カウンター 読書日記 2008年07月
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 ●疑史(第31回) 日本に渡来したイスラエル族(3) 
 ●疑史(第31回) 日本に渡来したイスラエル族(3) 

 イスラエル10支族の子孫アマベ(海部氏)は海人で、倭人集団を率いて日本列島に渡来し、沿岸の漁業適地に海部郷を設けて根拠地としたが、さらに内陸部に進んで各地に農業集落【イセ】を建設した。このことが列島を縄文社会から弥生社会に移行させたとの私見を、前月号で述べた。

 海部1族の丹波穴太村・上田氏の血筋を称する月海黄樹が、海人伝承を紹介した(以下 -「月海伝承」という)中に「アマベが建てた丹後海人王国の王族ニギハヤヒが2世紀に大和の土着勢力と同盟して大和地方を支配した云々」とあることも紹介した。

 丹後半島に始まり各地に集落の建設を進めた海部氏が、近江守山でイセの建設に着手したのは、遺跡調査の結果から紀元前50年ころとされる。しかし大和への進出は近江よりずっと遅れたらしく、月海伝承は「ニギハヤヒが大和でナガスネヒコとの連立政権を立てたのは3世紀のこと」と言う。この「三世紀」を原伝承ではどう言うのか、気にかかるが、一応このまま聞いておこう。

 ナガスネヒコは国津神、すなわち天孫降臨以前の先住民であるが、渡来人の海部から見ても先住民というから、明らかに縄文系だが、列島来の土着民なのか、海部氏に先んじて渡来したシュメルなのかは、分からない。別の古伝に「ナガスネヒコの兄の安日彦が奥羽に逃れて安倍氏の祖となった」とあるが、安倍氏はエミシの族長で縄文族の代表格だから、この点でも符合する。史書に名の見えない安日彦を後世の仮設とする説もあるが、もしそうだとしても、ナガスネヒコが縄文系だからこそ、そんな仮設(仮説)も可能だったわけだ。

 ともかくナガスネヒコは、ニギハヤヒと同盟する以前から大和の支配者であった。尤も、古代社会には1地方を排他的に支配する政治権力は存立せず、他にも多数の部族が各自の族長を立てて並立していた。例えば賀茂族、三輪族あるいはクズ(国栖)族がそれである。

 大和地方は銅鐸文化圏であった。弥生文化の精粋たる銅鐸は前1世紀に現れ、2世紀に全盛を極め、3世紀の半ばに忽然と消えた。その興亡の時期が伊勢遺跡とまったく一致するのは、天孫東征により弥生社会が一転して古墳社会に改まった事実の反映だから当然である。★重要文物たる銅鐸を天武朝の官撰史書が完全に無視したのは、天孫族以外の優れた文化の存在を否定するためと見る外はない。

 それでは銅鐸文化の担い手は誰であったか。神道考古学の大場磐雄は、銅鐸の分布と三輪・賀茂両氏族の分布が重なることから三輪・賀茂の両氏族と判断したが、肯綮にあたる。

 両氏族は、オオクニヌシないしオオモノヌシの子孫を称し、縄文系とは見えないが、信仰対象がホアカリ・ニギハヤヒでないから、海部・物部と同じイスラエル族ではあるまい。つまり非海部系の倭人と見るのが妥当であろう。

 海部が倭人を引率して渡来したことを前に強調したが、すべての倭人が海部系という意味ではない。他にも越人系・呉人系・任那系などの諸部族が、個別の事情は未詳だが、それぞれのルートにより陸続と渡来したものと思われる。

 ともかく、大和地方には三輪や賀茂などの出雲系倭人が早くから根を下ろしていて、ニギハヤヒの侵入に抵抗した。3世紀といえば弥生時代も最晩期で、大和では縄文族も倭人文化を受入れ、弥生社会として成熟していた。そこへ侵入したニギハヤヒは、非海部系倭人の抵抗を感じ、縄文族長ナガスネヒコの妹婿となり同盟し、連立政権の樹立にまで漕ぎ着けたのであろう。

 天孫神話では「ニギハヤヒは天孫軍の先駆けとして天磐船によってヤマトに降臨した」というが、鉱物製の輸送機器に乗って空中から降下するなぞあり得ない。★「岩」は古代には堅固の意味で用いられたし、また「降臨」は侵入の意味と解する外はない。つまり、ニギハヤヒは堅固大型の外航船で、当時深く湾入していた大阪湾から大和に上陸したので、丹後から地続きに歩兵で攻めてきたのではない。
(★ブロガー注:岩→磐は、堅固の意。と『辞統』にもある。石(盤=円く大きな平な器)製の盤を磐といったという興味深い記述もある。)

 以上から、ニギハヤヒは月海伝承にいうごとく、丹後古王国を継いだ伝統的勢力ではなく、「西からの新勢力」と見るべきである。天孫神話がニギハヤヒを天孫軍の先駆けというのは、明らかに虚説だが、嘘の中にも真があり、遠方から来たことは事実だろう。また元伊勢根元の宮たる籠神社の秘伝に「ニギハヤヒはホアカリと別名ながら同体」とあるが、この伝承は各地で強調され、確かな根拠があると見てよい。しかしながら物部氏は、海部氏の分家にしては漁民性(第1次産業)よりも、軍事・祭祀性(高次産業)が強い。物部氏は、海部と同族ではあるが、丹後海部の分家ではなく、新に渡来したイスラエル族と見るのが至当であろう。

 天孫史観は、縄文系や倭人らを地祇(国津神=天孫降臨以前の先住民)と位置づけたが、海部ホアカリと物部ニギハヤヒをば天孫系譜に嵌め込んだ。あるいは海部の系譜を奪って天孫が入り込んだというべきか、とにかく海部・物部と天孫族の系譜を統合した。その無理を反映して、官撰史書には、相互矛盾があるが、大概は次のようである。

 「ニギハヤヒとホアカリ(火明)は同体で、弟が二二ギ。二二ギにはホデリ(火照)、ホスセリとホヲリ(別名ヒコホホデミ)の3子がいたが、末子のホヲリが兄との抗争に克ち、その孫イハレヒコが初代神武天皇となる。敗れたホスセリ(これをホデリとする説もある)の子孫は隼人族となって、ホヲリの子孫たる皇室に永久に仕える事を誓う云々」

 海人ホアカリの弟として天孫二二ギを嵌め込み、次に二二ギの子として、ホアカリの同体ホデリと、その別名ホスセリヲを嵌め込み、天孫ヒコホホデミとの3兄弟としたところがミソである。

 ホアカリをホアカリ、ホデリ、ホスセリの3体に分けたのは、3者を混淆することにより、海部の事跡を隼人の事跡にすり替えるためであろう。官撰史書において、天孫史観と矛盾する海部古王国の存在を完全否定する一方、隼人の存在は認めて、抹殺した海部の受皿としても利用したのである。隼人はインドネシア系で、海部とは民族が違うがどちらも海人で、混淆し易いと観たものだろう。こうして、天孫と海人の系譜統合による万世一系の皇統譜の中で、天孫正統化の根拠を造ったのである。

 ところが、折角の天孫神話も、あいにく他の古伝と合致しない。例えば三角寛が採集した山窩伝承では、山窩の祖先をホアカリと言いながら、別のところで「ホアケの隼人を召して云々」なぞという(三角寛『サンカの社会』)。

 ホアケはホアカリの訛りだが、同じく隼人の祖というから、ホアカリ(ホアケ)とホスセリが同体とばれてしまう始末である。長男ホデリも、伯父ホアカリと同体だから、影が薄くて存在感がない。ホアカリを3体に分けた折角のトリックも、かくのごとく、他の古伝に照らすと随所に破綻が見えるのだ。

 海部氏古伝(上田伝承と月海伝承)は海人渡来を伝えるから、天孫降臨を根幹的事績とする天孫史観とは根本的に相容れない。ゆえに史書官撰の主旨は海部氏古伝の排除にあったが、それは銅鐸黙殺より悪質な史実改変であった。

 ホアカリを海部氏の祖神とする説もあるが、人格神ではなく海部氏が参じたシュメル由来の天空(太陽)神だと思う。これに対してニギハヤヒは人格神で、物部氏の興隆をもたらした実在の英雄であろう。朝鮮半島から渡来したニギハヤヒは、大和にナガスネヒコとの連立政権を立てた余勢で、イセ建設に行き詰まった海部氏を救済して、部族統合したため、海部氏側に同族・分家説が残ったのではないか。

 月海伝承の続きは、「この時(3世紀)西方から大和に侵入してきた勢力があった」とする。これはいわゆる神武東征の実年代を3世紀とする史学の定説とも符合するもので、天孫史観と海部古伝の結節点となる。つまり、西方からの侵入=神武東征説の究明により古代史の真相が浮かび上がる筋合だが、それには海部古伝の尊重と吟味が欠かせまい。

 西からの侵入勢力について、月海伝承は「それが古事記に記されている神武天皇(崇神人皇=応神天皇)である。神武の正体は九州某王朝の入婿となった渡来人」という。

 神武・崇神・応神の3天皇を同体というのだが、在位時期の違う3天皇が同体だとすれば、最後の応神だけが実在天皇で、先行する神武・崇神は架空天皇となる理屈だ。しかし、崇神については、別名ハツクラシラスが国の創治者を意味するところから、三輪王朝を創始した実在人皇との見方が史家間でも有力である。

 応神は河内王朝を創始した実在天皇で、河内王朝の成立がもたらした政治的・社会的衝撃により、弥生社会が古墳文化に移行したことは、考古学的にも証明される。応神が河内王朝に先行する三輪王朝を創始した崇神と同体でありえないのは明らかであろう。崇神と同じハツクニシラスの美称を与えられた神武については、崇神と同体と見ても良いと思うが、ここでは深い議論を避けたい。

 翻って3世紀の畿内を見ると、海部氏が拓いた守山の伊勢集落は、2世紀にはムラの域を脱し、王(キミ)が支配するクニの段階に達していたことが遺跡調査で確認された。海部氏の本拠・丹後に、縄文→弥生時代にかけて、月海のいう海部古王国が成立していたのは疑うまでもない。大和でも同じような様相がある。ここに存在した崇神創業の三輪王朝は、弥生→古墳にまたがる過渡期の王朝と思われるが、うんと遡れば、古く渡来したシュメル族が、縄文時代に神武王朝を開いていたと見ても不自然ではない。天孫王朝に先行する縄文・弥生の王朝の存在は、口碑・古伝もあって隠せない。

 応神の開いた天孫王朝は継体以前に早くも途絶え、天武朝の史書官撰までにはさらに何度か王朝が交替した。史官はそれを百も承知で、縄文→弥生→応神→継体→以後と各王朝を直列に接続して万世一系モデルを創った。その際、神武と崇神は先行王朝の創業者として別格に扱われたのだろう。

 あるいは、史官が応神の天孫王朝創業を尊重する余り、その偉業を先行王朝に投影して、実在した神武・崇神を応神の別名同体と見做した、とも考えられる。ホアカリと同様、応神を3体分けして神武・崇神に割り振ったわけで、3天皇同体説も、この意味でなら理解できる。

 


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●疑 史(第30回) 日本に渡来したイスラエル族(2)
●疑 史(第30回) 日本に渡来したイスラエル族(2)

 丹後一宮籠神社の宮司・海部家の分家で、丹波桑田郡穴太村の小幡神社を守ってきた上田家は、円山応挙(上田主水)と出口王仁三郎(上田鬼三郎)を出したことで知られる。上田家には古来イスラエル族の日本渡来に関する伝承が伝わっていた。上田家の血を引く外科医・渡辺政雄から聞いた伝承を、吉薗周蔵は手記中の★「別紙記載」として書き残した。以下では、それを★「上田伝承」とする。

 上田伝承は「上田はアヤタチの一族である。アヤタチとは後に付けた名前で、本姓はアマベと言い、日本に流れ着いたユダヤの子孫である。アマベとは海人で、日本の海を支配した人のこと」から始まる。アヤタチについては後日論究するとして、まず政雄の謂うユダヤがヘブライ族の北朝イスラエルを指すことを銘記すべきである。ヘブライ族を指して当時も今も、欧米俗流が「ジュイッシュ」、日本でも「ユダヤ」と呼ぶが、その俗語を政雄は用いただけであり、伝承の内容からしても、南朝ユダのことではあり得ないので、以下ではイスラエルとする。

 セムとシュメルの混血児アブラハムを始祖として、メソポタミアのウルに発祥したヘブライ族は、神の召命でカナーンに向かい、食料を求めて入ったエジプトで奴隷化されたが、モーゼの指導で脱出し、その後はカナーンにあって民族団結により隆盛を誇るが、ソロモン王の死後に分裂した。ヤアウエ1神教に傾くユダ2支族に対して、シュメル起源のバアル・イシュタル・ミトラ神の信仰を棄てない北方10支族が反乱し、独立してイスラエル王国を建てたからである。

 イスラエルはやがてアッシリアに征服され、その民は、史家から行方不明とされる。実情は当時の慣習として、民族全体が征服者の奴隷として連行され、民族の一体性と主体性を失って周辺民族に溶け込んだのだ。彼らが奉じたバアル中心の多神教がオリエントの普遍的信仰のため、周辺諸族との宗教的障壁が低かったこともある。この点、新バビロニアに滅ぼされたユダの民が、バビロン虜囚後において唯一神ヤアウエの信仰を却って強化したため、民族の一体性を失わなかったのは、むしろ例外なのである。

 上田伝承は、アマベのほか、物部も宇佐も渡来イスラエル族だと語る。同様の趣旨は、月海黄樹が『日本神道に封印された古代ユダヤの暗号』にも述べているが、穴太村・上田家の血筋を称する月海女史の言なれば、平仄が合って当然か。また、籠神社の極秘伝にも「当社の祭神ホアカリと物部氏の石切神社の祭神ニギハヤヒは同体なり」とある、と聞く。要するに、海部氏と物部氏はイスラエル系の同族というのであるが、宇佐については後述する。

 ホアカリを祀る籠神社の別名は元伊勢根元の宮(イセ=イスラエルか?)である。その祭神ホアカリは、別名天照国照彦が示す通りの太陽神で、太陽神バアルの垂迹たるべき筋合だが、後代に男性を表す「彦」が取り去られて天照大神となり、性転換されて伊勢神宮の内宮に祀られた。因みに「籠神社の秘伝にホアカリが実はヤアウエという」との記事をインターネットで見たが、これは論者が「ユダヤ神ならばヤアウエの他にない」と速断、誤解したものであろう。イスラエル族は、実は多神教なのである。

 アマベ渡米の事情について、上田伝承は詳述しないが、月海著『龍宮神示』には「海人の王国として現在、認識されているものは、丹後、俳誌、丹波の範囲。出雲、若狭湾・琵琶湖周辺。紀伊半島の海岸添い(沿い)。四国・九州の海岸添い(沿い)一円、伊勢、尾張等の地域で、古代日本にはこうした海人王国が大和朝廷と並んで点在していた」と述べる。

 確かに、海部郡の名は尾張・紀伊・豊後の三国にあり、海部郷は阿波国那珂郡・上総国市原郡・越前国坂井郡・丹後国熊野郡・伯貴国会見郡・筑前国怡土郡・同那珂郡・同宗像郡と六国八郡にわたって散在している。紀伊国を例に取れば、今は名草郡と合併し海草郡となった海部郡は、凹凸の激しい紀伊半島の紀伊水道側の突端部にとびとびに散在する村や浦で構成されていた。海部郡(郷)とは、海人の住む漁村だけを括った行政区画に冠した地名で、渡来海人たちが漁業の適地を選んで展開した地区を海辺(部)と称したものである。上田伝承にいう「日本の海を支配した」とは、まさにアマベが全国の「海部」の人民を支配した、と謂う意味になる。

 月海はさらに説く「その中心であった丹後王国に関しては、・・・まず海人には渡来の伝承が受け継がれている。海人伝承では、海人たちは、日本に従来いた原住民とは違い、船を漕いで海の向こうから渡ってきた人たちである」。

 これと、同根の上田伝承とを一体として見ると、「アマベは海人の頭として、海人を引き連れて丹後半島に渡来し、全国の海部の人民を支配した」となり、ここで海人渡来伝承の全体がはっきりする。

 ところが、上田伝承によれば「アマベは初め丹後半島のあたりから始まり、勢力範囲を拡大して伊勢まで伸ばした。この伊勢は近江の伊勢のこと」とある。アマベの開拓前線が到達した「近江の伊勢」が滋賀県守山市の伊勢遺跡を指すことは前号で述べたが、弥生遺跡として全国でも最大規模の伊勢集落はBC50~紀元0年にかけて出現し、2世紀に最盛期を迎えたと見られる。これが典型的弥生集落である事実は、海人集団が弥生文化の発展に主体的に関わったことを示し、換言すれば、近畿地方の弥生集落は海人集団が建設したことを示す、となる。これも過言ではあるまい。

 一方、月海も前掲著で「丹後に海人の王国が築かれた後、海人たちは各地に都市国家を形成すべく、日本中に広がっていった」と語る。つまり、海人集団は海部地域に留まらず、内陸部に都市国家を作り、周辺を耕作して農業展開を図ったという。その1つが上田伝承に出てくる「近江の伊勢」である。当然なのだろうが、平仄が合う。

 このような海人集団が、日本列島に来て初めて弥生式稲作農業を学んだとは思えない。つまり、彼らは純粋な海人ではなく、半漁半農民と見るべきである。換言すれば、半農半漁集団の渡来を直接原因として日本社会が縄文文化から弥生文化に移行したわけで、海人集団こそ弥生文化の主体ということになる。

 この海人集団にぴたりと当てはまるものは、いわゆる倭人である。江上波雄によれば、雲南に発祥して長江を下り、華南の沿岸で越人と混淆した倭人は、元来水田稲作と沿岸漁業を得意とした。漢民族相手に水産物などを商い、深い交易関係にあった倭人は、前漢の朝鮮半島侵出に呼応して、朝鮮南岸から北九州にかけて渡来してきた。

 落合思うに、倭人は形質や民族習慣を見ても明らかに北方モンゴロイド系で、イスラエル族の後裔ではあり得ない。とすると、★海人集団なるものの実態は、少数のアマベ即ちイスラエル系海人が多数の半農半漁民即ち倭人を率いたものではないのか。且つ、江上のいう「交易」こそアマベの専業で、漁労は倭人が専従したのではないか。つまり、「海人」の語は狭義に、即ちイスラエル族のアマベに限定して用いるのが善いと考える。

 ともかくも、江上の騎馬民族説は、少なくとも導入部分については正しいことがこれで証明された。江上の倭人論の根拠が何かは実は興味ある問題なのだが、暫く措くとして、かように古伝承と考古学的物証が揃う例は珍しく、歴史研究において【古伝承重用すべし】という証左としても意義が大きいものと思う。

 守山市の伊勢遺跡に残る「近江のイセのクニ」は前1世紀に出現した。本家たる丹後海人王国の出現は、さらに数世紀を遡る筈である。その時期が弥生文化の発祥と同期することは、以上により明らかであろう。

 ところで月海は、前掲文に続き、「・・・その中で、3世紀頃に現れた丹後王国のニギハヤヒは、大和の土着勢カ・ナガスネヒコと姻戚となり、大和を統治していた」と語るので、しばらく耳を傾けてみよう。

「3世紀に現れた丹後王朝の王族ニギハヤヒは、大和の斑鳩の峯(現在の生駒)に下り、上着勢力であるナガスネヒコと婚姻関係を結んで大和を統治していた。そこに西から侵入してきた勢力があった」
 まず、ここまでは首肯できる。丹後王国は数百年も存続して周囲に発展したが、3世紀に出た王族ニギハヤヒがヤマト地方まで勢力を伸ばし、土着勢力と同盟して大和を統治したとの意味である。ニギハヤヒは、太陽神ホアカリと同体の神様ではなく、3世紀に現れたアマベ家の英雄なのだ。月海が「物部は海部の分家」と言うのは、ヤマト入りしたニギハヤヒ系を、アマベ本家と区別して物部と呼んだとの意味だろう。

 近江のイセ集落は前1世紀に出現し、伊勢遺跡が物語るように2世紀末にはクニの規模にまで発展した。ところがアマベの前線は、その頃やっとヤマトに到達した。近江に比べて時間を掛けたのに連合政権止まりだったのは、土酋・ナガスネヒコが頑張ったからである。

 天孫神話では、天孫の子であるニギハヤヒは、天孫族の先駆けとして降臨しながら、ナガスネヒコの妹婿となり、義兄と同盟して天孫軍に抵抗した。しかし戦いに利非ず、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺して天孫(神武)軍に帰順し(出羽に逃れ)た。その子孫が物部氏であるという。

 これは典型的な偽史だと思う。ニギハヤヒがアマベの王族ならば、3世紀になって高天原(朝鮮)から降臨(渡来)した天孫族には含まれない筋合である。また、ニギハヤヒが天孫軍の先駆けだとしたら、アマベの王族ではあり得ない。唯一の統一理論は、両者ともイスラエル族で、アマベ系を古渡り、天孫を新渡りとする説だが、空論に過ぎないだろう。

 とにかく、弥生社会の生成発展は、海部・倭人は勿論、先住縄文系も混血系も力を合わせた賜物である。3世紀といえば弥生時代も晩期で、国津神ナガスネヒコを首長に仰ぐヤマトの土着民は弥生社会に生きていた。国津神と天津神の区別は、朝鮮渡来の古墳系人が自らを天孫になぞらえたものであり、アマベも倭人も縄文系も、なべて国津神とされたフシがある。しかし、ナガスネヒコは素より天孫ではなく、アマベでもないようだ。それならヤマトの弥生文化を生成・発展させたのは誰か?             (次号に続く)
 



●疑史(第29回) 日本に渡来したイスラエル族(1) 
 ●疑史(第29回) 日本に渡来したイスラエル族(1) 

 ヘブライ文化史専攻の歴史学者・小辻誠祐博士の『ユダヤ民族』は昭和40年に公刊された。セファルディムとアシュケナジムについての説明は、ケストラー説が出る前だからさすがに苦しいが、全体として博士の学者的誠意と永年の研讃が伝わってくる良著と思う。

 しかし、次の記述となると、どうであろう。「イスラエル王国が紀元前722年にアッシリアのサルゴン王に滅ぼされた時、多数の住民が虜囚としてアッシリアにつれ去られていった。ところが、彼らはその後ばったりと行くえを絶って、〔失われたイスラエルの10の支族〕としてしばしば好事家の怪説の対象となっている。日本の論者の中には彼らをもって日本人の先祖であるとする向きもあるが、★まじめな学問的考証にめぐまれぬ巷間の思いつきとしか思われない。彼らはいずれ現在のイランやイラク地方の住民の中に吸収されていったものであろう。」(青文字は落合)

 断言の背後には、小辻博士が「まじめな学問的考証」と自負するところの近代的方法論がある。そう言うと、ほとんどの史家から、イスラエル族渡来説のごときは伝統的考証法においても論外だ、と非難されよう。

 秦利勝をユダヤ人景教徒とする佐伯好郎博士の説も、史学界は受け入れない。佐伯説に景教の伝播と秦氏の渡来についての時間的矛盾があるにしても、秦氏の出自をイスラエル族と観る分には特に矛盾はあるまい。しかしながら、史家はそんなことより、〔ユダヤ人の渡来〕説そのものをハナから荒唐無稽と見ているのである。

 ★これ偏えに彼らが借り物史観から脱却できていない証拠である。もしそれ汝らにして真の史家たらむと欲すれば、宜しく国内を巡り巷間に史的伝承を拾ふべし。虚言を伝ふる古文献にすがるばかりでは史実は遂に分からぬ。

 そこで史的伝承の1例を挙げよう。例の『周蔵手記』には外科医・渡辺政雄から聞いた上田家伝承を記す。聞いた時期は大正末年と思われる。政雄の祖母・渡辺ウメノは丹波穴太村の上田家から出た。出口王仁三郎の実父・上田吉松の従兄弟にあたる。ウメノが公家・堤家の嫡男・哲長と親しくなって生んだ子の、さらに子供と称する政雄は、同じく堤哲長の孫にあたる周蔵とは、表向き従兄弟の間柄となる。

 伝承では、上田家は古代に渡来したユダヤの末裔で、本姓を海部(アマベ)といい、丹後一之宮の篭神社(元伊勢与謝の宮)の宮司の一族である。アマベは丹後半島に上陸し、各地を開拓して“近江の伊勢”まで勢力を伸ばした。アマベは全国海人の頭となり、伊勢の海女が手拭いに付ける護符のドーマン(格子模様)とセーマン(五芒星)もユダヤがもたらしたもの、とのことである。

 驚いたことに、★昭和50年代に滋賀県守山市伊勢町という所で宅地造成中に、大規模な弥生村落がたまたま発見され、伊勢遺跡と名付けられた。規模はクニといえるほど大きく、ここには弥生時代の王がいた筈だと史家は言う。以後も発掘が進み、平成15年には竪穴建物が出土したが、1世紀末から2世紀初めの築造と見られ、弥生時代の方形建物としては最大の規模である。生活臭がないから祭殿と見られ、様式は伊勢神宮の神明作りと似ている。

 建物の長さの単位が22.5センチで、漢尺であるから、漢ないし朝鮮半島との関わりが見て取れる。朝鮮半島経由で渡来したアマベは、丹後半島の与謝を出発し、以後各地を開拓してはクニと祭殿(イセ)を建設していった。到達点の伊勢皇太神宮だけを残して、あとは元伊勢として扱われたから、篭神社が「元伊勢根元の宮」と自称し、伊勢神官の本家と主張するのも宜なるかな。

 伊勢遺跡の遺物から、ここに達したのは紀元前後と分かるが、与謝から守山に至るまで何百年を経たのであろうか。守山の伊勢宮も元伊勢の1つなのだから、神明作りであって当然である。昭和50年代まで、こんなものが隠れていたことは史家も全く知らなかった。これを以て上田伝承が裏付けられたことを潔く認めるべきである。

 アマベの渡来時期は縄文末期と思われる。「縄文文化に生きていた人々が、ある日突然、弥生文化を取り入れた」との説が近年台頭したが、弥生人渡来の経緯は必ずしも明らかでない。江上波雄の騎馬民族説の枕に、漢帝国の成立を受けて対漢交易民族の倭人が、商売のために朝鮮の南端と日本に渡った、と述べているだけである。

 伊勢遺跡は弥生文化そのものである。ゆえに、これを基準に「縄文社会が、アマベの渡来によって、弥生社会に移行した」と考えた方が良いものと思う。倭人の統率者をアマベと観れば、江上説とも矛盾しない。渡来の時期は、伊勢遺跡の始まりから適当な時間を遡った ― 紀元前3~4世紀あたりと見当をつけてはどうだろうか。

 それはともかく、渡来したのは南朝ユダヤ2支族ではなく、北朝イスラエル10支族のようで、アマベの祭祠イセはイスラエルの謂であろう。

 砂漠の遊牧民の神・ヤアウエに帰依した南朝とは違い、北朝では地祇(農業神)のバアルやアシュトラ、ミトラの崇拝が本流であった。イセの宮の本来の祭神ホアカリ(天火明命)は別称天照国照彦で、その名の通り太陽神と見られるが、伊勢皇太神宮が国家の太廟となる際、内宮の祭神として女神化し天照大神に改変したが、太陽神たる性格に変化はない。ホアカリの実体は、牛角を生やした天空神バアル、ないしその子の太陽神ミトラと考えられる。ミトラはマイトレーヤで、仏教に入って弥勒仏とされる。

 さて、年末に書庫を整理していたら、月海黄樹著『竜宮神示』という本が見つかった。10年ほど前に山窩を研究していた時、著者が山窩(サンカ)の家系と称するのに興味を持ち、購入したが、どうしたことか未読であった。多分、同じ著者のもう1冊『稀代の呪術師・秀吉の正体』という本だけで満足してしまったような気がする。著者は高野山関係の山伏の家系で山窩の血筋であると自称する。祖父が赤い羽織を一着に及んで持山の見回りをする時には、山民衆が土下座して迎えた話を著者から直接聞いた人もいる。

 この書は大本教の尊師・出口王仁三郎の予言について述べたもので、内容については措くが、「王仁三郎の出自の穴太村という所は、穴太衆という海人の石工集団がいたところである。その土着の名家である上田家は生粋の海人族〔朝廷に漁業をもってつかえる1族。漁業のみならず石工、製鉄、木師などの職人集団を形成した〕であった」と述べており、さらに「王仁三郎の説いた〔国常立大神はトルコのエルサレムから来た〕には、海人族上田家に伝えられる何らかの口伝が影響していたのかもしれない」と、期せずして上田伝承の存在に触れているのには驚いた。

 また、「海部家の口伝では、神武天皇は、応神天皇、崇神天皇と同一人物であるとし、古事記においては3世紀頃の天皇とされる応神天皇の時代に、朝鮮・北九州の合衆国の王・応神天皇が大和に東征するに至り云々」と、海部家の伝承にも触れている。3天皇同体説は、私の現在の仮説とはやや異なるが、それはともかく、いかにも海部家・上田家の内情に詳しいような著者の口ぶりである。

 それもその筈、仄聞ではあるが、月海女史は渡辺政雄の子孫としての認知を(上田家側に)求めたらしい。認知されれば、上田の血族として何かと優遇されるらしいが、結果は聞いていない。

 大正末年頃に『周蔵手記』に書き留められた上田家伝承の内容が、60年後に伊勢遺跡として発見され、その10年後に月海黄樹の著書に発現した。こういう口伝が各地各家にあり、原初の純粋さを失っていても、史実の片鱗はどこかに必ず残っているのだから、史家は、遺跡を掘ったり古文書を捲るのも必要だが、同様な労力を口碑の採集と分析にかけて貰いたい。それもせずに、「まじめな学問的考証にめぐまれぬ巷間の思いつきとしか思われない」などと澄ましておってはいかぬのではないか。

 それはさて、『周蔵手記』には「流れついたるユダヤ」というだけで、支族までは明らかでないが、月海女史のこれに対する見解は明快である。前掲書は出口王仁三郎の予言の解説が主旨で、王仁三郎の予言を称揚するための作為、いわば山窩史観を随所に感じるが、傍論としてヘブライ族に関する独自の見解を披瀝しており、その方は甚だ面白い。

 曰く、そもそも、バビロン虜囚から解放されたヘブライ族は、ダビデ王の代にヤアウエの神殿を建てて帰依するが、一神教と多神教の溝が拡がり、その子ソロモン王の代には10支族が反乱してイスラエル王国を建てた。彼らの信仰はバアルとアシュトラ(イシュタル)およびミトラで、他のオリエント民族とも宗数的な差異はなかったから、紀元前722年イスラエル王国の消滅後、彼等は他民族の間に自然に混入していった。ここが唯一神ヤアウエに拘泥した南朝ユダヤと違う点であり、日本に渡来したのは無論イスラエル族である。

 さらに、11世紀までのユダヤ人は、ヤアウエ以外の神も祀る多神教徒であった。現在の旧約聖書は11世紀以後の成立か、それ以前のものをユダヤー神数を基盤にして書き直したもので、聖書に出てくる神も、ある場合は明らかにヤアウエでなくバアルを指している、と指摘する。甚だ論理的で肯綮に当たる。小生のごときは、聖書にあまり馴染まぬから、逆に聖書なぞ百万遍も考究し尽くされたものと、テンから思っていたので、まさに驚天動地である。

 ルシファーについても首肯すべき説を唱えている。太陽神と混同されることもあるバアルは、本来天空神で、エジプトではオリオン三星、ヘブライでは明けの明星(金星)を以て象徴されていたが、ヤアウエ信仰が強化したユダヤとキリスト教を国教化したローマで、堕天使ルシファーと見倣されるようになった、というのである。ワンワールド首脳の信仰対象と私が推定するルシファーは、金星バアルでもある。

 イスラエル族の護符ドーマン(格子紋)が水神として、セーマン(五芒星)が金星女神として象徴するイシュタルをユダヤ数とキリスト教が悪魔に落とした仕打ちが中世人類の不幸を招いたのである。

 


●疑史(第28回) ユダヤとは何か(3) 
 ●疑史(第28回) ユダヤとは何か(3) 落合莞爾  

 世に言うユダヤとは特定の人種を意味しておらず、いわゆるユダヤ思想を抱く〔特定少数者〕の集合のことだから、ワンワールド勢力と呼ぶべきである、と前号で述べた。彼らは別名「国際秘密結社」とも呼ばれているが、その所以は、表面では各国市民として日常生活をしながら、裏がある。つまり、行動の根底には必ず例の思想とそれに基づく政治性があって、しかもその思想内容と行動目的を、世間に対しては極秘にしているからである。

 さりながら、ワンワールド思想の淵源については、やはりユダヤ教と見るのが常識で、吉薗周蔵も「ユダヤ民族が各地を流浪しながら迫害の中で育てた思想」と記している。普通はそれでも差し支えないのだろうが、私見ではその淵源はもっとずっと古いように思える。

 数十万年前に地上に出現した人類は、7万年前から1万年前までの間、6万年も続いた最終氷期(ヴュルム氷河期)を乗り越えて今日こうして在るのだが、私見では、最終氷期をさかいに旧種人類と新種人類に分かれた。

 すなわち、旧種の1部が結氷下の厳しい自然を生き抜き、寒冷適応により体質的に強化されて、新種が生まれた。病害にもウイルスにも強く、〔何でも喰い、どこでも寝られる〕強靭な生活力を身に付けたのである。後氷期に地上に出てきた新種は、繁殖力も旺盛で、現存人類の大多数を占めることとなった。すなわち、現存人類の多数派は新種が形成しているのである。

