カウンター 読書日記 2008年03月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー1、2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)

 なぜフィクサー足り得たかこそが重要 杉山茂丸の実態に迫る ◆落合莞爾

 (16)-1 ●台湾経営の企画=高島・樺山、 実行=児玉・後藤との関係  


 明治31年から8年にわたり台湾総督と民政長官を務めた児玉源太郎と後藤新平のコンビが、台湾経営の中心であったことは確かである。しかしながら、あの有名な台湾経営策を両人が立案した、とする巷説は正鵠を得ていない。前月稿で堀雅昭著『杉山茂丸伝』から、「児玉と杉山茂丸は異体同心で、児玉の台湾経営は杉山茂丸の意見に従う形で行われた」との陸軍中将・堀内文次郎の言を引用したが、堀内は総督副官として児玉総督に従って31年に渡台し、総督の日常を目の当たりにしていた
だけに、これは疑いえない事実なのである。

 ところが、台湾経営の根本を建てたのは、台湾副総督・拓殖務相の高島鞆之肋と、その同志の初代台湾総督・樺山資紀であったこともまた事実である。神戸の砂糖商・鈴木商店は、日清戦争後に台湾樟脳の販売権を得たのを契機に急成長するが、その裏に高島鞆之助がいたことは確かである。京の薩摩屋敷で女中頭をしていた吉薗ギンヅルは、戊辰戦争に際して上京してきた島津藩士・高島と出会い、維新後の何時頃にか、2人はビジネス・パートナーとなった。高島-ギンヅルのコンビは、鹿児島市山下町の実業家・日高尚剛をダミーとして鈴木商店を動かし、さらに鈴木商店を通じて東亜煙草をも操っていたわけで、吉薗家の伝承では、日高の母方の〔安達リュウー郎〕が東亜煙草の発起人とのことである。ともかく、高島が台湾政策に関与していなければ、右のことは不可能である。つまり台湾統治政策は高島・樺山が企画屋として裏に回り、児玉・後藤が実行屋として表面に出たわけである。

 それでは、杉山はこの両派といかなる関係にあったのか。杉山と児玉との関係は、杉山自身が『児玉大将伝』を著しているほど著名で、巷間にも文献は多い。一方、杉山と高島を結び付ける資料はほとんど見ない。僅かに杉山自身が著した『其日庵過去帳』に、「明治25年8月頃、陸相官邸で高島前陸相から新陸軍次官の児玉を引き合わされた」と解しうる文章を見るが、もう一点挙げれば「日露戦争の戦雲迫るころ、ソウルと釜山を結ぶ京釜鉄道の敷設に奔走した杉山茂丸は、麻布に安場保和を訪ねるが、安場は金策どころではなく、次に訪ねたのが高島鞆之肋の家(現在は上智入学の構内)であったが、拓殖務大臣を辞め陸軍大臣を辞めた高島には、やはり金がなかった」(堀雅昭著『杉山茂丸伝』)というものである。前陸相・高島中将も、杉山にとっては、金策を持ち掛けても失礼とならない相手であったことが伝わる。前月稿では、台湾政策につき、杉山が高島を代理人として指揮したとの憶測を述べ、「もし夫れ、本稿が『杉山は、薩摩ワンワールドの総長・高島の代理人としてそれを行った』と言えば、諸賢は否定なさるだろうか」と締めくくったが、この1月間思考を巡らしてみて、これは浅慮だったと今は思う。


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー2
 ●徳川家斉、島津斉彬につながる黒田藩の役割 



 杉山茂丸の実体は一体何であったのか。仄聞するところでは、黒田藩士馬廻役130石だった父の杉山三郎平は★龍造寺家の男系で、このことが杉山茂丸の一生を規定したという。
太宰府は古来西日本最大の要地で、幕府はここに黒田藩52万石を置いた。将軍家斉の実弟の一橋斉隆(1777年生)が黒田藩八代・治高の養子となって九代藩主を継ぐが、夭折し、その子で大御所・家斉の甥に当たる斉清(1795生)が十代藩主を継ぐ。本草学者として知られた斉清は、天保5(1834)年に39歳を以て隠居し、女婿であった薩摩25代藩主・島津重豪(1745~1833)の九男・斉溥(1811生)を長子として跡目を譲った。この異例の人事は、日本の将来を睨んで太宰府を掌握する目的で、大御所家斉(1773~1841)が島津重豪と結び、勅許を得て断行したと聞く。島津重豪は家斉の叔母(一橋宗尹の女)を継室にし、また自らの息女を家斉の継室として送る関係で、二人は共に国事を語っていたのである。時に天皇は仁孝で、光格上皇が院政を布いていた。「幕末は光格天皇から始まる」とは近来よく聞くが、そう観なければ右のことは理解できない。

 開明派で知られた島津斉彬の大叔父で、親友でもあった斉溥は、斉彬に負けぬ蘭癖大名で、長溥と改名して黒田藩を継ぐや、重臣のリストラを断行する。実父の島津重豪に倣って黒田藩の近代化路線を推進し、天保5年から明治2年まで35年間も藩主の座にあった長溥を、側近として支えたのが茂丸の父・三郎平であった。継嗣に恵まれなかった長溥は、息女・理玖の婿に津藤堂藩主の三男・長知(1838生)を迎えて継嗣とし、その継室に実姉(重豪の八女孝姫)の嫁いだ桑名藩主・松平定和の息女・豊子を配した。長溥は薩長・幕府の間を周旋し、幕末史に大きな役割を果たすが、黒田の藩論が勤皇と佐幕の間を彷徨したことで、維新前後に黒田藩が辿った運命は悲惨であった。しかし、これはもともと黒田藩の辿るべき運命で、維新後は薩長土肥が舞台表に立つのに対し、黒田藩は裏方を務める役割を担い、玄洋社の看板を揚げたのである。

 明治2年、長溥(*島津斉溥)は婿の長知に家督を譲る。長知も名優で、4年の太政官札偽造事件により知藩事を罷め、10年家督を長成に譲って隠居し、隠然たる玄洋社主となった。 


 元治元(1864)年生まれの茂丸は長じて玄洋社の客将となり、35年の(長知の)逝去まで、父に倣って長知を陰で支えた。茂丸は、日清戦争後から国際金融の分野で意外な活動を始める。折しも金本位制確立の時期で、その頃から、謎の貴公子・堀川辰吉郎を奉じる茂丸を散見する。実はここにこそ、男系龍造寺の杉山が、女系龍造寺の鍋島家と分担して日本近代化の舞台回しをした歴史の真相が窺えるのだが、後日稿において論じたい。 



 ●国学、啓蒙主義双方に通じていた肥前鍋島藩 へ続く。
 
 


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●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦

 『百魔』 魔人龍造寺隆邦

 ●44 家運挽回に志す勇少年  <続> 
 


 と、是を聞いた養母も、只の者ではなかった、

 「お前さんが今一々私に咄す事は、よく分りましたから、私も一切決心をして、お前さんの云う通りに任せますが、何様お前さんが柄は大きいが、年が11じゃから、そんな仕事を仕終るかどうか、夫(それ)を第一に心配仕ます」

 「いえ、夫(それ)は御心配に及びませぬ、私の実家は兄がまだ幼少の時に、実父が熱病で精神が昏耄(こんもう)しました時に、兄が幼年で家督を相続して、母が一切兄に任せて一家を経営した事をよく聞いて居ますから満更やり切れぬ事もござりますまい、又仮令(たとい)遣りそこねて全くの失敗になりましてからが、夫を限りと思うて下されば良いではござりませぬか。夫がお母さんの御決心と云う物でございます」

と、淀みもなく述立てたので、養母は店の有金全部と、自分の貯金等まで集め、又、父が内所の金をも集めて茲に5700円を計上したので、養母は具申の金700円を自分の手許に置き、全くの背水の陣を張りて、残りの5千円を11歳の龍造寺と云う小僧の養子に渡したのである。
庵主は今も人に咄す事があるが、人間が大節に臨んで為す決心は女性でも男子を凌駕するものであると、此の養母は全く男勝りの人であったと思う、龍造寺は其の金を受取って、扨(さて)是からどうしたであろうか。

龍造寺は母より5千円の金を受取り、母と相談の上、父の病気見舞いにとて、他より送って来て居る菓子折の底を二重にして彼の金を入れ、上に綺麗に菓子を並べ、夫を又病気見舞の贈物の体に拵えて風呂敷に包み、弁当其の他の旅装束も洩れなく拵え、夫から母と共に父の枕辺に至りて介抱し、鶏鳴頃にも成ったので、父の寝顔に対して丁寧に暇を告げ、母丈けが呑込みで、家内は誰も知らぬ中(うち)に我家を飛出したのである。
龍造寺は家を出る時、店先きに有った○に一の字の入った、材木商の★極印入りの鉄槌を一挺提げて出たとの事、(此の材木に打つ極印は、柄の長き鉄槌の小口に、自家の印の文字を彫りて、夫を以て材木の切口にとんとんと打込む道具である)夫より龍造寺は、川傍(かわべり)街道を夜と共に辿りて、豊後の日田の郷へと向うたのであるが、易水ならぬ千年川、流れも寒き暁の、草葉に宿る露にさえ、幼な心の儚なくも、一家の安危と父母の、身に降りかかる災難(まがつみ)を、我身一つに引受けて、道の2里ばかりも来た時、路の側なる庚申の森の中から、一人の男がつかつかと出て来て、じーっと龍造寺の顔を覗き込んだが、東雲の光に分かったか、

「おや、貴方は西原の若旦那ではございませぬか」
 と云うから、龍造寺はぎょっと度肝を技かれたが、能々見ると店で使う船頭の要吉であるので、少し落付き、
 「要吉じゃないか、今頃何の為めにこんな処に居るか」

「私は船の方は元通りのからから川では駄目でございますから、漁師の利蔵と組んで、鰻の穴釣りを仕て、僅かに渡世をして居ります、夫で今利蔵の来るのを待って居る処でございますが、若旦那ぱ今頃どこへお出になりますか」

「俺は親父の使いで吉井の親類の病人を見舞に行って、夫から日田に行くのじゃが、お前は俺の親父もお袋も探して居たぜ、夫は俺を一人日田に遣るから、要吉でも附けて遣らねばならぬと云うて居たから、俺が酒代を遣るから、お前ぱ是から直ぐに日田のカネ又の店に往って、待って居てくれ、鰻釣りなどはもう今日から止めよ」
 と云うたので、要吉は大変に喜び、

「夫(それ)は有難うございます、夫では吉井まで若旦那をお送りして、夫から直ぐに日田に参る事に致します。併し大旦那の御病気はどうでございますかな」
「ああ、親父の病気は、此の45日前から大変良くなって、お医者方も皆口を揃えてもう大丈夫じゃから安心せよと云われ、熱も下り食物も段々食べて来たよ」
「へぇ夫は結構でございます、昨日友達に聞きましたら、此の23日が危険い(あぶない)のだと申しましたから、私はがっかりして居た処でございました。永年お出入りを仕たお店の大旦那も、今度と云う今度は、もうお別れかと思うて居ますが、夫はまあ結構な事でございます、さあ若旦那、往きましょう」
 と云うて先に立つから、龍造寺も共に道を辿ったが、其の道中で要吉が咄に、
 「若旦那、是程春口から夏口を追通(おっとう)して、旱り続いたお天気も、もう10日と立たぬ中に、大雨に成ますぜ、一昨日の朝から、高良山(こうらさん)に雲柱が立始めました。今度雨の足さえ見ましたら、筑後川一帯の人気は大変な物でございましょう。そこで一儲けせねばなりませぬと、昨日から力瘤(ちからこぶ)を入れて待って居る処でございますよ」

之を聞いた龍造寺は、我家の厄難と境遇との全部を洗い流す、天上の神の福音ではないかと、耳に響いたのである。兎角して往く中に、吉井駅の棒鼻に来たから、幾千(いくら)かの小遣銭を遣って、要吉を直ぐに日田に馳せ上らせたのである。
夫から龍造寺は、何様数日父の介抱にて、毎晩の徹夜をしたので、父の知る辺の吉井の宿屋に立寄りて、昼より其の夜に掛けて十分に寝て、暫く不足した睡眠の疲れを取返したのであった。夫から其の宿屋には程能く(ほどよく)云いなして、其の家を立出で、心窃かに今後の大勇断、大勝利を期して日田の郷へと向うたのである。

名にし負う九州の大河たる筑後川は、彼の山陽の詩にも有る如く、忽然として激流急湍(きゅうたん)なるかと思えば、見る見る長湖一帯鏡の如くなり、山渓は長え(とこしえ)に緑樹の影に添うて、幽遠四方を囲むの仙境に辿り込むのであるが、大事を荷える幼稚の龍造寺には、脳中更らにそんな考などはなく、只だせっせと足に任せて進んだが、とうとう日田を距る(さる)4里ばかり手前の山中にて、日がとっぷりと暮れた。気は勝って居ても子供の足、疲れに疲れて引摺る如く、草鞋の紐の食込みに、痛む踵を厭いつつ、爪先き上りの山道を、上る処に向うより、下り来る一人の男、.突然に、
「小僧待て」
 と云うて襟髪を摑んでで引止めた。龍造寺は恟り(びっくり)して、薄明りに透し見る中に、ぷうんと酒の香が鼻を突いた。ははあ、酔払いじゃなあと思い、
「叔父さん御免なさい」
 と云うと、其の男は濁声高く、
「小僧、汝が頚に括って居る風呂敷包は何だ。金になる物なら小父に渡せ。俺は士族じゃ、軍用金に入用じゃ、さあ渡せ」
 と云う。(此の頃は前に書く通り、両肥、両筑、鹿児島等の間は、何時爆発するやら分らぬと云う物騒の形勢であったので、正真の士族が軍用金じゃと云うて押込や追剥などする。又、全く贋物の士族泥棒と名称詐欺で追剥等をするものが、豊後路には沢山あったのである)龍造寺は平気で、

