カウンター 読書日記 2009年06月
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●アナーキスト群像回想記
                      アナーキスト群像回想記_1


 ●『アナーキスト群像回想記-大阪・水崎町の宿』 宮本三郎

  発行所 あ・うん 2006年5月復刻版

 著者・宮本三郎は前出の逸見吉三の実弟で、大正10(1921)年大阪・水崎町で【借家人同盟】を結成した逸見直造の子息である。

 明治40(1907)年生まれの宮本三郎(サブロー)だから【借家同盟】結成時に14歳、震災時に16歳で時代の証言者の資格はあるはずで、私家版刊行は74~76歳時のこと。

 
 それにしては文意「??」の箇所多く、訂正・補筆もない(刊行・編者の責任も大)のは一体どうしたことだろう。

 寺島珠雄・『南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』(皓星社、1999年)という見事な、奇跡とも言うべき証言を読むことの出来る者としては、疑問以上のものがある。


 それはそれとして、難波大助と前記、小池薫についての小文だけは、紹介しておこうと思う。

 新証言とは行かないが、難波大助、小池薫のヒトと時代の雰囲気は感じられるので、以下紹介していきます。

 **************

 
 ●しせき なんばだいすけ
  (死赤)難波大助(一八九九~一九二四 深川富川町住人)   
  -天皇の存在は社会革命の最大妨害物として
  皇太子暗殺を決起、絞首刑に処せられる。


 夏の陽ざしの厳しい頃でサブロー(宮本三郎)は二階で母や女工さん等と紙函張りに一生懸命に仕事の最中に(逸見)吉三兄を訪ねて来ましたが、吉三兄が階下に降りていましたが、話は短かゝったのか直ぐ上って来て母に十円札を二枚渡して、小池薫さんの東京の知り合いの人が名はシセキさんで中浜やギロチン社の人に食べる物でも差入れしてやってくれと云って上らず帰っていったが、直して(仕舞って)おいて、と預けていました。二十円とは少し大金でした。借家人同盟の演説会の折に水崎町の宿に異様な風体と長髪の小池薫とはビラ張りに大阪の街を三ケ日、夏の日中を、サブローは一緒に歩き過した方(頃?)でした。吉三兄も二十円もの大金の思わぬ差入れの金が這入って大喜びしていました。

 「小池さんが大阪に行ったら水崎町の逸見の吉っちゃんの家へ是非寄ってみなさいと言われて寄りました」と死赤(難波)さんが言ってたそうです。富川町のドヤ街で死赤さんも中浜等を知っておられたのでしょう。運動歴はなく放浪生活の頃だった様です。

 深川の富川町、菊川町のドヤ街の立ち坊労働生活の中で中浜哲等ギロチン社の活動家と小池薫を通じて、僅かの間であったが社会主義運動に関心を持ち、自から墓山死赤(はやましせき)と名乗っています。

 大阪の至る処に、いや日本全国に隅から隅まで新聞売子の、ジャランジャランの鳴る走り乍ら号外、号外と声を出して配る。号外は大正十二年十二月二十七日附、大事件を報じた号外。

 摂政宮皇大子殿下貴族院開院式に臨むため、十時頃に虎の門付近に狙撃さるるも、お召車のガラス窓に当たり、御負傷なく犯人は取押さえられ、難波大助と名のり山口県の明治の勤王の由緒ある家系で代議士・難波作之進の三男にして、云云と報じています。

 吉三兄は号外を見て写真の難波大助を見て、アッと一言漏らしておりましたが、四、五日前に水崎町に吉三兄に二十円の金を差し入れに頼んだ?見すぼらしい青年の墓山死赤その方が、難波大助でした。運動に少しは国家権力に抗し乍らにも筋金の這入った吉三兄も何か不安な気持だった様です。サブローには判る様でした。あの幸徳等の大逆事件に地方の方の家に訪ずれて世間話を交はした丈が、訪れた方、会われた方が、デッチ上げられて大逆罪で絞首台に十数人の方方が露と消えておられます。

 吉三兄も大正十三年十一月に天皇病気快癒祈願に皇后が京都桃山御陵に参拝の折関西の運動家の一斉検束されて、その数日前に新谷與一郎-「自由労働者」発行人-が寒い晩、水崎町の宿に寄って吉三兄と暫く話の後に、京都に帰る電車賃がないので吉三兄が一円渡し寒かったのでサブローの一張羅のオーバを着て帰ったのが、後の倉地啓司と爆弾製造事件として京都府警本部特高課連日連夜に亘る厳しい取調べ、拷問で阪谷貫一、八木信三、川合筆松が起訴され新谷與一郎は東京へ送られて、福田大将狙撃事件の和田久大郎、村木源次郎、大阪小阪事件の古田大次郎と合流されて起訴されています。京都のこの事件では吉三兄は新谷に一円の電車賃が特高と検事調書では金高(金額)も変えられ爆弾製造ケースに費われたとなり、阪谷、八木、川合等も爆弾製造にも全然関りない者が、皇后京都西下を理由にデッチ上げ(られ)ました。この京都事件の時、サブローは東京神田神保町、東京堂書店発送部に働いておって、錦町署の高等係り二人が発送部・高橋主任を通して二回、吉三兄の事で調べに来ましたが、その後何もなく主任はどうしたんだいと云った切りで働き(勤務は続け)ました。

 正進会の和田栄太郎さんが発送部に訪ねて来られて吉っちゃんが京都で爆弾を作って捕まって、皇后が西下中で心配していると云われて驚ろくのと心配もしましたが十日程して、水崎町の大阪印刷工組合の生嶋繁からの便りで、大した事もなく安心しました。数年後に一年六ケ月の服役をした阪谷貫一さんが加古川から水崎町に見えられ、紙函を張り乍ら吉三兄や、久保譲、中尾正義等と話しましたが、京都の警察では取調べ中に高等係の三、四人に正月用の荒巻鮭の様に刑事室で足先が畳から一尺位はなれて吊し上げられ竹刀で三人で叩かれた時は音をあげたナー。八木も河合も吉三兄もこの拷問で、ありもしない調書を作られ捺印しており、阪谷の話は更にブタ箱の看守が「阪谷さん、今な署長も高等係りの刑事も会議室で集って爆弾事件の調書が検事局に送って今切り納め酒を呑んでいて皆なの顔は赤色で崩れそうな顔やで」と。その時僕は「何くそたれ奴」と怒りが胸に込み上げてきてナー。

 摂政宮狙撃事件は新聞報道も大々的になり、翌日山本権兵衛内閣も潰れ難波大助の連累共犯者に警視庁特高課の総力揚げての社会主義運動家の広い捜査にも一人も出ずに、大逆罪で起訴されたが、難波大助の名を知る者はなく深川富川町、菊川町ドヤ街の労務者時代の★小池薫等数名の運動家との僅かの交流の中で誰もが、墓山死赤の名は知ったが(知っていたが)難波大助が運動家の誰一人として警視庁の連日の厳しい取調べにも名を言わなかったのでしょう。

 難波大助が富川町菊川町ドヤ街に交流した運動家の氏名を言っておれば幸徳等の大逆事件の様に結果的になったかも判りません。虎の門狙撃後十ケ月目に一人(の)連累者もなく大正十三年十月一日大逆罪として裁判が非公開に行われ、同十三日死刑判決が出て同十五日、中二日をおいて絞首刑を市ケ谷刑務所で執行されました。大逆罪は、控訴を認められず、一方難波大助只一人の大逆罪に十ケ月も要したのは連累者を聴き出す事もあったが、仕込銃で発射して捕えられた時、警官、憲兵、沿道の群衆に叩きのめされて、数人に担がれて、警視庁に連れてこられた時は、顔も潰れて服も血みどろで労働運動社の村木源次郎が特高課室から出て来た処を廊下で会って見ている。この大負傷の回復にも、月日を要していたのと思います。数ケ月も過ぎ特高からも、戎の高等係りも何にも言ってこないので吉三兄も安心をした様でした。

 難波大助の公判は(大正13-1924年)十月一日第一回公判(傍聴禁止)で始まり(十一月)十三日死刑判決迄、四三(43)日間その間二・三回非公開で行われ、弁護を担当された国選弁護士の知名な★今井(今村)力三郎は、後年回想記(★昭和25(1950)年、『文芸春秋四月号』の今村文など)に難波大助は、公判廷で「皇室に対する思想は」の裁判官の問いに、「皇室には反逆の意志などない」と言っているが、又、一貫してニヒリストとしての態度は崩さず、今村弁護士も公判中度々面会して反省上申書の提出を勧めたが聴き入れられなかったが、司法首脳部の中では明治の由緒ある勤王家系で、父作之進も代議士であり、山口県人と云う事もあり、強いて言えば、お召車のガラスに僅かな微(疵)丈(だけ)であり、難波大助の反省上申書でも出れば刑を終身刑に止めたい方針の動き(のよう)に感じられたが、十三日死刑判決時、難波大助は判決言渡しと同時に起ちあがり、無政府共産主義万才、更に無政府共産主義万才と絶叫し退廷しており、今村弁護士更に上申書提出に望みに市ケ谷刑務所に十五日午前面会に行った処、絞首台上に露と消えた二、三時間前に、判決後の僅か十三日死刑判決言渡し十五日絞首刑執行され、十四日一日丈(だけ)の死刑判決後の生命に終っております。

 **************

 
 ●小池薫(一八九六頃~ ) 深川富川町ドヤ街住人
  -難波大助の差し入れと面会に行き、理由なく逮捕され、
  精神病院に入れられる。


 小池さんは、水崎町の宿にお見えになったのは、夏の七月の終り頃で父や吉三兄を(見るのは)初めての様でしたが、この小池さん程名簿の多くの方々の中で一番何よりも強烈に今でも忘れられない方はありません。又小池さん程社会主義運動家の内に悲しみ訴え怨念を深く残して若き生涯を終えた運動家も又数少ないでしょうと、サブローは六十数年も経つのに、憶いは尽きない。

 小池さんの服装もこれ又一言で変ってるナーどころか実に風変りで驚きました。頭の毛は由比正雪の様に黒々した毛と云うより髪を首筋より後ろに長く垂らして、顔は細い上に凄い程色白で鼻筋の端麗な容で、もしフランスルイ王朝時代の貴公子族の服装でもすれば、実に立派な美公子を想はせる方の様ですが、惜しいかな、お見えになった姿は、印法被に腹掛け、襟のない袖口の絞った木綿の白シャツ、下は白の細い股引に地下足袋。車夫姿は同じでも和田久太郎とは、桁違いの美男車夫姿でした。

 惜家人同盟の何回目かの社会労働問題-演説会が天王寺公会堂で一週間後に開かれる時で、開催宣伝の辻ビラ、四六版半裁刷りで、二千枚が出来ておって、若い活動家やサブローも辻の軒下に(貼り出を)頼んだり電柱に吊り下げに廻った一日目でしたが、小池さんが東京に帰る汽車賃がないので何処か働く処があるかと言われ、父が三日程ビラ吊りを手伝ってくれる様に、話も決まり、翌日から九時に、サブローと一緒に二百枚程持って出掛けてビラの上に細い割竹の中心に糸があって、一寸位折り曲げて糊で貼って、まん中に糸に釘を入れて、金槌で叩くのですが、この金槌は貴重な物でステッキになって最中でたたみ、長くにもなり、金槌は先がエレキ(帯磁気)で釘が密着するので打ちやすく、小池さんが手に持つから風体と共に変ったマーチで人々が見るのです。(電柱に)吊るにしても、人眼に付く処、十字路にしても角に見定めの効く様に一枚も無駄のない吊り方で小池さんは気を使っておられました。四時頃迄には吊り終って晩には深川富川町や抹殺社、無軌道社の運動家の話など、ドヤ街の労働者の話も面白く語っておられて、四、五人の活動家を笑わせておりました。近所の銭湯に三、四人連れだって行くと、番台のおばさんが不思議そうな顔をして見ているのです。細い均整の取れた体が実に白く絹膚(きぬはだ)そのものでした。風呂から上って帰りがけにおばさん、「サブローさん、あの人なんする人やノー」と尋ねます。

 小池さんと二日目も一緒に暑い陽の強い中を一日廻り、三日目の終りは北大阪の城北方面に吊りに廻りて昼の食事にめしやに這入って食事を取るのですが食事中のお客はんが皆んな食べずに小池さんを物珍しそうに見るのですが、何の平気な顔して食べております。道を歩けば老人は無論若い女の人は猶更振り向いて迄も異様な頭の髪と変った車夫姿に眼を見張っておりました。

 中休みに城北公園で露天の店で氷で冷やしたトマト五個位を買って腰を下ろして食べておりますと、公園に遊びに来ていた母子連れが立ち止まって見て不思議と珍しそうに三人、四、五人と起ち去ろうともしません。小池さんの真白な股引に□からポタリと真赤なトマトの雫が染っておるのに平気で人だかりも気に留まりませんでした。ビラ吊りも三ケ目でビラも全部捌(は)けて翌日東京に帰るからと言い、父は日当と別に汽車の中の弁当代も加えて渡し(たので、小池さんは)喜び乍ら「サブローさん楽しく面白かったね」と言って出ていかれましたが、一日おいて二日目の夜九時にヒョコッと這人って来られて、酒と悪い遊びに全部費って終って汽車賃がないと言い出しその晩は水崎町の宿に泊まり、翌日父が十円渡して昼前に出て行かれましたが、又晩に七時過ぎに見えられて梅田あたりの一ぱい呑屋で酌婦にたかられてスッカラカンにされて帰って来られたのです。母もポカンとして若い活動家も笑っていましたがよく水崎町の宿に二度も同じ文なしで帰って来られた小池さんを笑うにも笑えなかったのは、一緒にビラ吊りに三日間も歩いた故でしょう。

 翌日朝、裁判所に行く父が小池さんに梅田駅の時計正面の下、三時に来る様にと言っておりました。五、六人で一緒に昼ご飯の時、小池さんが母に「お母さん本当にお世話になり有難うご座居ました」と長髪を前にたらして云っておりましたが、小池さんの母への言葉が最后になるとは、三、四年目に悲しき便りに会う事になります。あの貴公子にも劣らぬ顔の小池さん。

 父が梅田駅で三時に小池さんと会って、東京迄の三等切符と弁当代を渡して改札口で別れて、階段の中程で小池さんが手を振っていたと晩に話しておりました。再び水崎町の宿には来ず仕舞い。

