カウンター 読書日記 2009年01月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(26) 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(26)  落合莞爾

  高島鞆之助、薩摩ワンワールド総長の座を上原勇作へ禅譲 
 
 
 ★乃木希典を台湾総督に据え 仲人も務めた高島鞆之助 


 明治27年8月30日、歩兵第一旅団長乃木希典少将に動員令が下った。歩兵第一旅団は10月18日、宇品港を出発して大連に向かい、旅順攻囲戦で勇名を馳せた。28年4月に乃木は中将に進級、第二師団長に補された。第二師団は9月に台湾島台南に移動、乃木は南部台湾守備隊司令官に就いた。

樺山資紀台湾総督の要請で急遽現役に復帰、8月21日付で台湾副総督に任じた高島鞆之助の指揮下で、土匪の討伐に当たるためである。高島は28年12月に帰還、副総督を辞し、翌年4月2日付で伊藤内閣の拓殖務大臣に就く。乃木の第二師団はその後も討伐に携わり、29年4月20日に仙台に凱旋した。

 29年9月19日、高島は松方内閣の陸軍大臣を兼摂する。翌10月某日、陸軍省高級副官(官房長に当たる)山内長人大佐が山形県の演習地にいた乃木師団長を突然訪れ、至急上京せよとの高島陸相の密命を伝えた。台湾総督は初代の樺山資紀が辞め、6月から第三師団長・桂太郎が二代目総督に就いたが、これは暫定的な腰掛けで、実際には赴任しないまま東京防禦総督に転じることとなった。拓殖務大臣・高島は、その後任を乃木に頼みたいとの主旨で、山内大佐を送ったのである。ところが乃木がなかなか上京しないので、高島は陸軍次官・児玉源太郎に依頼して、乃木の台湾総督受諾を促す書簡を送らしめた(『大阪偕行社附属小学校物語』)。

 高島と乃木は、明治9年秋の萩の乱で知り合った。陸軍教導団長・高島大佐は佐賀へ派遣され、大阪鎮台の歩兵第八連隊を率いて萩に向かう。萩の乱には、乃木の恩人・玉木文之進と実弟の玉木正誼が参加していたが、熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得・乃木少佐が肉親の情を断ち、国家の干城としての立場を貫いた姿勢に高島は感じたのである。10年の西南戦争で奮戦した乃木に、凱旋後の11年に高島は縁談を世話し、高島夫妻の媒酌で乃木は薩摩女性・湯地シヅと結婚した。高島と乃木はかくまで睨懇な仲であったから、乃木を陸軍長州閥の一人として算するのは大きな誤りである。明治38年、日露戦役で世界の名将となった乃木が、明治天皇に凱旋を申告した後、イの一番に報告に駆けつけたのは紀尾井町の高島鞆之助邸であった。

 初代拓殖務大臣となった高島が、当初から台湾総督を乃木と決めていたのは、その武弁一点張りでない人情味ある人格を知悉していたからである。しかし、同時に乃木の就任拒否をも予測していた高島鞆之助は、その際には陸軍次官の児玉に台湾総督に転出を願う積もりで、児玉の内諾を得ていた。結局、乃木は知己・高島の要望を受けて10月14日に台湾総督に就き、高島が根本を定めた台湾政策を実践した。

 台湾の民俗はさすがに乃木の性格に適せず、土匪跳梁もなお治まらず、繊細な乃木はやがて休職を願い出たので、児玉は第三師団長に就いたばかりだったが、31年2月乃木に代わって台湾総督になる。児玉は民政長官に後藤新平を起用し、自らは各大臣を兼務しつつ台湾経営に8年も関わるが、その政策はすべて杉山茂丸の唱えたものであった。乃木・児玉の台湾政策の根本が高島に淵源することも明らかで、要するに、高島と杉山の間には秘かなしかし重大な共通項があったのである。
 
 ★鈴木商店、大日本精糖・・・台湾利権と日本産軍複合体 

 
 台湾領有の影響を受けて日本産業界には変化が訪れた。変化は、まず樟脳業・製糖業・ケシ栽培に現れた。明治32年、台湾総督府は樟脳と食塩に関する専売制を実施し、神戸の砂糖・樟脳商鈴木商店に台湾樟脳の65%の販売権を与えた。樟脳は当時、先端物資・ベークライトの原料であり、最新兵器の無煙火薬の原料としても必須の、最重要物質であった。お家はん(未亡人)を店主と担いだ鈴木商店はこれを機に異常な発展を遂げ、大正経済界の最大の惑星となった。巷説では、大番頭の金子直吉が独断指導したとされる鈴木商店は、実は日高尚剛の母方の縁戚で煙草業者の〔安達リュウー郎〕という人物が陰から牛耳っていたと伝わる。つまり、鈴木商店は、実は薩摩ワンワールドの配下として、台湾利権に深く関わっていたのである。当然、台湾総督府民政長官・後藤新平ともつながっていたわけで、ここから後藤と薩摩ワンワールドとの問の秘められた関係も窺える。

 製糖は台湾産業の根幹である。台湾では、杉山茂丸の提案により明治33年、三井財閥の益田孝の出資により、台湾製糖が設立された。内地では発明家・鈴木藤三郎の個人経営を基盤にして28年に設立された日本精製糖が、39年渋沢系の日本製糖と合併して大日本製糖となり、同年台湾に進出したが、その後は過剰輸入・放漫経営により経営は危機に瀕していた。

 これより先の35年、政府は有効5年の時限立法「輸入原料砂糖払戻税法」を制定して内地製糖業者を保護していたが、大日本製糖がその44年までの期間延長を願い、大規模な議員買収を行ったのが42年の日糖事件である。これにより倒産寸前に陥った大日本製糖を建て直すべく、渋沢栄一は長崎出身の実業家・藤山雷太に経営参加を懇請した。藤山は直ちに台湾に進出し、生産規模を拡大して瞬く間に日糖の経営を建て直したが、巷間には桂太郎首相兼蔵相を籠絡し、大いに便宜を得たとの噂がある。詳細は未詳だが、桂が台湾を舞台に何か便宜を図ってやったことがあるのだろう。

 しかし、実際には在英ワンワールド薩摩支部として、台湾利権を深奥で管理していた元陸相・高島鞆之助と元海相・樺山資紀の両枢密顧問官が、藤山雷太に特殊の便宜を与えたものであろう。台湾進出により巨大企業となった大日本製糖は、以後薩摩ワンワールド系の主要企業となるが、戦前の日本大企業の番付上位は悉く製糖・紡績が占めたことを見ても、その重要性が分かるであろう。台湾利権を掌握していた高島にとっては、巷間言われるような家政の窮乏は、ワンワールド系の事業を隠蔽するための見せ掛けではなかったかと思う。

 最後にアヘンに関しては、台湾は生産に適さなかったが、巨人な需要地で、これに関する台湾総督府の漸禁政策が見事に奏功したことを知らぬ者はない。内地でも、水田裏作の畑作物としてケシの重要性が認識されたが、大いに広がったのは、欧州大戦によりアヘンの輸入が杜絶してからである。
 
  
 ★孫文を匿った別邸も持つ? 高島「家計窮乏」の真相は 

 
 明治31年1月、陸相を桂太郎に明け渡した高島鞆之助を、起高作戦と称して参謀総長に就けようとした宇都宮太郎ら参謀本部の少壮将校らは、後年にも朝鮮統監に就任させようと工作したが、彼らの計画は悉く桂・寺内らの長州派に阻まれた。以後の高島は、枢密顧問官以外のいかなる官職にも就かず、家計の逼迫もやがて取り沙汰された。明治43年、高島は大磯の別荘を中橋徳五郎に売却したが、太磯市宇簾田七百二十番地所在のその別荘は、昭和16年に木村大吉に売却され、戦後になって料亭「あら井」を開業したが、今は廃業しマンションが建つという(吉薗周蔵が大正14年に奉天から招来した紀州徳川家秘宝に関連する事件が、昭和40年代にここを舞台に展開するのだが、それは別稿とする)。

 明治45年3月、紀尾井町の本邸もイエズス会に売却した高島は、麻布箪笥町に移った。これより先の44年12月、参謀本部第二部長の宇都宮太郎少将が東亜同文書院長・根津一を訪れたところ、根津は孫文の革命党を支援する善隣同志会の創立を図り、その会長に高鳥鞆之助を仰ぐ所存であった。根津は陸軍を去った後も、高島の腹心であったのである。


 高島は支那問題に関しても独自の見識があり、孫文の支那革命を支援していたが、このことは高島と玄洋社との密接な関係をも示唆している。大正2年、第二革命に失敗した孫文の日本亡命を、首相・山本権兵衛に認めさせたのも高島であった。
孫文は赤坂の頭山満邸の隣家に匿われたが、高島邸に保護されたことも伝わり、高島の神戸別邸を用いた可能性もあるという(『大阪偕行社附属小学校物語』)。明治末年の高島の家政が窮乏していたとする記載が、『宇都宮太郎日記』に頻りに出てくるが、神戸に別荘を持っているようでは、実際はどうかと思う。尤も神戸の別荘は、或いは鈴木商店あたりが秘かに手配したものかも知れぬ。

 ★陸軍での地位がどうなろうともアヘン事業だけは維持  
 
 高島鞆之助が吉薗ギンヅルの事業上のパートナーであったことは『周蔵手記』によって明らかである。周蔵の祖母ギンヅルが、愛人の公家・堤哲長から、哲長が丹波のアヤタチ上田家の出の渡辺ウメノから教わった特殊な医学の伝授を受け、幕末にはケシ製剤の<一粒金丹>や<浅山丸>の製造で巨利を上げて堤一家を養っていたが、維新後には京都の薩摩屋敷で知り合った吉井友実や高島鞆之助の協力で、その商売を広げていた。

 吉井友実が薩摩ワンワールド総長を高島に譲った時期は、むろん吉井が24年4月に薨去する以前のことで、吉井が宮内次官を辞めて枢密顧問官に就いた21年4月あたりと見ておきたい。当時の高島は、18年5月以来大阪鎮台司令宮(21年5月の官制変更により第四師団長)に就き、21年偕行社附属小学校を創立するなど、軍人の枠を超えた教育家・行政家として実績を積み、有数の軍政家として令名を馳せていた。大西郷後継として評価が定まった高島は、吉井薨去の翌月24年5月、大山巌に代わって第一次松方内閣の陸相に就き、名実ともに薩摩ワンワールドの総長となったのである。

 高島は31年1月、桂太郎に追われる形で陸相を辞め、以後は枢密顧問官として公的活動から全く遠ざかったが、これ恐らくは、台湾領有により薩摩ワンワールド総長の極秘事業が多忙になったからではあるまいか。つまり、薩摩総長としての事業の大半は台湾の産業政策に関わるもので、パートナーの杉山茂丸をメッセンジャーとして、隠然処置していたものであろう。

 以上が明治・大正の過渡期、すなわち上原勇作が陸相にいた時期の様相であった。明治45年4月5日に陸相を拝するまでの上原の経歴を遡れば、41年12月からの4年弱は師団長として田舎回り、その前は39年2月から3年弱の陸軍工兵監、その前は野津第四軍の参謀長として日露戦役に従軍していた。これでは何ぼなんでも、民政や経済に関わることはできない。

 大正元年8月22日、陸相の上原が上総一ノ宮の別荘で引見した吉薗周蔵に、「草」になってくれと頼むに至った経緯は、いかなるものと見るべきか。増師問題を閣議で否決され、12月21日願いにより陸相を辞した上原は、陸軍分限令により待命を命ぜられて故郷・都城に帰省し、鹿児島城下山下町の日高尚剛邸に静養した。明けて2年3月1日付で第三師団長に補せられた上原は、赴任途上に病気を発して大阪赤十字病院に入院、加療3ヵ月に及び、結局名古屋には赴任しないまま、6月9日付で待命を命ぜられた。ギンヅルから託されたケシ粉と浅山丸を届けに行った大阪赤十字病院で出会った高島鞆之助から、将来のことは上原を頼って良いと言われた周蔵は、その一言で草になる決心を固め、鉄道学校に籍を置きつつ熊本医専でケシの研究栽培を始める。

