カウンター 読書日記 2008年02月
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15-1   
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15  落合莞爾

 ●薩摩ワンワールド総長・高島鞆之助の代理人こそ杉山茂丸


 ●陸相官邸で杉山茂丸に児玉源太郎を紹介する

 高島鞆之助が陸相を辞任したのは、明治25年8月8日であった。そ  の10日後に欧州出張から帰朝した陸軍少将児玉源太郎は8月23日付 で陸軍次官となり、以後は陸軍省の部長・局長を兼務しながら大山巌・西郷従道・山県有朋に再び大山と、四代の陸相に仕えて日清役の戦務を果たした。予備役入りした高島は枢密顧問官たること3年有余、29年4月に新設された拓殖務省の大臣を伊藤博文から頼まれ、政界に復帰した。
これを待っていた大山は、9月18日の第二次松方内閣成立を機に陸相を辞任し、後釜に高島を据えた(拓殖務相兼任)。児玉は高島にも仕えて次官在任5年半、31年1月に名古屋第三師団長に転じた。この間、29年10月に中将に進級している。

 堀雅昭『杉山茂丸伝』によれば、明治32年頃から向島の児玉元別邸に住んで、其日庵と号した杉山茂丸は、児玉の没後邸内に児玉神社を建て、また大正7年に『児玉大将伝』を著したほどで、児玉との関係が深かったが、『九州日報』大正7年7月15日号所載の「其日庵過去帳」で、「自分に児玉を紹介したのは高島鞆之助で、場所は陸相官邸、児玉が次官の時であった」と語っている。その時期を堀は、「おそらくそれは第一次松方内閣から第二次伊藤内閣に変わる明治25年8月前後の話であろう」と推定する。「其日庵過去帳」の表現では、児玉との初会は高島と児玉が大臣・次官だった時期(29年9月~31年1月)とも取れるし、春帆楼の日清講和談判は28年3月だから前後が矛盾するが、堀の推定は正しい。つまり、25年8月8日に高島が陸相を突然辞任、その10日後に帰朝した児玉は、ほどなく高島前陸相に挨拶に行くが、その場所は、急な辞任のために高島一家の引揚げが遅れていた陸相官邸と考えられるからである。文言通り解釈すれば、児玉が次官に就任した8月23日より後となるが、そこまで正確を期すべきものでもない。ともかくニ人はこの時知り合うが、杉山が陸相官邸に居合わせたのは偶然ではなく、高島が児玉を紹介するために呼び出したものと思う。
同年秋、29歳の杉山は外相陸奥宗光に面会を求め、伊藤首相の非戦論を批判して日清の早期開戦を訴えた(堀前掲著)。

 萄も外相たるものが一浪人に会い、その言に耳を傾けた理由は杉山の背後に存在する勢力を意識していたからに他ならない。後日、春帆楼談判の時、杉山は外相宿舎の大吉楼で陸奥と同宿していた(堀前掲著)が、かかる重大時期に、外相が一民間人に同宿を許すごときは普通ではない。陸奥もまた杉山と同じ勢力に加わっていたのである。同宿の目的は、背後勢力の指令を受けて陸奥を監視し、講和条件を探るためである。果たして杉山は、遼東半島割譲要求の陸奥案に反対して談判妨害を企て、ために李鴻章暗殺未遂の黒幕との嫌疑をかけられた。「その後、日清戦争が終わって暫くしたとき、下関の春帆楼で再会して旧交を温めあうが、この頃から二人は親しくなっていく」と堀は曰うが、日清談判を見守っていた児玉少将と下関で再会し、旧交を温めたというのは、杉山のホラではない。二人は2年半前に高島から紹介されたが、その後会う機会もなく、下関に来てから「旧交を温め、この頃から二人は親しくなっていく」わけだ。児玉陸軍次官が一介の青年と親交するに至る素地を整えたのは、杉山の背後勢力で、二人を紹介した高島鞆之助も当然それに加わっていた。敢えてその名をいえばワンワールドである。

 ●第二次路線変更のためにワンワールド総長に復帰

 日清戦争後、新領土となった台湾に総督府が置かれ、明治28年5月、海軍大将樺山資紀が初代総督に補せられる。樺山は陸軍少佐だった明治5年、陸軍に上申して自ら台湾に渡り、地誌人情を調査した経験があり、台湾事情に精通していた。8月、陸軍中将高島鞆之助を副総督に迎えて土匪平定を任せた樺山は、早くも同月「南北縦貫鉄道の施設」「基隆築港」「道路開墾」の三点を政府に建議した。台湾鉄道株式会社は29年5月5日、渋沢栄一、安場保和らが発起人となり、総督府に創立を出願するが、戦後不況で株式募集は進まない。32年11月台湾総督府鉄道部が設置され、政府公債による官営鉄道として台湾縦貫鉄道が41年11月に全通する。

 台湾は世界的な樟脳の産地である。樟脳専売制による薩摩藩の巨大な利益を知っていた樺山と高島は早くも樟脳製造事業に注目し、28年10月「官有林野及樟脳製造業取締規則」を制定、樟脳製造には総督府の官許を要することとした。
29年4月、伊藤内閣は台湾総督府を監督する拓殖務省を新設し、初代大臣を高島鞆之助に嘱した。以後、樺山・高島のコンビは総督・副総督から大臣・総督に形を変えて存続する。

 以下は私見だが、25年8月に高島が予備役編入して第一線を去ったのは、前年に逝去した吉井友実の後を継ぎ、薩摩ワンワールドの総長に就くためであった。その高島が、盟友樺山総督の依頼とはいえ現役復帰して副総督に就任したのは、明らかな路線変更であった。これは薩摩ワンワールドが台湾政策の掌握を最重要視したからで、そのため高島は拓殖務相にも就き、政界へ再登場する。その後陸相を兼任するのも、松方・樺山ら薩摩ワンワールド長老の懇望による第二次路線変更であった。

