カウンター 読書日記 2008年06月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
 ― 『宇都宮太郎日記』から起高作戦=高島鞆之助再起策を追う   
 


 ★「上原勇作大佐を訪れ起高談をなす」

 以下も『宇都宮日記』を観ていく。

 「2月19日、朝飯が終わったばかりの頃に、伊瀬地が来た。そこで自分は旅館を引き払い、伊瀬地の宿(石井旅館の別館)に行き、前日の談論を反復してその決心を確かめ、午後3時28分発の汽車で帰京した。2月20日役所(参謀本部)にて、高島を起こす必要を上原勇作と語るが、起高の決心はまだ本気では語らなかった。3月3日、高島子爵を訪ね、例の件に関し、大迫・西の両中将が今夜高島子爵を訪う由を聞く。3月6日の東京朝日に『サーベル党が大山もしくは大迫を排除せんとしつつあり』云々の記事あり。無関係のことながら伊瀬地に文書を送る。3月19日、上原大佐を訪れ起高談をなす」(要約)

 翌朝には伊瀬地の方から宇都宮を訪ねてきた。旅館をチェックアウトした宇都宮は、伊瀬地の泊まっている石井旅館に同行し、昨日の議論を反復して伊瀬地の決心を確かめた後、午後の汽車で帰京した。翌日参謀本部に出勤し、早速第三部長・上原勇作大佐(薩摩)と会い、高島を引っ張りだす必要を語るが、起高の決心はまだ明かさなかった。3月3日、高島子爵を訪ね、参謀次長・大迫中将と第二師団長・西中将が今夜、高島を訪れる由を聞く。19日、上原大佐を訪ねて起高論を交わす。

 肥前出身の宇都宮が起高作戦を持ちかけた相手は、薩摩の伊瀬地・上原であった。すでに高島本人と接触し始めたらしい大迫尚敏、浜寛二郎の両中将も薩摩である(「サーベル党」については長州人脈のことと思うが★、ここでは立ち入らない)。前述したように、上原勇作には叔母吉薗ギンヅルが組成した応援団が付いていて、団長格が高島、副団長格が樺山資紀であった。20年前、上原少尉は仏国留学を前にして熊本鎮台に司令官・高島少将を尋ね、また警視総監・樺山少将の代官山の別宅で歓送会を開いて貰ったのは、ワンワールドの本場に赴くに際しガイダンスを受けたのだが、右の関係を知る由もない宇都宮は、上司の上原大佐を起高作戦に巻き込もうとするものの、起高の決心を直ぐには上原に明かさない。素より起高作戦に異存はない上原だが、ワンワールド薩摩派の総長高島の後継第一候補として高島の実状を知っているから、宇都宮ほど単純ではない。

 その後の記載を追うと「4月6日、伊瀬地を訪う。4月8日、橋口勇馬と共に、其の叔父・樺山資紀伯爵の邸に行く」とある。橋口は明石元二郎と同じ士官生徒6期で当時少佐、宇都宮の1期上だが親友である。勇馬の父の薩摩藩土橋口伝蔵は、寺田屋事件で本藩の鎮撫使によって斬殺された。その弟が橋口覚之進すなわち時の文相・海相樺山資紀で、叔父に招かれた橋口は宇都宮を誘い、紀尾井町の樺山邸(現在の自民党本部)で鹿肉の御馳走になった。樺山資紀はワンワールド薩摩派の副長として陰で総長の高島を支えていたのだが、そんな関係を知る由もない宇都宮は、樺山の甥の橋口勇馬を巻き込んで、高島を参謀総長に担ごうとしていたのである。勇馬は明治40年大佐、大正3年に少将・歩兵第十三旅団長、同6年には待命となるが、日露戦争で満洲義軍を率いて後方撹乱に当たった。その時の配下が西南戦争の軍神・逸見十郎太の遺児・勇彦で、後に高島鞆之助と上原勇作の諜者となる。

 ★「政界同様陸軍でも薩人はまた長州人に圧倒された」

 『宇都宮曰記』は続けて言う。

「4月24曰、大迫中将(参謀次長)を訪ねる。陸軍部内に異動あり大迫中将も転出するので、自分がどうなるか聞いたら、米国大使館の件は取りやめとなり、英国大使館付に内定の旨、内命があった。4月25曰、予報  の通り更迭あり、大迫は第七師団長に転出し、寺内中将が交代に入り、
川上系軍人は敬遠・左遷されて、長州人が要部を独占するところとなった。政界と同様、陸軍でも薩摩人はまた長州人に圧倒された。薩長の消長は強いて問う所ではないが、陸軍の部に非戦主義者が跋扈するのは実に嘆ずべきである。軍備拡張の大精神を誰か支持できるだろうか・・・伊瀬地は中将になった」

 陸軍も政界と同様で、薩摩が凋落して長州が跋扈すると宇都宮は嘆く。すべては前年5月11曰に参謀総長・川上操六が53歳で急死したことから始まった。川上は弘化4年(1847)生まれで、戊辰戦争に従軍したが、明治4年の御親兵募集に応じ初任中尉、西南戦争の戦功で11年中佐、15年大佐に進級、18年少将、23年中将、26年参謀次長に就き、征清総督府参謀長として曰清戦争を指揮した。桂太郎は川上の誕生の17曰後に、萩藩の馬回り役120石の家に生まれ、戊辰の戦功で賞典禄250石を受けた。ドイツに留学し、6年に帰国して陸軍に入った際、賞典禄では佐官級だが、陸軍人事の新規則に従い初任大尉に甘んじた。川上と桂は典型的な好敵手で、佐官時代からまったく同曰に昇進し、31年1月の伊藤内閣で川上が参謀総長、桂が陸軍大臣に就いた。一致協力して対露戦に当たることになった2人は9月に揃って大将に進級したが、川上が急死したので陸軍内のバランスが崩れた。長州派が優勢となった以上、陸軍内部が非戦主義に傾くのは必至と観られていたが、早くも4月25曰付の人事異動でその答えが出た。この人事を予想した宇都宮が、此れに先立ち起高作戦を開始したのは、軍拡派が失った均衡を回復するには、大西郷の後継と目された高島中将を担ぐしかないと考えたからである。この感覚は、高島に軍歴以上の隠然たる権威を感じ取っている点で半ば当たっているが、反面、高島が参謀総長に専念するのを許されぬ政治性本位の<薩摩総長>に就いたことに気付かぬ点で、半ば失しているとも言える。

 さらに『宇都宮曰記』を読み、起高作戦に関する事項を拾うと、
 「5月6曰、上原大佐が来り、去る25曰の人事異動を評して、将来の方針を協議した。5月15曰、伊瀬地に電話で呼ばれ、上原大佐も同席にて将来を談じた。自分の意見としては、同志の勢力集中を必要とし、そのためには同志を東京に招致することを述べた。5月16曰、伊瀬地の赴任(熊本第六師団長)を新橋駅に見送り、橋口勇馬の来宅を待つ。5月17曰、橋口が清国公使館付武官として出立するのを新橋駅に見送る。5月19日、高島子爵を訪い将来を談じ、大迫前参謀次長が札幌第七師団長に赴任するのを上野停車場に見送る。5月25日、高島子爵を訪う」

 ここまでの記事は起高作戦が主だが、5月28日条に<清国暴徒義和団なるもの>が暴動を起こしたと記した以後、義和団関係の記事が増える。起高関連の記事は「6月13日、予倉と共に高島子爵を訪うも不在」と記すのみで、以後は伊瀬地中将との書信往復を記載する以外は「7月3日、夜に入り上原勇作を往訪す」とあるだけである。宇都宮が立案した北清事変の作戦計画を携えた参謀次長・寺内正毅が、列国の先任指揮官と協議のため清国に出張することとなり、宇都宮は鋳方と共に随行を命じられた。
ここで『宇都宮日記』明治33年の条は途絶え、起高作戦の顛末は結局判らないまま、宇都宮が34年1月15日付を以て駐英公使館附に補されて英国に赴任することを記す。起高作戦に奔走した者で、大迫・伊瀬地の中将クラスは師団長として遠方へ移され、橋口勇馬と宇都宮は外国へ飛ばされ、参謀本部に残ったのはただ1人上原勇作大佐だけとなった。

 ★台湾政策に陰で辣腕を振るった高島鞆之助

 高島も青年将校に担がれて満更でなく、「自分に於ては何時にても出づるの意なきにあらざる旨」を宇都宮に語ったが、真意は「国家の危急は砂糖・樟脳・アヘンに優先するから、参謀総長を受ける気はある」というだけのことで、結局は参謀総長にならなかった。私見であるが、25年8月の陸相辞任後の3年間、高島は枢密顧問官の閑職にいながら、秘かに吉井友実が育てたワンワールド薩摩派の事業を引継いでいた。それは台湾産業に関わる事業であった。28年8月、樺山から台湾副総督を嘱されると之れを快諾したのは、薩摩派の事業よりも日本の台湾領有を優先したのである。高島は進んで拓殖務相に就き、台湾総督府を督励して台湾基本政策を確立したが、その後陸相に再任した時は、もはや陸軍よりも台湾政策に軸足を置いていた。桂の策謀で陸軍を追われた31年1月からの2年間は、雌伏を装いながら、日高尚剛・吉薗ギンヅルと組んで砂糖・樟脳など台湾に関するる事業を掌握したのである。樺山が台湾総督を辞めた29年6月以後、2代総督・桂太郎(10月まで)から、3代・乃木(31年2月まで)、4代・児玉源太郎(39年4月まで)と、10年にわたり長州軍人が総督の座を占めたが、玄洋社を看板にした杉山茂丸は彼らを積極的に操作し、また伊藤博文・井上馨にも接近して、歴代総督に高島の建てた台湾産業基本政策を踏襲せしめた。なかでも乃木希典は第四師団以来高島の隠れた腹心となり、結婚の仲人も高島夫妻に頼んだほどで、その台湾政策は高島の意向を完全に反映していた。高島はまた、日高が糸を引く鈴木商店の金子直吉に命じて、長州派の領袖・曽根荒助と近かった藤田謙一を引き抜き、意のままに働かせた。藤田ほどの大物を易々と取り込んだ薩摩の潜在的勢力は、桂太郎やその周辺の長州人の比ではなかったと思える。

 軍人と言えば俸給を目的とする職業人の意味だが、武人とは天職の謂である。蓋し「武」の本義は避戦を意味し、一命を捨てても平和をもたらすのが武人の本懐である。宇都宮や橋口有馬は、世界情勢を分析した結果、もはやロシア帝国との大決戦を避け得ないと考え、軍拡の実行を高島の政治力に期したのである。その使命感を、「現世的利欲に狂った軍人的思考」と戦後文化人が罵るのは間違いである。当時の日本を帝国主義段階と規定した以上、国家指導者をすべて侵略主義者と見做さざるを得ないマルクス史観に従うだけの浅薄な臆断に過ぎない。因みに、宇都宮太郎はその後、陸軍長州閥を掣肘するために上原陸軍大臣の実現に奔走し、陸軍上原閥の大番頭になり、陸軍大将に昇った。その子・宇都宮徳馬は、戦後参院議員となり、日中友好を唱える平和主義的政治家として鳴らしたが、その政治資金はすべて、上原の草だった吉薗周蔵が創業した阿久津製薬(後にミノファーゲン製薬)の利益が充てられたのである。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)  <了>

 ★「サーベル党については長州人脈のことと思うが・・・」とあるが、3月6日の東京朝日の
  記事↓からする限り、対露強硬派のことで、長州人脈とはいえない。
 

  参考までに『陸軍大将・宇都宮太郎日記』よりの重引で(P、9)、
  『東京朝日新聞』の記事を紹介しておきます。   
 

 ★『東京朝日新聞』 1900年3月6日

 「サーベル党の厄鬼」。

 日清戦役を距ること既に五年、戦争熱の冷却するに従ふて世間漸く軍備過大の拡張を悔い、甚だしきは藩閥の元老にして今日の経済上の惨状は所謂戦後経営の結果なる如く論議する者あるに至りたれば、参謀本部のサーベル党は大に驚き、此気運を挽回し再び我々の世の中と為すには某強国との間に遠からず妖雲の靉靉くことあるが如き形勢を示すの外なしと案出し、既に一旦馬山浦問題に付て故らに強行の手段を執りたれど、何分にも現任大山総長にてはテキパキしたる仕事も出来ず、叉大迫次長も珍らしき結構人なれば、熟れも故川上総長の昔を思ひ、昨今総長次長の中責めて一人を更迭せしめんとの運動を始めたりと云ふ。

 『陸軍大将・宇都宮太郎日記』 (岩波書店 2007・4・5) 
 


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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
 ― 『宇都宮太郎日記』から起高作戦=高島鞆之助再起策を追う   
 

 ★「高島を棄ておくのは今日甚だ残念」起高作戦の淵源

 前月に紹介した『宇都宮太郎日記』の明治33年2月5日条は、次のように始まる。

 「起高作戦の第1着手として、直ちに本人を紀尾井町の邸に訪い(退省掛)、其の出づべきや否やを叩きしに、自分に於ては何時にても出づるの意なきにあらざる旨を答ふ。因て其の方法として2案を陳ぶ(1は直に大山を交代すること、2は1旦大臣となり夫れより本目的の地に移ること)。本人は、不同意にはあらざるべきも時機未だ到らずとの意を洩らせり。余は、妨げとならざる様、多少試みるところあらんことを告げ、且つ互いに秘密を守るべきことを約す」

 いきなり出てきた「起高作戦」とは、2年前に陸相を罷めて予備役に編入された高島鞆之助を再起させる作戦のことである。宇都宮少佐が高島邸(現在は上智大学のクルトゥルハイム聖堂)を訪れたのは、高島を参謀総長に就ける工作を実行するに当たって本人の意思を確認に来たわけだが、高島がいつでも出馬の意思はあると答えたので、方法として2案を示した。第1は、大山巌・参謀総長と直接交代すること。第2は、一旦陸相に就き、それから本来の目的たる参謀総長に移ることである。これに対し高島は、不同意ではないが時機未到来と答えた。そこで宇都宮は、邪魔にならぬ範囲で若干試してみると告げ、互いに秘密保持を約した。夕食後、宇都宮は高島邸を一旦辞去し、参謀次長・大迫中将を訪れる。種々談話の中で「高島中将を現在のままに棄ておくのは、国家大有為の今日甚だ残念」と言うと、大迫も同感と答えたが、宇都宮は真意までは明かさず、10時過ぎに大迫邸を辞して高島邸に戻り、一泊した。

 同じく2月18日条にも、次のような一文がある。

 「午後3時過ぎの汽車にて大磯に至り、伊瀬地少将を訪ひ、此の夜は旅館石井に一泊す。此の行の目的は一には少将の病気を見舞ひ、一には起高作戦の第1着手を為したるなり。蓋し、露国との大決戦を目前に控えたる帝国の参謀総長としては、諸将官中に〔高〕に勝るものなく、国家の為め是非とも之を起さざる可らざることを説き、其方法としては(1)政変の際高島を陸軍大臣となし、現役に服せしめ、大臣の席を他に譲り自らは参謀総長に転じて、終身之に拠るの決心を為さしむること。(2)は大山現総長をして、自ら高島を薦めて辞職せしむること・・・」

 宇都宮が大磯に来た日的は、まず伊瀬池少将の病気見舞いである。伊瀬池好成は薩摩藩士で、明治4年の御親兵募集に応募して初任少尉。第一連隊長・乃木希典の副官だった伊瀬地は、郷里の隣家・湯池氏の息女シヅを乃木と見合いさせた。11年に高島鞆之助夫妻の媒酌で結婚式を挙げた乃木夫妻は、その34年後に壮絶な自裁によって明治の日本精神を世界に顕現した。日清戦争の最中に少将に進級した伊瀬地は、28年11月に第一1旅団長、兼威海衛占領軍司令官に補せられ、31年10月1日付で近衛歩兵第二旅団長に転じた。この日は大磯の石井旅館別館で病臥していたが、2か月後に中将に進級して第六師団長に補されるほどで、重病ではない。病気見舞は口実で、宇都宮の本来の目的は「起高作戦」に関して伊瀬地の意見を聴くことであった。ここで「帝国陸軍の参謀総長として高島程の適材は他に居ない」との主張は、現総長・大山巌も実は適材でないことを意味する。茫洋を以て自他ともに任じる大山元帥のリーダーシップは調整型で、国家危急の際の適材ではないので、国家のためには果断を以て鳴る高島を是非とも立ち上がらせる必要があるとし、その実現方法としては次の2つを挙げた。(1)は、現行の山県内閣の倒れる際、高島を3度目の陸相に就けて現役に復帰させ、その後陸相を後進に譲る形で高島自身は参謀総長になり、生涯その職を全うする決心をさせること。(2)は、現総長大山巌が高島を後任に指名して辞任することである。更に続けて『日記』に記すところは、

 「この2案の中では(2)が良い。それは政変が起こるにしても、次の内閣を組織する者は伊藤かその同類であって、自由党とは必ず提携か連
立するだろうし、またその時には桂は依然としてその地位に留まるだろうから、高島の登場の余地はほとんど期待できない。又、進歩党との連携も、遠い将来はともかく、当分は出来る望みはない。要するに、自由党にせよ進歩党にせよ、高島の手腕を畏怖しているので、之を迎えて内閣に招くことは、当分の情況では決してあり得ることではない。然し、時機時機と言ってばかり居ると、歳月の過ぎるがごとく、高島は軍人からも忘れられ、世人からも全くの予備役将官として谷や曽我と同視されるがごとき境涯に陥り、現役復帰は益々困難となっていく・・・」

