カウンター 読書日記 2008年08月
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●原爆投下(11)
 ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★国際赤十字社、もうひとつの顔 


 私はここで1つの事実を指摘しておきたい。今まで書いてきたようにジュノー博士は聖者である。これは真実ではあるが、国際赤十字社が別の面を持っていることも真実なのだ。
 敗戦直前の8月8日、東郷茂徳外相は国際赤十字社との最終合意に達した。天皇の資産をスイスの銀行が最終的に受け入れたのは、この国際赤十字社の尽力によった。また、太平洋戦争中、陸軍の配下の昭和通商という会社の依頼を受けて、赤十字のマークをつけた病院船がアメリカの密貿易船と交易をしていたのである。私たちは、アメリカと日本が戦争をしていたから、アメリカと日本の貿易は完全に止まっていたと思っている。ここにも赤十字が深くからんでくるのである。

 大佐古は、ここで終戦の年にSCAP(連合軍最高司令官)の下の公衆衛生福祉局で働く、アメリカ赤十字社のセックスミス女史による日赤本社での数々の暴挙について触れているが、ここでは省略したい。大佐古はビベール氏に次のように言っている。

 ・・・
「ジュノー代表の広島救援が実現しなかったのは、GHQが原爆の破壊能力をソ連に知らせまいとしたからです。彼らは、広島の被爆者が原爆症で毎日のように死んでいくのを知りながら放置していたんです。もし、救援が行われていたなら、少なくとも9月以降の死亡者10万人の生命は助かっていたでしょう」
 「そうでしょうね。これはICRCのオピニオンではありませんが、私には、GHQはICRCを通じて、国際的に救援の手が伸ばされることを嫌っていたように思われますね」
 時計は5時半を過ぎていた。ジュノー博士の広島救援に対する私の疑問は、ビベール氏の誠意のある調査と回答で、今まで分からなかった方程式に根が与えられたかのように、鮮やかに解明された。私はビベール氏に「ジュネーブで予想外の大きな収穫があり、ジュノー博士は予想以上の人だった」ことを伝えて、深甚なる謝意を述べた。・・・

 ここにも、指摘しておかなければならないことがある。大佐古がこの本を書いた1970年には、「GHQが原爆の破壊能力をソ連に知らせまいとしたから」という大佐古の分析も納得できるような国際情勢だった。だが、私は原爆に関するソ連の膨大な資料を調べている。アメリカの政府高官がソ連側にウランに関する資料も、ウランさえも提供し続けた資料も持っている。アメリカとソ連は大戦中も、冷戦中も深く結ばれていたのである。ヒトラーがシェル石油の供給を受けたようにである。日本も、アメリカ船籍を持たぬアメリカの船から石油を買いつけていた。その決済はスイスの国際決済銀行(BIS)で行っていたのである。
 この世に勃発する戦争には、複雑な裏があることを理解しなければ、広島と長崎に原爆が投下された意味を理解しえないのである。ソヴィエトヘの配慮と原爆患者への薬の提供、この間に因果関係は全く存在しない。
 『ドクター・ジュノーの戦い』の中で、ジュノー博士がマッカーサーと最後の会見をする場面をもう1度読んでほしい。マッカーサーとジュノー博士との間に深い友情が生まれたことが分かるのである。では、どうして、GHQがジュノー博士の申し出を拒否したのか。去りゆくジュノー博士に
マッカーサーは、「世界の人々の純粋な声を、もはや武力ではなく、精神の名において結集できるのは一体誰なのか」とジュノー博士に訴えるのである。
「恐らく赤十字かも知れない・・」
 私はマッカーサーもジュノー博士も、大いなる武力に敗れたと信じている。
「誰に敗れたのか」、それはアメリカの国に巣食う、原爆を製造した元凶たちにである。
 私はマッカーサーが語った言葉の1部を省略しておいた。ここに書くためである。

・・・赤十字は世界の中で特異な位置を占めている。普遍的な信頼を勝ち得ている。その旗はすべての国民、すべての国家に尊重されている。今やその真価は十分に発揮されるべきである。問題の核心に迫るべきである・・・

 マッカーサーとジュノー博士は協力しあい、問題の核心に迫り、そして敗れたのである。
 ★マッカーサーとジュノー博士の努力を裏切ったのは日本赤十字社である。この日本赤十字社の総裁は天皇裕仁の弟の高松宮であった。明確にしたい。天皇裕仁と高松宮がこのジュノーとマッカーサーの申し出を断わったのである。
 どうしてか? スティムソンとの約束(「私には確約がある」の発言)が怪しくなったからである。天皇は自分自身の安全が脅かされだしたからである。
 大佐古の2冊の本は、大部分は一致しているが微妙に異なっている。前著(1979年)に比較して後著は明らかに追及のトーンが落ちている。ここでは後著に欠落している部分を記す。

・・・
 ICRCを辞去した私は、東浦氏の車の中でもう1度、ビベール部長の発言の意義を考えた。
 GHQは広島の地獄図絵が世界の国々に知られることを恐れたことはほぼ間違いない。そういえば、ファーレル原爆災害調査団は東京に帰るとすぐ「原爆で死ぬべき者は死んでしまい、原子放射能で苦しんでいる者は皆無である」という公式発表を行なった。また9月19日には、広島と長崎の被爆実態を国際社会から秘匿する目的で、〔日本に与える新聞準則〕を発している。「報道は厳格に真実を守らねばならない」としながらも「占領軍に対して破壊的な批判を加えたり、不信や怨恨を招くような事項を掲載してはならない」と言い、連合軍の動静についても公表されぬかぎり「記述や論議してはならない」と厳命した。その結果、新聞、ラジオをはじめ出版を含む日本の言論界は原爆の報道、論評を一切タブーとしなければならなくなったのである。・・・

 この大事な文章が、20年後の本の中ではすっぽり落ちている。何が大佐古にあったのかは分からない。この文章にも注釈が必要である。原爆投下をトルーマン大統領、バーンズ国務長官の範囲内で追求しても何も見えてこないと私は書いた。(同様に)マッカーサーの面から、プレスコード(新聞等の報道規制)を見ても真実は見えてこないのである。

 マッカーサーは当時、アメリカ陸軍省の支配下にあったということである。マッカーサーは陸軍長官の命令に従わなければならなかったのである。プレスコードも、そうした規制の中でつくられたのである。従って、ジュノー博士の申し出をマッカーサーは受け入れたが、陸軍省が拒否したと考えなければならない。重要事項は陸軍省に報告され、陸軍長官からの決議を待って処理されたのである。ファレル原爆災害調査団の報告の公式発表は、マッカーサーが遵守しなければならないものとなった。敗戦国の天皇との交渉が行われた。それが大佐古がたびたび書いている「リエゾン・コミッティ」(連絡委員会)である。正式には「終戦連絡事務局」である。
 松本重治の『昭和史への一証言』(2001年)から引用する。

・・・
そのころ、占領軍との交渉の窓口になったのが終戦連絡事務局ですね。
松本: 終戦連絡事務局は、総司令部の機構に応じた日本側の受け入れ態勢ということで、連合国軍の進駐に先立って先方からの要請でつくられたのです。外務省の1角に設けられ、朝海浩一郎(駐米大使など歴任)、萩原徹(駐フランス大使など歴任)ら半分は外務省の人間でした。奥村勝蔵もそこにいました。
 日本政府としては、総司令部の民政局と交渉することが多いのですが、民政局長のホイットニー(少将)、局次長のケーディス(大佐)などがいろいろしゃべることを、マッカーサーの意向、指令ととって、そういうように吹聴されるのを吉田〔茂〕はいやがっていました。・・・

 松本重治が神戸一中の5年生のとき白洲次郎は2年生。神戸一中の同窓生である。松本は同盟通信社で有末精三中将のアメリカ向け謀略放送の仕事に専念していた。その松本を吉田茂の依頼で終戦連絡事務局に誘ったのが白洲次郎である。2人はもっぱら民政局長ホイットニー(マッカーサー司令部のナンバー2)と交渉した。従って、あの日本赤十字社の「原爆被爆者見殺し宣言」も、彼らの交渉の結果に他ならないのである。

 どうして、謀略放送を流し続けた松本重治がアメリカの代理人となって、近衛元首相を自殺(?)に追い込む役割を演じたのかも、この1件の中に見えてくる。有末精三中将はウィロビーのGⅡ(GHQ参謀第2部)に入りこみ、日本人の摘発に乗り出す。大屋中佐は、有末の子分となり果てていく。畑元帥だけは仕方なく巣鴨プリズンに入るが命に別条はなく、シャバに舞い戻ってくる。大型プロジェクトである原爆産業はかくて大繁盛となっていくのである。
 この項の最後に、マッカーサーとの会見の後に、ジュノー博士の次なる文章があるので記しておきたい。

 ・・・
赤十字国際委員会は、戦時中自由に使われたジュネーブの大ホテルに、今や常設されている。赤十字の旗が翻る元のカールトン・ホテルの中では、熱烈な活動が展開されている。アーゾンランの病院で、私が国際委員会の勧誘を初めて受け入れてから、夢にまで見た大きなビルが遂に出現したのだ。
 しかし、ある夜私が帰着したのはモワニ邸であった。・・・

 理想はいつも裏切られるものである。ジュノー博士は書いている。「すべての国、すべての社会で、自分の戦いより、第3の兵士として自らの名誉を重んじる人々が続出することを期待したい」と。彼が広島で、幾度となく都築教授の言葉を引用し続けたのは、兵士は〔第3の兵士となれ!〕という意味ではなかったか。

「心を開かねばならない・・すべてを理解しなければならない・・」

 以下、高松宮宣仁(のぶひと)親王の『高松宮日記』(1997年)からジュノー博士に関係する記録のみを抜粋する。

・・・
〔1945年〕10月25日(木)曇、風
 1830 国際赤十字代表招宴(ジュノー博士。ミス・ストレーラ。ペスタロッチ、アングスト、ビルフィンガー博士、徳川社長、中川、島津、徳川義知、芦田厚生大臣、保科女官長)
 〔同年〕11月15日(木)雨
 950~1200 日赤社 赤十字デー、祈念式、慰霊祭、講演(ジュノー国際赤十字代表ムーア米赤十字代表)
 〔同年〕12月28日(金)晴
 1500 島津副社長(「ジュノー」ヨリ「Ratiion*」 1箱持参。(*米国の軍用携行食糧) 
〔1946年〕4月9日(火)晴
 ジュノー邸、コクテルパーチー(島津邸二立寄ツテユク)、1730~1830。
 〔同年〕4月10日
 1500 ジュノー帰国ニツキ茶会(徳川社長夫妻、中川、島津、義知夫妻、与謝野秀、永田、鈴木*。夕食(島津、義知)
 *鈴木とは鈴木九萬。終戦連絡事務局横浜局長。

 なお、東京に帰ったジュノー博士に広島で同行した医師の松永勝は4回上京し、ジュノー博士に会っている。松永勝医師は広島の窮状をジュノー博士に訴え続けたのである。しかし、原爆被優者を日本赤十字社は裏切ったのである。
 広島と長崎の被爆者に、「お前たちはくたばってしまえ」と言った人々に対して、読者よ、拳を握りしめて、天誅を加えよ。それらの人々は、この高松宮の日記の中にも、日記の外にもいるのである。

 『入江相政日記(第3巻)』昭和21年1月25日の項に、ジュノーの天皇謁見の場が書かれている。入江相政は当時侍従であった。

 1月25日(金)暖 6、50
 昨夜から今朝にかけて何と暖かいことか、今朝などは曇ってゐるがまるで春霞のやうだ。令子は元気に出かけて行く。歩いて出勤。入浴。理髪。赤十字極東代表ジュノー謁見。午后1時泰宮、盛厚王、照宮御参。〔以下略〕

この入江相政日記にはジュノーについての注解が附記されている。

 ・・・ジュノー=マルセル・ジュノー。スイス人の医者。赤十字代表として日本の捕虜収容所の状況視察のためシベリア経由で終戦直前の8月9日、日本についたが、広島原爆のことを聞き9月8日広島に入り被爆状況を調べるかたわら治療に当たり、世界に救援を訴えた。のち赤十字国際委副委員長。36年没。

  ★国際赤十字社、もうひとつの顔   <了>

  続く。
 


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●原爆投下(10)
 ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★ドクター・ジュノーの懸命なる闘い  


 私は前項の中で、日本政府が「ポツダム宣言の条件につき受諾を申し入れる一方、スイス政府を通じ原爆使用は国際法違反であるとする米国政府宛ての抗議文を提出した」と書いた。
 国内では8月15日までは新型爆弾としか新聞に書かせなかった国家が、スイス政府を通じ、「原爆使用は国際法違反である」とアメリカ政府に通達したのは、御前会議が大きく混乱し、天皇の裁断を得たうえでの妥協的なる措置であったのかもしれない。この後、終戦の詔書で天皇が原爆について触れるが、国家として、原爆の道義性を触れることはなくなっていく。

 このスイス政府を通じての「原爆使用は国際法違反である」が海外で大きな反響を呼ぶのである。しかし、このことも日本国民は一切知らされることはなかった。その1例は「日本に対する原爆攻撃は、残虐非常な殺人」(8月10日付、イヴニング・スター紙)である。
 中島竜美の雑誌論文「〈ヒロシマ〉その翳りは深く 被爆国政府の責任の原点を衝く」(1985年)から引用する。ドクター・マルセル・ジュノーが描かれている。私がこのジュノー博士を知るようになったのは中島のこの評論を読んだのが最初である。

 ・・・日本国内では戦争終結など思いもよらず、人びとは新型爆弾へのいいしれぬ恐怖心をつのらせていたころ、短波放送で世界のニュースをキャッチしていた人たちがいた。日本在住の数少ない外国人グループがそれである。
 8月10日夕刻、焼野原の東京をたって軽井沢に向かう1台の自動車があった。
 赤十宇国際委具会駐日主席代表マルセル・ジュノー博士を迎えた日本派遣員の人たちだ。ジュノー博士は、捕虜の身体保全と傷病兵の救護を目的として、戦火の旧満州・新京(現在の長春)を日本軍機で脱出、前日羽田に着いたばかりであった。
 翌朝、静かな森の中の日本家屋で目を覚ましたジュノー博士は、日本のお手伝いさんから1通の電文を手渡された。派遣員の秘書の1人カムラー氏からである。
 「親愛なるジュノー博士、BBCは今夜(注:8月10日)、日本のポツダム宣言受諾を報じました。遂に平和が来ました。人びとはトラファルガー広場で踊っています」(『ドクター・ジュノーの戦い』マルセル・ジュノー著、丸山幹正訳)
 ジュノー博士はこのときまで、日本への原爆投下について何も知らなかったが、その後かかわりをもつようになる広島での動きは、また後で述べるとして、米軍が「8月10日をもって事実上の戦争終結」としている、もう1つの証拠を紹介しよう。
 それは、アメリカの原爆製造を担ってきた、マンハッタン計画の動きである。大統領直属のマンハッタン管区代表・グローブズ少将が、そのころテニヤンで原爆投下部隊の指揮をとっていた副官のファーレル准将に、原爆兵器の効果を調べるための調査団結成を命じたのが8月10日(現地時間)であった。
 その後、〔マンハッタン管区調査団〕は、ファーレル准将以下50人からのメンバーで結成され、日本上陸の機会をうかがうことになる。この調査団は、後につくられる米太平洋陸軍軍医団や、米海軍技術団、および米戦略爆撃調査団等調査グループの先達として、占領下の日本政府と接触していくのである。・・・

 日本は8月15日を一応終戦(敗戦)とする。しかし、欧米では、日本が無条件降伏を受諾した8月10日を終戦とするのが普通のようである。すでに8月10日に、アメリカの日本に対する終戦工作が始まる。そのとき、日本政府がスイス政府を通じて「アメリカの原爆投下は国際法違反」という電報をアメリカ政府に打電したことが、マンハッタン管区調査団の派遣となったのである。ファレルの調査団が「広島と長崎に残留敗射はなし」の結論を出したのは、原爆投下による世界中の世論を抑えるためであった。日本政府は沈黙を守るようになっていく。
 マルセル・ジュノー『ドクター・ジュノーの戦い』(1991年。スイスでの原書出版は1947年)から引用する。

 ・・・
 広島と長崎に2発の原子爆弾が投下されてから3週間が過ぎていたが、破壊された街と数知れぬ犠牲者の運命について、事実上まだ何もわかっていなかった。アメリカのラジオ放送は、この新兵器の準備とその途方もない威力について大々的に報じていたが、原子爆弾の破壊作用についての情報は恐ろしい予言の他何もなかった。
 「70年間、市街は放射能で汚染され、すべての生きものは生存不可能であろう」・・・

 この予言ないし風聞は、長崎よりも広島で広く流布していく。この予言を打ち消すべく、ファレル准将やローレンス記者が論陣をはるのである。続けて彼の本を読んでみよう。

 ・・・
 アメリカのジャーナリストが1人、飛行機で広島に近づき取材に成功したのを私は知っていたが、彼の報告は直ちに発禁処分を受けた。爆弾炸裂後、米軍偵察機が何度も街の上空を飛んでいたが、その恐るべき破壊力のデータは、軍上層部と科学者の手中にあった。
 日本も他の理由から、彼らに敗北をもたらした大破壊については、全く沈黙を守っていた。東京の新聞は、人々を降伏に備えさせるため、数日間原爆の破壊力について大きく報道していたが、それが一切禁止された後は、大破局の実際の規模についての正確な報告は全くなされていなかった。・・・

 この間の状況も1部書いた。8月23日付の読売新聞は「死傷19万を超ゆ、広島・長崎の原子爆弾の残虐」との題で、広島と長崎の真相に迫る記事を載せている。
日本の言論機関がアメリカの原爆を非難し続けたのは1ヵ月にも満たない。9月15日付の朝日新聞は、当時新党結成に動いていた鳩山一郎に1問1答をし、発禁処分となった。
 「・・・〔正義な力なり〕を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう。極力米人をして羅災他の惨状を視察せしめ、彼ら自身、自らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること、日本の独力だけでは断じて復興の見通しがつかぬ事実を素直に披瀝し、日本の民主主義復興、国際貿易加入が米国の利益・世界の福祉と相反せぬ事実を認職せしむることに努力の根幹を置き、あくまで彼をして日本復興に積極的協力を行わしむるごとく力を致さねばならぬ」

 まさに正論である。これはプレス・コードの出る前である。敗者の正論は勝者にとっては常に脅威となる。鳩山一郎は公職追放され、あのヨハンセン・グループの醜怪なる人物の吉田茂が首相になっていく。吉田は戦前から戦後、そして生涯にわたってアメリカの原爆投下を陰から支援し続けたからである。
 ジュノー博士の本をさらに読み続けよう。

 ・・・
 広島の住民にとって、この突然の惨劇が何を意味するか我々にわかり始めたのは、日本の津々浦々に広まって行った人々の口承による情報からであった。我々の秘書の1人でノハラという二世の日本人が、時々我々に日本人の間でどんな話が交わされているかあらまし語ってくれた。多くの避難者が家族のもとへ逃れている。彼らの情報は信じられない程悲惨である-穏やかな空から突如として日もくらむ閃光が放たれ、地震などとは比較にならない程超現実的な現象が起きた。それは熱風と烈火の台風ともいうべきで、突如として地表を一掃したかと思うと後に火の海を残した。
 誰も死者の数を知らなかった。5万だという者もいるし、20万だと主張する者もいる。負傷者の数もそれと同数だという。負傷を免れたかに見える人々も、突然奇妙で不可解な症状を呈し、毎日数千人が死亡している。・・・

 ジュノー博士は、「9月1日になって始めて外務省は私に、原爆作裂後の広島の写真数枚を見せた」と書いている。「・・烈火に打ちのめされハンセン氏病の如き生存者の唇からまだ死の絶叫が聞えてくる」とジュノー博士は書いている。続けて読んでみよう。

  ・・・
9月2日午前8時、日本の警官が、まだ東京の検閲査証が押されていない電報の写しを、我々の鳥居坂の別荘に持って来た。ビルフィンガーが8月30日広島に到着し、次のような報告を送って来たのである-
 「・・恐るべき惨状・・町の90%壊滅・・全病院は倒壊又は大損害を被る。仮設2病院視察、惨状は筆舌に尽し難し・・爆弾の威力は凄絶不可思議也・・回復したかに見える多数の犠牲者は白血球の減少及び他の内部損傷により突如致命的な再発を来たし事実上相当数が死亡す・・
10万人以上の負傷者が未だ市周辺の仮設病院にあって器材・包帯・医薬品の完全な欠乏状態にあり・・連合軍上層部からの特命を重大要求として求め、直ちに街の中心部に救援の落下傘を投下するよう要請されたし・・緊急用品次の如し、大量の包帯・綿・火傷用軟膏・スルファミド・血漿及び輸血用器材・・緊急行動を要す・・」

 ジュノー博士はこの電文を手にして、マッカーサーがいた横浜商工会議所に出向いていく。フィッチ将軍たちに面会する。4人の将官が協議し、「これをお借りします。マッカーサー将軍に見せたいのです」とジュノー博士に言った。続けて読むことにしよう。

 ・・・その5日後の9月7日、私はサムズ大佐の呼び出しを受けて再び横浜に行った。
 「米軍が直接救援活動を組織することは出来ません」彼が言った。「しかしマッカーサー将軍は、15トンの医薬品と医療器材をあなたに提供することに同意しました。その分配方法については、赤十字の管理と責任に委ねます」
 そして最後につけ加えた。
 「調査委員会は明日広島に発ちます。その飛行機にあなたの座席を用意してあります」・・・

 ジュノー博士は9月8日、ニューマン将軍、ウィルソン大佐、それに原爆製造の技術者の1人、物理学者モリソンと同乗した。広島から25キロ離れた岩国に着陸した。「他の5機も近くに整列した。すぐに15トンの医療品が降ろされた。私はその管理を、日本人の海軍大佐に委ねた」とジュノー博士は書いている。ジュノー博士一行は宮島に宿泊する。
 続けて読んでみよう。

 ・・・日本の学者が2人我々に加わった-医師の本橋博士と東京帝国大学の最も主要外科医の1人都築正男教授である。
 都築教授は、きらきらと光る知性的な眼をした熱血漢であった。彼は英語を話し、彼の考えはしばしば短い激烈ともいえる言葉で表現され、それに身振りが加わって強調された。
 「広島・・ひどいもんだ・・私にはわかっていた。22年も前に・・」 ・・・


 『ドクター・ジュノーの戦い』の「訳者あとがき」には都築教授についての説明が付されている。「原爆投下の22年も前に行われた都築正男博士のウサギを用いた先駆的実験が、学問的にはデトロイトで学会報告がなされていたにも拘わらず、国家権力によっては、その学問的成果が人道的に全く生かされえなかった事実を、今日の国家の指導者も強く反省すべきである。この都築博士の実験報告こそは、アメリカの原爆投下が国際法違反であるという立場に、充分な論拠を与えるものである」
 都築教授は8月29日に、陸軍軍医学校、理化学研究所らのメンバーとともに広島に向かった。陸軍病院・宇品分院に救護所を開設、軍人軍属中心の被爆者医療と併せて、研究調査機関として体制を整えていった。

 ジュノー博士の本を読み続けてみよう。広島が描かれている。9月9日早朝-2人の日本人通訳がついた。1人はカナダ生まれの伊藤嬢、もう1人はアメリカ生活20年のジャーナリストであった。伊藤嬢とジャーナリストは広島の惨状を訴え続ける。ここでは省略する。

 都築教授は我々を先導しながら、皆に聞こえるよう大声で話した。激しい興奮のため、言葉はとぎれた。
 「心を開かねばならない・・すべてを理解しなければ・・」
 彼は壁の残骸を示したが、それは地面すれすれに15乃至20メートルも続いていた。
 「諸君、ここは病院のあった所です・・ベッド数2百・・医師8入・・看護婦20人・・患者もろとも全滅です・・まあいい! 構うことはない! ・・原爆めが!」
 時々私には言葉の終わりしか聞き取れなかった。
 「心を開いて・・言う事はたくさんあります・・次に移りましょう・・」
 [ここでは銀行が半壊しています。原爆投下後2日して他の街から行員が来て、その夜、金属のレールに掛った絹のカーテンの部屋で泊まったのです。2人とも貧血で倒れました」
 アメリカ人の物理学者たちがノートを取り、放射能が消えたことを確認するため、検出器を設置している間、都築博士は医師を連れて病院を回った。そこでは恐るべき惨状が我々を待っていた。・・・

 この「アメリカの物理学者」たちが、マンハッタン管区調査団のメンバーである。ジュノー博士は「放射能が消えたことを確認するため」と、見事に彼らの隠謀を暴いている。彼らの調査書が公式のアメリカ政府の報告書となっていくのである。彼らはマッカーサーには内密に広島に入ったのである。
 マッカーサーの承諾した調査団は、司令部軍部医務顧問A・オーターソン軍医大佐の提出した上申書にもとづき、米軍紀司令部軍医総監B・デェット准将による調査団であり、彼らとジュノーは一緒の飛行機で広島へ向かったのである。マッカーサーは、原爆被害の調査を調査団に令じていた。彼は真相を知るうとしていた。そして薬品や用具を飛行機五根分ち送りつけていたのである。
 ジュノー博士の心の叫びが聞こえてくる文章が続いている。

 ・・・最初に訪れた仮設病院は、半壊した校舎の内に設置されていた。地面に80人の負傷者が横たわっていたが、彼らを雨や夜の冷気から守るものは何もなかった。蝿が何匹となく群をなしてむき出しの傷口にたかっていた。薬のびんが数個棚の上に散らばっていた。包帯は粗末な布で代用していた。5、6人の看護婦に出来る手当てはこれだけであったが、それには、20人余りの12才から15才位の少女が協力していた。
 都築教授は、血だらけの人々の前で身をかがめた。彼は意識の朦朧とした婦人を示したが、顔は熱波に打たれて焼けただれていた。
「血液感染だ・・白血球がほとんど消滅している・・ガンマー線だ・・防ぎようもない・・今晩か明日死ぬだろう・・原爆めが!」〔中略〕
 彼の声はますます大きくなった。
 「この人々は・・すべて死の宣告を受けた! この人は壊疽性咽頭炎、この人は高度の白血球減少症だ。ほとんどの患者には輸血が不可能だ。血管が破れる・・」
 我々は庭の奥にある小屋に行った。ホルムアルデヒドのガスで目がしみた。都築教授はおおいを取ると、ほとんど炭化した死体が2体横たわっていた。
 「我々は心を開かねばならない!」
 彼の言葉を聞いていると、我々は大実験室にいて、モルモットの代わりに何千もの人間を解剖しているのではないかと錯覚する程であった。解剖された器官や、組織学的切開、臨床的、病理解剖学的実験結果から作成された統計表などを彼が我々に示しだのは、正に彼の情熱的な科学的探究心のゆえであった。
 「顕微鏡で見ると、高度の充血から筋肉萎縮や変質に至るまで、すべての点について観察出来る。死因は白血球減少及び通常の併発症-細菌感染・敗血症などーを伴う高度の再生不良性貧血と思われる」
 都築教授は私の方を向いた。彼は広汎な出血の見られる脳髄を手にすると、突然しわがれ声で恐ろしい言葉をはき棄てるように言った。
 「昨日はウサギだった・・今日は日本人だ・・」

 調査委員会は原爆の破壊調査を継続するため長崎に向かった。私は運んで来た医薬品の分配を指揮するため広島に残った。
 私が東京に帰る日の朝、若い日本人の医師が汽車まで見送りに来た。
 崩れかかった駅の正面には、大時計の針が爆裂によって8時15分を示したまま止まっていた。

 新時代の到来が時計の上に記録されたのは、人類史上これが初めてであった。
 この証拠品を保存するのは、どの博物館であろうか・・・

 ここで、広島でのジュノー博士のルポは終わっている。彼は、アメリカの捕虜を本国に送還させたこと、彼の友人のヴィッシャー博士夫婦がボルネオで殺害されたこと・・を書くが、広島・長崎のことには一切触れていない。
 「我々の飛行機が羽田飛行場に着陸してから4ヵ月が経過し、日本における私の任務も終わりに近づいた」と書く。そしてまた、「私が東京を発つ数日前の感謝祭の日の朝、対外関係を担当しているアメリカの将校ベイカー陸軍代将が私に、マッカーサー将軍が国際赤十字派遣団を歓迎したい意向であると伝えた」と書いている。では、マッカーサーがジュノーたち国際赤十字派遣団を迎えて語った言葉を、ジュノーの本から引用する。

 ・・・
 「人命と人血の至高の価値が忘れられている。しかも人の尊厳までも」
 「武力は人間の問題の解決にはなり得ない。武力は無力である。それは最後の極め手にはなり得ない・・私のようなプロの殺戮者がこういうと奇妙でしょうが」
 「現在の武器と、開発中の武器とで、新たに戦争が起これば、価値あるものは何1つ残らないだろう」
 [余りにも多くのものが失われた。肉体の消耗は余りにも大きく、ここ20年か25年は次の大戦は起こり得ないだろう。しかしそれから後はどうなるのか。我々が人類を人類自体から守るため、全力を尽くさなければどうなるのか」
 マッカーサーは仕事のあることを告げに来た将校を、既に2度も追い払っていた。後は20分も話し続けていたが、その声は一層切迫したものとなった。
 「赤十字は控え目すぎる。影に隠れすぎている。その活動は負傷者を救助したり、物質的援助を組織するだけに限定されるべきではない。目的が限定されすぎている。もっと積極的になるべきだ・・」
 そして彼は現実主義者らしく、最後を次のように締めくくった。
 「唯一の問題は、この考えを弁護し、この信条を流布するに足る手段を投入出来るかどうかを算定するだけである・・資金はあるか・・人材はあるかを」・・・

 「あの証拠品を保存するのは、どの博物館であろうか」を最後に、ジュノー博士は広島・長崎の文字さえ書かないのである。何があったのか?
 訳者は「増補販に寄せて」(1991年)の中で、「1978年9月16日、日本の新聞は『ジュノー博士が原爆投下後の広島、長崎を救援するため、ヨーロッパ各国で救援活動を組織しようとしたところ、米軍が圧力をかけて、これを阻止した』という内容のニュースを社会面トップで報じた。私は訳者あとがきに書いたように、翌年9月にジュネーブ入りした。その時に面会したミシェル・テステュ博士には、この報道の事実関係も質した」と書いている。
 訳者丸山幹正はジュネーブで多くの関係者に会う。しかし、米軍が関与したことを証明するような資料を発見できなかった。
 しかし、この謎に挑んだ大佐古一郎によって、あらぬことが明らかにされるのである。

 ★ドクター・ジュノーの懸命なる闘い  <了> 


 *************

  ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」  


 『ドクター・ジュノーの戦い』の邦訳書の初版は1981年である。私がこれから紹介する、大佐古一郎の『ドクター・ジュノー武器なき勇者』は1979年に出版されている。前著の出版より2年前である。大佐古は、1912年に広島県に生まれる。中国新聞社論説委員を最後に広島で暮らしていた。
 大佐古は中公新書から『広島昭和二十年』という本(* 1975年8月 264p. - 中公新書 : 404)を出した。その中で「ジュノーの死」を書いた。広島を襲った台風で、ジュノーが宿泊した旅館で死者が出た。そのときにジュノーが死んだと大佐古は信じていた。その大佐古は「松永産婦人科・松永研究所 医学博士 松永勝」と会う。そこで大佐古は広島を襲った台風で死んだのは別人だったことを知る。松永勝こそ、ジュノー博士が「私が東京に帰る日の朝、若い日本人の医師が汽車まで見送りに来た」と書いた、その人であった。
 松永は大佐古にジュノー博士とすごした4日間の出来事を語る。大佐古はそこからジュノー研究に没頭していくのである。
 『ドクター・ジュノー武器なき勇者』(*新潮社1979年)から引用する。松永医師が大佐古に、次のように語ったのである。

 ・・・
 あのとき、私たちは備蓄した薬を使い果たし、1滴のアルコール、食用油を探し回るほど絶望的な状況の中にあった。そこヘジュノーさんは、まるで神の使いのように15トンの医薬品を持って現われました。そうして、外科医として患者を診たり、私たちに放射能障害の治療方法をアドバイスしたり、廃墟にDDTを撒くよう尽力して下さった。お陰で、どれだけの人が三途の川から引き返したでしょう。幾万人の重症者や軽い病人が救われたでしょうか。ところが広島の為政者はもちろん、被爆者にもこの事実はまったくと言っていいほど知られていないんです。せめて広島のジャーナリストにわかってもらいたかった。でもきょうあなたにお話しでき、広島にきた甲斐があったというものです。・・・

 大佐古は松永勝医師から、「回顧談」というノートを見せてもらう。その中の1部を引用する。加藤氏とあるのは通訳である。

 ・・・私はハッとして助手席から後ろを振り向くと、〔ジュノー〕博士の視線は前方の兄姉以外に何もない死の町を見詰めていた。私は被爆以来、どこかに忘れてきたものを眼の前に突きつけられたような気がした。
 この人は、「残酷なカタストロフィ」と言った。カタストロフィとは、文字通り。〔破局〕である。博士は目の前に広がる惨状に〔人類の終焉〕を見ているのだ。
 確かに私たちはいま、途方もなく巨大な暴力に理性まで破壊し尽くされて、虚説と昏迷の世界に捨てられている。博士はその私たちの魂の底にまだかすかに生き続けている人間性を呼び起こし、神をも恐れぬこの悪魔の所業に鋭い怒りを燃やせと説いている。
 加藤氏も同じように感じていたのだろうか、博士への信頼を、形に表わさずにはいられないとでもいうように、氏の周辺の悲惨な被爆体験を次々と話した。

 ジュノー博士は病院、そして救護所を訪れて、患者の診察をし続ける。続けて読んでみようではないか。

 ・・・ジュノー博士は、このような患者の眼球や口腔をあらため、ピンセットを手にして傷口やケロイドを入念に診たうえ、被爆した地点を本人に尋ねた。そして、屋内で被爆し、全身にガラスの破片が突きささっているため隅の壁にすがったままの婦人を発見すると、傍に近づいて行き、やさしく声をかけた。
 「もう少し頑張るんですよ。2、3日中にいい薬がきますからね」
 私が、この方は国際赤十字社からこられたと告げると、婦人は包帯を巻いた両手を合わせて拝むような仕草をした。・・・

 私たちは知らねばならない。私たちが苦しいときに、私たちに救いの手をさしのべてくれる人こそが神であり仏であることを。だから、婦人は包帯を巻いた両手を合わせて拝んだのである。私たちをかのとき裏切った、現人神は神でもなければ人でもない。

あの広島でジュノー博士に語った都築教授の言葉を平成の世でも忘れてはならない。
 「我々は心を開かねばならない!」
 心を閉じていれば、何も見えず、悲劇だけが私たちに襲いかかってくる。その瞬間に私たちは、都築教授が、突然しわがれ声で恐ろしい言葉をはき棄てるように言ったとおりとなるのだ。
 「昨日はウサギだった・・今日は日本人だ・・」

  「松永という未知の医師から、とつぜん電話がかかってきたのは、台風の季節がようやく終わろうとしている昭和50年9月下旬の日曜日だった」と、この大佐古の本は始まっている。彼が広島カープの野球中継の放送に耳を傾けていたときである。彼は当時62歳か63歳である。この大佐古は松永という医師に出会い、人生が一変する。どうしてか。ジュノー博士に人間の荘厳さを発見したのである。人間はかくあるべきであるという姿を発見したからである。
 『ドクター・ジュノーの戦い』の中で訳者が「1978年9月16日、日本の新聞は・・」と書いている。大佐古の『ドクター・ジュノー武器なき勇者』の出版は1979年12月10日である。大佐古はこの新聞の記事を読んでいる。私は途中をほとんど全部省略したい。大佐古は、「ジュノー博士が原爆投下後の広島・長崎を救援するため、ヨーロッパ各国で救援活動を組織しようとしたところ、米軍が圧力をかけて、これを阻止した」という不可解な謎を見事に解いたのである。その場面へと読者を案内する。広島カープの放送を聴くのを愉しみとしていた男は情熱の男へと、大変貌を遂げていたのである。
 大佐古はジュノー博士の住んでいたジュネーブを訪れる。そこで、ジュノー博士の1族と会う。この場面も省略する。以下の引用はその後の場面である。

 ・・・
 時計は正午をかなり回っていた。ジュノー氏宅を出た東浦氏と私は、ビベール氏に通訳まで願ったことに厚く礼を述べたあと、4時半に再びICRC〔国際赤十字社本部〕で会うことを約束して別れた。
 約束の時刻に東浦氏と私の2人はICRCに着いた。ビベール氏はオフィスで受話器を耳にしており、甲高い婦人の事務的な声が室内に響いていた。ビベール氏は、ICRC設立以来の記録が収蔵されている地下室と話し合っているようだった。
 受話器を置くとビベール氏は言った。
 「ようやく大佐古さんの主要な2つの質問にお答えできます。古文書課には厖大な記録があり、日本人の名前や医薬品の名称にわれわれがなじめなかったりで意外に手間取りましたが・・」 氏は1枚のコピーを私に渡した。
 「これは1944年9月8日に発信し、10日に着いたものでICRCへ報告された軽井沢の駐日代表部からの現地採用雇用についての8日分給与の明細書です。お尋ねの冨野康治郎氏はこのリストに出ております。氏は遭難する1年前には、事務局長のような役職に就いていたようです、野原と言う日本人職員に次ぐ高い給与を受けています」・・・

 以下は大佐古が1989年に出した『平和の勇者ドクター・ジュノー』から引用する。前掲書と内容は変わらないが理解しやすいと思うからである。大佐古が宮島の台風で死んだと思っていたのは冨野康治郎であることを発見したのである。さて、次に大事なことが書かれている。

 ・・・
 私は、広島の空白の中に埋まっていた謎の遭難者の姿が、やっと印画紙のようなものの上にくっきり浮き出たことに満足した。

 ビベール氏は、次の新しいメモを見ながらゆっくりと言った。
 「それでは、ICRCの広島救援が実現しなかったことについて、ICRCの資料に基づいてお答えしましょう。ジュノー代表はですね、広島県や広島赤十字病院ヘICRCの救援物資を送ることを約束しました。救援物資というのは、病院を再建するプレハブのような鉄骨や窓ガラスとか医薬品、それに食糧品などのことです。彼は東京に帰ると、広島を救援することが急務だとするジュネーブヘの要請文を起草しましたが、その電報を打つことはできませんでした。★GHQがその打電を許可しなかったからです。GHQは『打電の必要はない』と言ったんです。その理由はGHQと日本政府間のリエゾン・コミッティ(連絡委員会)で、★日本側委員が『広島救援の必要はない、我々が独力でやる』と言ったからだというのです。
 ・・このことは、後日ジュノー代表から文書で報告されています。結局、ICRCへの要請電報はこなかったんです。その詳しい資料はいまあなたへ差し上げる訳にはいきませんが、以上のことが言えるのは、私どもがここにある資料から読み取ることができるからです。このような内容のドラフト(草案)は、日本を占領していたGHQが許可しないかぎり、具体化する見込のない状況下にあったのではないでしょうか」・・・


 私はこのビベール氏の言葉を重く受けとめた。「なんたることだ! これは」と思いつつ読んだ。また、あらぬ怒りが心の中でふつふつと燃えだしていた。大佐古も私以上の憤怒の心を持ってビベール氏の話す内容を聞いていたのである。以下の彼の文章にそのことが表れている。

 ・・・
 「その連絡委員会の構成や日本側委員の氏名は分かりませんか?」と私が質すと、ビベール氏は静かに答えた。
 「連絡委員会の内容は、ここでは分かりません」
 私にはその委員の推測はついた。戦争中は軍閥、財閥に迎合して戦争に協力し、敗戦後は事大主義、事なかれ主義の環境の中で、親方を日の丸から星条旗に取り変えて、被爆者の苦しみをよそにぬくぬくと生き伸びた連中だ。ジュノー博士叙勲に当たって、ことさらジュノー博士と広島の関係に目を向けまいとした政治家か外務省の役人たちに違いない。

 やはり、予想していたとおり、GHQは原爆投下後1ヵ月経ってもなお毎日のように死者が出ている広島の地獄図絵を、ICRCを通じて世界中、とくにソ連に知られることを恐れて、打電を妨害したのだ。
彼らはプレスコード(新聞準則)で日本国内の言論、報道を弾圧したばかりでなく、人道と博愛の赤十字活動まで抑圧していたのだ。・・・

  この大佐古の文章には納得しかねる箇所がある。彼は1981年に出た初版本を読んでいない。マッカーサーとジュノー博士の交流の深さを知らない。GHQはたしかに打電を妨害した。しかし、これは間違いなく、アメリカ政府の命令に応じただけである。アメリカ政府の代表は誰だか説明しないが、ファレル准将の可能性が高い。彼が日本側の誰かに、ジュノー博士の打電を取り消すように言ったのである。GHQはアメリカ政府を代表するファレル准将か、その一味のものに対し、NO! と言えなかったのである。
 次に、大佐古自らが驚くようなことが書かれている。

 ・・・

 ジュノー博士がジュネーブヘ打電しようとした広島救援要請のドラフトが、GHQの手で揉み消されたことを明らかにしたビベール氏は、さらに言葉を続けた。
「広島救援の必要がないと言ったのはリエゾン・コミッティ(連絡委員会)だけでなく、★日赤でも『そのようなものをもらっても仕様がない』と言っています。・・それは誰が言ったのかは分かりませんが」

 「えっ、なんですと・・」
 私は耳を疑った。
 GHQの言うことに迎合して事なかれ主義に終始した政府の役人はさておいて、人間を苦痛や死から守り、敵対意識のもっとも激しい戦場でも、敵も味方もなく傷病兵を同じ人間として取り扱う最高の善心の持ち主である日赤が、よもやそのようなことを言ったとは考えられない。
 「そんな馬鹿なことはないと思います。それはGHQのデッチあげでしょう。あなたはそれを事実として受け取られますか?」
 「ただ、ジュノー博士のレポートに、そのようなものがあるということをお伝えしただけです」とビベール氏は冷静に言った。

  ★「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」  <了>

  続く。 




●原爆投下(9)
 ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ●日本政府も認めた公式見解「広島・長崎に放射能なし」  


朝日新聞(1945年8月12日付)に次なる記事が出た。

 ・・・
1、8月9日午前11時頃敵大型機2機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり。
2、詳細は目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込。・・・

 この記事は「西部軍管区司令部」の発表である。西部軍管区司令部は広島の第二総軍の指示によって出したのである。彼らは、あくまでも真実を隠そうとし続けた。
 仁科芳雄は広島原爆投下後の8月6日、広島に入り、原子物理学の面からの調査をした。この件については簡単に記述した。ここでは、彼が雑誌『世界』1946年3月号)に寄稿した「原子爆弾」から、長崎について書かれた文章を引用する。

 ・・・
長崎の場合
 広島に数日間居って8月13日に飛行機で長崎に向った。長崎には半日滞在したばかりであるが、上空から見た様相は広島と同様であった。
 長崎の被害は広島と大体は似てゐるが、後述の様に両者の爆弾は異なってゐてアメリカ側の報道によると長崎の方が2、3倍強いといふことである。実際その通りで少し注意するとすぐその差が解る。例へば煙突も広島ではあまり倒れてゐないが長崎では爆心附近では残ってゐるのが少い。火災について云へば長崎では中心が少し焼けてゐるだけで広島ほど広範囲ではない。又中心附近の家や瓦の破片が、長崎の方が余程小さい。これは恐らく爆風が強かったからであろう。長崎の威力の強かったことは、瓦などの溶けてゐる範囲が、広島の場合よりも1.6倍も爆心から遠くまで及んでゐることからも判る。これ程威力が強いのに長崎で死傷者数が少なかったのは、地形の関係である。長崎は長い町で両側は丘陵であるため被害範囲が狭かった。その上爆発の中心が町の北の方に寄ってゐた結果、広島ほどの害を受けなかったのである。ただ妙なことに人の骨の放射性は長崎の方が弱い。これはどういふわけか更に検討を要することである。
 植物に対する影響も長崎の方が顕著である。これは長崎には爆心に近い植物が丘陵に沢山あって、観察に都合がよかった為でもあるが、ともかく植物学上興味ある結果を示してゐるやうである。これは妊婦に対する影響と同様に今後長期間に互る調査が必要であらう。
 爆弾投下の状況も広島と大同小異で、矢張3機のB29で北方から来てゐる。その高度もやはり9000米附近で、警戒警報解除後に来たことも広島同様である。
 爆発した点の高度は少し低く約500米で、被害半径は爆弾の強度が強いので長崎の方が大きい。・・・

 仁科芳雄が書いているように、長崎に落ちた原爆のほうが強力であった。
 しかし、アメリカ軍は、あえて長崎の中心街をはずし、北方の三菱兵器工場と日本のカトリックの総本山ともいうべき浦上地区を目標に原爆を投下した。
 私は三菱兵器工場を中心に原爆投下の原因を追求したが、後半では浦上天主堂に的を絞って、「なぜ長崎か?」を追求してみようと思う。

 長崎の原爆による死者は広島に比較して少ないとはいえる。しかし、長崎市原爆資料保存委員会は独自の検討の結果、1950年7月に、死亡者7万3884人、重軽傷者7万4909人と推計した。決して少ない数字ではない。アメリカ軍は「都市から去れ」のビラを撒いた。あえて、市街の中心地をさけて北方に落とした。それでもこの死者と被爆者の数である。私が幾度も幾度も書いてきたように、広島の投下後ただちに日本は無条件降伏すればよかったのである・・せめて・・。
 しかし、私は姉妹書の「国外篇」でこう書いた。

 「原爆は、2種類がつくられた。その1つはウラン爆弾であった。それは威力が小さかった。もう1つのプルトニウム爆弾は威力が強かった。どうしても両方を落とさないと、アメリカは、ロックフェラーとモルガンに申し訳ない事態に陥ることになる。それが、広島と長崎への原爆投下の理由であった」

 「国外篇」に書いたことが現実化された。そのためには、落とされる側の全面的協力が必要なのは自明の理である。日本人は半世紀以上すぎても、この自明の理を理解しえていないのである。第二総軍の創設も、長崎港にいた1000人ものアメリカ人の捕虜が、あの瞬間だけ姿を消すのも、すべて自明の理なのである。少し余分に書くならば、あの摩訶不思議で信じられない真珠湾攻撃も原爆を誘導するためにとられた1つの出来事と知れば、自明の理となるのである。巨大産業誕生の背景にはいつも戦争があったことを知れば、すべては納得がいくのである。
 だが、納得しえぬ条理がある。それは、日本全土が1部の都市を除き、不条理の空襲を受け、数百万人という犠牲者を出したことである。
 『米軍資料 原爆投下の経緯』の中にある「ファレル准将の覚え書き」を引用する。

・・・
長崎の予備調査は、広島の場合よりも一層驚くべき結果を示した。爆風は遥かに強力であった。半径2000フィート(600m)以内の重構造の工業建築物、ガスタンク、多くの鉄筋コンクリートの建造物の破壊は遙かに強い力が働いたことを示していた。爆風と火による大製鋼所の破壊、爆風のみによる魚雷工場の破壊は、爆発時に巨大なエネルギーが放出されたことの著しい証拠であった。全ての場合に、鉄骨や建物は爆発点から反対側に押しやられていた。労働者の住居がずっと遠くまで破壊されていることは、爆風のエネルギーが広島の2倍あったことを示した。・・・

 この「ファレル准将の覚え書き」には、とても言じられないことが書かれている。その部分だけを列記する。

・・・日本の公式報告は、爆発後に外部から爆心地に入った者で発病した者はいないと述べている。
 予備調査の日以来、われわれの医学的および科学的要員は、放射能に関して長崎につき詳細な検討をした。そしてこの地域内のどこにも測定可能な放射能を見出さなかった。・・・

 このファレル准将の報告書のこの2点が中心となり、アメリカは広島と長崎に残留放射能はなく、原爆投下以降の死者と放射能汚染は無関係とする立場を取るようになる。次章では、このファレル報告書がもたらした点に触れる。ファレルの報告書の中には次なる1文が入っている。

・・・
ロバート・R・ファーマン少佐は、原子関係の分野における日本人の知識、活動および資源に関する情報の収集を担当した班の長であった。私が日本を離れた時点で、彼の調査は進捗し、日本人が原子の分野では僅かな進歩をしたかあるいは全然進歩しなかったこと、また彼らの資源は、鉱石およびその他の物質において、極端に微々たるものであったことを結論するに充分であった。・・・

 この文章は日本の原爆製造の調査報告書ともいうべきものである。ファレルたちは日本の原爆製造にいたる過程も調査した。その結論のみがここに書かれている。私が書いたように、日本の原爆製造でアメリカ側に役に立った情報は、理論物理学者湯川秀樹の「核分裂によるエネルギーの計算」のみであった。だから湯川秀樹はシカゴ大学のコンプトン研究所のために尽力したのである。

 長崎原爆で忘れてならないのは、長崎医科大学の潰滅である。長崎医科大学は戦前、西日本唯一の総合医科大学であった。
 かつて長崎大学教授を務めた小路俊彦は『長崎医科大学潰滅の日』(1995年)の中で次のように書いている。