 金本位制を確立した第二次松方内閣は自壊、第三次伊藤内閣に替わった31年1月、桂太郎に追われる形で陸相を辞した高島の本意は、薩摩ワンワールドの領袖川上操六を参謀総長にして陸軍の後事を託し、自らは再び薩摩ワンワールド総長に専心したのである。そこへ川上の急死で、事情を知らぬ陸軍少壮軍人の間に高島再起論が沸き起こり、高島参謀総長を実現すべく宇都宮太郎大尉らが「起高作戦」を開始したが、結局実現しなかった(後稿で述べる)。その後、大正初年の憲政擁護運動の折に、尾崎咢堂が「政友会内閣の首相に高島を」と叫んだことさえある。この間、本人が常に落莫を装い再起を促す動きに対して満更でない姿勢を示したのは実は「めくらまし」で、世間はまんまと惑わされたのである。

 


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●メモ・西田信春
●西田信春に関してのメモ。 
 


 「アカハタ」には次のようにありますが、西田の入党が★1927年となっています。
 根拠は何なのでしょうか。

 また、[★これが判明したのは戦後になってからで、★57年4月16日付「アカハタ」は「二十数年ぶりに判る―故西田信春氏虐殺当時の模様」を掲載。一緒に活動した佐伯新一氏の「細かい思いやりのある同志だった」との回想が記事中にあります。]ともあり、後刻あたってみたいと思います。

 ★上の57年4月16日付け「アカハタ」・・・は、前記<石堂清倫業績目録・略年譜>によると、[1957年5.7 同志西田信春のこと、『アカハタ』2269号]とある。

 *************

 戦争に反対し殺された西田信春って?
 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-10/ftpfaq12_01.html

 〈問い〉 戦前、小林多喜二と同じころ、特高に殺された西田信春という青年がいたと聞きました。どんな人ですか?(北海道・一読者)


 〈答え〉 60年前の戦前の時代、戦争反対や主権在民を言うことは、大変、勇気がいることでした。天皇制政府は「特別高等警察」(特高)という専門の警察網を敷き、戦争反対の先頭に立った日本共産党員らを残酷に迫害しました。命を落とした人は判明分だけで1690人前後にのぼります。

 小林多喜二が死んだ9日前の1933年2月11日、特高に殺された西田信春(のぶはる)も反戦平和のために生涯をささげた一人です。

 西田は1903年、北海道・新十津川村に生まれ、東大在学中に社会科学研究会に参加、卒業後、全日本鉄道従業員組合本部書記になり、★27年、日本共産党に入党。32年、党再建のために九州に行き、九州地方委員会を確立し委員長になります。翌33年2月11日「九州地方空前の共産党大検挙」(検挙者508人)と報じられた弾圧の前日、検挙され、福岡署で殺されました。30歳の若さでした。★これが判明したのは戦後になってからで、57年4月16日付「アカハタ」は「二十数年ぶりに判る―故西田信春氏虐殺当時の模様」を掲載。一緒に活動した佐伯新一氏の「細かい思いやりのある同志だった」との回想が記事中にあります。

 当時、九大医学部助手だった石橋無事氏は、氏名不詳の男の鑑定書を書いた思い出を次のように記しています。

 「それが東大新人会の共産党員西田信春の屍(しかばね)だったことは、ずっと後で知りました。…ひどい拷問をうけても黙秘をつづけ、しまいに、足を持って階段を上から下まで逆さに引きおろされ、それを四、五回くりかえされたら死んでしまった。それが夜中の午前一時ごろなのに、ぼくたちがよばれて行ったのは十五、六時間もたった午後四時ごろです」(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の機関紙「不屈」81年3月号)

 身をていして平和と民主主義の世の中をめざした思いを引き継ごうと、90年に郷里の新十津川町に「西田信春碑」が作られ、毎年2月11日、碑前祭が開かれています。

 (喜) 〔2005・2・10(木)〕
 *************

 http://www.ohtabooks.com/view/rensai_show.cgi?parent=5&index=2

老人の自殺者にはよくあることだが、この老マルクス学者(岡崎次郎)も生前、しばしば自らの「生の終え方」について口にした。
 60歳になったころから、折にふれては、
「自分の人生は自分で結末をつける」
 と、親しい知人に言い、冗談めかせながら、
「だけど、まだ女房の承諾がとれないんだ」
 と、つけ加えたりしていた。
 そんな彼、★岡崎次郎が、“なかなか承諾のとれなかった”妻のクニと二人、自宅を引き払って旅に出、杳として行方知れずになったのが1984年6月のこと。当時、岡崎79歳、クニ86歳。
 これが夫婦の自死行だったとすると、岡崎は20年近く、「いかに死ぬか」について考え続けていたことになる。
「旅に出る直前、東京・本郷にある自宅マンション(賃貸で2LDK)に、親戚や親しい学者仲間を呼んで、それとなく『最後の別れ』を告げている。

