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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)―2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)

 ★「大漢民族主義」に走った孫文と愛親覚羅氏の運命
   
 
 明治37年1月10日、日本はロシアに宣戦を布告、日露戦争が始まる。この戦争をイギリスが陰で支えたことは周知だが、その支援の全体は現代人の想像を超えていた。例えば、英国スパイが入手した旅順要塞の精密な地図が秘かに山県有朋に渡された。日本の戦艦には艦戦武官の名目で英国士官が同乗し時に作戦指導に当たったことなど、すべて厳秘事項とされ、戦果は悉く日本軍の功績に帰されたが、これは必ずしも帝国陸海軍を貶めるものではない。あらゆるものを利用して成果を求めるのが戦争で、その過程に何があろうと日露戦の戦果は日本軍のものである。さもなくば、中国共産党が唱えてきた、いわゆる抗日戦の勝利も、マヤカシの典型と評価すべきことになる。

 明治38年9月5日、ポーツマスの日露講和条約によって日露戦役は終わった。11月には日清間で満洲に関する条約を調印、満洲におけるロシア利権はすべて日本が引き継ぐこととなった。漢族官僚によってロシアに売られた愛親覚羅氏の故地が、日本に転売された形である。以後、愛親覚羅氏は、秘かにかつ急速に日本皇室に接近し、皇室もまたこれに対応し、20世紀の極東秘史が始まるのであるが、本稿はそれを後に追究したい。

 日露講和に先立つ8月20日、東京で孫文らが中国革命同盟会を結成、興漢滅清すなわち満洲族支配からの漢族独立を標榜する民族運動が最盛期に入った。大清帝国はいくつかの民族国家で構成された一種の連邦国家であったが、人口の大多数は漢族で、他に満洲族・蒙古族・ウイグル族・チベット族がそれぞれ地域社会を構成していた。そのなかで、少数派の満洲族が帝国の支配者であったところに特殊性があり、孫文らの漢族独立運動の目標は、領土的にはプロパー・チャイナ(支那本部)と満洲部の分離、民族的には漢族による民族自決、すなわち支那本部を固有領土とする漢族国家を樹立して女真族を満洲部に送還することを主眼としたもので、蒙古・チベット・ウイグルの各部をも民族自決主義による民族国家を樹立さすべき理念に立っていた。

 革命の父と仰がれる孫文が、その掲げた三民主義のうち民族自決主義を早々に放棄して正反対の「大漢民族主義」に就いたのは、吾人の理解に苦しむところである。これはおそらく孫文も超えられなかった「中華思想」の壁かと思うが、英露が対抗するグレート・ゲームの拮抗線上にある満・蒙・蔵・回の各部が、当時完全独立や民族自治を求めても、地政学的に全く困難であった。いきおい旧清国領内の各部は、英露の外圧に対応して民族国家の探りうべき形態を探りつつ、東アジア地域の安定を求めざるを得ず、それに対して地域の中央に座す漢族国家がどう関わるかの問題であろう。

 ★大陸で国事に奔走した出口清吉という人物


 日露戦争が日本勝利に終わったことは清国の上下に大きな衝撃を与えた。殊に、漢族独立・満族排斥運動の高まりから、支那本部における役割の終焉を感じた宗室愛親覚羅氏は、故地満洲に関して日本と利益が共通することに注目した。極東ロシアの脅威に対する緩衝地帯として朝鮮半島の確保と満洲の自立を欲した日本は、日清戦争により前者をば勝ち得たが、清国の漢族官僚が買収されて満洲の統治権をロシアに与えたため、後者は却って後退しロシアの脅威は以前に数倍することとなった。その結果、満洲の覇権を巡って日露戦争となったが、日本の戦勝により満洲のロシア利権はすべて日本に譲渡され、満洲は実質的に日本統治下に移った。この地の潜在主権を自覚する愛清覚羅氏が、秘かに日本と結ぶことを考えたのは当然のことである。

 愛清覚羅氏と皇室を繋いだのは、国事のため早くから清国に潜入していた
出口清吉であった。日本でも古来秘事に携わる一統がいたことは、当の一党を除けば、知る人は甚だ少ない。一党とは丹波を本拠とする大江山衆のことで、本稿が論じたアヤタチ一族を指す。その1人が出口清吉であった。

