カウンター 読書日記 2008年09月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22)-1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22)
 -昭和金融恐慌の主役・鈴木商店と台湾銀行を操るこの面々
                              ◆落合莞爾   


 ★神戸のふたりの豪商 後藤勝造と金子直吉 


 日露戦の実行という重要な国務を抱えていながら台湾統督に座り続けた児玉源太郎に代わり、実質的に台湾行政を総覧していた民政長官・後藤新平は、台湾産品を扱う業者にとって神様的存在であった。インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』は、杉山茂丸を「明治31年に第4代台湾総督に児玉源太郎が就任し、民政長官に後藤新平を就けると、杉山は両人に対して製糖業の振興による台湾経済の確立を献策し、自ら製糖会社の設立に携わった。また台湾銀行の創設や台湾縦断鉄道の建設にも関与した」と述べるが、これは皮相的にせよ、杉山と台湾総督府及び台湾産業の関係を示している。台湾における通貨発行権を有する台湾銀行と、台湾島最大のインフラたる台湾縦貫鉄道、さらに戦前の日本経済を支えた大日本製糖を始めとする製糖業は、すべて杉山が発案し推進したものであった。産業・経済に関する杉山の見識と実績は、どう見ても井上馨・渋沢栄一に劣らないが、そのことに従来の史家は全く触れてこなかった。その理由は、読者諸賢とこれから探っていくことにしよう。

 後藤と杉山の関係は、後藤の女婿・鶴見祐輔が「岳父と杉山は非常な親友であって、何十年となく交友した」と記した通り、極めて深かった。ドイツに留学してワンワールド哲学を体得してきた後藤の方向性は、高島鞆之助らワンワールド薩摩派や杉山のそれと極めて近いから、この3者は自然に共同歩調を取ったのである。後藤の信用を取り付けた商人は当然ながら大いに発展したが、その代表が金子直吉の鈴木商店と後藤勝造の「丸マ」後藤回漕店であった。嘉永元年(1848)生まれの後藤勝造は岩崎弥太郎に食い込み、回漕業として成功、神戸港で鈴木商店主の鈴木岩次郎らと並ぶ名士となった。旅館・ホテル業に進出した勝造は、たまたま宿泊客となった後藤新平に接近して、台湾での事業展開の基盤を固めるきっかけを掴む。JRの大きな駅に今も見かける構内レストラン食堂「日本食堂」も、新平の勧めで勝造が作った駅食堂から始まった。32年に食堂車営業を開業した山陽鉄道だがうまくいかず、30年頃に神戸市川崎町(後の郵便貯金センターの地)で開業した自由亭ホテルに食堂車の営業権を譲渡したのは34年で、自由亭ホテルは「みかどホテル」と改名したが、後に鈴木商店に建物を売却して廃業した。例の日本食堂は、昭和13年に「神戸みかど」を始め「上の精養軒」「福岡共進亭」など各地の列車食堂業者が共同で設立したものである。

 鈴木商店の大番頭・金子直吉は、神戸の豪商仲間の後藤勝造の紹介で後藤新平に接近したとされている(インターネット『月刊・きんもくせい』)が、これは表向きで、裏面では樟脳取引で知られた鈴木商店を総督府御用商人にすべく、ワンワールド薩摩派が周到に根回ししたと見るべきである。
薩摩派総長の高島鞆之肋の事業上のパーートナーであった吉薗ギンヅルは、ダミーの日高尚剛を通じ鈴木商店の経営陣に「手の者」を潜入させたと伝わるが、それは日高の母方の親類〔安達リュウー郎〕のことらしい。ともかく鈴木商店は御家はん(女主人のこと)ヨネを隠れ蓑にして、実質は薩摩派が支配していた会社なのである。

 明治30年に葉煙草専売法を公布、翌年に施行した政府が36年に「煙草専売制度理由及施行順序」を公表、翌年世上の猛反対を押し切って煙草専売方を施行した目的は、日露戦争の軍費に充てるためで、38年には台湾においても同法を施行した。専売法の施行後は、専売局が専ら製造販売を行い、民間業者の業務は輸出だけとなった。日露戦後にわが勢力圏となった満洲においても煙草需要は大きかったが、BAT(英米煙草トラスト社)の奉天工場新設により、内外業者による競争激化が予想されたので、専売局は国産煙草の輸出に関わる大小業者を糾合せしめ、外資に対抗する国策会社として「東亜煙草会社」の設立を促した。39年10月設立の東亜煙草社は、専売局から、官煙の輸出・移出の特許に加えて樺太全土の独占販売権を与えられて社長に佐々熊大郎が就任したが、この時の設立発起人の1人に、右の安達リュウ一郎がいるらしい。

 ★後藤新平も一目置いた 藤田謙一の辣腕ぶり


 その後、東亜煙草の株式を買い集めた鈴木商店は、大正2年12月24日の株主総会で、同店幹部の藤田謙一を取締役に送り込む。『弘前商工会議所』編集発行の『藤田謙一』によれば、藤田は豊臣方の武将明石掃部の末裔で、弘前藩士・明石栄吉の次男として明治6(1873)年に生まれ、5歳で藤田家に養子入りした。東奥義塾を中退して青森県庁の給仕となった藤田は、それも辞して24年に上京、明治法律専門学校(明治法律学校・明治大)に入学して同校創立者(正しくは関係者か)の法学博士・熊野敬三の書生となる。

 32年栃木県属に挙げられた藤田は、9月に大蔵省専売局属に転じ煙草専売制度を担当したので、蔵相(正しくは農商務相)曾根荒肋の知人たる後藤勝造と相識ったという(後藤勝造が、上に述べたように後藤新平に接近したのは、その後であろう)。折から葉煙草専売法公布の直後で、生産・製造・販売一貫の完全専売制の実施が迫る中、大小の煙草製造業者が乱立して過当競争に陥っており、天狗煙草で知られた業界トップの岩谷商会も経営危機に瀕していた。社主の岩谷松平は、後藤勝造が推薦した藤田に岩谷商会の一切を委ねる。34年6月に専売局を退職した藤田は、翌年岩谷商会の支配人に就き、会社組織に変更して自ら専務理事となる。BATに対抗して天狗煙草を売り込んだ藤田が大成功を収めたので、37年の専売制度の完全実施に際し、政府による岩谷商会の買収額は巨額になった。

 40年、藤田は再び後藤勝造に招かれ、今度は名古屋の豪商・小栗家の整理に当たる。42年5月に小栗系の東洋製塩の取締役に就任した藤田は、翌年同社を「台湾塩業」と改称し、建て直しに成功した。その手腕に驚いた金子直吉は、藤田を鈴木商店に招き、参謀として関東所在の傘下会社を任せた。今なら鈴木商店関東支部の関東東業部長に就任と言ったところである。

 これに先立ち前後して小栗家の整理に関わった金子と勝造はいずれも失敗し、勝造の依頼を受けた藤田が同社を見事に再生したわけだが、社名を「台湾塩業」と変えた処に台湾総督府の関与が窺われる。曾根荒助の知人とされる勝造も、大所高所から見れば金子と同じ位置で後藤新平の麾下にあったが、新平の背後に杉山茂丸がいた。
金子が藤田を鈴木商店に入れた経緯も、実は杉山が関与したのだろう。

 因みに、藤田謙一の子息がインターネットで語るには、「父は十六才の時、短刀一振りを手に上京し、桂太郎の家に厄介になった。桂家で忠勤を励むうちに岩谷天狗煙草の再建を命じられた」とあるが、藤田が16歳の21年には桂は陸軍次官で、書生も置いたであろうが、藤田が30歳で行った岩谷の再建とは時期が合わず、前掲『藤田謙一』にいう学歴・職歴とも両立しない。藤田を後藤勝造に紹介した農商務相・曾根荒助は長州派の領袖で、桂太郎とも杉山とも近かった。34年と言えば、杉山が桂・児玉と組んで、非戦派・伊藤博文を調略する秘密結社を作ったころで、杉山と桂が最も密接な時期である。桂と藤田の間に何らかの関係があっても不自然ではないが、謙一が子息に「桂太郎の書生云々」と語ったのは、出世譚につきものの誇張で、実は杉山が関係していたように思える。

 鈴木商店に入った藤田には、同店の死命を制する後藤新平さえ一目置いた。後に後藤新平四天王の1人と呼ばれた藤田は、もし後藤内閣が実現していたら大蔵大臣になった(前掲『藤田謙一』)と評されたほどで、金子の下風に立つ男では決してなかった。藤田はまた玄洋社の頭山満とも親交があったが、杉山の仲介によるのは自明であろう。そもそも薩摩派が裏から操っていた鈴木商店に、金子が藤田を招いたとは表向きで、真相は藤田の能力を買った誰かが、藤田の活動拠点として鈴木商店を提供したものではないか。その誰かが、在英ワンワールド直参の杉山なのか、それとも薩摩派総長の高島か、或いは東北キリシタンの棟梁・後藤新平なのか。それは目下のところ断定できないが、東京商工会議所の第5代会頭として日本商工会議所の創設に奔走し、自ら初代会頭に就いた藤田は、傍ら孫文ら亡命要人を匿い、またユダヤ満洲共和国の建国計画に参画したため、フリーメーソンの日本代表と噂された。いかにもと思うが、鈴木商店を足場に台湾総督府に食い込み、長州派を操縦した藤田の足跡は、玄洋社を看板にした杉山とまったく酷似している。思うに藤田は、鈴木商店に入社後幾許もなく杉山の代行役となり、対長州工作や財界工作を分掌したのではあるまいか。

 昭和2年に起きた金融恐慌の詳細に関する史書は、巷間に溢れているから、本稿で述べる必要はあるまい。

   続く。
 


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●疑史(第49回) 上原勇作(1)
 ●疑史(第49回) 上原勇作(1)  

 ワンワールド薩摩派の初代総長は多分吉井友実で、高島鞆之助が2代目を継いだとおぼしいが、3代目を継承したのは上原勇作であった。安政3年(1856)生まれの勇作は、高島より12歳の年下で、都城島津藩で家老格の龍岡資弦と同藩士・四位次兵衛の長女・タカとの次男に生まれた。明治元年に明道館訓導補に挙げられた勇作は、翌年には藩主島津久寛の学友として鹿児島に赴き、造士館に学ぶ。4年春、維新政府は薩長土三藩の士から御親兵を募るが、これに応じた実兄を追って上京した勇作は、麹町の陸軍少佐・野津道貫邸に落ち着く。そこには従兄弟の高島鞆之助の家族が同居していた。野津は天保12年生まれでこの時30歳、高島はその3歳年下だが、妹トメが野津の妻であるがら、義兄になる。戊辰で戦功のあった2人は御親兵に応募するため上京し、野津は4年7月の初任で陸軍少佐、翌5年に中佐、7年に大佐に昇る。ところが高島は、吉井・西郷・大久保の薩摩三傑が岩倉と謀って決定した宮中改革を実行するため、軍政の重職を棄てて敢えて宮内大丞となった吉井友実を補佐せよとの三傑の命で、同月宮中に入ることとなった。初任は侍従で、その官等は中佐に相当し、翌年には大佐級の侍従番長に昇った。初任の時から野津より一格上の待遇を受けた高島にも上には上で、大西郷の従兄弟の大山巌には及ばない。野津の1歳下の大山は、戊辰の偉功により明治2年に普仏戦争観戦のため欧州に差遣され、プロシア軍のパリ包囲の実状を観察して帰朝したが、4年7月の初任では大佐で兵部省権大丞に補され、翌月には29歳の若さで陸軍少将に昇進した。三傑の一角たる吉井が4年7月に宮内大丞、11月に宮内少補となったのに対して、兵部権大丞から少将に任じた大山の官等は、早くも吉井の塁を磨すに至ったのである。だが少将に任じた大山は直ぐに辞して再び渡欧し、仏語研修を名目とする私費留学なのに、わざわざパリを避け、3年間をジュネーブで過ごす。後年にはひたすら軍務に専心し政治に介入しなかったことで知られる大山だが、吉井の女婿ということからしても薩摩ワンワールドの主流だったことは当然で、その再渡仏は、将来の総長としての特訓を受けることにあったと観るべきであろう。

 明治5年の早春から勇作が寄留した野津邸には、野津・高島2組の夫妻のほか、高島と野津夫人トメの実母・高島貞子も同居し、薩摩から呼んだ下男・女中・書生を合わせて総勢18人が住んだ。『元帥上原勇作伝』の解説では、「勇作は予告もなく上京して兄を訪れたが、陸軍軍曹の官舎では同居もならず、同郷の実業家・柴田藤五郎の家に寄留すること1週間、その後やはり同郷人の斡旋により、野津の書生となった」と語る。その間の経緯も詳しく記すので、誰も疑わないのだろうが、勇作が野津邸の1書生として東京生活を始めたという記述は表向きで、下記の真相を隠蔽するためのものである。

 勇作の祖父・四位次兵衛の妻・有馬氏は、長女・タカを生んだ後に夭折したので、次兵衛は岩切家の女を後妻にする。ところが四位家に足入れ中に生まれたのが双子の女児だったため、「畜生腹」の誹りを受けた岩切氏は、姉娘のギンを抱いて入水した。妹娘・ツルは四位家に入らず母の実家の岩切家で暮らすことになり、姉の名も併せてギンヅルと称したと『周蔵手記』は伝える。ギンヅルの生年は、孫の吉薗周蔵が残した『吉薗周蔵手記』の昭和2年条に数えで87歳と記しているから、天保12年(1841)の筈である。しかし周蔵は、ギンヅルが旦那哲長の心をつなぎ止めるために6歳ほどサバを読んでいたと察しており、それが正しいならば実は天保6年(1835)ということになる。実母の妹が宮崎県西諸県郡小林村の土豪・吉薗吉佐に嫁入りする時、その連れ子とされたギンヅルは、普通なら吉佐・岩切氏夫妻の養女というべき関係にある。ところが戸籍では、ギンヅルは吉佐と岩切氏の子の萬助の妻のごとく記されている。これは萬助に子がなく、ギンヅルと堤哲長の間に生まれた林次郎を萬助の後継とした際に、林次郎を実子とし、ついでに母のギンヅルをあたかも萬助の妻のようにしたもので、何ともややこしいが、ギンヅルが勇作の叔母たる事実は動かない。

 養母が吉薗家の継嗣・萬助を産み、吉薗家に居辛くなったギンヅルは少女の身で単身上京し、京に数軒あった薩摩屋敷のどれかに岩切家の縁で住み込んだ。時期は1850年代と観てよいが、当時の薩摩藩は嘉永4年(1851)に島津斎彬が藩主に就き、後の薩摩三傑を登用して藩政改革に取り組んでいた。安政5年(1858)当時、大坂倉屋敷の留守居役だった吉井は、大坂に訪ねてきた西郷に大老・井伊直弼の日米条約無断調印の一件を伝え、国事のため連れ立って京都へ向かうが、その最中に斎彬の急死に遭い、藩政改革と勤皇運動は頓挫した。西郷の同志として倒幕運動を進めていた清水寺の月照上人が幕吏の追及に逢って危うくなる中、月照を九州に落とすため、威しい監視の目を潜って秘かに渡船を手配したのは大坂倉屋敷の留守居役吉井であった。ギンヅルが京の薩摩屋敷の女中頭に就いたのは正にその頃で、京大坂で薩摩藩の支配人だった吉井と極めて咤懇だったことは疑えない。

 やがてギンヅルは、家格が名家で家禄が蔵米30石3人扶持の公卿・堤哲長と知り合ってその妾となり、薩摩屋敷を出て市中に1軒を構えた。文政10年生まれで、薩摩三傑と、2歳しか違わない哲長から医学・薬学の手ほどきを受けたギンヅルは、製薬販売の両面で意外な商才を発揮する。哲長の医薬知識は、もと堤家で女中をしていた渡辺ウメノから伝授されたものであった。ウメノは宮中に出入りしていた町医師・渡辺氏の娘で、母は渡米イスラエル族の末裔でアヤタチ家を称する丹波・穴太村の上田家の出で、皇道大本の聖師・出口王仁三郎こと上田鬼三郎の実父たる上田吉松とはいとこの関係で上田家伝の医術に詳しかったが、その特徴はケシを用いる処にあり、中でも「一粒金丹」は万能薬であった。

 ところが同薬は、薩摩の伝統的な民間薬「浅山丸」とほとんど同じ内容であった。思うにこれは偶然でなく、貿易を通じて室町時代に南蛮人が薩摩に、紅毛人が丹波に、それぞれもたらしたもので、遡れば古代オリエントに発祥した多神教イスラエル族に由来するものと思われる。

 哲長の妾となったギンヅルは、堤家の生活を支えるため、都城・島津家との共同事業として浅山丸の製造販売を行い、そのために京の薩摩屋敷に相変わらず出入りしていた。幕末、皇居守衛のために薩摩から若い藩士が続々と出京し薩摩屋敷に住み込むと、ギンヅルは彼らと交誼を結ぶことになるが、中でも親炙したのが川上操六・高島鞆之助・野津道貫・山本権兵衛らで、彼らとの親交は後に貴重な無形財産となった。父の四位次兵衛から孫の勇作を頼まれたギンヅルは、勇作の資質を見抜き、その大成を期して東京遊学を勧め、勇作の父・龍岡資弦の反対を押し切って実行に移させた。その傍ら薩摩藩士の歴々に勇作応援団を結成せしめたが、中でも団長格となった高島に勇作の身柄を預けたのが右の野津邸への寄留となったわけで、勇作応援団員への報償には、製薬事業による収益が充てられたらしい。右の真相を世間に隠すため、勇作自身は固よりギンヅルも勇作応援団も、『元帥上原勇作伝』のごとき虚報を流したわけである。そこまでして秘密を守ろうとした理由は、ワンワールド薩摩派が秘密結社だったことに尽きるのであろう。

 明治5年6月、勇作は南校(いわゆる大学南校)に入り官費生として仏語を学ぶ。創設に尽力した大隈重信が、ワンーワルドの上司フルベッキ宣教師を教頭として送り込んだ南校は、ワンワールド人材の養成を目的としており、生徒には寮生活を義務付けていたが、例外的に野津邸から通学することを許された勇作は、校外でフランス士官から個人教授を受け、兵部省出仕の洋学者・武田成章の私塾にも通ってフランス語を学んだ。これらを『元帥上原勇作伝』はすべて野津少佐の厚意に帰すが、実は高島を通じたギンヅルの差し金であった。

 五稜郭の設計者として知られる幕臣の武田は4年から兵部省に出仕し、7年3月に工兵大佐に任じ兵学大教授に挙げられ、幼年学校が8年5月2日に兵学寮から独立して陸軍幼年学校となるや、その校長を兼ねた。勇作は、陸軍幼年学校の新設を機に南校からの転校を図り、提出した願書は入学年齢超過のために一旦は拒絶されたが、野津が年齢を偽って無理やり受験させ、6月7日に無事入学できた。伝記にはこのように記すが、強引な転校は、野津もさることながら高島とギンヅルの意向が強かった筈である。
7年5月に侍従番長から陸軍大佐に転じた高島が、6年10月に兵学寮から独立した下士官養成学校の陸軍教導団長に就いたのは8年の2月であった。その3ヵ月後に陸軍幼年学校長に就いた武田大佐が、陸軍教育部門で同僚の高島の要請を断る筈がなく、しかも武田は己の私塾に通っていた勇作の実力を知悉していたから、年齢詐称を不問にして入学させ、おまけにフランス語の実力に相応して第3学年に転入させので、転校による年季の遅れもなくなった。実に至れり尽くせりである。

 幼年学校から陸軍士官学校に進んだ勇作が、工兵科を選んで首席で卒業し、フランス留学を命じられた詳細は8月号の本稿に述べた。明治14年7月、グルノーブルエ兵第四連隊付となった上原少尉は、翌年フォンテンブロー砲工専門学校に入学、中尉に進級し、明治17年には大山陸軍卿の欧州巡視に随行してツール要塞を見学、翌年大尉に進級して帰朝した。この間、詳しい事情は未詳だが、アルザス地方定住のユダヤ人ポンピドー氏と識り、一族の女性と親しくなったものと思われる(その名を、前月号ではイザベルと記したのはうっかりミスで、慥かジルベールと聞いた事を思い出したので、ここに訂正します)。

 帰朝後の上原は、陸軍士官学教官から臨時砲台建築部事務官となり、国内各地で砲台建設のための調査に当たり、明治22年3月、臨時砲台建築部長・小沢武雄中将の欧州派遣に随行を命じられた。東欧・ロシアから北欧諸国・ドイツ・オランダ・ベルギーを巡り、7月25日にパリに到着した上原は、イギリス・南欧にも足を延ばした外はほとんどフランスで過ごし、12月15日に帰朝の途に上った。後の昭和4年春、フランスで吉薗周蔵・藤田嗣治と逢った時、甘粕正彦は「アルザスで上原閣下の子供と思われる混血女性に逢った。歳は少なくとも35歳位で、母は昨年亡くなりましたと上原に伝えてほしい」と託かった、と語った。小沢中将に随行中に出来たなら、昭和4年には39歳になる勘定だから、その時の子ではないかと思う。          (続)

 



●蘇れファシズム
 ●蘇れファシズム 『月刊日本』10月号 

 第1回 ファシズムの悪魔祓い   


 新自由王義の進行とともに日本が格差社会・貧困社会化し、共同体意識が崩壊していく中、福田総理が政権を投げ出した。20世紀初頭の世界を髣髴とさせる混迷である。かつては、社会不安への反動から、強力なファショ(結束)思想が生まれてきたことを想起すれば、日本に、そして世界に今後、ファショ的思想が現れる可能性は否定できない。
 そこで、ファシズムの産みの親・ムッソリーニ研究の泰斗である★ロマノ・ヴルピッタ氏と起訴休職外務事務官・作家の佐藤優氏にファシズムの可能性と限界について語っていただいた。

 ★京都産業大、ロマノ・ヴルピッタ教授のHP
  http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/%7Ervulp/ の「自己紹介」によれば、・・

1939年にイタリアのローマで生まれました。
中学生ころから日本のことに興味を覚え、趣味で日本語をかじり、日本の学生と文通したりもしました。
(そのうちの何人かとは今でも交流があります)
この後ローマ大学で法律を学びながらも日本の文学に熱中し、卒業後日本への留学を実現させ、東大の文学部で古典文学を勉強しまました。
帰国の後、イタリア外務省に入省し、韓国と日本で勤務しました。
また、1972年から3年間、ナポリ東洋学院大学で現代日本文学を教えました。
1975年からEC(ヨーロッパ共同体・現EU/ヨーロッパ連合)の駐日次席代表として日本に戻り、 3年間の任期を終えて、1978年に京都産業大学で教えるようになりました。
今関心があるのは、戦前の文学界を一新した日本浪曼派のリーダー保田與重郎についてです。月一回、(サボる時もありますが)生前保田先生が創立した風日の歌の会に出席しますが、歌をほとんど出さず、聞くだけです。あと一つの関心は、地酒と郷土料理です。また、イタリア料理を作るのも楽しみです。かじき鮪のビッツァ風ソースのフェットゥチーネは得意ですよ。

日本語での著書は
1. 不敗の条件 - 保田與重郎と世界の思潮
中央公論社 、1995年
2. ムッソリーニ - 一イタリア人の物語
中央公論新社、2000年
  ・・・ということだが、5歳の時=1944年に晩年のムッソリーニに会っているそうで、そのときの写真を部屋に飾っているらしい。

 ★今こそファシズムが必要である


編集部: ヴルピッタさんは著書『ムッソリー二―イタリア人の物語』において、日本人はヒトラーについては随分詳しいが、それに比べてムッソリーニについては、せいぜいチャップリンの映画『独裁者』に出てくる、太っちょで陽気な独裁者ナパロニのイメージほどしか持っていないと指摘されています。
 ところが、実はムッソリーニはマルクスやニーチェに造詣が深く、英独仏語を操る教養人であり、乗馬とヴァイオリンを嗜む文化人でもあり、ナパロニというよりもプラトンが『国家』で理想とした哲人皇帝の面持ちであったと書かれています。
 今日はムッソリーニが生み出した知的政治運動としてのイタリア・ファシズムという視点から、現下の日本国家は危機的状況であるという認識を持たれる佐藤さんとお話しをしていただきたいと思います。

佐藤: まず私の情勢認識を述べておきますと、今の日本においては、ファシズムは可能であるかというレベルは既に超えていて、どのようなファシズムを選択すべきかという段階に来ていると見ています。
 この事は後でヴルピッタさんと議論するとして、まず、ファシズムという言葉の悪魔祓いをしておく必要があります。日本ではファシズムという言葉自体が、マイナスの評価を帯びてしまっている。ファシズムという言葉を出した時点で、議論の対象にもならないという風潮がある。しかし、きちんとファシズムというものを思想的レベルで捕えて(ママ)おかないと、かえってまずいことが起きる可能性があるのです。
 それは、ファシズムが、形を変えて忍び込んでくることです。例えば、今は血液型占いが非常に盛んです。これは、A型の人間はこのような行動をとる、B型はいい加減で信頼ならない、というように、血が人間の性質・行動を支配するという思想です。ここから、ナチズムの血統思想まではあと一歩なのです。このような無自覚な血統思想の方が、街宣車に乗って民族の団結を叫んでいる人たちよりも遥かに危険なのです。
 純粋な資本主義(新自由主義)が暴走し、共産主義が破産した現状において、歴史は必ず繰り返します。20世紀においては資本主義も共産主義も乗り越えるべき思想として、ファシズムが登場しました。おそらく姿を変えて、再びファシズムが現れることになるでしょう。その時に、20世紀ファシズムが犯した過ちを繰り返さないためにも、ファシズムについて正面から取り組み、整理しておくことは大切です。
 「ファシズム」という言葉にアレルギーを持って、回避しているだけでは、却って事態は悪化します。

ヴルピッタ: 仰るとおりです。ファショとはイタリア語で「一つに束ねること」です。戦前の日本では「結束主義」と訳されたこともあったようです。しかし、現代においては、「ファシズム」というものが示すものは論者によって多様ですし、さらに、「絶対悪」のようなイメージが定着している。
 ですから、この対談ではまずファシズムとは何か、というところをまず明らかにする必要があります。
 ファシズムは、極めて狭い意味で言えば、ムッソリーニのイタリアで発生した歴史的現象です。語源的に言えば「束ねること」ですから、国民の団結を促す政治体制はファシズムと言えます。日常用語では「検察ファショ」「嫌煙ファショ」というように、「弾圧・強権主義」の意味で用いられますが、ここでは日常の用語法の意味は捨てる必要があります。政治運動としてのファシズムの本質が見えなくなってしまうからです。
 ムッソリーニは「ファシズムは私がイタリア人の心の底から引き出してきたものに過ぎない」と断言したことがある。また、ファシズム運動を始めた当初、1920年代には「ファシズムは輸出品たり得ない」と、ファシズムという運動が20世紀前半というイタリアの歴史に固有の現象とみなし、この運動を他国に持ち出すことはできないとしていました。
 ところが10年後の30年代にはこの言葉を否定して、ヨーロッパにファシズムが拡大するだろう、と述べています。しかし、この二つの言葉は一見矛盾しているようで矛盾していないと考えます。
 イタリア型ファシズムはイタリア人の深層心理から出てきたものですから、ドイツやフランスには馴染まない。しかし、ドイツやフランスにおいては、ドイツ人、フランス人の深層心理から引き出されたドイツ型、フランス型のファシズムがありうるということです。

佐藤: 事実、ノルウェイではキスリング・ファシズム政権が、ポーランドにはピウスツキ・ファシズム政権があり、ルーマニアには鉄衛団によるファシズム運動がありました。

ヴルピッタ: ですから、まずはファシズムを「結束主義」と理解して、イタリア・ファシズムをベースに話を進めていくのはどうでしょうか。

 ★我を考えることは、我々を考えることである! 


