カウンター 読書日記 2008年05月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)

 ●明治日本における真の権力を掌握した薩摩ワンワールド ◆落合莞爾 


 ★金融・軍事・信仰の三系を持つワンワールドの源流
 
 鎖国日本の開国に向けた動きは光格天皇の治世(1779~1817)に始まる。これを知ったのは平成18年の竹田恒康氏の講演であった。恒康氏は旧皇族でJOC会長の竹田恒和氏の長男で、平成初年の一日北海道を旅行中、恒和氏運転のワゴンにたまたま同乗したことがある。あの時の少年がと感嘆したが、その講演では結論しか聞けなかった。これを契機に独自に追究したところ、開国の淵源は皇室にあり、ワンワールド中枢の意思に対応して日本で維新が胎動したと知った。明治維新の推進力は世に言う鍋島・島津・黒田ら九州雄藩だけでなく、実は光格天皇と11代将軍家斎から発したのである。この真相が明らかになれば、維新史は固より江戸徳川史が引っ繰り返るのだが、本稿は吉薗周蔵日記に見える陸軍元帥・上原勇作の背景を探索する目的なので、そこまでは立ち入らない。

 明治政府の内外で活躍した維新の功臣を、①有司専制主義の薩長藩閥派、②自由民権主義の土佐・肥前派に大別するのが学校史観で、その他に③天皇親政主義の侍講派の存在を指摘する説がある。また、人は薩長と一括するが、薩摩と長州では大いに異なり、前者は武断派の有司専制主義で、政党嫌いだったが、後者は文治派で民意を伺い政党を尊重したことは、政党政治家に転じた伊藤博文は言うに及ばず、軍閥巨頭で内務閥の親玉を兼ねた山県有朋も、超党派を装いながら内心民意を恐れ、民意に背く外征を躊躇していたことで明らかである。そんな非戦派長州人を背後でけしかけて、日清・日露戦争に誘導したのが玄洋社の(看板を借りた)杉山茂丸であった。その言動が薩摩を代弁したかに見える杉山だが、決して薩摩隷下の特務ではなく、ワンワールド中枢の直参の立場で長州閥の領袖たちを工作していたと観るべきである。この辺りは、杉山が奉じた謎の貴公子掘川辰吉郎を分析しなければ理解できず、また明治史の真相を得るのは不可能である。

 明治日本における真の権力を掌握したのは「薩摩」であった。ワンワールドの薩摩支部という意味である。ワンワールド中枢は金融系と軍事系の両立と聞くが、蓋しその権力の源泉は通貨創造と国家金融にあり、債務国家の弁済力を担保するため、時には国家間の戦争を必要とするからであろう。金融・軍事系の一段の奥には宗教系が控えている感があるが、ともかくワンワールドそれ自体が超宗教というべきであるから、宗教・信仰とは決して無縁ではない。明治日本を支配した「薩摩」も三系に分化していた、金融・軍事・宗教これである。ロスチャイルドの直臣となって大隈を蹴落とした松方正義が金融財政部門を支配し、軍事部門は陸軍を大山巌→高島鞆之助、海軍を西郷従道→樺山資紀が押さえた。ところが薩摩三傑の1人で維新最大の功臣・吉井友実は、世俗的権力を顧みず自らは宮廷を掌握した。以上が明治日本の真相で、長州はこの真相を隠す役割を与えられ、明治政界の表面を浮流したフシがある。薩摩内部での権力分化は、表面的には二頭体制とも三頭体制とも取れるが、彼ら全員が薩摩城下で下級士族の居住区たる方眼(ほうぎり)に生まれ、郷中教育により以心伝心、暗黙に合意する超個人的な一大人格に融合していたから、仲間うちの対立は本来あり得なかった。例外たる西郷・大久保の対決は、薩摩が抱懐した二大テーゼすなわち風土の伝統たる士族専制主義と在英ワンワールドに教化された近代化主義の間の矛盾が発露し、それぞれを代表した西郷(桐野を代弁)と大久保両雄が対立の已むなきに至った弁証的な過程で、両雄から等距離にいた吉井がこれを止揚した。その結果、薩摩ワンワールドのグラン   ドマスター(以下では薩摩総長という)に就いた吉井が、一等侍講となって. 天皇親政派の頭になった。これこそワンワールドが最も重要視する「信仰」を司るためで、明治日本においてそれは皇室崇拝であった。吉井が自ら工部少輔、大輔を兼ね、遂には日本鉄道会社社長に就くが、これは在英ワンワールドが日露戦争のために鉄道網建設を不可欠として、その実現を吉井に託したからであろう。ロスチャイルドの直参として財政金融を支配した松方が、首相・公爵・大勲位とあらゆる世俗的権威において吉井を上回ったとしても、宮中に籠もって明治天皇を護持する吉井に代わって薩摩総長に就くことは、あり得なかったのである。

  ★宮内省実質ナンバー2 吉井友実の後継者は

 吉井友実の維新後の事跡については、先日来『月刊日本』に連載中の『疑史』に述べており、詳しくはそれを参照して頂きたい。維新の功臣として賞典禄1千石、ナンバー6に挙げられながら、功臣中ただ1人、参議にも何の大臣にも就かなかった吉井は、宮内省の実質ナンバー2を定位置として、宮内卿・徳大寺実則と力を併せ、明治王朝の護持に専心した。24年4月、吉井が64歳で他界した時、内閣は山県第一次であったが、海軍増強の予算案を民党に攻撃され、大幅に修正して可決したものの敢え無く倒壊、5月6日に第一次松方内閣が成立した。これを機に陸相・大山巌は辞任、5月17日を以て陸相を高島鞆之助に譲った。13年陸軍卿、18年の内閣制施行で初代陸相となり24年まで11年に亘り陸軍を支配した大山は、吉井の長女・澤子を娶ったが、15年に病死されて山川捨松を後妻にしたのである。高島も吉井の次男・友武を婿養子にしていた。濃密な姻戚関係もワンワールド人の特徴である。吉井が死去した時、薩摩最大の権力者は金融系の総帥・松方で、首相を目前にしていたが、薩摩総長則ちワンワールド薩摩支部の元締めとしての地位を継いだのは、吉井と最も近縁の高島であった。これは吉井生前からの既定路線と思われるが、明治も中葉を過ぎて社会運用の法則も固まりつつあり、吉井のごとく隠然として支配するのは最早不可能で、高島も何か重要職に就く必要があった。大山が高島に陸相を譲ったのは、本人の実力や陸軍内の序列に加えて、右の事
情があったものと思う。

 大山の動きに海軍も応じ、初代海相の西郷従道が同日辞任、樺山資紀にその座を譲った。ここに薩摩の軍部大臣が2人とも代替わりして、第一次松方内閣を支えた高島は薩摩総長を継ぐと同時に陸軍系の頭領を兼ねるが、同時に海軍系頭領に就いた樺山が、高島を補佐する薩摩副長を兼ねたものと観るべきである。それを端的に示すのが後年、両人が台湾総督・副総督、及び拓殖務相・台湾総督のコンビを成したことである。三宅雪嶺が『同時代史』で、「第一次松方内閣の閣議を制したのは高島の一言であった」と評したのは、主要大臣を薩摩勢が占めた第一次松方内閣の中での高島の卓越した地歩を、期せずして指摘したものであった。

 第一次松方内閣は、民党の海軍費削減案に憤激した高島陸相と樺山海相が断固解散を主張し、総選挙においても大選挙干渉の主導者となった。 しかし第一次松方内閣は、選挙干渉の責任で25年8月8日を以て倒壊し、高島も樺山も辞任して枢密顧問官となる。薩摩総長高島は、陸相としても対清・対露の戦略に忙殺されていたが、わずか1年余りで陸相を辞任した。以後、28年8月に台湾副総督を委嘱されるまで、3年間を枢密顧問官として過ごし何の職にも就かなかった。薩摩副長の樺山も、高島と同時に海相を辞し枢密顧問官となったが、27年7月日清戦争の勃発を機に現役復帰して軍令部長に任じた。目清が戦端を開いたこの時機に陸軍が高島を必要としない筈はないが、それでも高島が従軍しなかったのは、薩摩総長の大役を優先したからであろう。樺山は戦功により、28年5月海軍大将に進級し、初代台湾総督に就くが、8月になり予備役中将・高島をわざわざ副総督に招請した。日清戦争に参加しなかった高島が、講和後の台湾統治に招かれるや、樺山の下風を厭わず副総督になったのは注目に値する。台南匪賊を討伐し台湾を平定した高島は29年4月、総督府を監督する拓殖務大臣となり、樺山を指揮して新領土台湾を統治する立場になった。学校歴史は、日清戦争の目的を「帝政ロシアの南下から祖国を護るべく、進んで朝鮮半島の独立性を確保するため」と説明するが、つらつら惟んみるに、台湾領有こそ隠されたもう一つの目的であった。尤も当時は台湾統治は日本政府のたっての望みではなく、在英ワンワールドが地政学的必要性から日本にその役割を割り当てるため、以前から薩摩を通じて日本政府を動かしていたフシがある。杉山茂丸が日清戦争に向けてしきりに長州勢を煽動したのは、非戦派の山県有朋を刺激し、且つ平和思想の伊藤に戦意を吹き込んだもので、日本の台湾領有を実現する大目的のために、日清間に戦端を開かせたのである。

 因みに高島と樺山資紀の間には以下の関係がある。資紀は橋口家から樺山家に養子に入ったが、樺山の本家筋と思われる(これは博雅の士の高教に待つ)樺山資雄は、内務官僚で各県知事を歴任し、佐賀県知事として例の大選挙干渉を実行した。資雄の長男・資英は明治元年生まれ、21年に渡米しエール大学で法学博士号を得て、26年に帰国。28年に台湾総督府が設置されるや総督府参事官として総督・樺山資紀の秘書を務め、29年には拓殖務大臣・高島鞆之助の秘書官兼大臣官房秘書課長となるが、高島の次女・球磨子(明治14年生)との縁談はこの時に纏まったものか。薩摩第二世代の典型的な俊秀たる資英は、後に貴族院議員、内閣書記官長として、大正から戦前にかけて政財界で暗躍した。

 


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●『田中清玄自伝』 (2) ちくま文庫
 以下極私的興味をひかれた部分をランダムに紹介して、終わります。***
   

 ●野坂参三をモスクワへ送る

 ☆最近、『週刊文春』が火をつけ、同志・山本懸蔵を密告したことがばれて名誉議長を解任、党を除名された野坂参三ですが、この野坂をモスクワヘ派遣したのは田中さんだったというのは本当ですか。

 ★うん。野坂が日本共産党の名誉議長として百歳を迎え、年金を貰って安穏に生活している。日本でね。それはそれでいいんじゃないですか。ソ連というものがどんなものであったかを理解していただく材料になればと思って以下の話は申し上げるのですが、野坂参三が日本共産党創設以来の古い党員であることは事実です。まあ学者ですね。山口の萩生まれで、慶応を出てね、親代りの兄貴が神戸の材木商かなにかですよ。奥さんは竜といい、実家も葛野という貿易商で裕福なほうだった。彼は海外に留学して社会主義に触れ、日本へ帰ってきて日本共産党に籍を置くようになった。創立当時からですよ。私が最初に野坂を知ったのは、私が共産党へ入る前のことで、野坂参三という学者の端くれがいた。進歩的社会主義者という程度のね。
 僕が彼をモスクワヘやるように主張したというのは事実です。三・一五で野坂は検挙されたが、間もなく出てきた。目が悪く、その治療をするというので、2、3ヵ月の期限付きで出てきたのです。それをさらにズルズルと何回か繰り返しながら、彼は結局1年ぐらい釈放,された状態でした。その頃古い党員がどんどん検挙されていなくなるし、経験のあるものがいなくなって、歴史を正しく伝える事ができなくなっては困るので、そのためと、それから活動させても役に立たんから、モスクワヘやろうと私が言い出したんです。そうしたら佐野  博なんか、「あんな者、やってもしようがない」。「まあそう言うなよ」と僕は言ったんだ。
 転向して出てきていたから、ほったらかしにしておくわけにもいかんし。しかし、彼をモスクワヘ派遣することには、ずいぶん反対の声が強かった。

 ☆―野坂の転向というのは、偽装転向ですか。

 ★いえ、本物の転向ですよ。3・15で彼は捕まり入って、転向して出てきて、1929年6月ごろの話です。

 ☆―共産主義を捨てて、転向して出てきた人物をもう一度、モスクワヘ送り込もうとしたのですか。

 ★もう一度、転向をひっくりかえしてやれと思った。他の人はあれはもう駄目だというが、俺はそうじゃねえ、最後まで使おうと。だれも賛成しなかったよ。だからまあ、野坂を信用はしていないけど、何らかの連絡にはなるだろうし、こっちの空気も伝えて貰いたいと考え  たんです。モスクワは日本の情報に飢えておったようですし、モスクワから盛んに働きかけが来ていましたからね。
 
 
 ☆―野坂とのやりとりはどうでしたか。

 ★野坂は当時、目の柄気仝患ったあと、神戸で静釜中だフかド僕はあいにく病気で、こちらから出向くには遠すぎるので、人を介して野坂に週給を取ったんだ。面封状次郎という友人を通じてね。この男は関西学院の学生党員でした。うちの家内を引き取って面倒を見、後に俺たちを結婚させた大阪の丹羽光という小母さんの甥っ子だった。この欣次郎を使いに立てたんです。党に戻ってこいという我々の働きかけに、野坂は「勘弁してくれ、俺は転向した、党には復帰できない。病気でもあるので運動には加われないが、マルクス主義は捨てない」と、そういう返答だ。もう少し野坂というのは人間がしっかりしていると思ったが、どっちつかずの人間で、そういう返答だ。ようしそうかと。「それではシンパとしてロシアヘ行け」と言ったら、今度は「本当か、喜んでいく」と、そんなことだった。
 
  
 ☆―どうやって渡航させたのですか。

 ★陸路を通って行くルートかおり、それまでにも何名か送ったが危険だというので、別のルートを使った。ロシアの貨物船が東京・芝浦から出てウラジオまで行く。その石炭倉庫に乗せる線があった。これを扱っていたのがオムスです。そのルートはほんらい俺が使うはずだったのだが、俺はソ連へ渡航する気などまったくなかった。それで野坂にこれで行けと言ったんです。小便が大事だぞと。小便はビール瓶にいれて捨てろと。それから向こうへ着いたら、迎えがくるまで動くな、出てはいけないと、そこまで教えたんだ。
 当時、モスクワヘ人間を送り出すためには、いくつかのルートがありました。スタルイハルから東支(東清)鉄道を使うルート、上海を経由してシンガポールから入る路線、それからクアラルンプールーバンコクー雲南ルートというのもあった。最後の路線はコミンテルン極東部とは違う組織が担当し、しかも中国とソ運の仲がうまくいっているときだけ使えたルートです。スタルイハルのスタルイというのはロシア語で古いという意味、ハルはハルビンのハルで、ハルビンの隣にある駅でした。
 このようにルートといっても、ケースによって千差万別でした。たとえばスタルイハルから、東支鉄道に乗ってポグラニチナヤという駅までいく。満州とソ連国境にある小さな町です。おまえの持つ鞄はこういう色で、こんな形のバスケットだとか、服装はこうだとか、あらかじめ細かいいことが打ち合わされている。列車の中で接触するケース、あるいはポグラニチナヤの駅へ降りてから、カンツェライ(ドイッ語で事務所の意味)で待つケース、駅を降りると、駅前から坂道になっているから、そこを登ったところにある中国人の靴屋へ行くケース、一つとして同じケースはない。靴屋へ行っても先に口をきいてはならない。向こうから「ウェア アー ユー カミング フロム?(お前はどこから来たのか)」と聞かれるから、そうしたら「アイ アム フロム ゴトー(ゴトーから来た)」と答えること。これがちょっとでも違っていたら、即時その場で射殺ですよ。NKVD(内務人民委員部。のちのKGB)の任務は本人かどうかをチェックして、国境を越えさせるだけですから、こっちは命がけです。ポダラニチナヤの隣町はグロデコウオといって、もうソ連領です。そこまで行って初めて越境は完了する。
 このルートが一番使われた。プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)の第6回大会がストラスブールで開かれて、日本からは、南千住にあった東洋モスリンの女工さんだった児玉静子を送ったのも、このルートでした。彼女は後に風間丈吉と結婚しています。
 野坂はあるインタビューで越境の時の模様を聞かれ、「満州里のカンツェライの前でフットボールで遊んだ」なんて答えているが、とんでもない。実際に彼の越境に関わってきたものからすれば、こいつ、いいかげんなことを言っているなって、すぐにわかる。彼がそのインタビューで言っているのは中国人だけが使っていたルートですよ。野坂は当然スタルイハルで降りることを要求されていた。したがってこのルートを使ってモスクワヘ行ったものと思っている。
 野坂はしかし、着いてからしくじった。というのは自分は日本共産党の代表として来たと主張したんだ。私はパルタイナーメ(党員名)として山岡鉄夫という名前を登録し、使っていたから、日本共産党の代表は山岡(田中)だ、お前じゃないじゃないかというので、野坂はNKVDに検挙された。これは余談ですが、私は当時すでに谷中の全生庵を創建した山岡鉄舟に影響されていたので、山岡さんの名前を拝借したのです。
 野坂が検挙されたことは、我々の方にもソ連大使館のルートから知らせが入ったので、山懸(山本懸蔵)が行っているから、山懸に頼めと言ってやった。それでコミンテルン極東部のウラジオ機関だったオムスは、モスクワに電報を打ったんだろうな。山懸はモスクワからウラジオに飛んで来て、「野坂は党の代表じゃないけれど、スパイではないし、我々の同志だ。彼は自分を飾るためにそう言ったにすぎない」と釈明した。この山懸の証言によって野坂は釈放され、モスクワヘ行けたんです。
 あろうことかその山懸を、野坂はソ連スターリンー派に売った。問題はそれなんだよ。野坂はそういう人間だ。共産党ってそんなもんだ。人格なんかあるもんですか。自分らの出世と存在のためには何でもやる。今の自民党と一緒だ。どっちも同じ日本人だから、変わりがねえ。共産主義者になったから、人格が向上するなんて、そんな事はあり得ない。もっと悪くなりやがる。俺を見ろ。もう少し人間は良かったのに、共産党へ入ったため、これほど悪くなったり、根性もひんまがったし、人をなかなか信用しなくなった(笑)。この俺の唯一つの救いは、紳士面して表面を取り繕っている背徳の徒と違って、少しでも人間性を取り戻そうと思って、禅の修行を今日でも本気になってやっていることだけだ。