 ・・・
 基礎キャンパスの惨劇
 出席学生全員死亡の5教室
生理学講堂では清原寛一教授(長崎医大卒、40歳)により学部1年生に講義が行われていた。講義が始まって間もなくB29らしい大型機の異常に高い爆音に引き続いて「ピカッ」と眼もくらむ閃光が教室内を走った。つぎの瞬間すさまじい爆風とともに木造の講堂は一瞬にして倒壊、さらに熱線のため炎を上げて燃え出した。何か起こったかも分からぬまま多数の学生は圧死か熱線による火災で焼死した。後に判明したところでは33名の学生は倒壊炎上する教室から何とか説出していた。もちろんガラス破片創、打撲傷、骨折、熱傷(以下火傷と表現する)を受けた重傷者が大部分だが、なかには傷1つなく、途中で拾った自転車に乗って下宿に帰りついた学生もいた。
 しかし、1の矢の爆風、2の矢の火傷を逃れた幸運な学生たちには、急性放射線障害(以下急性原爆症と略す)というとどめの3の矢が待ちかまえていた。33名中21名は、被爆後1週目の16日までに死亡しているが、その症状は汗の出ない高熱、嘔吐、下痢、血便、のどや舌の腫れ、紫斑、急激な衰弱、意識混濁などである。なかには最後まで意識がはっきりしており、母や家族の名前を繰り返し呼んで息絶えた者もいたという。

 結局33名全員が死亡したが、死亡日時不明の8名を除きすべて被爆後2週間以内であった。当日、生理学講義出席者数は記録も焼失して不明だが、生存者の届出はなく、原爆死亡73名の数字がそのまま出席者数とみなされる。すなわち死亡率は100パーセントである。・・・

 この基礎キャンパスは4教室あり、410名の生徒が講義を受けていた。その生徒全員が被爆死したのである。これを見ても、この原爆のすごさが理解できよう。
 この本に「遺族の手記から」が載っている。その中に、土橋弘基(医専1年生)の父、土橋清英の手記の1部を引用する。

 ・・・
 やっと学校裏手の丘で、神の慈悲により、弘基の哀れな姿に遭遇することが出来ました。眼鏡も帽子もありません。ただ破れたボロボロの被服をまとっているのみです。歩行も不自由な程衰弱していましたから、援護して10日後、愛宕町の自宅に収容する事が出来ました。
 本人の話によれば、階段教室で授業中、原爆の閃光と同時に建物が潰れ、全員がその下敷となって、一瞬その場は阿鼻叫喚の修羅場と化し、断末魔の唸り声が聞こえた。けれどもその後は人事不省に陥り、一切記憶はない。夕刻近く覚醒したので、全力をふり絞って頭上の障害物を押しのけ、同僚4人が脱出に成功した。しかし一帯は火の海で帰宅することも叶わず、すでに日没後で山伝いに帰ることも出来ないので、止むなく4人で裏山で1夜を明かすことにした。非常な渇きを覚え、空腹を訴えたが、勿論給水も食糧もなく、仕方なく附近の畑にあった南瓜を生食して、飢を凌いだといっておりました。
 自宅では家族全員で看護に努めましたが、原爆症でしょうか、飲食物は嘔吐を催して受け付けません。日々衰弱の一途をたどり、1週間目の8月16日、家族の見守る中に永眠教しました。
 本人は中学卒業後文科系に進むことを志望していましたが、医学は長崎が発祥の地であり、医科に入学すれば自宅から通学も出来て安心だからと私が勧めた所、親思いの素直な弘基は私の意見を受入れて、長崎医専に入学した次第であります。文科系に進んでいれば原爆死を免れていたのに、私がそれを拒否して医科にやったばかりに死んだのです。弘基は私が殺したようなもので、誠に申訳ないと思い、毎月16日(死亡の日)には必ず香を焚き灯明を点じて謝罪を続けています。この精神的悩みは、私の生ある限り、永く尾を曳き続けることでありましょう。(昭和43年4月『忘れな草』第1号より)・・・


 広島の瀬戸奈々子さんの死とはまた異なる土橋弘基さんの死である。しかし、この死には1つの確実な共通点が存在する。それは国家の殺人による死という点である。土橋弘基さんが講義を受けていた頃、アメリカの捕虜1000名たちは何処かで「神隠し」されていたのである。彼らアメリカ人を救うために数万単位で長崎の人々は、一瞬のうちに、そして後遺症で死んでいったのである。この原爆投下を受け入れて「原爆殺し」を行った連中すべてが戦争終結後に生き延びて、権力と富を独占していくのである。

「弘基さんのお父さん、あなたが弘基さんを殺したのではありません。あなたの、親思いの素直な弘基さんは、『原爆殺し』を仕掛けたアメリカと、『原爆殺し』を受け入れた日本の国家によって殺されたのです」   


  2008年2月20日、私は小路俊彦氏(長崎医大名誉教授)に会った。外国人の捕虜について尋ねた。「私は全く知りません。長崎に外人の捕虜がそんなにいて、被爆したり、死んだのですか」と唖然としていた。長崎でも語られない物語となっているのだ。
 『ナガサキ昭和20年夏』をもう1度引用したい。ジョージ・ウェラーは次のように書いている(日付はない。しかし1945年9月のある日である)。

 ・・・
 広島で助かった医師が次のように話してくれた。
「主たる影響は血流に表れるようです。赤血球と白血球が死ぬと言われていますが、私たちはそうは思いません。死んでしまうのは血小板なのです。血小板って分かりますか?」。
私は知らなかった。「血小板は血流の3番目に重要な成分で、血液を凝固させる作用をします。あそこの男の人を見てください」そう言って紙のように青白い顔をし、壁にもたれているやせた人物を指さした。必死な様子の親族がひざまずいて彼を囲んでいる。「あの人はすでに結核を病んでいて、少し喀血していました。爆心地から400メートルほどのところで被爆し、倒れましたが見かけではけがした様子はありません。ですが、被爆数日後から咳がひどくなり、喀血もひどくなったのです。調べたところ、血小板が死滅していました」。
「何とかできないのですか?」と尋ねると、医師は自分の力不足を謝るように目を伏せ、「何も」と答えた。
 長崎で私が得た最も価値ある知識は、心臓、肺、腎臓、肝臓、胃、各臓器に対する放射線の影響の注意深い分析結果だった。すべての場合において多少の損傷が見られたが、多くの場合、ほとんど原形を保っているのに、患者は取るに足りないかすり傷からの出血が止まらずに死んでいる。・・・

 それから月日が流れるにつれ、彼らの多くが死んでいった。
 泰山弘道は『長崎原爆の記録』の中で、「見よ、この長崎原爆が与えた凄惨さを」のタイトルのもと、患者の写真つきで、死者のことを書きつらねている。まさに地獄絵図さながらである。写真は泰山弘道が自ら撮影したものである。その1例を記す。

 ・・・
 女性(48歳)
 職業 農業
 傷病名 全身爆傷兼破傷風
 8月9日収容す。顔面、前胸部、右肩胛部、左側胸部、右前膊、左右下肢全面は糜爛す。リバノール湿布を行った。
 8月18日に至り破傷風の症状が現れたから、破傷風血清20回を脊髄腔内に注射したが、8月19日午後11時15分重症に陥り、8月20日午前零時15分遂に死亡した。・・・

 私は「ファレル准将の覚え書き」の中の「放射能に関して長崎につき詳細な検討をした。そしてこの地域内のどこにも測定可能な放射能を見出さなかった」という文書の1部を記載した(198頁参照)。しかし、長崎の放射能被害は甚大であった。
 広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ』(1985年)に長崎について次のように書かれている。



 ・・・原子爆弾の爆発によって生じるアイソトープは約200種類に達し、その大部分は放射性である。長崎西山地区の土壌の分析の結果、ストロンチウム89(半減期52.7日)、バリウム140(半減期17.3日)、ジルコニウム95(半減期65.5日)、ストロンチウム90(半減期27.7年)、セシウム137(半減期30年)、セリウム144(半減期285日)が検出されている。このほか核分裂をまぬがれたプルトニウム239も見出された。・・・

 これは1945年10月3日から7日にかけて実施された調査の結果である。ファレル准将は「広島と長崎に測定可能な放射能なし」と、GHQのマッカーサー司令官とトルーマン大統領に報告書を提出する。日本政府は、このファレル文書を認めるのである。それは、「広島と長崎には原爆患者はいない」との宣言を日本政府がしたことを意味する。スイスの国際赤十字が原爆患者に薬を与えようとするのを★日本赤十字社が拒否するのである。私は次章でこの顛末を書き、彼らを、原爆患者に薬を与えるなと拒否した連中に、たった1人で天誅を下す。


  ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ   <了> 


 ****************

  ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★原爆はどのように報道されたのか  


 日本政府は敗戦(「終戦」ではない)の8月15日まで「原子爆弾」という言葉を用いず、その使用さえ禁止していた。しかし、9日のソ連参戦の後の御前会議で、天皇の裁断で、条件つき(天皇制は護持されるとの条件)でポツダム宣言を受諾した。この間に広島と長崎に原爆は投下されていた。
 日本政府は不思議な行動をとる。スイス、スウェーデン両政府を通じてポツダム宣言を受諾する一方で、スイス政府を通じ、原爆使用は国際法違反であるとする米国政府宛て抗議文を提出、同様の趣旨を赤十字国際委員会にも伝えた。この赤十字国際委員会にアメリカの原爆を非難する抗議文を提出したことが、後に大きな問題となる。

 1945年9月3日、広島にニューヨーク・タイムズなどのアメリカ従軍記者が入った。そして、この米従軍記者団は広島記者団との1問1答に応じている。「・・われわれはヨーロッパ、太平洋の各戦線を従軍したが、都市の被害は広島がもっとも甚大だった」と語っている。
『ナガサキ昭和20年夏』を書いたジョージ・ウェラーは、この広島を視察する記者団には加わらず、密かに鹿児島の鹿屋に入り、そこから汽車を乗り継いで長崎に入る。彼は同書「第1部」の「長崎に1番乗りして(1966年回想)」の中で次のように書いている。

 ・・・「長崎」という文字を目にすると、いつも脳裏に、1945年9月6日のあの街の光景がよみがえる。この日、私は終戦後外部からやってきた最初の欧米市民として長崎市に入った。私以外の報道記者で、当局の指令をかいくぐって広島や長崎に入りこんだ者はまだ誰もいなかった。原子爆弾の効果については、3日のあいだに落とした2発で戦争を終結させた、という圧倒的な事実しか分かっておらず、地上における原子爆弾の威力はどんなものかみんなが知りたがっていた。
 なにしろ、やっとのことでマッカーサー司令部の検閲官、広報係将校、MPの監視の目を逃れたのだ。当時マッカーサーは日本の西部全域について報道陣の立ち入りを禁止していたので、長崎にもぐりこむときには、第2のペリー提督になったような気がしたものだ。自分がいること自体が禁じられている土地、いまや天皇とマッカーサーという、絶大な力を持った2人のミカドのいる土地である。・・・

 この引用文には「訳注」として「著者が長崎入りした時点では旧帝国憲法下の体制は生きていた」と付け加えられている。私は訳者の文章の意味がわからない。旧帝国憲法が新憲法下になろうとも、間違いなく2人のミカドが日本を支配していたのである。
 この『ナガサキ昭和20年夏』の「第7部」は「ウェラー特派員報告の背景 ジョージ・ウェラーの子息、アンソニーの回想(2005年)」である。この中で子息アンソニーは、父ジョージ・ウェラーを回想している。

 ・・・それから20年後、1984年、77歳のとき、ウェラーは次のように書いている。
「『最後の審判の日』のように彼〔マッカーサー〕の怒りが私の上に落ちた。私はすでに、ヤルタ協定はアメリカの恥辱だとした記事を通そうと試みたことがあった。だが長崎のほうがそれよりももっと激しかった・・マッカーサーは4年にわたる『彼の戦い』が、自分の知らないところで計画され、自分の命令なしに投下された2発の爆弾でけりがついてしまった、という事実をねたんでいた。このため、彼は一般市民に対する放射能の影響という人類の得た大切な教訓を、歴史から消し去るか、少なくとも検閲で可能なかぎりうやむやにすることに、最大限努力する決意でいたのだ」・・・

 また、アンソニーは次のようにも書いている。「彼〔マッカーサー〕のまわりには非常に有能なスペシャリストで、しっかりと指令されることをひたすら求めるものと、ごますり、とくに彼の行う検閲と闘うことをあきらめた取材記者が集まった。どのような将軍も彼以上のものを欲するものだが、マッカーサーとほかの将軍との違いは、彼はほしいものを得るために、ためらわず窓ガラスを割った点だった」

 私はW・L・ローレンスの『Oの暁』を姉妹書「国外篇」で紹介した。彼は長崎爆撃のときには、その原爆投下機に同乗し、記事まで書いている。しかし、ここでは一切引用しない。ただ、彼が本の最終部で、原爆讃歌をしているので記すことにする。

・・・結局は、原子力というこの広大な新しい大陸を開発したのは、アメリカの人民である。運命は今まで固く監禁されていた。「宇宙の戸棚」の鍵も、われわれに与えることによって、その責任をわが人民の上においた。そしてアメリカ人民はこの責任に対して誠実を守らなければならないし、またその誠実を守るであろう。われわれは、この大陸をわれわれ自身のために、また全人類のために、潤達な新しい理想郷にまで開発し耕して、かつて見られなかった富裕な健康な、そして幸福な新しい世界をもたらさなければならない。
 しかし、時刻はなお、九時十五分(広島爆撃のとき)であり、なお十二時OT分(長崎原爆のとき)である。もはや日本時間ではない。世界時間である。文明世界の九時十五分である。歴史の砂時計の十二時OT分である。
 私は、このニューヨーク・タイムズの記者で国際金融寡頭勢力の回し者ローレンスの文章を読みつつ、湯川秀樹が、彼ら勢力の金をふんだんに使い、京都会議を主催し、世界連邦思想を広めようとした意味を理解した。
 原爆を日本時間の中でなく、世界時間の、否、歴史の中に位置づけようとするバグウォッシュの会議の意味を理解した。
 1945年9月3日、W・H・ローレンス(W・L・ローレンスとは別人)が従軍記者団を引率してきた。従軍記者たちは、広島にほんの数時間いただけだった。

 9月12日、ニューヨーク・タイムズに、W・H・ローレンスは記事を書いた。広島と長崎は、「文明における新時代発祥の地」となったのである。この〔発祥の地〕をもとにして、恐怖を一方で煽ったのが、湯川秀樹、バートランド・ラッセル、アルバート・アインシュタインらの世界統一連邦政府構想である。
 トルーマン大統領は、新聞・雑誌・放送関係のすべての編集者に対して「内々」の書簡を送った。「原子爆弾の、実戦に関する情報はいかなるものであれ、陸軍省が特別に認めたもの以外は秘密にすべきである-」
 しかし、従軍記者の中でも、ジョージ・ウェラーのように、アメリカ政府の方針に逆らう者がいた。ウェラー同様に逆らった記者の1人がロンドン・エクスプレスの極東通信員ウィルフレッド・バーチェットであった。9月3日、W・H・ローレンス1行が数日間の広島での形ばかりの視察を終えた後、バーチェットは、同盟通信社の長谷川才次外信局長からの連絡を受けた広島支局の中村敏と歌橋淑郎の両記者、それに通訳の伊藤朝子の3人とともに広島を取材した。
 以下は、今堀誠二の『原水爆時代』(1959年)からの引用である。

 ・・・
バーチェットは広島から東京に帰ってから、帝国ホテルでアメリカ占領軍の原爆調査関係者の会議に出席した。
「会議は終りにちかづいていた。しかし、その会議が広島からの私の電報  -原爆の後障害で人びとは死んでいったという-を否定することが主目標であったことはあきらかであった。准将の服装をした科学者が、原爆放射線-私が説明した症状を呈する-の問題はありえない。なぜなら、爆弾は、『残留放射線』の危険をとりのぞくために、相当の高度で爆発させられたからだと説明した」
 なお「准将の服装をした科学者」とはマンハッタン管区調査団長の1人であるトーマス・F・ファーレル准将である。この会議でファーレル准将はバーチェツトが広島で見聞した原爆放射線の後障害をことごとく否定した。「スポークスマンは顔を青くして『君は日本の宣伝の犠牲になったのではないのかね』といって、腰をおろした。おきまりの『サンキュー』で会議は散会となった」とバーチェツトは記している。・・・

 ファレル准将は広島から東京に帰ったときの記者会見でも、残留放射能の存在をすべて否定した。私がたびたび引用した「ファレル准将覚え書き」がグローブス将軍に届けられ、この「覚え書き」がアメリカ政府の公式見解となっていくのである。
 国際金融寡頭勢力の回し者、W・L・ローレンスは9月12日付の、ニューヨーク・タイムズに次なる記事を書いた。

 ・・・
この地球上で最初の原爆爆発の現場であり、新時代の文明の揺藍の地である、ニューメキシコの歴史的実験場は、8月9日の爆発以後も人が死んでいくのは放射能のせいであり、広島に入った人たちは残留放射能のために新しい病気にかかっているとの日本の宣伝に対する効果的返答を与えた。こうした言い分は誤りであると反駁するために、軍はかたく閉ざされていたこの地域をはじめて新聞記者や写真家に開き、記者らは自分自身の目で放射線技師の1団が持ってきた放射線測定器のメーターを読み、原爆計画と深くかかわっている指導的科学者から専門的証言をきいた。・・・

こうしたなかで、9月19日にプレス・コード(言論及び新聞の自由に関する覚書)が出てくる。

 このコードの第3項は「公表されざる連合国軍隊の動静および連合国に対する虚偽の批判または破壊的批判および流言は取り締まるものとす」である。原爆に関する情報は一切報道してはならないということになっていく。

  それはGHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーによる指令であり、なによりもトルーマン大統領の指令であった。スティムソン陸軍長官の意向がこの背後に見えてくる。この広島・長崎に原爆を投下することにより、原爆産業を拡大しようとしていたロックフェラー、モルガン、そして国際金融寡頭勢力にとって、放射能汚染による破爆者たちの死が存在するということは、あってはならなかったのである。彼らはアメリカ政府を動かし、マッカーサーを動かし、ついには日本政府と日本の言論機開への口封じに入るのである。
 この結果は悲惨という言葉以外にないものを生み出していく。国家が「原爆患者は存在しない」と発表するのである。原爆による放射能汚染は広島と長崎には存在せず、従って原爆患者は存在しないから、海外からの患者への薬は要りません、と発表するのである。
 あの広島と長崎で、家を焼かれ、食べるべきものもなく、ましてや薬さえないときに、日本という国家は、彼らを★見殺しにするのである。私は次項でこの国家の犯罪を描き、半世紀以上たった今日において、この国家を殺人罪で告発する。


 ★近くはエイズ薬害訴訟で私(ブロガー)はいやというほど「再現劇」をみせつけられることになった。厚生省(当時)の責任者(郡司)と被害者(川田龍平氏)の対談(ETⅤ特集だったと思う、今ビデオを捜している)ほどグロテスクなものはなかった。対談で郡司は「天皇の戯画」を演じきった。
 これについては、ビデオを再見して後、詳述します。

 ・・・↑と書いたが番組は1999年7月4日放送の「NHKスペシャル」でした。


 長崎の医師・秋月辰一郎が『死の同心円』で書いた文章を再び引用し、告発の理由とする。

・・・
やがて、私はぽつりといった。
 爆弾で、財産も家族も失った君たちに、いま、国家もなくなったのだ。
 ・・・

 国家がなくなってもよい。しかし、なくなったはずの国家が、原爆を落としたアメリカの手先となって、財産も失った者たちに、国際赤十字社が提供しようという薬を、与えないで下さい、という権利があるというのか。
 私がたった1人で、汚れちまった、かの時の、あの天皇を天にいただく国家を告発する理由がここにある。

  ★原爆はどのように報道されたのか   <了>

  続く。 




●原爆投下(8)
 ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ★「県庁員幹部二死傷ナシ」は何を意味するか  


 私は『米軍 原爆投下の経緯』の中に出ている「ファレル准将の覚え書き」の中の「宣伝活動」について記述した(「第3章」 133頁参照)。その「宣伝活動」の中に「原子爆弾の記事と写真を載せた日本語新聞のコピーは50万枚を撒布すること」とあるのを書いた。この中に「ラジオ・サイパン(OWI)からは規則正しい間隔で宣伝放送をすることとも書かれていた」とも書いた。この2点は長崎での証言では、私の知る範囲ではなかった。私の勉強不足である。しかし、「人口10万人〔以上〕の日本の47都市に、9日間にわたって1600万枚のリーフレットを投下すること。これらの都市は全人口の40%以上を占めている」というのを知ることができた。
 家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編『日本の原爆記録1』(1991年)の中に、「長崎22人の原爆体験記録」がある。
 以下はその中に収められているものである。

 ・・・あの日あの時 旧三菱兵器製作所・太田実
 7日の新聞は、「広島に新型爆弾を米軍が落した」と簡単に書いていた。
 其の頃、長崎の上空には、毎日午前9時頃大きな風船が飛んでいたが、風の方向を調べる為に飛ばしていると言う事は知っていた。
 日本軍かと思っていたが、新型爆弾に関係があるのではないかと思っていると、7日の15時頃、米軍機がビラをまいて、「皆さん、我が軍は昨6日広島に原子爆弾を落しました。それで、皆さんの親、子、兄、妹、知人など20万人近くもけがをされました。この爆弾は1発でこれだけの力があります。この爆弾が落ちたところは、70年間は草も木も生えません。上空で爆発するので其の力は、直径20キロメートルもあります。皆さん、この次は★8日に長崎に落とす予定です。皆さん今ならばまだ間に合いますから早く戦争を止めるように言って下さい」というようなビラを落してゆきました。・・・

 「翌8日には、原子爆弾は落されず、9日ほっとした気持でいる内に・・」と太田実は、爆心地での惨状を描いている。アメリカ軍はたしかに長崎への原爆投下を予告していた。しかし、日本政府は、広島の原爆投下の報道を厳禁した。太田実の「広島に新型爆弾を米軍が落した」程度のものであった。「ファレル准将の覚え書き」にあるようにラジオ・サイパンからも放送が続けられていた。第二総軍が長崎の軍司令部にこのことを伝えた記録もない。ただ、大本営が8月7日15時30分に次のように発表している。

一、昨6日、広島市はB29少数機の攻撃により、相当数の被害を生じたり。
二、敵は、右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり。

 この程度の発表なのである。
 私は広島の被害は人工的なものであると書いた。その中心にいたのが第二総軍であると書いた。長崎には第二総軍の下に長崎要塞司令部があり、谷本陸軍中将以下、豊島参謀(少佐)、民防主任金子中尉、その他下士官、兵などがたむろしていた。この他に連隊区司令部があり、司令官は松浦少将であった。憲兵隊司令部もあった。隊長は弥富大尉であった。
 彼らが長崎市民に情報を与えたかを私は調査をした。しかし、彼らは知っていながら(知らないとは言わせない)、長崎市民に何1つ情報を与えていないのを却って、私はやっぱりそうか、と思った。彼らのトップは、市民に何1つ原爆投下の情報を与えるなと、第二総軍からの厳命を受けていたのである。
 その証拠の1つがある。前記と同じ、「長崎22人の原爆体験記録」の中の「その日の新聞記者」がその証しとなろう。

「その日の新聞記者」の中で中尾幸治は8月8日の夜に、軍の幹部から、官僚とともに新聞記者として宴会に招かれる。そこでK大尉から説明を受ける。中尾幸治は次のように書いている。

 ・・・その夜、K大尉は「いまついた大本営からの秘密情報」として、この爆弾を「原子爆弾」と説明した。不幸にして化学的に無知である私には、「原子」という語は知っていても、「原子爆弾」という語は初耳だった。そこで、この日本語のいたずらを指摘して、電報受付者のあやまりであり、これは「原子力利用の新兵器」であると主張したが、工学士のK大尉はこれを一蹴して、あくまでも、原子以外の「新化学分子」の発足(ママ)だといきまき、かつは恐怖の情ありありと苦悶した。・・・

 長崎に原爆が落ちるから逃げろ、とアメリカ軍は予告し続ける。日本の天皇がいる大本営は秘密情報としてほんの少数の軍人のみに知らせ、市民たちを無知のままにおく。★私はこれを「原爆殺し」というのである。長崎市民は死なずにすんだのである。
8月8日の夜、宴会の場をもうけたのは、8月5日の夜の広島・偕行社での宴会ともかさなってくる。彼ら軍の幹部は、秘かに、彼らに逃げろ! と言っているのである。官僚や記者たちに恩を売っているのである。
 中屋(尾)幸治は反省をこめて次のように書いている。

 ・・・しかし、新聞は、いずれかの1紙を見れば事足りた。なぜなら、各紙とも大本営報道部提供のニュースで全紙面を埋めているのに過ぎなかったからだ。そしてそのニュースとは、支配者たちが如何にして国民を瞞着(まんちゃく)させるかに苦心した、ねつ造のそれであった。また、それを報道する面にのみ止まらず、これを編集する面においても、支配者の圧力がひどかった-私の例においても-・・・

 私が書いてきたことを、中尾幸治は見事に裏付けてくれている。「支配者たちが如何にして国民を瞞着させるかに苦心した、ねつ造」の最大の虚構が原爆の投下だったのである。「大本営報道部の提供のニュース」には日本の降伏のときまで、何1つ原爆は出てこない。支配者たちは全て知りつくしていたのに、である。支配者たちとは、明確に表現するならば、皇居の地下室に集合していた天皇裕仁とその子分たる参謀たちのことである。彼らはアメリカと密謀していたのである。どうしてそれが分かるのか? それは、戦後、彼らは、彼らのために動いたヨハンセン・グループ、キリスト教のクエーカー・グループとともに東京裁判で、1部の例外を除き、皆が無罪となるからである。

 長崎原爆もまた、広島原爆と同じように、第二総軍の総指揮の下に原爆が落とされたのである。原爆投下のニュースが完全に封殺されただけではない。軍と県が一致して原爆投下を推進していた姿が見えるのである。
 戸田秀『ドキュメント被爆記者』(2001年)を見ることにしよう。

 ・・・当時、長崎県庁では、空襲警報が発令されると知事を本部長、警察部長を副本部長、警察部各課長及び衛生課長を参謀とする「長崎県防衛本部」が組織されることになっていた。この本部は、立山町の旧武徳殿下の山腹に掘られた立派な横穴壕に設けられており、市内の新聞記者たちは、あずき色に緑のラシャを縫いつけた派手な「防衛本部付報道班員」の腕章を付けて、横穴壕の1室に集まりそれぞれ情報の収集に当たっていた。・・・

 では、長崎原爆投下前日の様子を同書に見てみよう。文中の「支局」とは同盟通信社の長崎支局である。

 ・・・翌8日、長崎要塞司令部からの軍用電話で、広島の新型爆弾に関する情報が支局へ入ってきた。
 1、新型爆弾は落下傘をつけており、地上5~6百メートルの上空で一大閃光を放ちさく裂する。
 1、熱線のため露出した人間の皮膚はビランし、木造建築物は粉砕される。
 1、戦訓としては、白色の着衣を着た場合火傷が少ない。横穴壕を至急増築すること。
 これらの予想外の内容に、いまさらのように通信社の記者たちはみな驚いていた。
 午後になると、県の溝越防空課長から、
 「明9日午前11時、防空課長室に集まってもらいたい」
 という電話が入ってきた。新型爆弾に対する戦訓を広く発表したいと言うのである。しかし、佐原たち支局員が一番不審に思ったのは、通信社の方で独自の情報が入らないことであった。・・・

「明9日午前11時、防空課長室に集まってもらいたい」に注目してほしい。この数分後に原爆が落ちるからだ。これは偶然ではありえない。
 松野秀雄の『あの日のナガサキ』(1985年)には次のように書かれている。

 ・・・中山記者は、防空壕の入り口に立っていた歩哨に同盟通言記者であることを告げ、防空壕の奥深く入って行った。防空壕は諏訪神社の森に向かって横穴を3本掘り、中をつないでいた。つまり、入り口が3つあるE字型になっており、知事室、参謀室、防衛本部室、同盟通信の無線室(同無線は原爆のため一般通信網が壊滅したあと、重要な情報源となったので後で詳しく説明する)、電話交換室などがあり、80人ぐらい収容できた。・・・

 松野秀雄(当時同盟通信社南京支局勤務)はこの本の中で、9日11時に以下の主たる人々が防空課長室にいたと明記している。

 非戦闘員総退去対策会議 永野若松(県知事)
 警察部防空課長 溝越源四郎
 特高課長 中村博正
 県内政部教学長 藤本藤治郎
 佐世保市長 小浦純平

 これらのメンバーは原爆投下のことを話したことは間違いのない事実である。それは、原爆投下寸前に、放送局が、このニュースを流しているからである。
 『ドキュメント被爆記者』から再度引用する。

 ・・・爆弾が爆発した瞬間、見通しが悪くなり、市内の電話線を始めとする一切の通信網は切断されていた。もとより電灯線も切れていたのである。
 これは後になって分かったことであるが、この新型爆弾投下の前に、放送局のマイクで「長崎市民の皆さん、退避、退避、総退避」と叫んだそうであるが、この放送を何人の長崎市民が聞いたのであろうか。また、たとえ聞いたとしても、この放送は時間的にみて全然効果のない放送だった。
 ラジオの叫ぶ。〔総退避〕を聞いた時、爆心他の人々は強烈な爆風と数千度と言われる熱線に身を焼かれていたのである。・・・

 知事、陸軍、警察、特高も原爆投下の日時を正確に知っていたのである。しかし、これを発表する勇気を持たなかったのである。
 次に、長崎の証言の会編『地球ガ裸ニナッタ』(1991年)の中に記載されている「防空情報及空襲被害状況」を記すことにする。
 この中に、長崎県知事・永野若松が防空総本部長官、九州地区総監、西部軍事管区参謀長に宛てた文書が載っている。

 ・・・昭和20年8月9日 第1報
 1、本日1053、敵B29 2機ハ熊本県天草方面ヨリ北進シ、島原半島西部橘湾ヲ経テ長崎上空二侵入。1102頃、落下傘附新型爆弾2個ヲ投下セリ。
 2、右爆弾ハ広島市ヲ攻撃セルモノヨリ小型ト認メラレ、負傷者相当アル見込ナルモ広島ノ被害二比較シ被害極メテ軽微ニシテ死者並二家屋ノ倒壊ハ僅少ナリ。
 追而 県庁員幹部二死傷ナシ ・・・

 長崎県知事が宛てた第1報の受取人はすべて、第二総軍司令官・畑元帥の部下であった。かくて、広島同様、長崎の原爆投下もスティムソン陸軍長官のスケジュール通りに大成功に終わった。なお、「追而」の中の「県庁員幹部二死傷ナシ」について触れておく。県庁舎は全焼した。多くの県庁員が火炎地獄の中で死んでいった。永野若松知事は幹部県庁員のみを救ったのであった。
 泰山弘道の『完全版長崎原爆の記録』(2007年)を紹介したい。泰山弘道は長崎に原爆が落ちた当時、大村海軍病院の院長であった。彼の遣稿が没後50年にして出版された。・・・

 かくて鎮守府から来た書類や本院から提出する書類を閲覧して指定の処に捺印しては金網かごに納めていたが、その書類の中に〔敵は広島爆撃に際し特殊の新爆弾を用いた、その威力大なるものがある、今後もこの種兵器を使用するかもしれないから警戒せよ〕とあった。私はこの特殊爆弾が原子爆弾であると想像しながら書類を読み続けていると、午前11時を柱時計が告げて間もない時刻に、左側の摺硝石がピカッと光ったと思う瞬間に、院長室から玄関に下る階段の窓ガラスが破れてカランカランと音を立てた。私は原子爆弾だと直感して、いきなり「空襲、総員待避」と怒鳴るように命令を下した。・・・

 長崎市と隣接する大村のこの海軍病院に原爆被爆者が続々と運び込まれてくる。泰山弘道は次のように書いている。

 ・・・担架にて収容せられたる患者は顔面黒こげとなり、1部表皮が剥離して、赤い血の滲む皮下組織を露出し、頭髪は褐色に焼け縮れ、着衣は1人残らず裂け散り、焦げて地色などは識別すべくもなく、男女の性別すら外観上では全く識別不可能なほどの惨状を呈し、何を尋ねても応答なく、呻吟する力もなく、わずかに呼吸するのみである。〔中略〕
 見るに、誰1人履き物を穿いた者はいない。男女とも着衣は残らず引き裂かれボロボロとなり、殊に上半身は裸出し、何か背の方に薄き布片がぶら下がりているのを見ると、これが人間の皮膚である。屠牛場において牛の革を剥ぎかけたものを見る如く皮下組織が露出しているのに、負傷者は元気に歩を進めるのである。これを見た上級の軍医が大したことはないと云うから、私はこのあとに来る障害はまだ判らないから丁寧にいたわり、治療するよう説明した。
 この時の混雑や惨憺たる光景は、地獄か修羅場の絵巻物そのものであった。・・・

 「このあとに来る障害はまだ判らない」と泰山弘道が上級の軍医に言ったとおり、多くの被爆音が放射能汚染により、バッタバッタと死んでいくのである。この本の中に、守衛長が病院の庭で拾ってきた、アメリカ飛行機より撒かれたビラが載っている。その全文を記すことにする。

 ・・・
 即刻都市より退避せよ
 日本国民に告ぐ!
 このビラに書いてあることを注意して読みなさい。米国は今や何人もなし得なかった極めて強力な爆薬を発明するに至った。今回発明せられた原子爆弾は只その1発を以てしても優にあの巨大なB-29 2千機が1回に搭載し得た爆弾に匹敵する。この恐るべき事実は諸君がよく考えなければならないことであり我等は誓ってこのことが絶対事実であることを保証するものである。
 我等は今や日本々土に対して此の武器を使用し始めた。若し諸君が尚疑があるならばこの原子爆弾が唯1箇広島に投下された際如何なる状態を惹起したか調べて御覧なさい。
 この無益な戦争を長引かせている軍事上の凡ゆる原動力を此の爆弾を以て破壊する前に、我等は諸君が此の戦争を止めるよう陛下に請願することを望む。
 米国大統領は曩(さき)に名誉ある降伏に関する13ヶ条の概略を諸君に述べた。この条項を承諾しより良い平和を愛好する新日本の建設を開始するよう我らは慫慂するものである。諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。然らざれば我等は断平この爆弾並びに其の他凡ゆる優秀な武器を使用し戦争を迅速且強力に終結せしめるであろう。
 〔即刻都市より退避せよ!〕
 ・・・

 このビラをもし、天皇の大本営が新聞紙上に出す許可を与えていれば、どこの都市に原爆を投下しようとその被害は最小限にくい止められたであろう。天皇の大本営はこのビラを軍隊、警察、特高、憲兵をフルに稼動させて回収した。そして「アメリカのデマにだまされるな。デマを吹く奴は留置所にぶちこむぞ」と嚇したのである。しかし、少数の人々は、退避したにちがいない。
 かの時の皇室、かの時の政府、かの時の軍隊は国民の味方にあらずして、アメリカの味方であったのだ。


 ***************

  ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ★アメリカ人捕虜だけがどこかへ消えた  


 長崎市内の医師・秋月辰一郎は『死の同心円』(1972年)の中で次のように書いている。

・・・「国破れて山河あり 城春にして草木深し」
 かつて古人はこう詠んだが、詩情を感じる余裕はなかった。国破れて瓦礫残り、幾万の人々が焼けただれて苦しんでいるではないか。
 家野町、住吉町から井樋の口(いびのくち)、長崎駅まで約5キロ、延々とつづく瓦礫である。松山町付近では、こまかく砕かれた瓦の色は赤か黄に変じて、軽石のように小さな孔があいている。松山町から遠ざかるにつれて、瓦礫は大きくなり、色は黒に変わっていく。熱と圧力の強さを示しているのだ。
電柱も松山付近のは木炭そのものだが、遠ざかるにつれて燃えかけた薪のようになり、傾斜もゆるくなる。市街電車も一定の間隔をおいて焼けただれているが、松山町に近づくと骨組みだけであとは何一つ残っていない。一瞬に火を吹いて電車は鉄骨になり、乗客は炭素になってしまった。
 東洋一を誇った浦上天主堂のドームもまったく見えない。櫛の歯の欠けたような、煉瓦の棒杭になっている。その下の丘では刑務所のコンクリート塀が倒れかけている。その内側では、数百余の囚人が灼熱の火に焦げて死んだのだ。・・・

「その内側では、数百余の囚人が灼熱の火に焦げて死んだのだ」と書かれている。私はグローブス将軍とスティムソン陸軍長官が、長崎のもう一つの捕虜収容所のことで、話し合っている場面(「第3章」141頁参照)と、ジョージ・ウェラーが『ナガサキ昭和20年夏』の中で「二つの連合軍兵士捕虜収容所にはおよそ1000人が収容されている」と書いたことにも触れた(138頁参照)。「日本軍は収容所の一つを三菱の巨大な兵器製造所のまん中に設置し、もう一つは長崎港の入り□に設置した」と書いた。
 しかし、原子爆弾でオランダ人7人と、イギリス人1人の8人だけが死んだとも書いた。
 私は、三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置した収容所のことについては書かなかった。この収容所のことを書かねばならない。
 『日本の原爆記録11』(1992年)の中に収録されている「長崎の証言(第8集)」から引用する。
 「怒り悲しみは国境をこえて  長崎捕虜収容所被爆」の語り手は田島治太夫である。この物語はかなり長い。ダイジェストして読者に伝えたいと思う。

 田島治太夫は大正9年生まれ。島原出身。昭和17年、中央大学1年のとき、召集を受け、長崎の捕虜収容所に勤務することになる。彼が勤めた第14分所には480名前後の捕虜がいた。他に、飯塚、長崎など他の3、4ヵ所に千人近くが分けられた。彼のみが英語ができたので捕虜らと対話をし続けることになる。捕虜は主にインドネシア人で、インドネシア・オランダの混血や、イギリス人、オランダ人であった。捕虜は長崎の2つの収容所のうち長崎港の中に収容されたのはアメリカ人たちで、三菱兵器製作所近くにつくられた捕虜収容所にはアメリカ人がいないということになる。アメリカ軍は、この三菱を中心としたところにあった収容所について調査したにちがいない。原爆投下の前に、田島は、アメリカ人に対する彼らの語を伝えている。この部分を引用する。

 ・・・彼らは「私たちもアメリカ人はきらいだ」と言うんです。
「同じ連合軍なのにどうしてか」ときくと、「アメリカ人は自分が利益になるときにはいかなる援助も資金も借しまない。だけど一旦自分が不利益になると、スパッと手を切る」と言うんですよ。つまり、個人主義、利己主義で信用できんというわけです。それをきいて、はっと思ったんです。・・・

 彼ら捕虜たちも分散させられて、造船所でも働かされている。原爆投下の直後、「どこからか15、6人の捕虜たちが現われてきたんです。造船所に行ってた者たちだったと思います。ケガをしていたけど、みんな元気でした。私の方にやってくるので見ると、彼らもよごれ、やつれているんです。それで『おお・・』と大声をあげて、お互いに生きていることを喜びあったのです」ということになる。
 三菱で働いていた者、病気で隔離されていた者、ことごとくが原爆死した。造船所から奇跡的に帰ってきた捕虜10数人をつれて田島は死線をさまよう。劇的なシーンに読む者の心は熱くなるのだ。そして、
彼の証言を通じて、謎の1つが解き明かされる。長崎港近くにあった捕虜収容所の★アメリカ人の捕虜たちは原爆投下の瞬間には、捕虜収容所にも造船の工場にもいずに、何処かに行っていたということである。これが戦争であるという一言では決して結論を出しえない、暗黒の深淵が見えてくるのである。その問いはただ1つ。何のための戦争であったのか、ということである。それでも「生存者は3人ぐらいはいた」と田島は書いている。原爆投下当時、田島の収容所にいた人数は書かれてはいないが、千人ぐらいはいたのではなかろうか。彼らは爆心地近くにいながら、仕事でふり分けられていたからである。
 田島は次のように書いている。この田島の言葉は重い。

 ・・・焼跡の遺体の中には、私のもとで働いていたボイラーマンや大工をやっていた捕虜たちの真黒な遺体がまじっていました。また、同じ病室にいた者や同じ所内〔三菱兵器製作所〕勤務の捕虜たちの遺体がつぎつぎに出てきました。捕虜としてはるばる日本に送られてきて不遇な生活を送ってきたうえに、最後は味方のアメリカの原爆に会って死ぬなんて、言葉にもつくせない悲劇だと思います。たまらんですよ。そりゃあ。・・・

スティムソンがグローブス将軍から、この田島のいる捕虜収容所の存在を聞かされたのが7月31日。それから調査が行われ、アメリカ人がいないことを確認のうえで、長崎原爆投下のゴー・サインが出たことになる。長崎港に収容されている捕虜たちは、長崎原爆の投下が決定する前から、その瞬間だけは、何処かへ消えることになっていた、ということになる。これは、太平洋戦争最大のミステリーであろう。

 もう一度、田島の声に耳を傾けよう。真実が語られている。

 ・・・原爆という大きな問題についても、この人間性の立場から考えていくことが国際間の問題として非常に重要だと思うんです。それが、捕虜収容所という、各民族が寄り巣まった戦争の縮図のような場所で一緒に生活してみて、私が痛感した1番の問題ですよ。私ももちろん、戦犯の被疑者として2、3ヵ月呼ばれました。しかし私は自分の主体的な判断でやってきた事柄ですから、すべてのことが解決されるんですよ。だが、もし私が単に相手を猛獣として非人間的に扱っていたら結果は逆だったでしょうね。・・・

 田島のこの言葉の中に、原爆投下の最も深い意味での理由が書かれている。読者よ、彼は「相手を猛獣として非人間的に扱う」な!と訴えているのだ。

  私が湯川秀樹を糾弾する理由がここにある。彼は世界連邦思想を唱えた。戦争が起こるから、これを防止するためには一つの政府で強制的に人間を支配する、というのがこの思想の基底にある彼らの驕りである。平和を説く者は、平和という思想のもつ驕りに酔いしれている。私たちは、すべての人の、特に弱者の視点に立って「相手を猛獣として非人間的に扱っ」てはならないのである。
 原爆は個人主義、利己主義から生まれてきたのである。その個人主義、利己主義の生んだ原爆を日本の政治機構が甘受したがゆえに、原爆が広島と長崎に落ちたのである。死なないで、幸せに暮らせたのに、どうしてこんな悲劇が日本を襲ったのか、その根本原因を私は書いてきたし、これからも書き続けようと思う。

 2008年2月19日、私は長崎原爆資料館図書室に行った。そこで私は数々の資料のうちで、『捕虜収容所補給作戦 B29部隊最後の作戦』(奥住喜重・エ藤洋三・福林徹共著、2004年)を見つけた。3人の自費出版であろう。印刷所は大村印刷(山口県防府市)とあった。この本の中に「長崎三菱造船分所」の記述があるので記すことにする。

  ・・・1943年4月22日、福岡捕虜収容所第14分所として長崎市幸町に開設、使役企業は三菱重工業長崎造船所。終戦時収容人員195人(蘭152、豪24、英19)、収容中の死者113人、このうち7人が原爆で、1人が空襲で死亡した。・・・

  もう1冊の本がある。『戦時外国人強制連行関係資料集(I)俘虜収容所』(林えいだい監修)である。1990年に明石書店から出版された。その中に、「福岡俘虜収容所法務関係名簿〈西部復員連絡局〉」を発見した。1949年10月25日に作成されたものである。この本に書かれているほとんどは法務関係者の名であるが、その中に長崎西彼杵郡香焼村に置かれた香焼2分所の記事がみえる。長崎湾の入口にあたる場所で、そこに三菱造船所があった。前記の『捕虜収容所補給作戦』から引用する。

 ・・・
 香焼分所
 1942年10月25日、八幡仮捕虜収容所長崎分所として、長崎県西彼杵郡香焼村(現在・香焼町)に開設。1943年1月1日、福岡捕虜収容所長崎分所に改編。3月1日、第2分所と改称。使役企業は川南造船香焼造船所。終戦時収容人員497名(蘭324・米5・他8)。収容中の死者72人。・・・

 長崎三菱造船分所(第14分所)は幸町にあり、原爆投下の中心地の近くである。この分所のうち7人が原爆死と書かれているのも不可解である。しかも、終戦時収容人員195人と書かれている。ウェラーは「長崎港にある二つの連合国兵士捕虜収容所にはおよそ1000人が収容されているが・・」と書いている。終戦時、二つの収容所を併せても692名(うち米5名)。アメリカ人兵士は5名しか収容所にいない。4百名近くの兵士が終戦の後に何処かから帰ってきたことにならないのか。確かなことは、爆心地にあった長崎三菱造船所分所で、たった7人しか原爆で死ななかったということである。この分所のごく近くにあった三菱重工捕虜収容所では350名以上の死者が確認されているのである。
 もう1度、ウェラーの本から引用する。7人の原爆による死者についての記録である。

 ・・・原子爆弾で、捕虜の指揮をしていたキック・アールダー中尉(ジャワ、バンドン出身)を含む7人のオランダ人とイギリス人1人が死んだ。記者は6日午後、彼らの収容所を訪れた。外部の人間が訪れるのは数年ぶりのことだ。・・・

 ウェラーは8人の原爆死としているが、『捕虜収容所補給作戦』では7人の原爆死となっている。ウェラーの本の正確さが理解できよう。終戦時収容人員195名のうちに、アメリカ人は含まれていない。しかし、1945年9月7日、ウェラーが訪れたときにはアメリカ人の収容者がいたのである。アメリカ人の1人は、ウェラーに次のように語っているのである。

 ・・・アメリカ人「B29が食料と一緒にいつもサイパンの新聞を落とす。その中でシナトラという男のことが記事になっているが、そいつは何者で何の商売をやっているんだ?」・・・

 ここまで書いてきて、私は次のように考えるようになった。
三菱重工業長崎造船所にいたアメリカ人たちは、原爆投下の直前に、香焼村にあった第2分所にひそかに移された。終戦後、また、14分所に移された。それはスティムソン陸軍長官の処置であった。従って、爆心地にいた捕虜たちは、この間、そこにいなかったのである。オランダ人、オーストラリア人、イギリス人も移された。7人だけが不幸にも残された。原爆投下後、アメリカ人たちは後れて移動した。
 長崎三菱造船分所に入った捕虜たちの1部が三菱工業内(爆撃目標地)の捕虜収容所に移された。
このときに、アメリカ人は1人として移されなかった。この事実をスティムソン陸軍長官は知り、第14分所の全員(重病患者を除く)を移動させたのである。
 前記の「元福岡捕虜収容所派遣所々在地一覧表」には「分所勤務者名簿」が載っている。私が引用した『日本の原爆記録11』の田島治太夫は、第14分所の所員であった。
 彼は、三菱重工業内の捕虜収容所に回されたのである。ここの大半の捕虜は死んだことになる。ここにはアメリカ人が1人もいなかった。スティムソン陸軍長官の長崎原爆投下作戦の見事な成功であった。

 秋月辰一郎の『死の同心円』から再度引用する。前に紹介した「・・その内側では、数百余の囚人が灼熱の火に焦げて死んだのだ」の続きである。

 ・・・電線は低く垂れ、その下の瓦礫の砂漠には破裂した水道管が水を吹き上げている。煙突の煙は絶えて、すべて「くの字型」になった。廃墟と化した長崎にとって、終戦といってもなんの動揺もなかった。動揺すべきものは存在しない。すべてが焦げて、傷ついて、死んで、壊れていた。
 「これから日本はどうなるのです。病院は、私たちは・・」
 入院患者も職員も、不安そうに問いかけてくる。
 「米英は鬼ではない。人間さ。昔の戦争と違うんだ。これ以上君たちを苦しめることはないだろう。これ以上不幸にはならないよ」
 見通しは立たないが、これだけは自信をもっていった。

 同盟通信の号外で、玉音放送の内容を知ったのは、16日の夕暮れだった。私は草の上に立って、川野君が持ってきたザラ紙の号外をひろげた。だれかがうしろからローソクを照らしてくれる。そこには、日本の追いつめられた現状が、天皇の言葉として書いてある。歩くことのできる負傷省や患者は、近くに円形をつくった。
 「・・敵ハ新二残虐ナル爆弾ヲ使用シテ、惨害ノ及ブ所、真二側ルベカラザルニ至ル・・戦陣二死シ、職誠二殉ジ、非命二斃レタルモノニ想ヒヲ致セ八五内為に裂ク・・」
 最初は声をあげて読んでいた。しかし、しだいに声がつまる。
 「遅い、あまりに遅すぎる。なぜこんなになるまで、国民を戦いに駆りたてたのだ!」
 読みながら、こんな叫びが心中に起こる。とぎれとぎれに最後まで読んだ。看護婦のすすり泣きが聞こえてくる。〔中略〕
 やがて、私はぽつりといった。
 「爆弾で、財産も家族も失った君たちに、いま、国家もなくなったのだ」
 すべてを奪われてなにかすっとした。これ以上失うものはなにもない。

  ★アメリカ人捕虜だけがどこかへ消えた  <了>

   続く。
 




●原爆投下(7)
 ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ★湯川秀樹ノーベル賞と原子爆弾との関係  


 この章では、主として原爆被爆者と国家との関係について記すことにする。しかし、私はすこし廻り道をしようと思う。それは、日本初のノーベル賞(物理学)学者である湯川秀樹について書いておきたいと思うからである。まずは、先に1度引用した中条一雄の『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』から引用する。

