カウンター 読書日記 2008年04月
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●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
● 51 厄介な国事道楽者

 漁夫弾を抱いて敵国に向い 暴漢母を倒して其の財を奪う 


其の後1ケ年計り過ぎた頃、庵主が東京築地の台華社楼上に晏居の折柄、警視庁の刑事係が1名突然と来て面会を求めた、会うて見ると曰く、

 「貴殿の実弟たる、龍造寺隆邦氏が、今回或る北陸の漁民等数名と共に、漁船の親船一艘を仕立て、それに日露戦役軍夫と称して1種の徒党を組み、莫大の爆発薬と共に乗り込んで、能登の七尾港から出帆せし形跡がある為め、八方捜索の末、貴下の実弟なる事を聞き出し、何かと御存じの事情もあらば承り度しと思うて参上せり」

 云々の咄である、庵主ははっと思うた、「あの奴、新潟の鍋茶屋一夕で急造憂国家になって、又胆切れ(きもぎれ)の大胆な事を始めたな、困った事を仕出かしたなあ」とは思うたが、何様刑事の前で黙って居る訳にも行かぬから、

 「はい、龍造寺隆邦は僕の実弟に相違ありませぬ、併し此の者は幼少より商家に養子に行き、拙家へ復籍後も、主に山業に従事し、少しも対外交とか、内政上に対する政治思想とかには没交渉の男であります、僕は故郷にて一別後、数年も面会せざりしが、昨年計らず新潟にて漫遊し、一タ宿を共にして旧事を語り明かした位にて、其の際も決して談、国事などに及ばなかったのであります、今のお咄は余りに突然なのと、事柄が余り本人と懸隔がある為め、急に何等のお答えも出来ませぬが、先ず当方でも相当の捜査を仕まして、何等か事情を得ましたら、日頃懇意に致す警視総監閣下まで直ちに申し通じましょう、何れにしても事柄が国事に関する事ですから、破廉恥罪とは違い、何等隠蔽の必要もないと思いますから、御安心の上、今日は御引取りを願います」

 と云うたので、そこそこに刑事は帰ったが、扨、龍造寺奴(め)何を仕出かしたか、何様捜査の仕様もなく、取り敢えず新潟の彼の住所へ長電を打って問合せたら、翌朝返電が来た。

 「主人は不在、居所も今日は分らぬ」

 との事である、庵主も頓と行詰まり、あの龍造寺が、今不馴れの国事道楽などを初めて、首尾始末の付かぬよう事を仕出かしては困るがなあと、分けても親身は芋汁の、味は匂いの田舎武士、若い親爺の気になって、焚く焚く愚痴る愚痴る炉の炭の、起る程には心にも、怒らぬ変な気煙で、燻ぶる儘に2、3日を、暮して居たる午前2時頃、雨にも堪えぬ門の戸をこつこつ叩く者がある、風か水鶏(くいな)か電報か、番の小憎が居穢なく、気他無く、寝込んで起きぬ焦燥(もど)かしさに、自分で起きて戸締りを、開ければ、にゅーと入り来る、夜目にも夫と知らるるは、思い続けし龍造寺である、其の驚きと嬉しさ
に、云う事さえも後や先き、先ず居間へ伴いて、扨其の来意を問うて見れば、彼はにこにこ笑いを湛え(たたえ)、

 「今夜参りましたのは、お兄様が私の事で御心配になって居るとの事を、新潟の宅から申して参りましたから、夜中お休みの時にも拘らず、参上致しました訳でございます、扨、私の今回致ました事件は、元浦塩に在る私の友人が、いつの間にかどえらい対外交の思想と成って居まして、窃かに日本に帰ったが、一の知人も無い処から、私に手渡って(たよって)来まして、現在日本外交の拙劣と、軍事計画の手後れは、切歯扼腕に堪えぬと云う顛末を物語りまして、個人行為として敵国の鉄道・橋梁その他を破壊する考えであるが、何様肝心の爆発薬が手に入らぬからと、夜を徹しての慷慨咄しでございますから、私も日本人で、彼の一死を決した覚悟と精神を見捨てる訳にも参りませぬから、此の間より聊か手蔓を得て居りました、米国捕鯨船の所有する爆発薬を、鯨を捕るよりも余計の代価で買い入れまして、其の男に遣りました処が、此の爆発物買入れ等に使いました私の手下にある命知らずの漁民共が私に膝詰めの談判を致しますには『我々は親の代かに魚と取組合をして、命を捨てねばならぬ職業であるのが、今度は千載の一遇で、敵国人と取組合って死ねる時が来ましたから、是非あの浦塩の先生と一緒に、露国に遣って下さい、私共5人は、昨年の大暴風に、3日も海中に漂うて、敦賀の救難所で救われた者でござりますから、1年前に死んだと思うて出掛けます』と云いますので、其の友人と相談の結果、大賛成を致しまして、共に出帆させる事に致ましたが、新潟や敦賀では出帆が面倒でござりますから、船を七尾に廻し、出帆を企てました処が、屹度名前の知れた人で、戸籍の証明を出帆届に要する戦時中の取締であるとの事ですから其の浦塩の友人に、私の名前と戸籍証を使用せしめて危うくも出帆させたのでございます。
 故に若し発覚しましても、其の友人が私の名前を詐欺したと云う事になるだけで、私には法律上の罪はございませぬと思います、私も段々考えまするに、其の友人を其の儘に放って置くのも面白くありませんから、お目に掛ってお赦しを得ましたら、松花江の方に往ける手蔓がござりますのを幸、富山県の漁夫数人と、漁船に乗りて出掛け、何なりと少し計りでも敵国の物をぶち破して来ようか思い、只今其の準備中でございます、已に友人と先発の漁夫共は、敵国の鉄道橋桁を破わす(こわす)には、笊で帽子を拵え、それを頭に被り、其の中に爆裂薬を入れて、川上から夜中流れに従って立ち泳ぎをして、橋桁に到着し、夫を打ち付けて頭と共に橋桁を破わすと申して居ました。是等も新発明の破壊術とは思いますが、私は此れ等漁夫共より、今少し甘い工夫をしてみたいと思うています。どうか、人間として生れ来った世に、復(ま)た遭う事の出来ぬ千載一遇の時でございますから、私の思い立ちを御許可なさって下さいませ」

 と、ぺらぺらと喋舌るのである、庵主もしばらく沈黙して彼が云う事を聴いて居たが、徐ろに口を開いた。

 「総て意外千万の事を聞く物である、汝にして左様な対国家的思想のある者とは今まで思うて居なかった、先ず我が家の血統として、斯る奉公の考えを起した事丈は取敢えず賞するが、此の種の事業としては、汝はまだ全くの素人である、生ぶ(初心)の小児である、男子仮染めにも国事に身を委ぬる事を決する時には、其の精神と生命の消耗に、一定の覚悟がなくてはならぬ、其の時々の出来心で、巧名をのみ追うて走る者、之を糞虫士(くそむしざむらい)と云う、今天下に充満する志士は皆此の種類である、陽気の加減で、孵化て(わいて)、這い登っては落ち、這い登っては落ちて、遂に糞汁汚濁の中で溺死するのである、又千百万中其の糞虫士の解脱したのが、蒼蝿士(はいざむらい)と云うのである、徒らに権要や群衆に媚びて、迎歓の説をなし、出来るだけ説を売り問題を食うて、揚句の果は、蒼蝿(うる)さがられて、撲き(たたき)殺される位が落ちである、汝の今の出来心即ち急造志士は、以上の者よりも今一層劣等である、予は天性の頑鈍ながら、苟も予は予の対国家的出発点に於て、其の精神と生命の消耗に屹度覚悟を定めて居る、第1は皇上の御為め、第2は国土民人の為め、第3は朝鮮の始末と釣り代えである、此の三つの為なら、何時でも現在の生命を提供するが、其以外には決して死なぬ、後は其の日々々の出来事に対して、適当の智才と体力とを尽すのみである。然るに汝は予の弟として、北国の漁民と同じく、笊の帽子を頭に冠りて、爆裂薬を其の上に載せて北露の橋桁と共に頭を破わして済むと思うか、目に一丁字なく、心に理非の弁えなき漁民が、大和民族の一部として、全身の血を其の一挙に傾け尽すの決心は其の分限として賞するにも余りある事じゃが、汝は已に相当の識力と、理解力とを持ち、名家の血液を受けたる1男子である、夫が自から漁夫と選を同じうするは言語道断である、汝已に口あり声あり、誠を以て道を説くに、何の不自由がある、動くには已に手あり足あり、進退坐作何の不自由かあらん、先ず夫を試みたる結果として善悪の期決に対し、腹を屠るも宜し、頭を割るも宜し、夫は其の以後に於て何の遅き事か之あらんである、君国の干城には已に軍人あり、戦陣に命を捨つるを目的とす、之に従うの軍夫又後方の勤務を以て身命を擲つ(なげうつ)、予が友数十は、已に政府の命を奉じて通訳の官たる者多々あるのである、此等は又夫を以て身命を擲つのである、蓋し汝は又何の薀蓄あって此の企てを為すか、已に悪事業の為め人の産を傾むくる事十数、妻孥(さいど)10年、離散の苦楚に吟き、その全責任ある汝が最終の結論は、漁夫と死を共にするに帰着することは、現在の兄として決して之を許す事が出来ぬのである、速かに一心を立命の地に安んじ、中心(衷心)より人に対(こた)え、世に報ゆるの策を決し、生死を之に賭する事をなすべし、殊に兄が慨嘆措く能わざるの1事は、汝自から爆薬を米船に買うて之を友に与え、又自から快諾して己の名を其の友に名乗らせながら、法律上其の友が氏名詐称になる丈けで、自分は無罪なりと何と云う賤劣の精神なるか、人を欺くは罪にして、己れを欺くは罪に非ざるか、汝は先ず已の罪を知り、今予が与うる此の1書を携えて警視総監に面接し、事実真情残らず自訴して、自欺の大罪を改悟せずんば、決して子が弟たるを許さざるべし、決して遅疑逡巡はならぬぞ」

 と、説き聞かせたのである。

 いと長き、夜半の苧環(おだまき)口尽きて、窓枠漏るる東雲の、茜さすまで繰り返し、解くも語るも口繁き、軒端の雀啼き交わし、榊売る声朗かに、隣の親爺も起出でて、拍手叩く頃となった、夫より龍造寺は、庵主の手紙を携えて警視総監の官舎を訪問れ、事件の顛末漏れもなく自首した処が、段々調査の結果、其の相手たる浦塩の友人を捕縛して対照せざる限りは、矢張龍造寺が初めに信じた通り片言の自首にして、龍造寺を其の儘罪に処する事も出来ぬので、自然其の友人が龍造寺の名を詐称して、七尾を出帆したと云う事に見倣さざるを得ぬ事と成ったそうである。

 夫から龍造寺は新潟を引揚げ、東京の住居となって、永く麻布三河台の近くに居住して居たが、其の砌(みぎり)、庵主が洋行の留守中、又小説的俳優じみた1奇事を仕出かしたとの事である、夫は或る春の日に龍造寺が千住河原へ道楽の魚釣りに往って居たら頻りに眠気を催して来たので、日当り良きとある藁小積(わらこづみ)の蔭に居眠りを仕てぐっすりと眠り込んでる中に、其の藁小積の後の里道の辺で、年頃50計りの老姐の泣き叫ぶ声がするので、ふと目を覚まして窺い見るに、30格好の頑丈の若者が、その老姐の背負うて居る荷物と、首に掛けて居る財布まで剥取らんと強迫して居るので、猶じっと見て居ると、立ち上がり様、老姐を一蹴りに蹴倒した、其の老姐は真っ逆様に横の殼溝(からどぶ)に陥り、大怪我を仕たらしいので、龍造寺は余りの乱暴を見兼ねて予て巡査も奉職していたし、捕り縄の名人ではあるし、持ち合わせた魚籠(びく)の僅かのお縄を引き解きて夫を携え一声掛けて、不意に其の曲者に飛び付いた、其の曲者も声に応じて驚いた時には、もう右手と頸に縄が掛って居て、ばた付く所を眸腹を蹴って弱わらせ、遥かの野良に居る百姓を呼んで、老姐の介抱をさせ、やっと人家まで連れて来て、直ちに千住警察署に人を遣り、自分の身許から、事件の顛末までを陳述して引渡したのである。

 夫から其の老姐の身上を聞けば、生まれは埼玉県安達在の者なりしが、1人の息子が放蕩者にて、酒と博打に身を持ち崩し、とうとう其の母は故郷にも居堪えず千住に出て来て、人仕事の傍ら小店を出して微に暮して居たが、其の亭主が日清戦争中、田庄台にて戦歿せる功に依り下賜せられた金合計2百円丈けを某銀行に預け置きしに、一時其の銀行が破産に瀕した時、村の誰れ彼の世話にて、夫(それ)を受取って貰うて、以来は銀行と云うものは只々恐い物と思い込み、夫の遺物(おっとのかたみ)の財布に其の金を収め、是は夫の命の代の金故、息子の性根が直らねば決して遣らぬと、頑張って、日夜肌身に着けて離さぬ故、其の息子は常に其の母を付け廻し隙を窺うので、母も薄気味悪く、とうとう故郷の家を息子の居ぬ中に畳んで、千住に引移ったは1年半も前との事、然るに其の日どうしてか其の息子が母の居処を突止め、闖入して来て恐喝したので、母は程能く云い宥めて(なだめて)、自分の重立った手廻りの品を風呂敷に包み、王子の親類方へ逃亡せんと企たのを、其の息子が見付けて、先きの顛末に及んだとの事、の始終の咄を聞いた龍造寺は、自分が一日も父母に孝養せずして死に別れたのを、常に心の底に持って不安の念に責められて居た処故、此の事件が甚く龍造寺の頭を刺戟したものと見え、老姐を其の住所に連れ返すと共に、直ちに千住警察署に馳せ付け、彼の罪人には種々の事情があるのを聞いた故、此の儘に自分に下げ渡して呉れと懇々頼んだ所が、もう警察は一応の訊問も済み、罪状も分明なる上、前科も数犯の者故、折角の御申し込みながら、下渡しの事は不可能であると承知してくれ、又貴下が此の罪人の捕縛に対する御尽力は、其の筋へ委敷く(くわしく)報告して置いたからとの事で、止むを得ずすごすごと引き取って来たが、彼が悔恨の心は火のようになって、どうかして其の者を自分と一処に悔悟させ、母に孝養がさせて見たくて、其の当分は全く抜け殼のようになって考込んで居たが、不図其の罪人が明日浦和の裁判所に送らるるとの事を聞き出し、直ちに龍造寺は一種の大奇行を企てたのである、夫は其の日の午後4時頃、浦和街道の人里離れた所を見澄し、不意に護衛巡査に当身をして、其の罪人を連れて大塚村の或る在家に一夕を潜伏し、夜を徹して其の男に人道の説諭をなし、彼が十分悔悟の心あるを見て、龍造じそ其の罪人の衣服を全部脱がせて自分が着、又其の罪人には自分の着て居たモウニング服を全部着せ、嫌がるを無理に金を与えて、其の家より追出した後、其の家主を説得し、金を与えて大塚の警察に告訴させた、

 「私の内に是々の罪人が飛込んで来ました」と云うので直ちに大塚警察から捕縛に来て拘引され、夫(それ)から5日計り(ばか)獄舎に入ったのである。其の中に千住警察へ大塚署から照会があって、引渡された。全くの化けの皮が現われたので、改め龍造寺は自分の意思と非行とを自訴した。千住でも困って、龍造寺を警視庁の方に廻したのである。当時の総監は随分磊落な人であった為め、龍造寺はとうとう罰金で放免となった。