 ☆―その山懸、つまり山本懸蔵ですが、どんな人物でしたか。

 ★かわいそうに、いい男でした。三・一五で逃れるんです。肺が悪いと言うのでたしか浅草でしたが、奥さんがいかにも寝ているように取り計らって、2階の窓からそっと下ろして逃がした。それでその後、党の命令でソ連へ渡るんです。警視庁は山懸は肺病でもう立てない身体だからと、警戒を厳重にしなかったので逃げられたんです。党の連絡を待って、正式にソ連へ入っています。ですから山懸はスパイでも何でもありませんよ。奥さんは「シベリアおまつ」と呼ばれた、水商売か何かをしていた人で、山懸に惚れ込んでね。最初にソ連にいった頃だから、党創設のころでしょうね。ウラジオかどこかで知り合ったようでした。奥さんは度胸があったから、警察が踏み込んできてもそっと逃がして、4、5日ばれなかった。

 ☆当時の彼の肩書きは何だったのですか

 ★総同盟の委員長か副委員長でした。それから党の中央委員。日本の古い労働運動の闘士ですよ。大衆煽動をやらしたらうまかったなあ。小樽で沖仲仕の大争議があってね(昭和2年6月)、海上労働者の総罷業で規模は2万人とかいった。彼と一緒に現地へ行った。彼は表の労組の代表として演説をしたが、こっちは裏でオルグです。裏の指導者は三田村四郎だった。陰のオルグとして入り込み、組織を作って相手に打撃を与えてゆくのは、三田村が抜群だった。一方、山懸だが彼の演説を聞くと、大衆はワーッと沸いて立ち上がったもんだ。非常に優秀な大衆組織家であり、活動家でしたね。

 ☆学者肌の野坂とはずいぶん違いますね。

 ★全然違う。あんなのが大衆の前で演説をしたら、燃え上がった火が消えちまうわ(笑)。愛される共産党くらいが関の山だ。俺が言いたいのは共産党はたしかに野坂を解任、除名処分にしたが、なぜ山懸の名誉回復をしないんだということだ。各国の共産党は山懸のような経歴を侍つ者をすべて名誉回復し、党籍回復もやっているのに、なぜ日本共産党はそれをやらないんだということだよ。

 ☆―ほかの同志たちについての寸評を聞かせてください。

 ★鍋山は戦術家、佐野学さんは戦略家で学者、渡辺政之輔は人との付き合いがうまく、巨大な組織者だった。理論家としては高橋貞樹だった。モスクワにあったコミンテルンの幹部養成学校のレニンスキークルスヘ送られたが、ドイツ系ユダヤ人で天才といわれたハインツ・ノイマンと論争して、一歩も引かなかった。しかし、このノイマンも最後はスターリンに殺されている。スターリンという男は、猜疑心が強く、たとえ自分に忠誠を誓った部下や同志であろうとも、自分の地位を脅かしそうなものは一切認めず、これをまだ芽のうちに摘み取り、文字通り根こそぎ殺してしまった。それがロシアというものを、この上もなく惨めなものにしてしまった。それが共産主義というものの本質じゃないですか。同時にそれは人類というものが、自己の保身と出世のためには人を裏切る冷酷な存在でもあるということですよ。

 ☆モスクワヘ渡った山懸については、どう見ていたのですか。

 ★山懸は殺されるぞと。彼は反スターリンだ。率直に物を言う男だから、スターリンのやリ方は真の共産主義じゃないと、あれはかならず言うぜ、そうしたらやられるぞ。これは我々の常識だった。我々ばかりではなく、ソ連を知っている連中、コミンテルンを知っている連中、スターリンを知っている連中、すべての常識だった。各国の指導者からそういう犠牲者を出さして、叩くというのがスターリンのやリロで、それを実行したのがベリヤやKGBの連中だった。

 ☆―コミンテルンではどんな人間と付き合ったのですか。

 ★まずヤンソン。彼が日本共産党と中国共産党を担当していた。クーシネンもいた。彼はコミンテルンの書記長。ヤンソンはもともと船員でラトビア人だった。好人物でしたが、最後はスターリンに殺されてしまった。1929年ごろはジョンソンという名前で日本にきていました。確かソ連大使館の商務官というのが公式の肩書きだったとおもいます。これは一皮剥けば、コミンテルンの日本に対する組織者であり、対日工作の責任者でした。それからブハーリン、ジノビエフ、力-メネフもいたなあ。
 戦後、中国へ行ったときに昔の話をしたら、中国共産党の古い幹部連中は、みなヤンソンのことを知っていましたよ。彼はコミンテルン極東部長をやり、中国共産党も彼の支配下でした。周恩来が海外担当、李立三が国内担当と、コミンテルンに代表を2人出していたのは中国だけでした。それだけ中国の党が大きく、重要だったということです。

 ☆―いま旧悪を暴かれた野坂が、日本共産党を除名されたことについては、どんな感想をお持ちですか。

 ★野坂は自分が粛清されるから、山懸(山本懸蔵)を犠牲にし踏み台にして殺して、自分は党の代表だと名乗った。そんな野坂のような者がやってきた「愛される共産党」なんか、こんなもの、屁みたいなもんだ、いつでも潰してやるわという思いでしたね。(腕を指し)この辺にできた傷みたいなもんですよ。共産党が野坂問題であっぷあっぷしているぐらいがちょうどいい(笑)。
 それと、野坂という男は典型的なジェントルマンで、温厚で、実に狡猾で、陰謀家で、冷酷無比な人間です。まさに共産主義、スターリン主義にぴったりの男だ。そんな男をモスクワヘ送ろうと主張したのは、かえすがえすも私の失敗だった。あの時、私が直接、野坂に会っていれば、彼の本質を見抜けたんだが、とても動ける状況ではありませんでした。というのは、あの時、私は風邪をこじらせ肺炎を患った揚げ句、42度の高熱を出して、宇都宮徳馬君の屋敷に隠れて、静養させてもらっていたんです。非合法だから医者にもかかれない。もうだめだと言われたんですが、彼の家にあった漢万薬を飲んで助かったんです。彼はそれからまもなくして、中国の薬草を主原料とする薬を開発して、ミノファーゲンという会社を興すのだが、それぐらいだから彼の家にはいろんな漢方薬があったんですよ。そんな訳で、関西におった西村欣次郎という男を通じて、野坂をモスクワヘ行くように工作したのです。
・・・
  『田中清玄自伝』 <了>。 
 

 ★<追記> 因みに、【佐伯祐三:調査報告】(左のリンク先をクリックしてどうぞ)には、以下のようにあります。
 
 
 ****************

 ★  第七章  帰国時代  
    第九節 不倫騒動と出立

 幡ヶ谷の周蔵の家は、五百坪ほどの地所に建つ二軒長屋で、壁を合わせた隣に、 管野敬三(仮名)という陸軍軍属が住んでいた。管野の父は、戊辰戦争の頃、会津藩の戦死者が街中に放置されていた時、三番家老町野主水が死体取り片づけのために、秋田から呼んできた内の一人と伝わる。以後、親子二代にわたり、陸軍の下で特殊な役目を負っていたい。現に管野の長男は、陸軍官舎で生まれている。
「救命院日誌」昭和二年四月二日条。
 ケフハ 仰天スルコトガヲコッタ。管野敬三ノ妻君ガ 佐伯トノ浮気ガ発覚シテ 離別シタノデアル。
 その妻 由利子(戸籍名フミ)が、管野が軍の用務で遠方に行ったまま一年も帰宅しないうちに、佐伯と出来た。三月三十一日朝、妊娠していることが夫に知れて、自分で離婚を申し出た。家を出たが、行き場がないので、巻さんの家に身を寄せている。周蔵が、子供の父親は誰かと聞くと、巻が怒ったように、「佐伯さんです」と云った。以上が「救命院日誌」の要約である。

 因みに、会津藩筆頭家老田中土佐の子孫が、弘前高校生の共産主義者で、以前からしばしば上京していた。この三月に高校を卒業して東大に入り、管野家を訪れてくるようになった。夫人の実家二階堂家が会津藩士で、田中家の親戚だからである。やがて隣家の周蔵と親しくなるその東大生は、名を田中清玄という。ところで「周蔵手記」同年三月条に、巻さんが、函館の女学校を出て東京で裁縫の職についた妹チヤさんを引き取り、幡ヶ谷の隣家を借りて一緒に住む、という記載がある。隣家とあるが、正確には近隣ということであろう。

 同月四日条、要約。管野は由利子と離婚すると断言し厳しい状況であるが、相手をさほど憎んでおらず、妻君の不貞のみを怒っている。問題の由利子は周蔵と同じ年格好(実際は明治三十年一月十八日生まれで、周蔵より三歳下)だが、管野との間に二児がある。
 




●『田中清玄自伝』
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)
 明治日本における真の権力を掌握した薩摩ワンワールド ◆落合莞爾
 (「ニューリーダー」6月号 はあと出版株 ☎ 03・3459・6557)
 の章末に下のような一節☆があり、最近文庫化されて再読した『田中清玄自伝』(ちくま学芸文庫 2008・5・10刊)にも同様な記述があったので、先ず『田中清玄自伝』の方を紹介しておくことにする。
 
 
 **************
 ☆「・・・予備役に編入された高島は、一年後の明治三十二年二月に枢密顧問官に就くが、その後の高島の境遇を示す史料は甚だ少ない。ところが近来発掘の『宇都宮太郎日記』の明治三十三年条に、これに関して甚だ興味深い記事がある。平和主義の参院議員宇都宮徳馬の父として知られる宇都宮太郎は佐賀藩士の出で、当時は陸軍少佐・参謀本部員であった。後に上原勇作の股肱となり、陸軍大将に昇る。上原が吉薗周蔵に命じて作らせた阿久津製薬が、後にミノファーゲン製薬となって、宇都宮の長男徳馬の政治活動を助けることになる。」(●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18) )
 ***************

 以下『田中清玄自伝』より。*******

 ●東北学連や新入会の仲間たち
 
 ―実際に左翼運動に入っていったのは、何かきっかけですか。

 大正14年に小樽高商軍教(軍事教練)事件というのがありまして、小樽高商の車事教練を廃止する、しないで騒動となって、弘前でも廃止せよというビラをまいた。それが最初の活動だった。右翼の学生がいきリ立つ。よしっ、やるならこいっ、負けるもんかいと。小さいときから剣道や合気道をやらされていたのが役に立ちましたね。学校はただ保守的なだけですから、どんどん社会科学研究会を伸ばしていって、この年に東北学連ができたのです。

 ―どんな顔ぶれだったのですか。

 仙台にあった東北帝大の島木健作、玉城肇らに鈴木安蔵が中心となって、二高から島野武(元仙台市長)、高野信、角田儀平治(守平)、水戸高から宇都宮徳馬、水田三喜男、山形高から亀井勝一郎、小林多喜二らが来ていた。俺と島野とは兄弟のように親しくなった。東大時代も一緒のアジトだったし、俺と一緒のころに入党した。あれは本来無党派、私らと同じです。高野君もオルグに来ながらバイオリンを持って来て、「ここは静かでいいし、お前のとこは御馳走があるから」って(笑)。私はお金には困っていなかったから、まあ裕福なほうだったんでしょう。
宇都宮は水田と同じく大学は京都ですが、ずいぶん付き合いました。肝胆相照らして、彼も入党させた。でも俺が言わないからだれも知らない。いい奴ですよ。親父は宇都宮太郎という陸軍大将で上原勇作元帥の後継者、お母さんは鍋島男爵家の出だ。あれは戦前からミノファーゲンという製薬事業を興し、事業家としても思想的にも天才ですよ。
 宇都宮には思想的にはもちろん、事業や情報の面でもずいぶん厄介になった。というのはあれの家には、親父の副宮たちがしょっちゅう来ているから、情報が入るんだ。「おい田中、お前憲兵に狙われているぞ。俺と一緒に飲みに行ってりゃ安全だ」なんてね(笑)。それでずいぶん助かった。彼が連れていってくれたのは、柳橋の「柳光亭」とか「亀清」とかの料亭だった。一見(いちげん)さんが行ったって上げてもらえるような店ではありません。幕末の閣老や明治の元勲たちが通った店です。葉山に別荘を買ったとき、金が足りなくなって、彼から借りたこともあったなあ。1万5千円だったか、3年後に返しました。彼はずいぶんいろんな人を助けている。日中友好協会なんかは彼のお陰ですよ。ずいぶん喧嘩もしたけれど(笑)。 


 ・・・中略・・・
 ―いま旧悪を暴かれた野坂が、日本共産党を除名されたことについては、どんな感想をお持ちですか。

 野坂は自分が粛清されるから、山懸(山本懸蔵)を犠牲にし踏み台にして殺して、自分は党の代表だと名乗った。そんな野坂のような者がやってきた「愛される共産党」なんか、こんなもの、屁みたいなもんだ、いつでも潰してやるわという思いでしたね。(腕を指し)この辺にできた傷みたいなもんですよ。共産党が野坂問題であっぷあっぷしているぐらいがちょうどいい(笑)。
 それと、野坂という男は典型的なジェントルマンで、温厚で、実に狡猾で、陰謀家で、冷酷無比な人間です。まさに共産主義、スターリン主義にぴったりの男だ。そんな男をモスクワヘ送ろうと主張したのは、かえすがえすも私の失敗だった。あの時、私が直接、野坂に会っていれば、彼の本質を見抜けたんだが、とても動ける状況ではありませんでした。
というのはあの時、私は風邪をこじらせ肺炎を患った揚げ句、42度の高熱を出して、宇都宮徳馬君の屋敷に隠れて、静養させてもらっていたんです。非合法だから医者にもかかれない。もうだめだと言われたんですが、彼の家にあった漢万薬を飲んで助かったんです。彼はそれからまもなくして、中国の薬草を主原料とする薬を開発して、ミノファーゲンという会社を興すのだが、それぐらいだから彼の家にはいろんな漢方薬があったんですよ。そんな訳で、関西におった西村欣次郎という男を通じて、野坂をモスクワヘ行くように工作したのです。
 