 ビラ吊りのビラ刷りには社会労働問題大演説会の弁士として東京の社会労働運動家の来演を連ね、人目をひいたのは、赤瀾会の娘子軍の弁士の方達で、堺真柄、九津見房子、中曽根貞代で、赤瀾会結成後まだ間のない頃でした。演説会当日朝、借家人同盟の旗を先頭に父、真喜三・兄、吉三・兄、大阪の若い活動家と小学生のサブローも交って梅田駅ホームで赤瀾会の汽車が着いて三等車の窓から皆さんが手を振られて、こちらも旗を振っておりますと、五、六人の私服と数名の巡査が走って来て汽車に近づき借家人同盟の迎えに出た人達を威圧排除して、解散して帰らなければ総検束するぞと嚇かし、父も夜天王寺公会堂の大演説も控えており解散する事にして、特高課の古い知り合いの徳久警部補主任と赤瀾会の方の演説会に弁士で來阪されたので、新世界の常磐旅館に休憩されるのでと話した様で、徳久主任が同行していた上司の加賀美特高課長に伝えたが、演説会に出るのなら、三人の赤瀾会員を検束する、出ないのなら検束はせず東京に帰らすからと、赤瀾会の方も大阪迄来て検束される様な馬鹿げた事もしたくないので演説会には参加出来ない事になり、一時近くの曽根崎警察署の高等係室で時を過ごして、夜行の汽車でお帰りになられた様です。梅田駅ホームに赤瀾会の皆さんを迎えに出て汽車の窓から手を振られていた堺真柄さんの顔を覚えていまして、(昭和)五十六年九月十九日東京神田の「竹むら」で、吉三兄の偲ぶ会の翌日「黒旗の下に」主宰者の白井新平氏に案内されて南雪谷の自宅にお伺して六十数年目にお逢い出来ましてお元気でおられたので嬉しかったです。梅田駅の汽車の中の堺真柄さんが近藤真柄さんとなられておられました。幸徳の大逆事件の方々からお父さん(堺利彦)に送られた獄中から死刑執行の直前迄送られた手紙、葉書を今日迄保存なさって此の度纏められて大版型の見事な『大逆帖』を出版され見せて下さって生々しく胸のしめつける想いでした。絞首台の露と消えた十二名の方々、お父さんも喜こばれておられる事と思います。立派な畢生に残る(ママ)『大逆帖』でした。

 赤瀾会の皆さんを東京に追い返した大阪府警本部特高課の課長・加賀美警部の下に徳久、鈴木、小林、三宅等課員と検事局に吉村思想検事の国家権力の走狗として大阪の社会主義運動家を最も酷く弾圧し特にアナー系思想団体労働組合活動家には泣く子も黙る悪名高く警察署も新町署と恐ろしい処で運動家の間では拷問署の異名が付いていました。新町川をはさんで附近は鉄屋の倉庫の町筋で民家もなく高等係りや泥刑事達に絶好の取調べと拷間署で活動家の間で「新町署に送られたか」と溜息が出ました。

 朝日新聞社の記者だった片岡鉄平(ペンネーム)は、プロレタリア作家となり共産党のシンパで捕まって言語に絶する拷問を受けています。加賀美、吉村、新町署の連合悪で多くの運動家が監獄に服役した事であろうか、この加賀美氏、後に助役となる。

 小池薫さんの深川富川町、菊川町ドヤ街で、日雇い働者、放浪運動時代の盟友、墓山死赤=難波大助、虎の門にて摂政宮ヒロヒト皇太子狙撃事件起り大正十二年十二月二十六日大逆事件起る。

 翌年の春の終り頃に、吉三兄宛に一通の手紙が小池さんから送られて来まして、走り書きで「俺は今精神病院に【狂い】としてほうり込まれている、俺は気も確かで変った処がないのに何処に(何故か?)市ケ谷刑務所に難波さんに差し入れと面会に行ったら、狂人扱いにされてこの病院にイヤオーなしに自動車に乗せられて来たが★病院長にも診て貰ったが正気だと話しても聞いてくれない。どうか頼むから病院に来て俺を帰らす様に運動して出して下さい、お願いします」★封筒の裏書は住所と松沢病院内、小池薫とどこも乱れた文字はありませんでした。
 
 母も真喜三・兄、吉三・兄も思わぬ手紙の内容にサブローも驚きました。手紙の内容を詳しく知るために菊川町に居る高川幸二郎に問い合わせました。次の様に判りましたのです。小池さんは市ケ谷刑務所に難波大助が収監されたのを知り、差し入れの本数冊と面会を申し込んで暫く三十分位待たされておると、警視庁の特高課の私服が三人来て、「大逆犯人に面会とは何事だ、この馬鹿野郎」と怒鳴り、イヤオーなしに警視庁に引張っていかれ取調べも受けただろうし、酷い目にも遭ったろうし何日(そのうち?)松沢精神病院に狂人扱いにされて引渡された。末尾に難波大助の裁判も審理中なので、菊川町富川町の仲間に病院から出してくれる様に二、三人に(手紙が)来ておるが、今の処は動けません、と返事です。

 市ケ谷刑務所に面会に行った折も、長髪印法被に股引の姿であって水崎町の宿に見えられた時の姿であったであろうか。 


 小池さんから、吉三・兄に度々手紙で、この手紙を書くのに苦労して見付かれば取り上げられ、患者の面会の人に内密に頼んで差し出して貰うのも大変なのだ、今迄の手紙を読んでくれてはいないのか、なぜ返事も面会にも来てくれないのか、早く病院から出る様にしてくれ、頼むと書かれておりまして、吉三・兄もサブローに来る手紙を見せていました。更に手紙が来ていくら出しても、東京の富川町の友人にも出したが面会も返事も、一つもくれない、どうしてだ、俺は気も狂っていないし、この通り正気だ、早く出られる様にして下さい、と、四、五通位(来信)の時に吉三・兄は東京の米国伯爵の山崎今朝弥弁護士に詳しく手紙に小池さんの二通も添えて出して返事を待ちました。先生から早速返事を下さいまして、内容は小池君が松沢病院に狂人扱いを受けて入れられておりますし、こちらの二、三人の同志方へも同封の小池君の手紙も来ており、松沢病院に面会に行っておりますが、病院側は警察から面会はおろか、小池宛の手紙は一さい手渡しを厳しく禁じられており、難波大助事件は大逆事件として裁判が開かれていない現時点では下手に小池君に面会、或いは救出などに動くと、当局の捜査によって第二の幸徳等の大逆事件になり兼ねないので、小池君には気の毒であろうが、逸見君も大阪の方の自重して下さって暫く様子を見守り下さる様に、と山崎今朝弥法律事務所。

 小池さんに対する救出の糸口もこれでなくなり吉三・兄も北区若松支所の未決中のギロチン社・中浜哲を始め十数名の方に本の差し入れに面会に一日おきに通っており、紙函屋の手の空いた時はサブローも一緒に行っては、伊藤孝一、仲喜一、中浜哲、小西武夫、山田正一と中浜を除いては水崎町の宿の住人であり、サブローさんと親しく声を掛けた方々です。 

 小池さんから、そのニケ月目位に、三ケ月目位に手紙が来ましたが、数も次第に少なくなり、難波大助の絞首台に露と消えた後も二通は来ましたが、ちり紙に書き文字も大きく小さく乱れ書きで文章も又ちぢれちぢれて、助けてくれ、殺されかかっている、早く助けてくれと悲しみの中からの絶叫をちぢに乱れて書いたのでしょう。手紙のちり紙に書かれたのを読んだ時程小池さんのこの絶叫とも思える心情を想えば母も真喜三・兄、吉三・兄も三日間日中共に(ビラ貼りに)歩いたサブローも心の中に哀れさの寒々と悲しかったです。 


 大正十二年九月の関東大震災後の昭和二、三年頃までの間は、実に国家権力によって運動家を失っております。大震災の前年には戦線同盟の高尾平兵衛が反動の手先に射殺、大正十二年九月、亀戸署で軍部、警察合同による平沢計七、川合義虎外五名の銃剣で刺殺、麹町憲兵隊の軍部の大杉栄、伊藤野枝、悲しき宗一幼子の虐殺、大正十三年十一月十五日市ケ谷刑務所で難波大助絞首刑、十四年十月十五日市ケ谷刑務所で古田大次郎絞首刑、大正十五年四月十五日大阪刑務所北区若松支所で中浜哲絞首刑。

 国家権力の内務省警保局とその走狗となり手先となって働いた特高課と地方の各署の高等係りの猛り狂う時代でした。 


 小池さんから手紙も来なくなって、二年位の頃に山崎弁護士から手紙が来て、世間が落ち着いたのでかねて気になっていました小池薫君の松沢病院に出向いて面会を求めましたところ、小池薫なんて、その様な患者は当院にはおりませんとの話ですでに亡くなられていると思います。誠に申し訳なく残念ですがご報告に替えまして-山崎今朝弥とありました。


 小池薫さん、親友の墓山死赤=難波大助の市ケ谷刑務所の以後も絞首台上に消えた事すら知らず、狂人扱いされて正気を訴え、病院からの出られる事のみに、友人に、吉三・兄に救いを求め、心の絶叫をちり紙に書き連ね、数年間も亡くなる迄も正気であったろうか、国家権力者に病院の職員等に、いやそれ以上に訴えた友に、吉三・兄に悲しみの中に怨念を残して亡くなられたのであろうか。サブローは小池さんの憶い出を書く前に、九月の秋の彼岸に四天王寺に経木に俗名「小池春水事薫」と筆記して吉三・兄と共にお坊さんに読経して参ったので、何卒、小池薫さん春水、怨念を持たないで安らかに眠り下さい。

 ***************

 ●『アナーキスト群像回想記』  <了>。
                   
 

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●虎ノ門「事件」 古書散策。
 「難波君の私信は二十数年来筐底に秘めていたもので、これを世に出すべきか否かについて、終始迷いつづけてきたのだが、こんにち偶然の機会から公表することになって、地下のかれに対する義務をようやく果たしたような気がする。

 それはほかでもなく、かれの品性と思想を、こじつけや歪曲のまじらない、かれ自身の生のままの姿によって直接わかってもらえるからである。 (略)

 わたしの記憶に残っているかれは、無口な、どちらかというと控え目な男だった。いつも教室の片隅にすわって講義を聴いていた。 (略)

 読書欲の旺盛なことはおどろくばかりで、原書なども特に思想的なものはよくあさっていたようだ。当時海外のものは未紹介のものが多かったし、来ているものも大部の書籍となると買う金がなかったから、われわれが手に入れえたものは多くはパンフレット類だった。そして買えない本は図書館で、倦むところを知らなかった。下宿などでも別に悲憤慷慨するというふうではなく、一つのことを話すにも言葉少なに口を切った。

 そのかれが、二学期の半ば過ぎころから、パッタリ教室に現われなくなった。もともと自分で好きな本を読んでいる時間が多く、教室への出席はいい方ではなかったが、それが全然出てこなくなった。 (略)

 結局かれは自分の決意(思想と在学続行の矛盾を解決するため「廃学」する)を実行に移した。まもなく富川町の木賃宿の生活が始まり、踏み切ろうとして踏み切れないでいた社会運動への第一歩を印した。 その後のことはかれの通信が、かれ自身の言葉で正確に語ってくれるだろう 

 かれがテロリストであったことは議論の余地がない。 (略)

 かれの手紙のうちに最も頻繁に現われる言葉のひとつは<呪い>である。しかしそのことから、かれを冷徹無残の非人間のように考えることは非常な誤解のように思われる。無残どころか、かれはむしろ、わたしの知るかぎり、情宜に厚い、純情な、いつも人間愛にあふれた男だった。

 かれの社会的功罪は、人それぞれの観点から批判されるであろう。わたしとしてはただ、初めてありのままのかれを世に出すことをもって、地下の友へのひそかな餞(はなむけ)とするのみである。」

 **************


 上の小文に出会ったのは、三一書房・青春の記録シリーズの第3巻(全8巻)『自由の狩人たち』ー編集・解説 秋山清ー。


 蔵書の刊行は、1973年となっているが「新装第一版」とあり、今回念のため確認すると元本は1967年刊ということであった。事件から40余年後の難波大助の手紙の一般公開となった。

 ●難波君と私 と題した小文の著者は、難波大助の親友(早稲田第一学院同窓)・歌川克己氏である。

 歌川氏は「虎ノ門事件」後これら難波大助からの全書簡を押収されたが、事件直前の12月26日付けの手紙の「×革命家にあらざる歌川克己君ー」「俺は君に絶交状を送る」という文言によって有罪を免れる。

 ****************

 甘粕正彦との奇妙な因縁といえば満映時代の部下・大塚有章(1932年大森銀行ギャング事件)と難波家の縁戚関係があり、大塚氏はその著・『未完の旅路』(全6巻)で、第1巻に〔難波大助君のことー虎ノ門事件の真相〕と第5巻に〔甘粕正彦氏の人間像〕とを設けているが、注目すべき記載は皆無だ。特に、〔甘粕氏の人間像〕。

 ただ、〔難波大助君のこと〕で言う【デマ】についての感想は興味深いものがある(後述)。

 ****************

 さて、難波大助とその友人・同志のひとりに、小池薫というアナーキストがいた。

 難波大助の「配慮」で窮地を脱しえた歌川克己氏とは対照的な彼・小池薫氏の事件後の「運命」を読んでみる。


 ★笠原和夫・『破滅の美学』 幻冬舎アウトロー文庫 1997年より。 


  以下、笠原著に沿って、紹介する。

 笠原はギロチン社結成の主要メンバー、後藤謙太郎の『労働・放浪・監獄より』という詩集を読み、その「怨嗟、呪詛、反逆の呻き」にみちた詩に打たれ、「彼の詳しい生涯を知りたくなって、詩集の発行人である逸見吉三(へんみ・よしぞう)を訪ねる」ことにする。「逸見氏もまた【ギロチン社】の最年少の同人だった人である。」

 一間間口の逸見氏(当時71歳)の家=仕事場を訪ね当て、裸電球で暖房設備もない(11月の冷え込む日だったが)「失礼だが独房とも呼べそうな侘しい」部屋で笠原は四方山話を拝聴していた。

 「4時間ほど経って・・・逸見氏はひとつの体験談を語ってくれた」・・・

 ***************

 前述のように「虎の門事件」後、難波大助の背後関係、交友関係は徹底的に洗い出されたが、難波は周到・慎重な配慮で友人・同志との縁を絶っていたので、事件は難波の単独犯行と認定された。

 しかし、難波の周到な準備工作も思わぬところから水は漏れる。
 
 逮捕されて3日目、以前難波が深川のスラムに住み、中浜哲の自由労働運動に参加していたころ、難波の世話を看たことのある小池薫というアナーキストが、せめて弁当でも差し入れてやろうと、警視庁を訪れた。

 そしてそれきり、小池は消息を絶ってしまった。・・・

 1年ぐらいして、大阪に逼塞していた逸見氏のもとの、小池からのハガキが届いた。それには、
 「松沢病院(精神病院)に入れられている。おれは正気だ。助けてくれ」
 という内容が書かれてあった。

 逸見氏は早速山崎今朝弥弁護士に相談するが、時期が悪すぎる。いまは静観するしかないと説かれ、救出を断念せざるを得なかった。

 小池のハガキは、悲鳴のように、半月ごとに逸見氏のもとに届いたが、逸見氏は黙殺した。やがて断念したかのように、来信は絶えた。

 難波が処刑され、逸見氏もギロチン社事件で1年の刑を受け、悪夢がようやく消えかけた昭和10年前後、ふたたび小池からのハガキが舞いこんだ。やはり「助けてくれ」というものであった。逸見氏はそれでも動くことが出来ず、山崎弁護士がひそかに調べてみたが、松沢病院では、小池に該当する患者はいない、という返事だった。

