カウンター 読書日記 2009年05月
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●岩屋天狗と千年王国 <22>
 『ザビエルの同伴者アンジロー』から続ける。 
 

 ■貴久☆の禁教とアンジローの出奔 p198~
  ☆島津貴久(たかひさ):島津家第十五代、「名君」・忠良(ただよし)の嫡男。 
 
 ★キリスト教禁教の理由と経緯 

 
 ザビエルの布教活動について当初は好意的であった貴久がやがて禁教へと変わった理由と経緯について、ザビエル書翰は次のように述べている。

 ・・・これらの坊主(ボンゾ)たちは領主に対して、もしも家臣たちに神への信仰を許すならば、領地は失われ、人々によって寺院は破壊され、冒瀆されるだろうと言いました。というのは、神の教えは彼らの教えと反対であり、神の教えを信ずる者はかつて彼らの教えをつくった聖なる人々に抱いていた信心を失ってしまうからです。そしてついに坊主たちは、その地の公爵〔貴久〕に対して、死罪をもっていかなる者も・キリスト教徒にならないように命じるようにさせました。
かくして公爵はいかなる者も信者にならないように命じました。(一五五二年一月二十九日付書翰)

 すなわち、キリシタンの教えは社会の根幹を揺るがす危険思想であるという仏憎の働きかけによって貴久が禁教へと変わった、としている。貴久の禁教の理由は後述するが、その実態がどのようであったか見ておきたい。内外ともに史料が乏しく、よく分からないのが実状であるが、禁教体制は続いていたようである。次にいくつかの例をあげてみよう。ザビエル鹿児島退去後、同地にキリシタンが存在することが分かっていながら、一〇年間以上も宣教師が派遣されていないことは、貴久の禁教体制が継続していたことを示している。またヴァリニャーノ『東インドにおけるイエズス会の起原と進歩の歴史』に「彼ら〔サビエルー行〕はそこ〔鹿児島〕でとてもひどい迫害を受けたので、もはやなんらかの成果も期待できないことを知り、退去を余儀なくされ、信者たちを大いに悲しませた。そして彼らは平戸へ赴いた。・・・薩摩の信者を慰めるためパウロ・デ・サンタフェが残った。のちに信者の一部は死亡し、一部はパードレから援助を与えられることなく迫害を受けて死亡し、一部はまだ上述のパードレ〔ザビエル〕の偉大な徳と聖性をはっきりと記憶して生きている」とあり、貴久の禁教と迫害の事実を伝えている。なお、文中のザビエルのことを記憶している人々とは市来のミゲルらのことであろう。

 市来も一五六〇年代禁教下にあったことは上述のアルメイダ書翰からも分かる。すなわち夫人も子供たちも信者であった市来城主・新納康久についてアルメイダは「彼〔城主〕がキリシタンとなって信仰をあえて表明しないのは、国王〔貴久〕の許可を得ず他の教え〔キリスト教〕を信ずることが国王に分かったら、やがてこうむることになる損失を彼が恐れているからである」(ローマ・イエズス会文書館、日本・中国部四、二三七葉)言記しており、城主は、貴久の処罰を恐れて、あえて洗礼を受けなかったことが分かる。
 
 
 ★『日新菩薩記』とキリシタン
 
このように島津家の禁教体制は一貫していたのであるが、貴久ら支配者層はキリシタンをいかなる宗教と捉えていたのであろうか。これも史料がなく確かなことは分からないが、貴久の父・忠良の伝記(一五九七年、泰円守貝による)とされる『日新菩薩記』にある忠良の次の御詠歌をもとに推測してみよ

 魔の所為か、天眼拝み 法華宗
 一向宗に  数奇の小座敷

 これらは忠良が魔のなすところとして排斥したもので、ここには法華宗、一向宗と並んで「天眼拝み」があげられている。「天眼」はキリシタンと解されているので、キリシタンは禁止さるべき宗教の一つとされていたのである。このうち一向宗禁止の理由は「父母を軽んじ、仏神を疎んずるもので、神明仏陀を忘れ、父母先祖に背くから、天下国家を乱す」と明白に記されており、キリシタンも、「彼〔忠良〕の鎖国第一義の思考様式、封建的な規範の確立、固定的な臣従関係の確立という当面の目標に合致せぬと判断された」(三木靖『薩摩島津氏』一九七一年)宗教として、一向宗と同類と見なされたことが分かる。確かに、キリシタンの教えには、唯一にして絶対なる神のほか、日本の伝統的な神・仏を認めず『ドチリナ・キリシタン 第七』に「親、主人、司たる人によく随へと云う事は、科にならざる事を云はれん時の事也」とあるように、親・主人への服従も神の掟に反しない限りである、とあり、これは封建体制確立をめざす支配者にとって鎖国の存立基盤を危うくすると
教えと考えられたのである。これまで貴久は父・忠良の指導の下、父子一体となって薩摩統一事業をすすめ、忠良のの貴久への指導力は絶大なものであった。こうした忠良・貴久のキリシタンへの姿勢と仏憎からの要求があいまって貴久の禁教方針が定まったと考えられる。
 
 ★アンジローの教会離脱・出奔理由
 
 以上、不十分ながら貴久のキリシタン禁教の理由とその展開を明ら かにしてきたが、このことを前提として、アンジローの教会離脱・         出奔について市来のミゲルと対比させながら考えてみたい。というのは同じ禁教下にあって市来のミゲルと鹿児島のアンジローは好対照の道を歩んだからである。私はこの問題をすでに明らかにした両者の宣教団における役割を通して述べることにする。

 私はアンジローの同宿的役割、ミゲルの看坊的役割を指摘しておいたが、ヘスース・ロペス・ガイ神父は二つの役割を比較してその特徴を次のように指摘している。「彼ら〔看坊〕には同宿の有する巡回者、布教者の性格はなく、常に教会内で働くものである。その聖務には、特に強調された同宿の宣教的分野はない。看坊の活動は、そのような来信者を対象とするものではなく、すでに信者となった人々の世話に焦点が置かれている」(「キリシタン史上の信徒使徒職組織」『キリシタン研究』一三)。つまり、同宿の働きは異教徒への働きかけを主とする外向きの、組織拡大型のいわば攻めのタイプの活動であるのに対し、看坊の働きはすでに改宗した信者の世話を主とする、内向きの、組織防衛型の、いわば守りのタイプの活動である。このことを念頭において改めてミゲルとアンジローの働きをまとめてみると、ミゲルは市来城の家老職にあり、約一五名の集団(のちには七〇名へと拡大)を指導する看坊役であった。その主たる活動の対象は信者である彼の家族と城主夫人とその家族であった。教会は城中にあり、初め建物がなく信者の集会(見えざる教会)であったが、やがて教会がつくられた。つまり、城中の市来集団は一般社会とは遮断された、一種の「隠れキリシタン」であったといえよう。ミゲルは城外に出て布教活動をした形跡はなく、城中の信者の信仰保持に専念し、貴久ら鹿見島在住の支配者や仏憎を刺激することもなかった。島津氏による禁教下、ミゲルは看坊役に徹することによって、市来集団を半世紀以上にわたって維持することができた。後世の看坊をみると、一七世紀になると国家的な規模で禁教、迫害が実施・徹底され、一六一四年には宣教師が国外に追放されるが、宣教師に代わって、地方の教会を支えたのが日本人の看坊であった。彼らは潜伏下の教会において隠れキリシタンのりーダーとなり、信者の世話にあたり、信仰集団を維持したのであるが、ミゲルはその先駆といえよう。
 
  ★「同宿役」アンジローの悲劇
 
 これに対し、アンジローはザビエルの行くところには常に同伴して各地を巡回し、ザビエルの通訳をし、ときには、ザビエルに代わって説教したり、教理教育をする同宿役であった。彼はミゲルとは対照的に、一般社会に向かって積極的に働きかけるタイプの役目であった。したがってアンジローはザビエルの退去のさい、鹿児島の信仰集団を委ねられてから、禁教へと向かう薩摩の政治・社会状況を配慮して、従来の同宿役から看坊肪役へと役柄・仕事内容を転換させる必要があった。しかしながら、それは実際上、無理であった。というのは、教会のまとめ役としての看坊たるに相応しい諸要素-年齢、身分、地位、
☆教養-のどれをとっても、アンジローにはほど遠かったしもともとアンジローは組織防衛型の看坊として訓練されていなかったからである。アンジローはザビエルあっての同宿役であり、ザビエルの退去により、後盾を失うことになった。にもかかわらず、以前と同じように同宿役として孤軍奮闘するアンジローに対して、社会の風当たりは強く、ついにザビエルより託された鹿児島の信者を放置して、再度、故郷を出奔せざるをえなかったのである。アンジローの出奔理由に彼の信仰心の弱さを指摘する見解があり、もちろん、それも否定できないが、主たる理由とすることはできない。
 
 註:アンジローの教養不足という点について、著者は次の章(★アンジローは「無学」か)で否定している。

 
 アンジローは市来のミゲルのように、外界から隔離された城中に留まって自らの信仰と信者を守ることができなかった。彼には、妻子や母親がおり、ザビエルから信者を託されていたので、かつての召使で独身のジョアネやアントニオのようにザビエル宣教団の一員として再度インドと日本との間を往来し、信仰を貫くこともできなかった。このように、ミゲルにもアントニオにもジョアネにもなれなかったところにアンジローの悲劇があった。アンジローの最期はメンデス・ピント(フロイスも同じ)によれば、八幡(バハン・倭寇)の一員に加わり、中国の沿岸で紛争に巻き込まれて殺害されたということであるが、本当のところは分からない。

 **************

  続く。
                      
 


スポンサーサイト

●岩屋天狗と千年王国 <21>
                          ザビエルの同伴者アンジロー_1

 ●『ザビエルの同伴者アンジロー』  岸野 久  吉川弘文館2001・9・1  
 
 この著の刊行は、前掲『ザビエルとヤジロウの旅』(1999年)と『クアトロ・ラガッツィ』(2003年)のちょうど中間に位置するもので、大住氏は当然参照不可能だが、若桑史は、〔第二章-われわれは彼らの国に住んでいる 「リーズン」〕(文庫版・上・p250)のなかで少しだけ〔アンジロー・ヤジローと【デウス→大日】翻訳〕について述べている(後記)。

 タイトルに偽りなしの本で、「アンジロー」について、簡略だが要点(問題点、課題)はすべて簡潔に述べられており、以下<「アンジロー」の最後>を中心に紹介していく。

 
 ***************

 ■アンジローの末路にかんする史料

 ★アルメイダの薩摩旅行

 一五六一~六二年アルメイダは鹿児島を訪れた。そのわけは、島津貴久がポルトガルとの通商に意欲を燃やし、日本イエズス会の布教長で豊後在住のトーレスにその仲介を求めたのに対して、トーレスがこの要請を受けてアルメイダを使者として、鹿児島へ派遣したからである。そのいきさつと結果については別著『ザビエルと日本』に譲ることにする。さて、アルメイダは六一年十二月市来(いちく、現いちき)を訪れ、ミゲルに率いられた約一五名の信仰集団に会い、その足で鹿児島市内に入ったが、市来に存在したような信仰集団はなく、わずかに数名の信者の訪問を受けたのみであった。この人々の中にアンジローはいなかった。

 ★アンジローの薩摩出奔

 同じ薩摩領内で鹿児島の近くの市来ではミゲルは健在であったのに対し、鹿児島のアンジローにいったい何か起こったのであろうか。彼が鹿児島から消えた理由は何か、その行方とともに大いに気になるところである。というのはアンジローの評価と密接に関連しているからである。
 ところで、アンジローの末路を記した史料は今日まで三点知られている。第一は、フェルナン・メンデス・ピント『東洋遍歴記』(一五七八年ごろ成稿)、第二はルイス・フロイス『日本史』(第一部、一五八六年成稿)、第三はジョアン・ロドリゲス・ツズ『日本教会史』(一六二〇~二四年成稿)である。ここではアンジローの末路を論ずるさい、どの史料によるべきか、その内容と理由を明らかにしておきたい。そのために三点の史料から関連箇所を紹介しておく。
 第一はメンデス・ピント『東洋遍歴記』である。

 ★メンデス・ピント『東洋遍歴記』

 〔ザビエルは〕その教義によってそこ〔鹿児島〕で改宗させた八〇〇人のもとにパウロ・デ・サンタ・フェを残していった。パウロは彼らのもとに五ヵ月以上留まり、辛抱強く教義を説いていたが、坊主(ボンゾ)たちにひどく侮辱されたために、ついにシナに渡り、そこでリャンポー王国を跳梁していた海賊に殺されてしまった。(岡村多希子訳『東洋遍歴記3』一九八〇年)

 メンデス・ピントには誇張癖があるので、とくに数字に注意する必要がある。ここの信者の数字はゼロを一つ落として八○とすると実際の約一〇〇に近くなってくる。しかしアンジローの末路にかんする基本的なデータはそろっている。すなわち、

 (a)出奔の時期-サビエル退去の約五ヵ月後
 (b)出奔の理由-仏憎からの迫害
 (c)最期の状況-中国で海賊による殺害

 である。メンデス・ピントはアンジローをはじめ、ポルトガル商人・アルヴァレス、フロイスとも熟知の間柄であった。一五五六年メンデス・ピントはイエズス会のイルマンとして来日したが、このときフロイスとはマラッカまで同船している。

 第二はフロイス『日本史』である。

 ★フロイス『日本史』

 なぜならば、彼(アンジロー)は〔既述のように〕その妻子や親族のものにキリシタンになるようにすすめ、そして事実彼らはキリシタンになったが、その数年後、「彼は信仰を捨てたのか、キリシタンであることをやめたのか判明しないとはいえ〕、(いずれにせよ)異なった道を辿るに至った。というのは、かの薩摩国は非常に山地が多く、従って、もともと貧困で食料品の補給を(他国)に頼っており、この困窮を免れるために、そこで人々は多年にわたり八幡と称せられるある種の職業に従事している。すなわち人々はシナの沿岸とか諸地域へ強盗や掠奪を働きに出向くのであり、その目的で、大きくはないが能力に応じて多数の船を用意している。(したがって)目下のところ、パウロは貧困に駆り立てられたためか、あるいは彼の同郷の者がかの地から携え帰った良い収穫とか財宝に心を動かされたためか(判らぬが)これらの海賊の一船でシナに渡航した(ものと思われる)。そして聞くところによれば、そこで殺されたらしい。(『日本史・6』)

 フロイスは、在日イエズス会を代表する日本通の一人で、一五六三年来日し、三四年間日本に滞在し、信長、秀吉の通訳を務めた。今日までアンジローの最期を論じるさいにしばしば利用される史料である。アンジローの末路にかんするデータをまとめると、

 (a)出奔の時期-自分の妻子をキリシタンにしてから(一五四九年)数年後
 (b)出奔の理由-よりよい生活または富のための、個人的・現世的動機
 (c)最期の状況-八幡(倭寇)に加わり、中国で殺害

となる。

 ★第三はロドリゲス『日本教会史』である。

 坊主らは、パードレ達が平戸へ出発してから五ヵ月後に、パウロを国外へ追放した。すなわち、パウロはその信仰のために坊主らから受けた迫害が余りにひどかったので、日本にいることができなくなり、再び船に乗ってシナに向かい、彼らの狂暴を避けることにした。そして、フェルナン・メンデ  ス・ピントはパウロがシナに到着する前に途中で死んだと言っている。(『日本教会史 下』)
 ロドリゲスはアンジローにかんするデータすなわち、出奔の時期・理由・最期の状況についてすべてメンデス・ピントによっていることが分かる。私か注目しているのは、アンジローの末路にかんして、彼がフロイスの『日本史』によらず、メンデス・ピントを利用していることである。これはメンデス・ピントの記述に対するロドリゲスの肯定的評価であるといえよう。

 ★三史料の検討

 これら二つの史料(ロドリゲスの記述はメンデス・ピントに含める)のデータをまとめると、

 (a)出奔時期
  ①メンデス・ピント-ザビエル鹿児島退去の「五ヵ月後」
  ②フロイス-一五四九年から「数年後」
 
 (b)出奔理由
  ①メンデス・ピント-仏憎からの迫害
  ②フロイス-アンジロー個人の現世的動機

 (c)最期の状況
  ①メンデス・ピントおよび②フロイスとも中国で海賊による殺害

 となる。

 三つのデータのうち、アンジローがいつ、いかなる理由で、教会を離れ、国を出なければならなかったのか、という最も中心的な部分で二つの史料は相違しているが、いずれに信をおくべきであろうか。まず、出奔理由として、フロイスがメンデス・ピントのように外部(仏憎)からの迫害ではなく、貧困という社会的背景があるにせよ、あくまでもアンジローの個人的な動機に求めている点に私は疑問を感じている。というのは、すでに明らかにしたようにアンジローはザビエル宣教団において同宿役(*後、紹介)という、いわば宣教団のスポーークスマン的役割を果たしており、ザビエルの代役を務めているからである。そのアンジローに対し、ザビエル排斥の急先鋒にあった仏憎たちの攻撃が向かわなかったとは考えられないのである。次にアンジローの出奔時期であるが、フロイスの記述で、アンジローの出奔がなぜ「数年後」なのか理解できない。これに対し、メンデス・ピントのようにザビエル退去後の約「五ヵ月後」であれば、ザビエルヘの攻撃がただちにアンジローに向かったと考えられるので、合理的に説明がつき、納得がいくのである。

 以上から、アンジローの末路にかんする史料として、私はフロイスの記述にはリアリティが感じられないのでメンデス・ピント(およびロドリゲス)の方をとることにし、この記述をもとにアンジローの教会離脱、出奔問題について考えることにしたい。

  続く。                      
 



●岩屋天狗と千年王国 <20>
                           ザビエルとヤジロウの旅 大住広人_1


 ところで、この大内義隆との面談を「仲介」した「ある身分の高い貴人」とは誰なのだろうか?

 窪田一志氏は、「これは弥次郎(ヤジロウ)をさすものと思われる」と言う。
 (『岩屋天狗と千年王国』下巻 p33)
 *ヤジロー=橋口弥次郎左衛門兼清=岩屋梓梁

 また氏は、ザビエルはこの山口の地で「ヤジローとの宗教論争に敗退したため、豊後大分へ移り、ポルトガル船でインドへ帰った」とも述べる。

 真偽は藪の中だが、いずれにせよ、あれほどの期待を抱いて来日したザビエルの離日の動機は不明、不可解ではある。まして、イエズス会指導者の動機としてはいかにも弱すぎるのである。

 『日本史』を続ける。 二度目の山口入りとなる。  


 *************

 
 ●第四章(第一部五章) 文庫版、p50

 ★司祭たちが山口に帰還した後、この地で成果を生み始めた次第


 メストレ・フランシスコ(・ザビエル)師、がその伴侶とともに周防の国に向かい、国主(大内義隆)がその廷臣とともに住んでいる山口の市に戻って来た時に、フランシスコ師は、特に国主の好意と愛顧に与かるために彼を訪問しようと決意した。なぜならば彼は正統な国主であって、その同意と愛顧なしには同地に住むことができなかったからである。そのためにフランシスコ師は彼に捧呈する十三の立派な贈物を選定した。それらは、次のようなもの、すなわち、非常に精巧に作られた、時を告げる時計、三つの砲身を有する高価な燧石(ひうちいし)の鉄砲、緞子、非常に美しい結晶ガラス、鏡、眼鏡などであり、その他、インドの初代司教・ドン・ジョアン・デ・アルブケルケと、別に総督ガルシア・デ・サーからの二通の羊皮紙に書かれた書簡を添えた。ところでそれらの贈物は、いずれも、当時その地方ではかつて見たこともない品から成っていたので、国主は非常な満足の意を示し、ただちに街路に立札を立てさせ、その中で、彼は、その市ならびに領国内で、デウスの教えが弘められるならば喜ばしいとも、誰しも望みのままにその教えを信じてよいとも宣言し、それを周知せしめた。同時に彼は全家臣に対して、汝らは伴天連たちをなんら煩わしてならぬと命じ、フランシスコ師らに対しては、彼とその従者が居住できるように、一寺院(パコーデ)を提供した。さらに国主はインドヘの贈答品を携えて、一人の仏憎、もしくは俗人を自らの使者として派遣することを希望した。

 メストレ・フランシスコ師がもう一度国主を訪れた際、フランシスコ師は、はなはだ大型に作られており、ことのほか豪華な挿絵入りの聖書(ビブリア)と、新しく、かつ美しく華麗な注釈書(グロザ・オルデイナリア)を携え、これらの書物の中に私たちのすべての聖なる教えが記されていると語りながら、それらを彼に示した。国主は司祭が携えた緞子の(ミサ聖祭用の)祭服を見たがった。そこで司祭が提示すると、国主は彼に着用するように願った。ところでそれは非常に国主の気に入り、彼は手をたたき、「本当に、この伴天連は、我らの神々の一つに生写しじゃ」と言った。ところで数名の仏僧が同席していた。・・・略・・・ 

 
 以降、ザビエルと数名の仏僧の対話(教義論議)が続くが、片や〔三位一体〕此方〔真言宗〕(フロイスによれば、大日如来を本尊とする宗派となる)では、論争は成立しようもない。

