カウンター 読書日記 2009年02月
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●竹中売国政策を暴く!  政治経済学者 植草一秀
 ●竹中売国政策を暴く!  政治経済学者 植草一秀  『月刊日本』3月号所収。

 <1>★噴出する小泉・竹中政治のツケ

 <2>★財界の利益優先を図った竹中

 <3>★「かんぽの宿」売却疑惑に竹中の影

 <4>★郵政民営化の狙いは「郵政米営化」だった

 <5>★官僚利権を温存した竹中

 <6>★「竹中・西川・宮内」闇のトライアングル

 <7>★マスコミに騙されるな 

 
 (*1~7の数字は便宜上のものです。)

 ***********

 以下、<3>~<6>を主に、特に<3>・<6>は詳細に紹介していく。

  
 <1>噴出する小泉・竹中政治のツケ

 
 麻生政権が誕生して、小泉・竹中政治の象徴である二つの重要問題が浮上した。

 ①雇用情勢の悪化と、②「かんぽの宿」疑惑だ。

 二つとも「市場原理主義」と「郵政民営化」の産んだ子どもである。

 麻生首相は、1月28日の施政方針演説で小泉・竹中政治からの訣別を宣言したが、

 それがここにきて一気に加速したのは「かんぽの宿」不正入札問題の所為である。
 
 引退したはずの婦女暴行前科者・小泉の「笑っちゃうくらい」発言は、ほんの一瞬だけ

 シャレタ「ワンフレーズ」としてワイドショウに取りあげられたが、今度は続かない。

 表情に余裕もなく、つくり笑顔も「何者か」に追い詰められた内実を隠せない。


 <2>財界の利益優先を図った竹中 

 
 竹中は君子とは程遠い売国奴なのに、1点だけは「君子」から学んでいるようだ(笑)。

 【君子は 豹変す】というのがそれで、まったく馬鹿につける薬はない。

 さて、竹中は一般には「市場原理主義」の信奉者と思われている。

 確かに小泉政権前期において、竹中は「財政健全化のためには健全な経済発展よりも歳出削減以外
 にはありえない」と主張していた。

 ところが、小泉政権末期になって、その発言は急変した。
 今度は経済成長が重要で、成長による税収増加で財政健全化を実現すべきだと言い始めた。
 もちろん、「急変」の根拠や理由などを説明・開示する気もないようだ。

 竹中の得意のフレーズに「がんばった人が報われる社会」というのがあった。
 このフレーズに聞き覚えのない日本人は少ないだろう。
 しかし、この言葉は竹中自身がアメリカの「親分」に囁かれた言葉だった。

 しかし、近年の現実は「がんばったけど報われなかった」国民が激増したことを示していて、
 それが昨年末の「年越し派遣村」として「結実」した。

 まあ、普通ならこういう豹変思考の手合いは相手にされないものだが、
 放っておくと健忘症の国民の懐にまた巧みに潜り込んでくる恐れもある。
 「溺れかけた <犬>」に下手な同情は禁物である。(魯迅)

 
 ★念を押しておきますが、この文章は植草氏の論考を参照しながら書いていますが、
  もちろん文責はすべてブロガー「ひろもと」にあります。

  
 <3>「かんぽの宿」売却疑惑に竹中の影


 「かんぽの宿」売却疑惑とは単なる不正入札問題とは異なり「売国政策」というべき性格のもので、
 大分キヤノンの工場建設にまつわる御手洗他の不正蓄財とは一段レベルが違う「大悪」である。

 不正入札の過程や売却金額の異常さは、それこそ常軌を逸したものだが、すでに衆知のことだろう
 から今は略す。

 ここでは鳩山総務相の追究に対して、竹中が提示した「反論」を診てみる。
 反論のポイントは以下の5点。

 1、「かんぽの宿」は一年に40億円も赤字を出す「不良債権」だ。
   →この反論はもうすでに破産している。
    加入者の福利厚生施設の性格上「利用価格」を安く設定していたのが「赤字」の主因である。

 2、最終的に100億円の資産評価しか得られないものに2400億円も資金を投下したことが問題だ。
   →これは、100億円という評価づけをした主体の問題を看過しては意味のない論、マッチポンプ
    なのだ。
    財産評価政府の財産評価委が行ったが、竹中が指名した奥田かつ枝委員がオリックス関連の
    事務所に所属していることが判明した。
    不当に低い不動産評価額が設定されたと疑わない方が異常だろう。
    これを「八百長」・「狂気の沙汰」と普通の日本語では言う。    

 3、評価が低いのは、(高給の)従業員を雇い続けなければいけないからだ。
   そういう「雇用維持」の国会決議もある。
   →これは日本郵政が対応すれば済む問題でこれも論外。

 4、「かんぽの宿」売却先決定は「競争入札」によっており、公明正大だ。
   →哀れ!西川善文日本郵政社長は国会答弁で「競争入札ではなかった」と認めた。
    これほど杜撰な謀略も近年めずらしいほどの醜態で中川のそれを上回る。
 
 5、「民営化」した企業の経営判断に政治が介入することは根本的な誤りだ。
   →やはり、竹中平蔵は大馬鹿者だった。
    古来、「問うに落ちず、語るに落ちる」というのは常識だが、平蔵にはそのレベルの常識も
    なかったらしい。
    この発言で、平蔵は自身の大罪=「りそな銀行処分」に口を閉じ続けることが出来なくなった。

 さて、平蔵「反論」の1、に戻る。

 「かんぽの宿」の赤字の原因は、安い料金設定に起因する「営業収支」だけではなく、高額の減価償却に起因しているとの疑惑がある。
 キャッシュフローでの赤字は小さい可能性が指摘されている。
 繰り返すが、財産評価政府の財産評価委が行ったが、竹中が指名した奥田かつ枝委員がオリックス関連の事務所に所属していることが判明した。
 不当に低い不動産評価額が設定されたと疑わない方が異常だろう。

 こういう事態が麻生首相の就任演説に繋がったと今では観ることができる。

 
 <4>郵政民営化の狙いは「郵政米営化」だった。


 郵政民営化の一枚看板で総選挙に挑み、上手く騙しおおせたと思っていた小泉=竹中売国コンビだが、その実態が「郵政利権化」「郵政米営化」だったと暴露されつつある。

 2005年の衆議院郵政民営化特別委員会で、自民党の城内実議員(当時)が郵政民営化の法制化に際して、郵政民営化準備室が17回も米国と協議を重ねた重要事実を明らかにした。(先日既に紹介した。)

 また、8月2日の参議院では、櫻井充議員が、米国通商代表が竹中に送った信書の内容を暴露した。
 それは、竹中が米国の意向(指示・命令だろう)に沿って法制化を推進していることへの「謝意」を示すものだった。

 とにかく、2007年10月に郵政分社化と日本郵政が発足したが、問題は資産の分割にある。

 「ゆうちょ銀行」「かんぽ生命」は、丸裸にされ、「郵政事業会社」もわずかな不動産しか配分されなかった。ゆえに「ゆうちょ銀行」「かんぽ生命」の資産基盤は脆弱で、株式が売却されれば、外部(外国)投資家は低金額で株式を(取得)支配できる。
 支配権が外国資本に渡れば、340兆円の資金(国民の)が外国資本に支配される。

 「郵便」と「郵便局」を傘下に持つ「日本郵政」株式が売却されるが、当初は「ユニバーサルサービス」が義務付けられるため株価が低位に位置する可能性が高い。
 郵政の巨大不動産は日本郵政と郵便局会社に帰属し、「日本郵政」は三菱地所並みの巨大不動産会社に変わる可能性が高い。

 外国投資家は、株価が低位の時点で取得して、少ない資本で「日本郵政」支配権を手に入れるだろう。
 
 瀕死のアメリカが活躍する舞台装置はいまのところ、整っている。

 ところで、日本郵政株法附則第2条に<2012年までの「かんぽの宿」売却を義務付ける条文>を入れることを指示したのは竹中であったことが国会で明らかにされた。
 加えて附則第3条には、日本郵政株式の早期売却が定められている。
 この株式売却を開始してしまうと、根本的な見直しが困難ーほとんど不可能ーになる。
 株式売却と「かんぽの宿」売却を凍結する法改正が求められる所以だ。

 小泉の異様なキレ方も、竹中のなりふり構わぬ自己弁護もその「法改正」に対する危機感のあらわれだ。「その筋」の恫喝も並みでは有り得ない。自業自得だろう。

 ↑に「平蔵は自身の大罪=「りそな銀行処分」に口を閉じ続けることが出来なくなった。」と書いたが、竹中は発言こそふらつくが、やっていることは「対米尻ふり」で一貫している。

 竹中は2002年に金融相に就任して、銀行の自己資本比率の算定基準を強行に変更しようとした。
 そのなかで、「りそな銀行」に標的を定めて同行の自己資本不足を誘導し、<解体破滅ー外国資本への「叩き売り」>へと導いた「前科」がある。(以前にも紹介した通り。)  

 
 <5>官僚利権を温存した竹中 


 この<5>以下は、全文を、引用紹介します。

 <5>官僚利権を温存した竹中 

 第三の問題は官僚利権構造の問題だ。筆者はNHKの日曜討論で、竹中氏に「改革」を主張するなら「天下り根絶」こそ根本的な問題であると追及したことがある。これに対しで竹中氏は、「天下りなどという瑣末な問題ではなく」と発言した。竹中氏は「天下り問題」を「瑣末な問題」だと認識していたことが分かる。

 小泉政権の末期である2006年に政府県金融機関の機構改革が最終局面を迎えた。日本政策投資銀行、国際協力銀行、日本政策金融公庫の三つが財務省の天下り御三家である。筆者はこの三機関に対する「天下り」を廃止するのかどうかが、小泉・竹中政治の官僚利権に対するスタンスを知る明確なリトマス試験紙になると主張した。

 小泉・竹中政治は財務省の天下り利権を完全温存した。「改革」の旗を掲げながら、官僚利権を切らないことが明確になった。
 小泉・竹中政治の「改革」とは、一般国民の生活を守るための「セーフティネット」を破壊する一方で、特権官僚の天下り利権を守り、公益法人や独立行政法人などへの年間12・6兆円の政府支出を温存する政策だった。

 「郵政民営化」の実態は「郵政利権化」「郵政米営化」である。「かんぽの宿疑惑」は、この真実を鮮明に例示するものである。小泉・竹中政治は「住宅金融公庫」を廃止し、日本道路公団を民営化した。「住宅金融公庫」廃止を求めたのは国民ではない。銀行業界である。国民は住宅金融公庫の存続を求めた。道路公団が民営化されれば、貴重な国民資産の「私物化」が進展する。「民営化」されてしまうと、国会や国民からの監視が効きにくくなる。

 日本郵政株式会社は100%政府出資会社で、国会や国民が厳しく監視しなければならない対象である。それにもかかわらず、日本郵政は資料提出を渋り、郵政民営化を仕切った竹中氏は、不透明な資産売却に「待った」をかけた総務相の行動を「不当な言いがかり、根本的に誤った政治の介入」と表現する。

 総務相の日本郵政に対する監督は、「日本郵政のガバナンス」の基本中の基本である。日ごろ「ガバナンス」などのカタカナ日本語を愛好している竹中氏が、基本の基本もわきまえずに郵政民営化を指揮していたことは、驚きを超えて恐怖である。


 <6>「竹中・西川・宮内」闇のトライアングル 


 次に、竹中氏が主導した経済政策の問題点を三点指摘しておく。第一は、マクロ経済政策についての主張に著しい「ぶれ」があることだ。先述したように、竹中氏はかつての主張から完全に宗旨替えして、現在の状況下では「財政政策の発動が必要」と述べている。

 2001年から2003年にかけて、筆者が超緊縮財政政策が日本経済の急激な悪化を招くと警告した際、「財政政策を経済政策のなかに積極的に位置づけるとの考え方は時代遅れであり 景気安定化の役割を財政政策に求める先進国は存在しない」とまで言い切っていた人物と同じ人間とは思えない。

 2003年にかけて小泉・竹中政治は意図的に経済を破壊させる経済政策を実行した。その結果、第2大戦後最悪の不況を招き、罪なき多くの日本国民を失業、倒産、経済苦自殺の灼熱地獄に追い込んだ。この責任は限りなく重い。

 金融危機を回避するために財政政策を発動することが正当で 財源として「埋蔵金」が存在するなら、2001年から03年こそ、超緊縮財政政策ではなく、中立の財政政策運営を実施すべきだった。小泉政権が景気破壊政策を実行していなければ、2001年から03年の日本経済の地獄は回避できた。

 また、最近、竹中氏は日本銀行の金融緩和政策が不十分であることが日本経済悪化の一因であると主張し、量的金融緩和政策の強化を主張している。その竹中氏は、2000年に日銀がゼロ金利政策を中止した際、ゼロ金利廃止をもっとも強く主張した人物の一人だった。「ゼロ金利はモラルハザードを引き起こす」と主張していた。その竹中氏が突然、金融緩和論者に変身した経緯が不明である。

 経済政策の主張がコロコロ変わる人物の政策提言を信頼することは出来ない。宗旨替えをした場合には、その理由と経緯を明示する必要がある。

 第二は、竹中金融行政に深い闇が隠されていることだ。先述した2002年から03年にかkぇての金融行政を再度、検証し直す必要がある。政権交代が実現した段階で、再検証が重要な課題として浮上するだろう。

 竹中金融行政の最大の問題は、2003年にかけて日本経済の破壊を誘導し、「大銀行破綻容認発言」などにより株価暴落を誘導しつつ、預金保険法102条の抜け穴規定を活用して、「欺瞞」と不正に満ちたりそな銀行処理を強行した点にある。

 この過程で、竹中金融相は2002年12月11日に、三井住友銀行の西川善文頭取、ゴールドマン・サックスCEOのヘンリー・ポールソンと密会している。その後、三井住友銀行はゴールドマン・サックスから1500億円の資金調達を実施した。

 『文藝春秋』2009年1月号が掲載した渡邉恒雄氏に対するインタビュー記事「麻生総理の器を問う」のなかで、渡邉氏が次のような証言をしている。


 「僕は竹中さんから直接聞いたことがあるんだが、彼は『日本の四つのメガバンクを二つにしたい』と明言した。僕が『どこを残すんですか?』と聞くと、『東京三菱と三井住友』だと言う。あの頃はまだ東京三菱とUFJは統合していなかったんだが、『みずほとUFJはいらない』というわけだ。

 どうして三井住友を残すのかというと、当時の西川頭取がゴールドマン・サックスから融資を受けて、外資導入の道を開いたからだと言う。

 『長銀をリップルウッドが乗っ取ったみたいに、あんなものを片っ端から入れるのか』と聞くと、『大丈夫です。今度はシティを連れてきます』と言った。

 今つぶれかかっているシティを連れてきて、日本のメガバンクを支配させていたらどうなったか、ゾッとする。」


 金融行政を「事前調整型から事後監視型に変える」と発言していた竹中氏が「政商」まがいの行動を示していたことは重大な問題である。西川氏は02年10月に竹中金融庁が「金融再生プログラム」を発表した際に、金融庁に対して猛烈な反発を示していたが、03年以降は、一変して金融庁に恭順の意を示すようになった。

 日本郵政株式会社初代社長に西川氏が起用されたのは竹中氏の強い推薦によっている。その西川氏が「かんぽの宿」疑惑の中心人物の一人だが、オリックスの宮内氏との関わりは竹中氏もきわめて強い。 
 

 <7>マスコミに騙されるな 

第三は、小泉・竹中政治が実行した「市場原理主義」経済政策の誤りについての追及がおろそかにされていることである。テレビや新聞が「日本竹中新聞」や「テレビ小泉」の様相を呈し、有力な論客による竹中政策に対する追及が実行されていない。マスメディアは竹中氏に一方的な反論の機会を与えるだけで、竹中氏に対する適正な追及のプログラムを提供していない。

 野党を中心に竹中氏を国会に参考人として招致することが提案されている。竹中氏は出来レースの民間テレビメディアにだけ出演するのでなく、国会の場で堂々と反論を展開するべきである。

