カウンター 読書日記 2008年10月
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●「怠惰??」と「近代の労働観」
 ●【必然の到着点】に到るといつも左右の区別が夕闇に溶け込んでしまう。

 1920~30年代の世界恐慌から大戦への過程でもそうだった。

 資本主義と社会主義が混じり合ってその差異が見えなくなってしまう。

 「自由と民主主義」の陣営が社会主義的経済政策を採り、

 社会主義陣営が競争原理を採る、という「世界茶番劇場」を見せつけられたものだが、

 その時からまだ100年も経っていない。

 健忘症にはいい加減で「オサラバ」したいものだ。

 溶け込み合っている政策の根っこには、奇妙な「一致」がある。

 両者の「労働観」=「勤勉万歳」がそれだ。

 「働かざるもの 食うべからず」と。
  


 「読書日記」(2007年7月9日)に、●労働観 として、以下のように紹介した。

 『近代国家とキリスト教』 森安達也 2002.10 平凡社ライブラリー(*原著・『神々の力と非力』は1994年 平凡社刊)
 同書のp103~108より

 ● 宗教改革と近代資本主義社会
 二十世紀の終わりの最大の出来事は、ソ連の解体と東欧の再編であろう。これは共産主義の敗北と資本主義の勝利と宣伝されているが、果たしてそうだろうか。少なくとも旧ソ連と東欧諸国では、社会主義経済体制は崩壊したか、あるいは崩壊しつつあるが、資本主義が勝利したなどとはとうていいえない状況にある。将来の見通しも明るくない。おそらく、「資本主義もどき」の状態が続くのではないかと予想されるが、そう思う根拠のひとつは、文化圏としてのロシア・東欧が東方正教文化圏と一部カトリック文化圏に属しているからである。二十世紀も終わろうとしているときに、いまさら宗教文化圏を持ち出すなど、見当はずれだとの意見もあるだろう。だが、かつて人々を支配した、あるいはいまでも支配している宗教が生み出すメンタリティーは、意外に無視できないものがある。

 これまでの歴史が示すところでは、ある社会における宗教上の少数派が経済活動の担い手としての役割を果たしている。ヨーロッパ各国のユダヤ人、フランスのユグノー教徒、イギリスの非国教会信徒とクエーカー派、ロシアの分離派(十七世紀中葉のニーコンの典礼改革を否認して正教会から分かれた。古儀式派とも呼ぶ)などいくらもあげられるが、これは普遍的な現象といってよい。ところが、宗教改革の結果を見ると、ひとつの傾向としてフランドル地方とイギリスのようなプロテスタント地域が経済上の先進地帯で、他方、イタリア、スペインなどカトリック地域は後進地帯となったと思われるし、あるいはもう少し時代がくだって、プロテスタントの北アメリカとカトリックの中南米という対比もありうる。もちろんそれは気候、風土といった別の要因によるものかもしれないが、プロテスタンティズムの成立と結び付くのではないか、との予見がでるのは当然である。

 十六世紀の宗教改革と資本主義社会の形成が時代としてつながっていることは事実であって、そこになにかの因果関係を見出そうとするのも自然であろう。マックス・ウェーバーは二十世紀の名著というべき『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(一九〇五年発表、日本語訳は大塚久雄訳、岩波書店、一九八九改訳版)において、経済活動に対する規制が厳しい社会で近代資本主義を助長するメンタリティーが生まれたという、逆説的なひとつの仮説を示した。ウェーバーのこの著作は、よく大学の新入生の必読書などにあげられるが、実際には著者の学問上の業績すべてが集約されたかなり難解な書物で、論の立て方はもとより、プロテスタント諸教派についての相当の知識がないと註釈も理解できないであろう。これを引用し論評を加える研究者ですら、全編を理解していないと思えることもある。もちろん、ウェーバーは近代資本主義社会が宗教改革の所産であるなどとは一言もいっていない。 

 ルターが聖書の翻訳に際して、「召命」と「職業」という異なった概念をベルーフBerufと訳しているが、これが「天職」の考え方の起源であって、単なることばの翻訳以上の深い意味をもつ。すなわち、世俗的労働に宗教的な意義を与えたわけで、それがプロテスタント各派の共通の思想となっている。以上がウェーバーの論の出発点である。ちなみに東方正教圈では、現代ギリシア語でもロシア語でも本来「奴隷の状態」という意味のことば(それぞれdouleia,rabota)が「労働・仕事」の意味で用いられており、「天職」に相当する表現はない。さて、このような「天職」の考えは、カルヴァン派の教えである「すべては神の栄光のために」および予定説の積極的な活用と結び付いた。とはいえ、カルヴァン派の神権国家では経済活動に対してもさまざまな規制があり、特に天職義務に適しない消費が圧殺された。それは中世のカトリック教会の規制よりはるかに厳しいものであった。それに対して、天職義務の教育が浸透するにつれ、価値観の転換が起こり、財の獲得が伝統主義的倫理から解放され、近代資本主義のエートスが生まれたというのである。ウエーバーは天職義務を「世俗内的禁欲」とも表現しており、プロテスタントが否認した修道制というものを持ち出して、修道制の禁欲の精神を世俗内的禁欲の先駆者としている。ここでいう価値観の転換は、常識的な思考からして理解しがたいところであるが、ウェーバーによれば、それによって利潤の追求が合法化されたばかりか、神の意志にかなうものと考えられたという。   

 カルヴァン派はのちになって、徴利行為、すなわち利子を取ることを認めた(ただし高利貸は別)が、これこそ中世の性格からの解放であった。現代人にとってあまりにも当然のことであり、また中世とルネサンス期においてもさまざまの便法が講じられたとはいえ、徴利行為は教会法が禁じるうしろめたい行ないであり続けた。したがって、徴利行為の容認だけは、ウェーバーの理念的考察によるエートスの形成とは必ずしも関係なく、宗教改革が近代資本主義の形成に果たした役割といってもよいであろう。

 このことは、イスラム世界における徴利の問題を考えてみると理解しやすい。
 世界の多くの大宗教と同じく、イスラム教の聖典コーランは徴利を禁止している。これは不労所得による財貨の蓄積を禁じるための処置であろうが、時代がたつにつれて、商業活動の疎外要因となったことは事実である。ただし、利子禁止は、投下資本から得られる利潤を禁止するものではなく、また十九世紀になると、利子禁止と明らかに矛盾する抵当権も容認されるようになった。それでもコーランの規定が近代社会の金融と商業の足かせとなっている状態は変わりなく、現在もなお西欧などと同様の銀行活動が可能かどうかの模索が続いている。

 また、カトリック教会の内部でも、経済活動のなかで複雑な様相を見せる利子の扱いについてさまざまな議論があり、十八世紀後半の回勅もそれを反映させながら、結局、「多くの場合、人は無利息の消費賃貸(生産のためではない賃貸)によって他人を援助しなければならない」としている。そして十九世紀になってようやく、質問に対する教皇または聖省の回答の形で徴利が正式に容認されるが、それも消費賃貸において利子(国家の法律によって許されている適度のもの)をとった者に罪の赦しの秘跡を与えてよいという内容である。

 さて、プロテスタントのエートスが近代資本主義の精神を育んだとのウェーバーのきわめて洞察力に富む仮説は、当然のことながらさまざまの批判にさらされた。例えば、イギリスの経済史学者リチャード・トーニーは、『宗教と資本主義の興隆』(一九二六年刊、日本語訳は、出口・越智訳、岩波書店、一九五六~五九年刊)という実証的な研究のなかで、ウェーバーの説を検証している。そして、十五世紀のヴェネツィアやフィレンツェ、あるいは南ドイツやフランドル地方では、「資本主義の精神」が十分に発展をとげていた、といっている。このような批判は、もちろん、ウェーバーのいう価値観の転換、特にカルヴァン派のそれを認めない立場から出ているのであって、近代資本主義の起源をどこで捉えるかといった検証不可能な問題については、さまざまな立場がありうるであろう。

 しかも、禁欲的プロテスタントのエートスが支えた資本主義の精神は、☆一過的なものでしかなかった。すなわちプロテスタントのエートスのほうはその後も保たれたが、資本主義の精神のほうは、やがて利潤の追求そのものが目的となったため、ウェーバーのいうような意味では失われていったのである。それは皮肉な結果であるが、しょせん宗教的熱情が経済制度を支え続けることはありえないのである。〔略〕     