 「仏僧」は、ザビエルの説に始めのうちは「笑う者」もいたが、そのうち論争自体を拒否(「彼らの僧院」へザビエル一行が訪れることさえ拒否)しだし、遂には「デウスのことに憎しみを抱き始め」た。

 ザビエルは、追放・暗殺などの虞れも感じたが、委細かまわず説教を続け、名望ある内田殿とその親族が入信したことを契機に「聖なる福音はその市(山口)に弘まりはじめた。」

 琵琶法師・ロレンソ=日本で初めてのイエズス会修道士=の入信もこの時であった。

 山口での布教は続くが、ザビエルはトルレス師とフェルナンデス師の二人を留めおいて、

 豊後の国へ向った。★

 フロイスは、その理由を「福音の種子を多くの諸国に蒔く」ためと記すが、すぐこうも書いている。「(ザビエル師は)ドゥアルテ・ダ・ガーマのポルトガル船がそこ(豊後)に入港したと聞いていたのである。」★

 豊後国主・大友義鎮はザビエルについてポルトガル人達を通じて以前から聞き知っていて、対面を待ち望んでいた。

 若き国主の歓待で布教の拡大も期待できたが、ザビエルが「インドへ旅行せねばならなくな」ったので、大友義鎮は一人の使節を派遣することにし、またインドから豊後への司祭の派遣を依頼した。


 **************

 『日本史』を続ける。
 フロイス版、パウロ・デ・サンタ・フェ(弥次郎)の棄教と彼の「最後」が示される。
 


 ●第五章(第一部六章) 文庫版、p60。


 「・・・司祭が豊後を出発するに際しては、右↑の使節のほか、インドとヨーロッパを見物することを願った他の二名の日本人を同伴した。そのうちの一人はマテウスと言い、山口の出身であった。彼はゴアの学院に数ヵ月滞在した後、病気で倒れた。もう一人のベルナルドという教名の日本人は、薩摩国の出身であった。彼は善い性格の持主であり、その徳操、敬虔、およびキリシタン信仰に対する愛によって一同を教化したとはいえ、容貌はいかにも優れなかった。メストレ・フランシスコ師が(インドを出発して)シナに向かったことについては追って述べるが、彼が出発した後、このベルナルドは〔司祭(フランシスコ)が当時インド布教長であり、ゴアのサン・パウロ学院の院長であったメストレ・ガスパル師に残して行った命令に基づいて]、アレシャンドゥレ・フェルナンデス修道士の伴侶として、彼とともにポルトガルヘ派遣され、聖父(ローマ教皇)の御足に接吻するために、そこから一行はローマに赳いた。彼は同所で目撃したもろもろのことにいたく感動した後、ポルトガルに戻った。そしてそこで病気となり、我らの主に召されて他界した。


 パウロ・デ・サンタ・フェ(弥次郎)が最後にどのようになったか。
を知りたいと思うのも当然である。それは人知の及ばぬ、計り知れないデウスの御裁きについて私たちの心に少なからぬ驚嘆と怪訝の念を生ぜしめずにはおかぬものがある。パウロは、この未開懇の葡萄園(日本)の発見者であるメストレ・フランシスコ師に日本の諸事情について知識を与えた最初の人物であった。彼は司祭たちをインドから日本へ導いた人であった。彼は彼らにこの国の言語や習慣について教えたその人であった。彼はまったく変身し、信仰に関することどもを十分教育されてインドから戻って来、人々がその円熟みと知識に期待していたとおり、あの当時、実際に良い模範を示した。ところが後になって幾人かは彼について(譬え話としてこんなことを)言ったのである。彼は賢人たちを東洋(オリエンテ)からよく導いて来たが、彼らといっしょにベツレヘムで厩の中へ入らなかった星のようだ、と。なぜならば、彼は〔既述のように〕その妻子や親族の者にキリシタンになるように勧め、そして事実彼らはキリシタンになったが、その数年後、〔彼は信仰を棄てたのか、キリシタンであることをやめたのか判明しないとはいえ〕、いずれにせよ異なった道をたどるに至った。というのは、かの薩摩国は非常に山地が多く、したがって、もともと貧困で食料品の補給を他国に頼っており、この困窮を免れるために、そこで人々は多年にわたり八幡(バハン)と称せられるある種の職業に従事している。すなわち人々はシナの沿岸とか諸地域へ強盗や掠奪を働きに出向くのであり、その目的で、大きくはないが能力に応じて多数の船を用意している。したがって目下のところ、パウロは貧困に駆り立てられたためか、あるいは彼の同郷の者がかの地から携え帰った良い収穫とか財宝に心を動かされたためか判らぬが、これらの海賊の一船でシナに渡航したものと思われる。そして聞くところによれば、そこで殺されたらしい。おそらく彼は死に先立って自らの罪を後悔し、立派に死んだのであろう。だがそれは不確かなことであるし、私たちは彼の最期について以上の情報以外のことは何も知っていない。

 ************** 


 では、フロイス『日本史」以外の、パウロ・デ・サンタ・フェ(弥次郎)の「最後」はどのように
 記されているのか? 次に確認したい。


 因みにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「ヤジロウ」にはこうある。

 「・・・その晩年については不詳であるが、上記フロイスの記述によれば、ザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊の生業に戻り、最後は中国近辺で殺害されたという。またフェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば、仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたという(岸野久『ザビエルの同伴者アンジロー』、191-197頁。)」

  続く。 



●岩屋天狗と千年王国 <19>
 ●『フロイス・日本史』より、「ヤジロウ」に関する章の紹介を続ける。 

(一五四九年一月二十五曰付、ゴア発信、コスメ・デ・トルレス師より、ボルトガルのイエズス会修道士らに送った書簡)

 (前略)八月二十曰、本年になって初めてヨーロッパから司祭たちが到着した数曰後に、メストレ・フランシスコ師はコモリン岬のキリシタンたちを訪問に出かけました。司祭は私に、以前からしていましたように、司祭館(カーサ)に来る子供たちに聖マテオ福音書の講話を続け、毎日曜日の午後には教会において、特に新たに改宗した人たちにも同じ話をするよう命ぜられました。またメストレ・フランシスコ師は、日本(Iapao)という名の国について話されました。あなた方はその国民についての覚書とか素質について近くお知りになることと存じますが、フランシスコ師は、コモリン岬から帰れば私をかの国に伴って行きたいと申されました。秋はその申し出をさっそく承諾して、それこそ我が主の大いなる御恵みであると信じ、司祭が私に示されました大きい愛と、私を選んで下さったことに対する感謝として、司祭が赳かれるところへは、どこへなりと従って行く覚悟でおります(中略)。

 この学院にはパウロと称する一人の若者がいますが、彼は先に記しました日本という国の出身です。あなた方は彼の書簡を御覧になるでしょうが、
彼は明晰な判断力の持主で、デウス様について深い知識を備え、優れた記憶力と才能の持主でもあります。私は彼に☆心霊修行を指導することになりました。またすでに二度にわたって彼に聖マテオ福音書の説明をしましたが、二度目には、第一章から終章まで全部説明いたしました。彼はキリシタンになって六ヵ月になります。 

 註:☆心霊修行については、ロヨラ著『霊操』(岩波文庫、1995年)に詳しい。
   ☆メモ: 『クアトロ・ラガッツィ』文庫版上-p250


 本年一五四九年の四月に、私たちは日本国に向かって出発いたしますが、秋のほかに誰が行くようになるか今のところ決ってはおりません。私たちはことに二つの理由から、かの地で大いなる成果を挙げ得ることと期待しています。その一つは、彼ら日本人が、今有している宗教よりももっと優れた宗教を持つに至ることが明らかに予言できるからであります。もう一つの理由は、かの国の僧侶や修道者たちが新しい我らの教えを大いに知りたがっているという事実であります。それらはメストレ・フランシスコ師に大きい成果を挙げさせることになるだろうとの希望を抱かせるのです(以下略)。

    一五四九年一月二十五日、ゴア市のサンタ・フェの学院より。
                無益なる僕コスメ・デ・トルレス」

 *****************

 我ら、五名の司祭と六名の修道士は、一五四八年にポルトガルから(インドに)来て、ゴアでメストレ・フランシスコ師に会った。彼は日本へ渡る計画で多忙であり、同所のサン・パウロ学院には、修道士のように装った上記のパウロ・デ・サンタ・フェ(弥次郎)がいた。彼は三十六、七歳くらいと思われた。彼は我らといっしょに食堂で食事をし、修道士たちのように毎土曜日に告白をし、日曜日には聖体を拝領した。彼は二十日間以上もイエズス会の心霊修行を行ない、ついで自ら伴っていたジョアンという教名のその兄弟にもその修行をさせた。その少し前に、スペイン人のコスメ・デ・トルレス師が、ゴアで(イエズス会員に)採用されたが、彼はノヴァ・エスパーニャからマルコ(モルッカ諸島)を経由して来たのである。メストレ・フランシスコ師はトルレスに対して、バウロ・デ・サンタ・フェ(弥次郎)がデウスのことにいっそう理解を深めるよう、聖マテオ福音書の言葉の意味を、毎曰一定時間、弥次郎に説いてもらいたいと特に依頼するところがあった。ところで弥次郎は、はなはだ有能であって、聞いた人がすべて理解できる程度まで、すでにポルトガル語を話した。そして教わったことすべてに対して理解力を示し、信仰に関して聞いたことすべてを彼の曰本文字で書き留めようと努力した。そこでコスメ・デ・トルレス師は彼に二度、聖マテオ福音書を説明したが、コスメ・デ・トルレス師が書簡で報じているところによれば、彼は二度目には、第一章から終章まですべて記憶したということである。かくて彼は同所にいた六ヵ月間、ポルトガル語の読み書きを学習することに専念し、その点で学院中、彼に優る者はほとんどいないほどにまで著しく上達したし、他方、彼は自ら模範を示して人々を大いに感化した。

 一五四九年の四月、ドン・ジョアン・デ・カストゥロの後継者ガルシア・デ・サーがインド総督であった折に、メストレ・フランシスコ師は、曰本の国王ならびに諸侯の許へ贈物としてもたらすための相当な数の品を調達した後、ゴアを出発した。彼は七名の人々を伴った。すなわち、コスメ・デ・トルレス師、コルドヴァ出身のジョアン・フェルナンデス修道士、パウロ・デ・サンタ・フェ(弥次郎)、その兄弟ジョアン、およびアントニオという名のパウロの日本人召使い(criado)、また二名の従僕(mossosu)で、一人はアマドールというマラバール人、他はマノエルというシナ人であった。

 当時はまだ日本への航海は定期的に行なわれておらず、ザビエル師はマラッカに至った際、そこには日本へ乗せて行ってくれるようなポルトガル船を見出し得なかった。だがこの企てに対する彼の願望は非常なもので、その心には日本人の霊魂を救いたいという聖なる熱意が激しく燃え立っていたので、彼は自ら危険に曝されていることも忘れ、一人の異教徒のシナの海賊に身を託した。この海賊は、マラッカの司令官ドン・バウロ・デ・シルヴァに対して保証金を支払い、司祭たちを年内に日本へ連れて行くことを約束した。彼はマラッカで世帯を持っており、アヴァンと称した。 ・・・以下略・・・

 **************


 〔註〕


 フロイス・『日本史』を続ける前に、言わずもがなかも知れないことだが、いくつか確認しておきたい。

 この大航海の時代、日本はといえば戦国時代の末期で下克上の時代、戦争は日常茶飯事、武力が全てで命の軽さが突出した時代であった。

 こういう時代に期待さるべき宗教(仏教)界もその莫大な財産を戦争に費やしていて、「慈悲」も「祈り」も放り投げられてれていた。

 後にフロイスも記しているが、イエズス会はその日本、日本人批判として、主に次の三点を挙げた。

1 偶像・物質崇拝

2 男色(武将・僧侶)

3 堕胎や「子殺し」、棄児(捨て子)、「間引き」
  (一般に、避妊の知識はない。)

 しかし同時にフロイスは、打ち続く戦争が生んだ物価騰貴と飢饉により、「・・・男も女も痩せ衰え、目を窪ませ、色つやを失った黄色い顔をしていた。この土地の荒廃と困窮は死の絵姿ないしは描写であった。人々は食べ物を求めて山中に草の根を求めて掘った・・・」が力尽き「・・・草の根を握ったまま死んでいる死体があった。」と当時の山口の様子を紹介している。

 「・・・世間は滅ば滅よ。」という時代が産んだ上の「3点」だとも言える。

 **************

 一方、訪問者・ザビエルのイエズス会を見てみると。

 ★イエズス会〔Societas Jesu〕:カトリック教会内の男子修道会のひとつ。司祭修道会。

1534年 モンマルトルの誓願-貞潔・清貧・エルサレム巡礼
<世界宣教>
    -パリ大学の6人の同志。
(ロヨラ、ピエール・ファーヴル、ザビエル、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、シモン・ロドリゲス)

    以後ポルトガル王・ジョアン3世がイエズス会に対して
    アフリカ、インドへの宣教を要請し始める。

1540年 教皇・パウロ3世 イエズス会を認可
    (総長:イグナチウス・デ・ロヨラ)
    カウンター「宗教改革」としての組織。

    イエズス会の世界宣教始まる。

1541年 ザビエル、インドへ出発

1549年 ザビエル、日本到着

1556年 ザビエル、死去。

★会員数

1534年 7人(司祭1人)
1540年 10(司祭10)
1556年 約938
1610年 13112

1773年(解散)22589(司祭11293)

1814年(再興)約600人


1995年 22869人 


     日本:306人
 
     中国:282人
     韓国:115人
     インドネシア:442人
     フィリピン: 353人


 **************


 ●『日本史』 第二章(第一部二章)

 ★彼らが曰本に渡った次第、および彼らが薩摩に滞在中に生じたその他のこと


 彼らは同じ一五四九年の洗礼者・聖ヨハネの祝曰にマラッカを出帆した。途次、彼らは、メストレ・フランシスコ師が詳細にその書簡の中で報じているように種々の困難や辛苦、危険に際会したが、我らの主なるデウスは、一行がいとも長く危険な航海の後、ついに一五四九年八月十五曰、すなわち天使たちの栄光の女王(マリア)被昇天の祝曰に、薩摩国の首都・鹿児島の港市に至ることを嘉し給うた。上陸後、彼らは市(まち)の代官を訪れ、ついで司祭はそこから五、六里離れたところに住んでいた国主(レイ)を訪問した。ザビエルは異国人であったので、国主から歓待された。ところで司祭がもっとも願っていたのは、特に曰本中の最強の国主の許へ出向くことであり、都(ミヤコ)に居を構えている(天)皇(オウ)は、もはや前任者たちほどの権威をなくしているとは言いながら、全曰本六十六ヵ国における最高にして正統な君主であることを彼は聞き知った。そこで司祭は薩摩の国主に対して、自分を都へ派遣してほしい、またそこへ行くことができる船を用立ててもらいたいと切に要請した.国主に喜んでそれに応ずる態度を示し、いつもの航海の季節となって都に行くために好都合な風が吹くようになれば、万事において好意と援助を授けよう。たが目下のところは国内で戦争が行なわれていて、今は希望に応じかねる、と言った。そこで一行は彼が約束を果す日を待ち続けたが、彼は決してその約束を履行しはしなかった。

 彼らは鹿児島に滞在中、ただちに信仰の最初の基礎づくりを開始したが、日本語の知識がないために非常た不自由を忍んだ。というのは、当時彼らが知っていた日本語といえば、フェルナンデス修道師が、インドからの航海中に、かの日本人たちから教わった程度に過ぎなかったからである。彼らは日中の大部分は近所の人たちとの交際に忙しく、夜は祈ったり、非常な熱心さで初歩の日本語を学ぶために遅くまで眠らずにいた。ほんの少しばかり日本語が判るようになっていたメストレ・フランシスコ師とジョアン・フェルナンデス修道上が、こもごも異教徒たちが提出する質問に答えたり、彼らの質疑を解くことに一日中を費やして過した。司祭はさっそく、パウロ・デ・サンタ・フェ(弥次郎)の妻、および彼の親族や友人たち、また市(まち)の外から説教を聞きに来た幾人かの人々に洗礼を授け始めた。これらの人たちの中には一人の老人がいて、司祭から★ミゲルという教名を与えられたが、彼は新納(ニイロ)伊勢守殿という異教徒の殿の家臣であった。その殿には二人の夫人と数人の子供、および大勢の一族郎党があり、殿は鹿児島から(六)里距たった市来(イチク)なる城に住んでいた。

 *************


 慣れない国の厳しい旅を歩きぬき彼らは山口(周防国の首都、国主:大内義隆)の市(まち)に至った。当時日本有数の勢いのある都市である。
 ある高い身分の人物の仲介で大内義隆と相対したザビエル(一行)は、義隆の質問(いかなる教義をここで説きたいのか?)に対して、率直に前記3点を挙げて、日本人の誤りについて述べた。


 「・・・ 禽獣より下劣であると(ザビエルは日本語に訳してあった「帳面=カルタパシオ」に拠って)述べた。この箇条が読みあげられると、国主(義隆)はただちに心に強い衝撃を受けたらしく、この教えに対して激昂したことを表情に表わしたので、上記の貴人は彼ら(ザビエル一行)に退出せよと合図した。そこで彼らは国主に別れを告げたが、国士は彼らに一言も応答しなかった。ともあれ修道士は、国主が自分たちを殺すように命じるだろうと考えた。

 その翌日、司祭は国主の裁定なり許可をこの上待つことなく、山口の街頭で説教することを決意し、それを次のように実行した。

 彼らは、人の集まりがより多い街路や道の四つ辻に立って、修道士がまず翻訳した書物(「帳面」)から世界の創造に関する箇条を読んだ。そして彼はそれを読み終えると、ついで人々に向かい、日本人はことに次の三つの点て何という大きい悪事を行なっていることかと大声で説いた。

 第一は、日本人は、自分たちを創造し、かつ維持し給う全能のデウスを忘れ、デウスの大敵である悪魔が祀られている木石、その他無感覚な物質を礼拝していることである。
 第二は、日本人が男色という忌わしい罪に耽っていることである。-修道士は彼ら(聴衆たち)に、その罪がいかに重く汚らわしいかを訓戒し、天地の主なるゼウスがこの悪行のために、極度に重い懲罰をこの世で与え給うたことを人々の眼前に思い浮ばせた。
 第三は、婦人は子供を産むと、養育しなくてよいように殺してしまったり、胎児をおろすために薬を用いること。-それはきわめて残忍かつ非人道的なことである。

 修道士が人々にこのように説教していた間、司祭は彼の傍に立って、修道士の説教に好い成果があるようにと、また聴衆たちのためにも心の中で祈っていた。

 そして彼らは連日、説教して歩き廻ったので、山口の市は非常に大きく人口も多かったが、人々が群集する通りや四つ辻で彼らが説教しないところはなくなるに至った。ところで彼らは、わざわざ呼ばれて行って多くの貴人の邸宅でも同じように説教をしたのだが、ある人たちは暇つぶしに、またある人は新奇なことを聞こうとして招いたのであり、なかには彼らをからかう者もいれば、また彼らに好意と同情を表わす者もあり、ある者は軽蔑の色を示したりした。ともかくその連中は、そうすることによっておのおのがいかなる人物であるかを示したのである。

 これらの人の中には、見受けたところ、座興なり暇つぶしに司祭らを招かせたらしい一人の身分の高い貴人もいた。修道士が彼の家で、世界の始まりのこと、ルシフェル(悪魔)が自らの傲慢さのために地獄へ落された次第、また傲慢な人だけ、それと同様に悪魔の手に渡され、永遠の闇に投ぜられて、無限の呵責と苦痛を忍ばねばならぬことなどを読み上げると、その貴人は、修道士が語ったことに対して軽蔑した態度を示し始めた。だがメストレ・フランシスコ師は彼を訓戒して、たとえあなたは自分が強いと見なしていても、自分の罪に思いを致して涙を流し、謙虚にならないならば、デウスは地獄の呵責を加え辱しめ給うだろうと言った。それを聞き、ことに謙虚になって自分の罪を悲しまねばならぬと聞くに及んで、その人はいっそう嘲笑した。・・・以下略・・・。」


 如何なザビエルもこれでは、諦めざるを得ない。


 **************

  続く。                      
 



●岩屋天狗と千年王国 <18>。
                         キリスト教と日本人_1


 いま少し、〔岩屋天狗〕に拘りたい。

 文中で引用・紹介された著作を関連箇所を主に紹介していく。 
 

 ●『西郷隆盛』 さいごうたかもリ

 昭和42年(1967)10月25日、人物往来社の近代人物叢書・6として書き下ろされ、
 刊行された。 


 巻末【「西郷隆盛」刊行に際しての作者のことば】 より。

 ***************

 はじめに

 西郷隆盛については、諸家の立派な著作が数多くある。
 小説書きの私が、未熟な西郷伝を書くまでもあるまいと思ったのだけれども、過去に、桐野利秋(中村半次郎)を主人公にした『賊将』という戯曲と『人斬り半次郎』の長篇小説を執筆した折、私は私なりに西郷の印象をとらえてい、それがまた西郷への親密感を増大させるばかりとなっていたものだから、ついつい本編の依頼を受けてしまった。
 そうした自分一個の印象を基盤に、この一冊を一気に書き終えたところである。