 一方、旧種のまま今日に生き延びた種族もいる。歴史の霧の中に消えたシュメルがその例である。今から5千年前に人類最古と謂われる文明をメソポタミアで開いたシュメルは、その出自がいまだ明らかでない。タミル盆地ないしイラン高原に発祥したとする説もあるが、仮にそうだとしても、最終氷期をその地で過ごしたとは思えないのは、身体形質が寒冷適応を経ていないからで、海人的性洛も窺えることから、ペルシャ湾からメソポタミヤ南部の低湿地帯に上陸した海洋民族の1派と見るのが正しいと思う。

 人類学的な位置は未詳だが、シュメルの自称が「髪の黒い人」を意味するところから、から、黒髪黒眼の白人の1種と考えられる。シュメル語は膠着語で、アルタイ語とは単語も共通し且つアルタイ語の特徴たる母音調和の傾向も強い。これは注目に値するもので、ウラルーアルタイ語系の日本語に通じるところに、シュメルと日本文明との関係が窺えるのである。

 南部バビロニアに開花したシュメル文明は、人類最初の文明とされるが、最盛期はウル第3王朝(BC2113~2003年)で、BC2030年には抗争が始まり、民族の統一を崩して衰え、その後は地域支配権をセム系アモリ人に奪われる。シュメル文明とその文化的伝統は、以後もバビロニアに残ったが、バビロニアのハムラビ王が公用語をシュメル語からセム語系アモリ語に変えたBC1750頃から、シュメルは次第に歴史の闇に解けていく。

 その間にヘブライ族の始祖がシュメルと関係を結んだのは確かである。史学もヘブライ族の始祖アブラハムがウルに実在したことを認めるが、推定生存時期はBC1900~1750年で、ウル第3王朝の終焉とハムラビ王の在位期(BC1728~1686)に挟まれた転換期である。

 折りしもアブラハムが生まれ育ったウルでは、シュメルは政治的に失墜しながらもなお文化的余光を放ち、シュメルとセムの混淆も進んでいた。アブラハムは、父がセムの遊牧民テラで、母はシュメルである。正妻サライもシュメルだから、嫡子イサクはシュメルの血量75%の混血児であった。

要するに、ヘブライ族の始祖はシュメル文明下に生きたシュメルとセムの混血家系であった。とするならば、アブラハムを召命してカナーンヘ行けと命じた神が、実はシュメルの神々の中から出現したとの推察を否定することはできまい。

 イサクの子孫ヘブライ族がセム系と見なされるのは、代々同族婚のほかに、セムとの交配を重ねてきたからであろう。しかしながら、彼ら自身はセムとは一線を画し、独自の選民意識を持してきた。それは、彼らが奴隷に陥っていた時、指導者モーゼの眼前に神が現れて「我は汝らの神」と名乗り、彼らを選民化してくれたからである。その神エホバが、かつてウルでアブラハムを召した神と同神格なのは言うまでもないが、そうすると、エホバの神格的淵源は、実はシュメル神だった可能性が高いことになる。

 モーゼから千年以上経ったBC586年、ヘブライ族の子孫ユダヤ王国が新バビロニアに滅ぼされる。虜囚となって再びバビロニアの地を踏んだ2支族は、現地思想に触れたことでエホバ信仰を高めたとされるが、その意味は2支族がバビロニアでシュメルの遺民(ないしシュメルの遺文明)と接触して、シュメル思想を再継受したことではあるまいか。

 つらつら思うに、ワンワールドの淵源は、高度の文明下に生きながら、体力と繁殖力の差でセムに敗れて少数派に陥り、歴史に消えていったシュメルで、それを継承したのがユダヤ思想であろう。前述した通り、アブラハムをカナーンに向かわせた神は、本来シュメルの《神》であったが、万物の創造主として現れた所に、深い神慮があったと思われる。

 私見では、人類文明はシュメルが最古ではない。ヴュルム氷河期の前に石器文明としていったん完成していた。その有形遺物は今日も各地に散見されオーパーツと呼ばれるが、無形の文明遺産としては、漢方処方、ゾデイアック(12獣)、陰陽思想、四(五)大の哲学などがある。いずれも人類が突然与えられたごとくに見え、史家が発祥を解明できないので、世俗は宇宙人から授かったものと揶揄している。

 最終氷期が終わった頃、旧文明の成果を携えた旧種人が何処からか来てメソポタミア南部に上陸し、シュメル文明を開花させた。シュメルがセム族との生存競争に疲れて各地に散るや、混血のアブラハムが召命によりカナーンに向かう。その折の「決して帰るな」との神諭は、遠い将来にわたりセム族を教化せしめるための神謀と見るほかあるまい。

 各地に分散したシュメルのうち、東方に去った1派がたどり着いたのが日本列島である。ワンワールド思想を抱く彼らは、縄文社会に溶け込み、後に来た弥生人とも親和した。

 それから千数百年後のBC722年、イスラエル王国が滅亡して10支族が4方に流移するが、その中に日本に渡来した1派がいた。時期は縄文時代晩期と考えられるが、彼らもシュメル由来のワンワールド思想を受け継いでいた。

 シュメルとイスラエル10支族が日本列島社会にワンワールド思想を応用したのが、日本特有の単一民族・万世一系の政治思想となったものと考えられる。

 ユダヤ王国の滅亡後の流浪の中で2支族が確立したユダヤ教の根底にもワンワールド思想があったのは、沿革からして当然である。それがシュメル由来であることはいつしか忘れ去られ、ワンワールド思想がユダヤ起源と見なされるようになったものと見て、誤りはあるまい。

 その後、新種人のトルコ系カザール人がユダヤ教徒に加わってアシュケナジムとなり、選民思想を強調してシオニズムを生む。いわゆるユダヤはここに、ワンワールドとシオニストに分岐したが、後者は第二次大戦後に出現したイスラエル共和国のおかげで、実態がわりに透けて見える。前者こそ、他民族からも有志を勧誘し、国際秘密勢力を形成してきた真のユダヤ(ヘブライ族)なのだが、世俗のユダヤ観は皮相に傾き、シオニスト的側面を重視しすぎて、ワンワールド的側面を軽視した。そこを★ドール大佐はじめ、識者が指摘したのである。

 発祥の詮索はともかく、少数勢力となった旧文明の遺民が地上を生き抜くための戦略を模索し、遂に完成したのがワンワールド思想であるとの説は、誤っていないと思う。

 周蔵によれば、ワンワールドは「表面にエホバ・キリスト・孔子・釈迦など何を祀ろうとも、その心底では、唯一造物主たるエホバしか信じず、偶然なるものを一切否定する」。

 だが、それは実は末端員の信仰にすぎず、「エホバに関しては、ユダヤという人種を統一する対象として決めているだけで、ユダヤの首脳は、そんなものどうでも良い、と思っている筈だ」と銘記した。

 つまり、エホバは末端ワンワールドの信仰対象に過ぎず、首脳の考えは違うというのである。

 ならばワンワールド首脳は無神論なのか、それとも?

 注目すべき見解は、彼らはルシファー崇拝だという。ルシファーはラテン語で「光を帯びたもの」を意味し、明けの明星(金星)のことで、カナン神話の雷鳥神・アンズーもカナン神話のシャヘルも同じ神格である。前者が父神・エルの地位を狙い母神・アシュラを娶ろうとしたのは、父に代わり至高神となるためで、後者にも反逆的要素がある。しかし、両者とも元来は、悪魔や堕天使とは無関係であった。

 旧約聖書にもギリシャ語聖書にも出てこないルシファーを悪魔と結びつけて堕天使としたのは3世紀の神学者・オリゲネスで、新約聖書に隠された堕天使の存在を指摘した。また4世紀のヒエロニムスは、イザヤ書の「明けの明星」を、ラテン語でルシファーと訳したが、この箇所は本来バビロン王を指したものだという。

 私見では、ルシファーはシュメルで生まれた神格で、ワンワールド首脳は古来これを崇拝し、その眼を「ホルスの眼」 「すべてを見通す万能の神の眼」と呼んでエジプトの棺や修道院の高僧墓に盛んに描いた。ルシファーが天帝に逆らったとされるのは、少数派の神たることを示している。

 アブラハムの子孫が信仰したエホバは、当初は民族宗教の神であったが、それから生まれたキリスト教と、さらに生まれたイスラム教は、いずれも世界宗教である。蓋し、エホバは万物の創造主として、多数派の神たる資格を12分に有するからである。1民族の祖神では、こうはいくまい。

 内心はエホバだけを崇拝するというワンワールドの中で、首脳だけは少数派の神たるルシファーを密かに拝んできた。

 ワンワ~ルド史上最大の発明品は通貨(紙幣)であるが、その代表格たる米国の1ドル札の裏面にルシファーの眼を描いたところに何よりの証拠がある。

 


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(20) 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(20) 
 「高島鞆之助の家政困窮」はある目的のためのめくらまし 


 ★陸軍大臣辞任後の高島鞆之助の姿
 
 明治30年2月、桂太郎の策謀で陸軍を追われた高島鞆之助は、翌年1月から大正5年の死去まで枢密顧問官に就いたままで、歴史の表面から姿を消した。巷間伝わる噂さえ稀な中に、堀雅昭『杉山茂丸伝』は語る。

明治32年頃、京城と釜山を結ぶ京釜鉄道の敷設に奔走していた杉山茂丸は、金策を引き受けたものの当てがなく、やむなく高島を訪ねる。ところが拓殖務大臣も陸軍大臣も辞めた高島も金欠で、遂に「借金返済のために家財道具を売るから、買わないか」と持ちかけられたという。

 かく言う杉山の意図は、薩摩総長たる者の失墜を流布する事にあり、真相にはほど遠い。

 『宇都宮太郎日記』の明治33年3月条に書き留められた起高作戦は結局成功せず、高島は以後も顧問官のほか何の公職にも就かなかった。ところが、『宇都宮日記』の明治40年以後の条にも高島の名が出てくる。即ち40年3月条には、「久し振にて高島中将を訪ふ。当年の意気梢や消沈の態あるを覚えたり」とある。起高作戦から7年、63歳の高島は意気やや消沈して見えた、と宇都宮は観察したのだ。また42年3月10日条にも「橋口・高島上京、不日帰任に付き、其の友人等新富町竹葉軒に会せる出席す」とある。これは、陸軍記念日のために上京していた第62連隊長樺山勇馬(樺山資紀の甥)と第八連隊長・高島友武(高島の養子・吉井の次男)が帰任するので、友人らが竹葉軒に集まったことを指す,同年1月29日、宇都宮は士官生徒第7期のトップで陸軍少将に進級したが1年先輩の橋口はまだ大佐で、第10期の高島は前年に大佐に進級したばかりである。当日の出席者は宇都宮を含め9人で、高島友武の義弟・樺山資英もいた。樺山資英は留学帰りの法学博士で、28年5月に26歳で台湾総督・樺山資紀に直属する総督府参事官に挙げられ、翌年には拓殖務大臣高島鞆之助の秘書官兼大臣官房秘書課長、30年には松方総理大臣秘書官、31年には文部大臣樺山資紀の秘書官兼大臣官房秘書課長となった。つまり、薩摩の首脳3人に請われ、次々にその秘書官を務めた典型的なワンワールド秀才である。高島の腹心たる宇都宮が、高島の女婿になる資英と親しかったのは当然で、42年3月29日条は「樺山資英を夜食に招き時事談を為す」と記す。

 9月17日条には「久し振にて高島中将を訪ふ、不在。不遇の上に負債累積、如何にも気の毒の状況に在り。併しさすがに本人は辞色に現はさず、強て平然たる所一層気の毒の感を深くす」とあり、高島は何かの理由で巨額の負債を抱えて困窮していたが、本人の平然たる様子が却って宇都宮の同情を引いたことを物語っている。12月12日条には、「予備陸軍中将・高島鞆之助往訪(略)高島氏にて晩餐。嗣子大佐友武、女婿樺山資英等列席。往時を追想して感慨深し」とある。「往時」とは無論宇都宮が起高作戦を打ち出した33年を指すのだが、この席で債務処理が語られたかどうか。

 ★高島救済作戦 根津一の奔走

 明治42年が明け、宇都宮ら腹心にとっても高島の財政問題が課題になってきた。43年3月15日条には「根津一を訪ひ、同人高島鞆之助子爵救済のため伊瀬地中将を鎌倉に訪ふたる結果を尋ねしに、中将は到底不可能として応せざりしと云ふ。遺憾の次第なり。更に善後を議し、根津重ねて今日高島氏を訪ひ、自ら松方侯に依頼せしむべきを試むることに談決す」と記す。参謀本部第2部長の宇都宮少将が車亜同文書院に院長・根津一を訪れたのは、根津が予備陸軍中将・伊瀬地好成に高島救済を諮ったので、その結果を聞くためであった。根津から伊瀬池が「到底不可能」と答えたと聞いて遺憾に思った宇都宮は、更に根津と善後を談じた。その結果、根津が本日再度高島と会って、本人自ら松方正義侯爵に頼み込むように説得することに話が纏まった。松方は永年に亘る大蔵省支配を辞めた後は、貴族院議員で日本赤十字社長に就いていた。薩摩派ワンワールドの内部では、総長に高島、副長に樺山が就いたが、ロスチャイルド直参の松方は別格で金融部門の総帥に就き、当時もその地位に在ったと思われる。松方が金融総帥を辞めたのはおそらく大正期で、その権力の1部は高橋是清か継いだものと思う。この時、高島自身が松方に家政苦境を訴えたかどうか未詳、松方がいかなる対応をしたのかも当然分からない。

 宇都宮と共に高島救済作戦に関わった根津一は、高島が初代団長を務めた陸軍教導団を首席で卒業して12年に陸士砲兵科に進学し、士官生徒4期生と同時に14年に少尉に任官した。ドイツ人教官メッケルに反抗して陸大を諭旨退学となったが、陸軍はその後も根津を必要としたので、根津は現役復帰と予備役を繰り返した。教導団と陸士では根津の1年後輩で、生涯の盟友となったのが荒尾精である。参謀本部に入り支那課付となった荒尾中尉は19年、参謀本部から大陸での実地踏査を命じられ、銀座と上海に目薬を扱う楽善堂薬舗を開いていた岸田吟香の協力を受け、漢口に楽善堂支店を設けた。表向きは薬局だが、実体は「支那内地軍事探偵の本部」である。荒尾は、22年に提出した報告書で「清国とは和戦いずれも得策ならず、ただ革命勢力と結んで滅清興漢の義兵を起こし革命政府と結ぶべし」と主張、そのために日清貿易の拡大を強調した。荒尾はそれを実践するため、22年9月、上海に日清貿易研究所を創設し、これに根津が参加した。

 研究所の費用は杉山茂丸の石炭貿易の利益が充てられたのは、荒尾が大陸事情に関して杉山の師匠で、杉山の大陸知識はすべて荒尾に負う所であったからという(堀雅昭『杉山茂丸伝』)。

 如かく、杉山の航跡は至る所に残り、それらを点から点へと繋ぐだけで、凡そ杉山の概容が浮かび上がるのだが、教科書史学が杉山を無視しているから、この明治史上最大の人物は史書にほとんど出てこないのである。

 新領土となった台湾統治の円滑化のため、明治29年、荒尾は台湾茶商・李春生らと共同し、内地・台湾の紳商の合作を目的とする「紳商協会」を設立する。その直後、台南視察に出てペストに罹り病死した荒尾の精神を受け継いだのが根津一で、車亜同文会の会長近衛篤麿と意気投合し、東亜同文書院を設立して院長に就いた。根津の階級は予備役少佐であったが宇都宮には先輩に当たり、東亜同文書院の院長として世上にも重きをなし、その地歩は宇都宮少将に敢えて劣らなかった。

 明治43年3月16日と25日に根津の来訪を受けた宇都宮は、3月26日  条に「樺山資英を訪ふ。与倉喜平来宅、談深更に及ぶ」と記す。樺山資英は高島の女婿で、いわばその代理人である。また歩兵第1連隊長の与倉大佐は宇都宮の腹心で、2つの会談はどちらも高島に関するものであった。同4月7日条には「樺山資英来衙(高島中将統監推薦の儀に付き、樺
山・大迫大将訪問の模様を報じ来れるなり。尚今後のことに付き意見を述べ、奮撃突進其の同郷諸先輩を作興、之れが後押を為すべきを勧告す)・・・出勤の途、第7師団長上原中将を訪ふ」とある。

 ここで高島救済作戦の1部が明らかになった。つまり宇都宮らは高島鞆之助を韓国統監に就けようとしていたのである。日本は、日露戦争後保護国とした大韓帝国に38年12月21日付で統監を置き、初代統監に伊藤博文を任じたが、伊藤が枢密院議長に転じたのを機に42年6月15日、曾禰荒助が副統監から昇任したが、曾禰は43年春から健康が悪化、後任問題が浮上していた。折から日韓合邦の機が迫り、次期統監には超大物が求められていた。樺山資英が43年4月7日に宇都宮を尋ねたのは、次期統監に高島鞆之助を推薦する件につき、薩摩出身の海軍大将・樺山資紀と陸軍大将・大迫尚敏に会ってきた模様を報告に来たのである。報告を受けた宇都宮は、今後の方針について意見を与え、「突撃盲進すべく薩摩の諸先輩に働きかけて実現のための後押しとせよ」と勧告した。宇都宮はその後で、参謀本部に出勤の途中、第7師団長・上原勇作中将を訪ねる。上原の任地は旭川であるが、4月5日に師団長会議があり近衛師団を含む19人の師団長が東京に集まっていた。宇都宮は前夜も上原を訪ねたが、不在だったためにこの朝再び訪ねたのである。上原・宇都宮の主従会談の主題は当然高島問題だったが、統監推薦は捗らず、5月12日付で陸相・寺内正毅大将の韓国統監兼任が決まった。日記には記さないが、宇都宮の無念が伝わってくる。

 ★イエズス会に売却され聖堂となった高島邸

 それから3ヵ月経った43年8月6日条には、「樺山資英(同人負債も家宅邸地を渡し2、3日中に整理出来、高島鞆之助中将も同様とのこと賀すべし)を訪ひ、次に高島中将を訪ひ2時間許(ばかり)談じて帰る」とある。樺山資英を訪れた宇都宮に対し、資英は「自分も負債があるが、家屋敷を手放して2、3日中に埋めることが出来る」と告げた。樺山文相の秘書官を辞めて以後、大正3年に満鉄理事に就くまで資英は10年以上も公職に就かず、当時の状況は未詳だが、舅の高島を助けて薩摩ワンワールド関係の隠れ事業をしていた可能性が高い(未調査)。ともかく、高島の負債も同じようにして始末が付くと聞いて安堵した宇都宮は、続いて紀尾井町の高島中将邸を訪問し、2時間ほど話して帰宅した。明治29年から翌年にかけて建てられた高島邸は、この時イエズス会の手に渡ってクルトゥルハイム聖堂となり、米軍の大空襲を奇跡的(?)に免れ、今も上智大学校内にある。資英が、高島邸を処分すれば何とかなると宇都宮に告げたのは、一般論でなく、具体的な処分金額の見当が付いて債務弁済の見通しが立ったからである。これだけの大型物件になると、処分の仕方により数倍もの差異が生じるが、有利な処分のアテが付いたのだ。

 8月11日条にも「根津一(高島子爵家政整理に付き其外数件)」とあり、続く8月12日条も「歩兵大佐・与倉喜平来衙(高島子家政整理の報告)」と記しているので、宇都宮が高島支援を頼んでいた根津と与倉からも、資英からと同様な吉報が入ったことが分かる。買手のイエズス会は、ワンワールド宗教部門の本山で、ローマ教皇ピウス12世の要請を受け、41年日本に大学を設置するだめに3人の会士を派遣してきた。44年には財団法人・上智学院を設立し、2年後の大正2年に上智学院を開校するが、当時は校舎候補地を探しており、この頃に紀尾井町一帯と決定して、秘かに地上げを始めだらしい。しかしながらこの一帯は、高島邸ばかりでなく、旧伊瀬地邸だった大島久直子爵邸など、陸軍将官の邸が並んでいた。所有者からは「折角の話だ、出来るだけ高く売ろう」との声も上がったが、高島は「外人だからこそ、ここは安く売ってやろう」と言いだし、ために買収がうまく行き、イエズス会は今も高島を徳としているという。裏を読めば、高島に自邸処分の意向があることと一帯に将官住宅の多いことで、地上げが円滑に造む要素があり、それが校舎地選定の理由になったのかも知れぬ。

 『宇都宮日記』は、44年1月8日条に「田中義一と将来の国事に就き意見交換、手始めに財部少将(海軍次官)と打ち解け話」とあるのを転機に、以後の主題は陸軍改革問題に移る。4月12日条に「樺山資衛来衙談」とあるのも、陸軍改革運動についてであろう。しかし、10月7日条には「樺山資英、来衙(高島氏紀尾井邸買人つきしこと、政局将来談等)」とあるので、宇都宮は、訪ねてきた資英から、時事談の傍ら高島邸に買手がついたとの報告を受けたことが分かる。ようやく実行されだのだが、高島邸は仕様構造がとりわけ上等で聖堂に転用できるため、他より有利に評価されたのであろうか。

 12月22日条に「根津一を訪ふ。善隣同志会なるものを組織中にて、その宣言書を一覧せしに、全く革命党を助けんとの宣言を発せんとす。時局に多少の利あらん。会長には高島鞆之助を推さんとす」とあるから、清国革命に際し、荒尾の遺志を継いで孫文革命党を応援する善隣同志会を組織した根津は、会長に高島を担ごうとしたのである(それが結局どうなったか、まだ調べていない)。翌々年の大正2年2月、桂大郎内閣を倒した憲政擁護運動の最中、尾崎行雄が、次期の総理には高島鞆之助を担ごうと旨いだした話は前にも述べた。要するに、高島は陰の超大物として、その存在を決して忘れられてはいなかったのである。

 
 ●莫大な台湾利権を手中に 高島の家政事情の真相

 講談社の『大日本人名辞書』は高島を評して「細事に汲々たらず家資常に空し。晩年落莫として振るはず大正5年1月10日病みて京都伏見に没す」という。明治31年、桂に陸相を追われた高島は翌年には杉山茂丸に家財道具を売りたいと持ちかけるほど、金欠に陥っていた。40年頃には意気消沈していた高島だが、42年春には累積負債による家政困難がはっきりしてきて、宇都宮・根津らの腹心は高島の家政救済を検討しだした。しかし8月になって女婿樺山資英が、高島邸を処分すれば負債の始末が付くと告げだので、腹心たちは安堵する。44年10月、やっと買手がイエズス会であることが明らかになった。金欠が表面化してからここに至るまでの2年半は、長いようで短いと評すべきか。思うに、高島の負債の主因は30年の邸宅取得であろう。設計に金をかけた 本格的洋館で、現にクルトゥルハイム聖堂として今も結婚式の人気スポットで知られ、挙式は上智大字卒業生だけに許している。

 三たび大臣に就いたとはいえ、高島は俸給生活者で、女婿・友武は軍人、その実父・吉井友実は宮内次官、もう1人の女婿・樺山資英は少壮官僚、妹婿で従兄弟の野津道貰も軍人であって、縁戚には 財閥らしきものはなく、豪華な自邸取得資金は借金で賄う以外にない。

 晩年に高収入の道を得たならばともかく、予備役中将と枢密顧問官の俸給では、やがて到来する弁済期は凌げず、外部からの援助でもなければ 自邸の売却以外に弁済方法はない。

 また通常はそれで善く、高島の場合も結局はそうなったわけだ。日清戦 争直後の日本では、将来は誰にも読みきれなかった。まして、軍政のトップに立つ高島には、自邸資金に関する返済計画なぞ始めからある筈も
なく、エイヤアの気合で突っ走ったのだろう。単純に考えれば、右の通りに解釈して良い。しかしながら、31年に現役を退いた高島が、以後何をして過ごしたのか、それを考えると話は違ってくる。

 台湾の樟脳・煙草・阿片に関する基本政策は、日清講和直後の28年4月1日、第2次伊藤内閣が台湾事務局を置き、総理自ら総裁を兼ねた時に始まる。阿片漸減政策は、この時に内務省衛生局長・後藤新平が建白し、軍医総監陸軍省医務局長・石黒忠悳も支持し、伊藤総裁(首相兼務)が採用を決定したものである。

 台湾統治は当初、跳梁する土匪と住民の阿片吸引癖が2大問題で、解決したのが児玉と後藤新平の時代だから、巷説は両人を以て台湾経営の根源のようにいうが、それは治安と社会政策から見た阿片漸禁政策に焦点を合わせ過ぎており、産業政策を軽視する点で僻見である。そもそも台湾は世界的な樟脳の産地で、天然樟脳は当時の最新素材「セルロイド」の可塑剤として不可欠で、合成品が出来る大正後期まで極めて重要視され、また当時の最先端兵器たる無煙火薬の原料として、世界の注目を集めていた。

 樺山総督と高島副総督は、江戸時代から樟脳を輸出していた薩摩藩の出身であり、台湾の樟脳製造事業を重視し、早くも28年10月に「官有林野及樟脳製造業取締規則」を作り樟脳製造に官許の制限を加えた。台湾事務局は、29年4月1日付で拓殖務省になり、初代大臣に就いた高島は、30年9月まで台湾政策の最高責任者として総督府の監督に任じ、各種の官業政策を指導した。29年6月に2代目総督に就いた桂太郎は、4ヵ月の腰掛けで実際は赴任せず、後を継いだ乃木希典が31年2月まで総督を勤めた。乃木は、伊瀬地の斡施で結婚の媒酌まで頼んだ高島拓殖務大臣の指導監督を受けて高島路線に忠実に従い、30年に阿片専売政策を実施した。31年2月、乃木が休職して児玉源太郎が第4代台湾総督となり、32年に樟脳と食塩について専売制度を実施した。この時、神戸の樟脳・砂糖商鈴木商店に台湾樟脳の65%の販売権を与え、これを機に鈴木商店は、以後異常な発展を見せる。27年に未亡人経営に移行した鈴木は、日高尚剛の母方の煙草業者安達リュウー郎の工作で薩摩派ワンワールドの隷下にあったが、そのことを知らぬ児玉ではない。24年の欧州出張でワンワールドの洗礼を受けた児玉は、20年8月に帰朝、直ちに陸軍次官の内示を受けて前陸相・高島鞆之助を大臣官邸に訪問した。そこで高島から杉山茂丸を引き合わされた時に、すべては始まったのである。総督副官だった堀内文次郎は「児玉と杉山は異心同体で、児玉の台湾政策は悉く杉山の指示通り」と語っている。鈴木に樟脳販売権を与えたのも杉山茂丸の示唆(実質は指令)で、他にも台湾砂糖が薩摩派の巨大な財源になった証左は、「大日本製糖には上原勇作の息がかかっている」との伝承である。こうして台湾由来の財源を得た薩摩派の総長高島が、ハシタ金に困る筈もない。宇都宮ら腹心たちを惑わした高島の家政困窮は、おそらく樺山資英が実状を隠蔽するために流したガセネタで、だからこそ薩摩の領袖たちは真相を薄々知っていた。伊瀬地が宇都宮らに対して「救済なぞ到底無理」と言ったのは、適当にいなしただけで、また松方侯爵も、根津らの苦心を知りながらも、内心苦笑していたのではなかろうか。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(20)  <了> 

  『ニューリ-ダー』 2008年 8月号
   発行所:はあと出版株式会社 


 



●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (4) 
 ●『わが半生の夢』 を読みながら、幾度となく

 【天才佐伯祐三の真相】 Vol.11 を読み直した。  

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 第九章 吉薗周蔵のパリ 第一節 ネケル氏の正体 

 二つの「物語」を往復しながらの思考の旅は何とも刺激的で心地よい。  
 

以下、一部引用紹介します。

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 吉薗周蔵の渡仏に必要な小山建一名義の旅券は、昭和二年十二月二十四日付で交付された。旅立ったのは同月二十五~六日と思われる。翌年四月に帰国した周蔵は、渡欧中の事項を「周蔵手記」をまとめた。

 昭和三年四月末ピ。カノ数ヶ月ノマトメの条、要約。

 (吉薗)周蔵は渡欧に先立って、満洲の奉天で予備陸軍中将貴志弥(彌)次郎と会い、幾つかの頼み事をした。貴志もまた上原元帥の秘密の配下で、今回の周蔵の渡欧行に関わっていた。

 昭和三年一月二十八日にパリに着き、一人で同志ネケル氏の家に行った。

 その時、何より驚いたのはネケル氏の恰好であった。幼女のようなオカッパ頭で、頭髪を目の上まで垂らし、揃えて剪下げていた。周蔵は、初めて会った時、自分はネケル氏が誰かは知っていたが、出てきた人物が日本人とはとても思えなかった、と後に云う(「周蔵手記」昭和九年条)。

 藤田嗣治の父嗣章は大正元年に軍医総監(陸軍中将相当)となり(*軍医としては最高位)、大正三年に予備役編入している。藤田はもともと学校成績も優秀で、入学した東京高等師範付属中学は、佐伯の北野中学をも凌ぐ当時最高の秀才校であった。家筋と才能と学力が揃えば、道筋は自ずから決まる。藤田は、大谷光瑞師が佐伯に用意したのと同じ道を、佐伯より十年ほど早く進まされていた。★大正二年、二十六歳の時、画学留学生としてパリに渡り、表の顔はエコール・ド・パリを代表する画家として豚児たちのリーダーとなり、裏では薩摩治郎八を自家薬籠中に入れて、踊らせていた。甘粕正彦のパリ在住の友人とはすなわち藤田で、大正四年頃の甘粕の秘密フランス留学の折に知り合ったものと思われる。周蔵は大正六年渡欧の帰途にフランスにより、上原閣下も欧州に草を張っているのを見たと記しているが、藤田もその一人であったことになる。甘粕の紹介で、★コード名ネケルの藤田と周蔵は大正十二年以来、暗号手紙で文通していた。

 周蔵は、パリに到着した当日、佐伯のアパートに行った。今回の渡仏の建前は、佐伯の陣中見舞いなのだから、それを真っ先に終わらせたかったのである。聞くに、薩摩治郎八は佐伯の面倒をよく見てくれているらしく、佐伯は令夫人の千代子ともつきあいがあるようだ。
 呆れたのは、周蔵の顔を見るや否や佐伯が「救命院日誌」の記帳と金のことを言い出したからである。尤も記帳の方を先に口にした。佐伯は、書いた物を周蔵に渡し、「ここに分かりやすくまとめておいたから、ホテルでゆっくり記帳してくれたらいい」と云う。内容を読んだが、不可解なもので、なぜか周蔵が早くも一月初頭にパリに到着したことにされている。次に、佐伯は薩摩の妻君とは大分親しいようで、内容は前にも増して妙なものだが、分量は少ない。これくらいなら、暇を見てやれば、何とか書いてやれそうだ。
 その夜のうちに藤田は、薩摩に舵を取らせて友人たちを紹介してくれる。藤田自身はスイス側との連絡があるため出席せず、治郎八に任せて、ジャン・コクトーなどと会食した。前もってコクトーのことは、藤田から説明を受けているが、所詮は誰一人信用するなと、のことである。

 ★藤田が云うに、薩摩出身の画家もおり、これはなかなか只者ではないが、会わない方が良いだろう。周蔵は、自分もそう思う、と云った。薩摩(鹿児島)というからには「海」であろうから。すると藤田は、自分は関係ないと思って調べてはいないが、その画家は佐伯の妻君とは接触があるかも知れないということだ。しかし、自分は、役目以外には深入りしないようにしている。佐伯君のこと(ガス事故のことであろう)も耳にしているが、関わってはいない、とのことであった。

 (* 『わが半生の夢』には、「・・・藤田の最も愛していたのは、★海老原喜之助だったろう。この南国児も20歳前の若年で巴里に乗りつけた。有島生馬画伯の息がかかっていたとかいうが、彼は直ちにピカソ研究に取組んだ。いわゆるアバンギャルドで、彼の画論には生地鹿児島の桜島の大噴火的熱焔があった。彼こそは切歯抱腕、藤田のブルジョア転向を慨嘆した。ムーラン・ルージュ、ミュージック・ホールの踊り子と熱くなって、正式の結婚にまで進んだものの、連日連夜の大立廻りで、頭を冷すつもりか、南仏カンヌに退陣し、カンヌ港雪降りの珍図を持って巴里に舞戻った。・・・」p103とある。
 また、東郷青児もサツマである。)

 薩摩治郎八に関しては、馬鹿だ、と断言した。金のあるうちは利用してやろうとばかりに、舞台を作って踊らせるだけで、馬鹿を見抜かれているから大丈夫だ、と云われた。その主役がコクトーだ、と云う。コクトーなる人物は宗教の道の主頭(藤田はシュトウと云った)であり、只者ではないとのこと。なれど治郎八に対しては、ただの呑んだくれの詩人面を見せている。自分は信用したいと思うが、思うだけでその辺りは自分で判断してくれ、とのことであった。「日本と違って、毛色の違い(民族性)をどう計るか、難しい処であろう」と周蔵は感じた。

 意外なことに、薩摩治郎八は夜が早い。千代子夫人は化粧が濃く、肌の地色が見えなかった。治郎八はパーティに招かれたと云って消えてしまい、周蔵は、千代子夫人の通訳でコクトーから絵画の講義を受けた。そのあとは、千代子の愚痴を聞くことになる。あっけらかんとした婦人で、今は岡なる学生に恋している、と云う。そういいながらも米子の悪口を言い敵対視するあたりと、佐伯の保護者のような言い分は、佐伯にも恋をしているようだ。このことを後日藤田に問うと、「それは恋に恋してるんだ。飾りものは、飾り窓の女も、一人の男の女も、飾りものには違いはない」と云う。まさにこの人物は冷静な人だと、周蔵は改めて思った。