 **************

 冒頭に、 「・・・奇妙な<一致>がある。 両者の「労働観」=「勤勉万歳」がそれだ<働かざるもの 食うべからずと>と。・・・」と書いた。

 この「近代の労働観」誕生をめぐる論争の周辺を少し振り返ってみることから続けよう。(深入りはしないで。)

 その後、近代の労働観(しばしば「労働の喜び」と「勤勉賛美」がふりまかれた)がもたらした現実に向かうことにする。

 二十世紀の名著というべき『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、この名著は最初1904~5年にかけて、2回に分けて『社会科学および社会政策アルヒーフ』誌に連載されたが、ウェーバーは最晩年に宗教社会学関係の著作を整理し、『宗教社会学論集』として出版したとき、補筆をして、1920年に刊行された。

 この著作が成立した背景には<資本主義精神起源論争>と名付けられる論争がある。

 相手はゾンバルトで最大の対立点は☆【アルベルティの位置づけ】をめぐってのものだった。
   
 
 ★資本主義の精神。

 「資本主義の精神」という問題提起は、ウェ-バ-に先立ってゾンバルトがおこなっている。 

 「資本主義の精神」には、かなり系統というか色合いの異なった二つの立場がある。

 資本主義精神はこの二つの対照的なものが絡まりあって展開する、とゾンバルトは言う。

 ① は、冒険、投機、あくどい利潤追求、泥棒的精神という言葉で表現されるもので、

 ② は、 計算、合理主義、市民的精神等でイメージされるものである。

 この② の中に、B・J・フランクリンと共にアルベルティを入れるというのがゾンバルトの理解で、ウェーバーはこれに真っ向から対立した。

 ★レオン・バチスタ・アルベルティについて。

  ゾンバルトはB・Jフランクリンの<倫理>がルネッサンスの偉人アルベルティの諸説と同一であると主張するが、ウェーバーはそれを否定する。

 アルベルティにとって一番重要なのは家政の原則であり、彼の理想は魂の平安と静寂な生活である。また一族の名誉を最高の目標とする。
 彼にとって、何よりも大事なのは家族-一族の財産であり、アルベルティを貫いているのは貴族的な感情である。

 こういう家政の原則は、厳格なピューリタンからすれば、被造物神化の罪悪である、とウェーバーは言う。

 では、ウェーバーはフランクリンをどう見るか。

 ウェーバーは資本主義の精神の例としてフランクリンの『若き商人への忠告(助言)』を採りあげ、一見商売繁栄の通俗的なノウハウ書とみえるこの本の中に、ある倫理的な指向性が認められることに注目する。

 このフランクリンの『若き商人への忠告(助言)』のなかで表明される倫理性には常識的にみると☆非合理と考えられるものが存在する、と。

 ★「非合理性」とは何か

 フランクリンの『助言』を読み込んでいく中でウェーバーが感じた「非合理性」とは、何か。
 常識的には「勤労」の目的は収入=富を得ることで、そのことがもたらす「豊かな生活」だといえる。

 ところがフランクリンの『助言』を読んでいくと、それとは異質な「生涯を職業的な労働に捧げる」という観点が貫かれている。言わば、「労働への献身」が自己目的と化している。

 ウェーバーは、フランクリンのパンフレットの持つこの「非合理性」=あえて言えば「不思議な禁欲的エートス」と「倫理的精神」=に注目する。

 要するに、フランクリンのパンフレットは「幸福や快楽を目的としない労働」について説いているのだが、これは常識的には、不思議な精神のあり方と言える。ウェーバーはそれを「無意味な」「禁欲的、倫理的精神」だと指摘する。労働の目的は幸福や快楽ではないとする不思議さは何に由来するのか。


 ★B・Jフランクリンについて。(後述)

 
 ★「世俗的労働」の位置づけ

 ウェーバーはここでフランクリンのパンフから「ルター訳聖書」の検討にはいる。
 その「ルター訳」で、それまで単に「職務」をあらわす言葉を「ベルーフ」と訳したことの重要性を指摘していく。(上の森安達也著に要約されている。)

 「世俗的労働」と対極に位置するひとつは常識的には☆「修道院的禁欲」だろうし、中世のキリスト教社会では(もちろん、原始キりスト教ではなおのこと)日常生活・行為の中に「救済」があるなどとは考えられていなかった。
 本来、キリスト教とは異質のこのような<世俗的労働⇒救済へ>という思想は宗教改革期において初めてあらわれてきたものである。その過程をみていくことにする。

 ☆上の森安著を再確認しておくと、「・・・ウェーバーは天職義務を「世俗内的禁欲」とも表現しており、プロテスタントが否認した修道制というものを持ち出して、修道制の禁欲の精神を世俗内的禁欲の先駆者としている。」という。

 ★ルターの「後退」か「成り行き」か。

 ルターの「後退」とは何からの「後退」なのか?

 それはルター自身の世俗的労働の認識の変化と言い換えることが出来るし、その「変化」は多分に「成り行き上」(成り行き次第)のものにみえる。
 最初、ルターの世俗的労働の認識は、飲食と同様の意味しか持ち得ないもの(被造物にすぎない人間の行動のひとつとして、)であり、道徳的な意味など持ち得ないというものであったが、カトリックとの対立が深まるなかで、世俗的労働に大きな意味を認めるようになった。強大な権威思想との対立が産んだ「変化」とは、言葉を換えれば「成り行き上」の「変化」ということである。

 ルターはカトリックとの対立が強まるなかで、ヴォルムスの国会での証言に到るが、農民の反乱が拡がりをみせる状況、特にミュンツァー派(急進派)の出現を前にして、彼の「職業労働」という観点を次第に「後退」させていく。そして、それは現世秩序の肯定(=伝統主義)にまで戻ってしまい、ついには神秘主義への傾斜にまで到る。

 禁欲的な職業労働によって救済を得ることができる、という考えは、☆「ある行動」によって救済は可能だということで、それは免罪符を買う(という行為)ことによって救済されるということと同質のものといえるので、当然それを認める方向にはルターは進めない。

 これに対立的なのがカルヴァニズムの労働観(労働=神からの召命)であり、ウェーバーはカルヴァニズムの検討に向かう。

 ★ウェーバーの神秘主義について。

 ウェーバーは類型的に神秘主義を禁欲と対置している。・・・しかし西欧近代資本主義の発展に動機づけを与えたか否か、という視点から見れば、禁欲が光であり、神秘主義は影であった。・・・宗教生活が神秘的な感情の培養に傾いたルター派と、禁欲的な行為に傾いたカルヴァン派との差異を明らかにした上で、・・・後者(カルヴァン派)の倫理性に加担しているのである。
それは、ウェーバーが同時代の文化プロテスタントの神秘主義への過小評価に同調していたからにほかならない。(『宗教と科学』 上山安敏 p226-7 ・・・は省略部分)

   続く。
 


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●太秦の地、三柱鳥居 (2)。
 『古代ユダヤの暗号』の第6章-を冒頭から紹介する前に、
 ★註:長谷川(間瀬)恵美氏の*2に補記しておく。
 
 主に ●「聖書の雑学」-日本に来た最初の キリスト教徒
     -「景教」の世界的権威、佐伯好郎博士が最晩年に述べていたこと。
 を参照させていただいた。
 →  http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/zatsugaku/firstchristian.html

 
 『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』☆の、740番目に挙げられている氏族名「太秦公宿祢(うずまさのきみのすくね)」の記事を見ると、こう書かれている。(以下、原文)
  ☆「古代氏族の系譜集成。京・畿内に本籍を持つ1182氏をその出自や家系によって神別・皇別・諸蕃に分類。嵯峨天皇の勅を奉じて万多親王らが編し、815年(弘仁6)奏進。30巻・目録1巻。現存のものは抄本。新撰姓氏録抄。姓氏 録。」(「広辞苑」第五版。岩波書店 1998年。)

 「男功満王。帯仲彦天皇[謚仲哀。]八年来朝。男融通王[一云弓月王。]誉田天皇[謚応神。]十四年。来率廿七県百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。以百廿七県秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。次登呂志公。秦公酒。大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐(うづまさ)」

 *******

 『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(九世紀)の、914番目に挙げられている氏族名「秦忌寸(はたのいみきの)」の記事にはそのことが、こう記されている。(以下、原文)