 こうして、久しぶりに西郷の人生をふり返って見ると、いよいよ、彼の腹中に存在し、彼自身が洩れあかすことのなかった巨大・複雑な数多の〔秘事〕の深淵をのぞき見るおもいがした。

 この〔秘事〕が判然とするなら、維新動乱と明治新政府発足に至る〔歴史〕には、おもいもかけなかった〔事実】が浮き上がってくるであろうが・・・。


 しかし、西郷はこれを語り残すことなく世を去った。

 本書は、あくまでも忠実な彼の伝記ということであるから、私も小説書きとしての想像をのばし、ひろげることをつつしんだ。
 とはいえ、書きすすむうち、おもわず西郷の心事へひきこまれてしまい、それが彼のことば(台詞)となって紙面へおどり出てしまったことまでは、あえて、つつしむことをしなかった。

 過去の時代と、その時代に生きた人物を現代生活の〔呼吸〕の上から勝手に解釈し、論断を下すことは新鮮でもあるし、当然な〔手法〕でもあろう。
 だが本編では、つとめて西郷隆盛が生きていた時代に自分も〔呼吸〕しているつもりで筆をすすめた。

  昭和42年晩夏                          池波正太郎

 *************

 以上、下記から引用しました。

 『完本池波正太郎大成』 第三巻 スパイ武士道

 1999年9月20日第一刷発行(第十六回配本)著者 池波正太郎
 発行者‐ 野間佐和子
 発行所 株式会社講談社

 収録作品は、★スパイ武士道 ★さむらい劇場 ★西郷隆盛 ★蝶の戦記。

 ***************

 次は、ルイス・フロイス「編集」になる、〔弥次郎☆像〕とも言うべき章の紹介(適宜略しながら)です。
 
 ●完訳フロイス日本史<6>
  ザビエルの来日と初期の布教活動 


 ■第一章(第一部一章)

 ★イエズス会のメストレ・フランシスコ・ザビエル師が聖なる福音を伝えるために、曰本島に赳くことを決意した次第

 我らの主なるデウスは、曰本人が、自らの創造性に関して、真の知識と認識からおよそ遠ざかっており、同様にいとも長らく、諸地方にかなり分散して生存して来たのに鑑み、その暗闇の世界と偶像崇拝の国へ、輝かしい温情の燭光と奇しき慈愛の光明を投げかけることを望み給うた。そして大いなる恩恵をもって彼ら(の霊魂)を救済せんものと、一五四八年に、メストレ・フランシスコ師がマラッカにおいて、
☆弥次郎(アンジロウ)-後にパウロ・デ・サンタ・フェ(聖なる信仰のパウロ)と名付けられた-という一人の身分ある異教徒の曰本人と邂逅するよう取り計らい給うた。フランシスコ師は、それより先、聖なる熱意と宗教的な愛情から多大の労苦、艱難、辛苦を冒して、マルコ地方(モルッカ諸島)で未開人の多数の霊魂をキリスト教に改宗させ、そこからインドに帰るために、その市(まち、マラッカ)に来たのであった。一方弥次郎は、まさにその司祭の高徳および使徒的生活の名声を慕い、彼に会おうとしてシナから来たのである。弥次郎はメストレ・フランシスコ師に、日本の特質、曰本人の知識、文化、理解力、および我らのカトリックの信仰を受け入れるに足りる大いなる能力や適性について非常に詳しく的確に報告するところがあったので、司祭の心は大いに動かされ、東インドの各地で彼が実行することになっていたすべての他の計画や希望を留保してまでもこの日本伝道の企てを実現しようとの心からの喜び、情熱と欲求に燃え立った。そして彼はただちにその非常な熱望を実行しようとして、準備のためにインドに赳いたが、かの弥次郎もそこへ折よく到着した。弥次郎はついでゴアの(サン・パウロ)学院でキリシタンになった。

 ところでこの歴史の最初の事情〔彼らがゴアを出発して曰本に到着するまでのこと〕はメストレ・フランシスコ師、その伴侶・コスメ・デ・トルレス師、およびパウロ・デ・サンタ・フェたちがその初期に書いた数通の書簡に見られる明白な報告や情報に基づいているので、それらを順次ここに再録し、ついで編年的に、また曰本で生じた一巡の事件に従って、この歴史を語り続けてゆくことにする。

 **************


 ●ブロガー註:


 ここで☆弥次郎(アンジロウ・Anjiro・ヤジロウ)について、主に
★大住広人著・『ザビエルとヤジロウの旅』(葦書房、1999年刊)に拠って記しておく。

 「アンジロウ」という男が鹿児島にいたのは確かなことだが、その男がアンジロウなのか、ヤジロウなのか、弥次郎なのか、安次郎なのかは不明である。
 記録に残されているのはスペイン、あるいはポルトガル語で書かれた文章の中のAnjiroという綴りだけである。

 男の名を最初に〔Anjiro〕と綴ったのは聖フランシスコ・ザビエルだ。それは、1548年1月20日付けでローマのイエズス会員宛に送ったスペイン語の手紙で、写本が残されている。ザビエルには、〔アンジロウ〕と聞こえたのだろう。
 因みにザビエルは、後の手紙の中で〔山口〕を〔Amanguchi〕と綴っている。

 また、有名な日本語の達者な「通辞」ことジョアン・ロドリゲス(ポルトガル人・司祭)は、その著書の中で、「いろいろな書物には間違ってアンジェロ〔 Angero〕 と書いている」と断じ、自信をもって〔Yajiro〕と綴っている。

 ****************


 引用紹介を続けます。

 
 (一五四八年十一月二十九日付、ゴア発信、曰本人パウロ(弥次郎)より、ローマのイエズス会創立者メストレ・イグナティウス・デ・ロヨラその他、同会の司祭、修道士に送った書簡)

 *ローマとポルトガルに写本が残るこの手紙の原文はポルトガル語で、
   ポルトガル語ネイテイブの指導はあっただろうが、ヤジロウ自身が書いたものとされる。
  
 「(前略)私は、曰本国において異教徒でありました時に、ある理由によって一人を殺し、(役人の手から)免れようとして、我が国の修道者の僧院〔当地の教会のようなもの〕に逃れました。この時、貿易のためにそこに来ていたポルトガル人の一船がありました。彼らのなかに、私が以前から知っていましたアルヴァロ・ヴァスという人がおりまして、彼は私のことを聞くと、自分の国に行きたくないかと問いましたので、私はそれを望むと答えました。すると彼はまだ用務を終えておらず、なお逗留せねばならぬので、同じ海岸の他の港にいましたドン・フェルナンドという貴人に宛てた書簡を与えよう、と申しました。私は捕えられないようにと、夜中に出発してその人を訪ねましたところ、思いがけなく、別の船長でありますジョルジェ・アルヴァレスというポルトガル人に会い、ドン・フェルナンドであろうと思ってその人にアルヴァロ・ヴァスの書簡を与えました。ショルジェ・アルヴァレスは私を同伴して大いに歓待し、その船で連れて行き、彼の親友でありますメストレ・フランシスコ(・ザビエル)師に私を託そうと欲しました。そしてその司祭様の生活と業績を私に語りましたので、私は大いにその方にお会いしたいという望みを起しました。航海してマラッカに到着しましたが、ジョルジェ・アルヴァレスは、その途中、キリシタンになることについて私に教えるところがありましたので、私は洗礼を受けたい気持になり、その希望はますます盛んでしたから、マラッカに着きました時に、もしその他の司祭様が私に洗礼を授けましたならば、キリシタンとなったでありましょう。ところ、がその司祭様は、私が何者であるか、また私の境遇はどうかを訊ねましたので、私はすでに結婚しており、また自分の家に帰ろうとしていると述べましたところ、帰国して異教徒の妻と同棲してはならぬ、と言って洗礼を授けることを禁じました。

 この時、我が国に向かう季節風期となりましたので、私はシナ行きの船に乗り込み、シナからは他の船で日本に渡ることにしました。シナに着いて後、七、八日路〔約二百レーグアですから〕の日本への航海につき、すでに日本に近づいて日本の海岸を離れること約二十レーグアのところで日本を認めました時、陸地から船首に向かって暴風が吹き、非常な暗黒となり、どうすることもできず、暴風は四日四夜継続し、船ははなはだしい窮状に陥りましたので、私は主の御憐れみを大声で求め、私たちは、先に出航したシナの港に帰るのやむなきに至りました。シナに帰って暴風はやみましたが、私はキリシタンとなって信仰について教えを受けたいとの希望は変りませんでしたから、進退を決することができないでいましたところ、この時、先に我が国において、まず私と語り、私に南方へ行くように促しましたアルヴァロ・ヴァスに出会いました。彼は私がマラッカから帰り、暴風のために自分と再会するに至ったことを驚きました。そしてその船がマラッカに行く準備が整っていましたので、彼は自分とともに引き返すようにと勧め、ロレンソ・ボテリョという人もまたそれを勧告しました。両名ともに身分のある人で、彼らは、もしこんどふたたびマラッカに帰れば、メストレ・フランシスコ師はすでにその地におられるはずであり、また司祭様の一人が、私といっしょに日本に行くことになろうと申しましたので、私は彼らの言うところはもっともであると思い、喜んでその航海につきました。

 マラッカに着き、最初、私を伴いましたジョルジェ・アルヴァレスに会いましたところ、彼は、すでに同地におられましたメストレ・フランシスコ師の許に私を案内し、聖母の教会で司祭様が結婚式を司っているところで私たちは出会い、アルヴァレスは私のことを詳しく司祭様に語りました。

 メストレ・フランシスコ師は私を見、私を抱いて非常にお喜びになりましたが、この事実はデウス様の定め給うたことであると、私は心の中でますます感じるに至りました。私はフランシスコ師に会って大いに慰められ満足いたしました。私はすでに少しばかりポルトガル語を理解し、また数語を話すことができましたが、司祭様は私が前記のジョルジェ・アルヴァレスとともに、当ゴア市に来て、サン・パウロ学院に入るようにお命じになりました。フランシスコ師は、別の路を経てコモリン岬のキリスト教徒たちを訪問し、そこから当学院に来られましたが、あまり遅れることなく、私が一五四八年三月の初めに学院に着きました一方、その後、四、五曰を経てメストレ・フランシスコ師が到着されましたことは私の非常な喜びでありました。なぜならば私は、初めて彼に会った時から、大いに感銘を受け、彼に仕え、決して離れたくないと希望するに至っていたからでございます。

 当学院に入って学び、信仰のことについて教えを受けました後、本年五月、聖霊降臨祭の祝曰に、大司教座において、司教様から洗礼を授けられました。同じ曰に、私が曰本から伴って来て当地に留まっています従僕一人も洗礼を受けました。私は万物の創り主であられるデウス様と、我らを救うために十字架にかかり給うたイエズス・キリスト様により、その栄光を高め、信仰を弘める身となることを希望し、限りない恩恵に浴し、この信仰の真理であることを確信いたします今、まったき安らぎを覚えるのでございます。当学院の司祭様方が申されますように、私をして、容易に主なるデウス様のことを心に刻み、これほど短期間に、よく読み書きを学び、聖マテオ福音書のように高尚な教えを受け入れ、それを記憶に留める才能と記憶力、および意志を授け給いましたデウス様の恩寵を忘れることがないようにしていただきたいと祈り奉ります。右の福音書の要点は、我が曰本の文字でしたためて記憶の便を計りました。右の曰本文字を尊師にお目にかけます。我らの主への愛による尊師らのお祈りによって、主が私に与え給うた御恵みを私が空しくすることなく、その讃美と栄光になるに至らしめ給いますように。このことが良い結果を収め、我らの主なるデウスが、ほどなく曰本へ出発されることになっていますメストレ・フランシスコ師を助け、また私にはその愛のため、もし必要ならば百度生命を捧げるほどの強い信仰の保待者とならしめ給わんことを。
 私にはメストレ・イグナシオ(・デ・ロヨラ)師とメストレ・シモン(・ロドゥリーゲス)師、およびイエズス会の他の司祭や修道士の皆様が絶えずデウス様にお祈り下さることが必要でございます。なぜならば、我らの主によって、日本において大いなる収穫を納め、私たちの生存中にイエズス会の学院がその日本の地に建てられるのを見ることを期待し、デウス様が大いなる栄光を受け給い、日本がイエズスによって信仰に進むよう望むからでございます。
                      一五四八年十一月二十九日、ゴアのサン・パウロ学院より。
                      僕なる日本人パウロ・デ・サンタ・フェ」
                      *Paulo de Santa Fe 弥次郎

  ***************

  続く。
                   
 



●岩屋天狗と千年王国(17)
 ■明治六年政争の真相
 
 ★事態の転機・岩倉の帰朝  

 九月十三日岩倉、伊藤帰朝、十五日三条、岩倉は大久保参議起用を協議、三条はその過刻後岩倉へ「もはや今日にて兎角公論衆議に決し侯様之れなくては然るべからずと至極御同意仕り侯、右についても大久保木戸の両氏政府に出勤の運びに相成らず候ては百事治まり申さず候」と手紙したが、この「百事」の意味については一般的に、山城屋和助公金費消問題、大蔵省予算紛糾、島津久光問題、樺太問題とされていることからしても、九月十五日迄は征斡論問題(とされているもの)は未だ成起していなかったといえるのである。

 九月二十一日大久保関西より帰京、二十六日、大久保は三条、岩倉へ「小臣の心緒かねて御了察もあらせられ侯あいだ何卒御垂憐、断然御止め下され侯」と参議就任を拒否する理由については、三条が二十九日岩倉へ送った手紙に「縦令旧県云々の事は如何相成侯とも、廟堂に相立ち申さずては、全国の維持如何と苦慮仕り侯、同人(大久保のこと)の進退大関係ある事と存じ候えば、只管同人の拝命を祈念仕り侯」と誌したごとく「旧県云々の事」が大久保の就任を邪魔していると誌し、毛利敏彦氏は、この旧県云々の意味について、島津久光への懸念、顧慮とされているが、当時久光は、大久保自身が「散々の風評」で鹿児島へ帰ったままであると誌したごとく、中央においてはその政治的発言力はなかったのであるから、大久保には、久光の存在を懸念する気遣いはなかった筈である。

 では「旧県云々」とは何の謂だろうか? 旧県とは、その文字通り、旧薩摩藩内のことで、それは、幕府倒壊後、悠然として豪直な薩摩人士を勃怒せしめていた岩屋梓梁顕彰の問題で、三条はそれを「薩摩藩時代の事は如何相成っても構わないが、何よりも、大久保が廟堂に立たないことが全国の維持に大関係がある」と二十九日附の岩倉への手紙に誌したわけである。

 九月二十七日、西郷は、三条に対し、朝鮮使節決定が遅れていることを詰問したため、三条は二十八日岩倉に「朝鮮事件、西郷頗る切迫」と痛心を訴えた。そのため岩倉は三十日西郷を訪ねたが、西郷は岩倉を、使節裁下遅延について強く詰責した。同日、大久保は岩倉への手紙で、参議就任のことを「甚だ当惑」として拒否した。

 このころの★伊藤博文の、奇勁却略な裏面画策の凄まじさについては徳富蘇峰も驚嘆されている通りであるが、伊藤が最終的に西郷の朝鮮使節に反対するに至った理由は、西郷朝鮮使節の目的が朝鮮における岩屋梓梁の事蹟調査にあることを知ったからである。伊藤は、かつて、岩屋梓梁を顕彰せんとした★塙次郎(廃帝の事蹟調査)を暗殺したことがあるように、素々岩屋天狗が世に出ることには反対だったのである。伊藤が西郷のことを「ユタのことだよ」と称したゆえんである。

 由来、長州藩は易断政府(現在、石山本願寺の一向一揆として歪曲されている)を支援してきたのであるが、易段政府が言長によって討滅されて後、秀吉が本願寺(家康は東本願寺)の名において再興させて以来、長州藩は西本願寺といたく親炙してきたのである。

 だから長州藩には、秀吉の制禁(岩屋梓梁抹殺令)以来、西本願寺において、妖僧、怪憎、蕃僧として筆洙されている岩屋梓梁の存在を極度に忌避する藩風が形成されてきたのである。薩摩藩が藩是として徹底的に★一向宗を禁圧してきた理由が、一向宗の存在は、一向宗を布教した岩屋梓梁の存在露呈に通ずるとしたのと一般であるが、そういう歴史的経緯を知っていた西郷は、その草稿(島津家編輯所写、西郷草稿)に「本願寺において正しい宗旨と善き僧を撰み、御居付相成侯はば偏理を破り候害も無之」と誌したごとく、藩内における真宗(一向宗)布教に反対する見解はもっていなかったのである。

 ★九月三十日、西郷の真意初めて判る

 九月三十日西郷を訪ねた岩倉は、西郷との問答で、西郷の朝鮮使節の副次的目的が、岩屋梓梁の朝鮮における史料、史蹟調査にあることを確認したので、岩倉はそのことを大久保への書翰で「今日西郷方へ行き向き侯ところ、朝鮮事情頻りに切迫論にこれあり侯」と誌したが、この日を境にして「百事問題」(前出)などはふっ飛んで、参議論争は、西郷朝鮮使節可否論争というよりも、★岩屋梓梁顕彰可否論争となったため、岩屋梓梁抹殺策を執った明治政府は、後世、それを「征韓論争」だったと歪曲して真相を封じたのである。

 十月八日、三条、岩倉は大久保を岩倉邸に呼んで参議就任を説得、漸くその承諾を得たが、その時大久保は、両大臣に、参議拝命の条件として、西郷使節を認めてもその出発を延期(五十日、副島伯、『異端記』他)する方針を、途中で変節しないという約定書を大久保に渡すことを要求した。

 五十日間延期せしめることの理由について、大久保は「内務省整備確立」にあると称したと誌されているが、筆者の記録には、その本当の狙いは、西郷使節が出発する前に、重野安繹を渡鮮させて、朝鮮政府に図り、岩屋梓梁関係の史料を焼却、隠蔽、少くとも西郷に披見させないよう工作することにあったと誌されている。

 明治政府が、西郷鹿児島退隠後の明治八年、軍艦を派して江華島を攻撃、翌九年、日鮮修好条約を強圧したゆえんの重大な目的の一つに、朝鮮における岩屋梓梁関係史料を早急に調査することがあったことを知らなくてはならない。

 西郷使節出発延期を図ったことの理由に関して大久保は「此の難小子にあらざれば外に其の任なく、残念ながら決心いたし候」と自記しているが、これは、大久保が、関西における国友衆調査結果を証拠として、いざとなったら、西郷渡鮮の目的が、朝鮮の歴史調査にあることを理由として、
西郷朝鮮使節を拒否することができる自信があることを豪語したものといえるのである。

 しかし、西郷には西郷で大きな懸念があった。それは、尖鋭過敏な真方衆が指導する国友衆の存在が、大久保の関西調査によって、それが革命、暴動化するものだなどとして誤解され、ひいてはそれが、西郷朝鮮使節派遣拒否の理由となることを恐れたので、西郷は、十月十一日附三条への手
紙に「今に至り、御沙汰替り等の不信の事共相発し侯ては、天下のため勅命軽き場に相成り侯。若哉相変じ候節は実に致し方なく、死を以て国友え謝し侯迄に御座侯間、其辺の処は何卒御隣察被成下置度、是又奉願候」と誌して、暗に、国友衆に関する誤解を解こうとしたのである。

 十月十二日大久保、十三日副島参議拝命、十四日、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、参議・西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象次郎、江藤新平、大木喬任、大久保利通、副島種臣(欠席:木戸孝允)計十名による閣議が開催された。

 通説では、この時の閣議で、西郷は征韓を主張し、大久保は、征韓戦争の「不利益七カ粂」(これは、朝鮮開戦を前提として、
(一) 開戦の混乱に乗じて不平士族が反乱を起こす危険がある。
(二) 戦費の負担が国民の反抗を招く
(三) 政府財政の破綻
(四) 国際収支を悪化する
(五) 露西亜に跳梁の隙を与える
(六) 英国の内政干渉を招く
(七) 条約改正に支障となる とした)を唱えて論争したものとされているが、この七ヵ条なるものが、西郷が征伐を決意し、開戦を主張したことを前提して論旨していることからしても、これが、後人(恐らく重野)の作為であることは明らかである。大体が、征韓論争なるものの議事録がないことからしても奇怪なのである。

 ★西郷使節決定

 十月十五日再び閣議が開かれたが、西郷は、主張すべきはすでに主張したとしてこの日は出席しなかったため、主として、岩倉、大久保と江藤の論争であったが、帰するところ、大久保も異存なしとして西郷使節が閣議決定したのである。

