カウンター 読書日記 2008年12月
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●疑史 第52回 上原勇作(4)
 ●「疑史」 第52回 上原勇作(4)  落合莞爾  

 大正元年、吉薗周蔵にケシの栽培を命じた時、陸軍大臣・上原勇作は次のように説明した。
 「実際にケシを栽培し、アヘンを製造して見ん事には、それがどげんなもんか分かりもっさん。毒ちゅふてもどげんな毒か、薬ちゅふてもどげん役に立つか、(中略)現に、日本でも作ってはおるが、俺いにはやふ分からんのでごあんが」。

 アヘンの実際を自分で直接知りたいから、直属の部下に研究させる必要がある。「お前んにそれを頼むは心苦しかも、お前んが一番頼みやすか。だが、自分がその毒に負けんやふに、心してもらわんなりまっせん」。

 新領土の台湾では島民の阿片吸引が盛んであった。台湾総督府は急激な禁止は得策でないとして阿片漸禁策を施行したが、民政長官・後藤新平は、従来輸入に頼っていたアヘンの国産化が国策上・財政上どうしても必要と考え、折から摂津三島郡福井村の篤農・二反長音蔵が畑作物としてケシに注目、全国を行脚して宣伝に務めているのを知り、収穫全量の政府買上げを決めた。こうして日本国内にケシ栽培が根づき、「現に日本でも作ってはおる」状況であったのに、上原陸相は自らアヘン研究を試みたのである。

 私立熊本医専の薬事部の片隅に急拵えで設けられた麻薬研究科に席を置き、薬事部の阪井事務主任に手伝って貰い、吉薗周蔵は五反歩の畑でケシの栽培を始めた、熊本藩の薬事の家筋でハンセン病のために隠棲していた七歳年長の加藤邑に兄事した周蔵は、大藩には古来の忍者アヘンの伝統が残っていることを教わり、熊本藩に伝わる真田流の薬事書を与えられる。以後、周蔵は日本伝統のアヘンの知識を堀り起こすことを研究課題とする。

 大正元年12月、二個師団増設問題で単独上奏して陸相を辞任した上原勇作は、大正2年3月1日付で第三師団長に補されたが赴任せず、6月9日付で待命となる。周蔵が初収穫した70グラムのアヘンを上原に献上したのはその前日の6月8日であった。自宅療養で待命の立場にも関わらず、上原は今後も研究を続ける資金として大枚千円を与え、周蔵を驚かせた。

 その時、周蔵は加藤の教えにより、輸血には血液型分離法が必要なることを上原に具申する。大正3年4月、上原は陸軍教育総監として陸軍中央に復活した。2年目は重要な時機(ママ)に雨に遇い収穫率は落ちたが、4町歩で4百グラムを収穫した周蔵は、それを献上するために7月3日、代々木の教育総監部に上原総監を訪ねると、折しも山東駐在の内示を受けた陸軍兵学校教官・貴志弥次郎中佐を紹介された。その席で周蔵は、後ろ盾の加藤邑が6月に死んだため特務に就く自信を失ったとして、1年間の猶予を請い、今後は3~5年後の収量を7キロに増やすため、協力者・阪井の妻の実家の北海道で畑と栽培者を確保する所存を陳べた。

 上原は「量は少ないが、お前んの薬は非常に純度の高か出来である。三~五年後を考ふるなら、それは良かこつでごあん」と了承してくれた。つまり、周蔵のアヘンは、微量しか取れないが、モルフィン純度の極めて高い品種だったのである。

 大正4年になり、周蔵は津軽、五所川原、中里、金木と青森県の各地にケシ栽培の用地を確保し、アヘン生産を指導するが、当地では古くからケシを栽培しており、津軽という品種もあった。しかし周蔵の栽培品種は、熊本医専と細川藩しか知らない特殊のもので、前年の春、綾部の皇道大本の本部で渡辺ウメノから貰ったアヤタチ上田家秘伝の延命種が新たに加わる。二反長音蔵の(つまり後藤新平の)アヘン生産が量産を目的としたのに対し、周蔵の(つまり上原の)研究はアヘンの品質を目指したので、それぞれ向かう方向はかなり違っていたのである。

 大正4年7月10日、3年目の収穫を届けに上京した周蔵に、上原は鎌田なる人物を紹介した。満鉄奉天公所次長・鎌田弥助で、上原が満鉄に送り込んでいた腹心であった。そのまま、千葉一宮の上原別邸に招かれた周蔵は、正式軍属として陸軍に勤める気はないかと問われ、自分は「草」に決めていることを即答した。上原からは、本日を以て陸軍特務とする。自分の目の黒いうちは上原勇作付特務で良かが「草」は世には出られんぞ、と念を押された。ここで周蔵は、ようやく上原勇作の本音を知った。

 「アヘンは軍の勝敗を左右する重大な物質である。それも極秘物質である。現在は支那・インド・朝鮮にその供給を頼らねばならず、いざという時に、生産地に裏切られたら敗囚になる。そこで陸軍はアヘンの自給体制が必要である」との説明を受けたのである。

 大正3(1914)年7月に欧州大戦が始まり、翌8月に日本もドイツに宣戦した。貴志中佐の山東派遣は大戦に備えたもので、貴志中佐は単身ドイツ軍と戦い偉勲を挙げる。日本軍は11月に山東半島を占領して軍政を施行した。日露戦争から戦争の形態が決戦型から持久戦型に変わり、飛躍的に増大した火薬の使用により将兵の負傷が激増した。鎮痛・治療に用いるモルフィンの原料たるアヘンは、火薬にもまして必要不可欠の軍用物資となったが、欧州大戦が始まるや生産地からの輸入がストップし、日本軍と医療界を困惑させた。

 つまり、後藤新平流の台湾民政・財政上の観点からではなく、軍用物資としてのケシの国内確保が喫緊の課題となったのである。陸相に就いた大正元年の時点で、上原勇作が欧州大戦の勃発とアヘン需要の激増を予想し得たのは、在仏ワンワールドからの秘密の示唆と見て間違いない。ワンワールドからの指示により、陸軍独自のアヘン確保を決めた上原は、調査のために吉薗周蔵を起用し、ケシ栽培とアヘン試作を命じる一方、私立熊本医専に麻薬研究科の設置を命じてアヘン研究の根拠とし、帝大農学士・戸田二郎を派遣した。さらに周蔵を支援するため、函館開発で有名な若松忠次郎に頼み、忠次郎の片腕で実子分の若松安太郎を周蔵のコーチとして付けた。若松忠次郎は北海道開拓使・黒田清隆の側近で、「屯田兵の父」永山武四郎中将とも親しく、北海道財界で名を成した後、東京で不動産を買い込んで財閥となった。

 安太郎は本名を堺誠太郎といい、青森県下北郡大畑港の回船業・堺屋甚兵衛の七代目で、樺太・沿海州漁業で知られた島田商会の妹を妻として、島田商会支配人を表看板としていた。元来海軍の下働きを受けていたが、日露戦争時に陸軍とも関係を生じたので、陸軍での名前を若松安太郎としたのである。大正4年2月に陸軍大将に進級した上原は、12月17日に陸軍参謀総長に就き、以後8年もの間、日本陸軍のトップとして君臨する。

 大正4(1915)年7月を以て上原勇作付陸軍特務になった吉薗周蔵は、9月16日に上京、京橋区新栄町五の三の若松忠次郎の東京宅に転入し、牛込区新小川町の若松の持家にアジトを設けた。
輸血には血液型分離法を必要とする旨の大正3年6月8日の具申を採用した上原は、大正5年に周蔵を欧州に派遣することに決めた。
周蔵は渡航準備として帝大医学部教授・呉秀三の講義を受け、英語をも習った後、旅券に久原鉱業技師・武田内蔵丞?の名を借りたのは、鉱山開発の土木部門を視察する名目である。周蔵は、久原鉱業技師・遠藤某の名を借りた陸軍予備少佐・石光真清に護られて、シドニーから南アメリカ沿岸を回り、地球を一周して大正5年10月26日ウィーンに至る。

 台湾総督・明石元二郎から予め、日露戦争当時、明石が欧州に張りめぐらした諜報網に対する紹介状を貰っていた周蔵は、そのルートで下宿を数ヶ所転々とし、やがて知り合った画家エゴン・シーレの従兄弟で医学生のフエビュール・シーレを通じて、ウィーン大学医学部のラントシュナィダー教室に出入りすることが出来た。5千円の対価を払って血液型分離法の資料を見せてもらい、大正6年3月18日までに全部をドイツ語で写し取った周蔵は、大正5年6月に帰朝した。

 上原は喜び、呉秀三ほか額田兄弟を始め数人の陸軍軍医に報告せしめた。こうして、本邦血液型分離の発端は吉薗周蔵が成したのだが、医者がなし遂げなかったことを恥辱と考える日本医学界は、面子のため、今もこれを秘しているという。

 明石が日露戦役時に張った日本陸軍の諜報網は、上原勇作がフランス留学の際に加入した在欧ワンワールドが協力したもので、見方を変えれば、ワンワールド諜報部門の下部機関でもある。
上原の陸相時代に陸軍軍医総監に就いた藤田嗣章は、元台湾総督府陸軍軍医部長で、第五師団軍医部長を経て日露戦争時には第四軍軍医部長であった。野津道貫が司令官の第四軍は参謀長が上原で、この両人が懇意なのは当然である。
上原は藤田の次男・嗣治の才幹に注目していた。兄・嗣雄は東京帝大法学部卒の軍事法制学者で後に陸犬教授となるが、嗣治は次男で明治19(1886)年、東京市牛込区新小川町に生まれた。ここに後年、周蔵がアジトを構えたのは奇縁である。
父の勤務の関係で、明治21年には熊本に移転、熊本尋常師範附属小学校に入学した。小学校の先輩に石光真清がいるのも奇縁である。
やがて家族は東京に戻り、東京高等師範附属小学校へ転入、明治38(1905)年東京高師附属中学校を卒業し東京美術学校に入るが、西洋画科主任・黒田清輝にその画風を認められず、明治43年に卒業した後、文展に応募するも3年続けて落選。遂に渡仏を決意して大正2(1913)年8月、パリに着いた。時に26歳であった。

 後年パリを根城に上原の「草」として活躍する藤田嗣治は、佐伯祐三の場合とよく似ている。西本願寺系寺院の次男の祐三は秀才校の北野中学に合格して大谷光端師に見込まれ、本願寺の「草」としてすでに中学時代に実績があった。光端師の意向で、将来画家を「表看板」とすべく東京美術学校に入れることになったが、美校は海軍の管轄で黒田清輝が牛耳っていたから光瑞師も力及ばず、上原勇作に海軍工作を頼んだ。

 上原は海軍の総帥・山本権兵衛への工作を周蔵に命じたが、周蔵のコーチ役・堺誠太郎が権兵衛に道を持っており、その筋で佐伯を美校へ裏口入学させることができた。
後年、周蔵は佐伯夫妻をフランスに留学させた時、フランスで佐伯夫妻を引き受けたのが、周蔵が文通で知っていた藤田嗣治である。北野に劣らない秀才校の高師附属中学に学び、美校も自力で入った才能に目をつけていた上原は美校を出て3年も無職の嗣治に手を延ばして渡仏させたと見てよい。

 留学当初から「草」であった藤田は、パリで上原の諜報網に加わった。大正5年渡欧した周蔵は、明石から渡された手紙を相手に渡すだけで次の相手を指示され、次々と辿って自然にウィーンに入った。周蔵はその時には藤田に遇わなかったが、上原の諜報網の存在を察知し、「閣下はフランスに相当草を張っている」と記している。それは同行した石光の動きから察したものと思われ、石光はこの時おそらくパリで藤田に遇っていたものであろう。

  ●「疑史」 第52回 上原勇作(4)  <了>。 

    


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●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (5)。
 ●次に、『評伝 北一輝』から引用・紹介していく。 
 
 ★ Ⅲ・中国ナショナリズムのただなかへ
   第7章 『日本改造法案大綱』 

 
 ・・・
 北と大川の「喧嘩」については、後にふれよう。この文章には、北に対する大川の親愛感が横溢している。それは、北が刑死してから16年も時がたっている懐かしさもあろうが、それ以上に猶存社での北との蜜月時代が活気もあり、楽しさもあった事実として、かれの記憶に刻まれていた事実を示していよう。

 この蜜月には、気性の激しい大川と北のあいだに、「天神さん」とよばれた満川亀太郎が緩衡帯として介在していたことも大きく役立っていた。老壮会でも猶存社でも満川はほとんど世話役として、組織をまとめる立場にいた。かれは大正元年1月に大日本社をやめ、猶存社の運動に専念していたのである。かれの生活費は、東洋大学教授をつとめて捻出していた。

 猶存社は、国家改造運動に情熱を傾ける人びとの梁山泊の観を呈すようになった。そこに集まってくる人びとの名を紹介する意味もふくめて、このころの猶存社の活気を『三国干渉以後』から写してみたい。

 猶存社には多くの同志が出入しだした。大川君が沼波瓊音氏(武夫。一高教授。国文学者、俳人として有名だが、後述する宮内省怪文書事件では北のところに三千円を運んだー引用者注)や、鹿子木員信(かのこぎかずのぶ)氏(ドイツ哲学者、海軍機関学校卒で慶応義塾教授-同)、島野三郎君(満鉄調査部員。ロシア語に精通し、北から「シマノフ」のアザナをつけられた-同)等を伴ふて来た。満洲建国に重要な役割を演じた笠木良明君や、今満洲国の要職に就いてゐる皆川豊治、中野琥逸、綾川武治諸君とも知り合った。
 北君の旧友たる清藤幸七郎氏や、西川光次郎氏も来訪された。中にも異彩を放ってゐたのは宮崎民蔵翁であった。滔天の兄に当るところから、猶存社の若者は皆「あんぢやもんさん」と呼んだ。悪戯盛りなのが、「妙法蓮華経アンジヤボン第二十」など、襖の蔭から独り言を云ってゐた。
 渥美勝氏(桃太郎主義者。『日本の宣言』の著者-同)も殆ど毎日のようにやって来た。「そら神さんが」と言ふ間もなく、氏は汗を拭ひ拭ひ階段を上って来た。堀保子さん(太杉宋の最初の妻-同)や権藤誠子女史(権藤成卿の妹-同)もよく見へた。岩田君が顔芸が巧みで、殊に権藤女史の真似をするときには一同腹をかゝへて笑った。
 猶存社には後に抹殺社を創めた角田清彦対等の労働運動者もやって来てゐた。

 大本教の★出口王仁三郎なども訪ねてきた。とにかく、多士済々で、猶存社の思想的性格は満川のいうように「革命主義、国家主義で、而して民族主義であ」る、という大ざっぱなものであった。そのため、草創期にあっては「まるでエタイの知れぬ結社として怪しまれ且つ恐れられたのである」。

 当然、活動費がどこから出ているか、という穿鑿などもおこなわれ、ロシアから金が出ているなどと噂されたこともあった。・・・<略>・・・P224~5

 *************

 ・・・実際、かれ(北一輝)が秘密出版した『国家改造案原理大綱』は、そこここに波紋を描きはじめていた。もちろん、47部しか刷られず、それも要路の人びとに送られたものが大半だったが、にもかかわらず一方では、筆写というかたちで秘かにその波紋をひろげていったのだった。

 たとえば、昭和16年の東条内閣の商工大臣で、戦後に首相になった
岸信介である。かれはこのころ東京帝大の学生で、「天皇主権説」を唱えていた憲法学者・上杉慎吉の主宰する木曜会のメンバーであり、上杉から学校に残ってその学問的後継者となってくれ、とたのまれていた。しかし、その「極端なる国粋主義や古陋な保守主義を無条件に受入れることが出来なかった」ため、大学生のとき、猶存社をたずねてきたのである。