 此れに関聯した事を書けば、まだ面白い事が沢山あるが此処には省く。此の顛末の為め龍造寺は其の当身を呉れた巡査を辞職させて、北海道の事業の支配人となし、其の親不孝の男は、麻布の谷町辺に家を持たせ、庵主が帰朝の後、龍造寺が連れて来たから、殊更に説諭もした事があるが、悪に強ければ善にも強く、其の後は別人の加く母に孝養を尽し、是も龍造寺が世話で、其の母の死後、森岡移民会社とかの募集にじて、南米に出稼ぎをする事になったのである。龍造寺は俳児気(やくしゃぎ)の為め、生れて始めて牢獄と云う物に入られたのである。

 ● 51  了。 
 


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●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
● 50 祖国の危機を憂えて

  兄弟再び南北に別れ  諺話更に雪山に深し 


 庵主は龍造寺に伴われて薄暮の頃より籠手田知事、久保村警部長に面会すべく鍋茶屋へと出掛けたのである、名にしおう北な県の冬の夕暮れ、眼も開けられぬ粟雪を、嘯く海の荒風に、卍巴と吹き捲くるを、硝子障子に隔てつつ、手炉を囲みし友垣は、10年ぶりの邂逅にて。音する鍋の沸沸に、連れて豆腐か千賀小鯛、四面八満方(よもやまがた)の物語、相互(かた)み交りの応答(うけこた)え、絶え間もなしに打ち廻る、盃の数塁(かさ)なりて、顔に漲る紅潮の、堪えに近き頃となり、さて久保村は云えるよう。

 「久方振りの酒莚、子極(ねがた)の陸の涯(くがのかぎり)にて、雪を褥の物語り、尽きぬ中にも一入に、先ず問い度きは此の土地に、思いも寄らぬ珍客のさすらい、殊に今日まで吾々に、何の信牒(しらせ)も無かりしは、事故(ことゆえ)あってか又外に、余儀なき理由のありしのか」

 と、夫とは無しになじり問う、詞(ことば)に庵主は心中に、尠なからざる警戒の、慮りを起せしが、いや待て暫し、此の2人は昔日より、一入我を知る友垣、武道の親交(ちぎり)に年古く、往き通いたる人々故、包み隠すは野暮の至、事の顛末赤裸々に、明け語って荒胆を、抜いて見るのも可(よ)かるべしと、即時に決して座を正し、

 「其の問いこそは僥倖(もっけ)のさいわい、夫を賢兄等(きみら)に告げざりしは、賢兄等に友誼を重んずる、聊かわれらの心尽し、其の訳こそは二賢兄共(ふたりとも)、首傾けずして判るべし、
抑も庵主が此の土地に、来たりし事は先月の、末つ方より二賢兄とも、既に知って居たではないか、夫に今日まで音信の、我らに無きは中央政府より、厳敷き通牒(しらせ)を受けしより、賢兄等は下僚に命を下し、事故の顛末細々と、探偵したが何より証拠、夫を我らは知らず顔、今日まで旅宿に蟄居して、過ごして居たは県にて他に並びなき大官の、旧知の友が嫌疑の眼に、掛れるを知る故である、、公私の別に賢兄等の、職務を安すくさせん為に今は賢兄(きみ)より招かれて、隠れ潜むべき時ならず、下風に趨(ゆ)いて本末を、親しく話すは身に取って、此の上もなき倖なり、我が心尽しを先ず識りて、是れから話す物語りを、私事の1節(ひとふし)と、思うて緩々(ゆるゆる)聞き玉え、

 抑も我らが新潟を、地点に選びて浦塩や、西比利亜などに耳を伸べ、露西亜北欧の鋒先に、眼を離なさざる其の訳は、帝国の廟議浅薄に流れ、安危の鎖鑰(さやく)方外に逸し、恥辱を損得の数に加えず、徒らに戦いを忌んで国力を蹙め(しずめ)、苟且偸安(こうしょとうあん)を以て国策とするを慨するより、止むなく是に出づるのである、夫国家なる物は、栄辱を以て生命となす、辱を忘るれば国家に非ず、即ち名なき民族の集団なり、国家と云う名を取除けたる物である、此故に国家には往昔より興亡の歴史あり、力足らざる物ぱ必ず亡ぶ、之を防ぐの道、宇宙間に決して無し、故に理由あれば何時にても亡ぶる物である、此の場合志士の務むべきは、只だ其の亡び方の如何にあるのみである、樽俎、揖譲、事理、道徳、如何なる事の限りを尽すも、彼れ意を只だ力の一点に注いで之を圧倒し来たらば、何を以て亡びざるを得んやである。国を解せざる鄙流の族(やから)朝に立って、「峨冠長衣」徒らに国際の理義を尽すと雖も、其の亡滅に帰するの時、何を以て其の責めを償わんとするやを問わば、只だ茫として答えるの辞はないのである、彼の印度の歴史を見よ、比爾西亜(ペルシャ)の歴史を見よ、土耳古(トルコ)、希臘(ギリシャ)の歴史を見よ、否な波蘭(ポーランド)を見よ、匈牙利(ハンガリー)を見よである。

 理に酔うて力に醒めざる者、悉く皆、然らざる者は無いのである、今帝国の有様は、理の酒に酔う鄙流の輩に向って帝国の千鈞を一髪に掛け、力の上の亡滅に対する損害賠償を覓めん(もとめん)とするの時機である、見られよ露西亜には、多年国家呼吸器の障害に苦しんで、之をバルカンに求めて得ず、又之を阿富汗坦(アフガニスタン)、卑利斯坦(ベルジスタン)に求めて得ず、今や既に窒息の境遇に苦しんで居るのである、故に挙国満朝の力を傾けて、東洋に突出せんと企て、既に国帑2億6千万ルーブルを注いで、烈寒瘠土(せきど)の西比利亜を通じ、以て浦塩に達せんとする大鉄道の布設に着手し、国内第1の名望家にして、経済上の大識見者と謳われたる、ウィッテ伯を起して、西比利亜鉄道布設首部の委員長となし、日夜其の行程を急ぐの時、我国の大官はどうして居た、椅子に臥し酒を仰いで、「なに、云う可くして行われざるの事は西比利亜の鉄道である、あのバイカルの湖がどうして越せるものぞ、長蛇の中断は両方共に首と尾とを欠く、只だ事を構えて内政に偸安する露国1流の政策である、と罵って居たではないか。然るに豈図らんや、其のバイカルの湖は、見る間に、フェレーボー(フェリーボート)にて連絡をを取り、半成の線路ハルピンに達せんとするの時に、露国は直ちに清国との秘密条約を発表し、欠びして手を伸ばすように、「ぬーっ」とブランチ・ラインの南下を企てた、奉天、遼陽、金州、南山、旅順は、見る見る中に輸送の開始をし、あれよあれよと云う中に径ちに朝鮮に爪牙を伸べた、其の王室と内閣とは忽ちにして露国公使館に贅を贈るの有様になったでないか、歳久しく我国は、日韓協約の誼を重んじ、第1・朝鮮王室の隆盛を謀り、第2・朝鮮富強の基を開き、第3・朝鮮の独立までは無期限に資を投じて保護して遣った、其の苦楽糟糠の好誼を無視するのは、其の背後に非議非道の露国と云う姦夫あるが為に非ずして何ぞやである、今や帝国安危の一髪は、多年放縦無稽に国政を玩弄して、一時の偸安にのみ酔うて居た廟堂の汚吏に掛って、其の興亡を決せんとするではないか、二賢兄等(きみら)は今猶お此の当路に向って、現在国家の蒙りたる、損害賠償を覓めんと欲するのであるか、又夫を可能性の事と思惟するのであるか、予幸いにして永年知を2兄に辱う(かたじけのう)す、いずくんぞ肺肝を披きて教えを乞わざるを得んやである、予不肖なりと雖も、我国祖先伝統の血液を享けて、常に身を国家の安危に委ぬ、之を坐視するに忍びず、之を傍観するに堪えず、身を挺して制機の大策を立てんとすれば曰く、国法を犯す、曰く法制を乱ると、忽ちにして幾多枝葉の小属に命じて進退を拘束し、動(やや)もすれば桎梏其の後えに臨まんとす、何事の児戯ぞ沐猴にして冠するの徒、国運廻転の大豪傑を犯して、其の裳を拿かんとするやと云いたくなるのである、二賢兄等不幸にして濁世汚流の末に入って、身をユニホームに包むと雖も、元是憂国慨世の傑士、何の戯れにか、触れなば燃えんとする予を縛するの事を為さんや、又何の慰みにか手に、憂世の涙を徒放せしむるの事を為さんやである、庶幾(こいねがわ)くは、二賢兄、旧誼の私事を懐ふ勿れ、只だ旧知奉公の精神を採って済世の大業に、義奮一片の誠を贈って呉れられよ」

 と、心を傾けて説いたのである、現今の世には爪の垢程もそんな事の分る人間は居らぬが、此の2氏は素より日本武士道に精神を弁えたる、曠世の士人であるから、口を揃えて、


 「よし分った、安心して遣り玉え、出来る丈けの便利は足すよ、君が悪い事を仕たと云うても、米国の密猟船に因って浦塩に無券の旅行をさせた事と、無券の洋人を内地へ入れたる丈けであるから、夫は手続上の事を追駆け、事務にして仕舞えば幾等も前例があるから、能く調べて遣ってやるよ、其の位の事は何でもないが、縦んば(よしんば)容易ならぬ事件が起こったとしても、元々主意を国家的善意に起した事なら、我々の職務にどんな障害の犠牲が掛って来ても、此の国難を救い遂げる目的の前には、少しも恐れる事はないから、安心してしっかり遣って呉れ玉え」

 と、青竹を割ったように、口を揃えて云うて呉れた時には庵主は、

 「あー、日本はまだ亡びぬわい、日露戦争には屹度勝つわい」
 と思うた、斯る話を最前より押黙って聞いて居た龍造寺は、一言も発しなかったが、庵主は両人の好意を心より謝して、明早朝出立の事を告げて、とうとう其の夜の12時少し前に別れて宿に帰ったのである。夫から又、兄弟床を並べて寝る事になったが、龍造寺は庵主の枕元に坐して、尤も真面目な顔付きで斯く云うた。

「お兄様、今日私は始めて阿方(あなた)が知事や警部長にお咄になったのを能く側にあって聞きましたが、私が幼少より褥を同じゅうして成長した自分の兄は、こんな人で有ったかと云う事を始めて知りました、小耳にお兄様が国事国事と云うて居らっしゃるのは、一体どんな事が平民のする国事であるかと思うて、今日まで聞き流して居りまして、そんな詰まらない事よりも、男子の為すべき事は、実業の事より外はないと思うて居ましたが、実に国事と云う物は実の入った面白い事でございます、私は幼少よりお兄様と鬼ごっこも共に為ました、百姓も共に為ました、山遊び川遊びも共に為ましたが、成長して世間に対する仕事丈けは、全く別々になって仕舞いました、今日のお話で始めて自分の兄はこんな事を仕て居る人であったかと云う事を知りましたので、今では私の今日迄幾多の辛苦を累ね、幾多の失敗を積み、幾多の人の産に危害を加えて、努力仕ました実業は、夢見る片手に温い(ぬるい)風呂に入って居たような、馬鹿臭い事が分りました、私も武士の家に生れた者でございますから、今日から総ての仕事を打捨てまして、お兄様の弟子となって、国事専門に尽したいと思いますが、どうでございましょう」

 と云うから、庵主は思わず噴き出して笑うた。

 「貴様は俺より生れ勝って居る点は沢山あるが、国事に関する事は俺の方が先輩である、此の商売は中々一寸早速に出来る事ではない、其の入門の試験に四鯛病(よんたいびょう)を根治させねばならぬ、夫は『長生仕鯛、金儲け仕鯛、手柄が立鯛、名誉が得鯛』の四つである、即ち死、貧、功、名、の上の観念を解脱して、命は何時でも必要次第に投出す、貧乏は何程しても構わぬ、縁の下の力持をして、悪名計りを取って、少しも不平がなく、心中常に爽然の感が漂うて春風徂徠の中に徜徉(しょうよう)するが如き境涯にならねばならぬ、今の世の国事家は、往成(ゆきなり)に国事を触声に売歩きて、次手(ついで)に死の責任は免がれよう、次手に金は儲けよう、次手に手柄自慢は仕よう、次手に美名は得ようと云う『四よう病』に罹った患者計り故、働けば働く程、害菌毒素を第三者に振り掛けて、世に多くの迷惑を掛けるのである、今若し貴様が国事家となって入門するには、此の種類の国事屋の番頭により外成れぬのである、夫では国事上に何の利益もないのである。真の国事家は国家が事実の上に利益する事である、故に其の国事家は損して、悪名を取って、身を粉に砕き、揚句の果ては死んで仕舞う、夫が大成功であるから、普通常識の考えからは大損である、先ずそんな事は止めたが好いと思う、俺は端なくこんな家業に取り掛かったから、親を凍(こご)やし妻子を飢やし、身に襤褸(ぼろ)を纏うて道路に彷徨し、終には虱の吸う血程の月給を取る役人から、鍋茶屋で御馳走になって有りがたいとお礼を云うて、こんな古雨戸を背負ったような堅い蒲団にくるまって、此の寒国に愉快がって寝ねばならぬ者に成り果てた、故に貴様丈けは夫に仕たくないと思うから、どうか貴様は人間並に身の振り方を付けてくれ」
                   
 と云うたので、龍造寺は何と思うたか、暫く頭を下げて考えて居たが、こそこそと寝に就て仕舞うた、庵主も共にとろとろと眠ったかと思うと、窓打つ夜半の寒風と、霰(あられ)の音に夢覚めて、起きよと歌う鳥の声、朝餉の支度もそこそこに、其の宿を立ち出たが、龍造寺は善光寺まで送ると云うて、庵主に同行して呉れた、ああ持つべき物は兄弟か、丈なす雪の野中道、辿り辿りて其の晩に長岡に所用ありて1泊し、其の翌日は又直江津に1泊し、又高田の旧友の孤独に暮す老母を訪い、とうとう4日目に長野町の更科館と云う旅亭に辿り付いたのである、此の間龍造寺は庵主をして、生来始めて兄弟の親しみを感ぜしめて、今尚お夫(それ)が忘れ難いのである、道中荷物の宰領から、雨具草鞋の調度まで、一切龍造寺の世話・賄いに何の不自由もなく雪中の旅行を続けたが、此れより、是に待居たる西洋人1名と、友人1名と共に旅立ねばならぬのである、夫から幾多の艱難を嘗めて木曾街道を辿り、名古屋に到着したのは、9日の後であった、此の道中の奇話珍談は筆に尽されぬ面白味があったが、夫は後日の談片に譲るとして、庵主は此の長野に於て龍造寺と云い得られぬ哀愁の念を忍んで袂を別ったのである、或る伊国の情話に、2人の兄弟が雪の山中にて離別をする時、兄は10マイル程山奥の鉱山に、雇い主          の命に依て其の要書を届けねばならぬ、弟は8マイル先きの渓村に、弧棲する老母に糧を届けねばならぬので、両方共寸時も等閑にすべからざるの要務を持って居るから、別るべき事は双方共決心をして居た、然るに兄は弟の事を案じ、弟は兄の身の上を気遣い、或る繁れる大樹の下に火を焚いた、暫く沈黙して居たが、兄は意を決して弟に斯く云うた、
「弟よ、予は汝と共に母に顔を見せる事を無上の楽として居るから、遅くも明日の昼までには要務を仕舞うて是に来るから、汝は此の薪に暖を取り、此の餉(かれい)を食して是に待ち居らぬか」

 「兄上よ、母の糧は尚お半月を支うべし、予は予々(かねがね)兄上の往く鉱山を1度見たいと思うて居るから予が代って鉱山に往きたいから、兄上は此所に居て予の帰り来るを待ち玉わずや」
 