 しかし、大久保の箱根天皇工作(【一ノ秘策】)の情報を得た西郷は、大久保昔年の奸才モウ猾ぶりと黒田が箱根行在所へ密行したことを知ったため、その十五日の閣議決定を危うしとする山場とみて、十五日附太政官へ提出したのに始まる十七日までの三日間にわたり「朝鮮御交際の儀」と首記した形行書(なりゆきしょ)を諸重臣に提出したが、西郷がこの始末書を太政官等に提出した狙いは、徳川幕府によって歴史から抹殺されている岩屋梓梁の存在の歴史的取扱いについて明治五年五月以来幾度か論争したことのある歴史家・重野安繹が参議論争の裏面で策謀しているため、西郷は、後世において、明治六年の参議論争の経緯に関する正しい史実が歪曲されることを恐れて、太政官に正しい経緯を誌した始末書を遺して後世に伝えんとしたのである。

 この始末書の価値について、毛利敏彦氏は「過去百年間にわたって、西郷を征韓論者視してきた通説において、この『始末書』がまともに検討された形跡がないのは不可解の極みであるといえよう」と慨嘆されているのである。

 八月十七日の閣議で西郷使節が正式に再確認されて、後は、天皇の裁可を迎ぐ手続き上の問題だけとなった。

 ところが大久保は、自分は「ただ命に従った」だけであるのに、三条と岩倉が変節して西郷使節を延期しなかったのは、二人が大久保へ渡した約定書の約束を裏切ったからだとして、十七日朝三条を訪ねて「奉職の目的相立ち難く云々」として参議辞任と位階返上を申し出た。

 ★「一ノ秘策」ですべては顚跌

同じ十七日、西郷などは太政官に西郷使節を天皇に奏上、裁下を仰ぐよう求め、三条は、その夜岩倉を訪ねて協力を求めたが岩倉の返事は冷たかったので、進退極まった三条はついに高熱を発して卒倒して人事不省に陥った。

 三条病臥、政務不能となった結果、大久保は黒田清隆にはたらきかけ「一ノ秘策」により、宮内少輔・吉井友実、宮内卿・徳大寺実則を通じて、翌二十日、岩倉を太政大臣代理とする勅命を出さしめるに至った。この発令の次第については『大久保日記』に「黒田氏入来、同人此の困難を憂うること実に親切なり、予も此の上のところ他に挽回の策なしといえども、ただ一の秘策あり、依りてこれを談ず、同人もこれを可とす、すなわち同人の考えを以て吉井氏へ示談これあり侯よう申入れ置き侯」と大久保自らが誌していることからしても「一ノ秘策」の策動が大久保の差し金にあることが分るのである。

 岩倉が太政大臣(代理)に任命されたことが、西郷朝鮮使節問題だけでなく、時局に大影響を来たすものとした西郷、板垣、副島、江藤の四参議は二十二日岩倉を訪ね、「太政官職制」の規定通り、十五日の決定をそのまま天皇に上奏するよう求めた。

 しかし、同じ日、太久保から「不抜の御忠誠必ず御貫徹あらせられ侯事」と強く釘を打たれていた岩倉は、「三条は三条、自分は自分で、別箇の太政大臣だから自分の思い通りにする」と主張して、十五日の閣議決定には拘束されないと言い放って会談は決裂した。

 玄関を出る時西郷は「右大臣、よくも踏ん張った」と言い放ったそうであるが、徳富氏は「この言や、西郷の香気芬々たり」と強く絶讃されている。

 「一ノ秘策」の片棒をかついだ黒田清隆は、そのことのために、西郷が政府を去るに至ったことに己れの憤懣をこめて、後日、大久保に「今日に立ち至り、退いて篤と我が心事追懐つかまつり侯に、大いに西郷君へ対し恥じ入る次第・・・西郷君とはかねて死は一緒と、また従来恩義もあり、旁々我が心を向えば面皮もこれなく、止むを得ざるの策とは申しながら、如何して同氏へ謝し候様これなく恐入るのみにて云々」と手紙したが、この黒田の心意からも推定出来るように、黒田は、単に「西郷朝鮮使節拒否による岩屋天狗抹殺」(止むを得ざる策)という「一ノ秘策」の狙いが、意外にも、西郷自身が政府から去ってしまうという重大事態に立ち至ったことをいたく後悔したのである。

 このことは、大久保の「一ノ秘策」の狙いが、最初から、西郷など留守政権派を政府から退座せしめて、大久保自らが政権を握るという、全く、大久保個人の政権欲に発したものであることを物語るのである。毛利氏はこのことに関して「大久保の真のねらいは、世に伝えられているような征韓阻止云々でなく、他にあったということになる。大久保が、西郷を巻添えにしてでも反対派を政府から追放しようと決意していたのは、いまや明白であろう」と誌されている。

 十月二十三日、西郷辞表提出、翌二十四日西郷の参議、近衛都督解任、板垣など四参議辞表提出、その後西郷は二十八日東京を出発するまで向島小梅の越後屋の寮で西郷頼母(たのも)、真方衆などと語り、横浜で勝海舟と会して船で大阪経由、十一月十日鹿児島へ帰った。

 以後、西郷は明治十年(一八七七)九月二十四日城山において自刃するに至ったのである。

 毛利敏彦氏は「通説は、明治六年の政争が征韓の是非それ自体であったかのように記述しているが、いうまでもなくそれは不正確である。西郷が閣議などの公的な席上で征韓を主張したとする確かな証拠は今日まで発見されていない」とされているが、では、明治政府史家は何を意図して西郷征韓論をデッチ上げたのだろうか? 

 それは、岩屋梓梁の存在の露呈を防遏(ぼうあつ)するとともに、西郷の主張を、征韓を唱える北伐北進の大陸侵攻の思想だったとして国民に鼓吹することに明治政府史家の狙いがあったことを知らなくてはならない。西郷銅像が上野山に堂々と建立されるに至ったゆえんである。
 

 ★明治維新の裏面に暗躍した謀略集団真方衆  <完>。
 (*この第一章は、私家版 『西郷征韓論はなかった』の本編全文を収録したものです。) 
 



●岩屋天狗と千年王国(16)-2
                          西南戦争 遠い崖_1


 ■明治六年政争の真相
 
 ★曲解されている大久保書翰の「蜘蛛ノ捲合」 

 西郷は八月十四日附の板垣への手紙に「西郷を死なせ侯ては不便(不憫)抔と、若哉姑息の心を御起し被下侯ては、何も相叶不申云々」と誌して、西郷使節の死を杞憂する声が出るのに釘をさしたが、大久保は八月十六日関西旅行に出発する前日の八月十五日附、巴里に留学中の村田新八と大山巌宛てに、征韓論争に関して誌したとされる下記の手紙を送った。

「拝啓 弥以御揃御壮固被成御勉学侯半奉敬賀侯、次ニ小子帰朝後無事消光仕侯付、乍余事御降慮可被下候、扨其地滞在中ハ御厚意被示聞奉厚謝候、其后追々投御書被成下御回答モー々不仕失敬御有怒可被下候、当方之形光ハ追々御伝聞モ可有之、実二致様モナキ次第二立至、小子帰朝イタシ候テモ所謂蚊背負山之類ニテ不知所作、今日迄荏甫一同手ノ揃ヲ待居候、仮令有為之志アリトイヘドモ、此際二臨ミ蜘蛛之捲キ合ヲヤツタトテ寸益モナシ、且又愚存モ有之、泰然トシテ傍観仕候、国家ノ事一時ノ憤発力ニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル様ナル事ニテ決テ可成訳ナシ、尤モ其時世ト人情
ノ差異二関係スルハ無論ナルヘシ、詳細ノ情実ハ禿麾ノ所及ニアラス、宜ク新聞紙ヲ閲シテ亮察シ玉へ、
○久光公時シモアレ上京散々ノ風評、是走力為世上一般人気ヲ動カスノミナラス、内輪ノ忠害不少候、去ナカラ小手渡朝ハ一夕立ノ后ニテ格別ノ炎威ヲ不受候得共、要スル処ノ病根ハ明亮ナル事故、小子二於テハ具憂トセサルコト不能、折角配慮中二御座候、是ハ御懸念被成ホトノ事ハ有之マシク存候、
○当今光景ニテハ人馬共ニ倦果不可思議ノ情態二相成候、追々役者モ揃ヒ秋風白雲ノ節二至り候ハハ、元気モ復シ可見ノ開場モ可有之候、
○仏政府モ終二一変ノ由迚モ(とても)無事二相済マシク普モ穏ナラサル赴二被聞候、近情イカカニ候哉、欧州ノ機関モ兎角長ク廻り兼可申候、新聞ハ何卒御洩可被下候、
○両老益御進歩ノ筈大慶仕候、時下無痛様呉々所祈候、眩暈鬱症用アルヘシ、
 右回答旁如此候也  八月十五日  利通
村田様 
大山様。                                  

 御約束ノ通新聞差送り候、先々日比一度ハ送り候間届候哉、両君御覧后、川島、寺田両士へ御送達可被下候、両君ノ御書ハ夫々相届候間御安心可被成候、已后無御遠慮何ニテモ相弁シ候儀ハ御申遣可被成候」

 この書翰の意味について、『大久保利通文書』解説を始め従来史一般の解釈では「致様モナキ次第二立至」「蛛蜘之捲キ合ヲヤツタトテ寸益モナシ」「国家ノ事一時ノ倶発カニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル様ナル事」とは西郷征韓論可否に関する紛糾。「追々役者モ揃ヒ秋風白雲ノ節二至リ候ハハ云々」とは、岩倉使節等の帰朝を待って征韓論をひっくりかえす意だとされているが、この書翰の内容実態について『新聞集成明治編年史』による明治六年一月から八月までの記事をくわしく検討された毛利敏彦氏は「大久保大蔵卿が『新聞紙ヲ閲シテ高察』せよという『当方之形光』とは、決して征韓論云々ではなく、主として大蔵省問題であったとみて間違いなかろう」とされ、『編年史』の中の記事で、征韓論に強いて関係があるのは、「二月二十一日附東京日々新聞の此頃市街湯屋髪結床等にての説に、日本と朝鮮と矛盾の事起り、寅の年の男子を徴して兵と為し、朝鮮に役せしめると、是に於て其年に当れる男子は為に懼怖し、其父母なる者は大に患苦す云々というナンセンス記事ただ一個のみで、それ以外に朝鮮関係の記事は採録されていない」とされ「蜘蛛之捲キ合云々とは大蔵省攻撃の先頭にたっている参議・江藤新平と対決することであり、一時ノ憤発カニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル云々とは司法省臨時裁判所が前大蔵大輔・井上馨に在職中の秘密を新聞に洩らしたとして贖罪金三円を課したことや、あるいは同じく司法省が井上を職権を利用して私服を肥やし民間人から尾去沢銅山をまきあげた容疑で追究した事件を指すと考えるべきであろう」と説明され「大久保の頭のなかは、司法省への不満でいっぱいになっていたはずである。逆にいえば、少なくとも八月十五日の時点では、大久保は、朝鮮使節派遣問題には反対していないし、むしろそれにはあまり関心を持っていなかったといっていいのではなかろうか」とされている。

 しかし、大久保のこの書翰の抽象的な模糊たる表現の文意は、果して、大蔵省問題に関する司法省(江藤新平卿)との対立問題だけをさす謂だろうか?

 「実二致様モナキ次第」「所謂蚊背負山之類ニテ不知所作」(背中でぶんぶんしている蚊の山のようにどうしようもないという意)「一同手ノ揃ヲ待居侯」(在欧の使節団が帰って来るまで待つ)という文意までは平易にそのままの意で理解できるのであるが「此際二臨ミ蜘蛛ノ捲合ヲヤツタトテ寸益モナシ」という表現の解釈には大いに注意する必要があるのである。

 大久保はその当時、関西旅行へ自由に行くことができるような在野転職の立場にあったのだから、大蔵省、司法省問題などについて、在官の者と対等に「蜘蛛ノ捲合」のごとき紛糾した論議ができる立場にはなかったのであるから、この蜘蛛ノ捲合とは、その当時の政治執政の問題の謂ではなく、何か在野の私的な問題といったものに関する謂だと解釈しなくてはならないのである。

そのことは、次の「国家ノ事一時ノ憤発力ニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル様ナル事ニテ決テ可成訳ナシ」という表現からも分るように、大蔵、司法省問題を「一時ノ憤発力」で解決すべき筋合のものでないことからもわかるのである。特に、そういう政治問題を「其時世ト人情ノ差異二関係」して解決すべきものでないことからも理解出来るのである。

 では、この「蜘蜂之捲キ合」「国家ノ事」「一時ノ憤発力ニテ暴挙」などの表現が、大蔵、司法省問題でないとすればそれは何を意味するのだろうか?

 それは、この書翰が、具体的に事実を書かず、すべて漠然たる暗示的表現であることからもわかるように、筆者の記録(『かたいぐち記』『異端記』)による確定的記録によると、それは「岩屋梓梁顕彰」是非に関する西郷派と大久保派(重野など)との抗争をさす謂だと誌されている。

 「岩屋梓梁顕彰」運動は薩摩藩古来の思想、情念として、時ありて隠顕欝勃してきたが、島津の陪臣筋たる徳川幕府倒壊以来、その問題は急速に成起してきたものだったのである。特に真方衆の激励慫慂もあって、西郷は朝鮮和親使節派遣に便乗して(『大隈昔日譚』には「実に征韓てふ大事変を反りて各々其の隠密的意志を行らんと欲せしのみ」「偶爾に起り来りたる対韓問題を仮りて之を行り途げんと欲するより〔征韓〕てふ好題目を掲げ来りて壮言激論し、以て其決行を促かしたるなり」と誌されている)まず、朝鮮における史料史実を確認し、それを証拠として明治政府に、岩屋梓梁の歴史的存在としての顕彰を迫らんとする決心をしたのである。

 明治期における岩屋梓梁顕彰問題の発端は、明治五年五月、重野安繹が大政官中議生となり、歴史編集に着手しだして以来の西郷との論争に始まり、六年二月、重野が左院二等書記官、歴史編輯課長となってから、西郷に「朝鮮に於ける岩屋梓梁に関する史料が確認されない以上、岩屋梓梁に関する『かたいぐち記』と『異端記』の記録は無価値だ」とまで極言して西郷に抗弁した時ついに爆発点に至ったのである。

 後年、重野氏が「抹殺博士」と謂われたのは、古代以来の日本歴史を書いた岩屋梓梁が、歴史を美過因(過去の歴史を美化する)すべく歴史に登場さした児島高徳のごとき多くの架空人物を抹殺したことに縁由しているのである。

 大久保の書翰に「追々役者モ揃ヒ秋気白雲ノ節二至り侯ハハ、元気モ復シ可見ノ開場モ可有之侯」とある
★「可見ノ開場」とは、西郷が真方衆を通じて関西に結集しつつある「国友衆」の実態を調査するため、その手紙を出した翌八月十六日関西へ出発する時の大久保の自信のほどを豪語したものといえるのである。

 大久保は、関西における、真方衆が指嗾(しそう)する国友衆の実情を調査した結果を証拠(可見ノ開場)として、帰京してからの、役者も揃った公式の場において、西郷の朝鮮使節行の目的が朝鮮における岩屋梓梁に関する歴史調査にあることを具申強調して、西郷朝鮮使節派遣を覆滅できるものとしたのである。

特に大久保は、八月十六日関西へ出発するに当って、まず箱根行在所に
宮内少輔・★吉井友実(幸輔、旧薩摩藩士)を訪ねて、岩倉使節が帰朝するまでは西郷の朝鮮使節を天皇が裁下されないよう下工作(ねまわし)をしたのであるが、その根拠は、文教易断政治に反対する武士団、公卿団に擁立された天皇(後奈良)時代のことであったにしても、とにかく、天皇制を危殆ならしめた逆賊岩屋梓梁と易断政府の存在を歴史から抹殺することには天皇も反対しないだろうとする「一ノ秘策」の天皇工作に大久保が絶大なる自信をもっていたことを物語るものである。

 だから私達は、八月十五日附大久保が在巴里の村田、大山へ送った手紙の「蜘蛛ノ捲キ合」とか「一時ノ憤発力」などの奇怪な表現の意味は、以上のような、岩屋梓梁顕彰可否に関する薩摩藩古来の思想政策抗争についての内情を理解しなくてはその真相を知ることはできないことを知らなくてはならない。

 ★西郷が征韓論者として誤解されている第二書翰

 西郷が征韓論者として誤解されている第二の手紙に、八月十七日附板垣へ送った左記(下記)の書翰がある。

 「此節は戦を直様相始め候訳にては決て無之、戦は二段に相成居申候、只今の行掛りにても、公法上より押詰候へば可討の道理は可有之事に候へ共、是は全く言訳の有之迄にて、天下の人は更に存知無之候へば、今日に至り候ては全く戦の意を不持候て、隣交を薄する儀を責且是迄の不遜を相正し、往先隣交を厚する厚意を被示候賦を以て、使節被差向候へば必ズ彼が軽蔑の振舞相顕候のみならず、使節を暴殺に及候儀は決て相違無之事候間、其節は天下の人皆挙て可討の罪を知り可申候間、是非此処迄に不持参候ては不相済場合に候段、内乱を翼ふ心を外に移して国を興すの遠略は勿論旧政府の機会を失し無事を計て終に天下を失ふ所以の確証を取て論じ候処、能々腹に入候間云々、何卒今日御出仕被成下候て少弟被差遣候処御決し被下度、左候へば弥戦に持込可申候に付、此末の処は先生に御譲り可申候間、夫迄の手順は御任し被下度奉合掌候」

 これは、西郷が(三条に対して)此の節は、戦をすぐ始めるわけではなく、戦は二段に成るとして、使節(西郷)が朝鮮で暴殺されることは間違いないから、その時は日本国民が挙げて朝鮮を討つべきの罪を知ってくれますからぜひそこまで事態を持ち込まなくてはなりません。旧政府(徳川幕府)が無事を祈って天下を失ってしまったといういい例があるなどと説明したら三条もよく理解してくれました。だから、私が朝鮮と戦をする事態に持ち込んだら、それから先は(好戦家の)貴男(板垣)の出番ですから宜しく頼みますから、それまでの段取り(手順)は私に任せて下さい(私を朝鮮使節として送って下さい)と西郷が板垣に合掌したことを意味するものである。

 この手紙も、前二通の手紙(七月二十九日、八月十四日附)と同様、西郷が、好戦的な板垣の心意を収攬すべく迎合的に誌した便法の手紙であるが、その板垣が、西郷の真意に触れぬ、余りに表面的な軽捷敏巧に失したものだったため、その当時の政治環境、特に西郷の隠された意図を知らない後世人をして、西郷は征韓を主張したのだとする誤解を生ぜしめるに至ったのである。

 このことについて毛利敏彦氏は「要するに、西郷は、板垣を味方につける手段として板垣の征韓論的傾向を逆用して、あえて使節暴殺論を持ち出したのではなかろうか。そう解釈できる余地は残されているように思われると」誌し「西郷は、暴殺云々を語りながら、何か大事なことを隠しているように思われる」、「西郷が使節暴殺による開戦云々を発言したのは事実である。しかし、これは、西郷が使節派遣の自説を実現するための意図的発言であって、必ずしも西郷の真意を表わしたものでないと解釈するのは、論理的にも史実的にも可能である」と誌されている。

 西郷が、八月十七日板垣へ手紙を送った同じ日の午後の閣議で西郷使節派遣が決定し、それを喜びとした西郷が板垣へ「生涯の愉快此事に御座侯」と手紙し「酷使去来秋気清し、雛林城畔涼を逐ふて行く」と京城行への想懐を詩っていることからしても、西郷の心中には、朝鮮で「暴殺」されるなどということは全然懸念していなかったことがわかるのである。

 八月十七日の閣議決定に基づき、三条は十九日箱根に在る天皇に上奏、九月一日西郷に「就ては外務卿にも協議致し、使節遣わされ侯に付ては、手順、応接の目的など、予め取調べ掛り侯様然るべく侯」と使節内定の意を伝えた。

 以上の経緯からもわかるように、八月十六日関西旅行へ出発した大久保は、西郷が板垣へ送った八月十七日附の手紙のことも、また、八月十七日の西郷使節が閣議決定したことも知らなかったという事実からしても、参議会議において、西郷征韓論などというものは議題にも上らなかったこと がわかるのである。しかし、ここで判然していることは、八月十七日という時点までは、西郷は、その私意私情に基づく「隠密の企図」なるものを板垣には吐露していなかったことがわかるのであるが、『大隈昔日譚』に「所謂征韓論者が、口に征韓を唱ふれども、別に一種の私情、隠密の意志
を包蔵せるを看破せしにあり」と誌されているごとく、板垣が西郷の隠密の企図なるものの実態を知ったのは、九月二十一日関西旅行から帰京した大久保の報告を受けた岩倉が、十月八日、板垣にその実態を話した時であった。そして、それが事実であると板垣が確信するに至ったのは、十月十
三日副島とともに、三条、岩倉と密談したとき、西郷が三条へ送った十月十一日附の「国友に対し死を以て詫ぶる云々」の手紙を証拠として提出された時であった。