 「功智王。弓月王。誉田天皇[謚応神。]十四年来朝。上表更帰国。率百廿七県伯姓帰化。并献金銀玉帛種々宝物等。天皇嘉之。賜大和朝津間腋上地居之焉。男真徳王。次普洞王。[古記云。浦東君。]大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。賜姓曰波陀。今秦字之訓也。次雲師王。次武良王。普洞王男秦公酒。大泊瀬稚武天皇[謚雄略。]御世。奏餬。普洞王時。秦民惣被劫略。今見在者。十不存一。請遣勅使鬲括招集。天皇遣使小子部雷。率大隅阿多隼人等。捜括鳩集。得秦民九十二部一万八千六百七十人。遂賜於酒。爰率秦民。養蚕織絹。盛・詣闕貢進。如岳如山。積蓄朝庭。天皇嘉之。特降籠命。賜号曰禹都万佐(うづまさ)。是盈積有利益之義。役諸秦氏搆八丈大蔵於宮側。納其貢物。故名其地曰長谷朝倉宮。是時始置大蔵官員。以酒為長官。秦氏等一祖子孫。或就居住。或依行事。別為数腹。天平廿年在京畿者。咸改賜伊美吉姓也」
 (佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』 吉川弘文館,昭和37年。「氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」より。)

 このように、「弓月王」が、応神(おうじん)天皇(在位270-310年)の第14年(西暦283年)に「来朝」し、さらに「百廿七県(あがた)」(127あがた)の民を率いて「帰化」したとある。

 (注:「日本書紀」巻第10「応神紀」の記述によれば、その数は「百二十県(あがた)」とあり「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の記録と少し異なっている。こう書かれている。

 「(応神)十四年春二月,百済王(くだらおう)が縫衣工女(きぬぬいおみな)を奉(まつ)った。真毛津(まけつ)という。これがいまの来目衣縫(くめのきぬぬい)の先祖である。この年、弓月君が百済からやってきた。奏上(そうじょう)して、「私は私の国の、百二十県(あがた)の人民を率いてやってきました。しかし新羅人(しらぎじん)が邪魔をしているので、みな加羅国(からのくに)に留っています」といった。そこで葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年たっても襲津彦(そつひこ)は帰ってこなかった。」
 (宇治谷 孟「日本書紀〈上〉 全現代語訳」講談社、1988年。217ページ。)

 ★因みに、森博達(もりひろみち)の労作、『日本書紀の謎を解く』(中公新書1999年10月刊)によれば、この巻十は、β群として分類されている。
  β群とは、基本的に和化漢文で綴られていて、漢語・漢文の誤用や奇用も多く、文章は倭臭(日本的漢文)に満ちている、というものである。(同書、p225) 

 この「百二十七県(あがた)」(百二十七部(べ))が示唆する人数に関して、佐伯好郎博士は37歳の時に書いた『太秦(うずまさ)(禹豆麻佐)を論ず(諭す)』という小論文の中で、こう述べている。

 「姓氏録(しょうじろく)に依れば,雄略(ゆうりゃく)天皇の時,秦酒公が山城葛野に聚集せし秦氏は一万八千六百七十二人、九十二部にして、其後欽明天皇の朝に於て調査せられたる時に於ても七千有余戸の人口ありしといへば、応神天皇の十六年に於ける百二十七県、即ち,百二十七部の人夫は総数に於て二万五千人以上なりしや明なり。」

 (『歴史地理』という学会誌(喜田貞吉博士主宰)の第100号(第11巻第1号。明治41年(1908年)1月号)の中の佐伯好郎著『太秦(禹豆麻佐)を論ず』という小論文より抜粋。これは,佐伯博士が、37歳の時に書いたものである。
「佐伯好郎遺稿並伝〈上〉伝記・佐伯好郎」大空社 1996年。316ページ。原著は、佐伯好郎伝記刊行会 昭和45年。)

 そんなにも多くの民(2万5千人以上)を率いて日本に渡来した、と記録にはあるのである。

 (注:歴史人口学の研究者、鬼頭宏氏によれば,日本の人口は、弥生時代には約60万人、奈良時代(710-784年)には,約450万人であったと推定されている。(「人口から見る日本の歴史」講談社 2000年。)

 そして、彼らは日本に「帰化」し、日本人となった。
 彼らがいわゆる「秦氏(はたし)」と呼ばれる一族である。

 『新撰姓氏録』(740番目に挙げられている氏族名「太秦公宿祢」の部分)には、秦氏(はたし)の「姓の由来」(なぜ彼らが「ハタ」と呼ばれるようになったのか,そのわけ)が載っている。

 それによると、第16代「仁徳天皇」(在位313-399年)の時代のことについて、

 「秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。」

 (佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』 吉川弘文館,昭和37年。「氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」より。)
 「秦王(しんおう)の献(たてまつ)れる糸,綿,絹帛(きぬ)は,朕(あれ)服用いるに,柔軟(やはらか)にして,温煖(あたたか)きこと肌膚(はだ)のごとしとのたまふ。よりて姓(うぢ)を波多(はた)と賜ひき」と書かれている。
 つまり、仁徳天皇に秦氏が,絹や綿を献上したところ、それが「肌(はだ)」のように柔らかいので、「秦」と書いて「ハタ(または「ハダ」)」(「波多」。『古語拾遺』の記述では「波陀」)と読む姓を与えられたと述べているわけである。

 また、秦氏のハタは、「機織(はたお)り」に因むという説もある。

 あるいは、「ハタ」氏が始めたから「ハタ織り」と言うようになったのかもしれない。
 (久保有政著「日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相」学習研究社 2003年。22ページ。)

 彼らは、「養蚕と絹織物業」にたずさわる人たちだったわけだが、当時の「シルクロード」(“Silk Road”「絹の道」)においては、「絹」の交易は、ユダヤ人かキリスト教徒がほぼ独占していたものということが分かっており、それゆえ彼らは「ユダヤ人」ではなかったか、とも言われている。
(ラビ・M・トケイヤー著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎」徳間書店、1999年。259ページ。久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店、2000年。130ページ。ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店、2000年。58ページ。)
 

  『古代ユダヤの暗号』 (平成13年10月 日本文芸社) ●第6章 「契約の櫃(アーク)」は京都の巨大六芒星のうちにある に戻る。
 
 
************


 ★太秦の奥義・秘められた封印とは何か(p202~)


 京都太秦。太秦(うずまさ)がウズ・マシヤ=「イエス・メシア」であることはすでに紹介した。さらに太秦には二重、三重の暗号が隠されている。

 まず太を渦=★と呼ばせることによって太秦は、「☆★秦」となり、ユダヤ人秦氏にとってすばらしくシンボリックな地名になっている。

 次に、太秦の地名は中国・唐の時代、中国に渡ったユダヤ教エッセネ派(キリスト教ネストリウス派)の信徒たちが大秦寺(ローマ寺、メシア・キリストの生まれた大秦〔ローマ〕を記念する寺)を建立したことに関係がある。

 大秦寺・太秦。両者はとても似ている。しかし、太秦が大秦から由来する名前であることを指摘する研究者が過去大勢いたというのに、「大と太では漢字が違う。だからそれはこじつけでしかない」と主張する学者たちによって、こうした説は論拠のないものだとされてきた。しかし太と大の関係は先にも説明したように、☆がただのシンボルとして使われるか、呪法として実際に使用されるかの違いによるのだ。

 だから秦氏が、大秦をわざわざ太秦にしたのは、その地に呪詛がかかっていることを意味している。
 
何の呪組か? それこそがユダヤの秘宝を封印する呪詛だったのである。


 ★聖徳太子はキリストであり、秦河勝はモーセだった


 聖徳太子。日本史のなかでこの人ほど政治家・宗教家として畏敬をもって尊称された人は存在していない。聖徳太子がイエス・キリストと同じく、馬小屋で生まれ、死後復活したという伝説はあまりに有名で、それゆえ、聖徳太子伝はキリスト伝説をもとに作られたのではないかと指摘する声があるほどだ。

 太秦に秦氏が建立した寺、広隆寺がある。そしてそのなかに聖徳太子を祀る「太子殿」がある。ここの廊下の左上にはしっかりと五芒星=ダビデの紋=救世主の印が掲げられている。現在の額は明治時代の太子講の人々の寄進によるものだが、何の意味もなく五芒星が掲げられるはずもない。初めからあったものが幾度も新調され直して掲げられているのであろう。

 しかも太子殿の扉に刻まれているのは、まごうことなく十字架の紋章である。

 この紋章は、聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女(のちの用命天皇妃)が馬司のところに来たときに、厩の戸に当たった拍子に太子を難なく出産したという伝承と関係している。