 『これから西のほうへ行く』
 と言うのを、渡辺寛東北大経済学部教授(62)は聞いた。
 同年5月19日のことだ。
 法政大の教員時代から『尊敬の念をもって接してきた』という渡辺さんは、岡崎さんがそれ以前にも『死出の旅立ち』を何度か口にするのを聞き、思いとどまるように説得していた。このときも、
『西のほうとは、西方浄土とひっかけているんだな』
 と思ったという」(94年6月17日号『週刊朝日』・「老マルクス学者岡崎次郎夫妻の死出の旅路の果て」より)
 渡辺はこのとき、帰りぎわに岡崎から「これ、持ってけよ。こういうものもいいんだよ」と、唄の入ったカセットを二つ手渡された。
 ちあきなおみと倍賞千恵子のものだった。
 同記事によると、同じころ、岡崎と古い付き合いだった編集者、本吉久夫も、彼から次のようなぐあいにして別れを告げられている。
 本吉が出版をすすめた、岡崎の自伝『マルクスに凭れて六十年』(青土社)という、すこぶる興味深い本がある。どう興味深いかは追い追い述べていくが、この本の裏表紙に岡崎は、
「おだてて、こんな本を作らせた本吉久夫さんに、いま、ただありがとう」
 と書き込んで渡した。渡す前に岡崎は、本を開いたままにして、この言葉を傍らのクニに見せた。すると、クニの目に見る見る涙があふれたのだという。
 そして、岡崎の「死への意志」は、この本の終章「マルクスとの別れ」に、次のように言葉にされている。
「マルクスと別れた私はもはやなにもすることがない。したいこともない。いや、できることがない、と言うほうがいいかもしれない。(中略)収入は毎年減る一方である。だが、老人福祉を、などと叫ぶ気は毛頭ない。いま私が受けている老齢福祉は、毎年秋になると麗々しく区長の姓名を書いた贈り物、現金六千円と、寝巻、枕、シーツ、安い毛布など、寝たきり老人用のものばかりである。今年の秋は尿瓶でもくれるのではなかろうか。(中略)いま私にとって問題なのは、いかにして生きるかではなく、いかにしてうまく死ぬかである」
「自分で自分に始末をつけること。これはあらゆる生物のなかで人類にだけ与えられた特権ではないだろうか。この回想記を書き終って、余りにも自主的に行動することの少なかったことを痛感する。せめて最後の始末だけでも自主的につけたいものだ。なるべく他人に迷惑をかけず、自分もほとんど苦しまずに決着をつける方法の一つとして、鳴門の渦潮に飛び込むなどはどうだろうか、などと考えていたら、往年の友人対馬忠行に先を越されてしまった。同じような人間は同じようなことを考えるものだ。先年、時永淑にこんな話をしたら、どこに飛び込もうと死体の捜索などで大迷惑を蒙る人間がいるのだ、と言われた。それもそうだろうが、それもせいぜい数時間か数日のことだろうから、これから何年も世間に老害を流しているよりはましなのではなかろうか」
 と、こんな言葉で『マルクスに凭れて六十年』(以下、「自伝」と略す)は終わっているのである。

 学者、それも社会科学系の、しかも、そのほぼすべてはマルクス主義に関連した、カタいカタい文章ばかりを書いてきた人の言葉としては、いかにも破格。静かに死を決意した人ならではの、この世のシガラミだとか体面だとかを、軽々とつき放した境地が書かせたものとしか思えない。おそらく、この境地があったからこそ、岡崎から決意を告げられた何人かの人たちは、もはや止めても無駄だと心から悟り、黙って「旅立ち」を見送ったのだろう。そして、引用したような文章で終わっているこの「自伝」は、あきらかに遺書として書かれている。そう、「遺書の代りに……」ではなく、はっきり(自らの生の終りを告げるにあたって、書いておかねばならないことを綴った)遺書として。
 この本を読んで私は、岡崎が「この人のことは、ぜひ書き残しておかねば」と、執筆にひときわ力を込めた人が二人いるように思った。

