カウンター 読書日記 2008年11月
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●大日本帝国の「阿片ビジネス」。
 ●松本清張の遺作『神々の乱心』(未完)の一節の紹介からはじめる。

 ★大連阿片事件

 
 《 ・・・
 大正十二年八月三十日の関東庁高等法院の第二審が、大連阿片事件の被告・木原茂三郎、同川崎友次、同加藤音松に対し、一審判決の背任罪を事実誤認とし、阿片煙罪と改めて判決した背後には、政友会の高橋内閣が瓦解し、加藤友三郎、山本権兵衛と反政友会内閣の出現に影響を受けている。

 満洲の阿片問題は大正八年ごろから世界各国の関心を集め、注視を受けるところとなった。わが帝国が満鉄沿線の特別権益と関東州の租借地の特権をいいことに、シナ人に対し傍若無人な阿片侵略政策を行なったことが白日の下にわかれば、国際連盟の阿片取締法をはじめわが外交はきわめて窮地に立たされるであろう。事は政党と政商の結托から起っている。

 時あたかも台湾では大正十一年六月から翌年六月まで星製薬株式会社社長・星一他二名が台湾阿片令に違反した犯罪行為ありとして検挙された。

 関東州には当時阿片令はなく、「指令書」がそれに代るものとされていたが、台湾と朝鮮は立法化している。

 しかし、星一は(第一次)大戦で医薬用のモルヒネ、コカインなどの輸入が途絶してわが国の医療界が苦しんだ経験から、大正四年台湾専売局から粗製モルヒネを払い下げてもらい、塩酸モルヒネを製造することができた。研究の結果、日本に於て製造された最初のモルヒネである。その成功がモルヒネのほかにコカイン、キニーネなどのアル力ロイド薬品製造を起すことになり、内務省の許可をとった。これも星が日本で最初である。

 しかるに、これを嫉妬した他の製薬会社は連合して星製薬に当った。星が粗製モルヒネの大量買い付けにトルコ阿片を輸入して基隆港に荷揚げしているのに目をつけた競争製薬会社は、(星側が内務省・台湾専売局ならびに関係官庁の諒解をとっていると主張しているにもかかわらず)星の外遊中に手を回して、台湾検察当局に阿片令違反として起訴せしめる陰謀をなした。

 社長の星一は公判廷の最終陳述で云う。
「当社の発明を基礎とした低温工業株式会社の創立中に阿片事件が起り、全く破壊的打撃を与えました。さらに会社経営上一台打撃を受けております。加うるに台湾専売局より大正四年以来払下げを継続していた粗製モルヒネが、もう二年以上も一ポンドも払下げてもらえないのです。この三月に粗製モルヒネの払下げを出願せしもの三十三社あったということですが、これら三十三の出願社が直接間接に本事件の上に私及び私の会社の上に与うる悪影響は恐るべく重大なものがあります。さらに本事件は一大悲劇を起しております。昨年当社の取引関係について常務取締役・安楽栄治氏を台湾検察局に出頭させました。この善意の出頭者に対して検察官は、『何ノ為メニヤツテ来タカ、少シデモ間違ヲ云フト獄二投ズルゾ』と叱り短き訊問をし、更に何人にも会う事は絶対にならんと云うので、安楽君はホテルの一室に閉じこもり、食事も室内でなし、廊下にも出ず、ホテルの同宿者にも会わないようにして帰りました。この安楽君は本年一月直腸癌の手術を受けました。その時医師の診断によると、病気の発生期がちょうど台湾に来た時と一致するのであり、いま築地の聖路加病院に加療中ですが、危篤状態で、私の帰京まで生命がもつかどうか悲しむべき様子であります。さらにこの阿片事件で重大な関係のある前内務省医務課長・野田忠広氏は先月病死せられました。台北でこの事件のために牢死したものがあると聞きました。今もなお、ロンドンやニューヨークの競争者は、星は牢屋にいるから競争するのはこの際だとして、彼らより猛烈な競争を受けつつあります」

 この台湾阿片事件の星一の立場と、かの大連民政署の阿片事件の古賀、木原、川崎ら一味の立場とを比較せよ。星は粗製モルヒネからわが国最初のアルカロイド薬の抽出に成功した。その発明が競争会社の嫉視を買って、阿片事件を捏造され、星製薬会社の非運を招いたのである。古賀、木原、川崎ら輩とは、名は同じ阿片事件でも、まさに月とスッポン、天雲と汚泥の違いではないか!》 ・・・後略。

 ***************                      
 

 星一の周辺から事件前後の状況を見てみると、こうなる。

以下は、落合莞爾氏の論考「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(24)」の終章である。 
 

 ★大日本帝国「麻薬ビジネス」の本質


 明治三十七年にアメリカから帰国し、伊藤博文の朝鮮行に随行した星は、翌三十八年に星製薬所を設立し、胃腸薬などを製造販売した。米国で新聞社を経営した星が、帰国後に製薬業に乗り出したのは不自然で、もともと台湾総督府絡みのアヘン製剤を睨んで始めたものと思う。