 出口清吉は明治5年6月1日、出口政五郎・直の次男として丹波国何鹿郡綾部に生まれた。母は大本教の開祖として知られ、11歳下の末妹・澄の婿が上田鬼三郎(後の出口王仁三郎)である。『大本教祖伝』によれば、綾部の地に繁栄した出口家は、トヨウケ大神の神霊を奉持して丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井から伊勢に移住した渡会家の本家で、家紋は多く「抱き茗荷」、氏神は綾部の斎神社、祭神はフツヌシであるという(出口和明『いり豆の花』)。

 一方、鬼三郎の出た上田家は、本貫を丹波国桑田郡曽我部村大字穴太小字宮垣内(*現:亀岡市曽我部町穴太あなお)とする。家伝では遠祖を藤原鎌足、氏神はアメノコヤネと称する(出口前掲著)が、実は本姓海部氏で、いわゆるアヤタチの一統であることは本稿が明らかにしてきた。王仁二郎『故郷乃弐袷八年』は、前記トヨウケ大神の遷座に際し、神輿がアメノコヤネの縁故で曽我部の地に駐輦したが、その時に供えた荒稲の種が欅の老木の穴に落ちて芽を出したので、穴太(アナオ・アノウ)と呼んだと付会している。しかしながら穴太は、任那の諸国の一たる安羅(アナ)から来た石工衆の居留地を謂う地名で、各地に点在することは、すでに本稿が明らかにした。ともかく、伝承の主旨は二千年も前に出口と上田の遠祖が出会った因縁話だが、史実としても両家は同家系で、オリエントに発祥する多神教のヘブライ族いわゆるイスラエル十支族の子孫である。上田家が遠祖と仰ぐアマベ(海部)氏は、海路を渡来して丹後半島に上陸し、各地にイセ(伊勢)の名の集落を建設したが、やがてモノノベ(物部)氏と混淆した。本稿は、さらに後来者で陸路を来たハタ(秦)氏がそこに混入したと考えるが、三氏はいずれもイスラエル十支族に属した部族で、同族である。

 ★日本に流れ込んだセファルダムの血


 相模国丹沢山麓の秦野は、秦氏が養蚕紡織の適地を求めて開拓した地域で、地名は明らかに秦氏に因むが、近在に伊勢原がある。養蚕適地を求めた他の一族は信濃国小県郡真田荘に入った。ここに上田の地名があるのは、姓が先か地名が先か現状では未詳であるが、信州上田の地は遠く西アジアに始まるシルクロードの終点に当たり、さればこそ蚕業の最高学府たる上田高等蚕糸学校が置かれたが、高蚕の設置地は、東京を別にすれば上田と京都だけで、これは正に秦氏・上田氏の故事に応じているのである。

 室町時代にポルトガル人が来日し、鉄砲・火薬の輸入、男女奴隷の輸出と共に明国産絹糸の仲介貿易を行ったが、その本性はレコンキスタ(キリスト教徒の失地回復)でスペインを追われ、隣国に逃れたセファルダムが多かった。天主教のポルトガル人を装ったが本もとが一神教ユダヤ教徒で、アマベ・モノノベ・秦氏の多神教イスラエル族とは本来同根であった。ポルトガル人は、植民地は言うに及ばず、ゴアやマカオなどの交易地でも、必ず混血族を作って己の手足とするのが常道で、日本でも当然同じことをした。

 本邦での鉄砲生産地は当初伝来地の種子島、そこから伝来した根来の芝辻氏が移った泉州の堺(高須神社近辺の鉄砲屋敷)、伊集院の橋口氏が移った鹿児島(鍛冶屋町方限)、後には近江国国友村などである。また、蚕業地の丹波で上田氏が興した紡織・繊維業は京都西部に移って発達し、堺港にもたらされる明国産生糸の需要地となっていた。右の何処かの地に、ポルトガル人との混血種が誕生したわけである。鎖国後には、ポルトガルに代って新教徒オランダ人が来航するが、これにもレコンキスタの後、エクソダス(大脱出)によってスペイン領オランダヘ移ったセファルダムの後身が混ざっていた。王仁三郎の祖父・上田吉松の五代前の遠祖・円山応挙には、オランダ人の血が混じっていたという。右のごとき血筋の出口家から出た清吉は、明治25年12月1日、近衛師団に入隊する。全国から優秀な青年を選抜した近衛兵に何鹿郡から入隊したのは、清吉を含めて2人であった。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)  <了>。
                      
 