 ・・・

 以下は、左のリンク先 ★佐伯祐三調査報告 から、どうぞ。

  



●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (3) 
 ● モンパルナスの秋 へ進む前に、
  
 目次の紹介等を。
 

 ~目 次~
 わが半生の夢

 半 生 の 夢
 モンパルナスの秋

 せ・し・ぼ ん
  炎の森
  夜霧の娼婦
  謝肉祭の夜の女
  ロマンティック
  デルフの呪詛
  転落の沈黙

 ピガル通り
  リンゴの花

 ロマンティストの花束

 砂漠の無冠王 (T・E ローレンス)
 
 美の烙印 (イザドラ・ダンカン、タマール・カラサビナ)

 ムッシュウ・サツマとぼく  柳沢 健

 あとがき  大櫛 以手紙

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 せ・し・ぼ・ん-わが半生の夢-
 定価1,500円(本体1,456円)
 改訂新版印刷発行
 平成3年3月1日
 著者:薩摩治郎八 
 発行者:太 田 道 之
 発行所:山 文 社
 〒151東京都渋谷区初台l-23-97 電話 03-3379-0627

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 ●モンパルナスの秋
     
 華ひらく国際美術センター

 モンパルナス駅から、有名な詩人の溜りだったカフエ・デ・リラの角店のある天文台通りがいわゆるモンパルナスの称号で、一躍国際美術家センター化したのは、第一次大戦後であった。

 わたしが1920年、はじめてモンパルナスに足を踏み入れた当時は、この大通りを山羊乳売りがラッパを吹きながら、道端で乳を搾っていた。こんな牧歌的な雰囲気がこの一角を包み、モンパルナスの中心、カフェ・ロトンドもうらぶれた貧乏画家相手のビストロで、白木のベンチには浮かない顔をしたモデルが1杯のコーヒーも払いかねる相手を茫然と眺めていた。藤田嗣治と一緒に裸踊りをやって、パンにありついていたという黒女アイシャも、この辺を地盤にネバっていた。モデルとも舞踊家とも私娼ともつかぬ彼女には、画家達も半芸術家的の態度で接していたが、事実、彼女は寝技の精巧者だとの定評であった。

 「私はマリー・ローランサンのモデルだった」という女友達がアカデミーで画を描きだしたので、よく彼女をドームの片隅で待ち受けた。われわれ仲間でメリサンドと仇名した彼女は、感覚的な詩を書き、マチスの家に出入して、画はいわゆるマチス張りな色彩派であった。

 この美人友達には当時パリ讃美者群が取巻いていてモンパルナスの作家ミッシェル・ジョルジュ・ミッシェルは彼女の宣伝係、名優ジェミニは彼女を一世の女優にと熱を上げ、マチスは画道で一旗上げさせようと力んでいたが、美貌自慢の彼女は蝶々のように飛び立ってしまい、神出鬼没、それに加えて体自慢の露出趣味とあったので、モンパルナス通りを自作の裸体自画像のカンバスを小脇に抱えて、私とのランデブーに飛びこんでくる始末、流石のペリアス気取の私もペッチャンコ。さながらストリップのサンドウイッチマンよろしくの役割で、彼女の後ろから絵具の生乾きのカンバスを捧持して従った。

 その頃からモンパルナスのブームが芽ばえてきた。私が「タンドル・ストック」と「夜開く」の劃世的作品で売出したポール・モーランとしっくり話したのも、ロトンドの白木のベンチ上だった。仏外務省の文化事業課長だった彼と私とは、人種的相異にもかかわらず、他人の空似でしばしば間違えられたのもその頃で、カレー行の列車の中で、レディ・ロバートと称する貴夫人から 「ルイスとイレエン」の1巻を差出されてサインを求められ、偽モーランでごまかしてしまった珍事もあった。

 一介の文字青年だった私が一躍「夜開く」の流行作家に、たとえ一瞬でも転身したのだから早速モーランに話しに出かけたところ、彼は微笑しながら、1冊の豪華版にサインしてくれた。

「2重の花」(フルール・ドウブル)の限定版で「菊花薫る国の2重の花の園丁に」と達筆で走らせてあった。

 こんな仏蘭西的なタラスコンのタルタランやチューリップのファンファン式の空気が、この1角には立籠もって龍っていた。巴里のアメリカ人が乗りこんできてもカルチェラタンの1角には作曲家小松耕輔がルイズ礼讃で日を暮し、天文台の下宿の1室では、洋琴家林龍作がタルチニの古曲を愛玩のブレシヤの名器で奏でていた。だがこのモンパルナスは、ほとんどポンペイの最後の日の速度で急変してしまった。1925年頃までのアメリカ景気と、法貨(フラン)の下落で、この1角に外国人の津波が押し寄せた。英米人、北欧人、日本人、この後者だけでも千数百名の有名無名の画家達が、当時の巴里のセーヌ河水で顔を洗ったという盛況なのだから、モンパルナス村に基地的大変遷の起きたのも当然である。

 詩王ポール・フオールの没落、ジャン・コクトオの出現、モンパルナス王・藤田の君臨をきっかけにこの1角は国際的色彩で塗りつぶされてしまった。

 ★パリの日本画壇

 先ずこの新モンパルナスに咲いた夜の花は、キャバレーのジョキーだった。売り出しの藤田を中心に、キスリング、パスキン等が先頭でモデル・キキや、藤田のユキの相棒ツキ等のエキサントリック振りで、この「咽喉切り」的ボアットは徹夜のドンチャン騒ぎを演じた。

 藤田の名声はこんなモンパルナスを背景にして拡大されていったのだが、彼が一介の新進画家として発見されたのは、モンパルナスのブームの前夜であった。女流画家フェルナンド・バレーとの結婚生活で、家庭的安定を得た藤田を買ったのが、ボエシー街の小画廊の主人・シェロン老人だった。

 シェロン画廊の飾窓には、藤田の初期風景、マドンナ型の少女、静物、猫、等が並べられた。当時の価格で小猫が1千法(フラン)、しかし当時の1千法は相当な価格で、ユトリロの小品がラフィット街のウェイ画廊で900法で手に入った頃であり、マリー・ローランサンの6号が1500法だった。

 藤田の作品と並んで坂東敏雄の静物、バレー夫人の愛人・小柳の花鳥が展覧されていた。当時の藤田の画面には1種の異数的な妖気が漂っていた。仏蘭西のプリミチブと、税関吏ルッソーとフオーコニュの影響や手法を歌麿の線と混交して、彼1流の原始的個性を打らこんだ藤田の作品には、ドビィッシーやローランサンの音楽的焔がひらめいていた。薄ネズミの白乳色のバックから浮き彫りされたマドンナ型の少女の表情も、異端的であったが、彼の傑作の1図「人生」の画面、それは現在巴里大学都市に転化してしまった旧城壁の前を、淋しい葬儀馬車が過ぎてゆく、その道傍には、乳母車がとめられていて、城壁の崖の芝生には1組の男女が恋を語っている。手法はルッソーの影響もあるが、この辺モンスリー公園はルッソーの好んで描いた1角なので、ルッソー風の雰囲気に包まれているのは当然である。

 こんな作品が、この小画廊の飾窓に巴里の好事家ではなく、特殊な異教的存在を深めて行く一義的線上を行く画家として評価されていた。若し藤田がこの線上で終始したと仮定したならば、大衆的立場からはいわゆるモンパルナス王にも祭り上げられなかったろうし、国際的人気者にもならず、あくまでも芸術面でルッソーやスーラー等の孤立的作家となったであろう。

 日本の画壇でも岸田、梅原、藤田といったワクにはまったろうが、★彼の運命はユキとの出会いによって転化してしまった。

 自分は「藤田の悲劇」を描こうとは思わないが、彼の運命がモンパルナス自身の運命と関連している一事を、始終念頭から消し得ない。藤田の宿命がモンパルナスの宿命であった。モンパルナスの転変が画家藤田を【画工藤田】に転身してしまった。世評の毀誉褒貶は別として、藤田は人間的に天衣無縫の幼児的性格者であり、多くの天才が非物質的であるように、彼には画筆1本だけで満される無限の内面的豊富さがある。その彼藤田を【画商人的性格者】にしてしまった★彼の宿命はフェルナンドとの結婚にその端を発した。

 フェルナンド姐御は、藤田の画を最初にシェロン画廊に持ちこんだというが、とに角彼女に内助の功のあったことは事実であろう。

 そこに藤田の弟子小柳が出現したのである。
 小柳は北海道産の、色白の早川雪洲ばりの好男子だった。雪洲は当時の欧米を風靡した人気スター、ことに巴里人の趣好には、彼の横顔は女殺しの定評があった。バレー姐御がこの「偽雪洲」にゾッコンほれこんで、藤田との共同生活のアパートに小柳を引っぱりこんでしまった。

 藤田は、裏庭のガレージを画室に改造した1室に閉居して、2階の窓を見上げていた。彼でなくてはできない芸当である。そして最後の夫人帰還の望みを、彼とフェルナンドとの肖像画「家庭」に注ぎこんだ。この大作は秋のサロンで全巴里好画家の絶讃を買ったが、フェルナンドは終に帰らず、自暴自棄の精神状態に陥った彼に雪が飛びこんだのである。

 雪の肉感的な裸体が、売出した30男の彼の手に触れたのだ。

 雪は文学読書癖があり、マックス・ジャコブの熱読家であった。これが後年第二次大戦中独警のキャンプで病死してしまった共産詩人・デスノスとの結婚にまで結んでしまった原因であった。

 ★雪の本名はリューシー・バドードといった。バドードすなわち野次馬嬢。彼女はその姓のように物見高い遊蕩女性で、シャンゼリゼの裏通りあたりの酒場あらしを業事としていたいわゆるドミモンデンだった。

 とはいうものの、ロトンドやドームの小使臭い女の肌しか知らなかった藤田には、腐ってもシャンゼリゼの遊び女、彼が乱作のデッサンを売り出して旅手な英国地でカットした上衣を結構ジゴロ気取りでひっかけて、シャンゼリゼのセレクト酒場に通いだしたのも、雪の肌の引力であった。そして酒1滴飲めぬ聖人・藤田が盛り場の遊蕩児に混って、雪と深くなって行くのをフェルナンド姐御は藤田のボェーム生活に対する反逆だとモンパルナスをどなり歩いたが、彼に家庭を離れさせてしまった罪は彼女自身の私生活であった。

 だが彼の初期の画面には、まだまだ異教徒的な焔が燃えていた。雪が感覚的なポーズで十字架を首に下げて、つっぷしている面画などには、藤田の円熟した感覚がゆらめいていたし、少女モデルから女モデルに転移した性的神秘がもられていた。

彼の最大傑作の1つであろう後身の裸女の図を、マドレン広場のベルネームジョン画廊の名家展で見たが、その線の美しさと、音楽的旋律は、私と同行したモーリス・ラヴェルの観賞眼をくぎづけにしてしまった。

 「こんなに海の感覚を出している画はないね。それでいて裸体の線だけなんだがね。」
 と、観賞眼の高かったラブェルは感嘆した。事実、この画のモデルには藤田の最高技術と芸術的感覚が表現されていた。モデル・キキの追想と雪の肌があった。

 私はこの裸作画が藤田芸術の最高潮だったという印象を未だに持っている。ベルネーム自身も名作だとわれわれと一緒に観賞した。

 藤田の名声があがり、文部大臣ド・モンジーが彼にレジョン・ド・ノール勲章を贈った。丁度その前後に彼の画室に出入していた坂東敏雄のオートバイに同乗した藤田が、転落負傷してシャリテ病院にかつぎこまれた。脚部に負傷した藤田は、それ以来坂東と面白くない関係となり、坂東は自分の画風の模倣者であるとシェロン老人ともゴタゴタして、両者とも手を切ってしまった。

 そして全快退院した藤田は、河岸を変えてしまってセーヌ左岸の古巣を捨てて、右岸パッシーのマスネー通りに貸アパート住いをしてしまった。

 当時、藤田の側近だったエビ公こと、海老原喜之肋、坂東敏雄自身でさえ、彼等の尊称だった「オヤジさん」のパッシー妾宅住いを慨嘆した。

 ある日、私がシェロン老人に出会したら「実をいうと藤田が死んだなら、彼は税関吏ルッソーに比敵する伝説と名声を残したですよ。」 といった。ある意味からいったら、このシェロン老人の言葉は単なる復讐的言辞ではなく、芸術家藤田に対する真心からの讃美と愛着の表示であった。

 ★脚光浴びる藤田嗣治の周囲

 藤田はかくて大衆的人気の絶頂に登っていたが、芸術的には彼独特の詩的神秘感覚は枯れていった。私が数年後、当時の30万法(フラン)を彼に提供して貰った終生の大作、巴里日本会館の大壁画にも、画工藤田の卓越した技倆や構想は表現されているが、シェロン画廊の小さな飾窓に置かれた「人生]や、ベルネームの「海」にみられた芸術的焔は消えてしまった。

 板東敏雄は美術評論家として権威的なアカデミー・コンクール会員レオ・ラルギェから現代のシャルダンと買われた。ミニチュア的画風の静物画家で、若し藤田派なる1種のアカデミーが成立していたとしたら、その第1人者となるべき人物だった。重厚な性格で、細密な静物を藤田風に描きつづけていた。彼は現在でもパッシーの画室で克明な画風をつづけている。

 藤田がお山の大将的性格の反対に、当時彼の側近者だった★板東敏雄、鈴木龍一、海老原喜之助、高野三三男、高崎剛、岡鹿之助等を包含する藤田派なる1派を実現したと仮定したら、巴里画壇の1角に日本画壇が出現していただろうし、お山の大将で生涯孤立の藤田で終始してはしまわなかったろう。現在巴里に踏み止まってしまったのは、板東、鈴木の2人だが、鈴木龍一の巴里入りは華々しい覇気のあるものだった。ブラジル在留の銀行家の愛息だった鈴木は、詩人・堀口大学にも知られ20歳前に巴里に到着した。ブラジルの野性的な風物が、少年鈴木を夢想的画境に引き入れたのは当然だろうが、彼はすでに完全なフォーブ派で、真赤な夕日の照りつける原野でオルゴールを廻す片脚の人物、海底の魚類の大合戦などを荒い筆法で生々しく描きなぐっていた。

 彼の感覚的な青春にアンドレ・サルモンが着眼して、サルモンの紹介文をカタログにこの少年画家は個展を開いて巴里画壇にデビューした。早熟な彼は既にモデルと同棲生活をしていた。その鈴木夫人マドレン・メナールも画筆で郷里ブルターニュの海辺の田舎家の室内等をルッソーはだしで描き、サロン・ドートンヌに見事入選した。鈴木はその後、岡鹿之助と同家屋に落着いたが画風も変化して前世紀末の風俗画風の女図を、彼1流の才筆で発表した。これを1期として、多才の彼はシュールリアリズムに転化した。彼の作品が仏蘭西政府によって買上げられたが、彼の最も光彩のあった作風は風俗画風の才筆であった。

 この小夫婦というのは、彼も彼女も小型中の特製でマドレン夫人がかいがいしくオートバイにまたがり、彼女の豆彼氏が背中にカジりついて、画具箱を肩にゆわいつけ、モンパルナスの人通りを爆音を立てて写生旅行に出発する勇姿は、彼の奇想的画面以上の傑作であった。巴里占領中マドレン夫人は、青物商を開いたとかで、解放当時も猶太人タイプの彼だけは結構赤旗組からも歓待されたと自慢していた。

 その頃の巴里の特異的存在の1人は長谷川路可であった。この土佐派の画人には藤田も1目をおいていた。人物としても面白く、ブルターニュの田舎住いで百姓娘と相思相愛の仲となったがガンコにかけてはブルトンという位の娘の両親は、どうしても結婚を許可せず、路可の近視眼がますます茫然として、悲恋を抱いてスペインの涯まで放浪したとやら。錦を飾って帰朝する瀬戸際にも、フェミニストの彼は、1等旅費を彼女の墓前だか、懐ろだか、アマリ判然としないが、捧げて3等船室で舞い戻ったとかの美談さえ伝えられた。白耳義、伊太利の勲章を路可が拝受したとかいうが、彼は当時のボエームの代表的人物だった。

 藤田の最も愛していたのは、★海老原喜之助だったろう。この南国児も20歳前の若年で巴里に乗りつけた。有島生馬画伯の息がかかっていたとかいうが、彼は直ちにピカソ研究に取組んだ。いわゆるアバンギャルドで、彼の画論には生地鹿児島の桜島の大噴火的熱焔があった。彼こそは切歯抱腕、藤田のブルジョア転向を慨嘆した。ムーラン・ルージュ、ミュージック・ホールの踊り子と熱くなって、正式の結婚にまで進んだものの、連日連夜の大立廻りで、頭を冷すつもりか、南仏カンヌに退陣し、カンヌ港雪降りの珍図を持って巴里に舞戻った。

 どんな視覚の狂いか、漁夫はナポレオン帽をかぶり、その帽子の大きさが漁船の2倍もある傑作を、彼の画論に捲かれて買入れたが、この名画は知己友人の話題となった程で、とうとう真青な区役所の図とカケ換えたが、これまた窓から屋根よりも大きな三色旗が勇ましく翻っている有様だった。

 ピカソ気取りの彼はバッサリと黒髪を額にタラして黒の山高帽といったいでたちで、ロトンドに鎮座し、俗称ジャンギリと呼ぶカマトト女画学生にゾッコンほれこんで、ジロリ、彼女を睨みつけていたが、グーの音も出ず、あげ句の果てに女には、近所の商人の彼氏がついたとあって、清純なるジャンギリ嬢のショートカットをまるめて、尼寺へでも祭りこむ程の感傷ぶり、ブーラール街切っての名物男であった。

 ★高野三三男と高崎剛

 彼の街角を廻ると、ダゲール街で、いずれおとらぬ貧乏町、その11番地のアトリエに高野三三男夫妻と、巴里で客死した奇才・高崎剛が陣取っていた。

 私が初めて高野三三男に出会ったのは藤田の家で、高野夫妻は独逸から巴里に着いたとかで、一寸画家には珍しい道筋だと、しげしげ2人の顔に眺め入った。藤田から彼の経歴をその数日後に聞かされたが、彼女は女子大卒業の大インテリ、彼は商船学校を中退、上野の美校出で彼女のために堀にまで飛びこんだが、水泳達者でこと切れず、這い上ってきた程の純情家だから気をつけろとのことだった。

 この藤田の気をつけろといった意味は、未だに疑問だが、ウッカリ彼女をカラカウな、大インテリだから貴様などはお茶の子だという意味か、それとも彼が純情家だから、注意して物を云えとでもいう意味であったろう。

 彼の最初のサロン・ドートム出品画は、鹿が青葉の風景中に遊んでいる物優しい図だと記憶しているし、彼女は花の静物を出品した。

「文学的な画だね」
 と私か藤田に話したら
「うん大したインテリだよ。]
 とあくまでインテリ扱いにしていた。

 ところが、その翌年のサロンにインテリ高野は爆弾的美人画を出品した。2人の大女がのびのびと、クネクネと、寝ころんでいる。しかもそのフォーブ的画面から受ける感じは、歌磨の青楼美女の感覚なのだ。サロンの真中で、このシロシロが悠々迫らぬ妖体を展開している。私はこれは日本画家の作品だな、と直観した。が、よもや高野三三男の作品とは気がつかず、買ってみたいと近寄ってみたら高野三三男のサインが眼を射った。

 この画が高野三三男の画家としての出発点であり、彼の名声は、巴里好事家間にグングン拡大していった。

 高野三三男は当時相当な怪奇趣味で、アンソールの画風などに親しんでいた。私が日本に持ち帰った初期の裸女の図は、堀口大学が好きで友情のしるしに贈ったが、惜しくも戦火で焼失してしまった。

 その後彼はいわゆる巴里批評家の称する今様グルーズ的の画風に進展し、ヴェルレーヌ的詩想で、仏蘭西観賞家の趣好に投じた。彼の趣味はあくまで巴里人趣味で、彼の讃美歌は、彼が1種の巴里女の型を造りあげた、といっている。粋人的好事家からも珍重され、批評家からも買われた彼は、稀にみる幸運児であった。彼だけは何時巴里に返り咲いても、めしの喰える日本画家である。その高野の2階のアトリエの下には温室式のアトリエ長屋があり、その1つに奇才高崎剛が万年床にアブサントを浴びて、プカリプカリ、ゴーロワーズのパイプの煙を吹き上げながら奇想天外の名画を描いていた。珍しく、実家から送金を受けている身分の彼には、洋行費の義理のパトロン関係もなく、金が着けば1晩にパーツと使ってしまい、彼の豪遊はロトンドの女達にも、月1回の一夜大尽として期待されていた。

 なじみの街娼が持てあましてもちこんできたと云う珍犬が、チョロチョロ彼の後について歩いていた勇姿は、チャップリンそのまま、この貧乏町に適わしい添景だった。

 彼はスキー場夜景の図にこり出して、マッチ棒のようなスキーが縦横無尽に走り廻る光景に、サーチライトを照らしてみたり、消してみたりしてひねくっていた。

 「君一体この夜景はどこで見て来たんだね。」
 と私は尋ねた。
「ほとんど、毎晩この夢ばっかり見てるんですよ。それがね、ほとんど夢にも見られないようなサーチライトの廻転でね。まあ百種位の色彩に変って行くのですよ。」
 と彼はパイプに火をともした。

 この高崎の死は最も印象的だった。最後の床に見舞った時、アマリリスの真赤な花弁を熟視して
「ああ、綺麗だな。」
 と、1言して、眼を閉じた。

 ★マロニエの枯葉に夢を追う

 鈴木、高綺におとらぬ小男で、藤田の側近だった岡鹿之助は、これ又この1群中の異色、インポ型の勉強家で、彼は音楽で縮んでしまったんだ、なんて失礼千万な噂さえ伝えられた。

 彼がはじめてサロン・ドートムに出品した城の画が、彼の創作の第1作品であった。シャンチィーの城をモデルにして、前景にカトレアの蘭花の大輪を配したこの作品は、音楽的で自分の発見の動機であった。この画も、現在では、プラーグ美術館に保存されてあるが、その彼はバスク海岸の明るい帆船の風景を描き上げた。この時代の作品が彼の芸術的最高潮であった。彼の技巧は結局スーラーの点描で、技巧上で伸び難い難関にブッかっている。要するに感覚の強い作品はこの技巧でも光っているが、少し低調な作品では、技巧的の苦労だけが目にしみこんでしまう。時間的にいっても、大変な作風である。全精力をブチこんでしまわねばでき上らない作品で、全く動きの取れぬ画風を成立してしまったのが、岡鹿之肋である。彼が若し先覚スーラー、シニャック等の技巧を意識したならば、恐らく、あんな苦しい技巧的な表現はさけたであろう。

 もっとも、先覚の2大作家もこの技巧の虜となってしまっていたわけだが、岡鹿之肋ほどの苦しみは見えない。彼の作品こそは描くのでなく、突き上げるのである。その意味からも、奇特家として敬意を表するに価する画家である。彼が1義的芸術線をはずさぬ限り、巴里が育てた特異な日本画家と云えよう。こんな具合に藤田の側近に育った画家達は、各自の個性を発揮して、巣を飛び立つ小鳥のように四散してしまった。社会的には高野三三男が巴里画壇では1番恵まれた地位を築いた。日本画壇では、海老原も、岡も、各々地位を得たが、万一このグループが藤田派なるものが確立して、巴里に踏み止まったと仮定したら、巴里日本画壇も築かれただろうし、このグループを相手にした日本画廊の1つ位は、実現していたろう。

 外国崇拝の日本の画壇では、外来傾向にばかり注意して、日本画家の巴里画壇獲得に無関心である。

 そんな意味から、日本画家の国際的価値は藤田は別として、高野三三男、版画家の長谷川潔の恵まれた2人を除いては、全然未知数なのである。

 物質的に極端に恵まれた現代の日本画家たちは、途方外の内地市価に安住してしまって、彼等の作品の国際競争場裡にその進出を考えもしないだろうが、日本の古美術ばかりでなく、現代画家の作品が、マチス、ピカソ、ブラック等と肩を並べる時代出現こそ、日本文化の国際レベルにまで引上げられた確証であろう。

 その意味で、日本の一流画家の、巴里、倫敦、伯林等への国際市場へのデビューは必要で、その点で、多少なりとも、国際的空気を吸った藤田と彼の側近画家の足跡は、その第1歩ではなかったろうか。

 こうしたモンバルナスの隆盛期は、今次大戦直前までつづいたが、独軍占領で、流行の中心は未来派、フォービズム、シュール・リアリズムの温床モンパルナスを去ってしまって、実存主義の中心サン・ジェルマン・デ・プレに移遷してしまった。

 実存主義の絵画的表現は恐らく未出現に終止してしまうことであろう。だが、往年のモンパルナスは火の消えたような画家村に転化してしまい、ロトンド、ドーム、クッポール等は土地の商人達やお上りさんの集会所に転落してしまった。

 画家連中も四散してしまって、わずかに藤田が全盛期の幻影のように、カンパンプルミェ街のアトリエに老躯をさげて仕事を再開した。私はこのさびれはてたモンパルナスの大通りを、20年代の幻を追いながら天文台の方向へ歩いていった。マロニエの枯葉がコソッと音を立てて歩道に落ちた。この大通りには口紅の匂いさえしない。冬枯れに近い晩秋の淡日が自分の影を路上に落していた。

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 まだ、アラビアのロレンスとの交友を描いた★「砂漠の無冠王」 や、ギリシャ回帰の夢と幻想を、イザドラダンカンの妖艶なダンスとふれあいを通して追想する★「美の烙印」 等々、紹介したいエセーや回想録が続くが、最後に復刊に尽力された人の文章を紹介して、終わりにしたい。


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 ●ムッシュウ・サツマとぼく    柳沢 健 (元外交官・随筆家)

 ぼくが初めて薩摩治郎八氏に会ったのは、ぼくがバリの大使館の情報部長として働いていた折のことで今から20数年前になる。
 その時彼は新婚の麗夫人・千代子さんを日本から同伴してきた。ぼくはムッシュウ・サツマの強烈な個性と豊かな才能に魅力を感ぜずにはいられなかった。その彼の魅力がぼくを急激に彼に近づけていった。ぼくは彼の家にもよく招ばれて行き、又夫人をまじえて郊外にも屡々出掛けた。

 その後何年か経って、ぼくが東京の本省勤務をしているとき、彼は大学都市総裁のオノラ氏を連れて帰朝したので、久しぶりに旧交を温めることができた。

 その頃ぼくは本省で専ら国際文化事業なるものに専念していたが、既にその方面の行動人であった彼とは最も話が合う仲となった。そうしたある日彼は言ったものだ
『柳沢さん、僕も10年位経ったら親爺から財産が貰えるかと思う。そうしたら国際文化基金を作って、その仕事をあなたにおまかせするつもりだ。』そこまで文化事業を一生の仕事にしようとしている彼の念願をそのとき初めて知ったようなぼくではあったが・・・。

しかし、間もなく彼は、オノラ氏と同道、再びパリに戻ることとなった。
 それから10数年、その間ぼくはヨーロッパとアメリカと東南アジアとに日を過したものだったが、彼と面晤のチャンスはなかった。絶えずその消息は耳にはいり、その動静は懸念の的だったが、今度彼の帰朝で実に久しぶりに顔を合わせあうことになったのである。

 千代子夫人は一昨年かに不帰の客になられた。
 彼は『半生の夢』と題して、その自画像の素描をしている。
 彼は富裕の家庭に育った人である。それだからこそそこに書かれたような「美の探究」を一生の仕事とするような夢も実現できたと言えよう。しかしぼくの周囲には彼よりもっと富裕に恵まれながら、1歩もサラリーマン的な平々凡々の生活の埒外から出なかった人々が、むしろ多いのに驚く。ムッシュウ・サツマにとって富は確かに彼の夢を実現する上に大切な手段ではあったが、それがあろうとなかろうと、彼の抱く夢自体には変りはなかったのであろう。ぼくは自分の周囲を広く見廻しても、彼程の夢想家、彼ほどの浪漫主義者を到底発見できない気がする。(しかも、彼は実業家の祖父の血を承けて、おそろしく現実的・行動的なのだ!)すくなくともわが日本で、彼ほどの行動的な夢の探究者をぼくは求め得ない。(辛うじて彼に近い者に★大谷光端師がある。が、光瑞師には彼ほどの現代的な飛躍や美と苦悩との感覚はなかった。あるのは古風とも言える事業家的な夢と熱情とだけだったようである。)

 彼とパリで親しくしていた高野三三男画伯はぼくに彼の平均(エキリーブル)の破綻を語ったことがあったが、正しく我々から見ると彼は1箇の偉大なるエキリーブルの破綻者である。そうしてそのことが彼の夢の大きさを物語るものであり、富と生活とには恵まれているように見えながら、実は最も悲劇的な存在とも言うことができ、また人生の失敗者とさえ目し得ると思われる点がある。

秀れた芸術家が多くそうであるようにこの運命は1つは先天的なもので、彼の父祖の血のなかにそれがあったのであるが、更にこれを大きく育成したものは後天的と言ってよく、幼少にしてイギリスに渡り更にフランスに遊び、専ら芸術や美の探究の世界に専念したその長期の境遇のせいである。随って彼のような存在は西洋ではいざ知らず日本では唯一的のものであると言えると思うが、尚更敗戦を喫した貧困の日本の今後に彼のごとき型が現われることは到底期待できないであろうことは確かである。

 それにしてもぼくは、彼が戦後の、何もかもがメチャメチャになってしまったフランスでの生活で何をして暮していたのかと訊くと、文筆でだという答えを貰ったときほど見当がつかなかったときはなかった。言うまでもなく彼の豊富な生活環境なり才能なりは充分に知っていたつもりだったが、文筆というのは1つの職業的年期を入れることが必要で、単なるアマチュアが飛び込んでもそう容易に物になるものでもない筈なのに、日本よりは逼かに点数の辛いフランスやイギリスで物を書いて収入があるというのは、ぼくには容易に合点がゆかなかったが、その1例を見せて貰うつもりで一読した彼の短篇『シクラメン・ロアイヤル』(仏文で書かれていた)でぼくは文字通り喫驚した。これはまったく玄人ならでは書けぬ小説である。それに彼の駆使するフランス語のうまさは、完全に日本人離れだ! なるほどこの1篇が、フランスでも凡作を掲載することのないと言われている歴史ある『文芸週報』に載ったということは、さもありなんである。

日本とか日本人とかが顔を出すいわゆる異国趣味の作品でないだけに、これに載ったということは一層サツマの名誉と言える。
  その後あちこらの雑誌に彼の作品をみかけたが、それらの中にはポール・モーラン風のテクニックとニーチエ哲学の香気が濃く漂っているようである。

 或る日ムッシュウ・サツマはこんなことを言った。
 「僕には不思議と予感が当るのですよ。僕と親しくした女は皆死んで逝くようなことになるのです。御覧なさい。千代子もそのひとり。『半生の夢』の中に書いたエドモンド・ギー、あのパリ第1の美人女優は、思いがけず死んだって数日前パリから電報を貰いましたよ・・・」と。

 ともかくこの人は、我々にその本質が解るようで解らない許りでなく、自分でも自分自身が解らない不思議な存在なのである。

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 ★あとがき  バロン・サツマの会、 会長 大櫛 以手紙

 バロン・サツマの会が昭和54年12月18日に結成されていらい、5年になろうとしている。「この会はバロン・サツマ(故薩摩治郎八氏)の業績を通し、在パリの日本館のより充実、発展を期すると同時に、徳島とフランスの文化の相互理解を深めることを目的とし、それに沿った諸事業を行う」と会則に明記してあるように、かつては日本館充実のための募金運動を県下一円にわたって実施、相応の成果をあげたり、また、パリ祭には【徳島のパリ祭】として種々趣向をこらした催しを持ったりしている。会員数170名、会費も「必要に応じてその都度徴集する」というまことにおおらかで楽しい会なのである。

 ではなぜバロン・サツマの会が徳島に? これは昭和34年、当時まだお元気だった薩摩治郎八氏が夫人の利子氏と共に郷里の徳島に帰り、ちょうど名物の阿波踊りが繰り広げられていたので見学中脳卒中で倒れられたのである。一時お回復され渡仏されたこともあったが51年2月22日、他界されるまで、17年の間に徳島に住まわれたのである。私も主治医として治療にたずさわった縁を持っている。こうしたことから徳島の人たちも、治郎八氏の日本人離れしたスケールの大きさをより学び、知ろうという人が多くなり、以後この会が誕生したのである。

 会の仕事のひとつとして遺著である「せ・し・ぼん」の復刊の話が持ち上がり、堀口大学先生や柳沢健先生の文章もそのままに上梓することにしたのである。加えて最近日本館を訪れた徳島市の写真家・吉成正一氏(二科会員)の写真3葉を加えた。

 私もこの「せ・し・ぼん」を熟読して実のあるところが多かった。もし、大方の同意を得られたら、第二巻、第三巻と先生の旧著を復刊して、1人でも多く、先生の姿を知ってもらいたいものと願っている。

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 『せ・し・ぼ・ん わが半生の夢』  <了>。

 




●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (2) 
 ●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 
 