 ★一人が西田信春、もう一人が向坂逸郎。

 向坂のことは後で述べるとして、西田は、岡崎の一高・東大(文学部哲学科)を通じての同窓生。岡崎は、自分は人にも物にも「惚れっぽくて飽きやすい」性格なのだが、「西田信春は、こんな私が惚れっ放しで飽きなかった数少ない友人の一人である」と書いている。
 無口で「偉丈夫」の西田は、ボート部に属す、意志の強い青年だったが、大学の2年ころ(すなわち大正15年)から、日本共産党に近づき、当時、同党の理論的リーダーとして鳴らしていた福本和夫を、彼が定宿にしていた本郷の菊冨士ホテルに訪ねたりするようになった。そんなころ、
「私の机上に『資本論』が開いてあるのを見て、彼は今や論議の時ではなく実践の時なのだと、言った。然らば革命はいつごろ起きる見込みかと尋ねたら、七年後くらいだろう、と答えた。私は、そんな説にどんな根拠があるとも思えなかったが、思い込んだらテコでも、という彼の性格をよく知っていたから、ただ、そうか、と言うに止めた」
 二人はともに、昭和2年に文学部を卒業し、岡崎は同大経済学部に入りなおし、西田は「交通関係の」労働運動に専念する。そして昭和4年、経済学部を出たものの、未曾有の就職難の時節とて、これといった仕事にありつくことのできないでいた岡崎は、新聞で西田が検挙されたことを知った。後にいう四・一六事件、治安当局がやおら張った、日共党員の大検挙網に引っかかったのだった。
 入獄中の西田に、岡崎は本の差入れをしてやっていたのだが、★昭和7年、保釈で出所した西田が、当時、東京郊外の保谷に住んで、翻訳の仕事で食べていた岡崎のところへやってきた。西田は、
「数人の友人と会合したいので、一日だけ室を貸してくれと言う。私は喜んで応じた。『暢気な虚無主義者』が彼にしてやれることはそのくらいしかなかった。当日は先ず彼が一人でくる。入れ替わりに私が出かける。(中略、会合を終えて“友人”たちを帰らせた後)西田は後片付けを綺麗にして私の帰りを待っていた。玄関まで送って、彼の後ろ姿を見ていると、闘士という言葉はこの男にために作られたのではないかという気がした」
「暢気な虚無主義者」とは、かつて西田が岡崎を評して貼ったレッテル。虚無主義かどうかはともかく、若い頃の岡崎は、勉強熱心である一方、ずい分よく遊んだようである。玉突き(ビリヤード)、昭和初めのころ一般に普及した麻雀、芸者買い、寄席通いなど。寄席の芸について「私が一番面白く思ったのは廓噺だったし、今でもそうなので、この点では私の趣味は江戸時代の町人趣味に通じるものがあるようだ。どうしてだかわからない。一番嫌いなのは人情噺で、これは、どんな名人だ上手だと言われる落語家がやっても嫌である。教訓は、することも、されることも、子供の時から嫌いなのである」
 といった、なかなか含蓄に富んだクダリなども本書にはある。
 そんな岡崎の家を、二、三度、秘密の会合に使った後、西田の消息はばったり途絶えた。
★「西田がそれから約半年後に福岡県で逮捕され、取調べ中の拷問で急死したことは、戦後三十三年(1958年)になってから初めて知った」
「知る」に至るいきさつは省くが、そのころ岡崎が奉職していた九州大学の法医学教室にあった「氏名不詳傷害致死被疑事件鑑定書」が、西田のものであると、ほぼ断定されたのである。なぜ「氏名不詳」なのかといえば、西田は逮捕されても名を黙秘し、警察はそれをいいことに、拷問死させた彼の遺体を(名くらい知っていたにもかかわらず)、このような扱いにしたと推定されている。
★「昭和三十四年一月末、中野重治と石堂清倫との連名で『西田信春を偲ぶ会』の案内状がきた。私は欠席を返事した。次いで石堂から追憶文執筆の依頼状がきた。これにも応じなかった。私は、大局において西田と志を同じくしながら、なにをする勇気もなかった人間であり、彼から虚無主義者の烙印を押された人間である。(中略)ただただ自己の信念から、戦わずにいられなかった西田、彼の無残な死にざまは覚悟の上のことであり、超人的に強靭な精神力をもっていた彼にふさわしい」
 と岡崎は述べている。
 書かなかった追憶文を、「遺書」ならばこそ、岡崎はここに記したのだと思う。
 ここに感じられるのは、人間の死に向けられた、人一倍のデリカシーである。そう、デリカシーは時に「非情」な様相を呈するのである。
 岡崎は、西田という人間そのものに、強いシンパシーを抱き続けてきた。そんな彼としては、「偲ぶ会」のたぐいなど、一個の人間がぎりぎりの選択で得た死を、のめのめと生き延びた人間たちが、勝手につつきまわすようなものにしか見えなかったのだろう。
 自分だって「のめのめ」組の一人には違いない。そんな生のまっただ中で、西田の死について何か言おうとしたら、「つつきまわす」以外のことなどできないのははっきりしているではないか。が、今や自分も、死を決意した人間として、生の終わりの境地において、動機に支えられて死に至った西田について、何ごとかを語ってもよかろう。
 と、とつおいつしながら、岡崎は「遺書」に向ったのだったような気がする。
 死へのデリカシーは、生きることに必然的についてまわる虚偽に敏感であることから生じる以外にない。「自伝」の、先に引用した部分に、
「少年時代の末期以来絶えず『死』という言葉につきまとわれ何度も『自殺』を考えたこともあった私には……」
 という言葉を残(遺)している岡崎は、おそらく青年期のどこかで、つきまとう「死」を、その背後で、素知らぬ顔で引き立てているのは「虚偽」に他ならないことに気づいたのだろう。そうか、生きることに虚偽がつきまとって離れず、死のうと思ってもたやすく死ねるものでないなら、あと課題は、「虚偽」とどう間合いをとるか、どんな駆け引きをやるか、これしかないわけだ。と、思い当り、西田のいう「虚無主義者」として生き延びたのだったと思われる。
 ここでは記述を省くが、やがて当局に左翼として目をつけられた岡崎が、かの大川周明をボスとする東亜経済調査局、その発展体である★満鉄調査部の一員として、敗戦まで、大陸を舞台に展開した「駆け引き」は、なかなか見事である。
 ところが戦後、春を待っていっせいに開花した趣の、マルクス諸文献の翻訳、編集の仕事に、生き甲斐をもってたずさわるようになった岡崎を、とんでもない「虚偽」が待ちかまえていた。 


 (***以下は、今はよく知られる向坂逸郎の「思い出」で、略すべきだろうが、あえて。) 