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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)―1 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)    落合莞爾
 -開戦から講和までイギリスの意図が強く反映された日露戦争  


 ★巨熊ロシアと対峙する グレート・ゲームの渦中ヘ


 明治維新以後の日本は、グレート・ゲームすなわち19世紀以来の英露間の世界的角逐に参加したが、本邦史家がこれを「英国の走狗」と自称するのは、謙遜というより自虐趣味である。日本が英国陣営へ参加したのは、当時の帝国主義段階における民族自活策として他に選択の余地がなかった。かかる場合に他民族に迷惑を掛けるのは世界史の通例で、その後の対処は先輩諸国に倣うしかない。

 軍事体系は輸送技術にも依存するから、列強の陸軍が鉄道と要塞、海軍が艦隊と軍港を戦略の中核に置いたのも輸送技術に対応したものである。当時は英国といえどもシンガポールまでが勢力圈で、極東に艦隊を常置するのは無理であった。ピョートル大帝のヴラジヴォストーク(東方を征服せよ)命令を実行して無人のシベリアを席巻したロシアは、ユーラシアの太平洋岸に至るまで無主の地を占拠して領土に組み込み、その領土はユーラシア大陸の東西両端に跨がった。極東地域において英国がロシアに対抗せんとすれば、在地民族の軍事力を利用するしかない。地政学上、日本の価値は正にその点にあった。

 ロシア帝国の極東部は、ハバロフスクの東南にあって太平洋に接する沿海州(現在は沿海地方と称す)である。ここはもと清国領満洲の一部であったが、1860年にアロー号事件の仲介料として、北京条約によりロシアが獲得した新領土である。沿海州の南端はピョートル大帝湾に突き出した半島で、軍港ウラジオストックがある。そこから日本海の海岸に沿って李氏朝鮮国が連なり、東南は日本海を挟んで日本列島が浮かぶ。沿海州の西側は満洲へ接して海への出口はなく、満洲の南端は遼東半島で東シナ海に突き出ている。

 沿海州はあたかも巨熊ロシアが極東に突き出した前脚で、満洲との国境は黒龍江が掌の形をなして満洲を圧している。沿海州の南端ウラジオストックはロシアが永年渇望していた不凍港で、此処にロシアは太平洋巡洋艦隊を置いて朝鮮を引っかく鋭い爪先をなし、前脚を一端撥ね上げれば日本海越しに日本を叩く形となっている。

 ロシア側から観ると、陸路を南下すれば満洲と朝鮮半島が立ちはだかり、海路を南下すれば日本海が日本列島の前方に在る。つまり満洲・朝鮮半島がロシアの日本侵入を妨げていて、イギリスから観るとこの地域は、日本列島を含めて絶対にロシアに取られてはならぬ地政学的な要地であった。史家は指摘しないが、ロシアからするともう一つ重要な地域がある。それは南シナ海に浮かぶ台湾島で、英露が極東の海洋覇権を争う場合、遼東半島と並ぶ最大の要地であった。

 ★明治史を規定したのは、薩摩とイギリスの意思 


 当時のイギリスが、満洲・朝鮮・台湾の地を日本に代理支配させようと望んだのは、地政学的当然で、ロシアが右の地域の直接支配を望むのも必然であった。日本としては、イギリスと結ぶかロシアの旗に下るかの選択しかあり得なかったが、新政府の権力を握った薩長土肥の雄藩の中でも、薩摩はイギリスに深く通じており、これが明治史を規定した。

この事を指摘して意義を明らかにした史家は管見するところ存在しないが、実にこれが明治秘史なのである。

 維新政府において、西郷隆盛が早々に征韓論を打ち出したのも真相はここにあり、内治優先を主張する大久保利通らによって否決されたが、明治4年に琉球漁民が台湾に漂着して惨殺されたのを機に、薩摩藩士・樺山資紀少佐が暗躍し、当路の薩摩高官を周旋して7年の台湾征討に漕ぎ着けた。これ決して樺山資紀の個人プレイではなく、大西郷麾下のワンワールド薩摩派の一員として働いたのである。大久保参議は征台を中止させるため、自ら長崎まで出向いて出兵を引き止める猿芝居を尻目に、西郷従道が征台軍を率いて勝手に出帆した真相もこれである。余談であるが、明治10年の大久保の横死は、ワンワールドに加わりながら中枢の意思に逆らったことに在ると聞いた。