 つまり、高島を参謀総長に就ける方策は、①政変の際に高島を陸相に押し込み、その後で高島が陸相から総長に転進するか、②現総長の大山が後継に高島を指名するか、の2案があるが、結論として②が良い。理由は、政変が起こっても山県の後任首相は伊藤かその同類の政党容認派であって、自由党系と連携するだろうし、その場合には桂は陸相を罷めないから、高島を押し込むのは無理である。しかしながら、好機を待っていては、高島は同じく予備役中将の谷干城や曽我祐準(当時日本鉄道社長)と同様、軍人からも忘れられてしまう。右の理由で、宇都宮は焦燥感を抱いていた。

 ★大山巌参謀総長に後任として指名させれば・・・

 『宇都宮日記』は、続きを次のように記す。

 「結局(1)は採れず、(2)を採るしかない。つまり単刀直入の(2)が最も得策で、しかも決行は現時点が適している。それは、当の競争相手のうち、山県は目下総理大臣、桂は陸軍大臣、児玉はまだ競争相手に数えるには足りないが台湾総督の座にあり、これらの大物が参謀総長に手を伸ばすことを今はしにくいから、大山が納得して自ら引退し、代わりに高島を推薦したばあい、彼らは勿論内心は反対であるにしても、西郷従道(内務)、樺山資紀(文部)、山本権兵衛(海軍)らの閣僚が同心協力して、その地位を賭けても之れをなさんとの決意さえあれば、できないことではないと確信する。このため、まず西郷を説得し、西郷から大山に説得させ、且つ山県らに対しては、大山にも一緒に相談させなければならない。西郷を説くには野津(大将・東武都督)を用いるが、野津を動かすのは伊瀬地その人である。この決心が一旦決まるや、一瞬にして決行すべきで、そうでないと長州の桂太郎・寺内正毅(中将・教育統監)を中心として陸軍省の岡部政蔵(長州・陸軍省高級副官)・宇佐川一政(長州・軍事課長)から、また参謀本部でも田村チ与蔵(山梨・第1部長)・福島安正(長野・第2部長)から、連合して反対運動も起こるべく、伊藤を経由して天皇の聖旨を持ち出す反対運動もあり得る」

 以上の要旨を反復して伊瀬地に説いたところ「同人も素より大大賛成 にて、病気がもう少し回復すれば、3月下旬ころ帰京して大いになすあるべきを承諾した」との文章の隅々に、起高作戦に当たってまず伊瀬地に打診したところ、大賛成の感触を得た宇都宮の嬉しさが滲み出ている。


 続く。
 
 



● 『秘境西域8年の潜行 抄』 
● 近刊・『私は外務省の傭われスパイだった』・原博文著 を読みながら、

 思いはしばしば『秘境西域八年の潜行』に記された<苦闘>へ跳んだ。

 日中戦争のさなか、軍の密命をおび、内蒙古、青海、チベットなど西域地区に潜入した

 外務省の1調査官ー西川一美。

 祖国敗戦後も孤立無援のままラマ僧の修業を続け、未踏の秘境を足かけ8年にわたり

 遍歴した想像を絶する体験記である。

 昭和11(1936)年春、修猷館中学(例の『七つの金印』のあの福岡の藩校の後身)を

 卒業し、あこがれの<大満鉄>に入社、日中戦争勃発(1937年)と共に第一線の天津、

 北京、包頭に派遣され、昭和15年には大同(内蒙古)の華北消費生計所長のポストに

 ついた西川氏。

 しかし、「戦場の後方」での安穏な生活と学閥(満鉄内の)にたいする抵抗も手伝って、

 「一大方向転換」をした。

 外務省のシナ西北地域に挺身する若人を養成する興亜義塾(厚和)に応募して合格。

 25人の同期の同志と共にシナ西北地方の研究に没頭する。・・・

 昭和25年(1950)6月13日「私の潜行八年の旅」が終わるまでの克明な記録で、

 興味尽きないものだが、 終章―「踏んだ祖国の大地は」に至って、ここには既に

 60年後の原博文氏が居た。

 以下、引用・紹介していきます。

 ************** 

 『秘境西域8年の潜行 抄』  西川一美  中公文庫ビブリオ 2001・10・15 

 ★インド・ネパール篇

 3、初めて日本人と見破った軍人

 日本軍が前進も後退もできぬ深田のような嶮峻なこの地に足をつっこみ、もがき、足踏みしているうちに、英国はインド、ネパール人を徴発して、しだいにこの国境に軍隊を補充することができた。そのうえ米国からの兵器、物資の補充も空、海から物凄い量が投ぜられて十分防衛を固めることができ、日本軍はインド侵入に失敗したのである。(★あの、「天皇誕生日までに」で知られた牟田口主導のインパール作戦のこと)
 このインド・ビルマ国境の防衛に繰りだされたインド人達は、私にこんなことを話してくれた。

 「ビルマ国境の防衛に駆り出されて行って、これほど贅沢をしたことはなかったよ。家にいるときでさえもだから、君には分るだろう。食物、衣服、靴、なんでも、ないものはなく、まったく至れり尽せり、 「こんな贅沢はもう二度とできないだろうよ」
 

 「どうして、日本軍はビルマに進出して来たとき、嶮岨なビルマ国境の陸路を選び海路から進出して来なかったのだろうかと、私達も不思議に思っていた。もし日本軍が海路からインドに進駐して来たなら、戦わずして、あたかも無人の野を行くように、日本軍はインド平野に進出できたであろう。なにしろ当時インドには、英国兵といったらもぬけの空同様であったし、国内の民衆は独立の意気に燃えて、あらゆる好条件を揃えていたときだったからなあ・・・どうして選りに選って、ビルマから陸路を進出したものだろう?」
 
 日本の敗戦と同時にスバス・チャンドラ・ボース氏とともにインド独立を戦った将兵は故国に引き揚げて来た。当時なおインドを支配していた英国は、このインド独立軍の将兵全員を戦犯として軍事裁判にかけた。このとき終戦と同時に獄舎から釈放されたガンジー、ネール以下の幹部はもちろん、インド国民全員が立って弁護人となり、インド独立軍将兵の無罪を主張し、遂に彼らは勝った。戦犯などとは当然あるべき筈のものでない汚名を、インド人の中にはひとりとしてつくらなかった。私の会った将兵も、それらの一員であったのである。 
 

 これらの事実と敗戦当時の日本人を比較して見ることも、また必要であろう。昭和25年インドから送還された私は、シンガポールからの祖国将兵の戦犯数名の人達と故国に第1歩を踏んだとき「ご苦労さんでした」の言葉のないのはもちろん、「俺達が引き揚げて来たときは、なにしろ石を投げつけられたのだからなあ・・・」と言う言葉を旧友から聞かされた。

 立場や勝敗はどうであろうと、いったん国のため、国民のために戦った人々を国民全員が温かい思いやりで迎え慰め合ったインドの国民と、軍隊はあたかも敵のように恨み迎えた日本の国民。これが私達の同胞日本人だったのだろうか? いったい自分は日本人なのだろうかと、疑わざるを得なかった。

 インドのパール博士が、東京の軍事裁判で、ただひとり戦犯反対論を説かれたことを多くのインド人から聞かされた。彼らはこのパール博士の説を、どれほどインド人の誇りとしていたことであろう。前述のインドの軍事裁判の結果でも分るように、インド人としては、まったくそれは当然過ぎるほど当然のことであった。

 4 昭和23年も暮れてゆく 略

 5 遂に捕われる      略

 6 踏んだ祖国の大地は

 4月の声を聞くと、南国の暑さはひとしお増し、囚棟内はちょうど蒸風呂に入ったように、じっとしていても汗が出てくるといった有様で、連日うだるような日を送り迎えていた。加えて、まさかとは思いながらも、特高課から、なんの連絡もないのは、私達がこのまま獄中で消えて行くのではあるまいか、という不安、あせりにかられていた。今さらのように捕えられたことを後悔せずにはいられなかった。
 しかし、5月に入って間もないある日、突然私達の上にも明るい灯がさしてきた。事務所からふたりに呼び出しがかかったからである。そこには待望の特高課の連中が、笑顔をもって迎えてくれた。それによりほぼ察しられたが、
 「長らく待たしたが、貴国から回答があったので、5月12日カルカッタから日本へ向かって船で帰ってもらうことになったから」
と聞かされ、私達の喜びはどんなものであっただろう。が、なにかしら物悲しさを覚えずにはいられなかった。ほんとうに複雑な感慨であった。

 投獄されて8ヵ月目、昭和25年5月中旬、娑婆の風を満喫したふたりはジープでカルカッタの港へ連ばれ、「サンゴラー」という英国船の船上の人となった。白衣のインド服で身を包んだ私の傍には、長年私と共にあったチベット服、インド服、経典、印、回、英、蔵、支辞典と参考書、ガオー、数珠、ダンバル、骨箱、椀、毛皮の敷物をまとめたウールグが、大陸からの唯一の土産となっていた。しかし懐は1文無しだった。

 長く尾をひく汽笛と共に、船はカルカッタの港を離れた。白く泡立つ水上を呆然と見つめていた。実に感慨無量だった。私はこうして8年さまよい歩いた大陸と、おさらばしたのである。

 船は静かにカモメの飛び交うガンガ河を下って行った。
 そして船内の生活1ヶ月・・・
 昭和25年6月13日の朝、サンゴラー号は神戸の岸壁に横づけになった。

 祖国の土、本当に生きているのだと、その大地をさわってみた。神戸復員局の人々の出迎えを受け、青畳の上に坐り味噌汁をすすったが、風呂のもてなしを受けたときは、思わずうなり、温かい祖国の味を満喫したのである。変わりない祖国の山河が私を抱いてくれたのは蒙古を出て8年、祖国を出て15年目だった。

 しかし迎えてくれた夢に画いていた祖国は、幽霊将軍マッカーサーが天皇に代わってふんぞりかえり、幾億という血税を吸った官吏が娑婆でしゃあしゃあとしているとか、職業的となった大臣、代議士が民主主義をふりまわし、古来から培われた美しいものをすべて古くさいと片付け、奔放な自由を、自由主義だとかわめいたりしていた。雀の巣のような頭をして白人、黒人の手にぶら下がり、あるいはその子供を抱えているのが、最上の文化民だと往来を闊歩して  いる婦女子もいた。溌刺たる意気のやり場に迷っている若人、芋や大根の葉っぱで苦労したとこぼす、本当の苦労を知らない人々、頭だけ大きくなって足が地についていないインテリとジャーナリストの絶叫、精神病院の鉄格子の檻の中にひしめきあっている人、人、人、人の群れ、だった。 

 故郷への切符と1枚の千円紙幣を握らされた我々は、千円紙幣にびっくりし、
 
 「どうか十円紙幣の細かい金にかえて戴けますまいか」
 と係員に願い出たら、笑って相手にされなかったのもその筈。

 神戸駅前の1杯のみ屋で木村君と互いに別れの盃を酌みかわしたら

 <銚子1本百円也!>だった。
 

 10 聖地ラサの裏街道

 黄金の屋根燦然たるチョカン、ラモーチエ仏殿を中心として、白亜の高楼が軒を連ねているラサの市街。これを囲む白楊、楊柳の点在するキチュー盆地、紫煙にけむる峨々たる山嶺の麗には、美しい白亜のラマ廟が、あたかも釈尊を取り巻く高僧のように、東西四方に点在している。沙漠を渡り、大草原を横切り、山また山を越え、千里を遠しとせず集まって来る巡礼者の群れは後を断たず、赤衣のラマ僧は路上にあふれ、寺を訪れれば幾万のラマ僧、尼僧であふれ、読経の声は絶え間なく流れ、宝殿のような絢爛たる堂内は万灯輝き、紫煙たなびいて、人々に敬虔の念を湧かせる香が漂う。

 黄金色に輝く諸仏諸菩薩は数を極めず、灯明鉢を手に仏殿に額ずく着飾った善男善女、門前には米搗きバッタのように幾千、幾万回と三脆三拝の叩頭を繰り返す信者の群れ。堂及び寺院の環状路は、念仏を唱えながらマニ筒をまわし、あるいは経典を背負い、あるいは尺取り虫のように匍匐しながら右曉する信者の波があふれ、路上には家々から流れてくる狂信的な祈祷の調べ。

 夕暮れどきの環状路はラマ、尼の読経の声で湧き立ち、ラサはラマ教徒のメッカ、聖地としての雰囲気を十分に漂わせている。入蔵困難な神秘境として、紀行文などからも、ラサが極楽浄土のような聖地、そこに住んでいる人々も、さぞ仏のような心根を持った人々だろうと、想像することだろう。確かにこの絢爛たる寺、狂信的な人々の姿は、一応外見だけは聖地らしい印象を人々に与えている。

 しかし私はこの外見だけは仏教都らしい信仰に満ちあふれていることを肯定するが、その内容、中身は、悲しいことにそのまま、肯定することはできないのである。ラサほど道徳が乱れ、風紀が紊乱し、ただれきった汚い街は、世界にもないだろう。聖地どころか、泥沼のような街であるといいたい。

 チベット一般の国民は、ラマ教すなわち仏教を信ずることによって生きている。香の匂いは終日部屋に満ち、朝夕諸仏諸菩薩像の前に額ずき、すべて仏教に関係を持たぬ話はひとつもない家庭に育った彼らは幼いときから、なにごとも自業自得、自分のした悪事は、自分で苦しい思いをして償わなくてはならぬ。また自分のなした善事の結果、すなわち快楽幸福も、また自分が受けられ、そしてこの因果応報は未来永劫に続くものであり、仏達の心もまた死んだからといって決して滅するものではない。再びこの世に生まれ変わって来るものであることを、お伽噺として父母から吹き込まれている。

 こうしてラマ教を信仰することによって、自分の犯した罪は償われ、快楽幸福が取得せられ、寺、僧侶に供養すること、着飾って灯明鉢を手にして仏殿に額ずくこと、あるいは米搗きバッタのようにはいつくばって右曉、叩頭を続けることが最高の信仰の表現だと教えられ、信じられている。彼らの仏教の信仰は、ただ形式的信仰にほかならないのである。仏教の根本原理である人としての行ない、進まなければならぬ道への修養、自己を磨こうなどということは微塵もない。だから彼らの間には、道徳などひとかけらもない。

 彼らの性情は、表と裏の両極端を持っている。権力、財力の強い者にはまったく猫のように温和しく服従するが、弱者とみるや、まったく正反対の性質を以て遇する。臆病で羞恥心が強く、控え気味に見えるが、物凄く積極的行動に出ることを辞さない。慈悲同情の念に溢れているようであるが、その裏には、物凄い敵愾心と復讐心が充ちている。頑固で自尊心が強いが、追従と模倣を拒まない。謙譲心に富み儀礼に篤いが、甚だしく卑屈である。悠長のようで短気である。排他的根性と共に独善感が強いが、一面妥協性を失うことなく、開放的で迎合主義である。いわば彼らは、猫の眼のような性質を持っている。この猫の眼が、強者と弱者に対するときは必ず変わるのである。これは荒涼たるチベットの環境と、根強い封建制度のお国柄、「井戸の中の蛙」の環境に置かれた自然と指導者、さらに昔から東にシナ、西に英印にはさまれた国際関係からもきているようである。

ではラサの裏口を案内しよう。まず貴族の家を訪れてみよう。高壁でめぐらされたシナ式の堂々たる門を潜ると、門脇に小さな門番の部屋が見られる。楊柳の繁る庭を進むと、2層3層のアパート式の堂々たる建物の前に出る。広い中庭には、まずそこに、数頭の優秀な青海産の馬やロバのつながれているのが眼につく。井戸があり、南面した正面の最上層の部屋だけはガラスばりの美しい部屋となって、主人の居間であることを知らせている。いく部屋にも分かれ
ている豪華広壮な邸宅は、主人の部屋のほか仏間、客間、そしてネルバーその他使用人の部屋、炊事室、倉庫となり、ラマや、豪商が部屋を借り受けているのも見られる。各部屋の内部は赤や、紅黄色、緑色で塗りつぶされて、その上に種々の色彩が施され、特に居間、仏間、客間に入ると、けばけばしい、絢爛たる御殿風の部屋に驚く。

 金銀7色で華美な絵の画かれた壁、贅を尽くした仏壇、壁に掛けられた華麗な掛軸、まったく豪華なものである。いくつもの倉庫をのぞけば、どの倉庫も常に小作人からの穀類、羊毛、皮革、バター、金力にまかせての、蔵印間の交易品で満たされている。

 この御殿のような中に住んでいる主人は、黄色緞子の美衣を纏い、美食のほかに侍者が30分ごとに、金銀製の茶托と金銀製の蓋の付いた茶呑み茶碗に、うまいバター茶を恭々しく運んで来る。主人が部屋に居ようと、庭に居ようと、侍者達はこの義務に奉仕しなければならない。また彼らが主人の前に出たときの態度たるや、ああまでしなくてもいいだろう、ああまでへつらわなくてもいいだろう、と思うほど、猿のように右手を耳上にあげたり、舌を出しては、「ラララ」と、せわしく息を吸い込み、腰をかがめ、丁重な言葉で接する。主人の命令、言葉は絶対的なものであり、主人が侍者達に対する態度は、牛馬に対するのと同じだ。彼らを虫けら同様としか思っていないのである。少し手を伸ばせば取れるようなものでも、隣室の侍者を呼んで取らせ、靴を脱ぐにも、煙草の火を点けるにも侍者を呼ぶ。椀、箸なども取ってもらうほどの、他のいかなる国の王様でも見られない横暴さである。美衣美食、傍若無人の生活を送っている。