 それが最後で、小池の生死はついに不明となった。【小池】という名前は通称だったので、本名も出身地もわからずじまいで終ったという。・・・

 ****************

   続く。
                      
 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30)-2 

 ★白雲荘主人・『張作霖』に描かれた虚虚実実の関係


 昭和三年、張作霖の爆死直後に公刊した白雲荘主人著・『張作霖』は、張作霖の鎮魂を願った伝記であるが、秘密にされた爆殺を告発する書とも見られる。同著によれば、日清戦争で清軍の傭兵となり日本の軍用電線を切断して日本軍に囚われた張作霖は、赦してくれた隊長の姓名を聞き、生涯の恩人として拝した。馬賊仲間に勇名を馳せた作霖は、日露開戦の前年(明治三十六年)、頭目仲間を語らい、馬賊宣撫に応じて新民府の知府(市長)だった増某に帰順した。当時の手兵は百五十名であったが、新民府の兵二百五十名を併合し、騎兵五百名の隊長となって新民府の兵権を掌握した。折から日露戦争が起こり、馮鱗閣などの馬賊が日本軍の特務部隊“満洲義軍”に馳せ参じたのに対し、官兵の張作霖は新民府の増知府と議して表面は傍観に徹し、裏面では親日馬賊軍に多大の便宜を図った。白雲荘主人の右の説は、近来仄聞する「陸軍特務出口清吉が、王文泰の名で馬賊となり、張作霖と親交して、能く調略した」との伝承とは矛盾しない。

 ところが巷間の張作霖伝奇に謂う所は、大分之れと異なり、作霖の帰順は明治三十八年で、東三省総督・趙爾巽に、それも形式的に帰順したと言う。清国の官兵ながらロシア軍に雇われた作霖は、日本軍をスパイして捕まるが日本軍人により助命され、以後日本に寝返ったと唱える所説は、今や教科書的史実となっている。しかしながら、その恩人の名も児玉源太郎とか田中義一とか言うがはっきりせず、田中本人の説明にもどこか照れ臭がる風があり、故意の曖昧化を感じる。白雲荘主人の謂う「他日の陸軍将官でしかも関軍都督府付となった」との経歴に当たるのは、宮崎出身の井戸川辰三と鹿児島出身の橋口勇馬で、共に高島鞆之助の腹心であったが、高島の引退後に上原勇作の配下になる。

 日清戦争に際しては、井戸川は近衛歩兵第三連隊、橋口は近衛歩兵四連隊に属したが、近衛師団の動員開始が遅かったため、大連には行ったが戦闘せぬままで台湾討伐に転じた。つまり、井戸川・橋口に関しては、逸話の謂うごとき状況はあり得ない。尤も、日露戦争時の井戸川少佐の軍歴は、三十七年三月北京発・特別任務従軍、七月満州軍司令部付、三十八年三月に新民府軍務官、十一月に関東総督府付で、橋口少佐も三十七年一月諜報のため満洲派遣、以来特務活動に携わって馬賊を指揮し、三十九年三月に関東都督府付とあり、いずれも張作霖との接点はあり得る。要するに、白雲荘主人の日清戦争説よりも、巷説の日露戦争説の方が真相に近いようで、救命の恩人を井戸川と観る通説が妥当である。にも関わらず、私(落合)が巷説よりも白雲荘主人の説を重んじたいのは、『張作霖』の緒言に、「本書は自分が従来張氏を中心に、東三省のあらゆる方面を直接、間接に研究して・・・」と明言するのが第一の理由である。第二は、出版時期の昭和三年にはまだ多数の関係者が生存していたから、関係者の注目を浴びることが必至のこの著書に、丸きりの嘘は書くまいと思うからである。つまり、これには深い訳がある筈だ。

 特別任務に従軍した井戸川・橋口の両少佐は、対露諜報活動の際、王文泰(出口清吉)ら日本人馬賊を通じて満人馬賊を使っていたから、張作霖がたとい露探であったにせよ、王文泰に頼まれて二重スパイとなったとも考えられる。即席の官兵となった張作霖が、王文泰の頼みで、元の馬賊仲間を露軍に潜入させた処、その元締めとして作霖自身が日本軍に睨まれ、咎めを受けた事だって大いにあり得る。それならば助命はむしろ当然で、張作霖に二重スパイを依頼していた事実は軍事機密として、日露戦が終わっても永久的に隠し通さねばならないのである。

 張作霖が大正末年に北京政府入りして、中華民国を代表する立場になり、思う儘にならなくなったのを忘恩反日の徒と観た日本陸軍が、故意にその過去を貶める巷説をこさえて流したフシもある。目的は爆殺を正当化するためで、それならば、緒言の「張作霖の一生を叙し、併せて東三省の天地を弔う意味で執筆した」という本意は、陸軍が被せた汚名を濯ぐと共に関東軍の愚行を告発する趣旨とみてよい。白雲荘主人の正体は未詳だが、茂丸が台湾銀行総裁に就かせた中川小十郎は、別荘を白雲荘と称した。台銀総裁として、茂丸の台湾政策に大いに貢献した中川は、出自が丹波弓矢隊で、丹波地下衆と観られるから、もし白雲荘主人が中川ならば、張作霖と茂丸の関係の証左とみて良いと思う。


 ★満州覇権・奉天軍閥形成へ踏み出した張作霖の大出世


 日露戦役後、奉天巡防営務所総弁として赴任した将軍・張錫鑾に良馬を贈った張作霖は、直ちに連隊長(中佐)に相当する巡防五営の紐帯官に挙げられ、張作霖自らが中営の営長を兼ね、内蒙古に近い鄭家屯に駐在した。他の営長は、一営が湯玉麟、二営が張景恵、三営が張作相、四営に鄒芬という顔触れであった。元は馬賊の頭目連であるが、後年には満洲国国務総理に就く張景恵を筆頭に、満洲国で大出世した。

 その後張作霖は、軍事費不足に悩む張錫鑾に銀一万両(現価1。6億円)を贈り、奉天前路巡防隊の統領に挙げられる。以後作霖は、実質的な東蒙古の一部たる洮南府に移り、孫列臣の二営を加えて都合七営、三千五百名の長となる。明治四十年六月、北洋軍閥の統帥袁世凱が、東三省総督に送りこんだ腹心の徐世昌は、将軍・張錫鑾の推挙で、奉天で猖獗を極める蒙古馬賊の討伐を張作霖に命じた。之れを出世の好機と見た作霖は大いに奮戦、一年がかりで頭目・パイオンタライを殪し、赫々たる戦果を挙げて、四十一年七月十日に凱旋した。以後、奉天の治安維持者として張作霖の声望は日増しに高まった。徐世昌が奉天を去った後、錫良を経て、東三省総督に趙爾巽が再任された時、辛亥革命が起こった。革命の波は満洲にも押し寄せたので、趙総督は作霖を洮南府から奉天に転勤させ、城内外の警戒を命じる。奉天の治安維持を一人で担った張作霖は、革命党を弾圧し、張榕以下の領袖を殺害したので、その権威は趙爾巽を凌駕するまでになった。

 革命の翌年が民国元年、即ちわが大正元年である。兵制は日本式に改まり、張作霖の率いる奉天巡防隊は、九月十九日を以て第二十七師団に改組、陸軍中将に任じられた張作霖は二七師長に補された。大正三年、張作霖は奉天の兵権を完全に掌握したうえ、広大な耕作地を所有し、商工業・金融分野にも参入した。穀物商社、精油所、質屋、銀行を営んだ財力は、すでに百万両(テール)と言われたが、これは日貨で百数十万、現在の物価で百数十億円に相当する。こうして、満洲の政治的軍事的空白を埋める地域覇権、奉天軍閥の形成に向かって踏み出した張作霖は、大正四年日本の対華二十一箇条要求に対する強硬反対を大総統・袁世凱に申し入れ、そこで懐柔のため勲四等一等子爵に叙せられた。

          
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30) <了> 




●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30)-1
 -ワンワールド代理人・杉山茂丸、風雲急の満洲で暗躍 


 ★新薩摩三傑に代わり登場 杉山茂丸の秘められた事跡


 日清戦争の直後、台湾で姿を消した近衛上等兵・出口清吉は、明治三十三年になり義和団事件(「北清事変」)の功労者として、軍事探偵・王文泰の名で『京都日出新聞』の従軍記者の眼前に現れた。満洲で緑林に入って活動した清吉が、馬賊の頭目同士として交わったのが張作霖である。明治五年生まれの王文泰(清吉)と三歳年下の張作霖の関係は、当初は対等だったが、日露戦争の後には王文泰が張作霖の師匠格になり、いわゆる裏面指導をする関係になった。右(上)は近来の仄聞である。以下には「仄聞」をやや頻用するが、出所はほとんど同じである。今はそれしか言えない。

 北清事変後、中華本部(プロパー・チャイナ)から撤退を考え始めた愛親覚羅氏は、日露戦が日本の戦勝に終わるや密かに日本接近を図った。その目的はむろん父祖の地満洲(東三省)の保全のためである。ところが明治三十四年から十余年にかけて、交替で政権を握った桂太郎と西園寺公望の統治力の及ぶ処は社会の皮相だけで、国際政治の深奥に関わる力量を有したのは吉井友実に始まるワンワールド薩摩系であった。その背後に在英ワンワールドを盟主とする海洋勢力がいたのである。薩摩系の首脳は、高島鞆之助が吉井の跡を継いで総長に就き、樺山資紀が副長、松方正義が別格の金融総帥で新薩摩三傑を成したが、在英ワンワールドの意向をわが政策に反映させてきた新三傑も、明治三十年代に入ると全員公職を退き、枢密顧問官に就く。

 明治二十年代の後半から、恰も新三傑に代わる在英ワンワールドの代理人として登場したのが、杉山茂丸であった。二十四年ころ、石炭貿易のため渡った香港で帝国主義の最終段階を認識した杉山は、在英ワンワールドに接近してその意向を探り、祖国の維持発展のため、敢えて英国に通じたとみられる。杉山が伊藤博文・陸奥宗光の外交政策を監視し、日清の講和談判で遼東半島の租借に反対し、興業銀行の創設を松方に迫り、渡米して単独会見したJ・Pモルガンから巨額の融資話を引き出し、児玉源太郎・後藤新平を調略して砂糖・樟脳による台湾経営の筋道を付けたことは既に述べたが、これらは杉山の事績のほんの一部が露頭したものに過ぎない。

 在英ワンワールド側から対露戦を不可避と知った杉山茂丸は、非戦派の長州派長老を調略して日清・日露両戦役の開戦に漕ぎ着けた。他方薩摩派首脳に対する工作の片鱗もないのは、その必要がなかったからである。維新以来、国内統治に汲々としてきた政体(東京政府)が、国際政治の真髄に触れて当惑するしかなかった時、代わってその役割を引き受けたのが、堀川辰吉郎の補役となった茂丸であった。茂丸は以後、辰吉郎の成長を見守りつつ、国際政治の深奥部すなわち皇室外交と国際金融を担うことになる。 


 ★茂丸と堀川辰吉郎を支援した「京都勢力」


 明治十三年京都堀川御所に生まれた辰吉郎と黒田藩士出身の茂丸がいかなる縁で結ばれたものか、知る由もないが、辰吉郎が幼少期に玄洋社に預けられた事と関係するのは当然であろう。辰吉郎こそ孝明帝の隠れた孫で、京都勢力と玄洋社を配下としながら、裏側で国体(皇室)を支えたのである。

 京都勢力には、堂上衆及び社寺衆それに地下衆がいた。堂上衆とは維新後も京都に残存した公家の一派である。羽林家の中山大納言には、維新後も国体を支えた分家が京都にあり、辰吉郎の皇室外交の実務を担当したものと考えるが、現段階での憶測に過ぎない。京都社寺衆とは、大谷光瑞を主頭とする本願寺勢、大徳寺を盟主とする臨済宗勢、さらに光格・孝明両帝に所縁の聖護院修験らの勢力である。それぞれ辰吉郎を支えて国体擁護に尽くしたが、実状はいまだ世に知られていない。

 丹波地下衆とは、近来会員制の情報誌『みち』で、栗原茂が説く『大江山系霊媒衆』である。中でも穴太の上田家は、家伝にも遠祖はイスラエルの亡国により東方に流移した多神教徒で、丹後半島に古王国を建てた海部氏とあるという。現在の上田氏は、私見では、同族・物部氏及び秦氏と、古く中世以前に混淆したと観られるが、近世さらにポルトガル系・オランダ系の貿易商人と混血したことも、家伝にあるらしい。なお栗原によれば、大江山霊媒衆には真贋というか、正統と亜流があり、辰吉郎を支えたのは「皇統奉公衆」と栗原が仮称する正統である。私見では、古代の血族的職能集団たる〔カバネ〕に由緒を有すると思えるが、真相を窺うことができない今は詳述を避けることとする。

 ともかく、穴太に出た上田鬼三郎は、綾部に婿入りし、出□王仁三郎として大本教を興したことで知られるが、義弟で陸軍特務の出口清吉(王文泰)、大本に入信した陸軍大佐・日野強と力を合わせ、辰吉郎と茂丸を支援して、満洲保全に尽くした。辰吉郎と大本の関係は、大本の東亜版たる紅卍会の総裁に辰吉郎が就いた事を以て、その露頭とみることができよう。京都社寺勢と丹波地下衆は、自ずから別系統だが、末端では互いに接触し錯綜するのは自然の成り行きであろう。

 玄洋社は黒田藩士の政治結社であるが、社長・頭山満が政治の黒子に徹する一方、金子賢太郎が伊藤博文の腹心となり、政体に入って活躍した。
 山県・伊藤など大陸勢力の影響を受けがちな長州派長老の意識を海洋勢力側に誘導した茂丸は、終始玄洋社の旗幟を掲げたが、これは一介の在野浪士が長州の首脳と折衝するには、それなりの地歩を必要したからであろう。玄洋社の茂丸に対する具体的支援には表裏あり、表面は世に露れているが、世人はいまだその所以を理解するに至っていない。もし夫れ裏面に至っては、政治につきものの暴力秘事であって、世間の知るところでない。 


  ★孫文に近づきたい愛新覚羅氏 清朝の信を得た皇室外交の粋 


 愛親覚羅氏と通じた堀川・杉山が、他方で革命家孫文と繋がりを持った
のは、矛盾ではない。大清帝国崩壊後の兎城(中華本部)を西欧列強の蚕食、ことにロシアの併呑から守り、漢族の一体的独立を達成するのは東亜安定の基本であり、海洋勢力の望む所でもあるゆえ、漢族自立を叫ぶ孫文を支援して革命を成功させることを急務と観た辰吉郎と茂丸は、実務を玄洋社の頭山満に担わせた。愛親覚羅氏(女真族)の望む満洲保全と、孫文の唱える漢族独立は、本来矛盾するものでなく、いわば協議離婚に際しての穏当な財産分与策である。ところが、押しかけ婿の愛新覚羅氏が婚家漢族に持ち込んだ体の東三省(満洲)の地が、英露対立の地政学的要地である点に問題があった。