 九月二日、黒田開拓次官が樺太出兵を建議したため、西郷は同日、一旦同意するごとき返信をしたが、十三日の手紙で「朝鮮の処迄も崩れ侯ては頓と蔵がめあがり申すべき!」と改めて、朝鮮問題優先を表明した。

 ★事態の転機・岩倉の帰朝 
へ続く。
 


●岩屋天狗と千年王国(16)-1
 
 ■明治六年政争の真相

 ★朝鮮使節論争の発端

 明治維新後、日鮮間の紛糾が外交問題として正式に俎上に上ってきたのは、在釜山の外務省出仕・広津弘信からの報告(釜山日本人居住地施設草梁公館の門前に、朝鮮側が、日本は「無法之国」であるとして、公館への生活物資の供給を停止して日本人の貿易活動を妨害していることなど)に基いて、外務少輔・上野景範(当時、外務卿・副島種臣は特命全権大使として清国渡航中)が、その実情を太政大臣・三条実美に報告し、三条が、明治六年六月十二日の閣議に「最早此儘難閣、断然出師之御処分無之テハ不相成事二候、乍去兵事ハ重大之儀、軽易二之ヲ開クベキコトニ無之候得者、先ヅ今般不取敢我人民保護ノ為メ、陸軍若干、軍艦幾隻、彼地へ被差置、一旦有事候ハバ、九州鎮台へ神速応援二可及旨ヲ達シ、猶此上使節ヲ差遣シ、公理公道ヲ以テ、屹度可及談判様被遊度思召候条、篤ク此旨ヲ達シ、一同協議可致被仰出侯事」という、思召(天皇の意志)を添えた議案を提出した時からであった。(上野は薩摩藩出身で、真方衆の画策により動いたものだったのである)

 これに対し板垣は、居留民保護のため、兵一大隊を急派せよと説いたが、西郷は、まず使節を派遣して公理公道をもって談判すべきであると主張した。

 三条は、たとえ使節を派遣するとしても、それには護衛兵をつけて軍艦で行くべきであると主張したが、西郷はそれにも反対して、使節は礼装(烏帽子直垂)して単身(もちろん、幾人かの随員は伴ったであろうが、護衛兵は連れず)行くべきだと主張した。

 しかし、三条は、当面の責任者である外務卿(副島)が渡清中であり、かつ、内閣の首班的立場にある西郷を一使節として朝鮮へ派遣することを躊躇したので、その日の閣議は結論を得ずして終った。

 ★西郷が征韓論者として誤解された第一書翰

 七月二十六日帰朝した副島を翌二十七日夜、訪ねた西郷は、六月十二日の閣議の次第を説明して、西郷を朝鮮使節として派遣することを許容されるよう懇望するとともに、同席した真方衆・窪田次郎助の説明、西郷家が易断者なる特殊な家系であることの原因が、西郷家の祖先岩屋梓梁なる大天狗が日本で易断政府なるものを樹立するとともに朝鮮においても巫堂(ムーダン)政治を確立した事実が歴史から抹殺されていることの朝鮮における史料史蹟を調査する必要があると強調する声咳流涕に、流石の副島もついに「西郷の境遇を察し終に枉げて譲渡」(『大西郷伝』他)する決心をするに至ったのである。

 この時の副島との会話で、副島が西郷に、まず何よりも、好戦家板垣の賛意を得ることが必要であるとして、そのためには ①岩屋梓梁と易断政府のことは極秘にすべきこと。②好戦的板垣の賛意を得るため、板垣に、好戦的言辞の秘弄を図るべきことの二点を強調したため、それを承知した西郷は、七月二十九日に始まる八月十四日、八月十七日附の左記(下記)書翰を板垣へ贈った。

西郷が七月二十九日附板垣へ送った手紙
「先日は遠方迄御来訪被成下厚御礼申上候。扨て(さて)朝鮮の一条副島氏も帰着相成候て御決議相成候哉。若しいまだ御評議無之候はば、何日には押て参朝可致旨御相達成候はば、病を侵、罷出候様可仕候間、御含被下度奉願候。弥御評決相成候はば、兵隊を先に御遣し相成候儀は如何に御座候哉、兵隊を御繰込相成候はば必ず彼方よりは引揚げ候様申立候には相違無之、其節は此方より不引取旨答候はば、此より兵端を開き候はん、左候はば初よりの御趣意とは大に相変し、戦を醸成候場に相当り可申哉と愚考仕候間、断然使節を先に被差立候方御宜敷は有之間敷哉、左候得ば決て彼 より暴挙の事は差見得候に付、可討の名も慥に相立候事と奉存候、兵隊を先に繰込候訳に相成候はば樺太の如きは、最早魯より兵隊を以保護を備、度々暴挙も有之候事故、朝鮮よりは先に保護の兵を御繰込可相成と相考中候間、旁獄先の処故障出来畝はん、夫よりは公然と使節を枝差向畝けば暴挙は可致儀と綾絹察畝付ヽ何卒私を御遊技下僕処ヽ伏して卒願畝ヽ副島君の如き立派の使 岬 節は出来不中佐得共、死する位の事は相談可中かと卒存畝間、宜敷卒希畝、此旨暗涙以書中卒得
 御意候、頓首
 追啓 御評議の節御呼立被下候節は 何卒前日に御達し被下度 瀉薬を相用候へば決して他出相調中候間 是又御含置可被下候」

 西郷はこの手紙で、朝鮮に兵隊を派遣すれば、朝鮮側から必ず「引揚げを申し立」ててきますから、それを日本が拒否すればそれを切掛けにして兵端が開かれることになります。だから、兵隊でなく、まず使節を先に立てるべきであります。そうすると、必ず朝鮭側が使節に対し「暴挙」を加
えることになりますから、その時は、改めて、日本が朝鮮を「討つ可き名」が出来ると思います。

 ですからぜひ私を公然と使節として差し向けて下さい。私は、副島君のような立派な功績(副島使節が清国において、清国政府から、清朝は、朝鮮琉球問題には関与しないから、日本が自らの手で朝鮮、琉球問題解決に当って良いという言質を得たということ)を挙げることはできませんが「死する位の事」はできますから、ぜひ私を朝鮮使節として出すことに賛成して下さい、と西郷は板垣に懇望したのであるが、この手紙は、西郷使節が「暴挙」を受けるようなことがあった時始めて「討つべきの名」が生ずるものであるとするもの、つまり征韓のための西郷使節でなく、西郷使節が暴挙を受けることによって始めて征韓の名が生れるものだとする間接的消極的意味しかなく、西郷が、自ら、積極的に韓国征伐をするなどと言ったものではないことに留意すべきである。

 この手紙は、朝鮮使節となることを副島から譲渡して貰った西郷が、副島の板垣の賛成を得ることが何より肝要だとする意見を体して、好戦家・折込の賛意を得ることを念とし書いた、謂わば
好餌を附した便法の書であることを心得て置く必要があるのである。

 毛利敏彦氏は、この事に関して「書簡の文言の解釈のみでなく、書翰、が書かれた主観的客観的状況を検討してみる必要があろう」とし「西郷は真剣に朝鮮との交渉を考えていたのであって、そのために使節就任を切望したのだと推論するのが諸史料から判断して最も合理的であろう」と誌されている。

  続く。                     
 




●岩屋天狗と千年王国(15)
                        明治六年政変 毛利敏彦_1

 ■征韓論の有無を決定する公的史料

 ★ヤジローに関するすべての切支丹史料を提供されたい

 明治六年二月の切支丹解禁は、最終的には参議・西郷隆盛と外務卿★副島種臣の決断によるものであったが、これは「猶今般高札を撤去侯間、念の為御通知申上候」という外交口上書の表現からもわかるように、単に、切支丹禁止の高札を撤去するというだけであって、切支丹側が要求する「切支丹禁止令撤廃」というような、切支丹が絶対的に解禁するということを意味するものではなかった。つまり、これは、日本政府は、必要によっては、いつでも、高札を再び掲げて切支丹を禁止するぞという含みをもって表現した解禁だったのである。

 何故、このような回りくどい表現をしたかというと、日本側には、ヤジローなる人物に関する史料といったものはなく、そういう人物は歴史上存在しないのだから、切支丹側が一方的にヤジローについて歴史を書くと、ヤジローが偉大な人物であっただけに、日本は、自らの手で歴史を書くことはできなくなってしまうという重大な苦境に陥るために、政府は、切支丹側に「切支丹側は、ヤジローについて勝手なことを書くな、すべて、日本側と相談して書け」という威圧をこめて切支丹を解禁(黙認)したものだったのである。

 その趣意については、副島外務卿から、口頭をもって各国大使を通じて切支丹側にも説明がなされ「何よりも先ず、日本側識者・歴史家に、ヤジローに関する総ての史料を提供されたい」という要請がなされたそうであるが、切支丹側にも「切支丹日本渡来初期に於ける宣教師達の横暴とそれに対する日本人の敵意についての反省」(当時の米国公使館公文書、
☆註)といった強い慙愧の意識があっただけに、その間の事情(ヤジローが抹殺されていることについての日本政府の苦境)を了承して、切支丹解禁を、単なる「高札の撤去」という表現だけで満足し快談したのである。そのことについては、当時の切支丹側の記録からしても理解することができるのである。

 ★神道国教主義より国民の徳育化へ

 当時、維新政府は、玉松操などが主唱した神武創業の昔にかえる王政復古、祭政一致といった理念を掲げて発足したのであるが、神道の形而上学的高踏さば、とても、それを行政執行の軌範とするなどということは不可であるという事態に陥ったため、四年八月に神祇官を神祇省に改めて以来、神祇省を教部省に、教部文部両省の合併、やがて、内務省社寺局への移管という職制の変遷からもわかるように、神道は、単なる道徳昂揚の手段と化しつつあったのである。

 このように、神道が、当時圧倒的な優勢さをもって流入しつつあった西欧文明(物質面、精神面)に対する国民的な精神意識としての抵抗力を喪失しつつあった混迷期にあっただけに、突然出来したヤジローなる人物の歴史登場問題は「制度よりも人」「物よりも心」を重視する西郷の心意を強くうったのである。

 そして、このような焦燥と苦悩に沈淪していた西郷の心理を衝くべく、西郷に接触して切支丹人類愛思想を説いたのが、岩倉使節団の副使として渡欧する大久保利通の命によって謀略活動を開始した真方衆の籌略(ちゅうりゃく)だったのである。

 ★狙いは、朝鮮におけるヤジローに関する歴史調査

 西郷は、藤田東湖からも、藩国父・島津久光以下藩土達からも「岩屋天狗の子孫」だと謂われ、また、自分自身もそれを衿持して信じていたから、西郷個人の岩屋梓梁に対する欽慕愛着といったものは一入のものがあったのではないかと思われるのである。

 だから、西郷に接して、歴史的存在としての弥次郎の事蹟を説く真方衆の熱意、特に、十数回渡鮮して韓諺(ハングル、オンモン)を創出するなどして多くの書を成して弥勒天徳教(後に天道教)を説いて国政を執行、壟断し、天文十三年には、朝鮮に侵冦(蛇梁倭変)して、自分と朝鮮王女・玉珥との間に生れた清茂を仁宗として擁立したというような弥次郎の事蹟を真方衆から聞くに及んで、ついに、西郷は、自ら朝鮮大使として渡鮮して、弥次郎に関する史料、事績を調査するという決意をするに至ったのである。

 『近思録』を玉条として敬天愛人の精神を標榜し、それを人生訓として普遍化することを願っていた西郷は、人類愛なる愛を絶対視する切支丹思想は、やがては、神道や仏教を圧倒して日本を風靡するに至るに違いないと判断するに至っていただけに、切支丹と宗論してそれを論破したという
弥次郎、その弥次郎が朝鮮においてなした事績を調査するためには、当時、朝鮮が反日的な大院君と両班が支配している時であっただけに、それは、西郷にとっては、西郷自身の地位、能力を、最大限、最適切に活用、発揮することができる大使として渡鮮すること以外にはその方法はないと判
断したのである。大使のような公的立場の者でなくては、朝鮮側の史料を披見することは不可能であるという真方衆の強い意見だったからである。

「弥次郎は、朝鮮の史料の中では、きっと実在しているに違いない」とそう西郷は期待し、心願していたのではないかと私は思っている。

 ところが、重野、久米氏などは、明治元年の大阪宗教談判直後から、水戸彰考館系統や各藩閥歴史家とともに広く日本国内の史料や史蹟を調査、検討した結果、秀吉以来徳川幕府が、三百年にわたる執念をこめて作りあげた弥次郎抹殺の日本歴史は、一朝一タには手のつけようもない堅塁、それは、たとえ手をつけることができたとしても、またたとえ虚構であっても、その絢爛華麗なる歴史体系は、破壊を加えずにそのまま堅持すべき牙城とすべきものとして、大久保、岩倉、三条、大隈などに進言して、明治六年以来、西郷が公然と主張し、一度びは決定していた西郷朝鮮大使を、ついに、十月の参議会議(いわゆる征韓論争とされているもの)において、無期延期という表現で拒否せしめたのである。

 ★西郷を憎みに悪んだ重野安繹

 大久保、重野など西郷渡鮮反対派は、西郷の渡鮮によって、たとえ、弥次郎の朝鮮における事績が判然したとしても、他国の、しかも朝鮮だけに関する朝鮮だけの史料に拠って、日本の歴史を糾し、条目(すじめ)立たせなくてはならない負目を負うなどということは、可能、不可能といった修史技術の問題どころか、却って日本の歴史上の紛糾、撹乱を未来に残し、それは惹いては、尊皇敬神の日本国民思想にも重大な影響を与え、禍根を永久に浅す元兇になるものと政治判断した結果、断乎、西郷朝鮮大使を否決して、弥次郎抹殺の徳川偽造史を堅持することにしたのである。

 そのことに関しては、明治政治が明治八年、伊地知正治(左院議長兼参議)を総裁、重野安繹を副長、伊地知貞馨を参与として修史局を緊急開設した狙いについて、大久保が伊丹親恒に、薩摩藩閥による岩屋梓梁抹殺と西郷征韓論理確立にあるということを判然言明したということからも理解することができるのである。

 伊丹親恒は筆者の曽祖父(母方、
註)で、大久保利通直下の政府密偵として薩摩において活躍した有名な反西郷派で、『異端記』の最終記録者として、征韓論前後の実情についてもくわしく誌しているのである。

 征韓論争当時における西郷の言動や書翰を、相手方や時の経過との関連において、論理的に、特に心理的に分析することによっても、西郷が征韓論者でなかったことは容易に証明することができるのであるが、重野氏などは、西郷が自分の心境や真相を公表しないまま、生命まで賭して熱望した渡鮮の目的が「弥次郎の史料、事績調査」にあったとしない限り、それを「征韓のためであった」とする以外には、その歴史的理由づけを発見することはできなかったのである。

 かつて、弥次郎抹殺に反対する西郷に、口を極めて幾度か痛罵論難されたことのある重野氏が、西郷を評して「相手をひどく憎む塩梅があった」とか「人は豪傑肌であるけれども度量は大きいとは言えない、謂はば偏狭である」などと貶しているのは、西郷が、こと岩屋梓梁と易断政府の歴史に関する限り、それを歪曲、隠蔽、抹殺するなどということを絶対に許さないと主張したからである。重野は政治的な妥協を求め、西郷は真実を糾さんとするところに争闘の因があったのである。

 重野が、切支丹側から入手した弥次郎に関する史料や事蹟を西郷に語らず、私怨をこめて西郷の人格を誹謗し、執念をこめてデッチ上げた「西郷征韓論」が、後に、日清戦争を契機に、北伐北進論、朝鮮併合、支那侵略、アジア経綸思想の源流として描かれ、西南戦争勃発は、それを、土族軍事国家を夢見た武力反乱であったとして、武断派巨頭・西郷として歴史に虚像されるに至ったのである。

 大久保は、自分が抱負し意図した維新政治、天皇、皇華族、士族、平民という確然たる階級差別に支配された天皇中心の覇道政府を推進するためには、天皇、公卿、武士団の藩屏組織を乱した易断政府岩屋梓梁の歴史的存在は、それを絶対に抹殺しなくてはならないとし、その意に添うべく、重野など皇国史観学者は営々烈々として岩屋梓梁封殺に励んだのである。

 大久保が、西郷を「朝敵」、「亡国論者」だとして、明治六年十月の参議論争の最終段階において、ついに、論争でなく、「一ノ秘策」(天皇工作)なる謀略によって西郷を政治的に葬ってしまったのは、こうした、数百年にわたる歴史に由来した民族の執念を堅持するためだったのである。

 当時、真方衆は、九州においては、主として長崎を中心とする切支丹探索(窪田良助の潜入など)に重点をおいていたのであるが、渡欧する大久保が、伊丹親恒と真方衆に、西郷内偵と切支丹教化を密命したことが、ついには、西郷をして、朝鮮使節として渡鮮決意、参議会議における西郷朝鮮使節否決、西郷鹿児島退隠、西南戦争勃発という途方もない、歴史の渦に巻きこんでしまったのである。

 ★西南戦争に関する外人の見方

 明治十年二月、鹿児島で、決起して北上する西郷軍を肥後境まで見送ったアーネスト・サトーが 「彼等(西郷軍)が唱えているという社会改革とはどういうことなのか知りかねる」「西南戦争についての、日本に於ける表向きの開戦理由(従来史では士族反乱としている)は決して真のものではない」と誌し、また、サトーが勝海洲から聞いた話だとして「薩人の望むことは、新しい天皇をたてることでも、また、現天皇の身柄を擁することでもなく、単に、廟堂につらなる薩人中これまで施政を誤った者の解任である」と誌し、元駐日大使・ライシャワー氏が「西郷の名が超国家主義者の或る人々に利用されたことが、西郷のイメージに害(disservice)を与えているらしい、西郷の生涯と思想について、新しい、徹底的な、釣合いのとれた評価こそ、近代日本史の研究者に大いに価値あるものとなりましょう」(坂元盛秋氏著より。坂元氏の反論に対するライシャワー氏の返信)というような見方、解釈は、日本における正しい西郷像が未だ把握されていないという次第を叫ばれたものといえるのである。

 ★此の核心を掴む人、他日必らずやその人あらん

 だから、西郷征韓論なるものは、このような謀略裏面史や西郷家の家筋、西郷個人の為人(ひととなり)、信念、そして、弥次郎と易断政府の存在が抹殺されているような虚偽の日本歴史を糾さない限り、明治維新の四民平等の精神革命、人民解放は成就しないとした西郷と、歴史の糾明などという精神要素よりも、神話を演出した絶対主義天皇制の下に、国の物質的近代化(富国強兵、殖産興業など)を急ぐテクノクラシー有司専制による西欧型覇道政府を樹立することこそ日本の進路だとした大久保、特に、己れの青少年時代からの潜在意識としてあった、夢見る浪漫主義者・西郷を破却しない限り、いづれは、己れの政治生命は葬られるに至るに違いないとした現実主義者・大久保とが、それぞれ、この論争こそ、日本の将来を卜する断頭の闘いであると判断し決意していた二人の心理的相剋を理解しない限り、到底、征韓論なるものは、その真相を極めることは出来ない歴史の虚構なのである。

 今にして徳富蘇峰氏の「征韓論は史上の一大疑案にして、今後も更に此の問題について史識と史実とを試むる者あるべき。予が切に待望するものである」「惟ふに此の核心を掴む人は、他日必らず其の人あらん」と断ぜられた遺命的悲願、内村鑑三氏の「西郷の思想と行動が真に理解されるためには、なお今後百年を待つべし」という絶叫が、西郷死後百年忌祭を迎える今、身に泌みて耳朶をうつのである。

 特に、大久保が想念した武弁化日本は、八絃一宇を夢みた大東亜戦争として数百万の日本民衆を殺すことによって昭和二十年の敗戦をもって終り、西郷が翼望したアジア的王道国家(この王道とは、所謂天皇主義王覇でなく、かって孫文が主張したようなアジア的王道国家、西郷遺訓にある「万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕者を戒め、節倹に勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒と思ふようならでは政令は行はれ難し、然るに草創の姶に立ちながら、家臣を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也、今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿と成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて頻りに涙を催されける」というような温情ある王道国家)への明治維新は未だ道遠き重き任となって民衆にのしかかっているのであるが、最近は、それどころか、西郷が恐れた露西亜の侵略、西郷に薫陶された庄内藩土・酒井玄蕃が誌した西郷・の憂患「今日の御国情に相成り侯ては、所詮無事に相済むべき事もこれなく畢竟は魯と戦争に相成り侯外これなく、既に戦争と御決着に相成り侯日には、直ちに軍艦にて取り運び申さずば相成らず、只今北海道を保護し、夫にて魯国に対峙相成るべきか、左すれば弥以て朝鮮の事御取り運びに相成り、ホセッドの方よりニコライ迄も張り出し、此方より屹度一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛し・・・兼ねて掎角の勢いにて、英、魯の際に近く事起り申すべきと・・・能々英国と申し合わせ事を挙げ侯日には魯国恐るに足らずと存じ奉り侯」というような、朝鮮と和親することは対魯防衛上絶対必要条件だと叫んだ地下の西郷は、北方領土を強盗占拠している現在のソビエトを何とみるであろうか。唯々、涙涙。