 高島鞆之助が総長の座を上原勇作に譲ったのはその頃で、上原がケシ栽培とアヘン研究に急遽乗り出したのは正にその事と関係している。大正2年6月8日、実験栽培で得た初収穫のアヘン70㌘を届けた周蔵に、その翌日付で病気休職が決まっていたのにも関わらず、上原はこれからも頑張れと、大枚一千円を賞与して周蔵を驚かせた。つまり上原は、今後陸軍での地位がどうなろうとも、アヘン事業を進めることを決意していたのである。吉薗ギンヅルと日高尚剛が、高島の意を受けて、上原をそのように誘導したのであろう。上原が陸相に就き、ようやく政治家として活動する立場になったのを機に、高島はワンワールド薩摩派総長の座を譲ったものと思われる。

  
 ★欧州大戦、シベリア出兵 戦争の世紀の極秘戦略物資

 
 病気で第三師団長を辞して待命中の陸軍中将上原勇作は、10ヵ月後の大正3年4月22日、陸軍教育総監として陸軍中央に復帰した。教育総監は維新時期の監軍から発した職で、陸軍大臣、参謀総長と並ぶ陸軍三長官の一つである。

 7月28日(*?サラエボ事件は、6月28日)、セルビアのフリーメーソン会員の青年プリンチップ(*ガブリオ・プリンチップ、無政府主義者といわれる)が、オーストリア皇太子夫妻を狙撃して、欧州大戦の幕を開いた。8月、ロシアと連合した英仏がドイツ・オーストリアと開戦して戦争は本格化する。わが国も8月15日、ドイツに最後通牒を発して参戦したが、4年1月3日、青島出征軍は凱旋し、日本の参戦は一応終わった。

 教育総監として戦役事務に鞅掌した上原は4年2月大将に進級、軍事参議官を兼ねた。7月10日、3年目のケシの収穫を届けてきた吉薗周蔵に、上原教育総監はようやく本音を吐いた。
「阿片は極秘の重要戦略物資である。自給が出来なければ、それが軍の敗囚となる。陸軍はどうしても自給体制を立てねばならぬ」。
その翌日、上原の長女で19歳の愛子は、内務官僚の徳島県警察部長・大塚惟精に嫁した。大塚は、後に栃木・福岡・石川県の知事を歴任し陸軍司政長官になるが、戦時中広島県知事から中国地方総監になり、原爆で死去した。

 11月10日、京都において大正天皇即位の大礼が挙行され、参列のために京都に赴いた子爵・高島鞆之助は、宇治観月橋畔の高島友武邸に滞在した。高島友武は吉井友実の次男で鞆之助の養子となっていたが、当時は陸軍少将で京都十九旅団長であった。病を得た鞆之助は、そのまま友武邸に滞在、静養していたが、病態が急に悪化し、5年1月11日を以て薨去した。
 12月17日、陸軍大将・上原勇作は陸軍教育総監を罷め、陸軍参謀総長に補せられた。後任の教育総監は津軽藩士出身の一戸兵衛大将で、日露戦では乃木第三軍隷下の金沢第六旅団を率い、第一次旅順総攻撃で唯一旅順本要塞を占拠した猛将ながら、隠忍自重・思慮周到の名将である。

 前任参謀総長の元帥・長谷川好道は陸軍長州派の中心人物の一人で、日露戦役の最中の37年6月、乃木希典・児玉源太郎と同日に陸軍大将に進級し、戦役中は朝鮮駐駐留軍司令官として韓国統合を進める役割を成した。41年に軍事参議官、45年1月には奥保鞏に代わって参謀総長に就き、4年近くもその座を占めたが、泰平の時期でもあり、さしたる行跡もない。5年7月、欧州大戦における参謀総長の功績で伯爵に陞爵し、10月には朝鮮総督に就き、8年8月まで在任した。従一位大勲位を賜わったが、今日その名を知る人はまずいない。

 参謀総長・上原勇作に課せられたのはシベリア出兵問題であった。大正6年10月にロシア革命が成就して、ロシアの政権はレーニンが掌握しケレンスキー内閣が成立したが、その翌月、ロシア労兵会が共和政府を顛覆し、講和宣言を発した。この時、日本をしてシベリアからロシア革命に干渉せしめんとの意図を持つ在英・在仏のワンワールドは、ドイツ・オーストリア軍に対しても、ロシアに代わって日本に当たらしめんとし、種々の工作を行った。文豪サマセット・モームが来日したのも諜報活動のためである。また日本は日本で、対ロシア緩衝地帯をバイカル湖以東に設置することで、満蒙を完全に支配下に置くことを念願した。当初、日本のシベリア出兵にアメリカは反対したが、それは出兵の成果を日本が独占することを牽制したのである。

 大正7年7月8日、米国大統領ウィルソンから日本に、シベリア共同出兵への提議があり、13日寺内正毅内閣は出兵を決議し、15日には出兵に関する元老会議を開いた。そして16日には外交調査会は出兵を議決、米国にその旨を回答するに至った。

 
  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(26)  <了> 
               
 

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●『龍宮神示』を読む。第六章。
 ★天の岩戸を開けるのは我々自身である

 終末の世から、平和の世へ移行するには、厳(いづ)と瑞(みず)の結びがなされなければならない。
 王仁三郎は、その奥義を次のように説いている。

1、天の岩戸の鍵を握れるものは瑞の御霊なり。
1、岩戸の中には厳の霊かくれませり。
1、天の岩戸開けば、二つの御霊そろうてこの世を守りたまわん。
さすれば、天下はいつまでも穏やかとなるべし。

 天の岩戸の鍵を握っているものは瑞の御言(スサノオ命)であるが、それには宇津女神の力が添えられなければならない。宇津女神は「古事記」の中で、巫女(みこ)として語られる女神である。

 それは彼女が神懸かりする者(神の霊を宿す人間)であることを意味している。

 前回の天の岩戸開きの時には、天照大神の籠もった天の岩戸の脇に天手力男命(あまのたぢからのみこと)が隠れて立ち、天宇津女が神楽を舞った。
 神懸りして乳房をあらわにして桶を踏みならす派手さに、八百万の神が天地も揺れんばかりに大笑いする。

 その騒ぎに天の岩戸の中の天照大神が不思議に思い、岩戸を開けてわけを問いかけるのであるが、「貴方より尊い神様が現れたので、みんな喜んで笑い、楽しんでいます」と嘘をつき、そのスキに隠れていた天手力男命が天照大神を引きずりだしたのである。

王仁三郎は「嘘」と「力ずく」で引きずり出した天照大神は偽物であったと語る。
 しかもこの天照大神は天宇津女のつく墟によって、【見栄と嫉妬にかられた虚構の神】であった。

 すべての過ちがここに始まっている。

 「三千世界の世の立替えと申すのは、世界の人民の身魂の立替えのことであるぞよ。世界の身魂がみな総ぐもりになりてしもうて、言い聞かしたくらいには、改心でける身魂はないようになりておるぞよ。むかしの弥勒の世は結構でありたなれど、暮れいきよると、身魂にくもりがでけてきて、天照皇大神宮どののおりにも世の立替えをいたしたが、天照皇大神宮どののおこりは、ここまでにもなかりたなれど、こんどの二度目の立替えは骨がおれるぞよ。まえの天照皇大神どののおり、岩戸へおはいりになりたのを、だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸開くのが嘘を申して、だまして無理に引っ張り出して、この世は勇みたらよいものと、それからは天の宇津女命どののうそが手柄となりて、この世が嘘でつくねた世であるから、神にまことが無いゆえに、人民が悪くなるばかり」
(明治三十八年、旧四月二十六日・大本筆先)

 宇津女である我々は、この岩戸開きに際して、「誠」と「和合」の心で、スサノオの働きを手助けしなければならない。


 ★「霊界物語」と「ヨハネの黙示録」に見るバールとヤハウェイの逆転劇


 スサノオの持つ「愛」と「和合」の精神こそが「一厘の仕組み」と主張する「霊界物語」と聖書の謎の預言書「ヨハネの黙示録」をあわせ読むと、「黙示録に秘められた一厘の仕組み」が浮かび上がってくる。

「黙示録」をよくよく読むと、そこにはバールとヤハウェイの二つの神が登場しているのである。

 まず、「黙示録」の冒頭には「天上におられるキリストの姿」と題して、神としてのキリストの姿が描かれている。その神は自分のことをこう語る。
「恐れるな。私は最初の者にして最後の者。見よ。世々限りなく生きて、死と冥府の鍵を持っている」
 ここでキリストである神は、死んでまた生き返る神・バール神であることが分かる。

 次にサタンと呼ばれる年をとった蛇・龍が終末の災いを呼ぶことが描かれている。
 その龍がどのような龍かといえば「女と龍」の章に龍の姿が次のように記載されている。

「見よ、火のように赤い大きな龍である。これには【七つの頭と十の角】があって、その頭に七つの冠を被っていた。・・・龍は子供を生もうとしている女の前に立ちはだかり、女が子供を生んだら食べてしまおうとしていた。女は男の子を生んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国民を治めることになっていた」

 ここで前述したユダヤの神話を思い出して欲しい。
「バールは七頭の龍と戦って、鉄を手に入れた」という神話である。

「黙示録」の龍は、明らかにバールと戦った七頭の龍のことであり、生まれてくる男の子は鉄の杖をもって、すべての国を統治するという記述からバール神の生まれ変わりであることがハッキリする。

 しかしこの龍は「千年の支配」の章で神によってしばらく活動を許されるはずだと語られている。
 この場合の神とは明らかに龍と敵対するバール神ではなくヤハウェイである。
 龍の手下である世紀末の世を支配する二匹の獣は666という数字によって表されるが、666とはソロモン王の立てた「契約の箱」を収めるヤハウェイ神殿の建築に使われた金の延べ棒の数と同じになっている。

 つまり、さまざまな終末の演出をしている神がヤハウェイであり、それを救おうとしている神がバールなのである。

 我々は二神を「神」という言葉に惑わされ、一人の神として解釈していたので、ジキルとハイドのように豹変する神の性格と、酷く矛盾する「黙示録」の内容に悩むことになったのである。

 バールこそが終末の救いの神であることは、終末戦争の後に出現した新しいエルサレムの様子からも証明される。
「その新しいエルサレムには(ヤハウェイの)神殿はなく、契約の箱も存在しない」とはっきり記されている。
 そしてそこは愛と平和が約束された千年王国なのである。

 ○ヨハネの黙示録 千年王国・キリストの再臨 ― 

 聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下ってくるのが見えた。
 神の都は栄光に輝いていた。その輝きは最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。(中略)
 私は都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と子羊が都の神殿だからである。この都にはそれを照らす太陽も月も、必要ない。神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分の栄光を携えて、都に来る。
 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は栄光と誉れを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りをおこなう者は誰一人都に入れない(筆者注・神は都の門を閉ざさず、誰をも受け入れるにも係わらず、御霊の曇ったものは、その都に入ることが出来ないのである)。(中略)
 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはαであり、ωである。最初のものにして、最後のもの。始めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術をおこなう者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。わたし、イエスは使いを遺わし、諸教会のために以上のこと(黙示録)をあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。【霊】と花嫁とが言う。『来て下さい』これを聞く者も言うが良い。『来てください』と。渇いている者は来るが良い。命の水が欲しいものは値なしに飲むがよい」
 
 ★三千人の救世主が用意されている


 本来ならば百二十巻までを完成させる予定であった「霊界物語」の完結が無理だと踏んだ王仁三郎は、晩年、陶器作りに没頭しはじめる。作ったのは皿や茶碗のような器・・・。

 王仁三郎が焼き物を焼くと、なぜか滅多に起きるものではない窯変が続出する(窯変とは上薬の状態や、窯火の様子で計算できない模様や色が浮き上がる現象)。
 作風は自由闘達、無碍自在。いかにもおおらかな王仁三郎の人柄が現れている。専門家の中には王仁三郎の作品を「国宝級のものだ」と絶賛する人も存在する。
 しかし、それらは国宝などというようなチンケな品物ではない。世界の宝と言ってもいいような意味が存在しているのである。
 王仁三郎は『霊界物語』の執筆という急務を打ち切って、いったいなぜ、陶器づくりに熱中していたのであろう?