 清朝以来の軍事的空白地域だった満洲は、漢族主体の北京政府の統清圈から外れたのに加え、女真族も民族アイデンティティを失い、自力では守れないことから、実質的に無主の地となった。海洋勢力イギリスが、満洲保全に当たらせんとした日本と、兵力で満洲を併呑せんとした大陸勢カロシアとの対立が露になり、加えて漢族自立を達成した孫文が、民族主義から大漢民族主義(多民族主義)に豹変して共和政府による満洲領有に固執したので、状況が複雑化したのである。恰も、富豪の離婚に際し縁戚・近隣が介入した財産争いの観があるが、これこそ地政学的な必然なので、日本も自立のためには傍観を許されぬ立場に立ったわけである。

 孫文の興中会が蜂起した明治三十三年以来、辰吉郎が孫文の秘書として付き添ったため、漢族間において”日本皇子来援”との評判を来たし、孫文の信用を高めたという。古くからある右の説の真偽はさておき、辰吉郎と愛親覚羅氏の交渉こそ正に皇室外交の実践であった。栗原茂の前掲『大江山霊媒衆』第十三回によれば、
辰吉郎の紫禁城入りこそ杉山の生涯最大の事業で、革命前年の四十三年、三十一歳の辰吉郎は紫禁城に入り、城内北半に在る皇宮の建物の一つ小院を寓居とする。準備したのが「杉山茂丸ほか在野の志士」であったというから、彼らはすでに清朝皇室の信任を得ていたわけである。

 そういえば、看護師の出身で大陸に渡り、大将軍と呼ばれた中島成子の娘で、辰吉郎を父とする国際評論家
★中丸薫が紫禁城の一室で生まれ育ったと聞いた時、その所以を理解するに苦しんだが、栗原説に接して納得することができた。巷間溢れる甘柏正彦伝奇の一種たる佐野眞一・『甘粕正彦 乱心の曠野』にも、「儒学者中島撫山の子息で中島敦の叔父に当たる中島比多吉(明治九年生まれ)が十八歳で清国に渡り、四十一年から紫禁城に入って三歳の溥儀の傍にいた」との、中島家伝を書き留めている。日露戦役時ハルビンでロシア軍に捕まったこともある陸軍特務中島比多吉を紫禁城に招き入れたのが、清室の側近であることは言うまでもない。対露戦勝を機に日本の力量を覚った愛親覚羅氏は、以後は対日一辺倒というも過言でない信頼を日本に寄せた。尤も、その相手は東京政府でなく、すべて辰吉郎との間の秘事であった。かかる真相は、北京政府に対しては勿論、東京政府にも秘密にされ、今日まで世間の知る所でないが、愛親覚羅の要望を堀川・杉山に伝えたのが王文泰であったと聞く時、肯綮に当たるものがある。

 註:中丸薫については、その著書を以前(2月6日、8日)に紹介した。

 満洲は、女真族の愛親覚羅氏が、永年にわたり漢族の流入を厳しく禁じた封禁の地である。人口希薄で軍事的にも空白地帯であったから、流入する難民に対応すべき警察力とてなく、難民社会の実情に応じて緑林と呼ばれる馬賊が自然に発生し、自警団的な機能を果たした。その中で台頭した頭目の一人が、海城県からの難民の子・張作霖である。張作霖と王文泰は、日露戦役以前には頭目同士として対等のつきあいであったが、日露戦後は陸軍の後盾を有する王文泰が上位に立ち、作霖を関東軍の支援に導いたという。これも近来の仄聞である。

   ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30)-2 へ続く。
                      
 



●大杉の資金。
・・・大杉暗殺の真相は「上原と甘粕が共謀し、震災下のドサクサを利用し、憲兵隊を使って大杉を殺らせた」のである。その理由は、「大杉が後藤新平の依頼を受けて渡仏し、両人の秘密結社関係を調べて帰国してきた」ことに尽きる。昭和四年別紙記載によれば、伊藤野枝も、大杉の指令で青山教会に潜入してポンピドー牧師を洗っていたというから、単なる巻き添えではなく、標的であったのである。・・・という。
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 ここで確認しておく。

 大杉の資金といえば自然に浮かんでくるのは後藤新平である。
 大杉の資金面での後藤との関係は周知のとおり、『自叙伝』にも記されている。概要は以下の通りだろう。

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 「資金」とは主に機関誌再建のためのもので、大杉は先ずその工作を「野枝→頭山満」から始めた。

 野枝が小学校のころ「口減らし」のために預けられた代(だい)準介(叔母の夫)の紹介で頭山満(野枝の遠縁)を頼ったが、「いま金がない」と言って頭山は一通の紹介状をしたためる。

 その宛先は、玄洋社の金庫番・杉山茂丸。

 野枝は茂丸のいる台華社に赴くが、野枝の話を聞くうちに茂丸は大杉本人に会いたくなり、大杉を呼び出す。

「・・・彼(杉山茂丸)は僕(大杉)に会って、軟化することを勧めた。国家社会主義者ぐらいのところになれ、そうすれば要るだけ金をだしてやると、僕はすぐその家を辞した。」

 大杉はそこで、会話中に茂丸が口にしていた後藤新平(内務大臣)のところを訪ね、政府の迫害が因で資金の行き詰まりをきたすという理屈で、援助を仰ぐことにした。
大杉の要求額は3、4百円ほどで(「今急のところ三、四百円あればいいんです」)、後藤は「二人だけの機密事項」だと釘をさして金を出す。大正5年10月ころのことだ。(大正5年11月8日夜半に起きた「葉山日蔭茶屋事件」の前。)

 大杉は事前に電話しておいて、永田町の内務大臣公邸に赴く。

 大杉の『自叙伝』によれば、そのとき後藤は「どうしてあなたが今のような思想を持つようになったか」と始めたが、「ええ、その話もしましょう。が、実は金が少々欲しいんです」と大杉は切り出す。

「あなたは実にいい頭をもって、そしていい腕をもっているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです」
「政府が、僕らの仕事の邪魔をするからです。政府へ無心にくるのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話はわかろうと思って来たんです」
・・・
「ようごわす、差し上げましょう」と後藤は三百円を渡す。・・・

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 大杉からすれば、活動維持費、一方後藤の腹積もりは、アナーキストの地下情報を機密費で買った・・・というのが、従来の常識的見解だろう。

 後藤の左右を弁別せざる人材登用(利用)、度量の広さ、等々。

 しかし、『周蔵手記』に拠れば、「(上原・甘粕)両人の秘密結社関係の調査費」という意味のある資金供与ということになり、記された金額・「三、四百円」も当てにはならないことになる。

 【後藤新平→岳父・安場保和→百魔・杉山茂丸】の関係は、何度も「疑史」で述べられてきたが、この「疑史第57回」との関連でいえば、後藤は、大杉虐殺事件当時の警視庁警務部長・正力松太郎(年末の「難波大助・虎ノ門事件」の責任をとって懲戒免職となる)に読売新聞買収のための資金を提供した人物であることも忘れてはならない。

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 【大杉暗殺の真相】のいまひとつの、「・・・伊藤野枝も、大杉の指令で青山教会に潜入してポンピドー牧師を洗っていた」か?・・・については、『吉薗周蔵手記』の続編を待つとして、いま少し、以下を参考しながら、大杉榮と甘粕正彦に拘ってみたい。

 <参考>

 ①: 竹中労 『我、是くの如く聞けり―大杉殺し・甘粕ではナイ』

 ②: 松下竜一 『ルイズ―父に貰いし名は』
     同上   『久さん伝』

 ③: 大塚有章 『未完の旅路(5)』
                       
 



●疑史(第57回) 甘粕正彦の暗号解読
 ●疑史(第57回) 甘粕正彦の暗号解読 

 『周蔵手記』の甘粕記録の十一回目は大正十二年九月末日条である。周蔵は、その条を「何ト書ケバ良イカ分ラヌガ、大杉榮終ル」と始めた。続けて「甘粕サンガ全テヲ被ラル。自分ノ知ル限り 無政府主義ハ 下向キニナリツツアル。マフ長クハ続クマヒト 聞イテヰタ。敢ヘテ甘粕サンガ先ニナリ ヤル必要ヲ良シトシナイ位ハ 自分ニモ分ル」とある。無政府主義者大杉栄が、愛人・伊藤野枝とその甥・橘宗一少年と共に、震災下のどさくさの中で憲兵隊に殺されたが、実行役でない甘粕がそのすべてを被ったことを、周蔵は当時から知っていた。事実を具さに見たからでない。「無政府主義は既に下火で、大杉のごときを、甘粕が敢えて先走りして殺る必要のないこと位、自分でも知っていた」からである。だからこそ、この暗殺は訳ありと考えて、右の書き出しとなった。

 読者諸賢にはいかがであろうか。この洞察の有無こそ、洞察史観(俗流は陰謀史観と呼ぶ)と資料史観(私は通俗史観と呼ぶ)を分けるものである。一介の不良文化人で、社会的には殺す必要なぞさらさらない大杉を、甘粕が敢えて殺したことに事件の鍵がある。結論から言えば、
大杉暗殺の真相は「上原と甘粕が共謀し、震災下のドサクサを利用し、憲兵隊を使って大杉を殺らせた」のである。その理由は、「大杉が後藤新平の依頼を受けて渡仏し、両人の秘密結社関係を調べて帰国してきた」ことに尽きる。昭和四年別紙記載によれば、伊藤野枝も、大杉の指令で青山教会に潜入してポンピドー牧師を洗っていたというから、単なる巻き添えではなく、標的であったのである。

 甘粕が全てを被ることを前提に、上原元帥→石光憲兵司令官→甘粕憲兵大尉のラインが、憲兵隊に暗殺を実行させたのが、事件の本質であった。憲兵たちが暗殺を実行している間、甘粕本人は大杉と伊藤の家捜しをしたと仄聞した周蔵は、「おそらくその時に、後藤が大杉に与えた何かの証拠を、甘粕が発見した」との推測を、昭和四年別紙記載に記している。挙世滔々無政府主義に流れんとする危険を、甘粕が捨身の一殺を以て食い止めた、などと世間が思い込んだのは、偏に通俗史観による大杉の過大評価の影響である。通俗史家だけでなく、陸軍全員が甘粕に借りを作った気分になったのは呆れるばかりであるが、それを予め読み切っていた上原には感嘆する外ない。

 十二回目は同年十月条である。「初メテ閣下二伺フ。甘粕サンハ ダフナリマスカト聞ク。“心配ナカ。四、五年ノ辛抱デアラフカ”ト云ハル。加ヘター言デアル。“ワシノ目ノ黒カ内ハ 何トデモナリモス”』。陸軍トップの上原は、世間体があるから数年の服役はやむを得ぬと言いつつ、一言を加えた。「濃がその気になれば刑期など何とでもなる」とは、直属特務たちを安心させるための言であろう。続いて
「子供モヤッタト悪ク云フガ、人ノ目二戸ハ立タン。云ヒタカ奴ハ 云ハセルシカナカ。然シ、イツノ世デモ 軍ノヤル事ハ同ジデアル。ドンナ争ヒデモ 終結スル時ニハ 細ンカ命ヲ奪フハ 決リノコトデアル」とは、少年の殺害を軍事学的に正当化した強弁である。その後したり顔で「無政府主義ハコレデ終リモッソ」と言ったが、無政府主義との攻防も強弁で、大杉に対する私怨のすり替えであるが、周蔵は当時そこまで知らない。「自分ハコノ言語デ 甘粕サンガ 誰二従ッタカヲ判断シタ。仕方ナイ。自分モ何時 何ヲシナケレバナラナイカト覚ユ」。殺害が上原の指令であると覚った周蔵は、自分もいつか上原の命令の下に何かをせざるを得ない立場を自覚し、一種の幻滅に陥ったのである。

 甘粕記録の十三回目は、同年十二月末日条にある。「甘粕サン懲役十年トノコト。閣下云ハルニ長クトモ四、五年トノコトデアッタガ 残念。恩赦デアレバ良イガ 十年ハ長イ」と上官の不遇を嘆いた周蔵は、「思ヘバ 罌粟(ケシ)ノ栽培カラ収穫、別ノモルヒネヲ作ルタメノ煎ジ、山歩キ。ソノ間二畑ヲ廣ゲ 周サンノ所 呉先生ノ所、加ヘテ外国語學校ト ヤッテヰルコトヲ 非常二馬鹿ゲテヰルヤフニ思ハル」と、止むことのない特務活動から滲み出る無常感を吐露した。任務を並べた中に薩摩治郎八偵察の一件が抜けているのは、「フランスの事なら自在」と嘯いた甘粕に任せたからだが、その甘粕がこうなってはどうにもならぬ。また、佐伯祐三支援を列挙任務のなかに加えていないのは、それが上原の直命でなく、大谷光瑞師からの依頼だったからである。

 甘粕記録の十四回目は、大正十三年正月条にある。「甘粕サン 千葉ノ刑務所トノコト。相談事アリ、面会ノ方法ヲ調ブルコト」。懲役十年の判決を受けて服役した甘粕正彦は、獄中でも、上原元帥の意思を周蔵に仲介する「中途半端ナ上官」の関係をいまだに保持しており。周蔵に面会に来いとの指令が届いた。これを受けた周蔵が、千葉刑務所に訪ねると、甘粕は元気で面会を大層喜んだ。

  十五回目は同年同月末日条で、右の面会の状況を記したものである。「甘粕サンヲ訪ヌル。元気サフデ大層喜バル。“時間ガアッタラ ヰラッシャイ”ト云ハルル。有難イ。救ハル」。獄中でも甘粕は明るく堂々としていた。「時間があれば何時でも面会に来なさい」と語りかける上官の快活な態度に周蔵は救われた。「話シハ。“佐伯ガフランスヘ行ッタカ”ト聞カル。去年十一月頭頃 行ッタト云フ」。甘粕の用件は佐伯渡仏の件で、大震災で渡仏用荷物をすっかり焼失した佐伯夫婦は、改めて調達し、十一月初めに渡仏した。一昨年の大正十年十一月末日条で、佐伯の遊学に関して段取りを整えることを請け負った甘粕が逮捕され、その後どうなったのか、周蔵には分からない。しかし逮捕の直前まで佐伯渡仏と薩摩治郎八偵察の件を進めていた甘粕は、獄中に在ってフランスからの連絡を待っていたのである。「知ラナイ人間カラ 手紙ガ来ルカモ知レナイカラ、ソノ時ハ 持ッテヰラッシャイ」とは、フランスからの連絡が周蔵宛に来るの意味で、「行ッタ人間ノ様子ニヨッテ 手紙ハ来るカラ 疑問ナクバ来ない」との説明を付け加えたが、「行ッタ人間」が、佐伯か薩摩かははっきりしない。どちらとも取れるからである。