 ★征韓論の謎を解く決定的公式書翰

 以上のごとく、明治六年の参議論争は、権力主張の史料だけでも多くの謎、疑問に包まれているのだから、征韓論なるものの実体は、少くとも「不可解」と結論づけるべきものなのであるが、明治政府史家は、全力を煩倒して、正しい史実を歪曲、捏造して、それを「征韓」可否に関する外征派と内治派の論争だったとして、西郷を「征韓主張者」と決定づけ、それは、現在、中学校、高等学校などの教科書などにも誌され、国民的常識とまでなっているのである。

 しかし、明治六年の参議論争が果して「征韓」可否に関する論争だったかどうかを決定的に判断できる公的史料は、実に、明治六年の参議論争の最終段階において、十月十五日から十七日までの間に、西郷が、太政官他三条、岩倉、木戸、大久保、島津久光など多くの有力者へ送った「朝鮮御交際の儀」と首記した遣韓使節問題に関する顚末書であることを知らなくてはならない。

 明治六年十月十五日附、西郷が太政官へ提出した公式書翰

 朝鮮御交際の儀
 御一新の涯より及数度使節被差立百方御手を被尽候得共、悉ク水泡と相成候のみならず、数々無礼を働き候儀有之、近来は人民互の商道も相塞、倭館詰の者も甚国難の場合に立至候故、無ク御処、護兵一大隊可被差出御評議も趣承知いたし候付、護兵の儀は決て不宜、是よりして闘争に及候ては最初の御趣意に相反し候間此節は公然と使節被差立相当の事に可有之、若彼より交を破り戦を以テ拒絶可致哉、其意底慥に相顕倒処迄は不被為尽候ては、人事に於ても残る処可有之、自然暴挙も不被計抔との御疑念を以テ非常の備を設け被差遣候ては、又礼を失せられ候得ば、是非交誼を厚く被成候御趣意貫徹いたし候様有之度、其上暴挙の時機に至候て、初て彼の曲事分明に天下に鳴し、其罪を可問訳に御座候、いまだ十分尽さざるものを以て、彼の非をのみ責候ては、其罪を真に知る処無之、彼我共疑惑致し候故、討人も怒らず、討るるものも服せず候付、是非曲直判然と相定候儀、肝要の事と見居建言いたし候処、御採用相成、御伺の上使節私え被仰付候筋、御内定相成居候次第に御座候。此段形行(なりゆき)申し上候。 以上。

 **************

 この書翰からもわかるように、西郷は、朝鮮に対しては、最後の最後まで、交誼を厚くする趣旨を貫徹してゆく方針を執るよう主張して、それが、参議会議において御採用になって西郷の使節派遣が決定したものである、とそれまでの顚末を誌し、朝鮮を征伐するなどということは一言も言っていないのである。

 この形行書(なるゆきがき)を太政官他有力者へ送った西郷の狙いは、徳川幕府によって歴史から抹殺されている弥次郎の存在の歴史的取扱いについて幾度か論争したことのある歴史家・重野安繹が参議論争の裏面で策謀しているため、西郷は、後世において、明治六年の参議朝鮮使節論争に関する正しい史実が歪曲されることを恐れて、太政官に正しい事実を誌した顚末書を遺して後世に伝えんとしたのである。

 西郷の悲憤如何ばかりか、その正道を踏まんとした精魂を傾けた努力も、重野、久米など明治史家が謀った筆談の前に空しく葬り去られているのが現状なのである。だから、明治征韓論争の本質規定に際しては、この顚末書が決定的要因であることを知らなくてはならないのである。

 では、この西郷の顚末書が叫ぶ如く、明治六年の参議論争が「征韓論争でなく、西郷使節派遣可否論争であった」とすれば、その使節可否は何を意味する論争だったのだろうか?

 私は、それを「日本朝鮮親交」の他に「朝鮮における弥次郎に関する史料、事蹟調査可否に関する論争」であったとして説いてきたのであるが、最近、毛利敏彦氏が「明治六年の政変は、征韓論と非征韓論の対立からではなく、他の原因によって起きたと考えるべきであろう」と論取され「その他の原因」なるものは、要するに、和親使節たらんとした「西郷の熱意にあった」と断定されている。

しかし、その西郷の熱意をかき立てたもの、その心意が不明である限り、単なる熱意だけでは歴史的考証とは成り得ないのである。

 そういう意味からしても、毛利氏の、西郷征韓論の存在を否定する論証は、西郷が遣韓大使たらんことを熱意した副次的目的が、私が説くごとく「朝鮮における弥次郎に関する史料、事蹟調査にあった」と規定することによって、愈々、その論証の歴史的合理的な万全さを期しうるものであると断言できるのである。

 現在、多くの政治思想史家、評論家が、西郷征韓論に疑問を抱きまたはそれを否定されつつある事実は、人間の良心と知性が真理の光芒を標榜しつつあるものとして喜びにたえないのである。

 ****************

〔註〕明治初期切支丹渡来当時における切支丹関係文書

 「切支丹日本渡来初期における宣教師達の横暴とそれに対する日本人の敵意についての反省」(米国公使館公文書)「キリスト教諸国民と交わることに対する日本国民の根深い嫌悪は、初期宣教師、わけてもポルトガルの宣教師の無分別な布教熱に主として基づくといわれている」(一八五二年、ペリーに対する米国政府訓令の一部)「カトリック宣教師が無分別な熱意に駆られ、キリシタンにまつわる往時の敵意を呼び起しているのではないとよいが・・・」(パークスからハモンド外務次官への非公式報告)インドのゴアにおけるザビエルの弥次郎に対する質疑に対する弥次郎の応答を「千古不磨の金言だ」と絶賛したオール・コックの記録。

〔註〕『異端記』を遺した筆者の曽祖父・伊丹親恒

 親恒の祖道与、道甫父子は、岩屋梓梁が永正年代、伊集院鴬宿(重野氏も誌しているように、本邦における日本的歌舞音曲芸道の開創の地)の茶道の師として京から伊集院へ送り、九州における鴛宿派茶道(後に、徳川によって、藪鴬から藪内派と改称さる)の祖となったが、後に、島津義弘に従って加治木(大隅)へ移り、代々、伊丹家は加治木を継承の地とした。

 親恒は佐賀の乱の時、大久保内務卿からの急電によって部下二十名を率いて江藤新平を追って佐賀から鹿児島に入り、島義勇、副島謙介など十余名を捕縛した豪の者であったが、中原尚雄とともに、真方衆の謀略に乗ぜられた不用意の言が西南戦争勃発の因となり、反西郷党の密慎として私学校党に捕らえられた。

 その時の模様に関して左記のごとき手記を残した。

 「予は即ち廷卒のために引かれて其上に引据へられ、顔面頭首、四肢、腹背、所撰ばず有らゆる彼等の悪虐を受け、鞭楚乱打急霞の如く肉破れ骨挫け、目眩みロ血を吐く云々」
 「殊に甚しきは手指五本皮肉全く毀ち去られ、唯白き骨のみ露はに残るものあるという云々」
 「従是して賊軍肥後口に進攻するの間、私学校党の其官軍に属せるものの親族にして国に在るものを監視する頗る峻厳を極む。即ち予の家の如きは日夜賊徒其邸宅の周囲を警戒し出入を誰何す云々」
 「殊に予が当時の妻は私学校党の出なりしかば、其父母は強いて其妻を奪ひ、予牢居の際愛児を残して帷を去らしめたり。時に予の両親が最も悲惨の思ひを致したるは、生後僅かに十ケ月なる一孫児・松雄、終日終夜飢に泣き母を慕ひ乳を求めて止まざりしにぞある。乳母を雇はんか、官軍方なる者の家に入るは薪を抱いて火に入るよりも危険なりとて之に応ずるものなく、痩せ衰へて直に皮骨のみを包める形容の凄傖なりしは何とも言はん方なかりしと云々」
「余し父、いたづらに生を貪って哀れ賊子に倒れんは心もとなし、いさぎよく自決せんにしかずとその弟にして別に家する者野田を呼びて決心を告げしに、弟もまた最早や死するの時なるべしと同意したり。ここに於て、一家族三宝土器に水を酌みて別離を一叙し、まず第一に父は孫・松雄を刺して後に自刃せんとこれを引き寄せんとしたるに、これまで悲哀に沈み居た母は哀れに湛へ兼ね、気も狂乱して全く心神を喪失せるがごとく、忽然、孫を抱き去り、かたわらなる畑の陰に行き倒れ、漣然として自失せるの時、家を列せる新納某氏来りこれを抑止したるにより、事やむに至りたりしと云う云々」

 右の赤児・松雄が後の陸軍中将・伊丹松雄であるが、松雄十七才の時、その身辺に侍すべく伊集院から加治木伊丹家に送りこまれた真方衆本溜ウメとの間に生れたのが筆者の母フクである。

 明治二十五年当時、岡山県で郡長をしていた伊丹親恒は、かつて反西郷党(官軍側)に与したことをいたく後悔していたため、当時、全国からの史料蒐集に腐心していた重野安繹の、伊丹家に対する執拗強引な探訪を避くべく、士官学校に入校するため鹿児島を去る息・松雄をして『異端記』をウメに托して秘匿せしめたのである。しかし、真方衆の手に移った『異端記』の所在は容易に知ることを得なくなってしまったのである。

 ウメは伊集院町上方眼古園の福光市左ヱ門(市太郎)に再嫁したが、昭和二十一年秋、筆者を「タマモッどん」にすると称して[その内容をしゃべると殺されるから」と、門外不出、一子相伝という『かたいぐち記』と『異端記』なる古文書記録を涙ながらに筆者に渡したのである。

 『かたいぐち記』は、ウメが、娘フクを、真方衆窪田袈裟市(筆者の父。真方衆は、普化僧をその草走りの一つとしていたため、袈裟名はその通称の一つであった)へ嫁せしめる条件として、真方衆に、苛酷な訓化の暴行などの二言なからしめるため、真方衆誓約の肯綮を衝くべく、真方衆秘伝の『かたいぐち記』を巧妙に騙取したものだったのである。

 伊丹松雄は昭和三十三年六月二十三日死んだが、生前、当時鹿児島県立第一高女在学中の筆者の妹・巧美子(現平田姓)を、在学中と死の一年前の三十二年六月密かに訪ねて歓談し、窪田家に対する誄(ルイ、死んだ人々の功績、功徳を述べて哀悼の意を表する)を述べたという。死を予期した松雄の、窪田家に対する今生の別れであったと思われるのである。

 *****************
 
 ■明治六年政争の真相
 へ 続く。
 



●岩屋天狗と千年王国(14)
                           鎖国 和辻哲郎_1

                           フロイス日本史第6巻_1

 
 ■西郷を衝撃した明治切支丹 ― その解禁の謎
 
 ★不可解な切支丹解禁の謎
 
 明治維新史を繙(ひもと)く場合、私達が誠に奇妙に思うことの一つは、徳川幕府が三百年にわたる執念をこめて堅持してき、しかも、明治政府が発足早々の元年三月十五日「永世の定法」(切支丹宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ)として再確認した切支丹禁制を、明治六年二月二十四日、反切支丹とされた西郷留守内閣時代に至って「高札の撤去」という表現で簡単に解禁したという事実である。

 史家は、切支丹解禁の理由を、一般に、
 ①明治政府首班・西郷隆盛と副島外務卿が、条約改正を急がんとする余り、外国側に阿ったから
 ②岩倉渡欧使節団が、日本における切支丹迫害に対する海外キリスト教徒の反対与論、攻撃を痛感して、切支丹を解禁すべく、西郷留守内閣に急電を発したから
 ③キリスト教外交団の強い圧力があったから

 というような蓋然的判断でしかその理由を説明していないが、その当時における切支丹解禁の経緯を検討した場合、三百年にわたる民族の執念であった切支丹禁止を、極めて短時日に、誠に簡単に解禁した理由、経緯について、私達は多くの疑惑を抱かざるを得ないのである。

 ・反切支丹とされた西郷が、何故、易々と切支丹を解禁したのだろうか?
 ・解禁の急電をうったという岩倉使節団が間もなく帰国するという明治六年二月という時点に、その帰国を待たずに、如何にも即急に解禁したのは何故だろうか?
 ・切支丹解禁を要求する切支丹従衆の暴動的抵抗といったような社会的騒乱などは全然なかったのに、政府は何故一方的に解禁したのだろうか?
 ・政府が、解禁を単なる「高札の撤去」と誌した副島外務卿の米伊公使への口上覚書(二月二十六日)と「従来、高札ノ儀ハー般熟知ノ事二付、向後、取除キ可申事」という太政官布告だけで黙認して、、一般民衆には解禁を公表布達せず極秘にしてきたのは何故だろうか?
 しかも、それに符節を合せたかのように、切支丹側も、民衆に対する積極的な布教活動を展開しなかったのは、その裏面に、解禁に関する両者の丁解事項といったようなものがあったのではなかろうかという謎。このような場合、宗教活動は堰を切ったように奔騰するのが一般なのだからである。

 上のような疑問を反省、検討した場合、西郷内閣時代の明治六年という時点における切支丹解禁は、その行政執行面からしても、また、当時の社会的客観状況からしても、その早急な解禁を妥当、必然とするような根拠は何もなかったといえるのである。
 
 ★無効果に終った切り札、切支丹解禁
 
 明治四年十一月十二日(新十二月二十三日)出発した岩倉使節団の渡欧使節の第一の任務が、条約改正に関する準備工作ということにあったことから検討した場合、使節団が、その準備工作としては、ほとんど見るべき成果を挙げず、精々、条約改正(最恵国待遇、治外注権の撤廃、関税自主権の確立など)が、長年月をかけなくては、一朝一タには至難なものであるという心証、自覚を得たということがせめてもの成果であったとされていることからしても、使節団が未だ帰国せず、したがって、条約改正に関するくわしい情報もわからず、見通しも全然わかっていない明治六年二月という時点で、西郷留守内閣が、太政大臣三条実美の表立った反対もうけずに、如何にも即急に切支丹を解禁(黙認)したということは誠に不可解千万といわなくてはならないのである。

 つまり、条約改正と交換条件に、たとえ交換条件でなくても、少くとも、西欧側政府が条約改正を約束し、裏付けを保証するような、最低限、なんらかの見通しを得る態の外交接渉があった後に認むべきであった切支丹解禁という取って置きの切り札を、使節団が幾何もなく帰国するという時点において、西郷内閣は、何故、筒単に切り捨ててしまったのだろうか?

条約改正が実現したのは、それから二十年後の明治二十七年七月に至って、ようやく、英国との間に初めて成立したという事実からしても、明治六年二月の突然の切支丹解禁は全く納得がゆかないのである。

 では、明治六年という時点で、切支丹が解禁された理由、契機は何であったろうか? 何故、解禁を急いだのだろうか? 何故、解禁の理由、経緯が判然しないのだろうか? 何故「高札の撤去」というような奇態な表現で黙認したのだろうか?

 そうした事実の裏面事情を知らんとする場合、私達が非常に痛感することは、明治維新初期における切支丹解禁の経緯に関する日本側の史料や史的研究が意外に斟い(少ない)ということである。

 切支丹問題については、幕末までは、『幕末外交関係文書』(大日本古文書)として民間を含め意外に尨大なものがあるが、明治期に至ってからは途端に斟く、公文書としては、『大日本外交文書』(これは、外務省調査部が昭和十年ようやく編纂に着手したものである)があるだけで、わずかに、民間に、大久保、岩倉、大隅、勝海舟、福沢諭吉などの日記や回想録といったものがようやく手掛りになっているに過ぎず、しかも、重野、久米、星野、小中村、栗田など、明治初期において、切支丹問題に最も深刻に取り組んだはずの史家の史料がほとんど残っていないのは誠に奇怪千万といわなくてはならないのである。

 その点に関しては、外国側文書が意外に多くかつ精彩を極めていることは、村上直次郎、新村出、海老沢有道、浦川和三郎、片岡弥吉、姉崎正治、広瀬靖子、松田毅一、幸田成友、徳重浅吉氏など多くの研究が教えている通りであるが、それでも「基督教近代史(明治期)の研究が不充分である」ということは、海老沢氏の「日本キリスト教史研究の一盲点、従来あえて無視されている一面」など多くの書が叫んでいる通りである。

 このような事実は、明治史家が、明治初期における切支丹解禁の史的意義、政治的社会的効果を重視しなかったからではなく、当時の重野、久米氏など皇国史観歴史家が、切支丹解禁の経緯を判然させることを、国家のため「不為」としたため、意識的に当時の記録を残さず、むしろ、計画的
に焼亡、減却する方針をとったからだと思われるのである。
 
 ★恐るべき重野実証史学の狙い
 
 明治十年、東京帝大創立とともに、世界各国史(英、仏、希、羅馬)の研究科を設けながら、東洋史と日本史の研究科目が削除され、明治二十六年に至ってようやく国史学研究の講座が設けられ、明治三十七年に至って、始めて、国史学科、東洋史学科で設けられた事実は、明治八年修史局創設後、二十六年までの十八年間は、玉野氏など歴史学者だけが独占して日本歴史を研究し、切支丹解禁や明治六年の参議論争(いわゆる征韓論争とされているもの)、切支丹関係史、西南戦争の起因、経緯などに関する真相を掩蔽、歪曲する作業の期間だったと思われるのである。

 英国公使館付書記官、アーネスト・サトーが日本で蒐集した切支丹日本渡来初期における切支丹関係の重要資料(Annuar Letters of the Early christian Missions from Japan china etc)で東大史料編纂所に保管されていたものが何者かによって★焼却されてしまった奇怪な事件や、西郷が重野安繹に渡した「岩屋梓梁と易断政府関係資料」(真方衆が転写して西郷に渡し、西郷は重野から、皇朝史料として永久に保存するという言質を得て重野へ渡したもの)が現在東大に無いという事実も、明治政府、明治史家の歴史捏造歪曲の事実を物語るものである。

 そういう歴史抹殺の重大な事実の一つに、明治元年五月、西欧切支丹外交団の圧力により、大阪行在所で行われた「宗教談判」の論争内容に関する記録が全然残されていないということがある。この宗教談判は、西郷の心理に重大な影響を与え、西郷をして、やがて切支丹解禁を決意せしめるに至った重大な心理的動機の一つとなったものであるだけに、その会議に列席した重野、久米両氏が談判の記録を残さなかったということは、二人が、意識的に歴史抹殺を図ったものとしか断定せざるを得ないのである。

 「荀も史学に従事する者は、先づ、其の心術を正しくせざるべからず」「事実を明らかにし、事実を伝ふべし」として「史学の方法は遂に考証に帰す」と称して「国家は歴史なり」とか「国家を捨てて史学なし」などと誇称した重野実証史学なるものは、まさしく、岩屋梓梁抹殺と西郷征韓論理確立の自信のほどを豪語したものといえよう。切支丹解禁と西郷征韓論、西南戦争に関する重大な謎が今尚未解決であるゆえんであるが、そういう謎の一つに、西郷に接触した真方教の切支丹密偵の活動があったことを忘れてはならないのである。

 ★西郷を訪ねた切支丹密偵

 岩倉使節団が横浜を出港した約一ケ月後の明治四年十二月八日(新五年一月十八日)小網町の西郷屋敷(旧・酒井雅楽頭の中屋敷)に眼光炯々たる風体賎しからぬ大男が、誰の紹介もなく突然面会を求めて「唯徴志之一途と、当御館之御仁風を慕ひ上書仕候」と誌した建白書に、阿部真造惇信(伊集院・窪田家から宮ノ城・阿部家へ転籍した人物)と記名した身分手続を添えて提出した。

 西郷を訪ねた目的は、建白書に「世界四大教之内、耶蘇教之右二出る者ハ無御座候、是を屈し候道ハ、唯我古正伝之神道より外ニハ無御座候、此耶蘇教さへ取挫き置き候得ハ、如何程外交盛二相成候共、皇国ハ万々歳、益奉安無疑候」と誌されているように「私なら、古正伝の神道によって耶蘇教を取り挫くことが出来ますから、私を、耶蘇教打砕のための政府の宣教者にして下さい」といった趣旨のものであったが、西郷としては、神祇、宣教部門の事務とは直接の関係はなかったので、一応、太政官と教部省に、書類と人物の取り調べ方を依頼したのである。

 しかし、日本政府の宣教者になろうとしたこの人物が、太政官や教部省を訪ねる前に、何故、西郷を最初に訪ねたのだろうかという疑問からもわかるように、この人物が、最初に西郷を訪ねた目的は、宣教者になりたいためではなく、本当は、西郷に接して、西郷に、切支丹宗旨を説かんとするのがその目的だったのである。

 ところが、西郷ほどの人格的光芒に、切支丹宗旨の照射を企図するなどということは容易なことではないし、また、よほどの自信、がなくてはとてもできることではないことからもわかるように、この人物は、幕末以来、長崎において活躍したプチイジャン司教の下に、切支丹探索の目的をもって潜入していた窪田良助こと真方なる隠密名で潜入していた真方衆密偵だったものを、明治四年末、渡欧使節として出発する前の大久保が真方衆に下した命によって、西郷を切支丹教化する目的をもって西郷に接触を求めていった人物だったのである。ところが、その大久保は、その謀略工作において、自らが、重大な過失を犯していることを知らなかったのである。