 文字通り、歯に衣着せずに語りつくしたこの「自伝」は他にも興味深い語りに満ちており、

 巧まずして昭和史の貴重な異伝となっている。
    

  引用・紹介を続けます。

 聞き手☆は、大須賀瑞夫(おおすが・みずお)氏です。

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 ●出獄後にもらった一万円

 ☆函館中学時代のことを話してください。

 
 ★まず函館の町について触れましょう。ご承知のように函館は、明治維新前から下田、横浜、兵庫(神戸)、新潟とともに開港されていた。いわゆる五港開港ですね。高田屋嘉兵衛はもちろんだが、北洋漁業をはじめとする遠洋漁業、海運業、倉庫業が非常に発展し、商人道が発達してスケールの大きい商人が輩出した町でした。たとえば日魯漁業を作った堤清六、玄洋社で頭山満先生に薫陶を受けた真藤慎太郎という人もいた。真藤さんなどは戦争中でも軍を頭からどなりつけて黙らせるぐらいの豪傑でした。
 ・・・中略・・・

 それから音楽が盛んだし、至る所モダーンな西欧風の雰囲気が函館にはありました。作家も多いですよ。中学の同級に亀井勝一郎がいました。ハリストス教会の下が亀井の屋敷で、親父さんは函館の古い商家の一人で銀行屋さんだった。

 函館新聞社の社長に長谷川淑夫(よしお)という人がいて、その長男が『丹下左膳』を書いた林不忘です。彼は本名を海太郎といい、牧逸馬、谷譲次というペンネームでも書いていた。俺よりも六つ上だが、中学のストライキ事件の首謀者と見なされ、反発して自ら退校、アメリカに渡ったんだ。その弟が洋画家の潾二郎(りんじろう)、ロシア文学者の濬(しゅん)、作家の長谷川四郎です。私ととくに仲が好かったのは濬だ。お父さんという人は犬養毅とも親交のあった新聞人で、日露戦争のときには戦争反対論者だった。ですから、男の子供がたくさんいたけど、だれも軍隊になんか行きませんよ。そういう自由の気風がありましたね。(北一輝との交流も。)
 それから久生十蘭がいました。本名は阿部正雄、俺よりも四つ上で、亀井の家の隣だった。これは林不忘とは従兄弟同士でね。彼は天才でしたね。そのかわリ学校じゃ不良少年だ。あまり学校などは来ずに、いつもギターを弾いていたなあ。水谷準も函館です。本名は納谷三千男。大正末期に雑話「新青年」の名編集長として知られた人物だが、納谷の親父は日本郵船の函館における幹部だった。日本郵船といえば今東光、今日出海兄弟も函館でした。もともとは弘前の出身だが、父親が日本郵船の函館支店長で、弟の日出海は私と同級でしたので、今兄弟とも親しくつき合いました。石川啄木はもう亡くなっていましたが、娘が女学校におりましてね。これと北海タイムスの記者が恋愛をしたというので、評判になったことを覚えています。

 ☆―函館は北洋漁業の中心地で豊かな経済力を持ち、同時にヨーロッパ式の文化や雰囲気を、フランス、イギリス、ロシア、中国、アメリカ人などを通じて取り入れてきた町だったということですね。

 ★うん。そういう気風の中で私は少年時代を送った。生活はヨーロッパ風、だけど精神は会津の精神です。舟見町という所に叔父の家があり、郵船会社の函館支店長をやっていた。俺が七飯から出て行くと、今日はどこの船が入ったとか言ってね。それでトランプをやって遊ぶんだが、久生十蘭が一番うまかったねえ。

 当時、函館の人ならだれでも知っていた言葉に、ボウギシャというのがあります。路面電車は二種類あり、列車並みの長い方をボウギシャと呼んだんです。束京からきた連中は、こっちが「ボウギシャで行くから、湯の川で侍っていろ」なんて言っても、きょとんとしている。弘前高校へ進んでから、英文学の先生に高杉という先生がおりましてね。後に早稲田の教授になった人です。この先生に函館では長い電車をボウギシャと呼んでいるという話をしたら、「ほう、函館ではそういうのか。英国ではボウギーというのだが、日本で聞いたのは初めてだ」と感心されて、こっちも英語からきているのを初めて知ったぐらいだ。
 ・・・当時の函館は近代的な都市だったのである。

 
 ●東北学連や新入会の仲間たち
 
 ☆―実際に左翼運動に入っていったのは、何かきっかけですか。

 既引用につき、略。

 ☆―弘前時代には農民運動もやっていますね。

 東北学連を作った後、青森県津軽の車力村という農村で、青森県農民運動を起こしたんです。車力農民組合というのを作ってね。淡谷悠蔵さんや、共産党の古い活動家だった大沢久明さんらと一緒に。淡谷さんは歌手の淡谷のり子さんの叔父さんです。

 ☆―当時の党内の様子はどうでしたか。

 ★大正15年、共産党系左翼理論は「俺は日本のレーニンだ」と自己宣伝していた福本和夫でした。東大新人会も社会科学連合会もあげてそうでした。一高出身の佐野文夫や志賀義雄などは新人会のメンバーだが、みな福本イズムになびいていた。学生はどどうしても理論でいくから、福本イズムのような観念論に取り込まれてしまう。しかし、あれがどれだけ日本の労働運動や無産運動を悪くしてしまったか。コミンテルンが「日本の党は堕落してしまった」と憂慮して、ブハーリンが中心になって、1927年7月にモスクワに日本共産党の指導者と、アジア問題の専門家を招集して討議を重ね、テーゼができた。
 その前年の1926年、つまり大正15年12月5日、山形県五色温泉での日本共産党再建大会で、福本は党中央政治部長に就任し、従来の指導理論・山川イズムを圧倒してしまっていた。佐野学らは第一次共産党検挙事件で獄中にいましたから。その時、福本を担いで「これはレーニンの再来だ」と幅をきかせていたのが、徳球(徳田球一)だった。この男は単純だから。

 ☆―福本はモスクワヘ呼ばれましたね。

 ★モスクワは逐一、日本の状況について報告を受けていましたから、福本イズムを日本から排除するつもりで、手ぐすね引いて待っていたんです。モスクワにレニンスキークルスというコミンテルンの指導者養成の最高機関がありました。各国共産党の一番いいのを集めてね。日本からは高橋貞樹、佐野博、これは佐野学の甥で、後に俺と一緒に共産党を再組織した。
ドイツ共産党からハインツ・ノイマンというこれはユダヤ人。ものすごく頭がいい。高橋はそれに負けなかった。そこへ福本のほか、徳田球一、渡辺政之輔、鍋山貞親ら日本共産党を中心とする代表が呼ばれて行った。福本はコテンパンにやられて、もう言葉もない。日本人同士を議論させたんです。高橋が急先鋒で、一番強烈に福本を批判した。福本イズムに立つのは、福本本人と徳球だけでした。それでいっぺんに福本はひっくリ返って、自説撤回だ。
 この時に面白いのは、最後の批判会でも福本はコテンパンにやられるわけです。するとあれほど福本を礼讃していた徳田球一が、
 「俺は福本によって迷惑しているんだ。福本の欠点は前から分かっていた。しかし、福本はなかなか自説を撤回しないから、俺がだましてモスクワヘ連れてきたんだ」
 とぬかして、その掲げ句に福本を殴るか蹴るかしたんだな。渡辺政之輔は自分も福本イズムに走っていたから、それまで黙って聞いていたんだが、これを見て、
 「この野郎、貫禄みたいな裏切り者があるか。今までさんざん福本を担ぎ上げてきたのは、お前じゃないか」
 そう言って、いきなり徳球を殴り倒した。そういう一幕もあったと、この話は鍋山からも聞いたし、佐野博からも聞いた。徳球っていうのはそんな人間だとね。こういうのは徳球に限らず、共産主義者には多いんです。

 それでできたのが<二七年テーゼ>で、これが日本共産党再建の根本方針になった。・・・中略・・・
 


 ●『高橋是清自伝』にみる、フルベッキ。
 ●『高橋是清自伝』にみるフルベッキ。

 前稿で、こうあった。

 「 小島: フルベッキは大隈重信と副島種臣の先生として、万国公法やアメリカの独立宣言を教えているし、明治になって東京に招聘され、大学南校の教頭に就任している。フルベッキが南校の構内に住んでいたので、そこにいた高橋是清は彼から歴史を学んでいるし、聖書の講義を受けてキリスト教の信者になったことが、★『高橋是清自伝』(中公文庫)の中に書いてある。高橋是清までがフルベッキ人脈かと驚きました。」

 近現代日本の自伝中の「白眉」だと確信する『高橋是清自伝』から当該部分を紹介しておきます。

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●孤高の友と校長辞職の事情

 明治8年(22歳)10月モーレー博士は博覧会の要務をおびて、外国へ出張せらるることとなったので、私も現職より、大阪英語学校長に転勤を命ぜられた。そこで、私は早速赴任の支度に取りかかり、それがすっかり整ったので、後藤常(一条十次郎)のところへ暇乞いに出かけた。
 後藤はアメリカから帰った後、しばらく我々と一緒に森さんの御厄介になり、大学南校教官時代も同様一緒であったが、明治3年鮫島さん、がフランス公使となられた時、外務書記生として随行して行った。そうして、駐在約3年ばかりで暇を請うて帰って来たのである。元来、漢学の力のある人で、かつては老荘の学に熱中したが、私がフルベッキ先生にキリスト教の講義を聞くころには、彼もともに同席して熱心に聴講していた。もっとも私は信者になったが、彼は信者にまではならなかった。それがフランスに行って以来は、却って仏教の研究に煩き、帰朝以来は英語も出来、フランス語も上手であって、外務省では役に立つ人として借しまれていたのに、自ら求めて辞職し、番町の今の山本達雄君の邸の隣に引込んで、一切世間との交際を絶ってしまっ  た。友人たちはしきりに留めたが、彼は何の介意するところもなく、初一念を徹して行くので、ついには誰も取合わなくなり、訪う人さえも絶えてないという寂しい生活であった。だが私だけは前からの先輩ではあるし、どうかしてもう1度世の中に出そうと思って、休日などには、必ずこちらから出掛けてはもう1ぺん世間へ出てはどうだと勧めたものだ。しかるに後藤は「世の中に出る前にまず自分を修養せねばならぬ。自分が出来ていないで、役人などになるのは間違いだ」という議論で却って私に仏教の研究を勧めるという始末であった。従って私が後藤の所へ行って、今度大阪に行くようになったことを話すと、彼は非常に失望して、「世の中の人がみんな自分から離れて行ってしまう時に、君だけはいつも変らず訪ねて来てくれるので誠に嬉しく思っていた。しかるに君はかねて私に対して世間に出て大いに働けというが、私はまた人間が出来てからでなけりゃいかぬといって、この議論の解決はまだついていない。それでまずこの議論の解決からつけよう。そうしてもし私が敗ければ、君の言に従い、君が敗ければ私に従うことにしよう」と言う。
 
 そこで私も「そりゃもっともだ、大いに議論しよう」とその夜であったか、翌晩であったか、一晩夜の更くる(ふける)まで激論した。しかるに、議論の結果は私の方が歩(ぶ)が悪く、ややもすると破られる。よって、私は約束に従い「よし君の言に従おう、さて大阪行きはどうしよう?」と相談すると、言下に「すぐ行ってやめて来い」と短兵急である。
 「今突然辞するについては、いつも自分に親切にしてくれる田中文部大輔や督学局長の野村泰介(もとすけ)君、同僚の服部一三君らには、何とか挨拶をせねばならぬが、何といって説明すればよいか」というと、

「理由はいうな、単に考えるところがあるからといえばよい、そうしてすぐに辞表を出し、旅費や手当なども返してしまえ」という、実はその時すでに洋服代やその他に旅費手当の内をかなり使い込んでおった、が、それは後藤に貯えがあるからその内から支払っておけというのでそうすることにした。

右のような次第で、文部省へ行って、理由もなにも述べず、単に考うるところがあるからといって辞職してしまった。これが大阪英語学校長の辞令を受けてから四日目の10月14日、ついに1回の赴任もせず、校務も見ずして、依願免職となったのである。省の人はこれを聞いて、高橋は気狂いになったと評判しておったそうだ。

 それから私は番町の所に同居し、全く世間に顔出しもしないで、2人きりもっぱら仏書の研究に精進した。しかるに後藤と私は、半年ぐらいの内に、仏教の主旨について意見が合わなくなった。今から考うれば、彼は少しく悟り損っていた。即ち彼は私心なければ何をしてもよいという一種の邪道に迷い込んで、すべての議論が私とは異なって来たので、とうとう2人はわかれるようになった。ちょうどそのころ肥田昭作君が東京英語学校の校長をやっていたので、そこへ行って教官となった。これが明治9年(23歳)5月のことである。

 ●悲痛なフルベッキ先生の晩年

 これより先、モーレー博士が文部省へ来るという噂が立つと、フルベッキ先生は「そうなりゃ、もう自分は要らなくなるだろう。ついては、どこか適当な借家を探さねばならぬが、どうもよい家がありそうにない。一層のこと屋敷を買って、小さくとも自分の家を建てたいと思うが・・・」という相談であった。その時分はまだ条約改正前で、外国人の不動産土地所有権を認めない。それで、先生はさらに「日本政府では、まだ外国人の不動産土地所有権を認めないから、自分で家を建てようと思えば、誰か名義人を頼まねばならぬ。ついては一切のことを君にお願いしたい、どうか君の考えによってしかるべき屋敷を一つ探して貰いたい。もちろん代価はすべて自分が払うが、ことごとく君の所有物としてもらって差支えない。万一君が心変りして、自分の所有権を無視されても自分はいささかも怨むところはない」といわれる。

 フルベッキ先生は、当時文部省の顧問、開成学校の教頭として、随分顕職の人にも知己が多かった。高位高官の人たちが外国の事情を知りたいと思う時には、まずフルベッキ先生を訪ねて教えを乞うた。就中、加藤弘之、辻新次、杉孫三郎などいう人々は、しばしばやって来て、先生の教えを受けた。
 そういう立派な人たちと親しい交際があるのにかかわらず未だ一介の貧書生である私に対して、かくまで篤く頼まれることは、私に取っては面目の至りであるが、考えて見ればかようなことは自分の柄にないことでもあるから、一旦は断ろうかとまで思ったが、翻ってフルベッキ先生の身になって考えると、私に頼まれるなどはよくよくのことであろうと思い返して、快く引受けることにした。

 方々屋敷を探していたら、駿河台の鈴木町に立派な屋敷があったので、早速談判してそれを買い求めた。その屋敷というのは、一方に日本家が建っており、他の方には広い空地が残されてあった。それで空地を地均し(じならし)して、そこに木造2階建ての洋館を建築することにした。
 フルベッキ先生は、洋館の建築中、とりあえず日本家を手入れしてそこに住まわれたが、洋館が出来上ると、すぐにそれに引越された。そうして私に日本家は空いてるから、いつでも来てお住まいなさいといわれるので私も言葉に甘えて引越した。

 この家は以前旗本の邸宅ででもあったろう、かなりの平家建てで、長屋も附いていた。長男の是賢は明治10年(24歳)にこの家で生れた。
 明治11年になって、フルベッキ先生は、いよいよ帰国せらるることとなった。それで先生がいわれるには、
「自分は日本政府からたくさんの俸給を戴いていたが、今財産として残ってるものは何もない、ただこの邸宅ぐらいのものだ、今度帰国するについてはどうかしてこの邸宅を売って貰いたい」 そこで私は早速当時懇意にしておった金持の茅野茂兵衛と辻金五郎とにそのことを話した。すると、両人は、
「そういうわけなら、我々が引受けましょう」
といってくれた。
 一体いくらくらいの値打があるかとだんだん調べて見ると、屋敷の買入れ代と洋館の建築代とで、6千数百円の金が出ている。その他に敷物だの、窓掛だのという家具類があるが、これはいくらになっているかフルベッキ先生にも分らない。とにかく、まず6千円から7千円までの間で売れればフルベッキ先生には大満足だ。先生の方では、住み古した家だから、その値段で売れるかどうか分らない。しかし自分は今急いで帰らねばならぬところだから「椅子やテーブルはそのままにつけて置く」といわれるし、茅野も辻も、フルベッキ先生の事情には大変に同情して「何しろ値段の標準がつかないで困るが、とにかく6千5百円で買いましょう」ということになって、茅野の方へ買い取られた。フルベッキ先生は大変に喜んで、間もなく日本を発ってアメリカヘ帰られた。私もそれと同時にこの屋敷を立退いて、茅野の2階に引越した。