 「いや、予は予が雇主より予が命ぜられたる要書を他人に届けしむる事を好まぬ、是非共汝此所に待て居るべし」 と、

此の兄弟切情の話の中に、峠の方の道より下り来る1人の旅客があった、図らざりき夫が手紙を届く可き兄の鉱山の支配人ならんとは、故に兄は其の要書を親しく手渡して、兄弟共々にとうとう母の村に往って糧を渡し、又共々に顔を揃えて母に見せて、限りなき母の喜を得て、共に元の雇主の所に帰り来たのである、夫から後に段々と聞いて見ると、其の来りたる人は鉱山の支配人ではなかった、1羽の白鳥が飛来りて、其の兄の携えたる要書を其の支配人の家の窓際に置いて飛去らんとするので、不思議に思うて見て居る中に、忽ち夫が1つの老宣教師と化し「我は天使なり」と叫んで消失せて仕舞うたとの事である。

 素より1片の情話、取るに足らざれども、人種・教育を異にしたる伊国でさえ、兄弟相思の情は無言沈黙の間に、直ちに神に感応するのであると云う諷諺であると思う、庵主と龍造寺が長野駅頭の離別は伊国の兄弟と其の目的も境遇も異にしては居るが、只だ沈黙不言の中に心を浸した情合は、今尚お髣髴として忘却し難いのである。
 
 ● 50  了。
 



●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
 ● 49 突如来訪せる怪紳士

    北越の逆旅紳士と漫遊し 県吏饌を供えて兄弟を慰む   
 


  下の関の逆旅に於て、兄弟図らず邂逅し、庵主が長々敷き説教に、龍造寺は両手を畳に突いて、暫らく落涙の体であったが、漸くに頭を擡げ(もたげ)、

 「狩場の雨に兄弟(はらから)が、仇を討ちにし安元の、昔を偲び諸共に、世の仇草を薙払い、天に代りて道を行(や)り、地を平げて人を矯め、曾我にも恥じぬ武士道を、研(みが)かんものと思召す、兄上様に似もやらで、徒(ただ)に利を追う市人等の、群に交わり一筋に、卑しき業を遂げなんと、急燥る(あせる)心の私を、猶お人ケ間敷く思召し、枯葉に灑ぐ(そそぐ)露かそも、ふす馬に糧の御教訓、今更尊き恩願を、仰ぎ見るさえ身に恥じて、只恐ろしくのみ思いまするが、是を克く御聴取下されまして、私一期の御願いを、御聞き済み下さりますれば、世に有りがたき事でござりまする。抑々(そもそも)御教訓の大主意は武士としての大道、人としての大義、共に違背のあるべき様なく、只恐入って御教訓に従いまするの外ござりませぬが、私志業の出発一歩に於て、已に万世の志をあやまり、失敗に次ぐに失敗を以てし、今や已に人の産を傷つけ、人の財を失うこと、積んで茲に12万余円と相成り、青年一己の負債としては、吾人共に案外に存ずる事でござりまする、若し此の事の顛末が御両親様の御耳に入らば、只さえ物堅き御心に、さぞかしのお驚きと御嘆きは、目に見るよりも恐ろしく思いまするので、斯くは途方に迷う訳でござりまする。此の故に天運万一私に尽きず、此の大難事の義務を果し敢(おお)せる時もござりましたなら、其の時こそは御教訓に従い、心機忽ちに一転致まして、左右の御膝下に侍って、武士の志業にお伴する事を万望致しますのでござりまする。其の運命の分限を、験めし試みます其の間は、不心得なる弟は、世に無き者とでも思し召しまして、私存分の活動をお赦し下さる様にとの願いでござりまする、申し上ぐるも恐れ入る事ではございますが、其の間御両親様の御定省(おみとり)と、私妻子の上の事どもは、偏えに兄上の御眷顧(けんこ)を御願い申し上げまする、其の代りに私は、今日限りに九州の事業全体を放棄致しまして、身を東北の曠野に放ち、運命の輸嬴(しゅえい)を一挙に賭して見たいと存じまする。其の期間は、今日よりどうか10年と思召されて、鴻封雁信共に断絶をして、死生の御通知さえも申し上げませぬから、運あって再び温顔を拝しますまでは、世に無き者と思召しお断念め(あきらめ)置を願い上げまする」
 と、最も堅き決心の程を申し述べたのである。庵主も現在の竜造寺が境遇にては、其の辺が彼の性質上、過当の決心だと思うたから、心から其の申し出を許し、持ち合せの金を過半龍造寺に分け与え、尚お後々の事どもまで夫是れと申し聞け、其の夜は図らずも兄弟旅の浮寝に枕を並べて語り明し、翌朝は未明より起き出で、衣服万端旅の調度をも世話して、大川丸とか云える大阪行の汽船に乗込ませ、惜むも尽きぬ兄弟(はらから)の、訳なき涙に引き分くる、袂と袖と振り分けて、海と陸との東西に、悲しき別れを為したのである。

 夫(それ)より庵主は故郷に帰り、弟嫁と甥との養育に注意し、両親には「男の子と云う者は、蓬桑四方に志を伸べて、運命を開拓せしむる、所謂可愛子には旅させよの俚諺(りげん)に因るを最も可とする」所以等を説き聞かせて、憂き年月を送ったのである。彼の秒(セコンド)は、世界の原始より終末まで、決して休止せぬものである、人類其の他の森羅万象は、各自此の秒の音に連れて、舞踊を続け、世界劇場にてダンス1頁の筋書と、歴史の劇作とに憂身を窶し(やつし)つつ暮すものである。其の秒(セコンド)は忽ちにして3150万6千の音を立てゝ1ケ年を過した又夢の間に3億1536万の音を立てて10年は経過したのである。此の間に彼龍造寺は、何な(どんな)ダンスを踊って、どんな歴史劇を演じたかは更らに分らなかった、庵主の監督に係る方の、歴史劇の報告はこうである。

 「父は上顎下顎の歯が悉く脱落して、半禿の残毛は、銀の如く白くなった、母は拳骨位であった髷が5厘饅頭位になって、リョーマチスの為め歩行が不自由になり、眼鏡を掛けても、針の耳が通らず、僅かに日向好縁端(えんがわ)で、孫の着物のつづくり位を仕事とする様になった。庵主の妻と弟嫁の2人は各子供片手に内外の事に立ち働いては居るが、世話女房染みたのが通り越して、世話女房煮染(にしめ)位になった。併し子供の手足は反比例に、驚くばかり伸びて、甥の道之助は11歳何ケ月となって、小学校の成績は甲抜けの優等尽しであった。茲で庵主の大失策は、彼の鯉沼家再興の意思に急なるが為に此の道之肋だけを東京に呼び寄せ、彼の阿部博士に頼んで、早稲田に入学せしめた。丁度此の頃が彼の不良少年発生の初期であって、一寸の油断もなき中に、悪友の為めに損傷されて、不良少年の群に這入ったので、博士と庵主の狼狽は一通りでなかった、直に退校はさせたが、間もなく、大病を煩うたので、諸所の病院に入れて全快させ、此の儘でも済まぬから、或る田舎の園芸学校に転校させ、やっと夫を卒業させて、故郷に孤棲して居る母たる弟嫁の処に送り帰し、兎も角鯉沼家丈けは継がせる事にしたのである、以上の顚末は即ち彼の(かの)3億1536万秒劇中の抜書ではあるが一方龍造寺の方の芝居の景気は、一向に分らぬのである、甚しい事には其の居所さえ分らず、また死生さえ杳として知るべき手段がないのである。其の中起った1事件は、10数年孤閨を守って居た、貞操無比の弟嫁・増女は、天性至って孝心深き性質にて、其の里方の鯉沼家にある1人の母が老病の床に就く事となったので、庵主及親戚協和相談の上、其の病母の介抱に従事せしむる為め、新たに出来た鯉沼家の里方に復籍せしむる事としたのである。

 「此れにて龍造寺は生きて居ても死んで居ても、庵主の目的たる鯉沼家は立つわ」「女性1人前の尽すべき、半生以上の貞操は立て通したわ」「子供は生長したわ」「一時滅家に瀬した鯉沼家の再興はゆがみなりに出来たわ」、此の上は老母の看護(みとり)を終えて、孝道に欠点さえ無ければ増女の生涯は立派なものであると云う事になったのである。処で一方庵主が間断なく憂身を窶して居る天下国家、即ち世間と云う物に対しての、不平不満の低気圧は、兪々益々と濃厚を加えて来て、最早我慢も辛抱も出来ぬ事となって来た。殊に外交方面の危険と不体裁は、言語に絶する有様と成って来たので、庵主は親と妻に其の意中を明かして、予て気脈を通じ、山問僻陬(へきすう)に潜伏して居る、憂国同志の人々に事を謀るべく、意を決っして瓢然と故郷を立ち出でたのは、秋の田の面の零れ穂に、飢を囀る雀等が、食を争う頃であった。夫より、山陰地方より廻りて北陸に入り、越前、加賀、越中より越後に辿りついた時は、最早遠山が峯に雪降りて、近谷々に紅葉散る、秋の末頃であった。即ち新潟にて浦塩より密航し来る同志に面会して、また此方より同方へ密航させねばならぬ用向きに従事
したが、此等の秘密行為のために、京阪地方との通信は絶ゆるし不謹慎な事は為て居るし、路用の金には必死と行詰まると云うので、新潟の或る逆旅に空しく淹留(えんりゅう)せねばならぬ事となったのである。時雨降る日の炉辺に、或いは書を読み筆を走らして、1日の悶えを遣るを所作として居たが其の時の詩に、

    英雄雌伏奈機「ちゅう」   北陸千山復嘯秋

    不管天時風雨悪       壷中歳月付安流

   或る日の事、突如として這入って来た紳士があった。ラッコのチョッキに山高帽子、ロングコートに長靴で、ぴたり縁側の板張に平伏して辞儀をするので、庵主の胸はどきんとした。是は何でも東京から、国事を探偵する官憲が、庵主の挙動を物色する為めに追掛けて来たものに相違ないと考えて、逸早く相当の覚悟は極めたのであった処が、徐ろに顔を上げるを見れば、壹図らんや夫が龍造寺であった。おやと庵主が意外の叫びをした時は、彼は満面充血の眼に涙さえ漂わして、声も唖りて(つまりて)云い能わざる有様である。暫くして、

 「図らざる処にて、お兄様のご無事なお顔を拝しましたのは、私今生の仕合せではござりますが、一通りならざる不孝の身を以て、押してお目通りを致ますは、身の罪を弁えざる致方でござりますが、余りのお懐かしさに、前後を忘れての推参、何卒万々の御赦免を願います。下の関でお別れ申して以来の為体(ていたらく)は、お許しを得て追々に申し上げますが、取り敢ず御両親様は御機嫌宜う居らせられますか」

 是を聞く中に庵主は、嬉しさと懐かしさの感に打たれたものか、答える声はもう疾うに(とうに)曇って居た。
 「おう御機嫌良いぞ、安心せよ、道之助も増女も達者で居る。色々変った咄しもあるが、急には出合わぬ。先ず何より貴様の健在は兄が一期の喜びである、何は兎もあれ、世に憚からる不埓の所行、少しは改むる気になったか、どうじゃ」

 「世の諺に申す如く、己の欠び(あくび)臭からずと、私の所行に就いて、其の善悪は分りませぬが、九州方面の筋悪しき債務だけは大略始末を付けましたのでございます、残る処の物は友誼若くは法制の上にやや適法の物斗り(ばかり)と相成ました次第でございますから、是からはお兄様のお咄も多少は耳にも入る筈に心得て居ります、扨、世の中と申す恐い風波に揉まれて見ますると、お兄様の御教訓が不思議にも可笑い程思い当る事ばかりでございます、只管、有難く存じまして、改めて厚くお礼を申し上ます」

 「おう、夫が分れば、千万の負債も物の数かはである、俺も貴様にこそ、講釈も為るが、俺自身の自分の所行を心すれば、背(せびら)に汗する事が度々である、併し、其の結果が善にあれ悪にあれ、俺は善意の行為である。また夫が自己でない、期する所は世間である、自外他救(じげたく)である、天下国家の事である、貴様等の目に余り、耳に余る事があっても、夫は笑って呉れるな」

 「いや、今日お兄様の御在所を知りました事に付いて、一寸申し上ますが、私の友人当県庁の警部長、久保村活三なる人は、前年福岡県の警部長を勤務して居た事のある人にて、知事は籠手田安定(こてだやすさだ)と申す人でございます、其の両氏を他用にて訪問致ました処、両人にて窃か(ひそか)に別室に私を招いて・・・

 『君の賢兄杉山君は、今当市に滞在中である、予て半洋船(あいのこぶね)の帆船に、エンジンを窃めたる密猟船にて、異籍の露領に往復せしむる行為に、杉山君が関係ありとの嫌疑で、其の事を東京より通知して来て居る、夫が各方面である、萩港、松江港、西郷港、舞鶴港、伏木港と時々変更あるが、今度は新潟港である、浦塩領事からも注意が来て居るのである、其の通知を手にしたのが今朝である、元々福岡に於て懇意なりし杉山君が、此の新潟市に滞在して居らるる事を、今知るさえ驚いたのに、其の弟君たる君が来訪せられたので、又驚いたのである、今知事公とも相談して見ると、知事公も杉山は剣道の友で、東京の山岡鉄舟先生との連絡で懇意であるとの事、旁々(かたがた)表向き官憲の手に掛ける訳にはどうして行かぬから、幸いの来訪故、君、お兄さんの処に行って、両人で心配して居ると云う事丈けを早く通じて貰いたい、もう既に所用済になって、間もなく東京へでも帰らるる模様ならば、県庁よりは最早出立後なりとの通牒をして、当庁は責めを遁(の)がるる積りである。

「うむ、最早嗅ぎ付けたか、夫は尤もである、大分日数も永くなったから、俺はもう用事は疾うに済んで居れ共、不見不知(みずしらず)の旅で、金が1文も無くなったが、大びらに東京との通信も出来ぬのは、今度は東京から直行して此処に来たのではない、九州から山陰、北陸を経て、此処に来たのであるから、東京の関係者との連絡が取ってない、故に万止むを得ず、全く方角違いの東京の子分の奴に、偽名の手紙を出したが、先方が不在の為め延引して、やっと先刻30円の為替手形が到着して居るが、今日の日曜では夫を受取る訳にも行かぬから、此の手形と印判とを宿に託して、明日早朝に新潟を出立する積りである。夫故に知事や警部長に、徒らに心配をさせるでもないから、貴様是から直ぐに行って、明早朝に立つから今度は失礼すると、よく礼を云うて断って来てくれ、夫から今夜は又共々に寝て夜と共に積る咄をして、明朝別るる事に仕よう」と茲に此の問題は打合せ済みとなった。

 其の龍造寺が出て往ったと摺(すれ)違いに、庵主の身に大難事が突発した、夫は数日前、彼の秘密用の為めに、日本船と偽って、一寸寄港した密猟船が、出帆以来強烈な北の台風に吹き蹙(しじ)められて、船に損所を生じ、何とも凌ぎの道なく、直江津港は平灘にて寄港出来ず、伏木までの航海に船が堪えず、万止むを得ず新潟に吹き付けられ、港口に近づかんとする時、怒濤に巻かれて船を粉砕され、船員は破片と共に散乱し、米人にして加奈陀籍のリードと云える者と、密行の庵主の友1人1人が、破れたるボートに縋り付いた儘、浜辺に打上げられ、万死に一生を得て、庵主の宿に濡れ鼠のようになって飛び込んで来た一事である、庵主は驚愕と喜びと当惑が一時に襲来したが、万策尽きて居る時故、手短かに事情を咄して、直ちに2台の車を呼んで、濡れ衣服の上に庵主の外套と、和服のコートとを羽織らせ、幸いに肌付きの金は、両人とも持って居るから、兎も角も新潟市を離れたら、適宜の方法によりて、管轄違いの長野市善光寺の某所に宿泊して、庵主を待つべしと申し含め追い立てたのである。