佐藤: 賛成です。丸山真男などは、「ファシズムの定義は難しい」と言いながら、あれはファシズムだ、こいつはファシストだ、とありとあらゆる悪いものにはファシズムというレッテル貼りをしており、それが日本人のファシズム理解に悪影響を与えています。
 確かにファシズムの周りには、ファシズムと混同して語られるいくつかの概念があります。民族主義、純血主義、ナショナリズム、全体主義、ナチズム、独裁などがそうでしょう。ですから、ここら辺を整理しておきましょう。
 まず、ファシズムにとって欠くべからざるものとして民族という概念がありますが、このためにナショナリズムと混同されやすい。ファシズムにおいては、そもそも民族とは何なのでしょうか。

ヴルピッタ: イタリア・ファシズムの理論家ジェンティーレの議論を援用すると、「イタリア人という意識を持つのがイタリア人」となります。
 ここで、共同体という言葉と社会という言葉を区別しておく必要があります。社会というものが偶然に集まった人間たちが構築していくものであるのに対し、共同体とは、連帯性・諸属性の意識を有する人々の集団です。学校に入れば偶然によってクラスメートができますが、それは社会です。社会から共同体が生まれる可能性はありますが、本質的には個の集積ですから、核家族がさらに進んだ、「核」としての個人しか存在しないようなものです。

佐藤: アトム化したものが社会であり、それに対して、例えば 『太平記』を読むという目的で集まった意識的集団は、共同体ということですね。これは大きな発見です。
 すると私の理解では、社会というものがアトム的世界であり、共同体というものはライプニッツのモナド(単子)的世界ということになります。アトムとモナドは似たようなイメージで捉えられますが、アトム同士は相互に結びつくことはないのに対し、モナドは例えば神という超越的存在を介して交流可能です。
 アトム的世界がビリヤードの玉が散らばっている状態であるとすれば、モナド的世界は、糸に結ばれた沢山の風船が「超越的存在」という手に握られて、束ねられている状態ということです。
 その意味では、今の日本は「社会化」していると言えるのでしょう。

ヴルピッタ: そうです。ジェンティーレに戻りますと、意識的集団である共同体が国家を志向したとき、それは民族となるのです。「イタリア人である」という意識を持った人々が国家を志向した時、イタリア民族が生まれたと言えます。そこが、例えばアメリカとの違いです。移民の国であるアメリカは、「アメリカ人であるという意識を持つのがアメリカ人」と言えますが、アメリカという国家を志向した共同体の集まりではない。だからアメリカ民族というものは存在しないのです。
 共同体が国家を志向するのではなく、国家が先行して存在し、その国家が民族を形成しようとした時、それは「ナショナリズム」と呼ばれるのです。共同体の意識は国家の前提ではなく、権力によって人工的に形成されたものとなる。
 ジェンティーレはバドリオ・クーデター(編集部注‥元帥バドリオによる1943年のムッソリーニ失脚事件。これによってイタリアの無条件降伏がもたらされた)後に、自分が夢見たイタリアが崩壊しつつある時点に、ファシズムの思想を書き残しています。そこには「我を考えることは我々を考えることだ」とあります。「我」の中には「我々」という共同体、あるいは全体というものが内包されているのです。これが国家が先行するナショナリズムとの違いです。

佐藤: 全体主義という言葉も誤解を生みやすいものです。これはもともとは哲学用語で、様々な差異を含む「全体」をあるがままに引き受けるという思想です。
 私はよく動物を例に出すのですが、「動物」という「全体」はあるが、「動物」という実在は存在しません。象やトラや犬や猫や猿といった、個別の種の集合が「動物」という全体を形成します。次に、「描」という「全体」はあるが、「猫」という実在はありません。三毛猫やロシアンブルーやスコテイッシュフォールド、果てには「雑種」という全体から成っており、「三毛猫」という「全体」は加藤さんの家のタマやら安田さんの家のブウチャンという個別の三毛猫から成っています。
 このように、様々な差異を包括していくのが全体主義の語義であり、複数主義、多元主義と言っても良いものです。これに対して、差異を圧殺していくのは普遍主義や単一主義と呼ぶのです。
 「我」の中に「我々」がある、これこそ全体主義であり、フッサールの「間主観性」(編集部注:世界認識は個人の主観によってではなく、他者との共同体の構成において、複数の主観の共同化において為されるとした)が近いと言えるでしょう。
 事実、ファシズムのイデオローグにヴィルフレート・パレートという厚生経済学者がいます。厚生経済学は社会の富の偏在を是正し、福利の適疋配分を目指す学問です。まさに「我が同胞を見捨ててはならない」という意識が全体主義の思想なのです。
 

 ★民族は不断に生成するものである


編集部: 共同体が国家を志向する時に民族となるのであれば、民族たるような共同体には何が不可欠なのでしょうか。

ヴルピッタ: まず真っ先に挙げなければならないのが、神話です。国民意識の観念的な基盤となる、共通の神話です。
 イタリアの場合、ローマの神話。ファシズムもまた政治的神話で、その特徽のひとつは、英雄性、高い道徳に基づく英雄的犠牲と言っても良い。ファシズムは、死の文化とも言えます。黒シャツと呼ばれるイタリア・ファシスト党の軍団は行進のときに、戦死者の数を掲げていました。共有する思想、あるいは共同体のために命を捧げた人々のことを忘れずに歴史的連続意識を持つこと、ここから高い倫理性が生まれてくるのです。
 事実、ムッソリーニは民衆の心の底に社会正義への渇望があることを見抜いたからこそ、ファシズムを生み出すことができたのです。

佐藤: 死者との連帯ですね。我々日本人には靖国神社がありますが、英霊との歴史的連続性を意識することは、同時に畏怖の感覚、超越的なものへの畏れを意識することでもあります。
 そしてこの畏怖の感覚が我々に、アトム的な個として無制限な自由を満喫するのではなく、共同体の一員としての倫理を意識させることになります。

ヴルピッタ: ファシズムに限らず、国家というのは高い倫理性を持っていなければなりません。極限状態においては、国家は国民に死すら命じなければなりません。その時に国家が高い道徳性がないのであれば、国民はついてこないのです。「身捨つるほどの祖国はありや」になってしまいます。
 愛国心は愛されるに値する国において生まれるのです。戦争という極限状態までいかずとも国家に金をとられてたまるか、と脱税が横行するのは個人よりも先に国家が道徳を失っているのです。
 神話や民族という共同体意識は決して抽象的なものではありません。それは歴史的連続性への意識によって形成されるものであり、死者との連帯という意識において維持されるものです。

佐藤: イタリア民族というものは、いわゆる血統の意味では存在しませんね。

ヴルピッタ: そうです。イタリアは西ローマ帝国が滅亡した西暦476年から1861年まで分裂していたのです。しかし、ローマ神話というもの自体は一貫して流れていた。だからムッソリーニはイタリア民族という意識の統一のために、アウグストゥス帝によるローマ帝国成立にまで遡り、イタリア人の深層心理からローマ帝国の継承者としてのイタリアという意識を汲み出したのです。
 イタリア人は雑種ではありますが、文化的、歴史的生成物としてイタリア人というものは存在すると言えます。ただし、それは放っておいても存在するような、静的な存在ではなく、常に歴史・文化的意識を更新することによって日々、時々刻々生み出され、生成する動的存在です。

佐藤: そこに、ドイツ・ナチズムとの大きな違いがあります。ナチズムは神話と歴史というよりも、血と大地という、より生物学的、本能的要素に訴えるタイプです。しかも、その人種主義は民族という枠組みを越える可能性を持っている。
 ナチスはノルウェイ人もアーリア人種として分類していました。これは、ドイツ民族を超えて、アーリア人種として統一していく意図ですから、ナチズムは「超える」という意味で超民族主義と言えるでしょう。
 パレートはこのように述べています。「民族主義とファシズムの相違は、また民族の概念において現れている。民族主義者は、民族を一つの精神の力として理解しないで、自然所与、自然事実として成立したものとして理解する。しかるに、ファシズムは、民族を精神の力と解するがゆえに、それは常に発展するものであり、常に生成するものである。その意味において、自然事実でも、自然所与でもない。そこに民族主義者とファシストとの見解の相違がある」と。
 つまり、不断の意志の力がないと民族は保てないということです。共同体意識を持つ集団が民族となるのですから、そこには反ユダヤ主義に陥る回路はないのです。そこがナチスムとの大きな違いでしょう。
 

 ★ファシズムとは生の哲学である 


編集部: ファシズムが神話と文化を共有する共同体としての民族を、様々な差異を内包しつつも一つにまとめていく、という思想であるとまとめるとしまして、政治運動としてのファシズムについて話を伺いたいのですが。

ヴルピッタ: ファシズムは死者との連帯や英雄性、英雄的犠牲、歴史意識をその基礎に有するがために、超越的感覚が強調されすぎる可能性があります。そしてその超越的感覚は容易に熱狂に絡め取られがちです。
 20世紀前半のこの反省から、20世紀後半には、国家は逆に超越性を放棄し、一種の社会・経済の管理機構のようになりました。その結果、愛国心や民族的高揚感はスポーツの世界でだけ発揮されるようになった。

佐藤: しかし、今回の北京オリンピックは一つの転機となったかもしれませんよ。今回は、各競技と同じくらいウイグル、チベットに注目が集まったし、北京では「平和の祭典」をやっているのに、グルジアでは「血のオリンピック」が開かれてしまった。スポーツと政治がリンクしたのであり、スポーツに押し込められていた愛国心や排外主義という意味でのナショナリズムが政治へ波及する回路が開かれたと言えます。
 日本では、小泉首相時代がファシズムであるという捕らえ方がされていますが、あれはファシズムではありません。なぜなら、小泉政権が行ったのは弱者切り捨てであり、富の再分配はなかったからです。ファシズムで最も大事な「我が同胞」「我が共同体」という意識が欠如しているのです。

ヴルピッタ: ムッソリー二時代にあったコンセンサスの形成は、洗脳として批判されているが、実際、洗脳とは、本質的にファシズムではないのです。ファシズムは受動的な運動ではありません。それは能動的なものであり、国民に政治参加を求めるものです。
 政治参加とは、ただ投票に行くことではありません。やがて死すべき有限の存在である一人の個人が、その生の意味づけを探る営為の中から、真の政治参加は生まれるのです。

編集部: ムッソリーニは『全体の力』の中で、「ファシズムは、時間および空間の制限から自由に開放された生活を望む。すなわち、個人が己を克服し、我欲を放棄し、時には死そのものさえ辞せざることによって、人として存在するところの純粋に精神的存在を成し遂げんとする思想である」と述べています。
 さらに『ファシズモの原理』においては、「生か死かいずれかという極限状態においてのみ人間は自己自身に直面する」と述べています。

ヴルピッタ: そして、「かくしてファシスタは生命を是認し、これを愛し、自殺を無視し、これを卑しいと思う。生活を義務、向上、征服として理解する。その生命たるや高く、充実したものでなくてはならない。自己のために、だが特に、近いあるいは遠い、現在そして未来の他人のために生きなければならない」という生の哲学に繋がっていくのです。

佐藤: ムッソリーニは「国家は現在であるばかりでなく、過去でもあり、また未来でもある」とも言っていますが、これは、我が国で言えば「永遠の今」や「中今の思想」に近いものです。
 過去や未来というものは、目の前にある花や果物のように、手で触れたり匂いを嗅ぐことはできないものです。それらは、我々の意識が生み出す概念です。我々は過去や未来というものを意識しますが、我々には、ただ「現在」しかありません。今ここに在る我々が過去や未来を認識するということは、その認識によって過去も未来も変化しうるということです。まさに、「現在」の中に過去も未来も詰まっているのです。それは過去と未来に対して、現在ある我々が責任を待つということでもあります。
 ただ、ファシズムにおける政治参加というのは、政治システムとして未解決な部分です。
 私は今、あるところで武市健人という哲学者が昭和18年、戦時中に出版した『歴史存在論の研究』という哲学書の読み合わせを行っています。これは、時局の厳しい中、ぎりぎりの思想的戦いをした書物なのです。この本の隠れたメッセージは、やがて戦地へ赴き、おそらく死ぬであろう学生たちに対して「自分が見出した生の意味に従って死ぬのならいいが、国家が用意したお仕着せの物語で死ぬんじゃない」というものなのです。
 死という極限状態において、確かに人は自己と直面します。自分という存在が何者であるのか、自己意識を悟らされる試練が死です。これを哲学では「存在の開示」と呼びますが、それが個々人の共同体意識から発生した自己理解であればいいのですが、そこに「上からの国家」が土足で介入するということがおきやすいのです。

ヴルピッタ: 確かに、20世紀ファシズムは政治参加のあり方を未解決なまま残してしまいました。しかし、それは民主主義が不完全であるのと同じ位相の問題です。民主主義は最終的には多数決の原理によって決しますが、しかし、それでは少数意見が反映されないということになります。それでは民意を汲み上げたことにはなりません。
 民意の反映という技術的な面に関して言えば、少数意見にも配慮して数の力で押し切るようなことをしない、かつての日本政治のあり方は、言葉の正しい意味において全体主義であり、一つの解決策だったのかもしれません。
 ファシズム的政治の決定とは、抑圧でも数の暴力でもなく、参加者のコンセンサス作りなのです。

佐藤: 私の見方では、戦前よりも70年金共闘のころが、日本が一番ファシズムに近づいたのです。全共闘では、決議をするときには拍手と喝采で「異議なし!」とやって、それが決定となっていく。それは多数決の拒否であり、コンセンサスによる決定です。
 ただし、全共闘には熱狂と暴力性という、ファシズムの暗い一面も顔を覗かせている。そういう意味で、コンセンサス作りという点においては、ハーバーマスの「対話的理性」「公共圈の創出」が実はファシズムと親和性が高いのかもしれません。
 

 ★ファシズムが見た夢
 

編集部: 具体的に、イタリア・ファシズムはどのような政治を目指したのでしょうか。

ヴルピッタ: 簡潔に言うと、経済に対する政治の優越です。当時のイタリアでは戦後の経済危機と資本主義の先鋭化によって、著しい富の不均衡が生じていました。特に、農村部と都市部との、いわゆる地方格差が大きくなっていた。経済を優先させ、資本主義を放置すると当然そうなるのです。そこで、ファシズムにおいては国家が経済に介入するのです。
 ムッソリーニは1929年の大恐慌を、従来の資本主義経済の破綻として見ました。彼は新しい社会体制に相応しい解決法を追求しなければならないとの考えから、ファシズムを資本主義と社会主義を一挙に否定する「第三の道」として主張したのです。そして、1933年には産業復興公社を設立するのですが、これは市場経済体制に国家が本格的に介入した世界初の実験で、第二次大戦後、多くの国のモデルとなりました。
 戦後、西ヨーロッパの特徴となった混合経済体制を始めて導入したのは、当時のイタリアだったのです。実際、1930年代後半は、イタリアはソ連の次に最も大きな国営部門を有する国でした。このように、社会的公正さを優先させたのです。

佐藤: 先ほども名前が出たパレートですが、経済学では「パレート最適」という理論で有名です。簡単に言うと「有限である資源=財の効用を最大化」することです。これは、資本主義が暴走したり、いわゆる「市場の失敗」状態になり、格差社会が進行した場合、国家が介入すべきであるという発想につながるのです。
 これは今の日本とも重ね合わせて考えるべきことです。地方格差の是正には、管理経済が必ず必要になってくるのですから。私が最初に「日本は既に、どのようなファシズムを選択するのかという段階に来ている」と言ったのはそういうことです。
 共産主義も無効である以上、管理経済はファシズムにおいてのみ可能であるからです。資本主義が利潤の追求の原理であるのに対し、ファシズムは生産と分配の原理であると言えるでしょう。そして、現下の日本に欠けているのは、まさにこの生産と分配という思想なのです。

 第1回 ファシズムの悪魔祓い  <了>  


 ★第2回以後の対談は『月刊日本』でどうぞ。

  発行:K&Kプレス TEL:03・5211・0096。 

  ●『国家論』(NHKブックス 2007年12月)のなかで、 佐藤優はこう述べています。因みにここ第3章では、佐藤が柄谷の『世界共和国へ』を「読み解い」ています。

 第3章 国家 
 5 ファシズムとボナパルティズム  


 ★小泉現象をボナパルティズムで読み解く

 一方に、現実の経済的階級の多様な分節化があり、他方に、代表する者たちの言説の多様な分節化がある。それらはどう関係しているのでしょうか。マルクスの考えでは、代表する者(言説)と代表される者(経済的諸階級)との間には、必然的なつながりがありえない。そこにこそ、近代国家を特徴づける、普通選挙による代表制(議会)の特質があるのです。だからこそ、諸階級が自分たちの本来の代表に背を向け、ボナパルトに彼らの代表を見いだすということがありえた。(『世界共和国へ』 柄谷行人 岩波新書、126~127頁)

 ここは、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター』に関連する箇所です。フランスの第二共和制という、当時においては最も民主的な社会で、社会的に弱い立場にいる分割地農民に選挙権を与えたところ、その結果、政治的な実績は何もない、自称ナポレオンの甥という男が圧倒的な支持を得てフランスの大統領になりました。男はその後、憲法を改正して議会を解散して皇帝ナポレオン三世になってしまう。なぜ、このようなことが起こったのか。なぜ、民主主義は自らの首を絞めるような制度になってしまったのか。

 これに対してマルクスは、代表されるものと代表するものの間の合理的な連関は、実はいつでも簡単に崩せると論じています。人間は表象能力をもつ。そのため、自分の真の利害を代表する人がいない場合、適当な人に過剰な意味を読み込んでしまい、あたかも自分の代表であるかのように表象してしまう。ここに、代議制のトリックがあると見るわけです。
 それと同時に、人間というのは嫌な状況にいつまでも耐えることができません。いつまでも恐怖が続くよりは、どんなに悲惨な結果を迎えてもいいから、すぐに終わってほしいと願う。こういう趣旨のことが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター』に書いてあります。自らの代表も存在しないような曖昧かつ混乱した状況は、いい加減にしてほしいと思っているところに、代表を装った人物が、「力によって皆の希望を実現します」と主張する。そういうものが求心力をもってしまうわけです。

 2001年の小泉純一郎・田中眞紀子現象は、そのままボナパルティズムの図式で読み解けます。自民党も民主党も、全体の代表を標榜しているものの、失速しているように見える。共産党や公明党は全体ならぬ「部分の代表」で、抵抗感がある。圧倒的大多数のサラリーパーソンや家庭の主婦には、投票する先がない。そのときに小泉元総理なり田中元外相なりが、「改革をします、今の自民党をぶっ壊します、国民の目線に立ちます」と言うと、何かやってくれるのではないかと期待してしまう。実績や政治基盤、それから公約-そもそも公約と呼べるような公約があったのかは疑問ですが-を見ると、われわれの希望を実現してくれるような気がしてくる。

 本来、公共圈ではそういうことを十分に吟味して、そのうえで選挙に行かなければいけません。ところがそういうことを一切捨象して、イメージによって選んでしまったわけです。その結果が、現在のこの閉塞状況であり、格差社会なのです。ところが人間というのは、何か失敗をすると、そ
れを認識したくないという機制が働く。そうすると、見たくないものは見ないという1種のアパシーが起きてくる。これは、ボナパルティズムがもたらした典型的な状況です。

★ボナパルティズムとファシズムの違い

 では、なぜ私はファシズムと言わないで、ボナパルティズムと言うのでしょうか。ファシズムにはもうひとつ、別の要素が加わるからです。ファシズムはファッショというかたちで、国民を束ねないといけない。他方、その場限りの選挙で支持を得ればいいという発想が、ボナパルティズムです。ボナパルティズムはあくまでも選出されるところまでの技法です。
 ちなみにボナパルティズムになると、必ず官僚の力が強まります。というのは、そこで選ばれた指導者は当然、全知全能ではないからです。実際の政策執行は、圧倒的支持を得て選ばれた指導者が官僚や専門家に委ねるわけです。たとえば日本の場合は、霞ケ関官僚か、小泉元総理が恣意的に選んだ竹中平蔵という大学教授でした。彼は最初、選挙の洗礼を受けていませんでした。後に受けたといっても参議院の比例代表区ですから、国民の直接選挙の洗礼を受けていると言えるかどうか、きわめて微妙です。あるいは通産官僚出身の川口順子元外相です。このように、外交や経済政策の重要なポストを官僚に委ねたのが小泉政治の特徴と言えるでしょう。

 しかし「特徴」とはいえ、これはボナパルティズムの教科書どおりのことをやっているだけです。これに対してファシズムの場合、官僚制度が整うと、社会的に恵まれない層、社会的に弱い層を自分たちの共同体に属しているという理由で、一応は救済する。そのときに、内と外を分ける。民族排外主義を用いるのです。小泉政権は格差社会を作るだけで、結局は「社会的弱者に対する優しさ」をもっていなかった。それゆえに逆説的なのですが、われわれはファシズムに陥るところから逃れられたということです。別の言い方をすれば、ファシズムにいたるレベルですらなかったということです。

★ファシズムの知力

 ファシズムを考察するうえでもうひとつ重要な要素は、知力です。新自由主義はまったく知的能力がなくても推進可能です。どうしてかというと、前述したとおり、資本の自由な動きの障害となるものを、除去していけばいいだけの話だからです。規制を緩和するだけですから、そこに積極的な政策と言えるものは何もありません。ファシズムの場合はイメージ操作を通して、排外主義を行わなければならないので、ある程度の知力が必要です。

 広義のファシズムにナチズムを入れるとして、ナチズムの場合には、アルフレット・ローゼンベルクの『二十世紀の神話』やR・W・ダレエの『血と土』のような、排外主義的言説を作った。イタリアン・ファシズムの場合、ムッソリーニ自身がジョルジュ・ソレルなどのサンディカリスムの影響を受けているほか、ローザンヌ学派のパレート厚生経済学の考え方なども組み込まれている。知的な操作ということを考えた場合、小泉改革などよりずっと知的です。

 『世界共和国へ』では、〈ボナパルトはあらゆる階級に対して家父長的な役を演じたいと思う。しかし、彼は、他の階級から取ってこないことには、どの階級にも何もやれない〉という、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18曰のクーデター』の1節が引用されています(128頁)。これは当然のことです。ボナパルトあるいは官僚は自身では何も生産しないので、誰かに何かを贈与するときには、どこかからとってこないといけない。社会民主主義の場合は簡単なことです。戦後曰本の政治システムでも、高度の累進課税制で金持ちから取り立てたものを、社会的に恵まれない人のところに再分配して、1部を政治家が抜くわけです。それに対してボナパルティズムでは、どこから奪いどこへ与えるかがよく分からない。そのときの状況によって、「ここに今度は与えてやろう」「こいつらがちょっとうるさくなってきた。今度は収奪してやろう」。あるときは与え、あるときは奪う。それを繰り返すだけです。