 生前、王仁三郎は「人は神様からいただいた分霊を入れる器なんや」と語っていた。
 『霊界物語』が完成され得ないことを悟った王仁三郎は、自らの残りの使命を託す器を用意するために、焼き物作りに没頭していたのである。
 王仁三郎が焼き物を焼く行為は、霊界に王仁三郎の後を引き継ぐ器を生みだすという神業の一つだった。それ故に、そこに霊妙な神意が働き、器たちは神の手によって模様や色を刻まれるという現象が発生したのである。

 王仁三郎は生涯を閉じる前に、およそ三千個の器を作ったと言われている。つまり、少なくとも三千人の救世主が終末の世に出現することが約束されているのである。

 それはどこからどのようにして現れるのであろう?
 確かなことは、それが特定の宗教からや、特定の地域、特定の民族から現れるものではないということである。
 救世主が特定の何かから現れてしまえば、そこだけが偉いということになってしまう。
 王仁三郎は「弥勒の世は平等の世や」「弥勒の世に宗教は必要ない」と断言した。
 また、「わしは大本の王仁三郎やない。世界の王仁三郎や。世界を救うためやったら、大本がどうなってもかまわん」とも叫んだ。
 世界を救うために、救世主の御霊をもった人間は、世界中の至るところから出現するのである。そしてそれはむしろ、何の宗教にも、何の団体にも属さない無垢な御霊である必要があるのである。

 「近ごろは、いろいろの神の名を語(嘱)り、その気になるものが大勢現れておるな・・・これも地の岩戸開きの時代であるから。見せてある、いろいろの型じゃ。○九十(真)の○九十の高神、大神は一人の身のみに憑(よ)る事はないのじゃぞ。神霊を分かちて、あらゆる所にその働きを現す事もある。龍宮の乙姫は此の天地の始めからの大神で、地球を七回り半の大龍体と申してある。そのような天地創造の神が一人の身に憑る事は無いのじゃぞ。
 乙姫と申せ何段階もあるのじゃぞ。その使いしめもある。○九十(まこと)の龍宮は一万年や二万年前の御霊では無い。元の元の天地創造の神であるから、取り違えをいたされるな・・・今に判りて来るが・・・今の世に神の名を語る者は皆型じゃ。○九十、新生の世を築く、まことの身霊の者はこれから芽ぶきてまいるなり。世の片隅に現れて芽ぶきの用意をいたして居るなり。今栄えて居る宗教も、是は花じゃ。花は散りてこそ実を結ぶのじゃ。龍宮神界の○九十の入口は○OOOであるから、此の事を忘れては龍宮の○九十の道は立たぬなり。各地に龍宮の入口はあるなれど、元の元を忘れてはならぬぞよ・・・神示も霊示も、我身の都合の良いように受け取れば、どのようにも取れるが、それは真実では無い。己が身魂の磨き第一と受け取りて下されよ」(平成7年1月6日 弥勒神示)
 
 ★王仁三郎の弥勒国家論 


 では現実の「弥勒の世」というものが、いかなる社会構造によって実現されるべきだろうか? この点について王仁三郎は重要な国家構想論を幾つか語っている。

 まず人間生活においては最小の共同体単位をもって相互扶助を行う。
 この最小の共同体単位というのは、農業・林業・漁業・畜産業などの人間生活に絶対不可欠な産業を行うために必要とされる人数が寄り集まった単位をいう。これをもって自給自足を条件とする。
 かつ、土地の所有権はすべて団体に対して奉還される。この場合の団体というのは、国家ではなく、国民であり、かつ共同体の構成員のことである。
 元来、神のものであるはずの土地を人間が所有し、その所有権を争ったり、私有財産を増やすことに夢中になったりすることが、貧富の差や社会構造の歪みを生んでいく。
 土地の所有権というものを消滅することが、社全経済に大きな変革をもたらすのである。
 この場合、住居は家族の構成人数によって必要なだけの敷地を供給されることになる。そして、税金制度は撤廃する。
 国家に必要以上の力を与えることは帝国主義を生み出すだけで、国民生活に何ら利益をもたらすものではない。一部の権力者が富める構造は排除する。
 こうした共同体が構成してつくる都市の単位は十万以上のものを作らない。地域による偏りをなくし、日本全土をくまなく有効利用しなければならない。

 ここでわかることは、王仁三郎の構想する社会構造は、構造的には権力や貧富というものが発生する以前の、極めて原始的な社会構造を理想としているということである。
 そうなると、ついつい私たちは国家としての文明が立ち遅れるのではないかとか、統制がとれないのではないかといった心配をもってしまう。
 しかしそれこそが、私たちが現代社会の毒に冒されている証拠なのである。
 実際、文明が遅れるとか、文明が進歩するというのはどういう観点をもっていうのであろう。

 現在の人間は、十分自然の脅威と戦う文化を有しているし、電話やFAXや新幹線といった便利な道具ももっている。日本の国土開発も、原始的社会構成にしたとしても不便がないほど、進んでいる。

 文明は追求する限度を知らなければいけない。
 我々は便利な道具をいっぱい生み出したが、その結果どうなったであろう?
 無尽蔵に文明機器というものの生産を続け、それを消費することに汲々とし、経済的にも精神的にも疲れ切ってしまっている。
 「機械文明の限界を知らない開発は悪である」と王仁三郎は言及している。
 我々は便利な物をドンドンと生み出し、それによって消費する電力も増す一方となった。そのため、原子力発電所などの開発を迫られ、その核廃案物の処理に頭を痛めている。あるいは、オゾン層を破壊するフロンガスを生み出したりする。
 機械文明は自然と戦い、自然を破壊し、人間の生命を脅かす結果になっているのである。

 王仁三郎は「文明開発というものは、人間に恵みを与えてくれる自然界をよく観察、検証して、調和するところを成さなければいけない」と語っている。
 文明と自然が調和して人間生活を豊かにする丁度いいころ合いという時代があったはずである。それを急ぎ過ぎて度を越した結果が、自分で自分の首を絞めるような現代に至っているのである。
 文明開発は、自然と良く相談し、調和しながら行うものであり、それが多少遅れたからといって、何ら不都合は存在しない。
 決して国家や人類の発展などという目的のために行うものではないのである。

 こうした社会構造を受けて、貨幣制度をも撒廃すべきであると王仁三郎は主張している。

 「由来、金銀を貴重視する習慣は古今世界の分野を通じ人間社会の条理のように信仰されつつある。このため、大変裕福な者が出る一方、住居もままならない者もいる。そして又、国家の競争、産業の競争、国家の興亡、戦争の動機、人心の腐敗、諸多の犯罪は黄金の獲得欲望が原因である。この金銀本位の財政経済の結果は、限りある財貨で、限りない欲望を満足させようとするが故に無限の罪を醸成するようになる。元来、金銀をもって国家経済は、物質交換の不便を克服したのであるが、もともと国そのものの存在理由や価値観が不明瞭なために、普遍的な価値観である財力の強大なことで、その不明瞭さを解決しようとするのが大きな誤算なのである。人間も同じことで、自分の存在理由や価値観が不明瞭なために、それを財力や、金の与える満足で補おうとする過ちがあるのである。しかしそれが間違っていることは、過去の人間の歴史の大戦などを見ても確実である」(簡略・意訳)

 この王仁三郎の構想した国家は、極限の民主主義の姿であろう。
 このような構想を明治生まれの王仁三郎が侍っていたことは驚異である。
 王仁三郎をよく知らない人の中には、王仁三郎を右翼として評する方たちがいる。しかし、それが大いなる誤解であることが、王仁三郎のこの国家構想を知れば判るだろう。

 王仁三郎の論ずる国家構想は、極めて社会主義国に似ているものの、社会主義との大きな相違点は、社会主義国家が民衆・労働者主体といいながら、全体主義を意識し、国家中枢に富と権力を集めていった点に比べて、王仁三郎の構想では、国家はむしろ解体され、実体のない理念的な共同体として作用し、権力や富が国家の名のもとに集中しないという現象が生じる点である。
 現代の多くの社会主義国家は、王制といった封建時代的な政治形態から、民主主義を経ず、民衆の意識レベルが育っていく過程なしに突然生まれてきた。これでは、王が国にすリ変わっただけの全体主義国家になってしまうのはやむを得ない。王仁三郎の理念は、現代社会主義の欠点を鋭くついて、その欠陥を補ったものだということが出来るだろう。
 しかし、こうした理想国家は体制だけをそのように作り上げれば出来るという問題ではない。まず先に、我々の意識レベルでの改革が行われた上に成立するものなのである。
 その時、初めて王仁三郎の国家構想は「夢物語」の枠を越え、現実的かつ具体的な国家構想へと変身を遂げるのである。
 
 ★王仁三郎追想 


 蒙古から帰った王仁三郎は、教団本部である綾部を抜け、一人亀岡に入った。
 そして一面竹藪だらけのジャングルのような敷地を、もくもくと草を引いてかたづけ、すこしずつ開拓していった。こうして開拓した亀岡天恩郷に、王仁三郎は神殿を建てることを嫌った。
 「もうこれからは宗教のない世の中になるんや。しやから神殿なんて必要ない。石でも積んで拝んどいたらええ」
そう言って、信者が一つ一つ集めて持ち寄った石を積み上げ、王仁三郎が霊界で見たという月の大神の神殿をモデルに月宮殿という石のモチーフが作られた。
 亀岡には王仁三郎を慕う若い信者が集い、歌詠みや陶器作りなどの平和な芸術活動が展開されていった。
 しかし、亀岡も綾部も第二次大本弾圧、第二次世界大戦で破壊されつくす。
 その後の再建の際にも王仁三郎は神殿を作らず、石積みのモチーフを二つの拠点に作っただけであった。
 「もう宗教なんか必要のない弥勒の世がすぐ来るんや」
 そう言いながら王仁三郎はもくもくと陶器作りのために轆轤を回し、上薬を塗る。
 もうすでに王仁三郎の目の中には、弥勒の世の出現に顔を輝かせる人々の顔が見えているのである。
 「もうちょっとやでえ」 出来上がった器を見ながら王仁三郎は呟いた。
 王仁三郎78歳、1月19日、すでに病院において口も利けぬ程の朧朧たる意識の状態であったが、王仁三郎は臨終の間際に言った。

 「最後はいつ・・・臨終はどこですか?・・・亀岡に帰りたい」
 無茶な話であったが、王仁三郎のたっての願いで、寝台車によって亀岡の自室へと運ばれた。
 「ここは、わしの部屋?・・・お筆先、お筆先はどこ・・・。わしでなければ分からないメモがあるんだ」
 しかし、それは叶わぬ願いであった。王仁三郎の息づかいが次第に静まった。
 「西へ向きを・・・手を胸に・・・すそ直して・・・」
 一生を神劇の役者として生きた男の魂は、こうして天に召されたのであった。

 ******************

 『龍宮神示』を読む。第六章 <了>。  
                      
 



●『龍宮神示』を読む。第六章。
 ●第六章 ロシアAUMが中東戦争の火種になる時 
 
 ★地下に潜ったロシアAUM 

 
 筆者(月海黄樹)を始め、我々はついつい自分たちに身近な日本のAUMの動きに目を奪われがちになっている。しかし、本当の脅威はロシアAUMなのである。

 これは霊的にみれば、いままで真空地帯だったロシアにヤハウェイ教が上陸したことを意味している。

 そもそも、なぜAUMがロシアに大胆な布教活動を起こさねばならなかったか?

 マスコミでは様々な憶測が飛び交い、他の外国では布教効果が上がらなかったからとか、ロシアで武器を買いつけるためであるとか言われている。

 しかし、このどちらも理由としては不十分である。

 AUMはロシアの国営放送の枠を買い取り、地下鉄ではAUMのポスターを目にしない日はない程の布教活動をした。しかしそうまでしてロシアで信者を集めても、ロシアというハイパーインフレの国(*当時)で集めた信者はほとんど無一文に等しく、教団としては資金を出すばかりで、いっこうに回収する目処は立たない。武器入手が目的なら、こんな面倒くさいことはせず、単に買いつけに行っていれば良かったのではないだろうか?