 間もなく龍造寺も帰って来て、何れも首尾好き報を齎(もた)らして来たから、久し振りにて共々に食事をして、打寛ろぎて有りし往事を物語ったのである。

深雪(みゆき)降る夜の友垣は、薪に勝る炭々の、憂き嬉しさを様々と、互み交り(かたみがわり)に語(あ)げつろう、炉に増して温き、情けあふるる兄弟の、邂逅(めぐりあい)たる楽しさは拙き筆には書かれぬのである、其の夜はとうとう諸ともに眠りもやらず、遠里の鶏の声を聞くに至ったのである、然るに翌朝になって見ると、昨夜来の風雨にて、信濃川の水嵩幾丈を増したとかにて、附近市町村の騒動大方ならず、殊に北陸無比の長橋と称せられた、信濃川橋はあわや洪水にて押流されんばかりの有様で、1人の渡橋者をも厳禁としたとの事である、為めに其の日は空しく龍造寺と共に宿にて暮らして居たが、薄暮頃に突然龍造寺に1封の手紙が来た。
 

 夫は警部長・久保村活三氏からである。披き(ひらき)見れば、

 「御相宿の高知県の林矩一君と同道にて料理店・鍋茶屋まで御枉駕を願う」と、林矩一とは庵主が久敷き以前からの偽名である。夫を書いて送ったは変ではあるが、夫が警部長丈に面白いのである。


 「好し面白い、往て見よう」
 と、龍造寺と共に出掛けて往ったが、久方振りに旧友久保村、籠手田(こてだ)の両氏に面会して、又如何なる物語りがあるか夫は次回に譲る事としよう。

 ● 49  了。

 


●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
●48 男子志を決して立てば

  馬関の逆旅奇遇を談じ 菩薩の功力正覚を説く 

 
(*下関市は、明治22年の市制施行当初「赤間関市(あかまがせきし)」としてスタート、「赤間」の「間」の字に「馬」の字をあてて「赤馬関」、それが「馬関」となっている。明治35年以降、下関市となる。)

 前にも云う如く、龍造寺は福岡市を東に距(さ)る、須恵村の駐在巡査に転勤して居る中に、彼の鯉沼家の二女・増女(ますじょ)と結婚し、間もなく一男を挙げ、名を道之助と云うて段々生育して居る中に、父たる龍造寺は、職務上の事にて辞職する事になったが、元々一巡査で終るべき性質の者でない。胆大にして気力才幹ともに人に超絶し、総てが普通常規の事では厭き足らぬ男故、一度奮然として憤りを発すれば、何事を考え出すか分らぬので、此の巡査の職務上の事にて憤慨したのを機会として、一擢千金の事業家たるべく考えて、其の業を物色したが、扨此の男の性質として、事を起こすの前に、先ず徹底的の決心をすると云うが常である、夫(それ)には生命の限りを尽すのである。故に其の他の事は、何物も犠牲として顧みないのぐる。是が何時も兄たる庵主を困却せしむる第一の条件である。彼曰く、

 「獅子は兎を搏つ(うつ)に全力を用ゆ、人として豈獣類に劣るべけんや」と。

庵主自からも、素より天下の豪傑を以て任じては居るが、鯉沼家を再興し、妻子と家庭を造りて一家を成さしむべき使命を嘱したる龍造寺が、常往不断に兎を搏つ底の事業に、生命も妻子も犠牲にして、猛進計りされては溜るものでない。庵主が肚胸(とむね)を吐いて当惑するのは、何時も此の龍造寺の決心である。即ち今回も発端(*●43)に云う通り、鹿児島の某所にある金山を引受け、凡百(あらゆる)資本家を説いて、其の鉱山の経営に着手したが、何様学識は小学校の贋教員で、経験は巡査丈け(だけ)と云う男が遣る事業故、金鉱の無い方角計りに掘進して、只だ赤土と岩石を破壊する丈けの努力であったが、其処(そこ)に又西洋にも龍造寺的男がある物と見えて、長崎に在る和蘭生れの宣教師で、聊か(いささか)化学に経験ある男が、此の龍造寺の事業に引掛かり、講釈の百曼荼羅を尽くして、或る程度の資本を供給して、組合事業としたので、龍造寺は狂犬の尻尾に松明を付けたように無我夢中で駆け廻り、キリキリ舞いの後が、龍造寺も宣教師も、一斉にバタンと舞い倒れて仕舞うた(しもうた)のである。

 只簡単に書けば是れ丈けであるが、何様心力もあり、才気もある人間が、2人で心身を絞りて仕出かした失敗故出来る丈けの魂胆や、遣り繰りは仕尽しての後の失敗であるから、多くの災害を経済方面の人々にも加えて居る事は論を待たぬのである。夫で彼の宣教師先生は、教会堂まで引剥がれるまでに成ったのである。
此の時にも庵主は竜造寺を呼んで、多くの訓戒も加えたが、彼の答は頗る簡単明瞭であった。

 「不肖の私を人間らしく思召て懇切の御訓戒を賜わる段は誠に有がとう存じますが、併し山師事は私が仕た事で、決してお兄様がなさった事ではござりませぬ。之に伴う多くの不善事も、全く私の手にて致した事でございますから、私が始末を付けるが当然と心得ます、万一お兄様が山師事でも遊ばす場合が有ったら、只今私に御訓戒遊ばした通りの方法で、物事を処理遊ばすが宜う(よう)ござりますが、私が仕事の当事者でござりますから、私が最善と信ずる方法を考えて為すのほか致方(いたしかた)が有りませぬ、併し御訓戒の段は、将来の私に取っては慈愛の御教訓故、金科玉条として考慮の資料として、遵法致しますでござりまする。只茲に一言申しあげて、お許しを受けて置きたい事は、仮令私が不埓不届を致しましても矢張りお兄様の実弟たるを辱しめて居る事は、何処までも真実でございますから、人間生存中の一動作たる、仕事の遣り方が不味い位で、人類天縁の兄弟関係をまで、断絶遊ばすようの重大なお考えに至る様の事は、御無用に願います。夫はお父様も、お兄様も、私も各々甘く(うまく)か不味くか働いてこそ、人間生存の意義があるのでございます故、働き方が甘くとも、不味くとも、矢張親は親、兄弟は兄弟でござります。況んやお父様からも、お兄様からも、御教訓の一角として、御自身既往の失敗談等は沢山に伺って居る位でございますから、失敗も矢張人間の為る仕事には相違ござりませぬと思召て、馬鹿な弟では有りますが、今は人世学中の失敗科、功究中であると思召されて、矢張りお兄様は、お兄様丈けの御心配と、御迷惑は真正なる兄上と云うお名前の分量丈けはお引受け下されまして、私を活動させて見て居て下さいますのが、日頃の御浩量、即ちお兄様独特の太っ腹な処だと存上げますから其の境界線に混雑を生ぜぬように今からお願申上げて置きます」と。

 丸でどっちが教戒せられて居るか分らぬのである。併し云う事は真理である。そこで俺主が仮りにこう自問自答した。

 「いや、左様な事業は悪いからこんな仕事をせよ」と云えば、弟の事業ではなくて、庵主の事業となる、「そんな遣り方は悪い、是非斯様(かよう)にせよ」と云えば、弟が為るのではなくて、庵主が当事者となるのである。「俺の云う事を聞かねば構わぬぞ」と云うても、矢張り真実の弟には相違はないのである。
 「そんなに兄に心配と迷惑を掛けるなら、兄弟の縁を切るぞ」と云うても其の公証条件は、人間生存中の一郵作が予の気に入るか入らぬの一事であって、「生きて居て何も為るな、働くなら兄の気に入る通りの外、動くな」と云うのなら一気一体であるから、何も兄弟と云う二つ別々に体を拵えぬでも宜いのである。

 「心配と迷惑は、兄弟相互いの共通義務である」、日頃の御浩量とか太っ腹のお兄様など、煽り立られて見ると、「どうも心配と迷惑は、兄たる庵主の個性的職務らしい」と観念せざるを得ぬのである。

 止むを得ずこう考えるより外、仕方がなかった為めに、庵主は斯く(かく)決心して云うた。

 「真実の弟、可愛い弟、俺より1、2枚腰骨も肝玉も強い弟が、善でも悪でも働くと云うのは宜い事(いいこと)じゃ、然し俺の意を迎え、差図ばかりを待って阿附(あふ)順々たる弟ならば、死んで居ると一緒である。心配でも迷惑でも、腹一杯引受けて遣るから、腹一杯無茶の有る限りを遣って見よ」

 と申し渡したのである。
夫から龍造寺は、妻と子を庵主に託して、何でも宮崎地方に鉱山を開始したようであった。庵主は弟の妻子どもを自宅に収容して、両親と庵主の妻に、克く人間の大義を説得し、又人間一人の天才と力量を伸ばしみるには、其の本人の苦労以上に、周囲の者も輔翼(ほよく)せねばならぬものであると申し聞け(つけ?)、快く一家団欒の家庭を作らしめたのである。夫から1年ばかりの間は、絶えず音信もあったが、更る(かわる)衣も色褪せて、木々の梢も幾度か、葉を交え枝の影繁く、雨や嵐と春秋は、移れど待てど竜造寺は、何の便りもせぬ事になったのである。夫から丁度2年余りも経った頃、庵主が東京より帰国の途次、下の関の逆旅に1泊せし時、一寸外出の街上(まちなか)にてパッタリ出会した(でくわした)のが龍造寺であった。

 時恰も(あたかも)10月の肌寒き頃に、洗い晒した浴衣1枚に、垢染みた兵児帯を締めて、破れた蝙蝠傘を携え、裔(すそ)端折って草鞋掛けであった。庵主が、

 「ヤア、龍造寺でないか」
 と掛ける声に応じて、
 「ヤア、お兄様」
 と相応じた。夫から手短かに話をして、庵主は用事も中止をし、宿に連れ帰って段々と様子を聞けば、。
彼は2年半前宮崎に於て知人数名と連合して、有利な金銅の混合鉱を発見し、わずかばかりの資本を持ち寄って開坑したが、始めの間は鉱石の分止まり(歩留まり)も好く、各自年若な組合員は、何れも空を翔ける翼でも得たように景気付いて、更に資本増額の計画も立てて、豊前豊後の間の知人と相談して、神戸の或る外国商館に関係ある、西山某と云うを組合員に入れて、資本の供給と、販路の事共を任せ、更に技師や人夫頭等も、西山より入れる事になって、事業の手順も段々優勢になって来た処に、坑内に大変動を来たし、巨大なる断層岩石に衝突して、一塊(いっかい)も鉱石を出し得ぬ事となった。八方苦心して一同凝議もしたが、何とも策の施すべきなく、半年ばかりも掛って煩悶の結果が、とうとう維持の力尽き、やっと其の西山に少々ずつの金を立替えて貰い、一同散々(ちりぢり)ばらばらと退山したのである。然るに自分丈け(だけ)は、此の鉱山に対し、単独の責任にて借入たる資本も多く、懇意の人々に責任を以て勧誘し、金品を提出させた関係もあり、旁々(かたがた)更に一場の失敗談だけにては相済まざる訳もある故、一々其の人々に面会して、事の顛末を打明け、徹底的に承諾を得て、自分の再挙を待ち呉れるよう相談を極め、やっと其の関係は片付いたが、茲に1問題が突発したのは、彼西山は其の鉱山の権利全部が、自分一己の物に移ると間もなく、更に坑内にて一大脈を発見したと云うを名として、阪神の間にて資本を募集し、数月ならずして盛んに採掘出鉱の成績を挙ぐるに至ったので、元組合員たる一同は、更に集合をして、其の不徳を詰問もしたが、法律上の権利を楯として、更に談判に応ずる景色もなく、種々法律家などとも研究をしたが、少しも勝利の余地がないので、とうとう一同も泣寝入の姿と成り果てたが、更に又有望な問題が、自分一己の手に落ちて来た。其れは其の鉱山の1谷隔てた北方に当りて、巨大なる大鉱脈ある事を発見したる1坑夫があって、自分に密告して来たので、窃かに調査を遂げて見た処が、以前の鉱山の主脈は、此の谷に至って全く発展し、其処が該(この)鉱山の中心点たる事を見極めたので、直ちに充分なる鉱区の広袤(こうぼう)を測定して、試掘願いを提出し、其の鉱石等も携えて、千辛万苦の末、当・下の関の1友人に謀り、猛然として再挙の旗を揚げ、彼の悪辣なる西山等に鼻明かせ呉れんずと、計画中である云々の長物語りである。。
 庵主は此の弟が物語りを聞く中より、満身の悲哀は胸臆に湧いて、禁ぜんと欲しても止め得ぬ涙は、滂沱として双頬(そうきょう)に滴るのであった。漸くにして日(い)えらく、

 「汝龍造寺よ、汝は何が為に左様に利益成功の迷路に彷徨う(さまよう)のであるか。男子1度(ひとたび)意を決して志業の道に踏出し、敗を死生の間に争わんとするは、始めに先ず大義名分の道を明らかにし、次ぎに世道人心に益する事を定めてでなければならぬ。然るに汝は其の出発の第1歩に於て、興業射利の事に満身の精を打込み、1敗1励以て益々其の迷路を辿らんとするは、予の最も遺憾とする処である。

『昔印度に1農夫あり、平生は親に孝に、兄弟に友愛深き性なりしが、或る日山中に入りて、五彩長尾の極楽鳥が、地上に休らい居りしを見付け、之を手捕にせんと思い、飛掛って之を押えしに、其の鳥はポーッと4、5尺を飛去り、又地上に匍匐した、今度こそは屹度(きっと)捕押えんと、呼吸を決して再び飛掛りしに、又ポーと4、5尺を飛去り、何でも片翼でも痛め居るかのようである。そこで其の農夫は、今度は必ず此の鳥を間違いなく捕え得る物と信じて、3度4度と飛掛り飛掛りして、とうとう道もなき深山に分け入り、腹は減る、身心は疲れる、日は西山に傾くの時となったので急燥(あせり)にあせって、飛掛り飛掛りして居たが、忽然として其の鳥の行衛が知れぬようになった。何でも此の茂みの中と思うて薄暗き処に踏み込んだ一刹那、古き洞穴の幾百丈とも知れぬ、井戸の如き中に落込んだのである。其の農夫がはっと思うた時に、今までの迷の夢は忽ちに覚めたが、身は已に墜落の中にありて、手足をもがき、其の井戸の中途にあった1本の蔓(かずら)の根に手が触ったので、夫をやっとつかんで、1身をぶら下げる事が出来たが、何様身は暗黒の穴の中に釣り下って、只1筋の蔓の根が命の綱である。夫とても誠に手便りなき物にて、身動きの度々に、ぱりぱりと音がして、這い附いて居る岩石から、根は離れつつあるのである。夫と共に崩れ落る小石が、幾百丈と深き井の底に落込む音は百口(ひゃっこう)の半鐘を1度に撞き立てるが如き響きを立て、今其の手にする蔓が切れるが最後、身は百仞(ひゃくじん)の底に落ちて、微塵となるより外ないのである。
此の時山上紫雲の間に遊び玉える文珠、普賢の両菩薩は、此の農夫の叫び声が、何れかの地底より聞こゆるに驚き玉いて、直ちに馳せ来りて、知恵万丈慈悲の御縄を垂れ玉い、一斉に声を張上げて日わく、《汝農夫、一旦の迷夢覚る時は、人間生死の界(さかい)なり、生死の界は正覚の刹那なり、今我が垂れたる此の縄は、自他忍辱幾多行法の功徳ふんだる、百練の絆なり、凡念百劫の衆生、億兆の手を上げて、一斉に之に縋るとも、倶誓本願の功力広大にして、決して中断することなし、頓悔念仏帰依の心は、堕落地獄の刹那に於て結定すべし。速やかに凡百の疑念を去って、此の縄に縋るべし》
と涙を垂れて告り(のり)示し玉うと雖も、元々穢土不離脱の農夫の手は、万力の鬼と化して、此の不浄垂法の蔓根を離さず、徒らに悲鳴を暗黒の中に上げて、無法の救いを求むるのみである。菩薩は御声愈々悲しげに、我は倶誓の本願に渇仰し、已に六根を清浄し、五慾十悪の心魔に遠ざかりて、汝等を迷路に救うこと、其の数挙げて数う可からず、早く疑いを去りて、此の縄に縋るべしと叫び玉えども、農夫は尚未だ私情一念の悪根を捨てて、倶誓本願の大綱に随う能わぬ有様である。』