 



●「民主主義」と選挙
 ●「民主主義」と選挙 について、考えてみる。 

 木田元『反哲学入門』の1節から。

 第2章 古代ギリシャで起こったこと 

 
 ★古代ギリシアの思考改革

 西洋を西洋たらしめた人はソクラテス(前469/70~399)とプラトン(前427~347)です。西洋哲学はすべて、プラトンのテキストヘの注釈だという言い方もあるほどですが、ここでは、日本人のわたしたちにとっても重要な意味をもつ2人の登場について考えてみたいと思います。

 夏目漱石は「夢十夜」の第六夜のなかで、運慶がどうやってあの彫刻を生み出したのが、その秘訣を、木のなかに埋っている眉や鼻を、鑿(のみ)の力で土の中から石を掘り出すように掘り出すという言い方で述べています。この考え方は、自然のままを尊び、人為を否定する日本人の芸術観の典型です。しかし、この話は、明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないことを悟るという皮肉な結末を与えられています。

 漱石は鋭敏な芸術家の感性で、西洋化された日本では、かつてもっていた美質である「自然」そのままという芸術が成り立たなくなっていたことを感じ取っていたのではないでしょうか。先駆者として、西洋と東洋という問題に深刻に悩んだ漱石は、明治という時代の味わった変化の本質を、たった1夜の夢として表現したわけです。

 ところが、西洋では、漱石が感じ取った変化がすでに遠い昔、古代ギリシアで起こっていたのです。その根本的転換を惹き起こした張本人は、いうまでもなく、ソクラテスとプラトンという西洋哲学の始祖です。

 ソクラテスは、第2次ペルシア戦争終結のおよそ10年後、紀元前469年にアテナイに生まれ、ペロポンネーソス戦争終結後間もない前399年に刑死しました。ソクラテスが誕生する前の半世紀ほどのあいだのギリシアは、大国ペルシアの侵攻にさらされて、都市国家であるポリス同士が連合して対抗しなくてはならず、2大大国であるスパルタとアテナイのどちらがその盟主になるか、という状況でした。

 しかし、スパルタは1種のモンロー主義をとり孤立していたため、自然とアテナイがポリス連合体、デロス同盟の盟主になりました。アテナイは、ペルシアがいつ攻めてくるかわからないなか、同盟下のポリスから同盟費を集めて同盟軍を組織し、戦費を貯えます。はじめは、デロス島に同盟の本拠地を構えて、同盟軍も基金もそこに置いていたのだけれども、だんだんアテナイに本拠地を移し、その同盟費を流用してパルテノンの神殿を作ったりするようになります。アテナイはかなりの帝国主義国家になりました。

 アテナイとスパルタの両大国には、はっきりとした違いがあります。ポリスは、いわゆる少数寡頭政体、少数の貴族による合議制で政治を行なうのが一般的であり、その代表格がスパルタでした。その政体を、市民の全員参加による直接民主政体に変えたのがアテナイでした。とはいえ、ポリスでは女性には選挙権がなく、市民の暮らしは奴隷労働によって支えられていましたから、現在の民主主義国家とはかなり性格の違ったものでした。市民は、戦争の捕虜を奴隷として使っていました。選挙権のある市民は、納税や徴兵に応じる義務がある一方、選挙に出て当選すればすぐにも国政-といっても、将軍職に限られていたようですが-に直接参加できるシステムでした。

 紀元前5世紀初めの2次にわたるペルシアの侵攻に辛勝しているうちに、ペルシア国内で内紛が起こって、ギリシアまで侵攻してくる余力がなくなりました。しかし、ペルシアの脅威を口実にデロス同盟を組織したアテナイは、同盟に加わっているポリスに民主政体をとるように強要したり、裁判に介入したりして、同盟諸国に横暴な圧力をかけ続けました。このあたりで、ギリシアのポリスに直接民主政体か少数寡頭政体かという対立の構図が浮かびあがってくるわけです。

 デロス同盟に加入したポリスのなかにも、アテナイの政治的干渉をきらい、スパルタに頼ろうとするものも出てきました。こうして、ギリシアの全ポリスがアテナイ側とスパルタ側とに分かれ、前431年から前404年まで20年間戦うペロポンネーソス戦争が始まります。ちょうどそのころソクラテスは成人していて、市民としてこの30年戦争に3回従軍しています。


 ★アテナイvsスパルタ

 当時のアテナイは地中海交易の中心地の1つでした。焼き物の壷を開発するという小規模な産業革命が起こり、それを周辺諸国に売り、アテナイはポリスのなかでは極めて豊かな国でした。海外の植民地から渡航してきた人びともみなアテナイに集まるから文化的にも多彩ですし、ペリクレスという有能な指導者が出て、ペリクレス時代と呼ばれる黄金時代を現出しました。

 とはいえ、アテナイではひどい衆愚政治がまかり通っていたんです。1人のデマゴーグが出てきて、議会で調子のいいことを言えば、みんながワーッと同調して、ひどいこともしました。ペロポンネーソス戦争のあいだにも、メロス島事件と呼ばれる大虐殺をおこなっています。メロス島はミロのヴィーナスが発見された小さな島ですが、戦争中にはっきりとスパルタがわについたために、圧倒的に優勢なアテナイ軍が占領しました。その時アテナイの議会では、メロス島の男の市民は全部死刑にし、女や子どもなどはみんな奴隷にしてしまえなんて提案が出されて、しかも、喝采をもって可決されてしまいました。すぐ命令書をもった使いが船で出発したのですが、1晩寝て冷静に考えるとやっぱりあれはひどい決定だったと思いあたり、もう1度その命令を中止するための使いの船を追いかけて出したものの、もう間に合いません。ついに、メロス島の男の市民は全員殺されてしまいました。

 ところが、そうしたデマゴーグのなかにソクラテスの昔の弟子もいたんです。その代表格がアルキビアデース(前450頃~404)でした。名門の出で、堂々たる偉丈夫だし大変な美男子で大金持ち、頭の回転も早く弁舌も爽やかで、若いころはソクラテスの恋人だった男です。25歳になると被選挙権が得られるので、たった3人しかいない将軍職に立候補してみごと当選し、アテナイの将軍(軍事指導者)になりました。ちょうど、アテナイとスパルタが休戦条約を結び、「ニキアスの平和」と呼ばれる休戦期間だったんですが、アルキビアデースは得意の演説で議会を動かし、その休戦条約を破って、スパルタの物資補給基地であるシシリー島に大遠征を仕掛けます。

 ありったけの船と軍勢を連れて遠征し、最初は奇襲攻撃だから上手くいったものの、上陸するとスパルタ軍に海岸線を遮断されて、6千人いた兵隊がみんな山に追い上げられ、大理石を切り出したあとの石切場に追いこまれて、ほとんどが餓死したと言います。アルキビアデース本人はシシリー島到着と同時に出発前のある罪で本国に召還されたのですが、その途中逃亡し、こともあろうに敵国のスパルタに逃げこんで、アテナイをやっつけるにはどうすればいいかという秘策を洗いざらい教えてしまいました。

 アテナイには、近くにペイライエウス(現ピリウス)という港があって、スパルタはそれまで、夏の間はこの港とアテナイを遮断してアテナイに籠城戦を強制するんですが、冬になると包囲を解いて国に帰ってしまいます。その間に、アテナイは港から物資を運びこんで夏の籠城戦に備えていたわけです。ですから、冬もペイライエウスとの通路を遮断してしまえば、アテナイはお手上げです。アルキビアデースはこうした攻略法をスパルタに授けたのですから、ひどい話です。アテナイ市民は大変な飢えに苦しみます。これが大きな敗因になりました。その一方で、アルキビアデースは、スパルタ王の奥さんに手を出して、子どもを産ませたりしましたので、スパルタにもいられなくなってペルシアに逃げこみ、またしても王侯貴族のような暮らしをする。その揚げ句、今度は、サモス島にあったアテナイの海軍基地に乗りこみ、得意の演説で篭絡してその指揮官になる。スパルタとペルシアの両方の内情に通じているわけですから、最初は赫々たる勝利
をおさめて再び凱旋将軍になってアテナイに帰還するものの、次の海戦では大敗北を喫し、またペルシアに逃げてゆきます。最後はペルシアで入浴中にスパルタの刺客に刺されて死んでしまいます。なかなかの傑物には違いなく、プルターク(46~120)の『英雄伝』のなかの「アルキビアデース伝」はとても面白いものですが、アテナイ市民にしてみればたまったものではありません。

 ソクラテスの周りにはほかにも若くて政治的野心のある良家の青年たちがいっぱい集まっていました。アテナイの現状を嘆き、こんな衆愚政治ではどうにもならないから、なんとかしなければいけない、と思う若者はみなソクラテスの弟子だったといって過言ではありません。当時のポリスでは、アテナイ的な直接民主政体をとるかスパルタ流の少数寡頭政体をとるかという議論が盛んにされていましたが、現実のアテナイは、ことを政治に限れば、豊かであることをいいことに、無定見な多数決で事を決し、いわばその場しのぎの成りゆきまかせでした。デマゴーグが出てきて煽動するとすぐそれになびくようないいかげんな政治になっていました。けだし、直接民主制というものは、そうなりがちなのです。 

 
 これは現代でも変わりません。もともと、多数決による民主主義というのは政治理念ではありえないのです。20世紀でも、第二次大戦前は、デモクラシーなど政治イデオロギーではないというのが1種の常識になっていました。ちゃんと真面目に政治を考えている人間の1票と、なにも考えていない人間の1票が同じでいいのか、という認識は右翼にも左翼にも共通していました。私の子どものころの記憶でも、戦前の日本、あるいはドイツあたりでは、ファッシズムかコミュニズムか、どちらかを取るしかないという二者択一を迫られていると思われていて、デモクラシーを同じ資格の政治的な立場とみなす人はあまりいなかったと思います。 

 
 第二次大戦でアメリカが勝ったのが大きな分岐点でした。敗戦国、あるいは大きな打撃を受けた国が、おおむね全体主義国家、つまり寡頭政体だったために、結果的に民主主義が1つの政治イデオロギーに昇格することになりました。政治にはさまざまな考え方が存在するという以前に、民衆は誰がどんなことを考えていてもまったく無視するというのが常です。だとすれば、少なくとも、民主主義が無条件でいいということにはならないのではないか。でも、今の日本やアメリカでこうした主張は、ほとんど目にしませんし、ソクラテスの時代の少数寡頭政体支持者たちのように多数決を否定することなどタブーに近い印象があります。当時、ソクラテスは少数寡頭政体支持者たちのイデオローグと見られていたわけですが、アテナイとスパルタとの緊張関係を考え合わせると、かなり危険な立場だったことは言うまでもありません。〔略〕

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 ●竹内芳郎・『ポスト=モダンと天皇教の現在』(1989年4月 筑摩書房)
 Ⅳポスト=モダンにおける知の陥穽 

 
 (*1986年当時の「ポスト=モダン」、「近代の超克」という思潮の昂まりのなかで提起されたもので、著者・竹内氏によれば、「・・執筆の背後に暗い危機意識と鬱屈した怒りの情念がたぎっていた」という。以下紹介する。)

 ・・・〔略〕・・・(ヨーロッパの教育の場に〔イジメ〕がないのは日本のように効率第一主義や競争と選別の論理が貫徹することがないからだ。その効率=競争原理からみれば、)
日本よりもはるかにムダが多く、日本よりもはるかに「おくれている」からなのだ。なにも教育の場だけのことではない。そういう目で見れば、ヨーロッパ社会は実にいたるところ穴ボコだらけで、企業の論理が貫徹せぬことおびただしく、これではエコノミック・アニマルの効率性において、わが日本に太刀討ちできなくなるのは当然のことなのだ。「おくれた」欧米近代と「進んだ」日本近代と-この2つを混同して近代超克論を立論することがいかにバカげているか、この例からももはや自明であろう。
 *だからアメリカの経済ジャーナリストR・C・クリストファーも、「日本の教育制度は、経済第一主義の国家目標からすれば、世界無比の高能率の教育制度だ」と絶賛し、しきりに羨しがっている。

 ④しかしながら、欧米近代よりも日本近代の方がより「進んでいる」のは、なにも教育の場だけのことではない。もっと広く、いわゆる「先進国」社会の支配的イデオロギーたる〈民主主義〉の点でも、日本近代は欧米近代よりも「進んでいる」らしい。理由はこうだ-

 このあいだの衆参両院議員の同日選挙において自民党が圧勝したことについて、マスコミをつうじて世の賢者たちがさまざまな理由づけを述べ立てているが、それらに共通して言える難点は、
今日の選挙制度における投票で示される〈国民の意志〉なるものが、「今後日本はどうあるべきか」についての個々の国民の自由な意志表明ででもあるかのような擬制を、あらかじめ前提としてしまっていることだ。しかし、この擬制は、およそ日本の選挙の実態からはほど遠いのではないかと、私なぞはかんがえる。わが国のマスコミは、選挙まえにはうるさいほど実態調査をしながら、ひとたび選挙がおわってしまうと、投票がどのような仕方でおこなわれたのかについての追跡実態調査をまったくといってよいほどしてくれないので、所詮は憶測にたよるほかはないが、私見では、すくなくともわが国の選挙では、たとえば、誰かに金をつかまされてしたとか、つき合い上の義理でしたとか、人情にほだされてしたとか、あの候補者はなんとなくカッコイイから趣味上でしたとか、地元や所属集団に金をおとしてくれそうだからしたとか・・・といった〈私的〉関心から投票がおこなわれるのが大半であって、私的利害とは関係なく純粋に〈公的〉な立場から、わが国の将来を慮りつつ政策を見て投票するような人は、左右を問わずごくわずかしかいないのではないかと思われる。投票が〈私的〉関心によるのか〈公的〉関心によるのかを峻別しないで〈国民の意志〉なるものを云々することがいかに怖るべきことになるかそれを私にはじめて実感させてくれたのは大分まえのこと、あの60年安保闘争後まもなく『読売新聞』だったかの片隅に出た1つの囲み記事を見たときだった。それによると、或る寒村でのこと、選挙のときには当然ながらいつも自民党が圧勝するのに、或るとき党や人とは無関係に日本の進路についての政策に関して意見投票をしてみたら、なんと当時の共産党の掲げていた政策に最も近いものが最も多くの票を集めた、というのである! むろんいつもこういう結果になるとはかぎらないにしても、公と私とのこのようなはなはだしい乖離を前提としなければ、今日のわが国で、一方では反核署名を実施すればたちまち1千万もの名が集まるのに、他方では、選挙をすればレーガンの核軍拡路線を無条件に支持している自民党がいつも大量の票を獲得するという珍現象も、とても理解することはできないだろう。
 *選挙のたびに莫大な金がばらまかれ、買収費1票あたり平均7200円〔警察庁しらべ〕という相場までついているのに、この投票の仕方を無視して選挙結果を論ずるのは偽善もはなはだしい。

 実際、わが国の選挙制度のもとで表明される国民の意志なるものは、根本的にはいつも〈私的〉意志表示以外のものではなかった。このことを最も劇的に実証したのは、その前の衆参院選挙(83年12月)のケースであって、マスコミでは「田中判決選挙」と命名されていたこの選挙で、当の田中角栄氏が未曾有の驚異的得票を集めただけではなく、全国的にも田中軍団が大勝利を博し、自民党内で最大派閥を形成するにいたった-当時の世論調査の結果では、国民の85%までもが「田中は議員をやめろ」と叫んでいた(これはむろん〈公的〉意志表明)にもかかわらずだ。このとき田中を支持する秦野章氏は、「政治家に倫理をもとめるのは八百屋で魚をもとめるに等しい」と言い、「この程度の国民にはこの程度の政治家がふさわしい」と放言していたが、この言たるや、この言に憤慨して金切り声をあげていた野党政治家たちの意見よりもよほど正確に実態を衝いていたのであって、まことに日本の戦後民主主義は、制度的に金権政治と不可分なのである。〔略〕

 けれども、ここでの問題はそこにはない。それよりもむしろ、これこそが実はブルジョワ民主主義の最も「進んだ」形態ではなかろうか、という点なのだ。

 『国家と民主主義』〔現代評論社刊〕第1論文で論じておいたように、近代民生生義にはもともと2つの源流があり、1つは公私分裂を前提として私有財産保全をめがけるロック出自の自由主義的民主主義、他は破私立公を前提として人間的自由実現をめがけるルソー出自の権力人民化の民主主義。

 近代市民社会でほんとうに実現して行ったのはむろん前者であったが、それでも後者との抗争のなかで後者の本質的部分をも吸収せざるを得なかったせいか、すくなくとも欧米では前者が純粋に自己を貫徹することはなかったかにみえる。ところがわが国の戦後民主主義では、前者がなにものによっても妨げられることなく純粋に自己を貫徹することができたのであって、その端的な表現が、金権政治を本質とした自民党の永久独裁政権だったわけである。

 そして資本の論理、企業の論理からみて、これほど効率のよい政治形態はないはずであって、実際、欧米でのように、2大政党(しかもその一方は多少とも社会主義的性格をもつ政党)間でしばしば政権交替をやらかされていたのでは、企業としては長期展望をするのに不都合を生じ、苛立たしくて仕方がないのである。とすれば、近代社会のご主人たる企業の目からすれば、わが国の金権民主主義こそ欧米のそれよりもはるかに「進んだ」近代民主主義形態であるはずであって、こうしてわが国では、人権思想は私権擁護へと転化し、欧米の個人主義は利己主義へとおのれを純化したわけである。

 両者を区別する装置ももたないで、ポスト=モダン思想が〈近代的自我〉を超えるのだと無邪気にはしゃいでいるのは、けだし噴飯ものだと言うほかはないだろう。
 *戦後日本で自民党が永久独裁政権だという事実に比すれば、今回の「圧勝」なぞまったく二次的意味しかもたない。

⑤ 欧米近代と日本近代との今日における逆転現象は、「第三世界」との関係においてさえも見られる。欧米近代は第三世界の植民地化によって肥え太ったものであり、その自由や民主主義や人権はその犠牲のうえに華ひらいた徒花にすぎぬというのが、昔も今もかわらぬ近代超克論者の主張だが、この主張は、このかぎりではむろん正しい。けれども、今日までくると、ここでも奇妙な逆転現象がおこっているのだ。

 今日、いわゆる先進国つまり旧植民地保有国は、第三世界つまり旧植民地諸国にかなり多額のいわゆる「経済援助」なるものをおこなっているが、この経済援助は、その美名にもかかわらず、その実、に一方では相手国の独裁腐敗権力を支え、貧富の差を拡大し、人民をますます苦しめると同時に、他方では自国の企業に甘い汁を吸わせてますます肥え太らせる巧妙な装置となっていることは、いまではよく知られている。問題は、これにたいするいわゆる「先進国」国民の反応であって、周知のようにわが国では、左翼労組に組織された労働者をもふくめて、まったくといってよいほど無関心であって、むろん金権民主主義選挙の争点なぞになったことはいまだかつて1度もない。企業の論理が労働者階級をふくむ全国民の魂の底までしゃぶりつくした最も「進んだ」民主主義をもつ国に、まことにふさわしい反応ではある。
 * 私の知るかぎり、武藤一羊氏の主宰する「アジア太平洋資料センター」ぐらいが活溌な情報活動をしている程度だ。

 ところが「おくれた」民主主義しかもたぬ西欧では、事はこんなにスムーズには運んでいないことを、『朝日新聞』に連載された松井やより編集委員のすぐれたリポート「市民と援助-西欧の〈第三世界運動〉」が詳細に報告していてくれる。保守政権なら企業寄りとなるのはどこの国でもおなじだろうが、企業の論理にまだそれほど魂をしゃぶりつくされていない西欧・北欧の一般市民や労働者たちは、そうはさせじと開発援助と南北問題解決との矛盾を鋭く衡き、〈人権〉を楯にとって政府に援助政策を諦めさせるだけでなく、さらにすすんで小中学どころか幼稚園ですら全科目に第三世界問題をとり入れさせ、「第三世界の文化を破壊したのはわれわれであり、われわれこそが彼らの貧困と飢餓に責任がある」と教えているのだから、ただただ「すごい」の一語につきる。南ア制裁やニカラグア支援の諸課題についても、態度はまったくおなじだ。尤も、こんなことが可能となるのは、彼の地では日本の文部省のような悪質な教育破壊機関が蟠歔踞していないせいでもあろうが、ともあれ、伝統的に近代主義者と近代超克論者との重要な1争点となってきた第三世界との関係の問題においてさえ、近代西欧と近代日本とはかくも大きな相違をつくってしまう事情にたいして、世のポスト=モダソ思想家たちは一体どんな解答を用意できるというのだろうか?

 三 最後に、現代日本のポスト=モダソ思想の致命的欠陥は、以上の考察からも推測できるように、それが観念のうえだけでの遊戯にかわって現実との対決を完全に忘却している、という点にある。これは『こころの科学』誌論文でも強調しておいたとおり、実は戦時の「近代の超克」座談会にも見られた根本的な欠陥であって、このゆえに、そこでの部分的には今日もなお聞くべきものをもつ高度の議論も、現実には徹頭徹尾、当時の日本の帝国主義的侵略戦争への知的協力という度しがたいものにまで転化してしまったのである。今日のポスト=モダン思想がおなじ轍を踏むならば、またもや「パンパンと天皇とのあいだを振子のようにゆれ動く」あの不毛な往復運動にもう1往復付加するだけにとどまらず、こんどこそ最終的な破局へと途をひらくこと必定だろう。したがって、ポスト=モダン思潮にぞくする思想家だらけ、自分たちの主張の背後で現実に進行している歴史的諸過程にたいして、ぜひとも透徹した認識をもつ義務があるのだ。 〔略〕 
 
 (竹内は、ポスト=モダンの【現実世界との対決姿勢の欠如】を批判しながら、それが西田哲学の可能性(ここでは「近代の超克」という可能性だが)とその復権を「企てる」思想の安易さ撃つ。)・・・

 ただ、西田哲学が戦時中、日本の帝国主義的侵略戦争-これはあきらかに〈近代的原理〉の貫徹そのものだった-を批判し得る視点をまったく呈示しなかったばかりか、遂にこれを聖化しつつ多くの真摯な青年たちをこの醜い戦争へと煽動して行ったことがすでに周知である以上、すくなくともこの哲学形態での近代の超克、ポスト=モダン思想だけは現実には有害無効なのだという自明の事実に、どうして目を開こうとしないのか、私にはまったく不可解なのである。

 実際、中村(雄二郎)氏は私と同世代の哲学者なのでよくわかっているはずだと思うが、私たちの旧制高校時代には、西田哲学はその難解な思弁の論理でもってあの愚劣な戦争を正当化すべく、さまざまな形態のもとで実に猖獗をきわめていた。もうあのころになると、多少とも左翼的な社会科学書はすべて権力によって弾圧されて国禁の書となっていたわけだから、あの戦争を正確に把握する途は私たちにははじめから完封されており、したがって西田哲学による戦争美化に抗する知的用具は私たちになにひとつ残されてはいなかった。にもかかわらず、私個人としては、時代を生きる人間の肌で感ずる直観として、この戦争がとうてい肯うことのできぬ醜悪なものだ、ぐらいの見当はすでについていた。尤も、そんな見当がついていたからといって、徴兵を間近に控えた身でどうするすべもあるわけがなく、せいぜい私のとり得た唯一の抵抗手段は、すでに東大法学部に在籍していたがゆえに入隊後も約束されていたもろもろの特権享受を一切放棄して最下等の1兵卒として入隊すること(したがって、おのれの学問を戦争のために役立てることは一切しないこと)、戦場に立ったらとにかくできるだけはやく死ぬように志すこと、ぐらいのもので、そのような決意のもとに、『歎異抄』から書き抜いたささやかな1文を軍服のポケットにそっと忍ばせながら、もう敗戦の色濃い44年の晩秋、遠い中国の戦場に赳くほかはなかった(なにしろ、当時、どうにもならなくなって最後に私が辿りついた地点は、法然・親鸞の浄土真宗的信仰でしかなかったのだから)。そのような戦争体験を踏まえつつ、戦後、あらたに哲学徒として再出発を志したとき、まず最初におこなった決断は、まかりまちがっても、西田哲学のような、現実との対決を回避してただ観念の歯車をまわすだけですべてが解ったような顔をする哲学だけは断じてすまい、ということだった。それゆえ、52年4月、東大文学部卒業直後に書いた1文「新しく哲学に志す者の1つの独白」〔季節社版『実存的自由の冒険』所載〕のなかに、つぎのような言句が見えるのも、主として西田哲学系のものを念頭に置いてのことであった

 「このとき、ぼくらの背後に聳えていた哲学の殿堂は、たちまち一変してことごとくのり超えられるべき累々たる屍の堆積となる。ドイツ哲学の強靭な伝統を継承し、すでにわが国独特の哲学を育成しつつあるかにみえた優れた先輩たちが、その難解な論理の鎧の下に実は〈ホメロス以前〉的思惟しか秘めていなかったという事実は、何と無意な幻滅であったことか・・現代の哲学の沈滞こそは、一般大衆の哲学にたいする無言の不信の表明ではなかろうか。哲学者とは哲学することによって馬鹿になった人種だと、健全な常識がいみじくも合点したためではないのか・・哲学することがただ人をコケおどしてそのなかに安眠し得るいかめしい哲学体系を建造することであったなら、一体そこに何の意味があろう・・〔略〕
 