 星が二ューヨークで知り合った新渡戸は、欧米差遣中の三十五年六月に臨時台湾糖務局長に就くが、帰国後京大教授を兼ね十月から京大教授専任となった。星が帰国した時には新渡戸は総督府を去っていたが、星は新渡戸の親分の後藤新平が三十五年に欧米出張した時に、ニューヨークで知り合っており、何よりも「根源的人物」の杉山とは渡米前からの知己であった。大正三年に第一次大戦が勃発、重要医薬品モルヒネの輸入が途絶えた日本ではモルヒネ国産化が急務となるが、翌年には星製薬がモルヒネ国産化に成功する。予め台湾に製薬所を作っていた星は、まるでモルヒネ製造の国内化を予測していたように見えるが、真相は世界情勢を知る後藤・新渡戸ないし杉山の勧めによるものであろう。内務省から独占的製造許可を与えられた星製薬は、総督府から払い下げられる生アヘンでモルヒネ・ヘロインを製造し、製薬王と呼ばれた。

 総督府の生アヘンは内地産で、麻薬王を自称した二反長音蔵が全国の農家を奨励して量産したものである。明治八年に大阪府三島郡の福井村に生まれた川端音蔵は、三十四年に二反長家の養子となったが、実家の姓が示す通り、三島郡豊川村から出た作家・川端康成の近親と聞く。音蔵がケシ栽培に眼を付けたのは、新領土となった台湾は阿片吸引が盛んで需要が多い、と聞いたからである。元来、摂津地域では幕末からケシ栽培とアヘン製造が多少行われ、道修町の薬種問屋を通じて清国・台湾に輸出していたが、邦人の需要は少なく、明治八年阿片専売法が制定されて自由栽培が禁止されたこともあり、二十年代にはほとんど絶えていた。ところが台湾には三百万人、五万貫の阿片需要があると聞いた音蔵は、国産化を思い立ち、二十八年から台湾統計府・内務省・農商務省に建白書を提出する。当初は取りあって貰えなかったが、繰り返すうちに三十一年三月、台湾総督府民政長官(六月までは民政局長)に就いた後藤新平の眼に止まる。全量を輸入に頼る台湾アヘンの国産化を急いでいた後藤は、福井村を視察した時に引見した音蔵に期待をかけ、生アヘンの全量政府買い上げを決めた。後藤が星をアヘン製剤業に起用したのは、杉山が誘導したものと思える。

 日本はモルヒネ国産化以来わずか二十年にして、モルヒネの生産世界一に達し、国産せず国内需要も少ないコカインにおいても主要取引国となった。麻薬ビジネスは元来在英ワンワールドが最も得意とした分野で、儲けも大きいが、日本はそこへ易々と進出した。その真相は、日本に対露戦争を強いた英国が、日本の軍費を補償するために麻薬ビジネスを譲与したと思う。日英の媒介をしたのは無論杉山であろう。

 ***************                      
 

  その杉山茂丸・『百魔(正篇)』には、星一について、

 16・異郷の天地に星一氏と遇う に始まり、
 24・新聞売子より製薬王になる まで9章に及ぶ記述がある。 

 
 (★書肆心水版=2006年8月刊で、P102~152。)
  
 
 その紹介は後日にして、●「疑史」上原勇作(3)の終章部を少し。

 ここでは、後藤=二反長ラインが取りあげられている。
 二反長音蔵とは、「阿片王」とも「阿片狂」ともいわれた人物である。  

 
 以下引用する。***

 新領土台湾におけるアヘン漸禁政策の採用から十数年、後藤新平の意を受けた篤農・二反長(にたんちょう)音蔵の努力によりアヘン製造の内地化が始まり、ケシ栽培者も岡山県と大阪府では千人前後に増えたが、他府県では数人から百数十人しかおらず、量産にはほど遠かった。後藤・二反長系列だけでは国内需要に満たず、他からも応援が欲しい状況だったが、周蔵は量産化に向かわず、特種ケシの栽培とモルフィン純度の極めて高い特殊なアヘンの製造を志向した。(*周蔵が一時入学した)熊本医専にはケシ専門官がおらず、周蔵は極めて少ない関連書物を漁り外国文献に頼りながら、独自に研究を始めたが、戸田某が陸軍嘱託の立場で派遣されて指導に当たることとなった。しかし戸田は、個人的に上原大臣の思想と合わないとの理由で直ぐに辞した。白樺派に共鳴する帝大農学士というから、諸侯系華族に六家ある戸田家のどれかの出であろう。

 大正三年春、ギンヅルから「渡辺ウメノという老婆からケシ関係の古書を貰って来い」と言われた周蔵は、京都に行き御霊前の医師・渡辺家を訪ねる。ウメノは田舎に行ったとのことで、「綾部ナル所マデ訪ヌルト 大本教ノ教祖ノ住ヒナルニ、大部不審ヲ抱ヒタ」とある。

 母が丹波穴太村のアヤタチ・上田家から出たウメノは、上田吉松とはいとこであった。大本教(正しくは「皇道大本」)の実情は、上田吉松・渡辺ウメノと出口ナオが手を組んで立教したもので、吉松の伜の上田鬼三郎(通称喜三郎、のち出口王仁三郎)が婿入りした綾部の出口家を本拠とした。

 出口和明『いり豆の花』は、当時の大本の発展ぶりを次のように記す。
〔まさに、「日に日に変わる大本」で、大正二年から三年にかけて大本近隣の土地を買収、大正三(1914)年一月一日には上野に三千五百坪の地ならし工事が開始され、金龍殿と統務閣の新築が決定された・・・王仁三郎が綾部に腰を据えてからの成長ぶりは、目覚ましいものがあった〕。