 それもこれも、北の『国家改造案原理大綱』に魅せられたことがきっかけである。岸は『我が青春--生い立ちの記/思い出の記』(広済堂、昭和58年刊)という半自叙伝に、次のように書いている。

 ・・・北一輝氏の爛々たる隻眼ににらまれ、魁偉なるその風貌と烈々たる革命家的気愧とには完全に圧服されて了った。その頃同氏の書いた『日本改造法案』(ママ)なる秘密出版を徹夜して読み、且つこれを写したことがある。この北氏は大学時代に私に最も深い印象を与えた一人であった。而して北氏は後に二・二六事件の首謀者の一人として遂に銃殺されたのであるが、辛亥革命以来一生を通じて革命家として終始した。恐らくは後に輩出した右翼の連中とは、その人物識見に於て到底同日に論ずることの出来ぬものであった。『日本改造法案』は最初社会主義者であった同氏の国家社会主義的な考えを中心として、一大革新を我が国体と結びつけたもので、当時の私の考えて居た所と極めて近く、組織的に具体的に実行方策を持ったものであった。


 大学生の岸信介は、「天皇主権説」の上杉慎吉の「人間的な一種の魅力」にはひきつけられていたが、それよりも「天皇機関説」に立った北一輝の「組織的」、「具体的」な革命的国家構想にじぷんと近いものを感じとったのである。もちろん、そのカリスマ的な革命家像にも「圧服され」たわけであるが・・・。

 なお、このとき岸信介がたずねていった猶存社が牛込南町のものか、千駄ケ谷九〇二番地の広大な邸宅かは、はっきりしない。・・・<略>・・・P227~8

 **************

・・・北の女性観および婦人労働観を、一言でいえば-女性は「男子ト等シキ牛馬ノ労働」などに携わるべきではない。天がなぜ、かの女らの「心身」をあのように「優美繊弱」に作ったかを思え、というところだろう。きわめてロマンチックな女性観ともいえようが、これは当時の「良妻賢母」思想とも重なりつつも、それ以上に女性崇拝的である。

 こういった女性観は、この大正9年8、9月ごろに、東方に偉人ありという啓示をうけて上京し、北一輝に会った大本教の出口王仁三郎の女性観によく似ている。北は二・二六事件の取調べのさい、大本教については「邪教」であるという批評をのべているが、大正の同じころ「大正維新」をいっていることといい、世界共通語にエスペラント語を採用しようとしたことといい、発想がどことなく似ている。それは、日本的カリスマがその超能力の根源を、天皇=女神=女性=生む力=自然の豊饒力、に求めるがゆえの近似性であろうか。

 出口王仁三郎が昭和4年に発表した「おんなの世界」という寓話的エッセイには、かれの女性観、ひいては男性についての見方がきわめてよく出ている。そしてそれは、北のロマンチックな女性観を思い出させないでもない。

 ・・・神は天地をつくり、樹草を生み、つぎに一人の女をつくったという。つくられた女は、雲のような花に彩られた周囲の蒼巒(そうらん、青い峰-引用者注)を眺め、花のような雲のちらばった蒼空を
あおいで、おぼえず感嘆の声を放ち、天地の壮観を讃美した。
 天も地もなんとして美しいことよ、神さま、私のためによくもまあこんな清らかな住所をつくってくださいました、といって涙ぐましくなるほど神さまに感謝を捧げていたが、たちまち躍りあがって叫んだ。
 それは、その傍なる沼の清らかな水に映じた自分の艶麗な姿を見たからだ。いや山の曲線美も清らかだが、自分の肌や面の美しさにくらべては問題でない。なるほど花も見事は見事だが、自分の手先の美しさとは比較にならぬ。いかに川水のせせらぎがさわやかでも、所詮、自分の声の美しさ、さわやかさにはおよばない。

 出口王仁三郎の女性讃美は、女性じしんが自らの美しさを称えるという形をとっているが、かれは男-といっても本性は女の「変性女子」と自己規定している-なのである。それゆえ、その女性讃美には、かれの女性への本質的憧れが根底にあったようにおもわれる。かれは髪を切らず、長く長く伸ばし、朝起きて最初にすることはその長髪をくしけずることであった。

 では、その美しい女性から見て、男とは何であったか。「おんなの世界」では、女は神さまにたのんで、じぶんの美しさを「讃めたたえてくれる」小鳥、「まねてくれる」オウムと猿、「心地よさを与えてくれる」蛇、「守護してくれる」獅子をつくってもらう。しかし、それでも満足できない。わがままな女は、なおも神さまにたのんで、男をつくってもらうのだ。

 私か怒ればなだめてくれ、泣けば慰めてくれ、疲るればいたわってくれ、どんな無理難題をいってもよろこんで聞いてくれ、私のいうことすることをまねてくれ、一生私の玩具(おもちゃ)となって私を養ってくれ、守護してくれ、たとえ私がなぶり殺しにしようとも満足して死んでくれるものをつくっていただきたい、と願ったので、神さまは女の頤使(いし、アゴで使うこと)に甘んずる、そして玩具になる男というものをつくってやられた。

 ここには、出口王仁三郎の男性観、すなわち男は美しい女のために、ひたすら額に汗して働けばよいのだ、という発想がよく出ている。北一輝の考えも、これに近いのである。・・・<略>・・・

 *************

 
 『評伝北一輝』  Ⅴ・北一輝伝説 より。

 Ⅱ 北一輝伝説
 第2章 虚実いり乱れて

 ★朝鮮人にとっての幻想

 
 ・・・大学生の岸信介が猶存社に北をたずねたころ、北のもとには『支那革命外史』や『日本改造法案大綱』を読んで感銘をうけた人たちがぽつりぽつりと訪れるようになっていた。たとえば、民本主義者で東京帝大教授の吉野作造、のち『彦一頓智ばなし』(昭和10~16年)を書く小川勝清、のち『丹下左膳』(昭和8年)を書く林不忘(長谷川海太郎)の父親・長谷川淑夫(清)、大本教の出口王仁三郎、それに大正15年に大逆事件で死刑判決をうける朴烈といった人物である。

 吉野作造は大正5年のころ、北から『支那革命外史』を贈られ、その「見識の高邁なるに敬服し」で、みずから敬意を表するため、当時青山にあった北家を訪問している。このときの吉野の北評を記しておくと、「あの人の頭は無類に鋭いですね、説の善悪は別として鋭い事は無類に鋭いですね、其鋭さに於ては、日本人とは思われない、外国に行っても一寸珍しいと曰(い)っても良いですよ。先般出した支那革命及日本外交革命(『支那革命外史』の原題-引用者松本注)は、前半は非常に立派なもので近来の名論と思ったので国家学会で批評しようと思ったが、後半が私と意見が違って居りますので差控えました」となる。北を訪問した帝大教授の吉野作造と学生の岸信介とがたまたま出会い、『支那革命外史』あるいは『日本改造法案大綱』をめぐって議論をするなどというのは、極めて刺激的な空想である。

 小山勝清は、大正なかごろ高尾平兵衛(白色テロに倒れた)や茂木久平といった社会主義グループと近しく、謄写版で秘密出版された『国家改造案原理大綱』には思想的違和感をおぼえたものの、その革命的情熱、人間的な優しさ温かさに魅かれて、交際を重ねている。小山は昭和になって北から南洋産の大きな貝一小川平吉鉄道大臣が北からもらった西瓜と同じく、南大東島の産か-をもらっているらしい。高田宏は小山勝清の評伝『われ山に帰る』(昭和57年刊)に、二・二六事件のときの小山と妻玉枝との会話を、次のように書いている。

 
「北さんとおれとは、考えが別だからな」
「でも、あんないい人、あなたのお友だちのなかでもとびきり・・・」
玉枝は、すこし前に北が持ってきた南洋産の大きな貝に目をやっていた。


 ここに「すこし前」とあるのは、二・二六事件という大変事を人が回想するとき、「そういえばあの少しまえ」というかたちで心理的な時間短縮がなされるパターンといってよいだろう。林不忘(長谷川海太郎)の未亡人・和子などは、昭和11年2月25日、つまり二・二六の前日、北と夫人のすず子が大きな黒い自動車にのって鎌倉の家を訪れ、「しばらく焼香にこれないからと、ひとかかえのお線香と燭台を置いていった」(室謙二『踊る地平線』昭和60年刊)と回想しているほどだ。

 亡き林不忘に対する焼香の日付が昭和11年2月25日などということは到底ありえないが、その1ヵ月ほどまえの北の『霊告日記』には、妻の夢として次のように林不忘に関することが記述されている。

丹下左膳亡キ後ノ家ノ事。
男三人在リ、妻何モカモ大工ニヨイ様ニサレテ居ルト告グル夢

 とすると、この日の前後に北がすず子と一緒に林不忘なきあと(昭和10年6月に急死)の鎌倉の家へ焼香にいった可能性が強い。林不亡の父親は、長谷川淑夫といい、これよりはるか昔、佐渡中学での北の英語・西洋史の教師であった。長谷川淑夫の長男が海太郎(林不亡・牧逸馬・谷譲次)であり、四男が作家の長谷川四郎である。四郎の息子・長谷川元吉は、数年まえ吉田喜重監督の二・二六事件と北一輝をモデルにした映画『戒厳令』のカメラを担当した。めぐりめぐって、というところだろう。ちなみに、海太郎のペンネームの一つ林不忘は、父親の淑夫が林(儀作―若き北一輝のライバル。長谷川淑夫とともに佐渡から北海道に渡り、長谷川の新聞事業および生活を助けた)の恩を忘れるな、とつねづねいっていたことに由来している。

 長谷川淑夫は北海道から上京すると、よく北一輝のもとを訪れたが、あるときはそこから帰ってくるなり「北の思想はよくない」、とぶりぶりしていた。大川周明の行地社の社友となった長谷川とすると、奔放な浪人の北より学者肌の大川のほうが気に入っていたのかもしれない。北が敵視した牧野伸顕でも、大川周明の「真面目」さを気に入っていた(『牧野伸顕日記』)。大川も長谷川も、学者としての吉野作造あるいはその民本主義を高く評価していた。大川周明の弟子である金内良輔の「北・大川・満川三先主」には長谷川淑夫が「支耶事変頃よく上京して、笠木良明や僕のところを訪ねて来た。息子(林不忘)の資料にと剣道関係の『大阿記』のことを笠木君に質ねてくれと頼まれたこともある」と記されている。

 北は中里介山の『大菩薩峠』も好きだった-嶋野三郎に「大変おもしろいから読め」と手渡している-が、林不忘の『丹下左膳』も愛読していたらしく、昭和10年1月1日付の年賀状に「謹賀新年/新年に際し丹下左膳の続画なきは寂しく存候/北一輝」と書き送っているほどだ。北と中里介山、林不忘とのあいだにどのくらい深い交流があったのかは不明だが、かれらの大衆小説におけるヒーローがともに無明(失明)の机龍之肋、片眼片腕の丹下左膳であるというのは、北が隻眼であることと微妙な符合をかたちづくっているようにもおもわれる。

 ところで、大本教の出ロ王仁三郎については、北の最初の評伝である田中惣五郎の『北一輝-日本的ファシストの象徴』(昭和34年刊)に、「大本教主・出口王仁三郎が東京に片目の偉人がいるというお筆先が出たので、大川周明とあってみたが満足せず、次いで北と会見したところ、出口はガタガタと慄えて北に圧服され、北の偉大なることをみとめた」と記されている。これは北吉(実弟)の戦後の談話によっていて、当然身びいきがあるだろう。ただ、出口が大川にあって満足せず北にあって慄えた、というのは、カリスマがカリスマに出会って慄えたという意味で、ある真実味をもっているような気がする。

 北自身は二・二六の『警視庁聴取書』で、大正8、9年に出口王仁三郎と会見したときのことを、次のように語っている。

 
 ・・・私、大川周明、満川亀太郎の三人で始めて同人(王人三郎)と会ひました。大川は私と出口との会談を見て、只一回で出口は下劣な取るに足らぬやつであると断定しまして、私等に向っても再び会見の必要なしと申した位で、私も変な姿の様な印象丈けを残して其の後は心に止めない様にして居りました。自分の信仰に因る、神秘的経験から見ますと、大本教は神ではなくて相当通力を以て居る邪霊である事が判りました。・・・

 ここで北が大本教のことを「相当通力を以て居る邪霊」とよんでいるのは、大本教がこの二・二六事件前年の昭和10年12月に第二次不敬事件をデッチあげられ大弾圧をこうむっていることを配慮してのものだろう。「首魁」の北がこの大本教と関わりがあるとなっては、二・二六も不敬事件に発展させられる怖れがあるからだ。権力がこの二つの事件を結びつけて考えようとしていることは、大本教の側から西田税の名がでている事実からして当然であった。大本教はこの事件によって出口以下の幹部が逮捕され、本部が破壊されたばかりではなく、二・二六直後の昭和11年3月に「結社禁止」になったのである。 
   

 いや、北と関わりのある人物についてのエピソードをこう長く書くつもりではなかった。わたしが書きたかったのは、大正15年3月に妻の金子ふみ子とともに大逆罪で死刑判決(のち無期に減刑)をうけた朴烈のほうなのだ。朴烈=ぼくれつ・パクヨル(朴準植)は朝鮮慶尚北道の生まれで、大正8年に東京にきた。大杉栄らアナーキストと交わって、朝鮮独立の運動に尽力している。大正11年ごろには、運動のため海外から爆弾を輸入しようと試みたりもしている。大正12年9月、関東大震災のさい保護検束され、訊問されているうちに大逆事件の陰謀を自供したということになっている。大正13年3月に死刑判決をうけたが、4月5日に恩赦によって無期懲役に減刑された。このあと、朴烈とふみ子が千葉と栃木とに別々に服役するさい、拘置所で一緒の写真がとられ、これによって北は西田とともに「朴烈・文子怪写真事件」を作成した。

 ところで、朴烈は関東大震災のおり、朝鮮人狩りを逃れるため北一輝に匿ってもらっている。しかし、北の家は大正8年の帰国(東京への帰着は大正9年はじめ)以来つねに警察の監視するところとなっていたから、ここに長居はできず、北から「早くにげろ」といわれて、20円を与えられている。

 朴烈はなぜ北のところに逃げこんだのか。小山勝清と同じように、北の人間的優しさ、温かさに魅かれたこともむろんあったろう。人はその危難にさいして、思想を同じくしようとも人間的に信頼できないもののところに逃げ込んだりはしない。しかし、人間的な信頼だけだったろうか。当時、朝鮮は日本の植民地とされていた。その朝鮮の独立を希求する人びとにとって、北の『日本改造法案大綱』は朝鮮の独立問題をまがりなりにも採りあげている、ほとんど唯一の思想であった。そのことが朴烈の北に対する人間的信頼の根底にあったのではないか。

 もちろん、北といえども、そこで朝鮮の独立を公言していたわけではない。ただ、『日本改造法案大綱』の一章に、わざわざ巻七「朝鮮其他現在及ビ将来ノ領土ノ改造方針」を設け、そこにこう書いていた。

 ・・・朝鮮ノ郡県制。朝鮮ヲ日本内地ト同一ナル行政法ノ下二置ク。朝鮮ハ日本ノ属邦二非ズ、又日本人ノ植民地二非ズ。日韓合併ノ本旨二照シテ日本帝国ノー部タリ、一行政区タル大本ヲ明ラカニス。(傍点-引用者)