 現代日本知識人のあいだで支配的なこうした真の意味での知の解体は、大衆レヴェルにおけるあの自民党圧勝の今日的ムードと、ぴったりと歩調を合せた現象なのであろう。だが、大衆の保守ムードの単なる受動的反映にしかならない知的営為を臆面もなくする知識人は、さっさと知識人たることを廃業した方がましではないだろうか。 〔略〕

  最後に、『戦前の思考』 柄谷行人 (1994年2月 文芸春秋)より。
 
 
 ●議会制の問題(1992年11月早稲田大学園祭の講演)

 1 民主主義と自由主義の違い

 ものを考えるのは、ある意味で、例外状況あるいはアブノーマルな事態から考えることです。たとえば、誰でも重い病気になると人生について考えますね。ノーマル(規範的)ではない形態から出発するというのは、ものを考える上での基本的な姿勢だと思うです。しかし、それはノーマルな状態を軽蔑することではない。ただ、日常的なノーマルなものが、どんなに複雑であるか、またそれが堅固に見えてどんなに脆弱であるか、そういったことを知るために不可欠なのです。ニーチェはそれを「病者の光学」と呼んだと思います。それは、他のあらゆる事柄についてもあてはまります。
 たとえば、経済学にかんしていうと、普通の経済学はいわば経済現象がノーマルにはどのように動いているかにのみ関心をもっています。しかし、本当は経済にかんして考えるためには、例外的な事態、つまり恐慌から見なければならない。マルクスはそこから考えた人です。心理学にかんしていえば、それは精神病から考えなければならない。フロイトはそうしました。同じことが、法や国家にかんしてもいえるでしょう。法や国家にかんしては、それを戦争から考えなければならないはずです。通常の状態から考察したのでは、その本質が見えてこないのです。私の知るかぎり、そのように考えたのはカール・シュミットです。

 シュミットは、ナチの理論家です。もちろん、彼の考えは、一般的にナチを特徴づけていた「人種主義」のようなものと異質だし、そのために彼は途中失脚しています。戦後、彼はそのことをもって自己弁護しているのですが、それは見苦しいだけで、とうてい彼を免罪するものにはなりません。しかし、シュミットには、われわれが無視てきないような洞察があります。それは、彼がつねに例外状況から出発し、それによって通常科学ではけっして見えないようなものを見いだしたからです。そして、彼が思考のある極端さを実現しているかぎりにかいて、それを無視することはできません。

 しかし、ここで、注意しなければならないことがあります。われわれが例外状況から出発するのは、それが本来的だからだという意味ではないのです。それは、先にいったように、むしろノーマルな状態がいかにあいまいで複雑かを理解するためです。ある種の人間、ロマン主義的人間にとっては、例外状態のほうがなじみやすく、日常的な状態のほうが耐え難い。明らかに、シュミットはロマン主義的です。彼は『政治的ロマン主義』という本を書きロマン主義者を鋭く批判していますが、それは自己分析というべきもので、彼自身がまさにそのようにふるまっているのです。

 たとえば、自由・民主主義という言葉があります。自由主義と民主主義はほとんど区別なしにあいまいに使われています。これを明確に区別したのがシュミットです。彼は、『現代議会主義の精神史的地位』(みすず書房)において、こういうことをいっています。普通、民主主義というと、議会制民主主義だと考えられていますが、シュミットは、現代の議会制は、根本的に自由主義であり、これは民主主義とは異質なものだというのです。いいかえると、議会制でなくても、民主主義的であることは可能だというわけです。

 民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということです。これは現実の政体とは関係ありません。たとえば、マキャヴェリは、どのような権力も大衆の支持なしに成立しえないといっています。これはすでに民主主義的な考え方です。彼はたしかに『君主論』を書いた人ですが、もともと共和主義者でした。しかし、問題は、どのようにして、大衆の意志が最もよく「代表」されるのかということにあります。
 
 デモクラシーにおいて重要なのは、人民の意志が基底にありながら、それが何であるのかを誰もいえないことにあるのです。なぜなら、現実に存在する人々は、さまざまな利害の対立のなかにあるからです。議会とは、それらを調整する場所だといってもいいでしょう。そして、そこでは公開的な討論を経て多数決によって「人民の意志」が実現されることになっています。しかし、ここに問題があります。それは、多数だからといって、それが真に人民の意志を実現するとはいえないということです。むしろ、少数者のほうがそれをあらわすということがありえます。

 
 これはプラトン以来の難問です。それは、真理は、多数決で決定できるのかという問題です。すなわち、真理はいつも少数の者によって把握されるのではないのか、多数の同意は真理を保証しないのではないか、しばしば真理は多数が同意するものに反しているのではないか、というような問題です。プラトンは、政治形態にかんしてもそれを拡張し、議会制に反対して、哲学者=王こそ真理を代表すると考えました。

 同じ問題は、ルソーが個々人の意志を超えた「一般意志」を想定したときにもあらわれています。これは、市民社会が利害の対立のなかにあるのに対して、そこから中立的な国家官僚こそ一般意志を実現するという見方につながります。具体的にいえば、それは、国家機構が議会あるいは諸政党の上に存在することです。ルソーは民主主義の祖といわれますが、この意味では国家主義の祖でもあります。現在でも、日本の官僚は、議会を自分たちの政策を承認させる単なる手続きとして、また、しばしば民間的な特殊利害によって「一般意志」をゆがめるものとして見ているはずです。

 ところで、マルクスは、議会制を、実は特殊な意志(ブルジョワ階級の意志)であるものを一般意志たらしめるものだと考えました。それに対して、マルクスは「プロレタリア独裁」を主張しました。それは「プロレタリアートの解放が人類の解放である」がゆえに、プロレタリアートの特殊的意志が一般的なものたりうるということを意味しています。しかし、マルクスはその具体的内容については何も語らなかったのです。しかし、そこに、それならプロレタリア階級の「真の意志」は、どのように代表されるのかという問題が出てくるはずです。その場合、晩年エングルスやカウツキーは、議会制をとっていました。

 それに対して、レーニンは、少数の前衛としての党がそれを代表するという考えを出しました。したがって、共産党はプラトンのいうような哲学者=王ということになります。このレーニンの考え(ボルシェヴィズム)が、俗に知られているマルクス主義です。こうして、「プロレタリア独裁」は「党独裁」、さらに「スターリン独裁」ということに帰結します。しかし、それはスターリンの誤りということではすみません。それは実質的には官僚の支配なのですから。さらに、それは「真の意志」を誰がいかにして代表するかという問題にかんする、一つの考え方の帰結ですから。さらに、それは「民主主義的」でないとはいえないからです。

 シュミットは、共産主義的な独裁形態が民主主義と反するものではないといっています。もちろん、彼はヒットラー総統の独裁は民主主義的であるというのです。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし、必ずしも反民主主義的であるわけではない》。実際、ヒットラーはクーデターではなく、議会的選挙を経て合法的に権力を握ったのです。そして、その政策は、基本的に官僚による統制経済です。それはワイマール体制(議会民主主義)においてなすすべもなかった失業問題を一挙に解決して、「大衆の支持」を獲得したわけです。

 こうして見ると、逆に、自由主義が何であるのかが見えてきます。それは、「人民の意志」が公開討議による合意によって決定されるという考え方にもとづいています。もちろん、このことは、哲学における「真理」の問題とつながっています。自由主義によれば、真理はとりあえず合意によって承認された暫定的なものでしかありません。この意味では、近代科学における真理は、暗黙に自由主義にもとづいています。

 それを批判したのはハイデッガーです。彼によれば、真理は、討議や多数決によってあるのではない。また、それは表象(代表)によってつかまれるものでもない。真理は「存在の隠れ無さ」であり、それは少数の者(詩人)の言葉において開示される、というのです。そして、それは政治的には、次のような考え方としてあらわれます。彼はハイデルベルク大学総長として、次のように演説しています。

 ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。
 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただし党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。
 (「アドルフ・ヒットラ~と国家社会主義体制を支持する演説」1933年)

 いいかえると、投票はするが、それは代表制(議会)における投票のごときものではない、というのです。つまり、ハイデッガーもシュミットも、議会という形態そのものでなく、そこに存する自由主義に反対しているということができます。彼は、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにあるというわけです。ハイデッガーの近代哲学・近代科学への批判が標的としているのは、実際は、表象=代表representationによってもたらされるような真理なのです。〔略〕

 



●感想ひとつふたつ。
「渡辺京二評論集成」という全4巻の評論集(葦書房 2000年7月刊)がある。
その Ⅳ・『隠れた小径』 のなかに、収められている ★逢わざりし師に逢う と題した一文で 吉野作造について書いているので、先ずその紹介から。(初出は『吉野作造選集』第13巻月報、1996年)

 若き笹川良一が師(先生)と仰ぎ、留日受験中の周恩来が会いたかった人物-吉野作造についてである。

 *************  


 ★逢わざりし師に逢う

 私(渡辺)もかつて人並みに『憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず』は読んだ。正論ではあろうが、まどろっこしくてかなわなかった。これは該論文をけなすのではない。「早とちり」と人から評される私の気質をいうのである。
 しかし私は、もとから吉野作造という人に好意をもっていた。この人の骨頂は丸山真男まで系譜をたどれそうなりベラリズムにあるのだろうから、昭和の「春のいそぎ」の季節に人となった私などとは情念の質がちがう。にもかかわらず、私はどうもこの人は、丸山流のデモクラシー、リベラリズムとは教養の源泉がちがうらしいという感触を早くから得ていた。

 というのは、この人は宮崎瑫天と北一輝の実に公正な理解者であったからである。周知のように、大正15年、瑫天の『三十三年の夢』が明治文化研究会から復刻されたとき、吉野先生は解題の労をとられた。その中で、先生は多面にわたってこの本の特色を論じておられ、それもいちいち肯綮に当っているが、私がとくに感銘するのは「私の敬服に堪えないのは、彼の態度のあらゆる方面にわたって純真を極むることである」という1行に対してである。

 瑫天はけっして純真一途というのではなく、デリケートかつ複雑なところがあった人である。ひがみ心も結構なくはなかった。というのもこの人は語の正しき意味で知的であったからである。にもかかわらず、瑫天のかなしさはその「純真」にあった。吉野先生はよくここを見て下さったと『評伝宮崎瑫天』を書いた私は彼のためによろこぶ。

 また私は『北一輝』の著者として、先生が次のように書いて下さっているのをよろこぶ。「北君は・・第三革命の始まって間もなく長文の意見書を発表したが、其1本の寄送に与った私は・・同君の見識の高邁なるに敬服して態々(わざわざ)同君を青山の隠宅に往訪して謹んで敬意を表したのである。尤も北君の意見書の後半は全然承服し難い点はある。けれども其前半の支那革命党の意気を論ずるの数章に至っては、恐らく此種類の物の中、北君の書をもって白眉とすべきであろう」。

 ここにいう意見書とは、もとより『支那革命外史』を指す。該書は名文家たる北の著作のうちでも、第1等の名文である。気合1本、面ありという文章である。しかも北なりの歴史観の透徹が画幅の後景をなしている。先生はそこを看られた。「見識の高邁」とは北の歴史観をいうのである。その歴史観は先生のそれとはセオリー、パラダイムが異なり、従って先生は「後半は承服し難い」といわれたのである。しかし、むかしの学者は度量がひろかった。おのれとは思想の立脚地がちがうと感じ、かつそれを明言しながら、おのれの歴史観と異なるそれをも、また一見識として正当に評価されたのである。

 思想の立脚地とはつまりイデオロギーであろう。先生はイデオロギーをともにしても阿呆は阿呆であり、それを異にしても偉才は偉才だということをご存知だったのだ。学者は往々にして公正を装いつつ、党与偏頗の言をなしてみすからを省みない。むろんそんな学者は学者の名に値せぬといえばそれまでだが、先生のえらいのは、真の意味で公正な評価ができたところである。たといわが敵であろうと、敵の見識才能は認めねばならぬ。だから信玄は敵に塩を贈った。先生は敵に塩を贈ることのできる学者であった。

 これはひとつは江戸・明治前期の人としての教養・わきまえのなせる業だったのかもしれない。むかしの学者は、よほど変な自己狂でないかぎり、そのくらいの度量はもつか、もしくはもつふりをしたのである。しかし先生にはそれ以上の、余人と異なるところがあったと思う。というのは「純真」というのは実は先生のためにとっておかねばならぬ言葉であったからだ。この人は他人にさいわいをもたらすべく生れたエンジェルだったのである。おのれの才を誇る以前に、ひとの才を当人以上に理解し、賞翫できた。生れついてのアプリシェイターだったのだ。

 先生は、大正デモクラシーの淵叢をなした例の民本主義鼓吹の論文のことを、後年、大変クールに卑下しておられる。理論的独創、透徹はないとご自分で感じておられたのである。これは謙遜というのではなく、ご自分で真にそのように感じておられたのだと思う。というのは頭のとびきりいいこの人には、自分が全部見えていたのである。だからこそ私はあえて「卑下」といういやらしい言葉を遣った。

 でも私は先生のそこが好きだし、また尊敬を覚える。世にも独創の人は多い。少なくともそう称する人は多い。キャピタリズムはつねに新商品を開発せねば倒壊するのだから、ジャーナリズムの世界でも自己のトレードマークを印象づけねば、物書き商売は成り立たない。人と変ったことがいえねば、誰が原稿料を払うか。

 しかし実は世に独創は少なく、文章としても真にすぐれものは少ない。いかに当世流行の現代フランス思想などを装着しようとも、そんなものはかつての最新思想マルクシズムとおなじく、数十年すればアウトオヴデートなのだ。そういう小林秀雄流にいうと「意匠」を去ってみればあとに残るのはその人の人生をもってあがなった思想と文章の力である。そしてそういう思想と文章で世に抜きんずる才能はやはり存在する。だとすれば、そういう真にすぐれたものを、真に読解し評価できる人がいなければ、この世はあまりにもさびしい。

 先生はちっぽけなトレードマークで売文をする人ではなかった。事情は存ぜぬことなれど、★先生は売文をされた。この点については往々反省めいた言も洩らされているが、先生はけっしてそのことにおいて恥じておられなかったと思う。なぜなら先生の売文は、自己を売りひろめるためのものではなく、真によきものとおのれが信じたものを世に知らしめるためのものであったからだ。だから私はこの人を、ひとのために生れたエンジェルだというのである。

 ただこのエンジェルは、なかなか喰えぬところがあって、この世の辛酸も、人の信じがたきもよくご承知たった。理想は現実とのかねあいにおいてしか行われぬこともご存知だった。つまり俗な意味でなく、ほんとうの意味の大人で、このエンジェリックな永遠の少年はあったのである。

 例の有名な民本主義の論文について、先生は前述のような謙抑の言をなされたが、一方、世の批評などものともせぬ自信をもっておられた。それは、理論的独創は皆無としても、このような啓蒙が当時の現実においては絶対必要だったという点である。つまり先生は、デモクラシーを真によきものと信じられただけでなく、それが現今の時点において社会に必要たた信じられたから、あの論文を書かれたのだ。無私の業とはこのことをいうのである。

 私はこのたびの『選集』第12巻に収められた人物論の卓抜について強調しておきたい。思いやりと礼節と抑制をそなえつつ、いわねばならぬことはちゃんといっておられる。たとえば中村正直の自己修養の敬すべきを説きつつ、「明治の時代になっては実は斯うした方針では駄目なのだ」と喝破されているように。先生の人物論を当人が読めばみな、「よくぞここまで見てくれた」というにちがいない。その意味でも先生はこの世に遣わされたエンジェルであった。有島の情死のさいの先生の発言も、有島が先生とひとしく1個のエンジェルであり、その共感があったからこその苦言だった。

 私が吉野作造を先生とよぶことを、奇異に感じる人もあろうから、一言断っておく。私はこのたび作造の文章をまとめて読み、なんだか自分の少年の頃の先生に出会ったような気がしてならなかった。また、日本近代史をなんとか途中まででも仕遂げて死にたいと思っている私にとって、明治文化研究会を主宰された先生は大先達である。先生とよぶのはその意味であって、他意はない。<了>

 ************


 ★「・・(吉野)先生は売文をされた。・・」と渡辺は書くが、1例を挙げておこう。

 洋々学人・『答案の書き方』、閑川学人・『受験答案の書き方』の2著のことである。

 吉野作造記念館研究紀要(発行:古川学人 TEL0229-23-7100)の第2号(2005年3月31日発行)に山口輝臣氏の解説で(当該資料も氏の蔵になるものだった)<史料紹介>として掲載されたもので、(後に史料は山口氏から記念館へ寄贈された。)
 「・・ここに部分的に紹介する」理由は2著が「・・要するに、洋々学人=閑川学人=吉野作造である」からということである。

 吉野作造日記、昭和6年1月15日には「・・午後はいよいよ〔答案の書き方〕の稿を起し始む・・」とはあるのだが、現物は未確認であったという。 


 以下、『研究紀要』から概略を紹介しておきたい。

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 <史料紹介>

 洋々学人『答案の書き方』、閑川学人『受験答案の書き方』 解説 山口輝臣

 [解説〕
 ここに部分的に紹介する『答案の書き方』と『受験答案の書き方』は、解説などなくとも、存分に楽しめる。よって私の拙い解説など読み飛ばしていただいて一向に構わない。ただ両書の紹介が、なぜこの『吉野作造記念館研究紀要』の貴重な紙面へと載せられているのかと、疑問を抱かれた方もいらっしゃるだろう。そうした方々のために、若干の説明を加えておくことにしよう。

 なぜ本誌に載せるのか? すでにあらかたお察しのこととは思うが、要するに、洋々学人=閑川学人=吉野作造であるからである。 

 洋々学人著『答案の書き方』吉野作造の手になると一部で知られるようになったのは、吉野の死(昭和8年3月18日)からほどない6月に刊行された『古川余影』(編輯兼発行・川原次吉郎)あたりからだろう。〔略〕 その後はこの著作目録の記述が踏襲されるものの、現物については「未見」という状態が続いてきた。〔略〕

 (上述のように吉野作造日記の昭和6年1月15日の記述=「午後はいよいよ〔答案の書き方〕の稿を起し始む」=は確認されても、現物は未確認のままであった。)

 すなわち洋々学人著『答案の書き方』は、存在のみ知られ、現物を確認することのできなかった吉野作造の著書なのである。たまたま現物を所蔵している筆者が、あえてこの場を借りて紹介するのは、そのためである。〔略〕

 洋々学人著『答案の書き方』は、版元であったフロラが、同書刊行後まもなく事実上倒産したこともあり、ほとんど世に出ることがなかったようだ。それで吉野は同書を再刊しようと、いくつかの出版社を当たっていることが、日記から分かる。しかし朗報の記述がないままに日記は中絶、そして逝去。そのため再刊は実現しなかったものと思われていた。

 ところが復刊は、吉野の死から8ヶ月後にひっそりと実現していた。それが閑川学人著『受験答案の書き方』である。存在することだけは知られていた洋々学人著『答案の書き方』に対し、こちらの閑川学人著『受験答案の書き方』は、存在すら想定されていなかったものである。そうなった理由のひとつとして、同書の刊行が、以後の著作目録の原型となった『古川余影』所収のものが世に出たのより5ヵ月ほど後であったことが挙げられよう。本稿ではこちらもあわせて紹介することにした。

 さてここまで読んでこられた方の多くは、次のような疑問を抱かれたかもしれない。吉野作造ともあろう人が、『答案の書き方』や『受験答案の書き方』などという書物を、しかも洋々学人やら関川学人などという筆名で書いたのはどうしてなのか、と。

 この点については、すでに★①三谷太一郎氏が、「家計上の必要」と簡潔に指摘しておられる。また家計の実際に関しては★②松尾尊氏の考察がある。日記の本文にも関連する記述があり、これらから推計すると、吉野晩年の収入は、最盛期の4分の1以下となっている。そしてこれに病気の療養が加わる。「全く仕事を休止して、1ケ月も熱い処へ往って寝て居ればいいのだらうが、生活の為めに多少の労働を必要とする点から考へると然うも行かず」。この日も『答案の書き方』の原稿は書き継がれた。
 ★①:三谷「晩年の苦闘」 『吉野作造選集』15巻
 ★②:松尾「民主主義鼓吹時代の日常生活」同上14巻

 すると次なる問いは、なぜそれが『答案の書き方』であったのか、となるだろう。その点ておそらく決定的なのは、吉野には類書を出した経験があったことである。明治39年に、瀋陽先生の孚で刊行した『試験成功法』(昭文舎)がそれである。同書は雑誌『人民』の連載をもとにしたものであり、太田雅夫氏の懇切な解説を付して、復刻もされている。吉野は、20余年のときを超え、再び類似の企画を立て、実行した。ただしその内容はかなり異なり、『答案の書き方』はさすがに四半世紀の蓄積を感じさせるものとなっている。 〔略〕 


 因みに、後藤 新平は 昭和4年(1929年)4月13日に急死している。
 吉野作造の死亡に先んじること4年である。後藤の急死がなければ、と考えたくもなる。
 そして、大正13(1924)年11月22日に吉野宅へねじ込んで説得された、あの笹川良一は、
 訪問の翌1925年、豊川村の村会議員に当選して政治活動を始め、芸能事務所経営を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。
 その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援、1930年には右翼団体・国粋大衆党(後の国粋同盟)を結成し総裁に就任する。
 もう1人の訪問者(遂にあい見えることのなかった)周恩来は、1931年当時共産党中枢として、江西省の瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、長征に参加していく。


 紹介を続ける。

 (本紀要で)紹介するのは、下の左に○をつけた各章である、という。
 また、山口は「・・『答案の書き方』という名の通り、すこぶる実践的であるとともに、いかにも吉野らしく、倫理的な香りの漂う書物でもある。」と書くがどうだろうか。 

○序
○筆記試験
○答案は読ませるものに非ず見せるものである
○入学試験に於けるモ一つの特徴
 試験問題
 準備教育
○答案の書き方
 答案の書き方の続き-注意すべき2,3の例
 答案の書き方の続き-附随的注意2,3

 以下、一部を紹介する。

 **************

 『答案の書き方』(抄録)

★ 序

1。此の本さえ読めば試験に及第すること疑いなしと買被られては困る。試験に成功するには矢張り誰しもがやる様に一生懸命本筋の勉強に骨折らなくてはならぬ。併しこの本筋の勉強をさへ十分にやれば必ず及第すると自惚れるのも間違ひだ。何故か。それを即ち本書が詳しく説明せんとするのである。

1。そこで、此の本さへ読めば試験に及第し得ると思ふのは誤りだけれども、此の本の教ふる所を十分に呑み込まずして試験に及第する困難なることは事実だ。当節の試験に及第するには本筋の勉強ばかりでは足りない、更に之をどんな風に答案に現すかを識ることが肝要なのだ。之をも十分に呑み込めば、夫れこそ真に鬼に金棒である。

1。本筋の勉強をしただけで試験場に飛び込むのは切符を買わずして改札口を突破しようとするが如きものである、旅行の道順を予めどんなに詳しく研究して置いても、切符を買はなくては汽車に乗れぬ。
汽車に乗るに切符の入用なるは誰しも知って居るが、試験に於いて本筋の勉強以外にモ一つの先決要件あることを知る者(又之を教ふる者)は殆んどない。云って了へば極めて卑近の事だ、卑近の事だけにまた多く人の顧みぬ所となる。著者は多年の経験に鑑み実際上この事の極めて重大の関係あるを思ひ、本書に依って之を篤と世上の青年男女に告げんと欲するものである。
                   
1。人の運命は、今日多くの場合に於て、試験に由ってきまる。此の事のいいか悪いかは別論として、現に世に処する上に於て我々は幾度も試験の関門を突破すべく余儀なくされる。一寸した不注意から此処に無残の失敗を演ずるは悲しむべき事である。本書は之等無用の惨苦を救ふ上にも多少の貢献を為すものであらう。
                          洋々學人

★筆記試験

 去年の冬開かれた府立中等学校長会議で、本年度の入学試験方法として筆記試験を採用する事に決ったと、新聞は報じてゐる。東京府学務部でも之に異議が無いやうだから、小学校を卒へて更に上級の中等学校に入らんとする都下幾万の児女は、嫌でも応でもそれぞれ志望の学校に就き筆記試験を受けねばならぬことになった。そこで筆記試験とは一体どんな風にして受くべきものか、と云ふことが、児童本人は勿論、父兄諸君等までもの頭を悩ます問題となる。私はこの点につき、多年各種の試験官として数限リなき答案を調べた経験に基づき、受験者並びに父兄諸君の御相談相手にならうと思ふのである。

 私の受験者諸君に切に警告したいと思ふのは、答案の書き方の「骨」を呑み込んで貰ひたいと云ふことである。私の永年にわたる経験に依れば、試験答案の肝腎の要素たるこの「骨」に少しでも注意を払っていると思はるる答案に接したことは滅多にない。 〔略〕

 続く。

 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)-2
  -台湾そして満洲へ外征のキーパーソン児玉源太郎と後藤新平
                                   ◆落合莞爾   