 正に多忙を極めた大本教団を手伝うために、ウメノは綾部の出口家に寄留していたのである。この時周蔵は、出迎えたウメノの胸元になぜか銀の十字架を見たと、後に家族に語った。ウメノは周蔵に、秘伝書の他に特種の黒いケシを呉れた。前述した多神教イスラエルの子孫のアヤタチ上田家は「在日マカイエンサ」でもあり、その種はオランダ渡りという物であった。

 アヘンの主用途は大凡三つあり、誰もが知る「鎮痛用ケシ」と「快楽用ケシ」の他に、余り知られていないが「延命用ケシ」がある。この時周蔵が貰ったケシは延命用で、これから作った純質アヘン粉が万病に効き、長寿をもたらすことを知った周蔵は、上原の許可を得て、以後はその増産に専念して、上原に献上するのが主要任務となった。上原の財界の盟友・久原房之助もこれを渇望し、周蔵は思いもよらぬ財運に恵まれて一生を過ごす。

  続く。
 

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●疑史 第50回 上原勇作(2)-2 
 ●疑史 第50回 上原勇作(2)-2  

 高島と上原の関係はあらかた世に秘されたが、ギンヅルの孫の吉薗周蔵の手記と『元帥上原勇作伝』に符合する記載があり、両者を統観すればその一端が浮かび上がる。大正元年12月に陸相を辞した上原勇作は、都城に帰省して鹿児島の日高尚剛邸に静養し、2年1月24日から指宿温泉で静養三週間の後、暴風雨の中を馬車で鹿児島に移る時に風邪を引く。3月1日付で第三師団長の内示を受けた上原は小林駅から乗車するが、車中で肺壊疸を発し、大坂赤十字病院に入院した(伝記)。熊本駅で上原に会った周蔵は「これから広島に寄って上京するから、東京に来い」と命じられ、上京して指定された旅館で待っていた処、「大阪赤十字病院に来い」との伝令を受け、ギンヅルから託された「ケシ粉薬」と「浅山丸」を携えて大坂に向かう。赤十字病院では、上原から頼まれたと称する高島なる人物が現れ、浅山丸を多く持参したと聞くと、「さすがはオギンさんだ」と喜び、上原にその服薬を勧めた(周蔵手記)。上原を見舞うため東京より西下した高島は、玉木看護婦に対し「浅山丸を呑んでゐるか」と問い、玉木が「一日十五粒である」と答うるや「それでは足らぬ。一回に三十粒やれ」と命じたので、玉木は命令通り云々(伝記)。その時に高島さんから「先の事、閣下(上原)に任せて心配ないよ」とはっきり言われて、周蔵は自信をつけ、それから父や大叔父を頼らなくなった(周蔵手記)。

 要するに、重態に陥って日赤病院の管理下にある上原に、浅山丸を確実に服用させるために、元陸軍大臣枢密顧問官・高島子爵が自ら西下したのである。その心情たるや実に勇作応援団長の心にして、その処置は正にワンワールド薩摩派総長が次期総長に為すべき事であった。周蔵を上原付特務とする一件も、ギンヅルと高島が起案したもので、高島は日赤病院で周蔵に会った時、わざわざ言を寄せて周蔵の不安を一掃したのである。難病を浅山丸で克服した上原は、以後は頑健となり、3年4月に陸軍教育総監就任、4年2月に大将に進級、12月には遂に陸軍参謀総長として陸軍のトップに就いた。

 上原が高島の後を襲ってワンワールド薩摩派の総長になったのは、その前後であろう。なお『周蔵手記・別紙記載』の大正6年条にも、「九月になると早く(ギンヅル)婆さんが上京してきた。目的は高島さんに関わる事もあるようだし、(上原)閣下に用もあるのであろうが、例の如くあの人物 (日高尚剛)と同伴であるに、何か企む事でもあるのであろう。閣下も又、まめによく手紙を出すようであるし、婆さんと二人、薩摩の田舎においてこの国の情勢を細んか(細かい)事まで手に取っておる」とある。

 高島は5年1月11日に72歳で長逝し、翌6年9月の初頭、ギンヅルは番頭日高尚剛を連れて上京してきた。その理由に周蔵は高島鞆之助に関する件をあげているが、薩摩派総長の座は既に上原に移っていた筈で、残務処理であろう。この後、ギンヅルに同行して京都に向かった周蔵は、高島の養嗣子の第十九旅団長・高島友武少将を訪ねて所用を果たし、その際にギンヅルと堤哲長の関係を聞いたようだが、それは友武が実父・吉井友実(当時は幸輔)から聞いていた幕末の薩摩屋敷での話であろう。初代総長・吉井の次男で二代総長高島の養嗣子となった友武は大正7年中将に進級、10年予備役入りして昭和18年に死ぬが、ワンワールドでの地位はどうだったのか?
 