 つまり、北は日韓の「合併」という本来的な趣旨に照らして、この合併は、韓国併合でも併呑でもなく、対等の合併である、と主張するのだ。対等の合併であれば、むろん、朝鮮は日本の「属邦二非ズ」、また日本人の「植民地二非ズ」ということになる。ここには、朝鮮民族と日本民族が何ら優劣関係にないことが明らかにされている。明治・大正のころの社会主義者(たとえば幸徳秋水)が中国人、インド人とは対等に交際したが、朝鮮人は植民地人として劣等視していたのと、歴然たる違いである。

 大東亜戦争の終結後、朝鮮は解放され、呂運亨が副大統領に選ばれた。呂はアメリカに亡命していた李承晩とちがって、朝鮮で地下独立運動をつづけていた朝鮮独立党の指導者だった。かれは、一方で日本の近衛文麿、宇垣一成、大川周明らに接触し、他方で中国共産党の拠点、延安に潜行してもいる。かれは戦後、副大統領に選ばれたが、まもなく暗殺されてしまった。

 この呂運亨と北一輝との会見説がある。わたしがその真偽について朝鮮史家の安宇植から質問されたのは、昭和52年のことだったろう。そのときわたしは答える材料をもたなかった。あとで調べてみて、かれらが会見したという事実は見付からないものの、北が大正8年末に上海から帰国した日付と、呂が上海から日本に来、東京のステーション・ホテルで府下の新聞記者を集めて「独立宣言」を発表した日付とが、あまりに合いすぎていることに気づいた。ただ、事実問題とすれば、かれらが東京で会っている可能性はなく、会っていたとすれば上海でという可能性が強い。

 そういった事実関係とは別に、朝鮮人のなかには戦前の日本で朝鮮独立問題をまともに考えてくれたのは、ただ北一輝がいただけだったという幻想があるようにおもわれる。そしてそれは、北が二・二六で刑死してしまうことによって、「あの人が生きていれば朝鮮の独立は・・・」という幻想をよりふくらませたような気がするのだ。これは、朴烈が関東大震災のおり匿われたという事実や、『日本改造法案大綱』の巻七の記述が、底にあるのにちがいない。

 自身のうちに何分の1かの朝鮮民族の血をひく立原正秋は、昭和40年に発表した『剣ケ埼』に、日朝混血の主人公を描いた。その主人公石見次郎の父親は、日本の陸軍士官学校を卒業した日朝混血の李慶孝という朝鮮軍人で、戦後、日本に育った主人公をたずねて来てじぶんの半生を語り明かすのだが、その話のなかに次のような条りがある。

 ・・・私は陸士(陸軍士官学校)時代に、中国人の級友を通じてその西田(税)にあった。陸士三十四期生で、広島の師団に籍をおいていたが、病気をして軍隊から退いた。その西田が、私を北一輝のもとにつれて行ってくれた。大正十五年の秋だった。私はそれまで、西田にすすめられ、北の〈国体論〉〈日本改造法案大綱〉を読んでいたが、とりわけ後者のなかの一節、〈朝鮮其ノ他現在及将来ノ領土ノ改造方針〉にかなり惹かれていた。私が日本人として生きるには限界があったが、朝鮮人として生きるなら限界がなかった。(中略)北という男は、ごろつきのような一面もあり、狡猾な面もあった。
 しかし、彼の朝鮮に関する一文は、なお私のなかで生きていた。純粋の朝鮮人なら、ついて行けないその一文に、私ならついて行けると思った。私の混血がそうさせた。・・・

 この話のなかにある「朝鮮其ノ他現在及将来ノ領土ノ改造方針」とは、わたしがさきに引用したものにほかならない。立原正秋は小説のなかの登場人物に北の『日本改造法案大綱』のその条項を語らせることで、日本帝国主義の支配下におかれた朝鮮人の独立願望と、それが北一輝によって引き取られるかもしれないという幻想の屈折した道すじを示した。それは、立原のなかの朝鮮民族の血が幻想した、『日本改造法案大綱』の隠れた読みかただった。

 朝鮮民族のこういう屈折した心理は、戦後40年たった時点での在日朝鮮人にも徴妙に引き継がれているらしい。数年まえにわたしが会った在日朝鮮人は、当時心配されていた東京大地震にふれながら、「また関東大震災のような出来ごとがおきたら、じぶんは北一輝のような人物のところに隠れますね」と語ったものである。「もちろん、現在にもまだ北一鮮のような人物がいると仮定しての話ですがね・・・」という、註釈つきではあったが。

 『評伝 北一輝』より  <了>。 
 

 ★月海黄樹 『龍宮神示』に戻って 、第五章 から始めます。
 



●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (4)。
 ●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (4)。
 

 村上「解説」の以降の記述は、既に紹介した記事とダブルので、略すが、
 次のことだけは、確認しておきたい。
  
  
 「解説」の著者・村上はここで、第一次(1921年2月)~第二次弾圧(1935年12月8日)について記しながら、王仁三郎と北一輝の「二・二六事件」の資金25万円提供をめぐる会談(北一輝サイドからの訪問-12月6日とされる。)については言及されていない。

 序に記しておくと、★鹿島・『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎』
 (1997年1月20日、自由国民社)の巻末に<解説-万物流転>(松重正・地方史研究家)として次のような記述があるので、紹介しておく。

 ***************

 ・・・(南朝支持の被差別部落出身の青年たちは、奇兵隊に集合、〔維新〕戦争では見事な戦いぶりを見せたが、明治2年奇兵隊は解散を命じられ、彼らの抗議も無視・圧殺された。)・・・


 「 かくて部落解放の夢は露と消え、あわれ荊冠旗は泥にまみれたのである。・・・

 しかし、その怨念の火はなお消えず、・・<略>・・

 昭和10(1935)年、陸軍の皇道、統制両派の対立が激化して不穏な状況となる。

 同年末★、石山山頂の河村某の家で催す茶会の客であると称し、田布施駅で下車した

 人々が神道天行居の前を通って三々五々登ってきた。

 この人たちはそれぞれ変装していたが、

 実は北一輝、陸軍大将・真崎甚三郎ほか陸軍皇道派の青年将校であって、

 茶会の目的は、昭和維新のクーデター計画謀議のためであった。

 この時、将官がもう一人いたといわれているが定かではない。

 昭和11(1936)年2月、雪の降る帝都を血に染めて、二・二六事件が起こる。

 ・・・以下略・・・」
 
  
 **************

 ●<大本教・出口王仁三郎>=<北一輝>=<二・二六事件>という視点で、続ける。
  
 ①、『出口王仁三郎の生涯』 百瀬明治(PHP研究所 1991年)

 ②、『評伝 北一輝』全5巻 松本健一(2004年1~9月) の2著・6冊から。
 
  
 **************

 ●先ず、百瀬明治・『出口王仁三郎の生涯』の当該部の引用・紹介から始める。

 *************
 
  
 ★第8章 燃えつきる日

 ★第二次弾圧事件はじまる 

  
 第一次弾圧事件から14年たった昭和10年12月8日、大本はふたたび警官隊の襲撃を受け、弾圧の深淵にたたきこまれた。

 この第二次弾圧事件が生じた原因については、いくつかの見方がある。

 その第一としては、大本が人類愛善運動や昭和神聖会の活動を通し、宗教面のみならず社会面でも広い影響力を備えるようになったことをあげることができるであろう。そのころ、包容力のある王仁三郎の人間性に惹かれ、思想・信条を異にしながらも尖鋭意見をもつ人々が亀岡を訪れては天恩郷に草履(わらじ)をぬぎ、教団が危険人物の巣窟のような観を呈していたのも、当局の警戒感を高めた。

 また、昭和神聖会の活動目標に農村救済を掲げたはよいものの、機関紙などで「農村未曾有の窮状 現代の不祥事なり 天日をおおう暗愚の為政者」といった調子で、政府の無策ぶりを容赦なく批判したことも、支配層の感情をいたく剌激した。

 そこへもってきて、大本を快く思わぬ人々の誣告が、いっそう大本の立場を悪くした。

 事件発生よりも7年前の昭和3年3月3日、王仁三郎は綾部・天王平の開祖なおの奥津城(おくつき)に参拝し、ついで五六七(みろく)殿で「みろく大祭」をとり行なった。神事が終わったあと、王仁三郎は次の一首を朗々と詠む。

  万代の 常世の闇も 明けはなれ 
  みろく三会の 暁 清し

 時に王仁三郎は、満の56歳7ヵ月(5・6・7)。王仁三郎としてはこの日を境に、弥勒菩薩の心境でこれまでにもまして立替、立直しに邁進する決意を披瀝したつもりであった。

 ところが、この教団内の行事がいつの間にか大化けする。王仁三郎がみろく大祭を挙行した真の目的は国体を変革し、万世一系の天皇制を転覆することにあった、と取沙汰されるようになるのだ。

 王仁三郎と面識のあった右翼の大物に、北一輝がいる。彼は、二・二六事件の黒幕として警察に逮捕されたあと、大本との関係を問われ、こう供述している。

「大本教は神ではなくて相当通力を以て居る邪霊である事が判りました。殊に皇室に対して呪咀するものと私は数年前から看破しております」
「大本の建替へ、建直しと云ふ事は国家を極度の混乱に陥入れ畏くも皇室をも滅ぼさんとする邪霊の大活動と見て居ります」

 北一輝は日蓮宗に深く帰依し、陸軍の青年将校からカリスマと仰がれた人物である。だが、同じカリスマでも北は理論派だったから、霊力を云々する王仁三郎とはよほど肌があわなかったのであろう。それにしても、王仁三郎を「邪霊」と決めつける北の口調は、何とも手厳しい。それはまた、当時の反大本派のインテリ層を代表する王仁三郎観でもあったのであろう。(*ブロガー註:何ともナイーブな見解だが、この書、事実関係を見ていくには有益なので、引用を続ける。)

 しかし、当局が大本の第二次弾圧に踏み切った一番の狙いは、もっと別のところにあったようだ。

 当時の内務省警保局長・唐沢俊樹は、のちに『信濃往来』において、その辺の事情をこううち明けている。

「京都綾部の大本教本部というよりも、出口王仁三郎が右翼と気脈を通じてはたした役割は、けだし想像を絶するものがあった。澎湃たる右翼革命の蠢動が露骨化し、どうにも手におえぬ情勢になっており、大本教を通じて広く全国の信者からすくいあげた浄財の巨額が、出口の手から右翼に流れ、これが軍資金になって、右翼の勢力は燎原の火のように延びて、やがて手のつけようがなくなることはわかりきっている。そこで右翼弾圧のために、大本教手入れを断行することになったのである」

 唐沢のこの手記が事実を伝えているとすれば、大本と王仁三郎は右翼弾圧のための生贄とされたようなものだった、といってよい。

 しかも、唐沢は今回の手入れにあたり、「大本教を地上から抹殺する方針である」という、強硬な指令を発していた。

 その指令を受けた警官隊は、12月8日の未明を期して綾部・亀岡の両本部に襲いかかった。彼らは、大本の青年部隊の反撃に備え、腕に白布を巻いたり白だすきをかけたりして、同士討ちを防ぐ目印にしたという。あたかも、赤穂浪士の吉良邸討入りを思わせるような光景ではある。

 しかし、大本側は抵抗らしい抵抗をいっさいしなかった。

 警官隊は、亀岡に滞在中の(出口)日出麿を拘引し、綾部にいたその妻・直日を軟禁したあと、6日間にわたって徹底的な捜索を行ない、関係物件をことごとく押収した。

 王仁三郎はこのとき、亀岡にも綾部にもいなかった。島根の大祭に出席するため、3日前に亀岡天恩郷を発し、すみ夫人とともに松江に逗留しているところだった。

 だが、前々から王仁三郎の動静を内偵していた警察は、抜け目なく王仁三郎の所在を確認していた。

 それゆえ、島根県の特高課長の率いる86名の警官隊が松江別院に踏みこんだのも、亀岡や綾部の場合と同じく、12月8日の未明のことだった。当局が大本を一網打尽にし「抹殺」するのに、どれほど周到な配慮をめぐらせていたかがよくわかる。

 王仁三郎もむろん、警官に抗うようなことはしなかった。

  寝こみをば たたきおこされ しとやかに
  われは煙草を くゆらしにけり

 王仁三郎はそんな悠揚とした態度で布団に座り、警察官のなすがままにまかせた。

 王仁三郎の逮捕容疑は、治安維持法違反と不敬罪であった。この二つの容疑は、罪状ははっきりしないもののともかくも治安上好ましくない人物を当局が逮捕するのに用いた、伝家の宝刀のようなものであった。

 王仁三郎はいったん松江署に連行されたが、即日京都に護送となり、中立売警察署の留置場に収容された。警察側は、信者たちが王仁三郎奪還の挙に出ることを警戒し、武装警官を沿道に配置するなど、万全の警備態勢をしいた。

 警察の検挙の手は、綾部、亀岡および王仁三郎にとどまらず、全国の信者の上にも伸ばされた。そのため、事件の規模は第一次弾圧の数倍に膨れあがり、逮捕されたり取調べを受けた関係者の総数は、軽く千人を突破したという。


 ★裁判所で「赤ンベー」  

 
 王仁三郎をはじめ、逮捕された大本関係の主要人物の取調べは、京都地検が一括して担当した。その一方で、綾部・亀岡ほかの大本の諸施設の強制破壊が執行された。開祖なおの墓は掘り返されるわ、地上の建物はことごとく取壊し、爆破されるわで、官憲の破壊ぶりは実に徹底していた。亀岡の天恩郷などは、連日のようにダイナマイトの爆発音が響き、樹木や石段までがその犠牲となって、一帯はすっかり廃墟と化してしまった。

 まだ刑は確定せず、そもそも裁判すら始まっていなかったのだから、これは現代なら絶対許されない官憲の横暴といわなくてはならない。逆に言えば、「大本を地上から抹殺する」という官憲の意図は、それほど強固だったわけである。おまけに、官憲は神苑の破壊・撤去の費用をすべて王仁三郎に負担させるつもりであったというから、どこまでも念が入っている。

 さて、王仁三郎が正式に起訴されたのは、翌昭和11年3月13日のことだった。
 折しもその2週間ほど前、陸軍若手将校が国家改造を要求して武装決起した二・二六事件がおきている。彼らは、斎藤実内務大臣や高橋是清大蔵大臣らを殺し、警視庁や新聞社を襲い、国会議事堂を中心とする中央官庁街を占拠した。

 二・二六事件は、陸軍首脳が武力討伐の方針をかため、近衛師団ほか2万4千の兵を出動させたため、勃発から4日にして鎮圧されたが、首都を舞台にしたこの大規模な体制内反乱は、世間に騒然たる気配をかもし出さずにおかなかった。

しかも、彼ら若手将校が唱えた国家改造は、大本の立替、立直しに通じるニュアンスを含んでいる。それゆえ、二・二六事件は大本裁判にとっても軽視できない不利な作用を及ぼしたようである。

 はたして、大本に対する警察の取調べは峻烈をきわめ、容赦ない拷問を加えて自供を引き出そうとした。戦前の警察は、拷問に関してまったく罪悪感を抱かず、被疑者を自白に追いこむ正当な手段のように考えていたから、手を替え品を替えての責め苦には、さすがの王仁三郎も正気を失いかけたことがあった。

「いかに大怪物とはいえ、生身をもった人間だ。さすがの大ワニもついには白い腹をみせてノビてしまうのである。ところが、警官はワニがノビるとよってたかって(でっちあげの供述書用の)押印をとっていった、というのであるから、どだい話にもなににもなったものではない」(『巨人 出口王仁三郎』)