 ★後藤―児玉コンビの真相 そして杉山の正体を観る

 明治32年6月児玉源太郎台湾総督は後藤のために総督府民政長官のポストを作る。児玉には重要な国務があったから、31年の渡台以来39年12月まで8年に亘って総督府の民政を総覧した後藤新平が、実質的な総督として阿片政策をはじめ台湾の行政・経済政策をすべて牛耳った。
児玉は33年、杉山茂丸に説得されて桂太郎・杉山と3者同盟を結び、対露戦争に向けて伊藤博文に政友会を設立させて御用政党とする重大な工作を始めた。杉山が長州派の次期最高首脳と結んだのは、高島鞆之助引退の穴を埋め、高島が果たした筈の機能を担うためと思われる。これに応じた児玉はその重責を担いながらも台湾総督の地位に強く固執し、33年陸相、36年内相兼文相、同年参謀本部次長と、軍政はおろか内政のトップに就く傍ら絶対に台湾総督の座を放さなかった。はては37年満洲軍統参謀長と、満洲の野営に身を置きながらも総督の座に拘り続け、戦勝後38年に参謀本部次長事務取扱となってもまだ辞めず、39年4月の陸軍参謀総長就任に際して、やっと明け渡した。巷説これを論じて「児玉は初めは総督を後藤に譲ろうとしたが、総督は武官限定職なのでやむを得ず民政長官の職を設けて後藤を任じ、その後は総督の椅子に自分が就いていることで、文官の後藤に実質上総督の働きをさせた」というが全くの子供騙しで、真相は児玉が後藤と同様、阿片の威力と国際商品としての価値を知っていたからであろう。

 後藤にとって児玉は、表面上は最良の上司であったが、実は目の上の瘤であった。また児玉にとって後藤は、有能すぎて腹を見せぬ油断のならぬ大鼠で、両者の確執は、横浜・台湾間の定期航路の拡張問題にも顕れた。

 すなわち、児玉が命じた船会社の選定を後藤が独断で日本郵船に決めたところ、既に大阪商船に決めていた児玉は後藤の僭越を詰り、日本郵船との契約の破棄を命じ、ために後藤は進退伺いを出すに至った。杉山の『児玉大将伝』はこれを評して「台湾派遣軍人たちが後藤を侮らぬよう、後藤の背後には常に児玉が控えていることを示すために打った芝居」と取り成すが、これこそ世間を騙すための虚報で、杉山はこの一言を世間に流すために『児玉大将伝』を著したとおぼしい。そもそも杉山とは何者か。私(落合)は以前には杉山を、薩摩派総長の高島鞆之助の意を受けて台湾政策を児王総督に吹き込む役目と考えたが、これは浅見であった。今は杉山こそ在英ワンワールドの直参で、薩摩派総長の高島と副長樺山に在英中枢の方針を伝える一方、長州派首脳を目的方向に誘導する役目を果たしたと推察する。彼の著作の大半は、右の真相を隠す目的を以て、故意に偽情報を混じた「発信」と観るべきものである。


 ★満鉄案の淵源と児玉急死の企て

 明治38年7月、日露戦勝後の奉天に赴いた杉山茂丸は、満洲軍総参謀長・児玉源太郎の居室に泊まり、児玉副官の満洲軍参謀・田中義一中佐(士官生徒8期)を交えて南満洲鉄道の経営案を練った。大本営陸軍部副官・堀内文次郎中佐(当時)の言によれば、「関東州に軍政を敷いて、その地を租借して日本的な自治をしたのも、更には満鉄経営の計画を立てたのも、すべて杉山茂丸であった」(堀雅昭『杉山茂丸伝」)。杉山と児玉・後藤は、軍政による台湾経営の成功を満洲統治に応用せんとしたが、満洲は台湾と同様にはいかなかった。日露戦の最中は占領地に総督府を置いて軍政を敷き、大島義昌大将を関東(遼東半島)総督に据えたが、日露講和後に満洲の開放が問題となる。陸軍が徒に軍政を長引かせて外国人を締め出していては、やがて国際問題になることを憂慮した韓国統監・伊藤博文は、39年2月に大磯の私邸に井上馨、大山参謀総長、山県枢密院議長、児玉台湾総督兼参謀本部次長事務取扱、加藤外相ら関係者を呼んで満洲問題を論じた。席上、児玉は満洲(東三省)における総督制の実施を主張し自ら総督に就く意思を表したが、清国領の満洲に日本が総督を置くことはできない。結局、国際的配慮を重視する伊藤の主張により総督制を採らず、関東州(遼東半島)を租借して関東都督と関乗軍を置くこととなり、民政はイギリス東インド会社に倣い、南満洲鉄道会社が満洲を経営する〔自治策〕が採用される。これすべて、杉山の発案だと堀内は証言するのである。

 これより先、井上馨と渋沢栄一が満鉄を米国の鉄道資本家・ハリマンに一旦売却したが、小村寿太郎の猛反対に遇い、小村の進言で、満鉄を東インド会社に倣った国策会社とする案が9月になって閣議決定した。4月に参謀総長に就いた児玉は兼職の台湾総督を辞め、7月13日付で満鉄設立委員長を兼ねたが、総裁人事に当たる最中の23日に急死する。その後は杉山の強力な運動で、後藤が初代満鉄総裁(11月付)になるが、巷説に「児玉が死ぬ前夜、後藤は児玉に総裁就任を要請され、それを固辞したが、翌日の児玉の突然死により総裁を引き受けざるを得なくなった」というのは例の子供騙しである。児玉急死の前夜、両人が会して満鉄総裁人事を論じたのは事実だが、伝えられる会談内容はすべて後藤の□から出たもので、真否は分からない(古川薫『天辺の椅子』)。近来児玉の急死に関して後藤の関与が疑われだしたのも当然だが、1件はいかにも切迫した状況で行われたと見え、直情径行に走り、何らかの証拠を残した様子さえある。

 児玉の死の直前、杉山は後藤に電報を打ったが、その内容から杉山が児玉を見限って後藤に乗り換える意図が窺われるそうで、電文中に「朝鮮モ(満洲と)共二併呑スルコト」とあるので、満鮮政策に関し児玉と杉山らの間に食い違いが生じ、児玉が用済みにされたことが推察される(古川・前掲書)。児玉から後藤に乗り換えた杉山が、後藤を満鉄総裁に就任さすべく急死1件を企てたと思われるが、後藤自身は満鉄総裁にはあまり乗り気でなく、杉山から迫られて止むなく1件を決行した感がある。大義親を滅ぼすというが、あれほど親しかった児玉の急死1件を、杉山自身が発意したことはありえない。裏面で杉山に指図したのは在英ワンワールドを措いてあるまい。いずれにせよ、杉山がわざわざ『児玉大将伝』を著したのは、1件から世間の眼を逸らすためで、彼らの言葉で言う「発信」に当たる行為だと思う。因みに、私(落合)はこれまで杉山を在英ワンワールドの直参と推定してきたが、明治30年代になり、在英ワンワーールドの直参として杉山の上に立つ者が現れたように思う。堀川辰吉郎その人である。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)   <了> 


 以下、ブロガー記。*****

 後藤新平については、大杉栄との「関係」(諜報活動に伴う金銭授与など)が取り沙汰され、今では衆知の事実と化している。

 
 (★『疑史』第15回 なども参照されたい。 -左のカテゴリー『疑史』 から。)

 
 奇しくもただ今、アメリカと日本で首長(片や大統領、此方事実上の総理大臣)選挙という舞踏会が催され、それは連日これでもかというほど報道されているが、

 マスコミ総動員の茶番劇に過ぎぬ、という賢者の見解も日米両国の候補者を見れば肯ける。

 ありもせぬ「民主主義」を気取った一大ページェントもミスキャストでは台無し!というわけだ。

 **************

 偶々、わが「積読本」の整理中に目についた吉野作造の後藤新平宛書簡-
 (大正13年11月=大杉虐殺後1年余り後!)を以下に紹介しておこう。
 >>吉野作造選集 別巻 岩波書店 1997年3月24日、p41~42 より。

 <吉野作造-後藤新平-笹川良一>という繋がり=絡み合いも興味深いし、

 あの若き周恩来が駐日時、何とか聞きたかったのが吉野作造の講演会だったし、吉野宅へ何度も訪問した(果たせなかったが)ことも★周恩来『19歳の東京日記』(小学館文庫)には明記されており、

 <後藤新平-吉野作造-笹川良一>プラス 周恩来 という図式を「妄想」することも、

 少なくとも、思想的なそれとしては許されるだろう。

 ************

 以下、引用・紹介します。


 (大正13年11月23日 後藤新平宛 〔封書、封筒欠く〕)

 謹呈 久しく御無沙汰致して申訳ございません不悪御ゆるしを願ひます
 さて急に差迫った事なので風邪病臥中の不自由を忍びつつ、此手紙を捧呈します 失礼の段は之亦御宥しを願ひます
 用件は大坂(ママ)の国粋会幹事・笹川良一といふ青年は多分明朝御訪ねするだらうと思ひます 昨夕私の所へ見えました 
 思ふ仔細ありて病床で遇ひました際閣下に紹介して呉れとの事でしたが紹介は友人間の事 先輩に対しては軽々しく出来ぬ併し子爵は元来客を喜ばれるから往訪面謁を願って見たら可いだらう 紹介はしないが折を見てあなたの御人柄を子爵に御伝して置くからと申して分れたのでした

 笹川といふ青年は本年春、大坂で始めて遇ったのです 私を訪ねた目的は怪しからぬ非国民だとて謂はば厳重に詰責に参ったので 場合に依ては暴力にも訴へ兼ねまじき見幕でございましたが私が事理を尽して平素の宿論を卒直に述べると遂に自らの誤りを詫び夫れ以来私を先生扱ひにして非常に親みを有つ様になりました


 私の観る所では教養が乏しいので是非得失の判断を誤り無用の事に昂憤するの嫌はありますが相当に説明してやると直に納得して善に移る珍らしい青年です 
国粋会にも斯んな青年が居ると思へば頼もしくさへ感じて居ります 私がもし引続き朝日新聞に関係して居りまして大坂に参る機会が頻繁にあったら同君を通して国粋会の有志ともっと接触して見たいとさへ思ったのでありました
 
 兎に角一寸人にそゝのかされて禁酒演説の妨害に往て其の演説に感服して禁酒禁煙を決心したといふ程の男ですから之を適当に後援指導したなら社会の為になると考へて居るのでございます 
尤も御邸を御訪ねする目的は金銭上の援助を求むるのではないかと思ひますが決して徒らに乱暴する様の人物ではございませんから其の辺御ふくみの上然るべく御取扱を願ひます
相当子分もあってヒョット誤解するとまた飛んでもない事をやる素質はまだあると思ひますので此辺御参考までに申上げたいのです

 作日遇った際には子爵に多額の御無心をするなどの間違って居る事を申しましたら自分のやってゐる雑誌の新年号に御話を承りたいのだと申してゐました 大体閣下には好感を有ってゐる様に見受けました

 私一己の希望としてもあんな類の青年には是非御面会を願ひたいと思ふのですが十分に知っても居ないものを一時の印象に依て御薦めする訳には参りませんので只右あらまし御参考までに申上ぐるのです                               草ゝ不尽
   11月23日                            吉野作造
   後藤子爵閣下

 *************** 


 注:蛇足ながら、1899年大阪府豊川村(現箕面市)に造り酒屋の息子として生まれた
   笹川良一はこのとき25歳で、豊川村の村会議員に当選して政治活動を始める
   1年前のことである。 


 ★訂正

 上に「・・あの若き周恩来が駐日時、何とか聞きたかったのが吉野作造の講演会だったし、吉野宅へ何度も訪問した(果たせなかったが)ことも★周恩来『19歳の東京日記』(小学館文庫)には明記されており、・・」と書いた。例えば、1918年6月21日(金曜日)の日記には確かにこうある。

 ************

 6月21日(金曜日)   気候:雨

 【治事】
 朝、読書、10時に個人教授のところに行く。午後、友人への返信を数通出す。
 6(18)時、鉄卿、東美があいついで来て、 
 吉野博士を訪ねるが、会えず、帰る。
 【通信】 略
 
 *鉄卿とは留日仲間で〔同学会〕の組織者・陳鋼、
  東美とは劉のことで、共に恩来に経済援助をしていたという。(同文庫より)

 ***********

 しかし、再通読したところ、「日記」(小学館文庫版)では恩来の吉野作造訪問(会えずじまいだったが)に関する記述はこれだけで、「・・吉野宅へ何度も訪問した・・」と記したことは「日記」の範囲では誤りでしたので、訂正します。

しかし、同文庫の<注>にもあるように「・・・吉野作造は、かつて天津で教鞭をとっていたことがある。袁世凱の長男・袁克定の私教師でもあった吉野は、直隷督処翻訳官として参謀処付き将校に「戦時国際法」を講義し、北洋法政学堂(1907年天津に開校)では〔国法学〕〔政治学〕を講義して」おり、「周恩来も、南開学校時代から吉野の名前を聞き知っていたのかもしれない。」し、「1916年中央公論の巻頭論文で唱えた民本主義は、大正デモクラシーの根本思想となった。」ことから、恩来が吉野訪問を試みたのがこの日記に記された1度だけとは考えにくいのも事実です。
 

 

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)-1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)-1
  -台湾そして満洲へ外征のキーパーソン児玉源太郎と後藤新平
                                  ◆落合莞爾  


 ★台湾政策の根源は高島か、杉山か?

 明治28年4月1日、第1次伊藤博文内閣は台湾統治のために台湾事務局を置き、総裁を伊藤首相が兼務した。内務省衛生局長後藤新平は「台湾島阿片制度施行に関する意見書」、即ち阿片漸禁策を伊藤総裁に提出し、諒承された。29年4月2日、台湾事務局は新設の拓殖務省に移行するが、初代大臣高島鞆之助も之れを踏襲し、実行に移した。

 明治31年1月の陸軍首脳人事は、東京防御総督桂太郎中将が政治力を発揮したもので、薩摩勢の後退と長州派の躍進は眼を峙たしむるものがあった。陸軍3長官の人事では、陸相高島鞆之助中将(薩)を予備役に編入して桂太郎(長)が自ら之れに代わり、参謀総長は小松宮彰仁親王を元帥府に祭り上げて次長の川上操六中将(薩)が昇格した。従来の監軍はこの時に教育総監と改称されたが、第三師団長・寺内正毅少将(長)が初代総監に就いた。陸軍次官・児玉源太郎中将(長)は、後を中村雄二郎少将(紀州・長州派)に譲って第三師団長に転じたが、翌月になって急に休職することになった台湾総督・乃木希典中将(長)を継いで第4代総督となる。

 児玉は台湾最大の社会問題である阿片吸引問題を改善するため、総督府民生局長として後藤新平の割愛を内務省に要望する。総督副官に配された堀内文次郎大尉は宇都宮太郎と同期(士官生徒7期)で、宇都宮や樺山勇馬とともに高島鞆之助を参謀総長に推戴しようとした「起高作戦」の一員であった。後に中将に昇った堀内は、台湾総督府で児玉に親炙した経験を語り、「児玉と杉山は正に異体同心で、杉山の策を悉く児玉が実施した」と語っている。文化人としても知られる堀内の言は、その人格 からしても信ずべきである。
 堀内は、巷間に流れる児玉・後藤伝説の虚妄の訂正を意図したと思われるが、折角の言も世人に顧みられず、虚妄は今も増殖を続けている。その堀内も、杉山と高島の関係には言及していない。これは、高島が堀内ら股肱に対しても実状を隠したのか、逆に堀内が高島の秘密を知ればこそ上の言に止めたのか、定かではないが、あの 饒舌な杉山も高島についてほとんど語っていないのを見れば、杉山と高島の関係は極秘にされたことは慥か(たしか)である。いずれにせよ、高島が台湾政策を発案し、杉山を通してそれを児玉・後藤に授けたと観るべきでなく、台湾政策の根源はむしろ杉山であって、高島ら薩摩派の台湾関連事業でさえも、実は杉山の指導によるものと解すべきフシがある。

 ★「自分は隠れキリシタン」 後藤を生んだ水沢の伏流

 後藤新平は、水沢伊達家の小姓頭・後藤左伝次の長男として、安政4年(1857)に生まれた。安政3年生まれの南部藩上士の次男・原敬と、同年の日向都城藩士の次男・上原勇作を合わせた3人こそ大正時代の3大政治家で、その気宇と実績は現実に首相に就いた大隈重信・寺内正毅・山本権兵衛らを遥かに凌駕している。台湾政策の実行に関わった児玉と後藤を比べる時、後藤が児玉(というより、薩摩派首脳を除くどの日本人)よりも、1段深くワンワールドに染まっていたと思えるが、理由はその出自であろう。大正中期、上原元帥の命令で特種のケシを栽培し、純質アヘンの生産に励んでいた吉薗周蔵は、後藤新平から数回にわたりケシの栽培・利用に関する協力を求められたが、その際に後藤が指定した密会場所は、たいてい神田や中野のメソジスト教会で、そこで後藤は「自分は隠れキリシタンの家筋で、家には数百年以来の伝承がある」ことを明らかにした。水沢は独自の国際化政策を有した伊達家がキリシタンを集めた地で、水沢キリシタンの主頭・後藤寿庵の直系子孫が後藤新平である。

 寿庵は陸中磐井郡の藤沢城主・岩淵秀信の次男として、天正5年(1577)に生まれたが、主君の葛西氏が豊臣秀吉によって滅びると、長崎に落ちのびてキリシタンになり、迫害によって五島列島に逃れた時、五島姓を名乗った。寿庵は、京都の商人田中氏に紹介された支貪常長を通じて慶長16(1596)年に伊達政宗の家臣となり、伊達家中で武勇で知られた後藤信康の義弟となった。寿庵堰と呼ばれる大規模な用水を作り、また東北キリシタンの頭領として、元和元年(1621)ローマ法王パウルスニ世の教書に対する返信を送った寿庵だが、終焉の地は不明で、秘かに渡欧して欧州で卒したとの説がある。寿庵以来、水沢の地に伏流したワンワールドの精神は、2百余年の後に噴出する。すなわち新平の大叔父・高野長英であるが、その行蔵はここに記すまでもない。

 後藤新平の目ざましい出世は、家門の使命を自覚して自ら境遇を切り開いたことに因るものだが、彼を育てた安場保和と長与専斎にも目を向けねばならない。安場保和は天保6(1835)年に熊本藩の上士に生まれ、横井小楠門下の四天王に数えられた。戊辰の戦功で賞典金3百両を授かり、明治2年に太政官に出仕し、胆沢県大参事(県知事に相当)に任じるが、その折、水沢伊達藩士の子弟で当年13歳の後藤新平とその1歳下の斎藤実(後の首相・海軍大将)を書生にし、県庁の給仕に採用した。
 西郷隆盛の推挙で明治4年に大蔵省に入り、大蔵大丞を経て租税権頭に就任したが、その直後に大蔵大輔・大隈重信を弾劾する意見書を提出する。弾劾案は流石に否決され、提出者の安場は岩倉使節団に加えられて11月から欧米出張を命じられた。安場は民族主義的性向が強く、途中で嫌気がさして引き返したが、それでもこの辺りにワンワールドとの接点があるように思える。5年5月に帰国した安場は福島県権令に任じ、県令に昇ると、東京の荘村家で書生をしていた後藤新平を福島県に呼び寄せて6年5月福島第1洋学校に入れ、翌年には須賀川医学校に転校させた。8年12月、愛知県令に転じた安場は、須賀川医学校を卒業して鶴岡の病院に就職が決まっていた19歳の新平を愛知県に呼び寄せ、9年9月付で愛知県病院三等医とした。これを皮切りに新平は、名古屋鎮台病院雇医などを経て12年12月に愛知県病院長兼医学校長職務代理となる。安場は13年3月に元老院議官に転じるが、翌年愛知医学校長兼愛知病院長に昇進した後藤は、15年4月に岐阜で壮士の難に会った板垣退助の治療に当たって有名になる。新平が安場の娘カツ(慶応2年生)を娶るのはこの頃である。

 折から愛知病院長としての実績に注目していた内務省三等出仕の長与 専斎の招きで、後藤は明治16年1月に内務省に移る。長与衛生局長の   懐刀となった後藤は、23年4月から内務省に籍を置いたままドイツに私費留学した。この留学に際し、ミュンヘン医大に留学中の長与の長男称吉(慶応2年生まれ)が現地女に子供を生ませた1件を処理し、称吉を帰国させる密命を帯びた。だが、留学の意義はそれだけでなく、長崎の医師出身でワンワールドの上席であった長与専斎が、後継者と決めた後藤を在欧ワンワールド首脳に謁見さすのが真の目的であったと観るべきであろう。在籍のまま官職を辞しての私費留学は、前にも述べた陸軍少将・大山巌、宮内大輔・吉井友実らの例と同じで、この形に何らかの意味があるようだ。因みに、長与称吉の相手のドイツ女性は、その後歴史に残る社会活動家となり、また2人の間の混血児はドイツ人の家庭に入籍してその家名を名乗り、後年ジャーナリストとして来日し、わが国の最高機密を窺って世紀の大事件となったと囁かれている。奇談というべきだが、真否については未詳である。

(*因みにゾルゲの生年は1895年(明治28年)。鉱山技師のヴィルヘルムとロシア人ニナとの間に9人兄弟の1人としてソ連邦・アゼルバイジャン共和国の首都・バクー生まれ。)


 後藤は25年6月帰国、11月に内務省衛生局長に就く。その1年後に相馬事件に連座して収監されたが、27年5月に保釈出獄、12月には無罪が確定して原職に復帰した。28年4月、臨時陸軍検疫部長を兼務した児玉陸軍次官は、同部の事務官長を兼務して帰還兵の診察に当たる後藤新平の手腕に驚倒し、台湾総督府に迎える背景となった。後藤は総督府民政局長に就き、児玉総督、堀内副官らと共に、31年3月台湾に渡った。

 ★明治外征政策の流れは 在英中枢→杉山→松方

 愛知県令を4年半務めた後、元老院で数年くすぶっていた安場保和が、明治19年2月に福岡県令に就いたのは杉山茂丸の工作であった。全く進展しない九州の鉄道敷設を推進すべく、その前提として筑豊炭田の払下げを企んだ杉山は、払下げを実行すべき福岡県令に安場を就けようとし、安場の上司山田顕義を説得して、安場を福岡県令(7月から県知事)に就けることに成功する。20年3月、杉山は玄洋社の資金源として、海軍予備炭鉱として閉鎖中の筑豊炭田の払下げを頭山満に示唆するが、安場知事も結託して、翌年農商務大臣・井上馨により払下げが実現した。福岡県内の広大な鉱区権を安揚知事が玄洋社に払下げ、頭山満はこれを炭坑主に売却して政治活動の資金を作ったのである。安場が県知事に就くと九州の鉄道敷設は一気に進み、21年6月には九州鉄道に免許状が下りた。
 25年、第一次松方内閣は日清戦に備える軍拡予算の獲得を目指し、総選挙で大選挙干渉を行なう。安場は福岡県知事として杉山の要請に応え、選挙干渉を強行した。史上悪名高い選挙大干渉は、松方内閣が発案して玄洋社に実行を依頼したかに見えるが、もともと杉山の方から、軍拡予算とそのための選挙干渉を松方に指示したとの説がある。

 鉄道敷設といい軍拡予算といい、杉山の視点は常に国家的問題にあり、
常に国際政治のレベルから判断していた杉山は、たとい官員表に名を掲げず議席を有さずといえども、立派に政治家である。いや、当時の日本最大の政治家と言ってもよい。対清・対露における積極策を一貫して保持し、非戦派揃いの長州派政治家を常に対外積極策に誘導する役割を果たした杉山が、英露2大帝国の世界的戦略抗争たるグレート・ゲームに、英国側として加わっていたのは明らかで、彼の背後は在英ワンワールド以外にあり得まい。安場は、福岡県知事以来、明らかに杉山の手の者だが、ワンワールド薩摩派の外郭的存在とも見られ、安場が育てた女婿・後藤新平も薩摩派と繋がっていて当然である。尤も後藤は、長与の配下に入ってからは視野が更に広がり、日露戦後には在露ワンワールドにも接触していくのである。

  続く。
 



●疑史 第48回
 ●疑史 第48回 高島鞆之助と樺山資紀  

 明治初期から日露戦争前にかけて日本の政界を真に牛耳っていたものは、実は薩摩勢-正確に言えば在英ワンワールド薩摩支部で、初代総長は吉井友実、その後を高島鞆之助が引き継いだとの推断を述べてきた。総長の座は、大正期に入って高島から上原勇作に受け継がれるのだが、それは後述することとし、今月は右の背景たる世界事情すなわち★グレート・ゲームについて略述したい。
(ブロガー註:★に関連して、田中宇の国際ニュース解説 http://tanakanews.com/080903russia.htm の一読をお薦めします。)