 それなのに、AUMはロシア国内で未曾有の布教活動を展開し、一説には3万5千人ともいわれる信者を血眼になって獲得する。

 その鍵は「土谷メモ」と「AUM真理教クーデター作戦」の内容に隠されている。

 ここには、
 「1997年。麻原教祖、信者3百人を連れイスラエルに入国。ここで敵に捕まえられる。敵は多分イスラム教徒。AUM軍がこれを救出に来る」
 とか、
 「ロシアで組織したAUM軍が日本の港に上陸」という記述がなされている。

 AUMはロシアで軍隊を組織しようとしていたのである。

 ロシアからイスラエルに向けての軍隊派遣。
 AUMの構想はそこにあったのである。

 考えてみれば、ロシアほど内密に軍隊を組織しやすい国は他には存在しない。ロシアには旧ソ連の遺産ともいえる武器・弾薬が山積みにされて残っており、ロシアはその処分に頭を痛めている。
一説にはAUMにもこれらの武器はとうに流れこんでおり、それを調査しようと国内で組織されたAUM調査団が調査をしても、AUMのロシア進出の立役者となったロシア副大統領の手によって、まったく解明をゆるされないともいわれている。
 また、ロシアには徴兵義務があるため、成人男子は軍事経験者である。武器と兵隊、これらのものがロシアでは容易に手に入るのである。
 しかもロシアAUMは解散命令が出されたにもかかわらず、出家者の多くが、いずこかにかき消えてしまっている。

 地下に潜んだロシアAUM。

 そして麻原以外の陰の実力者の存在。

 このことは不気味な未来への預言を暗示している。
 それは黙示録の預言とも、「霊界物語」の預言とも重なってくるものである。
 それが起こるとすれば過去の大本経綸の法則から考えればAUMの強制捜査より6年後、
 すなわち2001年のことだと思われる。

  
 ★ハルマゲドンの本番を実行するのは「狂気の日本人」

 
 麻原教祖はイスラエルに入国することを目的としていた。

 それは終末思想を持つ彼にとっては当然のこととも言える。

 黙示録には、終末の世にメシアは神の軍隊とともにイスラエルに出現する、と書かれている。

 麻原がメシアであることの証しを立てるには、終末のイスラエルに居なければならない。
 それでは、麻原が計画通りイスラエルに入国していたらどうなっていただろう?

 インドで起こした騒動からも予想されるが、「自分はメシアである」などといって、イスラエルの聖地にスクラムを組んで座り込む「狂気の日本人」は、当然現地の人々の反感を買い、弾圧、あるいは投獄されることは免れえない。

 そこにロシアで組織されたAUM軍が到来するという筋書きである。
 だが、当のロシアがそれを、手を拱いて見ているだろうか?
 筆者は、ロシアは気づかぬ振りをして黙認するだろうと考えている。

 なぜならロシアは独立国家となったアゼルバイジャン共和国などの西南アジアの豊かな土地を喉から手が出るほど欲しがっているからである。
                                    
 旧ソ連の中心ロシアとはいっても、実態は農作物も満足にとれない極寒の不毛の地である。東西貿易にも有利で、気候の恵まれたアゼルバイジャン共和国をロシアは再び支配下に収めたがっている。

 つまり筋書きはこうである。

 イスラムの聖地が「狂気の日本人」の軍事政権下におかれ、サリン等による周辺のイスラム教徒への殺害が起こる。
 この未曾有の事件に黙っていられないのが、アゼルバイジャン共和国の大部分を占めるイスラム教徒たちである。

 イスラムの宗教的な定義においても、聖戦に進んで参加するに違いない。
 ロシア人とロシアの武器で武装されたAUM軍とイスラム教徒の激突が起こる。
 これを機にロシアは「アゼルバイジャン共和国の軍事支配」の目的を裏に隠したイスラエルヘの軍事介入に出るのである。

 表面的には「ロシア人によって組織された反乱勢力の暴挙を鎮圧する」という名目が使われるに違いない。AUMとイスラム勢力の激突は、過去からの確執をもちこしているイスラムとイスラエルにも飛び火するに違いない。

 この事態に危機感をもったイスラエル政府は国連軍に軍隊派遣を要請する。当然、アゼルバイジャン共和国の手前、ロシアはイスラムの側に立つ。
 かくて、イスラエルには終末の預言通りに世界中の軍隊が集結することになる。

 その様子を聖書の終末預言から見てみよう。

エゼキエル書 (マゴグのゴグに対して)―
 主の言葉は私に望んだ。「人の子よ、マゴグの地のゴグ、すなわちメシュクとトバルの総首長に対して顔を向け、彼に預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。メシュクとトバルの総首長ゴグよ、私はお前に立ち向かう。私はお前を立ち帰らせ、お前の顎に鉤をつけて、お前とその全軍、馬と騎兵を連れだす。彼らは皆完全に武装した大集団で、大楯と小楯を持っていて、皆剣を持っている。ペルシャ、クシュ、プトが彼らとともにおり、皆楯を持ち、兜をかぶっている。ゴメルとそのすべての軍隊、北の果てのベト・トガルマとそのすべての軍隊が、それに多くの国民がお前と共にいる。備えをせよ。お前も、お前のもとに招集される全ての集団も備えをせよ。お前は彼らの監督となれ。
 多くの日の後、お前は呼び出され、多くの年を経たのち、一つの国を襲う。それが長く荒れ廃れていたイスラエルの山々で、そこには剣のおそれから解放され、多くの民の中から集められた民がいる。彼らは多くの民の中から連れだされて、今は皆、安らかに暮らしている。(中略)
 その日、お前の心に言葉が浮かぶ。お前は悪い計画を立て、そして言う。『わたしは囲いのない国に攻め上る。城壁もかんぬきも門もなく安らかに生活している静かな国を襲う』と。お前はかつて廃墟であったが、今は人の住んでいる国。諸国民のもとから集められ、国の中心の山々に住み、家畜や財産を持っている民に対して手を上げ、戦利品を奪い、ほしいままに略奪しようとしている。・・・」

 マゴグの地のゴグとは、現在のロシアの事である。そのロシアはペルシャ、クシュ、トガルマ(イラン、西南アジアの国)と一緒にイスラエルの地に集められる。
 それも顎に鉤をつけて引き擦りだされるという。
ゴグとともにいる軍隊は馬に乗り楯と兜を身につけ、剣をもつという大時代的な姿をしている。しかし、それはこの戦争がイスラムの民間レベルから始められるからなのである。

 彼らは好き好んでイスラエルに攻めてくるわけではない。
 「狂気の日本人」の聖地の軍事侵略という事態に、仕方なくイスラエルに攻め入るのである。
 ゴグにすれば、自国の国民の起こした騒ぎでもある。そして、それはゴグの心に悪い計画が浮かんだせいであり、ゴグは戦利品を欲しがっているのである。

 ロシアAUMの動きいかんで引き起こされる事態を予想した時、黙示録の預言は現実のものとして我々に迫ってくる。
 そしてそれは麻原が逮捕された現在でも、違う形で引き起こされる可能性が十分に存在しているのである。


 ★「霊界物語」第81巻に描かれた終末の様相


 「霊界物語」最後の巻である81巻は、終末の預言であるとも言われる。
 ここで物語の場面となっている伊佐子島は。イスラエルのことである。
 北のサールはロシア。
 南のイドムはイスラエルにあるアメリカ勢力である。

 イドムは捕獲した人魚の涙で富んでいる(イスラエルがアメリカの偽善で建国された国であり、上流階級に属するアシュケナージユダヤ人だけが、スファラディユダヤ人やパレスチナ人の犠牲の上に権力を持っていることはユダヤ問題で歴然のこととなっている)。

 最初、サール国王は王妃(現ロシア副大統領)と通じている悪の左大臣(陰の陰謀組織?)チクターにそそのかされ、イドムに攻め込む(ロシアがイスラエルに侵入。現在のイスラエルの首脳部は南に逃げて、改心し、そこに神殿を立てることになる)。
しかしサール王は謀殺される(ロシア大統領の暗殺)。
陰の陰謀組織と副大統領は、イスラエルを領地にしようと試みるが、後に残されたユダヤ人とパレスチナ人は団結して、国連に支援を依頼し、この計画を撃退する。
これによってロシア首脳部は失脚。                           次のロシア大統領は、また陰謀家の副大統領の餌食となり、[陰謀組織の傀儡政権]が発生。悪政にロシア国内でも反乱が起こり、ロシアは壊滅。しかしその後は平和な国家が誕生する。
 いっぽうイドムの国が失脚し改心することによって、アメリカ内にあると噂される過激なユダヤ勢力は消滅することになり、アメリカにも政治・経済の大きな改革が起こっていくものと思われる。

 ではその時、日本に破局は訪れないのか?
 訪れないと王仁三郎は語っている。
 なぜならその時、前80巻で葦原国の改革は、すでに終わっているからなのである。


 ★第二次世界大戦前と現代日本の不気味な符合


 オウム事件は終焉に向かっているようにも見えるのに、本当に終末が近づいているのだろうか?
 「同じようなことが二度起こるだろう」
 そう言った王仁三郎の預言を信じるならば、終末前には前大戦と同じことが現在の日本に起こっているはずである。

 では、戦前の日本の様子はどのようなものであったか。

 現在の日本と比べて一覧してみよう(カッコ内は現在の日本の状況)。
 第一次世界大戦の後の1918年から1919年春にかけて停滞していた日本経済は、その春から世界貿易の活性化する見通しから、一転して好況に転じる。

 この時に顕著であったのは株価の高騰と、【バブル経済の発生】これにともなう企業の新設ブームである。
 物価が高騰し、【米の高値と不足】から米騒動が発生する。

 ところが1920年3月15日、株式市場が突然暴落した(バブル崩壊)。これが戦後恐慌の引き金となった(バブル崩壊により、経済恐慌になる)。
 これによってあらゆる産業が打撃を受け、その関係銀行74行が破綻を暴露しはじめ21もの銀行が休業する(金融恐慌)。

 この時、空前の円高となり、それがますます日本経済に悪影響を及ぼして赤字国債の発行となった(円高)。

 そんな中、関東大震災が発生する。このため、国内の経済はドロ沼化を辿る(震災による経済打撃)。

 一方、政界に目を移すと、政治汚職の発覚から政界の分裂が起こり、ついに1924年には議会は解散。激しい政争が展開された末、官僚出身内閣が続いていた政界における8年ぶりの2大政党の交代が起こり、政友会と革新倶楽部との連立内閣が誕生した(政治汚職からの政界分裂と与野党逆転)。

 こうした不安要因の中、日ユ同祖論が熱心に論じられ、日本は次第に右翼化現象を起こして大戦に突入していくのである。

 順序こそ少し違え、これらすべての過程が、現在の日本の状況にピタリと嵌まっているのが分かる。
 もう一度整理してみる。

 1 バブルの発生と崩壊
 2 米価高騰と不足
 3 経済恐慌の発生
 4 金融恐慌の発生
 5 空前の円高とそれによる経済の圧迫
 6 大地震の発生
 7 政治汚職と与野党の逆転劇

 1から6までの項目は、すべて現在の私たちが最近見てきたことである。
 ここに加え、戦前の大本事件以来のAUM事件が発生している。

 時代は、明らかに終末に向かって動き始めているのである。
 しかしここで我々は、過去の過ちを再び犯して「暴力思考」「我よし思考」になることなく、終末への暴走をくい止める必要があるのである。

  続く。
 



●『龍宮神示』を読む。第五章。
 ★フリーメーソン世界支配の幻想こそフリーメーソンの陰謀である
 
  
 先の助教授がAUMと関係を持っていた頃、AUMの幹部から盛んに出たのがフリーメーソンという言葉であった。

 麻原教祖らは本気でフリーメーソンという悪のユダヤ組織が全世界を支配しており、日本の皇室も政治家も国家権力のすべてがフリーメーソンの支配下にあると信じ込んでいた。

 だから彼らにとって全世界は敵であり、この敵は将来メシアとなる麻原教祖を狙っているので、全員で戦わねばならないというわけである。
 さらに彼らは、今現在でもフリーメーソンが潜り込ませたスパイがAUM内部に潜入しているので、あらゆる所に盗聴器をしかけて見張っていなければならないと訴えていたのであった。

 まったく漫画チックな話であるが、本気で彼らはそう思い込んでいた。
 AUMの窓一つない閉鎖的な建物や、盗聴行為などは、こうした被害妄想から生まれた副産物である。

 AUMの科学技術省大臣の村井氏が刺殺された時、救急車の中で呟いた「ユダにやられた」という言葉の意味は、オウム教団内にいるユダヤのスパイにやられたという意味であったことは間違いない。真実は、喋りすぎる村井氏のポア命令を教祖自ら下したことが歴然としているのだが・・・。

