カウンター 読書日記 2009年04月
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●『出口王仁三郎 入蒙秘話』
 ●『出口王仁三郎 入蒙秘話』 出口和明 みいづ舎 平成17年刊 

 P47~(*適宜要約)。

 ・・・
 では清吉の死は(戦死ではなく)病死だろうか。ここに綾部町役場に残された出□清吉に関する記録がある。

 出生 明治5年6月6日
 入営 明治25年12月21日
 所属 近衛歩兵第一連隊第二中隊
 階級 歩兵一等卒
 負傷入院地 台湾病院
 死没 台湾病院にて 明治28年7月7日
 葬儀 明治28年8月27日
 扶助料及特別下賜金 下賜あり。扶助料は年30円、大正7年の出口直帰幽まで支給を受く
 住所 京都府何鹿郡大字本宮村東四つ辻二の二

 これによると、清吉は戦地で負傷して台湾病院に入院、七夕祭の7月7日に死んでいる。(ことになっている。)単なる病死ではないのだ。そしていぶかしいのは、死亡日の食い違いである。戸籍では8月18日死亡であり、出口家祖霊名簿では8月16日の死亡になっている。まったく清吉の死は謎だらけではないか。(前記のように、町役場の記録では、葬儀は8月27日になっているが、その時点では直は清吉の死を知らされていないから、葬儀を行なうはずはない。また戦死の通知があった後も、☆直は神の言を信じて清吉生存を信じていたから、葬儀をするとは思われない。恐らく出口家とは関係なく、軍隊によってなされたのであろう。)

 ☆直が生存を信じたのも当然だった。直が神にうかがうと、きまったように「清吉は死んではおらんぞよ」という答えがはね返ってくるからである。

 ○「清吉は死んでおらぬぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30年正月7日)

 ○「他ではいはれぬが、出口清吉は死んでおらんぞよ。人民に申してもまことにいたさねど、清吉は死なしてはないぞよ。今度お役に立てねばならんから、死んでおらんぞよ」(明治32年旧8月10日)

 ○「出口清吉を日の出神と神界からは命名いただきて、今度の大望について出口清吉と三千世界の手柄いたさして、日の出神と現われて、親子二人を地にいたして、昔からの因縁を説いて聞かしたならば、変性男子と女子の因縁が解かるぞよ。・・・略・・・出口直、出口清吉、上田鬼三郎、出口澄、もな因縁ある身魂であるぞよ。」(明治33年7月25日)

 著者・出口和明は、「何故清吉の生死がの重要なのか」というと「清吉の御霊」と「日の出神」との連環が筆先で告げられているからである、という。

 事実、この「筆先」は後に教団内に様々な【風雨】を巻き起こすこととなる。

 【風雨】の最大のものは、昭和6~7年(1931~2)にかけて、日出麿(大本三代教主・出口直日の夫(婿)、旧姓は高見元男)を担いだ「王仁三郎追放運動」ともいうべきもので、運動主体は二代教主・出口澄-出口直日-日出麿であった。(*澄は戦後この運動について自己批判することになる。)

 それはともかく、清吉死亡の通知が届いた当時の大本は、「世間から気違い集団のように見られていた。」 役員・信者たちの期待は「死んではおらぬ」はずの<清吉=日の出神>が「今にも外国から大手柄を立てて帰って来る、そのときこそ、輝かしい日の出神の守護の世になる」という期待だった。

 *************


 『出口王仁三郎 入蒙秘話』の当該章に戻る。


 ★二、北清事変と王文泰 p89~


 では、なぜ王仁三郎は王文泰と名乗り、わざわざ名刺まで作って入蒙したか。単に偶然ではないことは明らかだ。なぜなら、王仁三郎の歌集『青嵐』にこういう歌があるからだ。

 日本人王文泰の仮名にて皇軍のため偉勲をたてたり
 王文泰は日清戦争のそのみぎり台湾島に出征せしといふ
 かくれたる北清事変の殊勲者は王文泰と新聞にしるせり
 王文泰の英名聞きて我はただ異様な神機にうたれたりける

 北清事変の時、王文泰が活躍したということが新聞にも載り、その記事を見て王仁三郎は異様な神機にうたれたのだ。出口澄も『おさながたり』で「王文泰という人は北清事変の時に日本の新聞にも載った人で、先生もその時の新聞で王文泰のことを読まれたときハッと感じておられたそうです」と語っている。

 北清事変とは・・・略・・・。


 ★三、京都日出新聞


 さて、話は『大地の母』(旧毎日新聞社版)執筆当時に戻る。
昭和46(1971)年1月28日、『大地の母』の文献調査を担当していたYが京都府立総合資料館に行くと、大本教学研鑽所のKとAにぱったり出合った。彼らは朝から王文泰の記泰が掲載されている新聞の調査に来ていたが、いくら探しても発見できず、むなしく引揚げるところだった。

 彼らと別れた直後、Yが何げなく取り上げた新聞が『京都日出新聞』である。特別の目的もなくぱらぱらとめくっていると、突然「王文泰」の三文字がYの目に飛び込んできた。再び読み直して間違いないことを確認すると、急に涙がこみ上げ、体が震えて止まらなくなった。

 Yは帰って来て、私に熱っぽい口調で報告した。
 「私が震えたのは、発見したというだけの歓びじゃない。私の心の中に、出口聖師に対する疑いが頭をもたげてどうしようもなかったんです。王文泰の記事については、私も今までさんざん調べました。『大本七十年史』でも調べたでしょうし、げんに今日だって大本研鑽所で調べて発見できなかった。北清事変のあった明治33年に聖師の読みうる新聞は限られているはずです。これだけ手をつくしてそれでも発見できぬとなると、新聞記事の存在そのもの、さらには王文泰や蘿龍の存在そのものまで疑わしい。

 もしかすると、聖師は嘘つきではないかと、聖師の人格まで否定したくなっていました。だから新聞記事を発見した時に体が震えたのは、ああ、聖師はやっぱり本当のことをおっしゃっていたという喜びでした。そして聖師がかつて読まれた同じ記事を71年後に自分が読んでいるかと思うと、涙が出て、涙が出て」

 この記事は『日出新聞』明治33年8月13日(日曜日)付二面である。『日出新聞』とは古い伝統を持つ京都の有力地元新聞で、昭和17年に『京都日日新聞』と合併して『京都新聞』となっている。当然、王仁三郎は『日出新聞』に目を通したことであろう。

 地元新聞だから、誰もが真先に『日出新聞』を調査したはずだ。にもかかわらず発見できなかったのは、その記事、特に見出しの扱いに問題があったと思われる。つまり、王文泰と仮名する日本人が北清事変で偉勲をたてたといえば、誰しも派手な扱いを想像するのが当たり前だが、実際は地味すぎるぐらいの扱いだ。前頁に掲載の写真(略す)を見ると、中段の左から2行目に『軍事探偵王文泰』と小さくあるだけだ。見出しも本文と同じ5号活字で、発見できたのは全くの偶然と言っていいだろう。

 次に記事の全文を転載しておこう。


 ★四、王文泰の記事


 「去る十日太沽(ターチー)より入港の朝顔丸にて帰朝せし従軍者・某語って曰く。
 軍事探偵王文泰のことは既に内地に伝はっても居ましょうが、丁度天津城陥洛後の事でした。私が居留地の或処に行きましたら、三十才前後の元気のよい一人のチャンが巧みに日本語を遣って切り(しきり)に話をしていました。
 其の話し振りの上手なことは内国人でも叶わぬ程ですから、彼人(あれ)は何だと某処等の人に尋ねたところが、彼人こそ軍事探偵王文泰よと答えた。某処で私は直ぐ名刺を取り次いで貰って面会して話をしましたが、至って快濶な人で、十数年来南清から北清と四百余州を
股にかけて跋渉したもので、清国内地の状況や言語には余程精通し、服装言語の如きも丸で支那人としか見られないので、歩き様に至るまで支那人其儘であるから、誰が見ても支那人に違いはない。

 其筈です。支那人すらも他国の人だとは見分けをしないといふことです。辨髪や清装したのは内地人に多くありますが、歩き様から體のこなしにいたるまで支那人其儘を真似するものは有りません。

 本名は云えぬが
何でも土佐人といふ事で、其の他の事は憚る処があるので、唯だ王文泰とは世を忍ぶ仮の名であるといふことだけに御承知を願って置きます。

 此人は以前余程の無頼漢であったそうですが、斯る人であったから支那内地の跋渉も出来たのでしょう。太沽砲台から白河沿岸及天津城の偵察を遂げて、連合軍に少なからざる利益を与へたのは此非戦闘員の王文泰です。軍事探偵には
斯の王文泰に譲らない人がもう一人居りますが、今頃は二人とも進発して居るさうです。