 そして政府の首脳部である彼らは、小作人、民衆の利益のために働くということより、どうして彼らから少しでも多く搾取するか、ということしか考えないのである。また世襲制度で、貴族出身であれば、どんなぼんくらでも高官につける彼らは、一般民衆やラマの中に自分より学問、思想方面に傑物が出れば、不法、不道義でも、理由もなく権力を以て圧迫し、葬ろうと努める。

 私の在蔵中、一番怖れたのはこの不法を不法としない、不道義を不道義としない、封建的なチベット政府の政治であった。最初、シナ官憲に捕われるよりは、チベット官憲に捕われた方が安全だという気やすい考えを持っていた。それもしだいに、いくらこちらが道理を通しても受け容れられず、またこちらが正しいことでも、それを受け容れようとしない無法者のようなチベット官憲は、シナ官憲に捕われる以上に危険であることを、感ぜずにはいられなくなってきたのだ。これは政府だけでなく、民間でも徳より金で、シナの社会の方が、よほど住みよい、ということに気付かされた。また、どこの国でも同じであるが政府内の貴族、高僧の指導者間にも派閥があり、相互に時の権力によって相手方を、闇から闇へ葬る、醜い闘争も常に繰り返されていたのである。

この政府の高官達と共に、民衆を護ってくれるべき兵隊も、民衆にとっては怖ろしい存在であった。一度チベットに暴動が起これば、民衆は暴動より、これを鎮圧に出動した国の兵隊から受ける被害が大であることを昔から知っている。兵隊達は、暴動の鎮圧はどうでもよく、どうにかしてこの際自分の私腹を肥やそうということに汲々としているからで、民衆は、養っている兵隊が味方であるのか、敵であるのか、分からない有様なのである。

チベット人の性関係は一婦多夫、一夫多婦、婿ひとりが姉妹を共有したりしている。ひとりの男が後妻はもちろんのことであるが、後妻の連れ子に、あの方が使用可能の娘がいれば、その娘まで独占したりして、私達のとうてい想像のできないことである。ラサの裏の裏では、いったいどのような無茶苦茶な性関係が展開しているのであろうか、紹介してみよう。

 チベットには蒙古、タングートと同様、日本、シナのような公娼私娼というものはみられない。これは、主に遊牧社会のため、人家が点在して街というものが、構成されないからであろう。しかし例外ではあるが、人口5万のラサの街には、わずかではあるが4、5戸の私娼が、街の副産物的な微業となっていた。この私娼も日本の私娼窟を想像されては間違いである。女に抱え主という者があるではなく、借金で身を縛られているのでもない。もちろん、やり手婆さんもいない。ただ部屋を借りていて、そこで客を取る。いわゆる戦後日本で流行したパンパンの類である。しかしラサの市民は、この私娼を利用する必要はないのである。女であれば、それが貴族の奥さんであろうと、人妻であろうと、処女であろうと、彼女らは男達の求めに応じてくれるからである。この場合、男達は幾ばくかの金は、用意していなければならない。またこの金を必要とせず、サービスしてくれる女も中にはいる。

夕暮れどきのラサの街は男女の歌声で溢れる。ひとりの男が、

杏を口にすれば美味である
花を見れば美しいものである
花を見れば美しいものである

 と、美声をはりあげながら大道を行けば、その歌に笞えるように、家の中庭から

用事で家を訪れるときは
ドンドンと力強く表門を叩いて来なさい
あのことで訪れるときは
コツコツと力弱く裏門を叩いて来なさい

 と、女の美声が流れてくる。

初めての者にはなんでもない男女の歌のやりとりのようであるが、ふたりには「いつものところで・・・」とか、「万事OK・・・」という、密会の約束が、この歌によって交されているのである。

また、ときには4、5人、組をくんだ女達が、

急に口(下の口)に入れて下さるな□(上の□)から心臓が飛び出そうだ
□から心臓が飛び出そうだ・・・

急に口(下の□)から抜いて下さるなお母さんが死んだよりまだつらい
お母さんが死んだよりまだつらい

 と、笑いながら、男に誘いをかけながら歌い過ぎて行くのを見かけるであろう。男達はこれに対し、粋な歌をもって応酬して、ちゃんと約束をつくっている。このように歌と歌での、あの道の交渉などとは、チベット人もなかなか風流なものである。

 また、歌のわからない者でも、決して心配のいらないようにできている。それは「タクパー・テンヤ」、直訳すれば「紐ひき」即ち「ポン引き」という稼業の、重宝な男女が住んでいるからである。もし彼らを必要とするなら、酒屋に行って飲んでいれば姿を見せるであろう。どのアパートにも、それを副業とする男女がひとりやふたりは住んでいるものである。

 街で人妻であろうと、娘であろうと自分の意にかなった素晴らしい美人に会うと、その女の後をつけて、その女がどこに入ったかを確かめ、そしてタクパーテンヤに「あの通りに、このような顔をした、少し背の高い・・・」と話せば、たいてい彼は、その女を知っていて、さっそくその家を訪れ、あるいは時機を窺って交渉してくれる。チベットの女達は、この交渉をほとんど拒むようなことはない。夫や家のつごうのよいのを見計らって、タクパー・テンヤと現われる。場所は自分の部屋であり、女の家でもあり、また酒屋でも部屋を貸してくれる。そしてタクパー・テンヤに若干の酒代と、女に若干の金を握らせればよいのである。女の金額は、たいてい2ルピーが相場のようである。しかし貞操観念のないチベットでも、処女は高価なものであることには変わりなく、タクパーテンヤにクリーニング処女で騙されることもあるそうである。

 「安物の石鹸ひとつで結構だよ」
 「いくら美しく着飾った貴族の婦人であろうと、娘であろうと、虚栄心の強い彼女達は、白粉や紅ひとつでも躊躇なく体を提供してくれるよ」
 と、タングート人の行商人や、シナ、ネパール、回教徒の商人達が語るのを聞くのである。

 このように、まったく無茶苦茶な腐りきった、動物的な性関係がくりひろげられていることは、いかにチベットの女が男の力より強いか、奔放か、貞操などは問題としていないかを示している。それもチベット人の間だけでなく、在ラサのシナ、ネパール、回教徒、蒙古人などの他民族の妻になっている者も多く、混血児はざらで、ラサ在住のチベット人の血には、これらの血が多量に混血しているのである。但し回教徒はチベット人をもらう場合も、女が回教徒に改宗しない限り、妻としないコーランの定めを固く守っていることを記しておこう。アジア人同士の混血児は、ほとんど見分けはつかないけれど、彼らは一般に国家観念がうすく、金のことでは道義もなにもない。そのような人種が多くなることは、ラサの街を、ますます人間らしい道義の社会から、金銭本位の社会に変え、殺風景な街にしているのである。

 混血児は頭が優秀だとか、人類平和のためとか、外貨獲得のためとか、混血児の増えるのにただ呆然としている日本。果たして民族の混血は、その国に平和をもたらしてくれるものであろうか。混血児の問題が国の難点となっていることはチベットでも、またインドでも私に深い感慨を与えたことである。一家の平和があって、国家の平和があり、国家の平和があって民族の平和がある。混血児の増大は、民族、人種の平和をもたらすものではないような気がするのである。

 奔放なチベットの女達は一家の長男の嫁としての子供、シナ人や回教徒との間にできた子供、夫の弟との間にできた子供と、多種多様な子供を生んでいる。そして夫もそれらの子供を自分の子供として、同じ屋根の下でなんの争いもなく住んでいる。私達には彼らの心理がどんなものであるか、理解することはできないが、夫がどきどき腹の虫の収りの悪いときに、頭髪のちぢれたり、容貌が自分と異なって、自分の種による子でないことを知っているのであろう、
 「お前はあの回教徒の子だ、俺の子ではない。出て行け」などと怒鳴り散らしているのを聞くことがある。しかし怒鳴り散らしただけで、そのまま簡単に片づくのだから天下泰平である。夫のこの寛大さと忍従に対し、ひどい女になると、夫のいないときには、自分の生んだ男の子供をその相手として使用している女もあるのだからまったく話にならないのである。

 今は世界のどこの都会も街も同じかも知れないが、聖地ラサも、その裏の裏は、以上のような、金銭に血眼になり性道徳などひとかけらも見られない、ただれ切った街なのである。
 


●疑史(第15回)  大杉栄暗殺の真相  
 ●疑史(第15回)  大杉栄暗殺の真相  

 僑日(在日学生等の)共済会会長・王希天が大正12年の大震災の直後、府下大島町に住む同胞を案じて亀戸に来たのは、9月9日の昼であった。「午後、王希天は、野重七連隊に逮捕され、亀戸郵便局隣の憲兵司令部に連行さる」と仁木ふみ子著『震災下の中国人虐殺』がいう根拠は遠藤三郎日記である。野戦重砲兵第三旅団第一連隊第三中隊長から9月5日付で第三旅団参謀に捕せられた遠藤大尉は、自警団の暴走を警戒し、戒厳司令部の了解の下に習志野廠舎を、朝鮮・支那人の保護収容のために開放することを決めたが、護送を担当する第六中隊長佐々木兵吉大尉は不安がる支那人労働者を安心させるために、たまたま亀戸署を訪れた希天を利用することにした。

 野重が希天を逮捕して憲兵隊へ連行したと言われる実情は上の通りで、同胞説得を依頼された希天は進んで協力し、10日午後6時半に亀戸警察署に移り(伍銘鐘証言)、11日には支那人受領事務を手伝ったが、同日昼頃から始まった護送の途中で、「自分は役場に行く用事かおり、習志野には行かない」と言い出し、独り自転車で別路を辿るが、午後再び亀戸署に現れた。12日早暁に亀戸署を出た希天の身柄を受け取った佐々木大尉が希天を千葉街道を東へ連行し、逆井橋で待ち受けていた垣内八洲夫中尉が背後から斬り付けた。襲撃は、旅団司令部の命令を受けた佐々木中隊長が中隊付垣内中尉に命じたものだが、必殺命令ではなかったと見え、「希天の死亡までは確認しなかった」と垣内は証言している。

 関係者と目撃者の証言を合わせると、以上を大筋と見てよいのだが、
これには驚くべき裏面があった。既述のように王奇天は、呉達閣・周恩来と共に南開学校から偵察目的で派遣され、中華メソヂスト教会・中華YMCAを拠点にして留日支那学生の反日運動を指導してきた。大正11年から方向を僑日労働者の保護・救済に転換した奇天だが、その間いつしか秘かに対日協力派に乗換えていたのである。奇天を調略したのは憲兵大尉・甘粕正彦で、両人はアルザス出身のメソヂスト牧師ポンピドー(支那名彭彼得)を介して、人間関係が極めて近かった。南開学校と関係が深く、同校出身の奇天に中華メソヂスト教会を引き継いだポンピドーは、妹シルベールと上原元帥との間に姪がいて、その愛人が甘粕であった。つまり両人は、片や憲兵、片や反日留学生と、表面上は正反対の立場だが、同じくワンワールドに属していたのである
 かくの如き事情を吉薗周蔵が知るのは昭和4年の末で、場所は周蔵のアジトの一つ上高田救命院であった。ここには周蔵の従兄で外科医の渡辺政雄が大正6年から住み、垣内中尉の軍刀により片脚になった王奇天が大正12年から隠れていた。昭和4年末のある日、周蔵と藤根大庭が加わった4人が交わした会話を、周蔵が手記の『別紙記載』に記している。

 その内容は日本近現代史の真相を暴くものだが、余りの重大性に鑑みて、ここにはその一端しか記せない。『別紙記載』は「コノ年ハ 實二社會勉強ヲシタル。今年ハ 田中義一ト後藤新平ガ死ンダ」で始まる。続いて「これには上原閣下-久原、久原--○○なる人物、の関わりがあるようだ。これらの人物たちは、いまだ研究途中の、生アヘン十△△△△十抹茶(茶道の濃茶)の、個々の形によって死亡のようだ」とし、「王さん云わるに、王さんはどうやらその所に推理したるようだ。となれば久原か」と自らの推測をも加えた。

 つまり、
田中義一と後藤新平は自然死ではなく、前者の死因には上原と久原房之助が関係し、後者には久原と○○が関与していて、生アヘン・某生薬・茶道の濃茶の三点セットによって死亡したようだ、と言うのである。その根拠は、「王さんの研究はいまだ途中であり、王さんの実験とちょうど同じような様子らしい」。つまり、目下生アヘンの応用を研究している希天が、そう推断したからである。生アヘンと聞いた途端に周蔵が、久原が関係していると直感したのは、上原から紹介された久原に対して、この十数年間、自分自身がアヘン末を提供してきたからである。

上原は父の従兄だから、周蔵は親戚として気になる。「自分にとって閣下は多少縁戚であり、理由を知りたいと思い、王さんに推理を頼むと、王さん曰く、推理しなくとも少しは心当たりがあると言わる」。抜群の頭脳の上にワンワールド情報も豊富な希天に推理を頼むと、希天は「とくに推理せずとも、心当たりがある」と言いだすが、同席の藤根が先に口を挟んだ。「藤根さん言わるに、おそらく甘粕さんが大杉の家や野枝の住まいの家捜しをして、それなりに何か見つけたであろうし、後藤は何か大杉に残したる物あって、それを甘粕さんに揺さぶられることになったであろうから」

 大久保の全竜寺境内に住む
藤根は、請負師を看板にした上原の草(=スパイ)であったが、水沢出身だから同郷の後藤にも通じていた。大杉栄の渡仏費用を後藤が出したことは周知だが、渡仏の目的が、後藤の依頼により上原・甘粕の秘密結社関係の調査にあったことは知られていない。大杉の帰朝報告を受けた後藤に尻尾を掴まれた上原と甘粕が、事態に対処せざるを得なくなった時、絶好の機会が到来した。関東大震災である。部下に大杉を検束させた甘粕は、その間に大杉と愛人伊藤野枝の家捜しをして、後藤が大杉に与えた何かを見つけ、これを後藤を揺さぶるための材料とした。因みに、大震災の直後に噂された陸軍による暗殺予定リストに後藤の名があるのも何かを示唆する。 

 右は単なる想像ではない。「藤根さんは、後藤新平から聞くと共に、野枝を使うは大杉にて、大杉は本来、後藤と直接という顔せぬために、藤根さんがその間に頼まれることとなったようだ」。右の如き事情は、何と藤根が後藤本人から聞かされていたのである。大杉と後藤が直接会わずに済むよう両者を中継していた藤根は、後藤が死んだ今、その事を周蔵らに打ち明けた。
 
 次いで希天が説明した。「パンビダフ神父 カノ神父ノ妹トノ間二 閣下ノ子供。サノ子供ト 甘粕サンノ愛人関係。 (青山)教会ニモグリ込ムダルハ 野枝。 大杉栄 伊藤野枝ハ共産党デハアルガ 後藤新平ノ草デアッタ由。 同席ノ藤根サンモ認ムル」。中華メソヂスト教会を引き継いだ希天は、本来ポンビドーと親しく、当然上原・甘粕を含めたポンビドー一族の内情に通じていた。共産主義者の大杉は後藤の草でもあり、伊藤野枝を青山教会に潜らせてポンピドーを探らせたと聞き、周蔵は後藤の正体が分からなくなる。「では、後藤は何であるか」と問うと、藤根さん「実はこの研究を乗っ取られそうで、恐ろしか時もあったから、そろそろ引延しに苦慮しておった時で、実は死んでくれて助かった」とのこと―この研究とは毒物研究のことである。呉秀三博士の依頼を受けた周蔵は、渡辺政雄と王希天を頼み、上高田の薮の中で生化学兵器の開発を進めていた。周蔵が費用を負担し、陸軍に顔が利く藤根が陸軍との連絡に当たっていた。あくまでも上原の配下であった藤根は研究成果の提供を迫る後藤に対して、回答を引延していた。

  「後藤がこの毒物を何にしたいか」と問うと、「これはね、権力者は皆、欲しいものだよ」と、藤根さんも王さんも言わる― 遅効性で証拠が残らない毒物は、権力者なら誰でも秘かに求めている物だというのである。「だから自分は支那に戻ることを辞めたのだ。権力者になるは地獄道だから、何処まで行くも際限がなく、苦しいと思うよ」と言った希天は、予て(ワンワールドからの?)足抜けを図っていたが、大震災を好機会に、親友の甘粕に頼んで自ら死亡を演じた。甘粕の手配違いで片脚を切られたが恨む様子はなく、「ここまでやらなけりゃ、足技けなぞは到底出来ん」と呟いたという。足抜けの後、周蔵に協力して上高田で毒物研究を始めたが、成果を権力者に利用されるのが嫌で、帰国を諦めた。

 ここまで聞いた周蔵は合点がいった。「ところが大杉は、その根がさもしく、さもしい故に、後藤に直接、会いに行ったらしい。何度か借金に行った模様。※それは自分には納得できる。自分の見たる大杉も、まことにさもしい表情をしておった」。上原の命令で無政府「主義者」を探索していた周蔵が、荒畑寒村と大杉が宣伝ビラを印刷している現場を覗き見た時、周蔵を振り向いた大杉の顔は、まるで臆病な小動物のように不安気で下品だった。「であるに、当然のことながら、大杉は、閣下の事も甘粕の事もゆすったのであろう」。根がさもしい大杉は、後藤からの報酬を藤根が中継するのが不満で、直接会いに行き、後藤をゆすった。内務大臣として警察を統括した後藤さえ脅迫した程だから、当然上原や甘粕をゆすった筈である。「となれば、大杉をああまで始末したるは、閣下の命もあろうが、なるほど甘粕さんの意向もあろう」。大杉を始末したのは、上原の命もあろうが、甘粕自身の個人的な意思も働いた筈である。