 2月12日に小泉首相が麻生首相批判を明確に示したことをきっかけにして、政局が急速に流動化し始めている。麻生内閣の支持率は低下の一途をたどっている。このまま進めば、次期総選挙後の本格的な政権交代が確実な情勢である。

 既得権益を維持しようとする利権勢力は、本格的な政権交代阻止に死に物狂いの様相を示している。小泉元首相の行動は、みずからの再登場を視野に入れた動きであると思われる。マスメディアを総動員して、国民を「目くらまし」に陥れて、権力維持=利権維持を図るとの思惑が透けて見えてくる。

 麻生首相の迷走ぶりが深刻であり、マスメディアが小泉元首相を「水戸黄門」のように持ち上げているため、国民は惑わされやすいが、この構造が05年9月の郵政選挙の構造であったことを忘れてはならない。麻生首相は迷走しているが、「郵政民営化=4分社化を見直すべきこと」、「市場原理主義経済政策を否定すること」は正論である。

 総選挙では、この点に加えて「官僚利権を根絶すること」を実現する本格政権を樹立することが求められる。国民も学習を積んでいるから、よもや再び「リフォーム(改革)詐欺」に騙されることはないと思うが、マスメディアを総動員する市場原理主義者=売国政策推進者が再び台頭することを決して許してはならない。**************  <了>。
  
 

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●『画商の眼力』を読む(4)。
●『画商の眼力』の帯には下の写真のとおり、大きく「私に藤田嗣治の鑑定ができる理由!」とある。

 その第二章は、〔藤田嗣治の鑑定〕とある通り、一章すべてを使って藤田について記述されている。

 佐伯祐三よりも大きな扱いである。

 しかし、当然といえば当然のことだが、ここでもあれこれの小話-「乳白色にまつわる謎」、「画家・藤田にとっての戦争という現実」など-は語られるが、それらも★ウイキペディアの域を出ない。

 そして「肝腎の件」については無視されている。

 不思議なことづくめの著作であった。


 左下のリンク先から【吉薗手記の語る大正~昭和史】をクリックしていただくと、藤田嗣治のいまひとつの顔=真実を読むことができる。 ★7.藤田嗣治 エコール・ド・パリの寵児の真実

 
 ★ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB

 詳細はこの労作のお世話になることにする。
   
 
 ●『画商の眼力』を読む。  <了>。
  



●『画商の眼力』を読む(3)。
 大島一洋『芸術とスキャンダルの間』の最後はこう締めくくられていた。

 「・・・落合莞爾とは何者か。
 著者紹介(落合著『天才画家<佐伯祐三>真贋事件の真実』=1997年、時事通信社刊=の著者紹介)を見ると、昭和16年和歌山市生まれ、東京大学法学部卒、住友金属、経済企画庁調査局、野村證券を経て、昭和53年落合莞爾事務所設立、株式会社新事業開発本部社長とある。著書は6冊あり、半分は経済モノで、経済評論家のようだ。が、やがてわかるように調査のプロであり、筆もたつ。『天才画家佐伯祐三・・・』は推理小説を読むような面白さで、最後まで読者を引っ張る。彼は真作派の旗手であり、武生市の贋作疑惑をことごとく粉砕していくのである。・・・

 筆者(大島氏)に(佐伯の作品の)真贋を判定する力は無い。ただ、もし絵は贋作としても、あの大量の「吉薗資料」はいったい誰が書いたのだろうか。
 資料は本物で絵は贋作なのか。謎の多い事件である。・・・」 **********
 
 以下、<補足>しておく。

 上記の著作『天才画家「佐伯祐三」・・・』とほぼ同時期に刊行された藤原肇との対談本『教科書では学べない超経済学―メタエコノミクス』(副題―波動理論で新世紀の扉を開く)の<著者略歴>をチェックしてみると。

 「経済企画庁調査局」は、「経済企画庁内国調査課(出向)」とより詳しく記されている。
 <東興書院> 設立は昭和62年12月で、<設立にあたって>という宣言の一文「百年の良書を望む」も東興書院・各刊行本の巻末にある。

 私の知る同社の刊行本としては『間脳幻想』(銀座内科医師・藤井尚冶と藤原肇氏との対談。1988.11月刊)と『世界革命とイルミナテイ』(ネスタ・H・ウエブスター著、馬野周二訳1990.6月刊)があるが、どちらも「良書を!宣言」を汚すことの無い一冊だった。
 
 特に、『間脳幻想』は、対談集が売れないこの国にあって、稀有の結実だと思う一冊。
 私は何度読み返したかわからないほどだ。

 とにかく「叡智」・「智慧」が随所にさりげなく、叩き込まれている! 

 ***************

 
 ●次に紹介するのは、出久根達郎・『書棚の隅っこ』である。

 先ず、落合氏の【佐伯祐三:調査報告】からの引用を。

 第三章 第三節 〔落合報告なるもの〕 より。

 **************

 ・・私は、小林報告書起草者に対する憤激の存念から、随所で美術評論家なるものを貶めてきたが、それはあくまでも一般論であり、中にはこのように見識と勇気ある人士も少なくないことを認識した。文壇の大型新星といわれる★出久根達郎も、その著「書棚の隅っこ」のなかで、取り上げて下さっている。

 草: 「佐伯祐三が、激しく私を奪って止まない所以は、モラリスト(風俗批評家)としての彼の独自な姿勢が位地の確かさの上にあって、比類ない美をわれわれに提起していることに、職として由る。」「大阪の持つ庶民的な反逆精神。そして文明への高貴な憧憬の感情。彼の体液(ユムール)を流れるこの二つの要素の上に彼のプチ・ブルジョワへの深い愛情がその独自の芸術となって燦然と輝いているのである」(安西冬衛「佐伯祐三の位地とその意義」)

 佐伯祐三真贋騒動をご存じだろうか・・・・

 出久根さんによる拙著の紹介は、上の文章で始まる。安西という人の難解な文章をまず掲げたのは、拙著と対比なさるためであろうか。ともあれ、出久根さんは、私個人の略歴と拙著の大筋を紹介した上で、次の文章で締めくくっている。

 「佐伯の絵は、妻の米子が加筆している事実が判明した。佐伯作品の再検討が始まる。そうなると美術商たちは恐慌をきたす。ニセとわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れているからだ。十号数億の佐伯作品となれば,画商の経済的破綻は必至。「吉薗資料」の抹殺をはかるわけである。

 なお「草」とは、スパイの意味である。佐伯を「草」に仕立てた吉薗周蔵も、もちろん当時の陸軍の「草」だったのである。」

 このように、好意的な書評は幾つか頂いたが、その逆の拙著に対する反論は、真摯なものはもとより、嘲弄的な批判ないし噂すら、これまで私の耳には入ってきていない。一つだけ例外は、流行語“老人力”で売りだした★赤瀬川原平が、「日経アート」平成十年十二月号の紙上の対談で曰く、「4年くらい前に真贋騒動があったんですよ。(中略)絵と一緒に資料があって、この資料がすごいんです。よくもまあ、これだけ、という感じで。(中略)いまだに真作だといって本を書いている人もいて、相当複雑なんです。センスがなくて筆が立つ松本清張みたいな人が生きていたら大長編小説を書いてますね」と。

 後半部分の趣旨はよく分からないが、とにかく拙著と私をからかい気味で語っていることは疑いない。これが、私の知り得た唯一の表だった拙著批判である。この外に「闇の贋作派」がいて、たとえば安井収蔵氏のごとく「小林報告で真贋はすでに決着した」と唱えるが、堂々の論争をしようとはしない。この一派は、商業的・経済的動機がすべてのようだ。

 赤瀬川は同誌上で「絵の真贋なんか元来どうでもいい」と言い、吉薗佐伯については、「でも、ぼくは写真でしか見てませんが、この絵がどうしようもなくつまらなくて何だか嫌な気分になる」と、自ら『芸術新潮』の掲載写真の影響下に在ることを自認している。その未額装品の写真によって、間違った先入観が形成されてしまった人が多いが、赤瀬川もその一人らしい。先入観が強すぎて、拙著や月刊「ニューリーダー」で紹介してきた資料の内容が理解できず、「よくもまあ」とただ呆れるのであろうが、嫌な絵だから偽物というのは早計ではないか。それに、夫子自身が「日経アート」の対談のなかで、佐伯の公開作品を評して「この絵のここは、佐伯がああした、こうした」と評するが、作者の個性・心情と具体的作品を結びつけて論じる立場にあるなら、真贋=つまり当該作品の作者と特定個人の同一性の有無=を無視することができぬというのが、物の道理ではないのか。

 そこで一つ、赤瀬川君に問う。これは君自身で双方の報告を熟読したうえでの責任ある見解なのか?

 そして告げる。ここは一番、★千葉成夫の言に従い、真面目に争おうではないか。「どっちも頑張れ、と言っておこうか。どっちも頑張れ、ただし真面目に、だ」。
 ・・・(続く) 

  <註>
 上の★「千葉成夫の言に従い」とは、以下の文章(落合報告)を
 踏まえたもので、以下引用する。 
 
 *********

 拙著に対しては、幾つかの好意ある書評をば頂いた。その代表は、美術評論家の★千葉成夫東京近代美術館主任研究官のもので、★「中央公論」平成9年10月号に、次のように評して頂いた。

 「実に面白い本だ。まるで推理小説か犯罪ミステリーを読んでいるようで、読者に息をつかせない。しかも、ただの面白い読み物というのではなく、これはきわめて真面目な考証物であり、研究書とすら言っていいだろう。(中略・事件の経緯)

 一般の人々は、その間の事情と経緯を知る由もないから、よく調査した結果、贋作と判明したので白紙に戻すとは、役所にしては偉いと思った人もいたはずだ。たとえば「贋作説」の新聞しかとっていなかったら、そう思って当然である。ところが、本書の著者の調査と推理によると、そうではない。ここから驚くべき真実があかされることになる。こういう本は、種明かしをしてしまったのでは、これから読もうと思っている人々に失礼に当たるわけだから、それはせず、結論だけを記しておこう。『刑事コロンボ』同様、本書の面白さは結論にではなく、結論に導いていく課程(*過程)にあるからである。

 吉薗資料の全面的提供をうけて詳細な解読と調査を行った著者の結論は、「吉薗佐伯」こそは、真作であり、これまで「佐伯作品」とされてきたもののほとんど、ないし多くは、画家の未亡人・佐伯米子が夫の作品(真作)に加筆して完成させたもの、他者が描いた作品に米子が加筆したもの、であるというのだ。この驚天動地の結論が、著者の綿密な解明をへて導きだされている。

 これだけでも大変なことだが、著者はさらにこの調査から、吉薗周蔵という、これまで未知の人物を歴史の闇の中から浮かびあがらせる。なんと、それは上原勇作元帥の「草」(陸軍特務=スパイ)として、幅広く複雑な人脈を持ちながら、市井に暮らした人物だった、というのである。吉薗周蔵の人物像がはっきりしてきたことは、美術に関してもこれからいろいろな情報をもたらしそうで、興味がつきない。

 さて、この著者の「吉薗佐伯真作説」に対して、「贋作説」を唱えてきた美術史家、美術研究者、美術館学芸員、画商たちは、いったいどのような反応を示し、対応するのだろうか? この著者の調査・研究・推理は、本書でみる限り、かなり綿密で本格的だから、客観的に言って、反論は簡単ではないにちがいない。部外者の僕は、無責任に、どっちも頑張れ、と言っておこうか。どっちも頑張れ、ただし真面目に、だ。
・・・略。

 【2007/12/07 15:31】 | 読書日記

 *****************

 ●『書棚の隅っこ』  出久根達郎 リブリオ出版1999.1.20 1500円
 (*初出は、『週刊新刊全点案内』 1997.10.7号~1998.9.29号)
 後、★『人は地上にあり』と改題されて文春文庫として、刊行される。(2002年9月)

 以下、全文を紹介する。

 **************

 ● 草

 「佐伯祐三が、はげしく私を奪って止まない所以は、モラリスト(風俗批評家)としての彼の独自な姿勢が位置の確かさの上にあって、比類ない美をわれわれに提起していることに、職として由る。」
 「佐伯は明治三十年大阪に生れ、大正五年北野中学校を出ている。(略)大阪のもつ庶民的な反逆の精神。そして文明への高貴な憧憬の感情。彼の体液(ユムール)を流れるこの二つの要素の上に彼のプチ・ブルジョワヘの深い愛情がその独自の芸術となって燦然と輝いているのである」 (安西冬衛「佐伯祐三の位置とその意義」)。

 佐伯祐三真贋騒動を、ご存じだろうか。
 福井県武生市に、吉薗さんという女性から、佐伯の絵が寄贈された。一点ではない。油絵やデッサン、書簡など百八十点もの大コレクションである。しかも、どれも今まで世に知られなかった作品だから、大騒ぎになった。

 武生市は約四億円をかけて、佐伯祐三美術館をこしらえ、これらを受け入れることにした。
 そこに横槍が入った。★東京美術倶楽部が、コレクションの中の一点は、以前、美術倶楽部で鑑定ずみで、真物ではない。他の作品もきわめてうさんくさい、と武生市に申し入れたのである。東美と略称で呼ばれる美術倶楽部は、★有力美術商の団体で、定期的に鑑定委員会を関いている。美術業界では東美の鑑定証がないと、取引対象にならない。つまり、それほど権威がある。
 ところが武生市が委嘱した、美術評論家の河北倫明氏ら、いわゆる専門家側の鑑定は、贋にあらず真である、だった。
 
 真っぷたつに、評価が割れたのである。これは、きわめて珍しいことで、そもそも美術界においては、両者は持ちつ持たれつの関係で、対立するはずがない。一体、何があったのか?
 
 というわけで調査に動いたのが、★落合莞爾氏。その報告書ともいうべき本が、『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』(時事通信社・本体価格二五〇〇円)。
 奥付の著者紹介によれば、落合氏は昭和十六年生まれ、東京大学法学部卒。経済企画庁調査局部員を経て、野村証券入社。昭和五十三年に落合莞爾事務所を設立。株式会社新事業開発本部社長とある。著書に『ドキュメント真贋』他。
 
 まず佐伯祐三とは、どういう画家なのか。『新潮日本人名辞典』によると、明治三十一年生まれの洋画家である。大阪の寺のむすこで中学時代から油絵を始めた。東京美術学校を卒業し、フランスに渡る。ユトリロに感動、帰国し、二科展に出品、二科賞を受賞。昭和二年再渡仏、「郵便配達夫」「ロシアの少女」等を制作。昭和三年六月、神経を病んで、パリ郊外の入院先で客死した。三十歳であった。
 教科書などで一度は目にしたことがあるはずである。黒い制服を着たヒゲの老人が座っている図の「郵便配達夫」、あるいは、落書のように、いろいろな文字が書きちらされたドアを描いた「レストランの入り口」。 
 若くして亡くなったために、残された作品の教は少ない。そのため佐伯の絵は、岡鹿之助や岸田劉生につぐトップクラスの評価で、十号のもので二億教千万円といわれる。
 
 武生市は困惑した。いろいろなことが、わかってきた。吉薗さんは先に岩手県の遠野市に寄贈を申しこんだのだが、断わられていたのである。遠野市は吉薗さんの現住地である。遠野市に佐伯祐三の作品がある、ということがまず疑われたのだ。しかも今まで全く知られていない作品が、百数十点もあるとは。
 何より怪しまれたのは、吉薗さんの父周蔵のコレクションというが、周蔵の★経歴がさっぱり不明だということであった。
 調査によると、吉薗氏の伝記なるものはあるが、記述に信頼性がない。フランスに行ったというが、渡航記録がない。海外で活動したというが、客観的な資料は皆無である。要するに正体不明の人物である。
 
 武生市は結局、絵を持ちぬしに返し、寄贈話はなかったことにした。善意で話を持ちこんだ吉薗さんには、面白くない結果になった。さまざまな事も言われた。そこで吉薗さんは、落合莞爾氏に真贋事件の真相調査を依頼した、というわけである。
 