 ・・・私の高校の同窓生は、広島在住の有志が中心となって『ヒロシマと広高』という同人誌を不定期に発行している。そこには「被爆前から原子爆弾の存在を知っていた」とする2人の証言がある。1つは1997年8月発行のもので、同級の中野武彦君のものだ。彼は皆実町の高校の寮で朝食をとっている最中に被爆したが、全壊した食堂の残骸を押しのけて、やっとの思いではい出した。顔に深い切り傷を負っていた。その夜は近くの芋畑で野宿したという。
 (被爆した夜、野宿していると)高校生の集団ができて、夜空になおも赤い炎をちらちら見せている市の中心部を見つめながら、私たちは時折元気づけに寮歌を歌っていた。ふと私は、京都帝国大学で物理学を専攻し、荒勝教室にいた義兄が、物知り顔に話していたのを思い出した。
 「マッチ箱1個の大きさで、戦艦1隻すっ飛ばす爆弾があるんやデ。原子爆弾言うんや」
 B291機か2機の爆撃で、これほど広範囲に被害を与え得る爆弾は、原子爆弾以外にないのではないか。そのことを持ち出したが、居合わせた化学を教えるH先生は、きっぱりと否定した。
 「理論的には可能じゃが、いくらアメリカだって、まだそこまではいっとらんじゃろう」
 けれどもやはりあれは、世界で最初に人類の上に落とされた、1発の原子爆弾だったのである。
 これまた呉鎮守府の三井大佐の「京大・荒勝研究室(海軍)ニテ行ヒアルモ」と符合する。物理学者の間では、弁当箱とかマッチ箱とか、その大きさこそ違え原子爆弾は公然と語られていたようだ。・・・

 私は、本書の1章を、日本の原子爆弾製造について書くべく、たくさんの資料を集めてきた。しかし、この構想は途中で断念した。この「マッチ箱1個の大きさで・・」の表現の中にあるように、日本の原爆製造は、ほんの初歩的実験ともいえない程度であったと知ったからである。日本の原爆開発を真正面から書いた本はないとはいえない。しかし、空想物語の域を出ない。何といってもウラン鉱石さえ、ほんの少量しか入手できていない。
 国家が研究に投資した金額はマンハッタン計画の数万分の1もない。読売新聞社編『昭和史の天皇』の「原爆投下」の章を読めば、私の書いていることが事実であることがわかる。
 この引用文中の「京大・荒勝研究室(海軍)」とあるのは、日本海軍が、京都大学の荒勝文策理学博士を中心とした研究室に原子爆弾の研究を委嘱したからである。陸軍は☆理化学研究所(理研)の仁科芳雄博士に研究を依頼した。「マッチ箱うんぬん」程度の研究であったと記しておく。この件で興味ある方は『昭和史の天皇』の「原爆投下」の項を是非読んでほしい。
『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』を続けて読んでみたい。あの★湯川秀樹博士が登場するからである。
 (☆参考: http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/23941835.html 「競馬放浪日録」)

 ・・・いま1人は私の中学、高校で2年先輩の永田泰次さんだ。2000年8月発行の同人誌の中で、やはり「広島に原爆が落とされていることがわかっていた」と次のように書いている。
 「当時、小生は京大工学部冶金教室の学生でした。原爆が投下される3ヵ月前の1945年5月のある日、冶金教室の主任教授の西村英雄先生に突然呼び出されました。先生によると、アメリカの学会から秘密裡にニュースが先生に送られてきて、当時原爆製作を競争していた日本より先にアメリカで成功したというのです。そして、その第1回現地テストを広島で行なう予定が決まった。できるだけ早く両親を疎開させなさいということでした」
 永田さんは西村教授の忠告にしたがって、両親をすぐに広島近郊の廿日市に疎開させた。おかげで両親は原爆の被害にあわなくてすんだ。この西村教授の忠告は、今や想像もできないくらい奇想天外ともいえる秘密情報だが、永田さんはこう言う。
 「西村先生に呼び出された時、先生の横に原子物理の湯川秀樹教授が座っておられた。それで、てっきり湯川教授からの秘密情報かと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。西村先生がアメリカとの独自のルートを持っておられたようだ」・・・

私はこの文章に接したとき、「やっぱりそうだったのか」と正直思ったのである。これには理由がある。私は渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたが』(2003年)の中に書かれている、ある文章を思い出したからである。

 ・・・戦時中、日本で1日も早くその完成が待たれていた、マッチ箱1つの大きさで戦艦1つを沈めうるといわれていた新兵器は、今日いう原子爆弾のことであった。そして仁科芳雄博士の研究では、実験段階では既に完成していた。しがし、その基礎理論が完結をみないでおり、理研内では研究員たちが手分けして研究にあたっていた。それが一応のまとまりをみたとき、これを1つの学説として発表してはどうかという案も出たが、軍の機密に属することでもあり、早計に外部に洩らしてはならぬという仁科博士の意見で発表は厳禁されていた。ところがそれを、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。米国は終戦後、湯川の功績の論功行賞としてノーベル賞を授与させている。日本の利益にはならず、米国のためになったことで褒美がもらえたのだ。まさに国賊である。・・・

  この渡部悌治の「湯川秀樹論」については後述することにして、私が彼の本に書かれた湯川秀樹と関係する諸々の事実を調査していたとき、偶然とはいえ、中条一雄の文章に接したということである。中条一雄は次のように書いている。

 ・・・独自ルートで考えられるのは『もはや高地なし』〔フレツチャー・ニーベル、チャールズベイリー著、1960年〕の1節だ。原爆投下の約半年前の1945年初めごろから、1部の米学者の間から「原爆使用反対」の声が出て、その中心になったのがシカゴ大学の冶金研究所だった。アーサー・コンプトン所長を中心に政治家や軍関係者に対し、さまざまな反対運動を繰り広げたようだ。その様子は「届かなかった原爆使用反対の声」という項目で詳しく紹介されている(同書111ページから119ページまで)。6月4日には「同研究所で対日原爆使用を阻止しようとして7人の科学者が会合を開いていた」とあるが、結局反対の声は通らなかった。
 シカゴ大と京大、そして冶金研究所と冶金教室。冶金つながりに不思議な符合がある。学者の間では、あの戦時中でもスイスあたりを経由して、日米間でひそかに情報を交換していたという話もある。終戦後、西村教授か亡くなったのち、永田さんは同教授のご子息に「生前、こんな話を聞いていましたか」と尋ねたところ、「そんな話は一切聞かなかった」という返事だったという。だが、永田さんは、今でも日米間の「冶金つながり」を信じている。・・・

 私は中条一雄のこの後半部分を読んで、先輩の永田に原爆情報を伝えたのは、間接的ではあるとはいえ、間違いなく湯川秀樹であったと思うに至った。アーサー・コンプトン所長を中心に、「日本に直接、無警告による原爆投下をやめ、事前に知らせてからにしろ」という反対運動が燃え上がった。アーサー・フランクによる「フランク報告」にその内容が詳しく書かれている。しかし、私は本書が莫大な頁数になるゆえに、学者たちの反対運動に触れなかった。これらの運動は、結局、原爆製造・投下の最高責任者スティムソン陸軍長官によって潰されるのである。
 中条一雄は「シカゴ大学と京大、そして同じ冶金研究所と冶金教室・・」と書いているが、シ力ゴ大学の冶金研究所は、「原爆研究所」とは表現できないとのことからきた★偽名である。イギリスの原子力委員会が「管合金」という言葉を使ったのと同様の偽名である。京都大学は、このシカゴの冶金という言葉に倣った可能が高いと私は思っている。
 湯川秀樹は戦争が終了してから3年たった1948年に『原子と人間』という本を出版している。その中に「アメリカ日記」が入っている。1939年10月3日の日記を見ることにしよう(英文の部分は私が和訳した)。

 ・・・10月3日(火)晴 稍々寒し(シカゴ)
 午後零時30分汽車はシカゴ・セントラル駅着、船山氏の自動車で直ちにクォーディラングル・ヒルに向ふ。船山氏は私が昨日帰って来るかと思って迎へに行ったり、又コンプトン氏はディナーを途中で打切ってスティーブンス・ホテルヘ行ったりした由。
 1時10過ぎホールに行くとコンプトン氏は既に待って居られて昼食を共にする。実に親切な、真面目な、頼もしい人である。丁度食堂にはデンプスター博士、マルキン博士、アリソン博士も居て一緒に賑やかに話する。それからコンプトン氏の案内でシェーンその他の人のやっているバルーンにカウンターを乗せて飛ばす実験装置を見せて貰う。バルーンはうすいゴムで22粁(最高)迄上る由。シェーンの最近の実験法は既にピス・レブュー(9月15日)に発表されて居るが、ソフト・コンポーネント(柔核力)が最高の度合いになる高さまで中性子によって作られる強分子は柔核力に比例して増す。これを中性子がフォトンであるとするとよく了解できる。・・・

 湯川秀樹はコンプトンの案内で各種の実験装置を見て回る。そして、20人ばかりの関係者が集まった会議室で講演をする。その内容を翻訳して伝える技術を私は持たないので以下は省略する。
 私はこのときから、湯川のコンプトンや他の学者たちとの交流が始まったとみている。
 渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』に戻ろう。渡部は「軍の機密に属することでもあり、早計に外部に洩らしてはならぬ」と書いているが、私が調べた範囲内で、日本の原子物理学の理論面での研究では、ある分野(中間子理論)では世界的水準に達してはいたと思えるが、どうも納得がいかない。日本の原爆研究で、アメリカにとって投に立ったものがあるとは思えない。
 有馬哲夫が「月刊現代」(2008年1月号)で、「元CIA長官A・ダレスの『原爆投下阻止工作』の全貌」という記事を発表している。その中に、次のような文章がある。

 ・・・たしかにバーグは、ハイゼンベルクが1944年のクリスマスにスイスのチューリッヒにやってきて講演することを突き止め、現地に入り実際にそれを聴いている。だが、彼が12月30日に本部に送った報告書には、ナチス側の潜在的原爆開発者としてハイゼンベルク配下の科学者の名前があげられているだけだ。ちなみにそこには「キクチ(菊他正当時大阪帝大教授)」、「ユカワ(湯川秀樹、当時東京(ママ)帝大教授)」の名前も言及されている。・・・

 私は、トマス・パワーズの『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』(1994年)を読み、ハイゼンベルクがたしかに、1944年のクリスマスにスイスのチューリッヒで講演をしている事実を確認した。しかし、このハイゼンベルクの生涯を追求した本の中に日本人の2人の原子物理学者の名前を発見できなかった。それだけではない。私はこの本を読み、ドイツの原爆は、他の本に書かれているのとは異なり、未完成であった、と思った。だから、私はドイツの原爆製造についてほんの少ししか書かなかったのである。
 それでも、湯川秀樹には疑問が残る。ノーベル物理学賞受賞の理由は、彼の「中間子理論」による。この理論は仁科芳雄とその弟子たちが湯川秀樹に先んじて構想し、理論化しつつあったものであった。たしかに小沼進二編『湯川秀樹日記』(2007年)を読むと、湯川秀樹の中間子理論への情熱のすごさがうかがえる。彼は仁科芳雄たちに先んじて英文で書き発表した。アメリカの物理学者は彼を自国に迎えた。全米各地の大学で湯川は歓迎される。その様子を彼は「アメリカ日記」の中に書いている。
 湯川は日本海軍の依頼を受けて、原爆研究に着手した京都大学の荒勝教授のもとで、理論面での原爆開発に協力している。私はこの理論面での原爆研究のデータがシカゴ大学のコンプトン研究所に何らかのルートで流れ、その見返りとして、広島に原爆を落とすというアメリカの極秘情報がコンプトン博士から湯川秀樹のもとへ伝わったと信じている。
 小畑弘道の『被爆動員学徒の生きた時代』(2007年)から引用する。湯川秀樹が登場する。

 ・・・ところで、同じ市内にあった学校でも、農村部に疎開をしていて難を逃れたところもある。陸軍広島幼年学校と広島高等師範附属中学校である。
 前者は、将校生徒を育成する目的で全国6ヵ所に開設された学校で、広島幼年学校(「広幼」)は、1897年(明治三〇)に開校された。〔中略〕疎開は6月に行われ、49期生と47期生が高田郡吉田町(現在の安芸高田市)に、また48期生が甲奴郡上下町(府中市)に移住していた。生徒の総勢は670名ほどであった。なお、疎開のことを陸幼では「転営」と言っていた。・・・

 「幼年学校」といっても、現在の中学1年から高校生にあたる生徒たちであった。彼らは、第二総軍の畑元帥の命を受けて6月に「転営」となった。「6月」に注目したい。広島に原爆が投下することがほぼ決定したときである。畑元帥のおかげで彼ら670名は助かったが、広島高等師範附属中学を除いた学校の子供たちは、強制疎開という名の駆り出しを受けて死んでいったのである。ここにも畑元帥の奸計が読み取れよう。続きを引用する。

 ・・・一方、広島高師附属中学校は千田町(現在の広島大学千田キャンパス付近)にあり、ここも爆心地から1、5キロであり、疎開をしていなかったら大きな犠牲が避けられなかったところである。附属中学の1年生120人は賀茂郡原村(現在の東広島市)へ、2年生120人は豊田郡戸野村(東広島市)、また科学学級は比婆郡東城町(庄原市)へと疎開した。疎開の名目は、一応「農村動員」としていた。このうち科学学級というのは、44年2月にスタートした理数系に秀でた生徒を集めたもので、全国では東京、京都と広島にあった。戦況が厳しさを増すなかで、いわば速成で科学者の卵を養成しようとしたもので、湯川秀樹博士らの進言と軍の後押しで創設されたものである。生徒たちは動員に出ることなく、ずっと授業を続けていた。・・・

私はこの小畑弘道が淡々と書く文章を読みつつ、『原爆は8時15分に落ちたのか』を読んだときと同じ思いを抱いた。「湯川秀樹は原爆投下について事前に知っていた」と。
 そしてまた次のようにも思った。「彼は間違いなく、日本の原爆研究のデータをコンプトン研究所に流し続けていた」と。そしてまた次のように思った。「少なくとも仁科芳雄と2人で受賞するべきノーベル賞が、湯川秀樹単独の受賞になった」と。

 馬場重徳(科学者)の「仁科芳雄功績調書」(1946年2月11日の文化勲章授章のための功績調書として作成されたもの。日付不明)の中に「量子論に関する業績」が載っている(『仁科芳雄往復書簡集1 現代物理学の開拓』2006年)。

 ・・・殊に阪大の湯川博士の中間子理論には当初より多くの関心を示した。この理論は昭和12年、宇宙線中に予言されていた新粒子が発見されるに及んで、世界の学界の注目の的となったが、仁科博士は或いは研究室における宇宙線の実験的研究を以て協力し、或いは、関西と東京との理論的物理学者の会合を屡々主催するなど凡ゆる援助を惜まず、湯川博士の理論の完成に尽力した。・・・

 ロバート・K・ウェルコックスの『ジャパン・シークレット・ウォー』(1995年)がアメリカで出版された。あたかも、日本が本格的に原爆製造に着手しているかのごとくに書いているが、丁寧に読むと、その製造がマンハッタン計画に比して、全くの初歩的なものであったことが分かるの
である。次のように湯川秀樹について書いている。

 ・・・荒勝は才能のある研究者のグループを持っていた。特に、1949年にノーベル物理学賞を貰った湯川秀樹がそのグループの中にいた。湯川は1939年以降、核分裂によるエネルギーの計算をし続けていた。湯川は世界での理論物理学の分野で有名な1人であった。荒勝はそんな湯川を彼の意のままに使ったのである。・・・

 ウェルコックスの本の中に、海軍が京都大学の荒勝研究室に与えた研究費は1500ドルであったと書かれている。マンハッタン計画は20億ドル以上の金が使われた。この点から見ても日本の原爆製造物語は書く気にもなれない。しかし、戦後、湯川は原爆研究に関係したとは一切語っていない。彼は都合の悪いことはすべて封じ込めてしまった。
 この頂の終わりに、湯川の戦後の活動について書いておきたい。
 湯川は、朝永振一郎、坂田昌一との共著『核時代を超える』(1968年)の中で次のように書いている。

 ・・・世界平和を念願する人たちの活動の仕方は多種多様であった。しかし、それらの人々の出発点は同じだった。原爆投下、それからまた水爆実験があたえたショックは強烈であった。核兵器を廃絶し戦争を廃絶しなければ、人類の前途は暗黒だと直覚したのである。非常に多くの人々に共通するこの直覚を、最も簡明率直に表現したのが1955年のラッセル・アインシュタイン宣言であった。それは人類の良心の叫びであると同時に、新時代に処すべき人間の良識の具現でもあった。この宣言は、その最後において世界の科学者および一般の人たちに次の決議に署名するように呼びかけた。
 「およそ将来の世界戦争においては必ず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続をおびやかしていくという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう勧告する。従ってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的手段をみいだすよう勧告する」
 このラッセル・アインシュタイン宣言の呼びかけは無駄ではなかった。当時ほとんど不可能と思われていた東西両陣営の自然科学者の討議の揚が出現した。それが1975年の第1回バグウオッシュ会議であったのである。・・・

カナダにあるバグウォッシュという名のホテルは、「死の武器商人」であるサイラス・イートンが持ち主である。この会議は、朝鮮半島、ヴェトナム戦争で武器を売りまくり、巨万の富をつくった男が主催した会議である。
 この会議の最後には巧妙な〔仕掛け〕があった。それはアイゼンハワー政権の副大統領であったリチャード・ニクソンを、会議が「次期アメリカ大統領にふさわしい」と宣言したことである。
J・F・ケネディは核実験反対を唱えていた。ニクソンは核実験継続を唱えていた。バグウォッシュ会議は続けられていくが、その費用は、あの原爆を広島と長崎に落とした連中が出し続けたものであった。
 同じ湯川、絹永、坂田共著の『平和時代を創造するために』(1963年)の中で湯川は次のように書いている。

 ・・・それなら、その他の条件とは何か、また最終目標は何かという点になると、ラッセル・アインシュタイン宣言は、はっきりしたことは何もいっていない。ラッセルもアインシュタインも共に早くから世界連邦主義者であったから、おそらく両氏とも心の中では、最終目標として世界連邦のイメージを描いていたと思う。しかし多くの科学者の賛成を得るためには、そこまで飛躍しない方がよいだろうと判断したのであろう。私自身も世界連邦の理想には以前から大いに共鳴しているが、科学者の会議でそれをはっきりとだしてよいかどうかについては、いろいろと問題があったと思う。・・・

 この本は1963年に出版された。湯川は生涯、世界連邦主義者として活躍した。
 私はこの世界連邦主義を唱えた連中が、国際金融寡頭勢力から操られた人々であることを研究し尽くしている。その詳細は省くが、バートランド・ラッセルも、アルバート・アインシュタインも、原爆を日本に落とした金融寡頭勢力、ロックフェラー、モルガン・・・等の〔雇い犬〕であったと書いておく。

 世界を1つの政府が支配するという思想ほどに恐怖に満ちた思想はない。原爆を落とした奴らは、この思想を平和思想という。私は平和とか平和主義とかいう言葉を嫌悪する。この西洋からたれ流された「ピース」を拒否する。私たちは汚れちまった「平和」という言葉に代わる、新しい思想を打ち立てて、世界連邦主義者たちに立ち向かわねばならない。

 湯川は自分が原爆製造に関わったことをすっかり忘却し、ひたすら壇上から、平和主義と世界連邦を唱えた。
 広島と長崎で死んでいった人々よ、広島と長崎で被爆し苦しみの中に生きていく人々よ、汚れちまった「平和」という言葉に代わる、ほんとうに美しい言葉を生き残った私たちに教えてほしい。あなたたちが心の中で叫び続けた言葉をこの私に教えてほしい。私は今から、新しく、美しい言葉を探す旅に出よう。

 ★湯川秀樹ノーベル賞と原子爆弾との関係   <了>
 
  続く。  


  ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ★元帥の述懐は「君!なるようにしかならんねェ」 


 私は原爆機「エノラ・ゲイ」が広島に原爆を投下するために、テニアン島を飛び立つ様子とか、どのように落としたとかを本書では書かなかった。まことに申し訳ないが、そのようなことを知りたい読者は、私がたびたび引用したゴードン・トマス、マックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』、そしてこれから引用するジョセフ・マークスの『ヒロシマヘの7時間-原爆を運んだ12人の記録』(1968年)を読んでほしい。しかし、これらの本はすでに出版されて年月がずいぶん流れている。それでも、原爆投下の過程を書いた本は出ている。私は原爆投下の深層に迫りたいのだ。だから落ちた瞬間から描くことになる。
 ジョセフ・マークスの『ヒロシマヘの7時間』1968年)から引用する。

 ・・・広島市民は閃光で目がくらんだ。「エノラ・ゲイ」の搭乗員と違って、これはかれらには予期しない出来事だった。
 閃光に伴う音は全くしなかった。機の搭乗員も爆発音はなにも聞かなかったし、広島の人たちも音を聞いた覚えは全然ない。しかし瀬戸内海上のやや離れたところにいた漁夫は閃光を目撃し、爆発の轟音を聞いた。広島から少なくとも30キロは離れたところにいたのに、あの1発の爆発音はB29が8キロ先のまちを爆撃したときの音よりも大きかったと報告した。
 広島では高空を飛行中の3機の爆音を聞いて、わざわざ上を見た人はごく少なかった。その少数の人たちは爆弾を見ることはできなかったが、奇妙な飛行機の動きには気がついた。1機が編隊を離れて右に急降下すると、他の1機は左に急降下した。それから3個のパラシュートが突然、花のように開いた。それは「グレート・アーチスト」から落された計測器類を積んだ包みだった。眺めていた人たちのなかには、これを編隊の1機が故障を起した証拠だと思って喜ぶ人もいた。かれらが、目撃した大事件から命拾いしたとすれば、現場からかなり離れたところにいたからにほかならない。市の上空3分の1マイルのところで起った閃光は、史上初めての人工熱風の目に見える証拠だった。〔ゼロ地点〕(爆発点真下の爆心地)の近くにいた人はすべてが瞬間的に、完全に灰と化した。
広島上空で爆発した原爆の効果は段階的に現われた。まず、ウラニウム235の2つの小さな塊りがいっしょになって臨界点に達し、ついで瞬時にして想像もつかないほどの熱と放射能を放出、そのとき、信じられない大閃光がひらめいた。その直後閃光から2、3秒後(〔ゼロ地点〕からの距離によって違う)に、この猛烈なエネルギーの放出によって、天地を砕くような衝撃が起り、続いて火炎と烈風、さらに熱火の嵐が巻き起った。
 突然起った数百万度という高温の放出の効果はまさに驚くべきものだった。人も物も簡単に消滅した。なかには石の上に影を焼付けた人もいた。〔ゼロ地点〕から5百メートル以内のタイルや屋根瓦は簡単に溶けてしまった。雲母は溶けて花崗岩の墓石となった。・・・

 これが原爆投下直後の〔ゼロ地点〕付近の地獄図であった。正直言って、広島の原爆資料館の展示は、あの瞬間の惨状を伝えていない。ただ、何もない投下後の写真だけが真実を物語っている。マークスの本を読み続けよう。マークスはこの惨状を冷静な眼でしっかりと見つめ、描き続けている。〔黒い雨〕も描いている。

 ・・・原子の火の玉と熱火の嵐は平地の大気を上空に吸いあげた。その大気が上空の冷たい空気の層に達すると、湿った空気は凝縮し、その1部が雨になって地上へ戻ってきた。それはふつうの雨ではなく、おはじきほどもある大きな黒い滝のような雨だった。この黒い雨は、降ってくるときに、ほこりと灰の雲を通り抜け、そこで黒い色をつけてきたのである。
 広島の人びとは自分たちが原爆にやられたなどとはもちろん分っていなかった。パラシュートと閃光を見た人のなかには、かれらの上空でマグネシウム爆弾が破裂したと思った者もいた。うわさやもっともらしい理屈が広がった。市の上空にガソリンがまかれ、そこでマグネシウム爆弾が点火されたというのや、1種の毒ガスが使われたというのである。空気中には妙な臭いが漂っていた。無傷か、あるいは少なくとも致命傷を負ってはいないのに死んだ人も多いとみられた。しかし、医師たちには間もなくこれらの人たちが放射能で死んだのだと分った。
 「リトルボーイ」のなかの少量のウラニウムは核分裂を起して中性子と、ベータ粒子と、ガンマ線を放出した。人間がこれらをあまりに大量に浴びると、細胞構造が変化し、その浴び方、その他の要素によって、死ぬか病気になる。・・・

 私がこれから描こうとするのは、核爆発後の放射能とその放射能がもたらした死である。そして、放射能汚染はない、とするアメリカの主張に同意した日本政府の、否、国家の中枢にいた人々の動きである。原爆投下直後に運よく生き延びた人々も、放射能汚染で死んでいくのである。日本国家が彼らを見殺しにするのである。死に直面してかろうじて生きる人々に、「原爆患者は2度死すべし」と断言するのである。だから、この半世紀以上がすぎた過去を私は拳を握りしめて振り返ってほしいと思い、書き続けるのである。
 ジョセフ・マークスは、この原爆投下の隠された重要点を暴いている。続けて引用する。

 ・・・爆弾を目標上空2千フィートの高空で爆発させた理由のひとつはここにあった。アラモゴルドの実験では、〔ゼロ地点〕から十分離れていても、そこにある土地や物体は放射能を浴びるようになり、それがしばらくの間続くということが分った。陸軍としては放射能でなく熱と爆風で被害を与えることを望んでいたので、爆弾は地上3分の1マイルの高さで爆発させることに決定した。しかし、医師たちは、〔ゼロ地点〕から半マイル以内にいた人たちの95%は放射能で死んだと推定した。医学専門家は、のちになって、ひどいやけどや爆風で傷ついた人の多くが、やけどや傷そのもののためではなく、放射能で死んだことを認めた。・・・

 この記事の中に、原爆の恐怖が描かれている。爆心地近くで一瞬にして死んだ、ごく少数の人を除いて、多数の死者は、原爆投下後の爆風が静まった後に出たということを証している。ジョセフ・マークスが書いているように、もう少し上空で爆発させていたら、広範囲に放射能が拡散したことになる。
 アルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』の中で、訳・解説の広瀬隆は、「ロバート・オツペンハイマーがエンリコ・フェルミに宛てた50万人殺戮計画の書簡」を載せている。

 ・・・1943年5月25日
 イリノイ州シカゴ-シカゴ大学冶金学研究所
 エンリコ・フェルミ様
 放射能で食品を汚染させる問題について報告します。私はすでにいくつかの作業を進めています。また、エドワード・テラーが、あなたの直面している問題について話してくれました。
 私がワシントンにいた時ですが、参謀総長がコナントに、放射性物質を軍事的に利用する方法について報告書をまとめるように言っていることを知りました。またコナントは、その報告のために資料を集めていました。そのため私は、グローヴズの承認を得て、有望と思われるその利用方法について彼(コナント)と話し合いましたが、具体的なことについて2、3説明した上で、その規模についての考えを述べました。〔中略〕
 要点を申しますと、もしできることなら、もう少し計画を遅らせたほうがよいだろうというのが私の意見です(これに関連してですが、50万人を殺すのに食べ物を充分に汚染できない場合には、計画を試みるべきではないと考えます。というのは、均一に分布させることができないため、実際に被害を受ける人間がこれよりはるかに少なくなることは間違いないからです)。・・・

 オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ(シカゴ大学冶金研究所の総監督)たちは、単に原爆を投下するだけでなく、いかに多数の人々を殺害するかを考えていた。50万人殺害を狙うには、東京か、大阪か、そして京都しかなかった。グローブス将軍が最後まで京都を主張してやまなかったのはこのことを示している。
 放射能に汚染された水と食料を口に入れて殺害する計画が見事に適中し、彼ら料学者たちは「快なり」と叫んだにちがいないのである。原爆投下による熱風だけでは死者が増えないことを投下前から彼らは知っていたのである。放射能汚染もいかに拡大するかに、「スペクタクル」の演出効果がかかっていた。そして、彼ら科学者の思惑は見事に現実となったのである。
 私はたくさんの人々の記録を読んできた。しかし、本書ではいままで1つとして引用しなかった。引用する気になれなかったのである。原爆患者たちの手記や記録を読んで、私は彼らから、この本を書くエネルギーと勇気を与えられ続けたのである。
 1つの物語を伝えたい。中国新聞社編『証言は消えない 広島の記録I』(1966年)の中から「この子を残して」という記事を引用する。林田奈々子さんは当時国民学校6年生だった。彼女は爆心地から1.3キロの天満国民学校で被爆した。奈々子さんは顔にケガをした。彼女の一家みんなも被爆する。

 ・・・苦労をみかねた奈々子さんは、広島女子商を中退して美容師になった。マシンひとつ、ドライヤひとつ、17平方メートル(5坪)たらずの小さな店。借金ではあったが、ともかく「奈々美容院」は開店した。客も少しずつふえた。昭和28年、奈々子さんは瀬戸彊さん(37歳)=広島西警察署勤務=と結婚。31年2月には長女真美ちゃんが生まれた。原爆で痛めつけられた1家に、やっとバラ色の末来が微笑んだとき、原爆は〔目まい〕というなにげない形で死を予告した。32年6月、奈々子さんは軽い貧血で倒れた。
 近所の医者は「過労だ。4、5日でなおる」と言った。〔目まい〕はなおらない。やがて右手首の痛み、吐き気、歯茎からの出血-お歯グロのような黒い血は、原爆が届けた喪章だった。10月末、原爆病院に入院、翌年2月退院。同年5月再入院。そして翌年4月10日午前10時すぎ、死亡。
 死の前日、幼稚園の制服を着た真美ちゃんをベッドにすわらせ、奈々子さんは「夕焼け小焼け」を歌った。翌10日「きょうが峠だ」と主治医が言った。家族、知人の輸血がつづく。ハチの巣のようになった堅い腕には、針が立たなかった。「手がダメなら足に、足がダメならここに・・」奈々子さんは訴えつづけた。「マミちゃん、マミちゃん」死ぬまでわが子の名を呼びつづけた若い母は「・・ネ、・・ネ」となにかを言おうと必死に繰り返した。ノドがクククッと鳴った。
 マクラ元に大学ノート2冊に書かれた日記があった。
 「マミよ、こんな病気の母をうらまないで・・。マミはきっとおとうちゃんのキレイな血をいただいているのよ。だから嘆かないで・・。そしておとうちゃんのような人と結婚するのですよ
 死の床にあえぎながら娘と夫によせる一筋の愛。娘の血の中にまで〔原爆〕を見る母の苦悩-日記は『かえらぬ鶴』と題して出版され、原水爆禁止を願う母親の共感を呼んだ。・・・

この記録の中に奈々子さんの詩が1つ載っている。

・・・あまりにも残酷な
 取り返しのつかぬ現実に
苦しみながら私は
生きぬかねばならない
近く終るであろうことを
察しながら ・・・

この悲しい記録の引用を続ける。

 ・・・広島市の西、三滝山の中腹に「かえらぬ鶴の碑」がある。遺族が昭和40年4月、「七回忌」に建てたものだ。碑文には奈々子さんの詩が刻んである。
 「マミチャン、テンマヤ(広島市内の百貨店) ヘユコウネ」そう書いた母親は、約束を果たさずに死んだ。碑の前に立てば、近代ビルの立ち並ぶ50万都市が、夏の日をはね返す。今世紀最大の死が襲った当時のヒロシマは、どこへ行ってしまったのだろう。
 「奈々子の苦しい戦いは終わった。しかし、私の苦しい戦いはいまもなおつづいている」
 『かえらぬ鶴』のあと書きに、ミヤコさん〔奈々子さんの母親〕はこう書いた。ヒロシマが追憶の都市になっても、被爆者のケロイドが癒える日はない。・・・

この「奈々子さん」の記録には前文がある。ここで、その前文を記す。

  〔昭和〕34年4月10日、皇太子ご成婚の日、皇居内〔賢所〕では午前10時から「結婚の儀」が 行なわれた。束帯姿の皇太子、十二単、紫の唐衣をまとった美智子妃。テレビは平安朝そのままの華麗な慶事を中継する。アナウンサーの興奮した声、テレビの前のため息・・同じとき広島原爆病院でひとりの被爆者が死んだ。骨髄性白血病、14年目に訪れた〔悪魔に魅入られた死〕だ。広島市福島町、瀬戸奈々子さん(旧姓林田)-妻として、母としてだれよりも生きつづけたいと願った27歳の女の死だ。・・・

 この項の終わりに、有末精三中将と大屋角造中佐、そして畑悛六元帥の3人の出会いの場面を『終戦秘史 有末機関長の手記』(1976年)を通してみることにしよう。まずは大屋角造との再会の場面である。

 ・・・マンジリともしなかった1夜を明かしたわたしは、8日早暁7時過ぎ飛行場に行き、故李公殿下無言の京城ご帰還をお見送りした後、とりあえず自動車で広島北方の双葉山にある第二総軍の司令部へ向った。
 途中、完全に焼けた街の道路、遮ぎる何ものもない両側に四ツ脚を虚空にふんばって斃れている数頭の馬の死骸、多分爆風に煽られて斃死したのだろう、いかにも被害が瞬間的だったその猛威を思わせられた。
 市内北端に近い学校だった第二総軍司令部に立寄ったところ、ワイシャツ姿の大屋角造中佐参謀(第44期、さきに第二部米英課の課員、わたしの旧部下)が、かいがいしく焼け跡の見えるガラス窓のこわれた中で課内の残務整理(?)に任じていたのに会った。被爆当時の模様の実相を聞きながら、双葉山の中腹防空壕側の司令部に案内された。・・・

では、今度は畑俊六元帥に会う場面を引用する。

 ・・・10日早朝、双葉山中腹の総司令官宿舎に畑元帥を訪ね挨拶に行った。ソ連参戦のため急ぎ東京へ帰るべく、原爆の調査研究の一切は仁科博士一行に委任する旨報告したところ、元帥は当然至急帰京をすすめられ、独語のように、
 「君‥ なるようにしかならんねエ」
 と短い言葉を洩らされた。元来、元帥は昔から頭が俊敏で、先きの見透しのよいことで有名であった。わたしも参謀本部の演習練で勤務の折、隣りの作戦課長だった元帥(畑大佐)の評判をよく聞いていた。「5千メートルしか届かない砲弾を、7千メートルも先きの目標に向って 発射するような計画には絶対不賛成」といった性格の方であった。その元帥の独語を聞いて、わたしは心なしか和平への予感めいたものを感じたのであった。・・・

 私は有末中将のこの2つの文章を原稿用紙にペンを走らせつつ思ったことがあるので記すことにする。それは「備えあれば憂いなし」という格言であった。ワイシャツ姿の大屋角造中佐参謀は原爆投下時間を予知するという「備え」をしていたから無傷であった。畑悛六元帥も、窓のない部屋の中央に座り、「備え」をしていたから無事であった。
 私は読者に伝えたい。国家の奸計に備えをもって、日夜生きよ、と。そうすれば〔憂い〕は多少は消えるであろうと。そのために、国家の奸計に対し、〔あかんべえ〕の心を常時持つがいいと。

 それにしても有末は妙なことを書いている。「5千メートルしか届かない砲弾を、7千メートルも先きの目標に向って発射するような計画には絶対不賛成」と。まさに、その通りであった。あの日、「エノラ・ゲイ」は、照準点の相生橋から50マイルのところを、高度3万8000フィートで飛びつづけており、2、3マイル後方を2機の観測機が追っていたのだ。広島の高射砲がたとえ、その3機を発見し空中に飛んだとしても「とんで火に入る夏の虫」で、届かないのであった。
「君! なるようにしかならんねエ」
 もう1つ、有末は謎めいたことを書いている。「その元帥の独語を聞いて、わたしは心なしか和平への予感めいたものを感じたのであった」と。
 有末は「第二総軍の使命が原爆投下で終わり、これから和平交渉に日本は入ることになった」と書いているのである。
 「君! なるようにしかならんねエ」
 この言葉こそが第二総軍が設立されたときに間違いなく畑悛六が発し、原爆投下後にも彼が発した言葉である。

 私は瀬戸奈々千さんの詩と畑悛六の独語の中に、人生の悲哀を感じた。瀬戸奈々子さんの記録を原稿用紙に写しながら、私は溢れる涙を止めることができなかった。有末精三の文章を原稿用紙に写しながら私は、憤怒の情に心をわなわなと震わせていた。
 ここで、どのくらいの人が広島原爆で死んだのかを記すことにする。正確な数は現在でも判明していない。

 1946年8月10日付の広島市調査課がまとめた資料によると、死者数は11万6661人。被爆1年後の死者数である。被爆1年以内は10万7346人となっている。しかし、軍人の死者はこの中に入っていない。1945年12月10日提出の第二総軍参謀の報告によれば、6028人。ここでも第二総軍は死者数を隠している。軍人・軍属は被爆当時9万人を超えていた。少なくとも2万人以上の軍人たちが死んでいるはずである。それに、莫大な生ける屍と化した(表現は悪いと思うが)被爆生存者がいる。この数も正式に判明していない。
 瀬戸奈々子さんも原爆で死んだ人なのである。平成の今日でも、原爆死は続いている。
 「君! なるようにしかならんねエ」ですまされる問題ではないのである。
 「マミチャン、テンマヤヘユコウネ」の母の約束を破った奴の正体をあぶり出さねば、私の気はおさまらないのだ。

 ★元帥の述懐は「君!なるようにしかならんねェ」  <了>

  続く。
 



●原爆投下(6)
 ●第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である

 ★やはり予告されていた長崎への原爆投下 


 長崎が原爆投下予定地になっていく過程を引き続き書いてみる。「目標検討委員会第2回会議の要約-L・R・グローブズ少将にあてた覚書」(1945年5月12日)
 この中で「われわれの兵器の使用対象として最初に選ぶべき4目標は次のとおりとする。「a:京都、b:広島、c:横浜、d:小倉兵器廠」と書かれている。dの小倉兵器廠には次なる理由が書かれている。

 ・・・小倉兵器廠-日本最大の兵器廠の1つであり、都市工業施設に囲まれている。この兵器廠は、軽兵器、対空火器、上陸拠点防衛機材(の製造)にとって重要である。兵器廠の面積は、4100フィート×2000フィート。その規模は、爆弾が的確に投下された場合には、爆弾直下の気圧上昇の効果が十分に発揮され、比較的に堅牢な建造物を破壊すると同時に、もっと遠くにある、比較的に脆弱な建造物に対してもかなりの爆風被害を与えることのできる程度である(A級目標に分類される)。・・・

 この分類の中で京都が「AA級目標」、横浜が「A級目標」、新潟が「B級目標」に分類されている。京都は「この目標は、人ロ100万人を有する都市工業地域である。それは、日本のかつての首都であり、他の地域が破壊されていくにつれて、現在では、多くの人びとや産業がそこへ移転しつつある・・」と書かれている。しかし、最後の段階で京都はスティムソン陸軍長官が反対し、目標地からはずされる。スティムソンは戦後に反米感情が燃え上がるのを恐れたからである。
 この5月12日の時点で、広島投下の決定をみたことは間違いない。否、3月には広島は決定的であった。第2の目標をアメリカは小倉に的を紋っていた。しかし、その小倉でなく、どうして長崎に投下されたのか?

 『資料マンハッタン計画』には、「資料153 目標検討委員会第3回議事録」(ワシントン、1945年5月28日)が記載されている。しかし、目標予定地は第2回と同じである。「資料155グローヴズからノースタッド将軍にあてた覚書」
(1945年5月30日)を紹介する。

 ・・・今朝、陸軍長官ならびに参謀総長は、われわれが選んだ3つの目標、とくに京都を承認しなかった旨をアーノルド将軍に伝えていただけるでしょうか。
 現在開かれているいくつかの会議から解放されたらただちに貴下と話し合いたいと思います。たぶん明日、そうでなければ土曜日の早朝に何とかできるでしょう。   米軍陸軍少将 L・R・グローブズ・・・

ここで京都は目的地から消えた。3つの目標地は明確にされていないが、聞違いなく、京都、広島、そして小倉であった。ここで広島と小倉が残ったといえる。この目標検討委員会は消えて暫定委員会へと移行していく。
 「資料171 暫定委員会会議覚書」(1945年5月31日)の中に、委員長・スティムソン長官の発言が記載されている。

 ・・・さまざまな目標およびもたらされる効果について大いに議論したあと、長官が次のような結論を下し、これに全員が同意した。日本側に事前の警告を与えることはできない。民間地域を集中攻撃目標にすることはできない。ただし、可能なかぎり多数の住民に深刻な心理的効果を与えるようにすべきである。長官は、コナント博士の提案を受けて、最も望ましい目標は、多数の労働者を雇用し、かつ、労働者住宅にぎっしりと囲まれている基幹軍需工場であろうという点で同意した。・・・

 スティムソンは、広島と小倉を考えたうえでの発言であろう、と私は思う。しかし、私は最後の最後でスティムソンが小倉から長崎へと原爆予定地を変更したと思っている。
 6月1日に開かれた暫定委員会では、バーンズ(次期国務長官)がスティムソン発言を受けて、「・・労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対し、事前の警告なしに使用すべきだ」と語った。このことは「国外篇」ですでに詳述した(「第五章」207頁参照)。
 スティムソンの発言、それに続くバーンズの発言、この2つの発言の後に、何ら目標地についても、その使用方法についても、討論されたこともない。否、あったのかもしれないが、『資料マンハッタン計画』や他の文献を見ても発見できない。最高指揮者の発言に委員会全員が同意したなかで、第1投下地として小倉が暫定的であるとはいえ、決定したものと思われる。
 私は小倉投下説が伝説であると幾度も書いた。この伝説を覆すべく書いていく。しかし、この伝説は覆すことができないかもしれない。どうしてか。アメリカ側の資料の中に発見しえないからである。しかし、間接的な資料は存在する。空白を埋める努力は必要であろう。
 黒木雄司の『原爆投下は予告されていた!』はすでに、多くの引用を試みた。この本の中には、長崎の原爆についての予告も記されている。彼は「まえがき」の中で「長崎原爆投下も2日前から同様に毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた」と書いている。黒木雄司は「こちらはニューディリー、ニューディリーでございます・・」というニューデリー放送は美しい日本語で語られていた、とも書いている。「本当にニューディリーからの放送なのかもわからない」とも書いている。しかし、今私がこの本を読んでも、ハッとするような内容がたくさん書かれている。とても信じられないことが書かれている。しかし、間違いなく、彼が聞いた「ニューデリー放送」は真実である。これから長崎に関する予告について記すことにする。読者はこの中に「小倉」という都市の名が登場しないことに心を配りつつ読んでほしい。

 ・・・8月6日(月)晴
 〔前略】すると、「班長殿! 班長殿!」と、自分を起こす者がいる。先ほど勤務交替した田中ではないか。
 「班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたと、ニューデイリー放送が放送しております。8時15分に投下されたそうです」
 「あ、そうか。やっぱり。うーん。貴様、席をはずしてだれかに言って来たか」と聞くと、
 「隊長殿も上山中尉殿もおられます。上山中尉殿が、黒木だけには知らせてやれといわれ、お知らせに参りました」
 「有難う。礼をいっておいてくれ」といって、時計を見ると、8時30分。広島に落とされて17分間で、寝ている自分が起こされ知る。おそらく敵機から交信で敵の司令部に、敵の司令部から放送局に、どうしてこんなに早く知らされるのだろう。あるいは放送局側から敵司令部に係員が入り込んで待機していたのだろうか。どうしてまた、すぐ放送ができるのだろうか。まったく感心させられる。
 成功のときには、時間だけを打電すればすぐ放送できるように打ち合わせずみだったのだろうか。とにかく、3日も前から打ち合わせしておけばできるのだろうか。ふとニューディリー放送は、本当にインドのニューディリーから放送しているのだろうか。案外、米軍の軍司令部内部に放送設備があって放送しているのではないか、と疑いを持った。・・・

 私は黒木雄司が「・・と疑いを持った」と書いている点を重視する。一般の国民が傍受できない周波数、テニアンあるいは他のマリアナ諸島にある米軍の司令部から、第二総軍司令部の傍受室と東京の参謀二部の有末中将の東京郊外の傍受室に向けて、この「ニューディリー放送」は流されていたのではなかったろうか。
 私は広島の1通信員が少年に原爆情報を教える場面などを書いた。これは例外的に傍受できたものではなかったかと思う。海外放送を聞けないように妨害電波を第二総軍は流していた。ザガリアス放送も、ごく1部の者しか聞くことができなかったと同じように。海外放送を聞けるようなラジオも当時はほとんどなかった。私は第二総軍の1部の人々と、呉にいる海軍の首脳たちは、この「ニューディリー放送」を連日聞いていたような気がする。それ以上に第二総軍の大屋中佐は、鯉城(広島城)の近くに二世の女性20人ばかりを置いて、生のアメリカ軍の通信放送を聞いていたのである。放送とは、主として、テニアンでの第五〇九航空群の間の交信であろう。

 ・・・8月7日(火)晴
 すでに16時間もたっているのに、大本営から何も発表がないとはどういうことだろうか。それとも明日、詳細発表が行なわれるということなのだろうか。もう1つ問題なのは、隊長から連隊長経由の原爆関係の諸報告は、果たして大本営まで確実に行っていたのだろうか。あるいは、どこかでだれかが握り潰したのだろうか。〔中略〕
 午前6時、突如としてニューディリー放送が流れてくる。
 ― こちらはニューディリー、ニューデイリーでございます。信ずべき情報によれば、米軍は来る8月9日に、広島につづいて長崎に原子爆弾を投下する予定であることを発表しております。繰り返し申しあげます。・・・

 黒木雄司は天皇制国家を信じきっている。彼の上官たちも信じきっている。「果たして大本営まで確実に行ったのだろうか」との疑問を抱くのは当然である。確実に大本営まで、ニューディリーのニュースは達している。第二総軍からのニュースを加えられて、参謀第二部のニュースとともに、それに加えて、ヨハンセングループを通してのスティムソンからの通信文も・・・すべて大本営に達している。スティムソン→グルー→OSSのジェームズ・ウオーバーグ→白洲次郎→吉田茂→牧野伸顕のルートで、天皇はスティムソンからのメッセージを受けている。たぶん、次のようなメッセージであろう。不敬を十分に承知の上で書くことにする。

 ・・・私、スティムソンは、広島に原爆を投下した後に小倉にプルトニウム爆弾を、その数日後に長崎にもう1つのプルトニウム爆弾を、その数日後にもう1つのプルトニウム爆弾を落とすよう、グローブス将軍に命令を出していたが、急速、この指令を取り消した。広島の原爆の予想以上の凄さを知り、小倉を中止し長崎に落とすことで、原爆投下中止の指令を出した。どうして長崎かとあなた(ヒロヒト)は思われるであろうが、それは真珠湾攻撃に対するアメリカ政府の復讐または意趣返しと思っていただきたい。長崎の三菱製鋼および兵器工場にプルトニウム爆弾を投下する。ここで製造された魚雷によりハワイのアメリカ艦船が撃沈された。この兵器工場に原爆を落とすことで、アメリカ人たちを納得させることができよう。
 あなたの身分は保障される。日本海軍の首脳たち、ヨハンセン・グループの人々、アメリカのために陰で活躍してくれたクエーカーを中心とするキリスト教関係の人々は戦犯に問われることはない。ただ、陸軍首脳のみは戦犯となろう。あなたがスイスに入れている秘密資金は保証される。ソヴィエト軍が9日に満州に入る。その点から、2発の原爆で一応の終わりとなった。第二総軍の畑元帥はアメリカにとっても功労者であるが、戦犯となるだろう。しかし、特別の配慮がなされる。
東京での終戦工作が首尾よく終わることを期待する。・・・

 奥住喜重・工藤洋三訳『米軍資料 原爆投下の経緯』(1996年)の中の「資料D-12」から引用する。この記録を読めば、長崎原爆の意味がいくぶん見えてこよう。

・・・最高機密 1945年8月9日
CMDW576 センターボード作戦に関し折り返し報告
発信:陸軍第八航空司令官、司令官に回送、アッシュロース
宛先:合衆国陸軍戦略航空軍司令官、カーク・パトリックに回送・・・

 この通報はファレル宛である。スウィーニー、ホプキンス、およびボックは、090345Z〔091245J〕に沖縄に着陸した。予定時刻に会合点に到着したが、約40分待って、ボックの操縦する機と会合しただけであった。天候の通報を受信して第1目標の攻撃を決定した。目標地域には、090055Z〔090955J〕に到着した。目標は雲量およそ3/10で、若干の「もや」と「濃い煙」がかかっていた。第1目標に3回の爆撃航程をとったが、目標は毎回「もや」と「煙」で見えなかった。50分後に第2目標を攻撃することに決めた。攻撃は先に発した投弾完了報告と一致して行われた。接近はレーダーで行われ、最後のおよそ30秒は目視によった。ホプキンスとボックを含めた観測者と予備軍に協議した結果、爆発箇所は大体三菱製鋼および兵器工場、目標番号546である。目撃した効果は、広島の場合と同等か、ことによるとそれより大きいというのが一致した意見である。煙の柱とキノコ雲は、3分間でおよそ30,000フィート(9000m)に達し、間もなく少くとも40,000フィート(12,000m)に達した。埃は少くとも直径2マイル〔3、2㎞】の地域を襲ったと思われる。高空におけるガソリンの消費、巡航の会合に失敗したこと、第1目標の時間超過が、攻撃部隊として沖縄に到達する機会を失う危険を冒しても、投下を決定させた。・・・

 引用文中の「天候の通報を受信して第1目標の攻撃を決定した」とは、「テニアン島から第1目標の小倉に向かった。天候がよいとの知らせを受けたので、小倉に原爆を落とすことに決定した」ということである。しかし、目標とする小倉に着くと、若干の靄と煙がかかっていた。★ここに大きな意味がある。この靄と煙がなにゆえに発生したのかということだ。
 私は「気象条件が原爆投下の重要条件とされた」と幾度も書いた。九州一円は良好の原爆投下日和であった。しかし、小倉だけは、靄と煙に覆われていたのだ。これは★人工的なものであった。前日の8月8日の午後、ルメイ少将の第二十航空軍の爆撃機が多数八幡上空に来襲し、爆弾を大量に投下したからである。八幡と小倉は、門司、戸幡、若松とともに合併して今は北九州市となっている。八幡と小倉は隣接した都市である。その八幡に大量の爆弾を落としたがゆえに黒煙があがり、空が「heavy smoke」で覆われたのであり、自然現象ではなかったのである。
 しかし、爆撃隊のスウィーニー、ホプキンスおよびボックには知らせなかったのかもしれない。すでに出撃体制に入っていたからである。たぶん、そして間違いなく、スティムソン、グローブス将軍のルートでルメイ第二十航空軍司令官に至急通達が入り、ルメイが応じ、第二十軍の爆撃機に出撃を命じたのである。第1目標は消え、第2目標の長崎に原爆は投下されたのである。
 しかし、妙な報告書(1945年8月26日付)がある。発信テニアン、第三一三爆撃航空団司令官から陸軍省に宛てられた「最高機密『IVI』、作戦上の優先事項」である。その中に次のような1文がある。

 ・・・長崎爆撃の直後に、3発目の投下が差し迫って考えられたとき、はじめの2発の投下戦術を繰り返すならば、最も絶望的で、おそらくは有効な抵抗を招くであろうことが指摘された。これら2つの投下のやり方は、何機もの飛行機が参加するものであった。気象報告と攻撃と投下グループの編隊が続けて現れることが日本人に知られ、8月9日の作戦ではわれわれの気象報告を妨害するために、執拗な企てが行われた。
 小倉を爆撃しようとする企図は、45分間にもわたって繰り返され、われわれの攻撃の形式を油断のない敵に教え、彼らはすでに、どの島とどの航空団から原子爆弾が来るかを決定していた。・・・

 第二総軍と東京の参謀第二部の傍受室以外にも、日本側で傍受をしていた可能性があったのを推測させる。「われわれの攻撃の形式を油断のない敵に教え」とあるのは、テニアン島かどこかの島で、敵(日本)に原爆情報を教えようとした者たちがいたことを明らかにしている。黒木雄司の「こちらニューデイリーです・・」がその1例かもしれない。しかし、日本側は、この敵(日本)に向けての好意の発信を受け入れなかったのである。
 「われわれの気象報告を妨害するために、執拗な企てが行われた」とは、靄(もや)と煙を日本側が発生させたということであろうか。これは間違いなく前日のアメリカ側の爆撃のために発生したものである。この小倉上空では旋回する原爆投下機に届かない高射砲がたくさん撃ち上げられたのは事実である。私はこの文書の中にも、スティムソンと天皇の密約の存在を読み取るのである。 


 どうして日本の軍隊は陸軍、海軍を問わず、「われわれの攻撃の形式を油断のない敵に教え、彼らはすでに、どの島とどの航空団から原子爆弾が来るかを」知っていたのに、何ら、日本人を救うべく手を打たなかったのか。
 彼ら陸軍と海軍のトップたちは聞違いなく、原爆が広島に、そして長崎に投下される日時も、そして「どの島とどの航空団から」爆撃機が飛び立つかも知っていたのだ。
 この1文の中に、太平洋戦争の何たるかが見事に描写されているではないか。広島、長崎のみならず、死者たちよ甦るべし。そしてこの戦争は、天皇による、天皇のためのものであったと知るべし!
 このような国家に、美しき大和の国がなり果てた過去を、拳を握りしめ振り返るべし!