「叔父さん、此の風呂敷包はお菓子だよ、叔父さんお菓子を喰うのなら遣るよ。私は川下の材木屋の小僧で、お使いで日田に行くのじゃが、是は主人が託けた(ことづけた)病人見舞のお菓子だよ」
「何、菓子などが喰われるか、どれ見せよ」
 と云うので、仕方なく頚から卸して開いて見せると、其の男マッチをパッと付けて蓋を明けて見て、
 「むう成程、菓子だ。早く仕舞え、そして酒代になる程銭は持たぬか」
 と云うから、
 「むう、叔父さん酒を呑むのなら、私50銭なら持ってるよ。併し此の先のお春婆さんの茶店に行けば私本当に懇意じゃから、いくらでも酒を呑ませるよ」
 「むう、其の茶店はどこじゃ」
 「今叔父さんが通って来た、45丁向うの小滝の落ちている、大石の曲角の一軒茶屋だよ」
 「む・・・そうだな、好し夫ならそこまで迹返えろう、小僧は中々の気転者じゃのう」
 と、呑気な泥棒もある者で、其の店に着いたから龍造寺はつかつかと這入って、
 「お春婆、今晩は」(幼少よりしばしば父に連れられて来たから此の婆と懇意である)
 「おや、西原の若旦那、夜々中今頃どうして入らしった、大旦那も御一所でございますか」
 「いや、親父さんは明日迹から来るよ、又、要吉も来る筈じゃ」
 「はあ、要吉どんは昨晩方此処を通りましたよ。おや、お連れ様でございますか」
 「むう、此の叔父さんはね、私の路連(道連れ)で、此まで送って来て下さったお方故、お酒をたんと上げてお呉れお父さんが払うから」
 「へいへい畏りました。さあ貴方こちらでゆっくり召上りませ」

と云うので、泥棒はのそのそ婆の云う処に行って、ぐいくと飲んで居た。其の中下地が飲んで居たものと見えて、急に酔いが廻ってきて、こくりこくりと睡を催して来たので、龍造寺は婆に小声で、

「お婆さん、どうしても私は今夜の中に日田に着かねばならぬから、此の家の爺さんが隣の小屋に繋いで居る、あの駄賃馬で送って貰いたいが、駄賃は50銭遣るから」(其の頃1里=五銭から六銭位であった)

 「えーえー若旦那、そんなに下さればお爺さんは大喜で夜通でも参りますよ」

 と云うて、隣の馬小屋で馬の始末を仕て居た親父の処に婆が駈けて行って、相談を極めて来て、龍造寺はまんまと此の爺の馬に乗って、日田に着いたのが夜の9時過ぎであった。夫より警察署の前でぴったり馬を止めさせて、龍造寺は馬方と共に、「今是々の追剥を欺き、酒を与えて滝の一軒茶屋に止めて置いたから」と訴え出たので、警部はソレと一隊の警吏を伴いて馳せ向うたのである。是より龍造寺が材木買占めの商略を開展すると云う咄しである。

因に日う、彼の一軒茶屋に酔潰れて寝て居た追剥は、豊前の炭山から流れ来たった、極低級の泥棒であったそうじゃが、幼年にして金を持って居た龍造寺の驚きは嘸かし(さぞかし)であったろうと察しられるのである。

 ******************

 ●44 家運挽回に志す勇少年  了。


 ●45 11歳の少年大山師 へ。

  




●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦

 『百魔』 魔人龍造寺隆邦

 (『百魔ー正続完本』 杉山茂丸 書肆心水 2006年8月15日 発行)  

 ●44 家運挽回に志す勇少年 


★忠言忌諱に触れて山野に隠れ 幼童大金を負うて投機を為す 


竜造寺隆邦は、丁度幕政三百年の瓦解を胎む最初の頃、即ち慶応の寅年に生れたが為め、一方日本帝国が、世界の文明に気脈を通じて、握手すべき運命にも進まねばならぬ、両様の国運に遭遇したのである。故に家庭は父が旧藩学校の教授にして、其の師弟の業は、農工商の何れかに就かねば、衣食さえも出来ぬと云う、悲惨な境遇に取囲まれたのであった。父は逸早く、藩士帰農の建白書を藩公に提出したが、旧習固陋の多数藩論は、之と一致せず、却て父は執政の全部に取込められて、
 「君公御不審の次第有之、蟄居謹慎可仕候」
との命によりて、閉門の身と成った位であった。去らばと云うて、藩論は帰農排斥以外に、之と云う大策もなく、只だ因循として決する処はないのである。とうとう時世の進運に押された藩論は、隣藩他藩の振合いに捲き込まれて、矢張り帰農的の議論に傾き、終に何やら取止めもなき事にて、父は半年計りの後に、
 「御不審の廉相(かどあい)晴れ、蟄居差許さる」
との伝達を受けたので、父は一応の御礼を申し述ぶると同時に、一藩に先んじて旧領地の田舎に隠遁し、濁世の汚塵を避け、風月を伴侶として幕す事に成ったのである。此の時の庵主の家族は、老祖母と父母と、庵主と弟二人と、妹一人(次弟は即ち龍造寺、三弟は林駒生、妹は現在安田勝実の妻)都合七人であった。是に於て父は庵主を農工の事に従事せしめ、竜造寺は筑後河畔の材木問屋、西原弥一なる者の養嗣子として、入家せしめたのであった。此の材木問屋と云う者は、上は水源地たる豊後の国・日田の郷にて材木を仕入れ、之を筑後川の流域に沿う材木小売商に売捌きて、下は有明の海口、若津より長崎に至るまでが、大概の得意先である、故に総ての運輸機関は、悉く水運に由るのである。龍造寺が西原に入家したのは、丁度彼が六歳位の時、即ち明治四年の頃であった。其の後九州は、明治八年の頃より旱魃が多くて、雨が少なかった為め、さしも九州の大河たる、筑後川の流域も、一帯に水渇れて、殆んど水運は杜絶の有様となったのである。其の為めに一帯の農作は十分ならず、随って川船船頭や、筏乗りの多数は、殆んど其の営業の全部を奪われて、人心も自然と険悪になる有様である。処が明治七年来、佐賀の乱が導火線となって、秋月、熊本、鹿児島とも、人心頻りに穏かならず、流言蜚語は至る処に行われ、何時内乱の端を開くやら分らぬ形勢となって来たのである。斯る形勢故、右の材木問屋の弥一は、売先きの掛金は取れず、山方には仕入の払いはせねばならぬと云う破目に陥ったから、商運必至と行詰まった折柄、思わざる大病に取付かれて、どっと病床の人となったのである。強熱日夜に往来し、数人の医師は、入り代り立代り診察をしたが仲々重患との事で、家内一同只顔を見合す計りである。丁度主人が重病になって十日目の夜、養母のたつ子は涙に浸って、行末の思いに沈み打案んじて居る処に、当年十一歳になる隆邦は、養母の側に進み入り、下座に手を突いて斯く云うた
(以下は弥一の妻、即ち隆邦の為めには養母に当るたつ子が庵主に対しての直話である)、

「お母さん、貴方も私ももう決心をせねばならぬ時が来ましたと思います。其の訳を只今申し上げましょう。
 ○一つ、最前三人のお医者様が咄して居るのを立聞き仕ましたら、お父さんの病気は、チブスと云う熱病の極たちの悪いので、此の十日間は、とても持たぬであろうとの事でござります。
 ○二つ、番頭の六四郎は、お父さんが病気になられてから、方々の掛先きに談判をして、掛金を半減して集めて、身仕度を仕て居ると云う事を、酒屋の平助爺さんが私に教えて呉れました。
 ○三つ、世間の話しでは、どうしても騒動が起るとの事、若し起って、佐賀地方のように焼かれては、焼かれ損、取られれば取られ損でござります。此の川筋の各問屋にも、もう夜々士族の強盗が押入りを始めまして、警察でも手の付けようがないとの事でございます。
 ○四つ、夫(それ)で此の家計りでなく、此の川筋に商売をして居る者は、一帯に必至と(きっと)破滅する時が来ると思います。
 ○五つ、左すれば世間並よりも一と足早く『悪く計り成るもの』と決心を仕た者が一番能く運命に勝つ時と思います。
 夫(それ)故にお母さんが第一に其の御決心をなさる事を願ますので、其の御決心とは、
 ○一つ、お父さんは、どんなに御介抱を仕ても亡ならるゝものと御決心をなさる事、

 ○二つ、掛先きの得意には、直ぐに別の使を出して、今年の冬までは掛金を待ちますから、何者が取立に往っても、決して払うて下さるなと云うて、一文も取らぬとの御決心をなさる事、
 ○三つ、何れの道、お父さんとお母さんとの働き出して出来た此の家は、どうで一旦は滅亡する時が来たと思いますから、此の際有丈けの金を寄せて其れを持って日田に往き、現金で手附を打ち、日田の郷の材木全部買占めの決心をして我家の商運を一時に試して見る気にならるゝ事、
 ○斯う成りますと、得意先も喜び、山元でも見込を付ます、縦令え(たとえ)此の商売で此の家が潰れましても同情と信用とは他の家よりも豪いと思ます。夫はお母さん今の御決心一つでござりますがどうでござりましょう」

 と云うたので、母は目を瞠って斯く云うた、

 「お前さんの話はよく分りますが、そんな大胆な仕事を誰が仕ますか」

 と云うたら龍造寺が、

 「私が致します。お母さんは私に此の家を継がせようと思うて、幼少の時から養子に貰うて下さったのでございますが、今お父さんが亡くなられて、掛金が取れず、借金計り残った処へ、世の中に騒動が起りましては、私の継ぐべき家は影も形もないように成ります。夫ではお母さんと家族一同は、乞食に成って此の土地を立退かねばなりませぬ。同じ夫までに成るのなら、男らしく遣れるだけ遣って、後に立退きたいと思ますから、お母さんどうか此の家は私に継がせるお心で、私に潰さして頂きたいのでございます」

 と、是を聞いた養母も、只の者ではなかった、

  <続く> 
 



●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
 ●杉山茂丸の実弟に★龍造寺隆邦という快人物がいる。

フリー百科事典『ウィキペディアの「龍造寺氏」の項をみると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%80%A0%E5%AF%BA%E6%B0%8F

最後の部分にこうある。

「・・※なお特異な幻想小説家夢野久作や、その父杉山茂丸は、龍造寺隆信の子孫である。」

茂丸・『百魔』でも43節から12節に亘りその短かすぎた生涯を追悼している。
 


 ****************

43 魔人龍造寺隆邦 (この節は敢えて全文引用する)

壮士大姓を復して志業を企て一敗大損を為して外人を苦む

庵主の実弟に龍造寺隆邦と云う者があった。幼名を乙次郎、後に五百枝(いおえ)と改名したが寅年の生れ故、庵主より二つ下で、慶応二年八月の誕生である。是が庵主としては、百魔伝中に最も特筆すべき魔人で、実弟の事ゆえ今日まで控えて居たが、今庵主は、此の実弟・隆邦が旧宅東武の郊外、中野郷に寓居する事になったから、彼が瞑目した思い出多き寒窓の下、空しく孤灯に対してしきりに昔日を偲び、考出した儘、筆の運ぶに任せて、其の記憶を書綴る事にしたのである。

ここに一寸彼が龍造寺と名乗る訳を書いて置こうと思う。庵主の姓、杉山と云うは、系図に因ると本姓ではない。即ち龍造寺と云うが本姓であって、先祖より伝わる系図の混雑は、全く普通と異なって居るのである。庵主が幼時、父は福岡藩の系図学者とも云うべき長野和平と云う長老に系図の調査を頼み、長野氏にある正系を根拠として、一直線に系図の前後を糾して貰うた事があるが、其の正系に拠ると、杉山と云うは仮りの姓である事が明白である。其の訳は古き事は省略して、近く天正の往昔より、九州に龍造寺、大友、島津の三豪族が鼎立割拠の勢をなし、互いに侵掠殺戮を事として居ったが、家運の傾く時は余儀ないもので、薩摩の伊集院の攻撃に対して、龍造寺の家老は之に内通、裏切りをなし、城に火を掛け一挙にして主家を滅亡せしめ、其の主君の後妻を納れて己が妻となし、子女を片端より殺戮せんとする傾向が見えたので、忠義の家臣等は、各自に若君を引連れて各国に逃げ隠れたが、多くは隠密刺客を以て殺し、龍造寺の枝葉を剰滅せんとしたのである。庵主の家祖は、其の長子即ち嫡男にして、龍丸と言う者であった。四方に流寓の結果、信友(しんゆう)三宅某が黒田家に重用せられ居るのを手便りて寄食し、終に藩主・長政公の御聴に達し、客分として最も手厚き保護を受けて居たが、後には藩公に其の才器を見込まれた。或時藩公は右三宅を以て子孫百世忘る可からざる懇談を賜ったのである。曰く、

「龍造寺龍丸は予に於て格別の庇護を加え居るも、何分戦乱の余殃(よおう)未だ止まず、四方より入り込む刺客隠密の処置に油断相成難く、今尚安堵の生活致させ難く思うに因て、予は一案を得た。夫(それ)は予が郷国・播州に、儒者として客分なりし杉山如庵なる者あり、此の者の祖先は、相州箱根杉山の城主杉山三郎左衛門の尉誠久(じょうのぶひさ)と言う者であって、建徳文中の頃より南朝に心を寄せたる家柄であったが、明徳の頃より家勢衰え、播州に来たりては代々予が家祖と、去り難き因縁を結んだ、如庵死後に、其の遺孤・八重と言う一女子あり、予之を扶肋せんと思うに付き、之を九州の名族・龍造寺龍丸に娶せ、暫く龍丸をして杉山の姓を名乗らせ、予が家臣の中に差加える時は、龍遠寺の跡を晦ます(くらます)に於て、屈強の便宜たらん、其の事を龍丸に汝より申聞かすべし。龍丸承引の上、産けたる中の一子を以て、杉山の家名を継がせ、時代静謐の上、再び龍造寺の家名を興さば、予に於ても満足ならん」云々、