 十六回目は大正十四年三月末日条である。甘粕入所から一年以上経つ。「二十日過ギ 小菅村二移ル前二 幡ケ谷二戻り 朝一番デ千葉二訪ヌル。甘粕サン 元気サフダ。相変ラズ色白ノ 鉄ブチノ眼鏡ハ同ジデアルガ 以前ノ鼻ノ下ノ短イ髭ハ 剃ラレテヰルシ 丸坊主デアルカラ若ク見ヘル。兵學校ノ學生ノヤフダト云フト ソノツモリデ ヰマセフト云ハル」。一年前に甘粕が言っていた手紙が、やっと周蔵に届いたので、それを持参して面会しに行った。手紙は暗号によるもので、甘粕に見せたら解読法を教えてくれ、解読そのものは宿題にされた。帰途、甘粕の指令通り、憲兵隊に立ち寄って手紙を見せたところ、押印してくれた。
つまり治郎八内偵は、憲兵隊も関与していた。

  以下に解読方法の一端を記す。フランスからの手紙(現在私・落合の手元にあるが)は、幡ケ谷九六番地の周蔵自宅宛である。「私宅宛で地番を書くのは差出人が公的人物でないとの意味」で、もしこれが「中野救命院宛ならば、公的人物を意味する」と解読する。「地番無し」は「不安定・判らない」ことを示唆する。「署名ネクルハ 武田内蔵丞ノ同意語?」とは周蔵の推察で、武田は大正五年に周蔵が欧州に渡った際の借名だから、それと同じことで、差出人がネクルの名を借用したと察したわけである。手紙には便箋と名刺が入っていた。
「名刺ハ台紙ツキニテ 張リツケテアル」が「台ツキ」に意味があり、「台紙ガ名刺ヨリ大分大キイ。台紙ノ裏、上ノ方二説明ガアル」のは、「親方命令者ノ意」で、「自分ハ同ヂ命令下ノ人間デアルノ意」と解する。「名刺ノ名前ハ本名 所番地ハオソラク正シイ」が、これは「連絡ヲクレト云フ意」と解読するのである。以下は略する。

 名刺は手書きで、Foujita 17rue Henrl Martin Passy 16e とあり、その下に、Auteuil 16-29とある。差出人は紛れもなく画家・藤田嗣治で、「親方命令者」が上原で、「自分ハ同ヂ命令下ノ人間デアル」ことを連絡してきたもので、台紙に描かれた禿げ頭の漫画が、明らかに上原元帥を指している。便箋はドクター・ネクルと署名し、内容はドイツ文であるが、わざわざ独語を使うにも意味がある。「学生級ノ覚束ナイ独語→外国人相手デアリ、言葉ハ通ヂルガ 重要視サレテヰナイ。ツマリ 利用サレテヰル」と解読する。内容については「自分ハドクターデアルヨ→観察ハ怠ラナイヨ」「佐伯ナル人物二会ッタヨ→目的ノ人間ノコト 観察シテルヨ」「病気デアルガ軽イ→ソチラノ考へ通リデアルガ マダ序ノ口」との意味で、要するにこれは、ネクル医師が佐伯を診察したと装って、藤田が薩摩治郎八の動静を報告してきた暗号手紙であった。

 七回目の甘粕記録は同年三月末日条で、「例ノ宿題ハ百点ヲ取ル」とある。暗号文解読の宿題を終えた周蔵は、甘粕に見せるため千葉刑務所に行った。「ソノ場デ 追ッテ来タ 次ノモ開ク。ヤッテミナサイト云ハル。三十分ハ掛ッタト思フ。然シ満点ヲ貰フ。コレデ コノ問題ハ自分デヤルヤフニ云ハル」。宿題で百点を貰った周蔵は、持参した二回目の手紙を甘粕の面前で開封した。やってみよと言われて三十分以上掛かって解読したところ、満点をくれたが、今後は自分でやるようにと指示された。当時の監獄で、囚人の面会時間がどの程度まで許されたのか未詳だが、甘粕に対する千葉刑務所の処遇は並外れて寛大なように思える。すべて背後の陸軍と憲兵隊に対する遠慮であろう。「先ノ人間ノコト 聞キタイガ 問ハズ。トニカク質問ハ シナイコトダ」とあるのは、周蔵は差出人・藤田嗣治に強い興味を抱いたものの、甘粕に尋ねることを我慢したのである。『周蔵手記』には、この他に、解読例を二通ばかり記すが、詳細は省略する。その中に、薩摩が帰国するとの内容がある。

 同じく三月末日条の続き。「閣下ヲ訪ヌルト 七月カ八月二昇進スルラシイ軍人ノ 内定ノ前祝ヲシテヰタ(中略)。甘粕ノ所二行キモシタカ ト云ハル。正直二云フ。気折レシタ気持ガ 立チ直ルト云フ。迷フコトデモアルノカ ト聞カル(後略)」。上原邸に行くと、部下の軍人の進級祝賀会をしていた。上原から、甘粕に面会に行ったかと聞かれた周蔵は、甘粕さんは獄中でも気迫に満ちており、自分の萎えかけた気分が引き締まる、と正直に言った。

 甘粕が意気盛んだったのは、安心感が高まったからであろう。何しろ、上原と甘粕のトリックに、世間がまんまと嵌まり、大杉暗殺の真相を誤解してくれたので、自分たちの秘密結社関係がバレないとの確信がしだいに固まってきたのである。通俗史観に立つ巷間の甘粕伝奇が、獄中の甘粕の意気消沈の様子を、さも見たかのように語るのは、洞察に欠けるというしかない。彼らは、甘粕の『獄中に於ける予の感想』に騙されながら、翻って世間を騙していることになる。

 ●疑史(第57回) 甘粕正彦の暗号解読 <了>。
                
 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)-2  ◆落合莞爾  
 
 ★杉山茂丸、堀川辰吉郎へと繋がる大江山衆・出口清吉  

 王文泰こと出口清吉のその後は、出口和明が『出口王仁三郎入蒙秘話』に述べるが、会員制情報誌『みち』に平成二十年九月一日号から連載する栗原茂の「大江山系霊媒衆」が、背景を詳細に解説している。甚だ難解な内容だが、これほどの超深度にまで達しないと、歴史の闇は見透かせない。超深度と呼ぶのは、王仁二郎曾孫の出口和明でさえ知らない事実を述べるからであるが、表現が晦渋なのは、真相の全面公開を憚って当座は黙示の形にしたものと思う。

 その中の一節を抄出してみる。「出口ナヲの次男・清吉は、並みいる〔草〕と異なり、少年期に表芸から裏芸まで、徹底して仕込まれていく資質を持ち合わせることから、杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していたのだ」。これは「清吉が少年期に、諜者としての表芸と裏芸の徹底的な習練を受けていた」との意味である。出□和明が一族と周辺の伝承を拾って理解した処とは全然異なるが、それこそ真相の深さを示唆しているのである。続けて「さて史家としては、出口の氏姓鑑識が必須の心得であり、大本教を論ずるには、何故に霊媒衆を出口姓としたのか、また王仁三郎(上田鬼三郎)を養子とした背景にどんな企みが潜んでいたのか、などの問題とともに、最大の課題は大江山系シャーマニズムを解く能力が問われよう」と言う。つまり、清吉を生んだ出口家の氏姓を解いて初めてすべてが分かると説くわけで、「ナヲの出た綾部出口家も、王仁三郎の出た穴太上田家も、共に大江山系シャーマニズムの霊媒家系」たる事の意味を強調するのである。さりながら、スサノヲ信仰の大江山系は霊媒系としては亜流であって、本流は役行者・小角の流れを汲む修験道であると栗原はいう。

 右(上)に抄出した一節「杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していた」との指摘は重大で、堀川-杉山の行状が日本近代史の底流を規定することを意味するが、一般には理解の外だろう。諸賢の中には、杉山茂丸はともかく堀川辰吉郎の名を出すだけで、眉を曇らし目を背ける向きも在ろうかと思う。歴史感覚が学校歴史の延長上から抜け出ぬ以上、詮ないことだが、そろそろ気づいて貰いたいものである。本稿はこれまで繰り返し、杉山の実像を追ってきたが、杉山の根底が堀川辰古郎に繋がっていることを、今後は明らかにしていきたい。因みに、東条英機と陸士の同期(新制十七期)で陸軍少将に昇った古野縫之助の子息に、古野直也という作家がおられる。この方から私(落合)が幾つか教わった中に、堀川辰吉郎の後妻になった叔母の話として「堀川の銀行口座の残高は常に二百万円で、その月に引き出したのと同じ金額が、月末に何処かから振り込まれ、残高は常に二百万円を維持していたが、昭和四十一年十二月に堀川が亡くなると実行されなくなり、未亡人が問い合わせた処、「あれはもう終わりました」と言われた。相手は日本銀行総裁・宇佐美洵と伺ったが、疑う余地の少ない話で、堀川辰吉郎が只者でないことはこれだけでも察しが付くであろう。

 出口清吉が「並みいる草とは異なり、少年期に表芸から裏芸まで徹底的に仕込まれた」のは、個人的資質もさることながら、出自の大江山霊媒衆が杉山茂丸-堀川辰吉郎ラインに繋がっていたからである。前掲の栗原「大江山霊媒衆第十二回」に拠れば辰吉郎は嘉仁親王(大正天皇)御降誕の翌年すなわち明治十三年に京都堀川御所に降誕した貴公子という。京都行幸の折に使用さるべく造営された堀川御所で生まれ、そこで幼少期を過ごしたと知れば、辰吉郎が姓を堀川と称した次第も理解できよう。その御血統については、辰吉郎が孝明天皇および岩倉具視と深い関係にある、とだけ申し上げておく。後は栗原氏独自の晦渋な解説から、読者が想像力と推理を尽くして真相を汲み取るべき段階であろう。

 ★軍事スパイ・日野強の☆『伊犂(イリ)紀行』を読み解く

 出□清吉と陰で協働した陸軍軍人が日野強である。慶応元年旧十二月(新暦一八六六年一月)に伊予国小松町に生まれた日野は、県立師範学校から陸軍教導団に入り、陸軍士官学校に進み、旧制士官生徒第十一期生となる。同期には菊池慎之助(教育総監)、奈良武次(侍従武官長・男爵)の両大将のほか、関東都督府参謀長・西川虎次郎中将、初代奉天特務機関長・高山公通中将など、満洲に縁の深い将官が多い。軍事スパイとして有名な石光真清も同期生徒二百七名の内だが、日野の文にも石光の手記にも、互いの名を見ないように思う(未確認)。十一期士官生徒は、明治二十二(1899)年七月二十六日に卒業し、同日付で陸軍歩兵少尉に任官した。石光は即日近衛歩兵第二連隊付少尉に補せられたが、日野のついては「それから三年間ほどはどこに居たのか明らかでない」と日野の労作『伊犂(イリ)紀行』末尾に付した東京外語大教授(当時)・岡田光弘の解説は言う。岡田によれば、「防衛庁防衛研修所戦史室が親切に調べてくれた履歴」にも出て来ないのだから、そこには或いは特殊事情が存在するのかも知れぬ。大尉・中隊長までの日野の軍歴は省略するが、特務活動の始まりは明治三十五年七月一日参謀本部出仕として満韓国境に派遣された時で、義州方面を根拠にして清人スパイを使役して諜報任務を果たした。三十七年二月の日露開戦後は、黒木第一軍に属して通常の任務に服し、十二月十四日付で少佐進級、歩兵第三十連隊隊長になった。前述の橋口勇馬が開戦直前に渡満して諜報活動に就き、開戦後にも辺見勇彦ら馬賊を指揮していたのとはやや異なる。

 日野少佐が三十九年七月一日付で参謀本部附となった理由は、『伊犂紀行』の第一頁に「明治三十九年七月下旬、予はその筋より新彊視察の内命を受けたり」と記す通り、中央アジア偵察のためである。「その筋」を岡田は、「もちろん、これは参謀本部の命令であった」と解説するが、およそ軍人は指揮命令系統の中で活動するのが当然であり、参謀本部の命令を「その筋」などと持って回る必要はない。わざわざ「その筋」と言ったのは、外部からの要請を受けた参謀本部の内命と観るべきである。ともあれ、九月七日東京を発った日野は、二十日に北京に着いて準備を整え、十月十三日に北京を出発、四百七十四日に及ぶ大旅行を遂げ、四十年十二月二十五日に帰京復命した。翌年、明治天皇から召されて御前講演の栄に浴したことが、「その筋」の那辺なりしかを物語っていよう。

 その後の日野は、四十二年六月中佐に進級し、近衛歩兵第二連隊附となったが、四十五年三月袁世凱が中華民国臨時大総統に就任するや、六
月八日付で「陜西省方面二到り諜報活動二勤務シ、特二該方面二於ケル共和政反対党ノ動静ヲ偵知スルヲ勉ムヘシ」との命令を受けて、陜西省巡撫升充ら宗社党の動向を偵察した。大正二年に帰朝した日野は、間もなく大佐に進級して予備役編入、以後は山東省青島を住まいとし缶詰業や煉瓦工場を営んだが、『東亜先覚志士記伝』に「支那問題に関する志は依然として盛んで、一方には宗社党の士と往来し、一方には革命の志士と交わり」とあるのを見れば、いまだ全く国事を辞めてはいない。八年ころ既に健康を害した日野は、「そのころから大本教の教旨に共鳴し、青島における事業をなげうって丹波綾部に帰住し、大本教の幹部としてさらに新生涯に入ったのであったが、大正九年綾部において長逝した」(前掲)とある。しかし栗原「大江山霊媒衆・第一回」によれば、これは陸軍が出口玉仁三郎の入蒙を先導するため、満蒙事情に通じた日野を綾部の大本本部に送り込んだもので、真の目的は、王仁三郎とまだ見ぬ義兄・出口清吉との邂逅を実現するためであった。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)  <了>。 

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 ☆『伊犂紀行』の紹介を少々。
 
 同書、上巻<日誌の部>は上の通り、明治40年12月25日の「帰京復命す。」

 で終わるが、その前日24日の記は、以下の通り。

 「神戸着。先着の安藤君来り迎う。午食を共にし、鉄路京都を経、
  西本願寺に大谷(光瑞)伯を訪い、長安における謝意を述ぶ。」

 その長安での「大谷伯との邂逅」(明治39年10月28日)は、次のようであった。(一部略)

 「予(日野)の陜州に着するや、たまたま本派本願寺大法主・大谷光瑞伯、同尊由師の一行(略)が布教かつ歴史研究のため、西安すなわち長安に向うに邂逅し、その後同地に到るまで相前後せり。・・・略・・・(大谷光瑞伯は日野に対し「多大の同情を寄せら」れ、また光瑞自身のカラコルム探検の体験談話、その経験からの携行品についての注意は日野にはありがたかった。)・・・
 この邂逅は、空谷の跫音を聞くが如く、予は痛く伯の懇切に感激せり。伯の好意は、これに止まらず、カシガル駐在の英国貿易事務官・マカートニ氏を初め、英領印度における紳士への紹介状を与えられ、かつ写真器械一組、時計一個をも貸与せられたり。特に記してここに伯の好意を謝す。」