 ★やはり予告されていた長崎への原爆投下   <了>   続く。
 

   ●第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である

 ★カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ  


 読売新聞社編『昭和史の天皇』を読むことにしよう。すべての情報を知りつくし、第二総軍の畑元帥とともに「原爆殺し」の脇役の1人、参謀第二部の有末精三中将登場の場面から見る。

 ・・・まず調査団長だった参謀本部第二部長、有末精三中将(のち、日本郷友会連盟副会長)の話からはじめよう。
 「広島に何かわからぬが、大変なことが起こったということだけは、6日の昼ごろまでにわかった。その確認を急いでいたが、原爆とわかったのはその夜だったようだ。わたしは理研の二号研究の分離筒を実際に見た数少ない軍人の1人だったから、原爆がどんなものか、およその見当はついた。そこでできるだけ早く現地へ行って、しかるべき手を打とうと考えた。だからその夜のうちに参謀次長の河辺虎四郎中将に了解を得たとき、河辺さんは、『仁科先生を広島ヘー緒にお連れするように』といわれた」・・・

 文中の「二号研究」とは、仁科芳雄博士を中心とした原子爆弾の研究である。原爆製造の理論および、そのための初歩の基礎実験で、「原爆開発」といった大掛かりなものではない。
 有末中将は、8月3日から4日まで第二総軍の大屋中佐および太宰憲兵課長と密議をしていた。大屋中佐は8月5日の夕方に、太宰憲兵課長は8月6日未明に広島に帰った。有末中将が「原爆とわかったのはその夜のことだった」と語っているのは嘘である。彼は仁科博士と一緒に8月8日に広島に行く。原爆調査のためである。
 ここでは広島のことはすべて省略し、有末中将がまとめた報告書をもとに書かれた林三郎の『太平洋戦争陸戦概史』(1951年)から引用する。

・・・8月7日、大本営は調査団を現地に派遣した。調査団は8日夕、広島に到着し、
1、特種(ママ)爆弾が使われたこと、
2、身体を被覆していれば火傷は防ぎうる等の、内容を持つ報告を9日に大本営あて打電した。
 続いて第二総軍は、
1、白色の着物をきていたものは火傷の程度が軽かったこと、
2、防空壕に入っていたものも火傷の程度が軽かったこと、
3、火災の多かったのは朝食準備の最中を狙われたからであること等を報告した。
 米戦略空軍は8月9日、第2の原子爆弾を長崎に投下した。
 陸軍総師部は8月10日ごろ、全軍に対し状況を通報すると共に「この種爆弾は恐るべきものではなく、我が方に対策がある」ことを明らかにした。・・・

 有末中将と畑元帥が天皇のいる御文庫につくられた大本営への報告書は別に存在する。私は怒りの感情を超えて、ただただ、唖然とするのである。私は落下後の広島市民の惨状をまだ書いていない。私は可能な限り、手記や報告書を読み続けてきた。次章で、原爆に被爆した死者や生き残った人々について書くことになるが、この有末とか畑とかいう人間は何者なのだろうと思うのである。彼らが広島の惨状を日本本土に住む人々のために、天皇のためにではなく、声高く叫んでいたら、はたしてアメリカは2発目の原爆を投下したであろうか。たとえ投下しても、原爆の恐怖を知らされた人々は、都市を捨てて山中や海岸部へと逃避しえたであろう。天皇もこの惨状を詳しく知らされながら、何1つ手を打たなかったのである。

 アメリカは広島投下後の日本の動きを見つづけていた。正直に書くことにしよう。★アメリカには日本の大本営よりも良心があったのだ。『米軍資料 原爆投下の経緯』の中に「資料E ファレル准将の覚え書き」が入っている。この中の「宣伝活動」を引用する。

 ・・・宣伝活動
 広島攻撃の翌日、私(ファレル准将)は陸軍省から、広島に対する使用も含めて、新しい兵器に関して、日本帝国に宣伝活動をするように指示を受けた。この活動は、リーフレットに加えて適当と考えられるその他の宣伝も含むものとされた。モイナハン少佐の補佐のもとに、海軍の太平洋艦隊司令部と合衆国戦略航空軍の全面的な協力を確保し、われわれは直ちに宣伝活動を開始した。それはリーフレットの準備と撒布、ラジオ・サイパンからの15分置きの日本語による短波放送、さらに広島攻撃の記事と写真を含む日本語新聞をサイパンで印刷し、日本帝国に撒布することを含んでいた。計画は次のように提案していた。
 a、人ロ100.000〔以上〕の日本の都市47に、9日間にわたって、1600万枚のリーフレットを投下すること、これらの都市は全人口の40%以上を占めている。
 b、ラジオ・サイパン-OWIからは規則正しい間隔で宣伝放送をすること。
 c、原子爆弾攻撃の記事と写真を載せた日本語新聞のコピーは50万枚を撒布すること。
 この活動は、日本側が降伏の交渉を始めるまで続いた。その時点でおよそ600万放のリーフレットと多数の新聞が投下されていた。日本語の短かいラジオ放送は、規則正しく15分間隔で行われた。・・・

ファレル准将の「宣伝活動」の文書の内容は正しい。多くのリーフレットが空中から撒かれた。しかし、日本の警察や軍隊はこれを回収し、デマとし、これを拾った人の口封じをした。ラジオの電波は妨害され、また、海外放送を聞く者たちは刑務所に入れられた。
 ファレルたちは、第1発の広島投下で多数の人を殺害したことに満足し、第2発目以降は人的被害を少なくしようと努力していた。
 しかし、天皇、重臣たち、陸海軍の首脳たちは、アメリカのこの良心的とさえ思える動きさえ、全く国民に知らせようとせず、抗戦のみを主張し続けた。
 同じ『米軍資料 原爆投下の経緯』を見ることにしよう。「報告9・第509混成群団」の資料である。「作戦計画の要約」(1945年8月9日任務実行)から引用する(Aは省略。小倉が書かれている)。

 ・・・B、第2目標:90・36-長崎市街地。
 照準点:114061
照準点参照:11爆撃機集団石版集成図長崎地区 三菱製鋼および兵器工場
 ナンバー:90-36-546
 目標選定の理由〔Aの小倉は省略〕
 B、90・36 長崎市街地。
 他の2つの工業都市、広島、小倉と同様に、原子爆弾用の目標として長崎の市街を選んだのには3つの理由がある。これらの理由は次の通りである。
1、工業上の重要性。
2、被害を受けていない。全体的に処女地である。
3、市の大きさ。 ・・・

 この後に詳細な長崎の工業と人口などが書かれている。最後に「市の大きさは原子爆弾の攻撃にとって理想的であった。この都市は25万3000人の人口を有し、福岡と八幡に次いで、九州島で3番目に大きかった」と記されている。私はこの文中にある「三菱製鋼および兵器工場(目標546)と、その新しい圧延工場(目標1795)は、長崎北部の浦上川沿いに位置し、海軍の兵器工場(主として魚雷)と共に、船舶用鉄板、鋳造物、鍛造物などを造る造船工場と一体となっている」に注目する。ここを目標に原爆が落とされたからである。広島は町の中心に落とされた。長崎は三菱製鋼に、である。
 長崎総合科学大学平和文化研究所編著の『ナガサキ-1984年8月9曰』(1994年)から引用する。

 ・・・曰本の欧米との戦争準備も急ピッチで進められ、長崎もまたその間にあって大きな役割を担わされた。曰本海軍の大艦巨砲主義の象徴といわれた戦艦武蔵が、三菱造船所で建造されたことは、これを示していた。1938(昭和13)年3月極秘裏に起工されたこの軍艦は、1942年8月に竣工した。
 軍艦とともに魚雷も長崎でつくられた。潜水艦用と航空機用の中・小型魚雷がそれで、その生産量は第二次世界大戦中に日本が使用した魚雷の80パーセントにのぼった。なかでも無航跡、高速、超長距離酸素魚雷のごとき、その性能のよさや技術的水準の高さは、世界でも比類のないものとされた。・・・

 私はこの「魚雷」が真珠湾攻撃で使用されたことと、原爆が長崎に落とされたこととは、かなり関係があると見ている。
 『資料マンハッタン計画』の中の「資料198 スチムソンから大統領にあてた覚書」(1945年7月2日)を引用する。ポツダム会議のために準備中のトルーマン大統領にあてた覚書の中の1文書である。

 ・・・
対日計画書
 われわれの側には、次のような、きわめて有利な要素-ドイツと戦っていたときよりもはるかに重要な要素-がある。
 日本は同盟国をもっていない。
 日本の海軍はほとんど壊滅しており、したがって、日本は海上および海面下の封鎖に対して脆いので、国民を養えるだけの食料や物資の供給を封鎖によって遮断することができる。
 日本は、人口周密都市、工業資源、食料資源に対する、空からの集中攻撃にきわめて脆い。
 日本は、米英軍を敵に回しているだけでなく、力を増しつつある中国軍やロシアの不気味な脅威にも対抗しなければならない。
 われわれは、低下しつつある日本の戦力に対して集中しうる無尽蔵かつ無傷の工業資源をもっている。
 われわれは、日本による最初の奇襲攻撃の被害者であるがゆえに、★大きな道徳的優位をもっている。・・・

 この「対日計画書」は、原爆投下の1ヵ月ほど前のものである。日本がいかに敗戦寸前の状態に至っているかをスティムソンはトルーマン大統領に説明している。ここでスティムソンは「日本による奇襲攻撃」をアメリカが受けたがゆえに「大いなる道徳的優位」を持っていると説いている。その真珠湾攻撃で最も日本側の勝利に貢献したのが三菱がつくった「魚雷」であった。スティムソンは最後の最後で、長崎のあの「魚雷」を製造した工場を投下目標にし、プルトニウム爆弾を落とさせたのではなかったか。

  ジョージ・ウェラー著、アンソニー・ウェラー編『ナガサキ昭和20年夏』(2007年)を見ることにしよう。この本には「GHQが封印した幻の潜入ルポ」という副題がついている。ジョージ・ウェラーが残した記録を息子のアンソニー・ウェラーが60年を経て編集し、出版したものである。
 ウェラーは、1945年9月6日から10日まで長崎に滞在した。彼の報告書は「シカゴ・デイリー・ニュース」に送られ、広くアメリカの読者に届くはずであった。しかし、その記事は東京のマッカーサー司令部の検閲官により破棄された。ウェラーは自身で原稿の写しを残していた。彼は1945年9月10日から20日まで、大牟田の捕虜収容所を訪問している。その中で原爆との関係を語る兵士たちの声を採録している。

・・・H・ディン戦車操縦士(ウォルバーハンプトン出身)
「この新しい爆弾のおかげで戦争が終った」
ジョージ・フラー戦車操縦士(スコットランド、ダンディー出身)
「原子爆弾万歳。干しぶどうの入ったプディングがもうすぐ食べられる」
ジョージ・アレン兵卒(ダービー出身)
「無慈悲な未開の野蛮人の手にかかった悪夢だった」
H・ジョーンズ伍長(ダービーシャー、チェスターフィール出身)
「原子爆弾が文明に吹き戻してくれた。3年半の地獄がついに終った」
 T・ジャクソン兵卒(トーキー出身)
「人間をあんなにひどく扱えるものとは知らなかった。日本人は人間ではない」・・・

 ウェラーの「日本・長崎発。1945年9月7日(金曜日)午前零時」と書かれた記録がある。その最初の部分を記す。

 ・・・長崎港にある2つの連合軍兵士捕虜収容所にはおよそ1000人が収容されているが、みんな知りたいことはただ1つ、「原子爆弾はどういう仕組みになっているのか」ということだった。
 彼らはその威力は目にした。日本軍は収容所の1つを三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置し、もう1つを長崎港の入り口に設置した。上陸部隊が進攻する際には、砲撃を避けられない場所である。
 原子爆弾で、捕虜の指揮官をしていたキック・アールダー中尉(ジャワ、バンドン出身)を含む7人のオランダ人とイギリス人1人が死んだ。記者〔ウェラー〕は6日午後、彼らの収容所を訪れた。外部の人間が訪れるのは数年ぶりのことだ。アメリカ人、イギリス人、オランダ人、オーストラリア人の国ごとに最大の関心事がそれぞれ違う。・・・

 読者はこの文章を読んで不思議に思わなかったであろうか。長崎港に1000人いた捕虜のうちで死亡したのは、たったの8人であった。しかもアメリカ兵は1人も死んでいない。
 「日本軍は収容所の1つを三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置」していたのである。ウェラーは「長崎の医療センターは、三菱の魚雷、ディーゼルエンジン製造工場や、造船所をなぎ払った同じ爆風で、ほとんどの職員もろとも根こそぎ破壊されてしまった」と書いている。また、彼は「2万1000人が死亡したが、これは原子爆弾の放射線が致死的であるのではなく、上空を飛ぶアメリカ機がはっきりと見えているのに、★市民が出されていた警報を無視して防空壕に入らなかったのが原因と言える。三菱の工場で死んだ人たちも、工場群のまっただ中に収容所があった連合国軍人の捕虜たちを含めて、上空に敵機がいるにもかかわらず三菱が仕事を続けるよう命じたがために死んだ」と記している。

 幾度も引用したゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』の中に、長崎の捕虜収容所について書かれた文章がある。

 ・・・1945年7月31日-ワシントンDC
 その23名の捕虜から7000マイルの距離のところにグローブズがいた。それは7000光年の距離にたとえてもよかったであろう。彼はグアム島のスパーツからの緊急電報の写しをじっと読んでいた。それには日本にいる別のアメリカ人捕虜についての質問で、次のような電文であった。
 
「8月5日以後に予定される『センターボード』長崎攻撃に関する件。捕虜より得たる情報によれば、写真による実証なきも、長崎市中央より1マイル北に連合軍捕虜収容所ある由。この事実は『センターボード』の最初の作戦目標選定に影響するや? 至急返待つ」
 グローブズはこの電報に「心配」した。それは数百名の連合軍捕虜の生命が危険にさらされるからというより、他の理由があった。
 「当時スパーツと私とが利用していた諜報観測が明らかに細かい点で不正確であったからである。その諜報が正しければ、捕虜収容所は長崎湾の西側にあるはずであった。しかしどうもその反対側のほうが可能性が大きいように思われた。捕虜たちは造船所で働かされているということだったが、そちらのほうが造船所に近いからである。しかしどっちの位置が正しいにせよ、原爆爆発の時には、おそらく彼らは造船所付近で働いており、当然原爆の危険にまともにさらされるのは免れないようにみえた」〔中略〕
 グローブズは長崎の捕虜が、どうみても盲目になり、おそらくは死ぬであろうということを知っていた。彼はこの時初めて、マンハッタン計画についての一切の責任を取ることを望まず、ハンディ将軍(スパーツに爆弾攻撃を許可する「書付け」を与えた将校)と相談した。ハンディ将軍は、三巨頭会談から帰ったばかりのスチムソンにこの質問の件を知らせるべきだと考えた。

 グローブス将軍はスティムソン陸軍長官に会い、この質問書を見せる。スティムソンはグローブス将軍に「返電をする場合にはすみやかに見せろ」と言っている。グローブス将軍が、「しかし、どっちの位置が正しいにせよ、原爆爆発の時には、おそらく彼らは造船所付近で働いており、当然原爆の危険にまともにさらされるのは免れないようにみえた」と書いている。しかし、7月31日から10日後の9日に長崎に原爆が投下される。そして、長崎港の捕虜収容所にいた1000人のうち、たった8人しか死ななかった。しかも、アメリカ人はただの1人も死ななかった。私はこの奇跡の謎を解く力を持たない。ただ、謎を解けないでは読者に申し訳ない。それで、推測をして、この章を終わることにしたい。

 ・・・グローブス将軍はスティムソン陸軍長官に依頼した。
 「閣下、私は重大なミスを犯しました。捕虜は1000人以上います。長崎港の収容所だけだと思っていましたが、あの目標地に定めた三菱の中にもいます。閣下、閣下のルートでこの捕虜たちを救って下さい」
 「グローブス将軍、最後の最後で難問にいたったが心配しなくてもよい。私は小倉の代わりに長崎を第1目標にしようと思っていたのだ。グルーを通じてさっそく交渉をしよう。最少限の捕虜が三菱で犠牲になるのは避けがたい。★しかし、長崎港にある収容所にいるのはほとんどがアメリカ人だ。爆弾を投下する前に、日本海軍の艦船かどこかに彼らを密かに移す。原爆が投下された後に、また彼らを収容所に戻す。この収容所には何人も外から入れてはならない。そして、捕虜たちに将来にわたって沈黙を守れと言わねばならない。帰国前に誓約書を書かせろ。さもなくば、国家反逆罪で罪に落とすとな」・・・

 ウェラーの報告書は永遠に葬られたはずであった。ウェラーは記者として1番最初に長崎に入ったが、日本から追放処分になった。しかし、彼は貴重な記録を残して死んだ。その息子がこの事実を伝えるまでに60年の年月が流れた。私の推測以外に別の推測はないし、事実があるならば、是非、公にしてほしい。どうして1000人の捕虜のうち8人しか死ななかったのか、を。
 スティムソン陸軍長官の7月31日(火)の日記の一部を記しておく。

 ・・・9時30分ごろジョー・グルーが、国務省所管の問題について私と話し合うためにやって来た。気の毒に、彼は上司が不在であるため、がたがたの国務省を運営することでいささか苦労してきたのだ。そういうわけで相談することがたくさんあり、私は私の出張やS-1にかかわる出来事について最新の情報を彼に提供した。日本に対する取り扱いについて私が述べた見解を彼が全面的に支持していることがわかり、嬉しかった。・・・

 このスティムソンとグルーの会話の中にグローブス将軍が加わっていたと私は考える。グルーは全面的にスティムソンに協力すると約束をしたと思える。

 『エノラ・ゲイ』の中に、「わたしはそれを情報として陸軍長官に見せるのだということを話し、さらにそれは我々の責任であって、その責任を長官にあずけるつもりはないと付け加えた。わたしは、もしその気ならば長官が変えることができるということを取り立てて言わなかったが・・」とグローブス将軍は書いている。「もしその気なら」とは、どういう意昧なのであろうか。スティムソンが長崎をあきらめるということなのであろうか? それとも、私が先に書いたように、スティムソンなら、日本のある支配勢力を動かして、捕虜を無事に保護しえると思ったのではなかったか。それで、スティムソンは急いでグルーを国防総省に呼びつけた。グルーはスティムソンの意向を受け入れた。それがスティムソンの「日本に対する取り扱い」であり、「私が述べた見解」をグルーが承諾し、グルーは「全面的に支持」すると述べたのではなかったか。

  ここに正直に告白する。私はウェラーのことを書いて、この章の終わりとした。そして床についた。その深夜(2008年1月16日朝近く)に、夢を見ている自分に気づいた。夢の中で、7月31日のスティムソンの日記について誰かに語りかけている自分に気づいた。夢の中の私は、もう一つ別のことを誰かに語り続けていた。そのことも記すことにしよう。夢の中で、スティムソンが登場してきた。そして、思いもかけないことを語りだした。

  ・・・グローブス将軍よ、小倉でなく長崎に私がこだわるには2つの理由があるんだ。1つは、戦後に朝鮮で戦争を計画していることだ。ホプキンスが2ヵ月前にスターリンと会見した。このときに、スターリンは朝鮮半島を南北に分断することに同意した。私は駐ソ大使アヴェレル・ハリマンとポツダムで朝鮮半島問題について話し合った。マーシャル将軍も賛成していることなのだ。それは、絶対に秘密にしてくれ・・。第二次大戦が(ヨーロッパで)終わった今でさえ、兵士たちは就職難だ。あと数日でこの太平洋戦争も終結する。戦争がつくった大事業がすべてなくなる。分かるか? 私はバーンズを追っ払い、マーシャルを国務長官にするように工作しろとハリマンに言った。マーシャルなら、俺たちの言いなりだ。すでに、朝鮮半島に内乱を起こしつつあるのだ。ここを戦場にもっていけば、アメリカは救われるだろう。福岡、八幡、下関は、その戦争の後方基地となる。天皇には私たちから、そういう場合は協力してくれと申し上げている。彼は協力すると答えたのだ。福岡と八幡は特に重要だ。私は福岡県と隣接する大分県別府市に1発の爆弾も落とすなと、ルメイ少将に命じたのをお前も知っていよう。朝鮮戦争のための慰安基地として、別府ほどに理想的な土地はないのだ。いいか、これも秘密だ。
 もう1つ、長崎でなければならない理由がある。ローマ・カトリックはヒトラーの残党たちを南アメリカに逃している。日本の真珠湾奇襲と同じパターンだよ。「日本のローマ」である長崎の浦上に原爆を落とし、ローマ・カトリックに意趣返しをすることになっているんだ。ローマ法王を震えあがらせ、俺たちが育てた「オプス・デイ」を内部に入れて、やがてローマ・カトリックを乗っ取るためなのだ。
 さあグローブス将軍、君の名誉は守られる。君はあと10数日で、アメリカで永遠の名のつく英雄の1人となる。何も心配することはない。スパーツにすぐに返電しろ。心配するなとスパーツに言ってやれ。スパーツから具体的な内容の電報が入ってこよう。すぐに私のもとへ持ってこい。戦後、君はしばらく原爆関係の仕事をやれ。そして、モルガンの会社の重役になるよう私が手配している。
 英雄・グローブス将軍よ、いよいよ最後の時がきた。何ら迷うことなく、ベストを尽くせ。・・・

このスティムソンとグローブス将軍の会話の後の出来事を、『エノラ・ゲイ』は次のように書いている。

 ・・・その間にスパーツは、もう1本の極秘電をハンディに送っていた。それはこういう電文であった。「捕虜より得たる報告によれば『センターボード』の目標5都市のうち、連合軍捕虜収容所なきは広島のみ。返待つ」
 ハンディは、グローブズと簡単に電話で打ち合わせてから返電を書いた。グローブズは、陸軍長官が捕虜の件でかれこれ言わなかったのでほっとしていた。スパーツヘの返電は次のとおりであった。「もし貴官の情報が確かと信ずれば、広島を最優先せよ」
 スパーツには自分の得た情報が信頼できないと考える理由はなかった。こうして広島が目標のリストのトップに置かれることになった。・・・

 この『エノラ・ゲイ』の中に、原爆投下によりもたらされるであろう被害についてマーシャル参謀総長に提出した報告書が出ている。スパーツからの至急電報の少し前のある日のことである。甚大なる被害が出ることは次第に(?既に)ロスアラモスの研究所長オッペンハイマー博士によって報告されていた。間違いなく、オッペンハイマーの報告書であろう。

・・・さすがのグローブスでさえも「スパーツの質問は答えやすい質問ではなかった」と認めざるをえなかった。彼は原爆の生産計画を知らせた参謀総長マーシャル将軍への先日の報告のなかで、原爆爆発の付近にいる人々すべての運命がどうなるかを鮮かに描き出していた。

 「原爆が空中1800フィートの高度で爆発するとして、その爆発の直下の地上から計った場合、少なくとも半径1000フィート内では爆発の爆風は致命的である。2500フィートから3500フィートの間では、人間に対する爆風の効果はきわめて痛烈である。熱と火焔との効果は約1500フィートから2000フィートの間では致命的である。爆心から10マイルの地点では、1秒の数千分の1の間、光は太陽を1000個寄せ集めたと同じであり、1秒目には太陽1個または2個と同じ明るさとなるであろう。爆発を直視した者に対する効果は爆心から半マイルの地点では一生不治の視力欠損、1マイル地点では一時的盲目、10マイルないしそれ以上の距離でも一時的視力欠損を呈するであろう。全然遮断されていない者に対しては、3500フィート以内ではガンマ線の作用が致命的であり、約2000フィートまでは中性子の作用が致命的となる」

 この文書は7月16日のプルトニウム爆弾の実験から得られた報告書である。長崎でこの爆弾が作製した。長崎では、グローブス将軍やオッペンハイマー博士の予想を上回る成果を上げた。

 しかし、ここに奇跡が起こった。爆心地から近いところにいた捕虜収容所の人々はほとんど死なず(1000人中8人が死亡)、原爆病にもかからなかったのである。私はこの奇跡が起きたことを記して、この章を終わる。次章は運よく原爆では死ななかったが、食糧や薬を与えられずに死んでいった人々について記すことにしよう。 


  ★カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ  <了> 


    続く。 
 



●原爆投下(5)
 ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 ★演出された投下時刻「8時15分」の意味 


 私が「8時15分」にこだわって考えるようになったのは、2冊の本をほぼ同時期に読んだからである。その一つは中条一雄の『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』(2001年)である。もう1冊は、諏訪澄の『広島原爆 8時15分投下の意味』(2003年)であった。この2冊を読み、「8時15分」という時間の持つ意味を考え続けた私は一つの結論に達した。「広島原爆は完全に仕組まれていた!」

 それでは、中条一雄の『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』を読んでみよう。中条一雄は1926年生まれ、小中高と広島で育ち、19歳のとき被爆した。大学卒業後、朝日新聞の記者(スポーツ担当)となった。

 ・・・「おい、おい、山本君、本当かね。もし8時6分だとしたらたいへんな歴史的な新事実だぞ!」 そんな声につられて、山本郁郎君が話しはじめた。
 広島一中から広島高等工業(現広島大工学部)へ進学した彼は、あの日、爆心から南方に約2キロ離れた平屋の校舎の研究室で被爆した。クラスの友達たちは岡山の軍需工場に動員されていたが、学業の成績がよかった彼は旧帝大への進学クラスに入り、担当教授から研究テーマを与えられて広島に残っていた。
 一瞬のうちに大破した校舎の下敷きになり、血まみれになりながら、必死の思いで木材の間からはい出して防空壕に転がり込んだ。そのとき時計を見たら、たしかに「8時6分だった」と、次のように話してくれた。
 「ぼくが持っていた時計はロンジンだった。なぜそんな高価な時計を持っていたかというと、動員で岡山に行った同級生から『軍需工場に行くと米軍の目標にされて、爆死するかもしれない。大切なものだから預かっておいてくれ』と頼まれたものだった。彼の父親は住友銀行のニューヨーク支店に長く勤め、開戦後に日米交換船で帰国した人だが、ロンジンはその父親からもらっだものだった。彼は広島のほうが安全だと思っていたらしい。ぼくが時計マニアだと知って預けたらしいが、貴重な預かり物だからこれだけはどうあっても守らなければならないと、宝物のように大切に扱っていた。

 そのころNHKは時報の前に、たしかモーツァルトのドイツ舞曲第五番を流していた。ぼくはそのメロディーを聞いて必ず時報に合わせるのを習慣としていた。前夜もいつものように最後の時報に合わせた。絶対正確だったという自信がある。大破した校舎からはい出した時、自分の時計なら見向きもしなかったかもしれないが、友達の高価なものだから壊れていないかと心配で反射的に時計を見だ。8時6分を鮮明に覚えている。絶対に間違いない」
山本郁郎君は2度も3度も「8時6分」を繰り返した。
世間には時間にうるさい人がいるが、彼もその一人で、今でもテレビのCMの数秒の誤差でも気にするほどの病的(?)な時計マニアである。それに中学時代から数理に明るく、なかなか信念を曲げない生徒だった。みんなそれを知っているだけに妙に説得力があった。
 「ロンジンはその後どうなったか、って。戦争が終わってすぐその友人に返したよ」・・・

 中条一雄は同窓会での友人の原爆投下時間「8時6分」説を一つの契機として、原爆投下時間の追求に入っていく。しかし、私は彼の本を読みつつ、どうして8時15分に(あるいは8時6分に)原爆は落ちたのだろうかと思うようになっていったのである。

 そのような思いをしつつあったとき、私は諏訪澄の『広島原爆 8時15分投下の意味』に出会った。以下、中条一雄の説を採用せず、投下時刻を「8時15分」で統一する。中条一雄はいろいろな時間説を紹介しているので、興味のある方は読まれるといい。

 さて、諏訪澄の『広島原爆 8時15分投下の意味』を読んでみよう。レスリー・R・グローブス将軍の『原爆はこうしてつくられた』を紹介しつつ、諏訪澄はどうして原爆投下時間が8時15分なのか、との疑問を投げかける。私がグローブス将軍の本を読んだときに気にも留めなかったことである。私がハッとした文章を引用する。

 ・・・グローヴス自身、後年、第1報に接した時の印象を次のように記している。
 広島爆撃の経過は、8月6日、バーソンズ大佐が飛行中仁記入しつづけた航空日誌にあますところなく尽くされている。

・・・午前2時45分 - 離陸
・・〔この間は著者諏訪氏が省略〕
8時38分-高度3万2700フィート(約9700メートル)で水平飛行
9時09分-目標広島 視界に。
9時15分30秒-原爆投下。
(*時刻はテニアン時間。日本とは時差1時間)
当初の計画では、原爆投下時刻は午前9時15分と予定されていた。6時間半を要する約1700マイル(2720キロ)の飛行で、ティベッツ中佐の名操縦は、目標到達にわずか30秒の狂いしか生じさせなかった。
 *L・R・グローヴス『私が原爆計画を指揮した』實松譲他訳(恒文社、1964年)

 ここでグローヴスは、ティベッツの名操縦を讃えながら、作戦遂行の正確さを誇っている。しかし、その結果、この文章は彼が意図しなかった他の真実をも伝えることになっている。それは何か- 。・・・

 私は諏訪の「それは何か- を読んでハッとした。そして期待をもって、諏訪が追求するであろう、あることを期待しつつ彼の文章を読んだ。続ける。

 ・・・★第1に、原爆投下時刻「8時15分」が、秒単位で誤差が数えられる厳密さで戦略の中枢にも伝達されていた事実。最重要の任務は、もちろん爆撃の決行だったが、投下が命令どおりの時刻に行われるかも重要だった。
 ここから★第2に- 「8時15分」が作戦遂行の結果ではなく、達成されるべき目標だったことが判る。
 つまり、原爆搭載機「エノラ・ゲイ」は、任意の時刻にテニアン基地を出発し、結果的に「8時15分」に広島に到達し爆撃したのではない。「エノラ・ゲイ」は命令された時刻に正確に投下すべくテニアンを離陸したのである。
 その設定時刻どおりに攻撃を行うことは、1局地戦で前線指揮官に裁量を任された自由なつまり些細な事項ではなく、ワシントンの戦略中枢が-そして大西洋上の大統領もが全神経を集中して見守っていた重要事だった。事実、ワシントンからの連絡を受けたトルーマンは、満足感を自分だけに留めておくことができず、さっそく乗艦の水兵食堂に行き「新しい爆弾の成功」を披露している。
 ★第3に、にもかかわらず、グローヴスは、その重要な爆撃時刻の理由、それの決定過程について、前記著書でまったく触れず、素知らぬ顔で通り過ぎている。ロ八丁の男のこの抑制は何を意味しているのだろうか。・・・

 諏訪は「8時15分投下」の意味を探し出そうと、埋もれたアメリカの文書を求めることになる。彼は、その過程で「広島原爆投下は、なぜ8時15分だったのか」の章をもうけて、多数の頁を使い追求していく。しかし、私は彼が結論を得たとは思えない。彼は、アメリカ側の資料のみを漁り続けているからである。私は、彼の本を読みつつ、「8時15分」はアメリカ側の「その中枢にも伝達されていた事実」には同意する。また、「もちろん爆撃の決行だったが、投下が命令どおりの時刻に行われるかも重要だった」と彼が主張していることにも同意する。

ここで、私の考えを述べる時が来たようである。私が彼の本を読みつつ思ったのは、「8時15分」が最も劇的に、広島市民を大量殺戮しえる時間ではなかったか、ということである。歌田明弘が『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた』の中で「日本、ソ連、アメリカ国民-この3通りの観客に向けて最大の効果を発揮すべく、原爆投下という『スペクタクル』は周到に準備された」と書いている。この牧田明弘の説を私は姉妹書「国外篇」で紹介した。要は、原爆投下は「スペクタクル」でなければならなかったのである。そのためには、広島市民にとっては申し訳ない限りなのだが、バーンズの発言にあるように「無警告」でなされねばならなかったのだ。
 京都が第1目標としてほぼ決定していたのが、スティムソン陸軍長官の意向で広島へと変更された。私は4月初旬に畑元帥が第二総軍司令官として広島に着任する前から、何らかの形でスティムソン陸軍長官が日本側に、広島を爆撃目標の第1とすると伝達していた、と書いた。それは、アメリカ側の要望に応じ、広島に「スペクタクル」を演じさせるべく日本側が動かなければ実現しないものではなかったか、と思うのである。そのために大屋中佐が有末精三中将の元からわざわざ派遣されて広島に来たのである。
 「広島原爆は予告されていた」という例を数多く挙げた。その予告が軍人や市民に伝わっていくのも、大屋中佐や太宰憲兵課長が事前に知って抑えにかかったのも、すべては「スペクタクル」のためであった、と私は信じている。そのためには、時間を設定し、通知しなければならない。原爆を落とす側に「何時何分」に落として下さい、と通知しなければならない。諏訪は「秒単位で誤差が数えられる厳密さで戦略の中枢にも伝達されていた事実」と書いているが、これはどうも彼の思い過ごしというべきであろう。

中条一雄は『原爆は本当に8特15分に落ちたのか』の中で、原爆投下時刻についてたくさんの資料を使って追求していると私は書いた。ここでは列記しないが、私は中条一雄に賛成である。アメリカ側と日本側は「8時15分」で合意に達していた。しかし、分単位で多少の誤差が出るのは仕方のないことだ。たぶん10分から15分ぐらいは想定の範囲であったろう。アメリカ側も原爆投下から2日後に「8時15分」と発表しているのである。予定が「8時15分」であったから、その時間の近くに投下できたから、後で記録をその時間に合わせ調整すればいいのである。私が中条一雄と諏訪の2冊の本を読んだのがきっかけで、日本側が、もっと具体的に書くならば、第二総軍が8時15分に設定して策を練り実行に移していたことを知ったのである。

 私は自説の正しさを証明しなければならない。読売新聞社編『昭和史の天皇』からの引用である。

 ・・・原爆をかぶった第二総軍首脳部の1人、総軍参謀長、岡崎清三郎中将の話も聞いておこう。
 「わたしは20年7月下旬、第二総軍参謀長になったが、その前は大阪の三越デパートにあった近畿地方軍需監理部長をしていた。これは海軍省や軍需省も一緒にした軍の出先機関で、資材の割り当てや電力の配分までやっていた。そのころ大阪の鉄道局長が、のちの総理の佐藤栄作君で週1度ぐらい仕事のことで会っていたものだ。
 それはともかく、第二総軍行きの辞令を聞いたと思ったら、7月31日、広島から飛行機で迎えにきて連れていかれた。参謀長だから参謀懸章がいるが、持っていなかったので中部軍の参謀のを借りてぶらさげていった。畑元帥に申告にいったら、
 『ソ道の動きと東京の動きがどうもあやしいから、その2点に特に配慮してくれ』 といわれたのを覚えている。
 官舎が決まるまでというので、場所は忘れたが広島市内の虎屋という旅館にはいった。変な話だが、どうも他人の参謀懸章では肩がはっていけない。そこでまだ大阪にいた女房に、広島へくる前に松江の自宅にまわってわたしの参謀懸章を持ってこいといってやった。おかげで女房は原爆をまぬかれたのだ。
 2、3日旅館住まいをしていたが、もともと参謀長官舎として上柳町(現在の橋本町)の島津邸が予定されており、島津家の疎開がはじまったので、五日の午後になって2階の1間があいたからはいってくれといわれた。もう一日おくれて虎屋にいたら、これは爆心地に近かったから、ひとたまりもなくわたしは地上から消えていたろうね。人間の運命とはわからぬものだ。・・・

 8月6日8時15分に原爆投下を知っていた畑元帥の命令で、部下のものが急遽、島津邸の「2階の1室」を参謀長室にしたのが理解できよう。新任のナンバー2を「原爆殺し」するわけにはいくまい、と畑元帥は思ったにちがいないのである。次に重要なことが書かれている。

・・・5日の夕方、井本高級参謀が移ったばかりの島津邸にきて、
『あす(6日)朝8時から偕行社で、隷下各軍の防衛参謀を集めて会議を開きたいが』 といってきた。わたしは何気なく、
『いや、9時にせい』といった。各方面からくる参謀連は、敵機がやってくる前、つまり暁闇に飛行機で飛び立つだろうから8時では到着しないものもあると思ったからだ。これも、もし8時に会議をやっていたら、総軍ばかりでなく、各年の参謀連がみんなやられ大打撃をうけたろう。・・・

 8月6日、朝8時に偕行社において、各地域の参謀を集めて会議を開くことになっていた。『エノラ・ゲイ』にも「もう12時間足らずで西日本の防衛の柱になる上級指揮官の多くの者が広島に集合する予定であった。彼らは明朝9時に、現在、元帥のいるこの部屋で会議を開くことになっていた」と書いている。8時からの会議をしているとき、間違いなく、彼らは、各地から集まった上級指揮官たちが、「原爆殺し」のメロディを聞くように設定されていた。15分後、遅れた者も席に着いているだろう。ここに第二総軍の配下の上級指揮官のほぼ全員が死んでしまうのだ。その結果はどうなるのか? 日本の国土の四半分から「終戦反対、徹底抗戦」の声が消えていくのである。神の名のもとに戦争を始めた日本は、神の名のもとに終戦を迎えねばならない。皇軍の旗を振り続けた上級指揮官が消えてしまえば、なんと都合のいいことであろうか。
 たしかに、8時が9時となった。1部の上級指揮官たちは、偕行社に着くか、偕行社に向かっていたのである。広島軍司令部の参謀たちは偕行社に行く前に、多くの兵土たちを集めて訓示を垂れていた。広島市にその時間にいた大勢の兵土たちは、上級、中級、下級を問わず、ほとんど爆死したのである。生き残ったのは第二総軍の面々であったのだ。

 もう一つ重要なことがある。それは、★第二総軍が広島市民たちを爆心地近くに動員したことである。原爆遺跡保存運動懇談会編『広島爆心地中島』(2006年)から引用する。この本の中に、「長谷川氏の手記」というものが載っている。

・・・学校関係者は、口を揃えて、〔動員された生徒が〕危険な作業に出ることを極力反対しました。しかし、軍関係者は、承知せず、防災計画上、1日を争う急務だからと強く出勤を要望しました。会議は長時間にわたり平行線をたどったのであります。
 出席の軍責任者の○○中将は、いらだち、左手の軍刀で床をたたき、作戦遂行上、学徒出勤は必要であると強調し、議長(内政部長)に決断を迫りました。議長は沈思黙考、双方の一致点を見出そうと苦慮され、やむなく出動することに決定、空襲の際は早く避難できるようにと引率教師を増やし、少数の集団として、終了時間は一般より2時間位早くすることでようやく妥結しました。・・・

この中の「○○中将」についての解説があるので記すことにする。

・・・〔○○中将とは】当時、広島の陸軍部隊には3人の中将が配属されていた。1人は船舶司令部(暁部隊)の佐伯文郎中将、1人は編成中の赤穂部隊の河村参謀中将であり、もう1人は広島の第五九軍司令官(元広島管区司令官)であり、中国軍管区司令官の藤井洋治中将であった(『広島原爆戦災史』『広島師団史』)。「軍責任者」とは藤井中将に外ならない。
 したがって最高責任者、司令官自身が前述の学徒動員実施要綱にもある1、2年生への配慮も、学校関係者の「口を揃えての」反対をも無視したこと、さらには秋吉威郎内政部長が沈思黙考苦慮した経過が明らかになった。
以上のことを裏づけるように、『広島県史(近代Ⅱ)』の「原爆と敗戦」の項では、「広島地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命じた」と記している。

 この解説の中に、「広島地区司令部の強い要請により」とは、藤井洋治中将の要請により、と理解される。彼を最高責任者としているが、私は広島の軍を指揮した最高責任者は畑元帥であったと思っている。畑元帥が藤井洋治中将に命じ、広島県知事を動かし、「8月3日から連日着勇隊3万人、学徒隊1万5000人出動させた」ものと確信する。



 どうして、8月3日から6日までなのか。エノラ・ゲイは8月3日から6日にかけて、天気のよい日を見つつ、出撃の秒読み体制に入り、8月3日すぎに「8月6日投下」と正式決定をするのである。これは偶然では決してありえない。畑元帥とテニアン島のルメイ司令官、そしてグローブス将軍、そのボスのスティムソン陸軍長官が、日本側に求めてやまなかった準備工作である。だから、夏の朝、8時ごろから子供たちが駆り出されて、強制疎開という名の瓦運びなどをさせられたのである。

 8月6日朝、偕行社に行く準備をしていたであろう藤井洋治中将は爆心地近くの宿舎で夫人とともに被爆死するのである(一説には偕行社にて死んだと書いた本あり)。藤井中将は予備役であったが、第二総軍創設の4月に畑元帥から広島管区司令官に迎えられ、6月に第五十九軍司令官、中国軍管区司令官となる。畑元帥の命令で子供たちを爆心地へ連れ込んだのである。広島市長は、藤井中将ではなく、高野知事でもなく、畑元帥に直接、「溢れる軍人をなんとか少なくしてくれ」と依頼している。この事実は、かのとき、畑元帥が広島の最高指揮者であったことを示しているのである。

 私は「原爆」を書こうとしたとき、まず、広島と長崎で被爆した人々の手記を読むことから始めた。その中で、表現としてはどうかと思うが、死者の声を聴くようになった。生き残った人々が語る言葉の中から、死者たちの沈黙の声が聴こえてくるのである。そのうちに、私はアメリカを調べようと思うにいたった。アメリカの「マンハッタン計画」について研究し始めたときに、この計画と第二総軍の創設が結びついているのではないのか、と思うようになったのである。

 暗中模索の日々が続いた。その間にも死者たちが夢の中に出てきて、私に指図するようになった。未知の彼らから「原爆の秘密」をどれだけ教えられたことか。読者は信じられないだろうが、それはそれでいい。

 私は原爆を研究する過程で、偶然に(否、必然的と私は信じているが)、1人の原爆孤老から手紙をいただいた。その人は「内密に」と書いていた。私は是非とも私の本の中に書きたいと電話した。「どうぞ」と承諾してくれた。その手紙の最後の部分を記す。

 ・・・日本海軍が米英等と特殊な関係を持っていた為、原爆を広島に落としたのも、その南方数キロの地点(江田島、桂島)に集っていた海軍エリート達に至近距離で見物できるようにアメ公が細工したものと愚考します(兵学校裏の小山は絶好の展望台の筈!)。戦後の日米協力のプロジェクトで、海軍の上層部にいた連中の数が異常に高かったわけです。・・・

私は海軍と原爆の関係についても研究・調査をしたが、この本では割愛した。第二総軍に的を絞ったからである。
 2007年、真珠湾攻撃の航空隊総指揮官であった淵田美津雄大佐(当時)の『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』が出版された。この中で淵田は原爆の前日、広島にいた、と書いている。私は淵田は偕行社に海軍の1員として行っていたと思っている。彼は宴に出席し、次の日の原爆投下の打合せをして(海軍の立場を説明して)、広島を去ったと信じている。
 『エノラ・ゲイ』の中に8月6日の淵田大佐を描いた文章があるので記すことにする。

 ・・・淵田大佐は、安沢少尉が歴史的離陸を行なったと同じ滑走路に着陸したのだが、そのことは後日全然記憶していなかった。覚えているのは、それから純白の海軍の軍服と靴と手袋という端正な服装で飛行場の出ロヘ向かって歩いて行くと、突然に「地獄から出て来たのかと思うような人たちの行列と」ばったり顔を合わせたことであった。
 彼はゾッとしながら、純白の軍服に黒い煤の降りかかるのもかまわず、広島の町へ歩いて入っていった。すでに事切れた人や、瀕死の人が溝の中に重なり、川に浮かび、道をふさいでいた。市の中心部へ近づくにつれて、淵田大佐はいよいよゾッとした。何区画もの町がまったく消え失せていた。少なくとも1マイル四方の地域には「何1つ残っていなかった」。文字通り日本を第二次大戦に引き込んだ人である淵田大佐は、その焼土の中を当てもなく歩きまわった。その光景は真珠湾攻撃から3年7か月29日後の今となって、彼に奇襲戦は両刃の剣であることを残酷に思い知らせるものであった。・・・

『淵田美津雄自叙伝』の中に次なる記述がある。少々長いが記すことにする。

 ・・・以下、述べる挿話は、私ひとりがいい子になって、広島で被爆して死んで行った人たちは、神の恩寵から外されていたのかと、ひがむ人も出るので、私はあまり話したことはないのであるが、私自身にとっては、満ち溢れる神のめぐみであって、結局、この事実が後日、私をキリスト信仰へと導いて行ったのである。
 実は、私は8月6日の前日5日まで、広島に滞在していたのであった。用件は、私は海軍総隊(昭和20年4月設置。連合艦隊壊滅後の全海軍を指揮する)の航空参謀で、兼職として南方総軍参謀でもあったので、広島の第二総軍司令部にはちょくちょく出向いていた。・・・

 淵田美津雄は海軍総隊の航空参謀であった。その海軍総隊が昭和20年4月に設置されたことには重要な意味がある。第二総軍と同じ日だからだ。「連合艦隊壊滅後の全海軍の指揮」をこの海軍総隊がとっていたのである。彼は、畑第二総軍総長の部下の大屋中佐と同じような立場にあった。「広島の第二総軍司令部にはちょくちょく出向いていた」に注目すべきである。なにゆえに淵田は出向いていたのか? 続いて読んでみよう。

・・・本土決戦について、九州防衛の協同作戦の打合せや、図上演習などは、もう済んでいたのであるが、今回は奇しくも、眼にあまるB29の跳梁をなんとか制圧出来ないものかという、航空総軍案の「制号作戦」なるものの打ち合せで、航空総軍の作戦参謀が主宰した。当時、海軍総隊としては、「剣作戦」というのを準備中で、これはマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムのB29の基地に、陸戦隊を強行着陸させて、亀の甲爆弾と呼んだ特別に工夫考案された爆弾でB29を1機1機爆破しようとの特攻作戦であったが、これにも陸軍兵力が協力しようとの打合せであった。