 ここまで推理して周蔵は結論を出した。「正しく後藤もそうであろう。同様の意はあるであろう。藤根さん曰く、「後藤は割りと人の良い所ある由。しかし後藤は大杉を使って、閣下を調べる」。つまり、後藤も大杉と同様で、暗殺目的は口止めであるが、後藤側近○○が後藤を暗殺するに至る事情が甘粕―大杉の場合と似ているという。上原の娘の嫁入り先は後藤新平の分身中村是公の子息であるから、上原・後藤の両人は元来「対立風二見セテヲルガ、實際ノ所ハ 原ツブシデアッタ。原ハ閣下ニハメラレ、後藤ノアヤツッタル人物二殺サル」。原敬暗殺の犯人を後藤新平が操っていた疑いを指摘する史家はいるが、後藤が上原と組んでいた事を推察したのは周蔵しかいない。上原の命令で大正8年に大連アヘン事件を調査した周蔵は、自分の報告書が原政暗殺の導火線に使われた事を知るのは昭和9年で、上原から頭山満に渡された報告書が改竄されて後藤新平に回り、暗殺犯人の義憤に火をつけたのである。原暗殺で後藤と組んだ上原は、今度は後藤の口止めのために、久原と繋がりのある後藤側近の○○を使って暗殺させたらしい(だが、更に裏があるとの説も)。「王サン日ク、閣下ハ日本人二非ヅ、トノコト。渡辺サンノ云フユダヤニ 加ハッテヲル、ト言フ意。甘粕サンモ」。上原も甘粕もワンワールドの一員、と指摘した希天は、自分の願いは研究だけで、もう政治的な事に関わり合いを持ちたくないという。「王サンカラ 渡辺ト云フヤフニ 云ハル」。今後は日本人として渡辺と呼んで欲しい、と頼んできた。

  続く。

 参考までに、
     http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/26149809.html
     http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/23874704.html
     http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/19179337.html




●疑史(第14回)王希天は生きていた  落合莞爾
●疑史(第14回)王希天は生きていた 
 
 
 ここ数か月、南開学校からの日本留学生の三羽鴉たる王希天、周恩来、呉達閣および彼らの校外同志たる張学良にまつわる事実を明らかにしてきた。要するに、彼らはワンワールド中華派の首領たる南開校長・張伯苓の薫陶を受け、日本を偵察・工作するために派遣されていたわけで、後年張学良が西安事変を起こして国共合作を成立させ、日本敗戦の遠因を成したが、これに周恩来と呉達閣が深く関わっていたのは偶然ではなく、1件をワンワールドが計画した証拠である。

 4人の中でも才幹・行動力で断然秀でていた王希天が国共合作に参加していないのは、事変の10数年前に死亡したからである。つまり王希天は、関東大震災直後に起きた亀戸事件といわれる一連の事件の中で、日本軍人に虐殺された(王希天事件)と考えられている。

 大正10年、中華メソヂスト教会を拠点にしていた希天が、城西教会で国内の情報を蒐集していた事。別に周居應の偽名で帝国針灸医学校を開いていたことなどは前月に述べた。

『周蔵手記』に戻ると「(大正10年)11月ニ入ッテ(中略) 親爺殿カラ送ラルル米 他 熊谷サンニ届タルト共二 皆二分ケル。
呉先生ハ暗ヒ。周先生ハ相変ヅ ヲ調子ガ良ヒ。(中略)
3月 針灸ハ 習ッテヰテモ仕方ナク 薬ノ作り方ハ 練習ニテ 覚ユルコトトス。」

 大正10年秋、周蔵は日向の父が送ってきた米や薩摩節を画家・熊谷守一や甘粕憲兵大尉などの知人に配った。松沢病院長・呉秀三が暗い原因は精神障害者救済事業の蹉跌だが、周居應(王奇天)が相変わらず調子が良いのは、支那留学生の扇動と団体結成がうまくいっているからか。翌年3月、周の針灸学校での勉強は製薬の役に立たぬ、と結論した周蔵は、以後は自身の実験により、製薬法を体得することにした。

 前月述べたように陸奥廣吉が援助を約した支那留学生の共済会運動を、奇天は救世軍と協同して進める。すなわち府下大島町(現在の江東区大島)に住む支那人労働者の保護・救済のため、11年9月21日に僑日共済会を設立し、11月27日には会長となり、以後共済会運動に挺身する。この時に中国青年会の活動を止めるが、中華メソヂスト教会と帝国針灸医学校の方も休止したものと思われる。

 大震災直後の12年9月12日、亀戸署を出た奇天は失踪し、行方は杳としてわからない。この事件に関して仁木ふみ子『大震災下の中国人虐殺』、田原洋『関東大震災と王奇天事件』の他数冊が公刊されているが、いずれも希天が日本軍人の手により惨殺されたことを絶対的事実として所論を展開しており、他の類書ならびに近現代史に関する事典・史書の記述も同断である。

要するに、陸軍野重砲兵第三旅団第一連隊六中隊付中尉の垣内八洲夫が9月12日早暁、亀戸署から解放された希天を追跡し、逆井橋上において軍刀で斬殺したと断定され、これに疑問を投げかける人はいない。

 因みに、大震災直後に警視庁亀戸署管内で生じた支那人労働者の虐殺、いわゆる「大島町事件」は紛れもない事実である。詳細は今も明らかでないが、実行者は在郷軍人・警察官・軍隊・自警団らの誰かと見てよい。当時早稲田にいた希天は、大島町事件の噂を聞いたか、それとも予見したのか。同胞の安全を確認するために、単身自転車を駈って亀戸署を訪れたのが9月10日の早朝より前で、同日の夕刻には同署で険束されていた事を支那留学生か確認している。

 自警団の暴走を恐れたのが第三中隊長・遠藤三郎大尉で、戒厳司令部の了解の下に、朝鮮・支那人の保護収容を目的として習志野廠舎を開放する事とした。護送作業は連隊第六中隊長・佐々木兵吉大尉が担当したが、支那労働者の中に護送に反抗する者が多かったため、同胞中の名望家が彼らの説得に当たる事が期待された。そこで希天の来署を奇貨として、亀戸署長がその身柄を検束し、説得を依頼したところ、奇天は進んでこれに協力し、「安心して習志野に行け」との説得ビラを作成したばかりか、口頭説得をも行なったため、習志野護送は軌道に乗る。護送は11日昼頃から始まり、15人が隊伍を組んで警察署を出て駅に向かうが、その途中、なぜか希天は「私は役場に行かねばならず、習志野には行かない」と言い出した。これが認められ、独り自転車で別路を辿った希天の姿を、同日午後に再び亀戸署で見た支那人労働者がいるが、それ以後希天の姿を見た人はいない。希天の遺体はもとより、身の回り品も、中川堤防に放置されていた自転車の他には、まったく発見されていないのである。

 大島町事件は、支那(中華民国)に送還された支那人労働者が流布したが、支那国内の内乱もあって日華政府間で金銭解決がなされ、両政府は今日でも「虐殺」を公式には認めていない。しかし奇天の失踪は直後から国際問題になり、旧友張学良からも日本政府に真相の解明を求めてきたが、結局は曖昧にされてしまった。世論は、どうせ大杉栄(甘粕事件)や河合義虎・平沢計七(亀戸事件)及び支那人労働者(大島町事件)らと同様、王奇天事件も震災直後に多発した「誤殺」の1例と見做し、忘れ去った。大島町事件と王奇天事件は、支那においても震災直後は騒がれたが、その後の国共内戦や日支事変の中で忘却された、と田原・前掲はいう。

 しかし支那では奇天の事跡を忘却したわけではなく、昭和37年、周恩来が吉林省を視察した時、奇天が来日前に残した遺児・王振折を接見した。最近、張学良の遺品をハワイから回収した王旗はその娘である。奇天は同49年に革命烈士に追認されたが、同胞救済の義挙に鑑みると顕彰が遅きに失したと言えよう。まして恩来の親友というのだ。

 希天の出身地、吉林省長春市の三街道に設けられた「王奇天烈士陸園」は平成8年の奇天生誕百年を期して正式に開放された。以後、日帝との戦いに殉じた留学生義士の慰霊と日中友好を題目として、日本左翼や日教組が毎年墓参ツアーを催し、広く参加を呼びかけてきた。わが左翼人士は、王奇天事件を「震災下の中国人虐殺」の好例とみて、日帝の悪業を立証するために調査を続けてきた。彼らの思想偏向はともかくも、歴史真実を追究する姿勢と、資料を探究して関係者に迫るその熱意には、見習うべきものがあろう。

 田原・前掲によると、「王奇天事件発掘史」の先駆者は関西大学講師・松岡文平で、昭和47年に『関東大震災と在日中国人』を著し、震災直後の新聞に奇天の行方不明が大きく報じられていることに疑問を発し、王奇天事件の存在を指摘して「当時亀戸に駐屯していたのは例の習志野騎兵第十三連隊である。これらの事実から考えて王奇天が殺されたことはほぼ確実」と述べた。横浜市立大学教授・今井清一は松岡の後を受け、米国国会図書館作成の里帰りマイクロフィルム「大島町事件其ノ他支那人殺傷事件」から、虐殺犯人を「野重砲兵第一連隊所属の将校」と特定した(マイクロフィルムの原資料は、外交官・守島伍郎の個人メモらしい)。今井はさらに、昭和50年8月28日付毎日新聞が発見を報道した、久保野某なる1兵卒の日記にも、垣内中尉を犯人と指摘していることを併記した。

 東京タイムス労組書記長から日刊現代に転じた田原洋は、昭和56年春、事件関係者の1人の遠藤三郎中将(当時大尉)に面会する機会があった。話題がたまたま関東大震災に触れたとき、大杉栄事件を持ち出したら、遠藤は「もっと大変な事件があり、オーキテンという支那人労働者の親玉を、
私の部隊のヤツが殺ってしまった」と語り出し、さらに「この話は、中央公論社刊『甘粕大尉』を書いた角田房子さんにも話した」と付け加えた。王奇天事件をまだ知らなかった田原は、早速角田の『甘粕大尉』を読み、関係記事中に多くの誤りがあるのを発見したが、それとともに、この事件には謎が多く、一般の歴史常識となっていないことを感じ、遠藤を再び訪れて、殺害実行犯の名を垣内中尉と教わった。遠藤は・歴史上の真実を明らかにしておきたいとの義務感により、以上を語ったと主張しているが、その通りであろう。

 その年の初夏、田原は垣内八洲夫中尉(のち大佐)の自宅を訪ね、「あのね、私は後ろから一刀浴びせただけです。そのまま(隊に)帰りましたから、王希天が死んだかどうか確認はしとらんです」との貴重な証言を引き出した。襲撃命令は中隊長・佐々木大尉から受けたもので、佐々木はその上から命令されていたらしい。軍刀による襲撃を認めた垣内も、殺害を確信しておらず、希天が本当に死んだのか、事実は確認されていない。ゆえに殺人の疑いは濃厚としても、刑事学上、いわゆる「死体なき殺人」であって、性急安直な公判請求は許されないのだが、希天の跡形が知れず、垣内が斬り付けたことを自認する以上、左翼研究家は生死の確認を省き、日本軍人が支那留学生を法的根拠も正当性もなく虐殺したことは明白な歴史的事実と判断したが、右翼側にも異論がないこととて、王希天事件はこれを以て一件落着した形である。しかし、王奇天は死なず、その後も『周蔵手記』に出てくる。

(大正)15年正月ハ 周先生二誘ハレ 額田サンヲ含メテ 祝ヒトナル。女子医専ハ ヤット 幕ヲ上ゲタラシク 帝国女子医専 トナッタ由。マサカ 周先生ノ帝国ニ チナンダトヰフコトハナヒ ト思フガ。

 大正15年正月、周蔵は周居應(王奇天)に誘われ、額田医師の兄弟と合同で新春の祝賀会を開いた。4年越しの女子医専設立計画が立ち上がったからである。校名も帝国女子医専となったらしいが、まさか周先生の帝国針灸医学校に因んだのではあるまい、と周蔵は思う。

 希天を襲撃した垣内八洲夫は、紀州人で根来者の末裔である。連隊有数の剣道の達人で、必殺の命令ならば絶対に討ち果たした筈である。言い逃れなどする人物でもない。つまり田原洋に語った「王奇天が死んだかどうか確認はしとらんです」との言は、その通りで、垣内は奇天に一撃を加えたものの、生死には関心がなかった。片脚を切られた奇天を、甘粕大尉が救出して上高田救命院に運び込み、外科医・渡辺政雄が治療して命を取りとめた。

 死んだ筈の奇天の名が『周蔵手記・別紙記載』の昭和4年条に出てくる。

「王サンモ スッカリ渡辺ニナレテ」とあるように、日本人渡辺氏に成りすましていた希天が、あれから何をしていたのか。それは次回に。
 



● 疑史(第13回) 王希天と上原・甘粕 
                                 甘粕大尉 角田房子_1



● 疑史(第13回) 王希天と上原・甘粕 
 
  
 南開学校からの留学生三羽鴉、王奇天・呉達閣・周恩来が渡日に際し、ワンワールド勢力から日本偵察などの使命を与えられていたことを前回までに示したが、更に敷衍する。証拠は上原元帥付陸軍特務の吉薗周蔵の手記で、その一部『別紙記載・大正10年条』を前月に紹介したが、続きを以下に要約し、解説していこう。

 渡辺政雄からポンピドー牧師と王希天が同じ「仲間」と聞いて、周蔵が「トスルト、上原閣下トハ ダレナルカ?」との自問を記したのは、希天がポンピドーを介して上原元帥に繋がることを覚ったことに他ならない。希天を「今のところまだ大物ではない」と評した渡辺は、ついでに「ポンピドー神父はアマカツとかいう軍人を達れて帰国したそうや」と言う。そこで周蔵が、アマカツ・アマカスと書き述べたうえ、「アマカツか?」と注記したのは、正確に開き取れなかったのではなく、政雄の言が曖昧だったからで、わざわざ2通り併記したうえ、「アマカツか?」と念を入れた心中は、「まさか、あの甘粕のことではあるまい」と思いたかったからであろう。

 周蔵はさらに「ヲトトシか?」とも付記するが、その理由は推測できる。前年(大正9年)のこと、1月30日に上原邸で知り合った憲兵中尉・甘粕正彦が、3月29日に突然訪ねてきて、「山県元帥の暗殺に失敗した伊達順之助を匿ってくれ」と頼んできた。そこで牛込弁天町のアジトや奥多摩小菅村の小屋に伊達を匿っていたが、10月25日の夜、弁天町で甘粕・伊達と3人で四方山話をした際、甘粕本人から「以前、夫婦連れでフランスに留学した」と聞いたのである。

 ポンピドーに同行した軍人の名はアマカスとも聞こえるうえに、フランス留学が重なれば、甘粕正彦たった可能性がむしろ高い。とすると、昨春から内地にいた甘粕が、最短でも半年はかかる仏留学をしたのは、一昨年以前のこととなる。そこで周蔵は、「ヲトトシか?」と推量したと見てよい。
 
 おととし(大正8年)は甘粕にとって重要な年であった。7年8月に朝鮮京畿道の楊州憲兵分隊長となった甘粕は、8年3月の万歳事件で活躍し、その手柄で朝鮮憲兵司令官・児島中将の副官に抜擢された。一方、甘粕が山県元帥暗殺を企てたのも8年である。つまり甘粕は、朝鮮憲兵司令官副官の身分でありながら、秘かに内地に戻り、伊達順之助を躍らせて暗殺工作(の真似)をしていた。参謀総長・上原勇作の極秘指令とみるしかないが、憲兵司令官が上原の腹心中の腹心たる石光真臣中将であったから、それが出来たのだろう。
 

 角田房子著『甘粕大尉』は、「東京に帰った甘粕は、大正9年、憲兵練習所に入所し、翌10年、8人中の2位で卒業。同時に大尉に昇進して千葉県市川憲兵分隊長となった」とするが、帰京の時期を明記しない。また「東京で司令部副官になった」とも言わない。つまり、周蔵が9年1月30日に上原邸で会った軍人から、「憲兵司令部副官・甘粕ト 名ノラレ」
たのは、朝鮮憲兵司令部副官の意味だったのだ。甘粕は東京転任の内示を受けて内地に戻り、この日は申告のために上原邸に参上していたと解すると、筋が通る。

 憲兵司令部に転じた甘粕は、3月29日に周蔵を訪れて伊達順之肋の隠匿を頼み、周蔵のほうも5月4日に東京憲兵隊に甘粕を訪ねて石光真清の満洲の居所を調べて貰った。その秋には、満洲から帰国した周蔵は10月24・25日と甘粕と逢っている。これを見ると、甘粕は東京憲兵隊に所属し、憲兵練習所に通いながら、裏工作にも携わっていた。むろん上原の密命により、憲兵司令官・石光中将が黙認していたわけである。