 と云う俚諺がある。今汝図らずも、射利追随の事業を起して、身を傷り(やぶり)心を損ない、尚追い縋らんとする5彩の鳥は、豈いずくんぞ百仞の地獄、暗黒の胴中に落ちざることを得んやと、自覚せねばならぬのである。其の兄たる予は、決して菩薩の六道を悟りし、解脱の仏には非ざれども、汝を思う慈悲の心念は、加何でか御仏に劣るべきと思うのである。今兄が垂れたる慈愛の絆は、少くも今汝の縋り附いて居る、蔓の根に勝ること万々と信ずる。方今文化の華とも云うべき、学理と学術の結晶に因って成功する鉱山事業は、汝等無感の力量にては、決して良果を収むべきものでないと云う事を、逸早く自覚して、男子一期の方針を改めよ。予は決して徒に汝に無法の教訓と干渉とを為す者でないと云う事を知ってくれ」

 と、涙と共に説得したのである。龍造寺は庵主が説き聞かせたる物語りを、何と聞いたか分らぬが、直ちに内懐より1包の書類を取出し、側にある火鉢の中に投入れ、火を点じて1片の灰燼と化せしめ双眼に涙を浮め、両手を膝にして、扨(さて)何事をか説き出だす。

  ● 48   <了>。
 



●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
 ●『百魔』 魔人龍造寺隆邦
 
 ●47 奇計を案じて恋病(こいわずらい)を癒す 

   小娘恋を知って病をなし 壮士志を立てヽ学に就く 


 庵主が其の鯉沼家の遺孤(みなしご)橘之助(きつのすけ)をして、小学中学より、専門の学科、採鉱冶金の学術を修めさせるまで、凡そ12、3年の月日であった。丁度此の橘之助17、8歳の頃、庵主が福岡市の博多、奥の堂と云う町に、或る2階を借り受け、博多に用事あって潜在する時の寝泊りを為る所として、其の留守番には彼の橘之助を置いて学校に通わせて居た。一切の賄いは、家主たる50余歳になる後家の老姆が世話をして呉れる事になって居た。此の橘之助は遺伝血統の美貌にて、膚色全く玉の如く白く、眉目飽迄秀で、身の丈け普通よりも立伸び、一眸(いっぺい)の風相は忽ちにして人を魅せんとするが如く、幼にして文を綴り数学に堪能なる事は、全く天質であろうと思われた。或る日庵主が此の寓所に立寄った時、下なる老姆は恐る恐る庵主の側に来りて徐ろに咄し出した。

 「旦那様私は」鯉沼の若旦那様の事について、少しお咄したい事がござります。夫は此の2、3ヶ月前の事でござりました。市外の住吉に住まわるる或る豪家のお袋様がお出になりまして、《お恥かしい事ながら私の娘・みちと云う、今年19歳になるのが御当家様に居らるる鯉沼の若旦那を垣間見て娘心の遣る瀬もなく、通い馴れたる裁縫の、学校にさえ行かずして、思いに悩む様子なるより、夫と共に色々と、問慰めすかせしが、思い乱るる黒髪の、解く由もなき有様故、途方に暮れて夫婦とも、泣くに泣かれぬ一人娘の、家の跡継ぐ婿がねは、已に博多の或る豪家と、婚約さえも整えある故、親族どもとも相談して、娘の心を直さんと、交る(かわる)交るの強意見も、為れば為る程弥増す思い、終には病の床に臥し、日毎に悴(やつ)れ湯茶さえも進まぬまでの痛付にて、ほとほと困(こう)じ果てたので、或る日夫婦相談して、向うの店に半日程、腰打掛けて若旦那の、お帰りを待居りしに、日足傾く夕前に、学校道具を手に提げて、お帰りなさるお姿を、見ると夫婦共あっと云う程感嘆し、娘が迷うも無理ならず、何と云う立派な凛々しい若旦那様、誰あろう御家中にて、品格高きお家柄、世が世の時であろうなら、云い寄るすべもあらがねの、地を這う町家の我々が、お側へさえも寄りかぬる、身分を忘れ今の世の、逆さま事のお願いを、お前を頼み云い出づる、心を不憫と推量して、申し探りて給われかし、養子と云うが恐れあらば、娘を嫁にさし上げるも、只だお主に任すべし》と掻き口説かれて私も、差寄り返事に困じ果て、其の夜若旦那の側に往て(いって)、事の顛末物語り、思召を伺いしに、若旦那様は膝捻じ向け、

 『女が僕にどうしたと、僕は是から勉強して、男に成る稽古を為るのじゃ。夫に女(おなご)が何に成るか』

 と、丸で石地蔵の鼻の先を、燕が飛んで往た(いった)程もお感じのないお詞(ことば)に、私もはっと行詰り、御返事さえも碌々に、出兼ます故漸々と《夫でも若様あなたにも、遅かれ早かれ奥様は、お持ちなさらにゃ成りますまい》と云えば忽ち血相かえ、

 『老姆、そんな事は、叔父様が、一度も云うて聞かせない、叔父様は逢う度に、男になれ、勉強せよ勉強せよ、此の二つの外云わないよ、僕は、叔父様の云う二つでさえ困って居るのに、老姆の云う事まで聞いて溜るものではない、老姆、飯も僕が注て(よそうて)食うから、お前は下へ降りて呉れ』

 と、大変な権幕でいらっしゃいますから、私もほとほと閉口しましたが、去らばと云うて先方の、ご老人の御夫婦にも、お気の毒に思いますし、其のお嬢様のお身上は、どんなであろうと気が病んでなりませぬ、旦那様、何とか御工夫は有りますまいか」

 と、老いの心の一筋に、説き立てられて、庵主は夫を面白き事に思い、橘之助が返答振りの素直さと、恋の病治療法の研究とに一入の興味を持ったのである。夫から庵主は老姆に答えた。

 「老姆、色々の事情能く分った。併し、其の事は心配するな、直に其の娘を思い切らして遣るから、先方の両親にも、俺が逢うて咄すからと、安心させて置いて呉れ」

 と云えど老姆さん中々に承知せず、

 「旦那様、そんな手易い病気ではございませんよ、先方のお嬢様は、今頃は大変でございますよ」
 「いや、心配するな、恋病と云うものは、女の神経衰弱じゃから、直すのは訳はないよ、あの橘之助は一人息子で、家の名籍を興す責任のある体故、今から妻帯をさせる訳には行かぬ、双方無事に、俺が片付ける工夫をするから心配せずに居てくれよ」

 と云うて其の話は済ませたが、扨、余り永く打棄てて置く訳にも行かず、庵主は其の老姆を頼んで、其の住吉の豪家に出入りする医者を呼寄せ、事の顛末を委細咄して、一策を授けたのである、其の医者は早速に先方に行って、庵主と宿の老姆と橘之助と其の医者とを、お九日(おくんち)と云う、村祭神事の御馳走に呼ぶ事に頼んで置いて、橘之助には庵主が斯う云うたのである。
「橘之助よ、貴様はお九日の御馳走が食い度い事はないか」
「叔父様、僕は一度も腹一杯御馳走を食うた事がございませんから、どうか連れて行って下さい」
 「うむ、夫なら連れて行くが、何でも叔父さんの云う通りにせねばいかぬぞ、夫から貴様は病人にならねば連れて行かれぬぞ」
 「叔父さん、そんな真似をして居ても、御馳走はうんと食うても好いんですか」

 「夫じゃあ叔父さん、どんな病人の真似でも致しますから、どうか連れて行って下さい」

 と云う中、予て(かねて)呼んで置いた、其の医者が来たから、
 「さあ橘之助、此れから病人の拵えをするのじゃ」

 と云うて、先ず顔一面を下の老姆さんが頭髪に使う煤油(すすあぶら)の紙で薄すらと汚し、夫から左の眼の上に綿を小丸にして乗せ、頭の所々に梅干の肉を張り、其の上から医者に包帯をさせ、片目だけを出して頭半分を包み、包帯の所々から、梅干の汁を浸み出すように〆付けて、すっかり膿血(うみち)の流るる腫物が、幾ケ所にも出来たように拵え上げて、

 「さあ橘之助よ、此れで充分御馳走が喰える」
 「叔父さん、御馳走は喰えるか知りませぬが、片目計りでは、何だかぐらぐらして見当が付きませぬ」
 「其の位の事を辛棒せずして、御馳走が喰えるか、馬鹿野郎」

 と云うて叱り付け、3人連れで住吉の豪家の所に出掛けて行った、処が予て医師より其の趣が通じて有った為、豪家の人々は打揃うて歓迎をして、御馳走の限りを尽くした、其の中に橘之助は片目計りを出して、出る御馳走も喰うわ食うわ、生れて初めて、放楽で、箸を下に置く間もなく、詰め込んだのである。其の中に病人の娘は下女の咄に、思い焦がれた橘之助が来て居ると云う事を聞いたので、乳母に助けられて、次の間からソーツと其の様子を見に行った処が、見違えると云わんより、寧ろ恐ろしい形相であって、頭部頸筋の所々よりは血膿のようなものが包帯を透して浸み出して、顔色も只ならぬので、病に疲れた体には気絶せん計りに打驚き、息遣いさえ苦し気になったので、乳母も驚き、ヤッと助けて床の中に連れ込んだら、只だソッと枕に縋りて泣入る計りであった、乳母は様子を知らぬ故、胸轟かして直に来合せて居る彼の医者に通じたので、診察をなし、取り敢えず、鎮神の手当を為したので、直ぐに心気も落付いた。

 暫くして娘は医者に向い、
 「先生、今日は大変気分も好いようですから、今次の間から、神事のお客様を覗きに往きましたが、端に居るあの書生さんの、相好の恐ろしさと云うたら、今尚魂も消失せんばかりで、未だに動悸が止まぬ位でございます」

 と物語りて、余所事(よそごと)に橘之肋の事を問い掛けた故、医者は此の時こそと思うて、予て庵主に含められた通りを答えたのである。
 
  「お嬢さん、あの書生さんはね、あの上席に居る杉山氏の甥子さんに当る鯉沼橘之助と云う方で有りますが、若い時に慎むべきは身持ちござります、あヽ天然の美貌が身の仇となって、あの様な業病に取付かれたのでござります、先月頃から風斗(ふと)あんな腫物が出来初めましたので、私はあの杉山氏に頼まれて治療をして居りますが、あれは世にも恐ろしい悪性の梅毒でござりまして、頭部から顔、夫から全身の節々まで、潰瘍(おでき)を吹き出しまして、とうとう左の眼の球を犯しまして、今では兎ても左の眼だけは取止めが付かぬ事になりて居ります、今日の医術では、如何な名医の手に掛けましても、彼の全身の毒を抜く事は出来ぬ事に極まって仕舞いました、杉山氏も是にはほとほと困り果てて、居らるる模様でござります、貴嬢(あなた)の御両親は、杉山氏とは予て御懇意で居らっしゃ処に、今日計らずも
九日(くんち)祭りで杉山氏が此の近所の御親類に、あの橘之助様を連れてお出に成って居たのに御出会なさったので、御家にお立寄りを薦められたので、一寸御寄りになって居るのですが、アノ甥子さんを御同道なさったのには御両親もお困りの様子でござりますよ」

 と、誠しやかに物語ったので、娘は倒れん計りに打ち驚いたのである。
 「あの温順そうな甥子さんが、どうしてそんなお身持を為さるでしょうね」
 と云うて打臥したのである。医者は一入詞を和らげ、
 「青年の時に一番慎むべきは誘惑の一事でございます、行末栄ゆる一生を、見す見す縮めて非業の最期を早めるは、あの鯉沼の若旦那が好い手本でござりますよ、併し御病中に掛り構いもない余所事を気にして、神経を痛めてはいけません、もう大概は全快に近づいた貴嬢(あなた)故、此の際一層薬を精出して召上り、予て申し上げた冷水の全身摩擦を、一入烈敷く(はげしく)して早く御全快なさいませ」
 と云い労りて立去ったのである。此の報告を聞いて庵主は別間に両親の人々を招き、

 「此の際、早く婚約ある婿がねを呼び入れて家事を任せ、娘子の介抱にも一入心を付けて、慣れ親しませるが肝要であります。年頃の娘子を雅気と計り見誤り、終(つい)には生涯取返しの付かぬ疵物となし、 一生涙で暮させる事は、是皆親達の無念でありますぞ。能々(よくよく)忘れぬようにせられよ」

と深く云い戒めて、橘之助を引連れ暇を告げて帰って来たのである。是より庵主は、1ケ月計りの後、種々の事情があって、とうとう東京住居をする事となった故、橘之助も引連れて、則ち専門の学校に通わせる事とはなったのである。

 夫から3年程過ぎて、庵主が郷里に帰った時は、其の豪家の娘子は、滞りなく結婚を済ませ、最(いと)可愛らしき1子を産(もう)けて、老夫婦は初孫の顔を見て、目も明かぬ程の喜びに耽りつヽあるとの事を、かの宿の老姆から聞いたのである。

 夫より間もなく橘之助は、無事に学校を卒業した故、庵主の友人・巨智部忠承(こちべちゅうしょう)と云う高徳の博士に頼み、博士の監理せらるる農商務省の地質調査局と云う役所に橘之助を出勤させて、博士の引立に依って、格外の俸給をも戴き、只管職務に勉励して居るから、或る人の世話によりて妻帯をなさしめ、久敷(ひさしく)滅家同様となって居た鯉沼の家名を興して、小かかなる一家を設け、丁度親戚たる安部磯雄と云う博士が、早稲田大学の教授であるを幸いに、其の人の世話にて牛込の早稲田附近に、初めて鯉沼橘之助の表札を掲ぐる事となったのである。居る事1年にして此の新夫婦の中には愛らしき1女児を産け、茲に初めて家庭の彩色を増し、流れに登る鯉沼の、末の栄を松影の、旭に翳す(かざす)心地して、庵主も此の上なく喜んで居たのである。

 然るに人間の運命と云うものは、有る人数の夫々に、奇しき筋道辿り行く、いと果てしなき因果こそ、神の御座に繰る枠の、廻る程なお解きかぬる、罪恐ろしき物なるか、此の鯉沼の家名こそ、善こそ積め、悪に泥(なず)まぬ誉れある、家系に誇りて有りながら、風斗(ふと)祖父・源右衛門の代よりして、端なく贋札の災禍にかかり、祖父は島死し父は水歿し、其の子の橘之助は幼少より、餓も果つべき艱難の、侘しき中に人となり、焙烙に咲く豆花に、斉しき命を繋ぎたる、其の夢消えて漸漸と人波々に家の名を、起す汀(みぎわ)に渦巻の、淵恐ろしき悪霊が、此の橘之助の身の上に覆い掛って来たのである。夫は或る夏の初めつかた、橘之助は役所より帰宅して、聊か心地悪しとて、碌々に食事もせず、先に床を取って寝に就き、暫らくは寝ながら子供などをあやなして、妻女と咄などもしていたが、間もなくよく眠りに就いたので、妻女は側に床を取って、寝に就きしは夜の10時過ぎであったが、11時頃起上りて厠に行き、