 精神、体躯ともに強靭な王仁三郎でさえこのありさまであるから、大本関係者のなかからは拷問に耐えかね、自殺・獄死・病死・発狂する者など、痛ましい犠牲者が相ついで出た。しかし、それにもかかわらず、改宗や転向を申し出る者はきわめて少なく、ほぼ9割が信仰を守り通した。戦前の警察の苛酷な拷問にさらされた団体のなかで、大本ほど非転向者の率が高かったのは他にないといわれる。信仰におけるこの粘り強い抵抗精神は、幕末・明治初年にかけて生じたいわゆる浦上崩れの隠れキリシタンの殉教精神を彷彿させるものがある。

拷問の数々は、主として警察に留置中に加えられ、予審の際にもくり返されることがあったらしい。
 予審というのは旧憲法に定められた制度で、被告事件を公判に付すべきか否かを決定するため、裁判所が主導する下調べの手続きをさす。だが、それによって作製された予審調書は、警察調書や検事調教書をなぞった内容のものが多く、しかも公判に際しては判決を左右する大きな効力を発揮した。

 王仁三郎ら関係者一同は、昭和12年12月からおよそ10ヵ月、予審判事の取調べを受けたすえ、いよいよ本裁判に付されることになった。
 このころ、表の世界では、大本を淫祠邪教、大逆不逞の怪教などと中傷するマスコミの大合唱が、またぞろまきおこっていた。なかには良心的な報道を行なう新聞もあったが、するとたちまち当局が圧力をかけてくる。そんなわけで、マスコミの集中砲火は第一次弾圧事件の際よりはるかに激しく、非難のオクターブも高かったので、一般市民のあいだにも大本に鉄槌を下すべしとの風潮が広まった。

 もっとも、事件の真相を見ぬいて諷刺する者もいないではなかった。ノンキ節で知られた石田一松もその1人である。だが、「京都でワニを檻に入れて、出口わからずもてあまし、・・・へへ、ノンキだねー」と歌いはじめた途端、一松はブタ箱への直行を余儀なくされた。

 大本と王仁三郎にかけられた嫌疑は、前述のように治安維持法違反と不敬罪だった。しかし、それはあくまで当局が大本を抹殺し、右翼を弾圧するためにでっちあげた□実であり、裏づけとなるべき実体はなかった。少なくとも、当局側が「大本教団は、尊厳無比のわが国体を転覆し、彼王仁三郎をわが大日本帝国の統治者たらしめんと企図しつつあった、不逞大逆の集団」だと声高に指弾したようなことは、大本の教義のどこを探しても記されてはいなかった。

 そのため、裁判ではもっぱら王仁三郎の『霊界物語』の内容が論議の対象となった。といっても、『霊界物語』は王仁三郎が自身の神秘体験をもとに、古今東西の霊界のありさまを物語風につづったものであるから、読みようによってはどうにでも読みとれる、茫漠とした二重底、三重底の構成をなしている。

 そのため、検察と弁護側の応酬はとかく噛みあわず、法廷は一種珍妙な宗教裁判の観を呈するにいたった。

 被告の王仁三郎も余裕綽綽たるもので、裁判官の尋問にワイ談をまじえて答えたり、あまり審理が退屈だと大げさに仮病を言いたてて裁判の続行を中止させたりした。その他、公判をめぐるいくつかのエピソードが伝えられているが、裁判所にとって王仁三郎はよほど扱いにくい被告だったようである。

 王仁三郎もそのことを自認し、「検事も判事もわしからみれば子供のようなものじゃ」とうそぶいていたそうだ。

 しかし、昭和15年2月29日に下った第一審の判決は、世人のだれもが予想した通り、きわめてきびしいものだった。被告とされた45人が全員有罪となり、懲役刑の宣告を受けたのである。
 王仁三郎が言い渡された刑は、むろんのことにもっとも重く、治安維持法違反と不敬罪を適用されての無期懲役だった。
 この宣告がなされたとき、王仁三郎は傍聴席のほうに顔をむけ、長い舌を出して「赤ンベー」をしたという。王仁三郎がどういうつもりでそんな態度をとったのかは、よくわからないが、蕭然と頭をさげて判決を聞くのが普通なのに、まったく意表をつく王仁三郎のこの「赤ンベー」事件は、ひとしきり法曹界の話題の種となったそうである。

  <続く>。                     
 



●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (3)。
 ●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (3)。

 次=『龍宮神示』第五章、第六章=に進む前に、
主に、『大本神諭 天の巻』(東洋文庫)の村上重良による巻末解説を参考にしながら、初期の出口直―王仁三郎―大本教を見ておく。
 
   
 *************

 出口直(ナオ*東洋文庫他では「ナオ」「なお」と記すが、ここでは「直」で通す。)の前半生は生活苦と家庭的不幸の連続であった。

 大飢饉下の天保7(1837)年、丹波国福知山の大工・桐山家に生まれた直は9歳で父を失い、住み込み奉公をつづけて、16歳で綾部に住む叔母・出口ユリの養女となった。

 18の歳に婿・四方豊助(のち出口政五郎、大工職)を迎えたが、酒好きのお人好しで浪費家の夫と子沢山が重なり、明治17(1884)年一家は遂に破産状態に陥った。子供運にも恵まれなかった。
 明治20(1887)年、病に伏せていた夫が死亡、直は51歳で一家を支えていくこととなる。

 直の回想の言葉を借りれば
 「まず世においては、ほかに一人もいない苦労人」であったということになる。

 貧窮にあえぎながらも、神仏を篤く信じて、忍耐強く頑張りぬいた。

 明治23(1890)年9月、三女・福島ひさは産後の肥立ちが悪く、逆上してあばれ出したため、座敷牢に入れられて、しばしば神の幻影を見るようになる。この神懸りが金光教の布教師の祈祷でおさまった。
 翌24年には、長女・大槻よねが「発狂」した。よねの狂乱ぶりは激しく、悩み続けた直は、各地の加持祈祷に頼る。

 明治25年の正月、直はしばしば神界に遊ぶようになった。そこには白い衣を着た高貴な神々がいた。遂にと言おうか、旧正月の5日―新暦の節分(2月3日)に、直は突然激しい〔神懸り〕に陥った。

 以後の13日間、断続的に〔神懸り〕に陥ったが、そのときには何かが腹中に宿った感じがしたが、その何か(神?)に命令されるとおり寒中に井戸水をかぶり、腹中の者に誰何すると、「艮の金神である」と名乗って、「キツネやタヌキで御座らぬぞ。この神は三千世界を立て直す神じゃぞ。」と応じ始め、有名な「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になったぞよ。この神でなければ世の立替えは出来ぬのじゃ。・・・略」と答えたという。

 13日間も続いた〔神懸り〕はおさまったもののその後の直の生活は激変した。相変わらず異様な言動の続く直に、糸ひきなどの仕事を廻してくれる人も少なくなり、二人の娘(りょう、すみ)も家を出て行き、直は一人暮らしとなる。

 普段はのんびりと紙の行商をしながら、時おり糸ひきの仕事が入ると、遠く亀岡にまで足を伸ばした。6月には亀岡へ2ヶ月ほど糸ひきに通うが、往路、金光教の八木教会に立ち寄ったのをはじめ、亀岡教会には毎日のように通い、教会長の大橋亀次郎と親しくなった。三女・福島ひさの関係で金光教に親近感を抱いていた直は金光教の強い影響下で、宗教者の道を歩み始めた。(亀岡から帰宅して2度目の〔神懸り〕が始まり、今度は10日ほど続いたが、夜ごとに神の声を聞いた。)

 翌明治26(1893)年、雪におおわれた厳冬の綾部の町で原因不明の火災が続き、直に放火の疑いがかかる。近所の住民の密告で、直は警察に連行されたが、間もなく真犯人が逮捕され直は釈放された。

 直は「なんでも無い者は調べても、もっと大きな者は、よう調べんのか。上にいる者を吟味せんことには、今に警察の言うことども聞く者は一人も無うなるぞよ」と抗議した。


 以下、村上〔解説〕から引用していく。(『大本神諭』 東洋文庫 解説 p162~)

 以下、引用。  


 ・・・この留置を機に、年来のナオの〔神懸り〕に手を焼いていた長女・よねの婿・大槻鹿造は、警察に願い出て、ナオを狂人として座敷牢に閉じこめてしまった。座敷牢の生活は、前後40日に及んだが、この間、大槻はナオにろくに食物も与えず、ナオは神に教えられて、掌をしゃぶって、ひもじさを凌いだという。ナオは、座敷牢のなかで、神の命ずるままに、落ちていた釘を拾い、柱に文字を書きつけるようになった。封建社会の貧しい女性として生い立ったナオは、もともと無筆であり、糸ひき場の糸枠の番号すら満足に読めなかったが、柱には、平仮名で文章らしいものが刻まれていった。これが、ナオの「筆先」のはじまりとされている。

 大槻は、ナオが心身ともに衰えたのをみて、ナオの家を売り払うことを条件に座敷牢から出し、ナオの身柄を自宅へひきとった。大槻は、家屋はもとより、ナオのわずかな家財道具類も残らず売りとばし、ナオの手もとには、使い古した石臼と三つ重ねの盃だけがのこった。ナオは、しばらく八木の福島家に身をよせ、秋には綾部の大槻のもとにもどって、ふたたびボロ(古着)買いに精を出すようになった。

 断続する神がかりの間に、ナオは、「今の内は病気も治してやらんと、人民は此の方が神であることを、よう解けまい。病人があったらおがんでやれ」との神示をうけて、病気なおしの祈祷をするようになり、「綾部の金神さん」の評判が、しだいに周囲に伝わるようになった。

 その冬には、ナオから「おかげ」をうけた者の間に、艮の金神の信仰が広がりはじめた。山家村の地主でマユの仲買人をしていた金光教信者の四  方(よも)平蔵をはじめ、出口実太郎、西村庄太郎らはとくに熱心で、翌年春には、この小グループの輪は、綾部の商工民と近在の農民をあわせて30人に拡大した。1894年(明治27)7月、日本は朝鮮半島で清国と戦火を交え、日清戦争が始まった。ナオは、頼みにしていた次男・清吉が、徴兵で近衛兵になっていたこともあって、開戦前夜の緊迫した空気をつよく感じとっていた。開戦に先立つ6月、ナオは「唐へ行け」との神命をうけたが、唐は遠い所にあるということだけしか分らなかったので、ともかく綾部から歩き出して亀岡を経て京都に至り、天理教の河原町分教会を訪れた。

 ナオは、天理教の教師と問答をしているうちに神がかりに陥り、教師から、「これは狐狸ではない、宮賓(天狗の類)だろう」といわれたという。ほどなく神から、「もうよい」との指示があったので、ナオはそのまま綾部に引き返した。日清開戦とともに、綾部の町では、ナオが★日清戦争を予言したということで話題になり、拝んでもらいに来る者が急増した。

 日清戦争中の同年10月、山家村の農民・西村文右衛門の神経障害を治したのが縁で、ナオの布教活動は大きく進展した。10日ほどで全快した西村と妻は、ナオにお礼参りを願い出た。ナオは定まった家もない身の上であったから、かねてから布教活動の拡大について何かと相談していた金光教亀岡教会の大橋のもとに、西村夫妻を伴って行った。金光教は明治20年代に入って、京都府の山間部へ急速に進出し始めていたが、綾部への教線伸張の機をねらっていた大橋は、ナオが信者を連れて来たので大いに喜び、さっそくナオのもとへ布教師の奥村定次郎を送ると言った。住居もなく神を祀ることもできないナオにとって、この提案は願ってもない話であった。

  奥村は大工職の出身で、布教の才腕には自信があった。綾部へ来ると、四方平蔵と協議して、綾部、西原、鷹ノ栖から11名の世話人を選び、何鹿(いかるが)郡長・大島伝一郎の裏座敷の6畳間を月額1円で借り、11月、金光教の天地金乃神と、ナオにかかっている艮の金神を祀って広前(ひろまえ)とした。このささやかな広前は、大本教の最初の宗教施設であった。

 奥村とナオの金光教会は、順調に歩み出した。すでに数十人の信者がついていた「綾部の金神さん」は、金光教の傘下に入って、さらに足しげく布教に出かけるようになり、献金も、信者が広前にもちこむ野菜や米も、日増しに多くなった。翌1895年(明治28)元旦には、広前を、斜め向かいにある四方源之助宅の8畳2間の養蚕室に移した。このころからナオは、半紙に馴れない筆で、さかんに「筆先」を書くようになった。

 仮名と漢数字で綴られた「筆先」を、四方平蔵は、渡されるごとに判読し、こうしてナオの教えが、しだいにその全貌を現わしはじめた。


 二、大本教の発展と第一次弾圧 


 ナオは、復古的農本的な理想世界「みろくの世」の実現を約束し、病気治しを媒介に、近在の農民、市民に艮の金神の信仰を説いた。「筆先」には「きんの世」「われよしの世」として、資本主義社会がはげしく糾弾され、外来の文物にたいするつよい反発が一貫していた。権力者は「鼻高」とよばれ、終末観的な立替えの時節の到来による、その没落が予言されていた。

 ナオの小グループは、開教6年目で金光教から独立したが、この復古的反文明的な小集団は、出口王仁三郎(1871~1948)を迎えて、明治末年から新たな発展の時期を迎えた。

 王仁三郎は、もと上田喜三郎といい、京都府亀岡近郊の貧農に生れ、生活のために苦闘する間に、富者、権力者の横暴を憤り、権力への反抗心を燃やした。1898年(明治31)私的な紛争が契機となって、村はずれの霊山高熊山にこもって7日間の修行をし、宗教者としての道を歩み出した。高熊山での修行では、洞窟に坐っている間に、神使にともなわれて他界を遍歴したとしており、これは、修験道系の入山修行の伝統を受けつぐ行であった。

 こののち王仁三郎は、身につけた霊能で病気治しを始め、静岡県清水の稲荷講社本部におもむいて、官学と習合神道糸の行法を学んだ。帰村した王仁三郎は、同講社所属の霊学会をつくり、鎮魂と幽斎修行を教えた。綾部での出ロナオの布教を知った王仁三郎は、1899年(明治32)ナオに協力して金明霊学会をつくり、翌年、ナオの五女・すみと結婚した。

 金明霊学会の布教は、しばしば警察の干渉をうけたため、信者は減る一方となり、王仁三郎は内紛から一時、綾部を去った。ナオを始め幹部たちは、王仁三郎の開明的な言動に反発し、王仁三郎は「筆先」の現状打破と権力批判の主張には共感しながらも、これを神のことばとして絶対化することには、なお疑問をもっていた。

 王仁三郎は、京都で神職の資格をとって、建勲神社の主典をつとめ、のち御岳教に転じて役員となった。明治末期の関西の宗教界を歩いて、さらに視野を広げた王仁三郎は、1908年(明治41)教勢拡大の構想を抱いて綾部にもどった。当時、大本教は逼塞状態にあり、ナオの周囲で、少数の幹部が細々と活動をつづけていた。

 王仁三郎は、同年、大日本修斎会をつくり、教義の体系化に着手するとともに、活発な布教活動に乗りだした。大本教の教義はナオの「筆先」を基礎に、国家神道をはじめ多様な習合神道説を結びつけることによって展開し、大本教の神秘的な現状打破と救済のよびかけは、第一次世界大戦の時期に、広範な農民、市民の心をとらえた。

 1914(大正3)年、<皇道大本>と改めた大本教は、大戦中から戦後に、鎮魂帰神の集団的神懸りの行法と、立替えの時節到来の予言を大々的に宣伝し、中小零細経営者、軍人、知識人の入信が相次いだ。

 海軍機関学校教官で英文学者の浅野和三郎は、入信して綾部に移住し、教団の機関誌『神霊界』を主宰して、対外宣伝に力を注いだ。大戦末期には、王仁三郎は、みずから救世主・みろくであるとの自覚を抱くように也、立替えの時期の切迫を強調した。
・・・以下<略>。

   続く。                     
 



●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (2)。
 ●第一章 悪の世の写し鏡「大本」はユダヤ教の〔型写し〕でもあった
 

 ★三種の神器はアークであった? (P58~61) 


 これらの記述(☆「伊勢神宮縁起帳」・「先代旧事本紀 伊勢神宮縁起」・「丹後風土記 浦島子」の三書のことで、この三書をあわせ読むと元伊勢神宮の御神体が天皇家の「三種の神器」になった経緯が明らかになると月海は主張する。)をつなぎ合わせて行くと、次のような神器譲渡の物語が出来上がる。

 「雄略天皇の二十二年七月、海部の先祖である浦島子は三種の神器の入った玉手箱を、大和朝廷に譲渡する。倭姫がそれを収めて建立したのが伊勢神宮である」

 しかしながら、玉手箱の中には現実には「マナの壷」「塩盈珠・塩乾珠」という二種の神器しか存在していない。それをなぜか「三種の神器」とするのは、過去に神器が三種類あった記憶を当時の人々が持っていたからなのではないだろうか?