 また、同書刊行時の<序>には、

 「明治四十二年四月 陸軍大将伯爵 奥保鞏(おく やすかた) 撰」とある。 

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に拠れば、

 ・・・奥は佐幕藩(豊前小倉藩)出身であり、しかも長州藩と直接戦火を交えた小倉藩士でありながら、陸軍内で異例の抜擢を受け続けた。これはひとえに奥自身の指揮統帥能力及び古武士に例えられる謙虚な性格によるものである。

 日露戦争において、軍司令官や参謀長人事は薩長出身者がほとんど独占したが、「奥だけは外せまい」というのが陸軍部内の一致した見方であった。4人の軍司令官のうち、参謀なしで作戦計画を立てられるのは、奥だけだった。奥は実は耳が不自由で、司令部では幕僚と筆談でコミュニケーションをとったとのことだが、奥の能力に影響を及ぼすことはなかったらしい。・・・

 とあるが、

 ・・・幕末は幕府側に立つ主家に従い、長州征伐に参加。明治維新後、陸軍に入営。

 明治4年(1871年)に陸軍大尉心得となり、以後佐賀の乱の平定、台湾出兵、神風連の乱の平定に参加。

 明治10年(1877年)の西南の役では陸軍少佐として熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となり、2月21日からの熊本城籠城戦に参加。4月8日未明、歩兵1個大隊を率いて薩摩軍の包囲を突破し、薩摩軍の後方に上陸した政府軍(衝背軍)との連絡に成功した。・・・

 という複雑な履歴もある。



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)-1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)  ◆落合莞爾
 
 ★辺見勇彦、牧口辺見、出口清吉、日野強 大陸で暗躍する「草」たち
                      
 ★馬賊「東亜義軍」を率い大陸を疾駆した辺見勇彦

 前月号で触れた明治三十三年八月十三日付の『京都日出新聞』の記事中、従軍記者の話に「軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人いる」とあるのは辺見勇彦であろう。辺見勇彦の父・辺見十郎太★(嘉永二年~明治十年)は、西郷隆盛・大久保利通・高島鞆之助らと同じく鹿児島城下で下級武士の住んだ三方限に生まれた。十郎太は性剽悍で、戊辰役では十八歳で小隊長となり、戦功を挙げて 名を馳せた。四尺四寸の大刀を自在に揮い、身長六尺、顎髭は悉く赤かったとなれば、他の薩摩功臣と同じくポルトガル鉄砲鍛冶が混じった血筋で、日本版マカイエンサと見て良い。私淑する大西郷に従って上京した十郎太は、四年七月御親兵に応じて初任大尉、六年に職務上の失敗で免官された後、帰郷する西郷に伴して鹿児島に戻る。

 ★ブロガー註:辺見十郎太については、昔こんなエピソードを読んだ。

 『明治の群像3』-明治の内乱 谷川健一編 三一書房 1968年刊 

 コラム・15(p209)<辺見十郎太とひえもん取り>というもので、以下のようにあった。

 作家の里見氏が〔ひえもん取り〕のことを書いておられる。お父さんが薩摩藩士であったから聞かれたのであろう。これは藩の重罪人を近郊の境瀬戸の刑場で処刑するときに屈強の若侍達が近くに居て、処刑されると罪人のところに飛んで行って耳、鼻などにかじりついて試し斬りの順番を得るのである。似たようなことを学生時代に西郷隆盛以下を祀る南洲神社の例祭の折、(九月廿四日の城山落城の日)、薩軍生残りの古老から聞いた。それによると辺見さんは薩軍随一の豪傑で、味方が退却すると逃げないように斬り殺したといわれているが、実際はそれより乱暴だった。逃げたものを斬っただけでなくその生き肝を私等部下に食べさせて、お前達も逃げるとこのようになるぞといわれたのにはびっくりしたものだ。辺見さんはそのような気性のはげしい人であったとその従軍した古老は語ったという。ある友人から聞いた辺見十郎太の一面である。

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 この機会に次のコラムも紹介しておこう。

 17 大山綱良と遺書

 鹿児島県令大山綱良は長崎裁判所に送られ、城山落城の数日後の九月三十日処刑された。この大山が獄の誰かの便で家族に送った小さな字で言いた紙片を大きな紙にはりつけてあるのが遺言である。

 「墓所 右松原神社境内エ御建立給わるべし。但し世の治て後然るべし。
 沖ノ村屋敷小クラ建立ノ事大松の下へ」

 この大松の下に墓碑の図を描いているが、この松には蝉も止っている。死を前にして落着いた心境であろう。
 「老体の姉三人これあり候間藤安よリ受取の内にてもお郡合を以て金二百円宛直に御渡形見に御送り下さるべし。」

 年老いた姉達を大事にする考えが形見わけのことを遺言している。
 「五十年来、世に生れ生涯苦心の身終にかかる身に終り候儀数度の戦場怨霊の報いと何れも御明らめなさるべく候、只々死に近き遺言を差送り候也」

 大山のような剛胆な大物であってもこのようになったのは数度の戦場で殺した怨霊の報いと考えているようである。これは人斬り半次郎といわれた中村半次郎が夜怨霊にうなされていたというのと一脈通ずるものがあるようだ。
 (鹿児島市立美術館長・坂元盛愛氏御教示による)

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 その〔人斬り半次郎〕桐野についても。

 14 桐野利秋の「京在日記」

 これまで「教養がひくい」「自分の名がやっと』書けるほどの あきめくらであったと」いわれる桐野利秋の曰記が上の写真で ある。字もたしかであるし、曰記中に和歌や漢詩なども、もの しているのである。また彼の画いた絵もあるが、多趣味な人物 であったようだ。幕末期の武士、明治の軍人としては普通以下 の教養ではないと思う。また曰記は慶応三年の九月朔日から十二月十曰までの約百曰間のものであるが内容も興味深い。信州上田藩士赤松小三郎は薩藩に招かれ英式兵学を教えていたが、
 慶応三年九月三日京都において暗殺されたが、一説に薩藩士の 手に掛るという(『鹿児島県史』)とあるが「京在曰記」の九月 三曰の条に[上田藩赤松小三郎此者洋学を治候者にて去春よリ 御屋敷に御頼に相成り・・・今度帰国之暇申出候に付段々探索方 に及候処弥幕奸の由分明にて」とあり、途中行き会ったので田代氏と追い掛けて遂に天誅を加えている。この曰記で桐野がはっきり暗殺したことがわかる。人斬り半次郎と呼ばれる通りである。日記には彼と連絡のあった人名が多く出てくるが、十一月十曰土州の坂本竜馬に行き逢っている。十八曰にはその坂本が暗殺されたことを聞いて墓参に駈けつけているなど、時期が慶応三年の大政奉還、王政復古の大号令の直前であるだけに興味深い。

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 寄り道はこの辺にして、吉薗周蔵の手記(29) に戻って、 続ける。                   


 辺見勇彦はその(十郎太)の長男で西南役の最中に生まれた。昭和六年刊の自著『辺見勇彦馬賊奮闘史』に身上の記述があるらしいが、目下未読のため、以下は推察を以て進め、後日必要に応じて補正したい。勇彦は陸士の入試に落ちて軍人を諦め、日清戦役末期に満洲に渡ったというが、明治十年生まれの年代は陸士新制(士官候補)九期に該当し、荒木貞夫・真崎甚三郎・本庄繁・阿部信行ら大将六人を輩出した当たり年である。幼年学校ならば二十六年に入校、中学年ならば二十八年八月の陸士入試に合格せねばならぬ。日清戦争は二十八年四月に講和したが、その後に台湾土匪の平定が本格化したから、台湾副総督・高島鞆之助が匪賊掃討を終えて帰国した二十八年十二月を以て実質的な終戦と見ることもできる。これからすると、辺見勇彦は二十八年八月の陸士入試に失敗して、間もなく満洲に渡ったものであろう。

 高島鞆之助の腹心宇都宮太郎(後に陸軍大将)が遺した『宇都宮太郎日記』の明治四三年二月二十八日条に、「満州長春にて実業に従事せる辺見勇彦来衙(元と高島中将の書生たりしことあり。二十七・八年戦役には馬賊を率て功あり。目下は長春に賭場を開き成功、何か御用に立ちたしとの申出なり)」との記載がある。高島鞆之助は二十五年陸相を辞任して以来、枢密顧問官の閑職に在った。実際は薩摩ワンワールドの総長に就いたがそれは世間極秘であった。ところが、二十八年八月二十一日に突如現役中将に復帰し、台湾副総督に補せられて渡台する。高島はそれまで勇彦を書
生に置いて受験準備をさせていたが、八月の入試に勇彦は落ちた。勇彦が高島の後に上原勇作の書生になったというのも、高島が台湾赴任にあたり勇彦の身柄を腹心上原中佐に預けたのであろう。日清戦役で第一軍参謀副長を務めた上原は二十八年五月に凱旋、その後休養の体であったが、二十九年二月から伏見宮貞愛親王のロシア皇帝戴冠式参列に随行し、八月まで渡欧した。ともかく勇彦は、二十八、九年ころに上原の書生を辞めて渡満したものらしい。

 陸士不合格で軍人嫌いになった勇彦は、満蒙を放浪して地誌・地要を極め、緑林(馬賊)に混じって頭目となった。正規軍人の志を捨てた勇彦に馬賊の道を勧めたのは、高島か上原と見て良い。彼らは、対露戦争の際は満蒙における後方撹乱が必要で、それには馬賊の活用が必須と考えていたからである。因みに、インターネットで検索した処、北海道某学校の舎監日記に、「明治三十二単一月十四日、辺見勇彦(鹿児島の人 土木科一年入舎」と出ているようだが、これは、勇彦が諜者の表看板として土木技師の肩書を取るために、一時的に籍を置いたものであろう。因みに、熊本高等工業の受験を放棄した吉薗周蔵も、陸軍大臣・上原勇作の命令で大正九年から東亜鉄道学校土木科に形だけ籍を置いたが、目的は、土木技師だと外国に入国する理由が立つからである。明治二十八年当時の辺見勇彦と大正元年の吉薗周蔵の立場は、良く似ている。

 近衛上等兵・出口清吉は二十八年夏、入院中の台湾病院を秘かに抜け出し、或いは帰国の船上で包帯で巻かれて水葬されたと伝えられたが、五年後の満洲で北清事変の功労者として、〔元気の良いチャン〕王文泰として『京都日出新聞』の従軍記者の前に現れた。清吉は満洲に渡り、身を緑林に投じた五年間に馬賊仲間の信頼を得たのである。清吉が台湾征討軍を抜けたのは、台湾征討軍司令官・高島鞆之助の指示と見るべきであろう。前掲『京都日出新聞』の記事中、「軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人」とは辺見勇彦と見る以外にない。勇彦と清吉は同じ頃に、高島の筋により特務の道に入ったものと考えられる。

 日露戦争に際し、辺見勇彦は江崙波の名で馬賊集団「東亜義軍」を率いてロシア軍を悩ますが、正式身分は陸軍軍属で、橋口勇馬の指揮下にあった。宇都宮太郎の親友で共に高島の腹心を自任した橋口少佐は三十七年一月清国差遣(諜報)、三十七年二月兼大本営附仰附、七月満洲軍総司令部附、三十八年三月中佐進級、十一月に参謀本部附となる。二月の日露開戦の直前から満洲に渡り、諜報活動に当たって馬賊を指揮していたが、当時の出口清吉は、辺見勇彦と同様馬賊の頭目となり、王文泰ないし別名で橋口少佐の下で活動したのであろう。その馬賊仲間の一人が張作霖だった。 


 ★吉薗周蔵を「親方」とした牧口辺見なる人物の正体

 大正八年十月、上原勇作参謀総長から大連阿片事件の調査を命じられた吉薗周蔵は、知人・布施一の紹介で、辺見と名乗る男を調査員として雇った。

 その男は明治四年、越後国刈羽郡荒浜で倭族(海女)の渡辺ヰネの双子として生まれた。後に創価学会を創った牧口常三郎の双子の兄に当たり、本姓は牧口で、元は山梨で教師をしていたが、辺見勇彦を名乗る友人と土佐で知り合い、日常の交りのうちに薩摩弁を覚えた。ついでに姓も借りた理由は、本名は名乗りたくないのでと弁明したが、特務同士の姓名貸借は通常のことである。吉薗周蔵も、最初の渡欧では久原鉱業土木技師・武田内蔵丞を名乗り、二度目は煙草小売商・小山建一の名を借りるが、一方では吉薗収蔵の名前で誰かが特務活動をしていたわけである。

 布施の説明では、姓は辺見を名乗るが名は分からぬとのことなので、以下では一応「牧口辺見」と呼ぶことにする。周蔵が上原参謀総長に、大連阿片事情の調査は牧口辺見に頼むことにしたいと申告すると、上原が「コノ船二乗セタラ良カ」と世話してくれたのが、大谷光瑞の自家用船であった。船名の「寺丸」はいかにも滑稽と思った周蔵だが、後年牧口辺見から船内に「沈ムデモ南無阿弥陀仏」と者いてあったと聞いて、大いに呆れた。牧口辺見は、阿片の大物運び屋の元樺太長官・平岡定太郎(平岡公威=三島由紀夫の祖父)を追い詰め、大正八年十二月三十一日に満鉄列車内で地元警察に逮捕させたが、相手は何しろ元内務省高官で、すぐに釈放されてしまう。九年五月に上原から満洲出張を命ぜられた周蔵は、「大連(の牧口辺見)が心配だから、ついでに様子を見てくる」と申告した処、上原から「その男は信用できるか?」と念を押された。五月六日に東京を発った周蔵は、上原の手配で、途中五日ほど大連の大谷別邸に滞在する。その際に牧口辺見に会ったものとも思えるが、記録は見つからない。

 一年後の大正元年十月、帰国した牧口辺見は直ちに周蔵に報告に来た。それを四十三枚の聴書にして、上原に提出した処、「これで満足」と褒められ、報奨金を下さることになった(聴書は後年松本清張が小説『神々の乱心』のネタにした)。周蔵は、本人の要求額二千五百円を上原から直接受け取らせようとしたが、本人は上原に会いたがらず、「俺のような人間は、これ以上に上がってはいかんのだ。こうしておれは金になる話は幾らでも掴むから、金にすることは幾らでもできるが、それはやってはいかんのだ」と言い、「平岡の出自は俺と同じさ。そこで平岡を脅かせば、そこそこ金は出すが、それをやっては癖になるから、困った時はすぐやろうと思うようになる。そうなると、俺は悪戻りする事になっちまうから」との説明に、牧口辺見を礼儀正しいと見た周蔵は、今後も使うことにする。

 五月時点では半信半疑だった上原も、今は「ソン男デ良カガ、ウマフヤレ」とすっかり信頼した様子、と周蔵は記している。思うに、かつて辺見勇彦を書生としその後も橋口勇馬の下で「草」として使った上原が、その同県の牧□辺見を知らぬ筈はないのではないか。尤も、牧口辺見は正式軍属でなく、周蔵と同じような独立特務だから、上原の念頭になかったのかも知れぬ。後年のことだが、牧口辺見は「うちらの種は、頭は一人と決まってるんですわ,あの時、言い値の二千五百円をポンと出して下さったあんたが今でもワシの親方や」と明言したが、以後も周蔵を親方と呼び、満洲で椎名悦三郎に雇われながらも、その周辺の事情を時々周蔵に報告してきた。仄聞するところ、辺見勇彦と牧□辺見の接点は、土佐に在った諜者習練所(*前出)らしいが、出口清吉も幼少時代にそこで修業したというから、三人はいわば同窓生である。