 淵田美津雄が書いているような「剣作戦」など、実際には存在するはずがなかった。単なる空想、妄想の産物である。制空権も制海権も完全に連合軍に握られていた。私は「よくぞ、こんな嘘を書きやがって・・・」と思えてならない。どこに原爆基地のテニアンに向こう1艇ありや、である。そのうえ海軍総隊は中国軍司令部に何1つとして米軍機来襲の情報をさえ流していないのである。続けて読んでみよう。

 ・・・会議は3日ほどで、5日の昼前に終った。私はやれやれと腰を伸ばしながら、今晩も広島に滞在するつもりで、宿舎の大和旅館に戻った。旅館は細工町にあった。宿舎に戻って、先ずは昼寝と横になっていると、室内電話のベルが鳴る。受話器をとってみると、東京近郊日吉台にある海軍総隊司令部からで、矢野志加三(しかぞう)参謀長の声である。
 「航空参謀、広島の用件が済んだら、帰りに大和基地に立ち寄って貰えないか。久安(房吉)参謀副長が航空総軍との通信施設で、あなたの助言がいるそうだ。工事関係者が明早朝に集まるから、今晩中に来てほしいそうだ」・・・

 『淵田美津雄自叙伝』は延々とこの間の事情を書き続ける。簡単に記せば、3日間も続いた会議は存在せず、彼は夜半にひそかに広島を離れて岩国基地に移ったということである。
 淵田大佐は海軍が畑元帥のもとへ送り込んだ【使者】であった。淵田は戦後、クリスチャンになった。ヨハンセン・グループ、同盟通信グループも全員クリスチャンになることで、1原爆弧老が書いたように「日米協カプロジェクト」の1員となり、「幸せという名の身分」をアメリカから与えられた。
 私は太平洋戦争開戦以前から、淵田たちはアメリカの隠れエージェントであったと思っている。
 『エノラ・ゲイ』の最後の文章に注目してほしい。

「その光景は真珠特攻撃から3年7ヵ月29日後の今となって、彼に奇襲戦は両刃の剣であることを残酷に思い知らせるものであった」

 広島原爆については書き足りない。章をあらためて書くことにしよう。真珠湾攻撃の意趣返しが長崎へのプルトニウム爆弾の投下であった。長崎を書くべき時が来た。

 ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する  <了>

  続く。 


  ●第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である

★「長崎は小倉の代替地説」のウソを暴く 


 長崎がどうして広島についで原爆が投下されるようになったのかを考察してみよう。そうすれば、広島に原爆が投下された理由もおのずから判明してくるであろう。原爆が投下されるには、それだけの理由があるにちがいないからだ。

 1945年4月27日に、目標検討委員会の初会合が開かれた(姉妹書「国外編」第五章参照)。
 この会議の模様を詳しく紹介したい。『資料マンハッタン計画』の中の「資料146 目標検討委員会初回会議覚書」から引用する。「1」から「4」は省略し、「5」を引用する。

 5。 ウィルソン博士が退出したあと会議は続き、フアレル将軍が、冒頭に行なわれた全般的討論から得られたいくつかの基本的規準を示した。
規準は次のとおりである。
a B29の最大航続距離は1500マイル。
b 有視界原爆が不可欠。
c 目標上空の全般的気象状態。
d 予想される爆弾の爆風効果と被害。
e 日本の都市地域、つまり工業地域における7月・8月・9月の爆撃状況を知る必要。
f 戦闘グループは、1つの主要目標と2つの代替目標をもつこと。

 この規準にそって、広島と長崎に原爆が投下された理由がなんとなく理解できる。「c」と「e」に注意してほしい。気象条件が原爆投下のための重要なファクターとなっていた。レーダー採用による爆撃方法も検討されたが、明確な位置決定には目標の位置確認は眼による確認とされた。小倉の視界が悪かったから、第2目標である長崎に原爆が落ちたという「伝説」(私はそのように認識している)が生まれてくることになった。「6」は省略する。「7」を記す。

 7 ファレル将軍は、目標選定に関して考えられる手順は次のようにしたらよかろう、と提言した。
 a 目標地域を選ぶ。
 b 精確な照準対象地点を選ぶ。
 c 最初の作戦隊が出撃する日取りを、可能なかぎり少ない日数(2日ないし3日)の範囲であらかじめ決定する。

 広島に原爆が投下される前に「b」が完成していた。精確な照準対象地点がきまり、第二総軍の協力を得たことはすでに書いた。「c」も広島において実行された。7月31日からは何日にでも原爆投下が可能となった。しかし、天気の回復が待たれた。8月3日から10日にかけて晴天が続くとの気象情報を得て、8月の初旬、たぶん、8月1日に第二総軍にテニアンから「8月6日投下決定」の情報が入った。それで爆心地に8月3日から6日にかけての大動員、そして上級指揮官たちが偕行社へと向かったのが8月6日の朝だった。8月3日から8月10日にかけて九州地方は天気がよかった。気象は九州から広島へと移動していくことを読者は考えられよ。だから、9日に長崎に原爆が落ちたのは理にかなっている。
 しかし、長崎も福岡も天気がよかったのに、どうして小倉が視界不良なのか。第1目標の小倉でなく、なぜ長崎に原爆が落ちたのか。
 「8」は省略、「9」を記すことにする。

 9 ファレル将軍は、以上を要約したうえで、最初の作戦のための必要条件を下記のとおり挙げた。
 a 最高指揮官は、兵器が技術的にすぐにでも使用できるようになったのち、いつ、どのように出撃するかについて責任をもつ。最高指揮官は、グローブズ将軍の軍事代表をつうじて彼に伝えられる必要な技術的助言をすべて利用できるであろう。
 b 首席気象予報官は、常時、グループの相談に応じられる状態で待機しなければならない。この仕事はランズバーグ博士に担当してもらうことを提言する。
 c 最初の作戦に適した日を知ることが絶対不可欠である。考えられる三つの目標地域について、3日間の範囲内で、作戦実施日を予測できるようにするため、徹底的な研究をすべきである。

この文中に「最高指揮官」とあるのはスティムソン陸軍長官である。「いつ、どのように出撃するかについて責任をもつ」と書かれている。★すなわちスティムソンが、8月6日午前8時15分に 広島に原爆を落とさせたのである。トルーマン大統領は何も知らされず、ポツダムから帰りの軍艦 の中でこのことを初めて知ったのである。

 では、長崎はどうか。最終的に長崎に原爆は落とされたが、最後の段階で、スティムソンが長崎に「落とせ!」と決定したのである。

 この「c」の中に重要なことが書かれている。「三つの目標」である。これについては後に詳述する。この「b」を読んでも分かるのだが、気象が重要なファクターであったことが分かる。
 「10」の「e」では、「東京では、5年に1度だけ2日連続して有視界爆撃に適する日があった」と書かれている。この時点で、三つの目標地の一つが東京であることが理解できよう。

 天皇が最高指揮官スティムソンから決断を迫られたのは、この初会合のかなり前であろう。このような会議が開かれる数カ月も前から、原爆投下の目標地に関する研究が進んでいたことは間違いのない事実である。それゆえに、天皇は第二総軍を創設し、腹心の部下である畑元帥に事の次第を説明したのであろう。一つは東京であった。もう一つの目標地についての記述がある。
 「12」の中には次のような記述がある。
 「ランズバーグ博士が、11年間の気象記録を調べ、下関と東京について答を出すこととする」
 「14」に重要な記述があるので引用する。

 14 フィッシャー大佐は、第20航空軍の指令について、あらためて一同に説明し、次の諸点を挙げた。

 a B29の最大航続距離は、高度3万フィートで1500マイルである。
 b 第21爆撃司令部は、目標順位リストに33の主要目標を掲げている。
 c 対象としうる日本列島上の目標について、次の所見が述べられた。
 (1)広島は、第21爆撃司令部の順位リストには載っていないが、これまで爆撃を受けていない最大の目標である。この都市について検討を行なうべきである。
 (2)ハ幡は、UA(都市地域)/1として挙げられているが、検討すべき地域であり、A順位リストに載っている。
 (1)ヨコホマ(横浜)は・・・〔以下略〕

 広島は順位リスト上位に加えられ、八幡が順位上位にあり、横浜とならんでいた。
 横浜に原爆を投下すれば、東京にも大きな影響を与えられる。八幡は小倉と隣接する工業都市である。八幡は上位からどうして落ちたのだろうか。原爆投下都市の決定には、1人の少将が大きく影響する。その男の名は★カーチス・ルメイ少将である。彼が考案した爆撃技術によって太平洋戦争の戦局は大きく変貌した。リチャード・ローズの『原爆から水爆へ』から引用する。

 ・・・1945年はじめ、この問題を打開するために、ルメイはグアムに呼び寄せられた。爆撃の精度を高める方法を研究するかたわら、彼と参謀たちは空襲の写真と日本の高射砲に関する報告書を検討した。その結果、彼らは日本軍には夜間戦闘機がないことと、日本の対空砲火の照準が高高度に偏っていることを見出した。「低空からの攻撃に対する防空体制は全く認められない」とルメイは結論を下した。
 日中に低空から精密爆撃すれば、ルメイのクルーが危険にさらされる。夜間精密爆撃用に改良されたレーダー爆撃照準器は、まだ使用できなかった。米国陸軍航空軍は陸軍と海軍が日本に進攻する前に、航空戦力で戦争を終わらせたいと望んでいた。そこで、ルメイは根本的に新しい戦略を編み出した。彼はB29の爆撃搭載量を増すために、余分な装備をとりはずさせた。そして、1945年3月10日の夜、ゼリー状ガソリンを詰めた集束焼夷弾をそれぞれ1万ポンド〔4500キログラム〕搭載した325機のB29を東京上空に出撃させたのだ。

 東京大空襲である。1夜のうちに、日本の首都の42.8平方キロメートルが全焼し、10万人が死んだ。私たちはルメイの言葉を知る必要がある。「・・・日本においても、ヨーロッパにおいても、戦時の空襲がこれほど大量の人命を奪い、財産を破壊した例はない」
 この大空襲で、東京と横浜が焼け野原となり、アメリカが秘密裡にすすめていた原爆投下候補地が大きくくずれていく。スティムソンはグローブス将軍に命じ、ルメイに原爆投下の全貌を教えることになる。

 それでも不思議なことがあるものである。ヨハンセン・グループの1員白洲次郎が、この東京大空襲の投下日を事前に知っていたということだ(「国外篇」第六章参照)。このことは間違いなく、1945年の春から(遅くとも)、ヨハンセン・グループを通じ、グルー国務次官経由で原爆情報が天皇のもとへ届けられていることを意味する。3月10日の東京大空襲と第二総軍の設立がセットになっていることを意味する。
この東京大空襲について、リチャード・ローズは次のように書いている。

 ・・・戦後久しく経って、ある勇敢な士官候補生がルメイに対して、「日本の爆撃に関する決断に、道徳的な考慮はどの程度影響を与えたか?」という旨の質問をした。南北戦争の北軍司令官ユリシーズ・B・グラント将軍に劣らず非情なルメイは、例によってぶっきらぼうにこう答えた。
 「あの当時、私は日本人を殺すことについて、たいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは、戦争を終わらせることだった。だから、この任務を遂行すれば何人殺すことになるかということなど、とりたてて気に病んでいなかった。もし、戦争に敗れていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに、われわれは勝者となった。ついでに言えば、われわれが広島と長椅に原爆を落として多くの人々を殺したことを、誰もが嘆いている。たしかに、これは道義にもとる行為だろう。だが、日本の産業都市を残らず焼きつくした攻撃作戦については、誰も何も言わない。しかるに、東京に対する最初の焼夷弾攻撃は、原爆より多数の人命を奪ったのだ。どうやら、これは正当な行為だったらしい・・・。
 君の質問に率直に答えるなら、答はイエスだ。軍人は誰でも、自分の行為の道徳的な側面を多少は考えるものだ。だが、戦争はすべて道徳に反するものなのだ。もし、君がそのことで悩むようだったら、君はよい軍人ではない」・・・

 このルメイの「ぶっきらぼうな答」の中に、広島と長崎に原爆が投下された理由も書かれていると私は思っている。あの東京大空襲で100%近く、否、100%、日本は敗北していた。その中で天皇は第二総軍を設立する。鈴木内閣が設立したのではない。はっきりと畑元帥がそのように書いている。
先に紹介した畑悛六の「第二総軍終戦記」から引用する。

 ・・・この二軍を東部は杉山元帥、西部を余にて担当する経緯に就ては聊か説明を要するものあり。初めは東を朝香宮大将、西を東久邇宮大将にて担任せられることを至当とし、当局より御内意を伺ひ御承諾を得たるところ、急に其任にあらずとして御辞退に相成りたり。・・・

 鈴木貫太郎内閣の後を継いだのが東久邇宮である。この皇族を「御承諾」させうるのは天皇裕仁以外にありえない。東京大空襲を受け、天皇は決断を迫られた。畑は「昭和20年の春季愈々本土決戦を決定することとなり」と書いているが、本土決戦とは名ばかりで、食糧も武器も石油もなくなった本土にルメイの爆撃機の無差別攻撃を連日許すというのが真実の話であった。天皇は自分の身の保障を求めて、ヨハンセン・グループのルートで交渉し続けた。そして、原爆投下(予定)地が次々と変更されていった。どうして長崎に? 廻り道をし続けた。廻り道をしなければ、本当の道が見えてこない場合もあるのだ。
 「目標検討委員会初回会議覚書」に話を戻したい。この覚書の[15」の中に、爆撃都市の規準が定められている。

 ・・・
a より広い人口集中地域にあり、少なくとも直径3マイル以上の広さをもつ都市地域について検討を加えるべきである。
 b 目標は、東京・長崎2都市間に位置する地域とする。
 c 目標および(または)目標地点は、高度の戦略的価値をもつものとする。
 d 次の地域が研究対象として適当と考えられる。東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、シモセンカ(下関)、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保。・・・

 「b」の「目標は、東京・長崎2都市間に位置する地域とする」を読むと、不可解な点が見えてくる。最終的な攻撃目標に新潟が入っていた点である(「国外篇」第七章274頁参照)。
 7月24日付のスパーツ文書では、「広島、小倉、新潟、長崎」となっていた。新潟はテニアン島から遠く燃料不足の面もあった。私はこれは1種のフェイント作戦だったと思っている。広島、小倉、長崎と続くのが彼らの目標であったことは、『米軍資料 原爆投下の経緯』1996年)を見ても理解できる。この米軍資料については後述する。
 数多くの都市が候補地として挙がっていた。しかし、ルメイの空襲により多くの都市が破壊されていった。この覚書の中にも、次のように書かれている。
 「第20航空軍は、邪魔な石は残らず取り除くという第1の目的を念頭に置いて次の都市を組織的に爆撃している。東京、横浜、名古屋、大阪、京都、神戸、八幡、長崎」

 それにもかかわらず、なぜ長崎に原爆が落とされたのか。

 私は、最高指揮官が最終的に投下都市を決定することになっていた、と書いた。スティムソンの意向で最終的に長時に決定した、と私は思っている。小倉は曇っていた。それゆえ、爆撃機は急遽長崎に原爆を投下したと巷間いわれている。私はこれは「伝説」であると書いた。私は最初から、第2の原爆投下地は長崎であった、と確信しているのだ。その隠された闇の領域へと読者を案内する。太平洋戦争の本当の原因が何であったかが見えてくるはずである。

  続く。
 




●原爆投下(4)
 ★謀殺された徹底抗戦派・戦争終結反対者たち 

 天皇の御文庫は皇居内の地下にあった。その地下室に大本営は設置されていた。大本営から発表される通達は、天皇の命令であった。4月1日の第一総軍と第二総軍の設置に関し、大本営は次なる発表をした(『戦史叢書「本土防空作戦・大陸命綴」』 朝雲(しののめ)新聞社)。

 1 大本営ノ企図ハ本土二侵冦スル敵軍ヲ撃滅シテソノ非望ヲ破催スルニ在リ
 2 第一総軍司令官、第二総軍司令官オヨビ航空総軍司令官ハ本土要域二侵冦スル敵ヲ撃滅スヘシ
 3 第一総軍司令官、第二総軍司令官ノ任務達成ノタメ準拠スヘキ要綱左ノ如シ
  (1)戦備ヲ速急二強化シ本土要域二侵冦スル敵二対シ決戦ヲ指導シコレヲ撃滅スル
 コレガ為戦備ノ重点ヲ関東地方オヨビ九州地方二保持スル

 日本人は単純にできている。兵土たちは、上官からこの大本営発表を知らされ、重装備のアメリカ軍の上陸にそなえて、ひたすら九州の鹿児島、宮崎、熊本の山の中に、穴を掘り続けた。どうして穴かと問うてはいけない。穴を掘る以外にすることがなかったのである。大砲も銃もなく敵を撃破しろと言われた兵士たちは空腹をかかえ、穴を堀り、その中で寝た。これが「戦備ヲ速急二強化」することであった。「本土要域二侵冦スル敵」を穴の中へと誘導し、「決戦ヲ指導シコレヲ撃滅スル」べしというのが、天皇の発案であった。

 では、どうなったのか? 彼らは神である天皇の言葉を信じる他に考えることがなかったのである。もし少しでも疑えば、自分が掘った穴の中に入り「墓穴を掘る」ということになっていた。その兵士たちを上官は「オ国ノタメダ」と叱咤激励し続けたのだ。
 だから、終戦工作の噂が流れだしたとき、九州一円の幹部将校たちは「戦争を継続させよ」の声を一斉に上げたのである。

 畑悛六元帥は頭脳明晰である。彼はすべての情報を分析し、8月6日午前8時には必ず会議に出席せよ、との通達を九州から大阪にいたる各司令官に出した。親分の言葉に従わないヤクザの子分がいないのと同様で、彼ら司令官たちは偕行社の会議に出席すべく万難を排してかけつけた。前日に着いた司令官たちは、岡崎清三郎新参謀長の着任祝いを兼ねた前夜祭に出た。原爆投下の前夜、県知事、広島市長、政・官・民の大物たち、広島軍司令部の幹部たちが集まって、畑元帥の大盤振舞いに大喜びした。広島芸者たちが華をそえたことは言うまでもない。そして、乱痴気騒ぎの後はご覧の通り、となる。
 ここでは、8月6日の夜の宴に出た広島市長のことを書いてみよう。
 ゴードン・トマス、マックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』から引用する。

 ・・・アメリカ捕虜から50ヤードばかりしか離れていない市庁舎の中で、粟屋仙吉市長は圓山和正係長が最近の統計数字を並べるのに耳を傾けていた。その日の朝までに3万人の大人と11歳から17歳まで1万1千人の学校生徒が防火帯設置のために勤労奉仕させられた。7万戸以上の住宅が壊され、戦時のピークの市の人口34万のうち6万人がすでに疎開した。防火帯設置のために家を失う人がいよいよ増加したので、2、3日中に第六次の強制疎開が始まる予定であった。今朝、圓山係長は市の残存人口を28万人と推計した。
 広島市の人口は確かに滅少していた。戦前、市中には2千軒近くの食料・飲食関係の店があったが、そのころには150軒以下となっていた。しかも残存の大型店には「軍にのみ供給しろ」との命令が出されていた。第二総軍からの通達であった。市民は雑炊を食えればよいほうであった。この実情はすでに書いた。

『エノラ・ゲイ』を続ける。

・・・労働者の得る金はしかしほとんど無価値であった― 淫売窟の腹を空かせた売春婦までが現金を受け取ることを拒んだ。彼女たちも、広島の他の多くの人々と同じく、食物の現物でなければ受け取らなかった。
 圓山係長が次々に困ることを並べているのを聞いているうちに、粟屋市長は「事態を一変させ、この狂気の沙汰を止めさせる」には道は1つしかないと悟った。粟屋市長はすぐに畑元帥に面会を求めるつもりだと圓山係長に話した。・・・

 これは、8月3日の記述である。「この狂気の沙汰」とは、市民がいくらかは強制疎開させられて人口は減ったが(家を壊されたため)、軍人たちが溢れ出したことを意味した。食糧を供給できなくなったのだ。『エノラ・ゲイ』には次のように書かれている。

 ・・・圓山係長は市長に気をつけるようにすすめた。表向きの面会はいいやり方ではあるまい。畑元帥はそういう場合には、頑として言うことを聞かないので有名であった。それよりももっと肩の凝らない、打ちとけた場で元帥をつかまえたほうがよい。もう2日後の8月5日にはちょうどいいチャンスがある。市長はその日市庁のすぐそばの偕行社の懇親会に招待されていた。その晩なら、粟屋市長は酒の間に畑元帥に意見を述べられるだろう。・・・

8月5日に場面を移そう。やはり『エノラ・ゲイ』の記述である。

 ・・・広島では、1つの宴会がいまたけなわであった。畑元帥の部下の新任参謀長の歓迎宴に出席するため、招かれた客たちが6時から偕行社に到着していた。民間人の客は県知事と上級の役人たちと粟屋仙吉市長とであった。その民間人の客と50名ばかりの幕僚たちとが畑元帥と新任参謀長と同室に集まっていた。他の客たちは次の間の宴会場で飲んでいた。畑元帥と参謀長とは先刻ちょっとそちらの宴会場に顔を出して挨拶してからまた奥の間に帰り、そちこちの客の群れをまわって酒を飲み、丁重な会話を交わしていた。・・・

 私はこの宴会の模様を書いた本は他にないものかと探したが、皆無であった。宴会があったとの1行ないし2、3行の記事は発見した。しかし、日本人の書いた原爆関係の本は、この宴会を重要視していないのである。原爆投下の本質を見究めようとする姿勢が欠けているように思えてならない。だから、この『エノラ・ゲイ』を読み続けてみようではないか。

 ・・・粟屋市長は少し間を置いては奥の部屋の出口のところに近づいていった。そこには圓山係長が冷たい茶を入れた徳利を手に辛抱強く待っていた。粟屋市長は絶対禁酒主義者であった。そこで市長が人から酒をすすめられた時、断わるのが面倒だから、市長の盃を茶で満たしておくのが圓山係長の仕事であった。
 それまでのところ、粟屋市長の目論見はうまくいかなかった。畑元帥をつかまえて広島の情勢の悪化について「真面目な議論」をしようという市長の計画は不成功であった。畑元帥は市長をうまくかわして逃げた。そこでもう1杯の茶で勢いをつけて、粟屋市長はもう1度是が非でも主人役の元帥に自分の意見をはっきり言おうと決心して部屋へ引き返した。・・・

 次の文章の中に「東京から帰ったばかりの大屋中佐」というのがある。大屋は7月27日に東京で有末精三中将と会っている。1週間ほど東京にいた。そして、この日に広島に帰り、この宴会場に直行していた。間違いなく、原爆投下に関して、広島軍司令部も、一般市民たちも無知であることを報告したにちがいないのだ。この日は、日本政府が「黙殺」をアメリカに伝えた日であり、テニアン島では「8月6日・広島原爆投下」が決定した日でもある。引用を続ける。

  ・・・市長に引きかえて、畑元帥部下の諜報主任の大屋中佐は元帥と話をするのに何の苦労もなかった。東京から帰ったばかりの大屋中佐が宴会の席に着くとすぐ、畑元帥は中佐をつかまえて、東京の状況についてその生ま(ママ)の報告を聞きたがった。大屋中佐は、東京のこうむった大きな損害はそのまま伝えたが、しかし日本の他の地方と同じく、東京でも国民の士気は依然として高いと報告した。2人は大屋中佐が1日がかりで書き上げた、最も最近の(ママ)軍事情勢の報告について簡単に意見をまじえた。その報告は、畑元帥が明朝開催する通信部隊全体会議の議論の主要題目になるはずであった。もう12時間足らずで西日本の防衛の柱になる上級指揮官の多くの者が広島に集合する予定であった。彼らは明朝9時に、元帥のいるこの部屋で会議を開くことになっていた。

私は「その報告は、畑元帥が明朝開催する通信部隊全体会議の議論の主要題目になるはずであった」と書かれた内容に異論を唱えたい。次項で書くことになるが、畑と大屋が宴会の席で緊急の会談を持ったということは、その必要性が存在したからだ、と私はみている。
 大屋は何を畑に話したのが。それは有末から伝達された事項にちがいない。何か緊急を要するのか、を考えたとき、私は必然的に、翌日8時15分に落ちる原爆で生き残る人と、死んでもらう人の選別の結果を畑元帥に大屋中佐は伝えたと思う。この宴席で酒を飲んでいる人たちの中で「誰と誰に伝えろ」と有末が語った、と私は信じている。従って、死んでいった人々は、畑元帥か大屋中佐から耳打ちされなかった人々に違いないのだ。これが私の推論である。『エノラ・ゲイ』を続けて読むことにしよう。

 ・・・大屋中佐は、今夜の宴会に来ている客のなかで、明日〈二日酔い〉で出て来るのが何人ぐらいいるかなと思った。もう大分飲みすぎたのがいた。しかし第二総軍司令部の高級将校の大半と、作戦主任参謀・井本熊男大佐と、片山二良大佐参謀と、李遇公殿下とは、控え目に飲んでいた。片山大佐は明朝8時に歯医者にいくことになっているので、酒を飲むとよくないからだと説明した。・・・

 私はこの文章を読み、どうやら『エノラ・ゲイ』の2人の著者は、広島で取材し、第二総軍の大屋に的を絞っていくなかで、原爆投下の機密をしっかりと知り尽くしたと思っている。この文章はそれを暗示しているからだ。次項でこのことを詳述することにしよう。
 ついに、粟屋市長と畑元帥の会見の場が描かれた文章が登場する。ゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツは間違いなく、この原爆投下の隠された秘密を知っている。以下の2人の文章がそれを暗示している。

 ・・・粟屋市長がもう1度畑元帥に食い下がると、元帥は2、3日中に相談しようと漠然とした約束をした。市長はがっかりしたが、もうあきらめて家へ帰ることにした。粟屋夫人は、最近自宅に預かることになった3歳の孫を連れにいって、広島へ帰ったばかりであった。
 圓山係長は市長を邸まで車で送って、それではいつものとおり、朝8時にお迎えにきますと言った。それが2人が交わした最後の言葉となった。・・・

  元帥が「2、3日中に相談しようと漠然とした約束をした」ことに粟屋市長は「がっかりした」のである。粟屋は宮城県仙台で鉄道省官吏の粟屋頴祐の子として生まれた。東京帝大法学部卒業後に内務省に入り、大分県知事、農林省水産局長などを歴任した後に1943年から広島市長となっていた。後は畑元帥の約束の中に広島の未来図を読み取ったにちがいないのだ。彼は自宅で妻と孫とともに被爆死した。否、次のように書くことにする。彼は妻と子と孫とともに、何者かによる「原爆殺し」という殺しに遭った、と。『エノラ・ゲイ』に書かれている粟屋市長に関する記事を列記し、この項を終わることにしよう。8月6日の朝の出来事である。

 粟屋市長の家でも、圓山係長のささやかなアパートでも、その他広島市内の百万軒の家でも、広島放送局の流すお決まりの軍歌を聞きながら、粗末な朝飯が始まっていた。

 〔エノラ・ゲイの機上で〕ジェブリンは秒読みを続けた。あと5秒。その同じ瞬間に - 爆弾の内部では、地上5000フィートの高度で気圧スイッチが動いた。爆弾の外殻が空気をつんざく音がごうごうという衝撃波音に高まっていたが、まだ下界では聞き取れなかった。
 地上では圓山和正係長が、毎朝出勤前の決まりどおり粟屋市長を迎えに市長邸へ向かっていた。

 圓山和正係長は爆心地から約1マイルのところで、石の柱のそばに投げ出された。彼が我に返る頃には、【巨大なきのこ雲】が広がって日光がすっかりさえぎられ、広島は暗闇に包まれようとしていた。圓山係長はよろよろよろめきながら家へ帰ったが、その途中のことは何も覚えていなかった。
 圓山係長の倒れていた場所から遠くない場所には、彼が忠実に仕えていた粟屋仙吉市長がいた。市長邸は倒れて、火に包まれていた。粟屋市長と14歳の息子と3歳の孫とは即死であった。夫人と令嬢はあとで亡くなった。圓山係長はその翌日、元気を取りもどすと、まだくすぶっている市長邸の焼跡へ行って、市長の遺体を掘り出した。

 ★謀殺された徹底抗戦派・戦争終結反対者たち   <了>

  続く。 


  ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 ★生者と死者と、あるいは賢者と愚者と 


 畑俊六の「畑俊六日誌」が『統・現代史資料4・陸軍』(1983年)に所収されている。その中に「原爆を経験す」という1文がある。抜粋して記すことにする。

 原爆を経験す
 余は昭和20年4月7日愈々本土決戦の体勢を採る日本本土にニケの総軍ヲ設けられし際、杉山元(元帥)と共に第二総軍司令官を拝命し、参謀長・若松只一中将以下幕僚を帯同して14日任地広島に到着したり。不取敢(とりあえず)旅宿吉川旅館に入りたるが到底長く宿屋住まいも出来ざれば、所々物色の果、広島県多額納税貴族院議員たる松本勝太郎の住宅が市の東郊二葉山の麗にあり、青松の間に建てられたる新築にして、総軍司令部にあてられたる旧騎兵第五聯隊兵舎より3、4百米過ぎざる近距離に過ぎざりしかば、同氏の好意によりこゝを借り受けることとなり、5月11日にはチヨも東京より来り移りたり。・・・

「松本勝太郎」と文中にあるのは、松本俊一外務次官の父親である。
 畑俊六元帥でさえ、原爆がどの程度のものであるかを具体的には知らなかったと思える。俊って、爆心地からかなり離れていても爆風に驚いたことは間違いのないところである。原爆投下当時の模様を次のように書いている。

 ・・・爆裂1発落雷の如き物音を感じたりしに、屋根瓦は殆ど落ち家中のガラスといふガラスは1枚残らず粉砕せられ、輝子は瓦の為手足に負傷し、チヨは幸ひ怪我はなかりしも顔と胸部に火傷を負ひたり。余は家の内部にありし為か微傷一つ負はず、千賀子も落ちたる梁に畳1枚浮き上りてこれに引かかりたる其の下にこれまた頭に少しばかりの擦り傷を負ひたるのみにて泣き出したればチヨは直に駈けよりて抱き起したり。・・・

 畑元帥が「余は家の内部にありし為か微傷一つ負はず」とあるは、さすがに武士の鑑だけのことはある。彼はそのとき、何をしていたのか。宍戸幸輔は『広島・軍司令部壊滅』の中で次のように書いている。

 ・・・官邸は、二葉山の麗の東照宮西側にある松本代議士の別荘が当てられていた。
 高い石段を息せき切って上ると、司令官は軍装に身を整え、庭に椅子を持ち出し、軍刀を杖がわりにして、眼下に炎上する市街を見下ろしながら、しばらくは無言であったが、やがて「この状況を中央に報告するように」と一言命じられただけであった。・・・

『エノラ・ゲイ』には次のように書かれている。

・・・畑元帥は菜園の手入れをすませ、神棚に向かって手を合わせ、通信会議へ出るために衣服を着がえようとしていた。彼は頭上の敵機には気づかなかった。・・・

『エノラ・ゲイ』の著者は「彼は頭上の敵機には気づかなかった」と書いているが、畑元帥は間違いなく、原爆が8時15分に落ちることを知っていたのである。大屋中佐と前夜の宴会の席で慌ただしく話したこともそれを証明していよう。読売新聞社編『昭和史の天皇』から引用する。

 ・・・そうこうしているうちに、つぎつぎと報告がはいってきた。まず第二総軍首脳部がどうなったか。橋本正勝作戦主任参謀の話を続けよう。
「畑軍司令官は爆心点からかなり遠く離れていたので、家には被害があったが、ほとんどケガされていないという。しかし岡崎清三郎参謀長と真田穣一郎参謀副長は相当の負傷をされた、生命には別条ないということだった。それで一応はホツとしたが、もう一つ心配したのは、教育参謀をしておられた李殿下の行方だった。
 当時、殿下は広島から2つ西側の駅がある己斐に仮御殿があり、そこから総軍司令部へお通いだった。妃殿下は京城におられたので、われわれ参謀部のものは、戦況からみて、早く妃殿下をお呼びしなくてはいけないなあと、寄り寄りに話していたものだった。〔中略〕戦前、戦中は、皇族とは大変に貴いものであり、われわれもいい意味でだが、いろいろと気を使っていたものだ。〔中略〕
 この日、殿下はいつものように2人の乗馬の護衛憲兵をしたがえて、ちょうど市の中央にある福屋デパートの横にきておられたのだそうだ。そこは爆心地からわずか1ブロック半ぐらいの近さだった。総軍司令部は大打撃をうけたが、その混乱の中でも、殿下の消息が皆目わからないので、徹底的に捜査するように下命するとともに、宇品の船舶司令部にまで命じ、舟艇を出して各河川も捜索させた。ようやく夕方になってこの舟艇が殿下を発見したのだ。
 殿下は馬から飛ばされ徒歩で近くの相生橋までこられたが、体力が尽きたのか、相生橋の橋ゲタの下にうずくまるようにして避難されていた。おそらく軍人の直感として、火だから水、と反射的に橋の下にはいられたのだろう。直ちに船で似島(にのしま)にある海軍病院に収容、手当てを加えたが、この間、吉成中佐は責任感というか、焦燥感というか、そばでみていることが出来ないほどだった。・・・

 吉成中佐は責任をとり自殺した。橋本正勝は続けて、「殿下の遺骸は直ちに総軍機で白石警備参謀がお供して、京城の自邸へお運びしたのだった。そして白石参謀は京城から帰って、こんどは畑元帥のお供で上京、たまたま親類にあたる森近衛師団長をたずねていたところへ、入ってきた反軍の将校に殺されたのだ。白石参謀も気の毒な人だった」と書いている。
「畑俊六日誌」の続きを読んでみよう。

 ・・・片山大佐参謀は歯の治療にて陸軍病院に赴く途中遭難して行方不明となり、又この直前支那より転勤せられたる参謀・李殿下は己斐の宿舎より出勤の途中遭遇して一時行衛(ママ)不明なりしが、似島検問所に収容せられたることを夕刻に至り承知したるが、翌日未明逝去せられたるは悼ましき限りなりき。・・・

 私は、畑元帥と大屋中佐が生者と死者を選別していた、と思えてならない。片山大佐は参謀といえども傍受室の情報を受けていなかったと思われる。前夜のあの宴会の場面を思い出してほしい。『エノラ・ゲイ』に「片山二良大佐参謀と、李公殿下とは、控え目に飲んでいた。片山大佐は明朝8時に歯医者にいくことになっているので、酒を飲むとよくないからだと説明した」と書かれている。この記事の中に『エノラ・ゲイ』の著者は、生者と死者の明日の姿を見事に描き切っているのではなかろうか。なお、その文章の前になんとも不気味な文章があるのだ。
 ・・・ 大屋中佐は、今夜の宴会に来ている客の中で、明日二日酔いで出て来るのが何人ぐらいいるかなと思った ・・・ 

 私は、片山大佐は畑元帥、大屋中佐から情報を与えられていなかったと思う。あの傍受室と、鯉城の傍の二世の女性ばかりの傍受室も、畑元帥と大屋中佐のみが支配、情報を参謀第二部の有末中将にのみ流していたと思っている。情報が片山大佐に伝わっていれば、彼は宴の席で「明日は歯医者にいく」とは決して言わないであろう。李殿下も知らされていなかった。だから、原爆投下時に、爆心地近くで被爆したのである。多くの第二総軍の人々は、二葉の里にいたから助かったのである。新任の岡崎参謀長も重傷を負っている。彼もまた、畑元帥から知らされなかったとみる。
「畑俊六日誌」を続けて読む。

 ・・・余が家は新築なれば倒潰(ママ)はせず、爆発方向に大部傾きたれど固より雨露を凌ぐに足れば、之を開放して大塚夫人及子息令嬢、獣医部長夫妻、参謀長などに開放したり。大塚惟精氏は行政協議会長(広島方面の監察官〔中国地方総監〕として知事の上にあり)広島市に赴任し来り、爆撃の前々夜など知事(高野源進という会津人なり)、参謀長、大塚氏など会食したる程なりしが、当日は官邸の倒潰と共に梁木に圧せられ夫人等も之を救出するに由なくみすみす焼死されたるは誠に気の毒に堪へざる次第なりき。高野知事も当日は恰も出張中にて災難は免れたれど、夫人を喪ひ、又中国軍司令官・藤井洋治中将は家族と共に師団長官舎にありしが、爆心地が其の直上なりし為痕跡も止めず飛散したり。・・・

 大塚惟精(行政協議会長)は原爆投下日時を知らされていなかったがゆえの爆死であろう。また、中国軍司令官である藤井洋治中将とその部下たちを入れた数万人は、第二総軍の傍受室の情報を一切伝達されていなかったから、これも当然の爆死である。大塚惟精と藤井洋治は「原爆殺し」に遭ったのである。
 問題は高野源進という県知事である。彼は運よく生き延びた。しかし、夫人は官舎で爆死している。私はこの高野知事が何か緊急の事態があり、出張したのかを可能なかぎり調査した。しかし、その出張の内容が全く分からない。NHK出版編『ヒロシマはどう記録されたか』(2003年)には次のように書かれている。

・・・袋町小学校の友田さんや広島女子商業の笹森恵子さんたちが、被爆後最初の不安な夜を過ごした比治山のふもとに、多聞院がある。この多聞院は、県庁が空襲を受けた際の避難所に指定されていた。しかし、指定の順番は6番目になっていた。第1が市役所、第2が本川国民学校、第3が福屋百貨店、そして次が商工会議所、安芸高等女学校となっており、この5番目までがすべて壊滅し、ただ1つ残された避難所が、6番目のここ比治山多聞院だった。県知事高野源進はその目業務で福山に出張をしており、難を逃れた。彼は広島全滅の知らせを受けて急遽広島に戻ろうとしたが、動きがとれなかった。なんとか列車、車を乗り継いでここに到着したのが、午後6時半だった。・・・

 私は高野知事が原爆投下の日時を畑元帥か大屋中佐から知らされて、逃げたと思っていた。そのアリバイエ作を業務の内容に求めたが失敗だった。ほぼ、断念しかけていた。

 ・・・当時県庁には7百人近い職員がいたが、ほとんどの人が被爆死していた。幸運にも助かった職員が何人か集まって、県の防空本部、つまり臨時の県庁がこの多聞院に開設されたのが夕方5時を過ぎていた。
 この夜、多開院に集まった1人、太宰博邦さんは、当時特高警察課長をしていた。人々に怖がられた肩書きを気にして、広島での体験についてほとんどマスコミの前では語ることがなかった大宰さんが、初めてドキュメンタリー「爆心地の夜」の証言者として、生放送のマイクの前で話をしてくれた。太宰さんは、その後官僚の世界で階段を上り詰め、厚生事務次官を務めた後、そのときには社会福祉協議会の副会長という重責を担っていた。
 大宰さんは、あの日のことを次のように語る。

 「じつは、私はあの日の直前まで東京に呼ばれて行っていたのです。『いよいよ本土決戦になると、中央との連絡が絶えるだろうから、それぞれにやってくれ』という命令を受けて、自宅に帰り着いたのが、ちょうど被爆の1時間前なのですね。それで横川(爆心地から約1.5キロ)の家で被爆し、県庁のある東のほうは真っ暗なので、比較的明るい北の可部のほうに向かって逃れていきました」

 それでは、私が解いた謎について記すことにしよう。推理小説風に書くが、真実であることにかわりはない。

  - 畑は嘘をついている。「前々夜など知事、参謀長、大塚氏など会食したる程なりしが」は、間違いなく、前夜、すなわち原爆投下の前日の夜である。畑は嘘をつかなければならない、と心の中に思い続けていた。そして、この前夜の宴に参加し、生き残った少数の者たち(ほとんどが「原爆殺し」に遭った)に、この夜のことを喋ってはならぬと厳命した。だが、『エノラ・ゲイ』の著者2人はたまたま粟屋市長のことを調査中に、この夜の宴を知った。
 もう1つ、畑は嘘をついている。「高野知事も当日は恰も出張にて災難は免れたれど」ということである。『ヒロシマはどう記録されたか』の中にも「県知事高野源進はその日業務で福山に出張をしており、難を逃れた」と書かれているが、これも嘘をついている。

では、真実は何処にありや、である。答えはいたって簡単である。県知事高野源進が「広島全域の知らせを受けて急遽広島に戻ろうとした」の中に明確に書かれている。高野は8時15分に福山にいた、とこの文章は読み取れる。高野は業務で8時15分、福山にいた。そこに知らせが入った。だが動きがとれなかった。それで列車、車を乗りついで帰った。午後6時半であった・・・。

 高野は5日の夜遅くまで酒宴にはべっていた。午後6時から出席者がやって来たとあるから、いくら早く始まったとしても、7時ごろであろう。『エノラ・ゲイ』には、宴席にあまり気がすすまず、静かに酒を飲む人々が描かれているが、高野はその中には入っていない。宴の席で畑や大塚や藤井たちとはしゃいでいたのであろう。ということは、高野はどうして翌朝の8時15分に福山にいられたのかということになる。もし、福山にいたとすれば、陸路で百数十キロ離れた福山(岡山県との県境にある都市)まで夜中にどうして移動できたのか、という問題が生じる。
 とすると、高野は密かに第二総軍の車に乗せられ、偕行社の宴会場から福山に連行されたと考える以外になかろう。そして、福山で、広島への原爆投下の通告を受けたのである。それゆえ、彼は彼の妻にも連絡がとれず、残された彼の妻は、畑が書くように「高野知事も当日は恰も出張中にて災難は免れたれども夫人を喪ひ」という結果となったのである。
「なんとか列車、車を乗り継いでここ〔比治山多聞院〕に到着したのが、午後6時半だった」と書かれているのにも注目したい。被爆当日の混乱のなかとはいえ、福山から10時間もの行程である。宴会の当夜には列車の運行は休止されている。高野は間違いなく、車で夜中を福山に向かって行っている証拠が、この文章の中に明らかにされている。

 では、どうして高野が助けられたのか。それは、原爆投下後の混乱を収拾するためであった。粟屋市長が本当は適役であった。しかし、畑は粟屋市長を嫌悪した。それゆえ、粟屋は「原爆殺し」の犠牲者となった。

 『ヒロシマはどう記録されたか』からの引用の後半部を読んでほしい。太宰博邦特高警察課長について書かれている。破もまた「原爆殺し」を免れた1人である。否、正確に書くなら、「原爆殺し」の共犯者の1人である。アメリカの捕虜を尋問したのがこの太宰課長である。この太宰がアメリカ兵を尋問し、アメリカによる原爆投下の詳細を大屋に伝えたのである。彼もまた、高野と同じように難を逃れた。どうしてか。憲兵隊本部は爆心地近くにあり、ほとんど全員が爆死したのである。爆心地から約1.5キロの自宅にいて、割れたガラスの破片が頭部に飛んできて軽傷を負った。しかし、彼はぎょうぎょうしく頭部を包帯に包んで原爆患者を演じてまわるのである。彼の次の言葉が、「原爆殺し」の何たるかを物語っている。

 ・・・「じつは、私はあの日の直前まで東京に呼ばれて行っていたのです。『いよいよ本土決戦になると、中央との連絡が絶えるだろうから、それぞれにやってくれ』という命令を受けて・・」

 8月初旬、本土決戦の兆しは全くない。オリンピック作戦は計画が承認されたが、マッカーサーとニミッツは、一休止していた。九州の軍司令部もなすことなく、兵土たちに、ひたすら墓穴を掘らせていた。間違いなく太宰は大屋と同行している。しかし、大屋は一足はやく広島に帰らなければならなかった。有末中将、そして有末の上司たちとの会談の結果を畑元帥に伝えなければならなかったからだ。
 第二総軍の畑元帥、広島県知事の高野源進、特高警察課長の太宰博邦のトップ3人はかくて無事であった。彼らは多聞院にその8月6日の夜に集い、原爆処理対策を練ることになる。その対策を大屋中佐が有末中将と有末の上司から頂いて、広島に持ち帰ったのである。

 次に1945年8月7日に出された「知事諭告」を記すことにする。この諭告の中に、「原爆殺し」の主犯たちの思想が見事に表現されているのを読者は発見するだろう。
 広島県編集・発行の『広島県史 原爆資料編』(1972年)からの引用である。

1.左ノ布告文ヲ60枚宛各所二配布掲示セリ
イ、知事諭告
今次ノ災害ハ惨悪極マル空襲ニヨリ我国民戦意ノ破砕ヲ図ラントスル敵ノ謀略二基クモノナリ広島県民諸君ヨ 被害ハ大ナリト謂モ之戦争ノ常ナリ 断ジテ怯ムコトナク救護復旧ノ措置ハ既二着々ト講ゼラレツツアリ 軍モ亦絶大ノ援助ヲ提供セラレツツアリ 速二各職場二復帰セヨ 戦争ハ1日モ休止スルコトナシ 一般県民諸君モ亦暖カキ戦友愛ヲ以テ羅災者諸君ヲ労リ之ヲ鼓舞激励シ 速カナル戦列復帰ヲ図ラレ度シ
本次災害二際シ不幸ニシテ相当数ノ戦災死者ヲ出セリ 衷心ヨリ哀悼ノ意ヲ表シ 其ノ冥福ヲ祈ルト共二 其ノ仇敵二酬ユル道ハ断平驕敵ヲ撃砕スルニアルヲ銘記セヨ 我等ハアクマデモ最後ノ戦勝ヲ信ジ凡ユル艱苦ヲ克服シテ 大皇戦二挺身セン
 昭和20年8月7日   広島県知事 高野源進

さすがに宴会から逃げて深夜に福山に運行されて命拾いした県知事だけに、第二総軍好みの文章となっている。たぶん、高野源進は彼の妻や一族の叫ぶ、「原爆殺し」のメロディを心の中で聴きつつ一生を終えたことであろう。「大皇戦二挺身セン」の1分を読むと、これは第二総軍から与えられた作文の可能性が強い。どうしてか? 大皇戦とは、天皇のために、天皇を守る戦争を意味するからである。神であらせられる万世一系の神が民草である広島市民に天皇のためによくぞ犠牲になられた、という意味がこの「大皇戦」に込められている。

 畑俊六の『巣鴨日記』(1997年)が1992年に復刻出版された(『元帥畑俊六獄中獄外の日誌』)。その中に「第二総軍終戦記」が入っている。第二総軍の設立過程から原爆投下俊までの状況を畑俊六は書いているが、ここでは省略する。8月14日、畑俊六は、「10時より参内、御前にて永野、杉山両元帥と共に言上す」と書いている。以下、天皇の御下聞に対する畑元帥の奉答を記すことにする。

 ・・・次に余は、〈広島にありて中央により遠ざかりありをしを以て、昨今の情況も詳如せず、しかしながら、現在担任して居る正面の防禦に就ては遺憾ながら、敵を撃攘すると云う確信はありませんと申し上ぐる外はありません。国策としてポツダム宣言を受諾することに決しました由洩れ承りますが、斯かる場合に於きましても、極力交渉を続け少くとも十ヶ師団の兵力は親衛隊として残置する様、努力の要ありと存じます。〉との要旨を言上したり。・・・

 畑、永野(修身)、杉山、3人の元帥は奉答のあと、天皇より次のような御言葉をいただいたのである。畑の記している、聖上にして神なる陛下の御言葉は以下の如しである。
 
 ・・・〈更らにこのまま戦争を続くるに於ては、形勢益々悪化し、遂に国家を救済することを得ざるべし。★皇室の安泰については敵側もこれを確約しあり。
 天皇を武装解除の為に利用するといふ敵の言論は放送なればこれを信ずべからず。皇室の安泰は大丈夫なり、心配なきことと思ふ。
 国体に関し大権云々といふことは治外法権の如きを指すものにして、不戦条約の文句より見るも、米国の如き国体にしては到底了解し得ざる処なり。忠良なる軍隊を武装解除し、又嘗ての★忠臣を罰するが如きは忍び難き処なるも、国を救ふ為には致し方なし。武装解除、保障占領等細きことは、何れ休戦条約にて決定さるべきものにして、今より直ちに細き条件を出すことは、却って状況を益々不利に導き、成立せざることとなるべし。
 心事は、明治大帝が三国干渉により遼東半島を還附せられたる時と同様なり。実に忍び難き処なるも、深く考へたる夫決定したるものなれば、これが実行に元帥も協力せよ〉・・・

 この3元帥が天皇の御下間に奉答した後から、いわゆる「日本のいちばん長い日」が始まるのである。若手将校による1種のクーデターである。そして、畑悛六に同行した白石参謀は、森近衛師団長とともに惨殺されるのである。彼ら若手将校や第二総軍の兵士たちが掲げたスローガンは「国体を護持せよ」であった。「天皇危うし!」である。しかし、天皇は「皇室の安泰については敵側も確約しあり」と3元帥に断言している。