 ●疑史 第50回 上原勇作(2)
   <了>。



●疑史 第50回 上原勇作(2)-1
 ●疑史 第50回 上原勇作(2)-1  落合莞爾  

 前月号で言い忘れたことがある。南方でカラユキさんの娼館を経営した樺山伊平次を描いた☆神坂次郎『波瀾万丈』に、日本領事から頼まれた伊平次が上原勇作中尉の従者となり、明治20年6月23日から5ケ月に亘り、行商に身をやつして北支・満洲に潜入したことである。フランス留学中に大尉に進級した上原の階級は誤っているが、これは典拠の『伊平次回想録』の誤りを受け継いだからで、話の大筋は正しいと思える。『元帥上原勇作伝』はこの間の事績を、「19年12月臨時砲台建築部事務官に補せらる。20年1月士官学校御用掛を命ぜらる。同月臨時砲台建築部の命により相州(神奈川)三浦郡出張、3月対馬並びに馬関(下関)に出張、11月相州横須賀地方に出張」と記すのみで6月から11月にかけての軍事探偵行の記録をすっぽり抜かしている。軍事機密のため、正式軍歴にも軍事探偵行を載せない結果、上原元帥が弱年の砌りにせよ間諜をした事実を隠蔽する偽史作業となる。この場合は相棒の伊平次が記録していたので、端なくも真相が顕れたのだ。


 ☆『波瀾万丈』は、新潮社 1997年8月刊。
 ここでは、「樺山」伊平次は「椛山」伊平次となっている。


 因みに著者は近年、上原の後継者の一人甘粕正彦の真相を明らかにしてきたが、その拙論を、理由もなく「荒唐無稽」と謗る論者がいるが、夫子自身が史料を発見し得ぬだけのことである。世には故意に記録されぬ事実も多いわけで、もし夫れ文献以外を信じぬというなら、論者自身も四、五代前の父祖の実在を証明できまい。

 さて、臨時砲台建築部長・小沢武雄中将の欧州派遣に随行した砲兵大尉上原勇作は、8ケ月に亘る視察旅行の後、23年1月25日に帰朝し、5月砲兵少佐に進級、10月には本職の臨時砲台建築部事務官を罷めて、野津道貫中将隷下の第五師団に属する工兵第五大隊長に補せられた。翌24年5月6日、山県有朋に代わって松方正義が第一次内閣を組閣し、陸相は大山巌から高島鞆之助に代わる。海相は前年に西郷従道から樺山資紀に代わっていたから、ここに松方首相・高島陸相・樺山海相と勇作応援団の内閣が現出したのである。組閣の二週間前に逝去した前宮内次官・枢密顧問官・吉井友実が占めていたワンワールド薩摩派初代総長の地位は吉井の生前に高島が継ぎ、副長に樺山、別格の金融総帥の地位には松方が就いていたと考えられる。

 参謀本部でも総長に有楢川宮熾仁親王を仰いだが、参謀次長・川上操六中将が22年から実質的に取り仕切っており、ここに上原勇作応援団は、政治・金融・軍事に亘って日本国家の権力をほぼ完璧に掌握したのである。

 野津道貫の長女・槇子が満十八歳に達するのを待っていた勇作は、24年10月槇子と結婚式を挙げた。明治4年暮に単身上京した勇作は、5年の春から麹町区下二番町三十三番地の野津邸に寄留して南校に通ったが、翌6年10月に誕生した槇子は、生まれると同時に勇作の将来の妻と決められた。この縁組は、勇作の叔母・吉薗ギンヅルと勇作応援団長の高島鞆之助が望んだとおぼしいが、槇子の両親=野津道貫・トメ夫妻も歓迎し、槇子の祖母で高島鞆之助と野津トメの母の貞子にも異存はなかった。槇子が若過ぎたため二人の婚姻が遅くなったので、ギンヅルはこれより先に番頭日高尚剛の姉を三軒茶屋に住まわせて勇作のゼロ号夫人とし、当座の不便を解消しながら勇作の監視を図ったと伝わる。勇作は、留学先のフランスでもアルザスのユダヤ人ポンピドー一族の娘(ジルベール?)を与えられたが、これらの事実を岳父の野津が知らぬ筈はなく、大目的のために小瑕を顧みなかったのである。
 彼らの目的は、ワンワールド薩摩派の将来の総長候補としての軌道に勇作を載せることであった。

 明治25年8月、勇作は本職(広島の工兵第五大隊長)を罷めて参謀本部副官に補せられ、陸大教官を兼補する。陸軍の人材を参謀本部に集めた参謀次長・川上操六の計らいで、勇作応援団の総意にも合致した人事であった。広島時代には、単なる技術屋に終わるとの見方もあった勇作は、参謀として陸軍中枢に加わり、参謀総長・有楢川宮熾仁親王の高級副官に挙げられて特別大演習と観兵式に臨み、また国内各地を巡視したが、26年7月から安南(ヴェトナム)・シャム(タイ)に派遣された。これは、メナム河左岸の地を欲するフランスがシャムに戦争を仕掛け、シャムはビルマを併呑した大英帝国から既に圧迫を受けていた上、さらに安南を領有するフランスからも侵略を受けることとなり、シャムを巡って英仏関係が緊張するに至ったからで、フランス帰りの陸軍少佐・大迫尚道が、仏シャム戦争の結果が日清両国の利害に関係するとの報告を参謀本部にもたらしたので、参謀次長・川上操六は上原少佐と山田良圓中尉を道び、該地方の視察を命じたのである。上原は視察の傍ら、安南・シャムで図らずも日本人遺跡を見て感懐を催し、11月に帰朝した。

 明けて27年日清戦争が始まり、野津中将率いる第五師団は韓国派遣を命ぜられた。上原少佐は第一軍参謀に補せられて平壌攻撃に参加、平壌陥落の直後中佐に進級するが、当時の戦況や上原の戦功なぞは他書に譲る。
28年5月に日清の和平成立、わが台湾領有が実現して樺山資紀が初代台湾総督、高島鞆之助が副総督となるが、その経緯もすでに詳述した。戦功により功四球金鶏勲章を受けた上原中佐は、29年2月ロシア皇帝戴冠式参列のため差遣される陸軍少将・伏見宮貞愛親王の随行を命ぜられ、8月に帰朝した。