  続く。    
 


 ●疑史(第56回) 甘粕と大杉事件の真相 
 ●疑史(第56回) 甘粕と大杉事件の真相 

 元帥・上原勇作は類まれな謀略家であった。それは生来の性格に加えて、叔母・吉薗ギンヅルに鍛えられ、更に砲兵少尉として留学したフランスでワンワールド結社に入会して以来、身に染み込んだ性癖であった。吉薗周蔵は上原を「頭脳回路は抜群」と讃えつつも、「何事も斜め斜めにあてがう」と評して、その性癖に潜在する危険を指摘している。

 上原は参謀総長に就き、陸軍を統帥しながらも、なお憲兵隊を個人的に支配して特高警察の情報に目を光らせる必要を感じ、大正七年六月股肱の石光真臣中将を憲兵司令官に就け、翌月甘粕正彦の憲兵科転科を命じたものと推察される。甘粕の憲兵転科に関しては、脚部を怪我した甘粕が国家奉公の観念から歩兵科を去るに忍びず、陸士時代の指導教官だった東条英機に相談したところ「憲兵も軍人だ」と励まされて転科した逸話を、巷間の甘粕伝奇はさも重大事のように繰り返すが、これは本人が喧伝した一種の作り話で、東条も片棒を担いだのかも知れぬ。何しろ怪我の原因についても家族の中で言を異にしており、誰も実状を知らないことが分かる。

 上原と甘粕の関係の原点が何処に在ったかは、右(上)の作り話とは比較にもならぬ重要点で、近来仄聞した大谷光瑞紹介説は、確証はないが甚だ肯綮に当たる。浄土真宗の法主ながら国事を旨とした光瑞師は上原勇作とは殊に睨懇で、大正時代の重要国事は両人で遂行した感さえ抱くが、光瑞師の国事癖は宗教ワンワールドの本山イエズス会に倣ったものかも知れぬ。

 大正九年夏、光徳寺の次男で西本願寺の「草」になった佐伯祐三に一流画家の表看板を立てるため、東京美術学校に入学させる工作を光瑞師が相談した相手も上原であった。上原が周蔵に美校工作を命じたのは、美校が薩摩海軍の縄張りであることから、美校を左右する山本権兵衛に太いルートを持つ周蔵を使ったのである。周蔵は後日光瑞師本人からそのことを関いて合点がいったが、かかる人事の機微を上原参謀総長が光瑞師に洩らしたこと自体、両人の密接な間柄の証左と観るべきであろう。

 大正九年三月二十九日、知り合ったばかりの憲兵中尉・甘粕正彦から伊達順之助の身柄隠匿を頼まれた周蔵は、手配を完了してから上原の私邸を訪れた。本件に関する意向を窺うためだが、上原が神戸の労働争議で気分消沈なのを見て、知人・徳田球一が社会運動家として一歩踏み出したことを実感し、また上原が「宇垣が小意地の悪い男でねえ」とこぼすので、「(陸軍の)内部もめが激しいようだ。政友会のことなど色々あるようだ」との観察を、『周蔵手記』に記した。

 大正七年九月本邦初の政党内閣が成立し、首相に就いた政友会総裁・原敬は元老・山県元帥に急接近、山県もまた原を支援した。明治末年の陸軍改革運動で上原を担いだ田中義一は、陸相に就いて軍政を総覧し、軍令系統のトップ上原と並んだ。田中の弟分宇垣一成は、八年七月に中将に進級、参謀本部総務部長から陸大校長に転じていた。時に最大の政治課題は普通選挙で、普選法案を審議中の衆議院が九年二月突然解散するが、そのような政局に上原がどう関わったのか未詳である。しかし上原にとっては、政局よりも同年三月十二日から十四日にかけて生じた尼港事件がむしろ心痛の種ではなかったか。わが副領事を初め、守備隊将兵三百三十余名、海軍将兵四十余名、居留民約三百五十名が赤軍過激派により悉く惨殺された重大事件は、六月九日の外務省公報まで公開されず、周蔵も、尼港事件を知らないままに右の感想を記したものと想像される。

  上原から時折顔を出すようにと言われていた周蔵が、四月二十一日に訪ねると、満洲出張命令が待っていた。以前上原に紹介された貴志彌次郎が、来月開設の奉天特務機関長に就くが、そこに届ける物があり、又貴志少将も何かと民間の手を必要としているから、是非行って欲しいと頼まれたのである。五月四日に届け物(張作霖への親書)を預かった周蔵は、満洲では石光真清に会いたいと希望して許可され、帰途東京憲兵隊に寄って甘粕に石光の居所を聞く。翌日昼過ぎ、石光が内蒙古の錦州に居ることを甘粕が知らせにきた。これが『周蔵手記』の記載に甘粕が出てくる三回目である。

 四回目は、周蔵が満洲から帰還した後の九月十日条である。
「巻サンニ甘粕サンノコト聞ク。大丈夫ト云ハレ安心ス。近イ内 會ハレタラト云ハル」とあり、甘粕から頼まれた伊達順之助の世話を、巻がずっとしていたことが窺える(『日本陸海軍の制度・組織・人事』には、甘粕中尉は憲兵隊副官から八月に東京憲兵分隊長に転任とある)。

 五回目は十月二十四日条で、夜に甘粕に会うと「前ニ云ッタ尾行ノコト、詳シク聞キタイ」と言われた。徳田球一と佐伯祐三のことと思い、一応現状を話すと、甘粕は「誰カラノ何ノ目的デ 佐伯ハ来テヰルト思ハルルカ」と問うた。
周蔵は、「ハヂメハ 自分ノ観察ノタメカ ト思ッタガ、ツマリ熊谷(守一)サンノ推察通リカト思ッタガ、今ハ還ッタコトヲ考ヘテヰル。自分ノ建前ヲ保全スルタメニ 閣下ガ作ラレタ道カモ知レント思フ」と答えた処、甘粕は「分ッテヰルヂャナイデスカ」とからかう口ぶりになった。
「佐伯ナル人物ハ結局 芝居小屋ノ役者トシテ必要ナノデスヨ。貴方ガ罌粟(ケシ)ヲ廣ゲルノニ 目立タナイ為ニデス。現在罌粟ハ 大阪ノ三島辺デ大量二作ッテヰマスガ、焼石二水デスシ 有ッテ無イガ如シナノデス。然シ 政府ガ表立ッテ奨励スル訳ニハ イカンノデスヨ」と、周蔵の任務の背景を分かりやすく説明してくれた上、「マサカ 軍ガソレヲヤッテイク訳ニハイカナイカラ 貴方ガ廣ゲテヰルコトハ 重要ナコトデスヨ」と励ましてくれた。

 二人は、明日伊達順之助の隠れている弁天町で会うことを約して別れる。甘粕の話で、罌粟栽培についても佐伯についても任務の意義を知った周蔵は、心身共に余裕を感じた。翌日上原を訪ね、奉天で会った張作霖の話をしながら土産の汝窯壷を進上し、今後は外国秘密結社の悪影響が懸念される薩摩治郎八を偵察したいと申告し、諒承を得た。

六回目の九年十月二十五日条は、伊達を匿った牛込弁天町のアジトで、その夜甘粕と三人で会った時の様子を記す。驚いたことに昼間の事をもう耳にしていた甘粕は、薩摩の調査を応援すると言いながら、「実は」と手帳を広げて見せ、「一応、要人物ノ名前ニハ 上ゲテヰタ」と言って周蔵を驚かせた。


 その後に「★甘粕サンハ閣下ト同ヂク フランス留学ヲサレテヰルヤフダ。何事ニモ心強イ。自分トシテハ 石光サンノ教へ随分役二立ッタガ 何セ遠イ支那ニヲラレル。何ヲ教ハルニモ遠過ギルガ、甘粕サンハ心強イ」と記したのは、甘粕本人からフランス留学の事を聞いたからで、
秘密留学の証拠は正にこれである。

 六回目(ママ)は『周蔵手記』別紙記載の「上高田日誌」大正十年三月条で、王希天・呉達閣の言として、「ポンピドー牧師が帰国の際に。“甘カツ”とかいう軍人を伴った」とある。ポンピドーは九年八月に帰国したが、王・呉の言は、それ以前の帰国に際し姪・ジルベールと甘粕中尉を同伴したことを指したもので、時期は大正七年の甘粕の温泉療養時と見られる。渡仏の目的も留学ではなく、ポンピドーが甘粕をワンワールドに入会させるためと見るべきである。

 七回目(ママ)は同年十二月頭条で、甘粕と会った周蔵は、伊達が富坂町あたり警察署に暫く拘置された上で放免になると聞く。山県暗殺計画は結局、華族子弟の遊び話として片づけられたが、これで山県の威信が完全に崩壊したのは、上原の策が当たったのである。周蔵に対し、上原の所に行くようにと指示する甘粕は、今や上原との間に介在する上官で、以後はこれが上原・甘粕・周蔵の基本的関係となる。
九年秋から翌春にかけて、憲兵練習所通いで行動が比較的自由な甘粕は、常時上原に会い、その指令を周蔵に伝えていたのである。

 八回目(ママ)は一年余り後の大正十一年二月頭条で、十年六月に憲兵大尉に進級し市川分隊長となった甘粕と周蔵が会った記事は、それまで見えないが、会っていたことは確かである。佐伯夫妻からフランス留学の希望を聞いた周蔵は、佐伯の頭の光瑞師と兄の佐伯祐正の意向を確かめる必要を感じ、光瑞師に面会を申し込んでいた。ようやく会えた光瑞師の答は「フランスに出してやってくれ」というものであった。周蔵はこれを薩摩治郎八探索の好機にしようと考え、頼み事を口実に薩摩邸を訪れ治郎八のパリの住所を聞き出すのが良策と思い、甘粕に相談する。

 甘相は十一年一月、渋谷分隊長に転じたばかりであった。同年二月末日条には、周蔵が「フランスニ サル事デ道ヲ欲シイ」と申告すると上原は、「甘粕二頼ムノガ良カ」と指示し、「然シ マフー人ロシア人ヲ紹介スル」とも言った。上原に指示された通り甘粕に相談すると、甘粕は「フランスには自分の友人がいる。この人物に連絡を取るから、すべてそれからにした方が良い」と言う。

 九回目(ママ)は九ヵ月後の同年十一月末日条で、「佐伯 外遊学二関シテハ 甘柏サンガ 段収リヲ整ヘテ下サルコトニナル。フランスナラ自在トノコト。改メテ米ト鰹節ノ礼ヲ云ハル」とある。父の林次郎が宮崎から毎年送ってくる日向米と薩摩節を知人に配っていた周蔵は、甘粕にも先日届けたので、改めて礼を言われた。

 甘粕の在仏の友人とは、大正二年からパリに住む画家・藤田嗣治で、先年の秘密渡仏の際に知り合ったと観るべきである。嗣治の父陸軍軍医総監・藤田嗣章と親しい上原が、嗣治の画才に目を付け、フランスに送りこんで「草」を張らせたのである。フォンテンブロー砲工学校に留学中の上原がポンビドーの勧誘で入り、次いで藤田と甘粕が入ったのは「黒いマリア」を信仰する秘密結社で、コクトーが総長を務めた。薩摩治郎八が加入した秘密結社は別系のようである。

 十回目(ママ)の甘粕記録は大正十二年二月条で、「甘粕サンノ紹介デ 昔ノ伊達藩 水沢二道ガトレル」とある。罌粟栽培を全国に広げるのに必死の周蔵は、各地で耕作者を増やすために有力者を工作していたが、仙台藩支藩の水沢の地に甘粕の紹介によって道が開けた。甘粕の母が仙台藩右筆・内藤家の出で、その関係が物を言ったのであろう。それにしても水沢は、台湾総督系アヘンの元締の後藤新平の膝元で、後藤の腹心新渡戸稲造の支配下にあるのに周蔵が割り込んだのは、何か事情があったのだろう。因みに、三月上原は参謀総長を辞したが、周蔵は一言もこれに触れていない。尤も、元帥は終身現役である。甘粕は十二年八月付で麹町分隊長兼務を命ぜられる。

 甘粕が出てくる十一回目(ママ)は十二年九月末日条で、関東大震災直後の記述である。周蔵がこの条を、「何ト書ケバ良イカ分ラヌガ、大杉榮終ル」で始めたのは、この事件に不審を感じたからである。大杉暗殺は、通俗史観に立つ巷間の甘粕伝奇が謂うような、単純な構図ではない。第一、無政府主義はすでに下火で、大杉をやる必要なぞ何処にも無いことは、周蔵でさえ分かっていた。それなのに甘粕が敢えて暗殺を断行したのは、別の理由がある筈だ、何かおかしいぞと、感じたのである。           (続く)

 
 ●疑史(第56回) <了>。                        
 


●岩屋天狗と千年王国 <24>
                          インド・ユダヤ人の光と闇_1
                          ヒトラーの教皇_1



 『ザビエルの同伴者アンジロー』の紹介も長くなったが、最後にアンジロー書翰、
 度々論じられる有名なアンジロー(ヤジロウ)の自己紹介的書簡についての興味深い一章を読んでみる。
 

 ■アンジロー書翰

 ・・・中略・・・


 ★過去の翻訳の問題点
 
 本書翰は過去七〇年間にわが国で四回翻訳され、キリシタン史の開幕を飾る書翰として、また日本人がポルトガル語でアルファベットを用いて記した最初の書翰として知られてきた。私も作者がアンジローで、使用言語がポルトガル語であると信じて疑わなかったが、アンジローの生涯を調べる必要上、念のため現存する本書翰のマイクロ・フィルムを南欧三カ国から取り寄せた。その結果、原本が現存しないことから、原本とほぼ同時期に作成された四写本が手元に集まった。これらの写本を比較対照すると、いろいろなことが分かってきた。意外なことに四本ともポルトガル語ではなく、すべてスペイン語で書かれていた。原本がポルトガル語であるとしたら、本国ポルトガルに残す二本までがスペイン語であることは不自然である、と直感した。さらに事実として、アンジローがスペイン語を学んだ形跡はまったくないことから、今まで言われてきたように本書翰の作者がはたしてアンジローなのか、という疑問が生じてきた。そこで私は四写本中、書体から判断して、最も古いと思われるポルトガルのアジュダ図書館蔵写本(ジェズイタス・ナ・アジア部四九-Ⅳ-49、二葉裏~六三葉裏)をテキストとして翻訳していく過程でさまざまなことに気づいた。