 戸=十であり、十は十字架だから、戸=十字架の暗号がここに隠されている。
 というわけで、太子は十字架の力で生まれた子供であると考えられるのだ。

しかも、太子は側近の秦河勝から「弥勒菩薩=ミトラ神」の生まれ変わりであると信じられ、世の人々もまた、太子は弥勒として衆民を救うために遣わされたと信じていたわけだから、聖徳太子=ユダヤのメシアは動かせない事実なのだ。

 それともう一つ、聖徳太子の側近、秦河勝の出生については三輪山の川を流れてきた瓶(=亀)の中から誕生した子供であるという説がある。

 モーセと同じく川から救い上げられ、「亀甲紋」をいただいている。
 つまり、聖徳太子と秦河勝は、ユダヤ伝説の二聖人、キリストとモーセになぞらえられていたのである。

 そしてキリストとモーセが、いわば組んで行なったのが歴史の編纂、律法の設定、王都の建設であった。
 
 ★広隆寺の牛追いの祭りはミトラ神の祭り


  このようななかでは、時代を経てのちの平安朝の王都建設に秦一族が関与しているのはむしろ当然のことである。いや、一部前述してきたように彼らの根拠地の山城(現在の京都府)に、新しいエルサレム=平安京が置かれるのは必然でもあった。

 秦氏=ユダヤ人説は、これまでにもさまざまな傍証が取り上げられては語られてきた。しかし私たちは、前出の大秦と太秦のように、より直接的に、彼らの用いる文字に注目したい。

 さて、ユダヤ教・キリスト教の祈りの言葉である「アーメン」は、漢字で「訐免」と書く。その意味は、「大きく避ける」。つまり、大避の文字はアーメンであるわけだが、秦氏はこの大避に大秦→太秦と同様な操作を施すことで、見事な二重の暗号を作っていたのである。

 秦一族の氏寺・太秦の広隆寺には、大辟神社(現在では大酒神社となっているものの古称)なるものが存在している。

 そして、唐の遺跡にある景教碑文や景教教典のうちには、ダビデ王のことが大闢と記されている。

 ここから大辟神社はダビデ神社ではないのか、と疑う研究者は大勢いる。しかし、この説もやはり「闢と辟では似ているが違う漢字だ」ということで学者からは否定されてしまう。

 しかし、漢字がわずかばかり違っているということが、はたしてそれほど大きな問題なのだろうか?

 むしろ秦氏は大辟に、大避のアーメンと大闢のダビデの両方の意味を持たせた暗号として使っていたと考えられないだろうか。

 秦氏は太秦に来る以前は、丹後の赤穂(ユダヤにもよくある地名)という所に大勢で住んでいた。ここには秦氏が建立したといわれる★大避神社なるものが存在している。
 ★大避神社(おおさけじんじゃ)は兵庫県赤穂市の坂越にある神社。祭神は大避大神(秦河勝)・天照皇大神・春日大神。

この大避神社が広隆寺の大辟神社と同じものであることは間違いない。

 要するに、この時点ですでに秦氏は避と辟とを区別していないのだ。共通は辟の部分にある。そうすると、闢は辟に門構えがあるかないかだけのことだから、当然、この両者に区別はつけなかったはずなのだ。

 大闢と大辟は同じなのだ。するとやはり大辟神社はダビデ神社だということになる。ダビデ神社のある広隆寺。ここに「牛追いの祭り」という奇祭が存在している。

 安永九年(一七八〇年)に出た『都名所図会』によれば、「摩陀羅神」と呼ばれる鼻の高い白面をつけた神が雄牛の背に乗って登場し、それに随伴する天狗面をつけた僧侶が、飛び跳ねる牛の背にまたがり、牛を取り押さえようとするかのように描かれている。

 摩陀羅の色は、ペルシャにおける最高神を表わす色であり、広隆寺の本尊が弥勒菩薩であることからも考えると、この牛にまたがっている摩陀羅が、ミトラであることは間違いない。先に紹介したクノッソスにあったミノタウルスの神殿(バァル神殿)でも同じような祭りが行なわれていた記録が存在している。

 それは、広場に暴れる雄牛を解き放ち、その雄牛の背に乗ってアクロバットのようなものを演じるという奇祭だった。

 まさに広隆寺の「牛追いの祭り」は、古代から脈々と続くミトラ神の祭りなのだ。


 ★耳(33)の秘密とフリーメイソンの系譜


 先ほどまでにミトラの巨大な目が何度も登場したが、ミトラの霊力は「万の目」「燃える炎のような目」だけによるものではない。

 「千の耳」であまねく世界の声を聞くことができるからこそ、ミトラは全能神と呼ばれる。耳=三・三。もうおわかりだろう。聖数である33の暗号が、耳の文字には秘められているのだ。

 ミトラに関係する50、33、さらに生命の木を象徴する「ササラ」「サララ」などの表現が、日本の天皇や皇后名にも数多く登場してくる。

 御間城入彦五十瓊殖(崇神天皇)、活目人彦五十茅(垂仁天皇)、五十瓊殖敷入彦命(垂仁の皇子)、五十日帯日子王(垂仁の皇子)、鸕野讃良皇女(持統天皇)、神渟名川耳(綏靖天皇)、豊聡耳皇子(聖徳太子)などだ。

 聖徳太子の霊力と聡明さの象徴は、「十人の人の言うことを聞き分ける賢い耳を待っていた」ことで表わされる。太子の耳が重要なわけだ。

 耳が33の暗号であることは、聖徳太子が三十三代目の天皇・推古天皇の摂政となったことでも強調されている。

 33の聖教を待ち、ミトラの耳を待つといわれた聖徳太子。太子のなかにも暗号の☆が隠され、さらにその出生と復活神話までもがミトラにたとえられている。また、天皇系図で太子と呼ばれた者は、聖徳太子以外には存在しない。息子が普通である。いや、太子の称号だけではない。事績の点のみなら歴代の日本の天皇のなかにも匹敵する人物は確かに存在するはずなのに、なかでも太子は特別な地位の人物であった、とされているのだ。

 日本建国という大事業は、なんと太子が石工(メイソン)であったからこそ成し遂げられたものなのだ。そう、メイソン。言わずと知れたフリーメイソン。

 太子はユダヤの奥義に通じ、神殿を造る資格を有するメイソンだった!

 それは太子の母方の出自から割り出せる。太子の母・穴穂部(穴太とも記される)は、穴太(=穴☆)の一族であり、穴太一族は有力な石工集団だったのだ。ユダヤ人で、王族につながる石工といえば、それはフリーメイソンにほかならない。フリーメイソンのシンボルには、ミトラの市松模様や巨大な目のほかに、定規とコンパス、そして三本の柱などがあった。

 そこで、次ぺージ下の右の図(*前稿の写真)を見ていただきたい。ユダヤの聖人、イエス・キリストの聖画である。

 そこではコンパスと定規を持ったキリストが描かれている。また、ヨーロッパの民話ではキリストは錬金術師としても語られている。『聖書』では大工とされていた。このようにキリストもまた、フリーメイソンの系譜に属する人であったからこそ、宗教的な智恵に秀でていたのである。
 
 ★聖徳太子も秦氏もフリーメイソンだった 


 そして211ページの下左の図(*前稿の写真)を見てほしい。これは四天王寺に聖徳太子像として伝わる絵だが、ここから大工、石工などの聖徳太子信仰「水子講」が興ったといわれている。その像の手に持つものが、いまでいうコンパスと定規とされたからである。それはなによりも彼がフリーメイソンであったことを雄弁に物語っているとしえないだろうか。

 聖徳太子だけではない。秦一族も平安京や数々の社寺を建設したことで知られる設計士集団だし、彼らの本拠地であった赤穂が金・銀の鉱脈で潤ったことからも明白なように、金属師集団でもある。ミトラ信仰(弥勒信仰)と建築技術、五芒星とダビデ神社、巨万の富をもって日本政治に君臨した秦一族こそ、最も有力なフリーメイソンだったに違いない。

 そして彼らの秦という名は「シン」と読めば金属部を表わす。また、秦は元来「ワタ」と発音されていたであろうともいわれている。「ワタ」は日本語では「海」だし、ヘブライ語では「海水」をさす。