  勇作応援団の動向を見ると、高島鞆之助は29年4月、第二次伊藤内閣の初代拓殖務大臣に就いて台湾政策の根本を建て、9月に松方と大隈が金本位制を目的とした連立内閣を組閣するや、その陸相も兼ねて日露戦争に備えた。31年1月、伊藤博文の第三次内閣に際し、長州陸軍閥の寵児・桂太郎中将が権謀を尽くして高島を陸相から追放し、自ら陸相となって長州派を抜擢したので、薩摩勢は川上操六が参謀総長に昇格した以外は凋落の体をなした。以後高島は、枢密顧問官の外に何の職にも就かず18年の余生を送ることとなる。史家は挙ってこれを評し、長州の勝利・薩摩の失墜と論じる。近年発掘された『宇都宮太郎日記』の33年1月以後の条は、参謀本部の青年将校・宇都宮大尉らが、日露戦に備えるために高島を参謀総長に坦こうとした「起高作戦」の内幕と顛末を述べており、高島の参謀総長就任に失敗、朝鮮統監に就任さす運動も長州勢に妨げられた宇都宮らの、長州派の専横を憤る切歯扼腕が伝わってくる。その文中、起高作戦の有志として宇都宮の上官・上原大佐も登場するが、野津の女婿且つ高島の姪婿たる上原にして、さほど起高作戦に躍起とは感じられないのは先入観か。

 あれほど順風満帆だった高島が31年を以て急に失墜したのは、長州派の陰謀に負けたのではなく、24年に長逝した吉井友実を継いでワンワールド薩摩派総長に就いたため、世人の期待に敢えて背き、参謀総長・朝鮮統監などの要職を自ら避けたのが真相であろう。死去の数年前まで薩摩派総長に徹した高島の、仕事の一つは間違いなく台湾政策で、鈴木商店や日糖などを秘密基地にしたフシがある。いずれ根底には、高島の属するワンワールド薩摩派と、在英ワンワールド直参の杉山茂丸(その背後は堀川辰吉郎)との間の業務提携ないし分野調整があったものと思われるが、後日に論究したい。

  (2)-2へ続く。                      
 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(23)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(23)  ◆落合莞爾
 『ニューリーダー』誌 11月号   
 

 ★伯爵伊東已代治は 従一位中山慶子の甥? 
 
 前月稿で触れたが、明治憲法の起草者の一人で伊藤博文の側近中の側近だった伯爵・伊東已代治が、実は〔明治天皇の母方の従兄弟〕であるとの記述が、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』のほか譚嗣同の子孫でジャーナリストの譚路美の著『父の国から来たスパイ』に見られる。甚だ興味深いので、横道に逸れるのを承知で、その点に触れておく。

 明治天皇の御母は中山慶子(1836生まれ)だから、〔明治天皇の母方の従兄弟〕とは「慶子の甥」のことで、已代治の父か母が慶子と〔きょうだい〕でなくてはならない。已代治の父母は長崎町年寄・書物役の伊東善平と妻の谷口氏ナカで、そのいずれかと慶子が「きょうだい」ならば、慶子は、

①父の中山忠能が善平もしくはナカの実父であるか、又は
②母の松浦氏愛子が善平もしくはナカの実母でなければならない。

 しかし忠能の生年は1809年、松浦氏愛子は1817年で、共に年齢からして善平(1814生)あるいはナカ(1822生)の父母たりえない。第一已代治の父母のどちらかが中山大納言のご落胤ならば、そう言えば良く、回りくどい言い方をする必要はあるまい。枠を広げてその根拠を慶子の血統に求めた時には、慶子の実父母が実は中山大納言・愛子でなかったことになるが、収拾が付がなくなるからここでは採らない。とすると、残された可能性は明治天皇の御血統である。萄もジャーナリストを称する譚路美が、論理的には不可能の〔明治天皇の母方のいとこ〕を敢えて唱えたのは、表面の論理よりも内容の真実性を信じるからであろう。

 そこで、譚路美の説を尊重しながら論理的解決を探ると、結局〔明治天皇は慶子が産んだ睦仁親王とは御別人〕との仮説に逢着せざるを得ない。ここにおいて浮上するのが宮中某秘事即ち☆大室寅之佑一件である。奇説というべくも一概に否定はできず、そのうちあっさり真相が判ることもあり得ようから、本稿はこれ以上追究しない(注 他書は寅之祐とするが、落合が敢えて寅之佑とするのは、他説と区別するための便宜である)。 

 
 ☆ブロガー註:代表的なものに故・鹿島昇『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎』
  (新国民社 1997年2月)はじめ、一連の著作がある。 
  鹿島の言う「裏切られた三人の天皇」のうちの一人、孝明天皇の暗殺(毒殺)説の出所の
  代表的なものに、アーネスト・サトウの回想録『一外交官の見た明治維新』がある。
  サトウは、「前将軍・家茂も慶喜によって消されたといううわさは、かなり流布したもの
  である」とも書くが、サトウにそのことを「確言した」人物については、
  「ある日本人」としか記していない。
  萩原延壽『遠い崖』によれば、「サトウがそれを(ある日本人)聞いたのは、
  天皇崩御の当時ではなく、『数年後』、すなわち明治年間のことである。ちなみに、
  サトウの日記は、この『毒殺』云々について、ひとこともふれていない。・・」とある。
  (朝日文庫版 (4)、p195) 