 ★書翰の構成と内容分析

 説明の関係上、まず本書翰の構成を述べておこう。本文は上述の書翰中に示したように三部から成り立っている。第一部はイエス・キリストヘの信仰によって得られた救いに対するアンジローの感謝、第二部は曰本脱出から二度の了フッカ行きを経て、ザビエルと出会い、ゴアで受洗するまでの体験、第三部は神の恵みに対するアンジローの感謝とザビエルの曰本布教への協力表明と支援の要請であ これらの各部分を詳細に検討していくと次のような新たな事実が分かってきた。
 第一部は書翰の導入部分であるが、そのほとんどすべてが聖書の語句からなっている(その出典はすでに先学によって明らかにされている。このことから作者は常曰ごろから聖書に慣れ親しみ、自然に聖句が口をついて出るような教養の持ち主であること。
 第一部から第三部までに使用されている語彙は豊富で多彩であり、文体は文中に分詞構文や接続法が自由に用いられ、ヨーロッパ人の発想にもとづく完全な文章体であること。
 第二部はアンジローの体験であり、この内容はザビエル書翰(一五四八年一月二十日付コーチン発)に記されているアンジローにかんする記述と一致すること。

 以上から、私は作者・作成過程・使用言語・史料的価値について次のように考える。

 ★アンジロー書翰への新見解

 作者は従来よりアンジローと考えられてきたが、現存する写本がすべてスペイン語であること、第一部の導入部分の聖句の引用、語彙の豊富さ、文体などから、アンジローではなく、聖パウロ学院において彼の指導者であったスペイン人のパードレ・コスメ・デ・トーレスと考えられる。

 作成過程として、トーレスはアンジローがみずからの体験(第二部)をポルトガル語で下書きしたものにもとづき、第一部と第三部を加えて作成し、アンジローが最後にサインしたと考えられる。
 使用言語はトーレスの母国語であるスペイン語であり、原本はスペイン語であったろう。

この原本から写本がただちに作成されたので現存する同時期の写本がすべてスペイン語であると考えられる。

 史料的価値について、本書翰の実質上の作者はトーレスであるが、第二部はアンジローの体験にもとづいており、このことはザビエル書翰からも裏付けられるので、信憑性が高く、史料的価値が高いこと、第一部と第三部は直接アンジローが書いたものではないがアンジローの立場に立って彼の高揚した気分を代弁したものと考えられること、などからともに史料として十分活用できる。

 現在までわが国で本書翰がアンジローによってポルトガル語で書かれた、と信じられてきた理由は、
 ①ザビエル書翰にアンジローは八ヵ月でポルトガル語の読み書きを学び、ロヨラ宛に詳しい内容の書翰を書いたと記されていること、
 ②過去四回和訳されたが、そのテキストが一五九八年ポルトガルのエヴォラで出版された『イエズス会日本書翰集』(いわゆる「エヴォラ版」)であり、同書の表記がポルトガル語であり、当然アンジロー書翰もポルトガル語であったこと、などの理由から、今まで作者や使用言語にかんしてあえて詮索されなかったからであろう。

 ★エヴォラ版の削除箇所

 今回、エヴォラ版アンジロー書翰とアジュダ写本を比較対照していたとき、エヴォラ版に一カ所重大な削除箇所を見出した。この内容はザビエルとアンジローがマラッカで出会う前に、すでにポルトガル商人がアンジローにゴアの神学校である聖パウロ学院へ行くように勧めていることである。このことはサビエルによる日本開教のいきさつとポルトガル商人の役割を再検討するきっかけを与えてくれた。
 次にこの「アンジロー書翰」をもとにアンジローの前半生を明らかにしてみたい。

 *************** 
 

 アンジローの「前半生」とは、当然一五四八年十一月二十九日附けイエズス会総長・ロヨラおよび同僚宛ての書簡をもとに推察していく「作業」なのだが、次回からは↑の写真の
 ★『インド・ユダヤ人の光と闇』に(主に)拠りながらザビエルその人、時代、ザビエルと「ヤジロウ」との出会い(また「ヤジロウ」に戻す)をみていくことにする。
 (『インド・ユダヤ人の光と闇』 徳永恂・小岸昭 新曜社 2005年7月。)

 ただし、その前に●疑史 第56回 と ●吉薗周蔵の手記(29) の紹介をしておきます。
 

 

●岩屋天狗と千年王国 <23>
 『ザビエルの同伴者アンジロー』 岸野久 より。

 ■「大曰」問題-アンジロー再評価のために

 
 ★「大日」問題とアンジロー


 従来のキリシタン史でアンジローの評価が今一つ芳しくないのは彼の末路と、なによりも彼がザビエルによる「大曰」使用の元凶とされていることである。彼の末路についてすでに述べたので、ここではザビエル「大曰」使用とアンジローとのかかわりについて述べてみたい。

 この問題に本格的に取り組んだのは☆シュールハンマー神父である。『十六、七世紀における曰本イエズス会布教上の教会用語の問題』(一九二八年)はそれまでまったく知られていなかった「大曰」関係文書を紹介し、それをもとにした唯一の研究であり、今曰まで強い影響を及ぼしている。海老沢有道博士は「大日」使用とアンジローとのかかわりにについて、同神父の研究を次のように紹介している。「シュールハンマーはヤジロウ〔アンジロー〕の曰本宗教知識の貧困と誤謬の多いことを論じ、なかでもザヴィエルにキリスト教の神を『大曰』と呼ぶように教える大失敗を犯した事を論ぜられた」(「ヤジロウ考」『切支丹史の研究』)。またのちに『曰本キリシタン史』(一九六六年)においても「〔ザビエルは〕曰本人伴侶ヤジロウの無学のために、当初はそれを『大曰』=Dainicheと呼ぶような大失敗を犯したのであった」と述べられている。これら二つの文章には多少のニュアンスの違いはあるが、ザビエル「大曰」使用の原因がアンジロー、具体的には彼の「無学」にある、という点では一致している。このような、「大曰」使用にかんするシュールハンマー神父の「アンジロー元凶論」は国内外において反論もなく引用されて今曰にいたっている。

 ☆ゲオルク・シュールハンマー神父: ドイツ人イエズス会士。
  主著は、『フランシスコ・ザビエル―その生涯とその時代』全四巻(1955~1971)。
  次回以降で紹介していきます。
 
 ★「大日」問題にかんする新見解

 私はシュールハンマー神父の研究をもとにさらに南欧各地でえられた文書を分析する過程で、ザビエルによる「大曰」採用のプロセスを明らかにすることができた。この結果、ザビエルの「大曰」採用は従来考えられてきたように単純なものではないことが分かってきた。その詳細については、別著『西欧人の曰本発見』に譲るが、ここでは次の三つに分けて検証してみたい。(1)ゼウスを(に)「大曰」をあてたのはアンジローの「無学」のゆえなのか、(2)ザビエルはゴアで「大日」を採用するさい、なんらかの検討を加えているか、③ザビエルによる「大日」採用の意図は何か、の三点である。

 ★アンジローは「無学」か

 まず、アンジローが「無学」で仏教知識に乏しかったことから、デウスに「大日」をあてたとする見解について述べる。ゴアでザビエルは日本行きを前にして、天地万物の創造者で、唯一・絶対なるキリスト教の神デウスをどのように表現するか、大いに頭を悩ませたに違いない。当時、ゴアでは日本の宗教がいかなる宗教なのか、キリスト教はすでに日本に伝来しているのか、日本の宗教とキリスト教との関係はどうなのか、まったく分からなぃ状況であった。ゴア在住のパードレの中には、日本にもキリスト教が中国(景景教経由か?)から伝わったと考える人もいたほどである。このようなとき、アンジローはランチロットあるぃはザビエルから、日本の宗教における究極の存在について聞かれたとき、日ごろ親しんできた真言宗の知識をもとに、それは大日如来(略して「大日」)である、と答えたのである。大日如来とはマハ・ヴァイローチャナ・タクーガタすなわち、マハーが「大」、ヴァイローチャナが「非常に輝くもの」、タクーガタが「如来」を意味し、これを太陽に喩えて大日如来と意訳したものである。つまり、太陽のごとく、修二絶対なる宇宙の根本仏であり、諸仏の最高位にある仏である。密教の伝統的な考えに「唯一身説」があり、これによれば大日如来は一神教の神に近い存在となる。太陽のイメージは一六一八年十二月二十五日付コンスタンツォ書翰に「彼】ザビエ古はたまたまこの神〔大日〕がキリストであり、正義の太陽であると信じていた」とあるように、唯一にして絶対なるデウスと「大日」とが太陽のイメージで重なっており、アンジローがデウスを「大日」とあてたことはあずしも的はずれのことではない。
 また、のちのことであるが、一三六〇年六月二十日付ロレンソ書翰に「真言宗の人〔僧侶〕は、私たちの説くところをダイニチ〔大日〕であると言い」とあるように、「有学」の真言宗僧侶も「大日」をデウスと同一視しており、真言宗の立場に立てばデウスに「大日」をあてるのは当然のことであった。したがって、今まで言われてきたように「無学」ゆえにアンジローが「大日」をあてたとはいえないのである。このデウスの訳語の問題は一つの文化(宗教もこの一つである)を他の文化に移すときに不可避的に生じる、今日でも解決困難な問題の一つである。このことは幕末以降のキリスト教の神の訳語の変遷をみればよく分かるであろう。

  ★「大日」採用とザビエル

 第二に、ザビエルは「大日」を採用するさい、なんらかの検討を加えているか、について述べる。このような事情を記した直接史料はないが、間接的に解明することが可能である。上述した、ザビエルのために作成されたランチロット編「日本情報」がその材料となる。「日本情報」はランチロットがアンジローから日本に間する事情を聴取し、これらを編集したもので、この文中には編者・ランチロットによるキリスト教的解釈が含まれている。ランチロットの原本はイタリア語で作成されているが、幸いなことにこの「日本情報」にはザビエルのスペイン語訳が存在する。「日本情報」には宗教用語として三つの日本語すなわち、デニチ(大日)、コヂ(荒神-三宝荒神)、カンノン(観音)が存在するので、この三つの単諸にかんする部分のみ、ランチロットの正本とザビエルのスペイン語訳を比較してみよう。

 (1)デニチ

 みな唯一の神を崇拝する。それは彼らの言葉でデニチと呼ばれている。このデニチは、しばしば
一つの身体に三つの頭〔三面一体〕をもって描かれ、それでコヂと呼ばれている。この人〔アンジロー〕は三つの頭の意味が分からなかったが、デニチも〔三面一体〕のコジも、私たちの神と三位一体のように、すべて一つであることを知っていた。・・・シャカは万物の創造者である唯一の神が存在することを教えた。

 (2)カンノン

 
彼らはまた、私たちの処女マリアのような、子供を腕に抱き、彩色された婦人〔像〕を持っている。これはカンノンと呼ばれ、私たちの聖母と同じように、どのような不幸のさいにも、普く守護してくれるものとされている。しかしこの人〔アンジロー〕はこの聖なる婦人の歴史や生涯を説明できなかった。

 以上のうち、棒線部分(*当ブログでは青字部分)がザビエル訳で削除されている箇所である。(1)を見ると、唯一神が「大日」tpあてられたところとコジは原文のまま残されているが、大日如来の化身で
三面一体の〔三宝〕荒神がキリスト教の三位一体〔父なる神、子なる神、聖霊なる神は一体であるという教理〕と解釈される部分は削除されている。②では子供を抱く母子観音が御子イエスを抱く聖母マリアと対比されているが、スペイン語訳では全面的に削除されている。

 以上、ランチロット〔日本情報〕中の日本語の宗教用語を選び、その部分の正本とスペイン語訳とを対照し、削除箇所を示してきた。このスペイン語訳に存在する他の削除部分や書き改めた箇所も含めていえることは、サビエルは「日本情報」を細部にわたって慎重に検討していること、彼は未知の宗教を安易にキリスト教的に解釈したり、キリスト教のものと対比することに批判的であること、が分かる。しかし、すでにお気づきのように、「デニチ」は例外である。「唯一の神」「万物の創造者である唯一の神」に「デニチ」があてられている箇所は「カンノン」の例からみれば、当然、削除の対象となるべき箇所である。にもかかわらず、削除せず「大曰」を残している。それゆえデウスの訳語として「大曰」を用いるにあたってはしかるべき理由があったに違いない。

 ★ザビエル「大日」使用の理由

 第三に、ザビエルが「大曰」を使用した理由について考えてみよう。
 ザビエルは来曰する前に約六年間インド半島や他地域での布教経験があった。その間、インド半島の漁夫海岸ではキリスト教教理のタミル語訳を行い、部下のエンリケスによるその改訂作業も当然知っていたので、教理書翻訳の困難さも問題点も十分分かっていたはずである。インドではザビエルはキリスト教教理をタミル語に翻訳するさい、デウスをはじめとする重要な宗教用語はタミル語に翻訳せず、原語のポルトガル語を使用しており、宗教用語にかんして原語主義を方針としていた。そのザビエルがなぜ曰本においてデウスには原語を用いず、訳語の「大曰」を用いたのであろうか。この問題を考える場合忘れてならないことは、サビエルが未知の国曰本へ最初に入る宣教師であるという特殊事情である。このことを無視しては理解できないであろう。

 来曰前、ザビエルにはデウスか「大曰」か二つに一つの選択肢があった。そのさい両者のそれぞれについてプラス、マイナスの検討があったはずである。その結果デウスではなく「大曰」が選ばれたのは、なによりもまず曰本社会に宣教師が受け入れられ、曰本人とのコミュニケーションを第一義としたからではなかろうか。まず、曰本社会に入って曰本語を学び、曰本の宗教事情をはじめとする諸事情を調べる必要があった。最初からデウスを説いたのでは曰本人との間にコミュニケーションが成り立たず、曰本到着そうそうから活動できない恐れがあった。そこでとりあえず曰本人になじみのある「大曰」を用い、「大曰」をキーワードとして曰本の宗教を知る手がかりとしようとしたものと考えられる。

 来曰後の経過をみると、結果的には「大曰」を説くキリスト教は「天竺宗」として、別の宗教ではなく、仏教の一派と見られたものの、ザビエルらは曰本社会に比較的スムーズに入ることができ、いち早く領主・島津貴久や宗教界の長老・忍室らと親交を持つことができた。そしてその一年後にはフェルナンデスの曰本語も上達し、やがて真言宗の憎侶との対話も可能となり、一五五一年彼らとの論議を通して「大曰」とデウスが同一でないこと、キリスト教と仏教とが互いに異なる宗教であることが分かった。「大曰」は開教期にあって曰本社会とザビエル、仏教とキリスト教を媒介するキーワードとして機能したのである。

 ザビエルの「大曰」使用は曰本布教のパイオニアとして曰本社会に入り、曰本の宗教を認識し、理解するための一つのステップであったといえよう。したがってザビエルの「大曰」使用を従来の研究のように単純に失敗と片付けられないし、ましてやその全責任をアンジロー一人に負わせることはできないのである。

 「大曰」は一五五一年以降布教の場から消えたが、宣教師の仏教研究の場においては生きていた。一五六〇年代初め「大曰」はスコラ哲学の「第一質料」(マテリア・プリマ=万物の基礎材料)と規定され、禅、神道、儒教などの究極を哲学的に分析するさいのキーワードとして用いられていたことをつけ加えておく。

 ■「大曰」問題-アンジロー再評価のために <了>
                   
 





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