との仰を蒙ったので、龍丸は三宅の執成(とりなし)によりて君命の忝きを奉じ、茲に杉山家を名乗る事となったのである。龍丸入家の時、君公御手ずから延寿国時(えんじゅくにとき)の御刀を下し賜わり、杉山三郎左衛門誠隆(のぶたか)と称して、御奉公を為す事となったのである。故に庵主の家には、福岡藩に沢山杉山姓を名乗る名家があるにも係わらず、往昔より一本杉と云うて、同苗も何もなき孤立の杉山姓であったのである。其の後、直方御分地のとき、杉山三郎大夫誠正(のぶまさ)と云える者、奥御用人の重職にて勤仕して居たが、御本家御継嗣の為め、直方公御本藩御直りの節、御供をして、親戚・辻某と共に御側を相勤めて居た、然るに其の後子孫に不心得出国の者があって、一旦断絶の家名となったが、旧事思召出されて、再び御奉公を許されたる次第である。故に何れの時代、何れの場合にても、龍造寺姓を名乗らんとすれば、何時にても差許される事になっては居たが、何れも只々君恩の忝けなきを回想し、代々其の事を御遠慮申上げて居たとの事であった。庵主の代になっては、叔父・信太郎も分家して杉山姓を名乗り、弟も分家して杉山姓を名乗る事となった故、庵主は何時か先祖の遺志を継ぎ、改姓をなさんと思い、或時親友頭山満氏に此の改姓の事を相談した事があった処が、頭山氏曰く、

「貴様は悪い名でも、其の位天下に売って居るから、改姓などはせずに『我は鎮西八郎にして可なり』で遣り通してはどうじゃ」
と云われたので、庵主も夫(それ)を尤もに思い、更にこう考えた。

「俺の様な碌でなしが、先祖の姓氏に復するなどは、言語道断の不心得である。俺は朝鮮を日本の治下に置く事が、畢生の志望であるから、夫が出来る時は、俺の死ぬ時だ、其の時には此の本家の杉山の家名は、俺の死と共に断絶させて遺ろう、とても俺以後には龍造寺の姓を名乗り得る者は無いと見て差支あるまい」

と、こう決心はしたが、其の後余儀なき父母の命で、遠戚より妻を迎えねばならぬ事になった時にも、自分限りで此の家名は滅せしむる事を承知して置いてくれと、里方先方に談判をした位であった。夫故に庵主の伜にも、其の事を堅く云い付けて置いたから、伜は慶応大学入学後、四十ケ寺の禅僧を集めて、得度式なるものを挙げ、ちゃんと坊主の鑑札を貰い受け、茲に俗的姓名は絶家せしむるの覚悟と準備をして居たのである、然るに日韓の事は、叡聖なる陛下の御威稜と、忠誠なる日韓志士の尽力に依りて、一滴の血を見ずして解決した故、庵主はまんまと駄死を免れ、豚命を繋がねばならぬ悲惨事に陥ったのである。其の中近戚の者の包囲攻撃によりて、家名継続の止むを得ざる事になって来たので、云わず語らずに、平々凡々として今日に至ったのである。是は余談であるが、そこで弟の杉山五百枝は、十四五年前、俄然として龍造寺隆邦と改姓改名して、之を世に発表したから如何なる無頓着の庵主でも、びっくりして早速に弟を呼び付けて曰く、

「汝は兄たる予に一応の相談もなく不肖の身を以て先祖の巨姓大名を紹いで(ついで)、之を世に公けにするとは言語道断である。抑も如何なる考で、又如何なる必要で、左様な不屈を決行したか包まず其の理由を申出よ」と、居丈け高になって詰問した処が、弟は平気な顔ですらすらと答えた、曰く、

 「兄上が左様の思召に違いたるは、今更誠に恐くに耐えませぬが、私には一円お叱りのお趣意が判りませぬ、先祖が巨姓大名と仰せらるれば、私も正さに巨姓大名の子に相違ござりませぬ、仮令(たとい)私共が不肖であっても、正さに巨姓大名の先祖の血統を享けたる、不肖の子孫に相違はござりませぬ、大日本帝国の武士は、世界に抽出して血統を貴び、先祖の名姓は屹度其の子孫が継ぐ事を以て、君民上下共に動かざる掟と致して居ります。決して其の正当の子孫が、馬鹿でも痴漢でも、どんな不肖の子孫であっても、先祖に謙遜して他の苗字に改姓改名を致した者は一人も無いと思います。先ず夫は夫と致しても、私は先祖・龍造寺に比較して、決して謙遜を致さねばならぬ、家名を継ぐ事までも遠慮せねばならぬ程の不埒者ではないと存じます。其の訳は先祖・龍造寺隆信は其の立身の初めに於て、其の妻の里方なる肥前蓮池の城主、蓮池肥前守・重光を妻と共に攻落して其の城を領有して居ります。当時戦国の習い、血族戟を交え、姻戚鎬を削る事は珍らしからぬ事ではござりますが、其の事は屹度あった事には相違ござりませぬ。秋は其の正当の子孫として、斯る明治の泰平に生れ、斯る聖天子の制を忝のうしたお蔭には、未だ斯る先祖の如き大罪を犯した事はござりませぬ。夫で今日まで決して巨姓大名の子孫なりと威張った事もござりませぬ。又先祖・龍造寺隆信は、身微賤より起りて、両筑両肥の豪族殆んど全部を攻亡ぼし、其の領地を併有して威を四方に張ったに相違ござりませぬが、其の正当の子孫の私は、未だ他の領土を侵掠し、人の所有物を奪略した事も決してござりませぬ。多額の借金こそ有ますが、一つとして、貸主の承諾を得、正当の証文を入れて借らざるものはござりませぬ。左すれば聖代の民としては、先祖より私の方の人格が生れ優って居るのでござります、若し先祖の龍造寺や、島津や大友のように、互いに掠奪殺戮を事とする者が、此の明治の聖世に居りましたならば、夫こそ幾百十犯の重罪人であって、巡傑の死刑は決して免かれぬのでござります。其の重罪人の家名を紹いで遣る子孫の私には、先祖の方で一応の礼を云うか、恥入るかせねばならぬと思います、また、兄上に御相談なしに家名を継ぎましたのは甚不屈(ふとどき)の様でござりますが、是も一通りお聞取を願います。元来兄上は、先祖の龍造寺を名誉徳望を兼備したる名家と思召て居らっしゃるから、御謙遜のお心より、此の家名を断絶してまでも汚すまいとお考えになって、已に絶家の御決心にて御放棄になったのでござります。謂わば公然とお捨になったのでござります、夫を正当の子孫の私が、拾うて相続致たのでござりますが、夫も非情的に窃取したのではござりませぬ。私の友人で佐藤平太郎と申す福岡市の市長が居ますから、夫に系図を持ち出しまして相談致しました上、最も正当の手続を経て、改姓改名を致たのでござりますから、決して人に爪弾きを受けるような後暗い事は致して居ませぬ。又、何の必要あって改姓改名致したかとのお尋に対しましてぱ、包まず申し上ますが、私も武士の家に生れまして、或る生存の意義を立てたいと思いまして、身を立て家を興し、終には家国民人の為にも尽したい考えを持って居ますから、八方に奔走をして、営々と事業に努力を致ましたが今日までは全部失敗に了りましたから、
最後の一案と存じまして、或る外国の宣教師と棒組になり鹿児島県下に金山を発見しまして、共々に一生懸命に働きましたが、とうとう夫も失敗に了り、其の負債が十二万円余となりましたが、茲に気の毒なのは其の宣教師で、其の負債の割前の為めに、自分の受持って居る長崎市の寺を、債鬼の為めに取られる事になりました、私も日本男子たる者が、外国人と合同をした為めに其の宣教師の坊主が寺を取られて、生きながら地獄に落ちるような事を見て居っては、一分が相立たぬと心得まして、段々債主とも相談致ました処が、債主が申しますには、

『山海万里を出稼に来て居る外国の旅人、一文なしの坊主を剥ぐには、国際上相当の手続きも必要だし、殊に人が地獄に落ちぬよう世話をする坊主を、自分が夫を地獄に突落しては、金貸冥利も如何と思い、同じ一文なしなら、日本人のお前丈けを相手として置く方が、順当かも知れぬ、併しお前の今聞くような、世に知られた由緒ある家柄の人で、改姓改名を容易く出来るのなら、一番茲で其の龍造寺姓に改姓して、十二万円の証文に判を押してぱどうじゃ、鉱山で損をした人は、煎じても煙も出ぬ物じゃ、夫と同時に鉱山師に貸した金の取っぱぐれは、捨てても、跡に祟りの来る物じやと云う位の物故、私は其の龍造寺某と云う公正証書の借用証文を、後生大事にドル箱に入れて、一先ず此の貸借問題の段落を著けようじゃないか』と、荒木を切って出すような債主の談でございましたから、義を見て為ざると銭を見て借らざるとは勇なきなりと存じましたから、早速に福岡に馳せ付けて、改姓改名の手続を致したのでございます、私は乱暴狼藉な先祖の名前、即ち兄上が放棄して顧みなかった名前を、大枚十二万円と云う大金に成しました手柄者でございます。否や夫で日本人の私処でなく外国人をも助けました。人を天国に導くと云う事業の人、即ち宣教師を地獄から救い出しました。私の改姓改名の必要と申すのは斯な(こんな)理由でございます。今日の法律から申せば泥棒半分の処行をした、先祖の名前でござりますが、其の正当の子孫の私は、此れ丈の手柄を立ましたのでございますから、どうか叱らずに一つお誉を願い度のでございます」

と、ぺらぺらと饒舌立てられたので、法螺丸の綽名ある庵主もぐっと閉口して仕舞い、
「此奴め、一寸一二枚人間が俺よりも上じゃわい」
と斯う思うたから、直ちに心機を一転して、庵主はぽんと膝を敲いた。

「いや、理由を聞いて安心した、克く改姓した。克く先祖の名を借金に使用した、克く外国人を助けた、此の後とても益益先祖の名を、善用でも悪用でも何でも構わぬ、どしどしと汝の思う存分の事を遣って見よ。爾後汝の為めに及ぶ丈けの助力こそすれ、決して汝の事業を掣肘するような事はせぬから、安心してどしどし進めよ」

と云うて兄弟共々膳羞(食事))を分って其の夜は別れた。

斯る顛末で、龍造寺姓を名乗った弟は、幼少より抜群の奇事奇行を遺した者であった。是からぽつぼつと思い出した事を書くであろう。

 **************

  < 続く> 
 



●『俗戦国策』
 ●コンミッション三百万円
 ●後藤の寝ざめ 


 ●コンミッション三百万円
 *コミッション【commission】
  1 委任。委任状。2 委託業務に対する手数料。周旋料。口銭(こうせん)。
  3 委員会。4 賄賂(わいろ)。◆ 英語では4は、bribe

 夫(それ)から政党屋連と政府の談判は日に日に悪くなって来て、満都の耳目は此の問題にばかり集注する事となって来た。一方、民間経済界の耆老(きろう)や政府の財務当局等は、此の恐るべき「パニック(襲)来」を気遣うて来た。夫(それ)は、此が若し不成立になると、日本無比の巨額の株式を抱え込んで動く事の出来ない幾多の巨頭が、ドタンバタンと大音響を立てて倒産するのであるから、各人目の色を変えて心配する事となったのである。
 其の揚句、政府でも大緊張で調査をした結果、★逓信大臣・後藤新平より、交渉委員へ内交渉して来た。買収価格は、交渉委員等の申出と三百万円以上も安価であったらしかった為め、トウトウ無残にも不調となって、茲に電車市有事件は長い長い間、揉みに揉んだ揚句の果が不成立となったのである。
 ソコデ関係銀行も財産家もメリメリと音を立て倒潰せんとした時、例の村上と小池は徹夜をして各方面に大声を上げて駈け廻った。曰く、

「ヤア・・・皆騒いではイケないぞ、此で電車の市有は極印付に屹度成立するのじゃ、大丈夫じゃから皆騒いではイケない」
 と、声を涸らして駈け廻ったのである。夫で此大騒動をヤッと喰い止め支え付けた後、顔の色を真青にして、息を切って庵主の所に来た。

「先生の御注文通りに、此の通、電車会社総株数の六割一分余に相当する、斯く大株主の委任状を揃えて持って来ましたから、・・・サア屹度成立をさせて下さい」
 と声も息もハズまして責め掛けて来た。ソコデ庵主は、
「ヨシヨシ屹度成立させて遣る、一体此の六割一分の株主が、電車全部を市に売る値段は幾何(いくら)じゃ。其の価格を云うて見よ」

「株主としては、○○○○○○○○円に売れば宜うムい升(ございます)(★此数字は震災で書類が皆焼けたから忘れた)」
「其の値段で、屹度売る契約をするか」
「エーエ、致し升とも」
「此の委任状で、其の公正証書を拵えるか」
「エーエ、今でも致し升」
「夫では云うて聞かすが、此の交渉の成立せぬのは、仲介者に二三百万円の『コンミッション』があるから出来ぬのじゃ、此のお前達が売る値段は、後藤逓信大臣より内交渉に発言した買収価格よりも壱百万円以上も少なくて、お前達即ち株主連の云値の方が安価である、即ち逓相の云う値段は此々であるから、今お前達が云うよりも高いのである。夫に交渉委員の云う値段は此逓相の云うのよりも其の上に三百万円も高いのであるから、お前達の真に売る値段からは二乗に高くなって居るではないか。既に逓相の云うた値段でモウ出来て居るのである。・・・夫で俺が此の間から幾度も幾度も、屹度成立させて遣ると云うのである。併し、最早一度立派に出来ソコのうた事件であるから、手続きだけは、立派に、新たに遣り直さねばならぬから、・・・大秘密を要するから、公証役人を自宅に呼んで、極秘に契約書を作製せよ」
 と云付けて、トウトウ築地の梁山泊と云われた台華社の楼上に何やら鶏一とか云う公証人を呼んで、チャンと其の公正証書が出来た。ソコデ庵主は夫を状袋に入れて、固く封蝋を付けて桂総理の所に持って往って、曰く、