 というのは、大久保が真方衆に依頼して選び出された窪田良助なる人物は、全国的な真方衆密偵組織の一員であって、すでに、その時には、その他の真方衆は、当時、東京上渋谷村、井伊掃部頭抱屋敷(現在の渋谷区原宿、明治神宮敷地)、ちんころ屋敷、隠田井筒、中渋谷村ツチ因幡(後に、岩谷松平太郎の屋敷)、下渋谷村ヤンブシ(山武士、修験者屋敷)、弁天さん(薩州屋敷)、青山村黒鍬谷、中豊沢村神泉谷、駒場野と謂われた渋谷地区所在各地の草伏(秘密の隠れ家)に離ぐん索居し、道玄山一帯を会衆の中心として、西郷の身辺に雲集して、岩屋梓梁と易断政府顕彰への潜行運動を活発に展開していたのである。

 大久保がその事実を知ったのは、遣欧使節から帰国した時(明治六年五月二十六日)、西郷と真方衆一党が、小網町から上渋谷井伊抱屋敷へ本拠を移して、道玄坂一帯を中心として奇怪な行動が多いという情報を得てからのことだったのである。従来史は、この事実を隠蔽するため、西郷は、渋谷宮益坂の弟・従道の家に居住していたとしているが、それは、通信受授のため、時たま訪ねて来る隆盛に対して、従道一家の者は口も利かぬほど西郷を忌避していたのである。従道一家の者は、隆盛は群狼に擁せられて謀叛(乱臣賊子)を企てているとみていたからである。

 西郷は、明治四年九月、島津久光及び有司専制派の意を迎えるために伊地知正治が書いた草案による「事務建言書」で「夫レ外国の教旨は明神を真視して君父を仮想し、人倫を紊り候儀災害同徹、今より是を予防せざれば後年の大害不可枚挙に立至候云々」と書いた切支丹排除の書を太政官へ提出した。

 この建言書の署名は伊地知正治、筆蹟は西郷であるが、この書は、西郷の敬天愛人というような儒教的性格からして、岩倉使節団の渡欧留守間の西郷執政が切支丹を許容しかねないとみた伊地知が、西郷自身の手で西郷自らに枠を嵌め置かしめようとして西郷に書かせたもので、島津久光の言 「あれだけはすんな」とは、切支丹解禁すなわち岩屋梓梁露呈反対の意だったのである。

 しかし、この建言書を見た大久保は、自分たちが渡欧している間の留守内閣の執政となる西郷の切支丹排撃偏向を恐れて、真方衆を通じて窪田良前に、西郷切支丹教化を、また、真方衆の殊勝を装う進言により伊丹親恒に、西郷との私的接触とその私生活、身辺の内偵を依頼したのである。権謀術数に長けていた真方衆の変幻自在さは、西郷と大久保に対しても、陰陽煽惑してその行動は容易に<サユ>すべからざるものがあったのである。

 窪田良肋は洗礼名アクナシオ、当時西海切支丹教徒から「日本ノ大和尚」(註)と畏怖された切支丹教師で、明治二年長崎を出発、上海、香港、サイゴンに遊学、明治四年二月横浜に帰着、居留地の天主堂に居住していたが、大久保の依頼による真方衆の指令により、渡欧使節団出発一ケ月後の明治四年十二月八日西郷に接触を求めて切支丹教化という官位工作を展開していったのである。

 しかし、良助は純粋に切支丹教化していたため、西郷の面前で、他の真方衆と、切支丹と仏教、神道に関する大激論をするに至ったのであるが、西郷の「もう、喧嘩はそのへんでよかろう、先づ、何よっか、天狗どんの朝鮮における事蹟を調べるこっが先行じゃ」という結言に続いて西郷の朝鮮行の決意表明があったのである。

  ★西郷の朝鮮行の副次的目的

 西郷が朝鮮大使となることを決意した理由は、日本と朝鮮の親交を正常化するとともに、岩屋梓梁の朝鮮における事蹟調査をすることにその第二の狙いがあったが、その直接的動機となったものは、岩屋梓梁抹殺を主張する重野安繹が、西郷が提出した「岩屋梓梁と易新政府に関する真方衆史
料」に絶句した挙句、西郷に対し「朝鮮の裏付け史料が無くては無価値だ」と抗弁したということと、当時、朝鮮を風靡しつつあった東学(教祖・崔済愚、いわゆる〔東学党の乱〕、註)の思想的淵源が、かつて岩屋梓梁が朝鮮において布教した弥勒天徳教にあって、それを、朝鮮哲宗六年(安政二年、1855)初夏、真方衆朝鮮密偵(方氏、当時朝鮮では一般に白髪の老人と称された)が崔済愚を慫慂して再興させたものであるという史的由来を真方衆から教えられたからでもあるが、何よりも、重野安繹が西欧側歴史家と結託して、西郷など岩屋梓梁顕彰派を排除して西欧側提供の切支丹記録を披見せしめなかったということが、それを期待して切支丹を解禁した(明治六年二月二十四日)西郷をして、いたく朝鮮行を焦燥せしめるに至った重大な心因となったのである。

 西郷を切支丹教化するために、窪田良助を西郷に接触せしめるに当って、大久保と切支丹側との間に事前の打合せがあったかどうかは不明であるが、大久保は、慶応二年、腹心の重野を長崎へ派して、真方衆の長崎における切支丹探索の実体を調査せしめているから大久保の発想ではないかと思う。しかし、大久保は、真方衆・窪田良助が西郷に接触することが、やがて、西郷が、有馬藤太をして、京阪権大巡察に任命せしめて、切支丹関係者を警衛せしめたり、また、西郷の切支丹解禁や京都薩摩藩邸の切支丹側への提供(現同志社大学の地)にまで展開してくるとまでは予想していなかったのである。窪田良助は真摯な切支丹教師であったが、密偵であったという瑕疵は、その後における切支丹側からの冀望(きぼう)を断たれてしまったのである。

 〔註〕貞方良助こと[日本ノ大和尚」
  良助のことについては、海老沢有道氏のくわしい研究があり、阿部慎蔵、真造、安倍新三などとも称し、その著に『夢醒真論』『弁正洋教』などがあるという。後に、西郷の指示により、旧会津藩士・山本覚馬、新島襄などと接触、京都旧薩摩藩邸を切支丹側に提供するなどの工作をなした。

 〔註〕東学党の乱と西郷四郎
  天道の教理、始祖・崔済愚、一八二四~六四年刑死、いわゆる東学党の乱。教祖の刑死に反動して、明治四年、東学党の官府襲撃などの過激な仲篤運動が起った。
  この乱に関する朝鮮真方衆からの情報で、西郷は、東学運動の動向にいたく瞠目したのである。この運動に賛同した日本人の団体が「天佑侠」で、その一人に、会津の西郷四郎悳武(西郷隆盛が会津津川で初会した志田某氏の一族、小説姿三四郎に擬せられた人物)がある。

 ■征韓論の有無を決定する公的史料
 へ続く。                      
 



●岩屋天狗と千年王国(13) -2
                        暗河_1
                        ★季刊誌『暗河』(くらごう)
                   1975年春号。西南の役特集。
                   渡辺京二、上村希美雄、森崎和江、石牟礼道子・・・。
                   稀有の一誌。
                                 

 ●岩屋天狗と千年王国(13)

 ■第二次革命を盟約した薩摩西郷と会津西郷

 ★『栖雲記』が語る薩摩西郷と会津西郷

 戊辰戦争の会津城攻防戦の最中、婦女子を含む一族二十一名が悉く自刃し果てた会津西郷家の当主・頼母近悳(ちかのり)その人は明治三十八年(三十六年説もある☆)まで生きのびた。
 ☆明治36年4月28日病没(74歳)。

 そのため、現在、会津方面における風教、人心には、追腹しなかった頼母に対する意識は薄く、むしろ、生き恥をさらした卑怯者として異端者扱いされているのが実情であると聞くが、実は、動乱渦中の当時、自刃を決意していた西郷頼母をして、生き伸びることに死を越える深大な使命があることを感銘せしめるに至ったのは、船渡の戦(会津盆地越後口、只見川渡)で頼母に初めて会った薩摩西郷隆盛の、自ら頼母の手を取っての必死の生への説得があったからなのである。

 薩摩西郷と会津西郷の関係については、現在、わずかに、頼母が書いた『栖雲記』なる私記に、

「維新の初め、館林藩の幽閉を免ぜられ、東の京・隅田川の川辺より、伊豆の月の浦近きあたりに移りしが、やがて、謹申学舎を開き、里人等に学びの道を授けしに、都々古別の宮司になりたる後、その辞すべき旨令せられしは、西郷隆盛が謀反に組せし疑とぞ聞ゆ」

と誌されて、頼母は「隆盛の謀反」(征韓論から西南戦争)に加わっていたとして政府から疑われたらしい、と暗示的に表現されているだけであるが、頼母自記の謀反という表現からも、また、最近発見された隆盛から頼母へ宛てられた二通の書翰(註)からもわかるように、両西郷は、維新政府発足後、早急の時機に第二次革命を敢行するという固い盟約をしていたのである。

 ★隆盛、必死に頼母との連絡を策す

 沖永良部島の流謫を免ぜられて、元治元年(1864)三月上京、軍賦役として薩摩藩の在京責任者となった西郷隆盛は、同年七月の禁門の変(蛤御門の変、その前年の文久三年八月十八日の政変で京を追われた長州藩は元治元年七月、三家老が兵を率いて入京せんとして、会津、薩摩藩兵と蛤御門附近に戦って敗北した)以後の会津藩内の情勢把握に努力し、特に、会津候・保科容保の京都守護職就任に反対したため蟄居を命ぜられて国元の下長原村栖雲亭に隠棲している西郷頼母に対しては、真方衆を通じて再三の接触を図って、同祖同族として親炙の意を表せしめたのであるが、慶応四年(明治元年、1868年)一月の鳥羽伏見の戦の時、盲目で下半身不随の病床にあったため、京都市内で薩摩藩兵に捕えられて薩摩藩邸で厚遇されていた会津砲術家・山本覚馬の意見によって、西郷隆盛は、西郷頼母、神保修理(後に二月十二日庄戸において屠腹)、田中土佐(八月二十三日自刃)三人が、会津藩との交渉を平和裡に収束できる人物であると確信していたので、北越戦線にあった明治元年八月、隆盛は、真方衆と、新発田藩家老・溝口半兵衛の了解を得た新発田藩士・窪田半兵衛をして、会津藩・境津川の戦で官軍に敗れた会津藩兵の兵事方・西郷陽次郎直節(頼母の実弟、山田家を継ぐ)と関牧守の志田某とともに、津川から若松城下へ最短道を急行せしめて、会津藩土・窪田伴(その兄伴治は禁門の変の時、一番槍として長州軍へ突入、二人を切って自らも斬死したため、会津において「窪川伴治は一番槍」と唄われた)へ連絡、唯一の生き残りである西郷頼母に越後口征討軍にある隆盛との接触を求めしめたのである。

 長州征伐、徳川家処分、江戸城明渡し、後の庄内藩処分の例などからもわかるように、幕末維新戦争を道義的に平和裡に収束するのが西郷の心情であり、行動様式であったから、西郷は、残る最強の会津藩に対しても、頼母を通ずる和平工作に傾倒することにしたのである。

 『栖雲記』には、そのことに関して「おのれは籠城の中より越後出張の家老が許へ軽き事の使を命ぜられ、其事を果し、直様、北海道へ赳きし云々」と誌され、頼母は八月二十六日若松城を出ているが、すでに二十三日には、国老・田中土佐と神保内蔵助か伊賀町郭門外で自刃し果てるほど、四方の城門を包囲されていた状況下に、西郷頼母と吉十郎有隣(ありちか、当時十一歳)父子が、無事に城を脱出して、野戦遊撃、遭遇戦が展開されている会津平野を突破して北行せんとした越後口行なるものは、隆盛が派した密頃の先導と護衛があったからこそ可能だったのである。

 現在、頼母は、何故、戦聞酣(たけなわ)の越後ロヘ急行しようとしたのか、その目的、理由は不可解とされ、『会津会報』には、頼母は「越後口より退却せし陣将に君命を伝ふべき重き使命を帯び男吉十郎を伴ひ之に向ふ」と誌され、『栖雲記』には前述のごとく「軽き事の使命を命ぜられ云々」と誌され、また、和平反対派は、頼母を討つため、二、三の刺客を出して追跡せしめたが途中で踪跡を失したとか、刺客は故意に別路を追跡して頼母を見逃したなどと誌されて、頼母の越後口行の実態は判然しないのであるが、『かたいぐち記』には、頼母は、隆盛に接触することによって「何らかの和平好転の糸口やあらん」と、藩主・容保の意を図り、その旨を受けた上での頼母の越後口行だったと誌されている。

 ★ともに米沢へ急ぐ

 八月二十七日払暁、頼母一行が高久村に至った時には、越後口津川の要害から退却しつつあった会津諸隊は国老・萱野権兵衛の指揮下に、坂下、高久の線からさらに若松城の方へ退却せんとしつつあったので、頼母は、藩主・容保の命なりと称して「越後口の敵(官軍)を舟渡の線に扼すべし」と激発したため、会津諸隊は再び反転して西進し、舟渡の只見川の線を固守せんとして、対岸の片門駅に迫った官軍と砲戦を交わして対峙していたが、その間の九月五日に至って、若松城を包囲していた官軍が、高久、坂下の線にあった会津藩兵戦列の背後を衝いて北進して来たため、坂下、塔寺・、舟渡にあった会津藩兵は、右翼は塩川方面へ、左翼は高田方面へ退却するに至った。

 その時の戦で、舟渡の河岸に孤立するに至った頼母一行は、密偵の活躍により、対岸に待機していた西郷隆盛との接触を図ることに成功したのである。

 片門駅にあった越後総督(西園寺公望、参謀・山県有朋)の下へは、その前日の九月四日、西郷が米沢へ送りこんだ真方衆と同道した米沢藩士・窪田茂遂と中川雪堂に案内された家臣・毛利上総が米沢藩の謝罪書を提出していたため、隆盛は、米沢藩を通ずる会津藩への帰順工作を急務として、兵具隊主力は舟渡から只見川沿いに木曽山都方向に流下することを陽動せしめるとともに、両西郷は、塔寺、坂下、木曽山都、慶徳、小荒井、喜多方から熊倉へ密行、その間、若松城包囲中の官軍密使と数回にわたり接触(桐野利秋の城受取り宰領と保科容保の生命保護など)、九月十三日熊倉から米沢街道を北上、十四日米沢に至り、米沢藩を通じて、頼母の意見による手順に従って、十六日、高久村にあった菅野権兵衛に書を送って帰順工作を開始し、それに基いて、若松城の保科容保は藩臣・手代木直右衛門と秋月梯次郎を米沢へ派遣して降伏、開城を依頼するに至ったのである。

 九月五日、舟渡で初めて会った両西郷は、十五日米沢で別れるまでの暫か十日間の野戦起居であったが、この間に、頼母は、隆盛の、過去三百年を遡る両西郷家の歴史的因縁に始まる、徳川の偽史を糾すべき、熱誠溢れる説得により、自刃を断念して、隆盛とともに、偽史是正のための第二次革命敢行を盟約するに至ったのである。

 ★隆盛、頼母の一子吉十郎を鹿児島に預る

 しかし、西郷頼母は、最大の朝敵会津藩の責任ある立場にある者であっただけに、ひとまず、隆盛との接触を離れて、時局安定の秋まで自力で逃晦、生きのびなくてはならなかったため、隆盛と図って一子・吉十郎を隆盛に託して一詩を賦し、弟・陽次郎直節と共に、隆盛が附した真方衆密偵二人に守られて、米沢から仙台を経て、大鳥圭介軍に投じて幕艦開揚丸に乗じて函館へ奔ったのである。

 隆盛は、戦局前途多難の折から、すでに一族二十一名が悉く自刃し果てた会津西郷家の、残る唯一人の生存者である吉十郎の命を保護しなくては、栄ある会津西郷家は絶滅するに至るとしたのである。

 「薩摩西郷隆盛、会津西郷の一子を同行す」といった異彩の取合せは、またたく間に、東北戦線諸藩人の薩摩西郷への人望を弥増し、風を慕った雲井龍雄(米沢藩)が、かつての討薩檄の賦も忘れて、藩の意見もものかは、中川雪堂、窪田茂遂とともに、勝手に、西郷の後に付して離れなかったのはこの時であったという。

 西南戦争の時、西郷を慕って城山で死んだ中津隊(豊後)隊長・増田宗太郎(註)が、敗色濃き秋、隊士と別離して鹿児島へ南行するに当って、「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり、一日先生に接すれば一日の愛を生ず、三日接すれば三日の愛を生ず、親愛日に加はり、去るべくもあらず、今は、善も悪も死生を共にせんのみ」と語って、西郷を慕って南下した例もあるように、西郷の奕奕(えきえき)たる人格的光芒は、雲井龍雄をして初会一瞬にして魅了、その心を離すことがなかったのである。

 間もなく東京に出た雲井が、徳川の偽史糾明運動に奔命するに至った契機は、実に、この時の西郷との接触にあるものであると『かたいぐち記』には誌されている。



 ★西郷が函館へ急行した目的

 会津藩記録では、函館戦争当時、頼母は変名して一兵卒であったとか、風韻朧月の日々であったなどと誌されてその実体は判然しないそうであるが、幕府側函館戦争義人録にも「役員外江差詰」の一人として「会老 西郷頼母」と誌されているごとく、頼母は戦列を離れて江差で隠棲者のごとき生活を送っていたのであるが、明治二年四月五日、官軍が江差北方の乙部村に上陸、南下してきたため、四月十日、幕軍は土場から松前方面へ後退した。

 その時、頼母は官軍に「自訴して降伏」したため、四月十六日江差に上陸して来た黒田清隆は頼母と同船して四月二十日松前へ、さらに函館へ移って頼母を官軍の特別の保護下に入れ、会津藩の積極抗戦派首脳の処罰が決定執行(明治二年五月十日、家老・菅野権兵衛の自刃)されるまで、その身分、所在を秘され、五月二十日函館に上陸した西郷隆盛が託した山本数馬(旧土佐藩士、坂本龍馬を通じて西郷とは旧知の間であったが、当時、太政官密偵として沢辺琢磨と変名して北辺探索に当っていた)宅に隠されて生き伸びることを得たのである。

 黒田清隆から、函館戦線終了近しとの報を受けた西郷隆盛は、明治二年五月一日、薩摩藩兵差引として鹿児島港を出発、五日品川に着いたが、大村益次郎などの、函館戦争はすでに終了したりとする嘲笑をも意に介せず、西郷が遠く函館へ急行した目的は、実に、榎本武揚以下幕兵すべての救命と西郷頼母の身柄確認とその子・吉十郎の引渡しなどその後の身柄振り方などについて官への具申について黒田清隆に指示することにあったのである。

 この時の西郷の意気込みが「一人ヲ刑セズ」であったことは、西郷が黒田清隆に「薩摩士官の全生命を賭けて、榎本以下幕軍将兵の命を譲る」と主張しろと指示したことからもわかるのである。西郷が、大村益次郎などの嘲笑をも意に介せず函館へ急行したゆえんであるが、従来史は、函館における西郷の意図を隠蔽するため、西郷は「二十五日函館着、上陸せず、船上から巨眼一瞥したままで即日帰航した」などと誌しているのである。

 その時の西郷の行動は、五月十六日品川出港、十八日五稜郭陥落、榎本以下亀田会議所会談、二十日西郷函館着、二十五日出航したものであることを参考として誌して置きたい。

 ★大村益次郎暗殺を密命した大久保と岩倉

 西郷が函館へ急行した目的が、人命の尊さの主張と、討幕戦終了後は、官職の別なく、徳川の偽史糾明の革命のために必要な人材確保という深慮遠謀にあったということが後でわかったため、西郷の函館急行を「無駄な物好き」などと嘲笑した大村は却って物笑いされる羽目となってしまったため、そのことを含みとして逆うらみした大村が、太政官からの再三の注意にもかかわらず「西郷は妖僧・岩屋天狗の子孫だ」「西郷は足利尊氏のような奴だ」「西郷はユタだ」「西郷は次の革命を意図している」などと盛んに吹聴、公言しはじめたため、そのことから、岩屋梓梁と易断政府の歴史的存在が露呈することを恐れた明治政府は、岩倉と大久保の指示により、弾正台忠・海江田信義(旧薩摩藩士)の工作で旧長州藩士・大楽源太郎に図って、その部下、団伸二郎、神代直人などをして大村の暗殺(明治二年九月負傷、十一月死)を図ったのである。

 現在、大村が暗殺された原因は、その四民皆兵の思想(靖国神社々頭大村銅像には「近代兵器使用推進による兵制改革」にあったと誌されている)に原因があったとしているが、明治維新政府発足怱々の二年当時、国民皆兵や近代兵器使用推進の考え方などは、憂うべき物の数のものでなく死に値するほどのことではなかったのである。