 このような体質の発想についていけないと感じた助教授が、正式に出家を拒否し、教団との関わりを一切もたないという態度に出た後のAUMの反応というのが、また異様であった。幹部たちから毎日のように電話がかかり、「お前はフリーメーソンだと分かっている」「AUMの秘密を喋ったら地獄に落ちる」と脅される。
 しまいには電話の調子がおかしいと気づいた彼が探偵局を雇って調べると、何と盗聴器が仕掛けられていた。
 そんな状態が1年近くも続いたが、彼が他にAUMについて喋っていないことを確認したせいか、あるいは活動が忙しくなったからか次第に電話が来なくなった。

 終末の破局や、黙示録を信じる人々はどうしてもこのフリーメーソンの世界支配という思想に取りつかれやすい。
 そしてだんだんに世の中のすべてが悪の組織に支配されており、世の中すべてが敵であるという妄想に取りつかれていく。それであるから、AUM信者のマインドコントロールを解くのは非常に難しい。

 彼らには、我々こそが悪の組織にマインドコントロールされた人々として写っているのである。
 だから警察の発表も信じないという異常な精神構造が発生する。
 筆者の幾人かの知人にもそういう人々がいる。恋人に毒をもられかけたとか、仕事の妨害がフリーメーソンから入ったとか言うので、その根拠を尋ねると、たいがいは証拠にもならないたわいもないことであったりする。しかし当の彼らは大まじめなのである。

 フリーメーソンの世界支配という発想は、ユダヤ人が計画したという悪魔的な世界支配計画を記したとされる「シオンの議定書」というものが大きな根拠となっているが、王仁三郎は「石屋の仕組み」という呼び方で、これについて次のように言及している。

 「これは特定の人種や民族の陰謀などではなく、天地の邪気が凝りかたまって発生したサタンによってもたらされた物である」
 すなわち、この議定書に書かれた世界征服計画を実行する現実の組織や民族などが存在しているわけではなく、これは悪魔の霊的な計画書であると言っているのである。
 霊的なものであるから、これを信じたり、見たりした者は、少なからずこの霊的な影響を受けることになる。
 例えばAUMのように、その思想に取りつかれ、今の世の中はすべて悪の支配する世だということを信じ込む。それで結果的に何をしたかといえば、信者の寄付を貪り、信者をマインドコントロールにかけ、無差別殺人まで犯して国内を社仝的な混乱に陥れようとし、麻原を中心に日本を支配するオウム帝国を作り上げようとしたのである。

 これではフリーメーソンに対抗するどころか、まるで自らがフリーメーソンになってしまっている。
 この現象こそが、本当のフリーメーソンの仕組みなのである。

 フリーメーソンを信じるものがフリーメーソンに変貌していく。
 ヒットラーもフリーメーソンの陰謀を信じてユダヤ人の大虐殺を行い、終末を信じて第二次世界大戦中、血眼になってアークを探し求めていたのである。 

  
 ★フリーメーソンは日本完全支配に挫折していた? 

 
 では、フリーメーソンのような世界支配を企む組織が存在しないのかというとそんなこともない。もっと巧妙な仕掛けでそれが進められていた節があるのである。

 筆者が情報を得たのはある大企業の取締役役員からであった。それはあのリクルート事件に関係することである。あまり詳しく内容を紹介すると、筆者自身が危ないので、内容をかなり簡略化させて頂く。

 時の中首根総理はフリーメーソンとしてよく名前を取り沙汰される政治家の一人であるが、彼はある密約をした。それは日本における情報産業を将来取り仕切るトップになるという密約である。
 そこで彼はクレイ社からスーパーコンピュータを輸入することになった。彼は自分の息のかかったリクルート社とNTTを結び付け、NTTによってスーパーコンピュータを輸入した後、リクルート社に売り渡す仕組みを作った。

 リクルート社は数百億円という資金をかけて世界最大のコンピュータータワーを設置したが、現在では閑古鳥が嗚いている。
 実はこのコンピューターシステムは将来の日本マルチメディア化にむけて、各家庭に2010年までに引かれるマルチメディア回線に直結される計画であった。そこに京都放送を吸収したダイエーも加わり、一大情報企業が誕生するはずであった。

 つまリ日本のあらゆる情報を一括してコントロールする計画だったのだが、リクルート疑惑発覚によってそれは妨げられた。
(この件に関しては、残念ながら紙面でこれ以上詳しく紹介するわけにはいかない。興味のある人はリクルート事件に関する記事とマルチメディア構想に関する本などをあわせ読んで、ご自分で推理していただきたい。)

 前述したように竹下登首相(当時)のからんだ「竹」の仕組みによって、日本支配計画は妨げられたのかも知れない。しかしこのことで分かるのは、フリーメーソンが存在したとしても、完璧な世界支配の組織などではなく、こうしたミスを多くしている程度のものだということである。 
 

 ★AUMの財源は何か ― 山口組との一問一答 

 
 最近では、AUMの異常な財力が山口組暴力団との癒着から生まれたものではないかという推測が取り沙汰されているが、そのことで一番当惑しているのが山口組自身である。

 筆者はかねてからの知人の伝手で山口組直系の大幹部にインタビューした。次がそのインタビュー結果である。

 山口組とAUMが癒着していたというのは本当ですか?

 「いいや、その件では本部も迷惑しとるよ。確かに宗教団体は金になるさかい一時いろんなとこと商売しとったようやけど、AUMに関しては問題が多すぎるから手をだすなっていう回覧がずいぶんと前から回っとんのや。法律変わってからヤクザも難しなったからな、あんまりヤバイことには手ぇださんよ」

 だが、羽根組が村井氏を剌殺しだのは事実でしょう?

 「あのな、羽根組ちゅうのは、山口組の直系やゆうてえらい言われてるけど、そんな大した組やない。小さな組や、やった徐いう男も正式な組員ちがうやろ。本当に組が関係してたら、ちゃんと組員にさすがな、あんなもんにさしたら何喋るかわからへん」

 じゃあ、本当に羽根組幹部の個人的な犯行ですか?

 「そうやろ。今はヤクザも金に困っとるさかい、なんでもしたんやろ。依頼したのはAUMらしいで、AUMの筋から日本の韓国ヤクザに回って、それから羽根の幹部に来た話らしい」

 AUMのバックには○○○会と○○○○教会がついていると言っている人がいますが、そういう話を聞いたことはありますか?

 「まぁ、そうらしいで。もともとその韓国ヤクザもそことは繋がりが深いからな」

 でも、山口組がAUMから流れた覚醒剤とかを売っていたんでしょ。

 「クスリ売るのはヤクザの仕事やけど、バイヤー言うのは本当の末端の下っぱがやってることが多いんや。どこからどう入るかなんか、本部直のもの以外は統制でけへん。しやけどな、クスリ売る言ったかて元値は二束三文やで、そこに土地転がしやったって知れとる。それをどんだけ回したらAUMがいうような一千億ゆう資金が出てくるねん。そんな金がでけるんやったら、それ仕切ってるわしらが、もっと金持っとるわ。違うとこから金が出てるんやで、まぁ、そこまで警察が調べるのは無理やろうけどな・・・それよりわしも最近ようAUMの番組みとるけど、AUMが尾崎豊を宣伝につかっとる言うてるやろ。あれ関係あるんかな・・・?」

 尾崎豊のことで何か知っているんですか?

 「いや、わしのとこにある組員が来てな、自分が尾崎の身内にクスリ売っとった本人やいいよんねん。尾崎が死んだ日もその身内と一緒におって、クスリで飛んだ身内が尾崎のコーヒーに、たくさん覚醒剤入れよって、それで死んだらしいで。その話をどっかに売りたいゆうんや。わしは、そんなしょうもないネタ売っても、はした金やから止めとけ言うたけど、AUMも覚醒剤売っとったやろ。なんか関係あるんかな?」

 筆者には尾崎豊とAUMの覚醒剤疑惑に関連があるのかどうかは分からない。だが尾崎豊か覚醒剤で死んだのだとすれば、AUMが信者勧誘のために「フリーメーソンの世界征服計画に対抗して殺された」と主張する尾崎豊を間接的に殺したのは、実は彼ら自身だったことになるのではないか。

 山口組はAUMとの関連を取り沙汰されて、相当当惑していることは確かであるが、覚醒剤や土地転がしで一千億円の資産は作れないというのであれば、AUMは一体どこからそれだけの膨大な財源を得ているというのであろうか? 
 
 
 ★暴走しすぎる麻原に粛清命令を下したのは誰か 
 
 
 「霊界物語」80巻で登場する凶霊・水奔鬼・すいほんき(笑い婆、誹り婆、怒り婆、泣き婆の4匹の鬼)は、AUMと関係の深い前記教団を併せた、4つの教団を象徴している。

 この4者の宗派や主張は各々個性があるが、共通して言えることはこのすべての教団が「ハルマゲドン」思想を持っているということである。

 つまりこの4者ともが「悪意ある終末思想」の宣伝教団であり、王仁三郎批評するところの、神の経綸を最後まで執念深く妨害する「ウラナイ教」であることには間違いがない。

 気になる4教団のバックには韓国系の財閥が存在すると言われている。

 村井氏が発言した「AUMの資産は1千億円ある」に我々は驚いたが、それはAUMが1千億円持っているというよりも、1千億円の予算の枠をバックが保証しているということなのではないだろうか?
 同財閥は北朝鮮の地下資源の開発権を手にしたいがために、北朝鮮の政治分裂を狙っていると噂されている。

 もちろん韓国の一財閥にこれだけの力があるはずがない。
 この財閥はアメリカの巨大資本と結びついており、CIAにも顔がきくという。
 AUMの洗脳が話題になった時に、過去CIAで行われた過激な洗脳実験の様子がテレビで報道されたが、AUMに洗脳のノウハウをもたらしたのは案外この筋であったのかも知れない。

 ところが、AUMが巨大になるにつれて、麻原が勝手な暴走を始めた。

 機関誌でマル秘情報をすっぱ抜いたり、前記2教団の教祖を殺害する計画を練ったりするに至って、バックの財閥は怒り、「麻原を粛清せよ」の命令が下ったといわれている。

 今まで散々騒動をおこしているAUMを、手を拱いて見ていたはずの警察が、突然強制捜査に踏み切ったのは、国松長官の狙撃事件だけが引きがねではなく、バックのこうした意思が働いていたからだと考えられる。

 では、なぜ麻原は仲間を怒らせるようなことをしたのか? この辺りの事情が筆者にはいまひとつよくわからないが、ある程度推測はできる。

 答えは二つある。

 ①、麻原が自分の教団が拡大していくにつれ、誇大妄想にとりつかれて本気で自分だけが日本の帝王になるのだと信じ込んだか・・・。

 ②、あるいは麻原自身がただ踊らされて、お山の大将になっていただけで、自分自身のバックをよく掴んでいなかったか・・・どちらかである。

 もし後者の方であれば、AUMには麻原とはまったく別に陰の実力者がいるということである。

 村井氏は予算を自由に使えるのは自分だけだというような、気になる発言を友人に残している。
 いったい、村井氏だけが使える予算とはどこから出てくるものだったのだろう。

 もし麻原が1千億円もの巨大な資金を持っているのであれば、自分が1千万程の現金を枕元に置いて密室に隠れていたのは妙である。

 あれだけせっぱ詰まった状況にあれば、もっと以前に金で保護してくれる外国政府の所にでも逃げ込んで隠れていた方がずっと安全といえる。
 あの時、麻原には1千万の現金と、自分の教団しか頼れるものがなかったのである。

 松本サリン事件の時にマスコミに出回った「松本事件に関する一考察」という怪文書も、どう考えても内部からのリークとしかいいようのない内容である。どうやらAUM真理教の内部は、我々が考えるより逞かに複雑な構造になっているようである。

 「麻原はAUM真理教の本体ではない」

 不気味なことであるが、それが真実であったとしたらAUMの恐怖はまだ去ってはいない。
 それはむしろ日本のAUMではなく、ロシアのAUMであると筆者は考えている。
 なぜならロシアのAUMの動きいかんでは、中東戦争の火種ともなるからである。 
 