 フルベッキ先生が、いよいよアメリカヘ帰らるることとなると、畏きあたりでは先生多年の功績を嘉して、勲三等に叙し旭日章を授けられ、かつ『大日本史』その他を下賜せられた。当時外人に勲三等を賜うがごときはまことに異数のことであった。

 
 さてフルベッキ先生は、明治11年の夏、家族を引連れ、桑港に上陸すると、ひとまずホテル・ルス・ハウスに入り、間もなくセコンド・ストリートに借家を探してそこに住まわれることになった。
 その時、私と鈴木宛てに手紙を寄越されているが、物価の安いといわれている桑港も、9人の家族を支えねばならぬ自分に取っては何を見ても高いように思われてならぬ。日本では皆が親切で生活も経済的にゆけたが、ここではそれが出来ないから、今後2年とは暮せまい。ただ果実の豊富なことだけはここのとりえだ。・・・とこう書いてあった。
 それから2ヶ月ほど経って、今度は私への手紙に、―自分は健康が回復次第直ちに日本へ帰ることに決心した。ここでも伝道や教育についてなすべきことがないでもないが、自分はここよりも日本へ行った方が、モットよく自分の天職を尽すことが出来るように思う。そうして、今度日本へ行くには単身か、さもなくば、ごく少数の家族で行く。それから、私はもう政府のお雇いは御免被りたい。ただ教育方面からの話があれば、それは考慮して見ねばならぬが、他の方面は一切お断りして、もっぱら願訳と伝道に主力を尽したいー

 先生は日本を去っても、日本人の厚情、日本の住みよいことは非常に執着を持っておられた。この手紙の後半にも、明年の秋には是非日本へ帰りたいと繰返し繰返し書いてあった。
 その後、先生と私とは久しく消息を絶っていたが、明治22年(36歳)ペルー銀山の用務で渡米した時先生の家族をカリフォルニヤの田舎に訪ねた。当時、先生は日本へ行って留守、夫人は病気で会えなかったが、お嬢さんが出て来て、「今、自分は小学校の教師をしてやっと生活だけは続けているが、何とかしても1度日本へ行きたいと思う。妹は桑港の幼稚園で保母をしている、弟のギドウも桑港で働いている」という。いかにも気の毒な家庭の有様であった。

 翌23年、私はペルーから帰朝したが、ある日用件をもって横浜へ行ったら思いがけなく、バッタリ先生と出会(でくわ)した。無論先生はその時も宣教師の資格をもって来ておられたが、まことに悲惨な境遇であった。というのは、元来フルベッキ先生は、最初に来朝せられた時宣教師として来られたのであったが、その主義とするところは、ただやたらに教理を弘めるだけではいかぬ。その根本は教育でなければならぬというにあったから、本職の宣教師の方よりもむしろ政府の雇い人として、教育のことに力を注がれた。

 実際、また東京へ来らるる前、長崎時代から先生はもっぱら力を教育のことに用い、その門下には大隈侯始め多数の肥前人がおった。それで先生が大学南校に聘せられて東京へ移られると同時に、肥前生と称えられた書生の一団が、同じく大学南校に転校して来たくらいであった。そういうわけで、先生は宗教家としてよりも、むしろ教育家として働かれ、ことに大学南校の教師となられてからは政府より手厚き給与を受けていられたので、仲間の宣教師どもは窃かにこれを妬みかつ非難しておった。

 従って2度目に宣教師として来朝せられた時も、もちろん日本語はさい輩を抜いているし、説教や文章なども立派であったが、宣教師仲間にはあまり気受けが好くなかった。その時先生はいかにもしんみりした調子で、「自分は今宣教師をやっているが、一層のこと日本に帰化したいと思う。日本政府から月百円の給与を保障してくれるならば、それで自分は食って行けるから日本人として一生を日本に仕えたい」
といわれた、私は先生の境遇をいかにも気の毒に思ったけれども、自分自身がペルー鉱山の失敗後で、如何ともすることが出来なかった。そこでそのことを加藤弘之、辻新次、浜尾新君らに話して助力を請うた。これらの人々も大いに同情して、文部省その他に尽方してくれたけれども、それがうまく行かぬ内に、先生はとうとう脳溢血で亡くなられた。誠に悲痛な最期であった。

  <了> 
 




●近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈
<参考>

 藤原肇氏の対談集『賢者のネジ(螺旋)』(たまいらぼ出版 2004・6・30刊 1500円)の第六章としてフルベッキに関して興味深い対談が収録されているので、紹介しておきます。
 ***************  


 ●第六章 近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈(対談者 小島直記))

 ★三宅雪嶺『同時代史』のスゴさ

藤原 日本の歴史は皇国史観や支配者のエゴで、意図的に歴史の捏造が行われて来た過去を持ち、その名人が私の家系に繋がる藤原不比等でした。そのために日本の古代史は支離滅裂ですが、それに等しい間違いが氾濫しているものに、幕末から明治の初期にかけての歴史がある。小説が歴史を僣称していることが原因で、嘘が虚構の形で罷り通ってしまっているために、われわれは祖父の世代の歴史に関して、本当のことを知らないでいると思う。だから、小島先生に書き直しの仕事をお願いしたいのです。あの時期の人物について多くの本を書かれ、伝記作家として時代的な背景を描きながら、そういうバックグラウンドと史眼を持っておられる点で、先生の右に出る人は先ずいない。

小島 そういう点では三宅雪嶺の『同時代史』がいい。彼は日本の歴史を自分が生まれた万延元年(1860年)から始めており、私は読書会でこの本を会員と一緒に勉強したが、実に偉い学者だと実感しました。

藤原 三宅雪嶺は強烈な国粋主義者だというので、私は彼の本をこれまで1冊も読んでいません。どんな風に偉いのかを教えていただけませんか。

小島 一口で言えば、それは彼が大学教授にならなかったことです。京都大学の文学学部長の話も歯牙にかけなかったし、博識で人格高潔な雪嶺は在野精神を誇り、言論人として無冠の帝王として生涯を貫きました。彼は東大の文学部で哲学を専攻しているが、在学中に教室ではなく図書館に通ったと言われ、そのシャープな頭脳には快気が充満していました。『同時代史』が持つ比類ない素晴らしさには、いまどきの日本の歴史学者がどんなに逆立ちしても、あれだけのものを書けるとは思えません。民族の誇る宝だのに、惜しくも絶版のままです。

藤原 そんな凄い本が絶版で誰も知らないとは、日本人の歴史感覚が衰えている証拠ですね。恥ずかしながら、私もその本の存在を知りませんでした。

小島 三宅雪嶺は当事者の手紙を資料に使っており、明治時代は人と会った後は必ず手紙を書き、会見内容をきちんと整理しておく習慣がありました。だから、この手法を活用することで、事実をきちんと押さえ、歴史とはこういう構成で組み上げるのだと、自ら歴史に取り組む姿勢を明示しているのです。その点では、出まかせを並べ立てて平然としていた徳富蘇峰などは足下にも及ばないし、言論人としての信念も思想も格も違う。

藤原 徳富蘇峰は変節漢だけでなくインチキ男です。権力に懐柔されて御用言論人になってしまい、政府のプロパガンダの旗振り役でした。だから、弟の徳富蘆花からも変節を理由に義絶されており、行き着いたところはファシストの権化でした。三宅雪嶺が歴史の資料に手紙を活用したように、マリアス・ジャンセンも『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社刊)の中で、手紙を使って心理分析と状況判断をしており、幕末から明治維新にかけての時期を描いたものでは最高です。続いて大仏次郎の『天皇の世紀』(朝日新聞社刊)があり、その次には奈良本辰也が書いた各種の歴史評論がある。その後に、萩原延壽の『遠い崖』(朝日新聞社刊)や村松剛の『醒めた炎』(中央公論社刊)になる。しかし、小説は10位以下というのが私の判定です。

小島 小説はフィクションとして読者に迎合するから、どうしても面白くしなければならないので無理がある。あれだけ国民に人気のある司馬遼太郎でも、かなり嘘を書いているのに、読者はそれに気がつかないで、小説を歴史と取り違えている。小説を書くときの悩みはそれをどう克服するかであり、そこに小説や文学の限界を感じた。そのために、私は同じ小説でも伝記を書くことに人生の路線を改めました。そして、人間を描くことを通じて彼が生きた時代に迫り、歴史の空白部を埋めることができないかと思って、これまでなんとか仕事を続けてきたが、雪嶺の『同時代史』を読んだ時には衝撃を受けました。

★幕末史で見直すべきフルベッキ

藤原 三宅雪嶺から徳富蘇峰の話になったので、蘇峰が熊本バンドだった熊本洋学校のことになりますが、これは幕末に渡米した横井太平の発案で、欧米文明を学ぶために作られた学校です。横井太平は長崎で英語と文明を学び、G・H・F・フルベッキのアドバイスに従って、兄の左平太とともに、1866(慶応2)年に米国に私費留学しているが、2人は蘇峰と同じで横井小楠の甥に当ります。しかも、横井小楠もフルベッキから西欧思想や国情を教わり、開明思想を確立する上で大いに役立てている。また、小楠の先見性を最も評価したのが勝海舟です。

小島 そうですね。幕末の歴史で日本人に与えた影響が大きいにもかかわらず、外国人の役割評価が低いが、これまで看過されて来た人としては、アーネスト・サトウとフルベッキがいると思います。英国の外交官のサトウは『一外交官の見た明治維新』を書いたし、西郷吉之助(隆盛)や桂小五郎(木戸孝允)などと親交を結び、日本文化や日本史の研究において、非常に優れた観察と分析を残しています。

藤原 だが、アーネスト・サトウが書いた記録の中には、長崎における出来事はあまり書いてありません。でも、主に江戸や京都を舞台にした外交交渉を始め、討幕運動についての記録が多いだけに、表の歴史の落穂拾いにはとても役に立ちますね。

小島 サトウが活動した当時の外交交渉の性格からして、歴史の中心は長崎から東西の都に移っていたので、ペリーが訪日してからは長崎の重要性が低下した。それは福沢諭吉の人生のパターンからも言えることですが、人材教育の面でフルベッキを中心点に置いて、明治になって活躍した日本人を捉える観点で見れば、彼の存在が重要だったという意見に大賛成です。

藤原 横井小楠の2人の甥が渡米していますが、兄の横井左平太はアナポリスの海軍兵学校に入学しています。また、勝海舟の長男の小鹿もフルベッキの手配でアナポリス海軍兵学校を卒業しているが、残念ながら2人とも結核のために若死にしています。もし、帰国後にこの2人が海軍の中核になっていたら、日本の明治の歴史はずいぶん変わっていただろうし、海軍が陸軍に従属しなかったかも知れません。

小島 海軍が英式から米式に変わったかもしれないし、アメリカ海軍の恐ろしさを日本人に伝えるうえで、大いに貢献したということも考えられる。それにしても、当時の結核は現在のガンに似て不治の病でして、有能な人材が結核で倒れて若死にしており、血を吐いて肺病を呪った俳人の正岡子規にしても、徹底的に生命力を消耗させられています。

藤原 フルベッキは岩倉具視の2人の息子に英語を教え、彼らをアメリカに留学させるために手配をしており、旭小太郎(岩倉具定)と龍小次郎(岩倉具経)の兄弟は、ラトガース大を卒業して明治の顕官になっています。その関係もあり、岩倉遣欧使節団の派遣も、フルベッキのアドバイスが計画の基にあって、近代化に大きな役割を演じています。

小島 フルベッキは大隈重信と副島種臣の先生として、万国公法やアメリカの独立宣言を教えているし、明治になって東京に招聘され、大学南校の教頭に就任している。フルベッキが南校の構内に住んでいたので、そこにいた高橋是清は彼から歴史を学んでいるし、聖書の講義を受けてキリスト教の信者になったことが、★『高橋是清自伝』(中公文庫)の中に書いてある。高橋是清までがフルベツキ人脈かと驚きました。

藤原 小島先生の本の中には、あちらこちらに、フルベッキ博士の名前が登場している。先生はそういったバックグラウンドをすでにお持ちだから、幕末から明治半ばにかけての歴史として、フルベッキ人脈を中心にまとめてほしいのです。この歳でそこまでできないと言われるでしょうが、それをやれる日本人は先生の他にいないのでしょうか。

●人材教育が導いた幕末の改革

小島 私は80代の半ばという年齢に達しているから、新たな挑戦の仕事はもっと若い人に任せて、側面からのアドバイスをする程度がいい。しかし、フルベッキ博士を中心に明治の歴史を書く仕事は、言うまでもなく実に興味深いものです。岩倉具視の息子たちまで留学させたことからもわかるように、教育者としての彼の貢献は偉大でした。長崎で生まれてフルベッキに英語や歴史を習った人には、枢密議員議長になった伊藤巳代治をはじめ、郵便制度の父と呼ばれる前島密もいる。長崎における教育者としてのフルベッキは、確かに明治の人材に絶大な影響を与えています。

藤原 教育者として人材を育てたという視点が重要であり、西欧文明に根を生やすフルベッキという幹から、横井小楠をはじめ大隈重信や勝海舟の枝が伸びた。そして、幕末にかけて育った人材が葉や花となって、われわれに近代国家の果実を約束したのに、普仏戦争の幻想に迷ったプロシャ派の日本人が、ドイツ産の幹を接木したのは悲劇でした。

小島 藤原さんも私もフランス派に属す日本人だから、プロシャの仇をフランスで討つにしても、フルベッィ先生はオランダ系のアメリカ人です。確かに、日本がプロシャに幻惑された最大の理由は、軍事力と工業力という目に見えるものだったが、フルベッキは宣教師として日本を訪れたのであり、目に見えない影響力で文明の精神を伝えたのです。

藤原 そうですね。私は日本人では佐久間象山と横井小楠を敬愛していますが、横井小楠の場合は富国強兵だけでなく、それに士道を加えた三本柱で考えており、「国是三論」の思想を構成しているからすごい。富国・強兵・士道の三本柱がヨーロッパ精神で、富国強兵だけで終わったのがドイツだと私は考えており、日本がドイツ派に席巻されると発狂するのです。
 これは『日本脱藩のすすめ』(東京新聞出版局刊)に引用しましたが、英国の歴史学者のA・J・P・テーラーは『ヨーロッパ・栄光と凋落』(未来社刊)の中で、「ドイツ人は合理的秩序を保つために、常に鉄のような規律を求めてきた。ドイツ人はこの枠組みがなくなると二―チェのように発狂する」と書いているように、今の日本でもドイツかぶれが発狂し始めています。士道は“志道”で正しい政治をするということであり、横井小楠の思想の高邁さと広さに感銘して、人をあまり褒めない勝海舟でも絶賛している。幕末から現在まで日本では、士道が行方不明なのです。

小島 武士道ではなくて小楠の言う士道は良いですね。英明君主といわれた越前藩主の松平春嶽に三顧の礼で迎えられて賓師になった小楠は、実学を通じて経世済民を実践することを通じて、優秀な人材を数多く育て上げた。その弟子として藩の財政立て直しを実行したのが、机上の学問ではなく実地調査を行った三石八郎であり、彼は由利公正と改名して明治政府に出仕しています。彼は五か条の誓文原案を書いているが、有名な第一条の「万機公論に決すべし」という言葉は、横井小楠の思想を受け継いだものです。

藤原 勝海舟はその横井小楠を義弟の佐久間象山より評価していた。小楠はフルベッキの世話で甥をアメリカに留学させたが、海舟も息子の小鹿を、海軍が重要だからとアナポリスに入学させるために、渡米させたのでしょうね。

小島 そうでしょう。勝海舟は大ボラ吹きだったから信用がなく、奥さんは一緒の墓に入るのを嫌がったそうですが、坂本龍馬は日本一の偉い人と尊敬して、この海舟に弟子人りしたのだから面白いです。また、海舟に会う前の龍馬はコチコチの攘夷論者で、開国論を唱える勝の暗殺を考えていました。そこで、幕府の政事総裁だった松平春獄に面会し、勝への紹介状を書いて欲しいと頼んでいます。

藤原 幕府の政事総裁といえば首相の立場だが、当時の厳しい身分制度の壁があったのに、どうして龍馬が面会できたのか実に不思議です。脱藩した一介の浪人である龍馬が会って、紹介状まで書いてもらったというのは、普通ならとても考えられないことですね。

小島 面会して紹介状まで書いてもらった話は、ことによると小説の中のことかもしれません。もし事実なら松平春獄の包容力の証拠であり、龍馬が海舟を殺そうとする気配を知りながら、あえて紹介状を書いたなら大した心意気です。しかも、龍馬は海舟に会って攘夷思想の愚かさを知り、勝海舟に弟子入りして開国派に転向し、同時に横井小楠に傾倒して指導を受けた。それで人物としてさらに大きく成長していくのです。

●龍馬もフルベッキに学んだ?