 台湾征伐は台湾島が清国の実効支配が及ばぬ地であることを立証した日本は、20年後の日清戦争で台湾島の割譲を勝ち取り、所期の目的を果たした。同時に得た遼東半島の租借権は三国干渉により返還することになったが、当時のイギリスがそれを望んでいたと推測する根拠は、杉山茂丸が遼東租借にあくまでも反対で、外相陸奥宗光の宿舎に押しかけてまで日清講和の進行を監視していたことである。この杉山の背後に、イギリスの意向を読み取るべきであろう。

 日清戦争で台湾島を獲得した日本は、薩摩新三傑の松方正義・高島鞆助・樺山資紀が力を尽くして台湾経営に努めたが、新三傑の背後に杉山茂丸がおり、それがイギリスの意思を反映したことを指摘した史家は、本稿の前にはいない。因みに日本は、帝国主義段階の植民地経営として列強に勝る立派な統治を台湾で達成した。


 ★日清戦後、迷走する清国 もはや日露開戦は不可避


 明治29年6月、漢族出身の清国高官・李鴻章は、ロシア外相ロバノフ、蔵相ヴィッテとの間で露清密約を結んだ。この密約は、日本が清国・極東ロシア・朝鮮を侵略した場合における清露の相互援助を約し、満洲北部を通る東清鉄道の敷設権をロシアに与えたもので、三国干渉に対するロシアの働きに対する見返りの意味があった。ロシアにとっては極めて有利な取決めのため、締結に当たりロシアは莫大な賄賂を李鴻章に贈ったと言われる。大清帝国の漢族官僚が宗室愛親覚羅氏の発祥の故地をロシアに売り飛ばすことができたのは、愛親覚羅氏の統治力が既に頽廃していたからである。

 その10月、漢族国家樹立を目指す孫文は、滞在先のロンドンで★南方熊楠と交遊した。現地の清国公使館に拘禁された孫文の釈放に熊楠が関わったとされる真否はさておき、清国はこの月、初めての留学生を日本に派遣した。日本に敗れた清国はその脆弱さを列強に知られ、以後は急速かつ露骨な侵略を受けることとなった。すなわちドイツが膠州湾、イギリスも九竜半島を租借したが、ロシアは三国干渉により日本から返還せしめた遼東半島の旅順・大連を自ら租借して、野心を露呈した。
 

 ★ブロガー註:熊楠のロンドン滞在期については熊楠自身の手による『履歴書』(これは通称で、矢吹義夫氏宛ての自己紹介を主にした大正14年に書かれた長文の書簡のこと。)及び松居竜五『南方熊楠一切智の夢』(朝日選書1991年)の一章―【英国博物館 一切智の夢】、『ユリイカ』2008年1月号(特集・南方熊楠)等に詳しい。
 ロンドンでの孫文(孫逸仙)と熊楠との交友は明治30年3月16日から6月30日までの短い期間だったが、熊楠の日記にはしばしば孫文の名が出てくるように極めて濃密なものであった。
 また、よく比較されることだが、内向した漱石とは対照的にひたすら外へ開かれた熊楠の日常は「会話・論争・食事+喧嘩」の毎日で、その交友範囲は驚くほど広く、その意味からも興味は尽きない。<熊楠=孫文>プラスアルファという意味で。
 後ほど上記書などから、当該箇所を紹介します。 


 明治日本が実行する社会改革の成果に注目したのが光緒21年の進士・康有為で、変法自強策を光緒帝に上奏して容れられ、戊戌の変法(明示31年)にまで漕ぎ着けたが、西太后ら保守派に阻まれて康有為は日本に亡命、湖北巡撫の子息・譚嗣同は捕らえられて刑死する。

 列強による要地租借やキリスト教会の設置に憤った漢族民衆は、明治32年秋頃から道教団体の義和団に拠って反外人・反教会運動を起こした。これに対し列強は、33年(1900)年北京に出兵、義和団鎮圧の連合軍を組織して北京・天津を攻略したので、西太后と光緒帝は西安に蒙塵するに至る(北清事変)。政府は義和団を暴徒扱いしたが、その裏で西太后ら宗室の一部が排外的暴挙を秘かに快としていた。清朝宗室の統治力は確実に減退していたのである。