 落合氏は早速動きだす。まず吉薗周蔵という謎の人物を探る。佐伯祐三の絵が本物か否か、より、佐伯と吉薗がどのような関係を持っていたのか判然すれば、何もかも解決する。
 そして明らかになった事実は、まことに驚くべき一人の人生であった。
 吉薗周蔵は歴史の表に現れなかったが、裏では、さまざまの階層の人物と交流が深かった。陸軍参謀総長の上原勇作、西本願寺門主の大谷光端、首相の山本権兵衛、満映理事長というより大杉栄、伊藤野枝らを殺害した甘粕正彦、陸相の荒木貞夫、陸軍大佐でのちに行方不明となった辻政信。画家の藤田嗣治、ジャン・コクトー、熊谷守一。また共産党の徳田球一。医学者の呉秀三。日本医師会会長の武見太郎。元日銀総裁の渋沢敬三。
 
 こういう幅広い交遊を持つ人の仕事とは、一体何であるか、見当がつくだろうか?
 吉薗周蔵は大正六年八月、上原勇作から妙なことを頼まれた。佐伯祐三という少年が、美術学校に入学するため上京するが、面倒をみてくれ、というのである。佐伯は北野中学出身の秀才で、大谷光端が目をかけていた。佐伯の生家は本願寺派の寺である。大谷は佐伯を★「草」(スパイ)として育成したい、と吉薗に言った。ついてはバックグラウンド作りに協力してほしい。「草」として活動するには、世間に通用する表看板が必要で、佐伯の場合は一流画家でなくてはならぬ。彼が一流に育つよう、何かと配慮を願いたい、と頼んだ。

 吉薗は自分が佐伯とは旧知の間柄に「作らねばならなかった」。まず出会いだが、武者小路実篤を利用することにした。吉薗は若いころ武者小路の「新しき村」で、手伝いをしていたことがある。佐伯は武者小路のファンであったので、武者小路の『その妹』を読んで感動し、画家になれなかった主人公の代わりに自分が絵の道に進んでみようと思う、というファンレターを書いたことにした。その返事を吉薗が武者小路の代筆で認め、そこで二人の文通が始まったという筋書をこしらえた。実際に吉薗は「新しき村」で、読者からの手紙の返事書きをしていたのである。
 佐伯の絵は、妻の米子が加筆している事実が判明した。佐伯作品の再検討が始まる。そうなると美術商たちは恐慌をきたす。贋物(ニセ)とわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れているからだ。十号数値の佐伯作品となれば、画商の経済的破綻は必至。「吉薗資料」の抹殺をはかるわけである。
 なお、「草」とは、スパイの意味である。佐伯を「草」に仕立てた吉薗周蔵も、もちろん当時の陸軍の「草」だったのである。

 <完>。 

 【2007/12/07 15:36】 | 読書日記 | 再録。

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 (『「佐伯祐三」真贋事件の真実』 p 380~)に河北倫明に関して次のような記述もある。

 4 河北は知っていた

 匠秀夫の「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」に河北倫明の序文がある。その末尾を掲げる。

 「・・・すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受け取っている。匠さんのこの本が、この異風の人物にも一定の照明をあてる機会を作って下さったことを、喜ばずにはいられない」

 吉薗明子は河北と知り合って以来、次のような話を何度も聞かされたが、ついにその意味が分からなかった。「まあ、焼物なんかは、ぼくは芸術と認めていないから、あれでも良かったんだが・・・絵画は芸術だからねえ・・・とにかく佐伯なんかどうでもいい。ぼくは佐伯なんて大嫌いだよ。・・・それより周蔵だ、吉薗周蔵のことが分かれば、すべてはっきりするんだ。とにかく周蔵を調べろ」

 明子はそれを、河北が「嫌いな佐伯だが、無理に応援してやっているんだ」という恩着せと理解し、そのたびに何かと御機嫌をとった。それにしても、河北がいつも焼物のことだけを持ち出すのが、不可解だった。

 実は、河北は最初から吉薗周蔵について知っていた。

 それは佐藤雅彦を通じたものだった。佐藤雅彦は父の進三が京都の出身で、自身も京都住まいが長かった。河北が京都国立博物館長を勤めていた永い間を通じ官舎には入らず、高級和風旅館の柊屋を常宿にしていた。佐藤は美術館行政のボス河北の知遇を得、京都でさらに昵懇の間柄となり、その政治力を活用しながら、茶道関係とも深い関係を持ち、真倣ともどもに陶磁を動かしていた。その中には奉天古陶磁(ホンモノ)も、かなり多かったのではないか。

 古美術の談義は、来歴から始まる。佐藤は紀州古陶磁を河北に説明するに際し、関係者として吉薗周蔵の実名をあげ、小森忍から聞いた話を詳しく伝えた。河北が吉薗明子が周蔵の遺児と知ったとき、何とも不思議な態度を見せた鍵は、ここにあった。

 昭和61年頃、佐藤雅彦から、元首相も臨席するというパーティーに招待された池田チヤは、和服を新調して出掛けてゆき、席上で河北倫明と画家の稲垣伯堂に会った。チヤは旧知の河北からかねがね、稲垣はやがて文化功労者になる手腕と聞かされ、作品の購入を勧められていた。河北が佐藤と稲垣を従え、元首相のいる前でチヤに、「佐藤君の所の図譜は中途半端だから、真贋を区別するのに、役にたたない。佐藤君から聞いたがおたくには吉薗周蔵が奉天で写した本があるそうだが、それを持ち出せば本物の説明ははっきりとつくから是非稲垣君に見せてやっていただきたい」と頼んできた。その後、稲垣の絵を送ってきたがチヤはそのまま返却し、結局『奉天図経』を見せなかった、ということである。

 昭和62、3年頃、北海道立近代美術館が多数の中国陶磁器を購入したという噂を最近耳にした私は、そういえば稲垣画伯が「古陶磁を北海道美術館が数多く買いにきた」と語っていたことを、やっと思い出した。明細はさっぱり判らないが、その中には奉天伝来の秘宝もあるのだろうか、見てみたいものだと思う。

 佐那具や大連の陶雅堂窯、さらに大連市の夏案子で造られた倣古品や贋造品は、旧特務機関員らが、にわか茶人となって、茶室を舞台にして世間に売り込んだ。陶磁学者として1派をなした小山富士夫もそれに加わっていた。関東では、日本橋にあった某美術店と湘南の某料亭が、関西では有名な超一流料亭がその舞台である。湘南某駅の近くで、旧軍の特務機関員につながる女性が料亭を経営していたが、茶会にことよせて大量の佐那具物・満洲物を売っていた。日本橋某美術店も、その店頭に佐那具・満洲物の実物やポスターを飾り、古陶磁マニアに売りつけていた。佐那具物を目利きしていたのは、そつ当時東京国立博物館に勤めていた某専門家で今や世界的な陶磁学者になったが、若年の頃、某美術店のパンフレットに執筆していた。

 それを聞いた私は、にわかに覚るところがあった。平成3年、私は紀州文化振興会の『陶磁図鑑』に手紙を添えてその学者に贈呈した。通常なら、贈呈品が気に入らねば、受け取りを拒絶するか返送すればいいし、まあ受け取って置こうという気持なら葉書1枚の礼状を出すのが学者の慣例なのに、まるで反応がないので、何となく不審に思っていた。また、平成4年に岸和田市の展覧会のとき、たしかにその1派が贋作攻撃の背後にいることを実感した。人から「落合センセは何かで恨まれてるんと、ちゃいますか?」と言われたが、心当たりがなく首をひねっていたものだが、その謎がこれで解けた。私は自分でも気付かずに、倣造陶磁シンジケートの営業妨害をしていたのである。

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●『画商の眼力』を読む(2)。
●『芸術とスキャンダルの間』(大島一洋 講談社現代新書 2006・8・20)
  
 この本の第3章で、【佐伯祐三真贋事件】が採り上げられている。

 事件の経緯が要領よく、簡明に記されているので、以前にも紹介したが<略>部分が多かったので、これを少なくして、以下に再紹介する。

 「(長谷川によって)無意味にイニシャルのみで済ませられている人名」も実名での登場となる。

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 ●第3章 謎の佐伯祐三現わる―なぜ突然、大量に出てきたのか

 ★佐伯祐三とは 


 佐伯祐三はパリの下町風景を描いた天才画家として有名だが、昭和3年(1928)、肺結核のため、わずか30歳で客死した。美術学校時代を含めても、作画年数は10年間であり、実質的には5、6年と考えられる。彼の総制作数は5百点前後と見込まれているが、戦災で焼失したものもあり、正確にはわからない。贋作も多いといわれる。

 佐伯ブームが起こるのは昭和40年頃からで、10号大で2億円余と人気が高くなった。しかし、この事件が起きた平成6年頃には、佐伯作品は山本發次郎が蒐集した「山發コレクション」など、所有先はほぼ確定しており、新しく見つかっても、年に数点という程度だった。

 そこへ180点もの未公開作品が登場したのだから、美術界は大騒動になった。

 真作と判定したのが、当時美術界のドンといわれた河北倫明であり、贋作と判定したのが、画商の鑑定機関・東京美術倶楽部だったため、寄贈を受けた福井県武生市(現・越前市)を巻き込んで、マスコミの報道合戦が繰りひろげられていったのである。


 ★事件の発端 


 平成6年(1994)12月19日、「朝日新聞」は以下のように報じた。

 【佐伯祐三の大量未公開作品? 数10点中5点に「本物」判定】

 内容は、岩手県遠野市に住む女性から、佐伯祐三(1898~1928)の未公開作品38点の寄贈を受ける予定の福井県武生市が、専門家を集めた選定委員会を作って調べたというもの。選定委員は、美術評論家の河北倫明(座長)、京都国立近代美術館長・富山秀男、横浜美術館長・陰里鉄郎、東京国立文化財研究所美術部第2研究室長・三輪英夫、慶応大学名誉教授・西川新次の5人で、38点のうち5点を調べ、「佐伯の真作」と判定した。記者会見した河北は〈粗削りな面も見えるが、作品の質は今までの佐伯の作品に匹敵する〉と述べ、他の4人の委員も〈本物に間違いない〉と語った。

 ところが、この報道があった1週間後の12月25日、「毎日新聞」が社会面で大きく次のように放った。

 【えっ贋作? 「佐伯祐三」 関係者寄贈の未発表作 「新しすぎる」】

 【専門家鑑定で波紋 福井・武生】 

 「毎日新聞」は翌26日も社会面トップで追い打ちをかけた。

 【鑑定46点「すべて偽物」 佐伯祐三作品で確認 東京美術倶楽部】
 【真贋問題 全コレクションに波及か】

 東京美術倶楽部社長の三谷敬三と同倶楽部鑑定委員で日動画廊社長の長谷川徳七が、25日に記者会見をおこなったため、26日の各紙はみな一斉に報じている。以下、報道をわかりやすくまとめてみる。

 佐伯祐三の未公開作品を所有しているのは、岩手県遠野市の主婦・吉薗明子で、父親の周蔵の遺品のなかから見つかったものである。吉薗周蔵は東京で精神カウンセラーをしていたが、生前の佐伯を経済的に援助していた関係で、油絵、デッサン、書画など約2百点(以下、これを吉薗油彩と呼ぶ)と多量の手紙や日記など(以下これを吉薗資料と呼ぶ)を保管してきた。

前年(平成5年)の2月に美術商を介して、油絵16点、水彩画30点が鑑定のため東京美術倶楽部(以下、東美と略す)にもちこまれた。東美では、10人による鑑定委員会を開いて調査した。2カ月間科学的にも慎重に検査した結果、すべてを数年以内に描かれた贋作と鑑定した。そのうちの1点「モランの風景」(仮称)が武生市の公開したものと一致した。

贋作とした理由は次の3つ。

①キャンヴァスが最近の画布にしか使われないテトロンを含んでいる。
②絵具が酸化していない。
③画布を打ち付けた釘が錆びていない。

【東美社長・三谷敬三の話】
 われわれの見識として偽作と判断した。武生市が独自の判断で購入することは自由だが、われわれの業界では一連の作品はいっさい取り扱いません。
【美術評論家・朝日晃の話】
 20数年間、佐伯の研究を続けているが、佐伯の周辺で吉薗という名を聞いたことはない。
【河北倫明の話】
 鑑定委員会は、佐伯作品がたくさん出まわると絵画市場が混乱するから、そんなことを言っているのではないか。
【武生市・小泉剛康市長の話】
 (作品に対して)いろんな声が出るのは当然。ただ、私としては選定委員の意見に重きを置き尊重する。

 ★他市へも話をもちかけていた
 <略>。 吉薗明子が平成6(1994)年宮崎県都城市や遠野市にも寄贈の話を持ちかけていたという。   


 ★キャンヴァスの鑑定と資料鑑定 


 東美が贋作の理由として挙げた3つのうち、②と③は修復家たちのコメントで否定された。つまり、絵具の酸化から年代はわからない。
 また、作品完成後にすぐ木枠からはずしてしまえば釘の錆は残らないので、錆がないからといって、最近の作とは断定できない、というものであった。

 残ったのは①のキャンヴァスにテトロンが含まれているかどうかだった。
 そこで武生市は、寄贈品の画布の一部を切り取り、某鑑定機関に鑑定を依頼した。その結果、キャンヴァスからテトロンは検出されなかった。
武生市は広報でこの結果を大きく報じたが、これで吉薗資料がホンモノと決まったわけではない。
 だいたい贋作を作るのに、すぐばれるような新しいキャンヴァスを使う者がいるだろうか。
 次に吉薗資料の公開を求める美術関係者の声が上がったが、武生市は個人的な情報が多くて混乱をきたすとして、公開を先延ばしにする。
 4月14日、武生市は第2回の選定委員会を開いた。河北座長は病気のため欠席したが、新たに市の嘱託となった
小林頼子特別学芸員が参加した。彼女は西川新次選定委員の推薦で加わることになった。以後彼女の調査が武生市を最後まで引っ張っていくことになる。
 (この第2回委員会では、①今後も調査研究を続ける。②吉薗資料の筆跡鑑定を早急におこなう、の2点だった。なお選定委員会は名称を調査審議委員会にあらためる。)
 
 ところがその後、急に武生市の態度が変わっていく。
 8月と9月初めの武生市の定例記者会見で以下の3点が発表された。

①「佐伯美術館」の名称を「市公会堂記念館(仮称)」に変更する。
②吉薗コレクションを11月に公開できるかどうかは、美術館準備室に判断をゆだねる。
③吉薗資料は、8月13日に吉薗明子に返却した。

 この発表を見ると、明らかに武生市は後退姿勢である。「吉薗油彩」の38点まだ預かっているものの、それを公開できるかどうかわからないと言っている。「吉薗資料」も明子からの要求で返却したようだが、それでは筆跡鑑定ができない。つまり、鑑定する必要がないと言っているも同じである。

 じつは、9月12日、密かに東京で第3回調査審議委員会が開かれていた。
 その席で小林頼子特別学芸員が「吉薗資料の信憑性は疑わしい」と報告したのである。これを受けて武生市は、資料が疑わしいなら、作品も疑わしいと判断したのだろう。
 吉薗油彩38点の返却を決定し。同月26日の市議会で承認を得ている。 


 ★河北倫明の死 


 平成7年10月30日、河北倫明が入院先の順天堂医大病院で亡くなった。80歳だった。
 「週刊新潮」平成7年12月14日号は、以下のような特集を5ページに組んだ。

 【美術評論家 河北倫明氏死去で遺った佐伯祐三「贋作」騒動】
 この記事で注目されるのは、吉薗明子の過去の事件である。それは、彼女が鎌倉に住んでいたころ、知人の指圧治療院の経営者から詐欺まがいの方法で2億5千万円の借金をして逃げ、最終的に2億3千万円の返済で示談になったというもの。吉薗明子は返済金の2億3千万円をどう工面したかというと、武生市に買い上げられる予定の吉薗油彩11点を武生市の実業家に4億で買ってもらったという。また、明子所蔵の青木繁が河北の解説付きで売られたという話もあるとして、河北倫明は「佐伯祐三贋作騒動」でその晩節を汚した、という内容である(落合はこの記事に細かく反論しているが、煩雑になるので省く)。 