 「烈しき下痢をした故、懐炉にて下腹を温めん」

 と云うより妻女は、其の通りにして遣ったら、又快よく眠ったので、妻女も共に安神して床に入りしが、昼の草臥(くたびれ)一時に襲うて、ぐっすりと寝込んで仕舞うて目の覚めしは、朝の5時頃であった。橘之助はと覗き見しに、よく熟睡してるから、妻女は徐ろに起出て、
朝餉の仕度等を調え居りしが、毎朝6時頃には目覚す橘之助が、今朝は更に其の様子なきより、濡れたる手先を前掛けにて拭き拭き枕元に来て、静かに揺り起し試みしに、こはそも加何に、橘之助は何時の頃に死に果てたか、全身氷の如くに冷えて、四肢も疾(とう)に硬直して居る有様なので、妻女は只だ叫ばん計りに打ち驚き、直に近所の車屋を呼んで、医者を迎えて診察をさせたが、何でも午前の1,2時前後に、激烈なる大下痢を数回なし、全身の水分を一時に排泄したので、暫時にして心臓麻痺を起して死亡したものに相違ないとの事である。其の中、誰彼れの人々も駆けつけて来て、何様変死同様の次第故、警察医の検視をも受けたが、何れも同様の見立にて、今更となっては何の手当も甲斐なき事と成果てたのである。

 丁度牛込より馳せ来る車屋の使の知らせにて駈け付けたのは、庵主の店員・多田豊吉と云う者であったが、庵主は生憎(あいにく)他行中で此の報を聞くと其の儘、橘之助の宅に馳せ付けて見たのは、何でも其の日の11時半頃であった。

 夫より親戚・阿部博士の親切なる世話によりて、何かと取片付けをなし、年若き妻女と嬰児とを伴うて、見るも悲しき野の果の、荼毘の煙に愛惜の儚き影を焼捨てしは、其の日の夕暮時の事であった、此れより7日7日の問い弔いも済んだので、其の若後家は、幼なき女児を抱き、阿部氏の世話にて故郷の筑前にすごすごと帰ったのである、此の有様を目撃したる庵主こそは、彼の釈迦が、彼岸の病兎に無常を悟りし思いして、更に一閃解脱の光明に近づいたと、又一層の勇を起こし、此の鯉沼家の再興を殊更に高叫したのであった。是より又龍造寺の咄に移るのである。

 ●47  了。
 



●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
●46 稀代の兇賊を手捕にす

   捕吏縄を飛して兇賊を縛し 昼伯冤を呑んで孤島に瞑す 


 龍造寺は其の足にて、直に福岡県庁の学務課長に面接をもとめ、以上の顛末を具申したが、初めは県官も小僧扱をして、相手にもなさざりしが、終には時の知事公の耳にまで入れる迄に運動したので、課長等も事荒立てるを不利と思うたかして、郡役所の方を取調べ、事実相違なきを確かめて、其の郡書記を譴責し、龍造寺へは寒村の学事に尽力したと云う名を以て、知事公より文章軌範一部を賞与せられ、尚お既定の卒業生は、此の賞与と共に記念の卒業生と認むと申渡された。
是と同時に学務課長は、彼が引続き小学教員の試験を受くべき事を勧誘したが、龍造寺は、自分の学歴と学力は、試験に応ずべき資格なき事を自覚し、とうとう其の勧誘を拒み、夫(それ)より遥か低級にある、巡査教習所の試験に応じて、兎に角及第し、其の科程に就く事になったが、素より気力抜群の性質故、日夜黽勉(びんべん)して、予定の通り卒業をし、やっと一個の巡査と成り了せたのである。此の間龍造寺が職務以外に興味を以て努力したのは、柔術と捕縄の修業であった。当時鹿児島出身の人で、荒巻清次郎と云う老人は、徳川時代から不思議なる捕縄の名人で、所謂早縄なる術の粋なる鍛錬を得、一時は久留米警察署で、警部まで勤務した人であったが、病気の為め職を辞して、当時福岡県の巡査教習所の教官となって居た。龍造寺は此の先生に愛護せられ、風斗(ふと)捕縄の興味を起したので、頻りに之が研究を始めた。先ず一例を挙ぐれば、此の先生が秘密の捕縄は、公定の捕縄を所持するの外に、琴の糸三筋を撚り合せたる、一丈二尺計りの物を手繰りて、左の二の腕に嵌め置き、夫を千変万化に使用して、兇漢を捕縛するのである。勿論柔術の素養はなくてならぬ事ではあるが、先ず其の縄を首にからみて、相手を引倒すと同時に、自分も仰向けに倒れ、夫から様々の仕事をするのである。

斯く敵を荒ごなして取締めた処で、規定の捕縄で正式に縛すると云う様な事である。龍造寺は其の術に於て、或る程度までの鍛錬を得て居たのである。庵主なども、或る時仕合をして、美事に縛された事があった。龍造寺は巡査を奉職すると同時に、庵主の許に来り、

 「私は巡査の小吏を以て、天下無双の事を仕て見たいと思いますが、茲に早速大事件が発生致ました。夫は明治改暦以来の兇賊とも名付べき強盗で、内山源次なる者、京阪より両肥両筑の間を股に掛け、第一、強盗、第二、殺傷、第三、放火、第四、強姦等、凡百(あらゆる)兇暴を為さざる事なく、其の被害高は本年に入りても多大なるものでございます。而して彼が一口(ひとふり)の短剣を使う事に妙を得て、一度は四五名の警官、一度は8名を相手に致したる事までありますが、何れの時も此方に多少の負傷を被りて、まんまと取逃がして居ます。夫が今回福岡県内に入り込んだとの密報を得ましたから、私は単身其の賊に向って、死生を決して見ようと思います。どうかお許しを願います」

 と云うから、庵主は、

 「其の事は御両親のお耳に入るれば、決してお許しはないと思うが、俺は至極面白い事として、衷心から同意をする。元来我日本国民は、平生に於て総て全部が国家の干城である。況(ま)して巡査なるものは尤も愉快なる職務を持ったものである。故に其の公務上に横たわる事は、難易細大となく、献身的に必ず徹底的でなければならぬ。其の公務執行の上に発したる生死は、無上の光栄である。若し左様の場合に命を惜しみ、臆病を構えて拾い得たる命は、既に命たるものの意義を失い、揚句には、牛馬に踏み殺さるゝ位が落(おち)である。公安の為に命を捨つるは、先祖に対しても無上の光栄と思うて屹度した立派な仕事を為るがよい」

 と云うて帰した処が、其の後彼は署長の允許を受けて、2週間計り不在となった。何れの方面に旅行をしたか、誰も知る者はなかった。折柄或る日、久留米郊外の豪農・某の家に強盗が這入り、有金3百有余円、他の物品を45百円計りを持ち出したとの風説が立った。其の3日後の事である。福岡市外の住吉河原の広場に、1人の男が笠を冠り、側に釣竿を立てその下に籠を置いて、何か物勘定をして居る様子である、夫が昼の1時頃でめる。其処へ又1人の若者が、釣竿を肩にして通り掛かり、

 「叔父さん、鮎が釣れたかい」

 と咄し掛けたので、其の男は少なからず驚いて、直ぐに立上る処を、ピタリ組付いて、其の右の手先を取った。何を小癪なと其の手を懐に入れて、引出したのが短刀であった。其の刀光を見ると同時に、其の若者はひらりと身を飛退くと共に、其の男は真伏(まっぷせ)に引倒された。即ち其の右手を握った時に、若者の二の腕にあった琴糸の捕縄は、彼の男の手首にすべり落ちて、疾(とう)に掛って居た。夫を強く引いたから、不意に引倒されたのである。其の男の倒るヽのを見るが早いか、若者は飛鳥の如く飛掛って、其の縄が其の男の首に引掛けられた。夫を又強く引いたから、短刀を待った右手は、ぐいと背部を伝うて左の頸際まで引付けられた。又何をとひと刎ねに寝返りを打った時は、其の首の縄は本式に二重になって、首に掛って居た。夫を引締め釣り上げて、やっと左の二の腕に引掛けて絞ったから、彼は難なく捕縛されて仕舞うた。其の男が彼の兇賊・内山源次であって、其の捕縛した若者が、龍造寺巡査であり、夫が丁度奉職して2ケ月半の時である。龍造寺は兇賊・内山が柔道家で、蹴の名人なる事を聞いて居たから、尤も大事を取りて、足先きまで縛り上げ附近の人を呼んで人力車に乗せ、警察署へ持ち込んで来たので、新米小僧の巡査が、さしも世間で恐をなして居た兇賊・源次を手取にして来たと云うて非常に称讃を受けたが、所持金670余円と、上等の金時計等は、調査の上被害者に下(さげ)渡され、龍造寺には賞状と金5円の褒美とを下賜せられたのであった。

 夫から又龍造寺巡査が、夜警巡廻中、夜明けの3時頃、博多の商会という所の旅人宿の裏手の、黒板塀を乗越えて、賊の忍び入るのを遠目に見たので、忍足で抜け道を辿り、近寄りて見た処、1人の見張りらしき男が立て居る故、其の盗賊のまんまと忍び入った後を見済まし、見る間に投げ縄を以て其の一人を縛り上げ、半丁計りの露路の中に投げ入れ置き、其の盗賊の忍び入った塀の向う店の縁下に身を潜めて待って居ると、其の盗賊は一の風呂敷包みを、縄にて町中に釣り下げ、自分は元の足掛りによりて下る処を、右の足先に縄を掛け、一息に引落し、折り重なりて例の縄を首に掛けて引絞ったので、盗賊は絶息せん計りに苦しむのを、其の縄を以て左右の両腕共引絞りて縛り上げたのである。盗賊は足を伸ばせば咽喉が絞まる故、出来得るだけ足を縮める故、万に一つも逃がるる道なく蠢めいて居る中に、龍造寺は附近の交番に馳せ行き引渡した。詰まり1人にてまんまと2人の盗賊を縛り上げた事もあった。此の時も何か御褒美を頂戴したようであった。 其の後、福岡市の近郷・須恵村(すえむら)と云う所に、駐在巡査が必要となった。夫は其の年が凶作で、様々の小泥棒が入込み、被害者が多いより、或る事情にて望まれて、駐在巡査となったのである。此の時も1度の仕損じもなく、数人の泥棒を取押えたが、田舎の事であるから、或る了解の為めに、私(ひそかに)に大分放免して遺ったそうである。後には是が職務上の手落ちとなって、巡査を罷めねばならぬ事となったのである。此の駐在所詰めの頃、親戚の者共の勧めもありて、龍造寺に妻帯せしむる事となった。其の妻と選ばれた一婦人は、同藩中の士族、鯉沼源右衛門なる人の孫娘・増女と云う者であった。此の鰹沼家の事に付き、又一場の物語りがある。

 此の鯉沼源右衛門なる人は、庵主の為めには大叔父、父の為めには叔父さんである。即ち父の実家の出にて、庵主の祖父の弟である。此の人は立派な知行を領する福岡藩の絵師の家に、養嗣子として入夫したので、狩野派の画を描き、夫(それ)を以て家業として食禄を頂戴して居たのである。庵主は小供(ママ)心に覚えて居るが、其の叔父さんは大兵にして、膚色飽まで白く、夫れに銀の針の加き白髪を後ろにてプツリと切り下げて撫で付け、雪よりも白き長大なる眉は、盛上げたように濃く、所謂眉目口鼻尤も秀麗で一見して明るい思いをするような顔であった。其の娘が又一藩を圧する程の美人である。夫に源太郎と呼ぶ養子婿を取って、3人の子供が出来た。其の2女が即ち龍造寺の妻となったのである。なぜ斯る遠縁の家の娘を貰うたかと云えば、親戚も庵主の父母も、庵主も夫に同情を表したのである。其の訳は此の鯉沼家が世にも不幸の重なりたる家にて、如何にもして家運を恢復して遣りたいと云う心からであった。


 人世には衰運と云う事もあり、また物の祟りなどと云う事もあるが、此の鯉沼家は、代々嘉因善行を積んだ家で、殊に祖父・源右衛門に至っては、専ら画家を以て甘んずる世外超術の人なるに、一度(ひとたび)禍雲其の家を覆いてより、人力を以て恢復し難い悪運が取捲いたのである。風荒(すさ)む世は刈菰(かりこも)と、乱れ来し天保弘化の頃よりして、幕府の綱紀、荐(しき)りに弛み、各藩治国の要を失い、士心随って常軌を逸し、異言喧囂(いげんけんごう)として王幕の制を論じ、年毎に派を立て党を設けて、政道に牴牾(ていご)するより、各藩の国用忽ちに窮乏を加えて来た。夫は丁度幕府も同じ事にて、誅求に得たる苛斂は、用度法を失いたる惰吏(だり)の為に浪費し、其の極、遂に不換無償の金札なるものを印刷して、其の欠陥を補わんと企てたのである。化膿の悪腫物一度中枢に発して、四支いかでか其の毒素に感ぜざるを得んや、忽ちにして全国の各藩其の策に風靡し、国用の困難を救うは金札の発行に如くものなしと絶叫した、併し各藩には、紙幣発行の特権がないので、一度は躊躇もしたが、大勢の向う所は、終に一隅の制を逸して、茲に幕府の金札に模倣する贋札論なるものが湧起し、各藩競うて幕制同様の金札を発行する事となったのである。福岡藩も其の一類に洩れず、藩命によりて、庵主の大叔父・源右衛門も、其の画家と云う名の下に、其の金札の版下になる、雨龍の部分丈けを、役所にて筆を執らせらるゝ事になったのである。夫よりして一藩の経済は、恰も濁流の膨逸するが如く紊乱して底止する処を知らぬ事となった。斯る有様が各藩に行われて来たので、幕府の狼狽大方ならず、直に官を八方に派遣して、之が取り調べに着手して見た処が、何れの藩に入っても、只々驚愕絶倒する計りの惨状である。そこで幕府も忽ちにして大評議を起し、兎も角、幕府の允許を得ずして、幕府同様の紙幣を私に発行したるは、素より罪重刑に当るに付、各藩主共其の分に応じて屠腹謝罪等の実を挙げさせ、峻厳少しも仮借せずして、幕府の哀願を恢復すべし大評決したので、尤も腰強く或程度までは、兵備までして問罪の使を各藩に向けたのである。之を聞いた各藩の士は、蜂の如く起り、抑も贋幣の涌は幕府先ず之を作りながら、何を以て他を責むるの威信あらんやとまでは論じたが強弱衡を失い、衆寡敵し難きの数に漏れず、とうとう泣く泣く幕命に伏する事となったのである。是に於て各藩贋札の事、素より藩主の知る処に非ず、家老席、勘定奉行等が、単独の専意に出たるものに付、御取調の上、相当に御処分仰ぎ奉ると上書したので、幕吏の方でも追究却て自創を披るの虞れを抱くより、各藩士をその分に応じ、打首、斬首、切腹等の処分にして事落着に及んだのである。此の時、彼の鯉沼源右衛門老は、版下執筆の重罪にて、死一等を減じ、同藩地を西北に距る、玄海洋上の一孤島・和呂の島に流罪に処せられ、居る事6年、波浪残月に咽び風光一層冷かなりの感に打たれて、憂き年月を送ったのである。此の時は此の和呂の島は、全く無人の孤島であった。独居孤棲の徒然には、草の根を筆とし、島渓の赤土を汁に溶かして、木皮を編んだ布に描いた、水鏡の自像は、白髪伸びて踵に達し、白眉耳に及び、輦馨共に垂れて膝を蔽うに至ったのである。
            