「閣下、此の書付けは、此(桂二次内閣)の大成功になるか成らぬに大関係のある、大事の書類であり升から、此封の儘、鍵のある所に入れて大事に御保存を願いたいです」
「一体是は何か?」
「好い時に私が言升から、先づ仕まって置いて下さい」
「ヨシヨシ」
 と、桂公は云うて、
 側の「ドル箱」に入れられた。夫から2ケ月ばかり経過する中に、桂内閣はドウしても第二次西園寺内閣に政府を引渡さねばならぬ事になって来た。庵主は日々其方で急がしかったが、弥弥(いよいよ)何でも明治41年の8月の20日位に辞表を出さねばならぬ事となった。其の時庵主は、桂公に向って、
「夫では、トウトウ此の内閣は格別の仕事もせずに、ザワザワ斗り(ばかり)で往生する訳となりましたネ、閣下は残念と思いませぬか」
「ドウも仕方がないからネー・・」
「此間お煩けした書類を、一寸出して御覧じませ」と云うと、桂公はモウ忘れて居たので、能く云うて夫を出させて、夫を能く桂公に見せて説明をして聞かせた。

「そもそも 此の電車市有の不成立は、満天下に大恐慌の大危機を胎んで居升、夫を成立させて、此毒気を一掃して西副寺侯に御渡しになるのは、全く閣下の義務である上に、現下の状況として閣下の大成功でござり升、・・・夫れ御覧じませ、電車側の交渉委員の云うた値段の金高は、○○○○○○○○円であり升。夫に後藤逓相から内交渉した買収値段の金高は○○○○○○○○円でムり升(ござります)、夫は三百万円斗りの差で、逓相の申出の方が安価であるから、此の経済界一大事の交渉が不成立になりました。然るに私が、斯く総株数の六割一分に相当する大株主の売る値段を取糾して見升と、其の金高が斯く○○○○○○○○円で売ると申し升。左すれば、逓相の云う値段よりも、更らに百万円余も低価でムい升。斯く元値と大差ある事を逓相が能く知って居升。夫故に此の事件は成立しても、後に屹度、不透明の悶着が起ると思うて居升から、譬え不成立になっても決して買収せぬのでムい升、其の上最近、農商務省にも斯る不適明に類似する問題が蟠って来て居升から、夫は内閣の安危に関する事と思うて、逓相が蔭になって夫を打こわして居る位でムい升から、自分の所管に関する此の電車問題に不透明の感じのある事は、決して成立させませぬ。故に今改めて是にある此の大株主が売ると云う値段で買収する事を、決して内交渉も何もせずに、公然と市長と会社に向って発表し、併せて之を株主共にも秘密にせず之を知らせます時は、此の大恐慌を孕んでいる恐ろしい問題でございますから、株主共が即時に売るに相違ムいませぬ。左すれば、長い間もつれにもつれた此の大困難の大問題が、一瞬間に片付まして、恐慌も何も根本から一掃して仕舞う事になり
升、サァ閣下、是を遣り升か、ドウです」
 と云うと、桂公は目をシパシパさせて其書類を見て居たが、

「杉山……此の書いた通りに、出来るかノウ」
「出来るか出来ぬか、夫は一千万円の損害賠償付の公正証書でムい升ぞえ」
「ソーすれば、此をドウすればよいのかノウ」
「夫は、閣下はモウ政府をお休めになる事が極りましたから、逓相に何も相談がましき事をなされずに、厳然として、政府は市街電車を○○○○○○○○円(此の株主共の申す価格)で買収する意思ある事を、市長に通知さするのでムい升。夫は閣下が総理として、逓相に対する絶対命令でなければイケませぬ」
「オイ杉山、ソンナ事を云うて良いかよ」
「大丈夫でムい升、・・・閣下は、★株式取引所、限月短縮事件の時、私の申上る通りになされましたら、アノ大問題が即時に片付いたではありませぬか。・・・決して間違も違算もムりませぬ、閣下が夫を直ぐに御実行にならねば、閣下の内閣に於ける百年の怨を残すのみならず、西園寺内閣も、直ぐに来る大恐慌で多分潰れると思い升。此は閣下の大成功と、一方は政治家としての最高の義務じやと思い升」
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
「好し、直に後藤に云う事にする」
と云われて、★其の座で電話を掛けられて逓相・後藤を呼ばれた。

 ●後藤の寝ざめ

 夫から庵主は、後に桂公から聞いたが、桂公は逓相に向って、
「貴官は市長を呼んで『政府は市街電車を○○○○○○○○円で買収するの意思ある』と云う事を、今日中に電車会社に通達せられよと、云渡して呉れ給え」
 と云うと逓相は、
「閣下、電車買収の価格は、既に私が、先に其の委員に向って○○○○○○○○円で買収するの意思ある事を明言して居ますから、夫を更らに減額して、又云う事は出来ませぬ」
「イヤ夫は、既に不成立になった、過ぎ去った事件である。今回新たに、政府に左様の意思ある事を彼等に通達丈け仕給え」
「承われば承る程、変なお咄でムい升が、・・・閣下は何か、御精神に異状はムりませぬか・・・何か私の手落ちな事でもあっての事でござい升なら、私が辞表を捧呈する事は何でもございませぬが」
「イヤ、辞表の如何は貴官の自由である。・・・此は本官の命令である、速やかに市長に今日中に通達して貰いたい」
「イヤ、御命令とあれば通達致しましょう」
と云うて別れたそうじゃが、逓相は如何にしても総理の意思が分らぬので、トウトウ其の夜の9時頃、市長を呼出して其の事を通達した。
「貴下は今日中に、電車会社社長に、斯く斯くの事を御通達を願ぃたい」
 と云うと、市長は鳩が豆鉄砲でも食うたように、目をシコシコさせて、
「閣下のお詞ではムい升が、・・・閣下は何か、御精神に異状はムいませぬか」
「イヤ、精神に異状があると無いとは此方の事じゃ、貴下は速やかに通達さえせらるれば宜しい、・・・此は総理大臣の命令である」
 と云放ったので、市長はスゴスゴ引き下がって、仕方がないから電車会社の社長、千家尊福(たかとみ)男に其の通りを通達した。此の報知を深夜に庵主が聞いたから、直ぐに村上と小池を呼出し、

「お前達は、明日大株主を寄せて決議をして、《政府は昨夜、市街電車を○○○○○○○○円で買収する意思ある事を発表したそうじゃ。
大株主は、其の値段にて、直ぐに売るから、会計は早速、其の事に
同意をして貰いたい。若し不同意であれば、直ぐに臨時株主総会を要求して、其の事に決議をするから》と云う意味にて、示威運動を響かせてくれ」
 と云うと、両人は躍り上って、
「委細承知しました。・・・直ぐに会社に決行致させます・・・此まで遺って貰えば、モウ屹度出来ます」
 と云うて帰ったが、何所を何としたか知らぬが、其の翌日より事務はズンズン進捗して、見る間に此の市街電車占有が出来たのである。

 人は皆、考えねばならぬ事である。此の「コンミッション」と云う物は、好い物ではあろうが、此の「コンミッション」の為めに、官民共は腐敗もし、闘争もし、訴訟もし、罪人にもなり、入獄もし、国家の事務が停滞もし、破壊もする物である。故に、仮染にも家国民人の為めに働く者は、決して「コンミッション」は念慮に置く可からずと云う事を戒むる為めに書いて置くのである。国に尽くす名誉も得たい。君に忠なる美名も得たい、夫までは好いが、其の上に又、不法の金まで儲けては、直ぐに親から無難に貰うた此の腕に青縄が掛るか、満足な此の身体を牢獄の中に入れるかせねば済まぬ物である。其の時には名誉と美名とを表看板にした丈け、罪は永久に重いのである。後藤逓相が此の時読んだ歌がある。曰く、

 ●寝ざめよき、ことこそなさめ、難波江の、

  よしとあしとは、云うにまかせて

 此の後藤の生涯は、随分働きもした、国家の大事も沢山為したが、随分非難も多かった。
 併し庵主は、後藤の30台(ママ)から、一日の違変もなく交際して来た二人である故に、能く其表面も、其裏面も知って居る。世の人が何と云うても、此後藤は決して《寝ざめの悪るい》事をする人でないと云う事は、俺主が何所までも保証するのである。今日まで、彼を非難した人もマダ大分生存して居ると思うが、此の後藤の歌をよく玩昧すべしである。庵主は50年の在京、一度も他人の弁護をした事はないが、此の人を此まで世人が非難した事柄丈けは、屹度ソーでないと云う事を反駁して置くのである。

 ●電車市有問題  了。
 



●『俗戦国策』に見る後藤新平。

 「・・・後藤の30台(ママ)から、一日の違変もなく交際して来た二人である故に、能く其表面も、其裏面も知って居る。世の人が何と云うても、此後藤は決して《寝ざめの悪るい》事をする人でないと云う事は、俺主が何所までも保証するのである。」とまで断言する杉山茂丸の講釈に耳を傾けてみよう。 『俗戦国策』より。
 

 ****************

●電車市有問題

●村上太三郎、小他国三君、深夜の訪れ

サア能く年次を記憶せぬが、何でも第二次桂内閣の時であったには相違ないのである。・・・此東京の市街を縦横して居る電車を府有にする議論が、官民の間一斉に起って来た。・・・夫が出来そうになってはダラリと崩れ、又出来そうになってはダラリと崩れるのである。

(*1903年(明治36年)8月22日:馬車鉄道の東京馬車鉄道が動力を馬から電気に改めることで誕生した東京電車鉄道(東電)が、品川~新橋間を開業。

1906年(明治39年)9月11日:東電・街鉄・外濠線の3社が合併し、東京鉄道(東鉄)成立。

1911年(明治44年)8月1日:東京市が東京鉄道を買収。東京市電気局を開設し、東京市電となり、路面電車(市電)事業と電気供給事業を開始。
 
当時、後藤は第二次桂内閣で逓信相、鉄道院・総裁を兼任。)

 ソコデ、何様日本で指折の大会社の事であるから、其株式と云うたら大変な資本高である、ソコデ、各銀行と株式仲買と資本家との間に、株式を買占めたり売放したりして、其利害争奪の有様と云うたら物凄い程である。ソコに政党の巨頭連などが数人加入して、全任交渉委員となって騒ぎ出して来たから、今度こそは間違いなく市有が成立するに相違ないと認められて来たので、各株式連中などは其身代の全力を挙げて、大変な高の株式を抱え込んで、息を詰めて其成立を待って居るのである。其所に或時、恐るべき一道の魔風が吹いて来た。夫は政府の買上値段が、此交渉の全権を担任する大政治家の巨頭連の思惑との間に大差ある事が機密に測定せられて、到底成立の見込がなくなったらしくなって来たから、サア其株式を沢山抱込んで居る連中の恐慌と云うたら大変である。

 此時庵主の僑居、築地の台華社に、深夜の1時半頃叩き起して無理に面会を求めたのが、日頃懇意にして居る株式仲買の村上太三郎、小池国三である。
 (因に曰く、庵主が従来相場をするすると各新聞紙などに書き立られて、手強く攻撃をされたり傷害をされたりしたのは、此2人と懇意に交際をして居たからである。当時庵主は、コンナまどろしい、狼狽性のある、過敏性のある株式仲買などを相手にせずとも、相場を仕ようと思うたら、百発百中に勝って儲けるに極って居る事を知って居るのである。夫は「金利の上下」から「公債の償還期及其多寡」から「外債の成立、不成立」から、日本に有とあらゆる経済上の大勢は、★大体庵主の前知せぬ事はない位の時であるから、何でもないのである。併し庵主の資性は、「相場」と「碁、将棋」と「猟漁」と「各ゲーム事」とが大の嫌である。然るに此両人は、人の知らぬ義侠心のある男であって、日清日露の両戦争の起因の頃から、人の知らぬ金を無担保で出させて、★此等計画の資となしたのは此両人であった。事後には奇麗に返済はしたが、恩義はあったのであるから、小気味能く庵主と交際をして、大難事があれば人知れず庵主の所に訴えて来て居たのである)夫(それ)で此市街電車が出来ソコナイそうになって来ては、彼等の一大事である。即ち立派な破産仕事である。曰く、
「先生、電車市有が出来そこないそうじゃで、睾丸が上がったり下がったりして寝て居られませぬ故に、小池君と相談をして遣って来ました。若し万一出来ないとなると、両人は申すに及ばず、大恐慌であり升。銀行三ツや四ツは確かに潰れ升。・・・ドウか絶対に出来そこなわぬ様に工夫はあり升まいか」

●恐慌は防がねばならぬ

 此を聞いてから、庵主の戦国策が直ぐにムクムクと始まった。曰く、
「此際恐慌は絶対に防がねばならぬ。・・併し、市有を成立させる位は何でもないよ」
「屹度成立しますか」
「屹度成立するよ」
「ドウしてですか」
「夫はネ、今の交渉が不成立になった時に、成立するのである」
「変ですネー、屹度成立し升か」
「クドイ、屹度成立する」
「夫では、成立するように一切を先生に一任して、当にして居て宜うム(ござ)い升か」
「夫は、今の市有運動が不成立になった時、電車会社の株式半数以上の権利所有者が2ケ月間庵主に其成敗を一任し一切其指揮に従う事を誓い、若し俺主の命令に背いた時は一千万円以上の損害要償を甘受すると云う合法的の公正証書に、其権判者全部が2ケ月間庵主の許可を得ずして決して株も売らぬと云う事に調印して総て夫が訴訟上の合理になった契約さえすれば、屹度成立させて遣る」
「夫は何でもムりませぬ。今夜にも大株主会は開かれ升。・・・夫から、夫等の全権は既に出来て全部委任状も取集めて有升から、何時でも出来升。・・・夫から費用が何程掛り升か。・・・又お礼は何程
入升か」
「費用は一文も掛らぬ。お礼も一文も入らぬ」
「へー、先生、冗談じゃありませぬぜ、・・・本当に出来升か」
「クドイ男じゃナア・・・俺の云うた事に今日まで冗談があったか・・・何か間違った事があったか・・・。俺は恐慌を防ぐ丈けでも、是非成立させねばならぬ。・・況んや此電車市有問題は、社会政策としても是非成立させねばならぬ。・・・心配するな、俺の云う通りにさえ仕てくれば、屹度出来る」
「夫では此からソー致升」
「夫は今直では無いと云うているでないか、今の交渉が不成立になった時でなければイカヌ、今ドエライ大頭株の政治家連がウンウン云うて遣って来る。夫等が全権の委任を持って居る、夫が不成立になって、任意解散で其委任が解けねば、俺に委任する事は出来ぬ訳であるから、今の交渉が不成立にならねば、成立はせぬのである」
「成程、夫では此儘45日様子を見ましょう」
「ムウ、夫がよいよい」
と云うて別れた。 
 