 処が今回の軍事探偵は外国人では出来ないので、是非とも日本人に依らなければならぬゆゑ、列国軍は此点に於て困難を感ずるのであるから、王文泰に対しては列国共大いに報ゆる処があって宜からう云々」


 ★五、王文泰は清吉か


 この記事で見る限り、王文泰が清吉であるという確証はない。「年の頃30前後」とあるが、清吉が生きていれば29才だから、この点は符号する。「快濶な人」というのも清吉の性格であり、支那を舞台の大活躍も暴れん坊の清吉にふさわしいと思える。また、支那人そっくりに化けているのも、艮の金神の真似をして直を驚かした清吉のことだから、それぐらいの芝居けはあったろう。

 反対に「十数年来南清から北清と四百余州を股にかけて跋渉した」というのは、もし清吉なら数年のはずで、別人を指摘しているかのようだ。だがこの記事は従軍者・某からのまた聞きで、記者本人が直接聞いたわけではないから、伝え間違いや誇張もあるだろう。だから、この記事を全面的に信ずるわけにもいかない。むしろ王文泰はスパイだから、わざと虚偽の告白をしたと考える方が自然であり、土佐の生まれというのも、おそらく身元を隠すための嘘の言葉と思われる。

 いずれにしても、王仁三郎はこれだけの記事を見て、「異様な神機に打たれ」王文泰こそ出口清吉なりと看破し、20数年後の入蒙にあたって、わざわざ王文泰と名のり、名刺まで作って満蒙百里の荒野を訪ねるのだ。すごい霊感というほかはない。

 それにしても、日の出神とされる清吉の手がかりになる記事が『京都日出新聞』に掲載されたというのも、何やら暗示的である。


 ★六、清吉の遺骨の謎


 馬賊・王文泰の前身が軍事探偵であったということは、この記事の発見によって初めて明らかになり、私は、今までの謎が一挙に解けた思いがした。

 戦時中日本の軍人が捕虜になると、軍隊は留守家族に戦死の通告をしたという。帝国軍人たるものは、捕囚の辱めを受けるべきでないということだろう。必要とあれば軍隊は平気で人を戸籍から抹消する時代である。清吉は軍隊によって、無理に死んだことにさせられたのではなかったか。

 清吉は暴れん坊で機転のきく人だったから、軍事探偵にはもってこいだ。清吉を第一線の軍事探偵として中国人に仕上げるために、軍隊はまず身元を消し去る必要があった。清吉が死んだということにしておかねば、因縁をつける鹿蔵ということで「因鹿」と綽名される大槻鹿蔵のことだから、当局にやいのやいのとしつこく迫ったことだろう。

 澄の『おさながたり』には、次のように述べられている。
 「清吉兄さんはそれから台湾に征って戦死したことになっています。そのころの近衛兵は赤い帽子をかぶっていたそうで、その当時、支那兵から赤帽隊と呼ばれていたものだそうです。清吉兄さんは金神様のお働きであると聞いておりましたが、戦争中にいろいろ不思議なことが現われましたそうです。また日の出の御守護といわれておりましたことも、思いあたるような働きを示したということをきいております。

 戦争がすみましても清吉兄さんは婦ってきませんでした。教祖様は神様にお伺いされ何か深く考えこんでいられました。
  (中略)
 筆先では「死んでいない」と神様が申され、その解釈についていろいろのことを聞かされましたが、その時の兄の戦友にききますと、戦死したという人はなく、ある人は隊から抜け出して支那の方面へ行ったとも言い、ある人は、兄が海に身を投げたのを見たと言って色々様々で、今もって兄が戦死したかどうかは不明のままであります。しばらくして戦死の公報が家に届きましたが、遺骨もなく、たった一冊の手帳が送られてきまして、これで戦死したということになっていたのです」

 清吉は、「戦争中にいろいろ不思議なことが現われましたそうです」とあるから近衛師団でも目立った存在だったであろう。軍事探偵の候補として白羽の矢が立ったことは、十分に推測できる。

 この中で「遺骨もなく」とあるが、先に引用の筆先には「この方から西町大槻鹿蔵が骨折りて手紙をやりたり、色々としよりたら、『死んだ』と申して、『骨を取りにこい』と申して、『福知山の陸軍へ取りにこい』と申してありて、・・・」とあるから、澄は遺骨が返された事実を知らなかったのであろう。当時、澄はわずか数え13才の少女だし、当時は私市へ奉公中で綾部には居ない、知らなかったとしても無理はない。

  続く。 
 

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●『いり豆の花』 出口和明(やすあき)
 ●『いり豆の花』 出口和明(やすあき) 八幡書店 1995年7月 
 

 第七篇 金光時代 第二章 艮の金神うそぬかした

 ★嘘ぬかした p442 


 「忠兵衛の家におる折に、人が清吉は死んだげなと申すなり、天朝からは何の沙汰も無きことなり、ことに近衛にいておりて死んだ話はあれど役場からも何の話もなきことなり、こちらから西町・大槻鹿蔵(*直の長女米の夫)が骨おりて手紙をやりたりいろいろとしよりたら、死んだと申して、骨を取りに来いと申して、福知山の陸軍へ取りに来いと申して沙汰がありて、あおやすの婆が桐村清兵衛の家まで参りて、その折は出口も怒りて、『こら、艮の金神、嘘ぬかした』と申して、『もう、言うことは聞いてやらん』と申したなれど、そこには子細のあることざ。そうは申しても、同じようにご用聞いてくれて、物事出来がいたしたぞよ」(明治35・旧9・28)

 「清吉は死んでおらんぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30・旧正・5)

 まだ西村忠兵衛の家にいる頃、「清吉はんが死んだげな」という出所不明の噂が流れた。だが直が腹の中の神に伺うと、「死んでおらぬぞよ」というきっぱりした答えが返ってくる。直は安心していた。

 大槻鹿蔵は清吉を愛しており、何回も手紙で問い合わせたりして、噂の真偽を知ろうとした。出口澄の『おさながたり』は述べる。
「今盛屋の大槻鹿蔵は悪党でありましたが、清吉兄さんを子供のように可愛いがっていたので、清吉兄さんと一緒に征った人が帰ってきても清吉兄さんが帰って来んのに業を煮やして、綾部の町役場へ『どうしてくれるんだい』と言って怒鳴りこんでいきました。役場から軍隊へ問い合せると、清吉兄さんの入っていた隊の者に戦死者は1人もないとの回答がきました。しかしそれから半年立ち1年立っても(ママ)、清吉兄さんは帰ってこられませんでした」

 だが突然、役場から、次男・出口清吉が戦死したから福知山歩兵二十連隊へ骨を取りにこいという通知があった。

 引用の筆先の「あおやすの婆」とは誰か不詳だが、『教祖伝』によると、遺骨はいったん直の兄・桐村清兵衛の家に安置され、後に埋葬された。現在は天王平の墓地に遷されている。

 遺骨と対面して、「こら、艮の金神、嘘ぬかした。もう言うことは聞いてやらん」と、慎しい直にはあるまじき荒っぽい言葉で怒りを表現する。いかに清吉の戦死が衝撃であったかが知れる。だが神は、国から弔慰金まで下賜されながら、「清吉は死んでおらんぞよ」と言う。

 筆先の表現の特徴は、すべて平仮名と数字だけで、句読点のないことだ。句読点は文意を正確に判断するためには意外に重要である。

 「ものさしはかります」の看板にしても、「物差計ります」と読みたくなるが、実は「物差、秤、桝」の計量器の看板だったりする。

 江戸中期の脚本作家・近松門左衛門が数珠屋に「なぜ句読点なんか打つんですか」と質問された。近松は笑って取り合わなかったが、その後、「ふたへにまげてくびにかけるじゅずをつくれ」と紙に書いて、数珠屋に註文した。数珠屋はおかしいなと思いながらも、注文通り、二重に曲げて首にかける長い数珠を作って持って行った。すると近松は、「それは注文の品と違う」という。数珠屋は「いえ、御注文通りです。ほら、ちゃんとここに書いてあります」と注文書を見せると、近松は「わしの註文したのは、二重に曲げ、手首にかける数珠じゃ」と答えたという。