 明治34年1月、光緒帝は西安において変法の詔勅を下し維新政治を宣言するが、翌月ロシアは満洲・蒙古・中央アジアにおける権益の独占と北京への鉄道敷設等の協約草案を清国に提示し、受諾を迫った。李鴻章の親露的行動につけこんだロシアも、さすがに列強各国の抗議に遭い、交渉中断を声明する。11月に李鴻章が死ぬと、腹心の袁世凱が直隷総督兼北洋大臣を代行し、翌年6月には正式に直隷総督兼北洋大臣に就いた。

 この年、日本では杉山茂丸によって日英同盟推進の動きが始まる。杉山が桂太郎と児王源太郎を調略して3人で秘密結社を作って親露派伊藤博文の排除を策し、9月から欧米巡遊に出た伊藤が、露都ペテルスブルグに着いた35年1月に、桂内閣は日英同盟の締結を世界に公表した。

 明治35年4月、清国と満洲撤兵条約を結んだロシアは、それを履行せず、却って36年4月18日に新要求を提出する。これを反映して4月22日、山県有朋の別荘の京都無隣庵で、山県・伊藤・桂・小村寿太郎が会して対ロシア策を協議したが、桂らは7月には伊藤を枢密院議長に祭り上げ、その政治力を封じて日露開戦の障害を除去した。ロシアの清国侵略はこの間ますます進み、8月に旅順に極東総督府を設置、10月にはロシア軍が奉天省城を占領した。イギリスにとっても日本にとっても到底容認できぬ暴挙で、日露開戦は誰の目にも最早避けられないものとなった。

 以上は素より世上公知の史実であって、今更贅言の要もないが、本稿が諸賢の注目を喚起せんとするのは、北清事変後の愛親覚羅氏の動向である。

  続く。                      
 


 ●疑史(第54回) 陰謀史観 
 ●疑史(第54回) 陰謀史観   評論家 落合莞爾 (『月刊日本』3月号)。
 

 一昔前になるが、寄稿の話で某大手出版社の雑誌編集長と協議した時、「そんな陰謀史観は今時の読者が嫌がるのでねえ」と言われで、それきりにしたことがある。「陰謀史観」に似た言葉に「謀略史観」があり、ともに他人の史観を否定的な意味を込めで呼ぶ語であるが、強いで分ければ、前者は歴史の進行を総じで陰謀に因るものと観る巨視的な立場、後者は個別的歴史事象の陰にある謀略に焦点を当でた歴史解釈を指すと言えようか。

 ともかく某編集長が言うには、一般読者は性単純で権力迎合的なため、世の謀略の存在を認めたがらず、殊に権カ側の謀略の存在を否定したがる。陰謀史観は大衆向けの売文商品としては不適当なので、出版社はいきおい陰謀史観を排除せざるを得ない。結局書肆に溢れるのは通俗の売文書で、御用学者がこさえた教科書史観に所縁の史料を当てはめたものばかりになる。挙って陰謀史観を冷笑する売文人も、論拠としでは「陰謀があったことを証拠立てる文献がない」というが、陰謀なぞあり得ぬとの先験的判断に立っているだけである。

 かつて日本法制史の講義で石井良介教授がされた笑い話に、日本書紀の某年何月何日の条に「本日雨降る」との記録があるが、それより前には降雨の記事がないので、之れを以で本邦降雨の初めと断定した学者が居たと言われたが、何をがな文献記録をかざすとこういうことになる。


 陰謀は、一部勢力が全体の建前を尊重(する恰好を)しながら本音を達成するための、最も効率的な手段であるから、人間社会ならどこにでも存在する。しかしながら、獣類が空気の存在を意識せず魚類が水の存在を忘れているように、人は周囲に充満する陰謀に通常は気づかない。社会の建前にすがり付いて安易単純な生き方を望む俗人は、ことに陰謀を嫌い、その存在を誰かにはっきりと否定して貰いたい。そこに付け込んで通俗史観に沿った経本を作り、俗衆に提供して米塩の資とするのが売文人である。本稿のごときは蓋しその反対で、編集者の好意で本紙に掲載を許されているものの、俗流からはさしづめ陰謀史観の典型とされて居るものと思う。

 ところが最近「日本のスパイとして【東洋のマタハリ】と呼ばれ、昭和23年に北京で処刑された筈の川島芳子が、処刑を免れて吉林省で昭和53年まで生きていた」との証言が出た。吉林省長春の張という41歳の画家が、義理の祖父・段蓮祥が芳子の監獄からの脱出に関わったと証言したのである。詳細は新聞が報じたから略するが、この報道を機に、報道関係者から私の許に多くの問い合わせや感想が寄せられた。それは、私が以前『月刊ニューリーダー』に、下記のごとく述べたからである。