 というところで、登場するのが向坂逸郎である。
 岡崎は戦前、向坂と知り合い、深く心酔していた。昭和3年、「思想問題」で九大教授を辞めた向坂は、文筆業に転身したが、戦時色が濃くなるにつれ、「いっさいの執筆活動を禁じられ」た。それでもマルクス主義者としての節を曲げなかった彼を、高く評価し、もちろん尊敬してもいたのだった。
 大陸から引き揚げて来て間もない岡崎に、向坂は「資本論」翻訳の共同作業をもちかけた。版元の岩波書店とは、文庫版として出すことで、すでに話はついており、第一分冊の翻訳は自分の手でできている。よって「名義はずっと向坂訳とする。しかし第二分冊以下は向坂と岡崎とが代わる代わる適当な分量をやることにし、どちらがどこをどれだけやっても印税は折半する」というのが向坂の出した条件だった。
 岡崎は一も二もなく承諾し、張り切って仕事に取りかかった。訳出した原稿は、ずい分長い間、向坂のもとに留めおかれたが、ともあれ昭和23年初冬、第二分冊が発刊された。
「その訳者あとがきを読んで私は驚いた。そこには大要次のような一節が書かれていた。『この第二分冊の第三篇からは岡崎次郎氏に下訳をしてもらうことにした。同君の訳はそのままで公刊できるくらい良いものだったが、私はそれを自分の思うままに直した』」
 岡崎は自分の訳した部分を読んでみたが、ほとんど何も「直って」などいない。実質は共訳であるものを「下訳」にみせかけるための、向坂の方便としか思えなかった。何なのだこれは、と腹を立てながらも、岡崎は向坂に文句ひとつ言えなかった。ひとつは生活のため、もうひとつは引き揚げこの方、気分が「卑屈になっていた」ためだったと、岡崎は述べている。そして、それをいいことに(としか言いようもないが)、向坂は第三分冊から第五分冊までの、ほぼ全訳を岡崎にまかせた。「共訳」はおろか、「代わる代わる」訳すという当初の約束も、なし崩し的に反故にされたのである。印税折半の件は、さすがに守られたが、これにしたって、向坂が「労働」に重きをおくイデオロギーの鼓吹者であるのなら、多少の配慮を示してもよさそうに思われる。そう、自分は何も「働いて」いないのだから。
「私もついに我慢ができなくなって……」、岡崎は仕事をおりると向坂に申し出た。他に適当な人がいないから、続けてやってくれというのが向坂の答えだった。向坂は、岡崎の語学力、マルクス独特の用語や言いまわしについての理解力については、自分の「下訳者」を上に、つまり高く評価していたのである。では、訳者の名義を私にしてください、という岡崎の要求に、やおら返ってきたのが、
「そういうことはできない、(中略)君が自分の名でやりたいなら君がもっと偉くなることだ」
 という、ありがたい教訓。
「これには参った。じっさい私は少しも偉くなかったからだ」
 と、“教訓ぎらいの”岡崎は書いている。そして向坂は「じっさい偉く」なっていた。日共の「獄中18年」組が戦後、世に盛名をはせたのと同じ理屈で、節を曲げなかった向坂には、とくに青年インテリゲンチャ、労働者の熱く、また厚い支持が集まり、やがては社会主義協会という(社会党左派と関係の深い)政治組織のリーダーとして、理論家として、押しも押されぬ「地位」を占めるのである。
 岡崎は、この「偉い人」に、それならせめてと、印税半々の是正を要求する。すると、
「それは改める必要はない、上と下がいっしょに仕事をするときにはだいたい下のほうがたくさん仕事をするのが普通なのだ」
 とのこと。そして、岡崎は、
「自分では下訳をやっているとは思っていない、そういうことなら話はこれまで、とさよならすれば、恰好もついたのだが、なんたる情けないこと、私はこのえげつない言い草をそのまま呑んでしまったのだ」
 呑んだというより、向坂の大物ぶりにきっと「呑まれて」しまったのだろう。
 その後、岡崎は向坂の口ききで九大教養学部教授に就任。向坂率いる、いわゆる協会派学者グループの“客分”のような形で昭和25年から30年まで勤め、次いで法政大学経済学部教授に。この間の31年、“向坂訳”の岩波文庫版は第十二分冊をもって完結した。
 この経緯から察せられるように、岡崎が向坂に「呑まれ」ざるをえなかったのは、「生活」という理由もあった。もちろん、もうひとつ、彼のマルクス研究、文献紹介への情熱や義務感が、この大物との訣別を押し止めなかったはずはないが、「自伝」では、そうした類いの心情吐露は、ほぼ一切なされていない。
 死の側に身をおいて生を眺めた人にふさわしく、述懐はあくまで淡々と、なぜか向坂に対しては「駆け引き」が失速状態になってしまう自分を戯画化するふうになされている。
 そんな岡崎の筆致に、やや激した調子が交じるのが、昭和41年(1996)年、図らずもやってきた向坂との第2ラウンドを述べたくだりである。
 この初夏、岡崎のもとへ岩波書店から『資本論』第何分冊かの印税支払通知が届いたのだが、肝心の送金が、いっこうにこない。
 同社の経理部に電話すると、編集部の方から支払いを差し止められたといい、編集部によると「向坂先生がひどく怒られて」、岡崎への「支払いをやめるように、と言われ、先生にはいずれ向坂先生から話をするから、ということだった」が、まだお話はありませんか、とのこと。
まだお話はなかった。
 向坂からの指示は文書でなされているというので、それを見に、岡崎は岩波本社へ出かけていった。向坂の怒りの理由は簡明といえば簡明だった。
 岡崎が、今度こそは自分の名で『資本論』の新訳を大月書店から出したのが怪しからんという次第。岡崎は、同書店から依頼を受け、60年代始めから、新たな翻訳による『資本論』を、全集版、国民文庫版併走の形で出し続けていた。より完全な、より平明な日本語による『資本論』を、というモチーフで取りかかった仕事であり、発刊されてみると、読み易さが受けてよく売れた。新訳で出すにあたって、岡崎は(本人の言では生来の無精から)、改めて向坂にあいさつはしなかったが、発刊された本は逐次送っていた。それに対して向坂からとくに反応はなかったから、内心はどうであるにせよ、先方は自分の仕事を了承してくれているものと思っていた。
ところが、
★「向坂の書面を見て私はあっと驚いた。向坂の見幕は大変なもので、自分の下訳をさせてやった岡崎が無断で大同小異の訳本を他社から出すとは天人共に許さざる重大な裏切り行為だとし、それから罵詈ざんぼうの限りを尽くして私を非難し、岡崎にはいずれ二人の弁護士を代理人として差し向け厳重に糾明するが、取り敢えず岡崎への印税支払を停止せよ、というものだった。(中略)事態がどうであれ、これが一流知識人をもって自認する人物の文章だとは到底想像もできないような物凄いものだった」
 子どものころはケンカに明け暮れ、長じて後は、おそらくは知的抑制が働いて温和になったものの、ときには相手の理不尽に鉄拳を振るうこともあった岡崎の心中に、ここで闘志が頭をもたげなかったはずはないが、何と彼はここでも、怒り狂った「日本マルクス学界の大御所」の要求を受け入れ、印税受領権を放棄してしまうのである。
「こういうときの私の決断は早い。いや、早すぎると言うほうがよいかもしれない。私は今後の紛糾の煩わしさを避けるためには、自分が譲るよりない、と心に決めた。私は、向坂がこの書面にあるいっさいの罵詈雑言を取り消して、あらためて運動資金援助の意味で著作権放棄を要請するならば、適当に配慮してもよいが、弁護士などをよこして談判するというのなら、そんなことには絶対に応じられない、と些か恰好よすぎることを言ってしまった」
 その後、仲に立つ人があって(といっても向坂配下の一人物だが)、岡崎は一度、向坂と会い、印税受領権を正式に放棄する。その間の双方のやり取りや、岡崎自身の心境は
「自伝」から、必ずしもクリアに伝わってこないが、察するに「ケチのついた印税」のことなど、もうどうでもよくなり、マルクス研究についてやり残している仕事に専念しようと思ったのだろう。
 あるいは、どうでもよくなったのは、「印税」だけではなく、この世で生きることにまつわる「何か」だったのかも知れない。
 岡崎が「自分の人生は自分で結末をつける」と口にするようになったのは、本文冒頭の記述から計算してもらえれば分かるように、ちょうど、この出来ごとの前後と考えられるのである。
 このときの向坂との会見について、岡崎は次のように書いている。
「十年振りの再会だった。会ってみれば懐かしさのほうが先に立ち、食事中はまるで何事もなかったかのように歓談が続いた。最後のお茶になったとき、やっと向坂は一言だけ懸案に触れた。先日来の件だが、あなたの気持ちもよくわかった(どうわかったのかわからなかったが、川口―仲介者・引用者注―が適当に報告したのだろう)、いろいろ物入りがかさむので一つ宜しく頼みます、と彼は言った。彼の笑顔と、頼みますの一言は、私にはあの悪罵より遥かに効き目があった。(中略)この日の会見に関するかぎり、私にとって後味は悪くなかった」
 向坂は例の罵詈雑言を取り消したわけでもないようなのに、このあたりの岡崎の心意はもうひとつよく分からない。読む方としては、もうちょっと言葉を費してもらいたいところだが、まぁ、二人の間には、第三者には計り知れない関係の機微が介在していたとでも考えるしかあるまい。
 ここまでは、岡崎に、向坂に対する敬愛の念は少しは残っていた。
 だが、しばらく後のある朝、ある全国紙五段ぶちぬきの大広告を目にして、それも完全に吹っ飛んだ。
「マルクス『資本論』百年記念、向坂逸郎訳『資本論』全四冊、五十年にわたる研究の成果、畢生の訳業ここに完成」
 こうした出版計画があることを、岡崎は岩波の編集者から、ほのめかされてはいたが、向坂の口から一言も聞いていなかった。
★「この誇大な広告を見るに及んで、忘れかけていたあの不愉快な事件がまざまざと蘇り、文字どおり頭に血が上るのを覚えた。(中略)向坂から贈られた献本は献辞のついたまま即日古本屋を呼んで売り払ってしまった。だが、こんなことで溜飲をさげようとする自分の浅ましさをかんじないわけではなかった。憎悪も無念の思いも損得勘定も潔く捨て去ったはずだのに、言うべきときにはなにも言わずにこの期に及んで怨念の虜になるとは、なんという思い切りの悪さ、なんという女々しさ、私はそれから数日のあいだ自己嫌悪の念に堪えられなかった」
 古本屋はさぞ喜んだことだろう。
 一方、岡崎の方は、これでさっぱりするつもりだったのに、かえって自分の「女々しい感情」を自分にみせつけるような結果を招いてしまった。人間の感情というのは、このように、いかに自己の意志でコントロールしようとしても(出来たかにみえたとしても)、関係のめぐり合わせいかんによって、制御不能の、みえない怪物のようなものに変ずるのである。「言うべきときに何も言わなかった」から、こんなことになった、というのは岡崎の述懐するとおりだが、筆者の感じでは、岡崎は「言うべきときに」、彼にいかに勇気があったとしても、結局「言えなかった」、それしか選択の余地はなかったような気がする。
 歴史は進歩する、という気運がマルクス主義への信奉を醸成した戦後の社会にあっては、岡崎は、(かつての大陸時代のように)西田のいう「虚無主義者」たりえなかった、すなわち、人間の意志や思わくや願望を超えて人間をつき動かす「関係のめぐりあわせ」と適当に間合いを取り、相対化し、ときにそれを斜めにみて生きるポジションになど立ちえなかったと思うからである。すなわち「言えない」めぐりあわせを脱することなど不可能だったと。
 このめぐりあわせを、めぐりあわせとして確認する作業が、岡崎の「遺書」執筆であり、めぐりあわせからの最終的な脱出が、妻を伴った自死行だったはずである。