 自ら海水が凝り固まってできた潮の島「音語呂島(おのごろしま)」には、「秦一族が集団でやって来て造ったシオン」の意味が合まれていたのである。

 さて、ここで生命の木について一言ふれておこう。これは「桃の木」で表現されることが東洋では多い。

 桃から生まれた桃太郎が、神人的な力を持って鬼退治ができることは、そういう理由である。

 また、桃太郎物語の鬼の島は、沖縄・九州など南方において、深い穴を下りていった地下王国として表現されている。桃太郎は『古事記』の「イ伊邪那岐命の黄泉の国訪問伝」(死んだ妻・伊邪那美を慕って、伊邪那岐が地下にある死の国に出向き、襲ってきた鬼を桃の実をぶつけて退治する話)の類似話となっていて、地下にある鬼の国(死の国)に対抗する桃の木の力を象徴する物語なのである。

 とすれば、桃太郎物語は、一種のバァル神(ミトラ神)の死克服の神話とみることができるだろう。さらに日本では古来より三月三日(耳の日)が桃の節句として祝われることの源流には、こうした神話が存在していたのである。   <了>
 



●太秦の地、三柱鳥居。
                     蚕の社の三柱鳥居_1
                          蚕の社の三本柱            

 昨年5月18日に
「・・・長谷川(間瀬)恵美氏による「太秦(うずまさ)- カミと仏と一神の交流の場 -」も興味深いもの(*特に<三柱鳥居>の項)だったが、以下は皆さんでどうぞ。」【2007/05/18 10:34】として、未紹介だったので、先ずそれから。
  
 ●太秦(うずまさ)-カミと仏と一神の交流の地- 長谷川(間瀬)恵美  
 『シスモールヴォイス』(5)特集京都-1 2006 冬号 所収。

 ★はじめに

 「京都は日本の伝統」というキャッチフレーズを見て、不思議に思っても、それを否定する人はいないだろう。けれども、日本の文化、日本の伝統、日本人とは一体何だろうか。異文化交流の英語の授業で“l am a Japanese.”と答える学生たちに「日本人」とは何かと問うたところ、「日本語を話す」「日本料理を食べている」「日本で生まれた」「両親が日本人である」等々の答えがかえってきた。しかし、いずれの答えも満足できる答えではない。アメリカやブラジルに住む日系2世、在日韓国人、帰国子女、ハーフの子供たち一今の国際社会に生きる子供たち-は自己をめぐる問題をたくさん抱えている。 日本に安穏と生活していると、とかく忘れがちな日本、その文化、その伝統に関する基本的な問題は、自己のアイデンティティを探ることに関わっている。

 ★日本的霊性

 自分の体験から言えば、「私は日本人である」ということは、実はその根底に日本古来の宗教心が潜伏していることだ、と私は考えている。それは古神道(アニマイズム)だと言ってもいいだろう。日本人が日本文化の脈絡において体験するもの、つまり日本文化の依拠する精神的基盤、それは日本的霊性にほかならない。神道は古代から現代に続く日本の民族宗教として、長い歴史、伝統を持っている。明治時代は国家神道が強制された時代でもあるが、これは天皇が現人神として祀りあげられるという、特異な一神数的神道の形体と考えられる。敗戦後、国家神道は解体し、現在は神社神道、皇室祭祀、民俗神道、宗派神道の4つが主要な形体とされる。そして今日、日本の若者たちの多くは、このような神道の諸形体に頓着することなく、子どもの時から初詣や七五三で神社へのお参りに親しみ、神道を「宗教」と感じることなく、生活の中に取り込んでいる。*1 神道は、人々の生活に深く関わり、精神生活の基盤ともなっている。今日においても、神社では四季を通じてさまざまな祭礼が行われる。春にはその年の実りが豊かであるようにと祈り、夏には災害や災厄を案じ、秋には収穫を感謝し、冬には春に向けて生命の宿りを祈願する。祭礼は神々と人々の交流であり、感謝の気持ちの表現であり、地域の文化や伝統を継承する「場」として定着している。日本の主な年中行事や祝日は、神道や仏教に関係するものが多い。日本人の一生の節目は、人生儀礼として神々のご加護とその恵みに感謝するという行事-お食初め、七五三、成人式、合格、結婚、安産祈願、年祝い等-で祝される。そのような現実を前にすると、神道を日本文化の基層、見えざる国教として解釈し直す必要を感じさせられる。

 ★神道のカミ

 神道のカミの特色は「多の和」である。八百万の神々という言葉が現在も力強く息づいているように、多神が共存する世界観である。神々は他を排することなく、それぞれの場を獲得し、隠れた霊力として現臨する。古来より、日本人は自然の中に霊的な産霊の力を感じ、それが人間を包み育んでくれる、大いなる力であると理解してきた。その霊的な力は自然界に現れる。そこで人々は鎮守の森に神社を置き、神々の依り代として祀った。森の木々、河、山、岩、動物は、カミの宿る神聖な場であった。カミは知り得るものではなく、その気配によって感じられるものであった。やがて、神々と人間の関係は、時に友好的、時に主従関係をとるように理解される。カミは人々に穀物等の自然の恵みをもたらすが、時には自然災害として偉大な破壊力をもって怒りをも表す。人々は「祭礼」において神々と交流し、その霊を労った。神々は一時の交流を楽しみ、またあの世に帰っていく。次第に祖先の霊もカミの一つとして考えられるようになっていった。

 ★太秦(うずまさ)の地

 右京区太秦の土地には、一神教と関係の深い神社仏閣が現存する。[以下では弥勒菩薩の半珈思惟像で有名な広隆寺、摩多羅神の巡行する「牛祭」で有名な大酒神社、そして日本最古の神社の一つである木島座天照御魂神社を取りあげ、日本と一神教の交流とその興味深い歴史を考察する。]

 太秦は秦民族を中心に栄えた。秦民族は朝鮮に逃れた秦の始皇帝の子孫であると言われ、日本に渡ってきた渡来人である。佐伯好郎の『景教碑文研究』の付録に、「太秦(禹豆麻佐)を諭す*2」という論文が収められており、それによると、太秦は471年頃、雄略天皇の時、弓月王帰化の秦酒公(はたのさけきみ)が18,679人を伴って居留した土地とされる。その後、太秦には秦人25,000人以上が帰化した。秦河勝は聖徳太子に仕えた有力人物で、彼は推古天皇から譲り受けた百済の弥勒菩薩を蜂岡寺(太秦寺、現在の広隆寺)に奉っている。現在も、寺の境内には秦氏を祀る社が存在する。

 *2 佐伯好郎『景教碑文研究』大空社1996年所収 「太秦(禹豆麻佐)を諭す」21~50頁。
    この論文は佐伯氏が明治41年1月『地理歴史』に投稿したものである。
    佐伯説に対する批判も提出されているが、日本で初めて提唱された説としてここに紹介する。

 広隆寺から映画村の方に歩むこと数分、秦の始皇帝、弓月王、秦酒公を御祭神とする大酒(大辟)神社がある。こちらの神社は、広隆寺よりも前に建立されている。秦酒公は養蚕技術を伝え、養蚕業を営み、朝廷に絹綿を納めることによって、日本文明に多大なる貢献をなした人物である。献上した際、絹綿が「うずたかくつまれた」ことから、太秦を「うずまさ」と読むという説もある。ちなみに「機織り(はたおり)」は秦氏に由来する。*3
 *3:織物で財を成した三井家(越後屋)は、この神社を守り神として崇め、江戸に進出する際には、全く同じ形の三柱鳥居を江戸の屋敷内に造り、後に向島の三囲神社へ移した。木島神社の神服宮司説。

 同じく秦氏によって建設された、蚕の社という名称で知られる木島(このしま)神社(木島座天照御魂神社)は、日本最古の神社の1つとして数えられる。こちらは天之御中主神を祭神として、600年頃創建された。鳥居をくぐり、拝殿に立つと、左側に本殿、右側に養蚕神社(蚕の杜)がある。本殿の左側に神池(元糺の池)があり、そこに鳥居を3つ組み合わせたような特異な形をした三柱鳥居が建つ。

 5年前(2001年)に訪れた際は、かろうじて池が存在していたが、今は池の水は涸れてしまっている。また、現存の鳥居は約260年前に修復されたものである。「糺」とは「正しくなす」「過ちをただす」という意味で、身の穢れを祓う場所、禊を行って心身を浄める場所である。下鴨神社の糺の杜で行われる御手洗祭が有名であるが、蚕の社では、嵯峨天皇の時代に潔斎の場をこちらから下鴨神社に遷されたという主張から、現在でも「元糺」と呼称している。この三柱鳥居から、秦民族とキリスト教の関係が窺われる。