 大正から戦前の日本において、「三種の神器」=「ユダヤのアーク」は、「日本人」=「救世主」論を立証するものとして、国粋主義者たちに熱っぽい期待をもって受け止められた。

 彼らは、「アジアに日本を中心とする連合国家を建国する」という前の大戦で西洋列国に勝利した日本が次に見た夢を、「日本人」=「救世主」の物証を楯に、正当なものとして評価したかったのである。

 「ロスチャイルドが真尼宝珠を買いつけに来ている」という情報も乱れ飛び、軍人、宗教家、政治家三つどもえの神器を巡っての獲得戦が繰り広げられることになっていく。

元伊勢神宮の秘密に深く関与していると注目された大本教は、各分野からの権力介入を受け、宗教とはかけ離れた過激な政治団体と化していく過程に踏み込み始めていたのであった。


 ★悪の世の写し鏡としての大本 (P61~) 


 第二次世界大戦前の不安定な国内状況の中、大本教内部にも複雑な派閥構造が生まれていた。

 その派閥とは、
①「開祖・直を生け神と崇める開祖派」
②「直の三女・久を中心とする八木派」
③「王仁三郎を無条件に信じる大先生派」
④「海軍将校を兄に持つ浅野和三郎派」
⑤「浅野派と対立し、陸軍との結びつきの強い天皇絶対論の石井皇道派」であった。

 すなわち、大本は内部に海軍と陸軍の勢力を抱え持ってしまうことになったわけであるが、彼らが大本に期待していたことは、信仰の礎などではなく、資金援助や民衆の煽動による右翼国体思想の擁護であった。

 特に、陸軍との結びつきの強い石井派には他宗教の介入も存在した。それは当時の国体主義と緊密に結びついた日蓮宗である。

 その頃の日蓮宗は最も過激な国体主義を提唱した宗教の一つであり、その代表的な例は陸軍中将・秦真次を囲んで組織された「日蓮宗知法思国会の座談会」であった。彼らは「天皇陛下万歳をさけんで笑って死ぬ道が皇道である」と主張していた。
 (注:国体主義と結びついた日蓮主義の代表者としては、他に国柱会の田中智学。血盟団事件、五・一五事件に関与した右翼日蓮主義者・井上日召。満州事変を指揮した石原莞爾などがいる)

 この軍事勢力の大本教への介入は著しく、時にはスパイ的な行為をして王仁三郎が秘密を握る「三種の神器」の在り処を掴もうと必死であった。

 後に王仁三郎が記した「霊界物語」においては、教団史とも取れる部分で、権力を争って「玉」の争奪戦が繰り広げられることに危機感を持ったスサノオ命によって、「玉」が秘匿されたことが記されている。

 現実に王仁三郎はある一人の男に、教団関係者に内緒で「箱に入った大切な品物」を預け、教団から去るようにと命じた。この段になると大本の内部は宗教団体という有り様ではなくなってゆく。

 王仁三郎が軍事勢力による強引な介入にしばしば悩まされていたことは十和田龍氏の著書『第三次大本事件の真相』にも描かれているが、特筆すべきは、二・二六事件の首謀者、北一輝(彼も狂信的な日蓮信奉者であった)が昭和十年十二月六日に、こっそり天恩郷にいる王仁三郎を訪ねていることである。

 北一輝はクーデターの計画をもらして、その資金二十五万円を王仁三郎に求めた。

 王仁三郎が「そんな金は手もとにないし、神様が人殺しのために金は出してはいかんと言われる」と軽く一蹴すると、北一輝は「国家の大事を打ち明けた以上、命を頂く。京都に十二人の刺客が伏せてある。命か金か二つに一つだ」と食い下がる。

 「とにかく四、五日待て」と王仁三郎は宥めて帰した。運よくその二日後に王仁三郎は検察により不敬罪で検挙されたため、事なきを得た。

 しかし、これはほんの一例であり、軍事勢力は大本を自らの傀儡にしようと虎視延々と狙っていたのである。

 権力が介入してくる所には欲が生まれ、腐敗が始まる。
 大本もその代表的な例であった。

 内部には王仁三郎もその洗礼を受けた宗教的虐待の例が多数存在し、皆神山に建設された大本営の工事では無理やり引っ張ってきた朝鮮人労働者を何人も殺していたという事実を証言する人たちもいる。

 このような状況の中、王仁三郎自身の言動も当然のごとく制限されており、誰とも敵対・迎合することなく神業を続けようとする王仁三郎の微妙な動きが、はたから見て不可解なものになることは否めなかった。

 同時代の理論派霊学者・友清歓真(ともきよよしざね)は一時大本教の役員であったが、派閥争いから一方的な追放勧告を受け、憤慨して「乾坤一擲」と題する檄文を配付。そこには「大本教の裏の秘密を見破って、撲滅の決心をするに至った。艮の金神は世を惑わす邪神である」とまで糾弾している。それほど、大本教の内部は魑魅魍魎の巣窟といった様相を呈していた。

 そもそも大本という宗教は、清冽なようでいて俗悪、正義であるようでいて邪悪であった。

 なぜなら大本の筆先にも「出口家と言うのは悪神の懸かる家系である」「日本にこういう悪いことが起こってくるぞ、ということを大本にしてみせる」と示されるように、実際は「悪の世の写し鏡」となる型を大本が持っていたからである。

 これ(第一次弾圧事件時に大本に潜入した京都府警のスパイ(の調書)によると、王仁三郎の人格は破天荒で摑み難く、朝令暮改もしばしばみられたという。)には警察側もどう判断を下すことも出来なかった。

 こうした王仁三郎の摑み所のない性格は、終始一貫して伝えられている。
 例えば、開祖・直はどんな真冬にでも一日たりと水行をかかさなかった。当然、幹部たちもこれに従う。しかし王仁三郎だけは、この光景を横目で見て、「わしは蛙やないんやから」と、一人温かい風呂に入っている。

 また、少しでも寒いと火鉢を抱え込んで放さない。しかし、ただの小人であれば、少しは周囲の目も気になり、水行の一度にでも付き合おうというものである。
 ところが王仁三郎はそれもしようとしない。こうした王仁三郎の態度が反発を買うのは当然であるが、なぜか王仁三郎の居る所は華やかで和やかな雰囲気が漂い、王仁三郎をひたすら慕う人々が集うのも不思議な現象であった。


 第三章 霊的天才「王仁三郎」はフラクタル理論で世界を変えてゆく!


 ★大本教弾圧の歴史が日本に移写される(p130~133)


 大正三年五月、王仁三郎が信者の前で「まもなくヨーロッパで大戦争が起きる」と預言した直後の六月二十八日、ボスニアの首都サラエボで、オーストリア皇太子夫妻が暗殺され、これがきっかけで第一次世界大戦が勃発した。

 この世界的な大戦の勃発は、日頃「世の立替えが来る!」と主張している大本教にとって大きな追い風となり、機会を逃さず大宣伝したことも功を奏して飛躍的に信者の数が増大した。

 そしてカリスマティックな大本の教義にひかれて、現役軍人や知識著名人の入信が相次ぎ、「大本」の名は世間に知れ渡るようになっていった。

 例えば、海軍少佐の浅野正恭、和三郎兄弟を始め海軍中佐の飯森正芳、東郷平八郎元帥、元帥の副将を務めた秋山真之中将(好古の実弟)などが入信あるいは密接な関係を持つようになる。

 大正六年には子爵の水野直、岩下成一、昭憲皇太后の姪にあたる男爵夫人・鶴殿親子が入信。さらに大正十年には久邇宮良子(現皇太后)の養育係であった山田春三が入信する。大本の成長は、その後も戦後不況の不安な国内要因の中で止まることを知らず、こうした急成長ぶりに時代の支配者層はしだいに警戒感を募らせていった。特に、大本の軍事勢力との繋がりは、国家転覆を志すものとして、大正八年頃より警察は王仁三郎検挙に向けて大本内部にスパイを侵入させ証拠固めを始めている。

 そして二度の警告を発するが、王仁三郎はまったく聞く耳をもたず、この警告を無視し続けた。

 その当時から、浅野和三郎は大本お筆先の内容から大正十年に大峠(ハルマゲドン)が来ると信じ込み、当時大本が買収した日日新聞を媒体として「大正維新論」を展開し始め しかしこの浅野の説に対して、王仁三郎は紙面を借りて「大峠の時期はいつとは言えぬ」「浅野氏は十字架を背おって殉教せんとする勇者」と意味ありげな対応をする。

 王仁三郎は、お筆先に記された「大正十年の大峠」が世界や日本に起こるのではなく、大本に起こるものだということを知りながら、浅野を好きにさせていた。

 なぜなら国家権力による大本の弾圧の演出は、王仁三郎に課せられた神業の一つだったからである。

 浅野の言動はますます激化していき、大正十年に入るなり「いよいよ大正十年なり」と書いた貼り紙を社内(*日日新聞)各部屋に貼り、「世の立替えが始まったから集金をする必要はなし」と通達をするという具合で、日日新聞の経営は悪化の一途を辿っていった。

 こうした大本の過激な宣伝活動についに国家権力は業を煮やし、大峠が始まるとされる大正十年一月十日、検事総長・平沼騏一郎は、京都地検の古賀検事に対して「大本」検挙の最終命令を下す。

 かくて二月十二日未明、京都府警部長・藤谷庄平の率いる武装警官二百名は綾部全町を包囲し、郵便局や電報電話局を管理下におくなどの厳戒態勢を敷いた上で、一気に大本を急襲したのであった。

 「三年先になりたら、余程気をつけて下さらぬと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞ。辛酉(かのととり)の年は変性女子(王仁三郎)にとりては、後にも先にも無いような、変わりたことが出来てくるから、前に気をつけておくぞ」(大正八年一月一日。辛酉は大正十年に当たる)
 という大本のお筆先は、警察の王仁三郎検挙という形で現実のものとなったのであった。

 この預言の真意と、神業の内容を把握していたのは王仁三郎ただ一人であった。
 これを契機に宗教大本は国家の危険分子とみなされ、たび重なる迫害を受けていくことになるのである。

 
  第四章 大本に起きたことは日本に起こり世界に拡大される!


 ★雛型経綸(ひながたけいりん)の仕組み
 
王仁三郎は、かねてから「大本は宗教団体ではない。神業団体だ」と言っていた。
 王仁三郎によれば、「大本」には日本ひいては世界の「おおもと」という意味が込められており、「大本教の動き」があたかも鏡に写されたように「日本の動き」・「世界の動き」として投射されていくと考えられている。
 そのため、王仁三郎にしてみれば、大本教は神を信仰してその教義を守っていればいいという単純な構造のものではなく、日本や世界に現実のものとなって現れてくる国常立大神の神徳を大本で行われる神劇的な行をもって促進することこそ、その本分としなければならないと考えていた。

 大本に起こる、あるいは大本で行われるすべての出来事は、そのことがモデルケースとなって日本と世界に起こることを約束された出来事である。
 これを「雛型経綸」と呼ぶ。

 大本の雛型経綸には、王仁三郎によって取り決められた三つの法則が存在している。

1.大本に起こる経綸は(松竹梅)三段の型になっている
2.経綸は「立替え」と「立て直し」の二度に分かれて行われ、この二つの時期には同じような事が起こる仕組みになっている
3.大本で起こったことは六年後に日本に投射される
 というものである。

 この法則を的確に理解しておかなければ、大本の雛型経綸から正確な預言を導き出すことは不可能である。だからこそ、筆者はこの際、この三つの法則を厳然と整理しておきたい。

 それには王仁三郎の生前の預言や、直の筆先にあらわれる言葉を注意深く考証していかなければならない。まず1の「松竹梅の仕組み」については、大本の筆先において「梅で開いて松で治める仕組み」と結ばれている。
 この場合の「梅」とは、直に神懸って「三千世界に一度に開く梅の花」と自称した艮の金神のことである。

「梅」で始まるとは、「大本教の誕生で始まる」ことを意味している。
「松で治める」の意味は、王仁三郎の守護霊「小松林命(こまつばやしのみこと)」のことであり、王仁三郎が経綸を治める役目であることを意味している。
 また「松」は冒頭で紹介した三保の夫婦松のところに築かれた「錦宮」のことも同時に示している。

 神示によって辻天水が、夫婦松を訪れたのは昭和二十五年八月十五日。

 艮の金神は第一次・第二大世界大戦という二つの大きな戦争と世界の立替えを叫んで産声を上げたが、それは第二次世界大戦の終結とともにおさまった。
 正しく「松で治める」仕組みである。
「松で治める仕組み」は「待つでおさめる仕組み」でもあり、預言された天災や戦争の一幕目が終わり、次の幕を待つことになる。

 最後の「竹の仕組み」とは何か?
 王仁三郎は、「三代目教祖の時に仕組みが変わる」「竹は中が空である。教団の内容が空になり、内部分裂を起こす仕組みである」と預言している。
つまり「松の仕組み」から「竹の仕組み」に変わるのは三代目教祖の時代であって、それは内部分裂という現象だと言う。

 正に、王仁三郎の預言通り、大本教は三代目教祖・出口直日の時代に三つに分裂した。

「松竹梅」の仕組みの構造で注意しなければならないのは、これが三段の仕組みに見えて、実質的には二段の仕組みである点である。
「梅で始まり松で治める」。そう艮の金神は叫んでいるが、「松」と目される辻天水の「錦宮」は大本教の本部「錦宮」と同じ名前を持つことから見ても、梅と松は基本的に同質のものと考えて良い。それであるから三段の仕組みの現実は「梅松・竹」の構造だということである。

 ここに、2の仕組みは「立て直し」と「立替え」に分かれて行われ、この両者には同じようなことが起こるとされる法則を加える。すると「竹」の時代には「梅松」時代と同じようなことが起こってくるぞ、という解釈になるのである。

 では実際に「竹の時代」とはいつかというと、三代目教祖・直日の時代に「竹田」に別会が出来て大本教が分裂を起こし始めたのが昭和五十五年(一九八〇年)。

 3の法則から日本が「竹」の時代に突入したのが昭和六十一年(一九八六年)。
 この年はリクルート疑獄が中曽根元首相によって、実質的に実行された年であり、これを契機に次々と噴き出す政治汚職問題から政界が分裂し、現在の政界再編に至っている。その発覚が昭和六十三年(一九八八年)。