藤原 坂本竜馬がフルベッキに学んだとは誰も書かないが、あれだけ好奇心の強い竜馬のことだから、彼が長崎で海援隊を動かしていた時期に、頻繁にフルベッキの塾に出入りしていたはずです。長崎奉行所が作った済美館と佐賀藩の致遠館は、ともにフルベッキが校長として教えた教育施設だし、致遠館の逸材が大隈重信と副島種臣でした。だから、大隈が創立した早稲田大学は致遠館が源流で、明治になると、東京に招聘されたフルベッキが大学南校の教頭に就任している。私学と官学の源流に立つ人だったわけです。

小島 しかも、フルベッキから聖書と万国法を学んだ大隈は、明治初年に大阪でキリシタン禁制の談判が行われた時に、英国のパークス公使と大激論をしており、正々堂々と渡り合って相手を感心させています。その話は『一外交官の見た明治維新』に書いてあるが、「初めて顔を見知った大隈八太郎という肥前の若侍が、自分は聖書や祈祷書を読んでいるから、この問題は十分に心得ている、とわれわれの面前で大見得を切った」というのです。この談判が評価を受けて三条実美に抜擢され、大隈は外務次官(外国官副知事)になり、明治政府の官僚として出世街道を駆け上ります。彼は築地本願寺の側に大邸宅を構えたので、そこに豪傑が集まり築地梁山泊と呼ばれたが、大隈邸の隣の小さな屋敷が伊藤博文の家で、その門内の長屋に井上馨が住んでいたのを見ても、いかに大隈が時めいていたかよくわかります。

藤原 国家としての日本の出発について、廃藩置県や教育制度の整備などが実施され、富国強兵が政策の中心になったという具合に、習いましたが、そういう明治の初め頃の人間関係については、歴史として読んだ記憶はあまりない。日本の歴史は皇国史観や薩長史観に支配されたので、薩長の連中にとって重要だとされたものだけが主体になって、維新以降の歴史が書かれていると考えるのは、江戸っ子の私のひがみでしょうか。

小島 私は九州の福岡県で生まれた人間だから、そんな感じがしないこともない。ただ、東京の人は地方の出身者に偏見を持つから、東国政権としての徳川幕府を倒した薩長の人間に対してとくに反発するのでしょう。

藤原 そういわれると図星だから参ってしまいます。でも、明治政府を支配した長州系の権力者の多くが、吉田松陰の松下村塾の出身者だから、松陰を偉大に描きすぎていると思うのです。確かに、松下村塾からは高杉晋作をはじめとして、伊藤博文や山縣有朋などが出ているし、彼らは奇兵隊を指揮して立身出世しています。また、吉田松陰が教育者として孟子をテキストに使い、人材を育て上げたことに関しては評価するが、松下村塾はある意味でテロリスト養成所として、タリバン(神学塾生)に似ているのではないかと思います。

小島 アフガンのタリバンとの比較は奇抜なだけでなく、タイムリーな発想でとてもわかりやすい。しかし、吉田松陰の信奉者たちが聞いたら怒るでしょう。でも、松下村塾の四天王と呼ばれて皆の尊敬を集めていた高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵ら全員が、御一新が完成するのを迎える前に斃れています。また、佐世八十郎(前原一誠)は新政府で陸軍大輔になったが、辞任した後で萩の乱の首謀者として処刑された。生き残って明治政府で栄華を極めたのは、足軽出身である伊藤博文と山縣有朋でした。

藤原 この2人は奇兵隊の指揮官として足場を築き、有能な先輩がどんどん死んでいったおかけで、明治になってから位人臣を極めています。また、伊藤の場合は幕末のロンドンに密航して渡り、半年ほど滞在して英国の社会を体験しています。

小島 伊藤悛輔(博文)と井上聞多(馨)が訪英したのは、福沢諭吉が訪欧から戻ってから半年後の1863(文久3)年であり、ロンドンで下関砲撃のニュースを聞いたので、大急ぎで帰国したのに英語はかなりできたようです。それからは長州征伐の混乱期だったので、2人は銃の手配に長崎に何度も出かけて、武器商人のグラバーや坂本竜馬と取引しており、このへんが歴史のエピソードとして面白いところです。

●忘れ去られた近代日本への影響

藤原 ちょうど蘭学から英学に移行する時期に当たり、フルベッキはその橋渡しの役目を果たしたが、福沢諭吉も一歩先んじてその体験をしています。

小島 福沢諭吉は長崎で蘭学を学んで大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で学び塾長になるが、藩命で江戸に行って蘭学塾を開く。ところが、ある日のこと、横浜に行ったら看板が読めず、役に立たないオランダ語から英語に切り替え、ショックで蘭学をやめて英学に変わった話は有名です。しかも、万延元年(1860)の遣米使節団に木村摂津守の従僕として渡米し、続いて遣欧使節団の翻訳方としてヨーロッパ各地を訪れ、その体験から『西洋事情』をまとめて出版した。・・・中略・・・

日本との結びつきという意味でオランダの存在は、江戸時代の長崎の出島における関係だけでなく、幕末から明治における西周や榎本武揚を含めて、近代日本に大きな影響を及ぼしています。
藤原 その2人の幕臣(西周と榎本武揚)はライデン大学に留学したし、母方の郷里が島根県の津和野で、私は西周とは不思議な因縁でつながっているのです。だから、高校時代に『百一連環』を読んだことの影響もあり、ライデン大学に憧れたこともありました。そして、中学生の頃からフランス語をやっていた関係で、フランスのグルノーブル大学に留学しました。

小島 そうでしたか。私はオランダヘは碁を打ちに行ったことがありますが、予想もしないほど素晴らしい碁の伝統ができていた。オランダを訪れてみて初めてこの国の性格がわかり、オランダ人についての理解と評価ができました。アムステルダムやロッテルダムのように、個性的な都市が独自の経済活動をしているし、チューリップと運河がオランダを象徴する点て、実にのどかで平和な国だという印象を持ちました。自国よりも低い海面下に国土を造成して、海洋を自国の延長であると考えて海外に進出し、地球の果てまで雄飛する精神は見上げたものです。最初に株式市場と株式会社を作った国だけに、その国際性の面では世界における先進国です。

●答えを教えない。「正道」を守る

藤原 私もそう思いオランダ人の学友に感謝しています。また、オランダ人の面白さは着眼点の良さを誇るとともに、学位や肩書きなどにはあまり執着することなく、興味深いと思う場所を求めて世界中を渡り歩き、何らかの種をまく形で仕事を残すことです。

小島 種まく人ではなくて種まく民族というのは、いかにもオランダ人らしくていいですね。

藤原 私の青春時代の体験を通じてよくわかることは、フルベッキの生き方の中にオランダ気質が沈積しており、「彷徨えるオランダ人」-フライング・ダッチマンーそのものだという点です。オランダ生まれの彼はユトレヒトの工科学校に学び、20歳の時に新天地を求めてアメリカに渡り、鉄道技師として働いていた。その時に伝染病で倒れたが、病床で宣教師になって布教しようと決めます。ちょうど日本はペリーの黒船に脅かされて開国を決め、帝国主義の勢力争いの穴場に似たところだったのです。彼は布教のために幕末の長崎にやってきたが、日本は蘭学から英学に関心が移る転換期であり、フルベッキは架け橋の役目を果たしたのです。彼は海外での長い彷徨でオランダ国籍を失ったが、肩書きに執着しないからアメリカの国籍も取らず、日本でも帰化しないで地味に暮らしたので、無国籍の世界市民として日本で生涯を終えた。東京の青山墓地に葬られているのです。
そこで無理を承知でお願いしたいのですが、福沢山脈を探検して記録を残した小島先生に、フルベッキ山脈にも踏み込んでほしいのです。

小島 フルベッキが大隈重信や副島種臣をはじめとして、高橋是清に至る明治に活躍した日本人に、絶大な影響を与えたことは疑いえない。日本人としてその恩恵を大いに感謝したいと恩います。人材を育てた恩人としてのフルベッキ先生は、一般には明治のお雇い外国人の1人であるという形で、その貢献に対して評価が行われているが、「彷徨えるオランダ人」という捉え方は実に新鮮です。
 彼が育てた幕末の日本の若者が成長して、その実力と見識によって近代日本が作られ、日本の進路が決まったことがわかった以上は、ライジングサンのフライング・ダッチマンの存在が、これからの仕事にとって大きな励みになります。 
 



 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)-5
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)-5

 ●フルベッキの最大事績は ある人士らの啓蒙・育成  


 明治4年7月、松方が大蔵権少丞となった時、3歳年下の大隈は既に大蔵大輔を経て参議兼制度取調専務で、はるか高位にあった。
やがて松方は、13年2月に内務卿、14年10月には参議兼大蔵卿を拝するに至るが、大隈の参議就任は松方よりも10年以上も早い明治3年で、大蔵卿に就いたのも8年早く、6年10月であった。ところが明治17年の華族令で松方が伯爵を授かるのに対し、戊辰役で功績のなかった大隈は、20年になって伯爵を授かった。丁度その頃から2人の位置が逆転、内閣総理大臣の初就任は、松方が24年5月なのに対し、大隈は明治31年であった。侯爵への陞爵(しょうしゃく)は、松方が40年9月に受けるが、大隈は2度目の総理を拝命した大正5年7月まで待たされた。大正12年1月8日、死に瀕した大隈重信の公爵陞爵について論議される。佐野真一 ★『枢密院議長の日記』(*現代新書2007.10.20刊)によれば、当時宗秩寮総裁事務取扱をしていた貪富有三郎(勇三郎)日記の同日条には、宮内次官関谷(関屋)貞三郎から電話で「大隈は侯爵と為りたる後年数も少く、その後別段の功績なき故、普通にては陞爵の理由なきも、陞爵を主張する人は大隈一生の勘定を為せば陞爵しても適当なりと云ふものの由。貴見は如何」と問われた倉富は、「此の事に付ては昨日宗秩寮にて一応の内談を為し、予は陞爵の必要なしと考えたるなり。最高等の政策にて特別の恩典あるは格別、通常にては陞爵の理由なしと思ふ」と答えた。翌日も陞爵論議は続き、宮内書記官白根松介が元老の松方正義にお伺いを立てた。前日に意見を聞いた時には陞爵に賛成した松方は、白根に対し、

「(昨日は)山県公が陞爵の意見ならば反対しないと言ったまでだ。大隈侯は維新の功労もなく、その後も格段の功労があったとは思わない」と消極的意見を述べた、という。大隈の公爵陞爵を否認した松方は、8力月後の9月11日に公爵を授かり、13年7月2日に逝去した。

 明治維新を誘導したワンワールド人士の中でも啓蒙に尽くしたフルベッキは、維新前後には抜群の政治的影響力があった。天保元年(1830)年生まれのフルベッキは松方より6歳上、大隈より9歳上で、安政6年(1859)長崎に上陸し、佐賀藩の長崎致遠館で大隈、副島を教えた。

 大隈とフルベッキは無類のチームワークを組み、お互いに引き立て合った。明治新政府の顧問となったフルベッキの最大の事績は、大隈を通して新政府に持ちかけた岩倉訪欧団とされる。維新で権力を握った人士が挙って隊伍を組み欧米に渡った目的は、ワンワールド首脳に面晤する機会を作るためで、いわば集団入会ツアーを企画、実行したのである。

 その他、フルベッキが大学南校(東大法文学系)の教頭として多数のワンワールド人士を育成し、また宣教師ヘボンと共に東京一致神学校(後の明治学院)を創立したことは周知であるが、明治14年の政変で権力の座を追われた大隈に指令して東京専門学校(後の早稲田大学)を設立せしめた真相を誰が知るだろうか。フルベッキの政治的影響力が明治14年の大隈の失脚以前に衰えていたのは確かで、フランスでロスチャイルドの臣下になった松方が、以後大隈に代わり帝国財政の実権を握る。松方からすれば、明治14年までの大隈の権勢はフルベッキのお陰にしか過ぎなかったのである。フルベッキが赤坂の自宅で死去した明治30年は、松方が大隈
の協力を得て金本位制を断行した年であった。

 松方の金融ワンワールドにおける地位の一部は上原勇作が継承したとされるが、上原は安政3(1856)年の生まれで、右に述べた第1.5世代に属しており、或いはその世代的な位置が権力継承を可能にしたものかも知れぬと思う。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)  <了> 
 

 ★『枢密院議長の日記』(*現代新書2007.10.20刊)によれば、・・・の文中、

 貪富有三郎は<勇三郎>、宮内次官関谷貞三郎は<関屋>貞三郎 です。

 同上書 P242 

   


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―4
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―4

●なぜ松方正義は大隈重信を凌駕できたのか
 
 
 『横浜正金銀行史』のなかで同行の父親に譬えられる大隈重信はフルベッキ神父の直門である。

 維新政府では、当初は外国事務局や外国官を歴任したが、明治2年に会計官出仕となって財政畑に転じて以後、13年2月までは一貫して大蔵省最高首脳のひとりであった。片や同行の母親に擬せられる松方は大隈より3歳年上であるが、維新政府では長崎県裁判所参謀助役を皮切りに民部(内務)畑を歴任し、4年7月に大蔵省に転じて以来ずっと大隈の配下となり、明治8年11月から13年2月まで大蔵大輔を勤めた この間、10年10月にフランス博覧会事務副総裁としてフランス出張を命ぜら、11年3月から12月まで滞仏した。この時にフランス蔵相で、パリ・ロスチャイルド家の番頭と言われるレオン・セーに会い、中央銀行設立を助言された。これは偶然ではなく、訪仏の真の目的がロスチャイルドはじめ欧州の金融ワンワールド首脳にお目見えすることにあったと観るべきであろう。その折、中央銀行の設立と不換紙幣の整理を助言(命令)されたことは疑い得ない。帰国後の松方は、永年の上司であった大隈の積極財政を一転して批判し、真っ向から対立した。ために13年2月、内務卿に転じたが、明治14年の政変において大隈が失脚し、後釜の大蔵卿・佐野常民も辞任すると、松方が大蔵卿に就き、不換紙幣の整理を目的とする厳しい引締政策を実行した。後年のことだが、日銀副総裁として5年間にわたり澄田総裁を支え、バブル政策に加担した三重野康が、総裁になるや一転してデフレ政策に転じたのは、そこだけ見れば松方と似ている。

 政府不換紙幣・国立銀行不換紙幣の整理を図るため、中央銀行を創立して正貨兌換紙幣を発行させて通貨価値の安定を図るとともに、中央銀行を中核とした銀行制度を整備し、近代的信用制度を確立することを提議したのが松方である。明治15年に日銀条例を制定、同年10月6日にはかつて横浜正金銀行管理長であった大蔵少輔・吉原重俊を日銀総裁に任じ、同月10日を以て日銀は開業した。14年10月に初めて大蔵卿に就いた松方は、18年12月の内閣制度発足で大蔵大臣の名称となってからもその座に在り、24年5月には総理大臣を拝命するに至るも、なお蔵相を兼務、結局25年8月に第一次松方内閣の崩壊に際して蔵相の座を渡辺国武に譲るまで、実に11年近くも継続して蔵相の座に在ったのである。しかも、後を継いだ第二次伊藤内閣にあっても、28年3月から8月まで蔵相を務めた。それだけではない29年9月に再び大命降下を受け、31年1月まで続く第二次松方内閣でも蔵相を兼務し、更に31年11月から33年10月の第二次山県内閣でも蔵相に就いたので、合計すれば14年半、これに大蔵大輔時代の四年半をも併せれば、実に19年に及ぶ期間を大蔵省の最高首脳として帝国の財政を壟断したのである。実に、明治の財政金融は松方1人が取り仕切ったと言っても過言ではない。松方の第二次内閣は、かつて上伺として仕えながら、帰国後にその積極財政策を批判したため不和となった大隈を、外相・農商務相として招いた。この内閣の最大の業績は、周囲の反対を押し切って、貨幣法の制定により金本位制を確立したことである。松方が敢えて大隈を閣内に迎えたのは、金本位制定に関する深い事情があるものと思う。