 *4:ネストリウスはコンスタンチノープルの司教であったが、キリストの神性に反対して人性を強調し、さらにマリアの「神の母」の称号を否認したため431年司教の座を追われ、異端宣告を受けた。エジプトに客死。451頃とされている。


 ★景教と秦氏

 景教(ネストリウス派*4)は635年長安に伝来し、太秦景教と呼ばれて多くの信徒を得た。景教の特色としては、次の点が挙げられる。
1)マリアを神母としない、
2)十字架とそれ以外のイコンを用いる、
3)死者のための祈りを捧げる、
4)聖餐式においてキリストの霊在のみを主張する、
5)僧位の八階級を厳守する、
6)法王の妻帯、断食、菜食を推奨する、
7)聖書、祈祷、讃歌はシリア語が原則。

 781年に、景浄によって世界最古の碑文の1つ「太秦景教流行中國碑」が建設されている。唐の時代は景教流行の時代であり、都には「太秦寺」(キリスト教寺院)が建設されるまでに流布する。しかし、その後、844年に異教禁制が発布され、禁制の時代を迎える。 1625年に「太秦景教流行中國碑」が金勝寺の庭内から偶然発掘され、国外研究者の注目を浴び、景教の研究が再開されることになる。中国においては1860年、北京条約によって禁制が解かれる。

 前述の佐伯氏の研究によると、秦氏は景教を信仰していた。秦氏の建立した太秦寺(広隆寺)は、唐の都のキリスト教寺院「太秦寺」と非常に似ているという。ちなみに「太秦」というのはローマ時代のシリア地方の事である。太秦寺の境内には「井佐良井」という井戸(の跡)があり、これは「イスラエル」という意味をもつ。また、大酒神社はもともと「大辟
」と書き、それ以前には「大闢(だいびゃく)」と呼ばれていた。大酒神社は大辟(ダビデ王)を祀る神社であり、秦氏は彼らの先祖がベテルに石を立てて以来、異邦に流浪して石を立て、祭りをなす氏族、つまり猶太民族であった、と佐伯氏は解釈している。また彼ら自身が「大王の子孫にして平和なるもの」と自称したことについては、それは当時の史家の主観的判断であった、と同氏は主張する。また、佐伯氏は最後に、禹豆麻佐の禹豆は「光」「東」「文化]「開化」、麻佐は「貢物」「賜物」という意義があると結論している。

 この佐伯の研究を受けて、日本バプテスト連盟京都洛西教会の杉野栄牧師は次のような見解を明らかにしている。太秦では「牛祭り」という奇祭が真夜中に行われていた(近年は行われていないようだ)が、これはモーセの出エジプトを祭儀とした名残ではなかろうか。「まだら神」の面をつけた男が牛に乗り、その横を天狗の面をつけた3、4人の氏子達が守り、真夜中に寺を出る。そういえば、天狗の面は鼻が高く、目も耳も異邦人的であるのはユダヤ人の模倣であろうか。秦氏一族がユダヤ民族であり、景教を日本に伝来していたという史実によると、京の都では産業のみならず宗教面でも多大なる渡来文化の影響を受けていたということになる。加えて、日本から中国にわたった遣唐使や空海も、長安において少なからず景教の教えと接触を持ったことに疑問の余地はない。神仏習合を掲げる高野山に「太秦景教流行中國碑」のレプリカが設置されているのも理解できる。思うに、日本文化とキリスト教の交流は、この時すでに始まっていたのではなかったのか。

 ★三柱鳥居

 話を戻せば、蚕の社に建つ三柱鳥居は、入り□ではなく、神社の奥に立つ。これは禊(みそぎ)の場であると同時に、原始キリスト教の三位一体(父と子と聖霊)を表現しているとも考えられる。しかし、問題は、当時の日本人がそれをどのように受け止めていたか、また如何にそれを神社の中の鳥居として受容したか、である。

 『古事記』の神代編には、日本天地開闢の際、まず天御中主神が発生し、次に神皇産霊(むすび)神と高皇産霊神が高天原に出現したと書かれている。そしてこれが、造化の三神とされている。この日本の神話とキリスト教の三位一体の教えが習合した形が三柱鳥居だ、と考えることは素直な解釈でないだろうか。「実生化」とは小さな芽生えのことである。杉野牧師は、「ヨーロッパの苗を植えるのではなく、御言葉の種を蒔き育てることの大切さ」を要に京都の地で宣教を続けている。日本人は異文化と出会い、それを受容する際、拒絶、受容、変容、混淆、重層化という「多の和」の歴史をたどっている。日本人の宗教観の根底にあるものをそのまま維持し、一神教的要素をも積極的に受容し、実生化してきた太秦の歴史はそれを見事に物語っている。このように考えて史跡を歩むと、歴史的・宗教的探求心が大いにそそられ興味深い。

 ★おわりに

 三柱鳥居は日本に1つしか存在しないといわれている。しかし、昨年度(平成17年春)南禅寺の大寧軒(非公開庭園)の茶庭に、石造りの3つの鳥居をみつけた。こちらは蚕の社の鳥居のミニチュアであり、三柱鳥居の下から清泉が湧き出て小川になり、庭の池にそそいでいた。こちらは★茶人、藪之内紹智によって、明治末期に設計されている。彼の茶道とキリスト教の関係を調べるのは今後の課題の1つである。
 
  <了>

 *************  


                       フリーメイソンの三本柱_1
                     フリーメイソンの三本柱と三柱鳥居


 ☆三柱鳥居(三本足の鳥居)について、月海黄樹&石沢貞夫は『古代ユダヤの暗号』で
 次のように述べている。
 (=『古代ユダヤの暗号』 平成13年10月 日本文芸社)   


 ●第6章 「契約の櫃(アーク)」は京都の巨大六芒星のうちにある

 ★メイソン、ミトラ教のシンボルにつながる三本鳥居の秘密  


 太秦には、まだまだ従来の日本の歴史観では説明できない不思議なものが数多く存在している。その一つが「元糺の池」と呼ばれる美しい清水湧く池、それを守るように建っている三本足の鳥居だ。

 現在は完全に鳥居の形をしているが、古代の神社は柱に注連縄(しめなわ)を渡しただけのシンプルな様式で作られることのほうが多かったので、この三本足の鳥居も、もとは三本の柱に注連縄をかけていただけのはずだ。

 三本足の鳥居。このようなものは日本全国のどこを見ても存在せず、宗教的な意味を解明することができなかった。しかし、数々の神殿を設計した秦一族が何の意味もなく三本足の鳥居を作るとは思えない。

 そこで次ページの上の図(*別掲)を見ていただきたい。これはフリーメイソンが自分たちの集団のシンボルとして用いたものを表わした図である。そこには柱が三本立っている。彼らはこれを修行用のボードとして用いていた。

 フリーメイソンたちは実際にこうした石の柱を作っていたといわれている。そう、「元糺の池」に建つ奇妙な三本足の鳥居は、この三つの柱だったのだ。

 三つの柱はフリーメイソン独自の象徴である。ユダヤ教やキリスト教にはこのような三本柱を三角形に配置して建設する習慣はなかった。

 この柱は、フリーメイソンが現在でもスローガンとしている「自由」「平等」「博愛」の三つの理念の柱であり、この柱が非常に重要な信仰の場に建設されることになっていた。

 しかも「元糺」には「洗礼」の意味があり、古代はここで禊ぎが行なわれていた。秦氏と縁の深い下賀茂(下鴨)神社、上賀茂神社にも「糺の池」が存在しているが、現在でも両社には土用の丑の日に「糺の池」で禊ぎをする習慣が残されている。


 ★「稗田阿礼」に隠されたアーク(櫃・ひつ)封印のキーワード


 下賀茂神社、上賀茂神社は秦一族とたいへんに縁の深い神社だが(神社の名称の由来となっている鴨一族は物部につらなるユダヤ系一族。鴨=おう=★大族=太族でもある)、上賀茂神社に不思議な習慣が伝わっている。写真を見てほしい。

 まるで角(つの)のような形に盛土をして、そこに神が降臨する場所を作る。
 角をシンボリックな力の象徴として扱っていたユダヤ民族のことを考えると、牛馬を殺すことを国命で禁じた紀元八世紀までは、本当の角を立てていたのではないかと思う。そしてこの神の降臨場のことを「御阿礼」と呼ぶ。御は尊称。簡単には阿礼。ここに再び『古事記』編纂にまつわる大きな秘密が隠されている。