 日本から巴里に帰って来ると、国際情勢が悪化して行った影響で、日本の対外為替禁止であった。愈々自分も貧乏美術家なみに、森の草を摘んでサラダをかじることになるのかと、それを考えるといよいよ面白くない。まあいいさ、何でも来るなら来い。が、その前に1つ素晴らしい別嬪さんにでも惚れて、老後の慰めにしようなどと不心得な考えを起し、印度のマハラジャ・カプクラ殿下のお供をして、悪友某氏の愛妻で巴里第1の裸体ダンサー、コレット・アンドリス夫人の家へ押しかけた。その夜の歓楽は、古代希臘の夜宴もなんのその、巴里凱旋門を一目に見下す屋上庭園の噴水のほとりで、コレット・アンドリスは軽羅をヒラッと投げて素晴らしい曲線美で並びいる面々を脳殺したものだったが、しかし、その夜の歓楽の極みの中で、誰かこの女の粛条たる最後を予想した者があろう。私がこのコレット・アンドリスと最後に邂逅したのはアルプス山中のシャモニーの1旅舎であった。その時彼女は既に肺を侵され見るかげもない、生ける屍で、これが全巴里の好事家を魅了した一世の美姫コレット・アンドリスだと気の付く者は誰1人なかった哀れさであった。私は彼女のさし出した痛々しい手に接吻し、この世での最後のアペリチフを飲み合った。巴里大学の希臘文学科を卒業し、自らをアフロヂテの犠牲にした彼女との交友は思っても儚かった。

 恋は異なものとは昔よりのたとえ、話は前に戻るが、巷間決闘事件として伝わる、或る女をめぐる騒ぎを書きとめよう。1924年のことになるが、私はとある劇場で1人の美姫を見出した。

身元をさぐると別に卑しい女ではなく、第1次欧州大戦に故郷ローレンを追われて巴里に出て来ると、名優サラ・ベルナールの弟子となり「エーグロン」の妖女(ニンフ)に扮して好評を得た。さる侯爵と、婚約の間柄であったにも拘らず、私と親しくなったという噂がひろがった。すると或る時、そのBという侯爵から決闘状が舞いこんだのである。私は友人のM侯爵とS侯爵を仲介者として相手に承諾の旨を伝達した。そして巴里郊外ヴェルサイユ宮殿に近い「サッフォー」劇で有名なヴィルダブレ、名画家コローの好んで描いた風景の池畔にあるその侯爵の庭園で相手とピストルを交わした。その結果は相手のB侯爵は右手に微傷を負って、握っていたピストルを取り落してしまい、そして両者の介添人の話合いの結果はB侯爵は婚約をその日に正式に解消す可しということになった。B侯爵は旧領地ブルターニュの古城へ引揚げてしまい、私は私で彼女の最後の決心の固まるまで、南仏の海辺に隠棲してしまった。その後、暫くすると彼女は劇場を去り、カンヌ海岸に私を訪ねて来、やがて私たちは同道して巴里に戻った。

 愚と罵る者は罵れ、狂人とそしる者はそしれ、私の生活はこの事件を機にして、転回することになった。恰もアルチュウル・ランボーがヴェルレーヌを射撃して、生活に一転期を画し、巴里生活の残滓を捨て去り、不毛の地エチオピアの高原ハラーに1植民として去ってしまったように、私は南方シャムの原始林に埋没された某金鉱発掘の冒険旅行に旅立った。

 光の都を捨てて熱帯の大原始林をめざしたことは、友人間に色々話題を賑わして、半信半疑であったらしいが、私の決心は固かった。いかにも唐突な、単なる1時の思いつきと、或いは疑う人があるかも知れない。しかし、私の血の中には2人の祖父の事業家的計画と父母から受けた芸術家的熱情とが流れていて、自分の生活をオノラ氏が評した「放浪的性格」のように印象づけてしまうらしいのである。で、この決心を促した抑々のおこりは親友のGから届いた手紙でそれには
 「君の知っているカンボジアのアンコール・ヴァットの往古発掘せられたる一大金鉱がシャムの大原始林中に埋没されているのを発見した。現地に於ける技術的調査の結果は驚嘆に値するものである。若し君の協力によって発掘事業成立が可能となるならば共同事業として君の支配に委任する、云々。」
 とあった。私はこの手紙を手にして、体がふるえるような誘惑と魅力とを感じて、思いは1瞬熱帯シャムの奥地の大原始林に走った。クメール族の聖地アンコール・ヴァットの幻影が、熱気と湿気のむせ返る雰囲気の中に巨大な蓮の花のように浮び上る。何千という無数の奴隷と捕虜の大群が大伽藍建造に死力を尽している。金色燦爛たる大仏像群があの大尖塔の頂上に引き上げられ燃ゆるような太陽に輝き出しているのが目に浮ぶようであった。思うにこの詩と現実の夢幻境は同時にまた私の生涯についても云えるかも知れない。私は熱に浮かされているような自分の半生の生きかたを顧みないわけではない。しかも、私は到底人生の傍観者ではあり得ないし、そうありたいとも願ってはいない。熱に浮かされているうちに、自ら計画もし、方針もたてて、自分は自分なりに、絶えず何かしないでは生きていられない。しかもその生き方の哲学は、例えば、血の気の多い山師とか壮士又は命知らずの特攻志願者などという手合、腕づくサービスで旦那の金ちゃくを切る芸者、女給、青春のしなやかな肉体をピッタリ不良老年の太鼓腹に押しつけて世渡りするダンサーなんて不心得者の方に同情のバランスがかたむくような按配である。俗にいう大山師の仲間入りしてシャムくんだりまで落ちて行ったと云う者には云わしておけで、当時私は乱暴にもランボー気取で、ヴィーナスの曲線美や、やわ肌が因で惹き起したチャンバラの思い出も深い巴里を後に、南方に旅立ったのである。

 さて原始林の主都、盤谷(バンコク)へ再来してみると懐しの旧友達は今を時めく顕職についていて税関もヘチマも吹き飛ばしてしまう大勢力であるらしい。メナム河□に満潮待機で停船する。遥かな山々を見渡せば、カンジンの原始林どころの騒ぎではない、大禿山が焔々たる熱帯の太陽にイキンでいるような風景である。さては大山師、上手には上手があって、親友フランスの富豪G君1派のインチキ財閥のペテンにかかったかなとギャフンとなる間もなく、ゴトンゴトンとモーターエンジンが再びかかって、1万トンの美船――と云ってもこれは輸出面の安ビリケンやキューピーチャンやシャム美人の折角の曲線美をムサムサとかくしてしまう鐘紡の人絹等もしこたま船底につめこんだ荷物船である。次第にスピードも加わって涼風海面に巻き上り、四方を見渡せばこんどは聞違いの無い原始林、ホッと1息つくまもないうちに熱帯の夜の帳はこの大自然を包みはじめた。ウイスキーをひっかけて、いったん船室に入って錠を下ろして見たものの、中々寝つかれぬ。デッキに出て夜風にあたっているうちに、明けやすい熱帯の夜の過ぎるのはまことに早く河面には点々と小舟さえ目につき始めたころ、キューピー丸はコトンと停船した。とみるや遥かの河岸より真ッ白なモーター・ランチが1隻、矢のように私の船を目がけて走り出して来て、ピタリと船腹に寄りついた。水上保健警察のランチであるらしく、粋な白服に金モールの制服は、野呆臭い日本のこの手合の恰好などが足許にも寄りつけないモダーンなものである。数名の署員が船橋に乗ると、中の大将らしい1人が、デッキに首を伸ばしていた私のそばにやって来て、
 「貴殿は薩摩男爵か?」
 と、忽ちシャム男爵に昇格している。一寸面喰っていると、今度はシャム語でうやうやしく
 「盤谷のワーフには外務大臣代理リュアンブ・ミトラカム閣下(これは本物のシャム男爵)がトントール殿下とお出迎え申上げている。」
 との挨拶である。やれ、コレラの注射よ、種痘のことよと面倒な手続はオクビにも出さず、同船した他の船室まで俄男爵閣下の余光に与りオーケー、オーケーで如才なく片付けられ、いささか面目をほどこしている間もなく再び船のモーターがかかった。河面は紅の朝焼けに映え、河幅も迫って来た。無数の小舟から小鳥のさえずりに似たアクセントのシャム語が聞かれた。椰子の木の森林を綴る赤、紫、白など色とりどりの熱帯の花の上を鷲の群が飛び交っている。極楽の風景とはこんなものかも知れぬと思う。盤谷の名将ワット・アランの優しい姿がだんだん近く迫って来た。終に船が桟橋に横着けになった時、私はシャム兄弟とも云い度い間柄のトントウル殿下の丸顔がひょっこり倉庫の蔭からデッキを見上げているのに気づいた。

「ハロー、ジョー」
 と彼は私を呼び、トントンと段梯子を登って甲板に来た。後に白洋服の男を従えていたが、これは儀典課長のリュアング・ミトラカムだと、紹介された。
 「まあトロカデロヘ行って1杯のんで、ブラヂットが待っているから一寸外務大臣邸へ行こう。」と云った。段取りだが、何しろ暑い。殿下はケロリと涼しい顔して
 「哀れなジョー、哀れなジョー。」
 と慰める。何が哀れなんだと反撃したいが暑くて□も利けない。まさに河童が上陸したような恰好で外務大臣邸にコロガリ込むと、ブラヂット閣下、友あり遠方より来ると大歓迎で、それから大変なもてなし方である。私は単刀直入、来意を告げた。すると
 「まあアワテルナ、アワテルナ。いずれゆっくりメナム河にハウスボートでも浮べて聞こうじゃないか。」
 と、流石は革命で旧政帝権をひっくり返しただけの腕前を見せて、巴里クンダリから泡を喰って原始林に飛びこんで来た我輩などとは段違いである。私は
 「コブチャイ、コブチャイ。」(有難う、有難う)
 と地獄で仏に遭った恰好、俄か仕立てのシャム合掌で引下ってしまった。

私は外相官邸を辞しそれからトントウル殿下につれられて、郊外フヤタイのラクシャミ・ラヴァン女王殿下の邸に走る自動車に乗った。ラヴァン女王はラマ6世陛下の御愛寵の人で、30人ばかりの女を従えて御出迎えになった。ジャスミンの香気が馥郁と漂って、流石の私も何となく正気をとりもどしたかたちだった。挨拶をすませてから、蓮華の他のほとりにある離れ家トントウル殿下の住居の方に案内された。が、ひと息つくひまもなく、盤谷記者団の襲撃を受けた。彼等は私を「巴里から来朝した日本の金鉱殿下」として取扱うのには弱った。シャムの男爵から次は1足飛びに殿下に昇格したのはどういうことであろう。私はトントウル殿下に目くばせして、体よく記者団を帰して貰った。それからパクナム颪しの夜風が涼しい食堂で、シャム音楽の伴奏で踊る美しい美女群の大舞踊を見物した。遠来の賓客歓迎とばかりにシャナリシャナリと金鉱殿下の御身辺にすりよって、その御首にジャスミンの花環をかけられたのかけられないのってさながら生仏さま御光来の観があった。

 さて肝心の原始林1件はどうなったかというと、これは宛らシャム舞踊劇の舞姫の歩行の如く徐々として進行甚だ緩慢である。
 「薩摩の企図は平和的国際提携事業だ。」
 と大いに理解共鳴してくれた日仏政府の外交筋が大いに後援して、大宴会等催してくれてシャム当局を動かすことにつとめ、その回答を待機した。その間、外務大臣とラヴァン女王の兄君でこれも旧知の外務最高顧問の顕職にあるヴァンヴァイデア、ラヴァン女王の弟君の招待で、仏聖地プラバットに巡礼したりしたが、さて容易に返事が得られない。そのうちに、来年の春までには何とかはっきりした返事をするから、それまで待ってくれとのことである。それにしてもベンベンとそれを待って、こんなところにジッとしてはいられないと考えている折から、仏領印度支那のラオス山中リュアンブ・プラヴァン国王の招待をユートロプ弁理長官が伝達して来たので、願ったり叶ったり、日頃憧憬の地上天国を訪問して来ようと、アンコール、プノンペから西貢(サイゴン)に出て、新開通の全印度支那鉄道の乗心地を是非試してくれというガシエ土木長官の好意も受けて旅行をした。そして、その昔オノラ親分の褌をかついで下った街道を見ながら河内(ハノイ)に入り、ガシエ長官邸に泊った。ところが私の着く数日前日本の1陸軍将校がスパイのかどでつかまりブタ箱に謹慎中である。日仏親善上にも面白からぬから、総督が個人的に君と話してなんとか顔を立ててやりたいということだが・・・と甚だ仏蘭西式人情提議である。どうせロクな密偵ではあるまいとは思ったが、折角先方の好意を無にするのも心もとない話だと、ブレビエ総督に敬意を表しかたがた拝謁してみた。ところが、その経緯をきくとこうだ。この和製、いや国産口―レンスは、不心得にも仏語練習を表面の理由にして混血女を引っぱりこみ、色仕掛で巧みに懐柔策を試みたがかの女は逆にこの日本陸軍の大尉から河内攻撃戦法書類一切と地図まで盗み出して届け出たというのである。私は総督からその書類を突きつけられて、いかに私も同じ日本人と雖も弁護弁明の余地がない。ところが当方の形勢不利と見てとった総督は飽くまでも人情的のうわて外交で
 「いや君が来ると聞いていたので、この男の仕業もたわいない子供戦法だし、こんな書類は我々側にしたって、何の参考にもならず、軍事的価値など全くゼロです・・・」
 と笑って、簡単に片付けてくれた。

思いがけない余興が終ったところで、愈々神秘境ラオスに旅立つ事になった。この行、目指す目的地はリュアングプラヴァン王都である。別段用件を持った旅ではないので気はいたって楽だが名にしおう天下の未開地である。途中珍しい経験が無くもなかったが、旅行地としては何かしら気味わるさが先に立って長く滞在して楽しめるところではない。リュアングプラヴァン王都入りをする日、この街道は片道通行で生憎今日は向う側の日だが、ユートロープ弁理長官で特に向う側の通行を止めてやるという。ということは目くら滅法フッ飛ばしても絶対安全を保証してくれる大特典なわけだが、この光栄を利用するには自動車が老朽している。大原始林の真中でエンコでもされた日には一大事と、慎重極わまる歩調で漸く日没の頃、夢幻境を謳われているリュアンブプラヴァン王都に乗りつけた。既に宿舎バンガローには王宮儀典長官、仏地方長官等が待機していて、早速翌朝の王宮に於ける年賀式の打合わせがあって、日が暮れてしまった。

 リュアングプラヴァンの朝は、まだ薄暗い内から僧侶の群で賑わっていた。その何となく原始的風景に感心していると、王宮儀典長官が迎えに来て、これから王宮の拝賀式に案内するという挨拶である。服は昨夜の打合わせにしたがって白服の旅行服で結構だが、勲章だけは特っているのをありったけブラ下げてくれとのことである。だが、本勲章を持って旅行する程の心懸けは流石の私にもない。それで略章で勘弁してもらうことを納得させて王様用の車に陪乗して王宮に乗りつけた。正面階段を登りつめると我が眼の前には宛ら歌舞伎の舞台をラオス化したとでもたとえたらよかろうか、正面の雛壇には向って左に王様、右に畏友ユートロープ閣下が、金ピカの白い盛装で金塗りの椅子に腰掛け、その左右に色彩とりどりの絹地の腰巻(サンボー)きらびやかに、著けたも著けたも宛ら蘭化植物の展覧会そのままの勲章を胸に燦めかした重臣達が床に坐り1隅では宮廷楽師の1団がラオス調をゆるやかなリズムで奏している。その中をわがシャム金鉱殿下は、単身突入の態勢で静々と玉座に向って進み、最敬礼にあたる、片膝を床につく礼をする。王様は、するとやおら王座より降壇され、1儀典官の恭々しくさし出す「百万象白傘勲章」を御手ずから私の首にかけさせ給い、ラオス語でムニャムニャと御勅旨。するとこのとき儀典官が1本のかんじよりを差出すと、それを王様は自ら私の右腕の手首にムニャムニャと仰有りながら結びつけられた。ユートロープ長官はにこりと微笑しながら離席して、私の腕を握り
 「唯今陛下より本官の奏請により貴下に『百万象白傘勲章』を下賜せられ、バン(これはカンジンヨリのこと)を結ばれ給いて貴下の御幸福を祝せらる。真に歓喜に耐えない。」
 だいたいまあ、こんな意味のことを云った。そして奏楽が笙ひちりき式のメロデーを奏でる中を、私は百万象白傘勲章やその他ありったけの略章をジャラつかせて「光栄身に余り感激に耐えず云々」のセリフよろしく仏蘭西語で
 「ソメデット・フラ、ショウ・シサヴォング、ヴォング、権勢ある神聖なる陛下、神聖パン像の主都リュアンブの百万白傘の絶対支配者云々。」             
 と奏上した。それから宿舎に戻り百万象白傘を首から下し、略章をひと纒めにしてカバンに突込み、待構えていた儀典長官の案内で町に出た。リヤアングプラヴァンにはその濃厚な地方色によってひとたびこの山都に足をふみ入れた者には忘け得ぬ印象を与えずには措かないであろう。
 
原始的な茅葺屋根が調和よく並んで、淡紫色の光線がボーッとソフトフォーカスに全体の空気を包んでいる。その中を髪の毛を一寸横にずらして杏の花をさした娘達が日傘の蔭から小鳥の囀るように甘い声で「あなた蝙蝠の干物いかが?バッタのつけ焼おためしになりませんこと?」と客を呼んでいる。

 お寺様の庭で、グロテスクなお面に簑をつけてラオス祖先人の服装をした連中の踊りを見る。見ながら、唐茄子が真二つに割れて生れ出たと信じているラオス民族のお正月に来合せたことがバカに嬉しくなる。われも薩摩芋から段々堕落してきて到々唐茄子に惚れてしまったかと1種の感慨をもよおした。晩になると、私は真白な夜会服をまとい、百万象白傘勲章を首からブラ下げて王宮の夜宴に参内した。宮殿の大食堂の天井には扇風機がプンプン唸っていたが、その暑いこと暑いこと、王様の左側に座を占めた私は、全身水に浸ったような感じだ。畏れ多くも王様はどんなアンバイだろうと横目で仰ぎ見ると、汗1滴もない御姿、汗腺が無いのではなかろうかと疑った。

 ところで、麗わしの王妃はと仰ぎ見れば、ユートロープ長官といとも涼しげなる御表情にて会談中であったが、私の方をふりむかれ
 「妾は生れて海と云うものを見たことがない。勿論汽船に乗ったこともないので、今長官に河内に案内して海を見せてくれるようお話しているところです。」
すると、そのあとから王様は
 「海は海だが、薩摩氏、日本から歯医者を1人よこしてくれたら大助かりだ。」
 との御言葉である。食事が終ってから王宮の露台に座を占めて庭前の舞踊劇を拝観し、身に余る光栄をいただいて引下った。そしてその後、後勅命の歯抜き職人を物色する間もなく大東亜何々の連中がこの地上の極楽で血祭り騒ぎを演じてしまったのは残念至極の至りと云う外はないだろう。皇太子サヴォン殿下には、その翌日私を舟遊びに招待して下さったのを名残に仏長官の提供してくれたモーターいかだでヴァイアンチャンへ向け大メコンの急流を下り、ヴィアンチンで再び、飛行機で1足先に着いたユートロープ長官と一緒になった後、タケックより総督府差廻しの自動車で安南山脈を越えてこの旅行を終り、ともかく巴里へとシャムラオスを後に帰路についた。




 巴里に戻ってみると、原始林の野獣どころではない。ナチスの独逸からヒットラーが、全欧州をヒットろうとばかり、もの凄い勢いでムッソリーニと相呼応して大宣伝戦を始め、世界平和は日ましに危殆に頻しているといった状勢である。日本からも大島だか小島だか云う面構え甚だ面白くない軍属が、成りも成ったり駐独大使のふれ込み、ふんづけられた豆つぶみたいな恰好でナチスの野獣共に拍車をかけているといった始末である。シャムだの金鉱だのラオスの花などと、夢みたいなことを云っている場合ではない。私は勇気を起して今や最も危険地帯になっているチェコスロバキア方面に乗り込んで形勢をさぐり、演説の1つもやって平和を説きたいと、このことをオノコフ総裁に相談すると

 「お前の腕でチェコとルーマニアとユーゴスラビアの3会談がまとまるかどうかさぐって来て貰えば、万一その方面にヒットラーが暴れ込んで行っても、その前にわれわれの大学都市にスラブ系の文化戦線が張られ、自由に勉強しようという決心のある学者学生達のオアシスともなろうから、先ずプラーグまで行って様子を探って来たらどうか。お前は大学都市の国際人だし、それにお前のような日本人が出て行けば、今日の日本の社会でも啓発され、共鳴する人が出て来ようし、又我々の方も日本人にこんな考えの人間がいると三国当局を説く助けにもなろう。是非行って来い。」
 という話になり、大学都市に就いての講演をプラーグ仏蘭西学会の主催ですることに決定し、その旨、出先の日仏外交文化代表に照会すると、仏側は勿論のこと、日本側も文化問題に理解をもっている小川昇代理公使から、極力援助しようというハッキリした回答があった。恰も小川君はプラーグ美術館に日本美術部を設けたいと計画をしていたので、私はそれならと、巴里と日本に私有している古今の日本絵画の中から目星しいものを寄附する旨を申し出て、プラーダをさして旅立った。仏側はナヂャール公使が、日本側は小川昇君が手落ちなく面倒を見てくれ、文部大臣やその他の関係方面への接触にも尽力してくれた。当時としては相当思い切った私の講演も別に忌諱に触れることもなく済んだ。小川君とはカルスバットまで行って、ボヘミアの空気を腹いっぱい吸って巴里に戻って来た。話の序でだが私が約束した日本絵画は無事先方に届いて、小川君の計画は達せられたことを書添えたい。だが折角の会館計画はナチスの侵略によって無残にも水泡に帰してしまった。日華事変が突発し、ナチスの波蘭(ポーランド)侵略が始った。そして日ー日と戦火は拡がる一方である。私はナチスの国際犯罪に対する憎悪のしるしに、わざと敵国の勲章の略章を佩用し、ナチス独逸の連中と事業上の用務で接触を余儀なくされるごとに、全人類の名誉と、自由独立の名を以ての反抗と抗議をせずにはいられない私の動かし難い意見を表示して己まなかった。

 1937年の夏、英国皇帝陛下戴冠式の盛典に列席のため、盤谷(バンコク)からラクシャミ・ラヴァン女王殿下がトントウル殿下同伴、令妹バンチャード殿下と義女イン嬢を引き連れて来欧、私もお伴をした。その頃日華事変が起きたのだ。ガル・ド・リオンからマルセーユまでの汽車中で1中国画学生と乗り合せた。彼は私が大学都市の薩摩であると聞き、自分はこの不幸な事変のためにやむなく学業を中止して帰国するのだと語った。私は不幸な中華民国に対して、日本人としての恥ずかしさと国際人としての憤りをこの青年の言葉から痛感せずにはいられなかった。

 マルセーユで仏郵船に乗ったら、丁度日本に行くという仏蘭西翰林院会員★フロード・ファレール老と会い西貢(サイゴン)まで彼と同船した。ファレールとは古いつきあいの間柄だったが、この航海中、私は、彼がほんとうに日本と日本人が好きでどうにかして中日間の問題をお互いの顔が立つように言論の力で解決出来ぬものかと心痛していることを知った。彼は右傾の思想を持った人物だが、飽迄も独立的な非コンフォルミストで当時の独伊に対しても日本に対するのと同様な考えを持っていた。不幸第二次大戦が起ってしまった後は、一切筆を捨てて、バスクの閑居に立籠もってしまった。彼の仲間が戦後、独伊に協力したかどで挙げられたり、殺されたりしたが、彼のみは全く何等の非難も受けなかったと云うのは、仏海軍々人の経歴をもった彼が最後まで仏蘭西人として終始したにほかならない。この態度は私が不幸な時代にとった日本人としての態度でもあったので、私には殊更彼の心理が理解される。だが終戦後、真っ先に当時の反日的仏蘭西の与論を顧みず、堂々と日本に同情的な文章を書いたのは彼と★ポール・クローデルの2人であった。クローデルと彼とでは全く性格が異なってはいるか、日本を愛し、日本人を理解している点では2人とも一致している。

 西貢(サイゴン)でファレールに別れ、私は一路自動車でプーンペ、パタンバン経由で国境アランヤに向った。盤谷では再び1ケ年振りでフヤクイのラヴァン女王邸に落着き、シャム政府との交渉にかかった。ところがシャム当局のスローモーぶりは目に余るものがあり、そこへもって来て、私は少し健康を害したので、単刀直入農務大臣と会見し、最終提案を出して回答を求めたが、議会審査中とか金鉱令作成中とか、兎角の理由から更に数ケ月の猶予を求められた。それにしても、私の病気をほおっておくわけにもいかず、最後に提案受領書を取り、試掘権保留を認めさせる事を考えついてこれを果すと、私はかかりの医者の忠告にしたがって、日本で数ケ月待機する事に意を決し看護を申し出た旧知の仏蘭西婦人に附添われて★1938年5月、フェリツクス・ルツセル号で神戸に到着した。

 京都の別荘に数日を過したのち、大磯の別荘に着いた。そして日増しに悪化する国情に嘆息しながら、病気静養を理由にして蟄居していた。国内は大勝利の馬鹿騒ぎに酔っていた。戦死者の遺骨が増加していった。親交ある友人たちが追い追い私から離れて行き僅かに鈴木九万、内山岩太郎、佐藤尚武、有田八郎(外相)等の諸氏が親交を続けてくれた人々であった。周囲の馬鹿騒ぎにひきかえ、私の病勢は募る一方である。私は不愉快な大磯生活をたたんで箱根小湧谷の閑荘に登ってしまった。軍部の悪質宣伝は井の中の蛙大海を知らぬ馬鹿共を踊らせ、満州政府に入らんかと勧める者があるかと思うと、身内では伯父様はデマばかり云ってると侮辱され、周囲の状勢頗る面白くない。私が付添いの仏蘭西婦人を巴里に発たして間もなく、かねて予期した欧州第二次大戦の火蓋が切られた。巴里大学都市全体が仏軍に徴発され、佐藤日本会館長は既に荷物をまとめて巴里を引揚げたとの報道が伝えられた。オノラ総裁からは事態急迫至急帰巴をうながす飛行便がとどいた。私はこの危機をどんな事情があっても傍観してはいられぬ。畳のうえで犬死は出来ぬ。切っても切れぬ関係のある仏蘭西、また少年期を育んでくれた英吉利のこの一大危機にあたって、帰欧は当然の義務である。英仏は独逸に宣戦を布告した。日本は独伊に対しては、軍事上中立を保持している。帰欧して働くのはこの時を措いて又とない。好機逸すべからずと、奮いたった私は先ず当時外務省に居た鈴木九万君に旅券下付の了解をつけて貰うよう依頼し仏蘭西大使に対しては渡航便宜方を懇請した。鈴木君が如何にして旅券下付に口添えしてくれたか、恐らく当時の時局下では余程の理解がなくては引受けられぬ話だが、その話もまとまり、英国の査証もカニングァム総領事の厚意で容易に許可され、英国の親友連からも私の如き人間が出てくることは、多年の日英親善危機の際気強いとの激励状が伝達されてきた。どうせ沈没するならナチス共鳴者の軍部やその太鼓持の骨無し官吏などと心中するのは心外千万と安全中立な郵船を捨てて、私は特に友邦仏蘭西のアンドレ・ルボン号を択んだ。潜航艇にやられて水死するにしても、私としては日仏親善のため、正義人道のため、連合軍と心中するのは本望だと病状の思わしくない体で神戸港に着くと、ドペール仏蘭西領事は私の決心に感激して、最後の晩餐に招待してくれた。さてオウヘイな日本税関をパスして乗船すると、乗組員一同珍客とばかり大歓び、そして私は特別船室を提供されたが、これは仏蘭西の厚い友情からであった。船室に入ると2通の電報が届いていた。佐藤尚武大使と鈴木九万君とから発信されたもので航海の安全前途を祝すのメッセージだった。両氏は最後まで私の理解者であり日仏親善の支持者であったのだ。

 神戸港内には独船ションハーストが出港準備をしていた。熱狂した哀れむべきボッシュ共がウヨウヨしていた。船員の1人が私のそばに来て「日本海まで追いかけて1合戦我々と交わすつもりかな。」と云った。私は一笑に附したが船員たちは緊張していた。日本近海に出るや直ちに英仏軍艦が現わして護送した。上海で同船の1フランス令嬢と上陸したが、日本の海軍兵が中国人の労働者を殴り飛ばしている有様を目撃し、日本人自身必ずこんな目に遭う日が来ると私は暗い気持で令嬢に話した。彼女は大東亜政策を看板にして居乍らこんな暴行を黙許している日本政府の態度が解らぬと答えた。

 香港で友人の1英国士官に出会った。彼はこの戦争で日本が独伊と手を切って連合国側に加担するであろう。これが唯一の日華問題の自然解決法でもあり、日本の外交もそのへんから曙光を見出すであろうと云って、それに対する私の意見を求めたが、私は唯、そうなるであろうことを希望すると答え、すぐそのあとからそうなるべきであると訂正した。彼は微笑して私の手を握り「では国の友人達に逢ったら、日英同盟は既に香港で成立したと告げてくれ。」と言った。

 西貢(サイゴン)に着いて様子を見ると、動員動員の大騒ぎ、まるで7月14日の仏国祭日のようだと、冗談を云って笑ってる人もあった。シンガポールでも、知人の1英将校に会った。
 「西貢の様子はどうだね」
 と訊かれたから
 「お祭り景気でおどろいた。コンチネンタルなんかは舞踏者で一杯だ。」
 と答えてやったら、彼は
 「変な戦争だが僕はこんなことではすまぬと思うよ。日本の軍部は必ず馬鹿をやらかすと思う。我々は必ず攻撃されるよ。現在欧州に行く君は、まあ命がけだな」
 と悲観的意見をもらした。後日彼は日本軍の捕虜となり、収容所で病死したと風の便りで間いた。神戸マルセーユ間97日間と云うレコード破りの長航海。夜間は全然燈火を許されず非常時態勢の旅行で一等客僅かに数名、婦人客は万一の場合にと昼間の服装のままで寝に就くと云う始末、旧知の間柄である同船のド・シャンポー伯爵夫人を励ましながら、ともかく事なきを得て巴里へ帰着した。

私はオノラ総裁をはじめ、仏外務省文化事業局長マルクス氏やピラ氏その他要路の人々に面会して、相談の上日本会館残留財産一切を本部国立財団の保護管理下に置き、病気静養のため南仏カンヌに転地した。カンヌにひと先ず落着いた私は、唯1人の日本人だったので、仏人は勿論のこと英米人からも広く交際を求められ有力な人々とも個人的意見を交わす機会が多かった。しかし私の意見がいかに正しくても、又私がいかに積極的な行動人であっても、地中海沿岸に在って遠く日本の政治を行うわけにはゆかぬし、そんな力があろう筈もない。日本の情勢が、一途に転落に急ぐのを坐視しながら、私は手も足も出ない悲しさで、唇を噛む思いだった。そして、こうなったらせめて自分が個人の力で関係した日本の文化事業だけでも死守するほかにはないと考えた。巴里を去る前に、私は当時日本から戻って来た★藤田嗣治を訪問したが、彼は既に逃げ腰で、独軍が侵人した場合は逃亡すると云った。私はそれには何とも返事をしなかったが、藤田のように仏蘭西の愛寵を受けた人間が、都合のよい時代だけは巴里で金儲けして、いざ第2の故国仏蘭西の危機が迫ったとみるや、友情をかなぐり捨てて逃亡するとは、情ない心情だとひそかに彼を憐れんだ。藤田が戦後仏蘭西の与論にたたかれ、日本が左前になると故国を捨てて再び巴里に逆戻りしようとした時、仏当局がその査証をハネツケ、米国経由で入国して巴里に到着した際、新聞記者に大争いが起り、危く停車場で袋ダタキにされそうになったのは、仏蘭西側としては当然の気持だと思った。藤田に別れてから、これ又相当売れた某画家に会ったとき、私は芸術を仏蘭西で育てられた彼などは、義勇軍にでも入って独逸と戦うのが、日本男子の意気の示しどころではあるまいかと話したが、彼も又愈々独軍侵入と聞きこむと、藤田と共にシッポを巻いて逃亡してしまったのは、たとえ当時の大使館の指示によるとしても、余りに非人情非武士道的行為だと思った。私は事重大と感じたので、いつものホテル生活を切りつめようと、名もない小ホテルに引移った。独軍侵入と同時に英米人には至急引揚げ命令が下った。私の友人たちは別荘、ホテルの生活をたたみ、哀れな姿で、海岸通りのベンチに着のみ着のままで英国荷物船の到来を待機する有様だった。私は言葉では尽せぬ感慨で彼等を慰めはげました。

 「残留した老人や子供の世話は必ず見る。如何なる事態が起ろうと友情は友情である。国際愛を信ずる我々は飽くまでも正義人道の味方であり、必ずお互いに再会の日があるだろう。」と。
 未知の1英老婦人が私を呼びとめて
 「私は若い頃日本で幸福な生活をし、私の夫は日本で亡くなって日本に埋められている。日本人は正義の国民であるから必ずや我々と共にナチスを敵にすると確信している。これは私が日本を去る時、日本の友人から貰った記念品で一生肌身を離さず持ち歩いているメダルだ。東郷元帥が凱旋の時出来たものと聞いている。どうぞ英国の日本に対する友情と信頼の印に取っておいて戴きたい。」
 と桜の花を彫刻した黒ずんだメダルを私に差出した。すべての人々が非常に感傷的になっていた際ではあったが、私はこの未知の英国の1老婦人の日本に対する温かい友情を感激して受取った。そしてその足でカトリック教会に詣で、仏蘭西守護聖女ジャンヌ・ダルクの聖像の足もとにそのメダルを捧げ、カトリック教徒でもない私の平和願望を訴えた。