●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―3
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―3

 ★ワンワールド人脈の華麗かついかがわしき樹形図   
 

 
 吉井友実に松方正義・樺山資紀・高島鞆之助ら自ら維新に挺身したのが薩摩ワンワールドの第1世代で、白洲退蔵はこれに同期している。維新前後に生まれたその息子ら、即ち樺山愛輔・吉井幸蔵(安政2年生)、樺山資英(明治元年生・妻は高鳥鞆之助の娘・球磨子)らが第2世代で白洲文平や陸奥広吉ら留学帰りが彼らに同期してワンワールド仲間を形成した。吉井幸蔵の実弟で高島鞆之助の婿養子となった友武(慶応3年生・妻は高島鞆之肋の長女・多嘉)も、当初は仲間に加わっていた筈であるが、その事績は陸軍中将としてしか伝わっていないし、高島子爵家を継がすべく甥(幸蔵の次男)友春を養子にし、後に離縁した事情は未詳である。第3世代は第2世代の子女ら即ち白洲次郎(明治35年生)・正子(明治43年生)夫妻らの世代で、ここに至ると薩摩の枠を抜け出し、他藩出身者に拡大するのは自然の成り行きである。

 この第3世代が宮中コスモポリタンを形成し、美智子皇后の皇室入りを実質的に支援したと言われている。
媒介の栄誉を表面的に担った東宮御教育参与・慶応義塾塾長の小泉信三が、小泉信吉の子息であったことは偶然ではない。小泉信吉は嘉永2年(1849)生まれの紀州藩士で、慶応2年に福沢諭吉の蘭学塾で洋学を学び、フルベッキが教頭の開成学校教授となり、明治元年に英国留学し、帰国後は大蔵省に入った。横浜正金銀行の創業時には白洲退蔵の下で副頭取を務めた信吉は、第1世代の退蔵とは年も離れたいわば第1.5世代であった。横浜正金時代にも渡英して金融事情を学んだ典型的なワンワールド金融人で、その子・信吉は明治21年生れでワンワールド第3世代に同期し、2代に亘るコスモポリタンであった。

 福沢諭吉から発したワンワールド人脈は、白洲退蔵と小泉信吉に分岐して白洲次郎と小泉信三を生んだのである。戦後貿易庁長官に挙げられ、吉田茂の片腕としてマッカーサー司令官と種々折衝し、サンフランシスコ講和条約締結に尽力した白洲次郎を、救国の英雄と囃す向きが近年多いが、むしろコスモポリタン特有のいかがわしさを感じるのは私(落合)だけであろうか。

 松方正義の三男・幸次郎(慶応元年生)も典型的な薩摩ワンワールド第2世代で、明治17年に東京帝大を中退し、エール大学とソルボンヌ大学に留学、明治24年に第1次松方内閣の秘書官に就くが、明治29年に実業界に転じて川崎造船初代社長となり、昭和3年までその地位にあった。第一次大戦後の欧州で絵画・彫刻らを蒐集し、松方コレクションで知られるが、政治家としても昭和11年から3期連続の衆議院議員として政界でも活躍し、国民使節として渡米し国際交流に務めた。幸次郎の妻は旧三田藩主、子爵・九鬼隆義の息女・好子で、三田藩と薩摩ワンワールドの浅からぬ因縁を感じる。
 
 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―2

 ★大正コスモポリタンの代表格・白洲退蔵の登場   


 明治14年の政変で佐野大蔵卿が辞職、代わって内務卿・松方正義が大蔵卿に就任したのは14年10月21日であった。フランスから帰国後、不換紙幣の整理を急ぎ、そのために海外からの正貨吸収を必要と考えた
松方は、その実行に当たって横浜正金を利用せんとし、従来の管理官を廃し、代わりに特選取締役を任命することなどを示達した。特選取締役は政府持株に関して政府を代表する者で、大蔵卿が任命する民間人を充てたが、これは官吏たる管理官が管理するよりも、民間適任者を選んで業務を任せた方が時宜に適すると松方が考えたからである。

松方が大蔵卿に就いた14年の末から翌年にかけ、商況は激変して貿易関係業者の倒産が増加した。横浜正金の得意先にも破産が増えたが、中村頭取の経営は放漫に流れ、15年上半期の決算は彌縫策を講じて配当を据え置きとした。これを憂慮した松方の追及で、中村頭取は7月10日の総会で引責辞任し、副頭取小野光景が頭取に就任、任期満了で副頭取を退いていた小泉信吉が副頭取に復活した。特選取締役には河瀬秀治、村田一郎が選任されていたが、河瀬は6月に辞任、これに代わって摂津三田藩(藩主・九鬼隆義)の儒官で藩の大参事もした白洲退蔵が、三田藩顧問・福沢諭吉の推薦により、8月に取締役に特選され、直ちに副頭取に就いた。

しかしながら、小野新頭取は中村時代の隠蔽体質を継承して彌縫策に走り、官民分離論あるいは平穏解散論を唱えて株主間に宣伝したから、株主間でも不穏な動きが広がり、小泉も職権の発揮を保証されないとして早々に副頭取を辞した。松方大蔵卿の意向は、同行の改革のため、白洲退蔵を頭取、深沢勝興を副頭取に任じ、深沢の手腕で改革を断行させることにあった。そこで福沢は、頭取含みの特選取締役として、松方に白洲退蔵を推薦したのである。しかし深沢は病身で、16年1月の定時総会では頭取に白洲、副頭取に小泉が就き、深沢は取締役に再選されたものの2月1日に病死する。計画が頓挫した松方は、止む無く3月22日、第百国立銀行の原六郎を特選取締役に任命し、頭取に就けた。白洲と小泉は辞任し、小泉は古巣の大蔵省に戻り、白洲は19年になって岐阜県大参事に就く。

以上長々と述べたのは、白洲退蔵とその子孫に焦点を当てるためである。

 退蔵の子息・文平は明治2年に生まれ、フルベッキ(理事長)とヘボン(初代総理)が創立した東京築地英語学校(明治学院の前身)を20年6月に卒業後、渡米してハーバード大学に学び、更に渡欧してボン大学で学んだ。ハーバードで知り合ったのが後に三井合名理事から日銀総裁・蔵相になる池田成彬(慶応3年~昭和25年)で、生涯の知友となった。

帰国後の文平は、三井銀行から鐘紡に勤めた後、興した貿易商・白洲商店が大成功したが、昭和4(1929)年に破綻した。

日本的情緒・趣味を甚だ嫌ったという文平は、儒者ながら早々キリスト教に入信し、神戸女学院の創立に携わった父の退蔵と同じく、コスモポリタン臭が濃厚である。文平の次男・白洲次郎が妻に迎えたのは、伯爵・樺山資紀の孫女(樺山愛輔の娘)の正子であった。退蔵の父・文平と同様、岳父の樺山愛輔(慶応元年生まれ)留学帰りで、大正コスモポリタンを代表するワンワールド人士であった。
 
 



 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)ー1
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)-1

  金融ワンワールドの頂点に立った松方正義と各人士の相関関係  ◆落合莞爾  


★「横浜正金銀行」誕生の光と影、人事での暗闘

戦前、貿易金融と外国為替に特化した特殊銀行として世界に名を知ら れた横浜正金銀行は、戦後GHQの指示で普通銀行となり、東京銀行と
改称し、昭和29年の外国為替銀行法により唯一の外国為替銀行となった。平成大暴落の後は、金融危機に対処するために三菱銀行と合併して東京三菱銀行と称し、さらにUFJ銀行と合併して、現在は三菱東京UFJ銀行の長い行名を称している。同行の創立を発案したのは、『横浜正金銀行史』によれば、早矢仕有的と中村道太であった。ハヤシライスで知られる早矢仕は、薬品・書籍の輸入業者たる丸屋商店(現在の丸善)の経営者で、中村も同商店に密接な関係があった。明治11、2年頃のわが国経済情勢は、西南事変のために政府が増発した巨額の不換紙幣が巷間に溢れ、事変鎮定後も急速な収縮が叶わず、輸入の超過と正貨の流出に拍車をかけ、ために正貨と紙幣の価値に大差を生じていた。輸出入品の貿易は、横浜・神戸・長崎等の開港場で本邦商人と外国商館の間で行われていたが、取引はすべて銀貨(メキシコ銀・貿易銀・1円銀貨)で決済された。すなわち輸出業者は代金を銀貨で受け取り、これを不換紙幣に換えて仕入れ資金に充て、輸入面は手持ちの不換紙幣を銀貨に換えて外国商館に輸入代金を支払っていた。このため、開港場における銀貨売買(銀紙取引)は活発を極めたが、それが投機資金を呼び入れ、遂には一種賭博場の観を呈して銀貨相場を変動させたため、輸出入業者の経営は危機に曝された。しかも、当時の外国為替取引は、オリエンタル銀行・香港上海銀行・マーカンタイル銀行ら外国銀行が専ら支配し、一覧払い銀貨手形を発行して相場を操縦するなど、邦人貿易商に不利を強いることが少なくなかった。これに憤慨したのが早矢仕と中村で、早矢仕が旧知の福沢諭吉に相談し、福沢の紹介により中村が大蔵卿大隈重信を訪れ、外国銀行の専横に苦しむ貿易業者の救済策を具申した。すなわち、邦人により正銀取引銀行を設立し、内外商人の間に介在して銀貨の供給を円滑にし、邦人の商権回復を図る主旨である。大隈大蔵仰は直ちに賛成して、13年2月に同行は設立された。

 表面は右の如くであったが、その実状は、丸屋商店の衰運を挽回しようとした早矢仕が、中村他を語らって銀貨投機に参入したものの、失敗を重ねたため再度挽回を謀ったものであった。彼らの予定は、資本2、30万円の小銀行を設立し、貿易商や投機家に対して銀貨を担保に紙幣を貸し、または紙幣を担保に銀貨を貸して、日歩(一日分の利息)を取ることを本業とするが、その傍らで早矢仕自らも時に投機を行おうとしたものであった。これに対し福沢は、種々適切な助言を与えて論拠を正したので、中村の意見具申を受けた大隈は大いに賛成し、資本金を予定の10倍の3百万円に増加せしめた。因って、12年11月10日付で創立願書提出、翌日に許可が下り、発起人のうちから中村道太が初代頭取になった。創立を隠然支援した福沢は副頭取に門下の旧紀州藩士・小泉信吉を送り、以後も慶応義塾出身者を多数送り込んだので、やがて行内には早矢仕・中村の丸屋商店一党と、慶応義塾出身者の一派の両派が生まれることになる。発起人は13年1月、内外の信用を博するため資本金の3分の1に当たる百万円を政府出資とすることと、業務監督のための管理官の派遣を大蔵省に請願したところ、2月6日付で許可を受け、大蔵少輔(次官・審議官クラス)吉原重俊が管理長となった。ここに同行は本店を神奈川県横浜区本町に置き13年2月28日を以て開業する。この日は大隈が大蔵卿を辞して佐賀藩の後輩・佐野常民にその席を譲った日で、また松方正義が大蔵大輔から内務卿に転じた日に当たる。フランス帰りの松方が、永年にわたり支えてきた大隈の財政政策を批判して、ともに大蔵省を去った背景は前月号に述べたところである。

 その頃には銀貨・紙幣の交換比率が益々悪化し、ために同行は、窮状に陥った輸出業者を救済すべく、邦人輸出業者に対レ貿易品買入のための紙幣の融通、つまり貿易金融を始めた。14年1月の第1回定期総会で早くも利益金を計上し株主配当を行った同行は、同月外国為替業務拡張のため小泉信吉を欧米に派遣する。出発に際して、大隈参議から英人シャンド宛の書簡を与えられた小泉は、ロンドンでシャンドから種々の便宜を得た。つまり小泉信吉は、この時めでたくワンフーールド金融部門の首脳にお目見えしたのである。
 
 



●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
● 54 一世の巨豪、癌腫に斃る

呻吟10年医療の妙を尽し  解剖総て医界の料に捧ぐ  


 龍造寺が第1回の施術の腹部切開は、名にしおう当代の名医・阿久津博士の執刀であるから、存分に徹底的に行われたので、案外に結果も宜しく、日ならずして退院して、庵主の宅にも来訪するようになったから、全快次第、早速に支那に行くべく準備をして居た、一方庵主は、阿久津博士に挨拶に行って、段々話を聞くに、博士曰く、

 「元来が癌腫の事故、早くて1年、遅くて3年の中に又々病勢の増進を見るべし」
 との事である、庵主も尠なからず落胆して、此の模様にてはとても支那などに旅行せしむる心地もせず、段々研究の結果、斯う決心をしたのである。

 「父母の片身とも云うべき弟の身体が、絶対に不治の病気とある以上は、庵主の健康と力が続く限り現代の医術にて、生命の持続される限り、最善の手を尽して見よう、次ぎには、設令え(たとえ)如何なる悪性の病気にもせよ、我家に生れて、我国民人の為めに、犠牲的の観念を以て立つ以上は、此の病気を以て無上の犠牲的行為が出来ぬ事はないから、此の病気を以て十分に研究の資料たらしむるが良き事である」、夫(それ)には龍造寺に其の旨を申し含めねばならぬと思い、1日龍造寺に面会して斯く云うた、

「今回汝の病気に付いて、能く阿久津博士と相談して見るに、斯々(かくかく)の病症にて、絶対に不治の病気であるとの事故、汝は左(さ)の覚悟をなすべし、

 第一、 男子一度生を得て、発奮志を決し、国家民人の為に尽くすは、決して偏固の心を以て為すべからず、其の為し得べき境遇と、為し得べき事柄とを弁えざる可からず、此の故に汝は支那に行ってのみ然る志を成す物ではない、生きて世に尽す事能わず、死して後聞こゆる事なき其の身体を以て全部医学上の研究資料に捧げ、人間の『モルモット』となる事、我家としては光栄此の上なしと思う、若し万一研究の結果、医学上に何等かの成績を得るに至らば、兄は此の上の満足なく、又若し助命再生の好果を得なば、夫(それ)こそどんな献身的の御奉公でも出来る訳故、此の際衷心最も爽快にして、未練なき決心をなして、医師が為すまま、又飲めと云う物は喩え糞尿腐敗の物にても、決して辞する事勿れ、予も亦堅く其の決心をなし、費途と時日とを顧慮する事なく屹度(きっと)献身的に汝が身体の保護に従事すべし」

 と申し聞かせたのである、龍造寺は満身の笑を浮べて斯く日うた。

 「世に廃物利用と申す事を承り居りましたが、私の体が夫になるとは、こんな難有事はございませぬ、幼少より抜群の腕白にて、人となって処世の出発第1歩を誤まり、半世の流離困沌は、尽くお兄様に御心配を掛る計りの結果と相成り、最終に及んで聊か自覚致します、君国を思うの道に入りましたら、直ぐに斯る難病に罹り一応落胆は致しましたが、只今承われば、夫が医学界の資料になるとは、誠に以て有難事にて、此の上の廃物利用はござりませぬ、今日より私の体は、屹と『モルモット』と心得、切るも突くも医師の勝手次第にて、薬物の如きも、薬は愚か研究の為めなら、湯でも飲みますから、御安心下さいませ」

 と、快く決心の返事をしたから、庵主も大いに安堵して、夫から大抵病院住居(ずまい)をさせた、先ず東京での名家と云う名家、先ず阿久津、阪口の専門博士より、青山、林、土肥、金杉、佐藤、松本の諸博士は勿論、庵主の平生依頼する牧、杉本等の諸名医まで、種々様々の手を尽した治療を受けたのである、而して庵主の仕事としては先ず何よりも膀胱内の瘡面を清潔にすると云う条件の下に、看護人の熟練なる者を附随せしめ、毎日薬液を以て洗滌(せんでき)し、医師の指図に依って、食物に十分注意し、夫を丹念に持続せしめたのである、其の中、又膀胱内の癌の瘡面は、葡萄の実の如く、粒々腫脹して出血を始めたから、種々手当の末、又々腹部切開の事に決したのである、阿久津博士を始め、其の他の名医達も、