 ●コンミッション三百万円 へ続く。
 
 


●後藤新平と杉山茂丸
 ● <続> 閑話休題 後藤新平

 後藤新平と杉山茂丸。 

 
 「まず気づくのは、「特集」冒頭の【後藤新平略年譜】(編集部作成か)にも、p64~65の 【お世話した人、された人】と題された交際録フローシート状のもの(川西崇行構成)のいずれにも★杉山茂丸の名を見ることが出来ないということである。
もっとも、直後のp70~73には、【「政界の黒幕」杉山茂丸との交友】と題した与那原恵の一文があるが・・・。」と前に書いたが、未紹介だったので、その一文の紹介から。

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 「政界の黒幕」

杉山茂丸との交友。
後藤の幅広い人物交流の最右翼には、明治・大正・昭和を通じて「政界の黒幕」と呼ばれた杉山茂丸がいた。
台湾・満洲政策に大きな影響を与えたといわれる、その交流を追う。

与那原恵
よなはら けい ノンフィクションライター。
1958年東京生まれ。月刊誌、週刊誌でルポルタージュや書評を執筆。著書に、大正期から終戦まで台湾で医師をしていた
沖縄生まれの祖父をめぐる『美麗島まで』、『サウス・トゥ・サウス』『もろびとこぞりて』など。

それを、どのような関係だったのかとはっきりと示すのは難しい。後藤新平と杉山茂丸。福岡・玄洋社系の大物で、明治・大正・昭和と「政界の黒幕」として名を馳せた杉山。山県有朋、井上馨らの参謀役を務めたものの生涯、官職につくこともなかった「壮士」は、後藤より7歳年下になるが、ふたりの親密さを物語るエピソードは数多い。

立場を異にするように見えても、かたや計画規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された後藤と、大言壮語がとどろき「ホラ丸」と呼ばれた杉山は、政治が生々しく動く時代ならではの共振があったのだろう。それぞれの人脈は幅広く、最右翼から最左翼まで延びていたことはよく知られている。
そこには今日ではとらえくいダイナミックな人物交流があり、たがいのよきもの(利用できるもの)を取り入れる柔軟性がある時代だった。
とりわけ、台湾統治、満鉄経営などの施策は、杉山が立案、後藤が実行者だとする見方さえある。両者と交友があった医学者・金杉英五郎は「後藤伯の大規模なる諸建案は天下一品であったが、これは終始匿れたる一参謀の在りしことを見遁すことはできぬ。それは稀代の知謀家・杉山其日庵主人である。彼は能く親切に伯に建言実行せしめたものであった」と語っている(『正伝後藤新平 四』)。

杉山の著書『俗戦国策』(昭和4年)は、義太夫好きの彼らしいリズミカルな文体が愉しい。きな臭い噂もまとわりつく杉山の実像をつかむのは困難だが、さぞ人を惹きつける魅力にあふれた男であったことは推察できる書物だ。そのなかに「後藤新平仲々話せるわい」(*書肆心水版ではp298~301)という一文があり、台湾銀行創設のいきさつが語られている。

 それは★明治32(1899)年ごろ。後藤が台湾総督府民政長官となった翌年である。ふたりそろっての浅草散歩のおりに芝居小屋に入った。名優の演技に感心した後藤は、この役者ほどの仕事を自らは台湾でなしえていないとつぶやく。それを受けて杉山は「マダ台湾座の舞台に対して、鍛錬が積んでない。又台湾にはマダ四囲の道具立が揃うては居ないよ・・・」と返す。足りない道具立とは何か、と尋ねる後藤に「台湾の道具立には、銀行という背景がない、之を備え付けねば政治の何物も出来ぬと思ふ」と応じる。(*このとき、台湾総督府民政長官・後藤は42歳、杉山は35歳である)

 杉山は以前より香港を往来し、香港の経済発展に銀行が大きく寄与していることを熟知しており、台湾にも銀行をつくるべきだと進言したのだ。さっそく台湾銀行創設に向けて動き出す児玉源太郎台湾総督と後藤新平。ふたりの仕事ぶりは「電光石火」のごとくであり、杉山はその機敏な行動を讃え「栗鼠(リス)総督、栗鼠長官」とあだ名を付けたと書いている。

「ホラ丸」の筆にかかると、まさに血湧き肉躍る芝居の一場面になる。けれども杉山が台湾統治を「舞台」と表現したのは言い得て妙だ。杉山と後藤は「明治という舞台」があって、その力を発揮できたのだろう。

●明治という舞台を、縦横に駆け巡ったふたり。

さて、この天下の名優ふたりはいかにして出会ったのか。
まず登場するのは、後藤の岳父・安場保和である。天保6(1835)年、肥後・細川藩(熊本)に生まれた安場は、近代日本草創期の官僚、政治家として知られる。
明治2(1869)年に胆沢県(岩手県)大参事となり、この地で若き後藤新平を見出し、給仕に採用している。これを糸口に、後藤は時代を駆け上ってゆくのである。明治16(1883)年、安場の次女和子と後藤は結婚した。

 いっぽう元治元(1864)年、福岡に生まれた杉山茂丸は、若きころから政治に目覚め、国内を巡遊している。伊藤博文暗殺を企てるも、本人に説得されて断念したという。伊藤は、20歳そこそこの壮士をどう使うべきか悟ったのだろう。杉山もそれに応えた。
安場と杉山が出会ったのは、明治19(1886)年。当時元老院議官だった安場を福岡県令に迎えるため直談判したといわれる。安場は鉄道敷設計画の実績があり、郷里の発展のために鉄道が必要だと杉山は訴えたという。この年、安場は福岡県令(知事)となり、鉄道をはじめ北九州開発が推し進められる。
 また、杉山が盟友を契る「同郷の偉人」、玄洋社の頭山満に初めて会ったのは、明治18(1885)年といわれるが(*17年とも)、これを仲介したのが★「熊本紫凕会」のハ重野範三郎だった。この熊本紫凕会は、これにさかのぼること4年前に、安場、井上毅らが国権愛国の政党にしようと設立した団体である。安場と頭山の関わりも深かったという証言がある。

 後藤新平は長州閥の官僚政治家としての側面ばかりでなく、熊本人脈も色濃くあると指摘されており、その背景には岳父・安場の影響力が読み取れるだろう。後藤に杉山を紹介したのも安場だったといわれるが、考えてみれば、このふたりが出会わないことのほうが不自然とも思える。

 時代は下るが、日清戦争(1894~95年)前後に、杉山は玄洋社の人脈から、東京日日新聞の主筆・朝比奈知泉と知り合い、彼を顧問に「暢気倶楽部(のんきくらぶ)」という会合を持つようになる。
 ここに後藤も加わっているが、伊藤博文や桂太郎など政府要人が会したといわれる。杉山は、暢気倶楽部の人脈を通じて、日本興業銀行の設立、さらには台湾鉄道の敷設の準備に奔走した。

 明治31(1898)年に児玉が台湾総督着任の際には杉山に意見を求めている。この5、6年前から知己を得ていたようだが、★当時31歳の杉山は「砂糖を以て、台湾の経済政策の基礎におくよう」述べ、自らも台湾製糖の設立(1900年)にかかわっている。児玉と後藤の名コンビに加え、利権うずまく台湾統治に杉山の存在感は大きいと同時代人は語っている。

 明治39(1906)年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任した。その裏話を杉山が前掲書にしたためている。題して「庵主(注・杉山)の奇策」(*書肆心水版では、p471~4)。児玉と杉山の間で暗号電報が飛び交い、乗り気でない後藤に総裁就任を承諾させる画策をしている。後藤の性分を知る杉山の戦略が功を奏す。ところが、児玉が急死したことで、ことの顛末が後藤本人にばれてしまうのだ。怒る後藤をたしなめた杉山は「大改革の大事業」をなそうと約束を交わすのである。これなども、まるで芝居の一幕のように描いている。
 ところで杉山は、こんな意味の一文を書いている。芝居でも能楽でも華々しい場面に至るまでに俳優たちの苦心の芸があるからこそ、見どころを楽しめるのだ、と。
 なるほど。後藤と杉山は互いを認め合い、助け合い、親密な関係だったことは事実だが、案外、「苦心の芸」のウチは見せなかった名優(盟友)なのかもしれない。後藤が世を去った6年後、杉山は波乱の生涯を終えた。●

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 杉山茂丸と後藤新平、この二人の交際ぶり、その「濃密さ」を示す「場面」「風景」を

 杉山茂丸の回想に見てみよう。

 杉山著『俗戦国策』ー電車市有問題ー(書肆・心水版 p.499~511)から

 それを窺ってみるとこうなる。


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 ●電車市有問題  村上太三郎、小池国三君、深夜の訪れ (P.499~)

 <続く>
 




●後藤新平特集  『東京人』245号
 ●閑話休題 後藤新平

 『東京人』 245号。 特集 後藤新平。
 

 昨年あたりから、「生誕150年」ということで、後藤新平に関する著作の出版が相次いでいる。(代表的なのは、藤原書店の『〈決定版〉正伝 後藤新平』)

 雑誌『東京人』でも昨年の10月号(通巻245号)で、

生誕150年 後藤新平 という【特集】を組んでいる。 

編集後記(高橋栄一編集長)には概略、こうある。

 「・・・後藤新平が静かなブームになっており、藤原書店の関連書籍出版が一部のひとにインパクトを与えたが、後藤の知名度は依然高いとは言えない。
 台湾統治の中心的官僚という経歴が疎まれたのかも知れない。

 それなのになぜ特集したのかー。
 それは、現在の東京は彼の計画の上に成立しているという事実、今日の状況の中で、後藤という政治家を再評価することが実に大切におもわれるからです。

 知名度の低さは、(雑誌の)売れ行きに大きく影響するが、これを特集しなければ、東京人のレゾンデートルがない。そう考えてこの245号を「おとどけしました。・・・」

 「今日の状況」とは何かがいまひとつはっきりしないし、「東京人のレゾンデートル」とはまた大仰なと思いつつも、遅まきながら一応チェックしておく。

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 ●まず気づくのは、「特集」冒頭の【後藤新平略年譜】(編集部作成か)にも、p64~65の

 【お世話した人、された人】と題された交際録フローシート状のもの(川西崇行構成)の

 いずれにも★杉山茂丸の名を見ることが出来ないということである。

 不思議なことである。

 もっとも、直後のp70~73には、【「政界の黒幕」杉山茂丸との交友】と題した与那原恵の

 一文が配してあるが・・・。

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 橋本五郎は「人材登用の妙 午後三時頃の人間は使わない。」(p66~69)で大杉栄と

 後藤との不思議な交際の風景を取り上げている。

 大震災直後の混乱の中で虐殺されたアナキストである。その一方で、少なくとも「虐殺側」に極めて近い人物、後の敗戦―占領期には「マツテロ・ショーリキ」とGHQにマークされた当時の警察官僚・正力松太郎との交際も描く。

 「右も左も」とだけ済ませることがらだろうか、と疑問符を呈しておいて以下引用する。

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 ・・・「ビスマルクはかく言えり、『一に金、二に金、三に金』と。我は言う、『一に人、二に人、三に人』と」。
 後藤の有名な言葉である。それを言葉だけでなく実践した姿は浜口や新渡戸だけでなく、数多く見られる。その根底には何かあったのだろうか。

 ●優れた人間ならば、右も左も、出も問わず。

 後藤の女婿の鶴見祐輔は『正伝後藤新平』第五巻で、こう指摘している。後藤には「俺なら、どんな人間でも使いこなして見せる」という自信力があった。だから、近親者に「どんな人間でも使えるようでなくては、大きい仕事はできない」と語っていたと。
 元東京都副知事の青山氏は、後藤のこうした人材登用の背景には、自分自身が占領軍である官軍によって教育を受けさせてもらったという経験があったからだ、と指摘している(藤原書店編集部編『後藤新平の「仕事」』)。当時は、優れた人間であれば、どこの出身であろうともみんなで育てていこう、という気風が横溢していたというのである。

 後藤の太っ腹と公平に人物を見る目は、無政府主義者に対しても変わることはなかった。大杉栄(★1885-1923)の金の無心に応じたエピソードは、大杉自身が『自叙伝』で明らかにしている。
大杉はあらかじめ電話し、永田町にある内務大臣公邸に会いに行った。宴会から抜け出してきた後藤と大杉との間でこんなやりとりが交わされた。

 後藤「よくおいででした。私があなたに会って、いちばんさきに聞きたいと思っていたことは、どうしてあなたが今のような思想を持つようになったかです。どうです。ざっくばらんに一つ、その話をしてくれませんか」

 大杉「え、その話もしましょう。が、実は金が少々欲しいんです。もしいただければいただきたいと思って来たのです」

 後藤「あなたは実にいい頭をもって、そしていい腕をもっているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです」 

 大杉「政府が僕らの仕事のじゃまをするからです。政府へ無心にくるのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話はわかろうと思って来たんです」

 後藤「で、いくら欲しいんです」

 大杉「今急のところ三、四百円あればいいんです」

 無政府主義者と彼らを取り締まる立場の内務大臣が、こんな会話を交わせるとは一体どういうことなのだろう。後藤は「ようごわす、差しあげましょう」と三百円を渡した。その大杉が虐殺された時、後藤は閣議の席で顔を真っ赤に染めながら「人権蹂躙だ」と叫んだという。・・・