 筆先の「しんでおらん」にしても、「死んでおらん」と読めば、死んでいないのだから生きていることになる。だが「死んで、おらん」なら、「死んで、もういない」。

 句読点のあるなしで、全く正反対の意味になる。あるいは、肉体は死んでいるが、魂は生き生きとして働いているという、折衷的な解釈もできよう。

 だが直や役員信者たちは、神の言葉を長い間「死んでおらん」とのみ理解し、清吉はいつ帰ってくるかと、待ち望んだ。 


 ★御霊の因縁 p443


 「出口清吉は結構に艮の金神さま、龍宮の乙姫さまにお世話になって、結構なことさしてもろうておりまする。清吉殿は艮の金神が日の出神と名がつけたる子よ。正一位稲荷月日明神と申すぞよ」(明32・旧8・10)
 「出口清吉を日の出神と神界から命令頂きて、今度の大望について出口清吉と三千世界の手柄いたさして、日の出神と現われて、親子2人を地にいたして、昔からの因縁を説いて聞かしたならば、変性男子と女子の囚縁が解るぞよ。この因縁は珍しき因縁ざぞよ。説いて聞かしたならば、みな改心できるぞよ。出口直、出口清吉、出口澄、みな因縁ある身魂であるぞよ。今度世の元になる因縁の身魂が天で改めいたして、一とこへ集めてあるのざぞよ」(明33・旧7・25)

 「明治36年の4月の28日に岩戸開きと相定まりて、結構に変性男子と女子との和合がでけて、金勝要(きんかつかね)大神は澄子に守護いたすなり、龍宮さまが日の出神に御守護遊ばすなり、四魂そろうての守護いたさねば、今度の世の立替には、上下そろわんとでけはいたさんぞよ」(明治36・旧4・30)

 では清吉の生死がなぜ重要かといえば、筆先に、清吉の御霊の因縁が日の出神と告げられているからである。

 日の出神とは、立替に必要な四魂のうちの二魂で、とりわけ龍宮の乙姫と引き添うて外国で大働きするという、信者の夢かき立てる神である。『霊界物語』によれば、伊邪那岐尊の御子大道別(おおみちわけ)の没後、国祖は大道別の四魂のうち、荒魂・奇魂(くしみたま)に日の出神、和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)に琴平別神と名づけ、陸上は日の出神、海上は琴平別として神界の経綸に奉仕するが、国祖出現に当たってば聖地に出現して地盤的太柱になるという。日の出神とはいわば職名であり、大道別の一つの働きをさす。

 出口清吉が日の出神というのは、一時期、その役割を分担したことを指し、日の出神の本体ではない。だが当時の信者たちは、そのようなことは知らない。

 日の出神の本体、すなわち大道別の現界的働きをする出口王仁三郎が綾部入りして金光教団から独立し、金明霊学会(大本教団の母体)を設立して以後も、大本は世間から気違い集団のように見られていた。その集団に参加している役員、信者たちは、出口清吉が日の出神としての働きを示し、やがて外国から大手柄を立てて帰ってくる、その時こそ輝かしい日の出の守護の世になるという期待を抱いていた。

 清吉はまさしく救世の大英雄、夢の存在であったが、その消息はようとしてつかめず、虚しく時が過ぎていく。 


 ★清吉死の謎 p444 


 清吉は本当に戦死したのか。

 日清戦争は明治27年8月1日勃発、28年4月17日下関で日清講和条約が調印され、日本の勝利で終る。この結果、日本の植民地として台湾領有が決まる。日本は樺山海軍大将を台湾総督に任命、軍事抵抗を予想し北白川宮親王の率いる近衛師団を台湾に派遣、その一兵として清吉も加わる。

 5月25日台湾の中国系本島人は台湾独立共和国建設を宣言し、それに応じて各地に反乱が起る。5月29日近衛師団は台湾に上陸、抵抗らしい抵抗もなく10日目には台北に無血入城するが、その後は蜂起した島民の鎮圧に忙殺される。10月19日抗日軍は降伏し、近衛兵は台南に入城、その直後、近衛師団長・北白川宮は悪性マラリアのため台南で薨去する。11月中旬には樺山台湾総督から「台湾は全く平定に帰す」と政府に報告があり、遠征軍は続々と引揚げを開始するが、清吉は帰って来ない。その後も台湾島民の執拗な抗日運動は続き、大本営解散は29年4月に持ち越される。

 出口家戸籍に記された清吉の死亡年月日は明治28年8月18日である。しかしこの時点では、台湾に本格的な戦争は行なわれていない。日本軍が台湾を鎮圧するために投入した兵力は二個師団半、人数にして5万人である。その中で戦死者はわずか164人、日本軍が苦しんだのは実際の戦争ではなく、マラリアと食料不足である。北白川宮も台南で悪性マラリアのため薨去したように、悪疫による死者は4600人、病気による内地送還者は2万人以上である。

 では清吉の死は戦死ではなく、戦病死なのか。綾部町役場に残された出□清吉に関する記録を見よう。

 出生 明治5年6月6日
 入営 明治25年12月21日
 所属 近衛歩兵第一連隊第二中隊
 階級 歩兵一等卒
 負傷入院地 台湾病院
 死没 台湾病院にて 明治28年7月7日
 葬儀 明治28年8月27日
 扶助料及特別下賜金 下賜あり。扶助料は年30円、大正7年の出口直帰幽まで支給を受く
 住所 京都府何鹿郡大字本宮村東四つ辻二の二

 これによると、清吉は戦地で負傷し台湾病院に入院、七夕祭の7月7日に死んだことになっている。単なる病死ではない。更にいぶかしいのは、死亡日の食い違いである。戸籍では8月18日、出口家祖霊名簿では8月16日の死亡とあり、町役場の記録では、葬儀は8月27日になっているが、その時点では直は清吉の死を知らされていないから、葬儀を行なうはずはない。また戦死の通知があった後も、直は神の言を信じて清吉生存を信じていたから、葬儀をするとは思われない。恐らく出口家とは関係なく、軍隊によってなされたのであろう。

 清吉の生死の問題やそれにまつわる神秘的な問題、日の出神の問題などは拙著
☆『出口王仁三郎・入蒙秘話・出口清吉と王文泰』(いづとみづ社刊)に詳述しているので、参照されたい。

 ☆註:この著は現在、みいづ舎刊(昭和60年第1版-平成17年第2版)で読むことが出来る。これも、後ほど当該部分を紹介します。


  続く。                   
 



●『いり豆の花』 出口和明

 以下、『いり豆の花』 出口和明(やすあき) 八幡書店 1995年7月 より引用。 
 * p○○ は同上書による。

 第一篇 丹波小史 第三章 だまして岩戸を開いた。

 ★外宮の由来 p36

 雄略天皇21年冬10月、斎王ヤマトヒメ命は、夢でアマテラス大神に教えさとされた。
「われ、すでに五十鈴川の大宮に鎮まっているが、一人では楽しくない。御饌も安く食べられぬ。丹波の国・与佐の小見比沼(おみひぬ)の魚井之原(まいのはら)にますタニハノミチヌシ王の子孫のヤヲトメの斎きまつるトヨウケ大神をお連れせよ」

 ところが雄略天皇も同じ霊夢を見ていた。天皇は驚き、伊勢の山田原に新宮をいとなみ、翌22年秋9月、トヨウケ大神を丹波の魚井之原から迎えて新殿に鎮座した。この宮を外宮といい、内宮とあわせて大神宮、または伊勢神宮という。

 これは『豊受大神御鎮座本紀』ら神道五部書に伝える外宮の由来である。『丹後旧事記』は、タニハミチヌシ命の館は比沼の真奈井の近く府の岡という所にあったと記す。内宮の御杖代であるヤマトヒメ命はミチヌシ命の長女・ヒバスヒメ命(垂仁天皇の皇后)の皇女として、母方の里から外宮を迎えたことになる。

 ★出口家始祖

 『大本教組伝・開祖の巻』(以下『教祖伝』は「丹波道主命の後裔・綾津彦命は綾部の郷・神部の地(本宮山といわれる)を卜(ぼく)して永住し、トヨウケ大神を祭っていた。のち神勅によって神霊を丹波郡丹波村の比沼の真奈井に遷し、子孫が代々奉仕していた。

 ところが雄略天皇22年9月、再び神勅によってトヨウケ大神の神霊を比沼の真奈井から伊勢の山田へ遷すことになり、その時に神霊を奉持して伊勢へ移住したのが出口家の分家であり、渡会(わたらい)家の始祖となった。その子孫には神道家・国学者として著名な出口(渡会)延佳(のぶよし)が出ている。出口家の本家は綾部の地に子孫繁栄し、多く【抱き茗荷】を家紋とした。現在の綾部市味方にある斎(いつき)神社(祭神・経津主(ふつぬし)命・創建由緒不詳)は出口一族の氏神として往昔奉祀されていた」と伝える。しかし詳細な記録や系図は中世火事によって煙滅したというから、出口家の伝承に拠ったものであろう。

 出口はイツクチであり、イツキの転訛と考えれば、出口姓と斎神社とは深い関連がありそうだ。斎とは、潔斎して神に仕えること、またはその人をさす。さらに斎王の略であり、即位の初めにト定され、天皇に代わって伊勢神官や賀茂神社に奉仕した至高の巫女である未婚の内親王や女王を指す。

