、甘粕サンノ特赦減刑ニテ、仮出所サレタ。フランス留學モ一緒ニサレタト云フ妻君ガ イカバカリ喜バレタデアラフ。自分モ非常二心強イ」とある。当時の周蔵は、甘粕の秘密渡仏に同伴した女性を甘粕の正妻と誤解していた。ポンピドーの姪で上原の隠し娘という真相を知るのは、後年のことである。

 甘柏記録の二十二回目は昭和二年十月三日条で、周蔵は救命院の事務員池田巻との結婚をさりげなく記した後、「閣下カラノ命令ノ計画ヲ練ル。甘粕サンニ依頼シテモ良イカト云フト、甘粕ニハ別ノロヲヤッテヲル。何レ合流トハナルデアラフガ、トノコト。安太郎氏二関シテハ 大イニヨカ トノコト」とある。

 これに先立つ九月条に、「(閣下カラ)今年暮レカ来年ニカケテ、フランス、スイス二行ッテ貰ヒタカ ト云ハル。仕事ノ内容 聞イテ驚ク。計画自分デ立テテミルト傳フ」とあり、上原から渡欧命令を受けた周蔵が、計画を練っていた。工作には協力者が何人か必要で、第一候補は若松安太郎である。上京以来の周蔵の教育係であった安太郎は、今では妻の巻の縁者でもある。若松は海軍関係で用いる仮名で、陸軍関係では本名の堺誠太郎を用いていた。ニコライエフスクに漁場を関いた北洋漁業の大手・島田商会の支配人として活躍、自身も函館に沿海州漁業のウロコボシ北星組を興していた。巻に連絡を取らせた周蔵は、十月十二日内幸町の堺誠太郎の水産事務所を訪ねて、安太郎と計画を練った。「目的―スイス、ベルン 人物ニツイテハ ネクル氏ガ手配シテアルトノコト。ネクル氏ノコトハ 訪ネルコトガデキル。連絡ハ済ムデイル。少クトモ一月下旬ニ パリ到着予定トス。ネクル氏ノ指示二従ッテ、スイスニ入レバ良イ」。目的地はスイスのベルンで、相手についてはネクル氏すなわち藤田嗣治が既に手配してある。藤田をこちらから訪ねることについても連絡は済んでいる。一月下旬パリ到着の予定とし、後は藤田の指示に従ってスイスに入れば良い、と計画は一応できた。

 続いて「問題ガアルトスレバ 邦人デアル。佐伯スラ 頭ガ誰デアルカ分ラナイ。少クトモ 妻君ハ海(軍)側デアルコト 間違イナシトダケハ 安太郎氏モ一致ス。然シ、海ハ気ダルイカラ 厄介ト云フ程デハナイト 一致ス」とある。渡欧の真の目的を厳秘するに、問題は外人よりもむしろパリ在住の邦人にある。目下パリで画業研鑽に苦闘する佐伯祐三の陣中見舞いを渡欧の表看板にするが、そこからバレる心配はないか、というのである。佐伯祐三支援は大谷光瑞師の要望によるものだが、今では佐伯の本当の頭が誰かよく分からないのは、中野小淀の救命院に入り浸った佐伯が、常連の徳田球一の影響を受けて無政府主義に関心を持ちだしたフシがあるからである。光瑞師が早熟の画才を見込み、祐三の絵の師匠とするために結婚させた妻の米子は、元は佐伯の兄・祐正の愛人であったが、今は海軍発信係の芥川龍之介と連絡がある。少なくとも海軍側ということは間違いないが、海軍はのんびりしているから厄介という程ではない。見解が一致した周蔵と安太郎は、さらに検討を進めた。「問題ハ田中―宇垣ノ線デアル。實際ノ金塊ガ ドノ位在ッタカヲ、田中―宇垣ハ知ッテヰルカ?知ッテヰル場合ハ 誰ガ、何処二隠シタカヲ 知ッテヰルカ否カ」。