 私はニースに移った。伊太利軍が入ってくると、私は数日外出もしなかったが、伊太利軍人の仏人に対する非常に控え目な態度から、私は彼等が嫌々戦争に巻きこまれた、ファシストとは全然縁の無い平和を愛する市民であり、同時に独軍に対しては好感を抱いていないことを知るようになった。

 その頃ヴィシーから年の若い日本の1外交官補がニースにやって来て、ニースで語学の勉強をすると云って訪ねて来た。気持のサッパリしたしっかりした若者だった。彼は当時の日本の空気の中で育った青年であるだけに、枢軸国に対して相当強い熱情を持っていたが、私はその点では何事も触れないようにしていた。そして彼の持ってくるヴィシー大使館製の情報は甚だしく実状と相違しているのを見出したが、そのことについても彼には勿論私見などは述べなかった。彼にしても私が反ナチスだぐらいは賢明な頭で想像していたことと思う。いずれにしても彼はあらゆる方面の人々に愛敬され、仏人に対しても非常に親切な態度で接していたし、私は彼の紹介で独伊の主脳者を知る機会を持った。

 伊太利の人々は甚だ社交的で親切に交際してくれたが、或る日某副領事が
 「薩摩氏は恐らく、我々の今日の立場に対して好感を持っておられぬと思う。だが実は自分達も大いに不満なのだ。独逸は決して伊太利の味方ではないのだし、日本の味方でもない。彼等の軍事的規律は尊敬するが、自分達には彼等のイデオロギーは全く文明に反したものとしか考えられない。自分からこんなことを云っては、貴下に罠をかけてつりこむように取られるかも知れないが、我々の友人は非常に若い人だし、正直に我々が独逸と非常に親しいと考えて居る様子だから一寸貴下だけに申上げておく」

 と前置して散々独逸の悪口を云った挙句、自分は国の反抗団体と連絡があるから、万一の際は何でもすると友情的に云ってくれた。私は微笑して聞き流していたし、勿論某君には一言もこのことについて口外しなかった。マヂノ戦線が崩壊して独軍が洪水の如く侵入し、ペタン老元帥の声がはじめてラジオに響いた時は、私といえども無量の感慨に打たれた。軍事的に、既にあの当時欧州大陸では如何なる反撃も不可能だったのである。ペタン元帥によって一般仏蘭西国民は救われたと直感したのは当然である。又、事実ペタン元帥により当時の仏蘭西国民は己の貴い伝統的文明の偉大な美の再発見をし、所謂腐っても鯛の自信を以て侵入者・独逸に対する事を得たのである。最も悲しむべきことは現在の日本でも見られるように、仏蘭西自身の内に、仏蘭西は完全な敗戦国だ、ヒットーの情によって再興するよりないと宣伝し、長いものには巻かれろ式のオポチュニスト的コンフオルミストが出て来た事である。誰もが真剣に何とかして老元帥の期待に添い、努力に酬いたいと考えたのは当然で、私は文化的に日本に於て仏蘭西文化の地盤を守れと当時の外務大臣のボードワン氏を励ました。事実第三共和政体はデマゴーグ的政治家連の手で軟化してしまって、文化的にも枢軸の宣伝戦に押され気味だった。若し仏蘭西文化の伝統が1時の国難のため、その高貴な価値を忘れられ、失われてしまったとしたら、それは全人類の取り返しもつかぬ不幸なのである。「お前達は敗けたのだ」とは何事だろう。軍事的に大いなる手違いが生じたかも知れぬし、政治的には1政体が崩壊したには違いない。だがそれが文化的精神的に仏蘭西が敗けてしまったとは云われまい。敗けるどころか、仏国民はペタン元帥の出現により己の持った崇高な伝統の美とそれから放射される偉大なる仏蘭西精神によって再生したではないか。私は嘗て仏蘭西を敗戦国と考えたことはない。ペタン元帥でさえ仏蘭西は重傷を負ったのだと明言したが、負けたとは云っていない。ヒットラーは単に軍事上で勝利を得ただけで、仏蘭西が講和条約に調印しない以上は唯だ休戦状態に立った儘で、最後の勝負の軍配は決定していなかったのである。ド・ゴール将軍が宣言したように仏蘭西は単に1合戦を失ったばかりであるというのは単なる負け惜しみではないのだ。当時の私は「敗戦」を宣伝する者達が、唯目先の事しかわからない連中で、彼等こそ仏蘭西を共産主義のクーデターに導いてしまう分子だと考えた。仏蘭西人大衆が敗戦的心理状態に陥ってしまい、精神的独立性を失ってしまった時、共産系の反抗団体に「我々こそは真の仏蘭西国民であり、我々こそは敗戦を信ぜず最後の勝利及び仏国の政治的独立は我々の流血で死守されたのである」と見栄を切られて、グーの音も出せないのは、彼等敗戦主義者である。共産系の反抗者連は仏蘭西の原野で現に血を流しているのだ。彼等はたとえ仏蘭西赤化のために戦っているのであろうとも、現に狂暴ナチスに反抗し、自分の血を洗っているではないか。口のみで愚痴をこぼし乍ら、侵入者の鼻唄をうかがい、ペタンにでもド・ゴールにでも、場合によっては共産のトレーズにでもいつでも旗色を塗り替えられる旗を持っていたブルジョア階級は、当時の私には最も哀れむべき「敗戦者」と感じられた。ペタン派ならペタン派で理由もあろう。ド・ゴール派ならド・ゴール派で理想があろう。いずれも仏蘭西人であり仏蘭西人でありたいために、彼等は一方はヴィシーに立て籠り、一方はアルジェに待機しているのではないか。共産系の反抗団体にしても、たとえ、それがモスコーの赤旗の下で行動しているとしても、彼等には彼等の主義主張があり、正邪はともかく祖国愛を標傍して、尊い血を流しているのである。だが不愉快な敗戦国宣伝等には国民的節操など爪の垢ほどもない。ナチスでもなく、共産派でもなく、ペタン派でもなく、ド・ゴール派でもない。「長い者には巻かれろ、自分さえよければ、どうだっていいのだ。」である。オポチュニスト以外の何物でもない。その朦朧性がまことに不愉快である。

 モントワールのペタン元帥とヒットラー会見後、オノラ総裁は最後の上院投票に於てペタン元帥に対し棄権を敢行した。それに依ってヴィシー駐在日本外交代表との関係も自然疎遠になり、オノラ総裁は郷里アルプス山中バルセロネットに一時引籠もってしまったが、やがて関係事業の責任からも、また巴里に戻って来た。私は頭を下げて独占領区域に入るのを飽くまで拒み、南仏ニース、即ち自由仏蘭西区域に踏み止まる決心をかためた。ということはヴィシー要人と会う必要も無く、当時の日本大使館に交渉しなければならない用事から遠ざかったことを意味する。

  日仏文化事業にはナチスの息がかかり、独逸からゲッペルスの後援で来仏した1朝鮮人の指揮者の大音楽会が、大使館後援で巴里のプレーエルで演奏されるまでになり、到底私などの顔を出せる性質のものではなくなった。「オノラは仏蘭西の国賊、薩摩は日本の国賊」と呼ばれてるなどという風のたよりが二―スに伝わってくる有様で、ヴィシーなどに行けるものではなかった。そうこうしているうちに独軍の形勢もロンメル元帥のアフリカでの敗戦で下火になって来た。英国の粘り強い反抗は逆に段々力を加えて来た。日本の参戦によって1時パツと咲いた南方の花火もつづかず、おりから英空軍の爆撃が日増しに盛んになって来た形勢に、私は万一の場合を考えて自由区域内通行許可証を仏官憲に願い出た。勿論、仏蘭西に残留希望の邦人の責任は一切負わず然るべく・・・とサインまで取りに来た大使館に今更厄介になどなりたくない。通行許可証がいっこうおりないのでその催促にニース警務部長に面会を求めたところが、これがはからずも旧友ド・マルテル伯爵(元駐日仏大使)の部下だという。話はよく通じて、ではひとつ出来る丈骨を折ってみようとのことである。序でだから大使館の一札の件も話したところ
「いや今にそっちの方が通行止になりますよ。」
 と微笑した。数日経つと刑事2人が私の住居にやって来た。
 「実は通行証の件で来たが、貴下の御身分はよく承知しているが、宗教その他を伺いに上った。」 という。
 「通行証と宗教と何の関係があるのだ。独逸占領区域ならありそうな話だが、仏自由区を歩くのにそんな看板が必要になったとは実に奇怪千万、だが御必要とあらば申し上げる。私の宗教は世界平和四海同胞であって神も悪魔も引きずり込み・・・」
と終らぬうちに、私を制して
 「では貴下はカトリックでも無ければ、プロテスタントでもなく、回教徒でも無く、要するに猶太教ですな。」
 ときた。
 「いやそれならまだましだが、私は日本で生れたのだから神道でバテームをし、仏教を教えられて育った者、まあ面倒なら神道としておきましょう。」
 これを聞いた両刑事殿顔を見合わせて
 「それじゃあまあパイヤンと云うわけですね、だがパカニズムは現世紀の初めに姿を消してしまったので、それじゃ一寸困るのだが、貴下はいったい何を信じて居られるのだ。」
 との再質問
 「世界平和四海同胞を信じている。それで通らぬのなら仰せの如くパイヤンなんだから、太陽を拝し、月星を敬い、犬猫猿鳥はおろか、大自然の創造したものは独人であろうと猶太人であろうと清濁合わせ含んで尊重しますよ。」
 と皮肉ると
 「ではまあ古代のエジプト人式宗教ですね。」
 「まことに然り」
 「では何んと称したらよいでしょうか。」

「まあ、動物教でしょうな。」
「成程、では動物信者とでも云うのですね。」
「その通りその通り。」
ここ迄突込んで2刑事殿やっと得心がいったとみえて
「いや、大変御邪魔しました。では亦いずれ何んとか沙汰があるでしょうからそれまで・・・」
 と仏蘭西人特有の円腰御挨拶に大いに好感を感じた。それから数日経って待ちに待った通行証が届けられた。そして私の姓名の傍に「動物信者」と堂々と記されていたのには私も参った。だがその時、この天下一品の仏蘭西自由区域許可証が後日私の身辺に一大悲喜劇を引起そうとは、流石の動物信者も犬猫のカンに劣るものであった。

敵前上陸の噂ばかりがこの南仏の海岸の住民を刺戟し、脅やかしていた。英空軍の襲撃は日増しに激烈の度を加え、殆ど全国の鉄道網は蜂の巣をつっついたように乱れ、自由区域も有名無実、独軍は仏蘭西全土に進駐の形勢となった。そんな折から仏はアルプス山中のスキー地メジェーブ村に伊太利軍により看視滞留になっている友人の英人C君から、次の様な急信を受取った。
 「伊太利軍は既に引揚げ準備中で、独軍進駐はここ数時間の問題と思う故、伊太利軍最高司令部を訪問して自分及び自分の家族一同の当地滞留許可を引続き許されるよう独軍に対し、手続きしてもらいたし。」
 この急信を受取った私は、直ちにニース市の伊太利軍総司令部のリチ大佐に面会を求めた。そしてホテル・エルミターヂュの司令部に到着した私は、直ちにリチ大佐の応接室に案内された。来意を単刀直入に告げると、大佐は微笑して
 「貴下の御親友の高名は自分も知っている。だが今日英国の国籍にある国民が如何なる考えでその家族と共に独軍の占頷下に残留するのか自分には理解出来ぬ。万一貴下の云われる如く、我が伊太利軍が引揚げると仮定したら、何故に我々と共に伊太利に入国し、連合軍占領区域に行かれないのか。だが当人の御希望とあらば我々伊太利軍として何等反対する理由も無いが、唯独軍の手に渡られたら我々がしたと同様な待遇は受け得るか否か、その点は明言出来ない」
 この時大佐の副官が扉をたたいて入室した。大佐は振返って口早やに伊太利語で
 「では自動車の準備は出来たのだね、荷物も全部乗ったか、ガソリンは充分だね、有難う。」
 そして私の方に向き直り
 「いや、一寸伊太利迄行って来るので、では御友達に特に御伝え下さい。英国は伊太利の最大の親友国だとね。」
 大佐は微笑して私に握手した。室を出ると、あたりのザワめいた様子から、引揚げが直前に迫っていることが感じられた。果せるかな、その夜、伊太利軍は国境を越してしまった。

 数日後にC君から手紙で独軍が到着したことを知らせてきて、相変らず看視滞留の身故万一の場合は急報するから宜しく頼むと云って来た。それから間もない日の或る朝、電話がけたたましく鳴り出した。受話器を耳に当てるとC君の夫人の声が響いてきた。

「大変な事態が起った。ここに看視滞留になっている英米人全部が独警察(ゲシュタポ)の手で押えられ、今コンピエン指して出発したが、聞くところによると独逸に追放されるとのことである。夫だけが丁度村に買物に出て留守中だったので逃れた。今戻って来て家に隠れている。直ぐ来てくれ。自分達が万一救われるとしたら、それは貴方の手によるよりほか何等の望みも他にはない。では一生の御願いです。」

 予期はしていたものの現在眼前にC一家が危機に曝されているとあっては、じっとそれを坐視してはいられない。直ちに独軍リオン総司令部長官ニエホフ将軍に急電して、シャモニーの独警察支部に紹介を請い、ファイエ行列車に飛び乗った。家を出る前に、C夫人に電話をかけ、今直ちに発つから、如何なる方法を取ってでもCをシャモニーまで発たせて待ち合わせるよう、これが最後の望みだとダメを押した。カンヌを出てアゲーに差しかかった列車は、その日の早朝、空襲で破壊された個所の手前で停車し、旅客はバスでサン・ラファエルまで運ばれ、そこで待っている列車に乗換えよとのこと。荷物を引っかついだ乗客が一斉にバスに向って突撃して数台のバスは真黒な人の山になってしまった。私は辛うじて屋根の上に這い上り、荷物の蔭に身をひそめた。

 「誰も屋根の上には乗って居ないだろうね。」
 と警察の声が聞こえた瞬間、バスは動き出した。私は首を持ち上げて警察に
 「確かにこの通り。」
と叫んだ。バスの中に寿司詰めにつまった旅客から
「ブラボー、日本人」
 の歓声が起り、警官はしてやられたといった表情で「おお、畜生。」とこぶしを振り上げたが、再び起った。
 「旨くやったぞ」
 と私に味方する旅客達の歓声に
 「ごもっとも」
 と仏蘭西式に逆に出てからこんどは私を見送って
 「では御無事にいってらっしゃい。」
 と叫んでいた。

 翌朝ファイエにたどりついて、登山鉄道に乗り換えると、初秋の山の空気が窓から流れ込み、私は楽しかった戦前のこの辺りの旅の思い出に耽っていると、列車はいつの間にかシャモニーの駅に停車した。私の降りたのを1人の青年が見つけて、C君は確かに安着、停車場の外で待っていると告げた。出口を出るとすぐCの姿があらわれた。私はCを抱擁して、隠れ家となっている或る下宿に昼食をとろうと、そこへ行く途中で、2人の女連れがあとをつけているのに気がついた。「山の中にも狼が居るね」とCに囁いたが、Cは唯一途に、自分の身の上に就いて考えているためか返事をしなかった。食事をすませて独逸警察に電話し、至急に所長に面会を求めると
「ああその話なら既に承知している。御来訪になることもリオンの本部から知らせてきて御待ちしていたところだからすぐ御越し下さっても結構。」
 と鄭重な挨拶であった。そこでC君を引き立てて、早速町はずれの、アルプス杉の深い林の中に一別荘を占領している独逸警察の扉をたたいた。

 「貴下のC氏に対する御親友関係とC氏の日本に対する旧い友情などと考え併せて、このたびのお願いごとは真にもっとものことと思いますが、C氏は英人であり、然も先日我々の眼を逃れてしまった関係上、今日となっては人質候補であり、自分として知何とも致し難い」
 と云われた。話が困難と見てとったので、Cを庭園に出し、万一の場合は目くばせして逃走の陣立をし
 「だが貴官にも申上げるが、C氏は独軍に対し何等抵抗もせず、平和なる市民であり、仏蘭西に生れたC氏の叔父は独逸人と結婚し、C氏の夫人も仏人であり、今日まで平穏な生活をしていたので、何ら追放にかかるような人物ではない。私が保証するから何卒元に戻して貰いたい。」
 と突込んだが馬耳東風である。
 「では如何なる方法を取ればよいのか。」
 と追撃すると独人は声を落して
 「貴下の保護で瑞西(スイス)国境に発たしてしまうより方法は無いのだ、折角貴下がここまで来られたことだから今晩までは貴下を信用する。その間に・・・」

私はこの意外な提案の前で一寸ためらった。というのは、Cがその家族と直ちに国境破りをするなどということは全然不可能事で、たとえば、かりに若し彼1人が国境を越え得られたと仮定しても、残された夫人とその一家は如何なる待遇を受けるだろうか。これまた計り難い・・・そんなことを考えているうちにふと頭に1案が浮んだ。
 「だがC君は長年の肺病で、この際たとえ瑞西に入ろうと入るまいと到底長くは生命が保てまい。どうせ死ぬのなら第2の故郷仏蘭西で・・・とはC及びC夫人の願望だと思う。たとえ貴下方の手で押えて追放してみたところが、恐らく途中で死んでしまうだろう。いや全く生きた屍の御蔭で貴官にまで御面倒をかけて・・・」
 と空とぼけると
 「いや、そんな人とは知らなかった。ではCは肺病ですな。」
 「然り、然も不治性のですよ。」
 この言を関いた所長は、仏人の女秘書を呼んだ。
 「ヂュルメン夫人、英米人関係の書類を一寸・・・」
 女秘書が現われた時、私はそれが今朝登山鉄道の停車場前から私たちをつけた女連れの1人の顔だと再認した。所長は女秘書にCの肺病患者であることを告げた後、私の顔を見て
 「では医者の診断書が有るでしょうな。それがあれば先ずリオンに送還して取調べの上、何んとかニエホフ大将の口添えで人質だけは免れるかも知れぬ。」
と折れて来た。

「だがあんな病人を方々引っぱり廻してみたところで始まらないではありませんか、そのくらいなら一層ひと思いに今夜にでもバッサリ人質でやってしまった方が当人も助かり・・・」
 「いやいやそんな真似は出来ない。」
 と考え込んだところを女秘書が
 「所長、折角の薩摩氏の御話なのですから、どうにかしてあげては。」
 「そうですよ、人道的に考えてね。」と私が附け加えた。
 「では一応C氏の診断書を拝見して見よう。」
 と益々軟化、というのはそろそろヒビの入った来た独軍現状、万一の場合には反対にこっちから助け舟を出して貰う心算もはたらいたのだとみた私は、Cを呼び戻し、用意してあった診断書を出させると、何と十数通が机上に並べられたではないか。流石の所長も苦笑して
 「まあ1つ2つで結構ですよ。」
 これで懸案が解決した。
 「では御望み通りひと先ずメヂェーブまでお戻しして、いずれ本部の指令を待って薩摩氏までお伝え申上げよう。それまでは私の責任だから間違いのないようお願いしたい。いや、随分御苦労なさったことでしょう。個人的には御同情しますが、これまた戦争故で・・・」
 との人情深い態度である。

「ではこれから私自身附き添ってメヂェーブまで送り届けるから、途中で間違いのないよう通行許可証をお願い・・・」
 と云いかけた私の言葉をさえぎって
 「いや、それには及びません。丁度しばらくメヂェーブには行かぬから、私自身これから自動車でお連れしてよく出張所長に話して置きましょう。御安心下さい。」
 それからコーヒー迄出してくれる親切さに、呉々もCの身柄を依頼して私は宿舎に引揚げた。

 難関を突破した後はニエホフ将軍にでも依頼して口添えして貰えばC一家は款われようと、私は一風呂浴びて旅の疲れを流し、昼寝して目覚めた時は、既に夕日が雪峰の後にかくれて、涼しい山おろしが谷間の白樺の木立をゆすぶっていた。私は夕暮迫る町、幾たびかの滞在で知りぬいていたこの懐かしの町に立ち、赤い燈のともった浴場に何気なく立寄った。北国生れらしい、プラチナに髪の毛を染めた美人のマダムにコックテールを注文して、高い掛椅子に坐るや否や1人のブロンドの女が雪外套(カナデアン)に包まれて、私の側に座をしめた。
 「今晩は、山には珍しいお客様ね。」とマダムに挨拶して、それから私の方にすりよった。
 「珍しいお客とは私のことですか、お嬢さん、」
 と私は微笑して彼女の横顔を見るや、これ亦今朝停車場前から私たちをつけた例の女秘書の連れの女と気付いた。
「ええそうよ、こんな山奥に巴里の贅沢な香水を匂わした紳士なんぞ、夢にも見られない時代ですからね。」
 そこで私は単刀直入に
 「だがその夢は、今朝登山鉄道の駅前から見ているのではありませんか。」
 と突込んだ。
 「まあ、では。」
 「そう、私は貴女のような美人を見すごす程ボンヤリはしていないし、まあ御立派なお腕前と御見受けはするが、まだまだお若い。」
 彼女は自分の一言に兜をぬぎ、
 「C様の1件は巧くその外交で片附きましたね、だが薩摩さん、悪い事は申し上げませんが、この山の夜は貴方のような立派な紳士が越されるような場所じゃありません。決して悪いことは申し上げませんから、これから直ぐお立ちなさい、もう終列車は出てしまったから、妾がサイドカーを手に入れます、直ぐこの足で・・・」
 と言うと声を落して
 「ここは奴等の地獄、大変なことになりますよ、一刻も早く、ねえ妾が・・・」
 「御親切は有難いが御承知のCは救われ、私は旅に疲れた。今晩はゆっくり休んで、明日か明後日発とうと決めているのですから、・・・それに何事が起ろうとね、私1匹の身の始末ぐらいなら・・・」

 彼女はこの言を聞いてうなずいた。
「では2人だけの間でCの放免を祝い、旁々シャンパンを空けましょうか。」
 マダムに目くばせして私は彼女の肩に手をかけた。
「お嬢さん、失礼だが貴女は独逸のどこからお見えですか。」
「まあ、一寸当りませんね。」
 と彼女はハンド・バッグの中から5通の旅券を取り出して、酒場台の上に放り出した。
「いや、そんなことだろうと思いましたよ。」
 私は旅券に目を落した。
「なる程、仏、瑞、独、英、それに伊太利、大したコレクションですね」彼女はほほ笑んだ。
「まあ、どれが本物か知らんが、貴女は美人ですよ。」
 とシャンパンの杯をタッチした瞬間、彼女は私の手を握り、紅い唇を耳につけ
「さあ、これからが一芝居だけれど、妾は貴君の味方。」
 と囁いたとたん、ガラーンと入口の鉄扉が下り、酒場合の横の扉が開き、ハッと思う間に私は数人の独兵に取り囲まれてしまった。

 恐らく之を読まれる読者は野郎小説を書き出したな、ハリウッドヘでも売りつけて小使銭でもひとかせぎする気かと思われるだろうが、私のゴマ塩首にかけても、これは小説じゃない、小説どころの生やさしい話ではない。私は独軍の捕虜になってしまったのである。そして酒場の扉の奥の1室の真中には蝋燭がともり、1独逸将校がコニャックの瓶を前において私の方を見ながら怪しい仏蘭西話で声をかけた。
 「貴下に一寸お話したいことがある。」
 私は相変らずブロンド嬢と坐ったままシャンパンのコップを彼の方に上げた。
 「お話があるなら私の方へ。」
 すると彼は、
 「いや私の方が1杯差上げましょう。ではこちらへ。」
 と急に丁寧な口調になった。
 「御招待なら話は別だが、先ず貴官の御部下方折角の御入来故、シャンパン1杯差上げて・・・」 とマダムに目くばせした。兵士達は意外な言葉に間の抜けた形だったが、その内の下士官らしい1人が、
 「では日本天皇陛下のために。」
 と気を利かして座をつくろった。
 「世界平和の為に。」
 と私は追っかけて云い、それからブロンド嬢の手を取って、将校のすゝめる席についた。
 「実は貴下に申し上げるが、残念乍ら貴下の御生命は本官がおあづかりしておることを御承知願いたい。」
とピストル2挺をコニャックの瓶のそばに放り出した。

 「有難う、名誉ある貴官の御保護とは勿体ない、ではどうぞよろしく。」
 と突っ込んでから再びマダムに目くばせしてシャンパンを抜かせ

 「ではよろしく。」
 と白ばくれた。中尉殿がそれから何をしゃべったかは、ここでは話し切れぬので割愛するが、掻いつまんでお話しすると、彼は自分自身でCを押えに行ったが、Cは逃れてしまい、恐らく瑞西国境を越してしまったことと思い、そのように報告しようとしたら、私に出し抜かれてしまいCはウマウマと私の力で独逸警察から釈放されてしまった。独将校としてこんな恥辱を受けたことは無い。その上これ亦厚顔にも独軍専用の酒場に入りこみ、彼が惚れこんで結婚まで申しこんだブロンド嬢と仲良いところを見せつけられては男が立たぬ。日本市民と称して敵仏蘭西の最高勲章を独軍の前で佩用し、英国市民を日本の旧友と称して弁護するに至っては言語同断云々、と云うことがクドイ。

 「ハハーン。」
 と聞き流し
 「おい、中尉殿、少しお静かに、貴官が独逸軍人なら私も日本の軍籍を汚した光栄を持っている。仏勲章1件で文句が有るなら、ペタン元帥に問い合わせろ、ヒットラーから貰ったクロワ・ギャメとは違った筋道、貴下の令嬢1件は小生の存ずるところではない、独警察の密偵ぐらいのこと
は貴官から承らずとも、とうににらんで惚れてしまった。」
 と高飛車に出てブロンド嬢の頬にキッスした。するとこれを見た中尉は、既に酔が相当まわっていたが、カッとして、机上のピストル2挺を雙手にふりかざし、天井目かけてブッ放した。ガラガラと電気の装飾具が私たちの頭上に散った。

 「いやこの一発でお気が晴れれば後の始末は私が・・・」
 と再びマダムに目くばせし、シャンパンをつぎ足して、実に総計13本。流石の中尉もベロベロに酔い倒れてしまった。そのすきを千法札30枚をマダムにつかまして「御世話様。」とブロンド嬢の嬌笑でけん制して、山の麗の森の中にあるブロンド嬢の家へところがりこんだ。

 「御苦労様、貴女の魅力の御かげで・・・」
 と唇を彼女の手にもって行った。その瞬間ハッとした。ブロンド嬢の指が欠けているではないか。愕いた私の顔をまともに見つめた彼女は
 「大変な美人でしょう、実は私は波蘭土の独軍の労役場で・・・」
 と意外な過去を語り出した。彼女は英国人を父に持ち、独仏混血女を母に持ち、北大西洋上の仏蘭西船上で生れ、婚約した仏将校は40年に独軍の捕虜となり、彼女は語学の達者なのを利用してブルッセルの某国領事館に入り、捕虜になった婚約将校にあてたタイプの手紙の写しが独警察の手に落ちて波蘭土に追われ、1冬を夏シャツとショーツの半裸姿で雪かき労働をさせられ手足も凍結してしまったところを1独老将校に助けられ、独警察に働くならばと、命がけの密偵になった。だが彼女の思いは仏蘭西にあるので、秘かに反抗軍と連絡していたのだが、どうせ終りはナチスの手で殺されるに決っているから、それを思うと、せめて貴方を救って出来ることなら一緒に逃げおおせたい・・・」

 と告白した。これを聞き終わるか終わらぬうちに、扉をたたく者があって、それと共に独語の会話が聞え、またあの中尉が姿をあらわした。そしてこんどはいきなり彼女にピストルを突きつけた。これを見るが早いか、私は彼の手に1撃喰わして、ピストルを叩き落した。そして靴で踏みつけておいて

 「何を乱暴をするんだ。これが独軍人のする事なのか。酒の上とは云え、こうなったら承知しないぞ。」
 と、ベロベロに酔っている奴を、便所の中に押し込み、外から錠を下して彼女を連れて外へ出た。それから
 「僕の宿に行こう。」
 と、彼女を誘って数歩行くと、いきなり背後から首っ玉にかじりついた者がある。ブロンド嬢の叫び声で、さては、また執拗い中尉が来たとさとった。体をかわして彼の手を振り放し、顔面にアッパーカットを喰わすと、彼は道の真中に倒れてしまった。私は彼女をつれて旅舎に転げこんだ。朝の3時頃であった。夜が明けるまでの間をトロリとする間もなく、仏警察から警部が2人やって来て一寸警察まで来てくれと、引き立てられてしまった。署長は机の向うで腕組みしていた。私を見ると
 「いや、大変な騒ぎです。今朝、独将校が街道で酔い倒れていたのを署員が発見して、聞いて見ると日本人とゴタゴタしてとのことだが、日本人といえば昨日ここに着かれた貴下以外にはない。一応旅券、通行許可証を拝見した上、独軍司令官まで報告しなければなりません。沙汰あるまでは気の毒ですが、ここで御待ち願いたい。」

 と云う。もうこうなったら仕方がない。私は身分証明書や通行許可証を出して、彼の机の上に放り出した。彼は旅券を調べた後、通行許可証に目を通した。巴里大学都市理事、オフィシエ・ド・レヂオン・ドヌールに目がとまったと見えて、彼は一寸顔を上げて私の赤色の略章を見た。
 「貴下はレヂオン・ドヌール勲章を。」
 と急に態度が改まったが、さてその側の「動物教信者」のくだりに視線を投げると、彼は愕然としたらしかった。
 「これら何んの宗教ですか、動物教信者とは一体・・・」
 と彼は口の中でくり返してつぶやいた。動物教信者には私の神経がゆるみ、笑いが思わずこみあげてきた。そして、私は堪らなくなって、動物教信者には私の神経がゆるみ、笑いが思わずこみあげてきた。そして、私は堪らなくなって、ハハハと大笑いしてしまった。が署長は何か何やら見当がつかずに苦り切っている。そこヘブロンド嬢の声が扉の外から聞えて来た。
 「失礼しました。薩摩さんは私の方でいただくことにします。」

と云って、彼女は何か書類を出した。私の処置を持て余していた署長の顔にホッと微笑が浮んだ。

 ブロンド嬢に促されて独司令部に出頭すると、気持の悪い程の丁重さで、今朝は酒の御馳走にあずかりながら、隊の者どもが大変失礼いたしましたと挨拶を受けた。答えに窮していると、エブリン嬢(ブロンド嬢の本名)が、さあこれで、もうすべてがすみましたと云う。余りアッケないので、こんどはこちらが気抜けしてしまった。

 後日、11月末になって、再びエブリン嬢を訪ねた。雪のチラチラする山中に、C一家をも見舞って、明ければ大戦終了の年の春のことである。ニースを追われてボーリュの高台に避難していた私に突然電話がかかって来た。エブリン嬢の声で、モンテ・カーロの祖母に面会のため、特に休暇を取って出て来たが、今日午後の独軍軍用列車で山に戻る。一寸でいいから是非お目にかかりたいと云う。

約束したニースの停車場前のカフェに駈けつけてみると、エブリン嬢は何だか元気のない顔で、コーヒーをすすっていた。
「お目にかかれるのも、これが最後かもわからないわ。」
 そう云う彼女をはげまして、真っ黒な軍用列車の内に送りこんだ。それが私の見た彼女の最後の姿であった。彼女は独軍退却の折に、サランユ山の中で独軍の手で殺害されてしまったらしいという噂を、後になって耳にした。

 そしてあの中尉は私との事件で、その後東方戦線に廻され、そこで戦死したらしいと、これも噂話である。残ったのはCと私と2人きりで、当時を追憶するたびに、シャモニーの秋風と、白樺の林と、そしてエブリンの思い出が我々の胸に蘇った。

 巴里の日本会館も再開され、白耳義(ベルギー)の財団も再開され、巴里事務局長・萩原徹二君の来巴を迎えた。

 豪華船ラ・マルセイエーズで12ケ年振りで故国の土を踏んだ私の半生記―今様浦島物語を 「歌を忘れたカナリヤ」の日本語でタドタドしく書き綴ってみた。             (昭和26年5月)

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 ●『わが半生の夢』ー半生の夢 <了>。

 ●『わが半生の夢』ーモンパルナスの秋 へ続く。
 


● 『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (1)
 ● 『わが半生の夢』 薩摩次郎八  
  
 ★薩摩君のこと          堀 □ 大 學

 閑院の宮、西園寺公の昔は知らない。
 僕の同時代人の中では、薩摩治郎八君が僕の知る限り、ヨーロッパの社交生活に、長期に渡って一番派手に金を使い続けた日本人だ。M侯爵夫妻のロンドン、パリに於ける大使館づき陸軍武官としての金活は随分華やかだった。だがこれは期間が短かった。H侯爵と実業家のM氏も随分金を使われたが、これは美術品の蒐集に使ったので、純粋の消費とは言えまい。一種の投資だから。ところが薩摩君のは、只なんとなく使ったのだ。ヨーロッパの社交金活を楽しむために使ったのだ。自分も楽しみ、人を楽しませる以外の目的なしに只何となく使ったのだ。この点に僕は感心する。それも30年の長きに亘ってだ。金を使うことはいいことだ。使った本人の身に何かがきっとプラスされる。少なくとも儲けることよりはいいことだ。儲けた人の身につくのは金だけだから。薩摩君が20代の若い日にパリの大学都市に私費を投じて留学生のために日本館を建設したことは人も知る通りだが、あれに使った金高なぞは、薩摩君がこれまでに費った金の千分の1にも当るまい。他の千分の999は只何となく使われたのだ。薩摩君の身には随分いろんな教養がその血と肉となってついているが、これは貴重なものだ。他の日本人には誰にもないものだ。

 薩摩君は早熟な少年だった。15歳の時、『女臭』と題する3百枚の小説を書いて、当時崇拝していた水上滝太郎に見せに行ったという。男道の同性愛が主題だったという。女臭という題名は稚児の体臭に由来していたという。水上滝太郎は一読の後、薩摩君の早熟ぶりに驚いて、<君がせめて25歳になっていたらいざ知らず、現在これをどこに発表しても、誰あってこれを君の作だと信じる者はあるまい。>と言ってかえしたという。薩摩君は信頼し切っていた師ともあおぐ人の言を聞いて、その原稿を焼き棄ててしまったという。惜しいことをしたものだ。水上氏は知っていたであろうか、この時ともすれば、自分が日本に生れたレーモンラディゲを、二葉の時に嫡みすててしまったかも知れないと。

 薩摩君はその後小説の筆を折って、短歌と詩を作った。堀口大學の歌集『パンの笛』と詩集『月光のピエロ』の影響だと本人は言っている。兎に角非常な<大學ファン>だったことは事実だ。薩摩君の歌集『銀糸集』と詩集『白銀の騎士』はこの傾倒の今に残る形見草だ。『銀糸集』の寄贈を受けられた与謝野晶子先生は長文の礼状をよせて、<大学(ママ)は子のように思っている自分の歌の弟子だから、今後あなたを孫と思いましょう。勉強して下さい。>とおっしゃったという。

 薩摩君の一生には絶えず夢があった。大きな夢が何時もあった。事業の夢、政治の夢、外交の夢、芸術の夢。夢はその時々によってちがった、同じではなかった。ただ一つ同じだったのは何時もそれが金を使う夢だった点だ、事業の夢も、政治の夢も、外交の夢も、芸術の夢も。

 夢よ、薩摩君の夢よ、いつまでもまどかなれ。

             1955年8月4日未明 葉山森戸川のほとりにて記す

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 ★ま え が き

 この小冊にもられた「半生の夢」「せ・し・ぼん」「ロマンティストの花束」の諸扁はフィクションではない。私自身の30余年の海外放浪の体験記だ。

 私は今日でも、人間にはあらゆることが可能であるという夢を持ちつづけている。私かパリで税閲吏ルッソーの描いた旧城壁の荒廃地を世界無比の国際平和都市と化したのもその夢の現実化の1例にすぎない。だが人間には機会という気紛れ者が必要なのだ。夢と機会が偶然交触することによって人生の蜃気楼は生れ出る。

 私の半生が20世紀の初年から半世紀間の大変転期にまたがっていたということも、この体験記を色彩と冒険で満たしたことは確かなのだ。

 とはいうものの、私がマトモな人生コースの軌道を歩いていたとしたら、こんな男にもなっていなかったろう。ところが血の気の多すぎる私は地球の涯から涯まで、さながら尻尾に火のついた猫よろしくの姿で駈け廻ってしまった。まるで蜃気楼の幻像のような人生を喰い潰してしまった痴人の告白書!