 ★奇しき神縁 p37

 出口直の末女・澄と結婚して出□家の養子になる王仁三郎の生家は、上田家であった。上田家の遠祖は藤原鎌足とされ、さらにさかのぼれば天児屋根命(あめのこやねのにこと)となる。

 上田家は丹波国桑田郡曾我部村大字穴太(あなふ)小字宮垣内(みやがいち)(現・亀岡市曽我部町穴太)にある。伝承では、この大字・小字の地名の由来を、トヨウケ大神の伊勢遷座に関連づけている。

 王仁三郎の「故郷乃弐拾八年」によると、遷座の途次、神輿は曾我部郷に御駐輦になった。この地がお旅所に選ばれたのはアメノコヤネ命の縁故によるとあるから、すでにアメノコヤネ命の子孫が住みついていたのであろうか。そして厳粛に祭典が執行されたが、そのとき神に供えた荒稲の種がけやきの老木の腐り穴へ散り落ちた。やがてそこから芽を出し、見事な瑞穂を得た。里庄はそれを神の大御心とし、種を四方に植え広めた。けやきの穴から穂が出たため、この里を穴穂というようになり、穴生・穴尾と転じて、今の穴太となった。

 上田家の祖先はこの瑞祥を末世に伝えるため、上田家の屋敷のあった宮垣内に荘厳な社殿を造営し、アマテラス大神・トヨウケ大神を奉祀して神明社と称し、親しく奉仕した。上田家の屋敷のある宮垣内の名称は、神明社建造の時から発したといわれる。

 文録年間(一五九二~九六)、神明社は宮垣内から川原条(現・亀岡市曽我部穴太・小幡神社の東側辺)に遷座されてから後神明(ごうしんめい)社と改称され、いつのまにか後(ごう)神社と里人が唱え出し、今では郷神社と呼ばれ、穴太の産土である小幡神社の附属となっている。

 いずれも今日では考証できずにいるが、それが事実とするならば、すでに二千五百年も昔、出口・上田両家の出会いがトヨウケ大神を仲立ちに行われ、不思議な神縁を結んでいたことになる。

 なお伊勢の外宮にトヨウケ大神を遷座したことは国体に関する重要な出来事であるのに、なぜか正史である『日本書紀』には一行の記述もない。

 *****************

 ★帰化人の血 p43

 第四十三代・元明天皇は、和銅三(710)年に都を平城京に移した。翌四年、「丹波史千足ら八人が外印を偽造し、ひそかに人に位を与えたために、信濃に流された」と『続日本紀』は伝える。『新撰姓氏録』には「丹波史、後漢霊帝八世孫、孝目王之後世」とあるから、彼は帰化人の裔であろう。丹波康頼はその子孫といわれる。

 四世紀ごろから八世紀ごろにかけて、朝鮮人(百済・高句麗・新羅・任那)や中国人が多く日本に渡来した。彼らが伝えた技術は飛鳥・白鳳・天平と大陸的仏教的特色の強い文化を築き上げる。それが完全に咀嚼され、消化されて、やがては日本的な平安文化を生み出してゆくのであるが、丹波各地にも多くの渡来人が定住して影響を与えた。
 
 「十六年の秋七月、詔 して、桑に宣き国県に桑を殖ゑしむ。
  また秦の民を散ち遷して、庸調(ちからつき)を献らしむ。」(「雄略紀」)

 しばしば桑田郡の名の起源に引き出される一文であるが、ここでも秦氏が桑を植え、養蚕し、絹布を献じたことであろう。前文に続いて『日本書紀』は述べる。

「冬十月に、詔して、漢部(あやべ)を聚(つど)へて、その伴造者(とものみやつこ)を定む。姓を賜ひて直(あたひ)と日ふ」

 河鹿郡・【綾部】も元は【漢部】と古いたが、綾織を職とする漢部が居住したからだという。漢部は大化改新の前、中国から渡来した漢氏(あやうじ)の部民(べのたみ)の総称である。船井郡園部(薗部とも書く)の地名も、古代の部民のひとつ「そのべ」が由来だが、苑部の氏の上は苑部首(そのべおびと)といい、百済の知豆神(ちづのかみ)の裔とされる。

 このように、土着の血と外来の血がわき上がる濃い丹波霧の中でとけ合って、丹波族の勃興を見たのである。それは、出雲文化の土壌に大和文化や大陸文化が融合し、さらに時代の洗礼をへて丹波文化が形成されたことでもあった。水を涸らして丹波国を作る伝説にしても、オホヤマクイ神は秦氏の祖神であり、オホクニヌシ神は出雲の神であるから、まさに暗示的といえる。

 ★国分寺造営 

 第四十五代・聖武天皇は、天平十三(741)年、仏教の功徳による国土安穏・災厄除去を求めて、国ごとに国分僧寺・国分尼寺を造営する勅令を発した。

 丹波国分寺跡は、異論はあるが一応は桑田郡千歳村字国分の高台ということになっており、亀岡平野を展望できる景勝の地である。現在は小さな本堂だけの無住寺だが、境内には昔の堂塔の礎石が存在して当時の規模の大きさをしのばせている。

 寺伝によると、明智光秀が丹波平定のときに焼失したまま長く荒廃していたが、宝暦年間に護勇比丘(1788没)が再興して今日に及ぶ。本堂に安置される本堂薬師如来坐像(木造)は重要文化財、寺跡は国指定史跡となっている。なお国分尼寺は、近年の発掘調査から、五百メートル西の御上人林廃寺跡と推定されている。

 ●第四篇 寡婦時代 第二章 御三体の大神の御守護

 ★清吉兄さん p256 

 この頃の出口澄のあこがれの人は、寅吉の下で働いている清吉兄であった。清吉・久・澄の三人は「新宮の政五郎さんとこの暴れん坊」と噂されたが、とりわけ清吉と澄は権兵衛で鳴らしていた。

 清吉は目鼻立ち涼しく、男前で、気っ風がよかった,当時流行の闘犬が好きだったが、いつも五、六匹の犬を連れ歩いていたので、「新宮の犬の庄屋どん」と町の人たちから呼ばれた。犬を飼っていたわけではなかったから、野良犬や街の犬たちが自然に慕い寄ってきたものであろう。

負けず嫌いでよく喧嘩もした。「清吉どんが裏町で男たちにいじめられてるでよ」と告げてくれる人がいて、直は裏町へ駆けつけた。すると背に負うた澄ごと、清吉が柿の木に縛りつけられている。五、六人の男たちが床几を持ち出して坐り、「これ、あやまらんかい」とどなる。清吉少年は歯をくいしばって「なに、あやまろうやい」と力んでいる。直は清吉の縄目をふりほどいて家に連れ戻したが、清吉は「お澄をおぶっていたので気になって負けたが、いっぺんあいつらをやっつけてやる」とくやしがった。

 やんちゃはしても愛嬌があったので憎まれることはなかったが、無鉄砲で、よく相手を傷つけたらしい。澄が町を歩いていると「お前は政五郎の子やろ、清吉どんがわしにこんな傷つけたわい」と腕や足をまくって見せる人、肩肌をぬぐ人があったという。いっしょには住めなくなっても、同じ綾部の町内で紙漉きの修業中の清吉兄がいることは、澄にはどれほどか心強かったろう。 ・・・後略。

 ●第六篇 筆先濫觴 第二章 すえで都といたすぞよ

 ★近衛兵入隊 p373

 明治25年11月下旬、出口家に、直の次男・清吉(21歳)が近衛兵として徴兵される通知が届いた。

 近衛兵は、各師団ごとに、甲種合格しかも品行方正というきびしい資格をくぐり抜けた者の中から選ばれる。何鹿郡全体で、近衛兵の現役は、今度入隊する出口清吉・荻野富吉を加えても、僅か3名しかいない。清吉の近衛兵入隊は、綾部町の誉れであった。

 『何鹿郡役所日誌』の11月23日の項に「本年入営すべき新兵中、近衛兵入営に付、11時郡長より訓示あり、本部奨武会よりて酒肴料を贈る」と記載されている。清吉も招かれて、さぞ晴れがましい思いを味わったであろう。入隊者に対する役所や一般人の反響には幾多の変遷があったが、右の記録から、近衛兵に対するこの時の郡役所側の鄭重な待遇が推測できる。

 久の手記で見ると、この前後、清吉は八木まで行き、福島夫婦に別れを告げている。正確な日は不明だが、福島家はちょうど秋の収穫期で、猫の手も借りたいほど多忙であった。しかも久は10ヵ月の身重のため、充分には働けぬ。「忙しいから1泊して手伝ってほしい」と久に頼まれた清吉は、見かねて2泊し、稲刈りを助けている。王子まで足をのばしたかどうかは不明である。

 入隊する清吉のために、直はせめて好きな物を食わしてやりたいと願った。希望を聞くと、清吉は「そうやなあ、掘りたてのさつま芋が食いたいなあ」と答えた。直が苦労して手に入れたさつま芋を、男盛りの清吉がふうふう吹きながら、「うまいうまい」と言って食うのであった。