 84年6月5日、岡崎夫妻は、東京・品川の高輪プリンスホテルで、長姉の家族と中華料理で会食(夫妻には子どもはいなかった)。席上、岡崎は「西の方へ旅行する。寛(長姉の息子)のところを連絡先にするから、よろしく頼む」と切り出し、一同は、それがどのような「旅行」であるかを、ほぼ察したが、何もいわなかった。
「本人の気のすむようにさせてあげよう」
 というのが、彼らの一致した意向だった。
 翌6日から始まった旅。二人の足どりは、ホテルの支払いにJCBカードが使われたことなどから、ある程度、判明している。
 6月中旬、伊豆大仁温泉、同下旬、浜松、7月3日、京都、同上旬、岡山。岡山から山陰へ出て荻へ、荻から広島を経て、大阪・ミナミのホリディイン・南海に宿泊したのが、その年ももはや秋の9月30日。
 老夫妻の足取りを辿れるのはここまで。
 岡崎が生前口にしていた「鳴門の渦潮」に近いといえば近い場所ではあるのだが、果たして……二人は見事にこの世から、めぐりあわせから姿を消し、遺体は現在にいたるまで、どこからも発見されていない。
 84年9月。戦後社会を彩ったマルクス主義イデオロギーは潮が引くように彼方に去り、「ポスト構造主義」「ポストモダン」の風潮が全盛の頃だった。
 なお、文中の自伝の引用に「マルクスと別れた私は……」という文言があるのだが、これは彼が抱懐し続けてきたマルクス主義への信奉を捨てたという意味ではない。マルクス研究について自分にできることは、もはやここまで、と見きわめをつけたことが、こう表現されているのである。

 **************** 
 


●杉山泰道親子と頭山満
ここで、第二部 杉山泰道の生涯 は終わるが、紹介していなかったいまひとつの紫村一重の回想を最後に。(以下、葦書房『夢野久作著作集』第二巻月報「茂丸翁と久作」-1977年5月 より)。
 


 ・・・昨今では、地方在住の作家も多くなったようだが、久作の時代には作家となり名を知られてくると普通は東京に出ていった。
 しかし、久作の場合は東京に親の建てた立派な家があるにもかかわらず、上京しようとはしなかった。
 理由は、「いいものさえ書けば、どこに居ようといつかは必ずみとめられる。というものだったが、要するに「両親と同居したくない」強い気持ちがあったように紫村には思われた。
 以下全文引用。
 「・・・(久作)氏が東京で亡くなる直前、同道していた私を連れて遠山満先生のお宅を訪れ、遠山先生に紹介してもらった。それ以前から氏は私に、
 ―おやじには会わせたくないが、遠山先生にはいつか紹介しよう。-と言われていたのが実現したわけである。おやじというのはいうまでもなく杉山茂丸翁のことであり、この時は既に他界されていたから、私は一度もお目にかかったことはなかった。