 実に、大村が暗殺された原因は、医者あがりの大村の、新知識だけを取り得にした、品容を欠いたそのベラベラの言動が、歴史的存在としての岩屋梓梁と易断政府の存在暴露に通ずるとされたその多弁の口が禍の元だったのである。

 ★雲井龍雄の刑死、広沢真臣暗殺は大久保の指令

 明治二年五月函館五稜郭落城後、九月東京へ護送された西郷頼母は九月十二日館林藩に幽閉(註)されていたが、三年二月十一日、幽閉を免ぜられて斗南藩(旧会津藩)へ引渡されると同時に、西郷隆盛が庄内藩国老・菅実秀に依頼して斡旋して貰った隅田川沿いの小梅にある越後屋(庄内藩御用商)の寮(註)に移り、芝増上寺(増上寺には、西郷於愛の子、第二代将軍秀忠の墓があって、会津保科、会津西郷家の墳塋の地とされていた)を連絡場所として、密かに、全国的な歴史調査(昌平黌・林三郎惟純、他学匠)と易断伴類などの国友衆(特に鉄砲製造基地群)との連携工作に着手したのである。

 米沢藩降伏後、西郷隆盛からうけた歴史訓戒に深い感銘をうけた雲井龍雄は、持ち前の激情性から、西郷頼母の館林幽閉解除と前後して、三年二月二十六日、芝二本榎の上行寺と円真寺に「歴史点検所」(民衆による徳川曲史再検討運動。従来史は、この看板名を帰順部曲点検所だったとして、藩兵に代る、新政府への帰順を目的とした親兵募集所だったとして事実を歪曲した)なる看板を掲げて、全国から、無差別無選択に有志者(雲井はそれを天兵と称した)を糾合して、謂わば処士横議の態の、歴史改変の尖鋭集団として、史料の発行、販布などをしたため(従来史はこれを贋札発行などと誌した)明治政府は、これを、政府顚覆の陰謀だったとして三年五月十三日雲井を逮捕して十二月二十八日梟首し、さらに、この運動に与した山田陽次郎(西郷直節)を七月四日日光今市にて逮捕、十二月二十六日淮流十ケ年を判決、それから三年後の明治七年五月函館において獄死(刑死)したのである。

 明治四年正月、広沢真臣(長州藩士、明治維新時、木戸孝允と同格の千八百石の永世禄をうけた功臣)が何者かによって暗殺された原因が不明であるのも、真臣が、雲井龍雄に同腹して多額の資金を援助するなどしてその歴史糾明運動を強力に支援したからであるが、雲井と広沢の死が相前後して急がれた理由は、四年正月早々に上京が予定された西郷隆盛の着京、参政前に殺す必要があるとしたからである。広沢暗殺の理由、原因が判然せず、暗殺者が不明であるゆえんであるが、上京した西郷は「草の根分けても犯人を捜せ」と指令したほどの執念であった。

 『異端記』には、犯人は大久保の指令で動いた旧薩摩藩士・野村綱で、野村は広沢暗殺後直ちに宮崎へ逃げて県職員をしていたが、明治十年役勃発直前上京して、再び大久保の指令をうけて密偵として鹿児島へ下ったが、「暴発等ノ節ハ自ラ大小為スコトアルベシ」という大久保の指令通り、「危し」とみて、鹿児島上陸後その足で県庁へ出頭、密偵であることを自白したため、伊丹親恒達のような拷問は受けることはなかったのである。

 ★伊豆半島鉄砲製造基地を調査

 西郷頼母は明治四年春、隆盛の尽力により、その息・吉十郎が島津啓二郎(当時十三歳、註)と共に米国留学に出発するのを横浜に見送ってから、秋九月に至って、それまで歴史研究の指導をうけていた昌平黌・林三郎と共に静国表を調査、さらに、清水港から清水次郎長に案内されて駿河湾を伊豆半島田子港、月の浦に上陸、江奈村(現松崎町、この地は、かつて隆盛の依頼により、頼母が、慶応三年五月、会津藩士・大島篤忠を鉄砲基地調査のため送りこんだところ)の寧香義痒の痒長となったが、一旦帰京、
さらに翌五年春、再び、陣容を整えて江奈村に至り、依田佐二平(大沢村、差配大家)が設置した謹申学舎塾長(英語・山川忠興、仏語・幾島閑)となって、本格的な鉄砲製造基地(天文十四年、岩屋梓梁の遣明船・天祐丸が日本へ帰航中、暴風雨のため伊豆半島岩地海岸に漂着した後、南伊豆一帯に建設した鉄砲製造基地)の調査に着手したのである。

 当時、頼母が深く接触した依田佐二平の祖先は、天祐丸で漂着した入田信勝の子孫であり、佐二平の母の生家、岩地の旧家・高橋文佐衛門家(通称・屋文佐)も天祐丸で漂着した高橋信景の子孫だったのである。

 明治五年十月、隆盛は、陸路、小田原、湯河原、下田に至って頼母と共に南伊豆鉄砲鍛冶旧跡を視察、依田宅から頼母を同行して出発し、静岡、名古屋、近江、奈良、堺を訪ね、大阪から船で十一月十日鹿児島へ帰り、翌六年三月、清国行の途次、鹿児島に寄った外務卿・副島種臣と会談後四月上京した。

 西郷隆盛を中心とする徳川の偽史糾明による四民平等の民権確立運動は、やがて、西郷の朝鮮使節可否論争(いわゆる征韓論)となり、江藤新平の佐賀の乱、前原一誠と永岡久茂の萩の乱、秋月の乱(神機銃々隊長・中野五郎三郎)、土佐における大江卓、林有造の挙兵準備(植木枝盛の反対で挫折)、陸奥宗光の挙兵計画、最後に、西郷隆盛の西南戦争という大乱となって展開していったのである。

 そして、これらの内乱の政府側裏面において、大久保が工作、関与、謀絡し、無慙に誅断していることを忘れてはならないのである。当時、大久保の暗殺がおそすぎたと謂われ(アーネスト・サトー記)西郷隆盛が「謀叛に組せし疑とて聞ゆ」と誌したゆえんである。

 薩摩西郷と会津西郷との結びつきを始めとする明治初期の民権確立の諸反乱の真相が、大久保利通の指令による、三島通庸、小牧昌業、大迫真清、奈良原繁、海江田信義、大浦兼武、菅井誠美、園田長照、柏田盛文、川上親晴、佐藤暢、高崎親章、大山綱昌、時任為基、安楽兼道など、全国的に配置転任した多くの薩摩薩出身県令を出先とする修史局・重野安繹、伊地知真馨などの筆誅曲説や新聞条令、讒謗律(明治八年六月)などの断圧により、明治政府史から完全に封殺、歪曲されてしまっていることを忘れてはならないのである。

〔註〕薩摩西郷から会津西郷へ贈られた手紙
  両者の関係については、西郷頼母研究会発行の昭和五十二年十月一日附機関誌には「性格的にも思想的にも、東西の対立関係の障害を超えてまでも共鳴するものはなかった」と否定されているが、昭和五十三年五月一日発行の同機関誌には、私が昭和五十二年八月十日附著者作の『西郷征韓論は無かった』の一部が転記され、同研究会発行の昭和五十三年三月十日と同七月二十日附の『栖雲亭通信』には「東西で、頼母宛隆盛書翰発見、維新時、両西郷交流の謎解明に新史料」「京都、隆盛書翰詳報、首謀者処分二月三日の謎」と首題して、書翰全文が記載されている。同研究会の地域拠点として「鹿児島(西郷隆盛)」と記載されていることからしても、同研究会も両西郷の密接な関係も肯定されているものと思う。昭和五十四年からの「会津祭り」に「西部頼母」なる主席家老が突然登場して、何者なりや?と会津人の注目を惹いたのも這般の経緯を物語るものといえよう。

〔註〕増田宗太郎
 福沢諭吉は、その人柄を「中津より宗太郎出だしたるは、猶、灰吹より龍の出でたるが如し」と絶讃した。増田が誌した中津募兵の檄に、この決起により「人民天賦の権利を回復」とあるは、増田が、西郷軍の決起に、自由人権の回復がその目途であることを知ったからであるといえよう。

〔註〕西郷頼母が館林に幽閉された理由
 大塩平八郎の乱に共鳴して越後柏崎(桑名藩の支領)で反乱を起した生田万の生家は館林藩士だったため、頼母は、隆盛の依頼により、生田万及びその家伝の書(大中経、日文伝評論、岩にむす苔、大中真人謾稿など)を研究した。館林における頼母の詩に「冷淡面目に横?って人の識る無し、涕(なみだ)を攬って起座し、短聚(燭台)に対す」とあるはそのころの心境を詩ったものといえよう。頼母の弟・直節は、生田万が館林から移って厚載館を開いて教授していた太田へ移って、生田万の太田における動静を調査した。

〔註〕向島小梅にあった越後屋の寮
 文久三年、淡路島生れの鈴木重胤(国学者・大国隆正に入門、平田篤胤に書教さる。伊集院郷出身の有馬新七の親友で造士館教授たるべく鹿児島に着任したが島津斉彬の死によって引返す。真方衆の懇請により 下関において白石正一郎に国学、歌道を教ゆ)は、庄内藩・大滝光憲の援助により、小梅にあった越後屋喜左ヱ門の寮で廃帝の事績(岩屋梓梁の事蹟)調査を行っていたため、この寮で尊攘派に暗殺された。この話を、菅実秀から精しく聞いた西郷隆盛は、この寮にことさら愛着を抱いて、乞いて西郷頼母を起居せしめて第二次革命策謀の基地として活用したのである。

〔註〕島津啓二郎
 島津啓二郎(島津支藩、佐土原藩主・島津忠寛の第三子)と西郷吉十郎は、西郷隆盛の尽力により、明治四年米国へ留学(アナポリス海軍兵学校、ニューヘブン、グリンボルド、ロムボルドの諸校)九年四月帰国、ともに関東、東北を遊歴、吉十郎は薩摩において西郷小兵衛(隆盛の弟)方に起居、私学校党に与して西南戦争に参加、肥後高瀬の戦において二月二十七日負傷したため、西郷小兵衛の命により長崎へ転戦するからと称して、当時、高瀬南方の百貫石対岸の小島に本営を構えていた島津啓二郎をして、吉十郎を長崎の洋医の下へ送ったが、西郷小兵衛は、その半刻足らずの後、同じ高瀬河原において銃弾に当って戦死した。
 啓二郎は、九月、城山において戦死した。吉十郎は東京へ移って病死したというが筆者はその先を知らない。

 ******************

 ■西郷を衝撃した明治切支丹 ― その解禁の謎
 へ続く。
                      
 




●岩屋天狗と千年王国(13)-1
                    田中清玄自伝_1
                                        
                 『田中清玄(きよはる)自伝』 ちくま文庫。
                ↓会津藩家老・田中土佐(玄清はるきよ)の子孫。
                 その第一章は「会津武士と共産党」。
                 ★<吉薗周蔵の手記>にも「登場」する。

                  当ブログの以前の記事は←左の「ブログ内検索」で
                  【田中清玄】と入力すれば、出てきます。                     
 
 ■第二次革命を盟約した薩摩西郷と会津西郷

 ★『栖雲記』が語る薩摩西郷と会津西郷

 戊辰戦争の会津城攻防戦の最中、婦女子を含む一族二十一名が悉く自刃し果てた会津西郷家の当主・頼母近悳(ちかのり)その人は明治三十八年(三十六年説もある☆)まで生きのびた。
 ☆明治36年4月28日病没(74歳)。

 そのため、現在、会津方面における風教、人心には、追腹しなかった頼母に対する意識は薄く、むしろ、生き恥をさらした卑怯者として異端者扱いされているのが実情であると聞くが、実は、動乱渦中の当時、自刃を決意していた西郷頼母をして、生き伸びることに死を越える深大な使命があることを感銘せしめるに至ったのは、船渡の戦(会津盆地越後口、只見川渡)で頼母に初めて会った薩摩西郷隆盛の、自ら頼母の手を取っての必死の生への説得があったからなのである。

 薩摩西郷と会津西郷の関係については、現在、わずかに、頼母が書いた『栖雲記』なる私記に、

「維新の初め、館林藩の幽閉を免ぜられ、東の京・隅田川の川辺より、伊豆の月の浦近きあたりに移りしが、やがて、謹申学舎を開き、里人等に学びの道を授けしに、都々古別の宮司になりたる後、その辞すべき旨令せられしは、西郷隆盛が謀反に組せし疑とぞ聞ゆ」

と誌されて、頼母は「隆盛の謀反」(征韓論から西南戦争)に加わっていたとして政府から疑われたらしい、と暗示的に表現されているだけであるが、頼母自記の謀反という表現からも、また、最近発見された隆盛から頼母へ宛てられた二通の書翰(註)からもわかるように、両西郷は、維新政府発足後、早急の時機に第二次革命を敢行するという固い盟約をしていたのである。

 ★隆盛、必死に頼母との連絡を策す

 沖永良部島の流謫を免ぜられて、元治元年(1864)三月上京、軍賦役として薩摩藩の在京責任者となった西郷隆盛は、同年七月の禁門の変(蛤御門の変、その前年の文久三年八月十八日の政変で京を追われた長州藩は元治元年七月、三家老が兵を率いて入京せんとして、会津、薩摩藩兵と蛤御門附近に戦って敗北した)以後の会津藩内の情勢把握に努力し、特に、会津候・保科容保の京都守護職就任に反対したため蟄居を命ぜられて国元の下長原村栖雲亭に隠棲している西郷頼母に対しては、真方衆を通じて再三の接触を図って、同祖同族として親炙の意を表せしめたのであるが、慶応四年(明治元年、1868年)一月の鳥羽伏見の戦の時、盲目で下半身不随の病床にあったため、京都市内で薩摩藩兵に捕えられて薩摩藩邸で厚遇されていた会津砲術家・山本覚馬の意見によって、西郷隆盛は、西郷頼母、神保修理(後に二月十二日庄戸において屠腹)、田中土佐(八月二十三日自刃)三人が、会津藩との交渉を平和裡に収束できる人物であると確信していたので、北越戦線にあった明治元年八月、隆盛は、真方衆と、新発田藩家老・溝口半兵衛の了解を得た新発田藩士・窪田半兵衛をして、会津藩・境津川の戦で官軍に敗れた会津藩兵の兵事方・西郷陽次郎直節(頼母の実弟、山田家を継ぐ)と関牧守の志田某とともに、津川から若松城下へ最短道を急行せしめて、会津藩土・窪田伴(その兄伴治は禁門の変の時、一番槍として長州軍へ突入、二人を切って自らも斬死したため、会津において「窪川伴治は一番槍」と唄われた)へ連絡、唯一の生き残りである西郷頼母に越後口征討軍にある隆盛との接触を求めしめたのである。

 長州征伐、徳川家処分、江戸城明渡し、後の庄内藩処分の例などからもわかるように、幕末維新戦争を道義的に平和裡に収束するのが西郷の心情であり、行動様式であったから、西郷は、残る最強の会津藩に対しても、頼母を通ずる和平工作に傾倒することにしたのである。

 『栖雲記』には、そのことに関して「おのれは籠城の中より越後出張の家老が許へ軽き事の使を命ぜられ、其事を果し、直様、北海道へ赳きし云々」と誌され、頼母は八月二十六日若松城を出ているが、すでに二十三日には、国老・田中土佐と神保内蔵助か伊賀町郭門外で自刃し果てるほど、四方の城門を包囲されていた状況下に、西郷頼母と吉十郎有隣(ありちか、当時十一歳)父子が、無事に城を脱出して、野戦遊撃、遭遇戦が展開されている会津平野を突破して北行せんとした越後口行なるものは、隆盛が派した密頃の先導と護衛があったからこそ可能だったのである。

 現在、頼母は、何故、戦聞酣(たけなわ)の越後ロヘ急行しようとしたのか、その目的、理由は不可解とされ、『会津会報』には、頼母は「越後口より退却せし陣将に君命を伝ふべき重き使命を帯び男吉十郎を伴ひ之に向ふ」と誌され、『栖雲記』には前述のごとく「軽き事の使命を命ぜられ云々」と誌され、また、和平反対派は、頼母を討つため、二、三の刺客を出して追跡せしめたが途中で踪跡を失したとか、刺客は故意に別路を追跡して頼母を見逃したなどと誌されて、頼母の越後口行の実態は判然しないのであるが、『かたいぐち記』には、頼母は、隆盛に接触することによって「何らかの和平好転の糸口やあらん」と、藩主・容保の意を図り、その旨を受けた上での頼母の越後口行だったと誌されている。

 ★ともに米沢へ急ぐ

 八月二十七日払暁、頼母一行が高久村に至った時には、越後口津川の要害から退却しつつあった会津諸隊は国老・萱野権兵衛の指揮下に、坂下、高久の線からさらに若松城の方へ退却せんとしつつあったので、頼母は、藩主・容保の命なりと称して「越後口の敵(官軍)を舟渡の線に扼すべし」と激発したため、会津諸隊は再び反転して西進し、舟渡の只見川の線を固守せんとして、対岸の片門駅に迫った官軍と砲戦を交わして対峙していたが、その間の九月五日に至って、若松城を包囲していた官軍が、高久、坂下の線にあった会津藩兵戦列の背後を衝いて北進して来たため、坂下、塔寺・、舟渡にあった会津藩兵は、右翼は塩川方面へ、左翼は高田方面へ退却するに至った。

 その時の戦で、舟渡の河岸に孤立するに至った頼母一行は、密偵の活躍により、対岸に待機していた西郷隆盛との接触を図ることに成功したのである。

 片門駅にあった越後総督(西園寺公望、参謀・山県有朋)の下へは、その前日の九月四日、西郷が米沢へ送りこんだ真方衆と同道した米沢藩士・窪田茂遂と中川雪堂に案内された家臣・毛利上総が米沢藩の謝罪書を提出していたため、隆盛は、米沢藩を通ずる会津藩への帰順工作を急務として、兵具隊主力は舟渡から只見川沿いに木曽山都方向に流下することを陽動せしめるとともに、両西郷は、塔寺、坂下、木曽山都、慶徳、小荒井、喜多方から熊倉へ密行、その間、若松城包囲中の官軍密使と数回にわたり接触(桐野利秋の城受取り宰領と保科容保の生命保護など)、九月十三日熊倉から米沢街道を北上、十四日米沢に至り、米沢藩を通じて、頼母の意見による手順に従って、十六日、高久村にあった菅野権兵衛に書を送って帰順工作を開始し、それに基いて、若松城の保科容保は藩臣・手代木直右衛門と秋月梯次郎を米沢へ派遣して降伏、開城を依頼するに至ったのである。

 九月五日、舟渡で初めて会った両西郷は、十五日米沢で別れるまでの暫か十日間の野戦起居であったが、この間に、頼母は、隆盛の、過去三百年を遡る両西郷家の歴史的因縁に始まる、徳川の偽史を糾すべき、熱誠溢れる説得により、自刃を断念して、隆盛とともに、偽史是正のための第二次革命敢行を盟約するに至ったのである。

 ★隆盛、頼母の一子吉十郎を鹿児島に預る

 しかし、西郷頼母は、最大の朝敵会津藩の責任ある立場にある者であっただけに、ひとまず、隆盛との接触を離れて、時局安定の秋まで自力で逃晦、生きのびなくてはならなかったため、隆盛と図って一子・吉十郎を隆盛に託して一詩を賦し、弟・陽次郎直節と共に、隆盛が附した真方衆密偵二人に守られて、米沢から仙台を経て、大鳥圭介軍に投じて幕艦開揚丸に乗じて函館へ奔ったのである。

 隆盛は、戦局前途多難の折から、すでに一族二十一名が悉く自刃し果てた会津西郷家の、残る唯一人の生存者である吉十郎の命を保護しなくては、栄ある会津西郷家は絶滅するに至るとしたのである。

 「薩摩西郷隆盛、会津西郷の一子を同行す」といった異彩の取合せは、またたく間に、東北戦線諸藩人の薩摩西郷への人望を弥増し、風を慕った雲井龍雄(米沢藩)が、かつての討薩檄の賦も忘れて、藩の意見もものかは、中川雪堂、窪田茂遂とともに、勝手に、西郷の後に付して離れなかったのはこの時であったという。

 西南戦争の時、西郷を慕って城山で死んだ中津隊(豊後)隊長・増田宗太郎(註)が、敗色濃き秋、隊士と別離して鹿児島へ南行するに当って、「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり、一日先生に接すれば一日の愛を生ず、三日接すれば三日の愛を生ず、親愛日に加はり、去るべくもあらず、今は、善も悪も死生を共にせんのみ」と語って、西郷を慕って南下した例もあるように、西郷の奕奕(えきえき)たる人格的光芒は、雲井龍雄をして初会一瞬にして魅了、その心を離すことがなかったのである。

 間もなく東京に出た雲井が、徳川の偽史糾明運動に奔命するに至った契機は、実に、この時の西郷との接触にあるものであると『かたいぐち記』には誌されている。

 ★西郷が函館へ急行した目的
 へ続く。
                      
 






上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。