 グレート・ゲームとは、一般には地政学上の最重要地たる中央アジアの覇権を巡る大英帝国とロシア帝国との戦略的抗争とされる。初期のグレート・ゲームは1813年から1907年にかけて行われた。インド亜大陸を領有した大英帝国は、中央アジアでロシア帝国と境を接することとなったが、元来遊牧文化が支配するこの地帯には明確な国境線はなく、ただ砂漠に点在する都市を結ぶ通商交通路があるだけで、しかもそれら都市が両帝国のいずれに属するか、まだ定まっていなかった。そこで勢力圏の拡大を目指す両帝国は、中央アシア全土にわたり、直接戦闘以外のあらゆる情報・外交工作を用いて暗闘したが、中心地はアフガニスタンであった。南下の勢いを強めるロシアがアフガニスタンをインド侵略の拠点とするのを虞れたイギリスは、土豪シャー・シュジャー及びランジート・シングと三者同盟を結び、シュジャーの地域覇権を擁立する目的で第一次アフガニスタン戦争を始めた。時に1838年、阿片戦争の前年であるが、イギリスの支援をアテにした傀儡政権は長続きせず、シュジャーは殺され、イギリス軍は一旦占領したカブールから撤退するが、その帰途現地民に襲撃されて民間人を含めて全滅した。時に1842年、阿片戦争で清国が降伏した年である。

 アジア・アフリカの各地に侵入し、土候を軍事的に屈伏させた欧州列強は、やがて列強相互の軍事・非軍事的抗争に移行した。その典型がグレート・ゲームであるが、英露協商の成立を以て終焉したとされる。英露協商は1907年、日本の対露戦勝の直後に結ばれ、アフガニスタン・イラン・チベットにおける両帝国の勢力範囲を定めた条約だが、これで解決した位なら所詮はアフガン問題に帰するわけだが、勿論そうではない。航空機発達以前の国家戦略理論たる地政学によれば、大陸国家ロシアが帝国主義の論理で勢力拡張を目指せば、ユーラシアを南下して沿岸に幾つかの不凍港を獲得する以外にない。ロシアの南下策には、インド亜大陸ルートのほか、極東ルート及びバルカン・小アジアルートの3つがあったが、いずれの方面においても究極的に立ちはだかるのは、海洋国家イギリスである。日露戦争の結果、極東ルートを閉されたロシアが、残る2ルートのうちイギリスの抵抗の大きいインド亜大陸ルートを避けて、当面バルカン・小アジアルートに絞ったのが英露協商であったが、これ位ではゲームは解消しない。

 そもそもグレート・ゲームとは、アフガン・イランに止まらず、上の3ルートを包摂してユーラシア全体で行われてきた在英ワンワールド(英王室十ロスチャイルド)とロマノフ王朝の間の全地球的な闘争である。大英帝国が解体して連合王国となり、ロマノフ帝国が共産政権を経てロシア共和国となった現在においても、ゲームが全然終焉していないのは、先年のプーチンによるイギリス系石油資本の押収などを見れば明白である。因みに、在英ワンワールドと在欧国際金融資本は言うまでもないが、これに対立したロマノフ王家も今日のプーチンも、所詮はワンワールドの一員と観るべきであろう。ワンワールドの最高中枢は、世界史進行のための効率的手段として、配下の勢力を英露の2大集団に別け、互いに戦わせる弁証法を用いて、人類社会の改新を早めてきたものと思われる。

 両帝国の対決は全ユーラシア的に展開するから、対決線上にある国家はすべてゲームに巻き込まれるわけで、新興の明治日本とて例外ではなかった。日本は世界ワンワールド配下の在英・在欧・在米の各勢力によって開国から文明開化への道筋を付けられて維新を実行したが、明治以後は在英ワンワールドの対露グレート・ゲームのための重要な駒として働かされたのは、日本そのものが海洋国家であることと、ロシアに近い地政学的な特性である。その折、在英ワンワールドが日本長略の拠点としたのが他ならぬ薩摩勢であったのは、薩英戦争が契機であろう。薩摩勢にもワンワールド思想を受容する素質があったのは、薩摩人と島津家が、古来の東南アジア貿易により国際性を獲得していたからである。

 1492年、スペインを追われてポルトガルに逃げ込んだ1神教徒はカトリック教徒の装いで明国に渡来し、海禁政策に付け込んで、マカオを拠点とした日明間の仲介貿易を興した。彼らは日本に生糸・鉄砲・火薬をもたらし、代わりに銀銅の地金と男女労働力(奴隷)を持ち出した。交易先ですぐに混血するのが彼らの戦略で、その例はゴア・マカオ・ボルネオなど各地で見られるが、日本でも同じことをしたが、皇国史観に溺れた史家はそれを記さない。

 南蛮貿易の拠点であった摂泉州境の堺と薩摩・日向の沿岸部で大勢生まれたポルトガルとアジアの混血人を、マカオではマカイエンサと呼ぶが、日本ではなぜか【タカス】(高須・鷹栖)と呼ぶらしい。因みに吉薗周蔵の親族には赤毛・茶眼が多く、周蔵が調べたところ、母方の隼人族の数代前に西洋人船員の種が入っていたという。鹿児島城下の鍛冶屋町方限は伊集院の鉄砲鍛冶に淵源するが、ここにもタカスが混入した。鍛冶屋衆は薩摩藩では郷士として藩政に参加したが、薩英戦争後に英人からワンワールド思想を学び、英国に圧されて強行した戊辰戦役を革命と見立てて自ら実行者に任じ、維新政府と東京新宮廷と御親兵の要職を占めて、この国の実権を握った。

 タカスの存在を別にすれば、長州とて戊辰戦功では薩摩に劣らぬから、維新政府と政府軍における要識者の数は薩長互いに匹敵した。大西郷と彼に従う村田新八以下の多くの俊秀が西南役で世を去り、新政府の最高権力者・大久保が暗殺されてからは、政府・陸軍における権力はむしろ長州に傾いた。それが明治30年の陸軍人事において顕れたのが、桂太郎による高鳥鞆之助の追放である。

 明治初年以来、政府・軍部内における抗争の本質は薩長の確執で、これにグラバー直参の大隈や機会主義者の陸奥が介入し、外部から土佐の民権派がつついたが、大局をみれば薩長がミニ・ゲームを争っており、遂に薩摩が政府(伊藤・井上)と陸軍(山県・桂)を長州に譲り、僅かに金融(松方)と海軍(樺山・山本権兵衛)を手中に残す結果となったが、この色分けだけで具眼の士なら、いずれが在英ワンワールドの直系となったか分かる筈だ。

 薩摩が外征を主張し、長州(木戸)がこれに反対する図式は、明治4年の台湾征討問題に始まる。朝鮮問題に関し日清間の武力対決を主張する高島・樺山の薩摩勢を擁した第一次松方内閣に対しても、長州は山県も伊藤も外征に消極的で、軍拡実現のために企てた大選挙干渉においても、秘かに協力の手を抜いた。対清戦争は日本が朝鮮半島を掌握して自ら対露緩衝地帯を構築するためで勝算も充分だったが、常に非戦を唱えていた伊藤が首相として対清開戦を宣言するに至ったのは、歴史の皮肉である。以後も、薩摩(松方)と長州(伊藤・山県)が交替で政権を執るが、常に薩摩が外征派で長州が非戦派であった。この間、しきりに長州派領袖を煽動して外征策を鼓舞したのが玄洋社の杉山茂丸で、その背後を在英ワンワールドが直接押していたと観るべきである。例の大選挙干渉では杉山と玄洋社の活動が目立つが、事の真相は杉山が松方内閣に協力したというより、松方内閣の方から杉山に協力したと囁かれている。とすれば、高島・樺山の外征論も、畢竟在英ワンワールドから指令されたもので、その中継人は杉山だったと観るべきこととなる。

 日清戦後は日露戦が焦点になる。これは日本が英国を代理する戦争で、実質的にグレート・ゲームの本番である。杉山は対露戦推進の目的で伊藤を調略し、資金を提供して作らせたのが政友会で、陸軍長閥の総帥・山県が恐露病者で非戦的なのに鑑み、伊藤を主戦派に取り込む目的であった。杉山はあらかじめ児玉源太郎と桂太郎を取り込み秘密結社を作り、対露決戦を必ず実行するために、政友会を開戦派にして国論統一を図ろうとし、予想される山県の反対に対しては、伊藤を首相に就けることで山県を政権から外し、伊藤内閣に対露戦を実行させた後はすべてを伊藤の功績とし、戦争中の財務は松方と井上馨に任せるというものであった。そんな密約を知らぬ伊藤は33年10月、第二次山県内閣に代わり政友会内閣(第四次伊藤内閣)を樹立し、杉山に警視総監就任を打診して断られると、財政難打開のための外債募集を杉山に依頼した。杉山が31年に渡米してモルガンと纏めてきた興業銀行設立案を第三次伊藤内閣が潰した際、伊藤は杉山の国際金融面における不思議な実力を知ったからである。しかし、伊藤が本心から親露派であることを知った杉山は、秘かに伊藤を見限って山県に乗換え、対露戦のために日英同盟が必要と訴えて恐露病者山県の賛同を得た。桂・児玉との会談で杉山が打ち出した奇策は、伊藤をロシアに派遣して日露同盟を持ちかけさせ、これに焦慮するイギリスの方から日英同盟を申し込ませようとするものであった。栄光ある孤立を診る英国との同盟に加えて、政界第1人者の伊藤を捨て駒にする発想は破天荒で杉山の如き浪人から出る筈もなく、在英ワンワールドの指令と観るほかない。34年春から日英同盟工作が秘かに勧められ、5月に首相を辞した伊藤は桂太郎に後を譲り、35年1月から欧米巡遊に出る。伊藤が外遊に出た翌月の2月12日、桂内閣により日英同盟は締結された。ここで政治的生命を実質的に断たれた伊藤は、その後も非戦主義と大陸消極策を唱え続け、安重根を操った玄洋社と明石元二郎麾下の朝鮮軍により、ハルピン駅頭の露と消える。グレート・ゲームに巻き込まれた日本が必死に対応してきた軌跡が明治史で、杉山を政治ボランティアくらいに観ていては、歴史は理解できない。薩長のミニゲームで勝利を得たつもりの長州は、実は杉山に操られていただけである。

 負けた形の薩摩は何をしていたか。それを知るには政・軍界の顕職を棄てた高鳥鞆之助の行蔵から探るほかなく、本稿はこれまで吉井・樺山・松方の軌跡により、それを証明したつもりである。

 


●原爆投下(16)
 鬼塚英昭著『原爆の秘密 国外編』、『原爆の秘密 国内編』を紹介してきたが、
 『国外編』のほうは中途で『国内編』へ進んだので、
 最後にその目次と引用文献リストを紹介しておきます。
   


●原爆の秘密「国外篇】目次

私はどうして「原爆の秘密」を知りえたのか[序として]

第一章 アインシュタイン書簡と「原爆カネ儲け協定(カルテル)」
「アインシュタイン書簡」という伝説
ウラン鉱石を支配したロスチャイルド
ヒトラーはなぜ原爆開発を中止したのか
かくて狂気の舞台はイギリスからアメリカヘと移った

第二章 誰が何のために原爆をつくったのか
 偽装機関「管用合金管理委員会」の実像
チャーチルとルーズヴェルト、その素性と素顔
ナチス・ドイツ帝国を育てた巨大カルテル
ウラン鉱石はニューヨークにあった
「国際巨大資本」ロスチャイルド=モルガン=デュポンの暗躍

第三章 モルガンとデュポンが支配した「マンハッタン計画」
新しくて巨大な軍需産業の誕生
ロックフェラー=メロン対モルガン=デュポンの抗争
コロンブスの航海以上の冒険
プルトニウム爆弾への「1ドル」という報酬

第四章 地獄の魔王が姿を見せたアラモゴード
原爆の最高指導者スティムソン陸軍長官
原子爆弾は8個製造されていた
ハンフォード施設とプルトニウム生産プラン
原爆の父の子は「リトルボーイ」と「ファットマン」
 恐ろしくて不吉な沙漠の閃光

第五章 原爆投下のための周到工作
原爆投下はイギリスとアメリカの協定書により実行された
「私は大統領を辞めたい」ルーズヴェルトの怪死と原爆
トルーマン新大統領はスティムソンの操り人形だった
かくて完成した原爆投下のシナリオ

第六章 「無条件降伏せよ」という奸計
「無条件降伏」の由来を探る
無条件降伏はトルーマンに受け継がれた
「モルガンが送り込んだエージェント」駐日大使グルーの正体
プリンシプルのない男・白洲次郎の物語

第七章 ポツダム宣言の演出者たち
新国務長官・バーンズの手練手管
ポツダム会談はなぜ、延びに延びたのかスティムソンと昭和天皇の見えざる対決
「黙殺」発言を誘導した手先たち
「それでも原爆は日本に投下する」

 **************

●引用文献一覧「登場順」

レスリー・R・グローブス『原爆はこうしてつくられた』冨永謙吾十実松譲訳/恒文社 1964年
デニス・ブライン『アインシュタイン』鈴木主税訳/三田出版会 1999年
ジョン・ガンサー『回想のローズベルト』清水俊二訳/六興出版 1950年
藤永茂『「闇の奥]の奥』三交社 2006年
アルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』広瀬隆訳・解説/小学館 1994年
ユースタス・マリンズ『世界権力構造の秘密』天童竺丸訳/成甲書房 2007年(*1997年 日本文芸社)
ジェームス・S・アレン『原爆帝国主義』経済研究所訳/大月書店 1953年
ウォルター・ランガー『ヒトラーの心』未邦訳/ニューヨーク 1972年
トマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』鈴木主税訳/福武書店 1994年
戦史研究会編『原爆の落ちた日』文芸春秋 1972年
W・H・マクニール『大国の陰謀』実松譲十冨永謙吾訳/図書出版社 1982年
ジョン・ワイツ『ヒトラーの外交官』久保田誠一訳ノサイマル出版会 
1995年
ピーター・プリングル十ジェームズ・スピーゲルマン『核の栄光と挫折』浦田誠親訳/時事通信社 1982年
金子敦郎『世界を不幸にする原爆カード』明石書店 2007年
歌田明弘『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた』平凡社 2005年
ロバート・E・シャーロット『ルーズヴェルトとホプキンス』 1948年(『現代史大系6』所収 村上光彦訳/みすず書房 1957年)
W・L・ローレンス『Oの暁』崎川範行訳/創元社 1950年
藤永茂『ロバート・オッペンハイマー』朝日新聞社 1996年
産経新聞取材班『ルーズブェルト秘録』産経新聞社 2000年
岡田良之助十立花誠逸十出極晃編『資料マンハッタン計画』岡田良之助訳/大月書店 1993年
寺崎英政十マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文芸春秋 1991年
小林孝雄『極秘プロジェクトICHIBAN』日本放送協会 1948年
ピーター・グッドチャイルド『ヒロシマを壊滅させた男オッペンハイマー』池澤夏樹訳/白水社 1982年
リチャード・ローズ『原子爆弾の誕生』神沼二真十渋谷泰一訳/紀伊国屋書店 1995年
カイ・バード十マーティン・シャーウィン『オッペンハイマー』河遵俊彦訳/PHP研究所 2007年
春名幹男「ヒバクシャ・イン・USA」岩波新書 1985年
山崎正勝十日野川静枝編著『増補 原爆はこうして開発された』青木書店1990年
J・ウィルソン『原爆をつくった料学者たち』中村誠太郎十奥地幹雄訳/岩波書店 1990年
リチャード・ローズ『原爆から水爆へ』小沢千重子十神沼二真訳/紀伊国屋書店 2001年
ジェームズ・バーンズ『ローズベルトと第二次大戦』井上勇十伊藤拓一訳/時事通信社 1972二年
広瀬隆『赤い楯』集英社文庫 1996年
A・マキジャニ十J・ケリー『原爆投下のシナリオ』関元訳/教育社 1985年
ロナルド・タカギ『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』山岡洋一訳/草思社 1995年
アントニー・C・サットン『アメリカズ・シークレット・エスタブリッシュメント』末邦訳 ニューヨーク 1983年
足立壽美『カウントゼロ 原爆投下前夜』現代企画室 1990年
力―・アルベロビッツ『原爆投下決断の内幕』鈴木俊彦十岩本正恵十米山裕子訳/ほるぶ出版 1995年
加藤哲郎『象徴天皇制の起源』平凡社新書 2005年
エリス・ザカリアス『密使』土居通夫訳/改造社 1951年
白洲次郎『プリンシプルのない日本』新潮文庫 2006年
白洲正子『遊鬼 わが師わが友』新潮社 1989年
青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社 1997年
白洲次郎十白洲正子十青柳恵介十牧山桂子ほか『白洲次郎の流儀』新潮社2004年
有馬頼寧『有馬頼寧日記(五)昭和十七年~昭和二十年』山川出版社 2003年
柴田哲孝『下山事件 最後の証言』祥伝社 2005年
徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』新潮社 2007年
外務省編『終戦史録』北洋社 1978年
仲晃『黙殺『ポツダム宣言の真実と日本の運命』NHKブックス 2000年
迫水久常『機関銃下の首相官邸』恒文社 1954年
西島有厚『原爆はなぜ投下されたか』青木書店 1995年
P・M・ブラケット『恐怖、戦争、爆弾』田中愼次郎訳/法政大学出版局1951年
大井篤十冨永謙吾訳編『証言記録 太平洋戦争史』日本出版協同 1954年

  <了>

 


●原爆投下(15)
 ●第6章 天皇と神と原爆と

 ★原爆で死んだ人々を見つめて  


 私は前項で、昭和期最高の聖者といわれる賀川豊彦が『天よりの大いなる声』の中で広島の8月6日を「地面は美しく掻き清められたようになり、死骸はなにも残ってはいなかった。物質はすべて蒸発してしまったのだ。気化したのだ。いや、光化したと言った方が美しいだろう」と書いているのを紹介した。
 『原爆の秘密』「国外篇」「国内篇」と書き続けてきた私のこの本は、この項をもって終わりとなる。
 私は8月6日の広島と8月9日の長崎の惨禍の姿を描かずにきた。それは、書くに忍びなかったからである。しかし、ここに、2つだけ、惨禍の様子を伝えたい。私は8月6日の広島についてたくさんの記録を読み続けてきた。その中で、心に残るものの中から一つの物語を記すことにする。

 財団法人広島県警友会編集発行『原爆回顧録』の中に収録されている、平川義明(当時18歳、練習所巡査)が語る1場面である。

 ・・・
 「お願いします」
 と岩壁の端に座っていた1人の老婆が私にひよわい(ママ)声をかけてきた。半裸になっている老婆の背中は、まっ赤な生身をむき出しにして、皮膚がぼろぎれのように腰のあたりまで垂れ下がっていた。
 「お兄さん、助けると思うて、私の背中に小便をして下さらんか。火傷には小便が1番いいのじゃそうです・・」
 虫のような小さな声だった。〔中略〕
 それだけがその日の良心であった。私はうなずいて老婆の後に回り、赤い背中に向かってやうやくかまえた。老婆はやっと動かせる両手を胸のあたりに組んで、不器用に合掌した。そしてしきりに念仏を唱えていた。私は、かまえただけで身体がよろめいて、どうしても果たせないのであった。
 「おばあさん、駄目です。御免」
 しばらくして私は断わった。
 「いいえ、ありがとうございます」
 老婆は急に涙声になり、
 「あなただけでした。私の声に耳をかしてくださったのは」
 と、感謝のこもった声でかなりはっきりと答えた。
 老婆は、私に背を向けたまま合掌して深く頭を垂れると、次の瞬間、私の股間に向かって上向きに倒れてきた。老婆の頭に押され、私はそのまま一緒に後ろへ倒れた。老婆は、それっきり息をひきとった。ひきつった目だけが空を見つめていた。・・・

 私はこの『原爆の秘密』を書こうと思ったとき、まず原爆被害者に多数会おうと決心していた。しかし、数多くの文献を読み漁っているうちに考えが変わってしまった。私が想像していた以上に、原爆投下までの謎の深さに私は戦慄感を憶え、原爆関係の文献の中に身も心も埋まってしまった。その間、私は会いたいと思う人物(死んでいるか、生きているかは別にして)のリストを作成していた。何人かの人に手紙を出してはみた。しかし、彼らは生きていても80歳を超えていた。返事はこなかった。(返事をよこした)福島菊次郎は例外中の例外であった。

 私の住む温泉町別府市には、広島原爆に遭った人々のための保養センターがある。また、長崎、広島で原爆に遭った人々も、何人かは別府に住んでいる。私は考えを変えた。それはいつであるかは分からない。偶然に賭けてみようと思ったのである。予備知識もなく、ある1人の原爆被爆者に会ってみたい、そしてその人の人生を知り、私の本がどのように変化するのかを試してみたいと思うようになったのである。
 広島に住む山岡健志さんは、私の過去の本を読んでくれている。私は手紙を差しあげ、自分の要件を書いた。返事が来て、広島に行った日は2007年10月18日であった。彼は私を東広島にある、長城飯店という中華料理店に連れて行った。そこで私は、掛井千幸さん(当時78歳)にお目にかかった。
 掛井千幸さんは2冊の本を持参していた。彼女たちは1949年に「広島市女原爆遺族会」を結成した。そして「流燈」という名の同窓会誌を発行している。1977年に出た第3編と1979年に出た第4編を彼女は私に見せてくれた。彼女の同意を得て、私は別府に持ち帰り、この2編をコピーした。

 この同窓会誌の中の「第二総軍司令部の入隊」(第3編)からその前半部分を、「両親の三十三回忌に想う」(第4編)から後半部分を引用する。重複する部分を避けたためである。また、第4編には、第二総軍司令部のことが書かれていず、8月6日とそれ以降のことが第3編より詳しく書かれているためである。両編をあわせて読むことにより、掛井千幸さんと原爆との関係が鮮明に甦ってくる。

 ・・・
 第二総軍司令部の入隊 24回生 掛井千幸

 命を捧げるつもりで第二総軍司令部の募集試験を受けたのは20年7月、日本製鋼蟹屋工場の1室であった。幸いにも合格し、いよいよ8月1日に仮入隊の通知を頂く。〔中略〕

 いよいよ8月1日、第二総軍司令部の門をくぐり仮入隊となる。見廻せば市女のみでなく、県女、山中高女もきておられ、それぞれ心構えの出来た顔、落着いた凛々しい乙女の姿があった。早速、任務は前線と司令部を結ぶ暗号モールス要員である事、1日は仮入隊で8日より入隊し軍人と共に第一線に配属されることになっていた。行先は高知県。土佐湾に地下壕があり、その中で行われる様子である。すぐ研修教育を受ける。暗号は数字を5桁ずつ、縦、横共に5段ずつあり、どの部分がその日の何に当るのかは分からないが、毎日組立てが変更になるので早く記号を捕えるよう指導される。1週間の待機中勉強するようにと、重要書類とされた手引きの用紙と、記号の計算方法と数字の練習宿題を渡された。書類を手にすると、要員の任務の重さを思わざるを得なかった。

 帰宅し父母に1週間の自宅待機を伝えると、父は厳しい食糧事情の広島にいるよりも父方の田舎行きを勧めた。1人で行くのは気が重かったが、せめて父の心に素直になりたくて行く事にし、8月6日に帰って来るようにした。早速3日の朝5時前に起きると、母は何もまざらない御飯を炊いて私のために、おにぎりを作って下さっていた。その白さに思わず「後でお米が足りなくなるよ」と言えば、ニッコリ笑って「何とでもなるよ、心配しないで食べてちょうだい」と手渡して下さる。電車も未だ走っていない時間の薄暗い道を、父が「駅まで送ってあげる。切符が手に入ればよいが」と言って天神町の家を出る。薄明りの中を見送って下さった母
のうす水色のワンピース姿。これが別れになるなんて誰が思っただろう。

 両親の三十三回忌に想う
 父と朝五時頃天神町の自宅を出て駅迄歩いた。長い列の末やっと手にした切符をしっかり持ち、父と最後の別れになることも知らず2人は、微笑ながら広島駅を後にした。田舎で口にするものは皆父母にも食べさせて上げたい物ばかり、心の重い日々だった。いよいよ帰広する日、駅迄出て汽車を待っていると、その時、運命の8時15分であった。
 汽車の開通を待ってやっとの思いで帰ったが、矢賀から汽車は不通、見たこともない怪我人の行列、父母の顔が変る変る目の前に浮び足は飛ぶ様に市内に入る。が、出た時の広島の姿はもうどこにも無く、ガレキの山々、電車の焼けただれた線路づたいに、我が家の方向へと一生懸命、死人の男女は全然分らない。唯赤黒く、むごいの一言。西練兵場近くになる。馬がお腹一杯にふくれ黄色の腸を裂け目から出して死んでいる。始めは目をそらしていたが、至るところでさけようもない。やっと相生橋にさしかかる。麗の水槽には身体が半分漬かったままで唸り声を上げている人。元安川の両岸辺に、川面に死人の連なり。まるで地獄の中に異色の人間が立ちすくんでいる。我が家跡へもう一息、運動靴の裏は灰でもう熱い、アーやっと我が家らしき水槽、玄関らしき石畳、庭の空地迄見通せる焼跡、台所の食器の散乱、ビンの溶け跡、父や母の姿ぞ何処、きっときっとどこかで生きていて欲しい。天に向って精一杯祈る。
 だが、21日間の後、其の場所で白骨となった両親に会えようとは・・
 あれから33年の歳月、やがて私の歳もあの頃の両親に近くなった今日、我が子は、19歳と、15歳。当時両親亡きあと1人死ぬる事も考えたが、やはり一生懸命生き抜く事に意義を感じた。母校市女の4年生の夏、自ら体で学んだ教訓であった。・・・