 甘粕の秘密裡の仏留学に新妻を装った同行者がいたのは確かだが、牧師の同行は渡辺の言だけで、確かではない。いずれにせよ、その時期は大正8年よりもかなり前のことではないだろうか。明治24年生まれの甘粕は、同45年に陸士を出たが、大正4年9月に入学した陸軍戸山学校で膝関節炎症に罹り、歩兵科から憲兵科に転科した。原因は関係者によって説が異なり、落馬とも鉄棒からの落下ともいうが、その負傷自体が怪しい。その後、7年8月に朝鮮で楊州憲兵分隊長として復職するまでの3年間、軍歴が明白でないのを覆い隠すための工作とおぼしいからである。
 
 
 甘粕が仏留学に伴った愛人は、上原がポンピドー牧師の妹に生ませた娘であった。そのことを周蔵がすっかり知るのは昭和4年で、大震災下の暗殺から逃れて日本人になりすました王奇天が教えてくれた。大正3年に陸軍教育総監に就いた上原は、翌年には参謀総長となり、陸軍人事を壟断することができた。上原の計らいにより、私費留学届はおろか休暇願も出していない甘粕の、この間の軍歴は今日も闇に包まれている。特異な憲兵たる甘粕の軍歴については公的記録など信用する訳にはいかないのである。
 
 日仏混血娘を愛人とし、秘密裡に仏留学をしていた甘粕がフランス語が達者だったのは当然で、そのことは武藤富男が「私の満州国」の中で証言している。ところが角田房子『甘粕大尉』は、保釈後に(表向き)初めて仏留学した甘粕が仏語ができずに辛酸を賞めた、と言う。甘粕の間近に居た武藤の言が正しく、角田著の目的が甘粕の真相隠蔽にあることを示唆するが、ソルボンヌ卒の角田は、甘粕らの「仲間」から依頼されて執筆したものだろう。畢竟、上原元帥を含めて、彼らはすべて「仲間」だったのである。
 

 南開三羽鴉の来日目的を見破った周蔵は、「コノ人物タチハ 慎察カト 判断ス」と書き加えている。それを察した政雄は「ウチは、そこまで深くは付き合っとらんわ」と弁解し、「もし上原閣下などにこの事を報告なさるんなら、ウチを気に掛けんかてよろし。ウチは別に仲間なわけやないから」と申し出る。政雄は「仲間」の本質を正確に知っていた。それは恩来・達閣と親しいからではなく、認識の根源にあったのは祖母の実家の丹波穴太の上田家から得たものだった。

 しかし周蔵は「そげん心配はいりもっさん」と答え、上原から与えられた任務の薬物・薬草研究以外には決して出しゃばるまいと決心した。上原も「仲間」であると感じたからで、ポンピドーや希天の活動を探って得意気に報告すると、却って元帥から疎まれることを警戒したのだ。

 周蔵手記の大正9年条に戻る。

「周先生ガ アヘンノ苗ハ水分ヲ嫌フヨ」と教えてくれたので、土壌の水分を吸い土げる竹林が適地と思い、周蔵は藤根大邸を介して近所の鈴木質店の竹薮を借りた。周居應先生(王希天)は、普段は四谷の城西教会か神田YMCAに居るが、上高田にも時々来る。7月に入り、ケシの収穫の検分のため、周蔵が上高田に行くと、そこに周先生(王希天)が居た。

 7月 竹林ノ罌粟カラ 収穫ス。良質。大層二 周先生 喜バル。
「周先生ト云ハヅ 王サント 云フヤフニ」ト 本人カラ タノマルル。「タノンマス」ト云ハル。
「四谷ノ 帝国シンキユー医學校ニ ヲイテハ 周先生ト呼ブヤフニ」
トノコト。都合ガアルノデアラフ ト思ユ。

 鈴木質店の竹林で採れたケシの作柄を、希天はわが事のように喜んだ。中学時代に吉林から天津に移り、直後に渡日した希天がケシの栽培法を知悉していたのは興味深い。つまり幼時に吉林で覚えたので、そういう家筋なのだ。正体を知った周蔵に希天は「以後は王さんと呼んで欲しい。頼んます」と、こなれた日本語で頼んできた。「しかし、針灸学校ではこれまで通り、周先生と呼んでくれ」との事である。つまり 「二体分け」をする上での都合があるらしい。

 その希天が出入りする城西教会に、周蔵は疑問を持つ。
 四谷ノ 城西教会ナル所ハ 日本人デモ 名ダタル人物 多ク 
通フラシヒ。日本人ハ 何ノ目的ナノカ。
辺(ナベ)サンハ「意外ト 日本ノ 内部事情ヲ 売ッテヲルノデハ
ナヒカ」ト云ハル。

 四谷教会は、日本美似(メソヂスト)監督教会が明治17年、四谷区端伝馬町に設立したのに発し、翌年に牛込区東大久保に大久保分教会を設立、明治21年には四谷坂町に会堂を献堂した。明治34年、四谷教会が大久保教会と合同して城西教会となり、昭和9年に渋谷区西原に移転した。現在もその地にあり、日本基督教団に所属している。

 希天は神田で中華メソヂスト教会を主宰するが、情報蒐集の目的で城西教会に通う。そこへ邦人有力者が続々と通うというので、何の為かと聞くと、日本の内部情報を売っているらしいと政雄は言う。例えば誰か、と周蔵は尋ねた。
 「聞クニ 陸奥ヒロキチ ナル人物、コレハ 外務大臣ヲシタル 
陸奥宗光ノ子 トノ事。 コノ人物が 支那カラノ學生二 援助ヲシテヲル由。何デモ 共済会ヲ作ル運動ニモ援助ヲスルコト 約シテヲル由」
 陸奥廣吉がその例で、支那留学生を支援し、共済会運動にも援助を約束した、とのことである。彼ら「仲間」を政雄は「ユダヤ」と呼び、「国を持たぬ1つの種族」と説明するが、周蔵には納得がいかない。
「自分カラ思フニ コノ人物達ハロ本ヲサグッテヲルヤフニ 思フシ マタ 啓蒙活動ヲシテヲル風デ ツマリ 無知ナル日本人ヲ 自分流二染メタ上デ、 勝手二 支配シテヲルヤフニ 思ヘルニモカカハラヅサノ陸奥ナル人物ハ 何故二 国家ノ力ヲ カフ云フモノニ貸スノデアラフカ。何力 考へ違ヒヲ シテヲルノデハト疑問二思フ」

 日本を偵察し、無知な日本人を啓蒙活動によって洗脳し、勝手に操ろうとする「ユダヤ」達に、特命全権公使まで務めた陸奥廣吉が、なぜ日本国家の力を貸そうとするのか。何か考え違いではないか、と思う。また、王希天らとユダヤの関係も理解し難く、そのユダヤ仲間に日本人も多いと聞いて、ひたすら困惑するのが当時の周蔵であった。
  
 
 外相陸奥宗光の子息陸奥廣吉は52歳。夫人エセルは英国留学の下宿先トレメンヒア・パッシンガムの長女で、外務翻訳官として功あり、外交官として各国に駐在し、大正3年には特命全権公使としてベルギーに駐在した。そんな廣吉がワンワールドに加わる事への疑問は周蔵ならずとも当然だが、答えは父・宗光にまで遡るのか。つまり、明治の和魂洋才とは 「大和魂とワンワールド思想の調和」の謂であったのか?

 



● 疑史(第12回) ワンワールド「仲間」とは  落合莞爾
● 疑史(第12回) ワンワールド「仲間」とは  
 
 
 ミッションスクールの看板を掲げた南開学校はワンワールドと関係深く、理事長・厳範孫と校長・張伯苓こそ中華ワンワールドの中心人物だったようだ。南開学校三羽鴉たる呉達閣・王奇天・周恩来は在校中、ワンワールド思想に染められたが、張伯苓の弟子と称して南開の校外同窓生を気取る張学良も、いわば四羽目の鴉で、その点まったく同じである。

 1927(昭和2)年8月、張伯苓は満洲に赴き、大連などを視察して、日本の満蒙経営の進捗に恐れを抱く。早速、南開大学内に「満蒙研究会」(翌年10月「東北研究会」と改称)を立ち上げ、翌年の頭に同会主任の博恩齢を学良の許に遺わし、同会の名誉薫事に招聘した。これを快諾した学良は500元を基金に寄付する。ここにおいてか南開大学と満蒙研究会は、学良周囲の満人(満洲在住の支那人)を対象とした反日工作を始めるとともに、教授と学生による満洲の実施調査を3回にわたり行った。この活動に対してワンワールドから行われた資金援助は、「太平洋国際学会」からの2度にわたる寄付金4000ドルの形で顕れている。

 昭和3年6月4日、関東軍に爆死させられた張作霖の後継者として東三省保安総司令に就いた学良は、蒋介石の北伐軍と講和し、易幟を断行して国民党の青天白日旗を採用したうえ、11月には国民党政府に合流した。同年12月、張伯苓は欧米の教育事情視察と資金募集の目的で欧米旅行に向かう途中、奉天に立ち寄り、学良と2度会う。学良はこの時、南開大学に20万元を10年年賦にて寄付することを約束した。

 中華民国の陸海空軍副総司令となった学良は、昭和6年、張伯苓に招かれて南開大学で講演し、14年前を追憶して、「自分の今日あるは南開の賜物であり、張伯苓先生の影響だ」と強調し、ワンワールド恩想に傾倒したことを露にした。

 南開大学の出先機開として、学良が満洲に創立したのが東北大学で、畢竟これは、ワンワールド勢力が奉天に蒔いた種が順調に発芽して成長し、実らせた果実なのである。

 昭和11年の西安事変を前世紀最大の事件と謂うのは、国民党軍ナンバー2の張学良がトップの蒋介石を兵諌し、反共から国共合作に転換させたからで、ために日本は国共両党を敵にしたまま米国の介入を待ち、大戦に敗北した。

 事は学良のクーデタに端を発したが、合作当事者として共産党側は中央軍事委員会副主席・周恩来が首班となり、国民党代表国には呉達閣がひっそりと加わっていた。ここに南開四羽鴉が、王希天を除いて、関わっていたわけである。希天はすでに大正12年、関東大震災の直後、逆井橋で垣内中尉の軍刀の錆になったものと信じられていた。

 世界史にその名を留めた恩来・学良と違い、奇天と達閣は裏方に回った。日本留学期間が長引いたために自然そういう役割になったのだろう。上原勇作元帥付陸軍特務だった吉薗周蔵が残した手記の『本紀』は他見に供することを予定したものだが、その大正9年条には、達閣と希天に関する以下の記載がある。

 漢方の秘伝を求めていた周蔵は、帝大教授・呉秀三の勧めにより、大正9年10月1日、四谷の「帝國針灸漢方医學校」に入った。授業は古書を筆写させるだけだが、1尺もある白鬚を靡かせた校長の周居應は大変な物知りで、周蔵は直ぐに親しくなり、入学6日目には一杯やるようになった。

 10月11日、周校長から「額田医師と会うから、ついて来い」と命じられたが、周蔵は上原大将から呉秀三を、呉から額田兄弟をと順次紹介された医者たちに、ウィーン大学で入手してきた血液型分離法を報告したことがあるから、「額田には自分も2度会った」と言うと、周先生は「それなら尚、好都合だから」と周蔵を大森の三業地に連れていく。

 「ココハネ 額田ノ 兄貴ノ方ノ 妾ノ家ダカラ、ウマヒ物ガ出テクルカラ、マヅ 食ッテヰレバ 良ヒカラ」とのことで、以後も大森の料亭に何回か相伴した。周居應と額田兄弟がなぜ親しいのか分からないが、料亭では帝国女子医専(東邦医大)の設立に関する人事を相談していた。周蔵も女子医専の薬学部講師に招かれたが、謝絶する。

 一方、周蔵手記の中の、他見を憚る秘事の真相を詳述した 『別紙記載』によると、大正10年3月、周蔵が上高田に住む渡辺政雄を訪ねたら、客人が2人いた。政雄は、公家の堤哲長を共通の祖父に持つ周蔵の従兄弟で、盛岡医専で外科を学んだが結核を患い、野方村の上高田救命院で、療養を兼ねてケシを栽培していた。参考書を探しに行った政雄は、四谷の城西教会の前で2人に出くわしたという。3年前に京都の政雄の下宿で知り合った呉達閣にはさほど驚かなかった周蔵も、もう1人には驚いた。周居應であったが、直ぐにはそれと気が付かない。

 「吉薗サン 私ノ顔二 髭ヲ ツケテ見テ クレナヒカ」ト云ハル。意味が 呑ミ込メンデ ヲルト、『白髪混ヂリノ髭ヲ ココニ 想像シテ 見テゴランヨ』ト云ハル。驚ク。實二驚ク。」

 政雄は周蔵を指して「この人はね、これでも薩摩隼人やからね。日本人の中では1番のコスモポリタンやから、心配はいらんよ」と弁明すると、周は「よく分かってるよ」と答えていた。そんな彼らの会話を周蔵は理解できない。

 コスモポリタンとは国際人の謂である。周蔵の母系の隼人族はインドネシア系海民で、幕府の禁制を破って海外に雄飛していた。そのために仲間待遇を受けたわけだが、政雄から「コスモポリタンとは、別名ユダヤとも言い、国家を持たぬ民族である」と説明されて、周蔵は混乱した。蓋し「君はユダヤだ」と説明されては、混乱するのも当然である。私(落合)のように、「ワンワールド」と呼ぶならば、ある程度は理解もできようかと思う。別紙記載は続く。

 マヅ 辺(ナベ)サン 云ハルニ、周先生ハ 本名ヲ 王キテン(希天ト書ク)トノコト。去年4月カラ 名古屋ノ八高二 入ッタ由。
何デモ オトトシノ前力二 神田デ 演説ヲヤッテ ツカマリ 呉達閣モ ツカマリ、サノ後 支那料理屋ノ2階デ ゴロゴロシテヲッタガ 周先生ハ 四谷二シンキユー帝国医専ヲ 作ラレタ由。

 周居應は偽名で本名は王奇天であった。周蔵より2歳下で25歳の若さなのに、付け髭で老人に変装して帝國針灸専門学校を開き、周蔵どころか周囲を悉く欺いていた。大正4年に来日した奇天は、6年に一高予科に入るが、翌7年に留学生組織「大中華民族救国団」を結成し、5月6日、神田の維新号で秘密会議中を警官隊に急襲された。維新号事件では奇天だけではなく達閣も捕まっていたらしい。40数人の留学生が全員逮捕されたこの事件は、中国近代史の重大事と見えて、奇天伝にも恩来伝にも必ず出てくるのに、達閣に論及した者はいないようだ。

 ともあれ希天は、逮捕の翌8年に八高に入学したものの、病気を理由に休学し、周居應に変装して神田に針灸学校を開いていたのである。翌9年の10月1日、そこへ周蔵が入学したわけだ。

 誰一人トシテ 王ト周ヲ 同一人トハ 思ッテヲラン由。
 「呉(秀三)先生ヤ テンキャフ院(松沢病院)デハ、ダフカ」トキクト、「呉先生モ 知ラヌハヅ」トノコト。仲間ノポール某カ ポンピダフ ナル人物シカ 知ラナイダラフ」ト云フ。

誰一人として、王奇天と周居應を同一人物と気付いておらぬと聞き、周蔵が「私を周居應に紹介した呉秀三教授や、呉先生が院長の松沢病院の関係者はどうか」と尋ねると、「さあ、御存知ありませんやろ。お仲間のポールはんか、ポンピドーはんしか知りませんやろな」と政雄は答える。呆れた周蔵が「王希天とは一体どういう人物か?」と問うと、「今のところ大した者やおまへんわ」といなされた。「ポンビドーの名前なら、さるところで耳にしたが・・・」と突っ込みかけたら、「もうフランスに帰らはったわ。青山学院の宗教指導者や」とのことであった。

 ボール・ラッシュは聖公会牧師で、希天より1歳若く、当時24歳である。公表経歴では、大正14年に初来日して震災後の横浜YMCAを復興し、聖路加国際病院の再建に尽力した後、立教大学の教授として残留した。日本留学中の外人学生のために「東京学生アメリカン・フットボール連盟」を設立し、「日本アメフトの父」と呼ばれる。昭和17年に強制送還されたが、米国では陸軍日本語学校に配属され、戦後GHQ軍人として再来日した。八ケ岳山麓を関発し、清里を開いたことでも知られている。

 この経歴に嘘がなければ。ラッシュは当時まだ日本の土を踏んでいない。そのラッシュを政雄が「王奇天の仲間」と呼んだのは興味深い。佐野真一の『巨怪伝』を見ても、ラッシュの行動は実に妖しい。公称経歴にも裏がある筈で、学生時代の大正8年頃、日本に派遣されたことがあるのだろう。

 ポンピドーについて、警視庁特高は「支那人牧師彭波得」と報告しており、仏人とは知らなかったようだ。報告には、

 「神田三崎町に中華美似美教会を開いていた彭波得が大正9年8月帰国すると同時に、事務所は北神保町の中国YMCA内に移り、代理牧師として王奇天なる者が赴任するも、活動実態なし」とある。特高の認識はそのレベルであった。

 周蔵はしかし、上原元帥の友人でアルザス系フランス人のポンピドー<牧師>なる人物を知っていた。ポンピドーが中華メソヂスト教会を希天に引き継いだのは、「仲間」としての関係だろう。