 ***************

 (続けて、橋本五郎は正力との交際風景をこう書く。)

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 正力松太郎(★1885-1969)への融通も心打たれる話である。警視庁警務部長だった正力は、大正12(1923)年に皇太子が狙撃された「虎ノ門事件」の責任をとって懲戒免官させられた。その正力に赤字の読売新聞を買わないかという話が持ち込まれた。ただし、すぐ10万円を揃えられるならばという条件付きだった。

 正力は伊豆長岡にいた後藤を訪ねて恩借を申し出た。後藤はしばし沈黙したあと、「よろしい。その金は引き受けた。いま手元にないが、2週間もすればできるだろう」と約束した。そして、こう付け加えた。
 「時に君、新聞経営というものは非常に難しいときいておる。もし失敗したらきれいに金は捨ててこい。 おれにその金は返さんでもいいからな」

 正力は後藤が親しくしている財界人から立て替えてもらったとばかり思っていた。ところが、後藤が亡くなって4年ほどたってから、長男から「あの金は親父が麻布の家屋敷を担保に工面したものだ」と打ち明けられた。男泣きに泣いた正力は、後藤の13回忌の際に、借りた10万円の倍である20万円を後藤の故郷岩手県水沢市に寄付した。この金で日本で最初の公民館が建てられた。

 このエピソードは、御厨貴編『時代の先覚者 後藤新平』(藤原書店)から引用した。この書には、後藤新平の魅力が余すところなく詰まっている。・・・以下略・・・

   続く 
 



●『日本の百年』(6)
『日本の百年』 (6) 震災にゆらぐ ちくま学芸文庫

 先ず、編者・今井清一による「解説」から。

 *************

 ・・・関東大震災は、一方では古いものを破壊して大衆の時代への傾向をいっそう促進したという面をもつとともに、他方では、それが朝鮮人・社会主義者の虐殺をまねき、さらにこれへの反撃としての虎の門の摂政狙撃事件とを引き起こすことで、不安の底流を増幅している。こうした意味で、関東大震災はこの時代の人びとの記憶になまなましい大事件であると同時に、やはり一つの時代の開幕を告げる転換点としてとらえることができるだろう。
 本巻では、第一部で関東大震災とその引き起こした諸事件を扱い、第二部で大衆の時代が生んだ社会や人間の変貌を取りあげ、第三部では、さきにのべた不安の要因を、政治・社会運動・外交の分野でとらえてみた。

 序章「震災と私」では、人びとの震災体験がその後の生き方にどのような刻印をきざみ、またそれを通じて時代の歩みにどう影響したのか、という問題をとらえようとした。震災そのものへの人びとの反応とその反応にたいする個人の反省ないし対応のさまざまなタイプは、つづく三部でとりあげる問題と対応し合っている。

 第一部「大震災の波紋」では、まず第一章「死者10万損害百億」で大震災と罹災者の実態とを素描した。東京だけについて言うと、震災の被害は1945年3月9-10日の東京大空襲のそれと、地域的にも、また規模のうえからも似かよっているが、震災と戦災とのちがい、また時代のちがいがわかる。第二章「流言・戒厳令・自警団」では、震災直後の朝鮮人人虐殺と社会主義者へのテロとを取りあげた。これらの事件では、権力者の意図と民衆の条件反射的な反応とがどんなふうに交錯しているのか、また権力者はどんな手口を用いたのか、という点をつきとめようとした。★しかし調べているうちに、まだ、そしておそらくはそのまま語られない真実が少なからず伏在していることを痛感した。たとえば、★大杉事件と陸軍の薩長間の派閥抗争とは、なんらかの形で結びついてはいないだろうか。本書に取りあげたほかにもいろいろな噂がある。ごぞんじのかたは記録として残されるようお願いしたい。・・・以下略・・***********

 次に 54.大杉殺し異説 より。(p164~165)

 *************

 甘柏公判の経過からみると、大杉殺害の責任は甘粕大尉一人のものではない、だが甘粕がその罪を一身にひっかぶったのだ、こういう推測も十分に成り立つだろう。だが、さらに一歩をすすめて、大杉を殺したのは甘粕ではないという説もある。
 甘粕は千葉刑務所で服役したが、★刑期10年のところを4年後の1927年秋には仮出所となった。夫人と2年間外遊したのち、満州国の要職につき、敗戦直後には、満州映画★理事長室で毒薬自殺をとげた。彼が満州でとぶ鳥落とすほどの権勢をふるったことは、軍部が彼に無実の罪をしょわせた負い目をもっている証拠だという人もある。

 ★なお、この時代の甘粕の動静については、●佐伯祐三調査報告 にも重要な記述がある。
  左のリンクから参照していただきたい。

 (★満洲映画協会(まんしゅうえいがきょうかい)は、満州国の国策映画会社。略称満映。1937年に設立。資本金は500万円(満州国と満鉄が50%づつ出資)。
 満映は映画の制作だけでなく、配給・映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。・・また、筆頭理事の根岸寛一によれば、『謀略の資金の多くは、彼(甘粕)の管理する満映からでていた』との証言もある。―ウイキペディアより。
 序に記しておくと、あの難波大助の縁戚で武装共産党時代の闘争に関わった大塚有章も満映で巡回映写に参加していた。) 

   
 荒畑寒村は、大杉とも堺利彦とも懇意だった池田藤四郎という人から、「大杉は麻布の第三連隊の営庭で将校に取り囲まれて拳銃で射殺されたんだ」、という異説を聞かされた。第三連隊の中尉かなにかである池田の甥の話だというのである。
 扼殺だという甘粕の自供と、銃殺だという池田の説のどちらが正しいかは、大杉の死体をみれば一目瞭然のはずだ。そこで荒畑は、大杉の死体を引き取ってきた「日比谷洋服店」の服部浜次に聞いてみた。だが服部の話では、三つの棺を引き渡されたが、なかはすっかり腐乱したうえに石灰がつめてあり、ほんとうのことをいえば、どれが誰の死体かさえ判らなかった、扼殺だとか銃殺だとか、とても見わけがつくものではない、ということだった。(荒畑寒村「大杉栄の思い出」、『自由思想研究』第1号)
 
 
 満州時代に甘粕の部下であるとともに親友でもあった武藤富男は、甘粕が前科者のの暗さをもっていなかったとして、甘粕が真犯人ではなかろうと推測した。(★武藤富男『満州国の断面』 1956年)

 ★満映の映画制作実績が上がらなかったため、国務院は甘粕正彦を2代目理事長に据え満映の改革に乗り出したとされる。甘粕事件で服役後、渡仏。さらに満州へ渡り満州国民生部警務司長などを務め協和会幹部の傍ら謀略機関の親玉として悪名を響かせていた甘粕を起用したのは武藤富男と岸信介とされる。
両者(武藤、岸)の本心は甘粕がその功績の割に報われていない点への配慮があったとされ、武藤は、日本屈指の映画人で理事の根岸寛一を呼び出すと了解を求め、根岸は暫く考えた後に「受け入れます」とだけ答えたとされる。(ウィキペディア)

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 大杉の震災前後―虐までの「日常」はこんな風だった。


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・・・それどころか、大杉は震災後は、さすがに落ちついて原稿も書けぬらしく、一日に何回となく、こどもを乳母車にのせて散歩にでかけるという、きわめてありきたりの生活を送っていた。また町内の夜警にも参加し、「社会主義者が火をつけろってから、来たらひっつら(ママ)まえてやろうと思ってる」などと、流言に皮肉な笑いさえうかべていた。

 それは、なにも魯庵だけの印象ではない。郷里、陸軍幼年学校を通して後輩だった松下芳男(1892一1983)は、ちょうど大杉が殺される前の日にたずねているが、彼の目撃した大杉一家も、平和な家庭であった。

 「大杉君は原稿書きに疲れて昼寝していたそうだが、しばらくして下りて来て、庭の籐椅子にかけた。
 『大杉さん、あなたはまだ生きていましたネ、ぼくはぽうぽうで、大杉栄の暗殺を聞きましたよ』と私が言うと、充血したような目をむき出して笑いながら、
 『ぼくはこのとおりさ、ぼくもたずねてくる人から「大杉栄の暗殺」を聞かされるけれども、どこかの大杉はやられても、この大杉はかくのごとくに健在さ、アハハハハ』
 とこともなげに言い放って、香の強い煙草を例のごとくスパスパやっていた。(略)
 そこへ野枝さんも出て来た。野枝さんは8月のはじめ長男ネストル君を産んでから、まだ1ヶ月そこそこのからだで、むろんその日まで外出はしてなかったそうで、そとの話はことに興がっていた。」

 話は、当然、そとの大杉栄論にゆきつく。松下が焼け跡のなかで聞いた話を紹介した。
 「『ぼくが7日ごろ、お茶の水付近を通った時、ぼくのうしろから鉄道省の制服をつけた2人づれの男がやってきて、鎌倉の地震のときの惨状を話していましたが、その1人がこんなことを言ってましたっけ。「なにしろ鎌倉には大杉栄という社会主義の親分か住んでいたので、乾分2、30人を指揮して、ずいぶんあばれたそうだよ」と。たくさん放火したと伝えらるるのも、たいがいはこんな類じゃないですかね』
 みんないっしょに供笑した。」(松下芳男「殺さるる前日の大杉君夫妻」、『改造』1923年11月)

 9月20日に福田戒厳司令官の更迭が発表されたことは、大杉殺害のうわさば事実らしいと思わせた。大杉の殺されたことが事実と判明すると、魯庵ははげしい怒りに燃えた。

当時美術学校に在学中だった長男の内田巌(1900-53)は、あとになって、その日の内田家の表情を、つぎのようにスケッチしている。

 「安成が報告にきてまもなく、魔子(大杉の娘)があそびにきた。魔子の姿をみると、母は走りよって魔子をだきかかえて『マコちゃんマコちゃん』と言って泣くのだった。魔子はあっけにとられていた。翌日、大杉虐殺の事件は新聞紙上に堂々と発表された。魔子が裏木戸からはいってきた。『お父ちゃんも母ちゃんも、宗ちゃんも殺されてしまったの』と言った。父は新聞をみながらぼろぼろと涙をこぼしたが、じっと耐えているようにみえた。母は泣いていた。そのうちに父は声をあげて泣きだした。そして二階へかけあがった。みな泣いていた。7歳の恵美子は自分のもっている千代紙や人形を不幸な友だち魔子にやってしまった。その翌晩母はチョコレートとビスケットをもって大杉家をおとずれた。しかし大杉の家を一歩出るとたんに刑事にひっぱられてしまった。『こどもさんが可哀想だからお菓子をもっていったのがどうして悪いのです』母は刑事にくってかかった。

 大杉のお通夜が村木源次郎以下の労働運動社の連中でもよおされた。山本実彦、小牧近江、安成二郎と父魯庵が同志外から参列した。数年前、山本実彦に会ったとき『大杉のお通夜のときの魯庵の姿ほど立派な姿を私は知らない』と彼は私に語った。山本実彦はじめ文化人は連名して当局に抗議した。父は文化にたいする兇暴なる弾圧にたいして、雑誌新聞に熱烈な文章をかかげた。淀橋署の特高が3日にあげずやってきた。(中略)

 私は、美術学校の教室でみなに『大杉殺害事件』について話した。私はラジカルになった。私ばかりではない。一時ではあったが、父も母もみなラジカルになった。」  (内田巌『絵画青春記』 1948年)

 魯庵がガマンならなかったのは、大杉への親近感からでもあったが、それ以上に、甘粕とそれをとりまく軍の態度だった。陸軍当局は、事件の発表当初から、事件は甘粕個人が起こしたもので、軍が関係していないことをしきりに強調し、甘粕を語るのに「古武士の風格がある」とか「模範的武人」とか「一点の非難のない人格者」とかと、最大級のホメ言葉をならべていた。だが実際は、どうか。
 
 「大杉の動静を偵察するに部下の兵を使役し、これがために3日間も公務をさいておる。かつ身みすから軍装をした憲兵大尉として部下の兵をともない、憲兵本部の名をもって大杉を拉致し、憲兵隊の自動車に乗せて憲兵本部まで連行し、本部の署内にて殺害して本部の構内に埋め、死骸を処理し遺物を焼葉するにまた部下の兵を使役しておる。個人として敢行したツモリであろうが、徹頭徹尾<官物>を利用し、官権を行使して、シカモ夜中とはいえ共謀者以外にかならず職員がいたろうと思われる公署の中で最後の処理までをおおぴらに遂行した。」

 これで果たして、甘粕個人のしわざといえるか。また甘粕が古武士のような男だったら、もっとちがったやり方があるはずではないか。・・・略・・・。(内田魯庵『大正大震火災誌』)

  続く。 
 



●八百長ゲーム
先ず、ひとつのエピソードから。

 「株屋」の弁護士と革命家

 金、金、金、金の世の中。この風潮は一部の成金や、それと交渉のある政治家などのあいだにだけあったわけではない。社会主義者荒畑寒村は、1921年(大正10年)ごろ、運動のための新聞発行の資金繰りに苦労していたが、そのころ出会った若き革命家・徳田球一のことをこう書いている。

「先だつものは資金である。私は当時、失業して社内に起臥しながら新聞の事務に当たっていた鍋山、花岡の2青年にいろいろな計画を語っては、誰か資金を出してくれる篤志家はいないものかなアと、まじめに嘆じたものだった。もっとも、運動資金を得られるかもしれない機会に、1度は見舞われないでもなかった。私は上京して山川(均)君に会った際、その水曜会に出入している徳田球一という男が、私に会いたいと言っている旨を告げられたので、銀座のカフェー・ライオンで会見した。彼はある株屋の顧問弁護士で、私の必要としている運動資金を出そうと言ったときは、渡りに舟の感を禁じ得なかったが、その出資の条件を聞くとあきれてしばらく口がきけなかった。彼は鐘紡にストライキを起こしてもらいたい、そうすれば株の変動に乗じてこっちはもうけるから、『一つギブ・アンド・テイクでいこうじゃありませんか』と言うのである。私はこれがとにもかくにも水曜会に出入して、社会主義理論の一端でも聞きかじっている人間のいうことかと、驚きかつ憤慨して立ち帰った。あとで知ったところでは、彼は私ばかりでなく、アナーキストの近藤憲二君にも同じ口をかけたという話で、まじめに相手にしなかったのは私としては上出来であったと言わなければならぬ。」(荒畑寒村『寒村自伝』 1961年)
 