 時の内閣は「竹下登」まさに「竹」の時代と言えるのである。

 そして世界もこれに連動して東西の壁が壊された。
 これは一見、平和への道に見えたが、今現在において分かるように世界各地に内戦を呼び覚ます結果になっている。

 「竹」の時代の我々がこれからどのような出来事に遭遇していくのか。
 それは「梅松」時代と同じ出来事なのである。
 具体的にそれが何を意味しているのか?
 そのことを論じる前に第一次・第二次大本事件と「梅・松」の仕組みを考証することにしよう。

 
 ★第一次大本事件と日本の連動

 
 開祖・直の生前も王仁三郎は直の代行として実質上大本の一切を統制していたが、あくまでも教祖補佐の役であった。

 直の死去によって王仁三郎は名実ともに教祖の地位に立つ。
 しかし大本の世継ぎは筆先によって末代肉体が女のものがなること、二代目教祖には直の末子の澄、三代目は直日が決められていたため、王仁三郎はあくまでも神示に従順にしたがい、直の死後一年の教団の動乱期を乗り越えた後は、二代目を澄に譲り、自分はもとの補佐役へと回る。

 大本の講演と文書による全国的なキャンペーン(教線拡大)は、国内外の不安な情勢の中で国民の間に浸透していった。しかしその一方で大本を邪教・危険宗教として批判する声も高まり、ついに大正八年、京都府警が大本の綾部本部に乗り込む。

 その当局を刺激するかのように王仁三郎は次々と過激な行動に出る。
 同年十一月には明智光秀の旧亀山城跡を買い占め、天恩郷と命名して宣教の場とする。さらに当時大阪朝日、毎日新聞と比較される程の規模を誇った日日新聞を買収して布教活動を拡大した。
 「無謀」「狂信的」とも非難を受ける王仁三郎のこうした行動自体、一つの神業経綸だったのだが、当時の王仁三郎は教団側に一切の心中を知らせることなく黙々と神の指し示した仕事に着手していた。

 当時の大本には前章で詳しく述べたように、派の対立があった。開祖を生き神として信じる「開祖派グループ」、福島久を中心とする「八木グループ」である。
 この二つを旧派とするならば、新派は王仁三郎を無条件で信じる「大先生派」と海軍中将・浅野正恭を兄に持つ右翼傾向の強い浅野和三郎を中心とする「浅野派」。軍人でありながら反浅野派で熱心な天皇絶対論者の「石井派」である。

 王仁三郎は、こうした分裂と危険思想が大本の中で育っていけば、やがて日本国自体に深刻な影響を与えると危惧していた。
 王仁三郎の神業は教団内にある腐敗と危険思想を表面化し、大本に粛清を呼ぶことを目的としたものであった。

 大正十年(一九二一年)原内閣の手によって第一次大本弾圧が行われた。
 王仁三郎は当日、日日新聞社・社長室で筆をとっていたが、当直のものに「ちょっと行ってくる。誰もこなくてよい」と穏やかに検挙されていった。

 この日を予知していた王仁三郎は、血気にはやった青年たちが警察に抵抗しないように、綾部を抜け出して大阪で検挙されるのを待っていたのである(このような行動は、最後まで教団内にたてこもって警察に抵抗したオウムの麻原教祖の手本となるだろう)。

 大本の大布教宣伝活動が当局によって制圧された型は、そのまま「日本による東亜圏統一を宣伝して、中国に進出した日本陸軍の動きを止める型として反映していく。
 預言3の法則(大本で起こったことは、六年後に日本の動きに写される)の決まり通りに第一次大本事件のその六年後の一九二七年に、中国に介入する諸外国の帝国主義に反対して南京に樹立した国民政府の党首・北伐軍の蒋介石によって、日本帝国の支援を受けて北京で大元帥を名乗っていた張作霖が打ち破られる。
 このことですっかり気弱になって、任務を辞退したいと申し出た張を、日本陸軍は爆弾を列車にしかけて殺害してしまう。
 しかしこの裏工作が暴露され、作霖の子・学良が国民政府についたため、日本帝国は中国領土を統括する大きな要を失うという墓穴を掘ったのである。

 これを機に中国全土は国民党によって統一された。第一次大本弾圧は、このように日本の中国における帝国主義の土台を覆す型として現れた。
                  
 



●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (1)。
 ●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (1)。
  1995年 徳間書店 〔報知ライブラリー〕  


 ★宇宙意志は強制的に宗教をおこす―艮の金神の目覚め

 明治二十五年一月三十日(旧正月の元旦)。
 太古の昔より、世界の艮(うしとら)の方位である日本列島に封印されていた古代神は眠りを覚まし、京都の福知山に貧農の子として生まれ、八人の子供を持ちながら夫に先立たれた一人の読み書きのできない女・出口直(五十六歳)の体の中に白銀の炎として宿った。

 出口家は直が誕生した頃は赤貧の農家であったが、もともとは丹後半島にある元伊勢神宮縁(ゆかり)の名門の血統であった。

 明治二十五年一月三十日より直の体に宿った古代神は、その年の二月初旬、直の口を借りて自らの出現の理由を次のように語った。

 「三千世界に一度に開く梅の花。艮の金神の世になりたぞよ。
梅で開いて松で治める海国の世になりたぞよ。
この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。
今の世は強いもの勝ちの、悪魔ばかりの世であるぞよ。
世界は獣の世になりておるぞよ。
これでは世はなりたちてゆかんから、神が表に現れて三千世界の立替え立て直しをいたすぞよ。用意をなされよ。この世は、さっぱりサラつにいたしてしまうぞよ。
三千世界の大洗濯、大掃除をいたして、天下太平に世をおさめて、万劫末代(ばんこうまつだい)つづく神国の世にいたすぞよ。
これが違うたら神はこの世におらんぞよ。
いずれの教会も先走り、とどめに艮の金神が現れて、世の立替えをいたすぞよ。世の立替えがあるということは、どの神柱にもわかりておれど、どうしたら出来るということは、わかりておらんぞよ。
九分九厘までは知らしてあるが、もう一厘の肝心なことは、わかりておらんぞよ。神となれば隅々までも気をつけるが神の役。神ばかりよくてもゆけぬ。かみしもそろわねば世はおさまらんぞよ。
不公平ではおさまらん。かみしもそろえて人民を安心させて、末代つぶれぬ神国の世にいたすぞよ。
あしもとから鳥たつぞよ」

 もともと内気でおとなしい性格だった直は、「やめて下され、そのような大声を出されては」とひたすら声を出す主に訴えるが、静まる様子もない。
 これ以降、昼夜かまわず大声で世界の立替えを叫ぶ直は、近所から気違い婆と呼ばれるようになった。

 しかし日清戦争、日露戦争と次々に預言を的中させ、病気治しまで始めた直の元に、少しずつ信者が集まり始めた。
 とはいえ、集まってくる人々もあくまでも個人的な信仰の範囲であったし、金神の語る言葉の真意も、その正体も誰一人分かる者はいなかった。
 しかし直には、自分に懸かる「艮の金神」が通り一遍の神霊ではないという不思議な予感があった。そのため、直は「この神をわけるものは東からくるぞよ」という艮の金神からの神言に頼り、「東から来る人」を待ち焦がれることになる。

 母の心を知った直の三女・福島久は、京都府船井郡八木町の人口に茶屋を出して「東から来る人」を待つことにした。

 それから三年目の明治三十一年の六月(旧暦)、お歯黒を塗り、陣羽織にコウモリ傘を侍った奇妙な風体の若者が、この茶店の床几(しょうぎ)に腰を下ろすことになる。

 その人物こそ当時二十八歳であった上田喜三郎(後の出口王仁三郎)であった。

 実は喜三郎の方にも郷里の穴太(あなお)で修行をしていた時、「一日も早く北西を目指して行け!神界の仕組みがしてある。待っている人あり」という神命が下っていた。

 穴太から北西といえば園部の方角になる。喜三郎はただちに園部に向かったが、途中の茶屋で一服していると、女主人であった久が「貴方は何をなさる方ですか?」と尋ねてきたのである。
 喜三郎が「わしはなぁ審神(さにわ=神を判定する役)をするものや」と喜三郎が答えると、久は喜んで、母の直(★東洋文庫版『大本神諭』では<ナオ>)に会ってくれと頼んだのであった。
 喜三郎が出口直という女性の存在を知り、お筆先を見たのはその時が初めてであった。
 喜三郎はそこに何か言い知れぬ因縁と自分の使命を自覚した。

 その年の八月二十三日(旧暦)、綾部において喜三郎は直と対面する。この対面こそが大本と大経綸を動かす原点となっていくのであるが、当の直と喜三郎は互いを疑いの目で見合っていた。

 喜三郎にすれば直の妄信的とも言える神懸りと暗い終末預言に自分とは相いれぬものを感じていた。
 一方、直はあまりにもふざけた喜三郎の風体と、当時稲荷講社によって修行したという経歴を聞き、低俗な狐使いではないかという疑惑を持ったのである。
 直を取り巻く周囲の役員たちの反発もあり、喜三郎はわずか三日の滞在で綾部を出て行ってしまうことになった。

 直と喜三郎の互いに対する疑いと反発。これは大本教の歴史において、その後も不断に繰り返されたものであった。そしてそのこと自体、大本が世界の雛型であるところの、雛型経綸の一環でもあった。

 直と喜三郎は、預言の指し示すところには一致を見ながらも、その宗教的スタンスはまったく正反対であった。この因縁は未だもって、王仁三郎から裏神業と預言を継承する大本の分派と、開祖・直を絶対視する大本数本部との反発にも継続されている。

 両者は互いの主張を認めてはいない。大本教側から言わせれば、裏大本・裏神業などというものは「認証できない」としており、裏神業をしている分派たちから言わせれば、「大本は形骸化している」ということになる。しかしこれは必然的な型であり、直と王仁三郎の演じた終末の神界逆転の型なのであった。


★宇宙意志の縮図としての王仁三郎


 王仁三郎は明治四年旧七月十二日、丹波国桑田郡穴太村の農民、上田吉松の長男として生まれた。幼名は喜三郎。出口姓は出口直の娘・澄(★<すみ>とも。直の五女)をめとって以降に名乗ることになる。

 上田家は穴太では聞こえた名家で、先祖には天才画家の円山応挙=上田主水(もんど)などがいたが、代々極道者が相次いであらわれ、喜三郎の時代には家は零落し、あばら家で農家を営むようになっていた。

 この穴太村という所は穴太衆という海人の石工集団がいたところである。その土着の名家である上田家は生粋の海人族(朝廷に漁業をもってつかえる一族。漁業のみならず石工、製鉄、木師などの職人集団を形成した)であった。

 こうした環境から知識を得ていたのかどうかは定かではないが、喜三郎が後に大本の神を古代海人族の氏神・国常立大神(くにとこたちのおおかみ)と位置づけたことと彼の出自が深く関係していることは疑う余地もない。

 喜三郎を育てた祖母・宇能(うの)は言霊学者の妹、あるいは縁者であったと言われ、古神道と、深い関りをもった環境は喜三郎の幼い頃から整えられていた。頭は良かったらしく、幼い頃には「神童」「八耳」などと呼ばれ、代用教員を経て獣医を目指したが生来の奔放な性格が災いして長くは続かない。牛乳搾取場を経営したり、他にも様々な仕事に手を出して自由気儘に暮らしていた。

 歌や座興が好きで、若い頃には村の女たちの全員と懇ろになってやると豪語していたという話も伝えられている。

 ところがそんな喜三郎に一大転機が訪れた。

 たびたび喧嘩していた地元の侠客に殴り込まれ、リンチを受け、半死半生になった。そのことが原因で喜三郎は「過去・現在・未来」と自分の使命をすべて知らされるという神秘体験をし、そのことから霊学を志すようになるのである。☆


 ☆鎮魂帰神法(P117~118)ではこのあたりの事情は、概略次のようになる。
 〔・・・王仁三郎は地元侠客の殴り込みで半死半生のリンチを受けて、傷の痛みに数日苦しんだ。そのある夜、放心状態に陥った王仁三郎は自分を呼ぶ声に目を覚ました。
 見るとそこに松岡芙蓉仙人と名乗る男が立っていた。仙人は「これからお前を富士に連れていく」といい王仁三郎の魂を抱いて天に駆けた。
 恍惚の時間が過ぎふと気づくと半里先の高熊山の岩窟に座っていて、そこで神の命ずるまま一週間の荒行を行うことになる。

 王仁三郎は行を終えると、今度は突然寝たまま硬直状態になる。
 はじめのうちは行の疲れで寝込んでいるとおもっていた家族も異常に気づき四日目には医者が呼ばれ、診察するが、全く原因が摑めない。
 とにかく、王仁三郎は仮死状態を一週間続け、生き返った。
 それからの王仁三郎は不思議な力を発揮しはじめ、病気治しなどをおこない「喜楽天狗」とあだ名されるようになる。

 しかし、独学では頼りないというので、明治三十一年長沢を尋ね、鎮魂帰神法を伝授される。・・・〕


 喜三郎は、霊学者として高名な本田親徳(ちかあつ)の弟子で、静岡に住む長沢雄楯(かつたて)の稲荷講社で修行をした。直との出会いはこの修行を終え、郷里の穴太に帰った直後のことであった。
 たった三日で綾部を出た喜三郎であるが、喜三郎を狐使いと訝しがる直のもとに神示が下る。

 「あのおん方は、この艮の金神が引きよこしたのざよ。神が守護のしてあること」

 このような神示が次々と下るようになったため、さしもの直もそれを無視することは出来ず、喜三郎を綾部に迎え入れることを決心する。

 同じ頃、喜三郎も、直が語った神の経綸にただならぬ因縁を感じていた。
 神々の謀略により封じ込められたと語る憤怒の神。終末の預言を語る神を、喜三郎は直観で、自分の先祖に縁ある国常立大神に違いないと察していたからである。

  続く。
 



●疑史 第51回 上原勇作(3)
 ●疑史 第51回 上原勇作(3)  落合莞爾 
  『月刊 日本』12月号 ㈱K&Kプレス ℡:03・5211・0096  


 ワンワールド薩摩派の初代総長・吉井友実は明治2年に逝去した。二
代目・高島鞆之助は大正5年1月11日に他界するが、三代目を上原勇作が襲った時期は大正元年と推定される。陸軍薩摩閥では、明治31年に高島鞆之助が桂太郎に追われ、翌年川上操六が早世した後を、逆縁ながら参謀総長に返り咲いた形の大山巌は、敢えて寡黙に徹し政治に介入しなかった。陸相は桂→児玉→寺内と長州閥が都合13年間も独占し陸軍人事を壟断したので、陸軍内の薩摩健児は寥々たる有様であった。その中でひとり上原勇作中将(士官生徒三期・のち元帥子爵)だけは、陸軍内有数の欧州通として知られ、識見手腕ともに抜群で、長州閥にとって最も手強いライバルであった。それを警戒した寺内陸相の計らいで、上原は軍中央から遠ざけられ、41年から旭川第七師団長、44年には宇都宮の第十四師団長と、3年半にわたり田舎回りをしていた。