 私はこの畑の書いた8月14日の日記を読みつつ、★天皇はスティムソンから秘密のルートで貰った手紙をそのまま読んでいるのではないか、と思ったのである。天皇は8月15日以降のアメリカ側の〈予定表〉を語っていると思ったのである。原爆についても畑に尋ねていると思うが、畑は記していない。
「天皇を武装解除の為に利用するといふ敵の言論は放送なれば」、「この点は心配しなくてもよい、安心していなさい」とスティムソンが天皇宛の手紙で書いていそうな気がしてならないのである。
「国体に関しても・・到底了解し得ざる処」であることは「スティムソン個人として十分に理解しているから安心していて下さい」というように読めてくる。
「忠良なる軍隊を武装解除し」て下さい、「忠臣を罰するが如きは忍び難き処」でしょうが、アメリカ国民の心も理解して下さい、武装解除をしていただければ、占領軍が日本本土に入りますが、「保障占領」いたしましょう・・そして「何れ休戦条約」を結びましょう・・と書かれていたと思うのである。

 スティムソンは、どうしてこうも天皇に★やさしい条件を授けたのか。その答えのうちで最大の理由は、原爆投下を日本が認めたからであった、というのが私の結論である。原爆投下というアメリカの【仕掛け】を、日本が。【受け入れた】のである。

 もし、原爆投下の前に、天皇が降伏宣言をしていたら、原爆投下もなかったのである。そうすれば、スティムソンはロックフェラーやモルガンや国際金融寡頭勢力を裏切ったことになるのだ。天皇よし、スティムソンよし、ロックフェラーよし、モルガンよし・・・。しかし、広島と長崎の人々にとっては最悪であった。「原爆殺し」の歌が21世紀の今日でも聴こえてくる。その歌の正体を見究め、これを封じ込めなければならない時が来つつある。
 

   ★生者と死者と、あるいは賢者と愚者と  <了>。

   続く。
 




●原爆投下(3)
 ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 ★日本進攻計画と第二総軍との「不可解な暗合」 


 アメリカの日本本土攻撃へ向けての道程と第一総軍(関東)と第二総軍の設立およびその動向が同一進行を辿っていくのも不思議なことである。スティムソンの意向が見えてくるように私には思えてならない。

 スティムソン陸軍長官の1945年6月18日の「日記」を記す(一部は「国外篇」に記載した)。

 前略
 S-1問題〔原爆計画の暗号名】の進捗状況について、グローヴズ将軍およびハーヴィ・バンディとも短時間の話し合いをもった。午後3時30分にホワイトハウスに出かけ、大統領と参謀総長(複数)との非常に重要な会談に同席した。参謀総長のほかは、フオレスタルとマックロイと私だけが同席した。参謀総長(複数)は、対日作戦計画についてそれぞれの見解を述べた。大統領の求めにより、私は軍事計画とは関係のない政治的大問題、つまり、われわれが、日本の将来の営みについて合意に達しうるような自由主義的な気質の層が日本国民のなかに存在すると考える根拠があるのかどうか、という点について意見を述べた。私は、日本の指導者の1部と私との関係について簡単に説明したうえで、他日、機会を改めて私の見解をもっと詳しく述べたい、と大統領に言った。

 この日記が記されたその日に、トルーマン大統領と軍首脳との対日戦略会議が開かれて、マーシャル陸軍参謀総長が「対日軍事作戦」の詳細を発表した。以下は『資料マンハッタン計画』の「資料197 トルーマン大統領と軍首脳との対日戦略会議」からの引用である。

 ・・・マッカーサー元帥とニミッツ提督は、参謀総長に同意し、九州進攻の目標期日として11月1日を選んだ。〔中略〕
 九州作戦は封殺戦略を進めるうえで欠かせないものであり、★沖縄に続いて作戦対象とするに値し、最も犠牲が少ないものと思われる。基本的な点として、日本に対する封鎖と爆撃による締めつけを強めるとともに、東京(関東)平野への侵攻によって降伏を余儀なくさせるには、九州に拠点を確保することが不可欠である。・・・

 このマ-シャル参謀総長の発言が正式に認められ、6月29日に日本進攻作戦が策定されマッカーサーとニミッツに伝達される。これが通称「オリンピック作戦」といわれるものである。
 私は第一総軍と第二総軍の設立は、このオリンピック作戦を見越してなされたものではないかと思えてならない。スティムソンの日記の中にある「軍事的計画とは関係のない政治的な大問題」に注意しつつ、この日記を読むと、その繋がりが見えてくるような気がしてならないのである。
 スティムソンは原爆を日本に確実に落とす、という約束をロックフェラー、モルガン、イギリスの金融界の面々としていた。そこでスティムソンは、原爆(ウラン爆弾とプルトニウム爆弾)が完成するまで戦争を延ばさなければならなかった。
 スティムソンはマーシャルに話をもちかけ、オリンピック作戦をつくらせた。そして、この計画をグルー(国務次官、元駐日大使)のルートで、「日本の指導者の1部」に伝えた。それには「日本の将来の営みについて合意に達しうるような自由主義的な」、彼らを喜ばせるプレゼントを用意したうえでのプロポーズが添えられていた。
 スティムソンはこの会議の翌日、グルーとフォレスタル海軍長官との3者会議をしている。その日の日記、「1945年6月19日」を見てみよう(1部は「国外篇」で既に引用した)。

 ・・・1945年6月19日(火)
 最後の最後まで戦うことなく日本に降伏を決定させる何らかの方法を見いだすべきであると、だれもが考えていることが、きょうの議論のなかできわめて明らかになり、そして、それが今日の議論の主題だった。グルーは、この問題について彼がさきに大統領に提出していた報告書を読みあげたが、そのなかで彼は、沖縄が陥落したらただちに新しい警告を日本に対して発することを強く主張している。しかし、明らかに、この主張は、近く予定されているチャーチルおよびスターリンとの会談に関する大統領の計画には適合しない。私が決めている唯一の期日は最後の機会としての警告(を発するとき)であり、それは、地上軍が実際に上陸する前に出さなければならない。幸いにして、今の計画では、われわれの警告には根拠があるのだということを、通常爆撃による猛爆とS-1による攻撃という形で(日本側に)わからせるための十分な時間を見込んでいる。・・・

 この文章を読むと、スティムソンとグルーがフォレスタルに日本側との交渉について語っているということが理解できよう。
 スティムソンはフォレスタルに次のように語って聞かせているのである。

 ・・・私は、日本の指導者の1部とグルーを通じて交渉している。昨日、マーシャルが、対日侵攻計画について語ったが、あれはあくまでも表向きの計画だ。マッカーサーとニミッツには、とことん戦争を継続しろと言うのが目的だ。どうしてもポツダム会議までは、時間を稼がねばならない。トルーマンは会議を7月15日以降に延期してくれた。プルトニウム爆弾は実験を要するということになったからだ。そこで、日本側に提案したんだ。「通常爆弾による猛爆とS-1による攻撃という形でわからせる」べく、グルーが説明書を送ったのだ。これには時間がかかった。★日本側がやっと納得した。それで、第一総軍と第二総軍に、それらしく行動させるということになったんだ。★この両総軍の設置も私の意向によってできたんだ。グルーが、原爆投下計画書を日本に送りつけたのはルーズヴェルトが死ぬ前だった。(フォレスタル海軍長官の)子分のザカリアスが日本向け放送をすることになり、ルーズヴェルトが無条件降伏の意味を訂正するらしいことが分かった。ルーズヴェルトは“尋常ならざる時”に死んだんだよ。
 私とグルーは彼らが第一総軍と第二総軍を設置したときに(4月1日)、日本が降伏をする決心をしたとふんだんだ。それで、第二総軍の傍受室にテニアンからの情報を流し続けた。★彼ら畑と大屋には、正式以外の情報をチェックし、これを封じ込めろと、特に命令していたのだ。これは今の
ところうまくいっている。「幸いにして、今の計画では、われわれの警告には根拠がある」ということを理解してくれただろうか。「私が決めている唯一の期日」はポツダム会談の最後の日が近づいた時だ。それは日本上陸作戦の前なのだ。★プルトニウム爆弾次第だ。この爆弾の完成が遅れたら、トルーマンは無条件降伏を日本に迫る宣言は出さないことになっているんだ。

 第二総軍の設置とアメリカ軍の侵攻計画の符合性について書いている本がある。前章で引用したNHK広島放送局原爆取材班の『原爆搭載機「射程内二在リ」』である。

 ・・・米軍との決戦に際しては、各地の日本軍との連絡が寸断され、孤立する可能性が大きくなる。そこで、東京・市ケ谷に東日本の全軍を指揮する第一総軍司令部がおかれることになった。
 第二総軍の長官は、畑俊六大将、本部は二葉の里となった。
 九州を主戦場とするならば、広島は後方基地となる。原爆の完成という新事態を勘定に入れなければ、恰好の本土決戦本部と目されても仕方がなかった。
 アメリカ軍の日本侵攻計画は、こうした大本営の読みと驚くほど符合している。

 「驚くほど符合している」のは当然であり、驚くほどのことはないのである。これが、スティムソンが「われわれが、日本の将来の営みについて合意に達しうる」べく「自由主義的な気質の層」を通じて、共同で作戦計画を練りあげた結果なのである。だから、第二総軍の畑元帥と大屋中佐は、原爆投下のニュースを封じ込め、広島市民が大量殺戮されるのを「黙殺」したのである。続けて読むことにしよう。

 ・・・アメリカ軍がオリンピック作戦を練っていく一方、日本軍は本土決戦の体制を整えつつあった。このため創設された第二総軍をはじめとして、広島への各部隊への集中は凄まじいものがある。〔中略〕
 市民が郊外に疎開していくなか、大勢の軍人、軍属が流入してきた。広島はまさに「軍部」の実質を備えていた。8月6日当日、どれほどの軍人がいたのか、さかんに部隊編成を行っていたので正確な数は分かつていない。ただ一説には、軍関係者は8万人にものぼるという推計がある。・・・

 この8万人にものぼる軍人たちが、8月6日にほとんど被爆死するのである。生き残ったものは、ごく少数である。これには理由がある。彼らのほとんどは、原爆投下中心地からごく近いところにいたからである。死者が出なかったのは(出てもごく少数)第二総軍司令部のみである。この8万にのぼる軍人たちに、畑元帥と大屋中佐は原爆投下の情報を全く知らせず、それのみか、巷間に洩れてくる原爆投下の情報まで封印してまわったのである。まだそれ以上に悪しきことがある。先に『エノラ・ゲイ』を引用したが、アメリカ爆撃機の空襲の情報を完全に知りながら、そのただ1つとして、軍にも市民にも伝達しなかったのである。NHK原爆取材班の本を読み続けよう。

 ・・・昭和19年、広島県食糧営団経営の「雑炊食堂」や海草などを入れて、2合5勺に水増ししている。それでも、雑炊食堂には、市民が長蛇の列を作って順番を待っていた。
『はだしのゲン』などで原爆を告発する漫画を描き続けている中沢啓治さんも、この列に並んでいたひとりだった。当時6歳識。両親と姉、弟の5人暮らしであった。
 中沢少年の毎日は、飢えとの闘いだった。「白米のご飯を腹いっぱい食べられたら最高の幸せと思い、夢の中でも白米のご飯がちらつく」日々だった。飼い猫が魚をくわえて家に帰ってくると、それを横取りしようと弟と2人で追いかけ回したこともある。〔中略〕
 これが、軍部広島に生きていた子どもたちのまぎれもない実像だった。

 この本の中に、「市民の間では、『食いのばし』ということが日常化されてきた。乏しい配給に、雑穀や草などで水増しして、少しでも長く食いつないでゆくという悲しい生活の知恵であった」と書かれている。こうしたなかに原爆投下が近づくにつれて、軍人たちがあふれてくる。その軍人たちの調達を命じたのは第二総軍司令官・畑悛六元帥であった。
 彼は何を考えて、「食いのばし」の生活をしている広島市に数万の軍人(ただ軍人に仕立てられただけの赤紙による召集兵)を入れたのか? 私はその答えを少しは書いた。しかし、書き足りていない。その答えをもう少し具体的に書くことにしよう。 
  続く。


  ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 ★発令されなかった警戒警報  


 宍戸幸輔の『広島原爆の疑問点』(1991年)を読むことにしよう。彼は1945年(昭和20年)、陸軍大尉として第五十九軍司令部参謀部で総動員班長を務めていた。同年8月6日、広島で被爆したが奇跡的に助かった。

 ・・・政府は、日増しにアメリカ空軍の本土空襲が熾烈を極めるようになったので、沖縄本土放棄の6月20日に至り急遽、余りにも広範囲にわたる「中部軍管区」から「中国軍管区」と「四国軍管区」を分離し、「中国軍管区」を第五十九軍司令部(広島)に、「四国軍管区」を第五十五軍司令部(高知)に担当させることになったのである。〔中略〕
 どうしたことか、第五十九軍司令部には従来通り、参謀長・松村秀逸少将(32期)の下に、作戦参謀・細井実中佐(39期)と後方参謀・青木信芳少佐(46期)の外に、着任早々の参謀・遠藤正美少佐(52期)の同名しか発令されなかったほどの弱体の指揮系統のままであった。
 その他、頻繁に来襲する強力な米爆撃大編隊に対抗する兵備といえば、第二総軍専用の小型輸送機と若干の高射砲部隊が配備されている程度であるから、いち早く適切な「警報」を発令して、その被害を最小限度に止めるのがせいぜいであるという状況に追い込まれていた。
 しかも、問題の「警報・発令業務」であるが、隣の中部軍管区司令部の参謀陣は、16名、西部軍管区司令部は20名、同格の四国軍管区司令部にも11名というのに、中国軍管区司令部には、実際に活躍できるのは細井参謀と青木参謀の2人きりであって、それも多忙なかずかずの任務を兼務していたのであるから、防空業務が疎かにならざるを得ない。・・・

 この文章を読んでみても、軍人ばかりを広島に入れて、防空業務を疎かにした第二総軍の遠謀が見えてくるのである。続けて『広島原爆の疑問点』を読みすすめてみよう。

 ・・・次に、防空作戦の基礎になる敵機襲来の重要な情報をどのようにして取得していたのか、という点であるが、これまた誠に貧弱な情報・伝達体制であったというべきであろう。中国地方の約百ヵ所に「対空監視哨」」なるものがあって、そこから逐次軍用電話で情報が司令部内の片隅にある地下壕の防空作戦室に伝達されてくることになっていた。しかし、情報伝達元のそれぞれの「対空監視哨」に勤務している要員は、正規の男子警防団員の大巾欠員を埋めるために、女子供や老人なども加わらねばならず、必ずしも適格者ばかりではないのが殆どであり、その上、その軍用電話を受ける方も女学校3年の少女達というのであるから、どう考えてみても、絶対に安心できる状態とはいえないのである。・・・

 私は先に『エノラ・ゲイ』中の第二総軍の通信指令室の記述を引用した。
 「広島のほうがテニアン島より1時間遅かった」と書いた。また、「モニターはその夜空襲のあることを知りえた」と書いた。そして、「空襲にやってくる敵機の数をおおよそつかむことができた」と書いた。モニターはその報告を上司に渡し、上司はそれを通信司令室へ送り、そこから西日本全土の防空組織へ情報が流された」とも書いた。「それだけのことがわずか数分間でできた」とも書いた(「第一章」30頁参照)。
 『エノラ・ゲイ』の著者ゴードン・トマスとマックス・モーガン・ウィッツは広島に取材に来ている。しかし、彼らは『広島原爆の疑問点』の著者宍戸幸輔に会ったのだろうか? たとえ会っても、宍戸幸輔が証言していることは書けなかったであろう。
 宍戸幸輔は悔恨の思いを記している。

 ・・・そのなかでも、★最も重大な欠陥は「警報発令」の全責任を持っている参謀が、連日連夜の激務に忙殺されていて気の毒なほど疲労困憊し、軍医からも絶対静養を命ぜられていた、という極めて悪条件下にあったということであるから、的確な作戦指導行為のできないのは当然であった。
 そのような〔てんやわんや〕の大混乱な防空体制であったので、「広島・原爆投下」に関する一連の米空軍の作戦行為など殆んど感知することのできなかったのは勿論のこと、次々に敢行してくる奇想天外とも思われる米空軍の作戦に振りまわされて、常に後手後手にまわってしまっていた。―  その最悪な結果を証明しているのが、広島にとって忘れることのできない「原爆投下」の際に、★「警戒警報」ですら発令されていない、という悔いても余りある大失敗を演じてしまったという事実である。

 私は宍戸幸輔が書いていることが事実であるとは最初は思えなかった。「そんな馬鹿な!」という思いを払拭できなかった。しかし、広島で被爆した人々の手記を読むなかで、この宍戸幸輔の書いた手記は真実そのものであると確信するにいたった。第二総軍とは何者の集団なのか? 何のために、1945年4月1日に広島に登場したのか? それを考えさせてくれたのも、彼の本に接したからであった。

  私は広島の古書店で彼の『広島が滅んだ日』(1972年)を目にし、裏表紙を見た。「宍戸幸輔書」と書かれた達筆なサインがそこにあった。何かの因縁を感じた。この本の中には広島城(鯉城)の様子が書かれている。

 ・・・私は松田中尉と一緒に、軍司令部の参謀部に挨拶に出かけることになり、濠沿いの道から北裏門にはいり、美しい広島城の天守閣(鯉城)を岩上に仰ぎ見ながら静かに歩いて行く。正確にいえば、この濠と大石垣に囲まれた約2百メートル四方の高台全体が昔の広島城のあったところで、城趾の西北端にただ天守閣のみが昔ながらの姿を残して、今なお時代と共に変遷をつづけている軍都・広島の全市を睥睨しているのである。天守閣のすぐ下には日清・日露の両戦役の隊、明治大帝のご使用になったという旧大本営の上品な洋館があり、この付近を囲む老樹の林にほとんど人影を見ないほどの静けさである。軍司令部の建物というのは広島城趾の南側の1段低くなっている広場に、2階建て4棟の兵舎風の木造のもので、これも明治以来の由緒ある歴史を秘めたものであろう。
 広島城趾と幅広い濠を隔てて、西側には各々2千名以上の兵力を収容している野砲連隊(西部第六部隊)と輜重連隊(西部第十部隊)があって、数多くの兵舎・厩舎そして兵器庫が広い営庭を囲んでずらりと並び、大田川の左岸までつづいている。・・・

 宍戸幸輔はさらに「この広島城趾を囲むようにして1.5キロ四方の地帯は軍用地区として占有されていることになる」と書いている。この広島城趾の近くに原爆が投下されるのである。そして、万を超える兵士たちが一瞬のうちに屍となるのである。
 彼はまた、第二総軍のことも書いている。

 ・・・比治山は標高60メートルというのであるから、この二葉山〔第二総軍の司令部の基地があった]は市街地に近接している関係上、かなり高く感じていた。二葉山の南山麓一帯は「二葉の里」という名称で呼ばれており、当時からかなりの高級住宅地であった。また、東照宮神社も国前寺も古くから広島の由緒ある名所古跡として有名である。思い出すまでもなく、この急斜面の山道は昔から「高天原」という俗称をもって恐れられた所なのであって、騎兵隊の新兵が乗馬訓練の最終課目として、この急坂路をギャロップで昇り下りさせられる、という恐怖と落馬に勝ちぬかねばならない試練の場所なのである。
 現在は地図をみると、「光が丘」というすばらしい名称に改訂されて、ずいぶんすばらしい所になっている。・・・

 原爆爆心地から千3百メートルの距離とはいえ、第二総軍司令部は山腹にあった。そのため、多少の爆風に見舞われたものの、火災に遭うこともなかった。この司令部にいた将校たちは前述したように、負傷はしたが、ほとんど全員が無事であった。なかには死んだものもいる。この死者については後述する。これは偶然ではありえない。第二総軍が最初から原爆投下を予定して広島に設置されたからであると私は思うのである。それが証拠に私は数々の原爆予告がなされていたことを挙げた。そしてその情報も、原爆機が近づいていることの情報も何1つ、広島軍司令部に伝えなかったことも書いた。
 宍戸幸輔は『広島が滅んだ日』の中で次のようにも書いている。原爆投下直後の広島城を書いている

 ・・・私は1人で司令部裏の石段を登って行くと、いつものこの位置から木の間越しに見えはじめるはずの天守閣の姿がないことに気づいた。天守閣がない! 真っ黒に焼け残った大木が立ち並んでいるだけであって、その向こうにあるべき「天守閣」が見えないのである。考えてみれば、当然すぎるほど当然なことで、広島全市がこれほどの被害を受けているのに、あの天守閣だけが生き残ることができないのは、全く疑う余地もない。〔中略〕
 その石段を登りきったところから、天守閣の付近まで約2百メートルの間に軍司令部のほとんど全員の犠牲者の屍が散乱しているのであるが、その中で軍司令部のすぐ裏にあたる広場付近には3、40名の女学生たちが集まって折り重なるように倒れていたのである。
 この広島では毎朝8時より、約30分全員が集合して朝礼をやることが日常の行事になっており、その行事の最初に高級副官の音頭で「決戦訓」を朗読して、それが終わると戦意昂揚のために将校・下士官は軍刀の素振り、兵員は銃剣術の基礎練習、その中に交じって女子挺身隊の真剣な竹槍訓練が実施されることになっていたのであるが、「午前8時15分」は、ちょう どその訓練を開始したばかりの時間に相当することになる。事実はまさにそのことを証明するように、女学生たちの目を蔽うような屍の傍には、多くの竹槍がそのまま投げ出されており、中にはその手にしっかり青竹が握られている姿も日にはいってくる。・・・

 原爆投下後の惨状は別の項で記すことにするが、第二総軍と広島軍司令部の相違を知ってもらうために、広島城の兵士たちの姿について触れたのである。
 宍戸幸輔は1991年に『広島・軍司令部壊滅』を世に出している。彼は軍の「情報室」の模様を書いている。

 ・・・西側の出入り口に1番近い「情報室」には、比治山高女の3年生90人が3交代で30人ずつ勤務しており、各地区の対空監視哨との連絡に当たっていた。非番の者は、出入り口の前に特別に建てられた木造2階建ての兵舎(半分は各部隊から派遣されている通信兵たちの宿泊場所になっていた)に寄宿していたが、半分はその兵舎内にある研修室で学習に励み、後の半分は外出してわが家に帰ることが許されていた。
 彼女らは「情報室」の2列に並んだ各対空監視哨に直結している軍用電話台の前に待機しており、監視用からの報告を待っている。

 彼女たちは、広島県内にある監視哨から敵機の海が見えた、との報告を受けると「ハイ・・・こちら軍司令部・・・わかりました。復唱します。『敵B29数十機の編隊、○○監視哨上空を通過、北進中』ですね。引き続き頑張って下さい」というだけであった。テニアン島からB29が飛び立つ情報は何1つ、広島軍司令部には伝達されなかったのである。私はこのことを幾度も書いた。それは「原爆殺し」計画が日米の間で極秘裡に進行中であった、という私の仮説を実証せんがためなのである。
 宍戸幸輔は『広島・軍司令部壊滅』の中で「第二総軍も壊滅」と書いている。

 ・・・第二総軍の司令部は、広島城趾の中国軍管区司令部から直線距離にして約1キロ東北の、京橋川を隔てた「二葉の里」にあり、元騎兵隊第五連隊の兵舎をそのまま使っていた。
 第二総軍参謀部通信班の上田忠則少佐は、その日、偕行社で行われる軍・官・民合同通信会議の準備のため、いつもより早く家を出た。7時10分ごろ司令部に着くと、暑かったので個室で一汗拭った後、幹部を集め、任務分担を確認、8時前、各々が部署についた。
 上田少佐はそれから経理室に行き、高級主計と経費の打ち合わせをしたが、東南に開いた窓からは、広島駅の屋根瓦が夏の朝日にキラキラと輝いているのが見えた。
 ・・その時、広島駅全体が強烈な閃光と共にオレンジ色に浮かび上がり・・・

 この後宍戸幸輔は「経理室の天井と壁がメリメリと曲がり、波打つように崩れ落ちるのが見えた・・」と書くのであるが、死者が1人として出た(ママ)とは書いていないのである。また、「営庭に巣まってきた者たちを見ると、みな一様に帽子から露出している部分の髪の毛が焼け焦げて無い。眉もなくなっている。お互い顔を見合わせて呆然とした面持ちだった」と続く。しかし、原爆患者としても、この人々は軽症である。ここにも死者が出たとは1行も書かれてはいない。「通信員のいる兵舎も見事に押し潰され、屋根瓦を載せたまま大地に覆いかぶさっている。まもなく本部や将校集会所あたりから火の手が上がった」と書いている。しかし、この火は消しとめられた。通信員の兵舎は旧い練兵場にあったものを使用していた。司令部は巨大な防空壕の中にあった。前述したが爆風で軽傷を負った幹部はいたが、みな元気であった。

 宍戸幸輔には申し訳ないが、彼は第二総軍が何を企んでいたかを知らなかったのだ。これは致し方がない。この21世紀の今日でも、第二総軍を解明した本は1冊も存在しないのだから。

 「その日、偕行社で行われる軍・官・民合同通信会議」について宍戸幸輔は触れている。

 8月6日、午前9時、陸軍社交クラブ「偕行社」で、西日本各地の司令官が集まり、広島の政・官・民を交じえ合同通信会議が開かれることになっていた。どうして8月6日の9時(8時の予定が延びた)に会議なのか。これは偶然ではない。では必然なのか。これは「原爆殺し」のための1つのスペクタクル・ショーであった。次項で、この会議に的を絞って書くことにしよう。第二総軍司令官、畑悛六が、いよいよ、その正体を読者の前に見せるときが来たのである。
   

 ★NHKスペシャル・「果てしなき消耗戦・レイテ決戦」を観ながら・・・。
 

  『原爆の秘密』国内編 の帯には、

  【日本人による日本人殺し!】 

  それが あの8月の惨劇の真相 痛憤と嗚咽をよぶ昭和驚愕史  とある。

  続く。
   

 



●原爆投下(2)
 『原爆の秘密』国内編 第1章 原爆投下計画と第二総軍の設立

 ★ 第二総軍設立の真の理由に迫る 


 もう1度、ゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』から引用する。第二総軍司令官・★畑俊六元帥の経歴が書かれている。

・・・畑元帥は、日本で最もすぐれた経歴をもち、最も尊敬されている有名な司令官であった。元帥は今日の地位に就くだけの経験と資格を十分に備えていた。今日でもなお天皇の側近の地位にある陸軍司令官の数は少なかったが、畑元帥はその1人であった。1939年には彼は3か月間、天皇の侍従武官長を勤めた。彼の戦歴は抜群であった。日露戦争の時、25歳の青年将校として負傷したのを振り出しに、ドイツ駐在陸軍武官やパリ平和会議代表の地位を経て、1939年陸軍大臣に任ぜられるまでの間、畑元帥はいつも栄誉ある道を歩いてきた。・・・
(★ウィキペディアより、「畑 俊六」の一部を引用する。
・・・1939年(*ノモンハン事件の年)に侍従武官長に就任時も昭和天皇の信任が厚く、「陸相は畑か梅津を選ぶべし」との言葉から侍従武官長をわずか3ヶ月で辞め、1939年8月に成立した阿部内閣の陸軍大臣に就任した。
天皇は温厚で誠実な畑を陸相に据えることで、阿部との一中コンビで日独伊三国同盟や日中戦争での陸軍の暴走に歯止めを掛けると期待されていたが、膠着状態を脱することは出来なかった。・・・
その後、支那派遣軍総司令官となり、1944年に元帥となる。1945年、本土決戦に備えて第二総軍(西日本防衛担当、司令部広島市)が設立されると、その司令官となる。同年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、★国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。・・・)

 畑俊六元帥が稀に見る天皇のお気に入りの将軍であったことを理解しえたであろうか。1941年に50万の兵士を率いて支那派遣軍総司令官を勤める。1944年、日本に帰国すると元帥に昇進する。1945年4月7日、鈴木貫太郎大将が首相に選ばれた2日後に第二総軍司令官に任命される。4月9日、広島の新司令部に赴任した。
 次に読売新聞社編『昭和史の天皇』(角川文庫版、1988年)から引用する。

 ・・・そのころは、軍は決号作戦 ― つまり本土決戦に狂奔し、本土を2分して東部を第一総軍(杉山元元帥)、西部を第二総軍(畑俊六元帥)の担当とし、予想されるアメリカ軍の九州上陸オリンピック作戦に備えていた。そして最初に本土上陸の敵を迎える第二総軍は広島に本拠を置いて、準備を進めていたのである。
 その本拠は山陽本線広島駅から北へ歩いて5分、元騎兵第5連隊の兵舎の中にあった。ここは広島の中央を流れる太田川が6本に分かれる2番目の分岐点のあたりで、爆心地から直線で約千3百メートル。参謀部のすぐ北方、高さ125メートルの二葉山には、司令部の防空壕が掘られていた。・・・

 この『昭和史の天皇』に書かれた文章を読んだだけでは、第二総軍の意味が何かは理解できない。爆心地から直線距離にして約千3百メートル、そして、二葉山に司令部の防空壕がつくられたということは、大きな意味を持つのである。どうしてか。司令部の防空壕の中にいた将校たちは多少の傷を負うが(爆風やガラスの破片で)、全員無事だったのである。参謀部の人々もほぼ死者はなし。しかし、通勤途中とか、在宅者に多少の死者が出て、発表では、4百数十人のうち百人程度が死んだことになっている。
 防空壕の中にあった参謀部もほとんど死者はないと思われる。この場所の設定には、最初からからくりがあったと思われる。
 私は、第二総軍の司令部は、原爆投下を予定して、原爆投下地を広島の中心地とみなし、約千3百メートル、しかも山の中腹に建てて、原爆が落ちても被害なし、の想定で建設されたものと思っている。東京ローズの放送についてはすでに書いた。東京の陸軍参謀本部と第二総軍は情報を流しあっていた。もう一度、『エノラ・ゲイ』から引用する。

 ・・・1945年7月9日  広島
 各地の放送局に波長を合わせたラジオが10台以上も置かれていたが、その部屋の中は天井に取り付けてある扇風機の低くうなる音の他は、ほとんど音がしなかった。それぞれのラジオは、その前に坐っている人のイヤフォンにしか音が伝わらないようにしてあった。そこにいる人がやっていることは、日本の他の人間がしたら死刑になるかもしれないことだった。彼らはアメリカの放送を聞いていたのである。
 彼らはラジオのモニターであった。24時間ぶっ続けに、太平洋およびそれよりまだ向こうの地域の放送を聞く仕事の、午前の班であった。これは畑元帥の第二総軍司令部の通信部の1部であった。・・・

 私は東京にも同じような通信部があり、謀略放送の種を探していたと思っている。広島と東京の参謀本部は情報交換をしていた。『エノラ・ゲイ』を続けよう。

 ・・・この部は畑元帥の司令部の神経中枢であって、西練兵場の近く、二葉山の麗にある元国民学校校舎の2階建ての長い建物の中にあった。この通信部は特設の通信線で東京の大本営言詮軍部と結ばれており、また福岡、佐世保、長崎、鹿児島などの九州の軍事要点との間にも他の通信線が通じていた。地元では、呉軍港、宇品船舶司令部、および広島城内の中国軍管区司令部とも結ばれていた。
 この傍受室はこの通信部の1番重要な施設で、東京郊外にある特種情報部だけがこれに匹敵することができた。この数週間、傍受室はいままでになく忙しくなったが、それは有末中将の部下ですご腕のアメリカ事情専門家、大屋角造中佐が畑元帥の諜報主任将校として広島に赴任してきてからのことであった。・・・

 私は第二総軍は最初から、すなわち鈴木内閣ができたときから、終戦工作の一環としてつくられたものと思っている。終戦工作とは何か。簡単明瞭に書くならば、天皇が畑を呼びよせつくったものである、と書いておく。
 どうしてか。これから書いていくことを読者が読めば納得すると思っている。でもヒントを与えておくことにしよう。
1、原爆投下情報を完全に知りながら、それを全部封印した。
2、8月3日から6日にかけて、原爆投下予定地を中心に、大勢の人々を集めた。
3、武器弾薬も食糧もないのに、たくさんの兵を召集し、その兵たちを九州に送り込んだ。・・・

 もう少し、『エノラ・ゲイ』を読み続けてみよう。妙なことが書かれている。著者2人が、ここにきて、真実を隠そうとしているのだ。

 ・・・畑元帥と大屋中佐とは、もしアメリカ軍の九州上陸が実際に行われることになれば、傍受室はその最初の兆候をつかむことができるのを知っていた。上陸に先立って、アメリカ軍はまず数週間をかけて上陸地域に海と空から砲爆撃を加えるに決まっている。しかし畑元帥は、上陸作戦接近の確かな予報を手に入れて、九州にいる神風特攻隊や決死のモータボート部隊に敵艦隊攻撃の用意をさせたいと願っていた。この計画が成功するかしないかは、傍受室勤務員の人たちにかかっていた。彼らには老年その他の理由で戦闘に向かない者ばかりであったが、みな英語は達者であった。・・・

 『エノラ・ゲイ』のこの記述は誤りである。畑俊六は、第二総軍ができると指令を出し、およそ兵に向かない者まで召集し、九州に送り込んでいた。武器弾薬も食糧もない彼らは何をしていたのか。九州に送り込まれた兵士たちの手記を読むと、彼らはひたすら穴を掘っていた。何も他にすることがなかったのである。
 傍受室勤務員は何をしていたのか。彼らは第509航空群の動きを追っていたのである。エノラ・ゲイがはたして何日、何時何分に原爆を広島に投下するのかを懸命に追っていたのである。それがどうして大事なのかは、彼らは知る由もない。しかし、天皇から拝命を受けた畑は、その日時を確実に知る必要があった。
 どうしてか。スティムソンと天皇のために、ごく自然に多くの人々を原爆投下の予定地周辺に集めなければならなかった。予定日は変化し続けた。天候の関係であった。
 リチャード・ローズの『原爆から水爆へ』(2001年)の中に気象に関する記述がある。ルメイとはカーチス・ルメイ少将のことで、太平洋戦線での爆撃の指揮官である。

 ・・・1次の対日爆撃ミッションを支援するのに、爆弾倉に燃料タンクをとりつけて、6回ハンプを越えていたのだ。日本の気象は中国北部から推移する。当時、中国北部は毛沢東の軍隊が支配していた。そこで、ルメイはこの共産ゲリラの指導者と交渉し、医薬品を与える代わりに、乗員の救出と、気象情報の提供を受ける約束をとりつけた。・・・

 毛沢東ルートで入った気象情報を基本にして原爆投下の日時が決定された。同じリチャード・ローズの『原子爆弾の誕生』を見ることにしよう。

 ・・・すっかり準備がととのったので、ファレルはグローヴズにテレックスを打ち、特務飛行は8月1日にできると報告した。彼は、グローヴズが反対しないかぎり、7月25日のスパーツ令達がこの提案を認可するものと予想した。マンハッタン計画の部隊長は副官の理解どおりにさせた。もしもその日、邪魔な台風が日本に接近していなかったら、リトルボーイは8月1日に落とされていたであろう。・・・

 この文章を読んで読者は次のように理解しなければならない。広島の畑も東京の有末も、もちろん天皇も、7月25日のスパーツ令(この令達は姉妹書「国外篇」第七章の「黙殺」の頂で書いた)が出たときから準備に入ろうとしたはずである。しかし、台風の接近を知り動員の中止を決定した。
 ローズは続けて書いている。

 ・・・それで特務飛行は天候回復を待つことになった。8月2日木曜日、ファットマンの組立て部品1式を積んだB29が3機、ニューメキシコから到達した。ロスアラモスの科学者と軍の兵器技師からなる組立てチームは、ただちに作業を始め、落下試験用のファットマン1発と、実戦用の、より高品質のHE(高性能爆薬)鋳造物を2発目として作り上げた。・・・

 プルトニウム爆弾は2発用意されていたことになる。私たち日本人は天皇に感謝しよう。広島と長崎に落とされた2発で、終戦にしてくれたことを。ちょっと遅れたら、もう1発を落とされていたはずだ。3発目は8月中旬までに用意されていたのだから。

 畑元帥と大屋中佐は、刻々と変更される投下日時の把握に追われていた。それで、大屋中佐はもう一つの傍受室をつくるのである。『昭和史の天皇』から引用する。被爆の瞬間、軍の中枢である第二総軍司令部参謀1課にいた井本熊男高級参謀の談話である。もちろん井本は負傷していない。

 ・・・このとき、あけてあったドアから廊下へはじき飛ばされた橋本参謀と大屋参謀は、そのまま無意識のうちに廊下の窓にかけてあったナワばしごで建物の外に出て防空壕に向がったが、参謀室にまだ人がいたことに気づいて引き返してきたのだった。その橋本氏の話にかえる。
「二人で歩きながら、直撃弾をうけたにしても爆痕がない。これはいったい何だろう、とわたしがいったら、大屋君が、そういえば妙な新兵器の海外放送を聞いたが、それかもしれんという。この海外放送は実は大本営にはないしょで、情報の大屋君が主として女性の2世を20人ほど集め、鯉城に近い浅野侯の別邸に傍受所を設けて、内外の動きを見ていたのだ。
 当時、わたしたちが気にしていたのは、政府首脳が軍の本土決戦のカゲで、どうやら終戦工作をやっているらしいということだ」・・・

 大屋中佐は鯉城(広島城)の近くに女性の2世を20名ばかり集めて、ブロークン・イングリッシュを解読させていたのである。彼は、この情報を有末中将に伝え、有末中将は同部に所属する皇弟・三笠官崇仁(たかひと)中佐に伝えていたのである。
 テニアンから刻々と入る情報で、「8月6日8時15分」の投下時刻を正確に知ると、畑元帥と大屋中佐は大衆動員を原爆中心地近くにかけ、大阪から鹿児島までの将校たちを8月6日午前8時(これは9時に変更される)に爆心地近くの陸軍の社交場・偕行社に集まれとの司令官命令を出すのである。戦争終結に導くためのスペクタル・ショーの演出をやってみせるのである。
 『エノラ・ゲイ』の続きを見ようではないか。秘密が、第二総軍が隠し続けてきた秘密が見えてくるのである。

 ・・・1日のうちで最も忙しいのは正午から夜の零時までの間であった。その間、この部屋のラジオの半数が、沖縄、硫黄島、マリアナ諸島から発せられる通信の傍受に向けられた。モニターたちは、遠くはグアム島から発せられるアメリカ軍の命令の放送を聞こうと耳を澄ました。その命令は多くは暗号だったが、そうでない生まのものもかなりあって、すぐに役立つような情報が手に入ることがあった。この傍受には軍のラジオ通信ばかりでなく、B29の通信兵が離陸直前に行なう簡単なラジオの言葉も入った。
 日本とマリアナ諸島との間には1時間の時差があるから-広島のほうがテニアン島より1時間遅かった-そのラジオのテストが広島の時間で午後3時か4時頃行なわれるとすれば、モニターはその夜空襲のあることを知りえた。モニターを傍受したテストの回数で、空襲にやってくる敵機の数をおおよそつかむことができた。モニターはその報告を上司に渡し、上司はそれを通信司令室へ送り、そこから西日本全体の防空組織へ情報が流された。それだけのことがわずか数分間でできた。
 爆撃機が日本の上空に接近すると、モニターは乗員同士の断片的な会話の交信をキャッチし、上司はそれによって爆撃機が日本のどの地域を攻撃するつもりかの見当をつけることができた。そういう情報は海上の艦船同士のラジオ通言の傍受記録と一緒にタイプされ、あとで分析された。畑元帥と大屋中佐はそれをもとにして、敵の兵力と意図とを驚くばかり正確に察知することができた。
 大屋中佐は広島に来てからは、この仕事を自分がいかに重視しているかをモニターたちに見せるために、定期的にこの傍受室に顔を出した。・・・

 畑元帥と大屋中佐がどれほどテニアン基地の情報を知りえる立場にあったかが、この文章を読めば理解できる。
 しかし、1つの謎が残る。畑と大屋は他の誰にも知られたくない独自の情報網が必要ではなかったのか。それで鯉城の近くに、わざわざ2世の女性を20人ばかり使った秘密の傍受室、そして、応答室をつくった。そこで、テニアンにいる秘密室と直接に原爆情報のやりとりをした。2世の女性たちは、あるときから不自由な生活を強いられていたのではないのか。どうしてか。それは鯉城の近くに原爆が落ちたから推測できるのである。彼女たちは死んだはずである。生き残った女性たちは沈黙を守るようにきびしく言われたであろう。鯉城の近くにいた人々で生存者はほとんどいない。原爆投下を知って、第二総軍の傍で傍受されなかったのは、深い意味があったからだ。証拠隠しである。第二総軍から情報が流されていたと書かれているが、原爆の情報は中国軍管区に届いてはいない。原爆の情報はすべて、畑と大屋の2人で闇のうちに処理されたのである。どうしてか?劇的な演出で、多くの広島市民に死んでもらうためである。スペクタクルが必要であった。天変地異に比すべき出来事が演出されなければならなかったのだ。

 スティムソンは天皇にそれを期待したのである。天皇の特命を受けた畑は、大屋を三笠宮と有末のもとから強引に呼び寄せ、演出を担当させたのである。
 原爆投下を事前に多くの人々が知っていたのである。どうして第二総軍においておや、である。あの東京ローズの放送も、畑と大屋の情報が有末のもとへと伝わり、甘く美しい声に乗って、テニアンの原爆機の担当者たちの胸を強く打ったのである。 


 ★ 原爆投下予告を確かに聴いた人々 


 2007年の春であった。広島で原爆にあった1老人(匿名希望)が私に1冊の本を送ってくれた。その本が黒木勇司『原爆投下は予告されていた!』(1992年)であった。開いてみると新聞記事が挟まれていた。2000年12月24日付の産経新聞の切り抜きであった。「予告されていた原爆投下」というタイトルがつけられていた。この記事(社会部・野崎貴宮)を紹介する。

 ・・・岡山市在住の黒木勇治さん(77)=元安治川鉄工建設和歌山工場長=は、中国南部にあった第五航空情報連隊の本部情報室に勤務していた。連隊では敵機の行動を監視するとともに、中国・重慶放送と、インド・ニューデリー放送を傍受。ニューデリー放送は、ロンドンのBBCを中継した内容で、原爆開発、投下の情報も伝えていた、という。
 黒木さんは著書『原爆投下は予告されていた!』(光人社)でも当時を回想しているが、ニューデリー放送の中で最初に原爆という言葉が登場したのは、昭和20年6月2日だった。スティムソン委員会が日本に原爆投下を勧告したことを伝えていた。・・・

 ここで黒木雄司の『原爆投下は予告されていた!』の「まえがき」の部分を紹介する。この本が原爆に関する本の中でも異彩を放つ本であることはこの「まえがき」証明している。

 ・・・毎年8月6日、広島原爆忌が来るたびに、午前8時に下番してすぐ寝ついた私を、午前8時32分に田中候補生が起こしに来て、「班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたとニューディリー(ママ)放送が放送しました。8時15分に投下されたそうです」といったのを、いつも思い出す。
 このニューディリー放送では原爆に関連して、まず昭和20年6月1日、スチムソン委員会が全会一致で日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと。次に7月15日、世界で初めての原子爆弾爆発の実験成功のこと。さらに8月3日、原子爆弾第1号として8月6日広島に投下することが決定し、投下後どうなるか詳しい予告を3日はもちろん、4日も5日も毎日続けて朝と昼と晩の3回延べ9回の予告放送をし、長崎原爆投下も2日前から同様に毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた。

 この一連のニューディリー放送にもとづいて第五航空情報連隊情報室長・芦田大尉は第五航空情報連隊長に6月1日以降そのつど、詳細に報告され、連隊長もさらに上部に上部にと報告されていた模様だったが、どうも大本営まで報告されていなかったのではないだろうか。どこかのところで握りつぶされたのだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ。・・・略・・・
 この記録は私が現在の中華人民共和国南部の広東において、昭和20年3月⑪日付で野戦高射砲第五十五大隊第二中隊より転属し、第五航空情報連隊情報室に勤務、情報室解散の昭和20年8月21日までの約5ヵ月間の日々を記録したものである。したがって人物名、場所名などはすべて実名実在のものである。・・・中略・・・
 私もようやく今年は数え年でいうと古稀となり、老の仲間に入ってゆくので、惚けないうちにと書くこととした。書いているうちに先ほども書いたように、原爆に関する報告をだれが握りつぶしたのか。なぜもっと早く終戦に持ってゆけなかったかということをいろいろと考えさせられる。とにかく人の殺し合いという戦争は人類の史上にはもうあってはならない。・・・

 この「まえがき」の中の「どこかのところで握りつぶされたのだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ」「原爆に関する報告をだれが握りつぶしたのか」という文章に接し、私も黒木雄司氏同様に腹が立ってならない。
 広東の第五航空情報連隊情報室が得た情報は、第二総軍の情報室に間違いなく届いていた。この情報は有末精三の陸軍参謀本部第2部から、有末中将か三笠宮中佐のルートで大本営に伝わり、そこで握りつぶされたのはまちがいのない事実である。どうしてか? 答はいたって簡単至極この上もない。第二総軍傍受室は24時間交代勤務でアメリカ、マリアナ諸島、東南アジアにいたる放送を傍受していた。しかし、この貴重な情報を広島の軍司令部に全く伝えていないからである。それゆえに数十万人の軍人や市民が、第二総軍によって殺されたのである。その第二総軍は天皇がいる「御文庫」(皇居内地下に大本営が置かれていた)の命令を忠実に厳守していたというわけである。

 ★少年兵(満12歳)として黒木雄司は広東に連れて行かれ、珠海というところにある監視所でニューデリー放送を聞きノートに書き移す仕事をし続けたのである。
 それでは、6月2日の黒木雄司の1945(昭和20)年の「日記」を見ることにしよう(6月1日付の暫定委員会については姉妹書「国外篇」第五章で詳述した)。
 ・・・6月2日(月)晴後曇 午後7時
 こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、アメリカのスチムソン委員会は、全会一致で日本への原子爆弾投下を大統領に、ワシントン時間の6月1日午前9時、勧告書を提出しました。また別の情報によれば、米艦載機約60機が南九州地区の航空基地を主体して空襲し、総爆撃を致しました。繰り返し申し上げます。
6月4日 (水)曇 午後3時
こちらはニューディリー、ニューディリー でございます,信ずべき情報によりますと、先般、スチムソン委員会においては、原爆投下勧告を米大統領に進言しましたが、軍内部において軍独自に実験してみる必要が急遽発生したため、本日、実験準備命令が出されました。実験部隊、実験場所は公表されておりません。繰り返し申し上げます。・・・

『資料マンハッタン計画』の「資料173 核兵器の即時使用に関する科学顧問団の勧告」(1945年6月16日)に次のような文書がある。

 ・・・純粋に技術的な示威実験の提案から、降伏を決意させるよう最善の工夫を凝らした軍事使用の提案に至るまで、いくつかの意見があります。(引用者註一バーンズの都市への無警告爆撃発言は一応委員会で承諾された。しかし、1部の科学者は、原爆実験を公開し、その上で日本の立場を明確にさせよ、との抗議活動を始めた。このことを指すと思われる)・・・

黒木雄司の「日記」を続ける。

・・・7月16日(月)雨 午後10時
 こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、本日(7月16日)も米軍P51百機は、前日に引きつづき東海地方の各都市を空襲し銃爆撃致しました。また別の情報では昨日(7月15日)、米国ニューメキシコ州アラモゴードで、世界最初の原子核爆発の実験に成功致しました。繰り返し申し上げます。

 7月27日(金)晴 午前9時
こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、先般来、ドイツ国ベルリン市郊外のポツダムで行なわれていた米英支3国合同会議の結果、昨日(7月26六日)、米国トルーマン、英国チャーチル、支那蒋介石の米英支3国首脳は、日本に対し無条件降伏を要求するポツダム宣言を発表しました。繰り返し申し上げます。

 8月3日(金)晴 午前8時
 こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、米軍は来る8月6日、原子爆弾投下第1号として広島を計画した模様です。原子爆弾とは原子核が破裂するものであって、核の破裂にともない高熱を発し、すべてのものは焼き払われることでしょう。繰り返し申し上げます。・・・

 黒木の「日記」には、8月3日正午、8月4日午前9時にも同様の放送があった、と記されている。広島だけではない。長崎も予告されている。だが、この長崎の予告の件は別項にて書くことにしよう。
 「産経新聞」の記事「予告されていた原爆投下」の続きを読むことにしよう。
     
 ・・・一方、広島逓信局に勤務していた無線技師、宮本広三の原爆についての回想が『原爆予告をきいた』(草土文化)の中にある。逓信局では放送内容の検閲などを行っていたが、周波数のチャンネルをいじれば、連合国側の放送を聞くことができた。宮本は8月1日夜、米軍のサイパン占領後、そこから放送を始めたVOAを聞いた(この放送は中波とみられる)。放送は「8月5日、特殊爆弾で広島を攻撃するから非戦闘員は避難しなさい」という内容で、繰り返し放送した、という。
 宮本は放送内容を上司に伝えた。ところが、この上司は、「敵性情報を聞くとは何ごとだ」と怒った。5日は何ごともなく終わった。6日朝、上司は宮本を呼び、「何にも起こらなかったじゃないか」と言ったが、宮本は「聞違いなく聞いたんです」と反論した。原爆が作裂したのはその直後だった。

 この宮本広三の『原爆予告をきいた』は、日本児童文学者協会、日本子どもを守る会の編として出版された児童文学書『原爆予告をきいた 続・語りつぐ戦争体験』(1983年)に所収されている。筆者の住所が記されていたので(無職・63歳・広島県佐伯郡)、私は手紙を書いた。返事は来なかった。やむをえない。会って話を聞くのをあきらめた。NHK広島放送局原爆取材班著の『原爆搭載機「射程内二在リ」』(1990年)の中にも宮本広三が登場する。宮本広三については産経新聞と同じように紹介している。後半部分を引用する。