 「斯く繰返しての荒療治を為すも、何様疾患その物が悪性故、一時の仕事たるに過ぎず、余りに痛わ敷てお気の毒である」 と申さるゝも、龍造寺は断然聞き入れず、庵主もまた龍造寺に、根本的同意をして、飽迄徹底的施術を要求するので、阿久津博士は再び決心をして、大施術を執行せられたのである、
今度は膀胱内の組織の悪しき所を、十分に切断して取除け、其の瘡面を電気にて十分に焼灼(しょうしゃく)せられたが、何様大施術の事故、博士は満身の流汗は下着を透して、上衣まで絞るように至りたれども、十分為すべき仕事は為さねばならぬと、其の施術を終られたのは、2時間の後であった、夫より龍造寺は、例に依って施術後の摂養に注意して、とうとう又本の通り位には回復したのである。

丁度此の頃の事で、庵主の秘書役を頼んで居る、陸軍出身の清水と云う人がある、此の人の叔父君に当る老人で書家を以て業とする人があって、老年に及ぶも子供がないので、諸国を周遊して書道に遊んで居た折柄、不計(はからず)も胃癌となり、総ての医者に見放されるまま責めても死水は1人の甥の清水に取って貰わんと、人に連れられて来たので、清水氏は懇切に介抱して居る中、京都の或る寺より胃癌の妙薬を施薬すると聞き、夫(それ)を煎じて叔父君に飲ませて居たら、最早死期に迫まって居ると医師に云われた叔父君が、中々死なぬので、一同不思議に思い、尚一層其の薬を継続して飲ませて居る中、或る日血の糞便を排泄して以来、段々回復に向い、とうとう全快して、又々元の書家となって諸方を周遊して居るので、清水氏は其の薬の種を見付け出して、今夫を宅に植付けて居るから、夫を龍造寺に飲ませては如何との勧めにより、薬とさえ聞けば、何でも飲む龍造寺の流義故、早速に其の種実を得て、自宅内に50坪計りも蒔き込んで、其の枝葉を煎じて毎日の常飲料として龍造寺は暮して居たのである、折から又段々と此の薬の話を聞くに、20年前、泉州堺の人で奥某と云える人が、拳大の癌腫が胃の俯に発生し、先ず大阪病院にて見放され、夫より東京の胃腸病院にて見放され、赤十字病院にて見放され、帝国大学病院にて見放され、最後に順天堂にて見放されたので、弥(いよいよ)死期が数月の中に迫りたると聞き、夫なら帰って郷里の土とならんと思い、自宅にて療養中、或る人の勧めにて、右の植物を煎じて飲用せば、胃癌の全快疑いなしと聞き、全然無駄と思いながら、手の尽たる後の気慰みに、夫を土佐の国より取寄せ、毎日の飲料として服用して居たる処、56ケ月も過ぐるも中々死なぬので、益々気を得て服用を続けて居たるに、8ケ月目に及んで、或る朝真黒なる血の加き物を、多量に吐出したので、驚きの余り一時喪心したのを、家人は驚きて種々介抱の末、人心に帰り、今までは水さえ胃中に収り兼ね、右の煎薬だけは、種々の困難をして、やっと飲用して居たのに、夫から後は先ず重湯が嚥下出来る事となり、其の次には僅かな粥が食われ、漸次体力も回復して、爾後5ケ月にして平常に回復したので、其の薬草を以て内務省より許可を受け、治癌剤と命じ売薬として売り出したる処、売行抜群なりと聞き、丁度清水氏の話と一致符合するに付き、庵主は弟の可愛さと、研究の面白さとにて進んで此の薬の研究にも着手する事としたのである、夫から此の薬草を本として調査を遂げたるに、俗称「ハマヂシャ」と云い、和名「ツルナ」と云い、薬名「蕃杏」(ばんきょう)と云い、英名にて「エキスパンサー」と云うとの事、一見蔓生の如くして、黄なる小花を着け、菓は丸味を待って厚く、副食物としては茄て浸し物、若くは味噌汁の身などに宜敷、「しゃきしゃき」とした歯当り宜敷、少し塩気を合む味を有せり、種は堅き殼内に芥子の如く、障隔内に群列して、其の殼のまま、播種する時は、2ケ月位萌芽を生ぜず、故に槌を持って半ば打割って播種するを常とす、夫より世間に癌腫とさえ聞けば、此の薬を施薬して飲用させて見たが、脈拍が良好となる事丈けは一般に同一であるが、子宮癌、肝臓癌、膀胱癌等には一切験目(ききめ)を認めざりしが、胃癌丈けには確かに顕著なる功験があるので、庵主の友人岸博士は、大いに此の薬草に興味を持ち、専ら製薬試験の事に従事せられ、数ケ月の後、一の製薬を得
られた頃、丁度庵主の友人栗野子爵の姉君の70有余にならるる人が、又拳大の癌腫が胃俯に出来たるより、土肥博士の「ラジウム」治療等にて、種々手当も尽されたるが、更らに効験なきより、此の岸博士より製薬の散薬を貰い、夫を服用して50幾日の持続の折柄、或る日看護婦が、気たたましき報告に「御隠居様が多量の血便を排泄せられました」との声に驚き、一同駈付けて見るに、何とも形容の出来ぬ臭気にてありしと、夫から何れも応急の手当をなす内、漸次落付き日を経るに従って衰弱に衰弱を重ねたる体も、段々と回復して、とうとう後には湯も咽に通らざりし病人が、性来好物の西瓜を幾切れも摂取せらるゝに至ったとの事である、斯る薬を龍造寺が自宅内に沢山蒔き付けて、平常不断に飲用する事を継続したので、其の為か脈拍だけは何時でも丈夫で暮して居たが、何様難病故、とうとう3度まで腹部切開の施術を行い、同一の方法にて焼灼しては快癒する事を繰り返したのである。

数え来れば龍造寺が新橋停車場にて発病以来、丁度10年の間、各名医方も驚嘆する程、学理と薬剤と、施術と看護との4つに最善を尽したのは、
 第一、医学上の研究
 第二、父母の遺体に対する務め
 第三、兄弟の恩情より、万一にも全快の機はなきやとの未練心
で有ったに相違ないのである。

 其後庵主が、郷里福岡へ帰省中「龍造寺容体不良」との電報に接したから、取る物も取り敢えず帰京して見たれば各医師が、
「如何な龍造寺さんの健体も、今度は六ケ敷(むつかしい)と思います、夫は『ブルース』の性質が甚だ不良であるから電報を打ちました」との事であった、病床に行って龍造寺に面会して見れば、顔頬(がんきょう)も左程の衰弱は見えねども、脈と呼吸は素人にも大分多いようである、何でも10年目の病体故、予を隊長として、皆代る代わる夜伽をせよと命令して、予も夜伽看護を続けたが3日目の昼頃、俄かに段落(だんおち)がして、医師が「カンフォル」の注射を始めた、又、食塩の注射をも為た、夫から2-3時間奮闘の後、愈々絶望となって来て、もう頸髄が痙攣して来て、瞬が出来ぬように成って来た時、龍造寺は庵主に向って斯く日うた。

 「お兄様、大分気持が良くなって来ました、此の塩梅では今度も又難関を切り抜けまして回復するであろうと思います、今迄は色々の不養生を致しまして、御心配ばかりを掛ましたが、今度こそばシッカリ保養を致します、此の冬を兎や角凌ぐ為めには、熱海に頃合の家を見付けて置ましたから、体が動ける丈けに成りましたらば、腰を据えて熱海に転地仕ようと思います、来春菜種の花の咲く頃には屹度全快するであろうと思います」
 と云うから、庵主は思わず満身の血が凍る程不潤になって来た、今此の末期に及び、此れ程脳髄の明晰な男でも其の死期を知らぬのか知らん、況んや度々の施術の時も自から進んで大施術を受けたのは、已に絶対に不治の病気たる事を知って居たればこそ、其の旺盛な決心もあったのである、然るを「菜種の花の咲く頃には全快仕よう」とは、全く安楽国へ行く積りであると見えると思い、

 「そうじゃ、10年の星霜短かしとせず、今日まで汝が生命を持続したのは、全く汝が勇猛の結果である、此の上は身心共無為の境界に入り、安楽の処に転地をして心安く暮せよ」と云うたのが、庵主が愛弟龍造寺に対する今生後生と限った最後の引導であった、夫から30分立つか立たぬ中に、呼吸がごとんと響いて、跡はふーっと一つ長い息を吐いて落命したのである、此れが東京府下中野郷字中野1055番地の龍造寺が自宅の8畳の間に於てである、夫から立会医師の最後の診断も済んで、弥々龍造寺隆邦は死亡したとの知らせを為し、親近の者も最後の式も終えたから、庵主は医師に向って斯く云うた。

「我が家憲として、家中死亡者は、何物でも掛り医立会の上、悉く解剖を行わせるのであるから、先生方の御相談で、どうか順天堂で至急解剖の上、病理研究の資料として戴きたいのである」

 「夫は実に有難事でござりますから、10年以前より今日まで龍造寺さんを診察した医師の方々に、只今から至急通知を致しまして、明朝の10時に解剖を致す積りで、準備を致します」
 と云うて一同引き取られたのである、夫から其の夜は一同と共に愈々最後の夜伽をして、明朝の8時半に自動車を以て龍造寺の遺骸を順天堂に送り付けたのである、其の解剖の結果は、

1.主病たる膀胱の癌腫は「クルミ」実のように収縮固結して、之を裁断したるに綺麗に尿道丈けの働きをする事に成って居たとの事
2.腎臓は両方とも、一方は腐敗一方は全部が化膿して居たとの事
3.肺部に結核の病竃がありしとの事
4.心臓部に結核の転移ありしとの事
5.脳部の解剖は脳量も目方も抜群普通の人より多量なりしとの事

 右の如き事から幾多病理上の事を宜敷く書いて、各部の写真を添え、広く之を配布せられたとの事である、要するに龍造寺の癌は、或る形式に於て直って居たのである、死因は腎臓及心臓であると確定したのである。

 嗚呼庵主は生来始めて骨肉の弟を失うたのである、夫も3回まで人切俎板(手術台)の上に載せて、血塗れになしてである、然れども庵主の心理状態は頗る満足であった、如何なれば、如何にも夫が徹底的であったからである。

第一、効果は収めなかったが、出来得る限りの教訓を得たのである
第二、豪放不羈の男ではあったが、生涯寸時間も兄弟友愛の情を失わなかったのである
第三、癌腫の病に罹ったのを、10年間看護したのである
第四、現代に於てあらゆる名医の手にて、十分の治療をなし、また十分の研究をして貰うたのである
第五、癌に対するあらゆる薬は、善悪とも飲ませ尽して、各其の成績を調べる事が出来たのである
第六、其の遺骸は帝国大学より解剖の講師が出張して、数十人の名医立会の上、熾烈なる眼力の焼点に横わって、其の学的資料に提供したのである

 庵主は此の上此の稿を書くに忍びぬから茲に筆を擱く(さしおく)であろう、之を読む青年諸士は、庵主の兄弟が行為の善悪に拘わらず、諸士が兄弟間友情の何かの資料として呉れられなば、庵主の満足よりも寧ろ龍造寺の冥福を祈る上に於て、多大なる功徳であると感謝するのである、庵主此の間、龍造寺の後家の宅を訪うて見たらば、庵主が曾て(かつて)書いて遣った、不味い詩の掛物を壁間に掛け、其の下に龍造寺の位牌を祭って居た、曰く、

坎輠半世苦辛多 かんかはんせい しんくおおし
吾弟十年惧病魔 ごていじゅうねん びょうまにともなう

可憫呻吟唯問我 あわれむべししんぎん ただわれにとう
今秋菊信果如何 こんしゅうのきくしん はたしていかん 



 *以上で、「43 魔人・龍造寺隆邦」から紹介し続けた言わば「龍造寺隆邦伝」は<了>となります。
 
 



●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
● 53 庵主が懐抱せる支那政策案

  壮図未だ発せず大患を起し  開腹数次俎上に戦う  


 庵主は支那政策につき、また話を続けた。

 龍造寺よ、汝支那に向って日本の政策を定めんと思わば、前に云う通り先ず「支那は永久に亡びざる強国である、日本は支那の行為によりては、直ぐ目前に亡びる弱国である」と云う事を、第1の条件に置いて考えねばならぬぞ、夫から支那に対する外交手段は、他の諸外国に対する(ものと)、同様の心得ではいかぬ、世界中で外交は、支那が1番上手い、又、商業貿易、経済政策で、支那をいじめては駄目である、商業貿易は、世界中で支那が1番甘い(上手い)、又決して組織的兵力で支那を圧迫しては駄目である、組織と器械との圧迫に抵抗するには、支那は無組織と無抵抗力と云う、強き抵抗力を以て世界に抵抗して居る、往昔から英仏共に、軍には勝って支那を領有し得た者はない、支那に向っての百戦百勝は、事実に於て損をする丈けである、夫(それ)が世界中で支那が1番其の抵抗力が強いのである、故に外交と商業と軍事の支那に対する刺戟は、恰も象と云う猛獣に対する、虻や虱の刺戟であると思わねばならぬ、然らば夫を差引いて、支那政策の資料は何が残るか、さあ此の辺を知るのが対支の識者である、其の識者が今日まで殆んど世界中に1人もないのである、世界中皆無駄骨を折りて、無駄損ばかりをして居るのである、日本も正に其の1人である、今貴様は志を其処(そこ)に立てたからには、夫を知らねばならぬのである。

 克く魂を腹の底に据え、落付いて考えよ、宇宙間に造物者の所為を凌駕して、之を具体的に変更する者は、人間より外に無いのである、今富士の山を切崩して、平坦な土地にすることの事業を思い立っても、之に関する器械は出来るであろうが其の器械の能率で、組織的に何百何十年で、綺麗に平坦にする予算を其の通りに器械を運転して実行する者は、人間でなければならぬ、左すれば支那を平穏にするには、物質と予算が入用ではあるが、其の上に人間の行為と云う事を徹底的に考えねばならぬ、故に先ず支那の人間と云う事を考えて見ると、其の端緒が直ぐに開ける。

 今支那に東亜の問題に付いて、咄しの出来る《人間》が何人居るかと云うと、俺の考えでは知らざる者までを入れても凡(およそ)30人である、此の30人と議論が一致結合さえすれば、支那の事は自由自在である、其の僅か30人がなぜ結合せぬかと云えば、各個人に一種の希望があるからである、何の希望であるかと云えば、金と権力が欲しいのである、故に先ず其の希望の金を与えるとしたら、1人仮りに2千万円を与えて、其の欲望を充たすとしたら、全部で6億円でないか、そこで今度は其の権力を与えるに付いて、独り支那だけでなく、東亜の平和に対して、腹一杯に持って居る丈けの議論を吐露し得る丈けの発言権を与えて、東亜大会議なるものを組織し、其の会議員として十分の権力を揮うべき力を与えるのである、此の場合に日本は秋毫の怨望をも有してはならぬ、誠意誠心東亜の平和さえ確立すれば、何等野心は無い単を中心に定めて之を中外に表明せねばならぬ、即ち東亜の平和が先ず消極的に日本を失わぬ第1の政策であることを理解して居らねばならぬ、左すれば結論は、金が6億万円(ママ)と彼等30人に大東洋平和会議の発言権とを与うる丈けとなるのである。然るに大事の問題は彼等が其の生命財産を保ち、また其の権力を行使するの力を維持するに必要なる確固な護衛力を持たぬのである、即ち秩序維持力が無いのである、其の場合には日本の天皇陛下が之を保証して下さるのである、夫(それ)は彼等が日本と共に議定した、東洋平和会議規則の範囲限度に依て働くのである、斯る政策が仮りに確立するものとすれば、彼等は生存中に容易に得がたき金と権力とを得て、永久無限に日本及其の他の強国に侵害せられざる事になるのである、此の場合に成って、平和を希望せざる者は1人も無い筈である、扨、平和と云う事が、仮りに実現したものとすれば、茲に始めて東洋の繁栄、即ち文明の発達を企図せねばならぬのは、又相互当然の思想でなければならぬ、即ち繁栄発達せしむるには、東洋が真丸に一団となり、全世界の諒解を求める事に向って其の宣伝を発表するのが必要となるのである、曰く、