 もちろん私の方か翁(遠山)への面会を(久作に)求めたことは一度もなかったのであるが、身辺雑話の折柄、ひょいと久作氏の口から出た時、私は何故ですかと反問したところ、
 「おやじとあんたを会わせたら、おやきがあんたを食うか、あんたがおやきをとりこにするか、どっちかだ」と答えられた。

 翁と私とでは、思想的にはもちろんどだい格が違うのに、あえてそう言われたのは、性格と行動の面で、翁と私には、何か共通したものがあると見て、一種の危惧の念を持っておられたのではないかと私は思う。そればかりか作家としての久作自身が厳父の性格と行動を受容できなかった。だから両親との同居は好ましいものではなかった。そのことは厳父の気持ちも同様であっただろうと私は推測する。その外に家庭的な事情も大いにあったと思われる。・・・中略・・・

 それなのに両親に対して不満らしいことを一度も言われなかったばかりか、その態度は実に慇懃丁重であったことが日記の節々からもうかがえる。別の側面からみれば、氏の生活費の大半は、厳父に負うところがあっただけに、それがまた氏の精神的負担ともなっていたのではあるまいか。とにかく感情をあくまでも殺して理性に]生きようとされただけに、自然と内向的にならざるを得なかった。心の内向性と禅と能の世界が、久作文学の下敷きになっている、と私は思う。 (引用終わり)。
 ****************

 自分の秘書を父・茂丸には紹介せず、遠山満には紹介する。その風格にふれてもらいたかったのだろう。『近世快人伝』に書いているように、頭山が、「維新後の日本が西洋文化に心酔した結果、日に月に唯物的に腐敗堕落して行く状況を見て、これではいけないぐらいの事は考えたかも知れないが」、それ以上こまかく考えたのだはないだろうと言っている。杉山泰道が頭山満と共にした思想は、この場から考えてゆこうという考え方だっただろう。・・・中略・・・

 杉山泰道と頭山満とは、おなじ民族主義的心情を抱いていただろうが、少なくとも杉山泰道の場合は国家至上主義ではなかった。
 杉山泰道をひきつけたのは、頭山がその取り巻きと違って財力・権勢・名声を求めようとしない態度であった。それは、無名の右翼浪人として死ぬ、奈良原到をはじめとするかつての「同志」たちに対しても恥ずかしいものではなかった。★

 かつての松本健一も感動的に紹介した、あの『近世快人伝』の中の奈良原翁賛歌とも言うべき杉山泰道の一文は頭山満と泰道自身の「心情の近さ」を証明する文章に見える。

 晩年の奈良原到は杉山泰道にこう語りながら、熱い涙を「ポタポタと毀れ落とした」という。何度も引かれる一節だろうが、あえて引いておく。


 「・・・ (武部小四郎の乱の)盟主武部小四郎は、追手をのがれて薩摩の国境まで来たが、少年たちがとらえられてごうもんにかけられていることをそこできいてひき返し、福岡県庁に自首した。そこで、一切が自分の一存で決定したことであり、少年たちはひとりも謀議にあずかっていないだとのべた。
ある夜、四、五人が向かいの獄舎からひきだされて広場にきたと思うと、武部らしいひとりが、天にもひびけとさけんだ。
 「行くぞオオーー  オオオ--- 」
 少年たち十六名は獄舎の床に平伏して顔をあげ得なかったという。晩年の奈良原到は語る。

 「あれが先生の声の聞き納めじゃったが、今でも骨の髄まで沁み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日まで自分の臓腑(はらわた)の腐り止めになっている。貧乏というものは辛労い(きつい)もので、妻子が飢え死に(し)よるのを見ると、気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、腸(はらわた)がグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞォ』と言う気もちになる。
貧乏が愉快になって来る。先生・・・先生・・・と思うてなあ・・・」
と言ううちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタと零れ落ちるのを筆者(泰道)は見た。
                                            
(夢野久作『近世快人伝』) 

 ★ この杉山泰道の頭山満「観」は、あの大川周明の自伝、『安楽の門』での評価と極めて近い。次の一文が見える。(p121)。


「 ・・・わが頭山満翁が権力によらず、黄金によらず、学問によらず、事業によらず、無為にして能く半世紀に亘る日本の泰山北斗たりしことは、身を以って人格の権威を明示した稀有の実例で、私は唯だ此の一事だけでも翁を明治・大正・昭和三代の最大の導師と仰ぐものである。」
 



●西田信春の死と杉山泰道
●「警察は、死体を西田信春として特定できなかった」 経緯の追及 
 


 それから、かなり長い年月が過ぎた。私は転向後、思想事件関係者の保護団体である福岡同仁会に勤めるようになった。其処で、ある日まったく偶然の機会に、西田さ
んの調書を見ることができた。
当時の事件関係記録は、1人分でも相当部厚い綴りになっていた。払は盗み見るうちにその中に2、3枚綴りの1冊を見つけ、不審に思って表紙を開いて見て驚いた。
それは西田さんの調書で、福岡署で調べられた時のものであった。
中身は、ただの1枚きりだった。私ははやる胸を押えてその1枚を凝視した。その 1枚の紙片には大略こう記されていた。

「通称、伊藤又は坂本、岡。本名不詳。推定年齢30歳位・・・」行を変えて「取調中、心臓麻痺で急死」とあった。が、肝心の死亡月日や時間、さらにその後の処置に ついては何も記されていなかった。私は盗み見の危険も忘れて、2度3度読み返した。私は足ががくがくする程全身が震えた。ひと言も喋らずに冷酷無残な拷問に、死を以って答えた西田さんの烈々たる闘志と、憤懣やる方なく切歯扼腕された姿を、1枚の調書にありありと感じたのである。                 (同前)