 昭和32年頃(☆30年)、岸内閣の外相として訪中し、周恩来に会うこととなった藤山愛一郎が、恩来と旧知の吉薗周蔵に、その人となりを問い合わせてきたことがあった。藤山から「恩来さんに会った時、何か聞いてくる事はないか?」と聞かれた周蔵は「一つだけある。川島芳子が生きていると聞いたが、真否を確認して欲しい」と頼んだ。
藤山がそのままを周恩来に伝えた処、恩来は「そんなこと答えられる訳がない。でも吉薗先生には、この通りだと伝えて下さい」と言いながら、指で空中に丸を描いた・・・という一件が、吉薗家の伝承にあると云々。

 本稿の読者諸賢からは、今回の証言で『周蔵手記』の信頼性がさらに高まったと激励が寄せられたが、従来その信憑性に疑問を感じ拙稿を陰謀史観と見做していた向きの中からも、今回の証言を機に見直す人がかなり出てきた。その中に、藤山は政界引退後に日中友好に努めたが、岸内閣の外相の時には訪中はおろか、周首相に会った記録もないとの指摘があった。何分、この一件は周蔵周辺の口伝に過ぎず『周蔵手記』の記載ではないから、執筆当時は厳密な裏付けを取っていなかったので、今回改めて調べてみると、実は☆昭和30年のバンドン会議の時と判明した。当時藤山は政界入り前で日商の会頭をしていたが、鳩山内聞の経済企画庁長官・高碕達之助の顧聞として会議に出席し、周恩来に会ったのである。ゆえに、上述の傍線部は私の誤りと分かったので、ここに訂正する。

 川島芳子生存の一件は、他にも幾つか囁かれていた。その一つは私が大手婦人雑誌の元編集長H女史から聞いたもので、「芳子は笹川良一氏に養われ、熱海の温泉施設で療養していた」ということであったが、他にも外務省キャリア出身の元衆院議員K氏から「芳子の家族が金条数本を以て看守を買収し、身代わりの女性を処刑させたと、元海軍特務の某氏から聞いた」と伺ったことがある。看守が賄賂を貰って逃亡させたのは収賄という犯罪に過ぎぬが、首相がそれを承知しながら故意に放置していたのであれば、権力側の謀略である。永く囁かれていた川島芳子生存説は、取りも直さず中国共産党の謀略を指摘する謀略史観であるから、俗流史観に立つ売文子は之れを嫌い、最近公刊された芳子の評伝もこれに触れようとはしていない。中国共産党の掲げた罪状では日本のスパイとされた川島芳子だが、その多岐にわたる活動の究極の目的が女真族と愛親覚羅氏の利益にあったのは確かである。

 結果的に中華人民共和国内の少数民族となった女真族の1人が行った民族自立行為を、多数派の漢族が漢奸(反漢族行為)と糾弾して死刑にするのは、流石に寝覚めが悪かったのであろうから、本音は芳子の救命を望む共産党中央が、新政権の建前たる漢奸厳正処分とを調和させるために、謀略を用いたのが真相とみて良い。ゆえに金条数本は、実は関係者に対する口止め料であろう。

  スパイは原則として二重スパイであり、時には三重スパイでさえあるから、双方の裏を知り過ぎたスパイを処遇するに中途半端は適切を欠く。つまりは抹殺か解放しかないが、抹殺により情報が完全に封印される保証もないので、厳重に□止めした上で解放するケースも多いと聞く。例のスパイ・ゾルゲも、真相はロシア・ドイツ・日本を股にかけた三重スパイであった由で、戦時中に行われたゾルゲの刑死にも裏があると聞いたが、それこそ【文献的な証拠がなく】すぐには信じがたいとは言え、全くあり得ないことではないのである。

 本稿が基礎資料としてきた吉薗周蔵の手記は、諜報員に通例のもので、窮地に立っても上司が助けてくれぬことを前提に、自身を守るために自らの活動の軌跡と見聞した秘事を綴ったものである。必要な時に提出し、もしくは発表すべきものであるが、周辺に迷惑を掛けぬために、すべてを一文に纏めることはせず、小分けして別紙にメモしておく。時には言い抜けができるように、日時をずらしたり偽アリバイの基を作ることも心掛けるが、そもそも手記自体の信用が重要だから、後人を惑わすデタラメの類は必ず排除する。要するに、スパイの手記は、本質的にも謀略文書とは正反対の性格で、真摯な内容にその特性があるのである。