巻末に出版者が拾いだした「ムッシュ・サツマとぼく」の筆者の言葉通り、私自身にも解らない謎の人生の連鎖なのだ。

 永遠の美女の裸形を帯にして、笑ったり、泣いたりしながら、夢と現実の探究と冒険に「せ・し・ぼん」の嘆声を投げつづけて、到々浪漫的白髪の黄昏にまで漕ぎつけてしまった精神分裂症患者のたわごと。これが「せ・し・ぼ・ん」かどうかは、これも事実私自身にさえ解らない人生劇の1幕なのだ。“一巻の終わり”と結ぶには、まだまだ私の瞳底にはあまりに見果てぬ夢が多すぎる。私の人生はいまだに未完成交響楽の1章に過ぎない。

 千年も古りしわれかと疑れるどころではない。まだまだ私には人生が喰いたりぬ。「せ・し・ぼん」の人生劇がだ。

             1955年8月  薩 摩 治郎八

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 以下、本文引用。

 
●わが半生の夢  半生の夢

「治郎チャン、君は何になる、大きな商船掻き集め・・・」

 私の幼年時代、母方杉村家の大庭園の大池でボートを漕ぎながら、当時、高商の学生だった叔父が勇壮な声で唄ったのをいまだに憶えている。隅田川と神田川の交流点にある、1万数千坪の旧大名屋敷のこの大池には、東京湾の満潮に乗って無数の魚が流れこんで来たが、私はこの水のうえで、幼い子供心に大海に浮んだ大汽船を夢想し、想いを世界にはせたものである。というのも日頃、明治実業界毛織物工業の創始者であった母方の祖父と綿業王と称された父方の祖父の英姿に親しんでいた私にとって、この世界はあらゆる冒険と英雄的行為に満ちた楽土であったからである。

 駿河台の自邸は、1町あまりもある石垣に囲まれた大名門のある大邸宅で、老木鬱蒼と茂り夜番の老爺は未だチョン髷の所有者だった。庭内の稲荷山には大きな狸が巣を喰っていて、暗夜女中部屋の鉄格子の窓から大入道に化けて出現し、女中達の悲鳴に、老執事までが腰を抜かすといったような浪漫的な雰囲気の中で、私は「坊っちゃん」としてあらゆる我儘と勝手な空想を恣にして育った。

 こんな旧時代的空気がまだいぶっている一方、時は、明治初年期である。東京から横浜大阪にかけて外国商館と盛大な取引をしていた祖父は、進歩的な事業家で、当時東西の事業界を風靡した所謂近江商人の第1人者であった。日本で最初に避雷針を屋上に設置したり、ゴム輪の人力車を最初に用いたり、自邸の西洋館披露式には海軍音楽隊を招いて、在留外人知名の士と共にワルツを舞うといったような半面を持った明治型の紳商であった。

 封建的と自由進歩的な思想が交錯して出来上った家庭で、朝は祖母の膝に抱かれ、人力東で上野東照宮や不忍池の弁天堂に詣り、帰邸すると、巌谷小波の「世界お伽噺」を女中に朗読させるのが、幼い私の慣わしであった。そして「治郎チャン、君は何になる」に異国への思慕やるかたなく、小さな胸を躍らせたものだが「商船主なんかになるより、いっそヴェニスの大運河に浮んだような豪華なフレガートに乗って、世界一の美姫と一緒に神秘な月夜の航海がしてみたい」と秘かに願ったものである。

 既に私の詩人的性格と理想美に憧れる精神的要求が無心の内に芽生えていたと云えよう。

 この幼年期の東京に残した唯一の私の足跡を、嘗って上野不忍池弁天堂を訪れた人は、堂前に立っている1地蔵に見出されたことであろう。というのは「3歳の1児童、此の像の首の欠け居るを慨き、首を新刻せしめて奉献す云々」とある。此の3歳の児童が即ち、当時祖母に手を引かれて参詣し、地蔵の首無しを慨(嘆)いた私であったからである。

 幼稚園を経て九段下・精華学校の小学部に進んだ。もちろん男女共学で、子供の世界にも既に恋愛的感情の交錯があり、ものの哀れを知ったのは実に小学3年生位の頃からであった。その頃祖父が他界した。その葬儀には、各国の知人から送られた花環が邸一杯になった。花環にはそれぞれ送り主の名を書いたリボンが結びつけてあったが、それらの外国人の名はおそらく百を越していたと思う。外国から送られた友情のシンボルである花々の美しさは、私の子供心に深い印象を残した。その後父の時代になると、商業的空気は家庭から一掃されて了った。庭園の1隅には熱帯植物と美麗豊艶な蘭花植物の温室が英国風な花壇を前にして出現した。そしてこれを預る若い園丁は、西洋草花類の栽培研究のために英国渡航を夢想している青年だった。又、906番号の自動車を購入すると共に邸に入って来た運転手は、立派な技術家的手腕を持ち乍ら、あたら酒のために運転手に堕ちたという変り者であった。彼の浪花節の薩摩琵琶をよく聴かされた。蘭の花と洋書に凝った父は、日本古美術に関心をもっていたが、それやこれやで家庭の話題は芸術的なことに花が咲くほうが多かった。

 中学に進んでからの読物は「平家物語」「源氏物語」「ポールとヴィルジニー」「レ・ミゼラブル」などで、ワーズワースやシェレー等を読み出す頃になると、1も2もなく英国に行きたくなってしまった。

 その頃激烈な顔面神経痛に悩まされた私は休学して大磯の別荘に移って養生することになり、殺風景な中学校通学を自然解消してしまった。そして、英国渡航を理由に、毎日その準備と称して、田園生活と外人との交遊を楽しんだものである。大磯の家は、伊藤博文公が母堂のために建てた流水園清琴亭なる家を父が譲り受けたもので、私の少年期の前半がこの地で終る頃には、第一次欧州大戦も終った。それと同時に私の年来の憧憬は実を結んで、私は英国と巴里をさして故国に別離した。

 郵船会社欧州航路船・北野丸に乗ったこの浪漫的な少年は、マルセーユに着き、そこから英国に向った。ロンドンに着いたのは、折から霧深いクリスマス前夜であった。カーロス広場にあるコンノート・ホテルに数日宿泊しているうちに、洋服が仕上がり、黒の山高帽に金の把手の洋傘といった純英国型貴公子姿で、ハンプシャーのホイットチャーチというところで私を待っていてくれたハービー老牧師邸にたどり着いた。

 銀柳の多い牧場の朝霧を透して、談い太陽がもれる冬の片田舎の風景は、恰もコンステーブルの画中で呼吸しているようであった。が、生活そのものをいうなら、この老牧師邸の朝夕は、多感な少年の私にとっては余りに単調なもので、窮屈で暗い牧師邸の生活には到頭辛抱し切れず、体よくここがら逃れることを企んた結果、ロンドン日英協会副総裁アーサー・デーオージー老の紹介で、ロンドン郊外、リッチモンドのノックス博士邸に落着くことになった。博士は米国の大学で殆ど半生を教授生活で過した人であるが、その人が私に対する忠告は、先ず仏蘭西語を習得せよということであった。仏蘭西と聞けば、これぞわが憧憬の地の事ゆえ、早速一英老婦人に就いて始めたが、爾来30年に亘る巴里生活を経た今日にあって、なお私の仏蘭西語が未だに英国風のアクセントから抜けきらぬのは実にこの老婦人のレッスンが崇って了ったものである。少年期の耳の影響は全く驚くべきものがある。

 故国の両親には大学で法律経済を研究していると云って安心させ、その実私は専ら希朧(ギリシャ)文学と演劇、ことに当時欧州を風靡したデアギリフの露西亜舞踊に熱中した。タマール・カラサビナは私の偶像で、パラデアムの楽屋では同夫人の大理石の如き手に接吻するまでの熱狂ぶり、昼は大英博物館の希朧彫刻見物、特にタナグラ人形室が私の世界であり、夜は露西亜舞踊に浮身をやつした。これを知ったノックス博士は「汝芸術より他には立身の途無がるべし。」と嘆息した。

 テームズ河を見渡したリッチモンド公園に近いオンスロー街29番のノックス博士邸の「東洋の貴公子」だった私には、未だ現実的恋愛は無かった。けれども倫敦(ロンドン)のミュージック・ホールであるエンパイヤー劇場の舞台で見染めた美しい舞姫で、小歌劇の歌手ミス・ハミルトンの流し目に、小さな胸を焼いたのが抑々私がこの種の女性に対する感情の最初のものであったろう。

“my life and love” 私の半生にはいかなる瞬間に於ても永遠の女性が見守っていて、所謂レディースマンとしての人生の客観者でなく、自ら人生劇の1役者として終始してしまった、わが半生の「人間的なあまりに人間的な」性格は、少年期から青春期に益々濃厚になって行った。

 だがその頃の私には未だハッキリとした恋愛はなく、有るのはただ憧憬であり、ボティチェリのそれの如き幽婉華麗な世界の夢があるのみであった。富裕な家庭に育ち、洗練の極致をのみを求める両親の影響が、そのころの私を希朧神話的女性美の探究に導いたのは当然の結果であったろう。法制経済の教科書はいつしか忘れられて了い、それに代ったのが華麗な18世紀の版画で、フラゴナアル・モロールジョン等の筆になる幾枚かの風俗画であった。なまめかしく上品な侯爵夫人を豪華な寝室で半裸形にして見せたそれらの風俗画は、神秘的な微笑をたたえる希朧タナグラ人形と並んで、私の小部屋のマントルピースを飾ったものである。

 これを要するに美の探究、これが私の一生の、そして、唯一の仕事であり、現世を美の楽土として生活する私の信条であった。私には凡ゆる女性の微笑が、恋人のそれに思われた。倫敦の劇場は私にとっては美の作業場と化した思いがあった。そしてこのような日々の間に、私はやがて多数の知己親友を英国の若い芸術界に得る機会を得た。父のために需(もと)めたデムラー(ダイムラー)の自動車は、わが家の定紋である揚げ羽蝶を金色で刺繍した制帽をかぶった英国人の運転士によって、当時の 「東洋の貴公子」をボンド・ストリートの美術店に運んだもので、ここで英国の貴族社会の淑女等とも知り合う機会が生れ、自然私は所謂英国型流行紳士の仲間へと導かれて行ったのであった。

 若し当時の私に美麗な英国の貴族富豪の娘でも出来ていたら、恐らく私の一生は平和幸福な古城の中で夢の如く過ぎてしまったであろう。★だが私の胸の底には、自由を要求する仏蘭西的生活への憧憬が潜んでいたと同時に、少年期の読書から培われたトルストイや、新しき村が主張した人類的理想への憧憬の芽がいつしか育っていたのである。時あたかもジュネーブの国際連盟に全人類の平和への熱望が集中されていたころで、このような国際情勢下に青春を生きた私に、ユートピアン的な高い理想と美の探究とが両立して心を占めたことに何の不思議もなかったと云えよう。

 私はしばしば仏蘭西に渡った。そしてピサロの画に親しんだり、ヴァン・ゴッホの平民的・美術修道者的な風格を懐かしんだものだが、このようなことがその頃の私の性格に与えた影響は非常に大きく、私は南デボンシャーのトーキー海岸で英国の貴公子的享楽生活にピリオドを打ち、やがて巴里に移った。
 私が巴里の土をふんだのはあたかも春の初めのことで、ミカレームの祭日であった。グラン・ブルヴァールを花車をひいた群衆が盛装の「マドモアゼル巴里」を乗せた車を取り巻いてお祭り騒ぎをしていた光景を、当時巴里に滞在していた巴里育ちの一条公爵夫人に同伴して見物し、夜はモンマルトルの歓楽場の盛り場にあったキャバレーで裸体女の活人画を見たのを記憶している。

 当時の巴里には前田侯爵夫妻、一条公爵夫妻等が華やかな交際社会に出入しておられ、帝国大使館には石井子爵を筆頭に、若手外交官としては芦田(前首相)夫妻や沢田節蔵氏等が活躍しておられた。特に当時芦田書記官夫人は巴里社交界でも最も美麗優雅な日本女性の代表の評判が高かった。然し、いずれにしてもこのような空気の巴里の社交気分は私にとってあまりに派手すぎたので、私は間もなくパッシーの片隅に日本人との交際をさけた生活をはじめ、音楽会、演劇、美術展覧会のみに足を運び、かたわら巴里女をモデルにして彫刻をやったりして暮した。1920年の頃で、今にして思えば、まことに文字どおり、国にも人にも★黄金時代であった。
 (ブロガー註: 大正デモクラシー 成金時代 大戦間のヨーロッパ主にパリの思想界については、
 ①・『日本の百年』 5・6ーちくま学芸文庫 
 ②・櫻井哲夫『戦争の世紀 第一次世界大戦と精神の危機』 以下の三部作ー平凡新書を。)
 
 音楽批評家の★岩崎雅通氏は私の交際していた唯一の日本人であった・又天才的バイオリニストと謳われた古典趣味の林龍作氏を紹介されたのもこの頃であった。当時自分にとって最も深い印象を与えた邦人芸術家は、漸く売り出した★藤田嗣治である。英国流のエチケットの抜け切れなかったその頃の私には、藤田の異彩あるポエム趣味の容貌は近づき難かったが、或る日マドレン広場のベルネーム画廊で、氏のうしろ向の裸婦図を見てからは、氏に心を惹かれ、ついにモンパルナス、ドランブル街の画室の戸をたたいた。其頃の藤田青年はフェルナンド・バレー夫人に失恋していたが、巴里画壇の新進として売りだしたばかりの頃であった。藤田は私を大変歓迎してくれ、従弟だと称してモンパルナスの芸術家達に紹介してくれたが、モンパルナスの画家やモデル達は私のような英国風な風采の者には、むしろ冷淡だった。私を友人として、その画室の扉を快く開いてくれたのは海老原喜之助氏ぐらいのものだった。彼は当時古ぼけた服に山高帽子、ピカソ気取りの真黒な毛をバサバサさせてロトンド・ドームの令嬢風なモデル女に鹿児島人的熱情を捧げている様子だった。私の巴里生活から、イザドラ・ダンカンの舞踊レシタルに感激して日本の雑誌に紹介したのもその頃のこと。又バイオリニストのジャルヂュ・エネスコの神技・・・あの古い黄金の噴水盤を思わせるような幽美な音色に心酔して巴里オペラ劇場に毎夜日参したのもその頃の生活の1面であった。

 華やかな22年、23年は夢のように過ぎ去って、1924年4月の忘れもせぬ15日、巴里社交界の花形P夫人の茶宴で青年期の★最初の恋人に邂逅した。春雨が煙るエトワールに近いP夫人のサロンで初めて会った彼女は、雨宿りを口実に、玄関口で私の帰りを待っていた。当時売り出しのマリー・ローランサンの理想的なモデルとして描かれた美人で、彼女を通して私はロンサールを知り、ルイズ・ラベを愛誦した。そしてヴェルサイユ宮殿の奥深い庭園は我々2人のランデブーの場所となった。ということは、彼女との交際はやがて恋愛に変って行ったことを意味する。かのアンリー・ド・レニエのうたったヴェルサイユの庭は夕闇に包まれていた。「若し今夜薔薇の香をかぎながら貴女に私の胸を打ちあけたならば・・・」の古池のあたりの夕霧の中に私たちはいつまでも立ちつくした。宛ら18世紀の王朝時代の絵に描かれた歓びをそのままに、夜の帳りの下りるのも忘れていた。いつか大庭園の扉も閉じられて2人はようよう月光にすかして裏木戸をたずねあて、影のように忍び出る。待ちくたびれて眠ってしまった運転手を揺りおこし、それからモンマルトルの丘上のチルトル広場の辻奥に住む1老詩人の家に立ちよりギターの爪弾きで彼が静かに唄う古歌に我等が恋の情緒を味到したものである。

 その頃、巴里流行界を風靡した衣裳創作家ポール・ポアレの店で催された「印度夜会」に彼女と招待を受けたことがある。私は印度の服を着、リュー・ド・ラッパのベルリオーズ宝石店提供のダイヤ、ルビー、エメラルド等をちりばめたチュルバンを輝かし、彼女は半裸体の印度の舞姫に扮した。列席客は印度王族カプタラ殿下をはじめ、パリ社交界の美男美女たちをすぐったが、その中で当時人気の頂点にあったオペラ女優ジェネヴィブ・ヴィクスと私の彼女とは2つの星のように輝いて、某ラジャーから結婚の申込みを受けるという騒ぎまであった。

 私はまたこの頃、巴里作曲界の秀星モーリス・ドラージュの家でモーリス・ラヴェル、フローラン・シュミット、ダリウス・ミローなど所謂巴里6人組を中心にした作曲家の仲間に入れてもらって彼等と度々会合する機会を持った。モーリス・ドラージュは1913年印度や日本を巡遊して有名な「印度詩曲」を作曲、これを以て欧州楽壇にその鬼才を謳われていた名人肌の作曲家である。彼はクロード・ドビュッシーに愛され、又ラヴェルやストラヴィンスキーの無二の親友で、当時の彼の家は欧州楽界巨星の集会所の観があった。そして、若年の私がラヴェルを始めこのような楽壇の巨星たちと親しくなった経緯も、話せば限りなくあるが、しばらく措くことにして、さて話を戻そう。幸福だった彼女との交際も、私の欧州滞在期間が終りに近づくと共に当然別離の日が来るべきで、南仏イェールで最後の夜を明かした。それから私は仏蘭西政府から仏蘭西近代音楽紹介の使命を託されて、青春の巴里をあとに★帰国の途についた。1924年12月13日であった。

 大震災の後の東京に戻った私には、すべてが殺風景で、焼跡に巴里風のvilla mon caprice を建ててみたとは云え、自分の嗜好を満足させるようなものは僅かに大川端の茶亭の小座敷と伝統的な角力(相撲)のみで、たまに能楽や六代目出演の世話物狂言ぐらいが、旧江戸時代の歌麿、栄川、国貞等の幻の世界を展開してくれる位であった。

 巴里と別れた私は、せめては生粋の日本人になりきって、日本伝統美の世界に生きたいと願い洋服を捨て、和服、白足袋、角帯とこの特種な世界の雰囲気に調和するよう全くの江戸の町家の若旦那になりすまし、柳橋、浜町あたり旧大江戸の面影を追い求め、雪の朝の置き炬燵(こたつ)、夏の涼みは向島と、屋形舟仕立てて、凝りに凝った遊び方をした。然し江戸の粋筋を夢想していた私にはすべてが幻滅で、江戸の小唄を話せるような女からして既に皆無、めまぐるしく変る時代と共に亡びる江戸文化の名残をさえ探し当てることは容易ではなかった。ただ雪の晩の浜町河岸とカラリと明けた翌朝、えもん竹にかかった女のなまめかしい襦袢を、せめて大江戸の名残と眺めたその頃の感傷が今も記憶に残っている。

 角力に対して関心を寄せるのも、私の懐古趣味のあらわれであろうか。兎に角、私は当時体重が25貫余(90キロあまり)あった。謂わば角力そこのけ、三段目の小力士幡瀬川を発見して、徳川家達公に推薦し、将来の関脇と極め付けたが、果して幡瀬川は神技妙術を会得して一代の名力士となったことは、まだ人の記憶に残っていることだろう。いずれにしても、こんな風に懐古的な趣味の世界に入り込んでしまった私に、何の干渉をするでもなく、趣味は趣味として許してくれていた私の家庭は、あくまでも自由と個性を尊重しようとする芸術家肌の父の大きな抱擁力に支えられていたと云うべきであろう。

 さて、仏政府の委嘱と巴里の友人たちの期待をあつめた本邦に於ける欧州近代音楽紹介事業は有名なラヴェル作曲演奏家のピアニスト、アンリ・ジルマルシェックス招致によって実現された。これ又理解ある父の財政的援助に俟つ(まつ)所が多く、私が執筆出版した解説書は、当時にしては豪華版であり、帝国ホテル演芸場に於ける6回の演奏後、皇后陛下(大正)の御前演奏を仰せつかったことは、主催者の私にも、仏蘭西政府にも光栄であった。と同時に★徳川頼貞侯、稲畑勝太郎氏等が特に協力を借まれなかった事は忘れ得ぬことである。とにかく当時の独逸古典、浪漫派作品のみしか入っていなかったわが楽壇に、ラヴェル、ストラヴィンスキーの洋琴テクニックを紹介することは原爆投下的計画であったので、この文化交換を念願する私の事業が、当時の若い日本楽壇に与えた刺戟と感銘は、いつぞや犬養健氏に会った際、同氏から「未だに思い出す」と語られたことからでも御想像願えよう。この事業も一段落付くと、その後更に一つの大事業が託された。と云うのは帝国政府が駐仏大使によって調印した★巴里大学都市日本会館建設の実現策が私に相談されたことを指すので、この案を持って来たのは、元西園寺公望公秘書・★松岡新一郎で、外務省側は★広田弘毅氏(当時欧米局長)であった。私は直ちに牧野伸顕伯の意見を求めに行ったところ、大賛成である。西園寺老公また大賛成、大いに鞭撻された。牧野伯からは特に★佐分利公使(当時参事官)と合議の上事業を進めたがよかろうと親切な忠告まで受けた。いまだ25歳の私に、このような本邦最初の計画である国際的大文化事業の責任を委託された光栄は多とするが、さて資金調達には当時の日本では手も足も出ず、渋沢栄一子爵に相談の結果、我々父子が私力にて御引受けする事となってしまった。

 巴里の自由な生活に浸って、芸術家気分で暮して居た私には、わずかに伝統的な花柳界の朝夕のみが東京に対する唯一の執着であったから、結婚問題は、私にとっては青春の墳墓としか考えられず、社会的習慣から独身者の自由を結婚によって失ってしまうことは私には耐えられなかった。だからそのような話は聞き流しておったものの、巴里へ再渡航のことが決ると、この問題をウヤムヤにするわけにはいかないことになった。その結果、伯爵山田英夫の娘★千代子と婚約を結ぶこととなり、かくて千代子はマダム・薩摩として同行し、巴里生活を共にすることになった。

  巴里大学都市日本会館寄附行為は、同市総裁である前文部大臣で、夏期時間の発案者であるオノラ上院議員に依り、巴里大学総長の名によって受諾され、私は宮腰千葉太書記官同道、オノラ氏を訪問することになった。そしてこの会見は爾来30年に亘る同氏との親交の出発点になった。

 日本会館は薩摩財団の名により、文豪ヴィクトリアン・サルドゥの長男ピエール・サルドゥ技師によって設計された。外部は日本の城の面影を伝えた建築物で、定礎式には当時外遊中で、おりから巴里に居られた李王殿下夫妻の御台臨の栄を得、邦人側からは河合代理大使、宮腰書記官が、又フランス側からは仏大統領代理としてオノラ総裁以下関係者一同が列席して盛大に挙行された。当時文部大臣で、後首相になった仏蘭西政界の巨頭エドワード・エリオ氏の祝辞の後、私は巴里大学都市の国際的平和事業に対し、日本を代表して挨拶した。そして定礎の儀は先ず李王殿下の手で行われたのである。これは1920年10月12日のことで、欧米各国はプレス・ニュース・映画等で、日本の文化的国際連盟である巴里大学都市加入を伝えた。

 花の巴里、ことに世界的好景気に恵まれていたその頃の巴里生活の華美だったことは追憶するだに夢の如き感がある。私が妻に造ってやった特製の自動車は、純銀の車体に淡紫の塗りで、運転手の制服は銀ねずみに純金の定紋、妻の衣服はリュー・ド・ラペのミランド製の淡紫に銀色のビロードのタイニールであった。これでカンヌの自動車エレガンス・コンクールに出場し、瑞典(スエーデン)王室その他の車と競って、特別大賞を獲得した。こんなことで日本のために気を吐いたのも、こんな時代であったからこそ出来た話である。あの時のマダム・サツマの自動車はマリー・アントワネットの儀装馬車以来だったという冗談がいまだに伝わっているのも、今は昔の夢である。こんな私の生活ぶりは贅沢だ、虚栄だと世間からは指弾されるであろうが、私としては生活と美を一致させようとした一種の芸術的創造であると考えていた。シャンゼリゼやボア・ド・ブローニュで、この芸術品は人目を驚嘆させ、巴里エレガンスの先端をゆくものだと新聞雑誌にも云われたものである。人生まさに28歳、冬は南仏カンヌのホテル・マヂェスチック、夏はドービルのホテル・ノルマンディーと王者も及ばぬ豪華な生活をしたが、それをそしる者はそしれである。仏蘭西で俗に云う noblesse oblige で、その間に自分の得た国際的知己交友の尊さを思い併せて、私には悔ゆるところは少しもなかったのである。

 だがその頃から私の脳裡には、あらゆる物質的虚栄の世界から逃れ出そうとする願望が高まって来たが、そのような心境は、私の矛盾する性格の均衡が破れるところによるものらしく、その結果、私はこのような生活雰囲気から逃れようとして、モンマルトルの丘上サックレクールの辺りに隠れ家を求めたり、下町ドービニー衡のギャルソエールに cinga asept のランデブーを求めたりした。妻は妻で絵を描く楽しみを覚え、ピエール・ラプラードの教えを受けた。藤田やヴァン・ドングンと云ったような芸術家とも友人となりモンパルナス街のアトリエに立籠もって、夜はミュージック・ホールの舞台裏の生活をスケッチしたりしていた。私はラヴェルやその他の友だちとグランドエカールの一隅で夜を明したりして、詩人レオン・ポールとかファルグ等と知り合ったのもこの頃であった。我々の結婚生活は所R Mariage parisien で非常に自由に、そして趣味を尊重し合った。妻はその好む友人の群を持ち、私は私で音楽家、外交官、政治家、詩人等の友人の群の中で暮らすといった按配であった。このような結婚生活だったからこそ、我々夫婦は各自の個性を伸張し得られたので、妻はサロン・デ・チュイレリーに作品を出品し、高野二三男夫妻や藤田や、又当時巴里一の美人女優として麗名を謳われていたエドモンド・ギー等と交際していた。

1928年にはスペイン国境のビアリッツに行って、その昔ナポレオン3世皇后ニーチェニーのために造った離宮、ホテル・ド・バレーで暮した。ビアリッツの季節の終り頃、伊太利(イタリ)のメヂチ侯爵がエドモンド・ギー同伴で訪ねてくれたことがある。メヂチ家は人も知る伊太利の名家で、現侯爵は女優ギー嬢のパトロンであった。そして当時流行の「バラス」と云うミュージック・ホールで、彼女のために「巴里美女=ボーテドパリ」という豪華なレビューを上演させていた通人だ。

 ところで、エドモンドのことだが、彼女は巴里一の美人の噂をもった女だった。第一次欧州大戦の際、★マタ・ハリ事件で騒がれた仏政府の怪星マルビー夫人となり、自分とは30年未だに交際を続けている。今次大戦では、独軍占頷下の巴里で、有名なフォリ・ベルジェールに出演し、その比類無き美貌をもって独人の眼光を征服していた。ある舞台が第2帝政時代の1場面になると、彼女はマビル舞踊場の有名な舞姫リゴルボッシュに扮装して、とろけるばかりの微笑を投げ乍ら云うのであった。★「リゴルボッシュ、リゴルボッシュ、お前はいつまでもふざけていられまい」と。ボッシュとは仏蘭西で独逸人をさげすんで呼ぶ呼称であり、「リゴル」とは仏蘭西語で「ふざける」の意味なので、その台詞はとりようによっては、「ふざける独逸の方々、ふざける独逸の方々、でも、いつまでもふざけてばかりはいられまい」と聞える実にきわどいレジスタンスのあてつけなのである。これを毎晩、何千人かの独軍将兵の鼻先でさりげなく唄い続けた彼女の度胸は全く英雄的で、柔よく豪を征するどころの騒ぎではなかったのである。

 だが、威る夜1人の将校がこの唄を聞くや、憤然として席を蹴って退場してしまった。果してこの反抗的な唄の文句が解って、憤慨したものかどうかは解らないが、私が楽屋に彼女を訪ねた時、彼女はその夜の無気味さを真剣に語った。当時彼女は全く命がけだったのだ。私は彼女に、
 「なあに、そんな洒落が解るくらいだったら今頃巴里くんだりでボヤボヤしちゃあいないよ、貴女の微笑はフランスの庭園でなくては咲かない花だ、フランスが貴女のような美人を生か限りは最後の勝利は疑い無しさ。」

 そう言って私たちは戦争下で貴重品中の貴重品であったシャンパンをぬいて、彼女の英雄的行為を祝福したのだった。

  さて話はエドモンドのことから、うっかり20年飛んで了ったが、1928年のビアリッツ時代に戻って、確かにその年のことだった。白耳義(ベルギー)のルーヴァン大学の五百年祭を記念に、同大に日本文化講座を設立したいという安達峰太郎大使の切望があった。安達大使は第一次欧州大戦中、白耳義皇帝に従って運命を共にされた名外交官で、ブリュッセルの名誉市民であり、その名声は同国内を風靡していたものである。講座設立の白羽の矢は私に立って、微力乍ら小財団を設立することに決心して、5百年祭に参列した。日本からは大学代表として、土方寧博士が参列することになり、安達大使一行と共にルーヴァンに乗込んだ。各国大学代表者達は教授ガウンや燕尾服に勲章をキラキラ輝かせていたが、土方老教授は紅1点とでも申してよかろう、羊羹色の服は燕尾服といわんよりカナリヤの尾位のおそろしく尾の短い御盛装で、真黒な顔に例の白髪、日本代表というよりはハイチ島大統領とでも申し上げた方が応しい恰好で代表者席に納まられた。一方安達大使は壇上白耳義両陛下の側近にあって、大礼服の重々しい金ピカの胸にズラリと勲章をつけている。その数は大したもので、あの小さな体にこの重さ、よくまああの壇上まで這い上がったものと私は後方の招待席から感心していた。そういう私も燕尾服で、前日ブリュッセルの夜宴で、皇帝から拝受した王冠勲章をブラ下げ、形勢如何と見ていた。祝辞呈上式は歴史の古い大学代表順に、壇上に呼び上げられることになっていて、順序からいえば先ず伊太利のボローニア大学、英国のオックスフォード大学、巴里大学というわけであった。ところが、これは如何に、土方博士は、耳が悪いせいもあってか、それとも5大強国の代表の1人とでも考えたのか、ノソリノソリと壇上に向って歩き出した。安達大使の目くばせをしり目にかけて、祝辞の巻物をルーヴァン大学総長、カトリック教大司教に手渡し、指輪に接吻どころか握手で指輪を握りつぶさんばかりの挨拶である。大僧正の大まごつきも何のその、安達大使は苦り切っている。この光景を微笑を浮べて眺めておられた両陛下に老博士は最敬礼をした。そこまではよかったが、さて日本式作法にしたがってモソモソと後ずさりして、陛下の前を退ったトタン、おっと云う開も無く壇上からスッテンコロリン、壇下最前列に頑張っていた白耳義の総理大臣の頭上めがけて墜落皇后はキャッとびっくり思わず立ち上がられるといった騒動である。土方博士は如何と見れば、にっこりとして起き上り、再び壇上に向って最敬礼の後悠然と自席に引上げてしまった。だが納まらないのは安達大使である。その夜大使邸の晩餐会の後で、