荒畑寒村は徳球嫌いで有名だった。

 『寒村自伝』は岩波文庫で読める。

 ***************

 次は、『赤い楯』 広瀬隆 から。

 第一章の冒頭タイトルは、★ウォール街13日の金曜日 というもの。
 引用すると、

 「・・・18世紀末、ドイツのフランクフルトに誕生したロスチャイルド財閥は、人類の歴史上きわめて稀なことだが、今日の20世紀末を迎えてなお世界最大の財閥として地球上に君臨している。かつて栄華を誇ったフィレンツェソのメディチ家に取って代り、200年の歳月にわたって金融界の王者の座を守り続けてきた。それは、異常な支配力というほかない。しかもただの銀行家でなく、王室と全世界の独裁者を掌中に握り、商工業界に底知れぬ力をおよぼしているのである。
 しかしその2世紀のあいだ、ロスチャイルド家はたびたび危機に襲われてきた。とりわけ今世紀に入って地球全土を見舞ったファシズムの嵐のなかで、ユダヤ人絶滅のための蛮行がヨーロッバじゅうに展開されたあと、第二次世界大戦が終ってみれば「ユダヤのロスチャイルド財閥はすでに消滅した」と語られるほどの大打撃を受けた。ところが1960年代を迎えてその姿は不死鳥のように甦り、新大陸アメリカの金融王モルガン家と石油王ロックフェラー一家が手にした新兵器・原水爆に標的を絞ると、カナダ、オーストラリア、アフリカの三大陸にウランの鉱物資源を確保し、いまや原子力の最大財閥として王者の座を取り戻したのである。

 このロスチャイルド家は、かつてロシアの皇帝からヨーロッパすべての王室、皇帝ナポレ才ンー族までを動かしながら、一方で、誕生の地フランクフルトの本家は消滅してしまった。今日まで生き延びてきたのは、イギリスのロンドンとフランスのパリにあるロスチャイルド家だけである。しかし1989年末、ベルリンの壁崩壊と同時に、発祥の地ドイツ・フランクフルトに「ロスチャイルド銀行」が復活すると金融界に衝撃のニュースが伝えられた。ヨーロッパの統合が、いまや最強の通貨ドイツ・マルクによって演じられ、その中心的な役割を果たすのがロスチャイルド銀行になろうとしているのであろうか。この発表の直後、ドイツの軍事力と全産業を支配するドイツ銀行の頭取ヘルハウゼンが爆殺された。

 ロスチャイルド家に関する数々の書物は、18世紀から王国を誕生させた波瀾と栄華の物語を描いてきた。しかしなぜか、第二次大戦後のロスチャイルドについては、ほとんど詳細な資料がない。それは言うまでもなく、ロスチャイルド財閥について調べることが【反ユダヤ主義】の空気を醸成し、再び悪夢の歴史を繰り返すからである。

 最近のニューヨーク・ウォール街の動きに注目してみれば分る。
 今世紀に起こった3度のウォール街大暴落は、【暗黒の木曜日】(1929年10月24日)、「」ブラック・マンデー】(1997年10月19日)、【13日の金曜日】(1989年10月13日)と、いずれも曜日で呼ばれ、不思議なことにいずれも10月に発生している。

【暗黒の木曜日】は、その後の恐慌と失業者の大量発生から、ファシズムの台頭、世界大戦へと発展する重大なものであった。これに対して1980年代の【ブラック・マンデー】と【13日の金曜日】は、ここ数年来の異常な投機ブームによるもので、一過性のものと見られているが、その火付け役となった買収合戦で主役を演じてきた男たちのなかでも、ルパート・マードック、アイヴァソ・ボウスキー、カール・アイカーン、カール・ポーラド、サウル・スタインバーグ、T・ブーン・ピケンズ、アーウィン・ジェイコブス、そしてわがジェームズ・ゴールドスミスらが特に名指しで挙げられる大物の乗っ取り屋と投機屋である。大物とは、アメリカの財界紙など、がマークしている人物で、大きな企業買収の裏には必ずこれらの男が隠れているという。

 ひそかに株を買い占めるには、大きな投資銀行が動くより、現金を持つこれらの財政家が部下を使って敏捷に、買収の素振りも見せずに取引きするほうが成功率は高い。マイケル・ダグラスが主演した『ウオール街』という作品に描かれた裏取引きの世界は誇張でなく、むしろ控え目なシナリオであったことが現実のギャンブラーの私生活から窺える。
 しかし世界はこれら8人の黒幕について、どれほどの事実を知っているのであろうか。

マードックは【マスコミ界の乗っ取り王】のひと言で片付けられているが、この男がどこから大金を入手して次々と新聞社や放送局を買収しているかについて、問題の財源が明らかにされたことはない。本名キース・ルパート・マードック、このマスコミ界の革命児は、イギリスの権威とも言うべきタイムズ紙を買収して世界を驚かせ、一方では女性のトップレス写真によってサン紙を最も人気ある新聞に仕立てあげたオーストラリアの男だが、この大陸はゴールドラッシュに沸く金塊の国である。かつてこの国にウイリアム・マードックというクリケットの名選手が活躍していたが、金鉱のオーナーである大富豪の娘と結婚していた。それは19世紀末の話である。・・・中略・・・

以上が、ユダヤ人の冤罪を生み出すトリックである。ここに8人を紹介し、そこには事実しか書かれていない。そのため、すでに読者の頭のなかに漠然と描かれたユダヤ人の投機屋のおそろしさは拭い難いものとなっているであろう。これが危険の第一歩となる。冷静に文章を再び読み直していただけば、実はロスチャイルド家とユダヤ人を混同した疑惑ばかりで構成されていることにお気づきのはずである。系図による証明もなしにドレフュス商会とドレフュス事件をユダヤ人の姓として結びつける作業こそ、ドレフュス事件の本質となった反ユダヤ主義の落とし穴である。

 これから歴史を解読し、ロスチャイルド財閥の真の実力を知ろうという時に、このような分析は意味がない。事実は疑惑を生み出すが、それでは充分ではない。事実は証明されてはじめて結論を導くものである。
 ロスチャイルド財閥とユダヤ人を混同しないようにするには、ひとりずつを丹念にルーツまで調べ、系図を描いてゆくほかない。ここに紹介した8人のウォール街の投機屋は、確かにロスチャイルド財閥として一体となって活動している可能性はある。しかしこれはあくまで可能性であって、調査に着手するための動機にすぎない。
 8人の投機屋を紹介したのは、ひょっとして読者が、この文脈のなかでユダヤ人の力を過大に評価する可能性があり、今日まだ流布しているいかがわしいユダヤ陰謀説にとらわれるよう、仕組んでみたのである。なぜなら、この手法によってナチスは一時的に成功を収め、大変な世界に人類を連れこんだからである。
 われわれがユダヤ人問題を語る時には、まず最初に必ず次のような道を通る。
 
チェ・ゲバラとマルクスはユダヤ人だった。フランスの自動車王シトロエンも南アのダイヤ王オッペンハイマーもユダヤ人だった。メンデルスゾーン、ハイフェッツ、オイストラッフ、アインシュタイン、フロイト、コッホ、ワックスマン、サルトル、ハイネ、ジイド、パステルナーク、カフカ、マン、プルース卜・・・フリッツ・クライスラー、ブルーノ・ワルター、ジョージ・ガーシュイン、レナード・バーンシュタイン、ウラジミール・ホロヴィッツ、リチャード・ロジャース、アイザック・スターン・・・ピサロ、シャガール、モジリアニ、そしてハリウッド映画を創設したほとんどのプロデューサー、チャップリン、マルクス兄弟、ピューリッツァー、ロバート・キャパ、ビリー・ワイルダー、ウィリアム・ワイラー、アーサー・ミラー、ノーマン・メイラー、ロバート・ワイズ、ポール・ニューマン、ダスティン・ホフマン、力-ク・ダグラス・・・

一体ここに何の意味があるかと言えば、何もない。共通点がないことの証明のようなものだ。しかしこう書き出されると、ほとんどの人間は内心で驚くのである。ここに書き出されなかった人間のほうがはるかに多いことに気づかず、ユダヤ人に対する先入観をもって眺めたがる。ユダヤ人エディ・フィッシャーと結婚し、ユダヤ教に改宗した体験を持つ女優エリザベス・テイラーもユダヤ人に数えられることがある。つまりユダヤ人という定義ほど曖昧なものはない。

 先にあげた著名人にしても、何をもって彼らをユダヤ人として定義したのか、誰も答えられない。おそらくユダヤ教だろう。しかしよく調べてみると、イギリス家3代目当主ライオネル・ロスチャイルド自身が、カトリック教を体験したことがある。イギリス議会でユダヤ教典の旧約聖書を取り出してキリスト教に抵抗し、波瀾を起こしたライオネル本人が、である。
 このライオネルの姪ハンナの結婚相手は、第二次大戦の開戦から実にちょうど100年前の1839年に、すでにプロテスタントのサザンプトン伯爵の息子ヘンリー・フィッツロイである。フランス家5代目当主ギイ・ド・ロスチャイルドもプロテスタントの女性と結婚している。先入観とはおそろしいものだ。よく分らないが、そうだと思い込まされてしまう。

 本書では、ユダヤ人迫害がない自由な空気のなかでユダヤ教徒が自分をユダヤ人であると定義する範囲に限定して、その人たちをユダヤ人と呼ぶことにする。つまり本人が誇りをもって「自分は・・・人だ」と語るのは、地球上のすべての人間に許されるからだ。
 ユダヤ人迫害の空気があれば、話しは別である。人格を民族や血によって定義するほど馬鹿げたことはない。どこにも悪い奴はいるのだから、先入観は禁物である。

 本書の解析の目的が、【ユダヤ人】ではなく、【ロスチャイルド家】と【ロスチャイルド財閥】であることを明確にしておきたい。

ロスチャイルド財閥には、ユダヤ教と対立してきたキリスト教だけでなく、全世界の宗教が含まれてくる。最も激しい敵対関係にあるはずのアラブ・イスラム世界に目を転じると、アラブ・プリヴェ銀行の経営者は、わがジェームズ・ゴールドスミスの30年来のビジネス・パートナーである。アラブ投資銀行の重役室にも、ロスチャイルド家の人間が坐っている。仏教界のアジアでは、東インド会社によって引き起こされたアヘン戦争の時代から今日まで、読者の口に入る紅茶、コーヒー、酒類の多くが香港やシンガポールを中継点としてわが国に流れ込んできたが、ここを取り仕切る最大の勢力がロスチャイルド財閥である。
  
 ロスチャイルド家のジェームズ・ゴールドスミスの言葉を紹介しよう。
「私は、ユダヤ人に対する時はカトリックである。カトリックに対する時はユダヤ人である」
 通常は、ユダヤ人に対してユダヤ人、カトリックに対してカトリックになる、と言うであろう。だがゴールドスミス=ロスチャイルド家の感覚は、このように研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、ひとたび重要な局面を迎えれば外界と一線を画して独立し、わがファミリーの利益と支配力を強固な壁で守り続けるために無数の力が結集する。一方で思索の方法は驚くほど沈着冷静で、全体としては大河の流れのごとく持続性を誇っている。もしこの徹底した金銭欲がなければ、ロスチャイルド家は前世紀に消滅していたであろうし、悪魔的な魅力もない。

 J・ゴールドスミスは、1980年代にウォール街を2度にわたって襲った暴落でなぜかますます資産を肥やしてきた。暴落の兆候を本能的に嗅ぎとる能力を持つと言われるが、逆に、相場を崩壊させるほどの組織力を持つのがこの集団である。
 J・ゴールドスミスひとりの財産が、表面に見えるだけで数千億円を超えると評価されているが、これは海上に浮かぶ氷山の一角である。海中にはどれほど巨大なロスチャイルド家の氷塊が隠れているか、想像もできない。
 18世紀末、ドイツのフランクフルトに誕生したロスチャイルド家が、今日までの200年間をどのように生き、あたかも網の目のように細かく、まるで地球を包み込むように広く門閥を編みあげたか、その実態をたどってみよう。・・・

 以下、「執念」の記述と「系図」が最終章(第4章 最後の隠れ家)まで続く。

 はじめに引用した荒畑寒村の「回想」は一見肯定されやすい倫理で結構なものだろう。ただし、「公平な競争」という「ありもしない」条件を満たせばと付け加えておけば。・・・


戦後の出発点、円=ドルのレート360円はどうやって決定されたのか?

現在、金の価格はどういうメンバーがどんな方法で決定しているのか?

8兆円という莫大な金額の我々の「血税」が注ぎ込まれた、「長銀」がわずか10億円でリップルウッドというアメリカの投資ファンドに売却されたのはなぜか?

主犯・小泉純一郎という男の「改革者」面の裏に隠されているものは何か?

バブルの発生~崩壊、日本経済崩壊に一貫して携わってきた主犯・福井俊彦が日銀総裁に居座れたのは何故なのか?「改革者」・小泉が福井の総裁就任を「阻止」できなかったのは何故なのか?