 漢名の彭波得は、来日前に南開学校辺りで用いていたものを日本官憲が支那人と誤解したものか。どうやら仏人ポンピドーと支那人・彭波得を使い分けていたようだ。

 秘密結社ワンワールドは世界各地で思想・文化・政治・外交工作を行ってきたが、拠点はキリスト教会である。ゆえにエホバを表面に掲げる教会を別として。各派の教義的対立は表面に過ぎず、裏はすべてワンワールドの統帥下で、聖公会のラッシュもメソヂスト教会のポンピドーも、王希天も同じ「仲間」という所以である。張伯苓・張学良も周恩来・呉達閣も勿論その仲間、即ちワンワールド中華支部であった。

 ワンワールドは日本にもいた。慶応2年、鍋島藩校の玄関で宣教師フルベッキを取り囲む志士たちの写真を見よ。 
 



●疑史(第11回) 南開三羽鴉と張学良  落合莞爾   
● 疑史(第11回) 南開三羽鴉と張学良  落合莞爾
 
 
 前回には、周恩来が大正6年、19歳で日本に留学した時、南開学校首脳から何らかの密命を受けていた可能性があることを述べた。また、恩来の日本留学のために同窓生による金銭支援の枠組みを作った呉達閣と恩来の、日本における交流の跡が、当時から意図的に隠蔽されたとおぼしいこと。ゆえに「達閣は、日本における恩来の支援や、南開首脳からの指令を伝えること、などの密命を帯びていた」との推論も掲げた。

 恩来と希天の関係は、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』にも大書され、世に公然たるものである。日本に留学した南開同窓生の結束は堅く、しかも達閣彼らの棟梁株であったから、希天との間にも恩来相手と同様な交遊があったことは間違いない。この3人は留学当初から志を一にし、目的を共有していたもので、南開間三羽鴉とも呼ぶべき関係にあった。

 その事を証明するのは、たまたま日本で彼らの動向を目の当たりにした吉薗周蔵の手記である。

本稿に取りかかった当初は、周蔵手記によって南開三羽鴉の日本での足跡を具に検証し、それに基づいて彼らと張学良との関係を証明するつもりでいたが、最近のインターネット記事により、実にあっけなく王希天と張学良の関係が割れた。そこで、周蔵手記の紹介を後日に回し、今月はその事を述べる。

 インターネット『人民網』の平成16年11月15日に呉大任が記事を寄せた。発端は平成2年12月6日の新華社電で、「張学良がNHKに対して『私は周恩来らと南開学校で学んだ』と言ったと産経新聞が報じた」との内容だったが、南開学校・大学を出た後、南開大学に45年間も奉職してきた呉大任は、学良が南開学校で学んだとは信じられず、上記記事を、転電における誤伝と判断した。

 学良の言は、正確には「私は南開学校の張伯苓に学んだ」というものだから、産経か新華社が誤伝したことは確かだが、南開と学良との関係に根拠がないわけではない。西安事変前の1936(昭和11)年4月9日、中共中央軍事委員会副主席・周恩来は、張学良の要請に応じ、学良指揮下の東北軍が駐留していた延安に赴き、救国の大計を商議した。その時同席した高崇民は、学良が「我々はみな南開的人だ」と言ったのを聞き、これは「学良が張伯苓に私淑し、自ら弟子を以て任じているとの意味だ」と解釈した、と述べているからだ。

 学良はNHKに、張伯苓の『中国の希望』と題する講演を聴きに行き感銘したと語ったが、今回その時期と場所がはっきりしたわけである。2人の出会いの地は奉天で、時は1916(大正5)年であった。15歳の学良は以後、張伯苓に師事するが、そのことは来月に述べる。

 この年、学良の父・陸軍中将・張作霖は奉天の軍権を完全に掌握し、事実上の奉天プリンスとなった学良は、于鳳至と結婚し、宣教師から英語を学び、白人専用のモクテン倶楽部に特に入会を許可された。当時の奉天は、キリスト教の看板を掲げた国際謀略班が屯するワン・ワールド勢力の一大策源地であった。学良を重要な工作対象として、モクテン倶楽部や奉天YMCAを通じ、ワンワールド思想を注入したのは宣教師姿の謀略要員で、その背後にいたのが張伯苓だったようだ。これは推測というより、張伯苓と学良両人の、その後の行動が証明している。

 そこで、南開三羽鴉の大正5年の動静を見るに、王希天は前年に南開学校を中退して日本に渡り、語学校に通っていたらしい。呉達閣はこの年、<中学四年終了>の形で南開を中退し、日本に渡った。留学資金の目処がたたない周恩来は南開で5学年に進級、翌年に首席で卒業して、渡日した。つまり、3人の渡日の年度は1年ずつずれている。

 南開学校の制度は、1909(明治42)年に来日した張伯苓が、わが学制を真似たものである。旧制中学で首席卒業をとくに囃さないのは飛び級制度のためで、小学5年・中学4年を修了した時点で入試に合格した中退組に比べると、正規卒業組の首席は評価には値しないのだ。南開学校でも同じ伝で、秀才たちは中退して来日したから、首席卒業が必ずしも同期のトップではない。世界の偉人となった周恩来に錦上花を添える南開首席卒業の経歴は、資金事情のために卒業まで在学した結果である。三羽鴉の事跡を見るに、達閣は国民党の1幹部として没したが、生来の力量は恩来に劣らず、王奇天のごときは、才知計り知れぬ上、自ら図って人生を転換した勇気と実行力は、恩来を上回って余りあろう。

 学良は平成13年10月14日、ハワイで死ぬ。インターネット『天健網』平成15年3月11日によれば、吉林省政治協商会議常務委員・王旗は「それまで常に学良の親族と連絡を取ってきた」と言った。希天が吉林に残してきた遺児の娘である王旗は、「当時、王家と張家の交際は、世代を超えた代々のつきあいと言われ、張家には祖父・奇天より5歳下の親友がいた。それが学良であった」と語ったのである。

 吉林一中を学校騒動で中退した奇天が天津に移ったのは18歳の時で、学良は13歳であった。両人を隔てる距離はそれまで参天・吉林間だったが、以後は参天・天津間となる。その長さを思えば、2少年の対面交遊は休暇の期間しか考えられないが、まんざら嘘でもあるまい。

 希天の年譜を考えてみる。1896年8月出生の希天が吉林一中に入学した年を王旗は「15歳で」と言う。一方、仁木ふみ子は「長春県立第一高小を15歳で卒業、1912年に吉林一中に入った」とする。満15歳は1911年で、数え年なら1910年である。つまり中学入学の年度は、王旗説では11年、仁木説では高小を卒業して1年経った12年となる。どちらが正しいか。引き続いて見ていく。

 奇天は「入学2年後に学校騒動で除名された」と王旗は言う。その時期を、吉林一中同学年の孫宗尭の著『私が作った希天病院』は、「1914年秋」とする。王旗は一世代後の父から聞いたものだから、同世代の孫宗尭のいう14年から2年遡った1912年、満16歳で吉林一中に入学した」と訂正すれば辻棲が合う。希天が転入する前年に南開の入試を受けた恩来は、成績優秀を以て2学年に編入せられ、呉達閣と同級になった。両人はこの年3学年だから、希天は南開学校でも吉林と同じ3学年に編入されて、両人と同年生になったのであろう。南開在校1年足らずで渡日した希天と、達閣・恩来との日本に来てからの親密さは、同級生(同年生)のものとしか考えられない。

 その後のことを王旗が「1914年、王希天告別新婚不久的妻子、東渡日本、開始了留学生活」と言うのは、転校時期を13年秋とした結果だろう。さすがに1年は在校したであろうから、転校が14年なら、渡日年度は仁木のいう15年が妥当である。仁木も素より王家の伝承に拠った筈だが、中学入学だけでなく、渡日の年度についても、実際より1年ズレているのに気がつき、自ら修正したものか。修正は妥当と思うが、渡日動機を「21箇条の要求を見た王希天が『虎穴に入らずんば虎児を得ず』として日本に留学した」とするなどは、左傾思想の勝手な思い込みでしかない。ともかくも奇天は3学年で南開を中退し、東渡した。日本留学を志す者にとって、日本で指定学校の入試に合格することが肝要で、中華民国での前学歴など、中退でも何でも、特に問題がなかったのではなかろうか。

その後を王旗が「1915(大正4)年5月、袁世凱が日本政府と『中日軍事秘密条約』を締結したとの報道が日本に届き、王希天と周恩来らは『留日学生救国団』を組織して、条約拒否の運動を始めた」というのは、明白な誤解だ。

 1915年の支那での学生運動は、1月7日に日本が提出した「対支21カ条の要求」に対するもので、日置公使が5月7日要求承認の最後通牒を送り、同9日に外交部長・陸徴祥がこれを受け入れたので、その両日を「中国国恥記念日」とする。しかし、その年には、周恩来は南開学校4年生で天津にいた。同年中に来日した希天も、5月の時点では果たして日本にいたかどうか。

 王旗の言う「中日軍事秘密条約」は、大正7年5月に調印した「日支陸軍共同防敵軍事協定」のことである。付帯して日本軍の駐兵などの秘密協約があり、その代償として日本はいわゆる西原借款を供与した。一高生・王希天は、これに反対する支那留学生の旗頭として留日学生救国団を作るが、これを王旗は大正4年と錯覚した。碌に調べもせずに言挙げするのは固定観念から出た思い込みだろうが、仁木の思い込みの方には、背後に何かの圧力が窺える。『大震災下の中国人虐殺』には特殊な出版事情があると言われる。

 大正7年5月6日夜、神田の支那料理店「維新号」に集まった支那留学生たちは、踏み込んだ警官隊により40数人全員が拘束された。その中には王奇天も居り、京都から来た三高生・呉達閣もいた。留学生たちは徹夜の取調べを受けたが、翌日には全員が釈放され、続々と帰国した。

 この時恩来は、3月初頭の東京高師の入試に落ちた失意の最中で、7月の一高入試を控えていたこともあり、維新号の集会には参加しなかった。恩来の『留日日記』には、「5月6日に本郷に希天を訪ねるが会えず、翌7日の昼に奇天と会い、午後には奇天を横浜港まで送った」と記す。しかしながら、恩来の日記は、奇天と同じく6日に西神田警察署に拘引され、翌日釈放された呉達閣については、一言も触れない。この奇径さについては前回に述べた。

 王旗は「日本潜在期間に、希天は3回日本の当局に捕まり尋問を受けたが、その度に監房を脱出できたのは学良のおかげだった。学良は希天が危機に遭う度に挺身して困難に立ち向かい、父張作霖と日本政府との関係を利用して、希天を救出した」としている。これも家伝だろうが何かの間違いか思い込みで、希天でも他の留学生でも、釈放させるために学良がわざわざ口を利く必要なぞ、毛頭なかったのである。

 歴史問題として、内外で王希天虐殺をあげつらうことも良かろう。希天が斬殺を免れた秘事など、関係者以外には到底知りうる所ではないからである。しかしながら、王奇天の運命を論ずる時、根本にある南開学校と張伯苓の本質に対する洞察を欠くと、歴史的価値の判断を誤まるのではないか。
 来月にその辺を述べたい。
 



●疑史(第10回) 周恩来と王希天の謎 
 ●疑史(第10回) 周恩来と王希天の謎 
 
 
 ●疑史(第10回) 周恩来と王希天の謎

 南開学校を首席で卒業はしたが、学費のアテがなかった周恩来に、同窓生による金銭支援の枠組みを作って日本留学を決意させた呉達閣。この2人が日本に来てからも濃密な連絡を取り合っていたことは、誰が見ても否定しがたい。

 D・ウイルソンは『不倒翁波瀾の生涯』に、大正6年9月に日本に着いた恩来が
「神戸港で旧友の呉の出迎えを受け、すぐに東京へ向かった」と明記し、また翌年初夏に東京高師・一高の入試に落ちた恩来が日本のシベリア出兵に反対する留学生運動に傾いていく様子を「生活は困窮してきた。京都で勉学している呉からの送金は続いていたが、倹約の必要に迫られ・・・」と言う。さらに、学生夫婦で京都に住んでいた達閣が、恩来に「うちへ来て一緒に暮らさないか。そうすれば、きみの京都帝大進学についてゆっくり話し合える云々」と勧めた、とする(★文中赤字は落合氏、下も同)。数ある恩来の伝記作家でも、ウイルソンが最も正確なのは、恩来・達閣の両人に直接取材して相互検証をしたからである。右の神戸港での達閣もその後の送金や京都への招待も事実と見るべきである。

 とすると、通信や送金はいかなる手段に拠ったのか。当時のことに長距離電話なぞ論外で、通信手段は書簡以外には考えにくいが、完全公開と銘打つ『周恩来旅日日記』の記事にも、書簡往来・金銭収支の記録にも、達閣の名は1度も記載されていない。さらに奇怪なのは、恩来が大正7年の秋を京都の達閣方で過ごしたことは疑えないのに、『旅日日記』はその間、何の記録もせず、書簡の往来を並べるだけで、その相手方にも達閣の名は出て来ない。こんな有様は『旅日日記』の本邦訳『周恩来「十九歳の東京日記」』の編集人・矢吹晋ならずとも不審に思って当然であろう。恩来が再来日した7年9月から離日する翌年4月までの日記の欠落期間を、矢吹は 「空白の7ヵ月」と呼び、「この間に若さ日の周恩来がいかに変貌を遂げたかを解明すべき」と断ずるが、同感である。

 ところで私は偶然にも、当時の恩来・達閣両人の京都における動静を記した資料に接した。すなわち第8回で紹介した陸軍特務吉薗周蔵の手記である。特務とは、平たく占えば軍事探偵で、世間に晴れて名乗れない職業だが、これにも表と裏の区別がある。表スパイは軍組織の末端として内部で認められ、経費も官給されるが、裏スパイは軍高官の私的雇い人扱いで、その存在に軍当局は関知しない。吉薗周蔵はそのような裏スパイであった。

 日露戦争からシベリア出兵にかけて、軍事探偵として知られる石光真清は、陸軍予備少佐の肩書を持つ表スパイでありながら、実は参謀総長・上原勇作付の裏特務であった。スパイ文学として世評が高い『石光真清の手記』も、実は建前部分だけを記し、上司として田中義一ばかり強調しながら、上原との関係を隠したものである。上原の命令で周蔵にスパイ教育を施した時、石光は「必ず日誌をつけて置け」と教えた。上官に裏切られた時、スパイが身を守るには日誌しかないからである。また「必要に迫られて日誌を他見に供する時にも最小限で済ますべく、項目別に細かく分けて、別紙に詳述しておけ」とも教えた。石光白身それを守り、子息・真人をして 『石光真清の手記』の編集を得せしめたのである。上原からも直々に「自身で秘密の暗号を工夫し、日時なぞはわざと違え、関係者に迷惑を及ぼさぬように留意せよ」と細かく指導された周蔵が、生涯にわたり記した手記は編年体の『本紀』と、個別事項を詳述した多数の『別紙記載』で構成される。内容はむろん後者が正確で、その中に恩来・達閣・王希天が登場する。

 周蔵と恩来の出会いは、『別紙記載』「九月ニナルト条」にあり、内容は以下の通り。大正6年9月早々、周蔵の祖母ギンヅルが上京してきた。薩摩藩京都邸からの同志で枢密顧問官の高島鞆栖之助子爵が大正5年1月11日に死に、後始末のためである。ギンヅルは甥の参謀総長・上原勇作との用件をも済ませ、孫の周蔵に京都への同行を命じた。公家・堤哲長の妾となったギンヅルは、同家の女中で嫡子・哲長の元愛人だった渡辺ウメノとは、似た立場で親しかった。ウメノの孫の政雄は東北の盛岡の医専に通っていたが、8月に帰郷した時、結核感染が分かり、その治療をウメノがギンヅルに頼んできたのである。周蔵は大正3年にも、ギンヅルの命で京都の御霊前の渡辺医師宅に行くが、家はすでに無く、綾部の大本数本部に越していたウメノを訪ねて、ケシに関する秘伝書を受け取ってきたことがあった。

 東京発の夜行列車で10月10日の昼過ぎに京都駅に着いた2人は、翌日綾部の大本数本部を訪ねるが、ウメノは居らず、書いて貰った地図を頼りに修学院村に引っ越していたウメノを尋ね当て、その足で政雄の下宿に向かう。

 「孫息子ヲ アヅケタル家ハ 佃煮ヤ干物ナドヲ 扱フ店ヲ 
花街ノ方二出シテ ヲルラシイガ 何ヨリ 変ッテヲルハ 下宿モ
離レノ間借リモ 支那人ガ多イ トノコト。コノ孫息子ハ 支那人以外 見タコトガナイ ト云フ」とある通りで、身寄りが死んだため御霊前の家を整理した政雄は、帰郷時には珍味屋の借間にいた。

 右の続きは5月号に掲げたが、要約して再掲する。
 「下宿人の中では呉達閣という大男が目立つ。支那人に間借りされると、嫁を取ったかと思うと、支那から来た友人を引っ張りこんで下宿代は1人分しか払わないが、呉の居候はそう厚顔でもなく礼儀正しい。人品卑しからず、と云った風情とのことで、政雄は大分その居候と親しいようである・・・この文章を書いていると〔日記をつけるのは良いことだ。自分もそうしようと思う〕、他人の物を覗き込んで声を掛けてきた人物がいた。政雄とはかなり懇意であるという支那人の居候で、周と云うらしく、自分で名乗った・・・」