 ★米子(よねこ)夫人が加筆


 11月12日、地方新聞に、えっと驚く記事が載った。たとえば、「福井新聞」。
 
【佐伯祐三の絵に加筆 故夫人、書簡で告白?」
「中日新聞」「東京新聞」「産経新聞」も同じようなタイトルで、以下のような故・米子夫人の手紙を掲載した。

秀丸(佐伯の幼名)そのままの絵ではだれも買って下さらないのです 私が手を入れておりますのよ 秀丸もそれをのぞんでおりましたし・・・
画つらの絵のぐや 下じの厚いものには ガッシュというものをつかい 画づらをととのえ また秀丸の絵の具でかきくわえますでしょう すこしもかわりなくよくなりますのよ・・・
秀丸はほとんど仕上げまで出来なかったのです・・・あなたのお手先にあるもの
私が仕上げれば すぐに売れる絵になりますのよ

これは、落合が共同通信の記者を通して筆跡鑑定に出したものが真筆という結果が出たため、共同が配信したのである。この手紙は、佐伯米子が周蔵に「佐伯作品をゆずってくれ」というもので、吉薗資料のなかには同様のものがいくつもあった。ただし、これらの手紙は武生市には渡していなかった。

 落合は、周蔵あての佐伯と米子の手紙を分析し、次のように推測する。

 佐伯の作品に対する米子の加筆は、第一次バリ留学時代の途中から始まったようである。(略)幼少から北画を習っていた米子は、大胆な構想力に富み、荒々しいタッチの佐伯の原画をグアッシュで修正した。細い面相筆を用いた米子の修正で、佐伯の原画はずっとアカデミック寄りになった。すなわち大衆分かりする、こぎれいな雰囲気になった。周囲でむしろその方を誉める声が高まると、今度は祐三は複雑な心境に陥ったらしい。


★武生市の結論


 11月13日、最後の調査審議委員会が開かれた。故・河北倫明をのぞく4人が出席し、小林頼子特別学芸員の報告がなされた。結論から言えば「吉薗資料の信憑性に否定しがたい疑義が生じた」というものである。

 最初から贋作報道の気流だった「毎日新聞」は11月14日付で以下のように報じた。

 【佐伯祐三真がん論争 福井・武生市へ寄贈の38点 市調査委も「偽作」判断】
 内容は、これまでの経過を説明したあと、陰里鉄郎委員の次のようなコメントを紹介している。
「当初は信ぴょう性について肯定的な意見を述べたが、逆の結果になった。100%がん作とは言わないが、それに近い」

 この結論を受けて、12月22日、吉薗油彩38点は明子に返却された。調査審議委員会が示した疑義の項目はたくさんあるが、とても全部は紹介できないので、重要な以下の2点について、落合の調査結果を要約したい。

①吉薗周蔵は佐伯を援助するほどの資産家ではない。
②吉薗周蔵の渡航記録が見つからない。

 落合の調査は徹底している。吉薗家の戸籍、家系図を調べ、親戚関係の書簡やメモを探り出して、周蔵の経歴を洗う。やがて周蔵手記を発見し、驚くべき事実を確認するにいたる。


 ★スパイだった


 まず①について。
 吉薗周蔵は、明治27年(1894)宮崎県小林村生まれ。実家は資産数十万円の豪農だった。
 周蔵の祖母・ギンヅルは、海軍の総帥・山本権兵衛と強いコネがあった。また、彼女は陸軍大臣・上原勇作中将(映画俳優上原謙=加山祐三の父=は孫にあたる)の叔母であり、大スポンサーだった。その関係で、大正元年(1912)8月、周蔵を上原勇作に会わせた。周蔵は上原に「草ヲ命ズル」と言われる。つまり、陸軍のスバイになれということである。周蔵は熟考のすえ、これを引き受ける。熊本医専の麻薬研究員の助手となり、上原の命令でケシの栽培を始める。ケシ栽培は順調に進み、急速に上原の信用を得ていく。

 ケシから採取した純質アヘンはすべて上原勇作に届けたが、その見返りとして、政商・久原房之助が経営する久原鉱業関係の売店にタバコを納入する利権をもらい、帳簿操作だけで毎月5百円(現在の4百万円相当)を超える利益があった。佐伯祐三は始終、周蔵から金を借りた。周蔵は金に頓着せず、毎回貸し与えた。その代わりに絵をもらった。

 後年もずっと佐伯の絵を買いつづけるというかたちで援助した。つまり、周蔵は表向きにできない仕事で巨額の収入を得ていたのである。ただし、それを誤魔化すために、表面上は食料品を扱うよろず屋を装っていた。


 ★他人になりすまして渡航 


 次に?について。
 周蔵が最初に渡欧したのは大正5年である。そのころ、陸軍参謀総長に就任していた上原勇作大将は、陸軍の特務活動に従事していた石光真清少佐に、周蔵の欧州までの送迎を命じた。2人とも久原鉱業の技師になりすまし、周蔵は武田内蔵丞、石光は遠藤と偽称して渡航手続きをした。実在する社員の名前を拝借したものである。

 ウィーンに着いた周蔵は、ウィーン大学のラントシュタイナー血液学教室の助手を買収し、血清学理論の個人講義を受けた。そのあと、ドイツ、フランス、イギリスを経て、大正6年6月に帰国した。周蔵は現在の中野区中央あたりに「救命院」の看板を掲げて精神カウンセラーを開業する。これは全国でケシ栽培を展開するためのアリバイ作りが主な目的だったが、この救命院の患者に佐伯祐三がいた。ちなみに、佐伯祐三が美術学校に入れたのは、周蔵が山本権兵衛に頼んだおかけで、いわゆる「裏口入学」だった。

 昭和2年9月、周蔵は元帥になっていた上原からふたたび欧州出張を命じられる。今回は煙草小売商・小山健一の名前で渡航手続きをした。シベリア鉄道経由でパリに着き、佐伯祐三と会う。このとき、周蔵は佐伯に3千円渡し、その対価として日本へ絵を送るよう約束をした。それが、周蔵が佐伯と会った最後である。

 周蔵は翌3年4月シベリア鉄道で帰国した。その2ヵ月後に佐伯は客死する。周蔵がパリで佐伯に会ったときは元気そうだったので、落合は佐伯の死についても疑問を呈している。

 周蔵の渡欧はスパイ活動であったから、渡航申請は他人名義でおこなったのである。


 ★武生市との対決 


 調査を終えた落合莞爾は、武生市との全面対決を公開する。武生市が出した「美術館準備室報告書」の疑義項目は24にのぼる。落合はそれらすべてに反駁した。
 平成8(1996)年6月28日、武生市役所の市長会議室で、まず市側が「準備報告書」を発表し、そのあと、隣にある生涯学習センターで、落合が「反駁報告書」を発表した。
その模様は福井テレビで放映された、
 しかし、翌日の新聞各紙はつれなかった。落合の反駁を取り入れたのは、「朝日新聞」と「読売新聞」のみで、他紙は武生市の報告だけを載せ、〈贋作の可能性高い〉〈真作でない〉と書いた。武生市との共同発表ではなく、時間と場所を変えた単独発表だったために、落合反駁会見の印象が薄くなってしまった面があった。


 ★告訴と裁判結果   

 
 テレビ東京系の番組「開運! なんでも鑑定団」でおなじみの中島誠之助は平成8年5月に出版した『骨董の真贋』(ニ見書房)のなかで、吉薗佐伯について次のように書いた。

 冷静に考えれば、そんな場所に佐伯祐三の絵が大量にあるわけがないのです。そんなことは、ごく初歩的な約束事であって、それがわからないようではどうしようもありません。嘘の話は大きいほどひっかかりやすいものなのです。

 この記述にたいして吉薗明子は、名誉毀損で6百万円の損害賠償を請求する訴訟を起こした。

 この裁判結果は、平成14年(2002)7月30日に出た。東京地方裁判所は、吉薗佐伯絵画コレクションのすべてを贋作と判定したのである。

 「朝日新聞」の平成14年11月1日付夕刊は「美の魔宮」と題する連載の中篇で、以下のように書いている。

 裁判では、6点の鑑定が行われた。結果、「これまでの佐伯作品と、顔料やメディウム(媒材)が異なる」「当時、大量生産されていなかった白色顔料が含まれていた」などが明らかになった。

 このように裁判で贋作と判定されたのに、ネット上ではいまだに真贋論争がたえず、判決そのものを否定する見解もある。

 筆者(大島)に真贋を判定する力はない。ただ、もし絵は贋作だとしても、あの大量の「吉薗資料」はいったい誰が書いたのだろうか。資料は本物で絵は贋作なのか。謎の多い事件である。


 ●『芸術とスキャンダルの間』  <了>
 

 

●『画商の眼力』を読む(1)。
                  画商の眼力_1

                  天才画家佐伯祐三真贋事件の真実_1


 ●「次回は、『日本を動かした大霊脈』 中矢伸一(2002年徳間書店)を読んでいく。」・・・

 予定だったが、その前に『画商の眼力』 長谷川徳七(講談社 2009年1月刊)の紹介をしておく。

 書店で偶然に手にしたものだが、その第四章は、

 ★<私が見抜いた贋作> とあり、「佐伯祐三真贋事件」について語られていた。
  (*長谷川徳七は「世にいう『吉薗コレクション事件』です。・・・」という。)

 先ず、その部分の引用から。

 ***************  


 『画商の眼力』 長谷川徳七 講談社 2009年1月7日


 ●私が見抜いた贋作(p162~)

 ★佐伯祐三の贋作を目にして


 あれは確か1993年初頭、私がまだ東京美術倶楽部の鑑定委員に入っていた頃の話です。
 東京美術倶楽部とは、1907(明治40)年4月、美術商が集まり設立された株式会社です。
 設立当初は、お茶の道具や古美術を扱う骨董商で主に組織され、その後、日本画も取り扱うようになり、作品交換の場、売り立ての場として活用されました。
 近年になって洋画も扱い始めましたが、洋画については歴史が浅く、また組織の中に洋画がわかる人間がほとんどいなかったため父(*日動画廊の創業者・長谷川仁)が呼ばれ洋画を扱う会を始め、さらに後年、洋画の鑑定会も行うことになり、私も鑑定委員として加わっていました。

 ある日、鑑定会に行くと部屋に変な絵がずらっと並んでいました。
「ちょっと、これ何です?」と、そばにいた鑑定会委員長に尋ねたところ、興奮した面持ちでこう言いました。

 「見ればわかるでしょう。佐伯祐三だ」
 「バカを言っちゃいけません,こんなの佐伯祐三が泣きます。話になりませんよ」

 油絵が30点近くと、水彩も20点ほどありましたが、水彩など、たった今描いたように丸まっていたからです。それよりも何よりも、絵がまるで佐伯祐三とは違いました。

 委員長はさらに続けました。
 「いや、そうはいっても、
Y先生☆がいいと言ったんだ」
 「冗談じゃありませんよ。誰が言おうと、こんなのはダメです。断じて佐伯じゃありません」


 ★一歩も引けない「思い」 


 Yさんは二科の作家であり、佐伯祐三のコレクターで知られた実業家・山本發次郎さんの所蔵する佐伯祐三の55点の絵を管理していました。業界では、Yさんといえば、「佐伯祐三がわかる」ということで通っていました。
 ですが、今回のことについて一歩も引くつもりはありませんでした。
 日動画廊では没後10年ごとに佐伯祐三の回顧展を開催していましたし、佐伯その人に父は会ってはいないものの、奥様の米子さんとはその後、付き合いがありました。
 それに米子さんから佐伯のライフマスクを戴くなど、佐伯に関わってきた経緯がありました。
 私自身も佐伯祐三の回顧展を行い、特に没後40年の大回顧展は大成功をおさめたことで、山本發次郎さんの子息の靖雄さんも大変喜んでくれ、靖雄さんとは、それを機に密なお付き合いが始まりました。
 また、彼の亡くなる前に「コレクションを寄贈しようと思います」と相談をいただきました。そこで、55点のうち5点はご家族に、48点は大阪市の美術館、1点は三重の美術館、あと1点は国立近代美術館に寄贈といった具合に差配しました。

 こういった経緯がありましたので、佐伯祐三については妥協できない間柄であると自負するところがあったのです。

 私はYさんに電話をしました。

 「先生、絵を見たんですか?」
 「いや、長谷川君、あれはなかなかのものだよ」
 「何がなかなかなんですか?」と聞きましたところ、資料がどうこうと説明を始めるのです。どうやら、きちんとは見ていない様子でした。
 「先生、資料に騙されたらダメです。とにかく、ご自分の目でもう一回見てください。あんな変な佐伯祐三なんてないですから」

 数日してYさんから電話がありました。
 「悪かった。確かにあれは間違いだ」 と、Yさんは誤りを認めました。 


 ★大量の「ニセモノ物証」 


 Yさんが現物をしっかり確認せずに、そう判断したのも理由がありました。ここでは
Kさん☆としておきますが、評論家であり、美術館の館長を歴任し、全国の美術館人事に多大な影響力を持っていたキングメーカーが「本物」と言ったからでした。それに異を唱えることなど、とうていできはしない空気が形成されたのでしょう。

 ですが、よく考えれば、Kさんは日本画の評論家ではあっても、佐伯祐三に精通した第一人者ではありません。洋画でいえば、青木繁の画集を出しており、青木繁については権威ということになっていましたが、偽物2点にまでサインした過去があります。洋画に関する鑑定には残念ながら疑問符のつく人であったと、私は思っています。

 そのKさんも、ある意味犠牲者でした。大量の佐伯祐三の未発表作品を秘蔵していると名乗り出た、吉薗明子という人物が言葉巧みにKさんに取り入り、その言質をとったのです。

 世にいう「吉薗コレクション」事件です。☆「芸術新潮」1996年4月号などで、大きく報道されました。

 Kさんをはじめ、巻き添えとなった何人もの評論家たちが騙されてしまったのは、絵だけではなく、日記、書簡といった大量の「ニセモノ物証」です。

 これらの、絵をはじめとした作品を長らく秘匿していたのは吉薗周蔵。吉薗明子の父親でした。

 美術史家をはじめ、佐伯祐三の専門家たちは、初めて耳にするその名に戸惑いを隠せなかったといいます。

 佐伯の人生の横合いから不意に現れたこの男は、精神科医であり、佐伯の主治医であり、はたまたパリでの生活資金を出資したというほど、佐伯の人生に深く関わっていたといいます。

 そうでありながら、佐伯家の人間は吉薗の名を聞いたことがなかったのです。


 ★科学鑑定の結果は・・・


 当初、私はそうした手紙や日記といった資料にあまり興味を持ちませんでした。佐伯の全貌を知るうえでの驚愕の新事実として持ち上げ、興奮した口ぶりで語る人もいましたが、あいにく私には、ミステリーもどきのストーリー展開に関心はなかったのです。
というのも、この目で見た未発表の佐伯祐三の絵とやらが、あまりにも稚拙だったからです。
 贋作であることは一目瞭然。これを本物だと言っては画商の名折れであり、何より佐伯の画業を冒瀆することにほかならないとしか思えませんでした。

 当時、東京美術倶楽部の鑑定委員会では、私を含めた大半の委員が「吉薗コレクション」について否定的な意見を持っていました。
 しかし、書簡をはじめとした資料の存在から見極めに迷う人もいたため、絵画専門の修復家・
K・Mさんに科学鑑定を依頼することにしました。
 K・Mさんによれば、研究所に絵が運び込まれたとき、すでに独特の異様なにおいを嗅ぎとったといいます。それは以前、台湾で作られた梅原龍三郎の贋作を鑑定したときと同じ“異臭”がしたそうです。
 科学鑑定は全作品について丹念に行われ、2ヵ月を費やしました。結果は思った通り、「すべて偽物」でした。
 K・Mさんの「絵画調査報告書」によれば、油彩については「キャンバスが酸化していない」「下地が油性で佐伯のものとは異なる」「作品はまだ油のにおいがする」「絵の具は比較的に新しく、樹脂用溶剤に溶ける」とし、また水彩は70年も経てば水を弾くような変化を見せますが「いずれも水を吸収してしまう」とし、描かれてから数年しか経っていないこと
を立証しました。
 全面的に「クロ」の判定に一件落着と胸を撫で下ろしたのですが、そうはいきませんでした。