 『古事記』を読み語ったといわれる稗田阿礼。稗田阿礼は大族と関係があることを第4章☆で示唆したが、実はこれは特定の人物の名前ではないと思えるのだ。

 上賀茂神社の祭神・別雷神(わけいかづち)は父神、大年神=☆(大)の年の神が日枝(ひえ)神社から鴨一族の巫女に夜這いして生まれたことになっている。上賀茂神社のルーツは日枝にあるのだ。

 つまり、☆の年の神がやって来た日枝にルーツを持つ上賀茂神社に阿礼が作られる。日枝阿礼=「ひえだのあれ」となる。そして、阿礼は天宇津女(あめのうずめ)の子孫として工作されていく。これがアーク発見の大きなキーワードになる。

 天照皇大神は、天宇津女が舞うことによって「読みの国」から復活する。
 宇津女とは渦女=☆女であると同時に「埋め」なのだ。

 我々は暗号を解読して、天照皇大神を「埋め」られている場所から発見しなければならないのだ。そしてこの「埋め」の子孫が、『古事記』を「読み」語る「日枝阿礼」であるということは、「日枝阿礼」こそが「読み」を解読することができるキーワードだということになるのである。

 聖徳太子にまつわる伝承を手繰ってみると、母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひと)は丹後の真名井神社にほど近い場所に一時隠遁していたことがわかっている。そして、マナの壷と思われる金の壺を法隆寺の柱の下から発見したとか、真如宝珠と呼ばれる潮満・潮干の玉を連想させる宝珠を持っていたとかの記述が現われる。そして、太子は百済から天皇家と同じく七枝刀を譲渡されている。つまり、三種の神器は太子の手のうちにあったと考えられる。

 もちろん、最もたいせつな生命の木の奥義も持っていたからこそ復活伝説が囁かれるのである。ユダヤの奥義をすべて手にしていた救世主・聖徳太子。そして太子の第一の側近であった秦河勝。河勝の建立した広隆寺。秦一族と関係の深い賀茂両神社。そして同じ元糺の池の存在。これらは何を意味しているのであろうか? 


  ★常世の長鳴き鳥が天照皇大神を開封する 

  秦氏が大秦(ローマ)をわざと太秦と書いたのには、そこに呪詛的な封印がかかっているからだといった。

 実は封印は、その中心にある種=霊が出現するところにかけられ、またその中心の場を示すものともなっている。なぜなら「埋め」られている太陽神の霊は、そこに出現するからである。では、それはいったい、どこなのか?

 ミトラの三本柱が存在する最も重要な聖場、「元糺の池」の中心には「蚕社」なるものが存在し、その祭神は天照皇大神となっている。

 実に意味ありげではないか。アークはその下に隠されているのだろうか?

 いや、そうではない。フリーメイソン・秦氏ともあろうものが、大事な秘宝をそれほど単純に隠蔽するはずがない。三本鳥居と蚕社は、埋め場所の単なる見取り図にすぎない。アークを開封させるもう一つのキーワードがある。
 それは「長鳴き鳥」だ。天照皇大神を岩戸から引っ張りだす準備は、「長鳴き鳥」を鳴かせることから始められた。

 ところで鳥のキーワードは、鶴亀の結びが天照皇大神復活の重要課題だと説いた「駕籠目(かごめ)歌」にも登場している。そう駕籠目歌が浦島太郎と対で解ける暗号だったのと同様に、「天照皇大神の岩戸隠れ」と駕籠目歌、元糺池は対の暗号なのである。
 

 ★駕籠目、駕籠目、駕籠の中の鳥はいついつ出やる?-アークの復活   

  鳥は天照皇大神を呼び出す最初に歌われ、『古事記』では最初に語られる。鳥を見つけ出すことがたいせつなのだ。「駕籠目、駕籠目、駕籠の・・・」と駕籠が三つ歌われることに注目していただきたい。駕籠と鳥が対であれば、鳥も三羽いる。三本柱だ。三角形だ。二羽の鳥はすぐにわかる。上賀茂、下賀茂。鴨がここに二羽いる。

 上賀茂には「読み」を語る「日枝阿礼」もいる。
 上賀茂、下賀茂がニ羽の鳥だとしたら三羽目の鳥を加えると、三本柱のように三角形にならなければならない。そんな鳥が存在するのであろうか?

 それは存在する。小野妹子の創建ともされる三宅八幡神社(京都市左京区上高野三宅町)にいるのである。八幡神は秦氏が祀った神様である。八幡=「八秦」だろうともいわれている。この三宅八幡神社の狛犬は、なんとも奇妙なことに鳩なのだ。(三宅八幡宮のHPで見ることができる。)

 ちなみに、八幡神は金色の鳩となって降臨したという伝承がある。

 いずれにせよこの三つの神社の位置はちょうど、下向きの正三角形(▼形)に並んでいる。

 そこでもう一度、蚕社に目を移そう。
 蚕社の南東の方向には、なんの意味もない八角柱が建てられている。なんの意味もないというところが味噌なのだ。私はこの八角柱は「八坂神社」の方向を示しているのだと思う。とすると見事に三宅ハ幡神社、上賀茂、下賀茂を結ぶ正三角形の南東方向に八坂神社がきている。

 しかもこの正三角形は鞍馬山を上流とする「静原川」「賀茂川」「高野川」からできる三角洲と重なる。

 下賀茂神社の由来書では「糺」には「三角洲のデルタ」の意味があると書かれているから、もう間違いはなかろう。しかもこの正三角形には、三本の川の上流である鞍馬山に船岡山、瓜生山が上向きの正三角形(▲)となって重なる地図ができあがる。(↓写真)

 鞍馬山には皇室と関係の深い貴船神社=尊い船=アーク、船岡山には平安貴族が花祭りを行なった建勲神社、瓜生山には八坂神社の元の御神体があった。

 ここに巨大六芒星が出現する。
 その中心、つまり種・霊が出現する部分、それが三ツ鳥居の中心の御幣の立てられている石山に相当するはずだ。

 するとここにアークが出現するのにピッタリの場所があった。地図のちょうど中心に・・・。それは原始の丘を連想させる山である。ただし残念ながら山の名前は明かすわけにはいかない。なぜならその山は個人の私有地となっていて、「禁足地」と看板が出ているからだ。

 その山の封印がいつ解かれるかわからない。しかし、日本民族とユダヤ民族の奥義であるアークは、終末の日の目覚めを待ってそこにある。

 私は最後に、地名・山名を明かさない代わりに、223pにその手掛かりとしての地図(☆↓の写真参照)を掲載することにした。読者の方々もそこからアークの存在を見いだしていただきたいと思う。

 繰り返そう。なぜなら、終末の目覚めを待ってそこにアークがあるからだ。

  続く。 

                        京の秘宝地図_1
                             

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22) -2
 ★西園寺公望の懐刀にして台湾銀行頭取、中川小十郎  

 恐慌劇の主役たる台湾銀行は、台湾領有の3年目すなわち明治30年に創立され、32年に開業したが、その創立に杉山茂丸が深く関わったことは周知である。大正9年から15年まで、台湾銀行と鈴木商店が最も密着した時期に台銀頭取を務めた中川小十郎は、慶応2年(1866)生まれで、出自は丹波弓矢隊で西園寺家の家臣だった。大学予備門時代には夏目漱石・南方熊楠・正岡子規、さらに上原勇作と旧制士官生徒で同期(第3期)の秋山好古(秋山真之の兄)と同窓だった中川は、明治26年帝大法科を出て文部官僚となったが、31年に辞職、33年に京都法政学校(後の立命館大学)を創立して西園寺家の私塾・立命館を継承する。39年に第1次西園寺公望内閣が成立すると首相秘書官に就いた中川は、41年の西園寺内閣総辞職に伴い樺太庁第1部長に就いた。これは、日露戦後に南半部がわが領土となった樺太に軍政施行を望む陸軍の要求を阻止すべく、西園寺が送り込んだとされる。45年に樺太庁を辞職した中川は、杉山茂丸の計らいで台湾銀行副頭取に就任し、大正9年に頭取に昇任し、14年まて在任した。正副頭取の在任は実に14年に及び、この間の鈴木商店に対する過剰融資は実に中川が行ったもので、その背後に杉山がいたことは自明である。