 
 ★子は親の鏡 ― 弥勒神示からAUM事件への教訓


 今回のAUM事件が発覚しなかったならいったい日本はどうなっていただろう?
 筆者の考えでは、「一厘の仕組み」はもう既に動き始めている。
 オウムの計画通りに、サリンが国会や東京中にまき散らされ、ロシアで組織されたAUM軍が日本の港に上陸していたとしたら日本はどうなっていたか。おそらく、国連軍や諸外国は内乱鎮圧の目的で日本に軍事介入していただろう。
 そうすれば、あの大本筆先にも度々あらわれる終末の日本の預言。
 「その日になれば、外国の軍隊が北(ロシア)からも南(アメリカ)からも日本に攻めてくる」という言葉どおりの事態になっていたに違いない。
 しかしそれは寸前の所でくい止められたのである。

 さらに今回のAUM事件は我々に「終末思想は危険である」という一つの教訓を残してくれた。
 10月17日の淡路島の神業から地震発生にいたるまでに出た弥勒神示には、今回のAUM事件に対する言及とも言える神示が出現している。                   

 「・・・子は親の鏡と申してあるな・・・負うた子に教えられると申してあるな。近頃は子供の自殺がふえて悲しい事であるが、是は皆世の親達の責任であるぞ。その裏には三千年の悪しき原因結果(めぐり)があるのじゃぞ。善も悪も一度世の裁きの庭に現して見せる水晶の世と申してあるぞ。まことのまことの日の本の道を忘れ、利己主義(われよし)となりた日本人民、良く良く世の様を見て改神(心)いたされよ。神代の昔、大宜津比売(おおげつひめ)の神は、我身殺されても、その体から五穀の種を生みて、青人草に恵み残したと伝えてある。是が日本のまことの教えじゃ。大儀親を滅すと言う。親は犠牲となりても子孫の為に尽くす。それで今日迄日本がつづきて来たのじゃぞ。子供に対して、親の欲望をかけておるが、正しく子を育てる為、我身の姿勢を正す真実誠(まこと)が欠けておる。親と子の血のあたたかみ、又、真実の言葉の交流が欠けておるのじゃ。我が生命を伝える子孫に対する親心を改めてまつらねばならぬぞ。子は親の背中を見て育つと言う。早く、世の親達よ、改神なされよ。自らが、世の元の親神に改神のまことの姿を見せられよ。その様が子に写りて、世は改まると言うなり」

 AUM事件で我々の目に最も異様に映ったのは、親を平気で捨て、人殺しをすることを何とも思わない若きエリートたちの姿であった。
 しかしそれは他人ごとではない。

 神示は、日本人民が利己主義に固まり、子供にまで自分の欲望をかけて育てた結果が「水晶の世」に子供たちの姿として写し出されているというのである。
 彼らの姿は、我々自身の姿なのである。
「真の心」と「真の言葉」を失った結果でしかないのである。
「預言や終末」に心を奪われるより、そのことを考えることの方がずっと大切なことである。

 もし、本当に「終末」が起こるのであれば、スサノオが出現する必要性などまったく存在しない。
 王仁三郎は終末の解釈を、「霊界物語」の北光神(スサノオの分身)に、次のような言葉で語らせている。

 「たとえ神諭に天地が覆ると示してあっても、泥海になるとあっても、人間が三分の一になると示されてあっても、眩彙(げんうん)がくるとあっても、決してこれを文字そのままに解すべきものではない。すべて内儀的、神界的、心霊的に解すべきものである」

 現象に心を奪われるより、心にもっと気を配らなければならない。
 人の心をそのまま写す「水晶の世」とは、人の心そのままに「終末」を演出したり、「愛と和合」を演出してみせる。

 その結末は、すべて我々の心のあリ方いかんにかかっている。空気清浄器を作っても、サリンを研究しても、悪人(彼らが言っところによると)を殺しても、それでは何も解決しないことを胸に叩きこまなければならない。 


 ★竹の時代はこうして終わる 

 
 竹の時代の終わりはいかにして訪れるのか?

 前記した「龍宮神示」には次のように示されていた。

 「竹から生まれた松と梅。竹にもどりて・・・竹は腐れて土となり、明るく丸き地上界が誕生する」
 「竹に生まれる香具屋姫、乙姫殿が改心すればそれが最後の神業となり、宇津女神が登場して地上のありとあらゆる汚れを払う」

 これらの神示は次のようなことを告げている。
 現在分裂している大本数の各派が和合し、さらには「錦宮」「竹神業」をする集団とも一致団結して和合の型を教祖自ら作ることが、竹の最後の神業なのである。
 それは日本、ひいては世界の和合の型を作ることであって、竹の象徴する「力の衝突」の世が腐って土となり、新しい世の到来を促すのである。
 そして同時にAUMもその型を示すことが要求されている。

 「梅と松は竹から生まれた」とはっきり示されているように、「梅・松」は「竹」と親子の関係にある。
 これに象徴されているように、AUMによって引き裂かれた親子や家族が互いに対する愛を取り戻し、元の形に戻ることが必要なのである。

 本当の愛と偏愛とは違う。
 偏愛は「身内主義」「極端なナショナリズム」「他者を否定する心」へと発展する。ここで言う「愛」とはまるで性質を異にしたものである。

 「愛と和合」のテーマは「霊界物語」においても大変重要な位置を占めている。
 「霊界物語」の67巻から72巻までの間は、男女の大恋愛の話で占められている。
 また「霊界物語」全編を通して多いのは、子探し、親探しのテーマである。
 これは、ただ単に男女の愛と親子の愛だけを問題にしているのではない。男女・親子の愛というものは、人間の中にある一番身近な「愛」である。この「愛」が正しいものであれば、男女の愛・親子の愛→他者への愛→社会への愛→世界への愛→宇宙への愛へと発展し、それが子(人間)が親(神)を捜し当てることに繋がるのである。

 生前、王仁三郎は、
 「愛というものは本当に人を動かすことが出来るんや。愛ひとつで世界をひっくりかえすことも出来るんやで」と語って憚らなかった。
 この愛の実践は私たち一人一人が求められているものでもあるのだ。
 「霊界物語」では、顕津男の神に大恋愛して後を追っていく朝香比女神が、その旅の過程で、次々と悪神を退治していく物語が「愛の力」の顕現として語られている。

 神への大恋愛。
 それが悪の世を滅ぼす力になるのである。
 しかしここでいう力とは暴力のことではない。

 「霊界物語」を読むと、正神は悪神を常に言霊(正しい力を秘めた言葉)の力で和らげ、退散させてしまうのである。

 「霊界物語」78巻より -

 顕津男の神を追っていく朝香比女の神は、船にのって大小の島を縫いながら進む。
 これを知った曲津神グロノスをロゴスの2巨頭は、あらゆる曲津神を呼び集め、死力をつくして戦わんとすが、朝香比女神の言霊に打ち破られる。しかも葦原の国に上陸した一行に竜神、大蛇、猛獣などの潜む大野原を焼き払われて、曲津神たちは全て逃げだしてしまうのである。
 朝香比女神は、供の4神を悪の根拠地クロスの沼へ悪魔退治に向かわせる。4神は「ウ」の言霊の助けを得て奮闘。グロノスとロゴスは悪龍蛇身に変身し、水面をのたうちながら、黒雲を起こし、雷鳴を轟かせてどこかに逃げ失せる。

 これを受け、大宴会が開かれた。朝香比女の神が葦原国の鎮めとして火打ち石を葦原国の葦原比女に送る。その火打ち石で山野を焼き払うと、悪魔は葦原の国土を捨てて遠く西方に逃げ去った。
 葦原の国の天地が清められ、春は花咲き、夏は植物茂り、秋は五穀がみのり、四季の秩序正しい美しい国へと葦原国は再生した。
 朝香比女神は新国土の成立を見定め、再び船にのって万里の海原に向かう。
 
 ●第五章 悪の世を照射する水晶の役割はAUMが担っていた  <了>。              
 



●『龍宮神示』を読む。第五章。
 ●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む(3)以降、少し寄り道が過ぎたが、
 
 『龍宮神示』第五章、第六章
に戻る。

 『龍宮神示』第五章を紹介していく前に、本書冒頭の★「はじめに-【大本】悪の霊脈はAUMに引き継がれていた」内容を再確認しておきたい。

 *************

 ・・・
 出口王仁三郎の本当の預言とは何か?
 大本教の裏神業とはなにか?

 今までほんの一部分しかかいま見ることができなかった大本の全容を解きあかしていくことにしよう。
 そして今回、日本中を震憾させたAUM事件を王仁三郎は預言していたのである。

 現在(*1995年)、日本中に吹き荒れる終末思想とオカルティズムの風潮を生み出してしまったことを我々は深く反省しなければいけない。
 こうした風潮に幼い頃からどっぶりと浸って育った年齢層が、AUMの信者の大部分を構成していることを真剣に考えなければいけないのだ。

 それは、霊学を取り扱う者たちが、預言に対してスキャンダラスな扱いをして、そのニュースソースをよく吟味しないまま垂れ流した結果であると言わざるを得ない。
 このような風潮の中では、自分(月海黄樹)の専門である霊学を自らの著書としては決して取り扱うまいと固い決意を持っていた。

 しかし今回のAUM事件で、たった一度だけその戒めを破ることにした。
どうしても、日本の宗教がカルトに偏ろうとするこの流れだけはくい止めなければならないからである。

 そのために本書では、大本教・出口王仁三郎に関する預言と裏神業を正しい認識を持って解く鍵を提示したい。

 第一章においては大本の誕生とユダヤとの歴史的な繋がりを、丹後半島にある元伊勢神宮にあったとされるアークの秘密から探っている。

 第二章では余り知られていない。ユダヤの宗数的な秘話が、大本の教義と「一厘の仕組み」の中に反映されているという事実を紹介する。

 第三章においては時の政治権力を神業のために操った王仁三郎の恐るべき霊力と、裏神業の誕生の歴史に焦点をあてる。

 第四章では、いよいよ大本預言の真相と仕組みを解明していくことになるのだが、世を賑わしているAUM事件を王仁三郎が預言しており、この事件自体が一つの神示となっていることに注目して頂きたい。そして未だ世の中に出ていない大本系の預言の数々をご紹介しよう。 


 第五章は、預言からAUM事件の本質を解明したものである。筆者独自のAUMに関する
 レポートも追加した。読者が驚くような事実も登場するだろう。

 世界規模の真のハルマゲドンはAUMによって勃発する可能性があるということも特筆しておく。

 第六章は、終末の世の「一厘の仕組み」の秘術と、用意されている理想社会の出現を紹介する。


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 以下、第五章を引用・紹介していく。


 ● 第五章 悪の世を照射する水晶の役割はAUMが担っていた!

 ★「あ」は「大本」、「あうん」=「AUM」は最後の型示し 


 読者諸君の興味は現在、第四次大本事件がいつ起こり、それによって日本・世界がどうなるかに集中していると思う(だが、くれぐれも暗い悪想念に捕らわれないでもらいたい)。

 第四次大本事件はいつ起こるのか?
 答えは「もう起こっている」のである。
 それは最近世間を騒がしているAUM事件においてである。
 なぜAUMが大本の型示しに関係があるのか? と疑惑を持つ読者も多いだろう。

 実のところAUMは大本教が産み落としたとも言える宗教なのである。

 その詳しい説明は後に記す。近年のAUMの強烈なハルマゲドンのアピールや、自分たちだけが真理者であり、他のものはすべて滅びるべき対象であるという考えかたは正しくヤハウェイ数であることは火を見るよりも明らかであることはお分かり頂けると思う。

 王仁三郎は、その最後の仕組みを「霊界物語」の73巻から81巻に記したとしている。・・・略・・・
 
 ★AUM事件はどう終結するか? 