 この鑑定結果が、むしろ火に油を注いだかのように、吉薗コレクションをめぐる騒動はいっそう激しさを増していくことになったのです。


 ★おいしい話に感じた。“きな臭さ”


 吉薗コレクションをめぐる騒動で、皮肉なことに私は改めて自身が画商であることの強みを感じたものです。
 商売をしていると、あの手この手で人を騙そうとする魂胆の持ち主とときに渡り合うことになります。
 そういう人たちの言動には、多くの場合、特有のきな臭さを感じるものです。
 「吉薗コレクション」については、まさにそうだったと言えます。

 没後70年経って急に150点もの大量の作品が現れた。しかも、それは以前、吉薗が住んでいた千葉の寺の本堂に風呂敷で無造作に包まれていたといいます。
 「しかるべき時期に公開するように」という父親の遺書はあったものの、その風呂敷の中身が何であるかは知らなかったというのです。なんとも緩急のついたエピソードではないでしょうか。

 巧みなのは、「絵画を数点買ってもらったら、あとは寄贈する」と言って地方に働きかけ、美術館の設立計画を持ちかけたことでしょう。

 佐伯の真作は1点1億から2億円もします。数点といっても莫大な金額になるでしょう。

 「地方を活性化させる目玉になる」といったおいしい話やKさんのお墨付きを添えて、吉薗は宮崎県都城市や岩手県遠野市、福井県武生市(現越前市)に寄贈を申し出ました。
 3市はいずれも寄贈受け入れに動き始めたものの、詳しいいきさつは省略しますが、準備を進める過程で不審な点がいくつも浮き彫りとなって、計画はいずれも中止となりました。

 このうち、武生市が寄贈受け入れに進みつつあった
1994年12月、私は東京美術倶楽部の三谷敬三会長とともに開いた緊急の記者会見場でこう述べています。
 「油彩30点、水彩10点はすべて偽物と鑑定。そのうちの1点は、武生市が購入予定と公開したものと一致した」
 そして、東京美術倶楽部の会員には、「これらの作品を扱わないように」と注意を呼びかけました。

 これは一応、内輪に向けた警告の体裁でした。目先の欲得につられて右往左往している人たちに、今いちど冷静になってもらいたいという願いを込めたのです。
 この記者会見後、事態はいよいよ醜悪な展開を見せることになりました。武生市が5億円で購入予定にしていた作品11点を、こともあろうに吉薗は不動産管理会社に4億円で売ったのです。「作品の散逸を防ぐためにはお金が必要」との説明が行われたといいますが、贋作の疑いに加え、信頼を損ねる行為を問う声の高まりから、武生市もついに計画を断念しました。

 こうして、多数の人を巻き込んだ吉薗コレクション騒動もようやく幕引きを迎えたかに見えました。
 しかし、またしても安堵することはかないませんでした。

 最終的な局面にあたって、なんとこの真贋問題が法廷に持ち込まれ、東京美術倶楽部の鑑定が「虚偽」だと訴えられたのです。
 腕まくりして受けて立つのも、やふさがではありませんでした。しかし、そうはいっても裁判官に絵に対する造詣を期待するわけにもいきませんし、まして真贋を判断してもらうわけにもいきません。

 「見た感じが違う。だから佐伯祐三ではない」と言うのは簡単ですが、裁判では、それは通らないのです。
 ぐうの音も出ないほどの、はっきりした証拠を出さないかぎり、裁判で勝つには難しいのです。
 ただ、絵画の科学鑑定の結果は明らかでした。法廷で感性の話をしても仕方のない話ですが、データならば証拠として使えます。絶対に勝てるという自信は当初からありました。


 ★関西弁で書かれた「証拠の手紙」


 もうひとつの大きな争点は、古薗周蔵が佐伯祐三と交わしたとされる書簡、佐伯について詳しく綴っていると称する日記でした。

 被告として訴えられた私たちは、ひとつひとつそれら資料の依拠する証拠を根気よく潰していくために、吉薗周蔵の経歴と足跡について徹底的な調査を回始しました。

 まず吉薗周蔵がパリに滞在した際、泊まったというホテル・リッツを調べました。
 パリの老舗ホテルは戦前からの宿帳を保存してあり、日記に書かれた時期に宿泊したかどうかを調査したのです。
 ホテル側からは「そういう男は泊まっていない」との回答がありました。
 さらに、1924年から1928年にかけて、佐伯祐三がパリから日本へ送ったとされるハガキも偽造でした。パリの郵便美術館の担当者の証言によって、当時実施されていた郵便の規定の料金とも、消印ともまったく異なるものであることが明らかにされたのです。

 また佐伯祐三の出したというハガキの文面が大阪弁で書かれていました。
確かに佐伯は大阪出身です。ですが、大阪弁であろうと東京弁であろうと、東北弁であろうと九州弁であろうと、方言で手紙を書くなんていうことは、普通に考えれば違和感このうえありません。大阪出身だから大阪弁で書けば信憑性が高まると考えたのでしょうか。

 つまり日記も手紙も何者かによって、ことごとく偽造されたものでした。しかし、そんな調査も必要がなかったことが明らかになりました。

 
そもそも、吉薗周蔵はパリはおろか、日本国外に一歩たりとも出ていません。外務省が吉薗周蔵にパスポートを発行していないことがわかったからです。

 さらに、精神科医という職も経歴詐称でした。吉薗周蔵は九州の炭坑で働いており、東京に出てきてからは市電の運転士をしていました。戦争が激しくなると千葉に疎開、寺に寄宿しつつ、按摩と豆腐店で生計を立てていました。

 ここまで明らかになっては、
相手もさすがに、どう弁明したらよいかわからなくなったのでしょう。「吉薗周蔵は日本陸軍の特務機関で働いていました。そのため名前も変わっているし、パスポートも必要なかった」こんな苦しまぎれの抗弁をしてきたのです。

 2002年7月、東京地方裁判所は、吉薗コレクションのすべてを贋作と判定しました。吉薗明子が別件の詐欺事件で逮捕されてから、およそ3年後のことでした。

 ここまで大掛かりな贋作事件はそうそう見当たりません。そういう意味では、忘れがたい記憶になっています。 (p174) ***************

 
 以上でひとまず『画商の眼力』の引用・紹介は終わり、次に【眼力のレベル】をチェックしていく。
 
 文中、無意味にイニシャルのみで済ませられている人名を先ず特定しておきたいが、

 「事件」の経過を整理した格好の著作があるので、それを紹介するなかで、人名の特定も

 なされると考え、ここでは略す。  


 長くなりすぎたので、稿をあらためて、<続く>。 
  
 正直なところ、一読後私はこの著者に「哀れみ」を感じたし、編集者(著者と永年の付き合いがあるという)の編集能力のなさに同情も感じていたのだが、どうやら勘違いだったらしい。
 己の致命的な瑕疵については、巧みに隠蔽していることに気づいたからである。
 確信犯なのである。

 特に顕著な一例を挙げれば、「1994年12月、私は東京美術倶楽部の三谷敬三会長とともに開いた緊急の記者会見」の描写で、この「真贋事件」の最重要の争点=テトロン混入問題を無視していることである。これについては、後ほど詳しく述べる。

 最後にいま1点、<相手>の実名も挙げて批判する著者・長谷川特七は奇妙なことに、最大の<相手>の実名はおろか、イニシャルさえも挙げようとはしない。

 落合莞爾氏そのひとの。

 

●貴公子・堀川辰吉郎 (2)
                   日本を動かした大霊脈_1


 ●『中丸薫という生き方』(徳間5次元文庫 2008、1、31刊)<続>。

 ★生みの親、中島成子との再会を果たす  


 ある日、松村の父が私に、中島成子という女性の見舞いに病院に行くようにと言いました。その人は、かつて中国から東京まで飛行機で連れてきてくれた人であり、私の名前を付けてくれた人でもあると、聞かされていました。
 それまで、対日戦意を阻害した戦争犯罪人として北京で投獄されていましたが、それが中国側の人たちの訴えでようやく無実が認められ、釈放されて帰国したというのです。

 「戦争中、中国には匪賊、馬賊が横行していたが、中島さんが呼びかけると、いっぺんに3500人ぐらい、合計7500人が銃を棄てて帰順してきたものだ。中島さんはいつも、匪賊や馬賊は戦争孤児だと言って、彼らを収容し、自立できるように教え導いて、難民救済のために献身していたのだよ」
 そう説明されて、私が中島の「おばさま」のお見舞いに出かけたのは、1957年2月の寒い日でした。12年間にわたる北京での獄中生活での疲れがいっぺんに出たのでしょう。日赤中央病院に入院していました、私は花束を持って病院の門をくぐりました。松村の両親からは「名付け親」だと聞かされていましたから、そのときはまだ、その人が生母だなどとは夢にも思わなかったのです。

 父から聞いた番号の病室を探して、ドアをノックすると、「どうぞ」と力のない声が返ってきました。さして広くない個室で、窓際のベッドに青白くむくんだ顔の女性が上半身を起こし、枕に身を持たせかけるようにして、こちらを見ていました。その枕元に男性が―人いましたが、これは外務省の役人でした。中島成子の帰還を連絡された岸信介首相が、政府を通じて彼女を迎え、入院させたので、役目として付き添っていたのだと後で聞きました。
 「董です・・・」
 名乗ると、病床の女性は大きく目を見張り、私を見つめました。まだ50歳になるかならずのはずですが、すっかり老け込んだその顔が、見る間に歪んでいきました。私は吸い寄せられるようにベッドに近づいていきました。

 幼いとき、この人に抱かれたり、飛行機で日本海の上を飛んだりした記憶がはっきりと甦って、私はその手を握りました。途端に、彼女の瞼から堰を切ったように涙が溢れ落ちました。すると、私もたちまち視界がぼやけて滲み、熱いものが頬を伝わりはじめました。私たちは、一言も語りませんでした。ただ、黙って泣きました。外務省の人が、驚いて私たちを見比べ、すぐに廊下へ出ていきました。
「ずいぶん、大きくなったのねえ・・・」
 その人は、むせび泣きながら、ようやくそれだけ言いました。そして、私の握った手の上に手を重ね、堅く締め付けて、いつまでも身を震わせていました。

私は家へ帰ると、その夜、松村の父母にこの話をしました。中島の「おばさま」は、ただ泣くばかりで、私たちは会話らしいものも交わさず、手を握り合っただけだったことを。私もお見舞いの言葉すら忘れて泣いてしまったと話し、そして首をかしげながらつぶやいたのです。
「私、不思議でしょうがないの。自然に涙が溢れてきて、泣きながら、どうして私は泣くのかしら? と思ったくらいなの。ねえ、おかしいでしょう」
「そう、そうかい・・・」
 松村の父はくぐもった声でそう言っただけでしたが、その目は潤んで、『涙の露が小さく光っていました。母はうつむき、急いで目頭をおさえたのです。私の胸に、これまで考えてもみなかった思いが湧いて、それが急速に膨れあがったのは、このときでした。
「私、あしたもお見舞いに行く・・・」
「うん、そうしてあげなさい」

 翌日、私は日赤へ急ぎました。病室には、中島成子と同年輩の女性がいて、彼女は成子の故郷、栃木県の同村の生まれで、古い友人だと言いました。そして廊下の流しで茶碗を洗いはじめたのですが、私はその側を離れず、中島成子のことを矢つぎ早にたずねていました。

「ねえ、中島さんは小さい頃、勉強はできたんですか?J
「ええ、それはもう、ずっと級長さんでしたよ」
 根堀り葉堀りたずねるうち、私のもしかしたら? という感じは、いっそう強くなり、揺るぎのないもののように思われてきました。その質問で疑問を拭えたわけではありません。ただ、茶碗を洗っているその女性が私を見る目つき、口ごもる話し方、それらのすべてが、なにかを私に伝えてくるのです。それにも増してベッドの上の中島成子と向かい合うと、私たちの間に奔流のように激しく通い合うものが感じられるのでした。

 結局、私は真実を知りました。3日目、やはり病院に行かずにはいられなくて、病室をノックすると、最初の日にいた外務省の人が出てきました。彼は私の顔を見ると、目礼して席を外したのですが、その表情の中には、中島成子から私と彼女の関係を知ったに違いない雰囲気がありました。

 私は見舞いを終えた後、廊下でこの人に直接聞きました。やはり、中島成子が私の生みの母でした。私は一瞬茫然となりましたが、同時に松村の父母がこれまで私に尽くしてくれた数々の厚情を考え、涙ぐまずにはいられませんでした。

それにしても、私にとって、突然知らされたこの現実は重いものでした。そしてやがて日が経つにつれて、自分には両親が2組あったことを幸せだと思うようになりました。その4人が、それぞれ非凡なものを持つ、私が心から敬愛できる人たちであったことを、心から神に感謝せずにはいられませんでした。

 この幸運を与えられて誕生し、ここまで育てられた私が、いい加減に生きていいはずはありません。これからどんな苦しみが降りかかってくるかわかりませんが、私はそれを跳ね返し、必ずこの人生を意義あるものにしよう。自分自身にそう誓い、コロンビア大学に留学することにしたのです。
 

 ●『中丸薫という生き方』
  <了>

 *************

 ●『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』(徳間書店 2004、2、29刊)

 ★日中友好に奔走する両親のもとに生まれた私 p199~ 


 輪廻転生や因果についてより理解できるよう、ここで少し私自身の話をしましょう。
 私の人生はとても数奇で、密度の濃いものだと思っています。普通なら何回かの人生に分けて体験するようなできごとを、1回の人生で凝縮して体験しているような気がします。

 私は北京で生まれました。父が孫文の片腕として長い間行動をともにしていたため、母・中島成子も中国に渡っていたのです。父・堀川辰吉郎は、明治天皇と御側女官の権典侍・千草任子(ちくさことこ)との間に生まれ、井上馨に預けられた後、政財界の重鎮だった頭山満に教育されました。そして、自由民権運動に挺身する頭山満、伊藤博文らと行動をともにし、中国で革命活動を行っていた孫文が、日本に亡命して頭山のもとへかくまわれたのが縁で、孫文の片腕として中国に渡りました。

 孫文は父の姿を見て一目で気に入り、「日本の天皇の血を引く方がついてくだされば、革命は成功する」と言って、父が中国へ渡る許しを頭山に請うたそうです。父としては名誉な話でした。しかし、そのために父の首には孫文と同じだけの賞金がかけられ、中国の大地を孫文とともに駆け回ることになったのです。幸い、革命は成功して、孫文は中国からも台湾からも、「中国の父」とたたえられているのは皆さんご存知のとおりです。

 一方、母は母で、抗日運動が高まる中国大陸において、日中両国の対立によって急増する難民の救済事業に貢献し、北京の屋敷は2000人を収容できる難民宿泊施設と化していました。母は私をおなかに宿していたときも、内蒙吉徳王政府工作のため、馬にまたがってゴビ砂漠を往復したといいます。その血潮を、おなかの中にいた私も感じたに違いありません。なぜなら私も後に結婚して最初の子どもを宿したとき、飛行機を乗りついで世界中を飛び回ってレたからです。

 私が生まれたとき、北京の屋敷には大きな長持で20棹にも達する豪奢な反物や珠玉の装身具など、中国の富豪たちからの高価な祝いの品が、次々と運び込まれたそうです。私はまるでお姫様のように扱われていたのです。
 ところが、生まれて45日目で盧溝橋事件が起こり、日中関係は不穏な雲行きに包まれました。中国から絶大な信頼を得ていた母は関東軍(日本軍)に必要とされ、私は母の手から引き離されました。預けられた先は、当時北京大学教授だった松村正之とその妻・ちかの家です。松村の屋敷では、朝、目を覚ますと必ず中国人医師がべツドヘ来て脈をとるという、何不自由ない、温室のような生活を送っていました。


 ★育った環境からごく自然に国際政治評論の道へ


 父と母の日中友好への努力もむなしく、日本は太平洋戦争へと突入し、私は6歳のとき、松村の父母とともにあわただしく日本へ引き揚げてきました。そして、松村の父母の故郷である山梨県甲府市に落ち着いたのです。
 北京のお屋敷暮らしとはうって変わって、そこでの生活は素朴でつつましく、大自然の中でのびのびと過ごすことができた私は、病弱だった北京での日々がウソのように、すっかり日に焼けた健康児になりました。戦争で食料は欠乏していましたが、松村の父は畑を借り、自分でそれを耕してジャガイモを育てていたので、家族が空腹を感じることはありませんでした。