・・・宮本さんは現在〔1990年当時〕、入院中である。そして、今も原爆病と闘い続ける毎日を送っている。
 「広島市民を連れて逃げておれば、大恩人として銅像が建ったのに」とひやかす人もいる。だが宮本さんは、検閲の極端に厳しい当時の状況を回想しながら、「あの頃、ひとことでもデマ放送の内容をいえば、逃げる前に警察や憲兵隊にひっぱられていた・・・」と自らを納得させている。
「あんただけでも逃げておれば・・・といわれるとちょっと考えこんでしまう。でも、私はこう答えるかな。あの頃は誰だって私と同じ道すじをたどったと思いますよ」(『語りつぐ戦争体験-原爆予告をきいた』)
8月5日という日付に関しては、日米間に時差があり、アメリカの5日が日本の6日にあたる。だからアメリカは本当の情報を流していたのだと信じている人もいる。また、たまたまその日付であったにすぎないという声もある。しかし、いずれにせよ、広島へ何らかの重大な爆撃作戦が事前に予告されていたという証言があるのは事実である。
 宮本広三の『原爆予告をきいた』の一部を紹介する。 

・・・大阪に勤務中、とかく治療のために休みがちになるので、公傷認定を申請すると、
「今日、その傷を認めるものはない」と却下された。
広島にかえって、たびたびガラスの摘出手術をうけたが、あるとき、左肩にかけらがのぞいいて痛いから、切ってほしいというと、
 「厚生省の認定を得ないと切れない」という。
認定通知がきたときは、ガラスのほうで待ちくたびれ、どこかへにげてしまっていたこともあった。
 国家公務無災害補償法によって、公傷と認定されたのは、あの日から30年たった昭和50(1975)年の夏である。
 わたしは生きた。・・・

 宮本広三の「わたしは生きた」の言葉は、人生の何たるかを、生きることとは何なのかを私たちに教えてくれる言葉である。多くの人々が「わたしは生きた」との言葉を発しえずに死んでいった。
 私は本書の中で、「わたしは生きた」と言えず未完に終わった人々の恨みの心をこの世に呼び戻し、彼らにその無念の思いを語れ! と呼びかける。いかなる中傷を私は受けようと、私は真実を求め、真実を書き続けるであろう。
 「産経新聞」の記事を続けよう。第二総軍のことが書かれている。

 ・・・第二総軍(広島)でも独自に連合国側の放送を傍受していた。『昭和史の天皇』(読売新聞社)にも「投下予告」についての回想が登場する。被爆直後、第二総軍の作戦主任参謀、橋本正勝(戦後陸上自衛隊北部方面総監)は情報参謀だった大屋角造とともに本部の建物を脱出。その時、橋本は「大屋さん、爆痕がない。いったいこれは何だろう」と話しかけた。すると大屋は
「そういえばこないだから妙な新兵器のことをいった海外放送があったような気がする。それかもしれん」と話した。このとき、第二総軍では日系2世の女性を20人ほど集め、内外の放送を傍受していた、という。
 このことはすでに触れた。私は畑元帥と大屋中佐が広島原爆の全貌を知っていたと書く。その事を次項で詳しく追求する。「わたしは生きた」との声を発することすらできずに死んだ無念の想いを抱いた死霊のためにだ。
 この「産経新聞」の記事の続きを書いてこの項の終わりとする。

 ・・・米英の間には無警告で日本に原爆を投下することには反対する意見もあった。一方、東京でも連合国側の放送傍受が行われており、「原爆情報」が軍中枢などにも伝えられていたとみられる。
 広島市内には「新型爆弾」のうわさが流れていたというが、「広島市役所原爆誌」(広島市役所)には、当時の市議会議員の回想がある。「近く広島に大きなみやげを持っていくから楽しみにして待っていなさい、というビラを敵機がまいた。ビラは憲兵隊によって回収され、その内容は口外してはならない、ということになっていた。いつか流説になった。うきあしだった市民もいた。夕方になると周辺部の縁故先に行って仮寝するとか、山間部へ野宿するとかして、翌朝になって帰って来る者が、かなりあった」(社会部 野崎貴宮)
 

  『原爆の秘密』国内編 第1章 原爆投下計画と第二総軍の設立

★投下予告はこうして封印された  


  2007年7月中旬、私は広島の町中を歩き廻っていた。ふと私は何げなくタクシーに乗った。目的地には近かったのだが・・・。タクシーの運転手に、原爆の取材をしている、と語ったときであった。その運転手は私に意外なことを語り始めたのであった。

 「私の父と母は原爆が落ちた中心地の近くで死にました。私は疎開していたので助かった。後で分かったことですが、かなりの人々が原爆が落ちる日を知っていて逃げたんですよ。私の父と母は知らされてなかったんだよ。今も、それを思うと泣きたい気分になってくるんだよ・・・」

 この日の取材は、原爆が落ちた爆心地の周囲を廻ることと、古本屋で本を仕入れることが目的であった。そのときから計3度、私は広島を訪れた。東京では新刊書を多数仕入れたが、神田の古書店街に行っても、原爆関係の本はほとんどなかった。私は取材に行くというよりも、古本を買いに行くというような広島詣でであった。その中の1冊に前項で紹介したNHK広島放送局原爆取材班著『爆撃搭載機「射程内二在リ』があった。もう1度引用する。

 ・・・広島の原爆投下を予告するような、アメリカ側の動きがあったという話にも出会った。そのひとつが、いわゆる「伝単」といわれる宣伝ビラである。太平洋戦争では、この伝単が日米ともに心理作戦の武器として、飛行機によって大がかりに、敵陣内に空中散布された。最初は戦場での将兵向け、やがて戦局が進むにつれて、日本本土の一般市民を対象にした。米軍が、最初にビラを散布した昭和20年2月16日から終戦まで、全国で合計458万4千枚散布したと米国は発表している。(『昭和二万日の全記録=第七巻』講談社)

 多くのビラが散布された。前項の当時の広島市議のことばも、そのビラの存在を裏付けるものである。この本には1人の女性が登場する。

 現在〔1990年当時〕、広島市内で幼稚園を経営している高蔵信子さんは、当時20歳で、広島市紙屋町の芸備銀行本店(現在の広島銀行)に勤務していた。芸備銀行は、広島の中心部にあり、広島が爆撃を受けるとすれば、当然芸備銀行周辺も狙われるに違いないという危機感を抱いていた。銀行の方でも、万が一の空襲に備え、避難訓練や消防訓練をくり返し行っていた。〔中略〕
 高蔵さんの職場では、ある伝単の噂が広まっていた。実際に彼女は、その伝単を見たわけではない。しかし、伝単には恐ろしい爆撃予告がされていたという。

 ★ 「8月5日、広島を大空襲する」

 しかし、奇妙なことに、8月になると、アメリカ軍の広島への接近回数は、伝単に反して減少していった。だが、その裏で、運命の日は刻々と近づいていたのだった。

 この本によると、「爆心地からおよそ250メートルの近距離にあった芸備銀行で原爆を受けた人は、高蔵さん以外、誰ひとりとして生きてはいない」と書かれている。

 1945年7月26日、広島上空でアメリカ軍爆撃機B24 4機のうち2機が日本軍の対空砲火によって撃墜され、広島山中に落下した。当時12歳の少女だった木村ヨシ子さんは、その撃墜された飛行機を見たのである。以下は、『原爆搭載機「射程内二在リ」』からの引用である。

  ・・・一行〔アメリカ兵捕虜と連行する日本兵〕は、その集落の旧家に入って行く。木村さんもその後を追って、その家の庭に入って行った。すでに大人たちが集まって、家の中の様子を真剣にうかがっている。家の中では、日本の兵隊による尋問が始まっていた。
 尋問は通訳を通じて行われていた。ひとりは赤い髪、そしてもうひとりは、少し青みがかった灰色をしていた。
 木村さんは、そのときにひとりの搭乗員が語った言葉を今でも忘れることができない。上手な日本語で、彼は確かにこういったのだ。
 「僕たちウソいわない。8月6日、ヒロシマ焼け野原になる」
 木村さん自身は、学校に通学する途中で被爆した。アメリカ兵捕虜の予言を聞いてから、その日、学校に行きたくなかったが、無理に自分の気持ちを抑えて出たあとのことだった。
 米兵たちは、その後、爆心地に近い広島城祉にあった歩兵第一補充隊の営倉に収容された。

 木村さんと同様の経験を伝えている本がある。同隊医務班勤務の増本春男の談話が『広島原爆戦災誌』(広島市編集兼発行、1971年)に記載されている。

 ・・・増本春男衛生上等兵は、その2人の捕虜の食事(米飯、ふかしじゃがいも、みそ汁)を運んだが、そのとき、腕などの擦過傷の手当(ヨーチン、塗布)もした。捕虜の2人は、航空兵とは思われないような青みがかった簡単な作業服を着ており、頭髪は茶褐色で短い兵隊刈り。1人は20歳くらい、他の1人は26、7歳の若い兵隊で、何かおびえており、「おそろしい、おそろしい」という。通訳の見習士官が、「捕虜になったから恐ろしいのか?」とたずねると、「いや、ここにいたら死ぬのだ。近いうちに広島が全滅するような爆弾が投下される。ここにいては死ぬ」と答えた。捕虜2人は2日間、同部隊にいて、その後は憲兵隊に渡されたようである。

 『エノラ・ゲイ』の「7月28日-広島」の中にも、この捕虜に関する記事がある。
「・・・それからモルナーは金井と柳田准尉の間にはさまれて近くの農家へ護送され、一応安全な場所に置かれた。憲兵隊員が彼のまわりを取り囲んだ・・・」
 「2機の爆撃機の20名の乗員中13名が、撃墜され捕虜にされる最初の恐怖の瞬間を生き抜いた。彼らが広島に到着すると、広島市内に捕えられている捕虜の総数は23名になるはずであった。しかし彼らにとって、最も恐ろしい経験はまだこれからのことであった」
 この本の「7月9日-広島」に次のような文章を発見した。

 ・・・大屋中佐はいつも捕虜に対して、自分はすでに知っているのだが、ただ裏付けを取ろうとしているだけだという印象を与えようとした。彼の計略に引っかからない相手に対しては、それなら「憲兵隊」で尋問させるぞ、あっちでは「ほかのやり方」を使うだろうと脅した。大屋中佐は未知のものに対する恐怖が1番きき目のあることを知っていた。

 自分の腕前を発揮するためには、大屋中佐はどうしても「2、3人新顔の捕虜」を手に入れなければならなかった。できればマリアナ諸島から来た上級将校の飛行士がほしかった。かれはそこにアメリカ軍最大の爆撃基地があることを知っていた。

 大屋中佐は間違いなく「マリアナ諸島から来た上級将校」を手に入れた。そして情報を聞き出すと、彼らを特別の場所に隔離した。その情報は間違いなく畑元帥と共有し、そして有末中将のもとへ送られた。しかし、広島に原爆が落ちるという情報は1部の憲兵のみが知るだけで封印された。広島に原爆が落ちるよう準備するのが、大屋中佐、畑元師に命じられた。【至高なる人】からの【お頼み】であったからに他ならない。

 次に織井青吾の『原子爆弾は語り続ける』(2005年)を紹介したい。

 織井青吾は1931年広島に生まれた。14歳で被爆している。織井青吾は、原爆投下の直前、文理科大学の校舎に駐留していた陸軍通信隊の兵士から話しかけられる。

・・・23、4というところだろうか、大学生の兄さんといっても可笑しくない風貌に、黒縁のメガネをかけている。
 「はあ・・・」
 「米軍の情報によるとね、明日6日、広島に新型爆弾を投下するから、非戦闘員、つまり坊やとか女子供、年寄りの人たちは、今夜から郊外に避難せよと通告している・・・それを知らせてあげようと思ってね・・・」〔中略〕
 「だから逃げろと言われるんですか・・・」
 「その通りだよ」
 彼は淡々としていた。
 「兄さんも避難したいが、兵隊だからそれは出来ない。しかし、坊やなら出来る。生徒さんだから、どうにでもなる」

 織井青吾少年は原爆にやられてしまう。
 彼は原爆炸裂の状況を、「この時の瞬間をいくら正確に伝えようと思っても、自分に納得できる言葉がなかなか見つからない。そして、考えあぐねた末、その瞬間を、〈蒼穹が裂けた〉とでもいう以外にないと思う」と書いている。

 文理科大学の校舎に駐留していた陸軍通信隊の兵士のもとに、良心的なテニアン島の兵士が、少しでも広島の被害を少なくしようとの一途な思いから、無線を流し続けていたにちがいないのである。第二総軍の傍受室は、陸軍通信隊の兵士が受信した内容を知り尽くしている。それを間違いなく大屋中佐、畑元帥に報告し続けている。しかし、傍受室の人々も、この陸軍通信隊の兵士と同じように、大きな圧力を受け続けていた。それは、大勢の非戦闘員である「坊やとか女子供、年寄りの人たち」にいたるまで、あらゆる人々に死んでもらわないと、アメリカが進めてきた「無警告による大量殺戮」が成就しないからに他ならない。それこそが、〈民草をおもふ神なるお方〉の〈大御心〉なのである。

 広島市編集・発行の『広島原爆戦災誌』(1971年)には奇妙なことが書かれている。

 ・・・昭和20年(1945)7月16日、アメリカ陸軍はニューメキシコ州のアラモゴードの砂漠の中で、原子爆弾の爆発実験を行なって、起爆に成功した。しかし、この爆発が1つの都市(建物、人間その他)に対して、どんな威力(破壊、障害その他の現象)を示すかということについては、実際に使用してみなければ判らないことであった。それを現実に把握したいためから、アメリカは原子爆弾投下目標都市の現状をそこなわぬように空襲を禁じ、投下の日まで温存していた。
 したがって、広島市民に原子爆弾投下を予告して、爆撃目的を減殺するような警告ビラなどは、当然撒布しなかったと考えられる。

 私は、数多くの予告がなされた、と書いてきた。これはアメリカ陸軍省のルートではなかったのかもしれない。良心を持つ兵士たちが、上官を裏切って行った国家反逆罪的行為だったのかもしれない。第二総軍の真の狙いは、そのようなアメリカの良心的行為を封じ込めるための行動にあった、と考えると辻棲が合うのである。この『広島原爆戦災誌』には続きがある。

 ・・・ただし、市民の中(正田篠枝・山崎与三郎など)には、「原子爆弾を投下すると、明確には書かれていなかったが、破壊力の凄い爆弾で攻撃するから、市民は直ちに疎開せよ」という意味の書かれた宣伝ビラが、8月に入って多数撒かれたと語る者もいる。
また、当時、江波の陸軍被服廠の材料倉庫に、守衛長代理として勤務していた松窪熊市の手記「あの日の広島」(宮崎県原爆被害者の会発行『閃光は今もなお』)には、炸裂の1週間前の7月30日に、「1週間以内に広島市内を爆撃す。罪ない市民に被害を与えたくはないが、爆弾には目がない故御用心‐‐」と書いたビラが飛行機から撒き散らされたと記述されている。

 このビラ撒布も、この『広島原爆戦災誌』はなぜか否定すべく努力している。「グローブスは、投下の予告や警告は、戦略効果を無視するものとして、無警告奇襲攻撃を主張としてゆずらず、結局、その主張どおりに実施したといわれる」との念の入った書きようである。第二総軍が恐れていたのは、聞違いなく、アメリカの良心がどこかで、何らかの方法で、広島市民に伝わることであったのだ。それで彼らは、それらを未然に封じ込めるために眼を光らせ、無線で入ってくるアメリカの良心を妨害しようとしていたのである。
 財団法人広島県警友会が編集・発行した『原爆回顧録』(1988年)から引用する。亘春市(当時37歳、警察部警防課防空主任・警部)の手記の1部である。

 ・・・私は、その後だれであったか記憶していませんが、4~5名の課員を連れ広島市役所付近の視察に出かけました。街は壊れ焼き払われて跡形もなく、都心は一望の焼野が原でした。
 市役所北隣の公会堂広場の地には怪我人がいっぱいで「お母さん、お母さん」と叫んでいるもの、男女の見さかいのつかぬほど黒く焼けただれた人々など焦熱地獄、この世の地獄を見せつけられました。
 この惨状を目のあたりにし、これが私たちが今まで訓練の対象にしていた焼夷弾ではなく、まさしく特殊爆弾だと思わざるを得ませんでした。実にわれわれの想像だにしなかったはるかに強力なもので、これはあるいは西部戦線で最後に使用されるのではないかと、かって耳にしたことのある原子爆弾ではあるまいかとひそかに思ったことでした。・・・

 間違いなく広島の警察の内部でも、原子爆弾の風評が広まっていたのである。亘春市が40年後の回想の中で語るごとく、広島は「街は壊れ焼き払われて跡形もなく、都心は一望の焼野が原」と変貌し果てたのである。もし、第二総軍の大屋角造中佐と畑悛六元帥に、アメリカの兵士が示したであろう、良心のひとかけらさえあれば、広島の惨劇も、そして長崎の惨劇も防ぎえた可能性が大であったのだ。

 死んでいった「お母さん、お母さん」の声をこの世に甦らせ、真相を語らしめなくて、この日本に未来があるとは私には思えない。  第一章 <了>。 

 
●第二章へ進む前に【目次】を再度確認してみよう。

 以下の通りだった。 


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●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 ★日本進攻計画と第二総軍との「不可解な暗合」
 ★発令されなかった警戒警報
 ★謀殺された徹底抗戦派・戦争終結反対者たち
 ★生者と死者と、あるいは賢者と愚者と
 ★演出された投下時刻「8時15分」の意味

 



●原爆投下

 ● 「疑史」(落合莞爾) も 「ユダヤとは何か」・「日本に渡来したイスラエル族」・「アヤタチとサンカ」まで辿り着いた。

 西欧の目からすると、コロンブスからアウシュビッツへ、わが日本に引き付けて考えると、コロンブスから 「広島・ナガサキ」ということに私の中ではなる。

 明日の「ナガサキ」を前に、その「旅」を試みてみる。

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 ●『ヴェニスからアウシュヴィッツへ』 徳永 恂(まこと)
 学術文庫 2007年7月
 原:『ヴェニスのゲットーにて』 みすず書房 1997年


 2章 コロンブスとユダヤ人問題 1492年の地平

 1 『希望の帆』- クリストファ・コロンブス「約束の地」を求めて

 ★運命の循環

 クリストファ・コロンブスをインドの地まで導くはずの3隻の帆船がパロスの港に錨を降ろしている。1492年8月2日の夕刻のことである。コロンブスは桟橋に立って、最後の水夫たちと他の探検隊員がデッキに上っていくのを見ている。夜11時までには全員乗船していること、というのが彼の指令である。

 歴史の本でわれわれは、3隻の帆船は翌日、8月3日になって出帆した、ということを知っている。なぜコロンブスは乗組員たちに真夜中前に乗船することを命じたのか? なぜ彼はこの成り行きを個人的に監視していたのか? その指令は船乗りたちの習慣にまったく反するものであった。彼らはこれほど長い旅の前ならふつう最後の瞬間まで家族の許に留まり、船の出帆直前になってはじめて甲板に行くものなのだ。なぜ今回は違うのか? こういう指令が出された理由は、ひょっとしたらこの8月2日という日付けにあるのか? なんと言っても記憶すべき1492年8月2日なのだから。スペイン国王フェルナンドとイサベラの布告によれば、この日の真夜中以降いかなるユダヤ人もスペインの地に留まってはならないのである。もしかするとこの探検隊員たちはその布告に関わりがあるのか? コロンブスの船にはユダヤ人たちが乗っているのか?彼の発見の旅とユダヤ人追放の間にはつながりがあるのか? そして結局のところ、そもそもこの旅はユダヤ人迫害と関係しているのか? こうしたすべての疑問が執拗に研究者に襲いかかり、満足のいく答えを求めるのである。

しかしわれわれが自分で答えを見つけようとする前に、コロンブスの話に耳を傾けよう。

 「聖なる国王陛下、あなた方がユダヤ人たちをあなた方の領地から追い払われた後、それと同じ1月、陛下は私を1船団と共にインディアスの地へ派遣することを命令されました」。

 コロンブスの日記はこう始められている。この2つの出来事を彼はアメリカ大陸発見についての報告の冒頭に掲げている。

 1目見ただけだと、コロンブスはここで歴史的日付けを混同している、と思いたくなる。周知のようにユダヤ人追放の勅令は1492年3月31日に署名され、コロンブスの旅行に対する同意はそれより3ヵ月前、つまり1月に与えられたのだから。もちろんコロンブスと国王の間の契約は4月17日にはじめて署名されたのだが。一見すると取り違えているように思われるこの日付けはどう理解すればよいのだろう? これは次のように説明する他ない。つまり、ユダヤ人追放の準備はすでに1月には、王宮の人々に周知のことになり、コロンブスにもそのパトロンたちにも知れるところまで進められていた、ということである。だから事の流れは・・・1月 コロンブスの旅行許可。3月 ユダヤ人追放布告。8月2日 ユダヤ人、スペイン滞在最終の日、かつアメリカ大陸発見旅行出発の前日という具合に2つの出来事はここで合流するのである。・・・略・・・

・・・コロンブスは、別の機会にも示す偉人特有のよく知られた本能で、2つの出来事をここで結び付けているのである。あの時代に取り組んでいる歴史家たちは、アメリカ発見とユダヤ人追放はスペイン全史の中で首尾一貫性を特っていた、という点で一致している。

 この夜は歴史の分岐点である。1つの章が終わり、新しい章が始まるのである。スペインの歴史のみならず、全世界史に影響を及ぼす章である。コロンブスが夜11時に部外者を締め出して、船上に船員を乗り込ませたことは、コロンブスと彼の発見の旅の実現がわれわれに投げかける数多くの謎の1つである。コロンブスは、正確に1時間後にスペイン警察、市の民兵部隊、宗教裁判の手先が、命令にも拘らずユダヤ人がスペインに留まっていないかどうか、見つけ出すために捜索に乗り出す、ということを知っている。しかし、コロンブスが、彼の従者たちがすでに夜11時に各自の部署についているのを知りたがっている、という事実は特別扱いされるものではない。われわれに謎めいて見える出来事が幾つかある。したがってこうした疑問や歴史的に証明しうる出来事はすべて、その全体の中で観察されねばならない。矛盾に満ちているように思われるコロンブスの人格も謎の解明に役立ちはしない。幾つかの出来事の関連についての理解があってはじめて状況が幾らか明らかになるのだ。

 コロンブスとユダヤ人との結び付きはけっして偶然のものではなく、両者が望んだことだったのだ。それは長い間きわめて多くの研究者の注意を引いていたし、この結び付きの理由解明に努めた、幾つかの分析のテーマであった。しかし今日に至るまで満足な結果はでていない。

 2

 ヴィーゼンタールの『希望の帆』第1章は、こういう推理小説風のやや思わせぶりな書き方で始められている。だが、さしあたりここでは、コロンブスがユダヤ人だったのか、マラーノだったのか、あるいは少なくともユダヤ系の血を引いていたのかは別として、彼の歴史の1部は、その時代のユダヤ人の歴史の1部でもあったのだ、というヴィーゼンタールの基本認識を確認しておけば足りる。コロンブスの西廻りインディアス航路を開こうとするプランは、ユダヤ人たちの希望をかき立て、だからこそ彼らによって支援されたということは、少なくとも否定できない事実だろう。

 だが、それにしても、コロンブスのプランは大きな冒険だった。当時の天文・地理学をはじめとする科学的知識によれば、天動説の枠内ながら地球球体説は常識化しており、さらに航海術・造船などの技術的支えもある程度はあったとはいえ、女王が組織した諮問委員会は、数度にわたって、その成功可能性を、とくに莫大な費用を使ってはたしてそれに見合う利益が得られるかという採算可能性を否定している。にもかかわらず、イサベラ女王が、そしてその側近にあったアラゴンの財務官サンタンヘルをはじめとするユダヤ人たちが、この危険な賭けに踏み切り、それを促進したのは、どのような衝動に突き動かされていたからなのだろうか。コロンブスの航海に働いていた動機は何だったのか。必ずしもコロンブス個人の心理的思惑ではなく、この事業を推進した集合的動機が、しかもそこに働いている、相反する2つの方向を区別することが問題なのである。言い換えれば、コロンブスの事業を支援した人々の動機はけっして単一ではなく、彼の航海には、それぞれ別の期待が、異なった夢が託されていたのではないか。そのことをじっと胸の裡に折りたたんで、1492年8月3日の日の出前、コロンブスは希望の帆をあげてパロマ港を船出していった。その時、朝風にはためくサンタ・マリア号の帆に、コロンブス自身は、どういう希望を投影していたのだろうか。

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 ●『寛容の文化』 マリア・ロサ・メノカル 2005年 名古屋大学出版局
 
 ★アルハンブラにて 1492年、グラナダ

 国王陛下とその継承者は以後、(グラナダ市民が)自らの信仰を奉じて生活することを許可する。そして彼らのモスク、彼らのミナレット、彼らのムアッズィンが強奪されることを許さず、彼らが敬虔なる目的のために行った奉献や寄進に干渉したり、彼らが遵守する習慣や慣行を妨げたりすることもないだろう。    ダラナダ降伏協定文書、第6条より


 1492年1月2日、ローマ教皇の勅書によりカトリック両王として知られることになる統一スペインの君主が、急勾配を歩みのぼりながら、宮廷都市・アルハンブラヘと通ずる丘にずっしりとした1歩を踏み出した。それは頂上へと向かう険しい登坂路であり、下方に急峻な谷を望む宮殿は重々しく防備されていた。だが、カスティーリャ女王とアラゴン国王 ―  いずれも敵対した異母兄弟、ペドロ残忍王とエンリケ・デ・トラスタマラの血統に連なる遠い親戚同士で、前者はペドロの曾々孫、後者はエンリケの曾々孫であった ― は、いかなる抵抗にも遭遇することはなかった。この土地自体がすでにカスティーリャ軍の掌中に握られていたので、このムスリム要塞の占領は純粋に儀礼的なものだったのである。年代記作者が描写しているように、最上級の衣服、モーロ風の長衣に身を包んだカスティーリャ女王と彼女の配偶者のアラゴン国王は、ナスル朝の凝りに凝った居室に歩み入り、この宮殿を自らの新たなカサ・レアル、すなわちスペイン国王の居館に定めた。このシーンを演ずるにあたり、アラブ風の衣服に身を包み、まるで自分たちが永遠の持ち主であるかのように宮殿へと入ったイサベルとフェルナンドは、自分たちがこの宮殿がたたえるものすべての文化的な相続者にほかならないことを実感した。イサベルはセビーリャで女王に即位し、彼女の父祖たちの家、アルカーサルをよく知っていた。彼女がはじめてアルハンブラを目にしたとき、それが彼女自身の宮殿の力強い原型であることに気づいたのはその両の目であったし、居室の外観や庭園の噴水が奏でる者にこのうえない親しみを覚えたのもその美的感性であった。勝利をおさめたキリスト教徒の君主がグラナダのムスリムに保証した宗教的自由は、当の君主たちがグラナダ人のファッションを身にまとうのと同じくらい根拠のあることだったといえるかもしれない。イサベルはまだ新たな家・アルハンブラのクローゼットをぜんぶ開け放っていなかったが、彼女の父祖たちが何百年にもわたってアンダルス人の箪笥を引っかきまわしてきたので、彼女はその1部をどうやって身につければよいか充分にわかっていた。もちろん、ムスリムに賦与された保護に疑念を抱くのももっともなことであった。けれども、希望を抱く根拠があったことも事実であった。

 250年にわたってムスリムの要塞であったこの都市のあきらめの言葉というべき降伏協定は、数ヶ月前の1491年秋、ナスル朝最後の国王にしてボアブディルの名で知られるムハンマド12世とカトリック国王との密約を介してすでに合意に達していた。都市には血しぶきもあがらなかったし、貴重な宮殿にいかなる損害も生じなかった。有名な「ムーア人の最後の溜息」という表現が、ほぼ3世紀にわたってナスル朝の都であったグラナダをボアブディル自身が放棄しなくてはならなかった悲哀を見事に浮き彫りにしている。年月を越えて語りつがれる逸話のなかには、ボアブディル自身が、グラナダをあとにする際に悔悟の念を抱きながら溜息をついたとするくだりは見あたらず、ただ彼が男らしく守ることのできなかった宮殿のために女のように泣き叫ぶのはよくないと、母親によって厳しく戒められているのみである。けれども、この歴史的瞬間にボアブディルが「男らしく」闘うべきだったかは、簡単には答えようのない問題である。そのとき、グラナダにとっては - 自分の息子が人質にとられていたボアブディル自身にとっても - 手札が完全に行きづまっており、あきらめるよりほかになかったのである。

 ボアブディルは1月2日の式典で、父祖の家、アルハンブラの鍵をフェルナンドとイサベルに手渡した。彼が懸念したことが自らあとに残したもの、そしてグラナダの大勢のムスリムに本当に起きることになるなんて知る由もなかったろう。わたしたちの歴史的な展望にもかかわらず、避けられなくはなかったことは、イサベルとフェルナンドによる丘の上への勝利の行進のあとに続いた一連の出来事であった。★カトリック両王はほんの短期間のうちに、自らボアブディルとともに署名した降伏協定を破棄したのである。都市グラナダ、そして王国そのもののあきらめの言葉は、ムスリムが自らの信仰をおおっぴらに、新たなキリスト教国家の内部で完全な市民としていかなる迫害もなく実践することを許可する条項を明記していた。それはけっして革新的な条項ではない。なにしろムスリムは、政治地図が複雑に変化するなかで、新たにキリスト教国家となったこの同じ土地で何百年にもわたって生活してきたのである。イベリア半島のキリスト教徒は、ウマイヤ朝が半島にもちこんだズィンマの諸原則をおおむね吸収し、トレードのような土地でさえ - スペイン教会の中心であり、カスティーリャ歴代国王の首都のひとつでもあった - 、ユダヤ人とムデハルの共同体が存続するのみならず、文化的営為の不可欠な部分をなしてきたのであった。もちろん問題はそうした状況そのものから生じたのであり、こうしてムデハルの処遇はますます悪化することになった。危機はしばしば彼らの反乱によって引き起こされた。両陣営の宗教的権威はそれを、キリスト教徒統治下でムスリムが生活するには受け入れがたい、それどこらか罪深いことと布告した。けれども、ときには儚く終わりもしたが、さまざまな措置が当時の複雑な文化の深奥にとどまり、そのまま維持されることもあった。ムスリムは、イデオロギー的に譲歩できない部分を除けば、自分たちなしですますことなど想像すらできなかったキリスト教徒諸国家において、社会的にも経済的にも、はたまた文化的にも不可欠の役割を果たしてきたのであり、実際のところ、政治的スペクトルを横断するキリスト教スペイン人が、彼らの土地で生活するムスリムを自分たちと同じようにスペイン人とみなしていた証拠もそこかしこにあるのである。ムデハルは、ウマイヤ朝カリフ国が解体して以来ほぼ5世紀以上にわたって、半島の社会的・文化的景観の1部をなしてきたし、自分たちがキリスト教徒スペイン全土で手を貸した建築物と同じくらい、目に見える日常であった。だが、大部分のグラナダ人にとって、北方の土地は日々目にする雪帽子をかぶった山々を越えればすぐそこにあるのに、もはや何千マイルも彼方にあるように感じられた。ボアブディルは知っていた。彼らムスリムが順応しなくてはならない変化はとうてい受け入れがたいものであることを。彼らは、ウマイヤ朝とターイファの時代を生きてきた父祖たちと違って、キリスト教徒はおろか、ユダヤ人とさえ一緒に暮らしたことがなかったからである。

 ボアブディルから宮廷都市の鍵を渡されるや、キリスト教徒はその中世的伝統、わけてもカスティーリャ的伝統が彼らに教えるとおりにふるまった。彼らはナスル朝の宮殿に入るだけでなく、敬虔なイサベルはモスクを教会に見立て、そこで祈りを捧げはじめたのである。それらは、手にした財産を両の手を広げて抱擁し、それを受け入れるのにとくべつ考える必要もないくらい熟知していた者がする行為であり、アラビア文字が全面に書かれた宮殿や、手を儀礼的にかざせばモスクを完全に正しい教会に変えてしまえるような文化を、けっして異質なものとみなしていなかったことの証である。何世代ものあいだ、歴代のキリスト教徒スペインの国王が与えた保護により、ナスル朝の豪華絢爛たる記憶の宮殿は比較的良好に保たれ、イスラーム世界のなかで最もよく保存された中世以来のイスラーム宮殿となった。だが、★協定の破棄とその後のムスリムの残酷な迫害は、わずかな時間のあいだに、国王居館を隅々まで覆う豪華な言語が禁じられた言語になってしまうこと - そしてそれを読める者も真のスペイン人ではないと通告されること - を意味した。ムスリムは改宗を迫られ、改宗した者はモリスコと呼ばれた。アラビア語で書物を読むことは禁止され、たくさんの書物が焚書の憂き目に遭ったのである。
           
           ☆

 キリスト教徒スペインからのユダヤ人追放を旨とする王令が、グラナダの降伏からちょうど3ヶ月後にアルハンブラの新たな住人によって署名された。カトリック両王は、10・11世紀、かの偉大な詩人、シュムエル・ハナギドがイスラーム・ターイファのワズィールにして軍隊の司令官を務めていたころ、まさに繁栄のきわみにあったユダヤ人共同体が敷いた土台の上にナスル朝の宮殿が建てられていることをはたして知っていただろうか。1492年3月31日のユダヤ人追放令の発布は、ユダヤ人共同体のいたるところに甚大な驚きと失望を引き起こした。けれども、このときもたらされた明らかな衝撃が実際にどれほどのものであったかは、それがその後も長らく続いたことを伝えるさまざまな物語によってまちまちで、かならずしも一致していない。

 この出来事ほど、ユダヤ人と新キリスト教徒 - 後者はユダヤからキリスト教に改宗した人びとを指す - 、何世紀もの間ずっと、キリスト教国の統治府の最上位を占めてきた最も学識ある人びとのまわりに黙示録的な作用をおよぼしたものはなかった。長きにわたってイサベルとフェルナンドの親密な助言者を務めてきた人びとは突如、信用ある顧問として宮廷に仕えることはおろか、自らの祖国に住むという単純きわまりない権利さえをも懇願しなくてはならないという尋常ならざる状況下におかれていることに否応なしに気づかされたのであった。

 両君主に直接進言できたユダヤ人のなかで最も聡明で口の立つイサーク・アブラヴァネルは、なしうるかぎりすべてのことをやった。ユダヤ人がどこにもまして繁栄を享受した故郷を失うという残酷な悲劇に直面し、激しく狼狽して卒倒しそうになりながら、アブラヴァネルはある種の典礼的な象徴主義に救いを見出した。彼は、ささやかながら、明らかに象徴的な意味をもつ終末の日の延期を、つまりユダヤ人追放を本来規定された7月31日(追放令の発給から4ケ月後)から8月2日に変更する措置を交渉によって勝ちとったのである。1492年の8月2日は偶然にも、ユダヤ暦におけるアブ月の9日、イェルサレムの神殿の破壊を記念する日、そう、まさしく最初のディアスポラが始まった日に一致していた。のちの歴史家のなかには、かくも重大な日付の調整についてアブラヴァネル本人が説明したことに異議を唱える者もいるのだが、いずれにしても真実は、アブラヴァネル - 確実に彼ひとりではなかっただろう - が当時の悲劇を神殿の破壊以来、ユダヤ史において並ぶものがないものと認識していたということである。追放令を撤回するようイサベルとフェルナンドを説得することができなかったので、宮廷ユダヤ人のなかで最も影響力のあったこの人物は、失うものの大きさと深さがどれはどのものだったかをともかく歴史だけは知っているようにと、この第2のディアスポラの日付を最初のそれを記念する日と一致させようとしたのであった。アブラヴァネルは、未来永劫にわたってはっきりさせておきたかったのである。セファラッドと呼ばれたスペインからの追放が、約束の地での長きにわたった逗留の破滅的な終末にほかならなかったことを。

 アブ月の9日の裏面では、セファルディーム、すなわちスペインのユダヤ人は方々に離散してしまい、彼らがわずか4ヶ月のあいだにまとめたほんのわずかなものはつめこまれたり、棄てられたりした。ディアスポラの只中でその身に携えられた最も貴重なものといえば、彼らが最も愛着のあったものを純粋に象徴するもの、すなわち自宅の鍵と彼らが話した15世紀のカスティーリャ語くらいであった。離散した人びとのなかには、アブラヴァネルの偉業を讃える者もいた。彼らはのちに、悲劇を終末論的な言葉で理解し、目前に迫るメシアの到来を予百しはじめることになる。ユダヤ人のおぞましい離散に対するアブラヴァネルの嘆きからすれば、辛辣な皮肉というほかない光景が、パレスティナ北部はサフェドで演じられている。「出スペイン」のおかげで、サフェドはカバリストの集う有名な中心都市となったのである。その街路では、ユダヤ人離散者が話すロマンス語、彼らがラテン語の意でラディーノ語と呼ぶ言語 - つまりはヘブライ語でもアラビア語でもない言葉 - 、わたしたちが古スペイン語の1形態として認識している言語があちこちから聞こえてくる。けれども、失われた土地の言葉はもはや、アブラヴァネルやスペインから離散した第1世代の人びとには本来の心地よい響きを奏でていない。彼らにとって、イェルサレムをとりまくパレスティナそのものが、真の約束の地と感じていたセファラッドから遠く隔たった土地であった。それが、離散という最も痛苦な選択をした人びとの運命であった。彼らは、自らの手に携えてきた鍵の合う家、自らの手に握られた記憶の宮殿をふたたび目にすることはなかった。だが、かつてマイモニデスが擁護した便宜上の改宗といういまひとつの選択肢があり、1492年にもその後にも数多くの人びとがこうした道を選びとっている。追放規定は文字どおり改宗者の意であるコンベルソとか、(もっと侮蔑的に★「豚」を意味する世俗語で)マラーノと呼ばれた改宗ユダヤ人には免除されたので、それは大きく開かれた運となった。ここでは、はっきりとした異論の余地のない数字は挙げられない。ある人は大半が離散したと言い、ある人は大半が改宗して、あるいは改宗したふりをしてとどまったと言う - ただ、後者の選択をした人びととその子孫、なかば秘密にされなくてはならなかった複雑きわまりない彼らの生こそが、スペインにおいても、1492年初頭にはいまだ夢想すらできなかった土地においても、キリスト教徒スペイン人社会の構造の核心をなすことになるのである。

              ☆

 ルイス・デ・トーレスは、1492年8月3日にパロスの港をあとにした。8月2日、ヘブライ暦のアブ月9日にいたるまでの数週間と数日は、旅立つのに充分な資金確保に奔走する死に物狂いの大勢のユダヤ人でどこもごった返し、悲しみと混乱に満ちていた。その他大勢は、半狂乱になったように洗礼盤へと奔走した。グラナダで発給された王令は、ユダヤ人の改宗が目的であり、洗礼を受けたユダヤ人は故郷に残る資格を得るというものだった。もっとも、ムスリムに対する宗教的寛容を保証したものと同じように、この約束もまた幻想にすぎないことが証明されることになる。
新キリスト教徒はみな、のちに強いられた改宗のなかで悪しき信仰を保持していると疑われ、そのために迫害を受けることになったからである。だが、8月3日、第2のディアスポラの最初の日は、自らの信仰を公然と保持し、故郷を棄てる選択をした人びとの最後の1団がわれ先にと旅立とうとして、港は立錐の余地もないほどであった。

 ルイス・デ・トーレスは、ユダヤ人追放令の署名に実際に立ち会ったひとりの人物とともに旅立った。彼らはその日の朝、セビーリャの下流に位置するものの、海岸に沿って8マイル東のカディスほど大きくも利便性がよくもないパロス港を出港する3隻の船のひとつに一緒に乗りこんだ。こんな日には、選り好みなどしていられなかった。こうしてクリストファー・コロンブスは自身の3隻の船と、スペイン船団に加わるべく公式に洗礼を受けたか、もしくは受けなかったかもしれないユダヤ人の通訳とともに旅立った。どっちにしろ、ルイスは、コロンブスが彼の行く手で通じるだろうと期待した言葉を話すために、彼と連れ立っていったのである。なにしろインディアスの話し言葉は、異教を奉じながら文明的な世界ではつねづねそうだったように、アラビア語のはずだった。悲喜こもごもの状況と憶測から生まれたこのシーンの底を流れる皮肉に対して、笑うべきか、泣くべきか、誰が判断できるというのだろう。のちに自分が発見したいと願ったとおりの特徴を宿す大きな島にたどり着き、人々が「クバナカン」の言葉を話すのを聞いたとき、コロンブスは彼らこそが自分が探していた「グラン・カン」(すなわち大ハーン)にあたると信じこみ、ルイスをヨーロッパ人とアメリカ新世界の人々との史上初の外交の場に送りこんだ。その島の後背地で、ルイスはモンゴルの君主ではなく、キューバの部族長に出会ったのである。こうしてふたりの男たち、タイノ人の首長とアラビア語を話すユダヤ人はいささか心もとない会談を始めたのであった。

 1492年という大きな分岐点の裏側で交わされたこうした会談は、翻訳家たちがほの暗く危険な記憶とみなされ、カスティーリャ語だけが「旧キリスト教徒」あるいは純粋なクリスティアーノの言語、それどころか、全体のうちのひとつではなく唯一絶対の言語になってしまった世界のいたるところで早晩交わされることになる。この驚くべき年の夏のあいだ、コロンブスと大勢のユダヤ人たちが想像するよりなかった土地で自らの荷物を積みこんでいたころ、近代ヨーロッパ言語初の文法書が編纂されている。『グラマティカ・デ・ラ・レングア・カステリャーナ(カスティーリャ語文法)』は、自らの書物を古色蒼然とした宮殿ではなく、もちろん記憶の宮殿などではなく、遥かに近代的な建築物と認識する著者アントニオ・デ・ネブリーハその人によって女王イサベルに献上された。翻訳家たちの古い時代はかくして終わりを告げた。近い将来、新たな帝国の新たな時代が、新たな言語とともにすべての古いものにとって替わる。古き戦いは敗れ去り、ネブリーハは自著の序文で、古き宗教は脇に追いやられ、古き言語は翻訳されつくしたと書いた。「耕すべきものはもはや平安のみ」と。

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  ●『原爆の秘密 国外編』 鬼塚英昭 成甲書房 2008年8月 
 
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  ★私(鬼塚)はどうして「原爆の秘密」を知りえたのか [序として]

 1945年8月6日広島に、その3日後の9日には長崎に、アメリカは原爆を投下した。日本の敗戦はすでにはっきりしていた時期であった。私はながい間、「どうしてアメリカは日本に原爆を落としたのであろうか」と考え続けてきた。アメリカ側からの本もたくさん読んできた。日本人が書いた本も同様にたくさん読んできた。しかし、私には疑問が残った。

 日本は敗戦(「終戦」という言葉になっているが)工作を続けていた。アメリカは、その日本の敗戦工作の詳細を知りつくしていた。広島に原爆を投下する1週間前に、アメリカは原爆投下の最終準備に入った。天候だけが問題であった。それと同時に、アメリカは無条件降伏を日本につきつけていた。日本国民は、日本政府の敗戦工作も、アメリカを中心とする連合国の敗戦提案も何ひとつ知ることがなかった。

 それだけではない。広島では、原爆投下直前の8月3日ごろから、投下の中心地付近に多くの学童・生徒が集められていた。しかも、原爆投下の直前にもかかわらず、アメリカ軍機の空襲の情報さえ、広島市民は何ひとつ知らされなかった。長崎市民も悲劇に放り込まれた。広島の原爆投下についての情報をほとんど知ることがなかった。

 私は、広島と長崎に落とされた原爆について調べているうちに、常識では考えられないような矛盾点を数多く発見した。そのためにもアメリカ側の資料を読み、原爆とは何か、どうして原爆がつくられるようになったのか、どのような過程でつくられていったのか - を調べていった。そしてついに、アメリカがどうして原爆を投下したのか、という私の積年の疑問が少しずつ解けていくのが分かった。

 私は原爆製造の謎に挑むことによって、原爆投下の謎を解明しえたのである。従来の原爆投下説と私の説は、全くといってよいほどに異なる。読者は私の本により、原爆投下は何よりも、国際金融寡頭勢力とも呼ぶべき集団が主役であると知ることになる。

 私たち日本人は半世紀以上にわたり、騙され続けている。私たち日本人は、真実に眼をそらさずに直視しなければならない。もし、現状のままでいるのなら、広島と長崎の悲劇がふたたび繰り返されるであろう。

 この本を、広島と長崎で死に、あるいは傷ついた人々に捧げたい。

 2008年7月、またあの日を目前にして     鬼塚英昭

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 ●第1章 アインシュタイン書簡と「原爆カネ儲け協定」

 ★「アインシュタイン書簡」という伝説

 アルバート・アインシュタイン博士よりルーズヴェルト大統領への書簡をまず読んでみよう

 1939年8月2日付。レスリー・R・グローブス『原爆はこうしてつくられた』 1964年、より引用)。

 E・フェルミとL・シラルト〔シラード〕の最近の若干の仕事が私の手許に原稿のまま送られてきました。私はこの仕事の内容から、ウラン元素を近い将来に新しい重要なエネルギー源に転換することが可能であろうと期待するようになりました。このため生じた状況のいくつかの面を考慮すると、警戒を払うことが必要な模様であり、またもし必要とあれば、政府が迅速な対策を講ずべきだとも思われます。したがって、私は次の事実と勧告に閣下の関心を引くことを自分の義務と信ずるものであります。

 この4ヵ月間のあいだに、フランスのジョリオ・キュリーならびにアメリカのフェルミとシラルトの仕事を通して、大量のウランの中に核分裂連鎖反応を起こし、それにより巨大な力と新しいウランに似た大量の元素を放出することが可能となるかもしれない - そうした見込みが生じてきました。これを近い将来に実現できることは、今やほぼ確実であると思われます。

 この新しい現象はさらに爆弾の製造にも適用されるでありましょう。そして - 確実性はずっと低くなるが - このやり方によって新型のきわめて強力な爆弾をつくり出せることが考えられます。この型の爆弾を船で運んで港内で爆発させるならば、1発で港全体ならびに周囲の地域を破壊できる公算が非常に大きいのであります。しかし、このような爆弾は空輪するにはあまりに重すぎるおそれがきわめて大であります。

 合衆国はウランについてはきわめて含有量の少ない鉱石をいくらか所有するにすぎません。カナダと旧チェコスロバキアに若干の良質の鉱石があるが、最も重要なウラン産地はベルギー領コンゴであります。

 以上の状況にかんがみ、政府とアメリカにおいて連鎖反応に従事している物理学者との間にはなんらかの恒常的な接触を保つことが好ましいと考えられます。これを実現する1つの可能な方法は、閣下がこの仕事を、信頼できかつ非公式な資格で従事できる人物に委任することかもしれません。その場合、その人物の使命は次のようなことになるでしょう。

 1、政府諸機関に接近し、関係各省に今後の新しい動きをたえず報告し、政府のとるべき措置に関して勧告し、とくに合衆国のためウラン鉱の供給を確保する問題に着目する。
 2、現在のところ大学の諸研究室の予算の範囲内で進めているこの実験作業を促進し、そのために資金が必要であれば、この大事業のために貢献することを望む民間人との接触を通じて資金を調達し、また必要な設備を有する工業界研究所の協力を得ること。

 ドイツは同国が接収したチェコスロバキアの鉱山からのウラン売却をじっさいに停止させたと聞き及んでいます。ドイツがこのようなすばやい措置をとった理由は、いまウランに関するアメリカの仕事の若干が反覆されているベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所に、ドイツの外務次官フォン・ワイゼッカーの息子(C・F・ワイゼッカー博士)が配置されていることから、おそらく理解できると思われます。

 以上が「アインシュタイン書簡」である。だが、この書簡はアインシュタインが直接書いたものではない。この書簡を実際に書いたのは、ハンガリーからアメリカに亡命したユダヤ人の物理学者レオ・シラードである。

 デニス・ブラインの『アインシュタイン』から引用する。

 リーオ・ジラード〔レオ・シラード〕はハンガリー系ユダヤ人で、1920年代にアインシュタインと一緒に仕事をしたこともあるが、やはりドイツ人が恐ろしい武器を手に入れたらどうなるかと悩んでおり、そのことしか考えられないほどだった。彼は、ハーンが中性子を使ってウランの分裂に成功するよりも5年近く前に、連鎖反応を平和的に利用できる可能性を予言していた。ジラードも友人のウィグナーも「ドイツがベルギー領コンゴのウラン鉱石を手に入れ、それを使って原爆を製造することを恐れていた」。ウィグナーはチェコスロバキアのウランでも充分に原爆がつくれることを知っていたので、この問題をシラードほど深刻には受けとめていなかった。だが、2人とも、ベルギー政府にこの脅威を警告して、ドイツにこれ以上、ウラン鉱石を与えないためにはどうすればいいかと考えていた。そして、アインシュタインがベルギーのエリザベート皇太后と親しいことを思い出した。彼から皇太后に手紙で警告してもらえばうまくいくかもしれない。