 渡欧の真の目的は、金塊の回収であった。この金塊は例のシベリア金塊とは別で、『石光真情の手記』によれば、大正七年三月二十一日の戦闘中、コザックがヴラゴヴェヒチェンスクの国立銀行金庫から黒河のロシア領事館に移して保管した金塊(主として砂金)である。東清鉄道総弁・ホルワット中将を首班とする反ソ臨時政府がハルビンに樹立され、之れに引き渡せとの帝政中央の命令で、四月三日午前五時、コザックと支那官憲に護られ、ハルビンを指して雪の荒野に滑り出した馬橇に載せたニ八五〇万ルーブルの金塊である。石光前掲は「当時、その行方について軍当局から暗号電報で問合せがあった。発送後、一体どこに行きついたのであろうか。私の知っていることは以上のいきさつだけで、ホルワト政府に到達して正当に使われたかどうか私にはわからないのである」と述べるが、これこそ「良く言うよ」で、上原股肱の特務・石光が知らぬ筈はない。

 黒河砂金はホルワット臨時政府の軍事顧問・荒木貞夫中佐が受領し、上原の指令で黒竜江省の各所に分散秘匿されたが、一部はスイスのベルンに匿された。上原は今、それを国事に用いようとした。だが事は微妙で、ソ連側には勿論、わが海軍にも知られてはならず、陸軍内にも上原の敵が台頭していた。

 明治末年の陸軍改革運動で、陸軍の主導権を山県閥から奪い取る運動の中心になったのは、田中義一と宇垣一成であった。その結果、彼らが担いだ上原勇作が大正に入って陸軍のトップに立ったが、その上原が、大分を除く九州軍人を糾合して上原九州閥を形成すると、田中・宇垣は勢い上原九州閥との対立を露にして陸軍が内輪もめとなったが、黒河砂金については、田中―宇垣も全く知らぬことでなかった所に問題があったのである。

 ●疑史第58回 甘粕正彦と大杉事件の真相  <了>。                       
 
 
 ★薩摩治郎八については、左のカテゴリー〔バロン薩摩〕から。
 


 ●『アナーキスト群像回想記』 <補> 
   さらば暴政


 ●『アナーキスト群像回想記』 <補> 
 

 上記著から以下のように引用・紹介した。

 「・・・★小池薫さんの深川富川町、菊川町ドヤ街で、日雇い働者、放浪運動時代の盟友、墓山死赤=難波大助、虎の門にて摂政宮ヒロヒト皇太子狙撃事件起り大正十二年十二月二十六日大逆事件起る。

 翌年(*大正13年)の春の終り頃に、吉三兄宛に一通の手紙が小池さんから送られて来まして、走り書きで「俺は今精神病院に【狂い】としてほうり込まれている、俺は気も確かで変った処がないのに何処に(何故か?)市ケ谷刑務所に難波さんに差し入れと面会に行ったら、狂人扱いにされてこの病院にイヤオーなしに自動車に乗せられて来たが病院長にも診て貰ったが正気だと話しても聞いてくれない。どうか頼むから病院に来て俺を帰らす様に運動して出して下さい、お願いします」封筒の裏書は住所と松沢病院内、小池薫とどこも乱れた文字はありませんでした。・・・略・・・」

 ******************

 ★労作・『難波大助・虎ノ門事件』 (中原静子 2002年2月25日 影書房)に、
  以下の記述がある。
  論拠は弁護人・松谷与二郎による、『世界犯罪叢書第一巻 思想犯罪篇』
  (天人社、1931年1月30日)という。

 (34) 判決と死刑執行

 ・・・

 1924(大正13)年11月15日午前9時、死刑執行。

 死の直前、彼は父、二人の兄、二人の妹、その日の朝食を差し入れした★小池薫に別離の短い遺言を書き、教誨主任・藤井恵照へ弁護人に対して「御高誼ヲ感謝シ厚ク御礼申シ上ケテ呉レト」(今村文庫の文書)依頼した。

 また鈴木看守長にお礼を言いたいので逢わせてほしいと頼んだが、鈴木は胸がつまってどうしても大助に会う事ができなかった。横田秀雄裁判長は「大助は、いよいよ死刑を執行される時、目隠しのままで鈴木看守長の名をしきりに呼んだ。『あのようなつらい思いをしたことはない』と鈴木看守長が語った」と述懐している。

 大助の遺骸は引き取り手人がなく・・・以下略。

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 以上で、大正13年11月時点で小池薫は大助に「朝食を差し入れ」をしていて、
 松沢病院の「お世話」にはなっていないことが分かる。

 宮本三郎か松谷弁護士、どちらかの記憶違いだろう。
                      
 







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