 あるとき、甲府の町が絨毯爆撃の標的となり、市街の大半が一夜にして廃墟と化すというできごとがありました。私の家は幸い被災を免れましたが、焼夷弾がパラパラと降ってくる恐怖は、今もはっきり覚えています。そして8月15日、避難していた薄暗い土蔵の中で玉音放送を聞いたときの、身の引き締まる思いは今も忘れられません。小学校2年のことでした。

 終戦の直前、母・中島成子は、延安に野営する毛沢東のもとへ馬を走らせていました。そして、延安に到着するとまもなく、日本の無条件降伏という悲しい知らせを受け、そのまま戦犯容疑で獄中に入れられました。日中両国の平和のために東奔西走していた母にとって、容疑の晴れるのをじっと待つ日々は、どれほど辛かったことでしょう。・・・以下略・・・p202 

 ●『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』  <了>   

 次回は、『日本を動かした大霊脈』 中矢伸一(2002年徳間書店)を読んでいく。


 


●貴公子・堀川辰吉郎 (1)
 ●疑史(第53回)上原勇作(5)の章末はまた、堀川辰吉郎への言及だった。

「・・・上原の背後には杉山茂丸が、その杉山の陰には貴公子・堀川辰吉郎が居た。後年の上原が頭山満・中野正剛ら玄洋社勢力を秘かに、しかし有効に使役していたことがその何よりの証拠である。結局、堀川こそ日本近代史の最大の謎と言ってよく、堀川を無視しては何も見えてこないのである。」と。

ウィキペディアにも項目はあるが、それは略し、ここでは、中丸薫の著にみえる「堀川辰吉郎」を紹介していくことにする。

順不同になるが、手元のものから、始めていく。

 ***************

 
 ●『この国を支配・管理する者たち』(徳間書店 2006、2、28刊)

 ★日本の皇室


 曰本が敗戦したときに、マッカーサーは日本の皇室は廃止するといっていたようです。それを
父堀川辰吉郎がマッカーサーに出会って、それをすると曰本の最後の一兵まで戦うから、それは避けて、皇室、天皇を通して間接統治にしないと、この国はおさまりませんということで説得したそうです。
 そのとき、3つの方法があった。皇室を廃止するというのが第1チョイスです。第2チョイスとして、アメリカの間接統治。もう1つは、ほうっておけば自然になくなっていくという方法です。
 今、宮内庁はその方法をとっていて、皇族のために何かをするという気持ちはないのです。宮内庁は本当に表面的なことしか知らないで、顔はアメリカ政府に代表される闇の権力のほうに向いている。そういう意味で、あの中はこれからが本当に大変です。
 ホリエモンは闇の権力の使いっ走りだから、曰本の皇室は廃止したほうがいいんじゃないかとはっきりといい出しているようです。
 私からいわせると、曰本の皇室は、ヨーロッパの黒い貴族が勝手に自分たちは皇室だとつくったようなものとは違う。制度としては、天照大神の神託を仰ぎながらやってきている。よそとは比較できない。
 個人的には、ロスチャイルドもロックフェラーも、皇室に対するあこがれはものすごくあるのです。自分たちにはないものがあるから、すごくあこがれています。 p144 ーサーは日本の皇室は廃止するといっていたようです。それを
父堀川辰吉郎がマッカーサーに出会って、それをすると曰本の最後の一兵まで戦うから、それは避けて、皇室、天皇を通して間接統治にしないと、この国はおさまりませんということで説得したそうです。
 そのとき、3つの方法があった。皇室を廃止するというのが第1チョイスです。第2チョイスとして、アメリカの間接統治。もう1つは、ほうっておけば自然になくなっていくという方法です。
 今、宮内庁はその方法をとっていて、皇族のために何かをするという気持ちはないのです。宮内庁は本当に表面的なことしか知らないで、顔はアメリカ政府に代表される闇の権力のほうに向いている。そういう意味で、あの中はこれからが本当に大変です。
 ホリエモンは闇の権力の使いっ走りだから、曰本の皇室は廃止したほうがいいんじゃないかとはっきりといい出しているようです。
 私からいわせると、曰本の皇室は、ヨーロッパの黒い貴族が勝手に自分たちは皇室だとつくったようなものとは違う。制度としては、天照大神の神託を仰ぎながらやってきている。よそとは比較できない。
 個人的には、ロスチャイルドもロックフェラーも、皇室に対するあこがれはものすごくあるのです。自分たちにはないものがあるから、すごくあこがれています。p144 


 ★ ロスチャイルドヘ呼びかけ

 
 金融のことも含めて日本の隅々まで知り尽くし、日本を憂えるグループが、4年ぐらい前、私に長い手紙をよこしたことがあるのです。「あなたが本当の日本のプリンセスだから、日本を救うにはロスチャイルドにお願いしたらどうですか。日本は経済的にこんなことになっているんですよ」と、事細かく書いてきた。それも日本文と英訳と両方で来たものがあって、私もちょうどロンドンに行っていたから、ロスチャイルドは今何しているんだろう、あの人が変われば世界も変わるし、一緒に平和運動でもやったらどうだろうと思って、電話をかけたのです。ケンブリッジ・オックスフォード大学のクラブがあって、そこに泊まっていましたから、そこから電話したら、ロスチャイルドが出てきました。

 「あなたは最初に会ったときから、すごく神を信じていて、うらやましいと思いました」とかいろいろいっているから、「ロスチャイルドさん、あなたが変われば世界が変わる。私と一緒に世界平和をやっていこうよ」といったら、「私はもう84歳になっちゃって、腰が痛くてこれから病院に行こうと思っているんだ」と悲しい声でいうわけです。この人が世界を牛耳っているなんて本当かなという感じでした。
 「ところで、日本の憂国の士、日本の国情をよく知る人が、金融的な面で日本を助けてほしいというので、私に出してきた文献があるから、これからファクスしようと思うんだけど、できる?」というと、「ホテルだとダメだけど、オックスフォード・ケンブリッジ大学のそこからなら大丈夫だから、してください」というので、彼らが書いたものを出したのです。
 次の日に、秘書から、「あなたさまが下さったそれを読んで、ロスチャイルド氏は次の日にアメリカに飛び立ちました」と聞きました。グリーンスパンと話すためでしょう。

 その後、私が日本の皇室側の人から聞いたことは、ビクター・ロスチャイルドさんが、「日本にいる本当の意昧での霊脈、血脈を通してのプリンセスはプリンセス中丸しかいないということを聞いているけれども、本当ですか」と今の天皇に電話したそうです。そうしたら、今の天皇は、「そのとおりです」といったそうです。それをある方から私にいわれて、「皇室の皆様は貴女のことをすごく心にとめていますということです」と言われました。 p146 

 
 ★皇統譜 


 高松宮妃・喜久子様は、今生きていらっしゃれば94歳ですが、2005年の初めのころ、葬儀が出ました。あの方は徳川家からいらしていて、政(まつりごと)も含めて、そういう一切にはすごく詳しい。皇室の中には、宮内庁が持っている系統図のほかに、皇統譜というのがあるそうです。あることに関して、今の皇太子が喜久子様のところに行って、「中丸薫様とお会いすることについて」とお聞きしたときに、喜久子様のほうが皇太子に対して、「それはあなたが辞を低くして、正面から中丸薫様をお迎えする。そういう立場の方ですよ」といわれたそうです。

 それを皇太子がみずからだれかに伝えたという形で、私はお聞きしたのですが、その意味は、皇統譜にきちんと書いてある。例えば昭和天皇は、私たちは大正天皇の子供と思っていますが、そうではないのです。
昭和天皇は明治天皇のお子なのです。
彼を育てた人が、やはり明治天皇のお嬢様の1人、しのぶという人で、「しのぶ、この子はやがて天皇になる人だから、おまえが育てなさい」といって育てさせたというのを、私は家族から聞いています。でも、それは宮内庁の系統図には載っていない。

 そういう意味で、皇統譜というのがあって、その中に明治天皇、
堀川辰吉郎、そして、私の名前が全部あるそうです。私は、5歳のときに中国から、山梨に帰ってきてから養父母の松村正之夫妻の籍に入っています。そこまでの籍は、私は皇統譜にあるそうです。それも最近聞いたことなのです。
 育ての父の何回忌かが甲府であって、親戚にみんな集まってもらったときに、私を預かるに当たって、7代前までの戸籍抄本を取り寄せてくれといわれた。日本人は普通2~3代前までがやっとで、7代前は大変です。私が大人になって、子供もいて、家族を持ってから、「そういうことがあったんですよ」といわれました。 p149 


 ★皇室の政(まつりごと)

 
 雅子さんに対して、日本の天皇家に嫁入りするということがどういうことか、政の大切さ、その由来をきちっと教えてあげる人がいないというのが、ちょっと気の毒です。だから、雅子さんは、そういうことが余りよくわからなくて、皇室外交などといっている。

 天照大神からのメッセージを受けて、政をちゃんとやることが一番大切です。そこをきちっと雅子さんにも語ってあげる人がいないのが残念です。
 皇室典範というのがあって、天皇家は象徴となっている。皇室外交といって世界に出たら、政治にかかわることになってしまう。プライベートなら、向こうから呼ばれたときは、世界どこに行ってもいいという解釈になっているようです。そういう意味で、宮内庁ももっと気をきかせて、どこかの国からのご招待とか何かつくって、外に行ける機会をつくってあげればいいのです。雅子さんはそこまで知らなかったかもしれない。
 例えば入江侍従長は、私も皇室に行くたびにお会いしましたが、昭和天皇に最後までぴったりくっついていらっしゃった。あるときからそういうシステムがなくなってしまって、官僚とか警察庁出身の人が宮内庁長官になった。あの辺から、皇族の人たちのスケジュールを自分たちがつくって、自分たちが動かすんだみたいになってしまって、ちょっとお気の毒かなという感じがあります。
 あれだけ世界を自由に歩いていた人が、あの狭いところに十数年いることは苦痛です。考えられない。だれでも病気になってしまいます。 p151 

 コラム⑥ もうだいぶ前になりますが、私は、東京で、キッシンジャーがエドモンド・ロスチャイルドに鼻であしらわれている姿を目撃しています。デビッドーロックフェラーから庇護を受け、当時大統領専用機で世界を閑歩していたキッシンジャーも、ロスチャイルドにとっては、単なる使用人に過ぎなかったのです。そこに、ロスチャイルドとロックフェラーの実力の差というか、地位関係が表れているのを見る思いがしました。

 コラム⑦ 初代ロスチャイルドのアムシェルは、紙とインクのコストしかかからない通貨を自ら発行し、政府に貸し付けるのが一番儲かると気付いた。人工的に金融恐慌、不景気、飢餓、戦争、革命を創造することこそが、ロスチャイルド家成功の秘密である。彼らが繁栄する一方で、国家と国民は、利子の支払いと重税のダブルパンチで、次第に疲弊していく。19世紀初頭のナポレオン敗北の裏で、情報操作によって、その富を数百倍に増大させたのを嘸矢として、彼らの資産は英国銀行の預金の大きな部分を占める。この銀行はロスチャイルドの銀行であり、世界の銀行の利子率を決定するばかりか、相場をも動かしているのです。

 **************

  
 ●『中丸薫という生き方』 (徳間5次元文庫 2008、1、31刊) 
  *原著:『人間の使命とは何か』(三五館 1999、8月刊)

 ★実父が明治天皇の実子であると知ったとき・・・
 
 p86~
 時はさかのぼりますが、私が自分の出生を知ったのは高校生のときでした。まだ甲府にいた中学生の頃、いつものように電報を受け取りに玄関に出ると、電報配達員が怪訝討そうな顔で言ったのです。
 「お宅には、毎日のように電報が来ますね。どういうわけですか?」
 毎日というわけではありませんが、荒川堤下の私の家には、本当によく電報が配達されました。いまのように、日本中たいていの家に電話があって、ダイヤルを回せば話ができる時代ではありません。もっとも早い連絡方法といえば、電報でした。
 しかし、私の家に届けられる電報は、どう考えても、大至急の用件とは思えないのです。父に渡すと、一読して、それっきり忘れたような顔をしています。電文は、〈7ヒマデ トウ午ョウ「テイコクホテル」 ニタイザイスル〉とか、〈15ヒマデ キョウト「ミヤコホテル」ニイル〉とか、自分のいる場所を知らせてくるだけで、だからどうという用事があるわけではありません。それでいて、よく旅行をする人と見えて、移動するたびに克明に電報で通知してきます。それも国内ばかりか、ワシントンやパリからも電報は届きました。

 発信人は誰なのか、この電報の意図するところは何か、私にはわかりませんでした。両親にたずねると、「おじいちゃまからの連絡だよ・・・」というだけです。その名は
堀川辰吉郎。
 彼は、私の両親に、常に自分の所在地を知らせ続けていたのです。
 やがて、その
「堀川のおじいちゃま」に、私はときどき招かれて会うようになりました。いつもその人は、帝国ホテルや、京都の都ホテルというような、一流ホテルの最高の部屋に滞在していました。日本国じゅうを歩き、突然、アメリカやパリに飛ぶこともあったようです。よほど特別の場合をのぞいては、紋服と袴に白足袋でした。小柄でほっそりとした体格でしたが、澄んだ瞳には深い光があり、言葉では言い表せない威厳がありました。秀でた鼻梁と、その下のカイゼル髭が八の字にピンと跳ねているので、それが威圧感を与えていたのかもしれません。ところが話し出すと、じつにやさしくて、身のまわりの世話をする秘書や、ホテルのボーイたちにも、まったく差別のない丁寧な言葉づかいでした。食卓でのマナーも、会話も、身のこなし1つにしても優雅で、私は「おじいちゃま」に会った日には、なにか特別な気持ちになるのでした。
 
 1958年の末頃でした。帝国ホテルの一室を、母と一緒に訪れた私に
辰吉郎は唐突に、私が彼の実子であることを静かに語り始めたのです。辰吉郎は、明治天皇の血を受けていて、生涯、国家的な仕事に明け暮れていたこと、そして、この父母の間にただ1人生まれた私に、大きな期待をかけていることなどを、心に染みわたるような声で話してくれました。 

 後になって私は、周囲の人たちから、さらに数々の逸話、秘話を聞かされました。その話の内容は、いつも凛乎としていた父の風貌と重なって、私の内部に深く浸透しました。そして後の74年、私は勧められるままに、「文藝春秋」に父の思い出を書きました。その小文には「明治天皇の落とし胤」というタイトルがつけられました。
 その文中、事情の許すかぎり、私の知り得た父とその周辺について明らかにして、次のように書きました(以下原文表記、ルビは補足)。 

 * * *

 現在の皇室には、大奥などという制度もないし、そのための施設も完全に消滅している。皇居にお仕えする女官たちは、ほとんど既婚女性で、自宅から通勤し、一般のオフィスレディと変わりがない。しかし戦前までは、皇居内の宮内庁と道灌堀をはさんだそのあたり、紅葉山のふもとに、「お局」と呼ばれる建物があった。敗戦直前の1945年5月25日の夜、空襲で皇居が炎上したとき、このお局も焼失したが、これは明治天皇が京から遷都されたとき、お供してきた多くの女官たちが、平安の昔そのままに、江戸城に移り住んだ明治宮廷大奥の跡である。

 かつて、高い板塀に囲まれたここには、建坪1200坪に及ぶ3棟の長屋が建ち並び、その一の側と二の側には奏任女官以上、三の側には女嬬以下の、いずれも両陛下のお身のまわりに奉仕する女官たちが、それぞれ針妙や下女を数人ずつ召し使って、女性だけの別世界を形づくって暮らしていた。明治の御代には、その総数2百数十人であったという。男子禁制、まったくの女護が島で、ここから百軒廊下という長い廊下が並び、両陛下の居間や寝室のある内儀、お常御殿につながっていた。