 スパイ日誌の大原則として『別紙記載』に真相を記しておくから、右の通り「大正6年10月12日に周蔵は政雄・達閣らが住む京都の下宿を訪ね、恩来に出会った」と素直に受け取るべきなのだが、従来の周恩来伝は「6年9月に東京に着いた恩来は牛込の下宿に住み、神田猿楽町の東亜予備校に通って日本語を学んだ」とし、6年秋の京都行など論じる者はない。さらに、『本紀』にも「6年10月10日から小菅村に開墾に行った」と『別紙記載』とは異なる内容を記しておることを一概に無視できない。しかし、7年9月4日に一時的な帰国から戻った恩来が、達閣に招かれて京都に行き数カ月間滞在したことは確実だから、『別紙掲載』の京都行が文字通り6年のことなのか、それとも7年の事跡を後から挿入したものか。その検証を済ましていなかった本稿5月号では、とりあえず「大正7年のこと」とした。しかし
今これを修正し断定する。これは正しく大正6年のことだ、と。
 理由は、6年秋の恩来の動静については従来大した資料もなく、伝記は本人らの回想を基に推測したものに過ぎないからである。新規公開の『旅日日記』も、7年元旦に始まるものだから参考にならない。故に、誰も論及していないが、6年9月の来日早々、恩来が京都に来たと推定しても何の矛盾もなく、因って10月12日、恩来が達閣の下宿に居候していた記事は、真相を残すための『別紙記載』でもあり、ことさら疑う必要はないと見るべきだからである。

 とすれば、『本紀』がギンヅルのことも毛頭も記さず、
「10月10日カラ 親爺殿ノ助ケヲ借リテ 小菅村二開墾二行ク。
幸イ 空家ヲ借リルコトガデキ 助カル」とする記載こそ、京都行を隠すために小菅村行きを装ったものと見るべきである。『本紀』にその後の記事なく、いきなり「10月26日夜 帰宅。27日ノ薩摩人集リノ為。西郷邸ニテ。留守ノ間二 誰力来タラシイ。薩摩(治郎八)デアラフ」とするのがその証拠である。

 『別紙記載』の文末は「京都デハ 何度力 松タケヲ食ッタルガ 唯一ノ モフケトナル」とあるが、これで周蔵の帰京が京都で松茸の出盛る10月下旬だったことが分かる。つまり、『本紀』の「26日夜 帰宅」以後は実日付で、『本紀』の記載内容と日付を、ここから実際のものに戻したものと見てよい。

 政雄を連れて東京へ戻った周蔵は、たまたま前月に契約した野方村上高田の借間に政雄を住まわせた。借間と農地を周蔵に周旋したのは、大久保の全龍寺境内に住む請負師の藤根大庭である。折から来日した恩来は、ウイルソンによれば、
 「神戸港で連閣の出迎えを受けそのまま東京へ向った」と言うが、10月末まで京都で居候し、その後上京したという可能性もあろう。東京で恩来は、親切な日本婦人の世話で牛込区の支那下宿に入るが、前回述べた通り、そこは藤根所有の2階建て長屋で、藤根配下の叩き大工の八代一家が下宿屋を経営していた。これは正に因縁かと嘆ずる他はない。

 周蔵が京都の下宿で政雄の机を借りて『別紙記載』を書いていると、呉達閣の居候が来て、日誌を覗きこみ、「自分もこれから日記をつけようか」と言う場面は、『旅日日記』の由来をしのばせて余りある。恩来と親しくなった政雄は、恩来のことを「京都ノ大学二行ク資格アルモ 行カヅ 毎日 見物シテ遊ンデヲル」と評したが、当時の恩来に京大の聴講資格があったのか、それともハッタリか。いずれにせよ、周蔵は恩来の印象を「マルデ 石光サント 同ヂヤフダ。多分日本ヲ偵察シテヲル ノデアラカ」と、感じたままに書き留めた。これは謀者特有の直感で、軽視できぬ。


 周恩来がやがて政治に傾斜していく契機が、日本での受験失敗にあると、伝記家は説く。だが真相は、恩来が南開首席の優秀さを買われ、日本留学に際して早くも南開学校首脳から、秘密指令を受けていたのではないか。恩来のための支援枠組みを作った呉達閣は、南開の秘密連絡員であろう。かく解してこそ、これまで述べてきた数々の謎が解ける。両人間の連絡や送金は、当初から秘密の方法を考えてあった筈である。或いは、恩来が日と場所を決めて達閣と直接会い、南開首脳からの指示や金銭を受け取っていた可能性がある。


 大正7年5月6日、神田の維新号で民国留学生が秘密会議中を警官隊が襲い、逮捕者多数。周恩来伝には、恩来が逮捕を免れたことと王希天の拘束は記すが、同時に逮捕された達閣に触れたものはない。今後掲げる『別紙記載』には、呉達閣と王希天に関して、さらに詳細な事跡が記録されている。 
 



●疑史(第9回)周恩来と呉達閣の謎(続) 落合莞爾 
 ●疑史(第9回)周恩来と呉達閣の謎(続) 落合莞爾  
 
 
 周恩来伝の名に値するのは、まずウイルソンの『周恩来・不倒翁波瀾の生涯』(I)で、公刊されて久しい。次に韓素音の『長兄』(Ⅱ)だが、後で出した割に、正確さや詳しさでIに劣る。近年『周恩来旅日日記』が完全公開され、本邦での翻訳『周恩来「十九歳の東京日記」』(Ⅲ)が出たが、これは恩来が日本留学時代に記した日記に解説を施したものであり、従来の周恩来伝を修正する内容がある。たとえば恩来の来日経路についても、従来説とは違い、大正6年9月に天津を発った後、IとⅡは「天津から第2の故郷・奉天に行き、朝鮮半島を経由して日本に向かった」とするが、Ⅲは「8月に奉天に赴き家族に別れを惜しみ、9月再び天津に戻り船で横浜に着いた」とする。

 後で出てきたⅢが敢えて旧説を覆すのは、新証拠が出たからで、現に、彫刻家・画家として知られる保田竜門(★本名:重右衛門)とも短期間ながら親交があったことが、日記により初めて分かったのである。(★Ⅲ p112に コラム「画学生保田」がある)しかしながら、Ⅲには、恩来に日本留学を決意させた呉達閣の存在と事績を意図的に抹消した疑惑がある。そのことは前月号で述べた。

 尤も、I・Ⅱがあげつらう呉達閣の話にも疑惑がなくはない。南開同級生の達閣の来日が恩来より1年早い不審については前月号に鳴らしたが、同じく政府給費生として来日したという達閣の妻の話にも不審がある。当時、日華間の政府間協定では、民国政府の給費対象は特定校の入試合格者に限られた。すなわち旧帝大・旧制高校(第一~八校)・東京高師・東京高工・千葉医専だが、そのうち女子の入学を許したのは東北帝国大学だけで、むろん京都に住んで通える場所にはない。とすると、京都近辺の女子学校に通った筈の達閣夫人が受けた政府給費は特殊で、それがいかなるものであったか、見当も付かない。要するに、あり得ないと疑うのだが、従来の伝記作者ないし編集者に、この点を糾した様子はない。

 また、留日学生への民国政府の給費額が月額50元(邦貨50円相当)というのは、敢えて疑うわけではないが、その巨額に感心せざるを得ない。女子も同額だとして、呉達閣夫妻は合わせて月額100円になるが、これは帝国海軍大佐の年棒1200円と同額である。大佐ともなれば必ず女中を置き、主人夫妻、子供数人および老父母との生活をすべてそれで賄ったほどで、独身学生に対して月額50円は大佐以上の生活を保証する大金であった。『旅日日記』中の収支メモによれば、周恩来は、呉達閣の作った支援枠組みにより、南開同窓生から実際に月額50円近くの支援を受けている。つまり、恩来は通常の日本人学生よりも、遥かにゆとりのある留学生活を送っていたのである。

 初めて東京の土を踏んだ恩来は、Iによれば、「当時、中国留学生の面倒を良く見ていた親切な日本婦人の世話で、他の留学生と一緒に、牛込の山吹館という映画館の近くの大工の家の2階に下宿した」といいⅡも「南開学校の同窓生の世話で牛込区の大工の2階に下宿した」と言うが、これは同じ下宿とみて間違いない。しかし、Ⅲだけは「牛込区の家具屋の2階に陳某と同室し、以後家賃の安い部屋を求め転々とする」と、敢えて異を唱えている。Ⅲにはそれなりの新証拠があるのだろうが、示されていない。

 新証拠といえば、近年耳にしたのは、「下宿は牛込箪笥町にあり、建物は新宿大久保の全龍寺地内に住んでいた藤根大庭という請負師の持物で、2階建ての三軒長屋に藤根配下の大工の3所帯が住み、女房たちが内職として、それぞれ支那留学生を置いていた」というのである。恩来の大家は八代という叩き大工で、運送屋も兼営していた。この話の証人・池田チヤは明治41年生まれ、今も存命で記憶も鮮明で、恩来のことは姉から聞いたのである。チヤの上京は大正15年だが、姉のツヨミは早くから在京で、大正8年から藤根の家に下宿していたから、藤根夫妻は勿論八代とも面識があり、周恩来のことなどを聞き、妹に伝えたのである。ツヨミの仕事は、中野小淀(現在中野区中央)に吉薗周蔵が聞いていた精神力ウンセラー中野救命院の秘書兼看護師であった。

 後にツヨミの夫となる周蔵は、大正元年、陸相上原中将から「上原勇作付特務(★草)」を命じられ、特殊なケシの栽培に携わっていたが、大正5年に参謀総長上原大将の命を受けて欧州に渡り、ウィーン大学医学部に潜入してラントシユタイナー教授から血液型分離の理論と方法を入手した。大正6年6月に帰国した周蔵は、翌月、同じく上原の下で働く若松安太郎(本名:堺誠太郎)から紹介された藤根に、ケシ栽培のための耕作地の手当てを依頼した。藤根が野方村上高田(現在の中野区)に適地を見つけて周蔵に斡旋したのは9月だったが、その頃に来日し、八代の下宿に入ったのが周恩来だった。因みに、恩来の名が記憶された所以はいかにも尾篭な話で、彼の排泄物がことに大きくて、これは大物の証拠だと大工の女房たちが噂したからという。

 Ⅰについては、「他の留学生2人と一緒に」というのがチヤの話の「三軒長屋」とよく符合し、また「当時、中国留学生の面倒を良く見ていた親切な日本婦人の世話で・・・下宿した」という内容も、Ⅱ・Ⅲより詳しい。チヤによれば、八代はクリスチャンというから、民国留学生たちに下宿を斡旋していた例の婦人は、キリスト教の信徒仲間ではなかろうかと思う。つまり、その婦人が、教会の線から南開学校出身者の世話に当たっていたと考えれば、これも符合する。

 ところで、八代は思わぬことでその風貌を今日に留めている。周蔵と藤根が物心両面で支援していた美校生徒・佐伯祐三が、八代の肖像画を残したからである。大正9年秋、佐伯は池田米子との結婚のため、アトリエ付きの家(現在は新宿区立佐伯記念館)を下落合六六一番地(現在:新宿区中落合)に建てるが、庭地は金貸しを兼ねていた藤根が妻の親類に当たる酒井億尋(後に荏原製作所会長)の名義で所有していた土地の半分を貸してやったのである。アトリエの建築には、伝記では佐伯自身と美校の同級生たちが手伝ったとされているが、素人だけで建てられるものではない。佐伯が文案して周蔵に筆記せしめた「救命院日誌」に「大工ハ 八代サン 経師ヤ(屋)ハ 幡谷ノ小川サンニシタ」と明記してある通り、アトリエを建てたのは八代であった。今日、角刈りの職人の顔の絵が、『運送屋』とか 『Y氏の肖像』という題を与えられて、幾つか佐伯祐三画集に出ているが、これこそ八代の肖像である。

 以上で、恩来の下宿の大家が運送屋兼大工の八代であったことは疑いない。大工の傍ら家具も作っていたこともあろうから、Ⅲも全く誤りとはいえないが、総じて、正確さでは、旧説たるI・Ⅱの方がⅢよりも勝り、さらに詳しさの点では1番早く出たIが断然である。著者年代の新しさに比例して内容が粗雑・不正確になっているのはおよそ伝記の常識に反する傾向であるが、これは、周恩来だけではなく呉達閣にも直接会って取材したウイルソンの作業が1番正確であったと理解しても、問題は後発の2者、ことにⅢが、ウイルソンに敢えて異を立てる点にある。

 日本留学時代の周恩来を調べたならば、謎を感じるのが正常の史家精神であろう。最大の謎は呉達閣との関係である。恩来をして日本留学を決意せしめた者が達閣であることは前月号で立証した。ところがⅢは、呉達閣についての論述をI・Ⅱよりもはるかに後退させており、編集上で何かの細工が感じられる。尤も、問題の根本はⅢの根幹たる『周恩来旅日日記』の原文(完全公開とされている)にある。そこには南開同窓や恩師との間の夥しい書簡の往来や金銭貸借が記されており、これを見るに、恩来も南開同窓の友人たちも実に筆マメで、毎日のように書簡をやり取りしていて、その中にはむろん王奇天もいるのだが、不思議なことに、呉達閣との通信記録や金銭のやり取りは1回も見られない。それどころか日記の文中に呉達閣の名さえ出てこないのである。

 だいたい、もともと恩来支援の枠組みを作った達閣が、たとい留学地が京都であったために金銭の直接やり取りが疎遠になったとしても、行きがかり上送金くらいはすべき関係であり、金銭事情が変わったとしてもせめて書簡くらいはやり取りした筈なのに、その記録がまったくない。何かの理由で2人が絶交したのかと思うと事実はその反対で、Iは、大正7年(来日の翌年)東京で一高・高師の受験に失敗した恩来に対し、「京都に来て自分らと同房し、京大の聴講生になるようにと達閣が勧めた」と明記している。夏休みの一時帰国から再来日した恩来が、その後京都に行って達閣夫妻の下宿に滞在したことは、「雨中嵐山」の詩があるから誰も否定できないのだ。

 ところが、『留日日記』には、この期間の記載がまったくない。Ⅲの編集者・矢吹晋はさすがに無視しえず、「『東京日記』が大正7年12月23日に途絶えてから、翌年4月5日、帰国の途上、京都・嵐山で『雨中嵐山』を詠むまで、この間の周恩来を物語る資料は実に少ない。そして、この空白期の周恩来を伝記作家たちはさまざまに書いている。代表的な説を二つ紹介しておこう」とし、金冲及主著『周恩来伝』では、再来日後の恩来は神田三崎町にあった王樸山の家の二階に寄宿していたが(浪人ながら模範生)、8年3月に三高生呉達閣の所に潜在して、4月に天津に向けて帰国した、とすること。一方、ウイルソンのIはこれと対照的で、7年秋には恩来は京都の呉達閣夫妻の家に身を寄せていたが、酒びたりであったことを示唆している、と紹介したうえ、「しかし、実像は知れぬ・・・日本で受験に失敗して以来、ほぼ空白の7ヵ月・・・この間、はたして若き周恩来は、いかに変貌を遂げえたのか。この『東京日記』の最大のテーマは、その空白を読むことかもしれない」とする。

 さらに「空白の7ヵ月」と題したコラムに「東京に戻った9月以降、周恩来日記の記述は極端に少なくなる。ほとんど手紙の発信と受信のみした記述がない。これは、もともと記述がないのか。
 それとも公表をはばかり編集者が削除したものか、 理由は不明である」とする。
 傍線(★ここでは赤色文字にした)は私(落合)が引いたが、ここに力点がある。完全公開と銘打たれた『留日日記』を、そのままは信じないという矢吹氏を、正常な感覚と評すべきである。

 事実はどうだったか、それは来月を待たれたい。

 



●疑史(第8回) 周恩来と呉達閣の謎 
                      周恩来東京日記_1


 ●疑史(第8回) 周恩来と呉達閣の謎  落合莞爾   
 

関東大震災の直後に行方不明になった民国留学生・王希天、彼を親友と呼び、その安否を外務省に尋ねてきた張学良。前月号で両者の接点の謎を取り上げたが、この両人を結ぶのはモクテン倶楽部、南開学校、中華YMCAなどメソジスト教会の線であろうと私は推定している。

 今から南開学校の同窓、すなわち王希天・周恩来・呉達閣の三角関係を探っていくつもりだが、今回は恩来と達閣の関係について考察する。恩来の青年時代を語る有力資料は現在3つある。第1はディック・ウイルソン著『周恩来―不倒翁波瀾の生涯』(1984)で、以下Ⅰと謂う。第2は韓素音(ハンスーイン)の著『長兄』(1994)で、これをⅡと謂う。第3の矢吹晋編『周恩来「19歳の東京日記」』(1999)は1998年に公開された『周恩来旅日日記』の完訳で、解説に伝記的性格があるので、以下Ⅲと謂う。この他にも各国で恩来の小伝が幾つか出ているが、内容乏しく且つ偏り、正確さも欠くので、ここでは取らない。

 韓素音はIを、矢吹はIとⅡを参考にしているから、上3著の間の相違点は各著者が前著を見ながら敢えて異を立てたもので、真相の探究において最も注目すべき点と言えよう。ゆえに、以下そこに焦点を当てていくが、著者による誤解や錯覚レヴェルでの差異はこの際問題にしない。

 まず注目したいのは、周恩来が日本留学を決意した事情と周囲の環境である。大正2年、奉天の小学校を卒業した15歳の恩来は、天津の南海学校(旧制中学に相当)の入試を受け、成績優秀のため飛び級で四期生(2学年に相当)に編入された。大正6年に第1期を終了し、首席として卒業式で答辞を述べた6月26日には、恩来の進路はまだ定まっていなかった。原因はただひとつ、経済問題である。