今日こそはこと伝てまつれ荒津浪
       
 君にぬかずく人のまことを

 昔気質の老画伯、鯉沼源右衛門は、満身忠誠の心を抱き、藩公の御座所の方を拝しながら、69歳を一期(いおちご)として、此の一首の和歌を残して、此の絶海の孤島に絶命したのである。死後数ケ月の後、避難の漁船が其の死体を発見した時は、光と潮に干し堅められて鬚髪(しゅはつ)無垢の骸骨は襤褸(つづれ)に包まれたるまま、洞窟の前に横わって居たとの事である。洞窟中の遺物は其の後知友の手に因って、藩公の台覧に入れたが、扨(さて)明治維新の前後に伴う、幕政藩治の瓦解は、幾多志士の惨劇を産出した。其の中に此の鯉沼翁の死等は、聞く者の脳裡を離れ得ぬ一惨事であった。夫から嗣子・源太郎は、家名を相続して間なく、勤王佐幕の論四方に起り、雷霆(らいてい)に伴う沛雨(はいう)の加く、士心の洪流となって来たので、源太郎は直ちに身を勤王の群れに投じ、血気の迸る処、身を顧みるの遑(いとま)なく、八方に飛来をほしいまゝにしたので、忽に幕吏の注目する所となり、捕吏の追及日夜に甚敷、或は山間に潜んで難を免れ、或は雇傭となって城下に入込み等して居たが、或る日捕吏に其の寓居を襲われ、直ちに一刀を手挟んで裏より脱走し、城下を西に距(さる)1里余の、室見川と云う長橋に差掛りたるに、橋上には数人の歩哨あることを知って、川下に逃れたが、跡より数人の捕吏の追究が余りに急なるより、裸体となって長刀を背に負うと其の儘、身を躍らして中流に飛込んだのである。折節五月雨の頃にて、降続く大雨は濁流となって堤防に溢れ、逆巻渦は群象の暴るるが如き時故、数人の捕吏はあれよあれよと云う中に、終に源太郎の影を見失うて行衛(ゆくえ)も知れずなったである。夫より星月数十年、室見の逝水は浴々として変わらざれども、其の人の姿はまた永久に見えぬのである。扨、跡に残りし若後家と、男女3人の子供は、落命に背いたる亡夫の遺跡、人目に掛るを厭うより、博多の浜辺に小やかなる裏屋を借り、手内職にて3人の子供を養育して、11ヵ年がその間、其の未亡人は外出を絶対にせなかったとの事である。其の中に子供も段々成長して、長女は20歳、次女は18歳、長男が123歳になった時、庵主は初めて之に面会をしたが、其の長男を庵主の家に連れて来て、昼食を振舞いしに、

 「叔父さんの家の御飯は、なぜこんなに堅いの、私はこんな御飯を食べればお腹が痛くなるよ。
 私はお箸で挟まるる御飯は厭じゃ」

 と、何心なく云うた時には、庵主の父母は申すに及ばず、座にあるものは皆顔見合せて、覚えず傍詑たる涙を禁じ得なかったのである。庵主が此の子を養育して、成長させるにつき、又一場の物語があるが、夫は次回からぼつぼつ述べるであろう。

  



●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
 『百魔』 魔人龍造寺隆邦

 ●45 11歳の少年大山師   

 巨材大河を蔽うて巨利を博し  無識教鞭を執りて郡監と争う


 当年★11歳の児童・龍造寺は、5千円と云う大金を持って、酔払いの追剥を欺いて途中で撒き、直ちに日田郡の警察に訴えて之を捕縛せしめ、夫(それ)より同地の材木問屋で有名なる★<カネ又のお六>と云う、大胆不敵な侠義な、娑婆気(しゃばけ)のある、65歳の婆さんの家に辿り着いたのである。夫から養父の病状より、母の決心の次第、手代の状態(ていたらく)まで洩れなく咄し(はなし)、夫(それ)に5千円の現金を菓子箱の底より取出して、此の金を手付金として、永の夏中の旱魃にて、川下しの出来ずして、困り抜いて居る各材木問屋の材木を買い占めらるるだけ買付けて貰いたい、其の受渡しが出来ると出来ざるとが★筑後川筋で第一の材木商、西原弥一が最後血戦として破産の戸を〆る(しめる)か〆めぬかの境であると物語ったのである。先刻より之を聞いて居たお六婆さんは、同情の念と咄の勇ましさとが婆さん日頃の気性に混じて、満身の血が湧返るようになったので、胸まで突掛ける息の苦しさを押割る如き声音にて、

「西原の坊さん、よく云いなさった。又お母さんの覚悟と、お前さんの決心が気に入った。私も女子でこそあれ、人が斯る決心をして仕事に掛るのに、一足踏込んで助けぬと云う事は出来ませぬ。私も親代々連綿と続いた此の材木問屋を後家の身で持ち続けた、此の《「 又」》(かねまた)の家業を天秤に掛けて潰すか起すかの覚悟をして、買占めて見ましょうよ。此の上は坊さん、お前さんも決して人を手便る(たよる)了簡を持ってはなりませんぞ。人間が本当の決心をした時は、神様以上の力が有るものです。神にも仏にも頼まぬ、自分の命を的に、思うた丈けの事を遣って見るのだと思いなされよ。さあ見て居なされ。伸べても狭き山間の此の日田の郷にある材木を、根太木一本も残らぬよう買い占めるのは今日と明日との両日じゃ。夫から先きは筏組み人足の有る丈けを寄せて、本流の僅かの水を手便にして、小幅の筏を流すのじゃ。運が元手の荒仕事、目の覚める丈け遣って見せます」
と云い放ったのである。夫(それ)から婆さんは、2階や納屋にごろごろとして、足の毛ばかり毟って(むしって)居た多くの番頭を呼集め一度に切って放ったので、退屈と無聊に酔うて居て酒には酔えぬ荒男共、今度の霹靂一声に、酔う程気味よき心地して、おっと叫んで八方に、蜘蛛の子を散すが如く、山なす材木を買占めたので、大抵は一山百文的の代価にて、其の翌日の昼頃までには、大概日田の郷の材木は、買占めて仕舞うたのである。一方龍造寺は、自分が1本だけ携えて来た《○一》の印入りの鉄鎚を見本に日田にある6軒の鍛冶屋に昼夜兼業で拵えさせて、出来て来た★極印入りの鉄鎚で、自分が先きに立ち、多くの人足を指揮して、約束の出来た材木の小口に、とんとんと極印を打込み、夫が済んだ分を、数百人の筏組の人足が頃合いの小筏に組んで小流れの河中に流し、夫を下へ下へと押流す人足が、また1組出来て作業をなし、9日間の出来高は、丁度筏を以て日田の郷より、2里半の川下まで材木を以て充満し、此の上はもう一組の筏も組めまでになったのである。夫からお六と龍造寺は、また手代の者共を指図して、川下の村役場や、警察署へ《「 又》と《○一》の印入りの材木が、若し川筋の田畑や作路(さくみち)に流れ込んだら、どうか大川へ突流して貰いたい、其の他の物は何分宜敷頼むと手紙を出し、又一方手代の者を子分して、各川筋の要所々々へ、酒一斗と干アゴ十把(アゴとは飛魚の干した物)を配り込んで頼んだので《「 又、○一」》の材木商は、気でも違うたのか、蚊の涙などの湿さえなき旱魃の、此の頃に材木流しの挨拶は、空徳利の酒盛に、酔狂沙汰の限りなり、と笑う人も多かったのである。

(註:★極印 ここでは、林産物の売渡し、調査等に際し、当該林産物に押す印のこと。 種類や、押印箇所等、各地で規定がある。)

 頃は明治丙子の秋、菊の蕾の香も薄く、酌む酒さえも黄にやけて、酔うも苦しき民草の、凋む(しぼむ)心を慰めの、宮森山の神祀り、雨乞い太鼓の音も遠く、聞き草臥れて(くたびれて)熟睡する、暁頃に時ならぬ、寒冷俄かに身に迫り、高良の山に掛まくも、神舞い下る黒雲の、間より洩れて降る雹(ひょう)は、栗の実大の物にして、間もなく奈落の地軸にも、臼を挽くなる陰雷の、轟き響く物音の、怖しなんど云うばかりないのである。あれよあれよと見るうちに、一天俄かに掻き曇り、筑豊の山河一時に裂け崩るるかと思わる程の大雷雨となったので、実る田の面に水増して、亀裂の田畑忽ち青色を復し山野悉く枯死を免るることとなり、到る処の百姓は歓呼の声を絶たず、随って筑後川筋は、数日の間大洪水となったので、予て待構えて居た《カネ又、○一》の筏は、数百千と潮に群るる鯨の如く、見るも際涯(はて)なき濁流の、水面を覆うて流れ下るので、降り続く大雨に増来る水嵩は、終にさしも莫大なる材木をひとつ残さず流し下したのである。さて、夫より《カネ 又、○一》の部下は、八方に手分けをして、其の打込んだ極印によりて、散乱した材木の聚集を始めたので、半月足らずの間に大抵、要所々々に取集める事が出来たのである。殊に目覚しかりしは、素より筏師なき筏が、放縦に勝手に水のまにまに流れ行くので、大部分は筑後川下流有明海に注ぐ、若津の港を打過ぎて、其の附近の海中に散乱した。夫が又南西の早風に煽られ、三瀦(みずま)及び佐賀地方の沼浜へ打上げ居たので、逸早く夫を纏めた手代共は、其の随所で其儘(そのまま)に商売をしたとの事である。これを要するに龍造寺が今迄為した大山師の仕事は、養母の決心とお六婆さんとの策略多きに居るとは云え、此の投機がずどんと当り、其の年の暮れまでの総計算に於て、両家は8万有余円の利益金を折半する事が出来たとの事である。夫から西原弥一の店は商運頓(とみ)に恢復し、此の川筋にては1と云うて2と下がらぬ問屋と成ったとの事である。随って養父の弥一は万死に一生を得て、永らく豊後の温泉等に養生をして、1年ばかりの後には、強健とまでにはならぬが、兎も角身の不自由はないだけに回復したのである。是より龍造寺は、17歳の年即ち明治15年までは、学びに馴るる十露盤(そろばん)の玉を命の家業ぞと、脇目も振らず働いて居たのである。

 然るに魚の性は水に享け(うけ)、人の性は天に享けると云うが如く、此の龍造寺も元々血統を武甲の家に牽いて生れた為か、物心の付く16・7歳の時より其の心理に偉大なる変化を起して来たのである。丁度其の頃庵主は、筑前旧領地の寒村に住居して、秉る(とる)にもの憂き鋤鍬の、稼の業を主として、其の合間には大エを職とし、僅かの賃に朝夕の、煙の色も絶え絶えに、育み兼ぬる麦畑の、片羽の鶉(うずら)声痩せて、辿る鄙路の起臥に、暮すも辛き時であったので、龍造寺は、己れが商う材木を、庵主の家の稲小屋に積上げ、正札を付けて売らせたのである。然るに庵主が不在の時などは、父がチョン髷に「侍い結び」の帯を〆て、材木買いのお得意に、

「其の方共は、土百姓の分際で、品物を選り買いなど致し、或は直段を値切るなどは、言語道断じゃ、不埓を致すと許さぬぞ」

 などと云うので、田舎朴訥の百姓でも、1人も買人が来ぬ事になったので、龍造寺は心から苦々敷(しき)事に思うたかして、月の中に或は5日10日と、自家商用の隙を伺い、庵主の家に商売の伝習に来る事が多かったのである。丁度其の頃庵主の父は、病後羸弱(るいじゃく)の余暇を以て、隣村の子供等を集め、牛小屋の側に1室を設け、夜学の家塾を拵え、手近かの四書五経などの講義をして居たので、龍造寺も逗留中は、夜間の暇に任かせて、其の学生の群に入って、父の講義を聴いて居たが、天性勝気不抜の魂性ある者故、忽ちにして志学の観念を起し、見る見る間に銖しを争う十露盤(そろばん)の稼業に愛想を尽かし、何と養父母に説き入れたものか、或る日西原の養父母は打連れて庵主の家に来りて、
「タッタ一人の掛り子を、6つの歳より守り育て、家の財宝夫婦が行末、此の児に凭(よ)るを杖柱と、寝物語に繰返す、頼みの糸も今は早や、掛け易(か)え兼ねる小田巻の、節明けき願い事、素はと云えば稼業の、卑しき家に氏も名も、由緒貴き武士(もののふ)の、正しき血筋受け玉う、和子(わこ)を賜わり根継ぎを変え、身の安楽を願わん事、まことにう烏滸(おこ)の望なり、果せる哉、和子殿が、年長け生うる葉蕾の、色付く時となるに付け、芽ばえに享けし栴檀の、香り床しき志、見るさ聞くさに感に耐え、只此の上は此の和子を、賤しき業に終らさぬ、事こそ我等が勤めなれと、思いにければ今はしも、夫婦打連れ和子殿を、元の園生に植え易(か)えて、行末尊き繁昌を、見ること責めての願いなれ」
 と、いと細々との志、真心面に顕われて述べるを聞いて今更らに、庵主の父母も只管(ひたすら)感に入ったのである。

   「茜蒔く、園生も今は荒れ果てて、300年も根を延べし、悪草しきりに蔓(はびこ)れど、上下耕鋤(しょうかこうじょ)の道を怠り、偶々交る撫子の、花葉も萎えて恥かしき、姿を君が庭に植え、此の幾年を愛撫して、育み呉れし優しさは、何と礼言(いやごと)申すべき、只此の上は我許へ、呼返して1人の、教戒をも加うべし」
と、双方の間に善意の諒解を得て、弟の龍造寺は17歳の時、養家・西原家と破縁になったのである。

 夫より我家に帰り来り、最(いと)厳重なる父の教訓を受けて居たが、跤龍永く池中の物に非ずと云うも烏滸ケ間敷(おこがましい)が、とても父母の膝下にあって、さい婦の業に甘んずる者では無かった。1度学事に志しては、夫れに対する行為もまた破天荒である。

 或る時我村より北方に当る、竈門(かまど)山峡の寒村、本道寺村と云う所に、小(ささ)やかなる破れ学校がある、夫が貧村の事故(ことゆえ)、只だ1人の教員に僅かばかりの月俸をさえ給する事が出来ぬので、閉校同様となって居る事を聞き出し、自から夫(それ)に交渉して、直ちに無給教員として其の明家(空き家)の学校に住み込んだのである。夫(それ)より其の山村の児童を集め、課程の教授を開始したが、何様幼少より学問手習の業を忌み嫌うたる結果、普通の往復文さえ自由ならぬ程度の身を以て、行成(ゆきなり)に無免状の教員となって児童を教育するので、今時なら中々行わるべき事ではないが、夫(それ)が今より40年近き昔日の事故、人民の程度も低く、斯る乱暴の教員に対して、却て感謝の意を表し、先生々々々々と八方より尊敬して、米麦疏菜の類に到るまで、不自由なきまでに持運び来るより、龍造寺は先ず糊口の道に就くと同時に、尤も程度低き教科書を、第一自分に修業し、夫を其の儘に児童に教え、又一方には只管愛撫懐柔の道を尽くすので、僅かの間に其の児童等は、父母の感を以って龍造寺を慕う事になったのである。

 処が茲(ここ)に尤も破天荒の問題は、此の頃地方官吏の所為では学校等の取締りが斯くの如き山村に対して最も不完全であって、教員などの事は一切構い付けず、春秋の試験期になると其の学生名簿にある生徒に向って、試験だけは命ずるので、まるで課業を廃したる学校故、村長より之を拒むも聞入れず、兎も角試験はして之を全部落第生とするまでも、其の手続丈(だ)けは施行するのであった。そこで龍造寺は之を憤慨し、其の秋には、命ぜらるる儘、其の試験に応ずる事にして、30人ばかりの生徒を引連れ、所定の試験場に出席した処、其の22名は卒業生を出し、其の残余の者が落第生となったのである。