 宮廷のこうした後宮制度は、皇位継承のため、皇子を多くもうける目的によるものだったが、明治天皇も、皇后(昭憲皇太后)のほかに幾人もの側室がいた。その数はつまびらかでないが、葉室光子、橋本夏子、柳原愛子、千種任子、園祥子という5人の側室に15人の皇子、皇女をもうけられたことは、戸籍台帳にあたる。皇統譜にも明らかだ。

 昭憲皇太后にはお子さまがなかった。大正天皇をお生みになった柳原愛子二位局も、はじめは明治天皇の母君の女官だったが、皇太后をご訪問になった明治天皇のお目にとまって、典侍として宮中大奥に移り住んだといわれる。この柳原典侍が、後に大正天皇となられる皇子をご出産になったのは、1879年(明治12年)8月31日のことである。だが、その同じ日、大正天皇のご誕生より数分早く、やはり大奥で1人の女官が男の子を生んだ。
 それが、権掌侍・千種任子であった。千種任子は、正四位千種有任と大納言四辻公績(よつつじ・きんいき)の娘・正子との間に長女として誕生され、若くして禁中にあがった。皇統譜によれば、明治14年と16年に内親王をもうけている。いっぽうそれに先だって、柳原愛子典侍は、明治8年と10年に親王をお生みになっているが、それらのお子さんたちはすべて夭逝され、明治11年秋に、再び明治天皇のお胤を身ごもられた。

 ちょうどその時期に、千種任子権掌侍も懐妊,それでなくても宮中大奥では、柳原・千種の両局は、ことごとくに反目し、激しい暗闘があったようだ。その上両女性が同時期に妊娠したのだから、大奥は二派に分かれた。その結果、決定的な勝利を得たのが柳原典侍だった。

 柳原典侍のお子は、皇太子・明宮嘉仁親王となられたが、千種任子の子供は、大奥で生まれたあと、皇籍も与えられず、秘密裏に井上馨侯爵の手で民間に下り、井上候の兄嫁の縁戚にあたる九州出身のある女性が、生涯をかけて傅育することになった。その子供が私の父、堀川辰吉郎である。もしも、千種任子の生んだ子を、明治天皇が皇子としてお認めになれば、大奥内の暗闘が激化し、ついには宮中に混乱が生じかねない。そうお考えになってのご処置だったのだろう。

 明治天皇が崩御されて、大正天皇の代になると、こうした皇室の大奥制度は急速に改革され、さらに昭和天皇となると完全に排除された。

 堀川辰吉郎は、幼いときから大変な腕白で、★学齢期に達すると学習院に入学(☆院長は乃木希助)したが、あまりに自由奔放、型破りな言動で同級の華族の御曹司たちを閉口させるので、退学させられている。とにかく一般の子供たちとは違う天衣無縫な行動の連続で、まるで野に放たれた虎か竜の子でも見るようだった、と当時を知る人は語っている。

 ★ウィキペディアによると:生後まもなく☆福岡の堀川家に預けられ、頭山満や井上馨の庇護を受けて育つ。校長への暴行や動物虐待、さらにはヤクザを相手取っての放火事件など腕白が過ぎて福岡じゅうの小学校をたらい回しにされ、やがて学習院中等科に入れられたが、ここでも女学生の前での公然猥褻事件や皇族への暴行傷害事件など問題行動を繰り返して放校処分を受けた。・・・
当時の福岡県知事はおそらく、〔茂丸ライン〕の安場保和。(後藤新平の岳父)
安場保和 1886年2月25日 1886年7月19日 (県令)
安場保和 1886年7月19日 1892年7月20日 (県知事)

 福岡に帰ってからも、それは変わらず、学校から幾度となく放逐されそうになった。だが、そうしたとき、乗り出してきて事態を収めるのが、井上候の命を受けた県知事だった。また玄洋社の総裁・頭山満が出てくることもあった。ふつうでは考えられない巨大な実力者の庇護が、つねにこの少年の上にはあったのだ。

 辰吉郎は少年の頃、当時発行されたばかりの百円や十円、一円の日銀券を懐中につっこんで歩いていたという。そして友人の中で金に困っている者があれば、札束をつかみ出し、数えもせずに与えて恬淡としていたというのである。当時、百円といったら、ものすごい大金だ。腕のいい大工や左官の一日の手間賃が60銭、下男の年給がわずか3円50銭。この時代に、数百円もの現金を、10代の少年が懐中にしていたのだからこれは尋常なことではない。
「男子たるもの、・・・お金に執着するようではいけません。お金など母がいくらでも送ってあげます。思う存分、好きなように使ってごらんなさい」
 育ての母は、つねにそう言って教え、そのとおりに実行していたようだ。世間の常識の枠から踏み出して、あなたは胸を張り、独自の生き方をなさい。そうすべきなのです・・・と、傅育したその女性は言いたかったのかもしれない。

 後年、私の知る辰吉郎も、金銭にはまったく無欲で、その点だけとって見ても、神様のような人だった。又は財布を持っていなかった。私がコロンビア大学に留学していたころ、幾度かニューヨークに訪ねてきてくれたが、ある日、一人でふらりとバスに乗ってしまい、途中で車掌に切符を買うように言われて、はじめて無一文だったことに気づき、そこでバスを降りてホテルまで歩いて帰ってきたことがある。
 それでいて、国家的な仕事をするときには、どこからか湧いてくるように莫大なお金が集まる。しかもその仕事を成し遂げたとき、報酬は取らないから、無限の預金を多くの人の心の中に積んだも同然で、恬淡としながら、じつに豊かに生きていた。

 私は、この父からたった一度だけ、金銭について言われたことがある。
 「政治家が差し出す金は、たとえ一銭たりとも受け取ってはならない」
座談の中で、ふとそう言った。しかし、いま、国際政治について発言する立場にいる私にとって、この父の一言は千鈞の重みになっている。


 こうした父の金銭感覚は育ての母の苦労によって養われている。皇室から生計費は出ていたようだが、彼女の理想を育てるためには、とうてい十分ではなかった。その苦労が明るみに出たのは、彼女が病気で倒れたときである。その病床の下から百数十通の借用書の控えが出てきたのだ。それは時の総理大臣・伊藤博文を始め、井上候ほか、明治政界の重鎮からの借金を書き留めたもので、当時のお金で数十万に及んでいたという。

 こうした特異な環境の中で奔放に育てられた辰吉郎の資質を上げたのは、
頭山満だった。辰吉郎は、少年の頃から頭山満に愛されて、10代の半ばを過ぎると、その主宰する玄洋社に入門し、ここで厳格に教育された。
 頭山満は、1944年(昭和19年)に89歳で没したが、若くして自由民権運動に挺身し、要望した国会が開設されると、やがて大アジア主義を唱え、玄洋社を組織。日本の大陸政策の発信源とも言われた。
 少年時代に辰吉郎はこの玄洋社に入門したが、頭山自身彼を側からけっして離さず、自ら厳しく教え導いた。すると辰吉郎は生まれ変わったように武術に励み、3年足らずのうちに、柔道、剣道ともに三段という腕前になった。同時に学問にも打ち込んだので、やがて頭山門下では頭角を現し始めた。

 日本はその頃、日清戦争に勝って日清講和条約を締結したが、ロシア、フランス、ドイツの三国から干渉を受け、条約で得た遼東半島の返還を余儀なくされていた。頭山は辰吉郎に日本と中国の長い歴史を説き、彼のアジアヘの夢を語った。アジア各国の独立が成し遂げられなければ、白人たちの植民地になってしまうという危機感を頭山は強く抱いていたのである。

 さらにその頃、中国では孫文が革命の戦旗を掲げていた。清朝の腐敗堕落と専制支配を打破し、漢民族を救おうと、1894年、興中会創立宣言をした孫文は、清軍に追われてロンドンに亡命、やがて帰国して兵を挙げ、祖国再建のために活動中であった。頭山満は、この孫文を支援して新中国を誕生させ、それによって大アジア主義の理想を達成しようとしていた。

 1899年、孫文は再度挙兵に敗れて日本に亡命し、横浜に本拠を置いた。日本の有志たちは裏から支援を送ったが、そのもっとも強力な保護者が頭山満だった。初対面のその日から頭山は孫文と深い絆を結んだようだ。そして2人が会談する席には、つねに辰吉郎もいた。そして翌年、機至ると広東へ帰る際、孫文は頭山満に、辰吉郎を同行させてもらえないかと願い出た。
 「どうぞ、お連れ下さい」
 頭山は即座に頷いたという。孫文の意図するところを、頭山は早くも見抜き、それはまた彼自身が考えていたことと一致したためでもある。辰吉郎を同行すれば、革命軍の中に【日本の皇族】が参加しているということになり、それは孫文の革命に対して、日本が援助しているという強い証拠になるであろう。そのとき辰吉郎は★20歳だった。
(★とすれば、辰吉朗の生年は1880年ということになるが、ウィキペディアによると・・・
 戸籍上は1891年生まれとされるが、当人は1884年生まれと自称しており・・・という。)

 そして
辰吉郎は、孫文と共に中国大陸に潜入した。
孫文はかたときも辰吉郎を身辺から離さず、最高の礼で遇したという。また重要な会議や会談にはいつも辰吉を伴い、自分の上席に座らせた。革命内部には、
 「日本の皇子だそうだ。日本は孫文援助のために秘密裏に派遣されたらしい。この革命には日本がついている。絶対成功するぞ」
 そんなささやきが交わされはじめ、やがて外部へと広まっていった。辰吉郎は激烈な革命闘争の中で、孫文の片腕として命がけの活動を開始し、生死を共にしていく。

 私はそうした青年の頃の父の写真を1枚だけ持っている。黒紋付の襟にかぶるほどの蓬髪と鼻下から顎にたくわえた髭。それは、理想の達成にいのちを賭ける、そんな明治の若者の素朴さに溢れている。まっしぐらに行動に走ったその純粋さは、時代が下るにつれて、軍部の大陸侵攻に利用されていくことになる。
 
 1900年6月、義和団事件と同時に、華南広州にあった孫文は、いまこそ好機と挙兵するが、計画の不備と武器の不足が原因でたちまち背走した。そのとき辰吉郎はその首に孫文と同額の懸賞金を賭けられていた。敗北は死を意味する。孫文と辰吉郎は手を取り合って敵中を逃げた。
 12月上旬の暮れ、追ってくる清兵の一団から必死に走った2人は、農家の土塀を越え、道に沿って流れるクリークの岸辺に茂芦の中に躍り込み、身を伏せた。そしてそのまま滑るようにクリークの濁った水に沈んで、敵兵が目の前から消えるのを待った。華南とはいえ、12月の水は冷たい。息をひそめて水に沈んでいた数十分は、死との対峙でもあった。

 この年の5月10日、日本では皇太子・嘉仁親王(大正天皇)が、九条節子(さだこ)と結婚され、その奉祝で沸き立っていた。また、1912年7月30日には、明治天皇が61歳で崩御され、大正天皇がただちに即位されたことも、辰吉郎は中国の広野で聞いたのだった。

1925年、孫文が志なかばで病いに倒れ、北京で逝去した後も、辰吉郎は孫文の理想を受け継いで働いた。だが、日本の対中政策は彼の意志に反し、ますます露骨な侵略政策へと進んだ。

 1931年、満州事変が勃発したとき、辰吉郎は蒋介石や張景恵たち要人と会談し、戦火をおさめようと奔走するが、軍事力の介入と弾圧で、その意図はほとんど骨抜きになってしまった。満州問題が国際連盟で論議の対象になり、欧米諸国がこれを非難すると、日本の世論は沸騰し、列強の横槍だと怒ったが、横暴なのは日本の軍隊だと辰吉郎は言い、こうした施策が日中両国の関係を破滅させるだろうと憂いていた。
「いま、満州問題が国際連盟に提訴されるに至って、日本の上下をあげて、対中国政策の是非を論じ、大騒ぎしているが、なぜ日本人はこうなる前に、中国問題に対して真剣な目を注がなかったのか。現在の熱意の十分の一でもいい、日露戦争直後から、日本国民が中国の民衆の状態を考え、おたがいの親和を図ろうと努めていたら、このような事態を招くことはなかったのだ。今日となっては、遅まきながら国民一体となって、日中両国百年の親和のために、国家の大計を立てるほかはない。まず、日本が思い切った譲歩をすることだ」
 
 当時、辰吉郎はそう論じ、サンフランシスコの「日米特報」が報じている。

 満州建国後、辰吉郎が中国の民族主義団体「紅卍会」の会長に推されて就任したのも、軍閥の専制に対抗するためだった。1935年、彼は大木遠吉、鈴木三郎のあとを受けて国粋会の第三代総裁となったが、ここでも拡大し続ける日華事変の戦火をまず終息させよ、と軍部に激しい非難を加えた。国粋会は軍の忌諱にふれて解散を命じられ、さらに太平洋戦争中は、各界の平和主義者とともに反軍閥運動を続けたため、彼は東條政府下の憲兵に狙われ、ついに中国大陸に潜行して、身をくらますまでになっている。

 私の母、中島成子は、抗日救国運動の激化する中国にあって、難民救済事業に献身していた。北京の彼女の邸宅は、二千人の客が宿泊できて、浴室だけでも27室あった。これを開放し、彼女はトラックで運ばれてくる中国の難民たちを収容していた。

 私が中国で生まれて45日目、盧溝橋事件が起こった。すると中島成子は関東軍の要請で、即刻、旅立つことになった。その頃、大陸各地に割拠していた地方軍閥の将領たちに対し、彼女は隠然とした影響力があり、関東軍はそうした彼女の手腕を利用しようとしたのだ。
 中島成子は、生後45日の私を、当時北京大学教授だった松村正之とその妻・ちかに託し、産褥の疲れも癒えきらない身を馬上にして、硝煙の中を東奔西走した。 p98

 * * *

 敗戦後の父については、海外の新聞を読むことで、おおよそのことがわかりました。
 1945年、連合軍に占領された後、GHQが発した戦犯容疑者逮捕命令によって、国粋会総裁だった経歴を問われ、逮捕されています。そして、ほどなく釈放。その後は、人類すべて同胞、平和主義を訴えて、世界連邦運動の先頭に立っています。1951年初頭、アメリカで世界連邦政府大会に、日本民間代表として参加していますし、そのほか数十回にわたって世界各国を訪問し、各国の名士と交誼を結んでいます。

 私が母に連れられて、一緒に食事をしたり、旅行するようになったのは、それからのことです。ところが、「おじいちゃま」と呼んでいたその人が、いったい何を考え、どんな仕事をしているのか、中学生になったばかりの私には、想像もつきませんでした。

 1951年の2月15日付の「セントルイス・ポスト・ディスパッチ」に掲載された記事を読むと、父は、「毛沢東、蒋介石の両中国首脳と、米ソの首脳が一堂に会して、いまこそ相互の利益のために協議することが必要だ」と語り、「毛沢東は、単にモスクワの操り人形たるには、あまりにも賢明である」と評しています。このとき父は、アメリカに向かう途中、台湾によって蒋介石と会談しています。

 1951年といえば、朝鮮戦争が始まっており、この年の元日、北朝鮮軍と中国軍(共産軍)が38度線を越えて南下し、国連軍は、撤退を余儀なくされたソウルを奪回するため、血戦を繰り広げていたときでした。2月1日、国連総会では、中国政府を侵略者とする非難決議案を採択しています。こうした折に、アメリカで毛沢東の偉大さを口にし、両中国と米ソの4首脳会談の必要性を説くことは、かなり高い視点から、世界の動向を見通していなければできないことです。

 私は、父からこんな話を聞いていました。それは、孫文が北京で病没した1925年3月頃、中国共産党の幹部だった毛沢東が、蒋介石の国民政府軍に捕らえられ、危うく殺されそうになったことがあったというのです。その場に父がいました。父は当時32歳の毛沢東を見て、
「これは将来、中国のために偉大なことを成し遂げる男だ。助けてやれ」
 そう言って、縄を解き、自由にしたというのです。もしそれが本当なら、毛沢東は堀川辰吉郎をいまも忘れていないかもしれません。できることなら、毛沢東自身に、その事実を確かめてみたいと思いました。