2003年、りそな銀行の闇=「りそな処分」の主犯は誰か?
いまだに、真相は究明されてはいない。

真相は究明されるべきである。

相変わらず毎日報道されている「税金」の私物化は枚挙に暇がないが、その原因の主なひとつは、われわれの「真相追究」の努力不足にあることは間違いない。

<参考> 左のカテゴリーから 植草一秀の一連の論考 をどうぞ。 
   

 ニューヨークタイムズ等マスコミでは、一方の<大統領候補の暗殺>への懸念が

 取り沙汰されている。

 相変わらず、底の浅い国に成り果てたままのようだ、アメリカは。





●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15-3
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15   
   薩摩ワンワールド総長・高島鞆之助の代理人こそ杉山茂丸


 ●興業銀行設立運動に奔走し、モルガンに容易に会えた訳


 黒田藩士・金子堅太郎は嘉永六(1853)年生まれ、杉山の10歳年上である。藩校・修猷館を出て明治4年、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知に随行して米国に留学、ハーバード大学法学部に学び、法学士の学位と大勢の米人知友を得て、11年に帰国した。この経歴が意味するものを、諸賢はまず考えて戴きたい。帰国後の金子は、元老院・権大書記官などの後、18年に伊藤内閣の総理大臣秘書官となり、翌年には井上毅、伊東巳代治と共に明治憲法を起草した。その後、貴族院書記官長などを経て、27年1月から第二次伊藤内閣の農商務相・榎本武揚の下で次官に就いたが、30年4月、榎本の下野と同時に辞職する。首相秘書官として伊藤博文に親灸した金子は、憲法起草に加わったことからも伊藤派の官僚政治家のイメージが強いが、その一面、黒田藩による政治結社玄洋社の「隠れ総長」だったことは知られていない。

 金子農商務次官に協力して、「興業銀行」の設立に奔走したのが杉山である。

 興業銀行とは、産業振興を目的とする銀行の一般名称で、明治22年に第一次山県内閣の蔵相・松方正義が産業振興のための銀行設立を構想した時、興業銀行の仮称を用いたことに因る。
 産業分野の実状に応じて、農業、軽工業を対象とした勧業銀行と、重工業を対象とした工業銀行とがあるが、その何れを優先さすべきかが課題で、工業分野を優先すべきと考えた杉山は、農工業への融資を重んじる松方蔵相と数度にわたり論争を重ねた。松方はしかし、勧業銀行の優先を決断し、特殊銀行として日本勧業銀行が30年7月設立され翌年開業した。

 財政の神様と称され首相経験もある松方が国際金融帝国の日本側首席であったことは容易に推察できよう。その松方が、己の専門分野に関して、33歳の一浪人に耳を貸したのは、背後の声を聞いていたのである。折から近代的製鉄所の開設を期待する声が高まり、金子農商務次官は、製鉄事業調査会委員長としてアメリカ工業会の実情を知る必要があり、一方で松方首相から工業銀行の必要性をも聞いており、海外の経済事情に通じた杉山と論議することが多かった。

 問題はなぜ杉山がそこまで国際金融・経済事情に通じていたかである。諸賢もそろそろ真相を感づかれたであろう。

 金子の願望に応えて、米国工業界の実情調査のために渡米を計画した杉山は、30年9月、長州人の豪商・藤田伝三郎の経済的支援で渡米し、米国工業資本の事情を視察して11月に帰国する。そのとき米国から持ち帰った資料が後のハ幡製鉄所の開業に繋がる。翌年、重工業融資を行う興業銀行(工業銀行)設立の調査のため再び渡米する杉山に、金子はモルガン商会の法律顧問・ゼニング宛の紹介状を与え、通訳として神埼直三を随行させた。31年初頭に渡米した杉山は、米国金融王J・P・モルガンと単独面会、興業銀行設立の計画を話し、低金利外資導入の希望を述べた。モルガンは5つの条件を出す。第1は、政府保証債券を発行すること。第2は金額で、1億から1.3億ドル。第3は貸付期限で、50年。第4は貸出利息の上限を5%とすること。最後はモルガンの金利を3.5%とし、興業銀行の利鞘は1.5%以下というものであった。


 31年4月に帰国した杉山は、直ちに興業銀行の設立を討議する。米国でモルガンとのやり取りの後、タイプ打ちされた契約内容のメモを第三次伊藤内閣に提出し、これが興業銀行設立の資料となった。杉山がかくも易々とモルガンに会えた背景こそ考究すべきものであろう。
 フリー百科事典「ウィキペディア」には(ママ)「杉山の興業銀行設立運動は、伊藤博文と井上馨の支持を得たが、議会の混乱のためになかなか通過せず、明治33年になり日本興業銀行法は成立したが、モルガンからの外資導入は貴族院に否決された。同31年(1898)に第4代台湾総督に陸軍大将(ママ)児玉源太郎が就任し、民政長官に後藤新平を就けると、杉山は両人に対して製糖業の振興による台湾経済の確立を献策し、自ら製糖会社の設立に携わった。また台湾銀行の創設や台湾縦断鉄道の建設にも関与したといわれる」と解説する。

 しかし、帝国の国策および台湾政策の根幹に関わる右(上)の行動を、杉山がいかなる地歩において行ったのか、史家の説明を見たことはない。もし夫れ、本稿が「杉山は、薩摩ワンワールドの総長・高島の代理人としてそれを行った」と言えば、諸賢は否定なさるだろうか。

     
(以下次号)
 
 
 ★なお、この関連の杉山茂丸・『俗戦国策』の紹介は、1月25-26日にアップしています。
 
 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15   
   薩摩ワンワールド総長・高島鞆之助の代理人こそ杉山茂丸

 ●定説と矛盾する新資料が背負う運命と検証の困難

 巷説、台湾経営の成功は児玉総督、後藤民政長官のコンビに負うと言う が、真相はどうか。

 本稿が紹介した堀雅昭『杉山茂丸伝』は、★「其日庵資料館」というところから、筆者の想像による部分が多いとして、批判を受けている。しか   し一般論として言えば、既公開の資料はおよそ遺族ら関係者に都合の良い もので、言い換えれば、遺族・関係者らが公開資料を私物視して、史   実の解釈を独占しすぎるきらいがある。

 
 [註] ★「其日庵資料館」は次からどうぞ。(←左のリンク先からも)
    ●其日庵資料館  http://www1.kcn.ne.jp/~orio/sonohi-an/sonohian_idx.html
    ★虚構と妄言の偽伝 -「杉山茂丸伝」批評-
      http://www1.kcn.ne.jp/~orio/sonohi-an/shohyo002.html
      日付は、2006年2月5日となっている。 
  
 
 好例は画家佐伯祐三で、従来の公開資料なるものは、祐三生前から作品に加筆していた米子未亡人が、亡夫の画業の真相を隠すために広めた虚説に符合する資料の集成である。西本願寺の末寺・光徳寺に生まれた佐伯は、北野中学以来ずっと大谷光瑞の諜者であったが、自身がそのことを□にしなかったのは当然で、実家でも兄・祐正以外はそれを知らず、公開資料にも「諜者一件」を示唆するものは一切含まれていない。こうした状況の中で、定説と矛盾する新資料が出ると、関係者はまず感情問題に因われ、新資料を容認しないのが一般的性向である。佐伯の真相を追究した私はそれを実感したが、本誌から新発見の資料『周蔵手記』を解読・解説する場を与えられ、巷間一定の理解を得るに至ったのは希有のことで、ありがたい。

 堀の前掲著は、新資料の発見というより、公開資料を検討した上で新しい杉山観を打ち出したものである。検証作業が必ずしも充分ではない中で、杉山を暗殺魔なぞと断ずれば、遺族・関係者の感情を逆撫ぜするのは当然で、細かい点では批判を受けとめるべき部分もあろう。しかし関係者は従来、杉山の遺した資料をひたすら奉るだけで、大策士だの超フィクサーだのと怪物視するに終始し、当時の日本社会の真相に即した立体的な解読を志さなかったきらいがある。これに対し堀氏の説は、従来の杉山観を改める契機を提供したものとして注目される。尤も、杉山側からすべてを見た一面性には注意すべきである。

 ●台湾経営の根本を策定、成功に導いたのは・・・

 明治25年8月、児玉源太郎は欧州から帰国の船中で、高島陸相の辞任に接した。新任次官の児玉が前陸相に挨拶に伺ったのは、突然の辞任のため高島がまだ居すわっていた陸相官邸であった。4年後の明治29年9月、高島は再び陸相に就くが、陸軍次官は依然児玉であった。第二次松方内閣は、台湾経営に莫大な国庫補助金を傾けたとして31年1月を以て崩壊、第三次伊藤内閣が成立し、蔵相も松方から井上馨に代わる。高島は陸相を解任されて予備役編入、同時に児玉次官も第三師団長に転じるが、翌月乃木総督が休職するや総督に補せられた児玉は、内務省衛生局長の後藤新平を抜擢して3月に民政局長、6月には民政長官にした。

 堀前掲著は述べる。「台湾経営の成功は児王源太郎(台湾総督)と後藤新平(民政長官)の裏側に杉山茂丸がいたからだといわれている。当時を知る陸軍中将の堀内文次郎によれば、茂丸と児玉とは異体同心だったということだ。茂丸の意見はことごとく児玉に採用された。というより、茂丸の考えに児玉が従う形で台湾経営が行われたといってよかった」。この言は蓋し耳目を欹てる。スキー界の先人として有名な堀内は、宇都宮太郎大将と同期の士官生徒7期で、31年合湾総督副官となり、台湾文庫の前身たる台北図書館の発起人に名を連ねた。

 「台湾経営については杉山が児玉を指導していた」との堀の指摘は正しいが、ここで止まってしまうと、「其日庵資料館」のみならず、一般の児玉・後藤ファンからも、「そんな馬鹿な」との批判に会う。それはしかし、杉山の背後勢力を推量しないからで、本稿のごとく高島鞆之助の側から観れば、たとい文献資料が見当たらなくとも真相を洞察することは難しくない。つまり「6年前に陸相官邸で児玉を杉山に引き合わせた高島が、ずっと杉山の裏で糸を引いていた」と観るべきだが、その逆に「杉山こそ日本ワンワールドの中心で、児玉は勿論、薩摩ワンワールド総長高島さえも、杉山が糸を引いていた」との仮説も成り立つ。いずれが正鵠を得たるか、究極的には後の仮説が正しいと思えるが、当面は★高島主体の仮説を進めていく。
  

  堀説のみならず台湾経営に関する所説は多数あるが、どれにも高島の名を見ることはない。しかし高島は、29年4月から30年9月まで拓殖務相に就き、台湾経営の最高責任者として樺山総督とともに、台湾治政の柱として官業政策を練ったことは間違いない。二人は薩摩藩士として薩摩藩の特産品専売政策に通じており、台湾特産の砂糖・樟脳、および島民間に需要の多い阿片と煙草に注目して、専売政策を練ったのである。29年6月に樺山と交替した桂太郎は短期間の腰掛けで、実際は赴任せず、乃木希典が29年10月から31年2月まで第三代総督に就く。桂の後任に乃木を推挙したのは、折しも総督府の監督役で、乃木の大阪時代の上官だった高島の可能性が高い。桂・乃木時代の台湾行政は、ゲリラ討伐に明け暮れて実績に乏しいと評されるが、30年に阿片、32年に樟脳と食塩について専売制度を実施した。台湾専売制度の根幹は、右の経緯を見ると、高島が立て乃木はその路線に忠実に従ったものと分かる。


 31年1月に陸軍次官から第三師団長に転じた児玉は、わずか1ケ月で乃木の後の合湾総督になるが、この人事も、数か月前まで陸相として児玉の上司であった高島が推薦した可能性が高い。24年10月からの欧州出張で、ワンワールド最高首脳にお目見えしてきた(と思われる)児玉は、高島の背景を十分理解していた。挨拶に行った陸相官舎で、児玉が高島から杉山を紹介されたのは、決して偶然でない。二人はしだいに接近し、やがて杉山の指示通りに、児玉が(後勝新平を使って)台湾経営を実行していくのである。 

 
 それにしても、高島はなぜ自ら敷いた台湾行政の後事を、乃木・児玉ら長州勢に託したか。敢えて疑えば、薩摩ワンワールドはこの頃から、軍政や内務行政など表面的権力を長州勢に譲り、自らはワンワールド流に「隠れ長老」を決め込んだものと思う。そこで、薩摩長老の意を受けて長州権力との間を周旋したのが若干30代の杉山茂丸であった。なぜ杉山がその役割を担ったのか。それが明治史最大の研究課題だが、鍵は龍造寺家にある(後稿で述べる)。

 
 **************

 ●閑話休題

 2月14日の記事で、
 [傑作★『犬神博士』より。]と題して、次のように紹介した。

 ・・・興味深いのは、ここ(夢野の『犬神博士』)で示されている、玄洋社の楢山(頭山)と安場の交際の「印象風景 描写」=「場面描写」の見事さである。・・・以下略。

 これと全くと言っていいほど同様な「脅し」といって支障があれば「圧迫」を、日露開戦ムードのたかまるなか、頭山(当時48歳)は、伊藤博文に向かって仕掛けている。

 黒竜会編『東亜先覚志士記伝・上』の当該部を紹介すれば、次のようである。

 ・・・頭山はまたズイと椅子を進めて、伊藤公に向かい『伊藤さん、あんたはいま日本で誰が一番偉いと思いますか』と意外きわまる一問を放った。
 明治政界の第一人者として、われも許し人も許す伊藤公も、この意外なる質問にたいしてはただちに答えることも出来ず、しばらく躊躇逡巡していると、頭山は粛然と襟を正し、『おそれながら、それは天皇陛下に渡らせられるでしょう』と言った。
 荘重なるその一語に一座襟を正すうち、頭山はさらに『次に人臣中では誰が一番偉いと思いますか』と二の矢を放ち、伊藤公が黙して頭山の顔を見守っていると、『それは、あんたでしょう』と唸く(うめく)がごとくに言い放ち、『そのあんたが』と厳然として辞色きびしく『この際しっかりして下さらんと困りますぞ』と圧しつけるごとく言い放った。
 ここにおいて伊藤公もはじめて胸襟をひらいて頭山らの意見を迎え、ついに『その儀ならばご心配下さるな、諸君のご意志のあるところは、確かに伊藤が引き受けました』と断言した。
 頭山は『それだけうけたまわればもうよろしい、サア、皆さん帰ろう』と河野ら(対露同志会の面々)をうながしてゆうゆうと辞し去った。

 





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