一、全東洋の資源は、全世界の前に提供せられて、其の開拓を待って居ますぞ。

二、全支那全日本の商業貿易は、全世界の力を招来して其の接触を期待して居ますぞ。

三、夫に対する秩序上の危険は、根本より一掃せられて東洋に於ける其の各自の財産と生命とは、絶対に保護せらるゝの 組織が出来て居ますぞ。

四、東洋の資源は、世界と均等共通の力に依りて開発せらるゝ事に根本的に理解確定して居ますぞ。

五、日支の両国は、全財産と全精力とを挙げて、オリエンタル・オーバアランド・エンド・オーバシー・ゼネラル・インシューランス・コンパニーの資本に投入しましたぞ、安心してお出なさい、安心して事業をお起しなさい、安心して利益をお取りなさい、と広告し得らるるのである。

 以上のような意味が、日本支那政策の根本でなければならぬ、其の外にはどんな事を試みるも、皆怨みを買い禍根を醸すの外、見るべき
成績はないのである、予は或る時、軍事当局を元老の前に引き出して、諄々と此の論を説いた事がある、

 元老曰く、「実に名論である、世界中是程穏当なる支那政策は有るまい、併し一つ合点の行かぬ事は、日支相談の上、世界に向って、『東洋の資源は無条件にて世界の前に提供するから勝手に利益を獲得せられよ、秩序の維持即ち泥棒防ぎは自費で日本が引受けて上げます』と云うと『利益は世界が取って逃げて行くに、其の事業安全の保護は日本が自費でするわ』とは道理のない事ではないか、そんな事でどうして日本の軍隊の費用は、何処から出て来るか、君は軍隊の費用は幾干(いくばく)の物と思うて居るか、殊に支那に出張すれば、日本に居るよりももっと多額を要する事になるが夫は分って居るのか」と云わるると、其の軍事当局は其の尾について「帝国の軍人は、人の営利事業の寝ずの番は御免を蒙る、第一軍隊の威厳に係わるから」と云うた。

 さあ其処で予が折り合わぬ、
「其の御両君の根性が、帝国軍人の威信を墜落し、世界に忌憚せられて終には我国を国家的盗賊呼わりをさるる元であります。
第一、軍人は平和秩序のサーバントと云うが本旨でございますぞ、夫から日本に居る時は腹干し働いて居るのですが、支那に行けば只だ増手当を取る丈けですぞ。
第二、軍隊は国家防備の完全を限度とすべき物で、果して圧制侵掠の力まで蓄えねばならぬ物でございますか。
第三、夫に我国の軍隊が、平和秩序維持専門の事業をして、何処に威信が汚れますか、防備以上の力を備えて、若し夫が圧迫を超過した侵略にまで疑わるゝの行動をしたら、何処に威信が保てますか、私は両君を前に置いて、帝国の威信を汚すものは軍隊であると叫びます。

 又元老閣下のお咄の、利益は他人が得て、秩序維持の費用は自弁とは、道理にないとの御説は一応尤ものようですが、夫が大間違いでございます、人に向ってウェルカムを云う者は、之を云う資格が無ければなりませぬ、仮りに或る商店が今日売出を致しますに付き、花客(とくい客)にウェルカムをしてどうかお出を願いますと云う其の主人の家は、其の家族中に下駄泥棒も居れば、外套盗人も居る、其の主人も隙を窺うてちょいちょい其の客人の持物をちょろまかす根性があって、客人が呼べますか、そうして其の盗人根性の取締費用は一切客人持ちとして、其の商店は客人を案内すると云う人格ある主人と云えますか、其の商店は少なくも、主僕総て一団となりて、真剣に善意を持って花客を送迎し、万一紛失物等があったら、弁償する位の覚悟が無くては相成らぬものでございます、心を静かにしてお聞きなさい、

 
 先年英米のイ(エ)ンジニヤ・クラブの報告を調査した事がございます、曰く強国が殖民若く(もしく)は未開の地を開発するには既往の統計に依るに、山岳を拓き、河川を浚渫し、諸建築をなす、所謂固定資本なる物が、資本の百分中62で、残る38が流動資本である、而して利益は大抵1割を目的とするのであると、さすれば彼等は、一朝事変があった時には抱えて逃げられない固定資本を、仮りに1千万円の資本中620万円は其の土地に投入せねばならぬのである、其の620万円は着手第一に、先ず其の土地の人、即ち東洋ならば日支の人民が頂戴するのでございますぞ、夫から1割の利益を得んには仮りに資本1千万円の或る事業に対しても、凡(およそ)3割のモンス(マンス)ペー即ち月払金凡3百万円計りは、労銀其の他の諸掛費に向って仕払わねばなりませぬ、此れも其の土地の人民が、永久に頂戴致しますぞ、即ち年額3千6百万円の仕払いである、夫に彼等の目的とする1割の利益即ち1百万円を加えて都合3千7百万円が、其の製品の売価となって世界に売出すのでございます、其の売った代価を、又持って来て其の翌年も翌年も又3千6百万円宛を日支の土人に払うて、彼は1百万円宛の利益を所得するのでございますぞ、即ち機会均等、門戸開放なるものの、日支両国の土人に対する賜物、即ち利益は仮りに1千万円の1会社を、英米の人が東洋に拵えたとしても先ず一時限りに620万円を頂戴し、次には永久に年々3千六百万円宛(ずつ)を、日支の人が頂戴するのでございます、そこで其の莫大の金を得た日支の労働者などが、セービング或は消費に対する向上は、忽ちにして購買力の増進となります、即ち其の労銀の過半は、酒を飲み煙草を吸い、毎日の放歌高唱は総て是れ民族消費の音響でございます、夫れ(それ)に対する供給の物資は、日本の努力でなければなりませぬ、四面環海であるから、原料の集収に便利である、器械と勤労の算用に敏捷な民族であるが為め、能率の増進を図る事が容易である、東亜の各国に距離が接近して居る為め、フレートその他のエキスペンスが安価である、其の結果は遠距離で、費用の沢山掛る国の商品と十分競争が出来る余地があります、斯る努力の為めに其の向上した民族の消費丈けでも莫大で、今から其の数を計算するに苦しむので有ります。、


 況んや日支の単独経営権や、合弁経営権は元の通り依然として残存するに於てをでございます、これらが世界に幾多の強国を産んだ、民族向上の顕著なる一大歴史の現象と云うのでございます、さあ斯う成った時の日本の利益は、秩序維持の軍隊費の幾倍を支払い得ると思いますか、今閣下方の権威とする、海陸の軍隊は、無用の日月を煉瓦の家の中で弁当を喰って寝て暮して居ります、幾多の軍艦は振り金玉でぶーぶー屁を垂れ、用もない海上を遊んで暮して居りますぞ、夫を世界人道の為め、東洋開発の為め、機会均等門戸開放の為めに、自発的に支那と相談をして、世界に之を高唱して其の為めに此の海陸の軍隊が、善意に努力するのが何で威信に係りますか、何で損が行きますか、私は茲に閣下方の為めに門戸開放機会均等の国家の為めに、有難い1例をお咄し致しましょう、

 昔日(むかし)浅草観音様の境内は、あの池の畔に榎の並んで居る所までで、夫れ以北は全部浅草田圃と云うて、水の溜った沼田でございましたのを、飯田某とか云う者が、1坪20銭1反60円で買って、池を掘り縦横に溝を通じて、其の土を左右に刎ね上げて、僅かに地面を拵えましたとの事故、今でも1尺か2尺も掘れば水でございます、其の地上を浅草六区と称して、門戸開放、機会均等を宣言しました処が、八方の商人が押寄せて来まして、安芝居や、女義太夫、尻振踊り、手品軽業等が集って幾多の繁栄を累(かさ)ねまして、一時は其の土地の6尺真四角の地上権が、6百円にもなったとの事でございます、さあ門戸開放、機会均等の賜はこんな物でございます、其のお蔭であの場所に、20幾万の人口が群集して生活をして居るので、即ち東京人口の10分の1は、あの場所に集って、其の利益にあぶあぶして居るのでござります、故に日支の両国は、満韓から西比利亜、松花江、沿海州、黒龍江沿岸まで、皆1坪6百円の地上権になして、世界人口の10分の1、即ち23億の人口を招集したいのでございます。只だ此処に重大なる要件は、秩序維持の法規でございます、夫が即ちちゃんと日支両国が最も鄭重に審議すべき、彼の東洋平和会議で極まる規則条件でございます、夫さえ強固に厳立して、之に対する警備さえ永久不抜の法を立て得たならば、門戸開放、機会均等位、世界に結構な物はございませぬ、
 元来が私は生れるからの軍備拡張論者でございますが、其の拡張は基礎ある計画の下にでなければ、此程恐ろしい戯れはござりませぬ、古人曰く『天の時は地の利に如かず』と、左すれば我日本は、亡ぶべき天の時は幾度有ったかも知れませぬが、地の利が世界中絶好の優勢を占めて居る為めに1度も外国に取られた事はござりませぬ、又『地の利は人の和に如かず』と申しますが、此程地の利に富んで居ても、人の和には敵いませぬ、其の人の和が3千年の訓練を経て、1種義勇の風を成して居ますから、相待って他から掠奪せられなかったのでございます、第1絶東と云うて世界の絶倫に位して、気候が中温である、夫から強国は、太平洋5千海里の向うか、又は印度、ベンガル、スエズ、地中の諸海洋を隔てておりますが、まだ器械の進歩は、北海を隔てゝ戦う程になって居ませぬ、今仮りに米国が1万噸(トン)の軍艦1艘を以て日本を敵として攻撃するとしても、其の燃料が1昼夜3百噸と見て、バンカ、ハッチに1千噸入るとし、3昼夜をはしったら、其の軍艦は息の切れた人間のように、船の土左衛門であります、左すれば又3日の航海をなさんには、又1千噸の石炭船がお供をせねばならぬ、又其の3日の後は又1千噸の石炭船がなければ、9日の航海は出来ませぬ、日本の海岸まで来るには、少なくも五艘や6艘の壱千噸の石炭船を、お伴に連れねばなりませぬ、其の石炭船に、又護衛艦が入用です、夫から日本の海岸に其の軍艦が到着した丈けでは駄目だ、夫(それ)が活動する丈けの石炭供給船が、米国から日本まで続き続きて供給して呉れねば、其の軍艦の活動は出来ませぬ、一般の軍艦でさえ夫です、少なくも日本の艦隊を打潰す丈けの軍艦に供給する運送船でも、米国から日本まで幾千万艘を要するので御座います、其の運送船を米国から日本まで連続せしむる丈けが、現代ではまだ不可能の事であると、欧米の軍事当局にはちゃんと勘定が出来て居ります、さあ御覧なさい、それ程不便な所に日本と云う国を建国して呉れた人は誰です、吾人は伊勢の天照大神宮様にお礼を申さねばなりませぬ、夫から此の民族を教養する事、茲に3千年にして、世界から見たら一種の狂人とも云うべき敵愾心が練習して有ます、其の上日本を亡ぼす丈けの軍艦を、東洋にもって来たらば、其の軍艦と兵士との食う物資がございませぬ、東洋には熱帯地も有って、1年に米が2度出来、4度も筍の生える土地は有ますが、夫は皆地の底に有る物資でございます、そこで東洋を攻略する為め、欧米の強国は、其の物資収集及製造所から拵えて懸らねばなりませぬ、好し夫程にして日本を取ってどうかと云えば、土地狭小にして山岳多く、水力燃料とも不完全にして、経営の十露盤(そろばん)が持てませぬ、1本の狭軌鉄道を布くにさえ、1,2マイルカーブと勾配なしでは出来ませぬような貧弱な国柄である為、只で貰うても引き合わぬと云う事を独逸と米国の参謀局はちゃんと数字を示して発表致しています。

 夫ご覧じませ、人の取って引き合わぬような処に、国家を建設してくださったお礼はまた伊勢大廟に申し上げねばなりませぬ、其の上寒熱帯の分岐点に在るが為め、気流の険悪は世界1で、元寇の乱から、今度の日本海の海戦まで、皆之を神風々々と云うて居るではございませんか、夫で世界は屹度確実に日本は欲しくない厄介千万である事を自白して居ます、只支那が欲しい為めに、総て日本に考慮の交渉を持つのでございます、故に日本の軍備は国家の防備を限度とし、次ぎには東洋の秩序維持を限度として、其の得たる平和は、夫程欲がる世界の前に、支那と共にさらけ出して、両国の誠意をさえ披瀝すれば、東洋は只だ向上進歩する計りで、来る物は幸福より外ござりませぬ、夫は門戸開放機会均等を、日支の自発的に発表するのでございます」と、予が攻め付けたので、其の元老と軍事当局の人は、永年の日支交渉の方針を誤まって居た事を繰返して、全然同意をして呉れた事があった。

 併し斯る大局の大議論は、50年弁当飯に馴れた役人には中々実行が出来ず、俺は爾後怏々(おうおう)として沈黙して今日を送って居る所であるから、予は、貴様が今度の支那行を賛成すると同時に、此の意義を含ませて、彼の地の志士をして、此の議論の圏内に入れたく、斯くは心中を披瀝して云い聞かす訳であると云うた所が、龍造寺は手に持った1杯のコーヒーも、水の如く冷えて頭と共に冷化して仕舞い、暫くして初めて口を開いた。



 「お兄さん、私は初めて支那と云う物の咄を聞きました、否、日本と云う物の咄を聞きました、今日まで私の考えて居った事は、全部間違うて居ました、是から好く前後将来の事を考え、大略の方針を極めまして出発する事に致しまする」

 と云うて、其の日は別れたのであった、夫から数日の間、音信も無かったが、其の月の22日に愈々新橋から出発すると云うから、庵主も夫是(それこれ)と気を配りて、其の日の時間前に馬車を共にして新橋停車場に往ったが、見送りの人など1人も来て居らぬから、

 「家族も書生も朋友も誰れにも知らせぬのか」
 と聞くと、

 「是はお兄さんの米国行の例に倣うたので、家族共には見送りを禁じ、友達には乗船後知らせる積りでございます」
と云うから、

 「夫(それ)もそうだ、1人の真身の兄が見送る以外、別に見送人の必要もあるまい」
 と云うて居る中に、段々時間も切迫して来て、多くの乗客も立騒いで来た頃に、龍造寺は一寸用達(ちょっとようたし)に行って来ますからと云うて、便所の方に行った、暫時待って居ても来たらず、もう発車の振鈴(しんれい)が響いてきたのにどうしたかと、気を揉んで居ると、1人の赤帽が来て、

 「龍造寺の旦那が一寸貴方を呼んで来て呉れと申されます」

と云うから、一寸吐胸を突かれ、便所に馳せ付けて見ると、龍造寺は小便所の階段の上に立って居る、其所に行って先ず一驚を喫した。それは彼の横長き尿樋の流しは全部鮮血が漂うて居る。

 「どうしたのか」
 と聞くと、

 「何だか分りませぬが、放尿後尿道より出血してどうしても止りませぬ、此の通り尿口を摘んで居りますが、出血が尿道に充満仕ますから、離すと此の通り滝のように出ます」
 と云う中、見るく顔色も蒼白を呈して来たから、此れは大変と思い、直ちに車を飛ばせて龍造寺の親友なる、木挽町の池田病院に連れ込んだ、院長は直ちに診察をしたが、何だか原因が分らぬ、種々手当の結果、一時出血は止まったが、又放尿時になると出血を伴うので、暫くは大騒動である。其の中池田院長の診断で全く膀胱内よりの出血と極まって、其の施術を行うたので、稍緩和して、10数日の後退院するの運となった所が、自宅療養後、数日の後、又々出血を初めて、体力も漸次弱るから、今度は順天堂に入院せしめ、阿久津博士の専門治療を受けて居る中、膀胱鏡などにて実見の結果、いよいよ膀胱癌と病名が確定して、入院より7日目位に腹部を切開して膀胱内より葡萄の実の加き物を幾房となく取出し、内部を電気で焼灼(しょうしゃく)して、一旦施術は終ったが、是が龍造寺最終の病気とは素人の庵主に気も付かず、只だはらはらと心配ばかり仕て暮して居たのである。

  ●53   <了>。 
 





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