 
 ★国防の核心に携わる俊秀・上原勇作の台頭


 四面を海に囲まれた日本で海防思想が芽生えたのは幕末で、江戸幕府も之れに目覚めた、維新後の明治4年(1871)、兵部大輔山県有朋、同少丞川村純義、同西郷従道が『軍備意見書』を上奏した。侵入する外敵を撃破すべき沿海砲台の設置を主張する消極的守勢戦略であるが、政府は財政的余裕がなく、山県陸軍卿は8年再び上奏して沿海砲台の設置を要望したが、実行は進まなかった。
 13年になり、参謀本部長・山県有朋は「隣邦兵備略」を上奏、帝国主義が末期段階に入って列強の世界分割が始まった国際情勢に鑑み、沿岸主要地域の砲台建設を焦眉の急務と主張した。あたかも戦後文化人が叫んだ「一国平和主義」に相当する当時の「東方論」の非現実性を指摘して、「軍備なければ独立なし」と、砲台建築の必要を訴えたわけである、果せるかな、清国は侵攻するロシアに屈してイリ条約を結ばされ、安南(ヴェトナム)では宗主国・清国が侵入したフランスと争い、清仏戦争に発展した。なかでも泰平の安眠を貪っていた李氏朝鮮は、開国と独立を巡って日・清・露三国対立の焦点となった。南下意欲が急なロシアが朝鮮半島を狙うのに対し、日本は国家存立のために朝鮮半島の独立を欲したが、李氏朝鮮の宗主国・清国は頼むに足りず、この先独立を保つ保証はなかった。

 世界規模で言えば、英露間の帝国主義的争闘すなわちグレート・ゲームの先端が極東に達し、中華思想によるパックス・シネンシス(シナによる平和すなわち冊封体制)と衝突、之れを破壊する歴史的必然が顕現したのである。イギリスは、地政的条件から日本をしてロシアに対抗させる戦略に立った。

 仏国留学中に大尉に進級した上原勇作は明治18年末に帰朝、翌年2月に士官学校教官・工兵学分課を命ぜられたが、19年12月には士官学校教官を罷め、臨時砲台建築部事務官に補せられた。これは陸軍の俊秀を悉く参謀本部に集めた川上人事の一環で、大山陸軍卿の欧州視察に随行し18年1月に帰朝した川上操六が5月21日付で少将に進級、参謀本部次長となって断行したものである。川上が上原を国防の核心たる砲台建築に配置したのは、留学帰りの新知識だからであるが、吉薗ギンヅル・高島鞆之助・野津道貫・樺山資紀・吉井友実ら勇作応援団の要望と完全に一致していた。因みに川上と一緒に大山の海外視察に随官した桂太郎も、川上と同時に少将進級、陸軍省総務局長に就き、以後は川上が軍令系統、桂が軍政系統と分担して日清・日露の両戦役に備えることとなった。砲台建築の技術方面を担当した上原大尉は、20年1月士官学校御用掛を兼補、参謀として各地の砲台候補地を視察し、その間6月から5か月間、軍事探偵として北大から満洲にかけて大陸に潜入した。この車事探偵行を『元帥上原勇作伝』は故意に隠蔽したが、神坂次郎著『波瀾万丈』により明らかになった。同著の根底は、南方でカラユキさんの娼館を経営した樺山伊平治の手記で、それには伊平治が天津の日本領事からの依頼で上原の従者となった次第を述べている。


 ★あの甘粕正彦の愛人が・・・上原の渡欧アリバイエ作 


 22年3月、臨時砲台建築部長・小沢武雄中将の欧州派遣に当たり、上原は随行を命ぜられて欧州を巡覧する。『元帥上原勇作伝』所載の旅行日記によれば、一行は9月2日にマルセイユに到着、翌日パリの「ロード・バロン・ホテル」に投宿した。17日にはオーストリアに向かい、ウィーンで内務大臣・山県有朋一行と会い、29日まで同国を巡覧。31日からポーランドに向かい、次いでロシアの首都ペテルブルグに入り、ロシア皇帝に謁見して滞在20日。次はスウェーデンから北欧諸国を経てドイツを視察した後、7月25日にパリに帰着して暫く滞在、その期間は無記事の日々も多いが、何しろ夏休みである。

 8月23日、パリを発って夜行列車でサザンプトンに向かい、9月6日まで滞英、9月7日にフランスに三度目の入国をした。以後14日まで挙動の記載がなく、15日からパリを基地にしてフランス各地を遊覧した。大抵は同僚の日本将校と同行したが、単独行動の日もある。27日にリヨンを発ってスイスに向かい、ジュネーブに滞留2日、イタリアのヴェニスに入ったのは12月2日であった。以後は南欧諸国を巡視して、12月15日に帰朝の途に上る。

 以上は『元帥上原勇作伝』所載の旅行記であるが、不審なのはその末尾の「元帥がスイスよりイタリアに入った当時はあたかも盛夏の候に際し、官庁は暑中休暇であり、イタリア皇帝は暑さを避け陸海軍の高級武官も亦皆転地中なるを以て、元帥は調査上不便を感ずること少なくなかった。因って再びフランスに至りて調査書類を整理したという」との記載である。旅行記の本文によれば、上原がイタリア入りしたのは12月で、三回目の入国をしたフランスのリヨンを出て、スイスを経由し、イタリアに初入国したのである。盛夏のフランス入国ならば、7月25日にドイツから入った二回目の方で、この時は9月7日に英国から入仏したが、むろんイタリアを経由してはいない。旅行記の本文と末尾が明らかに矛盾するのである。