 これからAUMがどうなるかが、世界がどうなるかを暗示している。「霊界物語」最後の章からAUMの今後を予見してみよう。

「霊界物語」81巻より
 ・・・イドムとサールは国力に大きな差がある。イドムは領土に住む人魚を捕獲し、その涙から生まれる真珠で潤う富んだ国である。
 しかしサールには巧みな策謀を巡らす悪の左守チクターが付いている。チクターはサールをイドムとの戦いに焚きつけ、サールはイドムに侵入する。イドムの国王は逃亡しその先で主の神への本当の信仰に立ち返って、神殿を作る。
 サールとイドムの戦いは、サールの勝利となり、チクターはサールを神として崇め、我が意を得たりと熱弁をふるう。チクターは神を忘れたサールの国の国王を謀殺する。チクターはサールの王妃と深い恋仲になっていたのである。
 しかし王妃とチクターは欲にかられて人魚を1人で捕獲しようとして、逆に人魚達の反乱に出会い、1人残らず絶滅する。
 一方サール王の後をついだエームスはイドム国のチンリウ姫と偽られ、その侍女のセイリウと結婚するが、セイリウはイモリの精と恋仲になって、エームスを殺害。イモリの精の化けた贋のエームス王とセイリウ姫の暴政に、国民の不満が勃発して暴動が起こり、彼らは全滅してしまう。
 王家の滅亡後、敬神の念のあついナーリスによって、サールは神政を復古する。終末の世に立役者となる悪役はイドムとサールとサールを操るチクターとチクターと通じるサールの王妃である。

 現在、AUMにも4人の立役者が存在している。
 麻原教祖、教祖の妻松本知子、上祐緊急対策本部長、石井久子である。
 イドム(石井久子)とサール(麻原)の勢力争いは激しく、イドムは富んでいた(石井久子は大蔵大臣であった)。
 しかし、その富は人魚の涙の真珠を搾り取るという方法でなされている(一般信者から布施を搾り取る)。
 しかしイドムはサールに侵略されてしまう(妊娠問題〔麻原の子か?〕で石井久子は松本知子に完敗した)。

 サールの王妃(松本知子)と組んでいたチクター(上祐)は知恵が回り雄弁である。麻原教祖の逮捕後、妻の松本知子を神(教祖代行)と崇めて崇拝する(上祐氏は現在でも実行部隊を警察に引き渡しているが、その事は結果的に麻原教祖の首を絞める結果になっている。上祐は麻原粛清命令を受けて、わざとボロを出しているのではないのか?)。
 しかし、チクターとサールの妻(松本知子)も被害信者の訴えにあって、自滅。警察に捕らえられるだろう。

 サールの子のエームス(三女アーチャリー)はエームスを偽った自分の利益を追求するパートナーと組むが、相も変わらぬAUM体制を維持しようとして、信者の反乱が起こる。

 そしてAUMはまともな信仰に立ち返っていく。
 この本が出るころ、AUMはどのへんの過程にいるのだろうか。 


 ●大本教から生まれたAUM  


 大本教内部についての情報をリークしてくれたのは、某大学の助教授であった。
 彼は非常に信仰心が深く、AUM真理数がようやくマスコミに取り上げられ始めた平成2年頃にAUMの研修に参加し、幹部候補として盛んに勧誘を受けた。
 当時のAUMはまだ一連の問題を起こす以前であり、宗教法人にもなっていなかった。
 テレビやマスコミではAUMが狂い始めたのは衆議院選挙に麻原教祖が落選してからだと伝えているが、もっと以前からその傾向はあったと彼は指摘している。

 彼は大学の助教授であるだけでなく、家柄が大変良かったため、AUMとしてはどうしても欲しい人材だったのであろう。再三勧誘が繰り返され、彼は麻原教祖や今日マスコミを賑わせている幹部連中のほとんどと親しく話をしたという。
 その中で麻原は教団の発展に対して非常に自信満々で、出家に消極的な同助教授に対して「あなただけに教えて上げよう」と言って、AUMにいかに強力なバックがついているかを力説した。

 麻原自身はAUMに陰の支援をしているのは、日本有数の巨大新興宗教団体(仏教系)と、さらにこれも有名な韓国系の宗教団体(キリスト教)の幹部が麻原の顧問役であると語り、AUMの発展は約束されていると言うのである。

 「だから、貴方がAUMに入ってくれれば、それなりの地位を約束しますし、未来の日本のリーダーシップを執ることが出来るのです」繰り返し麻原はこのように言った。

 助教授が麻原の態度を不審に思い、「しかしそうも違う宗教で協調することが出来るのですか?」と尋ねると「おかしなことをいいますね。みんなハルマゲドンに向かう同志じゃありませんか」と彼を説得したという。

 AUMのバックに他のカルト教団がついているのではないかという疑いはこれまでも持たれていたが、後者の韓国系の新興宗教などはAUMのイニシエーションの儀式や霊感商法、ハルマゲドン思想を構成するのに一役買っているに違いないと思わせるほど、現在のAUMと形態がそっくりである。
 またこの教団は北朝鮮との深い関係も取り沙汰されており、多分に危険思想を持っているとされている。

 前者の仏教系の教団名は意外であった。この教団はAUMというより「○○の科学」との繋がりのほうが表面的には出ており、むしろAUMとは犬猿の仲に見えている。
 ところがさる筋によるとAUMのバックにある両者には同じ銀主(融資元)が付いており、きわめて近しい関係であるということで納得できた。つまりもともと前者の教団の銀主だった組織が、この教団の宗教的ノウハウを手本に韓国で作リ上げたのが後者の教団であると言う。

 キリスト教にしたのも、韓国ではキリスト教が主流であるため、発展しやすいと踏んだためと言うのである。
 宗教理念も金次第でどうとでも転ぶということであった。

 さらに前者の教団は、教団創始者がもと大本教の石井派と深い関係があったとも言われている(一説には一時、大本にいたとも言われている)。
 この教団は日蓮を崇めている。

 二・二六事件の前に、青年将校が大本教の王仁三郎を尋ねてカンパを無心したという経緯を前述したが、その二・二六事件の黒幕だった北一輝が「日蓮」と「法華経」の心酔者であったことは有名である。
 大本教とこの宗教は戦前から「強烈な日本至上主義」で結びついていたのである。
こうして見てみるとAUMのバックと言われる両教団も過去の歴史から見て、内在的にクーデター志向や戦争志向を持っているようである。

 最近AUMの宗教法人資格が不当に許可されたのではないかという疑惑がもたれているが、AUMの政治的な工作は日本政界に力のある同教団によって取次ぎされたものらしい。

 また、ロシアヘの政治工作も同様の筋から行われたのであった。
 言わばAUMは大本の霊系を受け継いでうまれた「時代の申し子」なのである。

  続く。
 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(25)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(25)
  上原勇作元帥の「草」にして、ケシを植える男・吉薗周蔵 ◆落合莞爾   


 ★薩摩軍人の星・上原勇作 対露非戦派・長州閥と対決 

 明治31年に高島鞆之助が桂太郎に追い立てられる形で去り、32年には川上操六が病死した陸軍にあって、トップの参謀総長に就いた薩摩の大山巌は、敢えて寡黙を装い、政治に関与するのを避けた。若い頃からチャリ(滑稽)好きで知られた陽気な性格からすると、真に不思議なことで「薩摩型統帥の理念を大山が自ら具現したもの」と俗流は解している。

 しかし、これには相応の理由があった。英露の世界史的抗争=グレートゲームの中で、在英ワンワールド首脳が薩摩支部に与えた責務はロシアに対する軍事的対抗で、そのため薩摩派の将領たちは、維新政府の中でなりふり構わず軍拡を主張してきた。
即ち吉井・高島・樺山・松方らで、大山もむろんその一人である。これをずっと妨げてきたのが長州派で、理由は民力涵養のための非戦主義と言ったところであろう。

 そこで、玄洋社を看板にした杉山茂丸が、折から台頭してきた長州の新興勢力たる児玉源太郎と桂太郎を英同盟構想によって取込み、この両人の工作で、恐露病者で慎重派の山県有朋と非戦主義者で親露派の伊藤博文との間を分断し、伊藤を枢密院議長に祭り上げて政治力を封じた結果、国内が一転、対露積極策で固まり、大山が大声を出す必要が消えたのである。

 大山が寡黙を徹したため、陸軍内部では長州勢が人事権を握ったが、これには薩摩から長州に対する報償の一面もあった筈だ。とにかく陸軍の薩摩健児の寥々たる境遇は、真相を知らぬ九州軍人たちの同情を買ったが、その中で上原勇作だけは陸軍有数の欧州通として知られ、識見手腕ともに抜群で長州派にとっては最も手強いライバルであった。

 明治32年に男爵・林董の随員としてハーグ平和会議に派遣された上原は翌年少将に進級し、砲工学校長兼参謀本部第三部長に補せられ、34年には工兵監を命ぜられた。軍事スパイとして知られる石光真清の手記によると、大連に滞在していた石光は36年7月末、上原少将が信濃丸で到着した知らせを受け、船上に上原を訪ねて情勢を報告したところ、上原は石光の境遇や将来の方針、経済状態まで詳しく質問して労を謝した。

 これは、ジュネーブで9月から開催される万国赤十字条約会議に際し、7月20日付で委員として参列を命ぜられた上原が、渡欧の途上、大連に寄港した時のことである。上原は石光に日露の戦雲接近を告げ、交通機関、特に鉄道輸送力につき精密な調査をするように注文したのは、あくまで陸軍工兵監としての立場であった。対露戦に備えるため、自ら予備役編入を願い出て陸軍特務となった石光が、永年の活動を記録した有名な手記の中に、上原勇作の名が出るのはこれきりである。

 予備役少佐として裏から陸軍の支援を受け、時には現役に復帰して、生涯を陸軍のための諜報活動に挺身した石光だが、その後半生はむしろ上原元帥の私的諜者であった。むろん極秘の事で、長男・石光真人の編集になる『石光真清手記』が、石光と上原との右の関係を隠したのは、当然というべきであろう。
 37年2月19日欧州から帰朝した上原は、6月に勃発した日露戦争で、第四軍参謀長として岳父の第四軍司令官・野津道貫を助けて活躍した。39年1月に凱旋するや、戦功により功二級金鶏勲章及び年金一千円を賜わり、7月6日付で陸軍中将に進級、40年9月21日に男爵を授爵し、41年には勲一等瑞宝章に叙せられた。


 ★湧き起こる陸軍改革運動 増師実現へ上原を担げ


 明治40年4月4日、陸海軍首脳は陸軍二十五個師団・海軍八八艦隊による「帝国国防方針」を策定した。その濫觴は39年8月の第二次日英同盟調印に際し、英露開戦となった場合のわが軍の対処方針につき、前参謀総長・山県元帥を中心に検討したものとされる。当時の陸軍三長官は参謀総長・児玉源太郎、陸軍大臣・寺内正毅と長州が占め、教育総監だけが薩摩の西寛二郎で、三人の上に陸軍のドン山県有朋がいた。かつて恐露病者と揶揄されていた山県は、杉山茂丸の調略により日英同盟に依拠した対露積極案に鞍替えし、日露戦争で運良く功績を挙げた。「帝国国防方針」は、対ロ積極論の延長線上にあるもので、英露のグレートゲームに巻き込まれた日本には、英国の傘下たる以外に選択肢はなかった。恰も戦後日本が60年経っても米主日従体制を抜け出せないのと同様である。「帝国国防方針」の陸軍案を作った参謀本部作戦班長・田中義一中佐は、児玉源太郎の薫陶を受け、山県・寺内ら陸軍首脳の信任も厚い長州の寵児であった。

 陸相・寺内正毅中将は長州閥の意識が強く、軍人として声価を高めていく上原を警戒し、軍中央から遠ざけるために上原を41年12月21日付で旭川第七師団長に飛ばした。長州派の露骨な派閥人事に対する欝積が嵩じて、明治42年頃から陸軍改革運動が参謀本部内に澎湃として起こる。陸軍内の派閥解消を目指す運動で、首謀者は佐賀の参謀本部第二部長・宇都宮太郎少将(士官生徒七期)と薩摩の戦史課長・町田経宇大佐(同九期)であった。彼らは改革運動の中心に第七師団長・上原勇作(同二期)を担ごうとしたが、担ぎ手が九州人ばかりでは藩閥抗争と受け取られる虞があったところ、軍事課長・田中義一大佐(同八期)が加わったため、展開が急に広がった。長州閥の寵児・田中が派閥よりも政策を優先し、上原を担いだのは見識である。