 ウィグナーによると、それは[1939年]7月のことで、アインシュタインがロングアイランドの別荘にいることを知っていた。・・・略・・・

 ★第2章 誰が何のために原爆をつくったのか

  ★ナチス・ドイツ帝国を育てた巨大帝国

 (現アメリカ大統領・ジョージ・ブッシュの祖父はプレスコット・ブッシュである。このプレスコット・ブッシュはブラウン・ブラザーズ・ハリマンの重役として、ナチスドイツとの交渉役を演じて、ヒトラーへの財政援助やドイツでの投資業務で主導的な役割を果たした。・・・ナチス・ドイツはユダヤ財閥と深く関係したニューヨークのウオール街が産み、育てたのである。)
 ・・・1942年10月、日本と英米が開戦して10ヵ月が過ぎた。だが、UBC(ユニオン・バンキング・コーポレーション)はナチスヘの資金融資を続けていた。この10月20日、プレスコット・ブッシュ指揮の下で活動中のナチス政府の銀行業務の停止をアメリカ財務省が命じた。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙がUBCの秘密を暴いたからである。

 1926年、W・A・ハリマン社はヒトラーの最も重要なスポンサーであるフリッツ・ティッセンのために1つの組織をつくった。この組織にウォール街のユダヤ人銀行家で、俗に「死の商人」と呼ばれるクラーレンス・ディロンを迎えた。ここに、新ドイツ・スチール・トラストが出来あがった。この組織のためにティッセンは複数の代表者をディロン・リード社に送り込んだ。ナチス・ドイツの外債を引き受けたのである。

 ドイツの鉄鋼トラストも、新ドイツ・スチール・トラストも、アメリカ資本によってつくられたのである。

 1939年にナチスはポーランドに侵攻する。しかし、フリッツ・ティッセンとブッシュはポーランドから石炭、鉄鉱石を掠奪し、これをナチス・ドイツに売りつけたのである。

 私はヒトラー誕生の1つのエピソードとして、1932年、在ベルリンのアメリカ大使がワシントンに送った報告書について前章で触れた。ナチス党を支持し、そのための資金を提供した最大のスポンサーはドイツのハンブルクを拠点に活躍するウォーバーグ財閥であると書いた。ナチス・ドイツがユダヤ人によってつくられた事実を知ると、第二次世界大戦が何であったかの秘密の大半が解けてくる。それはまた、原爆投下の秘密を解くことに繋がるのである。

 ヒトラーはユダヤ資本を受け入れ、ユダヤ資本に助けられ、そしてそのユダヤ人虐殺して、大戦を拡大させたのである。ロスチャイルド、ウォーバーグのようなユダヤ財閥は、自らの1族さえ安泰ならばそれでよし、とするのである。

 1934年、アメリカ合衆国は、ドイツ国債仮証券発行代理店にブラウン・ブラザース・ハリマンを指名した。ヒトラーが首相と大統領を兼務し、「総統」の名称を使用した年である。このことは何を意味するのか。ブラウン・ブラザース・ハリマンがロスチャイルドのシティバンクと同等になったことを意味する。同時に、ナチス・ドイツが武器や石油を買うためにドイツ国債をハリマンの銀行を通じて発行するということを意味する。ブッシュはドイツ国債をウォール街、ロンドンのシティ、ベルギーの王室などに売りつけるべくヨーロッパを廻る。やがてブッシュは、ロスチャイルドの経営する兵器会社のヴィッカースの兵器受託会社のために働きだす。

 では、日本はどうか。ナチス・ドイツと同様のことが日本でも起こっていた。

 1912(明治45)年、東京市は公債の1部をニューヨークで発行した。日本の外債引き受けのシンジケートはロックフェラー系のナショナル・シティバンクとモルガン系のナショナル・バンク・オブ・コマースであった。その背後でこの銀行を動かし、実質的に公債を引き受けたのは、クーン・ローブ商会であった。日露戦争の戦争債を引き受けた、あのクーン・ローブ商会である。当時の東京市でさえ、ユダヤ金融機関から資金を調達したのである。日本はアメリカから屑鉄を輸入し、それで船や武器をつくった。アメリカが屑鉄の輸出を禁止したとき、すでに日本の敗戦は決定していた。

 ナチス・ドイツに無限に近い援助を続けてポーランドを進攻させたのとちがい、日本は屑鉄や石油の輸入ができなくなり、真珠湾攻撃をするのである。・・・略・・・

 ★ウラン鉱石はニューヨークにあった

 (冒頭の[アインシュタイン書簡=シラードが書いた]に「・・・アメリカ合衆国にはごく低品質のウラン鉱石が少しあるだけです。・・・」と書かれているが、そのとき、ニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫に大量のウラン精鉱がすでに貯蔵されていた。倉庫はベルギーのユニオン・ミニエール(UM)のものであった。・・・と藤永茂は『「闇の奥」の奥』に書いている。) ・・・略・・・

 2007年12月18日、私はある友人から、★藤永茂のインターネット上のブログのプリントを受け取った。この文書に先に引用した文章(要約した)が出ていた。私は自分が書いていたコンゴ産のウラニウムについて、同じような興味をもって書かれている文章に初めて接して驚いた。 


(★藤永茂氏のブログは、
 → http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/ から
 当該月日のバックナンバーで読めます。
 冒頭、【コンラッドの『闇の奥』を藤永茂の新訳(三交社)で読んで下さい】とあります。)
 
 
 このコピーを読んだ日の翌朝、私は福岡市に住む藤永茂氏に電話した。まことに申し訳ないと思ったが、すぐに、私は別府発の福岡行長距離バスにとび乗って、博多の天神にあるホテルのロビーで藤永氏に会った。偶然が重なっていた。その前日、私は藤永氏の著書の『ロバート・オッペンハイマー』を読んでいた。藤永氏は著作に経歴を書いている。 ― 1926年中国・長春生まれ、九州大学理学部物理学科卒。64年九州大学教養学部教授(物理)。68年カナダ・アルバータ大学理学部教授(化学)。91年同大学名誉教授。

 たくさんの著書の一つに『アメリカ・インディアン前史』(朝日新聞社)があった。私は「どうしてこの本を書かれたのですか」と問うた。白髪の老紳士は笑みをうかべ静かに語り出した。

  「私はカナダの大学で教授をしていたとき、カナダのインディアンの悲劇を知ったのです。それが非常な驚きで、この本になったのです。ベルギーのコンゴ産のウラン鉱山も1つの偶然です。コンゴの人々の悲劇を知り、本に書いたからです。それが原爆へと結びついたのです」
 書きかけの原稿を持参していた私は、コンゴのウラン鉱についての部分をお見せした。私は別の方向から、世界を支配する巨大カルテルを追求していき、ベルギー頷コンゴのウラン鉱にたどりついたのである。その経緯を先生に説明した。

 藤永氏はブログで次のように書いている。

 ・・・これ〔『「闇の奥」の奥』〕を書いた時点で、上〔ウラン鉱山〕の「奇態な事実」についての調査が極めて不十分であったことのため、上の記述に時間的な勇み足を犯していたことをお詫びしなければなりません。しかし、この知識に足りなさは、私に限られたことではなく、アインシュタイン書簡を書いた当のシラードも知らなかったことだった筈です。今では話の辻棲が大体合うようになりましたので報告します。

 この文章を読んで分かるように、藤永氏は心やさしき科学者である。氏は原爆誕生の経緯を書いている。文書は非常に理解しやすい。続ける。

 1932年、英国のチャドウィックが電荷を持たない素粒子である中性子を発見。1934年、イタリアのフェルミは中性子を多数の元素に当てて人工放射性元素を作ることを始めました。フェルミの1番の狙いは、天然に存在する最大の原子番号(Z=92)を持つウランの原子核に中性子を当てて、天然には存在しないZ=93、94の新元素を人間の手で作ることにあったのですが、お目当ての新元素が出来た証拠は一向に見付からない。1935年から1938年にかけて、ドイツのハーン、マイトナー、ストラスマンのチームも同じ試みを辛抱強く続けたのですが、超ウラン元素が出来た確証は得られませんでした。それもその筈、ウラン原子核は遅い中性子を吸収して、大きな運動エネルギーを持つ2つの中型の原子核に分裂していたのです。1939年1月になって、スウェーデンでマイトナーとフリツシュによって、やっと核分裂の事実が確認されると、革新的なエネルギー源としてウランを使う可能性が、世界中の原子核物理学者の頭の中で閃きます。中性子の当たったウランが勢いよく2つに分裂して、その際にまた2個以上の中性子がこぼれ出ることになると、その中性子が別のウランを分裂させ、連鎖的な分裂反応の進行が期待されます。この中性子の放出が実際に起こっていることを確かめる実験は、フランスのパリでジョリオ、ハルバン、コワルスキーのチーム、アメリカのコロンビア大学でフェルミとシラードのチームによって競争的に行われました。フランスのチームは実に手回しがよく、実験成功の翌月の1939年5月の1日と4日には、ウラン核分裂のエネルギーをゆっくりと取り出す方法(今で言えば原子炉)と爆発的に放出させる方法(核爆弾)について2つの特許を申請しました。

 原子爆弾が誕生する物語が簡明に書かれている。私は藤永氏から、この物語の具体的な説明を受けた。しかし、氏以上にこの物語を簡明に読者に伝える自信がない。私は私なりに原爆の原理を独学で学んできた。しかし、原爆製造の原理については書かない。それでも、別項でウラン爆弾とプルトニウム爆弾については触れる。この点についても藤永氏の学説を借用する。

 さて、藤永氏はベルギー領コンゴについても書いている。先ほどの文章の続きである。

 ・・しかも、〔1939年〕5月8日には、ジョリオ(仏)はベルギーの首都ブリュッセルに足を運んで例のユニオン・ミニエール社(UMHK)の幹部たちに今後のウラン鉱石の重要性を説明し、その買い付けを申し出ました。その時のユニオン・ミニエール社の社長(ディレクター)が問題の男エドガー・サンジェーだったのです。

 1915年、コンゴのカタンガ地方の南部のシンコロブエで優良なウラン鉱石が発見されましたが、1934年、ジョリオが奥さんのイレーヌ・キュリーと共同ではじめて人工放射性元素を作るまでは、イレーヌのお母さんが発見したラジウムの方が天然放射性元素として人気を独占し、ラジウムを抽出した後のウラン鉱石は、そのまま放置されていたのでした。1939年当時のシンコロブエのウラン鉱山には膨大な量のそうした残渣としてのウラン鉱石が堆積していたのです。それが、突然、重大な戦略物資となる可能性をジョリオ博士の話から嗅ぎ付けた、文字通りの「山師」エドガー・サンジェーは一世一代の大ギャンブルに出ます。1939年といえば第二次世界大戦勃発の年、ジョリオの訪問を受けた直後、つまり、大戦勃発の直前に、ベルギー人、エドガー・サンジェーはシンコロブエに堆積していたウラン鉱石の半分に当たる約1200トンを秘密裏にニューヨークに送り、スタテン島のユニオン・ミニエール社所属の倉庫に隠蔽、貯蔵したのでした。戦争が始まると、サンジェー本人もニューヨークに移住しウォール街にオフィスを開いて、そこからユニオン・ミニエール社の事業を指揮することを始めました。

 アメリカの原子爆弾製造計画「マンハッタン・プロジェクト」は、レスリー・グローブス将軍の総指揮の下で1942年初夏、具体的に動き出しますが、その9月、グローブスの副官ニコルズ大佐はグローブスに命じられてウォール街のエドガー・サンジェーのオフィスに行きました。ニコルズ大佐の任務は原子爆弾に必要なウラン資源を確保することにあり、最も有望視される供給源としてのカタンガのシンコロブエ・ウラン鉱山を所有するユニオン・ミニエール社がどの程度素早くウランを提供できるかをチェックするのが目的でしたが、グローブスもニコルズも早期確保は容易ではないとばかり考えていました。ところがニコルズをにこやかに迎えたサンジェーは、”Youl can have the one now ,it is in New York,a thousand tons of it , I was waiting for your visit” と言って、ニコルズの度胆を抜いたのでした。まさにその通り、グローブス将軍の鼻の下、ニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫に1200トンのウラン鉱石が、高値を付ける日を持って、秘密裏に2年間も寝かされていたのです。ウラン鉱石は直ちにアメリカ陸軍の管理下に移され、また、陸軍の工兵軍団がコンゴに派遣され、ウラン持ち出しのための飛行場がエリザベトビル(今のルブンバシ)とレオポルドビル(今のキンシャサ)に整備され、コンゴ河のマタディ(マーロウ、コンラッドが上陸した!)に輸出港が建設されました。このルートを通って、1942年から1944年にわたって、約3万トンのウラン鉱石がエドガー・サンジェーのユニオン・ミニエール社によってアメリカ陸軍に売り渡されたとされています。・・・

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 この藤永氏のブログは、ユニオン・ミニエール社のウランがどうしてアメリカ陸軍省の手に渡ったのかを書いている。レスリー・R・グローブス将軍(グローブズ、グローヴズと表記する訳書もあるが、本書ではグローブスとする)の『原爆はこうしてつくられた』にその物語は拠っていると思われる。この本の中の「その品物をナチに渡すな」の章に、「1人の忠誠なベルギー人」としてサンジェーが登場する。グローブスは次のように書いている。

 サンギエ 〔サンジェー〕氏が9月18日に思いがけないことを打ち明けてくれたので、われわれは彼が連合国にとっていかに重要な人物であるかを知ることができ、それ以来、われわれにできるあらゆる方法で彼を援助した。支払いの方法などわれわれと彼との取決めのくわしいことは、できるだけ秘密にした。彼は銀行に特別の口座を持ち、売却したウランの代金を預金していた。また、こうした秘密を保護するため、★連邦準備銀行はこれら取引きについて報告しないように手配されていた。

 私は、グローブスの「その品物をナチに渡すな」の章を読み、思ったことがある。ユニオン・ミニエール社の社長サンジェーは単なる「雇われ社長」であり、アメリカに原爆を製造させ、その原料を売り込むために派遣された1エージェントにすぎなかったのではないかと。

 私は第1章の「ウラン鉱石を支配したロスチャイルド」の中で「30年代なかば、カナダの原資ウランが強力な競争者となりはじめるまでU・M(ユニオン・ミニエ-ル社)が世界のラジウム供給を支配した」と書いた。★グローブスの本を読むと、U・Mのウラン鉱石がないと原爆は造れないように書いている。しかし、これは嘘である。

 第1に、アメリカのコロラド州南西部からユタにいたるコロラド高原にも、含有量は少ないがウラン鉱山があり、ラジウムを生産していた。第二次世界大戦当時、この鉱山は大量のウランを生産していたのである。この会社は、ユニオン・カーバイドによって完全に支配されていた。そして、このユニオン・カーバイドはペルーのミナ・ラグラの鉱山も所有していた。この鉱山は、戦前のヴァナジウム産額の3分の1近くを供給していた。この当時、アメリカは世界産額の27%を占め、世界第2のヴァナジウム生産国であった。ウラニウムの最も重要な二次的資源を支配していたのである。しかし、ここに問題が発生する。

 ユニオン・カーバイトとその子会社のヴァナジウム・コーポレーション・オブ・アメリカがロックフェラー財閥の支配下にあった点である。この2つの会社のグループは、ナチス・ドイツのルール地方の鉱業家たちと結びついていた。この鉱業家たちを動かしていたのが、ヒトラーに財政援助をし続けた銀行組織、シュレーダーであった。この銀行組織はジョン・フォスター・ダレスの法律事務所を使った。また、ロックフェラー財閥の資金はブラウン・ブラザース・ハリマンの重役ブッシュ(現大統領の祖父)が運用した。彼らは2つの世界大戦の間、ナチス・ドイツの再軍備に1役を演じた。このことは詳しく書いた。このロックフェラーのグループにメロン財閥も加わっていた。

  ここまで書いてくると真相がかなり見えてくる。ユニオン・カーバイトの子会社とヴァナジウム・コーポレーション・オブ・アメリカは排他的なカルテルを結んでいた。ヴァナジウム精錬の副産物ウラニウムを大量に所有していたのである。

 私はサマセット・モームの言葉を引用した。モームは「軍務を離れた将軍は精彩のない街の英雄にすぎない」と書いている。グローブス将軍は、単なる連絡係であったのだ。「マンハッタン計画」とは、ベルギー領コンゴにあるウラン鉱山のウランをアメリカに売りつけようとして、ロスチャイルドとモルガンが、エドガー・サンジェーというエージェントを使い、いちはやく情報戦争に勝ったという物語の結末に生まれた計画である。

 それにしてもグローブスは世にも不思議なことを書いている。

 「こうした秘密を保護するため、連邦準備銀行はこれらの取引きについて報告しないように手配されていた」と。

 ベルギー領コンゴのウランの支払代金は、財務省と連邦準備銀行の特別勘定から出た(支払われた)のである。このときの財務長官は、ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアである。彼はロスチャイルドの血族である。

 ★「国際巨大資本」ロスチャイルド=モルガン=デュポンの暗躍

 イギリスのシュローダー銀行、ブラウン・ブラザース・ハリマン、ロックフェラーの英米独のカルテル資本グループは、対ヒトラーエ作の面のみに心を奪われ、ロスチャイルド=モルガン=デュポン連合に先を越されたのが(結果が)、マンハッタン計画となった。

 デュポンがほぼ独占化したこの計画には1つの伏線があった。

 ルーズヴェルトは大統領になると、ニューディール政策をとった。この政策は共産主義的であるという批判の声が「自由同盟」という組織から上がった。この同盟に、デュポンとJPモルガンらが加わった。ルーズヴェルトは財閥を「特権諸侯」とか、「経済的国王派」と言って非難した。ルーズヴェルトは大衆の眼前で財閥を非難したので庶民の英雄となった。しかし、化けの皮が剥がされるときがきた。

1937年、「自由同盟」のリーダー格のピュートル・デュポンの娘・エセルとルーズグェルト2世の政略結婚式が行われた。『タイム』誌の表紙を飾った2人の結婚式は「本年最高の結婚式」と持てはやされた。しかし、エセルはルーズヴェルト2世の背中にナイフを突き刺して、この結婚はご破算になる。エセルは精神病院で自殺するのである。

 私は★ルーズヴェルトがどうして大統領になったのかを書いた。ロスチャイルドの一族から金を貰い続けた彼の生涯を読者に示した。ロスチャイルド=モルガン=デュポンの力が、ロックフェラーの英米独のカルテル資本を上回ったのである。ヒトラーは単に利用されただけである。アインシュタイン書簡を書いた、あのシラードという物理学者はたぶん、多重スパイなのだ。


 (注:鬼塚は【チャーチルとルーズヴェルトの素顔-p58~63】として、2人の浪費癖やウオール街での株取引の失敗による借金生活者ぶりを描いている。そして、その借金は共にロスチャイルドに清算してもらっていたことも。「2人とも〔隠れユダヤ人〕であった。・・・ルーズベルトは本名をローズフェルト・赤いバラ というオランダ系ユダヤ人であり、彼自身もそれを認めている。」とも。
 とにかく、2人は「国際ユダヤ財閥にとってまことに都合のよい」アメリカ大統領とイギリス首相だった、という。
 また、後半の一節に★〔「私は大統領を辞めたい」 ルーズベルトの怪死と原爆〕と題して、大統領の、原爆投下に対する苦悩ぶりや暗殺説や自死説などを書いている-p175~184-がここでは略。)
 
 さて、もう1度、藤永氏のブログの続きを見ることにしよう。

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 ・・・このカタンガ生まれのウランが、1945年8月6日8時16分、広島を壊滅させたのでした。1946年、アメリカ政府は、エドガー・サンジェーの「連合国の勝利に目覚ましく貢献した功績」に対して「功労勲章」を授けます。サンジェーは、米国市民ではない人間として、勲章の初めての受章者になりました。
 拙著『「間の奥」の奥』の224~5頁に「1943年8月ルーズベルト大統領は英国首相チャーチルとカナダのケベックで協定を結び、アメリカはコンゴ産出ウランの2分の1の所有権を確保し、1944年3月に英米両国はコンゴ産のすべてのウラン買い付けの権利をベルギー政府に承認させた。銀行強盗が事前に山分けの相談をするのと何の変わりもない。ウランの産地シンコロブエは当時の英領ローデシア北部(現ザンビア)とベルギー領コンゴの国境のすぐ近くに位置する。英米のカタンガのウラン資源の一方的独占収奪はコンゴ共和国独立後の数多のトラブルの震源地をシンボリックに予告するものであった」と書きました。ウラン資源をめぐるこの英・米・ベルギーの「契約」は東西冷戦の時代まで続いたことを思えば、青年首相ルムンバにカタンガ地方の支配を委ねるというのは、反ソ陣営としては絶対に受け入れられないことであったことが、よく分かります。

 世の中には「知らないままの方が良かった」と思われる事実が沢山あるようです。コンラッドが小説『闇の奥』の構想を温めていた丁度その頃、ベルギー王レオポルド2世はコンゴ河流域の黒人たちを酷使して、密林に自生するゴムの樹の樹液(ゴム原料)を、気が狂ったように収集して世界に売りさばき、巨利を得ていましたが、実は、その金はカタンガ地方の制覇と開拓に是非とも必要だったのでした。多数の黒人原住民を死に追いやって稼いだ資金が、回り回って、ヒロシマ・ナガサキの原爆を生んだという事実を知れば、日本人ならば誰しも全くやりきれない気持に追い込まれます。          「藤永茂ブログ」(2007年11月21日)

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 この文章を読んで気になったことがある。「・・・1944年3月に英米両国はコンゴ産のすべてのウラン買い付けの権利をベルギー政府に承認させた」という点である。
 当時、ベルギーはナチス・ドイツの占頷下にあった。従って、ベルギー政府は正式には存在しない。ベルギーはイギリス国内に亡命政府をつくった。これは何を意味するのか。英米は亡命政府と交渉しただけで、正式の協定と認めさせたということだ。誰が正式の協定と認めたのか。ナチス・ドイツが英米に暗黙の了解を与えたということだ。ヒトラーはベルギーを支配している。すなわち、ベルギー頷コンゴに対しても権益を主張できる、ある程度の正当性を持っている。しかし、英米は亡命政府と協定を結んだのである。

 ユニオン・ミニエール社はソシエテ・ジェネラル銀行が支配する。この銀行はベルギー王室と金融業者が所有する私的企業であると私は書いた。★この銀行をヒトラーは支配することができなかった。どうしてか? ヒトラーはベルギーの金融資本の背後にある国際寡頭資本家に育てられて、第二次世界大戦をやらされていたからである。

 「銀行強盗が事前に山分けの相談をするのと何の変わりもない」と藤永氏は書いている。全くその通りである。
 「多数の黒人原住民を死に追いやって稼いだ資金が、回り回って、ヒロシマ・ナガサキの原爆を生んだという事実を知れば、日本人ならば誰しも金くやりきれない気持に追い込まれます」と藤永先生は最後に書く。

 ヒロシマ・ナガサキヘの原爆投下は日本だけの問題ではない。

 藤永氏は★2007年12月5日のブログで、「無題」のタイトルのもと、「ベルギー国王レオポルドニ世再考(上)」を発表している。その1部を抜粋する。

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 1906年は、たまたま、ハナ・アーレントの誕生年でもありますが、彼女は主著『全体主義の起源』の中で、レオポルド王のコンゴ植民地経営を「ベルギー国王のきわめて個人的な『膨張』に基づくだけの sui generis (特殊なもの)であった」としていますが、カタンガ地方の歴史、ユニオン・ミニエール社をめぐる国際的資本の参加侵入の歴史を学べば学ぶほど、アーレントの断定が極めて皮相的なものであったことが明らかになります。ユニオン・ミニエール社には、設立当初から、ロスチャイルドの名に象徴されるベルギーと英国にまたがる資本が参画していましたが、1907年、カタンガの北に接するカサイ地方で林業とダイヤモンド等の鉱業を始めたfフォルミニエール社という会社にも、発足当初から、米国のグッゲンハイム・グループが出資し、さらに、1950年には、ロックフェラー・グループがユニオン・ミニエール社の大株主になりました。

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 ハナ・アーレントの★『全体主義の起源』は全体主義を知るバイブルとして戦後1時期の日本で広く読まれた。しかし、この本は全体主義を秘匿するために書かれたように思う。藤永氏は「・・・ロスチャイルドの名に象徴されるベルギーと英国にまたがる資本が参画していましたが・・・」と書いている。私はこの点から、コンゴのウラン鉱山を追求してきたのである。  


 この鬼塚氏の『原爆の秘密〔国外編〕』のサブタイトルは、

 【殺人兵器と 狂気の錬金術】です。 

 長くなりすぎたので、稿を改めます。 


 
 引き続き、鬼塚氏の著から続ける。

 ●『原爆の秘密 国内編』 昭和天皇は知っていた。 


★日本人はまだ原爆の真実を知らない 「序として」

 原爆はどうして広島と長崎に落とされたのか? 多くの本は、軍国主義国家たる日本を敗北させるために、また、ソヴィエトが日本進攻をする前に落とした、などと書いている。なかでも、アメリカ軍が日本本土に上陸して本土決戦となれば多数の死者を出すことが考えられるので、しかたなく原爆を投下した、という説が有力である。

 しかし、私は広島と長崎に原爆が落とされた最大の原因は、核兵器カルテルが狂気ともいえる金儲けに走ったからであるとする説を立てて、姉妹書『原爆の秘密 国外篇』(*上に一部紹介した。)を書きすすめたのである。

 核兵器カルテルとは何か? アメリカのロックフェラー、モルガンという巨大な財閥が戦前の世界金融を支配していた。ロックフェラーとメロン両財閥は共同作戦をとり、ウラン爆弾の開発に乗り出した。すると少し遅れて、モルガン財閥もデュポンという巨大な化学トラストと組んで、プルトニウム爆弾の製造に着手した。ここに、新しくてしかも巨大な軍需産業が出現したのである。

 ウラン爆弾は、ウラン238からウラン235を抽出し、このウラン235を使い原爆を製造する。プルトニウム爆弾は、ウラン238から原子炉を用いてプルトニウムを抽出し、これを使って原爆を製造する。ウラン爆弾の製造は1945年の春には完成していた。しかし、プルトニウム爆弾の製造は遅れた。しかも、核実験しなければ実用の可能性があやぶまれた。

 1945年7月16日、プルトニウム爆弾の実験がようやく成功する。時あたかも、トルーマン大統領とチャーチル首相(英国)、スターリン首相(ソ連)がポツダム会談をしていたときであった。この実験が遅れ、プルトニウム爆弾の完成が遅れたために、日本の降伏も遅れたと私は書いた。それは、核兵器カルテルのために日本の敗戦が遅れたことを意味するのだと私は結論した。この原爆製造と投下の総指揮をとったのは、陸軍長官ヘンリー・スティムソンである。彼はモルガン財閥の一員でもある。アメリカのみのためではなく、モルガンのために、国際金融寡頭勢力のために、要するに核兵器カルテルのために、スティムソン陸軍長官は原爆投下の総指揮をとったのである。

 そのために、スティムソンは日本の「あるルート」を通して昭和天皇との秘密交渉を続けた。原爆を完成し、これを広島と長崎に落とすまで、天皇に敗北宣言をさせなかったのである。無条件降伏とは、原爆を落とすために考え出されたアメリカの謀略であった。何も知らない日本人は完全にスティムソンと天皇に騙されたのである。

 本書『原爆の秘密 国内篇』はこの私の推論が正しいことを立証するものである。ただ、その過程では、日本人として知るに堪えない数々の事実が浮上してくる。読者よ、どうか最後まで、この国の隠された歴史を暴く旅におつき合いいただきたい。それこそが、より確かな明日を築くための寄辺となるであろうから。

2008年7月、 またあの日を目前にして  鬼塚英昭

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 目次は以下の通り。


 ●日本人はまだ原爆の真実を知らない[序として]


 ●第一章 原爆投下計画と第二総軍の設立

 東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」
 第二総軍設立の真の理由に迫る
 原爆投下予告を確かに聴いた人々
 投下予告はこうして封印された

 ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 日本進攻計画と第二総軍との「不可解な暗合」
 発令されなかった警戒警報
 謀殺された徹底抗戦派・戦争終結反対者たち
 生者と死者と、あるいは賢者と愚者と
 演出された投下時刻「八時十五分」の意味

 ● 第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である

 「長崎は小倉の代替地説」のウソを暴く
 やはり予告されていた長崎への原爆投下 
 カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ

 ● 第四章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 湯川秀樹ノーベル賞と原子爆弾との関係
 元帥の述懐は「君!・・・なるようにしかならんねエ」
 「県庁員幹部二死傷ナシ」は何を意味するか
 アメリカ人捕虜だけがどこかへ消えた
 日本政府も認めた公式見解「広島・長崎に放射能なし」

 ● 第五章 見棄てられた被爆者たち

 原爆はどのように報道されたのか
 ドクター・ジュノーの懸命なる闘い
 「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」
 国際赤十字社、もうひとつの顔
 迫りくる恐怖、生き抜いた原爆患者たち

 ● 第六章 天皇と神と原爆と

 天皇美談だけが残って、責任は消えた
 「神の御心のままに」逝った人々
 原爆で死んだ人々を見つめて

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 ●第1章 原爆投下計画と第2総軍の設立

 ★東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」 


「東京ローズ」をご存じだろうか。第二次世界大戦中、太平洋戦線にいたアメリカ兵への宣伝放送を、魅惑的な英語で読んでいた日本人女性アナウンサーのニックネームである。彼女たちの甘美で美しい声は、故国を遠く離れた若い米兵たちの郷愁をかきたてたという。

 だが、その東京ローズについて書く前に、ゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』(1980年)からある文章を引用する。とても奇妙なことが書かれている。その文章は「1945年7月12日 -   テニアン島」の項の中にある。テニアン島の基地から原爆投下機が広島、そして長崎に向かったのである。

 ビーザー〔テニアン島に派遣された諜報将校〕は、テニアン島占領の時に戦死したアメリカ兵の墓地の近くのかまぼこ小屋にいた。その墓地には、彼が目撃した墜落事故で死んだ爆撃機乗員たちの遺体も葬られていた。ビーザーはその後、焼夷弾をぎりぎりまで満載したB29のそうした墜落事故はテニアン島では珍しくないことで、嫌でも逃れられぬ人生の現実であることを知るようになった。ビーザーは服を着ると、かまぼこ小屋の中が空っぽなのを知った。仲間の将校たちはおそらく浜辺へ海水浴に行ったのだろう。

 小屋のラジオのスイッチをひねると、センチメンタル・ジャーニーの曲が雑音のなかから聞こえてきた。そしてその曲が止むと、続いて甘い美しい声が響いた。それはビーザーが、しゃくだけれども引きつけられているものだった。

 東京ローズが太平洋地域のアメリカ軍向けの定時の宣伝放送を繰り返していた。

 日本放送協会(NHK)で戦時宣伝放送「ゼロ・アワー」が開始されたのは1943年(昭和18年)3月であった。参謀本部情報局管轄のもとに行われた対連合国向けの謀略放送である。命じられるままに、東京ローズは太平洋地域のアメリカ軍向けの放送を流していた。『エノラ・ゲイ』の続きをみよう。

 ・・・東京ローズはもう2度も第509航空群のことを名指しで取り上げて、隊員たちの胆を冷やした。第1回目は、第509航空群・地上勤務部隊が5月30日のメモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)にテニアン島に上陸した直後のことであった。東京ローズは彼らの到着したことに触れ、「日本軍の餌食にならないうちにアメリカヘお帰り」とすすめた。

 第509航空群の隊員のなかにはその言葉を嘲笑したものもいたが、また心配したものもいた。そういう隊員は、一体、東京ローズがどうやって、アメリカ全航空隊のなかで最も秘密のこの部隊のことを知ったのだろうかといぶかった。それから2週間後に、東京ローズはまた第509航空群のことを言った。彼女は、第509航空群の爆撃機は、尻に「R」の記号がはっきりついているから、日本軍の高射砲隊はすぐ見分けられるぞと警告した。今度は誰も馬鹿にはしなかった。その記号が機に書き付けられたのは、そのすぐ前のことだったからである。

 『米軍資料 原爆投下の経緯』(1996年)を見ることにする。

 第509航空群団が米軍資料に登場するのは、「資料A-3/グローヴス将軍ヘテリー大尉から。主題:12月28日に貴官グローブスの執筆室で開かれた会議のノート」(日付1945年1月6日)である。

  ・・・
 8、今後のティベッツ大佐の群団の計画について、以下の通りに決定をみた。
 a、第509〔航空〕群団の全機は、陸軍の規格爆弾が運べるように爆弾倉内の懸架装置を改修する。この作業は、群団の訓練がバティスタ飛行場で完了したのち、4月15日ごろに特別改修工事で行う。
 b、テイベッツ大佐の群団が作戦に使用できるように、月当り最低9発の大型爆弾を提供する。
 c、デリー大尉は、将軍(グローブス)のために、第509航空群団の、1月1日から3月1日を経て6月 15日に至る間の、作戦の概要をまとめて提出するように求められた。

 第509航空群団は原爆投下のために作られた特別の航空群団であった。この群団は1944年12月28日に正式に発足した。この会議記録のなかに気になることが書かれている。

 7、6月15日と7月15日の間の、東京上空の気象条件はどうかという問題が出された。アツシュワース海軍中佐は、8月15日までは比較的に雨が多いと指摘した。

 なお、「大型爆弾」とは、ファットマンと同一の弾体を有し、火薬だけを詰めたものと提示された、と書かれている。カボチャ爆弾と後に呼ばれたものである。

 どうして東京ローズは第509航空群のことを知り得たのか? 彼女はNHKに雇われた2世の女性である。彼女の人生を知りたい人は、上坂冬子の『東京ローズ』1995年)を読まれるがいい。しかし、この本は、東京ローズが放送で米兵に語りかけた肝心の内容についてはまるで触れていない。

 『エノラ・ゲイ』の続きを見ることにしよう

 ・・・ビーザーは、東京ローズがそこら辺中のことを知っているらしいのに不安は覚えたが、それでもその日本からの妖しい魅惑的な声には耳を傾けた。今朝も彼女は相変わらず、アメリカのごく最近の野球試合の点数、ブロードウェーの内外の劇場にかかっているドラマやコメディの知らせ、フィクションとノンフィクションのベストセラーの詳細を知らせ、その間に現在のヒットパレードの曲を流した。
 今日は第509航空群の名前は出なかった。ビーザーはラジオのスイッチを切って、東京ローズに他のホームシックの兵隊の慰問をまかせた。

 引用文中のビーザーとはテニアン島に派遣された検閲将校である。東京ローズのニュース放送を検閲していたのである。この東京ローズに関する文章を読むと、★日本の陸軍参謀本部が原爆のことを知っていたことに気づくのである。

  戦前戦中、東京・駿河台の現在は文化学院がある場所に「駿河台技術研究所」(後に駿河台分室と改められた)があった。上坂冬子の『東京ローズ』から引用する。

 ・・・技術研究所とは申すまでもなくカモフラージュのための偽称である。私がこの蔦のからまる文化学院にことさら注目するようになったのは、
「謀略放送といえば東京ローズのゼロ・アワーが真先に引き合いに出されますが、実はあれはいわゆる謀略放送のほんの1部にしかすぎません。主流は何といっても駿河台技術研究所(捕虜の間では通称〔文化キャンプ〕)の捕虜たちの行った放送ですよ」と述懐した元参謀本部宣伝主任・恒石重嗣中佐の一言にひきつけられたからである。・・・

 上坂冬子は捕虜たちのことを詳述するが、どんな内容を彼らは喋らされたのかについては書いていない。しかし、興味深いことを書いているので引用する。

 ・・・14人の捕虜のうち3人(ヘンショー、ブロボー、マクノータン)は翌日早速NHK第五スタジオヘ赴いて、同盟通信社(昭和11年連合通信社と日本電報通信社通信部門を合併して設立した国策通信社で社長は吉野伊之肋、幹部には松本重治、長谷川才次、井上勇の各氏など)の用意した原稿を読み上げ、かくて我が国初の捕虜による謀略放送第1回「日の丸アワー」は放送されたのである。・・・

 この上坂冬子の文章を読んで分かることがある。あの「黙殺」発言を「イグノア」と訳したのが、国策通信社による謀略であったということである。松本重治や長谷川才次は戦後にアメリカのロックフェラー財団と気脈を通じて甘い汁を吸った謀略家たちであった。あの東京ローズのニュースも1種の国策であろう。陸軍参謀本部と同盟通信社が共同でニュースを作成し、東京ローズに喋らせたのである。彼ら陸軍参謀本部のエリートや同盟通信社の幹部たちは、第509航空群の爆撃機の尻に「R」のマークがついている秘密まで知っていたのである。これが何を意味するかは考えるまでもないことである。
 彼らは、ロックフェラーやモルガンと通じていたのだ。そして、原爆が落とされるまで日本を降伏させないように猿芝居を演じていたのである。この同盟通信社とヨハンセン・グルーープに深い因縁があることはすでに姉妹書『原爆の秘密 国外篇』で書いた。

 上坂冬子は「その8課(参謀本部の)の人々は戦後から今日まで『駿河台会』という名の親睦会を持っており、ほぼ毎年1回の割で集りをつづけて、すでに30回を越えている」と書いている。そして、1977年7月12日午後5時、上坂冬子は会場の霞が関ビル34階の1室に、取材許可を得て出席する。そこに元参謀本部第二部長・有末精三陸軍中将が出席していた、と上坂冬子が書いている。この有末清三陸軍中将の発言を上坂冬子は書きとめている。

 ・・・ついに82歳の有末精三元中将まで立ち上り、
 「東京ローズの生みの親というオーストラリアのカズンズ少佐に、1度だけ駿河台で会ったことがあるんだが、私はこういうザックバランな男だから、こちらからグッドモーニングと手をさしのべて『食い物はどうだ』と聞いたら、彼は即座に『ワンダフル』と答えましたな」・・・

 戦争が終わったとき、多くの軍人や政治家、文官たちが戦犯となったり追放処分となった。しかし、謀略機関で働いた連中は、1部の例外はあるものの、ほとんどが自由の身となり、それだけではなく、権力と富を得た。有末精三も例外ではなかった。「有末機関」をつくり、米軍に協力した。これは何を意味するのか。彼らはアメリカとグルであったことを意味するのではないのか。アメリカのために働いてきたのではなかったのか。

  続く。
 



●疑 史(第40回) アヤタチとサンカ (終)  
●疑 史(第40回) アヤタチとサンカ (終)  
 
 謎の民族といわれる山窩(サンカ)と、その頭領とされるアヤタチについて、前月号まで述べてきた。アヤタチを称する丹波桑田郡穴太村上田家の伝承を、1族の外科医・渡辺政雄から吉薗周蔵が聴き取った記録から、私が組み立てた仮説であるが、何しろ従来の歴史観念を大きく塗り替えるもので、さだめし当惑しておられるであろう読者のご理解のために、わが仮説の梗概を以下の一文にまとめてみた。

 サンカは本来、イスラエル十支族の末裔で本邦に渡来したアマベ氏を核とした特定の人的集団のことで、その「他称」と思われる。多神教を奉じた十支族は、ユダ族一神教徒の専横を憤って袂を別つが、独立したイスラエル王国は前734年、アッシリアに滅ぼされた。隷囚の身の十支族は身を以て逃れ東方に流移するが、主たる経路はインド洋治岸沿いの海上の道と、大陸内部を貫くシルク・ロードであった。

 インド洋沿岸を周回したアマベ氏は、越海岸にたどり着いて逗留、そこで親和した倭人を率いて丹後半島に上陸、同族の日本渡来の先駆けをなした。時期は紀元前数世紀で、先住縄文人とは倭人と同様に融和し、沿岸に海人居住地として〈海部郷〉を設け、内陸部には水田稲作を営む農業集落〈イセ〉を築いた。結局それで縄文時代が終わり、今日では弥生式集落、弥生文化と呼ばれている時代に移った。

 同族ながら、西域経由で大陸内部を東遷した呂氏一族は、始皇帝を擁立して秦帝国を建て、支那大陸を統一するが、漢に敗れる。1部は朝鮮半島に逃れ、族称を秦帝国に因む秦氏と改め、交易拠点を百済・任那の境界の地に営み秦韓と号したが、防衛面を隣接する騎馬王権辰韓に頼り、これを傭兵として共生した。北九州に渡来して交易拠点を設けた秦氏の1部は、イシュクル(宗像3女神)を祀る縄文民と混交し、首長・宇佐君の血筋と入れ替わった。任那の地で楽韓と共生していた辰韓が、南下した騎馬民族に追われて北九州に逃げ込むと、秦氏宇佐君は辰王を迎えて女婿とし、天孫二二ギと称してスメラギ(王)に擁立した。二二ギ(辰王)と秦氏宇佐君の間にできた応神は、秦韓に僑居していた多数の秦人に呼びかけて渡来せしめるが、その中の融通王が秦氏の首長となり秦君と称した。これを応神の立場から観て、王朝運営の人材を確保したと見るのは単純過ぎる皇国史観で、応神が秦氏の厚遇に報いたとの見方も可憐な感傷にすぎない。正解は、秦氏の深謀で、1族を挙げて本邦に渡来し、安住繁栄を図るために騎馬民族の軍事・統治力を利用したのである。

 同族のモノノベ氏も、ニギハヤヒに率いられ、天磐樟船(アメノイワフネ)に乗じて大和地方に渡来した。朝鮮半島を足掛かりにしたと思われるが、東遷経路は未詳である。縄文族の首長ナガスネヒコと同盟し、共生したニギハヤヒは、天孫軍を率いた応神が大和を攻めるや、忽ち降伏し、以後はヤマト朝廷の下で祭事・兵事を以て奉仕することとなる。

 ホアカリを奉じイセ集落と海部郡を支配していたアマベ氏では、天孫族への服従を嫌う1部が山中深く逃れ、アヤタチと称して中東由来の採鉱技術(錬金術)に拠る生活圏を建設した。アヤタチの下にはアマベだけでなく1部倭人や、倭人と同源で華南から同行した山岳民族も従った。このロビンフッド的な抵抗集団をサンカと呼ぶのは他称のようだが、山窩の字を振ったのは、言いえて妙である。

 アヤタチは本来アマベ氏だが、やがて、ヤマト朝廷と融和して勢力を築いたモノノベ氏を引き入れて、氏族統合したので、ホアカリとニギハヤヒを同体と見做す伝承が生まれ、今や固定化しつつある。アヤタチは、モノノベ氏が蘇我氏に敗れると今度は秦氏宇佐君を引き入れたので、以後急速に秦色が強まり、事業も鉱山経営ばかりでなく、銅産業・酒造業・商業で大いに発展した。山窩の概念はここに拡張・変容したが、以後も時代とともに拡張してゆくのである。

 大陸では北方民族の抗争が活発し、弾き出されたトルコ系騎馬民がツングース族を伴い、朝鮮半島経由で陸続として渡来した。亡命騎馬族をアヤタチが暖かく迎え、同族なみに待遇したのは、秦氏宇佐君が辰王を迎え、天孫として擁立したのと同じ伝である。つまり、始皇帝擁立以前からすでに呂氏(秦氏)の家伝であった武族懐柔・傭兵利用策である。秦氏と同根の客家華僑も同じ思考を持ち、阿片戦争を仕掛けてきて上海を奪った英人を指し、「なあに便利な番兵を雇ったまでだ」と嘯(うそぶ)いていた。殷鑑遠きに非ず、横田幕府を奉り駐留米軍の傘の下で経済路線に特化した自民党政治もその一斑である。しかしながら、2千年来の秦氏的平和思想に影響されて、国民多数の心情がすっかり倭人根性に泥んでしまった今日、憲法平和条項の改正を多数決を以てするのは、存外容易なことではあるまいと、国情を憂いつつ私は思う。

 それはさて、本邦に亡命したトルコ系騎馬族は、大伴氏・物部氏ら弥生系武族に混入し、平安貴族からサムライ(奉仕者)と呼ばれて、私領荘園の守衛・管理に使役されながら、武士という新階級を日本社会に形成し、封建時代を開く。騎馬族についてきたツングースは、非耕作民の故に稲作社会で〈化外の民〉とされ、行商・芸能に従事する非定住民として中世を生き抜くが、江戸時代の都市の発達とともに、都市住民化して商人の基となった。巷間「朝鮮山窩」と呼ばれる種族の実態は未詳だが、呼称からして山窩概念に含まれること疑いない。因って、例のトルコ系渡来人と考えるが、拡張概念としては、右の非定住民を含めて呼ぶ場合もあるのであろう。

 大航海時代を先駆けたポルトガル人も、航海者の多くは、実はフェリペ2世によってスペインを追われたセファルダムであった。つまり宣教師を装い、奴隷貿易を目的に東南アジアに来たり、マカオに拠点を置いて現地女に混血族マカイエンサを生ませた冒険商人には、改宗徒コンベルソや偽教徒マラノが多かった。日明間の貿易が(密輸を除いて)専ら彼らの仲介によったのは、倭寇を恐れた明帝国が海禁政策を採ったからである。日本からの輸出品は銀地金、男女奴隷を主として、日本刀・美術品などであった。輸入品は白糸(絹糸)が主で、ほかには香料、後に鉄砲・煙硝が加わった。

 山窩の原郷・丹波を本拠としたアヤタチは、1族を秦氏の都・平安京に送り、機織・酒造・木材業を営ませていた。絹織物の原料の白糸買い付けのため、泉州堺に手代を派遣して直接商談をさせたが、例のアヤタチ的混血主義により1族女性がポルトガル人に接触して混血児を生む。牛神バアル(スサノヲ)・女神イシュタル(弁天・観音)・太陽神ミトラ(弥勒)を奉じるアヤタチ家系とポルトガル宣教師との間に生まれた混血児も山窩の1成員だが、いわば日本版マカイエンサで、多くは父に従い一神教徒となったものか。

 南蛮渡来の薬物の1つに罌粟(ケシ)があり、津軽地方に初めて伝わったことから「津軽」と呼んだ。中東由来の錬金術を本業とするアヤタチは、古来アヘンにも通じており、到来の新種の罌粟(ケシ)に着目せぬ道理はない。アヤタチは、丹波で手塩に掛けた乱破・透波を、各地大名に諜者として売り込み、戦国の世に収入を得ていたが、これら忍者はアヤタチの指導により阿片を使用した。用途は、主として自白剤・鎮痛剤で、催眠術にも用いたが、単純な快楽には用いなかったようである。

 江戸幕府は、英人・三浦按針から旧教の植民地主義について教わり、キリスト教徒を追放し、旧教徒南蛮人の渡来を禁じて新教徒紅毛人にのみ通商を許した。やがて英国商人が撤退し、オランダ人だけが日欧間の交易を担うと、南蛮貿易に替わるオランダ取引を重視したアヤタチは、長崎に手代を派遣するが、例の混血主義により日蘭の混血児が生まれた。当然プロテスタントもでたが彼らも素より山窩の1員で、かくして多神教のアヤタチ家系の1部は、一神教に染まり始めた。

 東北アジアの地では、4世紀からトルコ系騎馬民族の勃興期に入り、五胡十六国の乱(304~409)に始まり、魏晋南北朝、五代十国(907~960)にかけて、数世紀にわたり部族間の軍事抗争を重ね、敗れた部族は南下するのが歴史の法則で、三々五々渡来してきた騎馬族を、アヤタチは同族待遇で山窩に迎え入れたから、山窩の概念は時代とともに変化してきた。段階的拡張を続けてきた山窩観念を分別すると、次の6つになる。
①イスラエル十支族の末裔で本邦に渡来したアマベ氏。
②アマベと同族のモノノベ氏。
③本来縄文系の宇佐氏の血統に潜入した秦氏。
④満洲から朝鮮半島経由で渡来したトルコ系騎馬族。
⑤実質的セファルダムのポルトガル冒険商人とアヤタチ系の混血、
⑥実質セファルダムのオランダ人とアヤタチ系の混血、これである。

 以上が本来の山窩(第1種)とその拡張観念であるが、周辺には別種の山窩がいた。すなわち、

⑦アマベ氏が華南海岸から引率した倭人に随伴してきた山岳民族。
⑧トルコ系騎馬族の渡来に際し、満洲からついてきたツングース系の非耕作民、これである。彼らはアヤタチの配下として第1種と混在していたため、世人から第1種山窩と同一視されて、山窩と呼ばれるようになったもので、第2種である。

 三角寛をはじめとし、柳田国男・後藤興善ほか従来のサンカ研究者はみな、第2種の生活形態を甚だ奇として、これを論ずるに止まったため、第1種の存在は、これまで世間にまったく知られなかった。尤も、生態観察などに囚われていては第1種の存在に気が付く筈もなく、内部から情報公開があって初めて分かるものであろう。ところが第1種が自らの存在の露呈を極力避けてきたことは、現に上田家の出自で日本史を稼業にしながら、アヤタチについてまったく触れようとしない学者を見れば明白である。それだけではない。著名なサンカ研究者の中に、第1種の請託を受けて世人の眼を第2種に誘導した者の存在は、その気で著作を読み直せばすぐに気が付く筈だ。ここまで隠すのはあらゆる組織に共通する癖で、〈企業秘密〉を守るためと思えるが、アヤタチ家に出た近代の鬼才・上田鬼三郎すなわち出口王仁三郎が、大本の御筆先に、「イスラエルの12の流れを元の1つに戻すぞよ」と叫んだ意味を、史家は考えたことがあるのだろうか。本稿は 『疑史』と題する以上、これを見逃すわけには行かず、ここに5回の連載となったが、私が典拠とした『吉薗周蔵手記』は、上田家の外孫・渡辺政雄から周蔵が直接聴いて記録したもので、第1種そのものを焦点にしている。巷間では、自らサンカと称える月海黄樹だけが第1種に触れている。ペーパーバックではあるが、むしろこういう所に真相が潜んでいる好例であろう。

  <了>
 
 





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