 その上原に陸軍改革の期待を繋いだのが7歳年下の田中義一(士官生徒八
期・のち大将男爵)である。長州人の田中は参謀総長・児玉源太郎の薫陶を受け、山県・寺内両元帥の信任も厚く、40年4月4日陸海軍首脳が25個師団と88艦隊による「帝国国防方針」を策定した時、参謀本部作戦班長として陸軍案を作成した逸材である。同年5月から歩兵第三連隊長に出たが在任中大佐に進級、42年1月には参謀本部に復帰し、軍務局・軍事課長の要職に就いた。

 折しも陸軍の派閥解消を唱える運動が参謀本部内に台頭してきた。首謀者は参謀本部第二部長・宇都宮太郎少将(佐賀出身・士官生徒七期・のち大将)と戦史課長・町田経宇大佐(鹿児島出身・士官生徒九期・のち大将)で、改革運動の主柱に上原勇作を担ごうとした。担ぎ手が九州人ばかりでは藩閥抗争と受け取られる虞があったが、長州出身の田中が加わって展開が急に広がった。田中が上原を担いだのは派閥争いよりも政策実現を優先する軍事課長としての見識だが、43年11月少将に進級して歩兵第二旅団長に出る。44年8月30日成立の西園寺第二次内閣の陸相は、上原と二期先輩の石本新六中将(のち男爵)の争いとなったが、田中ら少壮幹部が上原を推戴したにも関わらず(ママ)、寺内は永年にわたり寺内軍政を次官として支えてきた石本を陸相に就け、その2日後、陸軍省の要の軍務局長に田中少将を起用する。折から大韓帝国を併合した直後で、朝鮮半島の治安維持とロシアの南下に備えるため、陸軍は駐韓常備軍として二個師団の新設を必要としたが、日露戦後の財政難と厭戦気運から世論の賛成を得ることが出来ないでいた。ところが帝国議会は海軍に戦艦8隻に巡洋艦8隻を揃える88艦隊を認めたのは、英国が大型戦艦ドレッドノート号(いわゆる弩号)を建造したことで世界が大艦巨砲時代に入ったことが国民に理解されたこともあるが、海軍の総帥・山本権兵衛の政治力による所も大きかった。

 そこで陸軍首脳は、田中の政治的手腕に期待して省内を取り仕切らせ、最重要課題の増師実現を目指したのである。翌10月、孫文が辛亥革命で清朝を倒して東亜の軍事情勢は一層深刻化した。大陸政変に刺激されたロシアが、満洲・朝鮮にどう出てくるか予断を許さなくなったのである。これに対処するため、強引にでも2個師団増設を実現すべき石本陸相は寝る間もなく、45年4月2日、過労で突然死する。お鉢は自然と上原に回り、山県元帥の推薦によって上原は4月5日付で陸相に補せられた。陸軍省では、軍事課長・宇垣一成大佐(士官生徒十二期=士候一期、のち大将)が増師実現に向けて原案を作成、田中軍務局長がそれにより内外の根回しを行い、岡市之助次官(土侯四期・のち男爵)が陸軍省内をまとめ、上原陸相が政界トップに向けて強力な政治工作を展開するという分担となった。

 その最中の大正元年(=明治45年)の8月、上原は奇妙な事を始める。従兄弟の吉薗林次郎の長男・周蔵を呼び寄せ、
「おまん(お前)に草を頼みたか」と頼んだのである。
「草」とは、定職をもって地域社会の信用を得ながら、秘かに情報を集める一種の諜者である。陸軍の特別任務を遂行する軍事探偵なら陸軍省でなく参謀本部の管轄だが、上原陸相は個人的に諜報活動に携わる人材が必要になり、身内の周蔵に眼を付けたのである。
 
 宮崎県小林村の豪農・吉薗家の長男として明治27年に生まれた周蔵は頭脳明晰で、小学校を飛び級で卒業し都城中学に合格したが、中学程度の数学は自習していたから教科に不満で、一週間で退学してしまった。その後、祖母ギンヅルの勧めで、実祖父の公家・堤哲長の縁戚に当たる武者小路実篤の内弟子になったものの、白樺派に偽善を感じたため(*周蔵は「白樺派は二股膏薬だ」と後に断を下す)帰郷した。孫の立身を願うギンヅルは、旧知の海軍大将・山本権兵衛を頼り、熊本高等工業を特別に受験させて貰うが、その入試を周蔵はボイコットした。学生下宿で知り合った五高生たちが解けない数学の問題が解けたから、五高より程度が低い熊本高工に行く気がしなくなったのである。五高生たちの数学師匠・加藤邑に引き会わされた周蔵は、その人格に傾倒し、加藤の勧めで私立熊本医専に入るが、たまたま知り合った少女の接近を恐れて医専を中退し、帰郷した。
 
 時に満18歳の周蔵が、加藤の勧めで「草」を志願した所、9月10日に上原から「熊本ノ鉄道学校土木課に入ルベシ」との命令があり、10月1日から東亜鉄道学校に籍を置き東寮に入った。2学年に編入されたが、教科内容が余りにも低いため時間の無駄と感じた周蔵に対して、上原は「技師トシテ公認サレルヤフニ終了マデ席ヲ置クコト」と厳命し、「海外に出る場合に、技師であれば視察と言う理由が立つからだ」と教えた。

 列強の諜報機関が国境を超える人に注目した当時、諜者は表看板を背負う必要があった。上原は周蔵の理科的頭脳に相応しい測量技師の看板を作ろうとしたのである。上原が周蔵を諜者として抱えた理由は、陸軍薩閥の中心となった上原が、長閥・海軍閥・政党閥の他、台頭しつつある無政府主義勢力に対処するため個人的に諜者を必要としたこともあろうが、奥底は、上原がこの時期に高島の後を継ぎ、ワンワールド薩摩派の総長に就いたからと観るべきものと思う。

 上原から訓令があったのか、欠席しても教官から文句もなく、周蔵は鉄道学校に在籍しながら、もう一つの密命、熊本医専に舞い戻り、麻薬研究部に手伝いとして入ったが、手伝うべき相手がいない。元来麻薬研究科などはなく、今回慌てて作ったものだからである。毎日通うことになった周蔵は、薬事部の入口の脇に臨時に机と椅子を与えられたが、自ら研究を始めるしかなかった。後日の『周蔵手記』はこの段の事情を、
「ダフモ 上原閣下ニハ 何力特別ナ研究ヲ シナケレバナラナイ 確タル理由ガアッタト確信スル。自分二命ゼラレタ折ハ、サホド真剣トハ思ヘナカッタガ、カナリ本気デアルヤフダ」と記している。師団長として3年半も地方勤務していた上原が、陸相に就いた途端にケシ研究の必要を生じたわけを、上原は「陸軍は今や分岐点に来ちょいもす。おいが思ふちょる事を 誰かが試してくれて、そいがうまかいったら、こん日本陸軍は太っとか軍になりもす」と説明した。
 「そいはどげんかこつですか?」と尋ねる周蔵に、「アヘンを植えてみて欲しか、思ふちょいもす」と続け、「アヘンがうまく出来れば軍の裏産業にもなるし、軍人の怪我の治療に一等と聞くから、自力でアヘンを手にいれたかと思ふちょる」と真意を打ち明けた。
しかし周蔵はその当初、上原がさほど真剣とは思えなかった。周蔵の軍師・加藤邑も、報告を聞いて「アヘンと言ったのか、ケシと言わずに。それは上原さんはまだ詳しく知らないね」と判断したほどで、上原自身の考えでなく、誰かから唆されたようであった。しかし周蔵はやがて、「上原には特にケシ研究をしなければならぬ確たる理由がある」と確信するに至る。これ蓋し、上原自身がケシの重要性に目覚めたことを周蔵が感じたのである。

 新領土台湾におけるアヘン漸禁政策の採用から十数年、後藤新平の意を受けた篤農・二反長(にたんちょう)音蔵の努力によりアヘン製造の内地化が始まり、ケシ栽培者も岡山県と大阪府では千人前後に増えたが、他府県では数人から百数十人しかおらず、量産にはほど遠かった。後藤・二反長系列だけでは国内需要に満たず、他からも応援が欲しい状況だったが、周蔵は量産化に向かわず、特種ケシの栽培とモルフィン純度の極めて高い特殊なアヘンの製造を志向した。(*周蔵が一時入学した)熊本医専にはケシ専門官がおらず、周蔵は極めて少ない関連書物を漁り外国文献に頼りながら、独自に研究を始めたが、戸田某が陸軍嘱託の立場で派遣されて指導に当たることとなった。しかし戸田は、個人的に上原大臣の思想と合わないとの理由で直ぐに辞した。白樺派に共鳴する帝大農学士というから、諸侯系華族に六家ある戸田家のどれかの出であろう。

 大正3年春、ギンヅルから「渡辺ウメノという老婆からケシ関係の古書を貰って来い」と言われた周蔵は、京都に行き御霊前(?)の医師・渡辺家を訪ねる。ウメノは田舎に行ったとのことで、「綾部ナル所マデ訪ヌルト 大本教ノ教祖ノ住ヒナルニ、大部不審ヲ抱ヒタ」とある。

 母が丹波穴太村のアヤタチ・上田家から出たウメノは、上田吉松とはいとこであった。大本教(正しくは★「皇道大本」)の実情は、上田吉松・渡辺ウメノと出口ナオが手を組んで立教したもので、吉松の伜の上田鬼三郎(通称喜三郎、のち出口王仁三郎)が婿入りした綾部の出口家を本拠とした。
 (★「皇道大本」を名乗るのは1914年以降のこと。明治41(1908)年からそれまでは、「大日本修養会」を名乗った。)

 出口和明『いり豆の花』は、当時の大本の発展ぶりを次のように記す。
〔まさに、「日に日に変わる大本」で、大正二年から三年にかけて大本近隣の土地を買収、大正三(1914)年一月一日には上野に三千五百坪の地ならし工事が開始され、金龍殿と統務閣の新築が決定された・・・王仁三郎が綾部に腰を据えてからの成長ぶりは、目覚ましいものがあった〕。

 正に多忙を極めた大本教団を手伝うために、ウメノは綾部の出口家に寄留していたのである。この時周蔵は、出迎えたウメノの胸元になぜか銀の十字架を見たと、後に家族に語った。ウメノは周蔵に、秘伝書の他に特種の黒いケシを呉れた。前述した多神教イスラエルの子孫のアヤタチ上田家は「在日マカイエンサ」でもあり、その種はオランダ渡りという物であった。

 アヘンの主用途は大凡三つあり、誰もが知る「鎮痛用ケシ」と「快楽用ケシ」の他に、余り知られていないが「延命用ケシ」がある。この時周蔵が貰ったケシは延命用で、これから作った純質アヘン粉が万病に効き、長寿をもたらすことを知った周蔵は、上原の許可を得て、以後はその増産に専念して、上原に献上するのが主要任務となった。上原の財界の盟友・久原房之助もこれを渇望し、周蔵は思いもよらぬ財運に恵まれて一生を過ごす。

 ●疑史 第51回 上原勇作(3)  <了>。                       
 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(24)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(24) 
   ― 超一流の「浪人政治家」杉山茂丸と在英ワンワールド  落合莞爾  

   『ニューリーダー』誌・12月号。 (はあと出版、TEL 03 3459 6557)

 ★長閥を操りつつ政界を雲上から見下ろす怪物  


 伊藤博文第二次内閣の拓殖務大臣高島鞆之助は、明治29年9月、 松方正義第二次内閣が成立するや陸軍大臣を兼ねた。25年8月に大選挙干渉の責任者処分に憤激して陸相を辞任した高島は、以来陸軍中枢から遠ざかっていたが、留守を預かっていた大山巌に代わり、再び陸相に返り咲いたのである。これで高島は大西郷の後総者となり、迫り来る曰露戦争に向けて軍政方面の準備に勤しんだ。その地歩を将来継ぐべき軌道に乗った上原勇作は時に工兵中佐で40歳に満たなかった。

 29年5月、参謀本部第四部長兼工兵会議議員を命ぜられた上原は、30年10月11日付で大佐に進級、鉄道会議議員と港湾調査委員を命ぜられ、対ロシア戦に向けてインフラの整備当った。この間、伊藤の後継となった松方内聞が30年9月、行政整理のために拓殖務省を廃止して事業を内務省に移したので、高島は事務を樺山内相に引き総いで陸相専任となった。

 31年1月、松方に替わって伊藤が第三次内閣を組織すると、長州の寵児・桂太郎が策謀の限りを尽くして高島を陸相から追放、自ら陸相に就いて人事権を掌握、薩摩人を陸軍の中枢から遠ざけた。陸軍三長官の人事では、陸相が桂太郎中将、監軍改め教育総監に寺内正毅少将と、長州が二つ取り、薩摩は川上操六中将が小松宮彰仁親王に代わって参謀総長に就くに停まった。

 進歩・自由の両党に内閣を断られて窮地に陥った伊藤内閣は、松山茂丸が建白した興業銀行設立案を無視されたのに怒り、増税案否決を煽ったので、同年6月を以て倒壊し、大隈重信と板垣退助が隈板内閣を組織するが、これも10月に崩壊、その後に成立した山県有朋第二次内閣の手で杉山永年の悲願だった京釜鉄道施設と曰本興業銀行設立が実現し、松山は山県から興銀総裁の就任を要請されたが断った。

 長州派を操りながら政界を雲上から見下ろした杉山の数々の念願は、すべて政治的なもので個大的願望は一つもない。これだけを観ても杉山が一介の浪人ではないことは自明で、畢竟在英ワンワールドの意を受けた「浪人政治家」と呼ぶしかないのである。

 31年秋、陸軍三長官が揃って進級、桂と川上が大将に、寺内は中将になった。32年1月、参本第四部長から外国軍事地理諜報統計を所管する第三部長に異動した上原は、蘭国ハーグの万国平和会議に出席する男爵・林董の随員を命ぜられ、4月14曰に出発し10月6曰に帰朝した。
この間、5月11曰に起きた参謀総長・川上操六の病死は、陸軍はおろか曰本帝国の大椿事とされるが、実は1月にも本稿に関係ある大人物が長逝していた。伯爵・勝海舟である。帝国海軍の創業と発展に関して、勝と吉薗ギンヅルが手を組んで重大な役割を果たしたと仄聞したので、維新以来の勝の動静を探って見るに、確かに明治15年前後の動向は興味深いが、本稿は当面これを論究する余裕がない。
 
 川上の長逝から5曰後、参謀総長に大山巌が決まる。宇都宮太郎大尉ら参本の青年将校は、大山が長州流非戦主義の桂太郎陸相に遠慮して軍拡を積極的に主張しないことに焦り、翌33年初頭から「起高作戦」と称して参謀総長に高島前陸相を担ぐ運動を開始した。青年将校たちの高島推戴運動は、薩摩軍人の賛成を得たが、遂に実現せず、同年4月に教育総監・寺内正毅が野津道貫(薩摩)に後を譲り、自らは大迫尚敏(薩摩)に替わって大山の下の参謀本部次長に就いた。いかにも<薩長たすき掛け>の原則に沿った形だが、これにより桂陸相と寺内参謀次長の長州コンビが陸軍の人事権を掌握し、「起高作戦」をぶち壊してしまう。
 

 ★桂太郎、児玉源太郎との三者密約で日露戦実行ヘ 
 
 33年5月31日、山県内閣は憲政党の星亨の絶縁宣言で窮地に陥る。折しも生じた北清事変に処するため、6月15日の臨時閣議で義和団鎮圧を目的とした陸軍の清国派遣を決定したが、外国軍との合同活動となるため統帥権問題で紛糾する。この間早くも山県に見切りを付けた杉山は、年初から伊藤に対して秘かに政党設立を持ち掛け、新党設立資金として10万円を与えた。