 そして1968年、私は「文藝春秋」誌の企画で、『中国の赤い星』の著者、エドガ―・スノー氏と対談をしましたが、そのときこの話をして、父の写真をスノー氏に託し、もし毛主席に会う機会があったら、確かめていただけないだろうか、と頼みました。

 アメリカ人でありながら、もっとも中国を愛し、理解し、毛主席の信頼を受けていたジャーナリストのスノー氏は、その申し出を快く承諾してくださいました。その直後、中国入りした氏は、私にそれを電話で報告してくださったのです。
 「毛主席は、お父様を覚えているそうです。あの話は本当だと。私は堀川氏のことを忘れない、とおっしゃっていましたよ」

 そのときすでに父は没していましたが、私はあらためて父の白髭の顔を思い浮かべ、その伝説的ともいうべき生涯を偲びました。

 また、父は、「不殺生・非暴力・非武装」の平和祈願で有名な、日本山妙法寺の山主・藤井日達上人の依頼で、毛主席宛に添書を書いたこともありました。
 世界各地に仏舎利を建て、平和を祈り、原水爆禁止運動や基地反対運動にも積極的に参加している藤井日達上人は、中国へ行きたいと言って、私の養母、松村ちかを通して父にその方法を相談されました。父は無造作に筆を執り、「藤井日達上人をご紹介する。御引見を賜るよう」という意味の手紙を書き、「毛沢東殿」と宛名しました。それを懐中に、日達上人はモスクワから北京へ入ったそうです。言うまでもなく、日中間に国交はなく、日本人が中国に入国することなど、考えられなかった時代です。それが、父の添書一本で許されたのです。まったく父は、不思議な力を持っていました。

 私はコロンビア大学に在学中、ニューヨークに父が来ると、数日間一緒に過ごしました、が、そんなときウォルドルフ・アストリア・ホテルの廊下を父と歩いていると、すれ違う外国女性が、壁際に身を寄せて会釈し、私にそっとささやきかけたものです。
 「あの方は日本のプリンスですか?」
 鼻下の白髭と、紋付袴に威儀を正した姿が、事情を知らない外国人にまで、なにかを感じさせたのでしょう。
 また、その後、私が日本から海外へ出かけるようなときには、たとえ夜中でも時間があれば父は必ず羽田空港まで見送りに来てくれました。それもロビーや送迎デッキではなく、飛行機のタラップの下まで来てしまうのです。
 「もしもし、どこへ行くんですか?」
 出国管理の係官などが、出発ゲートを悠然と通り抜ける父を呼び止めたりすると、父は何やらパスポート大の紙片をちらりと見せます。すると、係官は頭を下げ、
 「失礼いたしました。どうぞ。お通りください・・・」

 ある日、私はその紙片を見せてもらったことかあります。それは、警視総監の自筆の証明とでもいうべき書類で、「堀川辰吉郎先生をよろしくお願い申し上げます」といったことが毛筆で記されていました。警視総監の更迭があるたびに、新任の総監が必ずそれを書いて届けにくるらしいのです。

 こうした特別の待遇を受け、国の内外に人知れぬ影響力を待っていた父が、戦後、その力を最大限に発揮した仕事といえば、1951年9月8日、ようやく調印にこぎつけたサンフランシスコ講和条約会議の舞台裏工作でした。8月31日、吉田茂全権をはじめ、講和会議に出席する日本全権団が、羽田空港を出発しています。その1ヵ月前、父はアメリカに飛んで、全権団とは無関係のような行動をとりながら、吉田茂全権を補佐するため、全力を傾注して舞台裏の工作を続けていたといいます。

 国際会議というものは、表面よりも裏側の根回しが大切であり、そこにもっとも腐心が必要となります。ことに対日講和条約の調印国は、日本の他に48カ国。ソ連、チェコ、ポーランドは、これは新しい戦争のための条約だと言って調印を拒否していました。わが全権団は被告の立場でありながら、新しい日本の運命を決めるこの会議に、各国の提出する賠償などの過酷な条件をそのまま呑むわけにはいきません。卑屈にならず、とはいえ虚勢を張らず、日本の立場を正しく理解してもらうよう説得する必要がありました。父は各国全権団の中の旧知をたどり、陰ながらの努力を重ねていたのです。p104

そして9月8日、対日講和条約が無事調印されました。敗戦の焦土から這い上がって日本はようやく独立国となりました。
 外国からの特需もあって産業は活気づき、自立への足がためは急速に進んでいました。

 そのとき私は14歳、任務を果たしてサンフランシスコから帰国した父に久しぶりに招待されて、甲府の家から上京し、ホテルのグリルでテーブルを囲みながら、その人をまだ父とは知らず、ただ楽しく談笑していたのでした。父はどんなときも、自慢めいた話は決してしませんでした。p105


 長くなりすぎたので、★生みの親、中島成子との再会を果たす は、稿を改めて、


 続く。 



●疑史(第53回) 上原勇作(5)
 ●疑史(第53回) 上原勇作(5) 

 陸軍大将・上原勇作は大正4年12月、欧州大戦の最中に陸軍参謀総長に就いた。陸軍における上原九州閥の台頭と長州閥の凋落はここに始まる。

 前参謀総長の長谷川好道は朝鮮総督に転じた。その到達した官位勲等は、世界的名将に数えられる乃木と陸軍大将・功一級・伯爵までは同じだが、元帥・従一位・大勲位では一格上である。長谷川は陸軍長州閥の中心人物の一人であるが、その存在を知る人は今日皆無と言って良い。いかに戦後憲法の第九条が戦争放棄を宣言したとはいえ、この人類社会に戦争が厳然として存在することを認めないのは余程の痴人である。戦争がある限り兵力は必須であるから、わが国が仮装してでも軍備を保有したのは当然だが、仮装に塗れた国民は自国の軍事史を顧みず、軍事常識は全く欠乏してしまった。国民が長谷川の存在を知らぬのもその一端である。

 長谷川は嘉永3年(1850)生まれの岩国藩士(長州人)で、御親兵に応じた明治4年8月の初任は少尉だったが12月に大尉に飛び級、翌5年の4月には少佐に任ぜられた。さらに6年11月には23歳で中佐となる超高速の出世ぶりであった。同じく長州人の乃木希典は長谷川より1歳年上で、4年11月の初任は少佐であったが、その後は5年半も掛けて10年4月に中佐になった。これも長州人の桂太郎は乃木よりも2歳の年長で、戊辰の功績で賞典禄二百五十石を受けた佐官級であったが、行賞としてドイツに留学していた間に、薩長間で初任は大尉以下との取決めがなされたため、帰国後の7年1月の初任は大尉に甘んじた。6月に少佐に進級したものの、その後は4年も掛けて11年11月ようやく中佐に進級した。同じ月に長谷川は28歳で早くも大佐に進級する。乃木は2年遅れて13年4月に任大佐、桂は15年2月に至って大佐となる。

 乃木と桂は18年5月に揃って少将に進級したが、長谷川は6月から仏国留学に出て1年半後に帰国し、19年12月に少将になった。軍政畑で著しく台頭した桂は23年6月に中将に進級、日清戦役には第三師団長として出征し、戦後の29年に台湾総督に就いた。乃木は19年から1年半を独国留学、プロシア陸軍の軍紀に触れて自ら人格を転換して帰国するが、10年間も少将のままで、日清戦役には歩兵第一旅団長で出征し、戦時中の28年4月に任中将、第二師団長に補される。長谷川も10年近く少将のままで、歩兵第十二旅団長として日清戦役に出征、29年6月に任中将、桂が台湾総督に転じた後の第三師団長に補された。

 この3人に迫ってきた長州の成長株は長谷川より2歳下の児玉源太郎である。明治4年に数えの20歳で、4月の初任は准少尉だったが、8月に少尉、9月に中尉と進級した。翌5年7月には大尉に任じられ、7年には僅か23歳で少佐となったが、中佐には6年掛かり、16年に大佐、22年に少将と進む。24年から欧州に出張してワンワールドの洗礼を受けてきた児玉は、帰国直後の25年8月に陸軍次官となる。このとき前陸相・高島鞆之助から杉山茂丸を紹介されるが、その重大な意味についてはすでに述べた。

 28年8月、日清戦役の論功行賞があり、桂中将は子爵、乃木中将と長谷川少将は男爵に叙せられた。児玉少将も男爵に叙せられ、29年には中将に進む。そもそも軍人の階級は、中将が一応の終点で大将はむしろ異例である。台湾総督から東京防禦総督に転じた桂は、31年9月、一人、大将に進級、高島鞆之助中将を陸相の座から追放して、自分が代わった。第二師団長の乃木は29年10月、桂の後任の第三代台湾総督に就くが、これが高島鞆之助の要請と見るべきことは前に述べた。しかし乃木は台湾経営の心労に耐えず21年2月に休職し、10月に第十一師団長に就く。第三師団長の長谷川は31年1月に近衛師団長に転じ、後任の第三師団長には児玉が就くが、乃木が3月に突然台湾総督を辞めたので、僅か2ケ月でその後任に転じた。台湾こそは、英露のグレート・ゲームに関する枢要の地であり、ここを守ることが日本が在英ワンワールドから与えられた任務であったからである。乃木は予てから高島の隠れた股肱であり、児玉も杉山茂丸を通じて高島の意向に従っていたものと見られる。その高島の背後には在英ワンワールドが控えていたのである。

  陸軍の軍令を統べる参謀本部では、32年5月に参謀総長・川上操六が突然死し、宇都宮太郎ら青年将校は後任に高島を期待したが、長州派が固めた陸軍中央は、薩摩の長老大山巌を参謀総長に担いだまま、次長に長州の寺内正毅を配した。寺内も長州人で、出生は児玉より20日だけ早く、明治4年8月に少尉、11月中尉、5年2月大尉と、児玉とほぼ同じスタートを切る。その後は児玉よりも数年遅れたが、軍政の手腕あり27年8月に任少将、28年男爵を授かった。31年1月、桂太郎の陸相就任と同時に陸軍教育総監に就いた寺内は、10月中将に進み、33年には参謀本部次長に就いて大山総長を祭り上げた形となった。長州支配下の陸軍中央は、35年4月、寺内次長を今信玄と呼ばれた甲州人・田村恰造に換え、実質的な参謀総長として日露開戦を迎えようとした。

  その間、軍政のトップ陸相の座は、桂が32年12月に辞めた後を台湾総督・児玉源太郎が兼ねていたが、35年3月寺内に譲った。桂は34年6月に首相に就き、国政の最高レベルから日露戦に備えることとなる。日露の戦雲が迫り来る36年10月、参謀本部の田村次長が激務のため過労死したので、児玉台湾総督が敢えて参謀本部次長を兼ね、実質上の参謀総長として開戦準備に当たることとなった。かくして、それぞれが迫りくる日露戦争に備える中を、第二師団長の乃木だけは35年5月から休職していた。

 右(上)に観たごとく、日清戦役後の陸軍は長州が完全に牛耳を執り、殊に軍政系統は桂と寺内が専断していた。軍令系統でも大山巌を参謀総長に祭り上げ、児玉が次長として実質上の総長に就いた。陸軍三長官の一つ陸軍教育総監には薩摩の野津道貫が就いたが、政治力を伴っていなかった。このような薩長不均衡の淵源を、古く大西郷の早世に因ると説く者、或いは大山巌の性格に帰する者も多い。中には大西郷の後継者たる高島鞆之助の政治的成長・発育が停止したと説く★三宅雪嶺のごとき者もあるが、その真相に就いて本稿は既に述べてきた。

 ★註:「疑史」(第41回)-2008年6月5日アップ。

 37年2月、桂内閣の時に日露の戦端が開く。長谷川の近衛師団に動員令が下り、休職中の乃木にも留守近衛師団長として動員下令があった。満洲軍が編成され大山が総司令官に就き、後任参謀総長には山県が就いた。大山隷下の前線司令官は、第一軍が鹿児島の鍛冶屋町方限生まれの黒木為禎大将、第二軍が小倉藩士の奥保鞏大将、第三軍が長州の乃木中将、第四軍が薩摩の野津道貫大将と、九州勢が4分の3を占めた。乃木は6月に任大将、長谷川・児玉も揃って大将に進級、児玉は満州軍総参謀長に転じ、長谷川は9月付で韓国駐箚軍司令官に補された。言うまでもないが、この間桂は首相で、寺内は陸相兼陸軍教育総監であった。

 日露戦役が終わった39年4月、桂首相は大勲位に叙され、児玉も子爵に陞爵、8年続けた台湾総督を辞めて参謀総長に就く。論功行賞は40年9月21日に行われたが、桂は伯爵から侯爵に陞爵、長谷川好道と寺内正毅も功一級を賜わり、男爵から子爵に陞爵した。39年7月に死亡した児玉は既に子爵に陞爵していたが、功一級を授かり伯爵に陞る。因みに、山県参謀総長と大山満州軍総司令官の二大長老は功一級と大勲位頚飾を授かり、侯爵から公爵に陞爵した。各軍司令官も全員が功一級を賜わり、黒木・奥・乃木は男爵から伯爵に陞爵、野津が伯爵から侯爵に陞爵した。

 日露戦後はロシアの報復に備えることが陸海軍の大命題になったが、これは対ロシアのグレート・ゲームを戦う在英ワンワールドにとっても重大な課題であった。陸軍内部では、対露防備の師団増設を目指すための改革運動が芽生え、その気運に圧された寺内は35年から占めてきた陸相の座を44年に股肱の石本新六(兵庫)に譲ったが、石本が過労で急死してしまい、後任には薩摩の上原しかいなかった。その上原が師団増設問題で単独上奏して陸相を辞職した後を継いだ木越安綱(加賀)は、日清戦役で第三師団長・桂太郎の参謀長を務めた桂の腹心であったが、山本権兵衛内閣の陸相として軍部大臣現役制度を廃止せんとしたため軍部から猛反撃を食らい、大正2年6月に退陣を余儀なくされた。その後を継いだ砲兵中将・楠瀬幸彦(土佐)は技術屋で政治力に欠け、大正3年4月京都出身の第三師団・長岡市之助が代わった。上原・楠瀬より陸士で一期後輩の岡は軍政面に秀で、遂に朝鮮常駐二個師団の増設を果たしたが、結核のため5年3月に辞職して7月に死去した。

 この間、参謀総長児玉源大郎が急死し、後任総長・奥保鞏はロシアの報復に備えて師団増設を図ったが、生粋の武人精神を貫き政治介入を避けつつ、45年1月まで5年半を在任した。奥の後任が長谷川好道で、大正4年まで4年足らず在任した後を上原に譲ったのである。

  以上を観てくると、日清戦役後の日本陸軍は、薩長の権力争いが展開する中で明治31年以来、長州に駒が揃ったため薩摩を圧倒してきたかに見えるが、その実は薩摩の川上操六が早世し、高鳥鞆之助が軍政から身を引いたことで、薩長間の人材バランスが崩れただけである。対露対英の政策バランスは、杉山茂丸の調略により長州の桂と児玉が在英ワンワールドに加担したため、日本陸軍は長州の親露志向に流れず、薩摩流の対露強硬策を常に保持し続けたのである。

 その間、高島・野津・樺山・松方ら薩摩ワンワールドの領袖に養成された上原勇作が台頭してきたのは、石本が急死した後、長州派に余人が居なかったこともある。つまり、薩長の人脈バランスが自然に復元したとも言えようが、焦点を絞れば、公職を完全に退いた形で鈴木商店、大日本製糖、東亜煙草など台湾に由来する産業を秘かに押さえ社会的勢力を貯えてきた高島が、その秘めたる力を上原に譲与したからではないかと思う。上原が軍人の枠を超えた政治家に変じたのは大正元年で、4年の総長就任で方向が確立し、上原時代が始まったのである。 


 上原の背後には杉山茂丸が、その杉山の陰には
貴公子・堀川辰吉郎が居た。後年の上原が頭山満・中野正剛ら玄洋社勢力を秘かに、しかし有効に使役していたことがその何よりの証拠である。結局、堀川こそ日本近代史の最大の謎と言ってよく、堀川を無視しては何も見えてこないのである。
 

  ●疑史(第53回) 上原勇作(5)   <了>                      
 





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