 大正元年8月2日から始まる『周蔵手記』の冒頭は上原勇作にお目見えする場面である。上原の命令で陸軍特務となった周蔵は、当初は「犬」と「草」は辞退し、「歩」に限って引受けることで上原の了解を得て、ケシの栽培に専念し、同時に特務日誌の記帳を始めた。上原の背後に高島鞆之助がいたことに史家は気づかなかったが、『周蔵手記』により初めて明らかになった。私がこれを日本近現代史上で極めて重要な発見と自負するのは、陸相を辞めて政界から姿を消した高島が、明治31年以後は裏面で行った活動を『周蔵手記』から窺うことができるからである。高島を追えば自然に兄貴分の吉井友実に及び、ひいては西郷・大久保・吉井の薩摩三傑にたどり着き、教科書史観からかけ離れた歴史の真相が見えてくる。ここまで来れば、西郷らに続く新薩摩三傑すなわち松方正義・樺山資紀・高島鞆之助の事績を正しく読み取ることができ、そこから分かるのは、英露の世界史的角逐たるグレート・ゲームが明治史を根本的に規定したことである。『周蔵手記』の価値はその史料性に存するのだが、社会の裏方として秘事の真相を知るからこそ手記の形としたもので、そのために却って正当な評価を受けられないのは歴史の皮肉である。これほどの文献が実在しているのに、「文献的証拠がない、陰謀史観だ」などとする売文家の指摘は本末転倒も甚だしく、遺憾というほかない。

 上原勇作はフランス留学時に在仏ワンワールドに直接加入したが、その立場は在英ワンワールドに近かった。陸軍首脳となった上原は、大陸では張作霖を支援して満洲自立策を立て、第一次大戦ではシベリア出兵を強行し、裏ではシベリア金塊の処分に関わった。これら、すべて在英ワンワールドの対露政策に沿っているのである。詳細はやがて本稿で論じたいが、以下では上原の外伝に類する甘粕正彦について解明したい。

 本橋の甘粕正彦論は陰謀史観呼ばわりの好例である。甘粕に関する評伝は、巷間に幾つか存在するが、すべて粗略・不完全なものである。有名な角田房子『甘粕大尉』は、意図的な事実歪曲を図ったものだが、以後の通俗史観の基になった。最近刊行の佐野眞一『乱心の曠野』も、新事実の発掘に熱心ではあるが、基調は紋切り型を脱していない。中でも、甘粕がコチコチの天皇崇拝者で、そのために無政府主義者を憎み、憲兵の職権を利用して大杉らを不法に抹殺した頑吏と見るに至っては、通俗史観というしかない。陸士生徒の時に皇居遥拝をしていたことだけで、コチコチの天皇崇拝者と決めつけることはムリである。

 私の学生時代、周囲は共産思想鼓吹の「インターナショナル」や「国際学連の歌」などの革命歌を歌う者ばかりで、日共代々木派さえ右寄りと攻撃する無政府主義の下に集っていたが、後年東大の右翼教授となったり、官僚・司法官、企業経営者になったが、コチコチの無政府主義者なぞ見たことがない。あの革命歌は当時のインテリ学生間における流行で、エリート意識を高めるために、将来職業に就くことを忘れて快く歌っていたのである。大手家電の朝礼で社歌を歌う者にも、純真もあれば功利もあり、皇居遥拝する陸士生徒にも野心を抱き目端が利く者がいた。将来所属する軍人社会の建前と一致する皇居遥拝を進んで行った甘粕は、革命歌世代よりもむしろ功利性が強いというべきであろう。皇室崇拝と言うが、その本質は国体尊重主義であり、むしろ天皇機関説と呼ぶべきである。加えて甘粕に限っては、国家主義者であったことさえ疑わしいと思う。その根拠は、甘粕に親しかった周蔵の手記から窺われる甘粕像であるが、後述する。

 付言すれば、佐野氏が甘粕遺族の協力を取り付けて諸種の資料を得、以て瑣末を追究したことは史学に利する処大きく、評価すべきものと思う。 


 ●疑史(第54回) 陰謀史観 <了>。

 






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