 落合思うに、これは伝記の編者が上原生前の発言に惑わされたもので
あろう。昭和12年に発行された『元帥上原勇作伝』の編者代表は荒木貞夫大将で、奈良武次大将・松井庫之助中将・井戸川辰三中将が監修に当たった。上原の側近だった荒木が覚えていた上原生前の言を旅行記の末尾に載せたのだが、本文との矛盾は先刻承知で、敢えて放置したものと思う。『元帥上原勇作伝』の内容に隠蔽や矛盾が多いのは、荒木が上原の隠蔽を暴かず矛盾を放置したためで、上原のアリバイ癖を十分承知していたからであろう。上原が始終アリバイ作りに腐心したことは、『周蔵手記』も指摘しているが、素より承知の荒木は敢えて「真相暴露を百年の後に待つ」方針を建てたものと考えられる。

 上原は、この滞仏に関して何を隠そうとしたか。それは、明治に14年4月から18年12月までの留学時代にフランスで馴れ親しんだ女性、ポンピドー家のジルベール(?)との再会であろう。この旅行から39年経った昭和3年、上原の密命で渡欧した吉薗周蔵と若松安太郎は、パリで藤田嗣治と会い、甘粕正彦をリーダーに仰いで密命を果たす。アルザスで周蔵と落ち合った甘粕は、独りで用件を済ましてきて、周蔵たちに報告した。「相手は閣下(上原)の子供だと思える女だった。母親は昨年亡くなりましたと上原に伝えて欲しい、と託かった。混血で、年齢は少なくとも35ぐらいではないかと思う」と。

上原のこの時の滞仏で身ごもった子ならば、明治23生れの38歳になる。その「母親」が上原の帰国後に来日して生んだのかも知れぬが、ともかく、甘粕の愛人としてフランス語を教えたポンピドー牧師の姪とは、この女と見て間違いあるまい。それを、甘粕がいかにも他人のように語ったのは機密保持のためではあるが、それは帝国陸軍の機密ではなく在仏ワンワールドの機密であった。むろん甘粕の内心には、若干の照れもあっただろうが。

 
 ★ワンワ~ルド薩摩派政権  松方正義内閣の攻防


 明治22年1月25日に帰朝した上原勇作は、臨時砲台建築部事務官として各地の砲台に出張し、5月9日陸軍工兵少佐に進級、10月22日には工兵第五大隊長に補せられた。工兵第五大隊は広島第五師団麾下で、師団長は野津道貫中将である。広島に滞在すること1年、野津の長女・槇子(明治6年10月11日生)が満18歳に達するのを待っていた勇作は、24年10月25日に槇子と結婚式を挙げた。

 ワンワールド薩摩派の初代総長で前宮内次官の吉井友実が24年4月22日に長逝、薩摩派は名実共に二代総長・高島鞆之助の時代に入る。5月6日、山県有朋が内閣を投げ出し、松方正義が第一次内閣を組閣するや、第四師団長高鳥鞆之助が大山巌に替わり陸軍大臣に就く。海軍大臣はその1年前に西郷従道に替わり樺山資紀が就いていた。参謀本部では、総裁に有栖川宮熾仁親王を仰ぐも、実質は参謀次長・川上操六(23年6月中将進級)が取り仕切っていた。いずれもワンワールド薩摩派の中枢で、高島が総長、樺山が副長、川上も副長格であるが、なかでも首相に就いた松方はロスチャイルド直参で日本金融総帥として別格であった。正に陸軍・海軍・参謀本部・金融財政と国家権力の主要部をワンワールド薩摩派が握ったのだが、面々はすべて吉薗ギンヅルの知己で、上原勇作応援団のメンバーであった。上原は恐ろしいほど順調に登竜門を登ったのである。

 軍拡予算を急務とする松方第一次内閣は、民力涵養を叫ぶ民党の攻撃に反撃するため25年2月議会を解散し、総選挙に打って出た。これは閣内強硬派の高島陸相・樺山海相の主導で、松方首相も同心であった。
 彼らが軍拡に固執したのは本人の国防上の信念であるが、根底には英国ワンワールドの意思があったことを見逃してはならない。
 ロシアとのグレート・ゲームを優位に進めるために、日本をして朝鮮半島と台湾島を確保せしむる戦略を薩摩派に実行せしめたのは、玄洋社を看板にした杉山茂丸以外にない。

 選挙干渉は、高島・樺山が主張して閣内唯一の長州人・品川彌次郎内相に実行せしめたが、品川は非戦主義で軍拡延期派の長州陣営に属したから、伊藤博文・井上馨の工作で選挙干渉の手を秘かに緩めた。ところが、福岡県では知事・安場保和が先頭に立ち、玄洋社と相携えて選挙干渉の指揮を取った。安場ら官僚政治家よりも一介の浪人・杉山茂丸の方が、この種の政治行動に積極的だった所に杉山の特異性を観るべきである。