 長男・竹蔵は家出していまだに行方が知れず、三男・伝吉は大槻家へ養子にやり、清吉だけが出口家に残る只一人の男子である。その力と頼む息子をお国に奪られる直のせつなさは、いかばかりであったろう。

 「出口清吉近衛兵入営に関する通達」
― 11月24日兵庫県氷上郡柏原町旅籠業播磨屋方に集合、25日柏原町出発、三田を経て翌26日神戸着、27日近衛兵受領委員に引渡し28日神戸出発、横浜まで海路、それより汽車で東京に至る。

 清吉の東京近衛兵師団入隊は、(明治25年)12月1日であった。

 続く。
                      
 


●『いり豆の花』 出口和明
 ●前回の陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)に関連して、出口和明・『いり豆の花』から当該部を紹介しようと思うが、その前に、

 【O オニド ― 出口王仁三郎と霊界物語のサイト】
 http://onido.onisavulo.jp/modules/ond/index.php?content_id=29

 の中に、Onipediaという人物事典があり、その【出口清吉】を先ず読んでみる。 出典: Onipedia
 

 ●出口清吉

 明治5年(1872年)6月1日生まれ。[1]

 明治25年(1892年)12月1日、東京の近衛師団に入隊。明治28年(1895年)、台湾に出征し、同年7月に戦死した。

 しかしその後、清吉は死んでない、と受け取れる筆先が降る。

 「清吉は死んでおらぬぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30年1月7日)

 「他ではいはれぬが、出口清吉殿は死んではおらぬぞよ。人民に申してもまことにいたさねど、清吉殿は死なしてはないぞよ。今度お役に立てねばならんから、死んでおらんぞよ」(明治32年旧8月10日)

 役場から軍隊に問い合わせると、清吉が所属していた隊に戦死者は一人もいないとの回答があり、果たして本当に死んだのかどうか疑惑が持ち上がる。清吉は筆先で「日の出の守護」と呼ばれ、神業上、重要な役割を担っていると言われていた。そのため開祖・出口直を始め信者は、清吉は死んではおらず、そのうち大手柄を立てて帰国するのでは、というような期待を持っていた。

 大正13年(1924年)、出口王仁三郎が入蒙したときに、清吉の娘だと思われる若い女と出会う。蘿龍(ら りゅう)という名の21歳の馬賊で、3000人の馬賊を率いる頭目である。日本語をしゃべり、母は蒙古人だが、父は「デグチ」という日本人で、蒙古では王文泰(おう ぶんたい)また蘿清吉(ら しんきつ)と名乗っていたという。


 王仁三郎が蒙古で用いた名刺。朝鮮姓名として「王文泰」と記されてある。王文泰は明治33年~34年の北清事変(義和団の乱)の時に、殊勲者として新聞で報道されており、その名を見たときに王仁三郎は異様な神機に打たれた[2]。そのため入蒙時に王仁三郎は王文泰と名乗った。

 清吉は蒙古独立軍に馬賊3000騎を率いて加勢していたが、5年前に張作霖に欺かれて殺されてしまったという。

 蘿龍は蒙古に国を建てるため、王仁三郎の別働隊となって働く。しかしパインタラの遭難の後、蘿龍も捕まり殺されてしまった。

 脚注
↑ 『入蒙秘話』35頁では6月1日生まれ、『大地の母 上巻』68頁では6月6日生まれになっている。
↑ 王仁三郎の歌集『青嵐』に次の歌がある。「王文泰の英名聞きて我はただ異様な神機にうたれたりける」

 **************

 続く。
                      
 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28) ◆落合莞爾
  大本教開祖の次男・出口清吉こそ不世出の軍事探偵・王文泰  


 ★極端に少ない記述 清吉幼時の不思議  

 明治6年生まれの清吉もやがて学齢期になる。出口和明『いり豆の花』がいう出口家の記事は、ナヲの4人の娘については幼時から精細を極め、長男・竹蔵のこともやや詳しく記すが、次男・清吉と三男・伝吉についての記述は甚だ少ない。尤も伝吉は、13年に4歳で姉夫婦・大槻家の養子となる(入籍は後)から、無理もないとも言えよう。ところが清吉については、

① 7歳以来、饅頭の行商をして家計を助けた。
② 15歳になり、口減らしのために、紙漉き業・寅吉のもとへ見習いに住み込ませた。
③ 20年、長兄・竹蔵の居た鳥羽の酒屋で働くため寅吉の許を去り、
  12月25日に金2円をナヲに届けた。
④ 竹蔵が蒸発したので鳥羽の酒屋を去り、綾部に戻って寅吉の下で紙漉きをした。
⑤ 闘犬が好きで、常に野良犬の5、6匹を連れており、喧嘩も強かった。
⑥ 22年頃、寅吉が博打で負けて夜逃げしたのを機に、義兄・大槻鹿蔵が自宅に引き取り、紙漉き(かみすき)をさせた。

 ・・・との記載しかなく、姉妹について些細な逸話まで延々と述べているのと比べて、比較にならぬほど簡略である。

 25年11月24日、入営のために綾部を発った時が見納めというから、以後は帰省しなかった清吉の、入営から1年半後の27年8月1日に日清戦争が起きた。近衛師団は当初は戦線に赴かず、師団長・小松宮が28年1月26日付で参謀総長に転じた後を北白川宮が継ぎ、国内で待機していた。戦況は日本優勢に展開し、3月20日から下関において講和会議が行われ、4月17日には台湾割譲、遼東半島租借を内容とする日清講和粂約(下関条約)が調印された。5月10日に海軍軍令部長・樺山資紀が大将に進級、台湾総督兼台湾軍司令官に補された。台湾では現地民による軍事的反抗が予想され、その平定のため、大連港で船内待機していた近衛師団が、東郷平八郎指揮する浪速に護衛されて5月21日に出港、直ちに基隆を占領し、6月14日師団長・北白川宮が台北城に無血入城した。7月に入り近衛師団は各地に転戦して要所を占領するが、台湾共和国独立を宣言した現地民の抵抗は激しく、樺山総督は8月20日、副総督に高島鞆之助を迎え、南進軍司令官に補した。樺山総督が10月26日台南城に入城し、台湾平定は一応成ったが、28日には近衛師団長・北白川宮がマラリアのため戦病死するに至る。11月6日南進軍の編成を解いた樺山総督は、11月18日大本営に台湾平定を報告したが、その後も土匪の反抗は静まらず、12月28日に宣蘭で武装蜂起、12月31日には台北周辺ども武装蜂起があった。 


 ★台湾で失踪、戦病死を装い 王文泰 として密かに再生 


 出口和明の前掲書によれば、旧暦9月の頃から、何処からともなく清吉戦死の噂が流れた。陸軍からは何の知らせもないので、清吉を可愛がっていた義兄・大槻鹿蔵が綾部町役場に掛け合い、役場から陸軍に問合せたところ、清吉の隊からは1人の戦死者も出ていないとの回答があった。台湾征討軍は続々凱旋するが、いつまで待っても清吉は帰ってこない。その後陸軍から、清吉が28年7月7日に台湾病院で病死したとの報せがあり、29年12月26日付で「明治27・8年ノ役死没シタルニ依リ特別ヲ以テ金150円」、また31年3月7日付で「明治27・8年戦役ノ功ニ依リ受賞スヘキ所死没セシニ付キ特旨ヲ以テ金120円」を下賜され、さらに大正7年のナヲの他界まで、遺族扶助料として年間30円が与えられた。

 近衛師団の一等卒として台湾征討に加わった清吉は、台湾病院から秘かに失踪し戦病死扱いにされたと推察するが、詳細探求は本稿の目的ではない。むろん不名誉な脱走ではなく、軍事探偵になるため戦病死を装ったのである。清吉が選ばれた理由は勤務評定ではない。そもそも近衛兵採用じたい、大江山衆として国事に携わるためであった。大山巌の後の陸軍大臣は、28年3月から山県有朋、5月に西郷従道に代わりさらに大山巌に交代し、29年9月に至って高島が再び就任した。山県時代の2カ月を除くと、軍政首脳はワンワールド薩摩派が占めていたので、清吉の軍事探偵転向は、ワンワールド薩摩派が関与したと見るべきである。

 明治33年の「北清事変」は、白蓮教の秘密結社・義和団を拠り所にした民衆の暴力的な排外運動であったが、清室でも西太后が支援、遂には清国の列強への宣戦布告となった。義和団鎮圧のため出兵した列強8ヵ国の中でも日露両国は最大の兵員を派遣した。日本は福島安正少将を司令官として臨時派遣隊を出し、次いで山口素臣率いる第五師団を派遣するが、この時日本の軍事スパイとして活躍した者がいた。