 私が掛井千幸さんに会ったときの第1印象は「この人は本当に原爆の惨禍の中にいた人なのか」ということであった。私の前にいる人は、微笑んで、原爆の体験を私に語り続けていたからである。
 「原爆症はでなかったのですか」
 「ええ、ずーっと元気です。父の田舎に行ったら、食べるものがなかったのです。毎日、トマトばっかり食べていました。それがよかったのかもしれません」
 彼女は、父母の骨が発見される過程も話してくれた。どのように戦後を生きてきたかも話してくれた。しかし、彼女の書いた文章に優るものを、どうして私が再現しえようか。
 彼女は幾度も死を決意した。そして、「やはり一生懸命生き抜く事に意義を感じた」
 その苦しみの中から、この世を生き抜く力となる〔微笑み〕が生まれてきたのだ。
 彼女は乙女のように微笑んでいた。年を超えた美しい人である。「ああなんと美しい人なんだろう・・」と私は思い続けていた。
 この「両親の三十三回忌に想う」には前文がある。ここにその前文を記すことにする。

 ・・・
 歳月というものは心の疵をも水に流し、又癒すことも出来ると或る人は云う。だが私には拭えども拭えども消し去る事の出来ない、昭和20年8月6日がある。
 第二次世界大戦の最中、学業も取り捨てひたすら必勝を願って、飢えを忍びながら汗した学徒動員、15歳の手に被服廠の作業、日本製鋼蟹屋工場の作業、それでも未だ足りず第二総軍の通信兵に志願した。当時は幸にも採用になった。両親に取っては1人子である私の入隊がどんなに心痛んだ事だったのか。親心を知るよしもない私には唯、世相の真直中に存分な存在でありたかった。・・・

 彼女の級友たちは皆、広島にいて原爆死したのである。彼女が生きているのは奇跡に近いのである。そして、彼女は微笑みつつ、自らの過去を語り続けたのである。
 私はこの場面を書きつつ、1つの出来事を想い起こしたので記すことにする。それは、数年前のある夜のことである。私は小さな居酒屋で、日本の大企業の社員に英語を教えているイギリス人講師と酒を飲みつつ雑談をしていた。彼が私に「酒池肉林」とはどういう意味なのか、と問うた。私は居酒屋の主人にボールペンと紙を借りて、この日本語を英詩にし、彼に見せた。すると彼は「第二次世界大戦」の詩を作ってほしい、教材に使いたいと言った。私は次のような詩(英詩を日本語訳する)を即興でつくり、彼に渡した。

あなたは第二次世界大戦で
日本が敗北したと思っている
そうだ、日本は敗れ去ったのだ
がらくただらけの廃墟となってしまった
しかし、そのがらくただらけの町中で
子供たちは微笑みをたやさず遊んだのだ
私はしっかりと億えている
あの微笑みが今の日本をつくったのだ
見よ、その微笑みが、今も、これからも
日本を美しい国にしていくのだ

 私はこの原爆という、重い重いテーマに取り組んでやっと書き終えることができた。
 そして、私は自分が仕掛けた〔賭け〕に勝つことができた。全く予備知識もなく、偶然に賭けて私は掛井千幸さんに会った。そして、あの手記にあるような名文にも巡り合えた。いかなる作家でも、広島のあの日、あの時を、彼女のようには描けないであろう。簡潔にして的確、そして詩情が悲しみの中から漂ってくるではないか。

 私は、この重い重い物語を書き続けて、最後に原爆のほんとうの悲劇を伝える掛井千幸さんの名文を読者に提供できてよかったと思う。
 私は。〔賭け〕に勝った。私は〔微笑み〕を私の心の内に持ちえた。これ以上の幸せがあろうか。ここで、ながい、ながい物語の終わりとする。

  〔了〕 


 ★引用文献一覧登場順  
 但し、以下は『原爆の秘密 〔国内編〕のもで、〔国外編〕文は後記します。

 
ゴードン・トマス十マックス・モーガン=ウィッツ『エノラ・ゲイ』松田銑訳 TBSブリタニカ 1980年
『米軍資料 原爆投下の経緯』奥住喜重+工藤洋三訳 東方出版 1996年
上坂冬子『東京ローズ』中央公論社 1995年
読売新聞社編『昭和史の天皇』角川文庫 1988年
リチャード・ローズ『原爆から水爆へ』小沢千重子十神沼二真訳 紀伊国屋書店 2001年
リチャード・ローズ『原子爆弾の誕生』神沼二真+渋谷泰一訳 紀伊国屋書店 1995年
★岡田良之助十立花誠逸十山極晃編『資料マンハッタン計画』岡田良之助訳大月書店 1993年
黒木勇司『原爆投下は予告されていた』光人社 1992年
日本児童文学者協金十日本子どもを守る会編『続・語りつぐ戦争体験』草土文化 1983年
NHK広島放送局原爆取材班著『原爆搭載機「射程内二在リ」』立風書房1990年
広島市編集兼発行『広島原爆戦災誌』 1971年
織井青吾『原子爆弾は語り続ける』社会評論社 2005年
財団法人広島県警友会編集・発行『原爆回顧録』 1988年
★岡田良之助十立花誠逸十山極晃編『資料マンハッタン計画』大月書店 1993年
宍戸幸輔『広島原爆の疑問点』マネジメント社 1991年
宍戸幸輔『広島が滅んだ日』読売新聞社 1972年
宍戸幸輔『広島・軍司令部壊滅』読売新聞社 1991年
畑俊六『続・現代史資料4・陸軍「畑俊六日誌」』伊藤隆十照沼康孝編・解説 みすず書房 1983年
NHK出版編『ヒロシマはどう記録されたか』日本放送出版協会 2003年
広島県編集・発行『広島県史 原爆資料編』 1972年
畑俊六『元帥畑俊六獄中獄外の日誌』小見山登編著 日本人道主義協会 1992年
中条一雄『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』三五館 2001年
諏訪澄『広島原爆 8時15分投下の意味』原書房 2003年
原爆遺跡保存運動懇談会編『広島爆心地中島』新日本出版社 2006年
淵田美津雄『真珠湾攻撃緯隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年
奥住喜重十工藤洋三訳『米軍資料 原爆投下の経緯』東方出版 1996年
長崎総合料学大学平和文化研突所編著『新版ナガサキ 1945年8月9日』岩波ジュニア新書 1984年
林三郎『太平洋戦争陸戦概史』岩波新書 1951年
ジョージ・ウェラー『ナガサキ昭和20年夏』アンソニー・ウェラー編/小西紀嗣訳 毎日新聞社 2007年
渡部悌治『ユダヤは日本に何をしたか』成甲書房 2003年
湯川秀樹『原子と人間』甲文社 1948年
有馬哲夫「元CIA長官A・ダレスの『原爆投下阻止工作』の全貌」月刊現代2008年1月号所収
トマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』鈴木主税訳/福武書店 1994年
小畑弘道『被爆動員学徒の生きた時代』たけしま出版 2007年
仁科芳雄『仁科芳雄往復書簡集I 現代物理学の開拓』中根良平・仁科雄一郎他編/みすず書房 2006年
ロバート・K・ウェルコックス『ジャパン・シークレット・ウォー』未邦訳 ニューヨーク 1995年
湯川秀樹十朝永振一郎十坂田昌一編著『核時代を超える』岩波新書 1968年
湯川秀樹十朝永振一郎十坂田昌一編著『平和時代を創造するために』岩波新書 1963年
ジョセフ・マークス『ヒロシマヘの七時間』日本経済新聞外報部訳/日本経済新聞社 1969年
アルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』広瀬隆訳・解説/小学館 1994年
中国新聞社編『証言は消えない 広島の記録I』未来社 1966年
有末精三『終戦秘史 有末機関長の手記』芙蓉書房 1976年
家永三郎十小田切秀雄十黒古一夫編『日本の原爆記録1』日本図書センター 1991年
戸田秀『ドキュメント被爆記者』健友館 2001年
松野秀雄『あの日のナガサキ』市民出版社 1985年
長崎の証言の会編『地球ガ裸ニナッタ』汐文社 1991年
泰山弘道『完全版長崎原爆の記録』東京図書出版会 2007年
秋月辰一郎「死の同心円』講談社 1972年
家永三郎十小田切秀雄十黒古一夫編『日本の原爆記録(11)』 日本図書センター 1991年
奥住喜重十工藤洋三十福林徹『捕虜収容所補給作戦 B29部隊最後の作戦』私家版 2004年
林えいだい監修『戦時外国人強制連行関係資科集(I)俘虜収容所』明石書店 1990年
小路俊彦『長崎医科大学潰滅の日』丸ノ内出版 1995年
広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ』岩波書店 1985年
W・L・ローレンス『Oの暁』崎川範行訳/創元社 1950年
今堀誠二『原水爆時代』三一新書 1959年
中島竜美「〈ヒロシマ〉その翳りは深く 被爆国政府の責任の原点を衝く」『月刊社会党』1985年7月号所収
マルセル・ジュノー『ドクター・ジュノーの戦い』丸山幹正訳/勁草書房1981年
大佐古一郎『ドクター・ジュノー武器なき勇者』新潮社 1979年
大佐古一郎『平和の勇者ドクター・ジュノー』蒼生書房 1989年
松本重治『昭和史への一証言』たちばな出版 2001年
高松宮宣仁『高松宮日記』中央公論社 1997年
入江相政『入江相政日記(第三巻)』朝日新聞社編/朝日文庫 1994年
志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会 1969年
朝日新聞社編『原爆・500人の証言』朝日新聞社 1967年
福島菊次郎『ヒロシマの嘘』現代人文社 2003年
週刊朝日編集部編『1945-1971 アメリカとの26年』新評社 1971年
吉川清『「原爆1号」といわれて』筑摩書房 1981年
小野勝『天皇と広島』私家版 1989年
濱井信三『原爆市長』朝日新聞社 1967年
児玉隆也『君は天皇を見たか』潮出版社 1975年
ジョン・ハーシー『ヒロシマ』石川欣一十谷本清訳/法政大学出版局 1949年
スティーブン・ウォーカー『カウントダウン・ヒロシマ』横山啓明訳 早川書房 2005年
日本基督教青年会同盟編『天よりの大いなる声 広島原爆体験記』東京トリビューン社 1949年
永井隆『長崎の鐘』日比谷出版社 1949年

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 ★印はダブり。
 
 




●原爆投下(14)
 ●第6章 天皇と神と原爆と

 ★「神の御心のままに」逝った人々  


 秋月辰一郎の『死の同心円』については前述した(「第4章」185頁参照)。
「すべてを奪われてすっとした。これ以上失うものはない」と本の中で書いた医師である。彼は次のように自分の経歴を書いている。

 ・・・
昭和15年春、京大医学部を卒業した私は、結核医を志して郷里の長崎に帰り、まず長崎医大病院の放射線科に入局した。そのころ、放射線科教室は末次助教授が辞任して永井隆助教授が新しい部長に就任していた。したがって、私は永井先生の最初の直弟子だった。
 永井先生はレントゲン学者としてもカトリック信者としても、アララギ派の歌人としても有名で、ユーモアに富み、明るい風貌で〔銃後の街〕の中心的存在だった。それに対して、家族や姉妹に肺結核の患者をもつ私は、浄土真宗を信じて、内向的な性格だった。
 したがって、ややもすれば永井先生の外交的な人類愛やロマン的詩情を白眼視していた。つまり、性格的には先生と合わなかった私は、1年間の勉強をすませると、
 「さらに博土号めざして研究するよう」
 といってひきとめてくださる先生の忠告を退けて、大学病院を離れた。仏教的人生観を近代医学によって生かした結核療養所の建設を、長崎の銀屋町で開業中の高原憲先生とともにしたいと考えたからであった。そのとき、私の姉妹2人はすでに結核で斃れていたのである。
 高原先生は働きざかりの50歳。浄土真宗の信者で、優れた結核医だった。・・・

 秋月辰一郎は運命のいたずらか、カトリックが経営する浦上第1病院の院長になる。この過程は省略したい。私は吉川清の『「原爆1号」といわれて』と秋月辰一郎の『死の同心円』には、何か不思議な深い感銘を受けた。
秋月の本を読んでみよう。神が描かれている。日本の神でなくキリスト教の神である。息子を原爆でなくした母親に対する彼の気持ちが書かれている。

 ・・・
病院を焼かれ、自分たちの持物をすべて失っているのに、なおここに踏みとどまって看護をつづけてきた私たちに、この母親は特別の感情をもったようだった。
 「注射も薬もなくなって、すまなかったな」
 私はだれにも聞こえないようにつぶやいた。遺骸は夕方になってから、例の場所で火葬にした。林君の家は仏教だったので、私は夕闇に立ちのぼる赤い煙を見つめながら、
 「帰命無量寿如来、南無不可思議光」
 と2行唱えた。それはカトリック教徒の、
「天にまします吾らの父よ」とまったく同じであった。
 「死せる人々の霊魂が天主の哀憐によって安らかに憩わんことを」
 というだれもの共通の願いであった。
 翌朝、遺骨とあり合せの紙に書いた死亡診断書を持たせて、お母さんを大村に帰した。彼女は息子の遺骨を抱いて、看護婦や患者たちに何度も頭を下げて、病院の焼け跡を出ていった。・・・

 秋月は「原爆症、放射能障害と、いろいろ名前をつけることはできる。しかし、それはあくまで名前であって、本体は何かわからない。それは最愛の子や妻を奪ってゆく魔物であった。原子爆弾の中心地から5百メートルから2千メートルの距離で被爆した人々が、この40日間のあいだにほとんど死んでしまったのである」と書いている。この事実に基づいて、『死の同心円』という本のタイトルが付けられたのである。原爆後40日間のことが書かれている。良い薬がなかったのである。もし、あのとき、日赤がジュノー博士の申し出を受け入れていたら・・。

 ・・・
 しかもその40日は、混乱の真っ最中で、科学も救助も医療も報道も、きわめて不十分な活動しかできなかった。人々は焼けただれた芋畑や夏草の中で、ある者は親兄弟に見とられながら、ある者は幼い子どもの泣き声を聞きながら、ある者はたった1人で看護を受けられず死んでいったのである。〔中略〕
 だが、それにつづく40日間は、医師としての私にまったく異った苦しみと悲しみを与えた。なぜなら、それ以後の死は、原爆症であれ、化膿症との合併症であれ、じょじょに人間の生命を破壊していったからである。医師としての私は、確実に迫りくる、しかしどうしてもまぬがれることのできない死と対決せざるをえなかった。・・・

 この文章を読む人々は、長崎の惨禍を知り慄然とするはずである。広島よりもその惨禍はひどかったのである。これは最初から計算し尽くされていた、プルトニウム爆弾の威力であった。アメリカが原爆を落としたのは、早期戦争終結のためではなく、ソ連の進攻のためでもなく、ひたすら、原爆産業のためであったと私は書いてきた。キリスト教国アメリカが、キリスト教徒(特にプロテスタント)が、長崎に原爆を落としたのである。この点をしっかりと把握して、心の中に銘記して以下の秋月の文章を読んでほしい。

 ・・・
私は相ついで死んでゆく修道女たちが、最後まで自分たちの不幸を、
 「神の御摂理です」
 といって、苦悶の中に微笑をうかべていたことが、どうしてもうなずけなかった。これは8月9日の被爆以来、いや昭和19年にこの病院にやってきて以来、片時も忘れず、自分に問うてきたことである。私は少し意地わるくいった。
 「あれほどまでにお祈りと人々への奉仕を行なってきたあなたがたに、こんな苦しみを与え給う神がわからない」
 それでも、修道女たちは神を信じた。
 「私たちの罪です。人間の罪です。神様のせいではありません。秋月先生はいまにきっとカトリックになって、負傷者を肉体的にも霊的にも救うかたです」
 私はくすぐったくなった。穴にはいりたかった。しかし、このような祈りと奉仕に生きる人々にまで、こんなむごたらしい傷を与える爆弾を恨み、それを投下したアメリカ軍を呪った。さらにこの無謀な戦いを盲目的に進めた日本の政府を恨んだ。だが、この怨念と怒りをどこにもってゆくことができよう。つぎからつぎへと恨みつづけて、結局はとほうにくれるばかりであった。
 爆心地から5百メートル以内で被爆した人は、8月15日までにすべて死んでしまっていた。
 5百メートルから千5百メートルの距離で爆撃をうけた人々は、最後まで私に神の摂理を説いた修道女たちのように、8月15日以降9月下旬までにつぎつぎに倒れていった。常清女学校にいた23名の修道女と修道女志願者は、こうして全員が死んでいったのである。・・・

 「神の御摂理です」とあるが、この〔摂理〕は、神の意志、神のはからいで死んだことを意味する。もっと俗に表現するならば、修道女たちは、彼女たちが信じた神によって殺されたことを意味する。では、どうして、神は修道女たちを殺したのであろうか。
 「私たちの罪です。人間の罪です・・」
 という言葉の中に明らかに語られている。私たち人間には原罪があるというのである。
 しかし、私は、キリスト教徒にはまことに申し訳ないのであるが、原罪を背負って生まれてこなかったのである。私の父も母も、その先の父も母も原罪とは全く無関係であったのだ。
 原爆投下が神の摂理なら、私はここまで、その原因を追究する必要もなかったのである。

 ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』(1949年)は、1946年9月、シカゴ・サン紙に連載され、単行本は大ベストセラーとなった。広島にあったジェスイェット教会のことが書かれていたからである。その1部を引用する。

 ・・・
 ラサール神父の背中には、窓ガラスの破片が幾十となく埋っているのだ。板の担架ではひどく痛かったに相違いない。市の外れ近くで、焼け自動車が狭い路にエンコしている。よけてまわらねばならない。片棒かついでいた者が、暗さのために足場が見えず、深い溝に落ち込んだ。ラサール神父は地べたに放り出され、担架は2つに折れてしまった。修道院からリヤカーを取ってこようと、1人の司祭が先発したが、間もなく、とある空家の傍で1台見つけて引いてきた。ラサール神父をこの荷車にのせ、それから先の凸凹道を押して行った。修道院長は聖職につく以前医者だったので、司祭2人の傷口を消毒し、きれいにシーツを包んで寝かせた。心づくしの世話を受けて、2人は神に感謝した。・・・

 私はこの全米で大反響を呼んだハーシーの『ヒロシマ』を読んで悲しくなった。どうしてか?主役がいないのである。誰が広島に原爆を落としたのか、の主役がいないのである。ただただ、荒廃し続ける8月6日の広島を描いているだけなのである。
 しかし、長崎にははっきりと主役がいたのである。それは「神の御摂理です」の中にはっきりと主役が明らかにされている。秋月の本を読みながら、中断してハーシーの『ヒロシマ』を読んで、私はそうか、と納得した。罪があるのは日本人なのだ。真珠湾の裏切り者たちに神の御摂理が登場したということなのである。神が真珠湾の裏切り者に罰を与えたということである。これは、日本人にとって、由々しき問題である。
 スティーブン・ウォーカーの『カウントダウン・ヒロシマ』(2005年)に次のように書かれている。

 ・・・
 ただひとり★、はっきりと自責の念を表明したのは、〈エノラ・ゲイ〉の尾部射撃手、1995年に他界したボブ・キャランだった。被爆者たちの写真や映画、特に焼けただれた子供たちの姿を見たときのことを振り返り、次のように述べた。「罪の意識が一時的なものであれば、救われたんだけどね。見なければよかったよ」。戦後、彼は航空機の設計者となった。銃座に飾って広島まで肌身離さずにいた写真の赤ん坊のほかに、さらに3人の子供をもうけた。原子爆弾によるホロコーストの悪夢は、年をとるに従ってますます心を苦しめるようになる。「核分裂爆弾や核融合爆弾を思うにつけ、わたしたちは神様の国へ行けないのじゃないかと心配になるよ」・・・

 広島に原爆を投下した操縦士ティビッツは「爆撃を指揮したからといって、眠れなくなったことなど1度もない」とうそぶいている。スティーブン・ウォーカーは次のようにも書いている。

 ・・・
 〈エノラ・ゲイ〉が離陸した滑走路は、今では砕けたサンゴで覆われ、半ばジャングルに呑み込まれている。かつては島で1番警戒の厳重だった極秘の場所、爆弾組み立て棟は廃墟となり、朽ち果てた基礎の上に雑草が繁茂しているだけである。隊員たちが眠り、食べ、国へ手紙を書き、戦争が終わるのを祈った第509混成航空群の敷地も、ジャングルと化した。標識もなければ銘板もない。鬱蒼としたジャングルが人の進入を拒む。ここにいた人たちは、もうずいぶんと前に家へ帰ってしまったのだ。・・・

 私は原爆投下の原因を探して長い旅を続けてきた。眠れぬ夜の連続だった。悪夢を見続けた夜だった。あの「エノラ・ゲイ」のリーダー・ティビッツは眠れぬ夜などないと語った。彼を神がしっかりと守っているのが理解できた。それが神の御摂理であることも私は理解した。
 中国新聞社編『証言は消えない 広島の記録I』の中に、カトリック宣教師のドイツ人司祭ウィルヘルム・クラインゾルゲ(帰化して日本名・高倉誠)へのインタビュー記事が載っている。彼は広島原爆で被爆した。その高倉誠の原爆観である。

 ・・・
 人間は原罪のために神の恩恵の手から落ちたのです。この世の悪は神が与えたものでなく、人間の祖先が神の恩恵にそむいたために生まれたものです。原爆も個人が招いた苦難でなく、人類が招いた苦しみです。病気や貧乏は苦しいが、それは肉体の苦しみです。だから私の心には病気のときでも、いつも平安と喜びがあります。キリストが十字架で死んだため、多くの人が救われるのです、神の御心のままに罪をつぐなうだけです。
 一見すると、日本人好みの美文調である。しかし、読者よ、この美文の中に隠れている神に思いを馳せられよ。「神の御心のままに」という言葉を熟慮されよ。そうすれば、彼らが信じ続ける神なるものの正体が理解できよう。
 賀川豊彦★は日本が生んだ偉大なる聖者である。日本基督教青年会同盟編『天よりの大いなる声・広島原爆体験記』(1949年)に、賀川豊彦は「序」を書いている。

 ・・・
 そして、8月6日の朝、午前8時15分がきた。一瞬にして広島が消しとび、16万人の生命が蒸発してしまった。
 地面は美しく掃き清められたようになり、死骸はなにも残ってはいなかった。物質がすべて蒸発してしまったのだ。気化したのだ。いや、光化したと言った方が美しいだろう。・・・

 賀川は広島のあの惨禍に眼を向けない。私はあの人々の苦しみを書こうとしたが書けなかったのだ。なにが、気化なのだ、何か光化なのだ。

 ・・・
 「-汝、心鈍きものよ! 汝、何ぞ悟ること遅き?」
 ガラリヤの湖辺を歩き給うキリストが弟子を叱るように、私達を叱っていられるように思った。-それは、黙示録の言葉がそのまま新しい時代の予言にあてはまるからであった。
 「-血の混りたる雹と火とありて、他にふり下り他の3分の1、焼け失せ、樹の3分の1焼け失せ、もろもろの青草、焼け失せたり-天は巻物の如く去り行き・・他の王たち、大臣、将校、富める者、強き者、奴隷、地主の人々みな洞と、山の岩間にかくれたり・・」(新約聖書黙示録六-八章)
 空想文学だとのみ思っていた黙示録が、私の眼の前の問題となった。
 私は、しかし、黙示録の本質をも考えた。結局真正なる社会の本質は創造のための犠牲、保存のための謙譲、再創造のための贖罪愛による外、道なく-それはキリストの教える民の罪を負う小羊の道であるということであった。・・・

 私は賀川豊彦のこの文章を読んで理解した、黙示録に登場する悪魔の正体を。悪魔は創造し破壊し、小羊たちを殺し、彼らの肉をも喰らうことを。小羊たちは犠牲となり、謙譲を強要され、再び原爆が投下される日まで、贖罪愛に生きよ、と神が説いていることを。
 そして私はまた理解した。原爆を計画し、製造し、投下した人々はすべてキリスト教徒であったことを。
 
 ・・・
 この宇宙創造の愛の意識されるまで、黙示録の記述が、そのまま進行するのだということであった。
 それで、日本の滅亡を予覚しながら、頭は少しも混乱しなかった。世間がさわがしくなるに反し森の中の湖水の如く透徹して行くことを感じた。・・・

 私は賀川豊彦のこの文章を読み、賀川豊彦なる聖者の本質を知った。日本の滅亡を予感してきた私は、この本を書きつつ、眠れぬ夜をすごし、妄想が白日夢となる日々を生きた。賀川豊彦は「湖水の如く透徹して行くことを感じられる」とうそぶく。それは、黙示録を演出し続ける神の意志を、そう、神の御摂理とやらを賀川豊彦が如っているからに他ならない。
 賀川豊彦が日本のキリスト教会における輝ける聖者である。九州の地に、長崎にも偉大なる聖者がいた。その人の名は永井隆である。