 「上方さん、今朝の始末は何事ですか。小生半世の外交官生活中こんな恥ずかしい思いをした例はありませんぞ。」
 とネジこんだが、土方老人は愛好の葉巻をくゆらせ乍ら

「安達君、だが僕は日本の礼法を尽して不幸墜落しだのだから、心中何一つ恥ずる点は無いよ。君など僕の弟子ではなかったかね-」
 との挨拶。それから私の方に向いて、
 「ネー、薩摩君、僕はこの年になっても、ちゃんと昔鍛えた角力の腰だ。角力の方ならまだ君と四つに組んで土俵から落ちても勝味はあるよ。」と大気焔であった。

 この白耳義(ベルギー)天覧角力は先生も終生忘れられなかったと見え、後年国技館でお目にかかる毎に、「どうだね、薩摩君。僕の腰のネバリは確かなものだったろう。」
と、自慢だか申し訳だかハッキリせぬことを仰有っていた。その博士が後年満洲国視察上院議員団に加入され、その時私の義父・山田英夫伯と船室を同じくされたが、腹のネバリが切れたのやら、急死されてしまった。

 珍談といえば後年李王殿下御夫妻が巴里御来遊の折、時恰かも天長の祝日にあたり、大使官邸で大夜会を催したことがある。安達大使の時代のことで、その晩の話だが、藤田嗣治が、折角招待を受け乍ら、夜会に着て行く燕尾服の持ち合わせが無く、私のところに泣きついて来た。

 「藤田君、だが、今晩は勲章も付けるんだよ。」と云うと

「僕だって仏蘭西の勲章と白耳義勲章ぐらい持ってるからね。」との話。
 
「だがね、そいつを腹の上に付けるんだよ、解ったかね。」

 と冗談を云って、燕尾服を貸したまではよかったが、さてその夜藤田画伯の服装を見ると、彼は本当に堂々と腹の上に2つ勲章をブラ下げているのである。流石の私も冷水3斗の思いをしたが押すな押すなの人ごみで、その勲章の1つが仏国大使ジュブネル夫人のきらびやかな夜会服のこれまたお腹の上に乗り替えたという騒ぎが持ちあがったのは文字通り珍談であった。まことに大平無事な世の申であったものである。

 杵屋佐吉夫妻が巴里に来たのもその頃である。私に是非仏蘭西楽壇の巨匠達に1曲聞かせる機会をつくってくれとの話であるので早速ラヴェル、ドラーヂュ等と相談して、洋琴家ジルマルシェックスの家で佐吉夫妻歓迎宴を開くことにした。そして友人達を動員、クロニッカーのミッシェル、ジョルジュ・ミッシェルを幇間(たいこもち)役に引っぱり出した。金屏風を立て廻し、赤毛布を敷いた上で、佐吉君がペンペンやった。ラヴェルとドラージュも大喜びだった。まあ、それはそれでよかったのだが、佐吉君御信心のコンコン様を日本から御同伴して、ホテルのマントルピースの上に恭々しく祀り、朝夕拍手を打ち両手を合わせて御礼拝を欠かさないのだった。ところが和服旅行の佐吉夫人の腰巻をどうとりちがえたか、ホテルの使用人がその祭壇に飾りつけてしまった。外出から帰って来てこれを見て腰をぬかしたというのであるが、そのケリを佐吉夫妻がどうつけたかは知らないが、珍談として当時の在巴里人の話題を賑わしたことであった。

 珍談奇談を他人にだけ求めることが卑怯なら、私は自分のことを語らなければなるまい。其頃の数ある私の女友達の1人で「トウトウクス」と仇名されていたM大将の令嬢が、こともあろうに女だてらに博徒で1季節に9百万法(フラン)の遺産をすってしまい、ジョルジュ・ミッシェルの「豪華狂女」の材料になったばかりでなく、終にはカジノ大食堂で裸踊りをやって、生活の資を稼ぐと云う運命におちてしまった。彼女は熱狂的な拳闘のファンで、よく巴里のセントラルに現われたのだが、これは巴里の下町のサンドニー街にある、三流どころのボクサーがひしめきあっているポピュラーな拳闘場で、ここのリングでたたかれてはじめて1人前の拳闘家が生れるといった稽古場で、プロフェッショナルな八百長の大試合とは、また異なった物凄い真の乱闘が見られるところであった。私はトウトウクス嬢と一緒に度々ここに見物に行って、未来のデンプシーやカルパンチェを夢見るフンドシかつぎ達の大奮戦に力瘤を入れたものだ。負けても勝っても賞金は分割という仕組で、当時の金で百法・5百法(フラン)というところであったが、ここを応援する意味で巴里女素人の拳闘が生れると、その開会式には是非にとの挨拶よろしく、招待された。私は燕尾服で出席したが、お祝いのシャンパン酒の廻りが早過ぎて、誰が提議したのか「では男女対抗試合を余興に1勝負」ということになって、引っぱり出されてしまった。私は角力で鍛えた自信があるので、腐っても鯛だ、衰えたりと雖も、3枚目幡瀬川関ぐらいの神技はまだあるものとスッパリ飛び出したのが運のつきであった。相手をするトウトウクス女選手はこの時ぞとばかり、海水着1枚で登場し、ゴーンとゴングが鴫るや否や、海水着の曲線美にふと見惚れていた私の鼻先にアッパーカットを喰わした。「1.2.3.4.5.・・・」はっと気付いてあたりを見ると、猿また1枚でリングの真中に伸びているのは私である。「9」の1声に「何クソ」と満場の歓声を浴びて立ちあがったがブーンと再び1撃を喰わされて、私はヨツン這いになってしまった。こんな筈ではなかったがと思ったが、今更どうにもならない。しかも相手は女である。「1、2、3、4、・・9、10」私はわざとゴングの鳴るのを待ち受けて飛び上がりさま相手の両頬に降参のキッス。この珍試合は大喝采裡にケリがついた。翌日の巴里新聞の漫画は 「ムッシュ・サツマは飽く迄も武士道精神を発揮して、勝を女選手にゆずり満場大満足。盛会裡に閉会せり云々。」

さてトウトウクス嬢(本名ミッシェル嬢)はその後マルセーユのギャングに加わったとかの噂を立てられていたが、真偽のほどは兎も角として今次大戦では女将校として勇ましく出征したということを耳にした。後日友人の1英人が、シャンゼリゼを潤歩している女将校姿の彼女と邂逅したとの快報をもたらしたところから察すると、満更墟ではなかったことがわかったが、それにしても拳闘修練の技が役立ったであろうことは想像に難くない。

 倫敦(ロンドン)で藤原義江に邂逅した話は、私のまだ少年時代のことで、当時を語ることは、この稿においては、既に遥か後戻りをすることになるが、思いついたままに書き誌しておこう。その頃の藤原は貧乏のどん底で、伊太利人の給仕の家に間借りしていて部屋代も払えず、ネクタイまでも質に入れてドナッテいた。日英協会のデーオージー副総裁はその声と人物に惚れて、確かサベージ・クラブで唄わせ倫敦芸能界に紹介したが、私も彼の精進一途の姿には頭の下がるものがあり、感激して、財布の底をはたいて、ウイグモア・ホールに於ける同君の第2回音楽会の費用に宛ててもらった。これが藤原君の欧州楽壇へのデビューとなった。1921年10月30日の日曜の夜8時15分開演でアイヴィ・ジェルミン嬢のヴァイオリンを添え、伴奏はマンリオ・デ・ヴェロリであった。曲目はスカラッチ、モザート、ドニゼチの古典に始まり、ストラヴィンスキーの「ツラユキ」、デヴェロリの変曲した「箱根八里」「沖の暗いのに」「桜」それから浮世絵蒐集で有名な当時日英協会名誉書記長であったセックストン中佐が訳した「梅に鶯」、更にドビュッシー、シューマン、グリーグ・デ・ヴェロリ、マスネー、ドヴォルシャーク、クライスラーとすこぶる盛り沢山で、大日本の藤原義江のデビューにはまことに適わしい曲目であった。

 今日の盛名をかち得た藤原を語るのにあたって、彼の欧州楽壇デビューを、財布の底をハタイて後援したなどの話は、或いは遠慮すべきことであるかも知れないし、且つ藤原君にとっては迷感千万だろうが、然し、私は同君の天才と大成とを堅く信じていたことを、むしろこれによって語りたかった以外他意ないのである。なおこの音楽会では波斯(ペルシャ)の王姫に恋された話があるが、これこそ同君の許可があって初めて公表さるべきであろう。

 2度ある事は3度あるのたとえで、藤原義江の次に原千恵子さんがある。これは私としては全く幸運な奇遇ともいうべきで、前記ジルマルシェックス来朝の折、東京での演奏後神戸に行ったところ、当時まだ幼かった千恵子さんがその教師であるスペイン人の洋琴家に手を引かれて訪ねて来た。そして私の前でデビュッシーを弾奏して聴かしてくれたが、私はその天才的タッチに驚嘆してしまったものである。その後有島生馬氏の後援で巴里につれて来られたが、私は仏国大使ピラ君と共に彼女を仏国政府に推薦した。勿論幸運であったとすれば、それは1にも2にも千恵子さんの天才によるものだが、それにしても今日、押しも押されもせぬ国際的芸術家になったことに、私は自分ことのような誇りを感じる。

 巴里大学都市日本会館の建築はオノラ総裁やブラネ書記長をはじめ帝国大使館員諸兄の絶大な後援により着々進行し、終に1929年5月10日、仏蘭西大統領ガストン・ドメルグ閣下の台臨を迎えて開館式を挙行する運びに至った。が、この目出度い日を待つ間に、私は2月上旬、日頃憧れの希臘へと旅立った。それに就ては後日改めて述べることにして、・・・

 さて、巴里大学都市日本会館の内部装飾のことだが、階下サロンと玄関正面の壁画は藤田嗣治に委嘱し、同君畢生の大作を得た。サロンの照明はアンリー・ナヴァールのガラス彫刻で、日本の学芸文化のシンボルを表現したものである。ナヴァールは仏豪華船イル・ド・フランスを装飾したその方の権威である。前庭は篠原と呼ぶ在留邦人庭師の設計で、家具一切はシュミツト商会を煩わして特別設計したものだ。建築費総計現在邦貨にして2億円で、キューバ会館と並んで大学都市の栄華を誇る館の1つになった。1929年5月10日、巴里南部のモンスリー公園に面した大学都市の一隅には白手袋白ゲートルと盛装した大統領ガストン・ドメルグ氏一行の車の列が日本会館の大玄関に到着すると、君が代の吹奏が始まり、つづいてマルセイエーズが奏された。安達大使と私は大統領とその一行を迎えて大サロンの貴賓室に案内した。仏政界の巨頭ポアンカレ首相、マロー文相、ドウメール上院議長、オノラ総裁、日仏協会員スワール公使、シャルレチー巴里大学総長等が一行の顔ぶれで、その他関係者一同並に各国大公使と合計約1千名の来賓があった。

 創立者の私は日本の文明の根源が、希朧文明のように神話から発生し、東西文化交換が人類の前途のため如何に有意義であるかを述べ、大学都市事業の目的は、国際的良心を涵養して、世界平和の為よりよき雰囲気を生まんとするにあると陳べた。次いでオノラ総裁、シャルレチー総長、マロー文相、スワール公使、山田三良博士の演説があった。次に安達大使が日本政府を代表して鄭重な祝辞を述べ、式後大統領とシャンパンの祝杯を挙げて、ここに私の微力によって生れた日本会館開館式を終了した。

 その夜ホテル・リツツの大食堂に於て大統領代理ヂュール・ミッシェル官房長官、文部大臣、安達大使その他内外の名士3百名を招待して大晩餐会を開いた。その席上私はオノラ総裁よりオフィシェ・ド・レヂオン・ド・ヌール勲章を仏政府から授与された。晩餐会後親友モーリス・ラヴェル、ジルマルシェックス、ピエール・サルドウ、藤田嗣治、本野子爵等をグランド・エカールに招待して小宴を開き、この記念すべき1日を終った。尚英国のダービー卿その他各国元首、名士多数から祝電を寄せられた。夜会に出席した夫人達の服装は、皆輝くばかりの流行品であった。妻はポールポアレの白黒の夜会服を新調し、それに装身具はダイヤ、エメラルドの1式を用いた。私には特にランバン男子服部の名カッターである瑞典生れのエリクソンが紺地の燕尾服を調製してくれたが、これが殆ど巴里流行界最初の紺地燕尾服であった。

 当時倫敦で代理大使をしていた佐分利公使はわざわざ開館式の翌日かけつけて来てくれた。そして明るい大サロンの照明の下で事業の完成を喜んでくれたが、私が仏国政府から貰ったレヂオン・ド・ヌール勲章の略章を見て、

 「薩摩君フランスの諺に『何人と云えども其故国に於ては予言者とは成り得ず』と言うのがあるが君の如き事業、思想が日本の社会に於て認めらるると云う日・・・いや認めねばならぬと云う日が来るのはまだまだ遠い遠い将来であると云うことを残念乍ら覚悟せねばなりませんよ。日本政府及び社会にいったい幾人君の様な高遠な理想を理解する人がいるだろう。君の偉業をねたむ人は有るだろうが、文化事業、世界平和、人類の融和幸福等の理想に関心を持ち、フランス政府の如く君の功績を世界平和の名を以て顕彰するような考えを持った人間は先ず皆無であると思わねばならぬ、君の事業は全く東洋の俗言の如く『知己を後世に埃つ』覚悟でなくては出来ない」と言った。佐分利氏とはモンマルトルのキャバレー・パレルモで深更まで語り合った。 

巴里在留の日本美術家を紹介する目的で、巴里日本芸術家協会というものを援助して成立させた。しかるに藤田嗣治を会長にしたとかなんとかから島国根性的の焼もち争いが起り、折角の私の奉仕的目的とは思いも及ばぬゴタゴタ話を耳にするようになりウンザリしてしまった。安達大使と相談して兎に角ルネッサンス画廊で展覧会を開催し、世間的には成功を収めたが、この前後の邦人美術家のあいだのゴクゴタには愛想が尽きて、私はサッパリと手を引いて、美術家団体の後援は一切断念してしまった。巴里日本芸術家協会が自然消滅になったことは云うまでもない。

 この事件から私は日本人一般が如何に国際的関心に欠け、共同的に日本の文化を海外に紹介しようとする精神に遠く、唯自己の小さな名誉とか利益とかのみに汲々としている人種であることかを沁み沁み感じた。大学都市日本会館経営でも人事関係では、この小さい島国の山猿の如き根性を持って育った連中に如何して国際的良心を涵養せしめようかと考えさせられた。このことについて、後日、西園寺老公に話したところ、

 「君の会館でも余程気をつけんとサロンに浴衣がけでスリッパーなんかつっかけて出てくる博士達で一杯になるぞ。」
 と快笑され、「礼は教えの基となる」の額を書かれ、
「この額を看板にかけて置き給え、そして無礼不心得者が出て来た場合は、口で叱言を言わず、昔巴里で育った西園寺公がこう云うことを言ったと見せてやり給え。」
との如何にも老公らしい親切な言葉をいただいた。その時から今日に至るまで、ずっと巴里大学都市日本会館の玄関に看板として懸けてある西園寺公の額は、もとをたずねると実に日本美術家の国辱的ゴタゴタから出来たもので、会館入館者の諸氏には出過ぎた老婆心かも知れぬが、これも往年巴里ヘハクを付けに出て来た将来1号1万円志願者連を記念するものである。

 さて、巴里と離別して★一時帰国する日が迫った。今日の円貨で腐っても2億円のサービスをしたとあって、大学都市本部からの口添えもあり、仏船アンドレ・ルボンの特別船室を提供し、いわば国賓待遇で日本に帰らせようと計らってくれたのは流石に文化文明国フランスである。

 印度支那西貢(サイゴン)に寄港の際は、交趾支那(コーチシナ)総督が船室まで出迎えてくれた。西貢の新聞にのった「東洋のロックフェラー云々」は2億倍程の誇張だが、まあそれ程までにフランスとフランス国民は私の貧者の1燈である国際文化事業を買ってくれたわけで、人生到る所に青山ありと大いに感激した次第だ。日本に戻ったら、口では世界平和貢献者のなんのと一時は両国の花火式に歓迎されたが、さて当時の外務、文部内省で出す筈になっていた維持費の話などは立消えになってしまい、20代の若憎のくせして国際サービスなんかは生意気だなどという手合さえ出て来るし、野郎は勲章でも欲しいんでやりやあがっただの、1種の個人宣伝だのと、評判が頗る悪いのには恐れ入って、苦笑して了った。秩父宮に拝謁した時その話を言上したら、

 「なんだ、例によって省と省の役人共が喧嘩して居るのか。」
 と、やっぱり苦笑して居られた。それが吉田茂氏、広田弘毅氏、栗山茂氏等の斡旋で漸く1930幾年かになって金1万円也の補助金が、既に10幾年前になる1921年の日付と外務大臣の名で、素町人の自分如き微々たる小僧の財布をはたいてでっち上げた日本会館に下付されたといった按配だ。

 ★翌年1930年の春再び、私は仏蘭西船にてマルセーユさして第2の故郷フランス、自分を理解してくれるフランスヘ旅立った。マルセーユに上陸すると直ちに巴里に行き、130キロのスピードで飛ぶ自動車「ブカチ」(ブカッティ)を買い求め、それに乗って再びマルセーユに戻り、1930年4月23日午後4時出帆のアマゾーン号でナポリ経由、希脛のビレーに向った。ビレー着は4月28日、翌29日は天長節だというので、雅典(アテネ)の公使館の祝賀会に列席した。

 其時の希臘旅行の目的は、デルフに於て挙行されるデルフ祭典に日希協会設立者として、日本を代表して出席したのである。フランスからはポール・ヴァレリー等が駈けつけた。

 旅行から戻って巴里に落ち付くか落ち付かぬ内に、妻が肺腺カタルで入院し、一時快方に向って、アルプス山中のメヂェーブに転地した。これが我々の結婚生活の終了の序幕で、ついに一昨年故国★富士見の別荘で最後の息を引取る迄再び健康を回復出来ずにしまった。

 ★満洲事変が起ると、私の望んでいた国際的良心などは吹飛んでしまい、日本の外交は松平恒雄等の考えとは全く異なった方向に転向して行った。親交ある某中国要人と私がジュネーブのホテル・ボーリバージュで昼餐を共にしたのを取上げて、怪しいの、けしからんのと、既に軍部に秋波を送り出したヘッポコ外交官の卵連が騒ぎ出すような世の中に急転してしまった。だが満洲事変も1片づきした頃、巴里大使館参事官をやっていた栗山茂氏が
 「どうだ君の方の総裁オノラ長老を日仏協会の総裁にしては。」
 との話である。オノラ氏は私の親分(唯一無二の親分)でもあり、その昔、日露戦争時代末松謙澄とは親交があり、日本の同情者であったことなどから考えて、満更この提案は唐突ではない。それで終に外務省の承諾を得ることが出来たが、すると今度は日本に招待して日仏親善を再検討してみたらどうかと云うことになった。丁度広田外相の時代でもあり、斎藤総理も私を良く理解同情してくれている関係上、1つ日本に急行して、この話をまとめて来てはどうだというのであった。そこで私は郵船の船で往復4ヶ月の当時としては飛脚旅行をやって、漸くこの話をまとめ、1933年の秋、オノラ氏に私が随行して巴里を出発した。但し私には私の考えがあるからオノラ氏が帰途朝鮮満洲を巡遊する、その随行だけは御免蒙ると駄々をこねた。広田氏は良く私のことを理解して居ったので、私の考えは認めてもらえた。が、私は世間の誤解をおそれたので私は広田氏と親交ある町田梓楼氏にも会って、新聞の方でも特殊な我々の国際的態度を説明して貰いたいと思ったが、行き違って面会する機会を逸してしまった。そこで私は言論界の知己を自ら訪ね廻り、オノラ氏来朝の目的が日仏文化交換にあって、政治的目的は全然無いことを説明し欧州政界の満州問題に対する見解がどうのこうのと痛くもない腹をさぐられたのでは、新任の大使ピラ君にもすまぬからとダメを押したものだ。

 オノラ氏歓迎は万点で、陛下の拝謁前、勲一等に叙せられ朝野をあげて歓迎された。東京の宿舎には私の旧駿河台の邸をあて、日本料理とフランス料理で歓待した。

 広田外相とオノラ氏の会見の際は、広田氏の希望があって私が通訳の役をつとめた。

 その夜の外務大臣官邸の晩餐の料理は、オノラ氏滞在中最も凝った献立で、ことに白酒シャトーイッケンの美味は、私の鑑定でも1871年製の名品で、オノラ氏が終始、日本滞在を回顧される毎に必ず話題に上ったものだ。

  世評はどうあれ、私は、広田首相は畏友であり、世界平和を念願した立派な良識の人だったと確信している。オノラ氏の言う
 「なかなか立派な人物だ。だが運命はしばしば人間の意志に反逆するものだ。」

 広田首相の悲惨な最後(*東京裁判で文官ただ1人の絞首刑)を思うごとにこのオノラ氏の言葉を想い出す。

 オノラ氏と共に★荒木陸相にも会見した。曽我子爵と3人で、陸相官邸の卑俗極まる大観の富士の大額の前に坐っていた当時の荒木は、気の毒ながら大した印象を残すような人物では無く、ヒステリカルな口調で取りとめのつかぬ極東平和論を1人でしゃべっていたのは滑稽で、むしろ同情すべき精神病者と云う感じだった。賢明なオノラ氏は、彼に1言の批判も与えなかった。本気に相手にしていなかったからであろう。概してオノラ氏の、当時の日本の政治家に対する印象は、【牧野伯は尊敬に値する大人物、斎藤首相は人格温厚、紳士的政治家、鳩山文相は怜悧なリベラルな好意の持てる政治家】、そして日本の話の出る度に鳩山氏のことに話が及んだところを見ると、余程好印象を受けたものらしい。外交方面では★佐藤尚武氏がオノラ氏の最良の友人で、佐藤だけは自分に腹を打開けた唯一の日本外交官だ、と口ぐせのように言っていた。芳沢謙吉氏もオノラ氏は好きだった。東洋風なところが気に入っていて芳沢は面白い人だとよく話に出た。栗山茂氏はその才を買い、栗山は仕事が出来る、どうして政治家にならぬのかと言って居られ、現神奈川県知事の内山岩太郎、日高信一郎氏等も良い印象を与えた人だった。最もなつかしがっていた人の1人は鈴木九万氏で去年他界される寸前、氏がユネスコ会議の序に巴里に出てくるというのでその喜びかたといったらなく、私が案内して病床を見舞った時は、涙をうかべて喜んだ。オノラ氏はそれから数日後亡くなったので、鈴木氏はオノラ氏の最後の訪問者となったわけである。

 オノラ氏の日本滞在中最も印象に残ったのは、伊勢神宮参拝であった。
 「私が伊勢神宮に参拝したいと思う意味は、そこが日本のアクロポリスで、日本帝国の象徴であると解釈しているからだ」
 と来朝途上の船中で述懐していたが、いざ参拝の数日前のこと、京都の私の別荘の低目に造ってあった廊下の長廂に頭をぶっつけて引っくり返ってしまった。京都の大学から来てもらったレントゲン科の教授が診察した結果腰の骨がどうかしたと云うので、ギブスをはめられてしまった。参拝当日になると、その鎧付けの上からフロックを着用した。そしてあの参道を歩きながら

 「これが日本精神だ、この神杉の古木が太理石柱だ、だがこれはなんという謙虚な大自然の前に己を知った賢明なる文明であろう。」
 などと、一寸芸術家のお株を取られた形であった。参拝後は御神楽まであげさせて、その間中ギブスをはめたままの体で畳に坐り、ビクとも動かなかった立派な態度には、流石の私も兜をぬいでしまった。

 オノラ氏は日本を引揚げて朝鮮満洲を視察し、予め打合わせた通り、私は上海で氏と落合い、途中香港で船を乗換えて、ハノイに向った。仏印総督ピエール・パスキエ氏の招待に応じての行動である。この仏印旅行が、私の生涯にとって転機を画するもとになったのだが、それはこの旅行が原始林人(ジャングルマン)になって、理想冒険から現実冒険家に転向する因をなしたからである。

 親分の荷物持で香港から乗り換えたのが、驚くべし、僅か1千トンの「トンキャン」という荷物船であった。時は1933年の冬のことで、海南海峡をガタガタゆられて着いたのが広州であった。そこからパコイに行き、ハイフォンでポール・レイノー前首相の従兄モールス・ギャンエ土木総官夫妻に出迎えられて河内(ハノイ)に乗込んだ。河内ではパスキエ総督の厄介になり、バスツール研究所のモーラン博士にも挨拶し、オノラ総裁に随行してユーエ、トウラン、ニャトランなど、南海風情たっぷりの名も床しき大官道路(ルートマンダリン)を南下した。ニャトランではペスト菌発見者のイエルサン博士と会い、西貢(サイゴン)では旧知コーテーメール交趾支那総督に招待された。私たちはそれからカンボジアに入国し、王都プノンペンにてモニボン王の大歓迎を受け、お菓子代りというわけでもなかろうが、カンボジア王冠勲章を首からつり下げられた。アンコール廃跡を象の背にゆられ乍ら見物した後で、ポイペット国境線を越え、シャム国のアランヤ駅から急行で盤谷(バンコク)に向ったところ、計らずも旧友トントウル殿下に邂逅し、前王寵宮ラクシャミ・ラバン女王殿下邸の夜宴に招ばれた。内務大臣の顕職を得た往年の革命児ルアング・ブランヂットは、フランス公使招宴の会場で同席した。

 この旅行中に、頭のいい人情も解する軍部の男にあった時、私はこれまでの旅の感想を語って日本のことに及ぶと、遠慮することはないと考え、
 「日本民衆の生活程度の低さは実に情ない。町村の主婦たちが赤ん坊を背負い子供を2人も3人もつれて生活に喘ぎ、栄養不良な顔でウロウロしている有様や、惨めな勤労者が街に溢れている日本の社会状態を見て来ると、貴君方の心持ちも解る。どうかしてバイタル・スペースを得て助けてやりたい。それは人情だ。だが、貴君方は隣国に国際法を破って侵入し、良民を苦しめ無辜の婦女子を殺し、軽薄極まる大東亜宣伝をしてみたところが結局何が得られるというのだろうか、私には分らぬ。」
 と出たところ、彼は悲痛な表情を浮べていたが、やがて

 「薩摩さん、それがオノラさんの今度の訪日の感想ですか。」
 と云う。

 「否やそうではない。私の言いたいことは、そんな乱暴をしないで、平和的に国際商業バランスを取り、真面目な邦人の南方への平和的殖民なり発展を考えたらどうでしょう。文化的宣伝の1例をあげても、このことは云えないでしょうか、シンガポールに鳥居を建ててみたところで始まらないし、いかにもすべてがチャチで上ッ調子だ。今日の日本人は軍部の宣伝に来ているとしか思えない。オノラさんの感想は知らぬが、私の感想はそうです。もう少し真面目に考えていただきたい。」

 少佐氏は黙ってしまった。

 事実私はこんなことをしていたら、日本は飛んでもない事態になってしまうと思っていた。私のみでは無い、松平恒雄も既に満洲事変の際、狂人松岡がジュネーブに出て来て独善的な演説をブッた日から、考えを同じくしていたので大変なことになったぞと、或る時、湖上で魚釣りをしながら話し合ったことがあった。私は満鮮を廻遊するオノラ氏と上海で落合うまでの日の余暇を見て、牧野伯の所に参上して感想を述べた。牧野伯は葉巻を吹き上げながら静かに

 「だが君、気を付け給え、平和主義者と云われるよ。」
 と微笑して部屋の隅の仏像に眼を投げた。その時の伯の様子が忘れられない。

 盤谷(バンコク)からピナン急行に乗り、馬来(マレー)半島のイポーにある仏蘭西テッカ会社の鉱区によった。ここで、先日別れたばかりのパスキエ総督の飛行機エメラルド号がリオンの近くで墜ちて総督が墜死したことを知った。西貢で最後に別れた時

 「薩摩どうだ、一緒に乗って帰巴しないか。」と誘われたが、私はオノラ氏の荷物持ち役であることを告げて断ったので助かったようなものである。シンガポールを経て、ジャバに渡り、バタビアバンドン、スラバヤ等を回遊し、その間には、ビュイテンゾルグ総督の招待を受けたり、ブルバドウルの廃跡を見物したりして、オノラ氏と共に巴里に戻ったのは、1934年の暮春であった。 



 以降、回を改めて続けます。
  



●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
 ●第2部 第3章 3 陶磁学者・佐藤雅彦  

 昭和30年、貴志彌次郎の養子・重光が、千葉市横戸の明星寺に隠棲していた周蔵を尋ねてきた。和歌山に在った古陶磁を神戸の金持ちに売り込んだのはいいが、先方にも眼力のある者がいて、それを真贋混淆だと指摘してきた。そこで、「これらの焼き物は本物だとの一筆を書いてくれ」と依頼してきたのである。

周蔵は現物を見もしないで貴志重光の頼みを断った。和歌山には奉天以来の古陶磁が真贋1式併存するとはいっても、3箇所に分別保管されており、混淆するはずはない。混淆しているなら、それは徳川家の内部で意図的にしたものと察し、自分が関与することではないと判断したからである。

 昭和34~5年頃、佐藤進三の子息で大阪市立美術館の学芸員の職にあった佐藤雅彦が周蔵を訪ねてきた。佐藤進三は、チヤの当時の夫・中沢明四の叔父にあたる下北沢の杉本という骨董屋と業者仲間だったから、中沢とも親しかった。中沢らは佐藤雅彦を大阪市立美術館の学芸員にしようとし、慶応時代には学費を援助した。佐藤らが大阪市立美術館を目標としたのは、そこがフランス文学者小林太市郎の根拠だったことと関係あるように思われる。小林博士は昭和18年、軍部に繋がる東方文化学院京都研究所の委嘱により、ダントルコールの『中国陶姿見聞録』を翻訳した。ダントルコールは18世紀のジェスイット会の僧侶として、布教の名目で景徳鎮に潜入し、窯業技術を仔細に観察して長文の手紙でフランスに送った1種の技術スパイである。その手紙を小林博士に翻訳させた黒幕は甘粕であるが、その目的は少しでも佐那具窯の役に立つようにと考えたものだという。因みに、内藤匡博士の名著『古陶磁の科学』も、同様に軍部(おそらく甘粕)の支援によって、成立したものである。

 昭和26年、慶応大学文学部を卒業した佐藤雅彦は大阪の市立高校で数ヶ月空席待ちをした後、目的の大阪市立美術館に就職することができた。佐藤雅彦は中沢明四を通じ、周蔵に「小森先生から『三井良太郎図譜』のことを聞いていたので、自分のこれからの研究のために、是非預からして頂きたい」と言ってきた。周蔵は中沢の口利きもあって、快くそれに応じ、『北宋紅定盤ロ瓶』図1枚だけを手元に置いたまま、残りの4百数十枚を佐藤雅彦に貸し与えた。ついでに『奉天図経』のうち1、2冊を貸し与えた。

 周蔵は昭和39年10月に他界した。周蔵の死は昭和37年に始まった「佐野乾山事件」が遠因をなすのであるが、そのことは別稿に譲らざるを得ない。

その頃、裏千家の丸山野宗匠について茶道を習っていた明子は、ときどき宗匠から茶道具の購入を勧められた。最初は5、6万円の茶碗だったが、周蔵死去の直後、鶴首の1輪挿しを70万円で勧められた。母に相談したところ、金は出してくれたが、しげしげとその花瓶を眺めていた巻は、翌日関西に旅立った。巻は佐藤雅彦に会い「このような贋作を売るとは何事か」と糾問したところ、佐藤は「自分はやっていない。それはHという骨董屋が、扱っているのだ」と弁解した。茶道具は必ずしも真贋を問わない世界だから、それでいいという説明であった。

 明けて昭和40年、佐藤雅彦が中沢の家に来て、吉薗巻と明子の母子も、呼び出されて中沢家へ向かった。巻が「焼物の勉強はその後、捗っていますか?」と問うと「あの『三井良太郎図譜』は、例の古陶磁が1括して売れるので、それに使います」と言っていた。

 佐藤はその後『三井良太郎図譜』と『周蔵三井合作図譜』のほか『宣統帝愛蔵品図録』と書いた紙と『由来書』なる紙を持参し、「これが上田恭輔が書いた本物であり、吉薗家に在ったという証明が欲しい。それも印鑑証明付で頬みます」と頼んできた。巻とチヤが見ると、原物とは違う字体である。『合作図譜』の絵も別人が描いたものとすり変わっていた。