 25年8月8日、選挙干渉を実行した樺山(資雄)・調所両知事の更迭に反対した高島・樺山の辞任で松方は内閣を投げ出し、伊藤博文に替わる。高島・樺山も予備役入りして枢密顧問官となり、陸相に大山巌が復任、海相には仁礼景範(薩摩)が就いた。8月18日に欧州出張から帰朝した陸軍少将・児玉源太郎は、早速に前陸相・高島を陸軍官舎に訪ね、高島から杉山を紹介された意味は深長である。同23日、児玉は陸軍次官兼軍務局長となる。ここにワンワールド薩摩派の政権は一見崩壊したかに見えるが、松方の金融における、また高島の陸軍における、さらに樺山の海軍における権力にはいささかの欠落も生じなかったと思われる。

 
 ★圧勝に終わった日清戦争 樺山の躍進と高島の不遇


 第五大隊長として広島に在った上原少佐は、明治25年8月29日参謀本部に戻り、副官を命ぜられ陸大教官を兼補した。また参謀総長・有栖川宮熾仁親王の高級副官として陸軍大演習に臨み、ある時は観兵式に臨んだ。26年7月から安南およびシャム国に派遣され、東南アジアの現況とフランス・シャム戦争の実況を視察した上原は、11月に参謀本部副官から参謀本部第二局局員に転じ、鉄道会議臨時議員・工兵会議議員に兼補され、国防戦略の中枢に入っていく。当時の国防戦略は、全国要地に砲台を設けて師団が護り、砲台の間を鉄道で繋いで兵員輸送を図らんとするものであったから、兵備としての鉄道の重要性は論を挨たなかった。財政上の理由から鉄道建設を民営に任せざるを得なかった時期に、吉井友実が宮内省を出て日本鉄道会社社長に就いたのもそのためであった。右のように参謀本部で上原が受けた優遇は著しいが、すべて参謀次長・川上操六によるものであった。

 27年3月29日、朝鮮の全羅南道で東学党の乱が起こり、5月31曰朝鮮政府は清国に討伐のための出兵を要請、清国から出兵通知を受け取った曰本も直ちに出兵し、曰清戦役が起こる。非戦士義者・伊藤博文の内閣の時に開戦したのは、歴史の皮肉である。6月5曰、野津中将隷下の第五師団に混成旅団動員の令が下り、上原も同8月27曰に第一軍参謀に任ぜられ9月15日の平壌攻撃に参加したが、翌日平壌は陥落した。9月25曰工兵中佐に進級した上原は、引続き各地の戦闘に参加する。野津は12月27曰付で第一軍司令官に就き、上原も翌年3月に第一軍参謀副長になる。

 曰清戦争は曰本の圧勝に終わり、上原勇作中佐は第一軍参謀副長として28年5月25曰凱旋、10月18曰付で功四級金鵄勲章並びに年金5百円及び勲六等単光旭日章を受ける。戦後も参謀本部に勤め、29年2月から伏見宮貞愛親王(陸軍少将・歩一旅団長)がロシア皇帝戴冠式参列のため差遣に付き、その随行を命ぜられ、半年間欧州に赴いた。

 ワンワールド薩摩派を見渡せば、この戦役の最大の成長株は副長・棒山資紀であった。25年8月の海相辞任以来、2年間を枢密顧問官で過ごしていたが、27年7月現役に復帰、海軍軍令部長に補された。陸軍参謀総長と並ぶ海軍の最高ポストである。28年5月、政府は台湾総督府を新設したが、初代総督に樺山が挙げられたのは少佐時代から台湾問題の第一人者だったからで、そのために海軍大将に進級、伯爵に昇爵した。上原の岳父で高島の義弟・野津道貫は、戦争末期の3月に陸軍大将に進級、8月5曰に伯爵に昇爵し、近衛師団長となる。戦前戦後を通じ、参謀本部次長として軍令系統を掌握した川上操六が一躍子爵に叙されたのは当然であった。右の諸子に比べると高島鞆之助の処遇が何とも不思議で、25年8月の陸相辞任で予備役に入り、樺山と同じく枢密顧問官として過ごしたが、実に3年間しかも日清戦争の戦前・戦中に何をしていたのか、明らかでない。

 終戦直後の28年8月21曰、高島は予備役の身で突然台湾副総督に任ぜられ、劉永福の土匪軍5万を相手に奮闘し台湾島を平定した。第二師団を率いた戦闘だから事実上の戦功だが、戦後処理扱いなのか、何らの恩賞に与らなかった。だが副総督として台湾に関わった高島は、伊藤首相が兼ねた台湾事務局が29年4月新設の拓殖務省に移行するや初代大臣を委嘱され、合湾総督を監督する立場になり、樺山と手を携えて台湾政策の根本を建てることとなる。高島の倒閣工作もあって伊藤が内閣を投げ出したので、9月に松方第二次内閣が成立、高島は陸相を兼務、海相には西郷従道が就き、樺山は内相で入閣した。5年前の第一次内聞を彷彿させる戦争準備内閣には違いないが、最大の目的は実は金本位制にあった。世界金融皇帝ロスチャイルドに貨幣法制定を命じられた松方は、大隈重信にも協力を要請して連立政権の体裁を成したので、世人は「松隈内閣」と呼んだ。貨幣法は30年3月13曰に衆院を通過し、23曰貴族院の是認を経て、11月から金本位制が施行される。金本位制と日露戦争の準備を責務とした松方第二次内閣の政策は明らかに在英ワンワールドの意思に沿っているが、両者を媒介した者は杉山茂丸と観る以外にあるまい。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(23)  <了>。
                      
 




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