 出□和明前掲書によれば、明治33年8月13日付の『日出新聞』に、従軍記者の話として、「三十歳前後の元気の良い一人のチャン(清国人)が巧みに日本語を遣ってしきりに話をしており、周囲に名前を聞くと軍事探偵・王文泰と言うので、面会した。十数年来南清から北清と跋渉し、服装言語のごときも丸で支那人としか見られず、歩き様まで支那人その儘である。本名は言えぬが、土佐人ということである。太沽砲台から白河沿岸及び天津城の偵察により、連合軍に大きな利益となった。軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人いる」とある。

 その王文泰こそ出口清吉であった。記事には「土佐人」とあるが、土佐に忍者習練所があり、資質の優れた大江山衆の少年を呼んで練成したらしい。本稿で以前、上田吉松が越後国、柏崎荒浜の倭人の女・渡辺ヰネに生ませた双子の一人、辺見こと牧口某が幼時に土佐で鍛えられたと述べたが、この習練所のことである。三角寛が説く山窩伝承では、山窩の棟梁アヤタチ丹波が一族の教育を総覧し、各地のセブリの青年を丹波に呼んで一人前の山窩に鍛練するとある。その丹波アヤタチ大学と土佐の奉公衆習練所の関係は未詳だが、当然深い関係にある。下北半島の薬研温泉で、槇玄範が上田一族の子弟を練成していた現場を見たと『周蔵手記』に記すが、同じ性格のものであろう。清吉幼少時の状況が朧気なのは、その間に土佐習練所に留学していたからであろう。姉たちは幼時から子守に出され、妹・スミだけが清吉の記憶を残すが、王仁三郎の妻になった後は、幼時の見聞については□を噤む必要を感じたものであろう。 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)  <了>


 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28) ◆落合莞爾
  大本教開祖の次男・出口清吉こそ不世出の軍事探偵・王文泰  

             
 ★なぜ近衛入隊が叶ったか 出口一族の秘事を探る


 愛親覚羅氏と皇室を繋げた功労者は軍事探偵・王文泰であった。本名出口清吉といい、大本教の開祖・出口ナヲの次男として明治5年旧6月6日に丹波綾部で生まれた。ナヲの曾孫(出口王仁三郎の孫)出口和明の著書『いり豆の花』によれば、明治25年旧元旦に霊夢を見たナヲが、その数日後に帰神し、教団はこれを以て大本の開教とする。後に清吉の妹・スミの入婿として出口王仁三郎を名乗る上田鬼三郎は、明治4年旧7月12日生まれだから、義弟ながら清吉より1歳上である。

 気性さっぱりした美丈夫の清吉は、25年夏に20歳に達して徴兵検査を受け、12月1日を以て近衛師団に入営することとなった。近衛師団の魁は4年2月に薩・長・土三藩の藩士から募集した御親兵で、5年近衛兵と改称し天皇及び皇居の守衛に任じた。全員士族の近衛兵は、6年の徴兵令で鎮台が設置されると、徴用された鎮台兵(壮兵)の軍事訓練にも当たった。24年陸軍大臣・高島鞆之助が鎮台を師団に改編した時、近衛兵は近衛師団と改称、平事は天皇・皇居の警護を旨とし、戦時には教線に参加することとなり、初代師団長に陸軍大将・小松宮彰仁親王を補した。一般師団は所在の管区から徴兵したが、近衛師団は全国の徴兵から選抜した兵を以て充てた。家柄良く身体強健、学業優秀、素行良好を条件に徴兵検査で選抜された近衛入営者は、各郡からわずか1、2名で家門の名誉とされた。25年に何鹿郡から入隊したのは清吉のほか1人であった。

 出口和明前掲著は、ナヲの残した御筆先の内容を関係文献・周辺伝承で裏打ちして、開教の事情に関し精緻な考証を重ねたものだが、その中で清吉について、小学校にも行かず紙漉きをしていたのに近衛兵に選ばれた不審を追究していない。そもそも25年は元旦に実母・ナヲが神懸かりして警察命令で座敷牢に幽閉され、直前に実姉・大槻ヨネも発狂、さらに実姉・福島ヒサも一昨年に発狂した。綾部で知らぬ者はない問題の一家の子弟を天皇に近侍する近衛兵にわざわざ選ぶなぞ、通常ではあり得ない。出口家が極貧ばかりか精神的にも悲惨な状態にあったとの説明が事実なら、清吉の近衛入営と明らかに矛盾する。蓋し、その裏には出口和明さえ知らない出口一家の秘事があった。因みに、王仁三郎の祖父・上田吉松に関しても、『周蔵手記』が伝える実像は、教団側の説明とはかなり異なり、むしろかけ離れている。

          
 ★大江山衆=鬼の系譜  神出鬼没の上田吉松 

             
 出口王仁三郎の旧名を、世上では上田喜三郎とするが、これは後日の改名である。もともとは鬼三郎で、本人も鬼三郎と記名した事がある(出口和明前掲著)。第一喜三郎ならば王仁三郎と読み替えることはできない。「鬼」には重要な意味があり、王仁三郎の実兄で、上田吉松と津軽藩主の娘の間に生まれた槇玄範(三代目)も、幼名を鬼一郎と称した。アマベ氏の建てたいわゆる丹波古王国の後裔という月海黄樹は、その著『秀吉の正体』で、アマベ族が没落後自ら「鬼」と称したと唱えるが、丹波や茨木の鬼のことは、中世文学にもたびたび登場しており、首肯しうる。近来仄聞する大江山衆とはアマベ氏の末裔のことであろう。

 大江山衆の一部は、丹波国柴田郡曽我部村大字穴太を拠点として、上田姓を称した。上田は信州小県郡真田荘の地名で、丹波上田家とはむろん深い関係にあるが、地名が前か家名(姓)が前かは未詳である。丹波での養蚕を手掛かりに、京に進出して銅産業を興した上田家は、『周蔵手記』の別紙記載(大正6年または7年)によれば、代々オランダ取引を行い血筋にもオランダが混じり、オランダ絵を描いた画家・円山応挙すなわち上田主水もその一族であった。国産絹糸が間に合わず、絹織物に大陸白糸を用いた江戸初期、上田家は白糸の大口輸入者だった筈で、白糸の輸入は室町時代の南蛮(ポルトガル)取引から始まったのであろう。

 当時の明国は、倭寇対策のために海禁政策を採り、日本との直接交易を禁じた。因って日明貿易は、ポルトガルと李氏朝鮮国による中継貿易か、密輸によるしかなかった。ポルトガル人は鉄砲・火薬と明国産白糸を持込み、日本から銀・銅地金など特産品を輸出した。入超の日本側の貿易差額を補ったのは男女の奴隷で、鹿児島や島原半島に拠点があったことは地元に伝承されている。従来の学校日本史は、明治政府の皇国史観に迎合する余り、この事実を認めるに吝かで偏狭な自己満足性が強いが、更にこれに迎合しているのが通俗史観である。

 応挙から五代目が上田吉松で、孫の王仁三郎は吉松を博打好きの貧農と説明するが、もとより真実ではない。亀岡市穴太の地は、現在も上田姓の豪農が軒を構える裕福な地である。吉松の家職は皇室の忍者であった。オランダ渡りのケシを用いた御祓(祈祷)で言霊を呼び(憑依)、乗り移り(帰神)の神事をしながら全国を回遊していた吉松を、『周蔵手記』は、妻・ウノの勧めによるものとするが、上田一族にはもともと霊媒の素質があったのだ。『周蔵手記』によれば、吉松は所伝のごとく明治初年に死んではおらず、生前葬式を出して死亡を装い、陸奥国下北郡小目名の薬研温泉に移り、下北郡長・氏家省一郎の戸籍を買って成り代わった。下北に移った後も、しばしば穴太の実家に立ち戻り、幼少の鬼三郎の前にその姿を顕したことは、出口王仁三郎の回顧談からも窺える。皇室のための情報を集める傍ら、各地に数多くの子孫を残した吉松は、下北半島では、津軽藩士の娘に生ませた鬼一郎を漢方医・槇氏の家系に入れて三代目槇玄範とし、斗南藩士の窮状を救った。故郷の丹波では、鬼三郎が祖母の中村氏ウノに導かれて言霊学などの修業を積み、いずれも大本開教の基盤を成した。

 王仁三郎が祖父の実像を修飾したのは、大本開教の縁起として必要だからであろう。出□和明が掘り起こした開教前後の状況は概ね否定する必要はないが、例の王仁三郎と出口家族の虎天堰での奇跡的な邂逅のごときは古来どの宗教も唱える開教縁起であって、史実と見ては誤る。大本開教の関係者は大半が大江山衆で、綾部の出口家も同系であるから、吉松とナヲの間に以前から連絡があっても不思議はないが、具体的なことは未詳である。