 中川の樺太庁第1部長当時の上司・樺太長官は、大学予備門で杉山?の同期(帝大卒業は1期上)だった☆平岡定太郎で、原敬の腹心として政友会の政治資金を捻出するために☆郵便切手の不正払下げを行ったとして、大正3年に免官、翌年横領罪で起訴された。三島由紀夫の祖父である。原敬は山県有朋に接近したためか、薩摩派とはいわゆる反目(はんめ)で、その大正8年の☆暗殺に関しても、後藤新平・上原勇作の関与が近来囁かれ始めた。


 ブロガー註:
 ☆参考:
 「・・(平岡)定太郎の長官任命に力を貸した政治家達の圧力で、定太郎は漁業と缶詰業の認可と引き換えに金を受け取り、その金を選挙資金として東京に送ることを余儀なくされた。ライヴァルの漁業会社がこのニュースを洩らし、スキャンダルが広がって、定太郎は退官の止むなきにいたった。しかも、定太郎の退官はその後の目のまわるような失墜のほんの始まりにすぎなかった。・・」 『三島由紀夫 ある評伝』 ジョン・ネイスンより。
 因みに、今は関係のないエピソードだが、この三島由紀夫(平岡公威)の祖父・定太郎は、帝大法科卒業の翌明治26年、著名な武士の家系の永井夏子という女性と結婚する。
 少女時代から、「しばしばヒステリーの発作」を起こし、長女にして「一家の厄介者」だったといわれる女性である。
 この夏子が生後まもない孫の公威(三島)を母親から奪い取って12歳になるまで独占したという。

 ☆「原敬暗殺」に関して、例えば、
 「原敬日記」 大正10年2月20日条には次のようにある。
 「・・・ 夜、岡崎邦輔、★平岡定太郎、各別に来訪。余を暗殺するの企てあることを内聞せりとて、余の注意を求めくる。余は厚意は感謝するも別に注意のなしようも無し。また、度々かくのごとき風説伝わり、時としては、脅迫状などくるも、警視庁などに送らずしてそのまま捨ておくくらいなれば、運は天に任せ何ら警戒等をくわえおらざる次第なり。狂犬同様の者にあらざるかぎりは、余を格別憎むべきはずもこれ無しと思うなり。」。

 
 引用に戻る。


 西園寺公望の腹心だった原敬は、長州派に加担したため後藤・杉山と路線を等しくする薩摩ワンワールドの反対側に回った。原は腹心の平岡定太郎を樺太長官に起用して樺太の材木利権を確保しようとしたが、西園寺が第1部長に送り込んだ家臣で実質筆頭秘書だった中川がどこかで杉山と繋がっていて、台銀の最高幹部となって台湾運営に深く関与し、結局、薩摩派のダミーたる後藤・杉山・中川と長州派のダミー原敬・平岡組の対立に発展したが、その原因の一つに、樺太の木材問題を巡る利権的対立があると推定するが、別に論及したい。

 ともかく、高島鞆之助が陸相の座を追われた明治31年から、高島と組んだ吉薗ギンヅルが日高尚剛をダミーとして鈴木商店に深く関わり、鈴木商店を通じて東亜煙草との関係も深まった.その利権は、元来ワンワールド薩摩派総長の座に由来するもので、上原勇作が明治45年の陸相就任を機に高島から引き継いだと見られるが、引退した高島は大正5年に死去する。後藤と上原の関係は知られていないが実に深く、後藤の右腕・中村是公が息女を上原元帥の嗣子・七之助に嫁がせている所に、後藤の隠れた1面が浮かぶ。


 ★まさに〔いつか来た道〕 取付騒ぎと公的資金注入  

 第一次大戦の好景気の反動が顕れてきた大正15年11月20日、政府・日銀は、鈴木商店及び日本製粉を救済するために資金援助措置を決定した。明けて昭和2年、年初から地方銀行の一部が休業し始めたが、3月14日の国会で片岡蔵相が東京渡辺銀行の手形が決済不能と□にしたのを切っ掛けに、各地で銀行取付けが発生し、瞬く間に全国に広がった。その間に鈴木商店の経営破綻が明らかになり、鈴木商店に貸し込んだ台湾銀行も経営危機に陥った。日銀の鈴木商店への貸出は総貸出の半分近くに膨らみ、しかもその9割以上が固定貸出であった。昭和末年から平成初頭に掛けての日本長期信用銀行と高橋治則のイ・アイ・イ・インターナショナルの関係もこれに近いものがある。

 帝国議会は3月31日を以て閉会していたが、旧憲法第八条では、帝国議会閉会中に緊急の必要がある場合、天皇が法律に代わる勅令を発布することが出来た。そこで政府は、緊急勅令を用いて日銀特融による日銀救済措置を実施しようとし、4月17日に枢密院に諮詢(しじゅん)したところ、19対11で否決されたので、首相・若槻礼次郎は即日内閣を投げ出す。この事態は、枢密院の主といわれた伯爵・伊東巳代治が元来若槻の政策に不満で、反対に回ったために生じたものであったが、議長の男爵・倉富勇三郎及び副議長の男爵・平沼騏一郎も同じく反対に回った。

 ★明治天皇の母方のいとこ? 伯爵・伊東巳代治の政治力


 伊東巳代治は、長崎町年寄で書物役の伊東善平の三男として安政4(1857)年に生まれた。原敬と上原勇作の1歳下、後藤新平とは同じ年で、彼ら大正三傑と全く同期している。伊藤博文を腹心中の腹心として支えた伊東の政治力は、伊藤の死後もなお隠然たるものあり、実に上の大正三傑に準ずるものがあった。

 ワンワールド薩摩派は、フルベッキ、グラバー及びアーネスト・サトウの直接指導を受けて倒幕開国を進めた吉井(1827生)、西郷(同
年生)、大久保(1830生)の薩摩三傑を第1世代とするが、維新の時分には30代で戊辰役では方面指揮官や隊長に就いた樺山資紀(1837生)あたりもこの世代に相当する。慶応から明治初頭に生まれた彼らの子女が第2世代である。その中間の第1.5世代というべき高島鞆之助(1844生)は、吉井の引きで明治政府での出世は樺山らよりずっと早く、年齢差もグッドタイミングで、吉井から薩摩派総長の地位を譲られた。

 因みに長州では、薩摩三傑に同期しているのが大村益次郎(1825生)、広沢兵助(1833生)、水戸孝允(同年生)が長州三傑と言うべきで、ここから井上馨(1835生)、山県有朋(1838生)までが第1世代で、伊藤博文(1841生)も早熟のため第1世代に入る。高島のライバル桂太郎(1847生)は、高島と同じく第1.5世代に属したため、山県有朋(1838生)から長州陸軍の棟梁の座を譲られたのである。

 大正三傑は薩摩・長州の枠を超えた日本ワンワールド三傑だが、伊東巳代治がこれに準ずるのは、伊藤博文から長州派の2部門を引き継いだからである。ワンワールドが金融・軍事・宗教の3部門に分かれることは前述した。その外に情報宣伝分野の存在を忘れてはならないが、これは広義の宗教部門に含まれる。伊東は明治5年に15歳で工部省電信寮修技教場を卒業し、長崎電信局に入るが、翌年1月に辞職、「兵庫アンド大阪ヘラルド新聞社」に入社した後、兵庫県属に転じて訳官(通辞)になる。10年には再び工部省に入り、権大属に任じた。電信に携わったために国際通信事情に通じた伊東は、工部卿・伊藤博文の注目を浴びて腹心となり、伊藤が憲法調査のために明治15年2月から1年半にわたり渡欧した時同行し、その後は金子堅太郎・井上毅と共に、伊藤の下で明治憲法の草案を練った。25年8月の第二次伊藤内閣で内閣書記官長に就き、28年には早くも男爵を授けられ、31年1月に第三次伊藤内閣の農商務相に就き、32年から枢密顧問官となる。以来昭和9年に死去するまで実に35年間を枢密院に居続け、枢密院の牛耳を執って憲法の番人と称された。

 伊東巳代治といえば、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』は「明治天皇の母方のいとこでもある」と解説している。奇説なのに根拠を明らかにしないのは不思議だが、わざわざ書くほどだから根拠がある筈だ。それだけではない。清末の洋務運動で知られる譚嗣同の子孫でジャーナリストの譚路美が著した『父の国から来たスパイ』とか題した書にも同じ事を述べるが、やはり根拠を示さない。両者は同じネタに接したのだろうが、ネタが明らかでない。甚だ興味深いことであるから、脇道に逸れるのは承知で、次号で若干の探究を試みたい。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22)   <了>。
 





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