 43年11月少将に進級した田中は、歩兵第二旅団長として10か月を過ごした後、44年9月1日付で陸軍省軍務局長に就いた。前年に大韓帝国を併合した日本は、朝鮮半島の治安維持とロシアの南下に備えるため、駐韓常備軍として二個師団の新設を必要としたが、日露戦後の財政難と厭戦気運から世論の賛成を得ることができないでいた。ところが海軍が戦艦8隻に巡洋艦8隻を揃えるいわゆる八八艦隊の保有を帝国議会で認められたのは、折から英国が大型戦艦ドレッドノート号(いわゆる弩号)を建造したことで世界が大艦巨砲時代に入ったことを国民が理解したこともあるが、海軍の総帥・山本権兵衛大将の政治力による所が大きかった。そこで陸軍省は悲願たる増師の実現のため、省の要の軍務局長に田中少将を就けて省内を取り仕切らようとしたわけである。田中らの共通認識は悲願達成のために担ぐべき神輿は上原以外にないというものであった。

 田中就任の前々日、8月30日に第二次西園寺内閣が成立するが、朝鮮総督に専任するため9年も就いてきた陸相の座を去る寺内の後任を巡り、上原と石本新六(士官生徒一期)の争いとなる。田中らの思いにも関わらず寺内が後任陸相に選んだのは、永年にわたり陸軍次官として支えてくれた石本であった。上原は9月6日付で宇都宮第十四師団長に転補されて都合4年も田舎回りとなる。まことに露骨な寺内の派閥意識というほかない。ところが10月、孫文が辛亥革命で清朝を倒した結果東亜の軍事情勢は急変した。すなわち、大陸政変に刺激されたロシアが満洲・朝鮮にどう出てくるか、全く予断を許さなくなったのである。これに対処するため、強引にでも註韓二個師団の増設を避けられない状況となった陸軍で、新任の石本陸相が45年4月2日に過労死したので、お鉢は自然に上原に回り、山県元帥の推薦によって上原は、4月5日に陸軍大臣に就く。増師案の実現に向けて原案を作ったのは、軍事課長・宇垣一成大佐であった。陸士の学制改正により士官生徒十二期は士官候補生に移行したが、宇坦はその第一期生で、石光真清の兄・真臣(のち中将)と同期に当たる。軍務局長・田中義一少将が宇垣案を以て内外の根回しを行い、陸軍次官・岡市之助中将(士官四期・のち男爵)が省内をまとめ、陸相の上原中将が政界トップに向けて強力な政治工作を展開するという分担となった。


 ★三居ギンヅルの計らいで 「上原閣下ニ オ目通リ」 


 私(落合)が明治日本の裏面史に目覚めたのは、外でもない。読者も御存知の『吉薗周蔵日記』にたまたま接し、その解読にこの10年を捧げたことによる。『周蔵手記』の第一冊は「上原閣下(時二陸軍大臣、陸軍中将)ニ オ目通リニツヒテノコト」と題するもので、本文は「大正元年八月二日有名ナ上原閣下ノ 手先ト称スル人物 三居二来ル。九日 上原閣下二 オ目通リノ為 東京二出ルコト決ル。 周助ヲジト 前田治兵トガ同行」で始まる。

 明治45年は7月30日を以て大正元年となる。その2日後に陸軍大臣・上原勇作の手先と称する人物が宮崎県西諸県郡小林の吉薗家に三居を訪ねてきた。【三居】とは、当主以外が隠居した場合を指す宮崎方言で、この場合はギンヅルである。四位氏を父として生まれたギンヅルは、母の実家の岩切家で育ち、吉薗に嫁す母の妹の養女分として随行、吉薗家に入った。叔母は吉薗家の跡取り・萬助を生むが、萬助には子供がなく、義姉・ギンヅルが公家・堤哲長との間に作った林次郎に吉薗家を継がせた。
当主林次郎の実母で先代の養姉でもあるギンヅルは、まさに吉薗家の三居なのである。ギンヅルの姉が龍岡家で生んだギンヅルの甥は上原家の養子となり、上原勇作となった。

 陸相・上原勇作の手先を名乗る前田治兵衛の用件は、林次郎の長男・周蔵を上原に目通りさせる一件であった。長男の出郷を渋る林次郎夫婦の説得のために、ギンヅルがわざわざ呼び寄せたのである。吉薗夫妻も納得したので、周蔵は上原閣下にお目通りするため、8月9日の上京が決まり、大叔父の木場周助と前田治兵衛が同行することとなった。

 陸相就任に至るまでの上原の経歴は上に陳べた通りで、34年7月、参謀本部第三部長から工兵監に転じ、以来41年11月まで(日露戦中を除いて)工兵監を務め、日本工兵の中心的存在となる一方、陸軍きっての欧州通として陸軍内の輿望を担った。警戒した寺内陸相により旭川の師団長に飛ばされたが陸軍内の人気はいよいよ高く、陸軍改革運動では改革派の星とされ、寺内陸相の後任争いでは陸軍次官・石本新六に敗れるも、石本が45年4月に急死して遂に陸相に就いた。陸軍改革派が上原を担いだのは「北の守り」即ち朝鮮常駐二個師団の増設実現を期待したものであった。

 永く陸軍中央から遠ざけられていた上原は陸相就任以来、増師に全力を傾ける。寸暇も無いはずの上原は19歳の吉薗周蔵を宮崎から呼び寄せ、8月9日、上総一ノ宮海岸の別荘で引見に及び、「お前んに【草】を頼みたか」と切り出した。「草」とは忍者の一種で「草の根を張る」とも謂い、正業を表看板に掲げて定住し、周囲の信用を得て、裏で諜報活動に従事する者の謂である。  


 ★「アヘンヲ ウヘテミテホシカ」 唐突過ぎる懇請


 明治末から大正に掛け、政界が増師問題に明け暮れていた時、当の陸相が急にアヘンの研究を始めたのは何故か。『周蔵手記』によれば、周蔵に草になってくれと頼んだ後、上原はこう言った。「自分は今、陸軍に対して一つの大胆な事をせねばならぬと思っておる。本当の事を言うと陸軍は今分岐点に来ている。自分が思っていることを誰かが試してくれて、それがうまく行ったら、この日本陸軍は大変な軍になれる」と丁寧な口調で語った。

 イギリスの支援もあり、辛うじてロシアを撃退し得た日本の将来を考えた上原は、陸軍は今や分岐点に来たと判断し、今後は軽重いずれの道を取るべきかが課題と規定したのである。周蔵が「そいはどげんこつですか」と聞いたが、まだ草になるとは答えていない。自分ではやっても良いかと思ったが、ギンヅルに聞いてからと思って即答を避けた。それを聞いた加藤邑は、「即答しなかったのは君にしては上出来だ」と褒めた。

 それでも上原閣下は、自分に内容を話して下さった(以下、カタカナ表記は『周蔵手記』より)。
 「コゲンコツ 思フチョルノデゴアス」と目上の者に言うように―
「アヘンヲ ウヘテミテホシカ 思フチョイモス」。
「アヘンと言ったのかケシと言わずに。ウーン」と加藤は唸る。
「ソレハ 上原サンハマダクハシクハ知ラナイネ」。

 上原は続けて「アヘンがうまく出来れば、軍の裏産業にもなるし、軍人の怪我の治療にも一等と聞くから、自力でアヘンを手に入れたかと思ふちょる」と言いながら、「然しそれはアヘンを余り詳しく知らん、軍の人間の考えでごあんが。アヘンちゅふもんを過大評価し過ぎている可能性もあるのでごあんが」と自ら反問した。誰かからアヘン生産を勧められていた上原は、周蔵の前でその是非を自問自答したのである。アヘンが毒とか薬とかいうが、
  「ドゲンモンカ 身ヲ以テ知ランモンガ アーダコーダ云ッチョイモス。実際二栽培シテ アヘンヲ製造シテミンコトニハ ソレガドンナモンカ分リモッサン。現二日本デモ作ッテハヲルガ 俺イニハ ヤフ分ランノ
デゴアンガ」。

 曰本では古来宗教者や忍者がアヘンを用いたが、主たる用途は自白剤であった。摂津辺でも細々と作っていたが、道修町で薬種屋奉公の太田四郎兵衛が、清国から入ったケシ粒を実家で栽培させた天明8年(1837)が近代国産アヘンの始まりという。その後は、国内需要が少ないためケシ栽培は大して広がらず、明治12年阿片専売法が出た後はほとんど立ち消えの状態であった。ところが曰清戦争で新領土となった台湾では島民の吸引が盛んで、清朝政府も手を焼いていた。政府は内務省医務局長・後藤新平が提案したアヘン漸禁策を採用し、明治31年(1899)の台湾阿片令で台湾島に於けるケシ栽培を禁止したが、吸引用アヘンは輸入に頼っていたので国産化が課題となった。

 摂津三島郡福井村の二反長音蔵が、有望な畑作物としてケシ栽培を勧誘しているのを知った台湾総督府民生局長・後藤新平は、全量の政府買上げを決めて以来、ケシ栽培農家はしだいに全国に広がった。上原が「現二 曰本デモ 作ッテハヲルガ」と言ったのは後藤・二反長系のケシ栽培を指したのである。平時にはアヘンなぞ無関係な陸軍で、しかも永く中央から遠ざかっていた上原は、アヘンと言えばケシ粉で肺壊疸が治った医薬品としてしか認識していなかった。誰かから突如アヘン生産を指示されて泡を食い、「俺イニハ ヤフ分ランノデゴアンガ」と愚痴っぽく言ったのである。


 ★阿片は極秘重要戦略物資 在英ワンワールドの狙い


 戦争史は、攻撃兵器の進化とこれに対する防御手段の発達の弁証法的発展過程である。クリミア戦争では火器が格段に発達し将兵の死傷が激増して、ナイチンゲール率いる従軍看護婦が活躍したが、曰露戦役では旅順要塞のごとき防衛手段が発達し、ナポレオン以来の決戦戦争を持久戦に変えた。勢い戦場に傷病者が累積する中で、火器と同等の重要軍事物資として注目を浴びたのが、麻酔・治療に用いる麻薬モルフィンで、これはケシから取れる生アヘンを精製して作られる。当時は帝国主義の最終段階で、欧州の戦雲は妖気を孕んできた。アヘンの需要は激増するだろう。したがって「軍の裏産業にもなるし、軍人の怪我の治療にも一等と聞くから、アヘンの実際がどのようなものかを、直接知りたいと思うから、お前ん(周蔵)に頼むのは心苦しいが、一番頼み易いお前んに頼みたい」のである。

 周蔵は大正2年6月8曰、70グラムの初収穫を上原に届ける。第三師団長に補されたが赴任せぬまま、その翌曰に待命が発令になる上原は、今後も研究栽培を続けよと金一千円を賞与して、周蔵を驚かせた。大正3年4月、陸軍教育総監として中央に復活した上原に、周蔵は7月3曰、2年目の収穫4百グラムを届けに行く。上原は「量は少ないが、お前んの薬は非常に純度の高か出来である」と今後の増収を期待した。周蔵の栽培品種は、熊本医専と細川藩しか知らない特種で、これに前年に綾部の☆皇道大本で渡辺ウメノから貰ってきた延命の黒ケシが加わった。曰本古来の特種ケシに始まった周蔵のケシ研究は以後もその方向を目指したので、二反長流の量産志向とは異なるのである。

 3年目の収穫を届けた大正4年7月10曰、周蔵は上原の本音を聞いた。「アヘンは軍の勝敗を左右する重大な物質である。それも極秘物質である。現在は支那・インド・朝鮮にその供給を頼らねばならず、いざと言う時に、生産地に裏切られたら、それが敗因になる。陸軍は阿片の自給体制がどうしても必要だ」。上原は周蔵にケシを作らせていた3年間に軍の方針を立て、ケシ栽培に踏み切ったのである。☆これは結論を言えば、在英ワンワールドが、高島鞆之助が杉山茂丸を通じて上原に指示したものであろう。明治40年の英露協商くらいで英露のグレートゲームが収まる筈もなく、現に今でも続いている。戦争手段の発達は世界を縮小するが、イギリス海軍の実力がいまだ極東まで及ばなかった当時、大陸国ロシアを牽制するには極東に海軍力を必要とし、それをイギリスは曰本に頼らねばならぬ段階であった。ところが、曰本の世情は財政難のため、非戦気分に満ちていた。そこで、在英ワンワールドは、軍備の財源として、曰本に阿片ビジネスをやらしてみようかということになったのではないかと思う。 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(25)   <了>。

  続く。                       
 





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