 Ⅰによれば、校長・張伯苓から米国留学を勧められたが資金のメドが立たず、安上がりの日本留学すら無理であった。問題は学費と生活費で、当時の日本では民国留学生の苦学なぞ不可能であった。費用のメドなくして日本留学を企てる者はいないから、9月に渡日した恩来が、渡航前に学費問題を解決していたのは間違いない。そこで、上の3著はこの点をどう考えているか。

Ⅰによると、恩来の学費閣題を解決したのは級友・呉達閣である。すでに日本留学していた達閣は、妻も政府給費生で、3人の給費生仲間と他1人に呼びかけ、給費額の2割に当たる10円ずつを毎月出し合い、恩来に資金援助することを決めた、という。この話をウイルソンは恩来から聞いたのか、それとも1980年6月に台北で会った呉達閣から聞いたのか、どちらが先にせよ、当事者双方に確認した筈である。これが正しいならば「達閣が費用を保証したので、恩来が日本留学を決意した」ことになる。

 Ⅱも、「恩来は金に困っていたので、彼より余裕のあった呉達閣ほか数人の留学生が月10元ずつ出し合った」というのは、Ⅰの事実認識と基本的に同じだが、周夫妻に10回以上会って取材した韓素音は、こんな重大点は恩来自身に確認した筈だから、単なるパクリとは思えない。ただⅡでは支援が自然発生したようにも受け取れるが、これはIのように、「留学前に予め話しが付いていた」と解した方が理に適う。後述のように、実際の恩来支援は達閣を抜きにして行われており、また達閣の話については細部に疑閣点もあるが、「達閣が予め恩来の留学費を保証した」ということ自体は、両当事者が認めたものと思える。つまり、これが正しいのである。

 Ⅲは、「ともに日本に私費留学する南開学校の同窓生たちが少しずつ留学費用をもちよって、周恩来の滞日生活費を捻出することとなった(収支メモ参照)」というが、時制は渡日以前を指している。つまり、政府給費は日本で入試に合格した後に与えられるものだから、それまでは私費留学なのである。また、こととなった、とは「予め定められた」という意味である。つまり、渡日前に同窓生による資金支援が決まったと言うのだが、主唱者の名を挙げず、当然達閣の名前はない。

 月額10元の支援を約した同窓生たちは、留学環境が激動したためか約束通りではなかったが、曲がりなりにもそれに近い金額を恩来に提供した。すなわち「収支メモ」によれば、大正6年9月~同7年12月の16か月間に、合計70元前後を支援した李衝ら3人が筆頭格で、他に10人ほど40前後の支援者がいて、合計して平均すれば、月額50元に近い金額になっている。この支援の枠組みを作ったのは遠閣の筈だが、その達閣は遠く京都にいたにせよ、「収支メモ」に名前すら出てこないのだから、Ⅲの編者が「先著がいう達閣の支援関与については敢えて無視した」と弁明すれば、咎める訳にはいくまい。

 ところでⅢは、恩来の渡航費用について「南開学校理事長・厳範孫が援助を申し出たもので」とし、「厳の子息・厳李衝が東京美術学校に留学しているのを頼って恩来は留学を決意した」と付け加えている。「留学決意の根拠」を、何とこんな所へ持って来たのである。

 ここで「頼る」とは金銭面のことしかない。しかし、恩来のパトロン厳範孫は、渡航費ならばともかく、潜在費用の面倒をみるのは到底ムリで、それがそもそもの問題であったのに、その息子の1留学生に、どうして留学生活の保証を求められようか。しかも、この2人は日本で初めて知り合った仲であった。大正7年2月1日、米国留学の準備のために帰国する李衝の下宿に転入した恩来は、同3日の日記に「自分が南開にいた時、李衝はすでに南開を去っており、2人が知り会ったのは去年の秋で、ひと目会うや旧友のように仲良くなった」と記している。李衝の支援額はたしかに南開同窓生中でも筆頭格であるが、これは達閣による根回しに応じたものであり、金額もダントツというほどでもない。李衝は、父が恩来を最も気に入り、妹の婿に所望したことも知っていただろうが、逆に恩来からすれば、いかに恩師の子息とはいえ、顔を見たこともない李衝を頼って日本留学を決意したなぞあり得まい。こんなマヤカシを、Ⅲの編者が書いたのは何故か。

 いやしくも周恩来の評伝という以上、「日本留学を決意した根拠」の解明は不可欠で、現にIはこの責任を果たしている。Ⅱはその責任を自覚していないが、これは訳者の川口洋が「第三者的な観点からする伝記ではなく、むしろ周恩来への讃歌であり、敢えて言うなら『恩来へのラヴ・レター』になっている」と評するほどのものだから、責めても始まるまい。ⅢはIと同じく、「同窓生の支援の約束」があったことに言及しながら、主唱者としてI・Ⅱが挙げる呉達閣を無視した。その代わりに、厳李衝を担ぎ出してマヤカシを書いたわけである。

 しかしこれは、Ⅲの編者矢吹晋のせいとは思われない。矢吹は、大正7年9月から翌年4月までの7か月間、『旅日日記』には往復書簡の相手を記載するだけで、行動記録が一切ないことを取り上げ、「これはもともと記述がないのか。それとも公表をはばかり編集者が削除したものか。理由は不明である」と述べている。また前述の期間を「空白の7ヵ月」と呼び、「この『東京日記』の最大のテーマは、その空白を読むことかも知れない」としている。つまり、矢吹は、初の完全公開をうたう『旅日日記』が、実は中国の編集者に加工されている、との疑いを強く持っているらしい。

 その7か月こそ恩来が京都で達閣夫妻の下宿に居候していた時期であるが、実はその頃、京都で呉達閣と周恩来に出会った人物がいて、記録を残していた。すなわち吉薗周蔵である。その記録の一節を以下に掲げる。

「呉ナル大男ガ トクニ目立ッテヲルヤフダ(中略)。
 満人ニテ 大道芸人タル様子ノ大男ニテ 武芸ニ長ケテヲルヤフダ(中略)。
 カレヲ書ヒテヲルト 「日記ヲツケルハ 良ヒコトナリ。自分モ サフシヤフカト思フ」ト 他人ノ物 ノゾキコンデ声ヲカケタル 人物ガヲル。
 孫息子(注・渡辺政雄)ト 大分懇意デアルラシヒ 支那人ノ居候ナル人物 周ト言フラシヒ。名ノラル。京都ノ大学二行ク資格アルモ 行カヅ 毎日見物シテ 遊ンデヲル由。
マルデ 石光サント同ヂヤフダ。多分 日本ヲ偵察シテヲルノデアラフカ」

 吉薗手記の内容からして、大正7年秋のようである。吉薗に周と名乗った居候こそまさに恩来であった。Ⅰによると、三高生だった達閣は恩来を何度も京都へ誘い、一緒に住んで京大に進むことを勧めた。そのつど断ってきた恩来が、とうとう京都へ来たわけである。「恩来が、京都大学の聴講生の願書を神田の住所で書くには書いたが、提出したかどうか分からない」と、Iは言う。いずれにせよ、恩来は吉薗に、京大の聴講資格があることを告げた。それなのに大学には行かず、ただ京都市中を徘徊する恩来の姿を、吉薗は知人の軍事探偵・石光真清に重ね合わせたのである。

 Iが達閣のことを詳しく書くのは、ウイルソンが本人から直接聞き、恩来もそれを裏打ちしたからである。達閣は南開同窓生の中でも恩来との関係がことに深かったが、それがⅡでは薄められ、Ⅲにあっては、「収支メモ」が前面に出て、達閣の存在感は消滅し、その事績の一部は厳李衝が吸収してしまった。
これは、南開大学ないし中国共産党に、呉達閣の存在を抹消したい事情があるからと思われる。★その背景には西安事変後の国共合作の際の共産党代表・周恩来と国民党代表・呉達閣との邂逅の1件があると思う。つまり、西安事変の真相に関わっているからではないか。

 詳細は来月号に回すとして、ここでは呉達閣についての疑問を示しておかねばならない。各伝記は、達閣夫妻が給費生となって先に来日していたと言う。日華間の政府間協定で、民国学生が日本で一定の学校に合格すると、民国政府から費用が下りた。よって来日後1年ほど日本語学校に通い、翌年入試を受けるのが普通である。とすると、恩来と同級の達閣は、大正5年に南開を1年早く修了(中学4年修了に相当)して来日し、翌年、三高に合格したことになる。学年首席の恩来を上回る秀才だったことになるが、信じていいのか? 
 



●疑史(第7回) 周恩来と王希天の謎
●疑史(第7回) 周恩来と王希天の謎 落合莞爾

 (*言わば、大杉栄 暗殺の真相 追究の旅です。)
 


 近代中国の建国者としてわが国でも信奉者の多い周恩来のことは改めて語る必要もないが、周の天津南開学校の同窓で親友の王希天についても、やや知られてきた。

 王奇天は日本留学中、僑日同胞労働者の支援と保護に力めていたが、関東大震災直後の大正12年9月12日に亀戸警察署の玄関を出て以来、行方は杳として知れない。情況からして陸軍将校あたりに暗殺された疑いが濃厚で、事件直後は国際的にも問題になったが、陸軍と警察当局の方針で、亀戸事件や大島町事件などの震災直下の虐殺事件とひとまとめで曖昧化されてしまった。

 戦後やや経って公的資料の情報公開が進み、関係者の日記や証言も出てきた。これに基づき多くの研究家が王希天失踪事件の解明に取り組んだ結果、情況がしだいに明確になり、暗殺の疑いがいよいよ確実視されるに至った。つまり、帝国陸軍軍人による王希天の虐殺は、今や歴史的事実として確定されたと言ってよい。

 しかし、たまたま王奇天と生涯親交した吉薗周蔵の手記、それも自筆の実物に接した私は、そこに王奇天事件の驚くべき真相を発見した。王希天は暗殺を免れ、日本人に化けおおせて長生きしたのである。研究の結果、手記の内容が真実であることを確信したが、ついでに周恩来について歴史家が触れなかった一面を発見し、ひいては世界を震撼させた西安事件の真因についても窺うことができたので、以下数回にわたり披露することにしたい。

 周恩来と王奇天の親交は確定された歴史事実である。1898年3月5日江蘇省准安県に生まれた恩来は、1910年春に満洲奉天に移り、伯父の厄介になる。同年秋に奉天第六両等小学堂(のち東関模範学校)6年生に編入され、翌年瀋陽模範学堂に入学したが、1913年には伯父の転勤に伴い天津に移り、同年9月に南開学校(中学校相当)に入る。

 一方、王希天の経歴については、日教組婦人部長・仁木ふみ子の著『震災下の中国人虐殺』によると、奇天は1896年8月5日、満洲吉林省長春東の近銭堡に生まれた。父の王立廷は皮革商を営む富豪で、その邸宅の跡は今も「王家皮舗」という地名に残っている。家塾で勉強した希天は12歳で小学校に入り、1年で卒業、さらに長春第一高等小学校を卒業し、1912年に吉林第一中学に入学するが、1914年秋に学校紛争のため退学する。その後は天津の南開中学に転校したと同級生の孫氏は証言する。他には、奉天鉄路学校へ行ったとする謝介眉氏『王希天小史』の説もあるが、伝聞で信用できない。ともかくも王希天は、南開学校には周恩来より1年遅れて転校してきたのである。

 中国側のホームページ「長春の 」に王希天の項があり、奇天は大正3年18歳の時、新婚まだ日が浅い妻子に別れを告げて中華民国留学生として日本に渡るが、大隈内閣と袁世凱政府が21箇条の条約を結ぶという情報に接し、同じく日本に留学していた周恩来と留日学生救国団を作り反対運動を始めた、などとしている。仁木の年譜とはかなり相違するが、この「長春の 」にはデタラメが多く、本当は奇天の来日は大正4年で、留日学生救国団の攻撃対象も、正しくは大正7年5月に段祺瑞が結んだ日中陸軍共同防敵軍事協定と西原約款なのである。こんな具合で、仁木説が類書では最も正確のようだ。

 大正4年に来日した王奇天は、以後東京で日本語を勉強し、大正8年には第一高等学校予科に入学し、東京帝大の採鉱冶金学科を目指していた。周恩来の来日は希天に2年遅れ、大正6年9月である。来日後も2人の交友は続き、近刊の『周恩来十九歳の東京日記』(矢吹晋編、鈴木博訳)には、恩来が奉天から大正6年に5円、また同7年3月に5円を援助されたとの記録があり、また希天から恩来への来信の記録もしばしば見られる(周と王の関係の証拠)。

 また、ハン・スーインの著した周恩来伝記『長兄』によると、恩来は南開学校で満洲出身で長身の逞しい男、呉達閣と親しくなり、後の大正7年秋、京大留学中の達閣の下宿に5カ月間も居候したとある。驚いたことに、吉薗手記には、吉薗の従兄弟の渡辺政雄がたまたま達閣と親しく、同じ下宿に居て、政雄を訪ねた吉薗がそこで居候の恩来に出逢う記録がある。さらに大正10年3月、野方の上高田にいた渡辺政雄を呉達閣と王希天が訪ねてきて、たまたま居合わせた吉薗に逢う記載もあり、南開学校同窓の3人の関係が日本でも続いていたことが判る(周と王と呉の関係の証拠)。

 以上、ハン・スーインの『長兄』を突き合わせることで、吉薗手記の信憑性が裏打ちされたが、ハン・スーインは、王希天については何も触れていない。ハンは、伝記の参考資料として『周恩来日記』を活用しているが、そこから容易に知りうる王について全く注目しなかったのは、この世界史的人物の評伝において、王の虐殺なぞごく卑小な事柄と観たからであろう。

 しかしながら実は、王は西安事件の真相を解く鍵として、極めて重要な存在なのである。それは、西安事件には南開学校同窓生の友人関係が潜み、周恩来と張学良が以前から繋がっていた証拠が王希天の存在だからである。1901一年生まれの張学良は、周より3歳、王より5歳の年下になる。学良は1928年に爆死した父の権力と地位を継いで、国民党副総司令に就いていたが、1936年12月に西安事件を起こし、国民党総司令・蒋介石を拉致監禁して容共抗日を迫り、共産党の周恩来が両者を仲介して国共合作を成立せしめた。

 古野直也『張家三代の興亡』によれば、学良はこの計画を前年から立てていたと推定される。学良は、4月9日に空路延安に飛び、第一次張学良・周恩来会談を行うが、この時に中国共産党への入党手続きをしている。蒋との交渉を周恩来に仲介させることも当初からの計画であった・・・。

 そこまで推定した古野も、周と学良との古くからの友人関係には、さすがに考え及んでいない。しかしながら、空路敵地に降り立ち、相手に直に会い腹を割って話す、という発想自体一種の「暴挙」である。事実、ナチス副総統ルドルフ・ヘスもチャーチル相手に同様の企てをして失敗し、長い後半生を囮圖で暮らした。周恩来が学良にとって全く未知の相手だったなら、こんな発想は浮かばなかったに違いない。

 仁木前掲(『震災下の中国人虐殺』)は、次のように記す。「王奇天事件に関する日本側資料は参謀本部の『密大日記』に2件見えるが、何れも外務省外交史料館(麻布)にあるもので、その1件は11月27日、奉天・船津総領事の手紙で、張学良からの親友・王希天の捜査依頼を報じるものである・・・」。早速、外交史料館で船津書簡を探してみたがまだ見つからない。しかし船津辰一郎は大正12年8月15日から翌年2月2日まで確かに奉天総領事の職に就いており、上記の仁木説を信じてよいと思う(王と張の関係の証拠)。

 仁木の虐殺弾劾家としての思い込みと偏った修飾語を止むなしと見れば、調査そのものは良心的である。仁来の間違いはただ一つ「王奇天が虐殺された」とする結論の部分だけなのである。虐殺追究にとらわれ過ぎたため、世界史的に見て王希天の失踪なぞより遥かに重要な史実「張学良が王希天の親友だった」ことを発見しながら、その意義を考察する余裕を持ちえなかったことは、仁木のため大いに惜しまれる。

 以上から、いやでも周と王、そして王と張の深い関係を無視するわけにはいかぬ。つまり、恩来と学良は、王を介して間接的にせよ辱知の仲であった。とすれば、学良が蒋介石を兵諌し、恩来の仲介によって国共合作を実現した西安事件の真相は、歴史の定説とはかなり違うことになる。国共合作の鍵が張学良と周恩来との信頼関係にあることは、深く考察したなら誰しも思いつくだろう。だが両者の関係を遡って調査した史家は見当たらず、両者の関係が少年時代に淵源することを指摘した者もいない。無能揃いではあるまいから、気付いた者もいて当然だろうに、知らぬフリをしているのなら、それこそ史家が本当はバカでない証拠であろう。

 王希天と周恩来の関係は南開学校の同窓で明白だが、問題は王希天と張学良の親友関係にある。ともに満洲生まれで少年時を満洲で過ごしたとはいえ、満洲は広い。いつ何処で知り合ったのか。とにかく2人の少年時代の年譜を見てみる。学良は奇天の渡日時には13歳で、以後も少年期には奉天を離れなかったと思われ、奉天に2人の接点はなさそうだ。学良は1955年にクリスチャンになったが、16歳で白人宣教師の本拠・モクテン倶楽部に入会を許されており、入信の素地は少年時代と思われる。結局2人の接点は奇天の日本留学時代に南開学校を介したものと推定される。 
   続く。 
 




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