  彼が1949年に出版した『長崎の鐘』から引用する。

 ・・・
原子爆弾合同葬弔辞
 昭和20年8月9日午前10時30分ころ大本営に於て戦争最高指導会議が開かれ降伏か抗戦かを決定することになりました。世界に新しい平和をもたらすか、それとも人類を更に悲惨な血の戦乱におとし入れるか、運命の岐路に世界が立っていた時刻、即ち午前11時2分、1発の原子爆弾は吾が浦上に爆裂し、カトリック信者8千の霊魂は一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。その日の真夜半天主堂は突然火を発して炎上しましたが、これと全く時刻を同じうして大本営に於ては天皇陛下が終戦の聖断を下し給うたのでございます。8月15日終戦の大詔が発せられ世界あまねく平和の日を迎えたのでありますが、この日は被昇天の大祝日に当っておりました。浦上天主堂が聖母に献げられたものであることを想い起します。これらの事件の奇しき一致は果して単なる偶然でありましょうか? それとも天主の妙なる摂理でありましょうか?・・・

永井隆博士もまた、他のキリスト者と同じように考えている。「カトリック信者8千の霊魂を一瞬に奪ったのは、間違いなく、聖母マリアに献げられるように神がはかった〔摂理〕であるというのである。神も聖母も、血を求めて人々を殺戮してやまぬ存在であると語っているのと同じではないのか? 私にはそのように思えてならない。黙示録の演出者が神である証しがここにある。

 ・・・
日本の戦力に止めを制すべき最後の原子爆弾は元来他の某都市に予定されてあったのが、その都市の上空は雲にとざされてあったため直接照準爆撃が出来ず、突然予定を変更して予備目標たりし長崎に落すこととなったのであり、しかも投下時に雲と風とのため軍需工場を狙ったのが少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだという話をききました。もしもこれが事実であれば、米軍の飛行士は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされたものと解釈されないこともありますまい。
 終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き小羊として選ばれたのではないでしょうか?・・・

 私はプルトニウム爆弾は最初から長崎を目標としていたと書いた。「その都市〔小倉〕の空は雲にとざされてあったため」は虚構であると書いた。8月8日、八幡は焼夷弾爆撃を受け、heavy smokeであり、決して、clouded やcloudyではなかった、と書いた。煙霧であり、雲ではなかったのである(「第3章」127頁参照)。それにしても永井隆は奇妙なことを書いている。
「神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされた」の後の、「世界大戦争という人類の罪悪の價いとして」日本が攻撃され原子爆弾が落とされたと書いている。「終戦と浦上潰滅との間に深い関係がある」とも書いている。
 私はこの文章を読み続けて、やっとキリスト教の何たるかを理解できた。それは、簡単に説明するならば、血の臭いのする宗教である、との一言に尽きる。
 たしかに、スティムソンは、長崎を狙った。1つは三菱兵器工場である。そこで製造された魚雷が真珠湾で使われたからであり、もう1つは東洋の聖地(カトリック教徒にとってのみ)である浦上を狙ったのであった。プロテスタント、ユダヤ教の交じりあったキリスト教がローマ・カトリックの聖地に狙いを定めたのである。よくある話ではないか。彼らがやりそうな話ではないか。だから犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き小羊は、ローマ・カトリックの信者だけでよかったのだ。
 これは信者間の問題としては通用する。しかし、最初から原罪なんぞに関係のない長崎の市民にとっては迷惑千万もはなはだしい論理である。国際金融寡頭勢力、ロックフェラー、モルガン、ウォール街が、神になり代わって原爆を長崎に投下したことを、キリスト教徒も認める時が来たのである。アーメン! とだけ唱えている時は去ったのである。

・・・
これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから神は未だこれを善しと容れ終わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間始めて神はこれを受け納め給い、人間の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ終戦の聖断を下させ給うたのであります。・・・

この文中の「神の言葉」の代わりに、「神の代理人」のスティムソンを入れて、読者は読みなおさなければならない。日本の都市を攻撃し続け数百万の犠牲者を出しながら、スティムソンは天皇に「まあだだよ!」と言い続けた。やっと2発目のモルガン=デュポン連合の造り給いしプルトニウム爆弾を投下して、「もういいかい?」に答えて「もういいよ」と言った。スティムソンは天皇の詫びを聞き、ここに天皇は自らの地位の不変を与えられ、スイスの銀行へ財産を移し終えた。2人して、「では、日本人よ、ごくろうさん」といったのである。
 最後に天皇の軍は、千人ほどのアメリカ人捕虜を(なかには少人数のオランダ人やイギリス人が含まれていたが)現人神の命令よろしく、彼らを神隠しし、奇跡をスティムソンに見せて、戦後、戦犯からまぬかれたのである。こんな目出度い話はそうそうあるまい。永井隆の言葉を続けよう。

 ・・・
信仰の自由なき日本に於て迫害の下4百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き小羊ではなかったでしょうか。この小羊の犠牲によって今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が教われたのであります。・・・

 私はこう言いたい。神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き小羊たちが、日本にいるかぎり、神はこれを犠牲にしようと、もっと恐ろしい爆弾を日本に落とすでありましょう、と。
 さて、もう1度、秋月辰一郎に話を戻そう。秋月辰一郎医師と永井隆の再会は、原爆投下から3ヵ月がすぎた11月であった。彼が院長として活躍した病院は聖フランシスコ病院となった。秋月辰一郎は書いている。

・・・
永井先生にとってこのカトリック修道会経営の療養所は、自分の病院といってもいいような存在だった。ところが、人もあろうに、仏教信者として有名な高原誠先生をバックに、自分のもとから去っていった弟子の秋月が赴任したのである。永井先生はひどく驚いた。そして不適当だと思った。
 「浄土真宗信者の秋月君がカトリック修道会の病院に行くなんて・・彼は自我が強く、陰気な性格だ。神父や修道女たちとうまくやっていけるものか。たちまち衝突して辞めるだろう」
 先生は周囲の人にこう洩らしたという。・・・

 秋月辰一郎は「〔永井】先生は被爆の2年も前から、X線による放射能症に悩んでおられた。したがって、先生の著書や報道を通じて、多くの人々は先生が原爆症の代表的患者だと思っているが、じつはX線と原爆と、放射脳障害の二重苦を負っておられたのである」と書いている。
 長崎の聖者の1面を私たちは知ることができる。私はある医者から、秋月辰一郎と同じ話を聞いている。「彼は原爆の前から慢性白血病患者だったんだ」と、その医者は私に具体的に語ってくれたのを思い出す。
 「原爆の日、永井先生は大学病院で外来の診察中だった。大学は全滅し、上野町の自宅では最愛のみどり夫人が亡くなられた」と秋月辰一郎は書いている。また、「先生は爆心地から10キロ離れた三山町に疎開した・・10月15日には三山町を離れて上野町の旧宅跡に帰ってきた」とも書いている。秋月辰一郎の『死の同心円』から引用する。

 ・・・
〔永井〕先生は肉体を蝕まれ、衰弱が激しくなるにつれて、つまり白血病の進行と反比例して、被爆地ののろしとなり、全国の耳目を集めた。信仰的にも人間的にも、先生は、浦上の信徒が、長崎の人々が復興するための中心的存在になった。その文才、詩情、心情、絵心、そういったものが、先生の肉体の衰えとは逆に、やがてはなやかに開花していくのである。
 先生が長崎の原爆を世界に紹介した功績は大きい。【原爆の長崎】【長崎の永井】というイメージが日本全国を風靡した。しかし、その訴えが、いささかセンチメンタルにすぎ、宗数的に流れてしまったきらいがないではない。そのために、長崎の原爆は、永井博士が1人で証言を引き受けたような結果になってしまった。放射能の二重苦に悩まされ、肉体的に疲れ果てていた先生は、原爆というものを宗教的にとらえるほかはなかったのだろう。・・・

 私は永井隆博士の〔神の摂理〕について論じたのである。それはまた、長崎と神の関係を論ずることであった。広島とは全くといってよいほどに異なり、神が長崎を支配し続けようとしていたのである。その代理人を永井隆博士が務めていたのである。
 秋月辰一郎は、永井隆の『ロザリオの鎖』の一部を引用している。彼は永井隆博士に「・・この汚れた戦災者根性が、爆心地浦上の再建に禍いを及ぼしていることも疑いありません。汚れを気にせず、低きに甘んじている私らに、どうして新しく明るい文化を造り出す力がありましょうか」と問うたのである。永井隆博士は次のように答えたのである。

・・・
「口を開けば戦災者だと叫ぶ。原子爆弾にやられたんだと自慢気にいう。-けんかに負けたことが何の自慢になります? 彼も人間、我も同じ人間。知恵と努力が足らなかったから、原子爆弾にやられたのではないでか?」
 「世界戦争の終止符となった爆心点という意味で内外人は毎日見物に来ている。しかしこの雑草荒るるがままの荒野は私ら浦上人にとって恥でこそあれ、誇りではないのです。浦上人が誇ることができるのは- 」
 秋月君はききょうの花を引き抜いて、まじまじと見つめた。
 「この雑草を刈り取って香り高い文化の都を建設した暁のことです」・・・

 もう少し、秋月辰一郎の本を読んでみよう。昭和天皇が長崎を1949年5月に行幸したからである。

  ・・・
昭和24年5月、天皇が長崎に行幸されるというニュースを、私は多良岳の家で聞いた。天皇は焼けて黒ずんだ医大の3階屋上から被災地を視察され、1キロ離れた自宅から運ばれてくる重症の永井先生は拝謁を仰せつけられるという。
その5月27日、長崎全市は興奮にわきたった。医大の学長も、稲佐小学校につくられた救護所で被爆者を一手にひきうけた有富先生も感激に涙しているという。
 私はそれを聞いて悲しかった。釈然としなかった。なにをいまさらというのが、いつわりのない自分の気持ちであった。
 私はけっして、天皇陛下を戦犯第1号などと思ったことはない。その点では、しごく平凡で、穏健な日本国民の1人である。しかし、遅すぎた平和を思い、開戦の日の勅語を思い、どうしても素直に熱狂の渦の中にはいっていけなかった。・・・

『入江相政日記』のその日「5月27日(金)」の項には「・・それより長崎医大、ここでお迎えした学生の中には又例の薄笑の顔が見えた。屋上で御展、市長の奏上、学長の御説明の後、生残りの当時の教授、及び原爆で夫が亡くなった当時の教授夫人にお会ひの後お降りかけた2階で永井隆博士にお会いになる。2人の子どもをお引き合わせたりして少し宣伝がすぎるようだ」と書かれている。
 この天皇の行幸を機に長崎は生まれ変わろうとする。秋月辰一郎はその変わりゆく長崎を鋭く描いている。

・・・
いまはどうだ。ヤミ商人の復興、物欲の繁栄にすりかえられてしまったではないか。私はそれを思うと痛恨に耐えなかった。しかし、大部分の長崎の人たちは、原爆の惨禍が縁となって、平和と文化国家建設を唱えられる天皇陛下をお迎えできたことを歓喜したのである。
これがポイントになって、「怒りの広島」に対して「祈りの長崎」が強調されるようになった。原爆投下も神の恩寵と思い、汝の敵を愛するカトリックの精神は偉大だが、それがいつとなく戦争の残虐や弾圧に対する怒りとすりかえられていったのである。・・・

 私は「拳を握りしめ、過去を振り返れ」と幾度も書いてきた。「神の摂理」とか「神の恩寵」の意味を、怒りをもって振り返る以外に日本の未来はないのである。「民主主義」とか「平和」の言葉も同様である。平和とは何か? こんな汚れちまった言葉を捨てる時が来ているのではないか。この言葉は「たいらに、たいらげる」という意味である。せめて和を翰にかえるべきではないか。「平和都市・広島」よりも、「輪の都・広島」とか、長崎がいい。
 「わのみやこ」という古語を復活させ、汚れちまった、天皇好みの、アメリカ好きの言葉を捨ててはどうだろうか。やまとし、うるわし、わのみやこ広島、そして長崎である。
 輪とは手をつなぎ円を描くことである。怒りを込めて、涙をながして、手と手をつないで輪となすのである。そのときこそ、日本が本当に美しい国になるときである。神の摂理とか神の恩寵とか、平和とか、どうでもよい言葉を輪の中へ投げ捨ててしまったらどうであろうか。

  ★「神の御心のままに」逝った人々  <了>
 
  続く。 


 
 ★参考までに、『果てしなき戦線』(日本の百年-8 ちくま学芸文庫版)の第3章から、

 「イーザリーへの手紙」を引用しておきます。p495~6。 

 
 **********

  〔142〕イーザリーへの手紙

 8月6日、広島に原爆攻撃をおこなったエノラ・ゲイ号に原爆投下のサインを送った観測機機長イーザリー(1919~)は、12年後、言動に異常をきたし、酒乱の行動に出たり、郵便局を襲ったりするようになったため、精神錯乱者として復員局の病院に収容された。現在では正常に復したと伝えられているが、精神異常の主な原因は広島への原爆投下にもとづく〔罪悪感〕だといわれている。
 1959年夏、鈴木千鶴子ほか29人の広島の少女たちは病床のイーザリーにあててつぎのような手紙を書き送った。

 「ここに署名している私たち広島の少女一同は、あなたに心からごあいさつをお送りいたします。
 私たち少女一同は、こんどの戦争で幸いにも死だけはまぬがれましたけれども、広島に投下されたあの原爆によって、顔や手足や体に傷をうけたものでございます。〔略〕
 最近、私たちは、あなたが広島のあのできごとのために罪の苦しみに悩まされ、その結果、治療のために病院に入れられてしまったということを知りました。
 私たちが、いまこのお手紙をさしあげるのは、あなたに深い同情の気持ちをお伝えするとともに、私たちがあなたに対して敵意など全然いだいていないことを、はっきりと申しあげたいからでございます。
 あなたは、おそらく、ただだれかの命令であのことをなさったのだと思います。あるいは戦争を早く終わらせ、人命を助けたいとお考えになったのかもしれません。でも、あなたももうご存じのように、爆弾によっては、この地上から戦争を無くすことはできないのです。〔略〕
 私たちは、あなたに対して友人としての気持ちを持たなければいけないと知りました。そして、あなたご自身も私たちとおなじく戦争の犠牲者なのだと思っております。
 早く、ふたたびご丈夫になられて、〔戦争〕という野蛮なものをみんなの力で無くそうという、りっぱな仕事をしている人たちの仲間にはいってくださることをお祈りいたします。」(『朝日ジャーナル』 1961年10月22日号) ************
  
 



●原爆投下(13)
 ●第6章 天皇と神と原爆と

 ★天皇美談だけが残って、責任は消えた   


 天皇裕仁は、1947年12月5日から8日まで、広島県を巡幸した。広島市の編による「天皇行幸録」(1948年)を中心に天皇のかのときの姿を追ってみよう(小野勝『天皇と広島』1989年、より引用)。

 ・・・
アトム広島御展望
 この日、広島の空は乳白色の雲が空を覆い、周囲の山々、瀬戸の島々は霧に包まれて御遠望は十分でなかった。けれども、それはあの日焦土と化した約4百万坪の地域を陛下に御示しする為の天のなせる業かの感があった。
 放送局のマイクが遠慮なく陛下の御顔近くに差し出されて御声をキャッチする。「割合に建物が出来たネ」と濱井市長を顧みられた陛下は、御足を階段に向けられた。

 市庁舎周囲の路上から万歳、万歳の声が湧き起った。屋上の御姿を見つけた市民の歓呼である。陛下は思わず御足を留められた。そして御帽子を右手に高く幾度も幾度も打ちふられながら地上の歓呼にこたえられた。一際高く上る地上の万歳は百雷の如く屋上に轟いた。〔略〕

(*以下、「子供たちの〔天皇讃歌〕の作文等の紹介も略す」

 次に児玉隆也の『君は天皇を見たか』(1975年)から引用する。全く異なる天皇像が描かれている。

 ・・・
笑徴だ(宮本六襄・会社員・31歳)

 私たちは、天皇を2度見ました。
 1度目は、終戦直後、私が原爆孤児の寮に収容されていた小学生のころです。天皇は殿さまのようでした。2度目は46年(*昭和)の広島訪問でした。そのとき私は「天皇は象徴やなか、笑徴や、恥や」と思いました。広島にはもっと早く来るべきでした。しかも、自分の意思で。

(下口輝明・農協勤務・37歳)
 1度目の原爆孤児院では、天皇が来るというので施設の昼メシがごちそうでした。天皇よりも食べものを覚えています。天皇陛下は、あーそお、あーそお、とだけいいました。ぼくらの関心は、チョコレート色の車についている菊の紋章が、純金かメツキかに集中しました。
 46年の天皇は、慰霊碑までまっすぐ歩いていって、まっすぐかえってしまった。いまだに苦しんでいる被爆者にも会わずに、大企業の工場を見に行った。あんなことをしていたらあかんと思いました。

 (今田恒雄・精薄児施設指導員・37歳)
 私も原爆孤児院にいました。おかけで有名人にもおうてよかったと思いますよ。しかし私が育ってきたのは、社会の恩恵であって、天皇に置きかえたことは1度もありませんでした。46年のときも、天皇のことなど前日まで思ってもいませんでした。そのとき、天皇が来るというので、農事試験所のバカが、梅に薬をかけて花の咲く時期を遅らせました。天皇はそんなことも知らないで、キレイだね、といったそうです。
 皇太子が天皇になれば、もっともっと利用されるだけの時代が来るでしょう。・・・

 この3人の原爆孤児たちの言葉に対しても私(鬼塚)は何1つ批評をしない。
 広島への原爆投下をさめた眼で見続けていた1人の女性を紹介したい。
 栗原貞子は『核・天皇・被爆者』(1978年)の中で次のように書いている。

 ・・・
 戦前派の天皇への意識が混濁し不透明であるのとちがって、戦後生まれの被爆二世たちの意識は明確であり、青年特有の鋭さとはげしさをもって天皇の戦争責任を追及した。
 1971年4月18日、天皇は島根県に植樹祭が行われた時、15、16日と広島により、護国神社に参拝し、原爆慰霊牌に立ちよった。(参拝ではない)
 被爆団体や革新団体など、組織的には何らの抗議声明も行わなかったが、被爆者青年同盟、アジア青年同盟、部落解放同盟の3団体は、天皇来広を糾弾する連絡会議をつくり、糾弾県民集会の開催やデモ行進を計画したが、いずれも行政・司法一体となって弾圧し、いったん貸した会場の許可をとりけし、デモ行進をやめさせた。4月15日、天皇が慰霊牌に立ちよりの際に平和公園に動員された機動隊は5千人と言われている。しかし糾弾県民集会は開催出来なかったが、それに先立つ3月27日大手町の平和会館で、3同盟による「天皇問題を考える」被爆者集会が行われ、50名近くが集まって各人が発言し、天皇の戦争責任を糾弾した。・・・

 1947年の天皇巡幸に熱中した広島の人々も、それから24年後には完全にさめていたことが、栗原真子の文章を通じて理解できるのである。しかし、さめた天皇観を持つにいたった原爆被爆者たちには過酷な人生が待っていた。もう1度、過ぎ去りし時代を、語り部の栗原貞子に語らせよう。同じ『君は天皇を見たか』からの引用である。

 ・・・
 〔昭和〕21年1月、天皇は神格天皇から人間天皇に転身することで戦争責任を回避した。転身した天皇は22年12月5日から7日まで広島県下へ第1回の巡幸を行ったのであるが、県議会は天皇の行幸に対し感謝決議をし、楠瀬県知事は天皇の質問に対して次のように答えた。
 - 広島の原爆の影響についての人体の健康は、全く心配がなく、ただ植物が学問的に言えば多少影響を残している程度で、決して御心配はいりません。(中国新聞社編『ヒロシマ』未来社刊)
 占領軍も民主主義勢力も行政も一貫して被爆者を抹消し闇のうちに封じこめてしまったのである。どこにも救いのない被爆者は疎開先の農村や郊外の町で「原爆の流れ者」「きたない」と疎外され、遅発性の原爆症で髪が脱け、吐血し下血して血まみれの病床で原爆を呪って死んで行った。
 医師は未知の兵器による未知の病気を診断することが出来ず、死亡診断書にも、「血を吐いて死んだのだから肺結核だろう」と推定の病名を書き、原爆症は闇から闇へ葬られた。
 原爆後遺症についての研究発表はゆるされず、臨床医学のなかった当時の状態である。・・・

 児玉隆也の『君は天皇を見たか』から再度引用する。児玉隆也は、赤提灯「六歌仙」という一杯飲み屋を経営する高橋広子さんから原爆に遭った人生を聞く。この部分はすべて省略する。天皇について語るところのみ引用する。

 ・・・
 聞き書き「陛下さま この金いりませぬ」

 陛下は、天皇は、あの人は、いったい何しに去年この広島へ来んさったんですか。どうして26年もたって、のこのこと帽子振りに来たですか。うちゃあ、腹あ立ってどもならん。うちゃあ、その2、3日まえから、□ではいわんですよ、口ではいわんが、よし行っちゃろか!と思うとった。行って、あの人の前へとび出して、「陛下さん、あんたの腹からのことをここでしやべってみい!『あっそう』いうて帽子振っとるだけじゃあ、うちゃあ納得できん。おれが納得するまであんたの腹からのことをしゃべってみい! あんたの腹ん中を見せてみい!」
 そういうて、あの人にくってかかるうちを考えとった。うちゃあこのとおり軽いから、イリコつまんだようにつままれ、はじき出される姿が、寝とっても頭ん中をめぐってねえ、いよいよ情けのうてねえ。あの人、慰霊碑に花置いて、老人養護ホームヘ行って、それだけじゃあないですか。年寄りたちが「陛下さま来られて、これで思い残すことかありません」いうた。うちやあ、「あんたがたこれだけ悲しんでおって、何か有難いか!」と、新聞引き裂いて泣きました。そのあと、あの人は、天皇は、何をしたですか。原爆病院にも行かず、無縁仏にも行かず、こともあるうに、そのあと東洋工業ば行った。社長の案内で自動車工場を見た。自動車見る暇があったら、27年間も、女房子供にも己が顔見せんと、己がケロイドの顔を包帯の中にとじこめて、屍のように生きとる被爆者に、どうして「チンがすまなかった」というてやらんですか。
 あの人は、帝王学かなんかしらんが、自分の意思をいわん人やと聞いた。あの人に罪はない、原爆病院行くかわりに、自動車会社へ行かせた県や宮内庁の役人が悪いという人もいる。それならば、なぜ、戦争やめさせたのはあの人の意思やという〔歴史〕があるのですか。「神やない、おれは人間や」というたのですか。美談だけが残って、なぜ責任は消えるのですか。
 うちゃあ情のうて、〔へ〕も候や。

  もう1度、福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』から引用する。赤提灯「六歌仙」の高橋広子さんと同じ思想を別の形で表現している。

 ・・・
 歴史は繰り返すと言うが、大本営と政治の嘘が国を滅ぼした戦前の悲劇を性懲りもなく繰り返そうとしているのである。「現人神」‐という神話時代の言葉が戦前の日本を支配していたのは幼稚の限りだが、敗戦後の日本は、「主権在民の民主主義国」になっても「朕」を憲法の冒頭に登場させ、「天皇」という正確に外国語に翻訳できない言葉が、いまだに国を支配している。
 「天皇」とは天人を恐れぬ傲慢な言葉である。天皇・裕仁がいくら権威ぶっても、しょせんは僕と同じ人間にすぎず、本来僕に死を命ずる権利も資格もない人間だった。僕は幸運にも生き残ったので、戦争責任も取れないような人間が皇位に居座るのに反対し続けてきた。戦後天皇の地位は、「現人神」から、「主権の存する日本国民の総意に基く」と、「国民統合の象徴」に鞍替えしたが、選挙による結果ではなかった。当時、戦争犠牲者の多くは天皇制に反対し、僕はいまも反対している。「国民の総意」などと軽々しく言ってもらいたくない。・・・

 この項の最後にもう1度、天皇に執念を燃やして生きた詩人の栗原貞子に天皇論を語ってもらおう。赤提灯の詩人・高橋広子さん、魂の叫びを続ける写真家と同じように、彼女も天皇を語る。

 ・・・
 今度の天皇の訪米〔1975年〕は旧敵国アメリカによって改めて天皇の戦争責任を解除され、天皇制ぐるみアメリカのパートナーとなることであり、自衛隊と米軍との円滑な提携をはかるものであった。新聞は「天皇の訪米は、大統領選挙を翌年に控えたフォード大統領のデモンストレーションであり、大成功だった」と書きたてた。大統領選挙の利用の次は戦争利用へと発展することを許してはならない。
 テレビを通じて見るパーティや送迎のたびに挨拶する天皇の口辺(こうへん)の頻繁なけいれんは病的で異様だった。菊のカーテンの中から出て明るい陽光の中で人間天皇として通されることに対する神格天皇の名残りが苦悶のけいれんをしたのではないだろうか。
 私はテレビの画面を見ながら、天皇の背後に黒々とひろがる原爆の瓦礫と渦まく死体を思いながら「あの人だったのだ」、「あの人だったのだ」と心の中で言いつづけた。
 原爆投下を誘発させ、数百万の日本人を天皇のおんためにとして死なせ、アジアの数千万人を殺させた最高の戦争責任者は、免罪されて帰国し新たな戦前が始まろうとしている。しかし私たち戦中世代は天皇制にこだわりつづけるだろう。「王様は裸だ」と言った子供のように。

 ★天皇美談だけが残って、責任は消えた  <了>

  続く。
 
 






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