 各自卒業免状を授与せられて、生徒が帰村したので、其の父兄は歓喜雀躍の声を発し、先生様のお蔭にて、屡(しばしば)廃校か休校かの悲境にあった児童が、始めて卒業免状を得たのは、無月謝無学費の結果としては、一入(ひとしお)に先生様に感謝を表せねばならぬと、誰彼相談の上、鎮守の森に宮籠りなる村宴を開き、龍造寺を招待して甘酒甘菜の馳走中、村長の某(それがし)は遽しく(あわただしく)馳せ来り、郡役所より急の御用にて、本道寺学校の教員同道にて出頭せよとの厳命であるとの事、何事ならんと龍造寺は、支度もそこそこ出頭せしに郡の学務掛りは厳かに、
「其許(そこもと)は小学校教員たる免許状を所持せずしてみだりに児童を教育する事、言語道断の所為である。故に今日限り差止むるに付、左様心得られたし」
 との事である。

 龍造寺は待構え居たる如き顔付にて、
 「委細承知致しました、然らば小生が同道して試験を受けしめたる生徒の卒業免状は、直に総てを取纏め返上したる上にて退去致すでござりましょう」
 と答えたるに学務掛りは、
 「いや、其の生徒は、本官が立会の上、学力試験の上与えたる免状故、決して其許の干渉を要せぬ」
 と答えたので、龍造寺は頑として折合わず、

 「こは無礼なる属官かな、元来あの村は、此所(ここ)に村長も立会の上聞く如く、往昔(むかし)よりの貧村にて学費賦課に耐え得ずして、教員傭聘(ようへい)の道なく、3ケ月と居付く教師なく、屡(しばしば)休校の不幸に遭遇せる生徒を見るに忍びず、小生進んで彼地に到り、幾干(いくばく)なりとも文化進展の聖恩に浴せしめんと思い、無報酬にて私に教鞭を取りしは事実なり、然るを当路の官憲として、啻(ただ)に一言感謝の意を表せざるのみならず、一片の法規を楯に、罪人同様に放逐に斉しき処置を申渡すとは不埓至極である。此の上は余は直に県庁に出頭し、貴官が余に対する処置の曲直を争わねばならぬ」
 と云放ったので、郡官は一寸閉口はしたが、
 「其許(そこもと)の意に因って法規を曲ぐる事は出来ぬ。其の他は随意にせられよ。退去の事は決して譲歩するの余地なし」
 と答えたので龍造寺は村長に向い、
 「今聞かる通りのの命令につき、小生は直に県庁に赴き、此の属官と是非を争わざるを得ぬ事となったから、其の趣を村民諸氏に伝えられたし」
 云々と云(言い)捨てて、其の儘福岡県庁へと馳向うたのである。

 此を聞いた村長は、直に山村に帰り人々を集めて此の顛末を報告したので、朴訥の村民はドッと一度に不平の声を上げ、
「此の上は先生様に負けさせる訳に行かぬから、生徒一同は卒業免状を返上して、直に学校を打破壊(うちこわ)して、此の以後再び教育などの命令を奉ぜぬ事にせねばならぬ」
 と決議をして、直に5名の委員を選び、県庁所在地に馳せ向わせ、龍造寺に加勢せしむる事と仕たのである。此の時が丁度龍造寺は数え年18歳だから、年齢の上からも、教鞭を執るのは犯則で、其の上に無鑑札のモグリ教員であったのである。さて此の悶着の末は更に次回に譲る事とする。

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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー5
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー5

 ●松方正義デフレ主義の根幹にあったのは・・・ 


 吉薗家の伝承では、上原元帥は横浜正金銀行にも特殊な権力を持っていた。それが陸軍大将・荒木貞夫に受け継がれたようで、大戦が始まり為替が不自由になった中、フランス再渡航を希望する薩摩次郎八に頼まれた吉薗周蔵が、荒木閣下に頼んで為替を入手した、との記述がある。

 『横浜正金銀行史』は、「顧ふに本行は大隈侯の懇切な指導の下に、13年2月28日を以て世に生まれたのであるが、翌14年から15年に亘る財界の不振に際し、当局者の措置が宜しきを得なかったので、資本金半額以上の欠損を来たし、殆ど破綻に瀕したのを、松方侯の懇篤周到な指導の下に九死に一生を得て、今日の盛大を見るべき基礎を固めたのである。故に本行歴代の当局者は、大隈侯を生の母とし、松方侯を再生の恩ある養育の母として常に敬意を表し、尚今後も永くその恩を忘れぬであろう」として、大隈と松方の恩を挙げるが、西南戦争前後の財政を担ったのは、確かに大隈と松方であったから、当時誕生した同行が2人の世話になったのも当然である。鍋島藩士の大隈は、明治元年1月に徴士参与職・外国事務局判事に挙げられ、外国官副知事から会計官副知事に転じた。2年7月の官制改定で、会計官の後身大蔵省の大輔となった大隈は、民部・大蔵両方の事実上の統合を献言し、自ら民部大輔兼大蔵大輔として内省を取り仕切った。3年7月、両省は再び分離し、大隈は大蔵大輔専任となり9月には参議に補されたが、4年7月の官制改定に際し、大蔵省を大久保・井上コンビに譲った。

 薩摩藩士出身の松方は、大隈より3歳年上の天保6(1835)年生れで、藩士時代に長崎で汽船買い付けをしていた時、大久保の眼に留まり、明治元年1月に長崎県裁判所参謀助役に就き、元年閏4月の官制改定で徴士・内国事務局権判事に挙げられたが、同月に日田県知事に転じ、そこで黒田藩の太政官礼偽造を摘発して名を知られた。3年10月に民部大丞に挙げられ、4年7月の官制改定で大蔵少丞に格下げになるが、この時には、各省で職階調整のための降格があったようである。4年7月から6年まで大久保卿と井上大輔が支配した大蔵省に二、三格下の少丞に転じた松方は、翌月租税権頭になった。

 参議兼制度取調専務の大隈は、6年5月に至り事務統裁として大蔵省に復帰、大久保に替わって大蔵卿になり、以後13年2月まで6年半大蔵省のトップに立った。松方は7年1月に租税頭に昇り、8年11月大蔵大輔に昇進し13年まで大蔵卿大隈を補佐した。この間10年1月からは内務省勧農局長を兼ね、同年10月から仏国博覧会のためフランスヘ出張するが、これをロスチャイルドにお目見えの機会としたものであろう。

 帰国後の松方は、西南戦争後のインフレ対策に関して、大隈大蔵卿と正面から対立した。新政府は、西南戦争の戦費調達を不換紙幣の乱発で行ったから、戦後社会は大規模なインフレに見舞われていた。大隈は、インフレの原因を、貨幣流通量の過剰ではなく正貨(銀貨)の不足と考えて、「外債を発行して得た銀貨で、市場で不換紙幣と置き替えれば物価は安定する」と主張し、積極財政の維持を図った。これに対して松方は、維新以来の政府財政の膨張こそインフレの原因で、不換紙幣の回収しかないと緊縮財政を主張した。松方のデフレ主義は、訪仏した時にフランスで重農主義に触れたからと説明される。それもあろうが、真相はロスチャイルドにお目見えした時不換紙幣の乱発を指摘され、その整理を指示されたのではないか。蓋し松方理論は大隈の採ってきた積極財政を根幹から否定したから大隈は激怒し、これを憂慮した内務卿の伊藤博文が、13年2月に自ら内務卿を辞し、その席を松方に譲ったのであった。
  


  陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)  了。

  



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー4

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー4

 ●対清・対露非戦派の長州元勲工作に奔走 


 いわゆる戦後史観は、「帝国主義に目覚めた日本が近代化に遅れた中国、満洲と韓国を侵略した」とし、すべてを日本発の国家悪のごとく論難するが、これは皮相に過ぎない。明治時代の杉山の政治活動を具に観ていくと、長州元勲の工作に腐心していたことは明らかで、日清・日露間の戦争を何か何でも起こさせるため、非戦派の伊藤博文・山県有朋を開戦論に転向せしめんとする策略と行動に満ちている。つまり、非戦派・長州と主戦派・薩摩とが対峙する状況の中で、杉山が長州人の周囲を徘徊しながら開戦をけしかけているのである。

 杉山の主戦論は陸軍薩摩派の主張と軌を一にするから、恰も杉山が陸軍の意を受けて工作しているかに見えるが、もっと大きく観ると、杉山の方から薩摩派をそのように誘導していた可能性さえある。或いは、地球某所に実在する秘密勢力が、日本を日清・日露の戦争に誘導するため、長州非戦派に対する転向工作を杉山に命じているようにも見える。結局、最後の線が正解に近いから、戦後史観は最早放棄すべきである。正しくは「戦争によって清国・ロシアを破るのを日本の役割と、世界秘密勢力が定めた」ので、それを知る杉山が「日本としては、これに逆らうよりも進んで開戦し、事を早く済ますべきである」と考えて、長州工作に専念したものと思う。

 薩英戦争以後はイギリスと親交した薩摩藩首脳は、そのくらいは知っており、果断な実行策を練った。ところが長州は、知っていても実行には戸惑った。幕末に至るも封建的武士社会の伝統を固守していた薩摩に比べ、長州では封建制が既に崩壊に瀕し、町民階層が台頭していたからである。この地域的特性により、薩摩では維新後も有司専制の武断正義を保持し、長州は民意尊重の文治主義的傾向が強まっていたから、長州人は文官・伊藤博文は言うに及ばず、陸軍閥の巨頭と目される軍政家官・山県有朋でさえ民意を恐れていた。明治22年の山県第一次内閣の責務は、ロシアの南下を防ぐための海軍拡張の実行にあったが、民党側は民力休養を主張し軍拡に反対した、山県は議会対策に腐心するだけで解散に踏み切れず、民党との妥協を模索し、農商務相・陸奥宗光に依頼して土佐派を籠絡し、予算を大幅に修正した上で漸く成立させた。山県に替わって首相を拝命した薩摩出身の松方正義は、対清・対露戦に備える軍拡を使命と考え、自ら蔵相を兼ねて積極財政を組んだ。民党はむろん軍拡に大反対であったが、薩人の陸相・高島鞆之助、海相・樺山資紀はひるまず解散を主張したので、松方は敢えて解散に出て、史上有名な選挙人大干渉を行った。

 長州人の山県が「一介の武弁」を気取りながら民意に阿諛したのに比べ、薩人はデフレ財政で知られた松方さえ、必要と認めた軍拡は民意に逆らってでも実行しようとした。この選挙大干渉は、長州人の内相・品川彌次郎が担当して各県知事を指揮したが、福岡県では杉山も干渉に参加し、県知事・安場保和とともに民党を攻撃し、流血事件さえ生じた。政府側は莫大な資金を投入したが、それでも選挙に勝てなかったのは、民党の激化を恐れた長州の元勲伊藤・井上・山県が、品川内相に対して手加減を要求したからとされる。薩摩と長州の政治風土の差異は右の通りで、杉山の心中は常に薩摩側であった。高島と杉山の接点を証明する文献の有無は知らないが、以上を観ても、接点が無い筈はない。長州派工作を責務とする杉山は、長州派元勲との交遊ばかりを意識的にあげつらい、高島ら薩派との関係を世間から隠したのであろう。


 ●松方正義デフレ主義の根幹にあったのは・・・ へ続く。

 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー3
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー3

 ●国学、啓蒙主義双方に通じていた肥前鍋島藩  


 肥前鍋島藩は、幕府から黒田藩と交替で長崎の警固を命ぜられて、西洋の息吹に触れ、近代化の必要を覚る。嘉永5(1852)年に反射炉を稼働させ、慶応2(1866)年に最新兵器のアームストロング砲を自力で完成した位で、西南雄藩中有数の工業力と軍車力を備えていたが、安政2(1855)年に幕府が長崎オランダ海軍伝習所を開設すると、西南雄藩中最多の藩士を派遣する。海軍といえば、国柄を問わずワンワールド傘下で啓蒙主義団体を兼ねるから、長崎伝習所に派遣された肥前藩士は軍事知識のみならず、啓蒙思想の洗礼を受けたわけである。さらに、慶応元(1865)年に開設した藩校致遠館の校長に宣教師★フルベッキを招き、このことで明治維新における肥  前藩の役割とその後の地位が決定した。

 維新実行の西南雄藩の一つでありながら、肥前藩は倒幕の軍事行動に参加せず、実際に兵を挙げたのは維新後で、新政府から北海道先鋒を命じられた時である。大政奉還・王政復古の前に京に兵を送ったのは薩長土だけで、鍋島藩は静観していた。そのため、明治4年の御親兵募集に当たっては三藩だけを対象としたが、それでも鍋島藩は維新の功績では三藩に劣らないと評価された。
 
 
 鍋島藩の特色は、国学(南朝崇拝)と啓蒙主義(ワンワールド思想)の双方に通じていたことである。それを端的に示す人材が、楠公義祭同盟の創始者・枝吉神陽の弟の国学者でフルベッキ致遠館の教頭となった副島種臣(1828生)、および楠公義祭同盟の一員ながらフルベッキの直弟子となり、新政府有数の実力者となった大隈重信(1838生)である。他にも、大木喬任・佐野常民らがいるが、かかる肥前人材の維新後の活動を補完するのが杉山茂丸の役割だったと思える。
維新に尽力した西南雄藩は挙って南朝の事績を顕彰した。肥前では枝吉と横井小楠が楠公義祭同盟を興し、薩摩では大久保・吉井らの誠忠組が楠公神社を建て、長州では藩校明倫館で楠公祭を執り行った。土佐では、城下近郊で上士と郷士が対立した井口村事件の後、下士・郷士が結成した土佐勤王党にも南朝復興の息吹を感じるのは私(落合)だけであろうか。ともかく、宮内省を抑えていた吉井友実の後を受けて、東京宮廷を護ったのは土佐勤皇党の土方久元(1833生)と田中光顕(1843生)で、前者が20年から31年まで、後者が31年から42年まで、併せて20年以上もの間、宮内大臣に就いていたことに注目せねばならない。因みに、杉山茂丸も南朝事績の顕彰を重視し、南朝正統論を説く『乞食の勤皇』を著している。

 茂丸の幼少時については巷間溢れる他書に譲るが、何を読んでも講談もどきの武勇伝ばかりで、若干20歳の杉山が明治17年、山岡雪舟(*鉄舟)の紹介状を懐に暗殺目的で伊藤博文に会いに行った事などが面白く書いてある。肝心なのは、なぜそれが可能だったかだが、それは全く書かれておらず、策士だのとフィクサーだのと騒ぐだけである。杉山は玄洋社の看板で動いたが、根底はワンワールド傘下であったと観るべきである。玄洋社に薩摩ワンワールドのダミー的性格があることは前述した経緯からも不自然でなく、高島と杉山を結ぶ地下水脈があっても当然である。後年、薩摩出身の上原勇作元帥は、玄洋社の頭山満や中野正剛を私兵のごとく使役していたが、この関係は、高島=杉山と玄洋社の関係を上原が引き継いだものと見るしかないが、さらに遡れば、明治4年から24年まで宮内省を支配した吉井友実の本当の役割(薩摩ワンワールド総長)を高島が引き継ぐと同時に、杉山との秘密関係をも承継したものと推量する。

 つまり、杉山と高島・上原は等しく役割を分担したもので、一方が上司、他方が部下という関係ではないと観るべきである。囚って、ここに前月稿を訂正したい。



 ●対清・対露非戦派の長州元勲工作に奔走 へ続く。  







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