 ここに興味深い逸話がある。明治23年旧7月18日、娘の福島ヒサが発狂したとの報せを受けたナヲは、翌朝綾部を発ってヒサの住むハ木嶋に向かう。道中で47、8歳ほどの上品な男が追いついてきて道連れになり、ナヲは家族のことをいろいろ相談する。一々答えたその人物は、名前も言わずに別れて、広い道を降りて行き、突然その姿を消した。ナヲは以後、何度もそこを通るが、その広い道を見つけることが出来ないでいた。後日これを聞いた王仁二郎は、その旅人こそ本田親徳で、折から丹波元伊勢に参詣し、比沼真奈井神社に神跡調査のために出張した時のことであると『大本教の活歴史』で解説した(出口和明前掲書)。薩摩藩士・本田親徳(1822~1889)は神道霊学中興の祖とされ、王仁三郎にも多大な影響を与えたが、22年4月9日に他界した筈の本田が、1年後に八木嶋の路上でナヲに会い、幻の広道に消えたとなると、もはや人間界の話ではない。王仁三郎がどう説明したか知らぬが、この逸話は、ナヲが自ら意識しないままに、古神道系の人物と接触していたことを暗示するものとも思える。あるいは、その旅人こそ(年齢は違うが)上田吉松その人であった可能性さえなくもない。

 
 ★堤哲長を介して結びついた 吉薗ギンヅルと渡辺ウメノ

 
 大本開教に関わりながら教団資料に見えない重要人物は、渡辺ウメノである。穴太上田家の女と京の町医者・渡辺氏の間に生まれたウメノは、公家・堤維長家の女中に上がった時、世継ぎの哲長の娘を生んで宿下がりし、後にいとこの吉松の妾となった。大本の開教を企画したのは、出口ナヲではなく吉松とウメノで、吉松の孫・鬼三郎をナヲの女婿にして将来の教主にする筋書を作ったものと思われる。吉松・ウメノとナヲの関係が世に知られないのは、大本教団側が隠したというより、教団内でもナヲと王仁三郎しか知らない極秘事として扱ったからであろう。

 ナヲは福知山の士族・桐村五郎三郎の娘として生まれた。桐村家はもと丹波国船井郡桐ノ庄の領主であったが、明智光秀の家臣となり、本能寺の変で没落した。ナヲは母方の出□家の養女となり、四方豊助が入夫して出口家を継ぎ、通名・政五郎を名乗ったが、四方家と出口家は何代も絡み合う同族であった。両家の本貫の地綾部は、もとは漢部と書いたが、「漢」は大陸ではなく朝鮮半島南端の任那の一部-伽耶の安羅(アラ・アナ)を意味する。つまり、南韓渡来人の拠点を指したもので、同じ語源の穴太(アナフ)とは通じるものがある。
 開教当初の大本の有力信者は、綾部鷹栖村(綾部市鷹栖町)に住み、「鷹栖の平蔵」と呼ばれた四方平蔵である。高須・鷹栖の地名は全国に十数箇所にあり、理由は未詳だが、ポルトガル人・オランダ人と何かの縁があるらしい。ポルトガル伝来の鉄砲製造法を習得した紀州根来の芝辻理右衛門が、大筒鋳造の功で家康から賜わった土地も堺の高須(堺市高須町)で、当然ここは南蛮貿易にゆかりがある。タカスと呼ばれる奴隷商人が、各地で在来民と通婚して混血児を作る戦略によって、在来族の財産を略取しながら勢力を扶植してきた一例は、ポルトガルと広東人の混血で今もマカオを支配するマカイエンサ族であるが、上田吉松の行状を具に見ると、確かにマカイエンサ的要素が濃い。アマベ族が、南蛮交易を通じてしだいにマカイエンサ化されたのが、幕末以後の大江山衆であると想像される。して見ると、日本各地に点在する高須・鷹栖の地も、混血族と全く関係がないとは思えない。

 薩摩屋敷の女中頭・吉薗ギンヅルを新妾にした公家・堤哲長は、旧妾・渡辺ウメノから伝授された医術をギンヅルに教え、二人で幕末の混乱を乗り切った。渡辺ウメノと吉薗ギンヅルに哲長の正妻・山本氏清容院を加えた三人は気が合い、何でも相談し合う仲間となった。哲長の死後、浅山丸・一粒金丹の製造で財力をつけたギンヅルは、陸軍薩摩閥の寵児・高島鞆之助を事業・政治上のパートナーに選び、一緒に甥の上原勇作を育て上げる。高島は24年5月から25年8月にかけて陸相を勤めた。大本教に加入しなかったギンヅルも、ウメノの頼みとあらば、高島中将を動かすことなぞ訳もなく、家系に問題のある出口ナヲの次男・清吉を近衛兵に採用するくらいは容易であった。尤も清吉の近衛入営はナヲや吉松が強いて望んだものではなく、大江山衆に対する高所からの命令であったように思う。出口家も大江山衆であるからには、一族の俊秀・清吉を軍事探偵に徴用されても否応はなかった。

  稿を改めて<続く>。
                      
 


 ●疑史(第55回) 甘粕正彦の山県元帥暗殺計画
 ●疑史(第55回) 甘粕正彦の山県元帥暗殺計画
             評論家 落合莞爾 (『月刊日本』4月号)。  


 本稿は前々月まで、5回にわたり上原勇作について述べた。これで終わりではなく、話はまだまだ続くが、ここで一度中断し、上原に最も近かった人物に視点を移すことで上原像の奥行を深める必要を感じる。その人物とは甘粕正彦である。甘粕は「国体絶対の天皇崇拝者で無政府主義者を憎み、渋谷・麹町憲兵分隊長の時たまたま起こった関東大震災を奇貨とし、職権を悪用して大杉栄・伊藤野枝ほか一名を惨殺した。懲役10年の宣告を受けたが3年で恩赦出獄、満洲に渡って関東軍・満洲国の黒幕となり、満映理事長として暗躍し、終戦に際して服毒自殺をした」とされているが、これはいわば二次元の正面図に過ぎない。

 巷間幾つかの甘粕伝記があるが、いずれも正面図の骨の上に些事の表皮を張り付けたものばかりである。真船豊の『赤いランプ』が描く、自分が殺した大杉らの亡霊に悩まされて満洲の荒野を彷徨する甘粕像に至っては噴飯の極みで、伝奇と呼ぶしかない。こんな甘粕伝奇をこさえた左傾文人たちの思考は、帝国陸軍への私的な嫌悪感からか、被害者の大杉を偶像的英雄と見做し、敵役の甘粕を国家主義者の定型に嵌めた安直なもので、これをしも左翼公式主義史観ないし通俗史観という。ところが、渡満後の甘柏が発揮した力量と、機微に通じたその人間性を説明し辛い処から、甘粕を主義者暗殺の過去を克服すべく新天地建設に勤しんだ複雑な性格と謳うわけで、甘粕生涯の前半と後半の矛盾を主題とする軽文学ならばいざ知らず、史的探究としては畢竟低劣極まるものでしかない。

 上原勇作の個人付特務の吉薗周蔵の手記には、それらとは全く違う、いわば内側から見た甘粕が描かれている。甘粕の表面的な概要については巷間の伝奇に委せるとして、以下では周蔵手記の記載を編年的に観ながら、甘粕の実像を探ってみる。

 『周蔵手記』では、甘粕は大正九年一月三十日条に初登場する。報告のために陸軍参謀総長・上原勇作の私邸を訪れた吉薗周蔵は、上原が満鉄に送り込んだ特務・鎌田弥助に久しぶりで会う。鎌田は「一度満洲にケシの指導を頼みたい」と言った後、同席の人物に周蔵を指して、「この人のこと覚えていて下さい。ウィーンの時は武田ナニガシだったが、今は煙草屋・小山ケンーとても言うのかな」と言い、続けて小声で、「例の吉薗は・・」と口にしたので、周蔵は陸軍特務の誰かが自分の名前を使って活動していると覚る。憲兵司令部副官・甘粕と名乗ったその人物は、挨拶代わりに「今日が初めてじゃないですよ。以前さる所でお見かけしましたよ」と切り出したので、周蔵は言いようのない不安に襲われた。上原の命令で純質阿片の増産に苦心している周蔵は、年によりケシの作柄が安定しないことから、不作の年に備える目的で、上原には内緒で阿片の備蓄を始めた。昨年は殊に豊作だったので錫張りの茶箱にかなり貯蔵したが、それを疚しく感じていたから、「上原閣下がわざわざ憲兵を紹介させたのは、秘密備蓄に勘づいたからか?」「甘粕がどこかで会ったというのは、どこか?」などと妄想が膨らみ、その夜から落ち着けなくなった。