 これ恰も平成6年の小沢政変の相似象で、新進党の場合は湾岸戦争の日本協力金の一部が☆アマコスト米大使から返戻されたと囁かれているが、政友会設立の資金源は日清戦争の軍需成金小美田隆義とも、実業家岡田治衛武とも言われている。両方とも、その実は不明である。
 
 ☆どこが強面なのか「面」以外には不明だが、幹事長時代には、アマコストの写真を額に入れて悦に入っていたことは有名な話だ。(ブロガー註)


 9月13日、憲政党が解党して政友会との合流を決め、同15日を以て立憲政友会を結成、初代総裁に伊藤が就く。同12月、桂太郎は陸相を辞して児玉源太郎に譲る。これより前、杉山はまず児玉を調略し、次いで桂を呼び込んで三者間の密約を結んでいた。日露戦の実行を大目的としそのために先ず国論を統一する一大政党を作り、総裁に伊藤を担ぎ上げ、恐露病者で反政党主義の山県を降ろして伊藤政友会に政権を取らせ、戦争の財務は松方正義と井上馨に担当させる策略で、三者が一致したのである。これが見事に実現し、10月19日、山県内閣総辞職の後を承け、伊藤第四次内閣が成立した。在英ワンワールドの意向に沿い、英露グレートゲームの中で英陣営の一環を担った日本が、対露戦争を決意するためのこれが道程であった。右の三者密約により、在英ワンワールド戦略に加わった桂と児玉の両人に陸軍を委ねることとなり、既にワンワールド薩摩派総長の重責に勤しむ高島をことさら陸軍首脳に担ぎだす必要が失せたのである。しかし高島は腹心に対しても本心を隠し、参謀総長に色気を示すなど、曖昧な態度を示したので、高島を募う宇都宮太郎ら青年将校はこれに惑わされ、その後も高島を韓国総監や首相に担ぐ運動を止めなかったものと思われる。

 高島と陸軍の関係に関する右の説は、落合独自のもので、『吉薗周蔵手記』に見える記載と、時折仄聞する周蔵周辺の話を、堀氏前掲著(堀氏に多謝)で見た杉山茂丸の行状とすり合わせ、更にワンワールド史観に照らすことで、これを洞察するに至った。因みに、数年前の本稿では「明治末年、日本陸軍内では、山県有朋元帥を総帥に仰ぎ、桂・寺内と続く長州閥が全盛であったのに比べ、薩摩は総帥の大山巌が恬淡な性格の上、野津道貰と川上操六が早く没し、大西郷を継ぐべき高島鞆之助は軍を出て宮中に入ったため見る影もなかった。軍令系統(参謀本部)には辛うじて薩摩人が居たが、軍政畑(陸軍省)となると、まるで長州の独占であった」云々と述べ、インターネットにも転載されている。それも全くの過ちではないが、今にして思えば浅かった。傍線部の「宮中に入った」は、伝聞のままを記したもので、正直言うと当時その意味を完全に理解していた訳ではない。今なら「ワンワールド薩摩派の総長に就いた」と記す筈である。かつて仄聞した「宮中」とは、実は杉山の勢力圏の意味で、具体的には杉山の背後の堀川辰吉郎を指すものと思われる。


 ★日英同盟実現に伊藤博文の抹殺が不可避と動く  

 明治33年10月、政友会総裁として四度目の首相に就いた伊藤博文 は、非戦主義者であったが、政友会設立の事情から杉山に敬意を払い、警視総監の職に杉山を誘う。むろん 杉山は受けず、各県知事を歴任した 安楽兼道が警視総監に就いた。財政難に悩む伊藤は、杉山に外債募集を 依頼し、渡米準備のための33年12月11日の会合で、翌年4月26日に出発と決めた。ところが、会合中に伊藤の日露戦反対を覚った杉山は、再び山県に乗換えを図り、山県に向かって対露戦実行には英国の支援が不可欠として日英同盟の必要性を説きつつ、伊藤が内心親露なることを告げた。慎重な性格のために恐露病患者と呼ばれた山県も、英国との同盟が可能ならばと杉山に同調、その実行のため山県は井上馨を通じ、また杉山は児玉と連絡を取り、各々伊藤を監視することを約した。杉山はすぐに桂・児玉と三者会談を開き、両人に日英同盟の必要性を認めさせ、そのためには親露派の伊藤の政治的抹殺が不可避と説いた。英国側の対日策略を警戒する桂に対しては、伊藤をロシアに派遣して日露同盟締結の動きを示し、以て英国を剌激して先方から日本に同盟を申し込ませる戦略を提案したところ、桂と児玉は同意し、34年春から日英同盟に向けた工作が始まる。

 34年1月、伊藤内閣が提出した増税案は衆院で可決されたが貴族院は否決し、詔勅を賜わって可決はしたものの、財政を巡る閣内不統一のため伊藤は5月2日に辞表を提出する。日英同盟の工作に奔走していた杉山は、渡米が予定より遅れて5月半ばにアメリカに着くが、すでに伊藤は辞表を提出し、組閣の大命は桂太郎に下り、6月2日に桂内閣が成立した。起債未実現のまま帰国した杉山は、桂首相から改めて外債募集を依頼されて、トンボ帰りで8月に再渡米する。このことは『公爵桂太郎伝記、乾巻』にも、「一私人」として杉山の関与を示唆している(堀雅昭『杉山茂丸伝』)。杉山発案の日英同盟は、伊藤訪露中の35年2月12日に締結された。思うに、当時の途上国たる日本が「栄光ある孤立」を誇る大英帝国に対して対等の同盟を仕掛け、そのためにロシアを当て馬にする発想は、凡そ日本政治家の域を超えており、英国からの巧妙な仕掛け以外にはあり得まい。

 政府外債の募集や興業銀行の創設、さらには京釜鉄道開設のごとき純粋な政治目的の達成を図る者は、その肩書を問わず「政治家」と呼ぶべきである。政治家にも種類あり、肩書で分類すれば、吉井友実は宮廷政治家、大久保・松方・大隈は官僚政治家、伊藤は政党政治家、西園寺は貴族政治家、高島・桂・児玉は軍人政治家となるが、杉山に至っては浪人政治家と呼ぶしかあるまい。
 

 ★杉山、児玉、そして後藤新平トライアングルが完成 

 
 杉山と背後の在英ワンワールドとの関係は、根本的には杉山の旧主・黒田藩が、実は薩摩の隠れ支藩たったことから生じたものだが、具体的契機は、杉山が明治25年前後に始めた香港との石炭貿易にあるらしい。児玉・後藤の台湾経営は本来高島・樺山の路線を引き継いだもので、根底が悉く杉山に出たことは前述したが、児玉と杉山は既に知己であった。両人は、25年8月欧州から帰国して陸軍次官に就いた児玉に、前陸相・高島が杉山を紹介したのが初会で、28年3月の日清講和談判の時に下関で再会する。講和条件の争点は遼東半島の割譲にあったが、遼東の割譲に反対し、台湾島と澎湖島だけの領有と軍隊駐屯を持論とした杉山は、外相・陸奥宗光の宿舎に押しかけて同宿し、講和談判の動向を監視した。(堀雅昭『杉山茂丸伝』-2006年2月、弦書房 1900円)。

 その理由について堀は「国際通の茂丸らしい考えだが、おそらくこれは荒尾精の影響だろう。荒尾は領土割譲により日清関係が悪化し、長期に渡って修復困難になると語っていたし、日清の確執に欧州諸国が付け込む隙を与えると口にしていた」と解している。
 「国際通」の解釈次第で、それも誤りではないが、はっきり言えば、講和条件を台湾領有に限定するよう誘導すべしとの指令を、杉山が誰かから受けていたと見るべきで、それは間接的にせよ、世界情勢を操る在英ワンワールドからの指令である。三国干渉を見越して遼東割譲を引っ込めるごときは、日本政治家よりも這かに高度の見識で、一介の浪人の所為ではありえない。再び言うが杉山は、伊藤・山県らを上回る超一流の浪人政治家だったのである。

 児玉が後藤に初めて注目したのは28年4月で、復員兵士の検疫に際し臨時陸軍検疫部長を兼ねた児玉次官が、同部事務官長として内務省から来た後藤の手腕に驚嘆した時である。さらに後藤は、四月一日付で「台湾島阿片制度施行に関する意見書」即ち阿片漸禁策を台湾事務局に提出して採用された。伊藤首相が総裁を兼務した台湾事務局は、1年後の29年4月1日に新設の拓殖務省に移行し、阿片漸禁策は初代大臣・高島鞆之助に引き継がれる。28年9月、衛生局長に復任した後藤は、29年台湾総督府衛生顧問を委嘱され、31年3月児玉新総督の要望で総督府に移った。後藤と杉山の関係は、後藤の女婿・鶴見祐輔が語るように極めて深かったが、きっかけは杉山が後藤の岳父・安場保和と親しかったことであろう。この時までに、杉山・児玉・後藤のトライアングルが完成し、これに新渡戸稲造と星一が加わるのである。

 ★製薬王・星一と究極の国際人・新渡戸稲造  

  34年8月の渡米では目的の外債募集に難渋した杉山だが、ニューヨークで星一に会った意義は深かった。明治6年福島県に生まれた星は、自費でコロンビア大学に留学、ペンシルバニア大学に学ぶ同郷の医学生・野口英世と知り合うや生涯の親交を結び、後にスポンサーとなった。星は、渡米前に神田の英語塾で友人から紹介された杉山に31春ニューヨークで再会し、杉山のホテルを訪ねた星に杉山は靴10足を贈った。三度目が、右に述べたように、杉山がトンボ帰りでアメリカに舞い戻った34年8月のことである。首相を辞めて欧米視察中の伊藤がニューヨークを訪れたので、杉山が星を紹介したら、伊藤の気に入り、星は伊藤滞米中の臨時秘書となった。32年からブロードウェイで邦字新聞を発行した星は、日本から名士が来ると取材することで人脈を広げてきたが、その中に後藤新平や新渡戸稲造がいた。

 文久2年(1862)南部藩勘定奉行の家に生まれた新渡戸は、東京外語学校・大学予備門を経て札幌農学校を卒業し、開拓使御用掛に登用され、明治16年から1年間東京帝大専科で学んだ後に渡米、ジョンズ・ホプキンス大学で経済学などを修めて3年後に帰朝、札幌農学校助教授に挙げられた。時に20年3月で、直ぐにドイツに3年間留学、博士号を得て24年2月に帰朝した。W・S・クラーク原土の直門と言えばそれまでだが、右の経歴を観ても新渡戸は極め付きの国際人で、換言すれば在日ワンワールドの寵児である。ドイツから帰国して札幌農学校教授兼北海道庁技師に就いた新渡戸は、31年7月から欧米巡遊に出たが、この折にニューヨークで星と出会ったのかも知れぬ(未確認)。34年1月に帰朝した新渡戸は、直ちに台湾総督府に迎えられて総督府技師を命ぜられ、後藤民政長官の下で殖産課長を経て殖産局長心得に任じ、35年5月から欧米各国へ差
遣された。その時にニューヨークで星に会ったのは確かである。36年1月に帰朝した新渡戸は、後藤から台湾経済政策の根幹を任され、腹心中の腹心となる。その最大の要因は、同人がワンワールドの秘密を共有したことであろう。
 
 ★大日本帝国「麻薬ビジネス」の本質


  明治37年にアメリカから帰国し、伊藤博文の朝鮮行に随行した星は、翌38年に星製薬所を設立し、胃腸薬などを製造販売した。米国で新聞社を経営した星が、帰国後に製薬業に乗り出したのは不自然で、もともと台湾総督府絡みのアヘン製剤を睨んで始めたものと思う。星がニューヨークで知り合った新渡戸は、欧米差遣中の35年6月に臨時台湾糖務局長に就くが、帰国後京大教授を兼ね10月から京大教授専任となった。星が帰国した時には新渡戸は総督府を去っていたが、星は新渡戸の親分の後藤新平が35年に欧米出張した時に、ニューヨークで知り合っており、何よりも「根源的人物」の杉山とは渡米前からの知己であった。大正3年に第一次大戦が勃発、重要医薬品モルヒネの輸入が途絶えた日本ではモルヒネ国産化が急務となるが、翌年には星製薬がモルヒネ国産化に成功する。予め台湾に製薬所を作っていた星は、まるでモルヒネ製造の国内化を予測していたように見えるが、真相は世界情勢を知る後藤・新渡戸ないし杉山の勧めによるものであろう。内務省から独占的製造許可を与えられた星製薬は、総督府から払い下げられる生アヘンでモルヒネ・ヘロインを製造し、製薬王と呼ばれた。

 総督府の生アヘンは内地産で、麻薬王を自称した☆二反長音蔵が全国の農家を奨励して量産したものである。明治八年に大阪府三島郡の福井村に生まれた川端音蔵は、三十四年に二反長家の養子となったが、実家の姓が示す通り、三島郡豊川村から出た☆作家・川端康成の近親と聞く。音蔵がケシ栽培に眼を付けたのは、新領土となった台湾は阿片吸引が盛んで需要が多い、と聞いたからである。元来、摂津地域では幕末からケシ栽培とアヘン製造が多少行われ、道修町の薬種問屋を通じて清国・台湾に輸出していたが、邦人の需要は少なく、明治八年阿片専売法が制定されて自由栽培が禁止されたこともあり、二十年代にはほとんど絶えていた。ところが台湾には三百万人、五万貫の阿片需要があると聞いた音蔵は、国産化を思い立ち、二十八年から台湾統計府・内務省・農商務省に建白書を提出する。当初は取りあって貰えなかったが、繰り返すうちに三十一年三月、台湾総督府民政長官(六月までは民政局長)に就いた後藤新平の眼に止まる。全量を輸入に頼る台湾アヘンの国産化を急いでいた後藤は、福井村を視察した時に引見した音蔵に期待をかけ、生アヘンの全量政府買い上げを決めた。後藤が星をアヘン製剤業に起用したのは、杉山が誘導したものと思える。

 日本はモルヒネ国産化以来わずか二十年にして、モルヒネの生産世界一に達し、国産せず国内需要も少ないコカインにおいても主要取引国となった。麻薬ビジネスは元来在英ワンワールドが最も得意とした分野で、儲けも大きいが、日本はそこへ易々と進出した。その真相は、日本に対露戦争を強いた英国が、日本の軍費を補償するために麻薬ビジネスを譲与したと思う。日英の媒介をしたのは無論杉山であろう。
 
 ☆二反長音蔵については、倉橋正直・『日本の阿片王』など伝記態のものがあるが、彼が作家・川端康成の近親とすると、思い浮かぶのは三島由紀夫(平岡公威)とその祖父・平岡定太郎のことで、松本清張・『神々の乱心』(文春文庫版上、193P~)には大連阿片総局書記・川崎友次と共に阿片密売に関わる前樺太庁長官・平岡定太郎(天津在住)として、その大正10年前後の中国での姿が描かれている。
 川端康成と三島由紀夫、共に自死した親密な二人の作家が戦後縁戚者の「阿片事件」について語り合ったことはあったのだろうか。

 またJ・ネイスン・『三島由紀夫-ある評伝』には、次のようにある。
 ・・・三島が生まれた大正14年頃には定太郎は借家の隠居所に身を落ち着け昔の仲間達を客に迎えては、碁を打ち、「好きな酒に大酔し、・・疲れを知らずに女道楽を続け」、「三島の父・梓によれば『父・定太郎はまったく大変な豪傑で・・家庭経営などにはおよそ不向きでありました』」・・・。
 (☆:ブロガー註)
  

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(24)  <了>。
 
 





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