 「これは貸したものの状態と違う。また文字も違う」と指摘した巻との間で、激しい口論になったが、佐藤は「これは、必要があって原本を書き直したもので、字はHという骨董屋が書いたもの」と説明した。

 「そんなことは周蔵の遺志に反し、書ける道埋がありません」といい、さらに「それじゃ、上田恭輔さんが偽物を造っているのを憂慮した周蔵が、この図譜を造ったとでも書けばいいんですか?」と皮肉をいうと、佐藤は「そんなことを書いてもらっては困る。お父さんはもう亡くなられたんだから、いいじゃないですか」となだめようとした。

 要するに、一緒にやって利益を分配しようというのが、佐藤の申し出であった。佐藤と古陶磁商が組んだ善からぬ策謀に気がついた巻は、中沢に預けてあった『奉天図経』の1冊をちらりと見せた。「うちにはその図譜の他に、こんな本があって、ホンモノの存在数も明記してあるし、寸法や特徴、原寸大の模様までハッキリ判るから、これに当てると真贋はすぐに判る。貴方が骨董屋と組んで変なことをするなら、私はこれを本にして、世の中にバラシますよ」といって、佐藤を一蹴した。

 翌日、佐藤はHを連れてきた。「自分たちは、この図譜を裏付けにして、もうモノを動かしてしまったのに、今更そんな本を出されては、迷惑します」というのは、要するに『三井良太郎図譜』を使って、倣造品を売ったということらしい。図譜の絵に似せてそれらしく造った倣作を、図譜と照らして見せると、買手は納得したものらしい。吉薗ツヨミが佐藤とHに対して協力を断ると、神戸のヤクザと称する者から脅迫電話が入ったが、効果がないと知ると、今度は『奉天図経』を売って欲しい、と申し込んできたがむろん断った。

 吉薗巻はこの1件を告発しようとした。ところが巻が相談した弁護士が、双方の知人に洩らしたため、茶道界が混乱することを憂慮したその人は、この件を思いとどまるように勧告してきた。混乱を意に介しない豪気な巻も、すでに死期が迫っていたので、この件を解決しないまま、昭和45年に他界した。存命ならば必ず告発したであろう、ということである。

 昭和47年、佐藤雅彦は突然京都芸術大学教授となって周囲を驚かせた。佐藤は学内で順調に出世して、49年には学部長となった。53年に『中国陶磁史』(平凡社)を著した佐藤は1部を池田チヤに献呈した。佐藤は、54年には小林太市郎訳注のダントルコール『中国陶姿見聞録』(平凡社東洋文庫)の補注をしている。

 一般に古陶磁書は、美術館の関係者同士がお互いの蔵品を盥回しにして、学芸員が若干の解説をしたものばかりだが、佐藤雅彦の著書『中国の陶磁』はその点ユニークで、ここにしか出てこない珍しい中国古陶磁の写真が多い。実は、その大半は『奉天図経』と『三井良太郎図譜』に描かれていたものである。また『中国の陶磁』の品名や解説文は『奉天図経』の第1冊を見て書いたとしか考えられない記載で満ちている。

 昭和53年、佐藤はついに京都芸大の学長となり、3年間その座を占めた後、58年には教授に戻り、62年には大学院の研究科長となった。このとき脳溢血で倒れた。昭和62年7月、佐藤教授は左手の麻痺を抱えたまま、古陶磁専門家としては異例なことに、北海道立近代美術館の非常勤館長に就任した。全国の美術館の館長人事を壟断していた河北倫明の工作によるものであった。

 翌年3月23日他界した佐藤は、結局、吉薗から借りた『三井良太郎図譜』『周蔵三井合作図譜』および『奉天陶磁図経』の一部をついに返却しないままであった。


 4 河北は知っていた 


 匠秀夫の「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」に河北倫明の序文がある。その末尾を掲げる。

「・・・すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受け取っている。匠さんのこの本が、この異風の人物にも一定の照明をあてる機会を作って下さったことを、喜ばずにはいられない」

 吉薗明子は河北と知り合って以来、次のような話を何度も聞かされたが、ついにその意味が分からなかった。「まあ、焼物なんかは、ぼくは芸術と認めていないから、あれでも良かったんだが・・・絵画は芸術だからねえ・・・とにかく佐伯なんかどうでもいい。ぼくは佐伯なんて大嫌いだよ。・・・それより周蔵だ、吉薗周蔵のことが分かれば、すべてはっきりするんだ。とにかく周蔵を調べろ」

 明子はそれを、河北が「嫌いな佐伯だが、無理に応援してやっているんだ」という恩着せと理解し、そのたびに何かと御機嫌をとった。それにしても、河北がいつも焼物のことだけを持ち出すのが、不可解だった。

 実は、河北は最初から吉薗周蔵について知っていた。

 それは佐藤雅彦を通じたものだった。佐藤雅彦は父の進三が京都の出身で、自身も京都住まいが長かった。河北が京都国立博物館長を勤めていた永い間を通じ官舎には入らず、高級和風旅館の柊屋を常宿にしていた。佐藤は美術館行政のボス河北の知遇を得、京都でさらに昵懇の間柄となり、その政治力を活用しながら、茶道関係とも深い関係を持ち、真倣ともどもに陶磁を動かしていた。その中には奉天古陶磁(ホンモノ)も、かなり多かったのではないか。

 古美術の談義は、来歴から始まる。佐藤は紀州古陶磁を河北に説明するに際し、関係者として吉薗周蔵の実名をあげ、小森忍から聞いた話を詳しく伝えた。河北が吉薗明子が周蔵の遺児と知ったとき、何とも不思議な態度を見せた鍵は、ここにあった。

 昭和61年頃、佐藤雅彦から、元首相も臨席するというパーティーに招待された池田チヤは、和服を新調して出掛けてゆき、席上で河北倫明と画家の稲垣伯堂に会った。チヤは旧知の河北からかねがね、稲垣はやがて文化功労者になる手腕と聞かされ、作品の購入を勧められていた。河北が佐藤と稲垣を従え、元首相のいる前でチヤに、「佐藤君の所の図譜は中途半端だから、真贋を区別するのに、役にたたない。佐藤君から聞いたがおたくには吉薗周蔵が奉天で写した本があるそうだが、それを持ち出せば本物の説明ははっきりとつくから是非稲垣君に見せてやっていただきたい」と頼んできた。その後、稲垣の絵を送ってきたがチヤはそのまま返却し、結局『奉天図経』を見せなかった、ということである。

 昭和62、3年頃、北海道立近代美術館が多数の中国陶磁器を購入したという噂を最近耳にした私は、そういえば稲垣画伯が「古陶磁を北海道美術館が数多く買いにきた」と語っていたことを、やっと思い出した。明細はさっぱり判らないが、その中には奉天伝来の秘宝もあるのだろうか、見てみたいものだと思う。

 佐那具や大連の陶雅堂窯、さらに大連市の夏案子で造られた倣古品や贋造品は、旧特務機関員らが、にわか茶人となって、茶室を舞台にして世間に売り込んだ。陶磁学者として1派をなした小山富士夫もそれに加わっていた。関東では、日本橋にあった某美術店と湘南の某料亭が、関西では有名な超一流料亭がその舞台である。湘南某駅の近くで、旧軍の特務機関員につながる女性が料亭を経営していたが、茶会にことよせて大量の佐那具物・満洲物を売っていた。日本橋某美術店も、その店頭に佐那具・満洲物の実物やポスターを飾り、古陶磁マニアに売りつけていた。佐那具物を目利きしていたのは、そつ当時東京国立博物館に勤めていた某専門家で今や世界的な陶磁学者になったが、若年の頃、某美術店のパンフレットに執筆していた。

 それを聞いた私は、にわかに覚るところがあった。平成3年、私は紀州文化振興会の『陶磁図鑑』に手紙を添えてその学者に贈呈した。通常なら、贈呈品が気に入らねば、受け取りを拒絶するか返送すればいいし、まあ受け取って置こうという気持なら葉書1枚の礼状を出すのが学者の慣例なのに、まるで反応がないので、何となく不審に思っていた。また、平成4年に岸和田市の展覧会のとき、たしかにその1派が贋作攻撃の背後にいることを実感した。人から「落合センセは何かで恨まれてるんと、ちゃいますか?」と言われたが、心当たりがなく首をひねっていたものだが、その謎がこれで解けた。私は自分でも気付かずに、倣造陶磁シンジケートの営業妨害をしていたのである。

 佐那具物・満洲物の倣造陶磁シンジケートは関西にも売店を持ち、佐藤雅彦の目利きで商売していたという。やはり特務機関員だった人物が経営する画廊喫茶では、今も佐那具・満洲物とみられる陶磁器を展観している。そこに出入りしている美街商の伝聞では、「幕末に五代才助が上海に渡り大金で買ってきた陶磁器で、入手した紀州の医師が持ち山の蜜柑山に横穴を掘って隠匿していたもの」だという。そのような史実はありえないが、和歌山=医師=蜜柑山という3題噺にその出自をしのばせるものがある。満洲物や佐那具物を保管したと伝えられる徳川家の菩提寺はたしかに蜜柑の名産地にあるからである。

 佐藤雅彦はじめ居あわせた学者連が見守る眼前で敲き割り、一同に配ったという 釉裏紅の一片をもらった私が検査してみたら、周蔵手記に明記された倣造品の証拠が歴然としていた。真品と信じて購入したのなら被害者ということになるが、真相はそう単純ではないと思われる。

 佐那具・満洲倣造品の販売シンジケートは旧特務機関員を中心としたものである。シンジケートは、流派茶道の関係者を加えて、茶会を利用したパーティー・セールスをしていたが、販売拠点としては東京日本橋の某美術店や関西の某高級料亭が選ばれた。いずれの場合にも、目利き(販売促進のための鑑定)をしたのは佐藤雅彦などの陶磁学者だそうである。なかでも特別によくできた品は、仲間の東洋陶磁商が、公立私立の美術館に売り込んでいたものらしい。

 伝えるところによれば、松永安左エ門や畠山一清も晩年佐那具窯の贋作を買い、それは、小山富士夫によって重要文化財に指定されたという。また、風聞では、以前に静岡県所在のM美術館が、購入した李朝物を展観したところ、数人の古陶磁専門家が押し掛け、当分展観を見合わすように館側に対して懇請したといわれている。他の美術館でも、古陶磁を買うだけ買ったが、いまだに展観をしていないところが多いという。事情ははっきりしないが、展覧できない理由があるというのだ。

 佐那具物・満洲物は、今日の日本の古陶磁界において、妖怪のような存在である。それが誅戮されないのは、その道の権威が深く関わり過ぎたからである。

 昭和37年の★佐野乾山事件も、各地の美術館や収集家に売り込まれた大量の佐那具乾山の存在が原因であろう。佐野乾山の出現によって、それがあぶり出されることに対する怖れから行われた贋作攻撃と私は確信する。

 ★【佐野乾山事件】についても、前記、大島一洋・『芸術とスキャンダルの間』で1章が割かれている。
 第五章 佐野乾山騒動 まっぷたつに分かれた真贋の行方

 ●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』  <了>

 



●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
 ●第2部  第3章 奉天古陶磁の倣造

 1 小森忍、山茶窯に拠る  

 
 奉天古陶磁が日本へ運ばれても、小森忍は満洲で相変わらず奉天古陶磁の倣作を造っていたが、大正13年4月、大連市臺山屯町に移転した後、内地に引き揚げて、昭和3年4月、愛知県瀬戸町に新たに窯を開き、山茶窯と称した。

 帰国の理由を小森は、自著『日本の陶磁』のなかで「中国古陶磁の研究が大体所期の目的を達することを得たので、将来これが活用には、立地的に特に不利なる大連に存続することは無意味なので・・・」と述べている。本当のことをいえば、小森は大連では河南天目、磁州窯や清朝琺瑯彩など12の種類を除いては奉天古陶磁の倣造に成功しなかった。写真だけを見たのではムリがあった。ことに、奉天古陶磁の実物が、日本に渡ってしまってからは、大連に居ることの意義もなくなった。

 昭和3年、宮内省から山茶窯に御大典用の磁器の製作命令が下った。一般の注文品も盛んに造った山茶窯の窯・釉薬の主任田村靖治は小森の妻の弟で、大連時代から小森と行動を共にしていた。山茶窯作の『磁州窯掻落手草花文壷』を写真で見ると、古陶磁の倣作とはどんなものかわかる。その山茶窯も、取引先の倒産によって昭和9年閉窯に追い込まれたので、小森は名古屋製陶に入社し、鳴海工場の建設に当たった。その間も小森は大連におもむき倣古製作を指導していた。

 昭和6年、周蔵は久原房之助に呼び出された。久原は1個の焼物を前にして「今から10年くらい前のことやが、君が張作霖の宝物を買わんかと言うて来たのう。あのときはわしも都合がつかなんで残念やった。ところで、これは同じ手の品や言うが」ときりだした。

 周蔵が見ると、あれとは到底比べ物にもならぬ。すぐに上田・小森の一派の倣造と分かった。

 「これを甘粕が持ってきてのう、1万円で買え言うんやが、どう思う?」

 ここで甘粕大尉の足を引っ張ることもない、と思った周蔵は、明答を避けた。「いや、おいは こげん物は、全く分らんです・・・申しわけなか」

 「そうか。そんなら、とりあえず5千円に値切って、買うておくか」

 甘粕正彦が満洲事変の資金稼ぎの一助として、富豪に倣造陶磁の売り込みを計ったことは、『橋本大佐の手記』に窺える。「満洲事変直前、甘粕上京し携行する1品を示し、之を売却し金1万円の調達を依頼す。ついに調達しえず。帰るに臨み、金に窮せるを知る予は、僅かに5百円を与えたり」とあるからだ。甘粕が上田恭輔の倣造品に目を付けたのは、フランスから帰国し、満洲に渡った直後らしい。事変後、上原派の隠し財産だったシベリア金塊の力で満洲国の実力者となった甘粕は、古陶磁倣造による資金作りを企て、小森忍を満洲に呼んで協力を求めた(場所は目下調査中であるが、大連の夏案子という地区だと言われている)。

 小森が満洲で拵えた倣造品は、久原が五千円に値切った手であるが、甘粕はそれを5百個まとめて紀州徳川家に売りつけた。「この前の奉天のものと一緒」だという触れ込みであった。奉天古陶磁の持ち込みのとき、徳川夫人との道ができていた上田恭輔を通じたのである。紀州家は、さきに奉天古陶磁を買うために起こした借金3百余万円の返済のため、昭和2年4月に有名な家宝大売立をしたのに、また新たにそんなものを買い込んだのは理解しがたいが、経済的打算ではなく、国策にこと寄せた軍からの圧力があったのだろうか。

 昭和10年、甘粕の意を受けた上田恭輔が上京して周蔵を訪ね、倣造品作りに加わるように勧めた。それは、上田が『宣統帝愛蔵品図録・・・』などと書き付けた紙片と、その由来書を持ってきて、これに『三井良太郎図譜』を添えたら、倣造品を本物として売ることができるから、『図譜』を提供しろというのである。周蔵は貴志の無念を思って断った。上田は、折角の申し出を蹴った周蔵を憎んだようだが、周蔵は「自分と甘粕の関係は、そんな浅いものではない」と平然としていたが、はたして何もなくてすんだ。

 小森忍は名古屋製陶に昭和14年6月まで勤め、その後東洋セラミックスエ業の顧問として昭和16年までいたとされるが、実はその間しばしば本土と満洲を往復し、現地(夏案子海岸)で古陶磁倣造を指導していた。倣造が成功すると、さらに真作に近づけようと夢中になっていく小森の職人気質には、甘粕さえ驚いた。それでも現品なり図面がないと倣造は難しいものらしく、上田は昭和15年、周蔵を訪ねてきて、『三井良太郎図譜』を買い戻したい、といってきた。周蔵は、貴志彌次郎の偉勲に泥を塗るような計画には応じなかった。
               
 昭和17年、大阪の金持という触れ込みの木村貞造青年が、小森の才能を惜しむという名目で、三重県阿山郡府中村に財団法人佐那具陶磁器研究所を発足させた。小森の自著『日本の陶磁』には、佐那具窯のことを「・・・中国倣古陶磁器の研究に没頭す。中国の古陶磁器中その材質および技術上その倣作に至難とされる宋代の青磁、青白磁、明の青花磁(とくに祥瑞手)、明の五彩磁の研究に没頭し、昭和18年9月、大阪市美術館において約2百点研究倣古作品の展観を催す」とある。その活動の一端を自ら示したものだ。たしかに佐那具製の万暦(風)赤絵は、本物と見紛うものがあった。

 戦後、辻政信を匿っていた周蔵のもとに、未知の木村貞造という人から連絡があり、辻を匿うために必要な資金の拠出を申し出てきた。木村貞造の実体は日本軍の特務であったことが、それで分かったのである。木村はマレー作戦において辻参謀を支援する役割を果たしたと語っていた。最近、辻の潜伏資金は児玉誉士夫から出たとする説(『山本五十六は生きていた』第一企画出版)を読んだが、木村らが児玉機関ないしその類似機関に属していたことは事実であるから、話は整合する。

 木村貞造は後出の湘南の料亭主人や、戦後赤坂のクラブ「ラテンクオーター」を開いた山本某(★この辺の事情は、山本信太郎・『東京アンダーナイト』 廣済堂 2007・2 に詳しい。)らとともに、南方作戦に携わった特務で児玉機関に属していたと伝えられる。

 昭和16年6月24日、台湾軍から参謀本部部員に栄転してきた辻中佐は、9月25日、第二十五軍(司令官山下奉文中将)勤務の参謀要員として、仏国駐屯軍参謀となった。12月4日、第二十五軍司令部を載せた20隻の輸送船は、海南島の三亜港を出て、南方に向かった。マレー作戦、シンガポール攻略における辻政信中佐の発案は機略縦横で、ことに17年1月の銀輪部隊の活躍は有名だが、このとき木村貞造が活動した。銀輪作戦は、兵員が戦闘から追撃に移るとき、放棄していかざるを得ない自転車の前方移動がネックであった。辻は著書でその点を「大東亜共栄圏の理念に賛同した、マレー人やインド人や華僑が協力して、空の自転車を運んでくれたのだ」と事もなげに述べている。これは建前で実際は木村らがそのような工作をしたのである。

 一方、満洲映画の理事長に就いた甘粕正彦は、身を満洲におきながら、相変わらず軍事謀略に熱中していた。東京地裁の判事から満洲官吏へ転じた武藤富男は「昭和15年9月、日本軍がインドシナに進駐すると間もなく、甘粕の行方がわからなくなった。・・・1週間ほど経って、彼は社に帰って来た」と証言する。甘粕の言は「ちょっと海南島へ行って来ました。仏領インドシナの人たちで軍隊をつくり、これを海南島で訓練して待機する必要があるのです」ということだから、映画会社の社長がとんでもないことをするものだ、と武藤は思った(『満洲国の断面』)。

 甘粕と辻はこの作戦を協同していた。木村貞造もその線で甘粕と知り合い、甘粕の指導のもとに『佐那具作戦』を立案したものだろう。木村は明治45年、京都東本願寺門前の廿人講町で生まれ、東西本願寺ことに大谷光瑞師とかかわりが深いようである。このとき30を超えたばかりであり、昭和18年に旧小倉藩主小笠原伯爵の6女・福子と結婚している。
 

 2 佐那具陶研
 

 佐那具陶研は、木村貞造の資金、甘粕正彦の軍に対する支配力、上田恭輔の古陶磁知識、小森忍の窯業技術を組み合わせた一大古陶磁倣造事業であった。

 この地はもともと陶芸用の土が採れないから、陶土は他所から運んできた。そんな不便な地域に立地したのは、倣造の基となる奉天古陶磁は和歌山市近郊松林寺に保管されていた。厳しい条件付の下にモデルとしてそれを貸し出す許可を紀州家からもらってきたのは、上田恭輔であった。紀州にあるホンモノを借りておられる時間が短いので、和歌山とは近い三重県佐那具の地を選定したわけである。

 佐那具は基本的に窯業には不向きな立地だが、厳しい物資統制の時代だから、軍からの物資割当があれば、経済的には充分成立しうる窯であった。5百坪の敷地に高い塀をめぐらし、軍関係の工場ということで、近隣を威圧する風があった。佐那具陶研には、瀬戸から山茶窯のスタッフが移ってきた。小森の義弟で窯・釉薬主任の田村靖治は大連時代からの片腕だったし、テザイナー日根野作三も、瀬戸時代の幹部であった。小森の旧友である浜田庄司も手伝いに来て、天目茶碗を造っていたという。周蔵が生前語ったところから憶測すれば、小森の親友鶴田吾郎が焼物の絵付を手伝ったことがあるようだが、それも佐那具窯と思われる。また、佐那具窯では江戸の名陶工・乾山を大量に倣造したものらしい。

 倣造のモデルとして古陶磁を貨した紀州家には、倣造品の1部が謝礼代わりに渡された。これが菩提寺に預けられ、後に、古陶磁蒐集界を騒がすこととなる。上田恭輔は戦時中、上京するたびに杉並の方南の周蔵宅を訪れ、『三井良太郎図譜』を買い戻したいと言って来たが、周蔵が終に応じなかったのは、これを用いて贋物を造られたりしたら、貴志さんに申し訳ないという真心からであった。

 佐那具陶研は倣造品を本物として売るのが基本戦略だから、当初から販売担当者を置いた。それは古陶磁商Hと学商の佐藤進三であった。得意先は茶道関係と国公立美術館をターゲットとしていたという。佐藤進三は京都の生まれで、東大を出て白樺派の運動に入り、一時柳宗悦と組んで民芸店を経営したが、すぐに自立して古陶磁商となった。日本の6古窯を研究し、論文を発表した半学半商として世に知られてきたが、佐那具古陶磁を頒布していたその実態は今まで世に知られていなかった。佐藤は、白
樺派に近かった小森忍とは昔から知り合いであり、吉薗周蔵の義弟・中沢明四ともたまたま親しかった。

 小森忍は昭和18年6月、満洲国宮内府および総務府嘱託を委嘱され、康徳宮窯製陶所長に就任した。甘粕正彦の差し金とみてよい。小森はその年5月、佐那具陶研の所長を退職しているが、理事長は辞めなかった。佐那具陶研は、小森が居ない時期も義弟の田村靖治が切り盛りしながら昭和25年の閉窯まで戦後も窯を焚き続けていた。窯主の木村貞造は昭和20年に長男をもうけるが、出生地は佐那具陶研の社宅であった。

 終戦後、まだ新宿小田急の横に露店の1杯呑み屋が並んでいた頃、その1軒に上田恭輔、小森忍、木村貞造などが集まり、佐那具の今後を話し合ううち内輪もめとなり、誰かが周蔵に電話をかけて、仲裁を求めて来たが、周蔵はあいにく留守だった。佐那具窯は終に解散する事が決まり木村は元利を回収し、上田は企画料に相当するものを収得した。

 単に月給をもらっただけに終わった小森は、失意のうちに北海道に渡ったが、勤めた工場が次々と閉鎖され、衣食にも苦労するようになり、鶴田吾郎を通じて周蔵に援助を求めてきた。周蔵は小森にあまり好感を抱いておらず、鶴田も藤田嗣治を通じての知人だが、海軍の特務筋なので、親しくしていなかった。しかし、義兄の池田敬三が函館に居たので紹介し、池田の世話で窯業工場に紹介された小森は、その後は何とかやっていけたようである。

 続く。 
 



●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
 第2部 第2章 貴志彌次郎と周蔵

  4 奉天古陶磁図経  


 上原参謀総長が貴志彌次郎少将を奉天特務機関長に補したのは、紀州出身の貴志なら紀州家との秘密商談を進める便宜に適うとみたからである。周蔵を奉天に派遣したのも、その貴志の商談遂行を日本で補佐させるためであった。

 周蔵は、奉天へ行く前に満洲東亜煙草会社設立の件で大連に立ち寄ったが、そこで倣造古陶磁を目にした。それは上田が満鉄窯業試験所で小森忍に作らせていたもので、関東軍参謀長・浜面又助少将は上田恭輔と共謀し、軍の戦略にかこつけて満鉄に協力させ、作った倣造品を密売して私益を図っていることを周蔵は察した。奉天に着いた周蔵が、貴志にそのことを話すと、端麗な顔が曇った。潔癖な貴志は、贋物と聞いただけで嫌悪感に打たれ「浜面は自分と同郷だが、軍人というよりゴロの性格だ・・・今回のことは将来大きな禍根を残すのではあるまいか」と憂慮したのである。奉天古陶磁の商談には寸法入りのカタログが必要と考えた周蔵は、三井良太郎を雇い、貴志少将に手伝ってもらって、古陶磁を1点ずつ寸法を測り、図面にした(「周蔵三井合作図譜」)。それでも周蔵に不安が残ったのは、これだけでは贋作を指摘する決め手にならないからである。

 周蔵は元帥から「ヲマンハ 正義ノ弁ヲ カザシテコヒ」と命じられてきたが、今すぐに上田、浜面らの悪事を止めさせるだけの力はなかった。贋物との区別の方法を考えた周蔵は貴志に連れられて張作霖に目通りしたとき、奇抜な提案をする。それは真贋の混淆を防ぐ決定的な方法である。『三井良太郎図譜』には寸法を記していないので、それだけでは贋作を完全には防げない。そこで、製図の方法で器物を厳密に計り、できるなら1部分の文様を原寸大で写しておきたい ― 焼き縮みのある陶磁器には、
同一寸法で同文様のものはできないから、その図を当てることにより、真贋は直ちに見分けることができる。理数系に秀でた周蔵ならではの合理的な着想であった。

 張作霖は周蔵の提案を喜び、早速取りかかってくれと言い、倉庫に机を運び込むなどの便宜を計らってくれた。褒美として、身の回りに使っていた箸立や水洗などの古陶磁を3点、直々に授かった。こうして描いた図に、周蔵は孫游先生から聞いた解説を書き込んだが、さらに磁器庫にあった陶磁関係の古書を写したりした。当時、上田たちが大連で作っていた倣造品がどのような種類かということも、できるだけ記しておいた。それを和紙に描いて紙縒り(こより)で綴じると4冊か5冊になったが、今はそのうちの3冊が吉薗家に残されている。図に解説を添えたものだから、それを『奉天古陶磁図経』と呼ぶ。

 上田恭輔は、周蔵がわずかの滞在期間に『奉天古陶磁図経』を仕上げたことを知らず、周蔵に『三井良太郎図譜』を買わないか、と持ち掛けてきた。「今までは満鉄の世話になって倣古を作ってきたが、いよいよ小森君を独立させて、自主経営に移ることにした。その資本金を我輩も出さねばならん。貴様は将来、乞食坊主になるのが望みで、茶碗を焼きたいと言っておったが、それにはこの図譜は役に立つぞ。どうだ、5千円にしておくが・・・」

 周蔵は言われる通り、450枚ほどあった『三井良太郎図譜』を5千円で買い取った。戦後になり、明子宛てに「父ハソンナモノ役二立ツトハ思ハナカッタガ 金ガ必要ト察シタノデ 買ッタノデアル」と書き残している。

 周蔵が帰国しても、貴志の奉天古陶磁の商談は進まなかった。これは1種の陸軍からの御用金だったから、紀州家は消極的に抵抗したのであろう。いったんは快諾したはずの頼倫老僕は、すでに老境に入り、世継ぎの頼貞に実行を任せようとした。頼貞の側近である東京商科大学教授・上田貞次郎が、陰で反対したこともあり、実行が延びた。そのうち、当初300点で120万円と言っていた宝物の数が、しだいに増え、金額も大きくなった。よろず先送り主義の幕末の気風に浸った旧紀州藩の要人たちは、大正中期となっても、すべてに因循姑息を脱していなかった。

 それに追い撃ちをかけるように、紀州家の周辺に、思いがけない事件も重なった。第1に起きたのが、商談の推進役だった和歌山市在住の俳人、文泉堂主人・貴志貞善の急死で、大正10年秋のことであった。紀州御庭焼に関する『紀州陶磁器史』を著した目利きの文泉堂主人が、老僕に購入を進言すれば万事整うはずだったのだが、これで振り出しに戻ってしまった。ところが、貴志少将はその時までに、見本として奉天古陶磁の数点を紀州に送っていた。前金をもらっていないのに、文泉堂の死去とともに、見本の行方が辿れなくなって貴志少将は進退極まった。周蔵は林次郎にも話して、いざと言うときの金銭解決に備えたが、張作霖の貴志儒次郎に対する信頼がことの他厚く、ことなきを得た。

 紀州家周辺が郷土出身の貴志少将をないがしろにしたのは、貴志の出身が農家だったからであろう。貴志彌次郎も紀州徳川家に頼るのを諦め、周蔵に頼んで他の買手を探させた。周蔵は三井、久原、薩摩らに話をしたが、不況のせいか買手はつかなかった。ついで大正12年9月に関東大震災、14年5月には老侯爵の逝去と断続的に大事が続いて、またも延び延びとなり、紀州家に奉天古陶磁が入ったのは大正14年のことだった。

 最終的には、450点の古陶磁のほか文具、玉器、景泰藍七宝などをひっくるめた代金の750万円が張作霖の懐に入った。上田は幾つかの古陶磁を仲介料代わりにもらったらしく、それを『支那陶磁の時代的研究』に収めている。写真もあれば、三井良太郎の絵によるものもある。

 秘宝の1部はニコライエフスクを回り、若松安太郎(本名、堺誠太郎)の経営する堺漁業の漁船で大阪府の堺港に陸揚げされ、和歌山市郊外松江村の松林寺に預けられた。別便で運ばれた小物は東京の徳川邸に保管されたようである。

 こうして奉天古陶磁は紀州家古陶磁となったが、その後数年もしないうちに、紀州家から流出を始めた。徳川頼貞侯爵にそれを守ろうとする意欲がなかったためである。流出は上田貞次郎の手を経由して行われ、周蔵はそれを窃盗同様の行為と睨んだが、しかし、上田教授が為子夫人と親密であったというから、流出が夫人の意を受けた可能性が高いと思う。

 流出した名品は、まず上海在住のイギリス人に持ち込まれた。当時日本では、茶道具はともかく、鑑賞陶磁器と呼ばれる美術品を理解できる人がほとんどいなかったからである。名品には、英国人蒐集家の買手がつき、彼らの手を経たのち、上海に定住していたユダヤ人銀行家サッスーン家のパーシバル・デヴィッドの蔵品となった。至正11年の銘文があることから、元代青花(元の染め付)の基準品となり、デヴィッド瓶と呼ばれ、中国陶磁中屈指の名品とされている『青花象耳龍水図大瓶1対』が代表的な例であるが、汝官窯製といわれる香炉型の化粧盥(『汝官窯奩』)、大明成化年生銘の『豆彩花蝶文小壷』、『均窯月白長頚瓶』など多数の世界的名品も、もともと奉天から紀州へ渡ったことが『奉天図経』、『奉天図譜』で明らかになった。私がデヴィッド財団に尋ねたところ、これらの取得時期を、昭和9~10年と回答してきた。

 日本国内では、東京国立博物館の・『郊壇官窯青磁鉢』(重文)をはじめ、多数の重文を含む古陶磁が、奉天古陶磁であることは間違いない。出光美術館には数十点も奉天→紀州物が入っている。安宅コレクションの中でも、ことに有名な『元青花魚藻文壷』(重文)もその1つである。奉天古陶磁は、東博はじめ出光、梅沢、永青文庫などに散らばっているが、ことに東博では横河民輔寄贈品、広田松繁寄贈品の中に多い。広田松繁は、わが国で東洋古陶磁商の草分けで、屋号を壷中居と称した。広田が、自分が東博に寄贈した古陶磁の由来を、どの程度知っていたのか、極めて興味の持たれる所である。

 奉天古陶磁のうち、1部は紀州家→(上田貞次郎?)→広田松繁→松河民輔→東博と流れたが、紀州徳川家からの流出は、当初は模作品と本物とのすり替えという形で行われていたと伝わるが、それは侯爵家が正式に決めた売買ではなかったからであろう。ところが順貞侯爵の側近に奉天古陶磁の流出を阻む1派がいた。それは、順貞が寵愛した2代目照小森(本名は未詳)と呼ばれた大谷光端門下の寺小姓であった。照小森(2代目)は、もともと布でくるんだだけで箱がなかった奉天古陶磁に桐箱を作って品名を明記しておくと、すり替えを防ぐことができると考えた。ところが、その名案を頼貞侯爵が取り合ってくれないので、周蔵に醵金を求めた。周蔵は義弟の中沢明四を紹介し、桐箱を造らせた。箱書は2代目照小森がした。

 周蔵はこうして奉天宮殿の古陶磁(秘納庫は2代皇帝ホンタイジの墓である北陵にもあった)の日本への伝来に際し、脇役として加わったのである。

 貴志彌次郎は、親友張作霖を日本軍部の思惑で消された無念と、軍と外郭が、世界の秘宝奉天古陶磁の偽物を造っていることに落胆し、気落ちしたまま昭和13年に他界した。そのとき、周蔵は舌癌を宣告され、何時死ぬとも分からず、乞食坊主の心境で、その日その日を送っていた。

 上田恭輔は昭和3年春、上野の東京美術学校で中国陶磁について講義したが、講義録は「支那陶磁の時代的研究」と題して昭和4年に出版された。その口絵に奉天図経と同一の品が何品も掲載されている。

 続く。
 





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