 2か月後の3月29日、中野小淀(中野区中央)に周蔵が開く精神カウンセラー救命院に甘粕中尉が訪ねてきた。周蔵が動揺を見せたせいか甘粕は、「個人として伺ったのであり、上原閣下(からの紹介を)はじめ、軍人としては見ないで欲しい」と言いだした。たまたま顔を出した藤根大庭の計らいで空気が柔らかくなり、酒を出して三人で一杯やり始めた。落ち着いて甘柏を観察した周蔵は、「憲兵ト思フカラ 恐シイトイフダケデ、人柄温厚ニテ温イ好人物デアル。自分ガ閣下直属デアルコトデ、珍シイト思イ 関心ヲ持ッタノト、偶然二薩摩県人会二招カレタ時、権兵衛閣下ト 県人会デ話シテヰル様子ヲ見タノデ、ダフ云フ人カト思ッテヰタ」と記した通り、素顔の甘粕は憲兵的な陰険さのない温和な好人物で、言葉づかいも丁寧であった。甘粕が『周蔵手記』に登場する二回目のこの日が、周蔵にとって甘粕が「上原閣下カラ与ヘラレタ中途半端ナ上司」となる最初となった。

  甘粕正彦は明治24年2月生まれ(★1891年1月26日生まれ)で、周蔵より3歳年長である。陸士24期卒で大正元年12月歩兵少尉に任官、大正4年9月陸軍戸山学校へ入学、同12月歩兵中尉、落馬事故により5年夏から6年暮にかけて温泉療養、7年7月憲兵科へ転科して憲兵中尉、同年8月に朝鮮憲兵隊付となり、楊州分署長として8年3月の<万歳事件>(1919・3・1)を収拾して注目され、同年10月には憲兵司令官・児島惣次郎中将の副官に抜擢された。周蔵との初会はこの時期である。その後は9年8月に東京憲兵分隊長(とあるが?)、10年6月憲兵大尉に進級して市川憲兵分隊長、11年1月に渋谷憲兵分隊長。この間、元年秋から10年春にかけて憲兵練習所に入所、8人中2位で卒業した。因みに、首席は陸士25期の石田乙五郎で後に陸軍中将となり憲兵のトップに立ったが、A級戦犯となった。

 甘粕の言う「さる所」とは2年半前の薩摩県人会であった。日向・大隅を含む島津藩領の出身者が集まる会で、『周蔵手記』によれば大正6年10月27日西郷従徳邸にて行われた際、周蔵は海軍の招待で出席した。その席で、叔母・ギンヅルの京の薩摩屋敷以来の知人の山本権兵衛が周蔵の手を取って語っていた現場を、甘粕に見られていたのである。甘粕は偶然招かれたと言ったが、実は上原の手引きであろう。前月23日、上原邸で泰平組合の後始末の会合を開いていたのを、報告に訪れた周蔵を偶然目にした。ジーメンス事件で山本権兵衛内閣を潰した黒幕の上原は、政敵山本の反撃を警戒し、落馬事故で温泉治療中の筈の甘粕に命じて、秘かに山本の様子を調査させていたのである。

 上原が甘柏を派遣した目的が阿片備蓄の摘発でないと判り、藤根が退去すると、甘粕は初めて来意を述べた。「訳あって人を一人暫く匿って欲しい。伊達順之助なる人物にて、匿うと言っても隠れ住むなどが出来る人物ではない。只、何時でも逃げ込めるような所が欲しい」と頼まれ、了解した周蔵は、当分は完全に隠れて居なければならないと聞いて、奥多摩小菅村の農作業小屋を説明した。「ここには自分と親爺殿しかいない」と言うと甘粕は喜び、「また、市内であれば牛込弁天町にもアジトがある」というと更に喜び、「早速、夜中にでも伊達を伴って来る」と言い出したので、周蔵は「仕方ナク、佐伯ト、徳田サンノコト話ス。自分ガ尾行サレタコトガアッタ」と説明した。

 周蔵のアジトの一つ救命院には、大谷光瑞から支援を頼まれた美校生・佐伯祐三や富豪薩摩治郎八が紹介してきた無政府主義者・徳田球一たちが勝手に出入りしていた。ことに佐伯は、周蔵を秘かに監視していて先日も尾行されたことを説明すると、甘粕は「それなら明日、直接弁天町に行く」と言いだした。周蔵は先回りして救命院の事務員・池田巻に「伊達の食事を頼めるか」と尋ねたら、巻は「小菅村モ弁天町モ了解」で、「モシ弁天町ガ心配デアルナラ、越谷二信用デキル人ヰルカラ頼メルガ、思フ二 万一ノ時ハ(周蔵自宅の)幡ケ谷ガ良イ」とまで言ってくれたので、周蔵は自分か特務であることを初めて打ち明け、「秘密が多いが守れるか」と聞くと、「守レマスト云ハル。ハッキリト云ハル。一カ八カト思フ」という成り行きになった。

 伊達順之助の山県暗殺未遂事件は巷間の甘粕伝奇にはないが、右翼側の伝承にはある。宮中某重大事件を起こした山県の横暴を憤る男爵・伊達宗敦を父、反山県派の先鋒伯爵・大木遠吉を義兄に持つ順之助は、山県の暗殺を思い立ち、小田原の別荘に通う山県の乗る東海道線を六郷鉄橋で爆破しようと考えたが、周囲が直情径行派ばかりで具体的な計画を立てられず、仙台生まれで飲み仲間の甘粕に相談を持ちかけ、甘粕に宥められたが実行寸前まで行った一件で、都築七郎『伊達順之助』と胡桃沢耕史『闘神』が述べる内容は具体的で、作り話の筈はない。佐野真一・角田房子の甘粕伝奇がこの右翼伝承を無視したのは、史料本位の通俗史観の例である。尤も大正8年の暗殺計画に、同年10月まで朝鮮憲兵隊にいた甘粕が関与したとは時期的に考えにくいうえ、治安維持を本分とする憲兵に元老暗殺を持ちかける道筋は荒誕の極みで、耳にしたくもない気持ちは分かる。

 先年、順之助の子息の伊達宗義拓大名誉教授に直接伺ったところ、一家の伝承でも暗殺計画は事実だが、警察は華族子弟の血気話として重大視しなかったとのことで、つまり司法大臣・大木遠吉の甥が主犯のため妄想犯として政治的に処理され、警察が資料に残さなかったらしい。およそ史的考察のためには、史料として残ったことより、残らなかった事象にむしろ探究価値がある。著書の類の評価も、「何を書いたか」より「何を書かなかったか」に着目すべきである。この観点からすると、佐野は暫く措くとして、角田房子が『甘粕大尉』を著した目的は、甘粕の実像隠蔽と史実歪曲にあったと見てよい。角田が甘粕の弟あたりに依頼されたものと思われる。

  伊達に関して『周蔵手記』は、右翼伝承とは全く異なる面を詳述することで、一件の実在を証明した。逆にこの記述があることで『周蔵手記』の信憑性も高まる訳である。暗殺計画の背景について、右翼伝承は国体思想による単純な反山県感情と見ており、伊達家伝承は順之助の血気に帰すが、真相はおそらく上原が目の上の瘤の山県の失脚を狙って企んだもので、右翼伝承では宥め役とされる甘粕が実際には隠れた火付け役だった可能性が高い。甘粕の関与についても、朝鮮憲兵隊に在籍していながら秘かに上京していたとしても不思議はない。謀略に満ちた甘粕の人生は、落馬事故の頃からすでに始まっていたのである。

 上原が、パフォーマンスにせよ山県暗殺計画を命じたのは、相手の甘粕が安心できたからで、実は両人は実質的に岳父と女婿の関係にあった。上原の隠れた支援があればこそ、軍人としての甘粕のアリバイは万全であった。上原はフランス留学時にアルザス系女性と知り合い、混血娘を儲けた。女性の実家ポンピド一家が在仏ワンワールドの領袖であったのはむしろ当然であろう。娘の年齢は、24年生まれの甘粕よりも3歳ほど下らしいが、上原は22年と29年に欧州に出張しており、後者とすれば30年生まれとなるが、何も欧州で出来たとは限らない。ともかくその娘が日本で甘粕の愛人となりフランス語を教え、大正6年秋から7年7月にかけて、二人して秘かにフランス留学をした。その時期は憲兵転科までの空白の期間で、療養中の温泉場を抜け出したとしても、家族や部下は敢えて疑うことがなかった。娘の母の名はジルベールと聞いたと思うが、その兄はメソヂスト派の牧師で彭坡得の支那名で来日し、神田区三崎町の中華メソヂスト教会の牧師になったと、大正11年の警視庁外事課の資料にある。ポンピドー牧師の活動拠点の青山教会に潜入したのが伊藤野枝で、ポンピドーを洗っていた。

  ●疑史(第55回)   <了>。
                      
 





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