1970年9月12日、西田信春の解剖に立ちあった鑑定人・石橋無事に石堂清倫・中野重治、原泉の三人が会ってきいたところによると・・・

昭和8(1933)年2月11日、警察で誰とも知らぬ一個の死体の解剖の準備をしている時、警察の人が検事にむかって、
 「職務熱心のあまりについこないなりまして」
 と同じことを4度か5度くりかえしながらぺこぺこ頭をさげているのを見たそうである。
解剖が終ると、私服刑事が来て、
「これね、あんまり白状しないから、しようがないから足を持ってニ階から階段を上から下まで引きおろして、下から上までぐっとやって、4、5回やったら死んじゃったんですよ」と言ったそうだ。
これらのことがわかったのは、西田信春の死後37年たったあとのことである。
検挙、裁判、転向、下獄後も、西田信春の安否をきづかい、単独で法を犯してもその虐殺の事実をつきとめた紫村一重の人柄が西田信春回顧のこの本にあらわれている。この時代に、彼の経歴を知って夢野久作は彼を秘書にした。

そのころから40年あまりすぎた、1976年、紫村は夢野久作の難解な文字を解読清書して、その日記の刊行を肋けた。

夢野久作氏は、私みたいな泥くさい人間でも、何のこだわりもなく温く抱擁することのできる人物であったということである。といって、私は甘えてばかりいたのではなく、2人で話し合って★ある計画をもち、それが実現に努力している最中に、夢のように逝かれたので計画は挫折してしまった。私にはそれがいささか心残りである。
もしも氏が健在で、その計画が実現していたならば、氏の作家活動の面にも、私の人生にも一つの転機になったであろうことはたしかである。
              (紫村一重「『夢野久作の日記』刊行によせて」
「葦書房編集室だより」7号 葦書房、1976年9月)

この時期に、玄洋社の先人を理想化して『近世快人伝』を書くのだから、夢野久作は、民族主義者であろう。しかし、彼は同じ時期に保釈中の紫村一重に心をゆるしてともに未来を構想する人でもあった。

昭和10(1935)年2月14日の記事を引く。

夕食後父上(茂丸)自ら薄茶を立てて賜ふ。淀み多く苦し。後の思ひ出とならむ。汝は俺の死後、日本無敵の赤い主義者となるやも計られずと仰せらる。全く痛み入る。中らずと雖も遠からず。修養足らざるが故に看破されたる也。

 同じ昭和10年の7月19日に、父は亡くなり、その葬式と後始末を終えた昭和11年3月11日朝、夢野久作は父の東京宅で、会計をうけもっていたアサヒビール社長・林氏の報告を聞くうちに倒れて亡くなった。前夜は午前2時ころまで秘書の紫村一重と★新しい農民道場をつくる計画(当然これが、上の「ある計画」だろう)の図引きなどしていたという。

  夢野久作としての活動は、大正15(1926)年5月から昭和11(1936)年3月までの10年で終った。

 「タイドウシス スブコイ イクモ」
 という電報を、杉山龍丸は、福岡の自宅でうけとった。父とともに東京に出ていた紫村一重が、小田原で待っていて、汽車にのりこんで、母と龍丸とに、夢野久作の死の事情をつたえた。

 紫村氏が、何度も、何度も、車中で、
 「龍丸さん、慌てしゃんな、慌てしゃんな。奥さん、しっかりして下さいよ。」
と、繰り返すので、私や母が笑いましたら、
 「ああ、これで安心した。案外、2人とも落着いて居られるので、安心した。これで
来たかいがあった。」
と嘆息しました。   (杉山龍丸 『わが父・夢野久作』)

 悲痛から哄笑にかわるこの場面転換は、さながら夢野久作の文学のひとこまである。
 ******************

ここで、第二部 杉山泰道の生涯 は終わるが、紹介していなかったいまひとつの紫村一重の回想を最後に。(以下、葦書房『夢野久作著作集』第二巻月報「茂丸翁と久作」-1977年5月 より)。

・・・昨今では、地方在住の作家も多くなったようだが、久作の時代には作家となり名を知られてくると普通は東京に出ていった。
 しかし、久作の場合は東京に親の建てた立派な家があるにもかかわらず、上京しようとはしなかった。
 理由は、「いいものさえ書けば、どこに居ようといつかは必ずみとめられる。というものだったが、要するに「両親と同居したくない」強い気持ちがあったように紫村には思われた。
 以下全文引用。
    
 「・・・(久作)氏が東京で亡くなる直前、同道していた私を連れて遠山満先生のお宅を訪れ、遠山先生に紹介してもらった。それ以前から氏は私に、
 ―おやじには会わせたくないが、遠山先生にはいつか紹介しよう。-と言われていたのが実現したわけである。おやじというのはいうまでもなく杉山茂丸翁のことであり、この時は既に他界されていたから、私は一度もお目にかかったことはなかった。

 もちろん私の方か翁(遠山)への面会を(久作に)求めたことは一度もなかったのであるが、身辺雑話の折柄、ひょいと久作氏の口から出た時、私は何故ですかと反問したところ、
 「おやじとあんたを会わせたら、おやきがあんたを食うか、あんたがおやきをとりこにするか、どっちかだ」と答えられた。

 翁と私とでは、思想的にはもちろんどだい格が違うのに、あえてそう言われたのは、性格と行動の面で、翁と私には、何か共通したものがあると見て、一種の危惧の念を持っておられたのではないかと私は思う。そればかりか作家としての久作自身が厳父の性格と行動を受容できなかった。だから両親との同居は好ましいものではなかった。そのことは厳父の気持ちも同様であっただろうと私は推測する。その外に家庭的な事情も大いにあったと思われる。・・・中略・・・

 それなのに両親に対して不満らしいことを一度も言われなかったばかりか、その態度は実に慇懃丁重であったことが日記の節々からもうかがえる。別の側面からみれば、氏の生活費の大半は、厳父に負うところがあっただけに、それがまた氏の精神的負担ともなっていたのではあるまいか。とにかく感情をあくまでも殺して理性に]生きようとされただけに、自然と内向的にならざるを得なかった。心の内向性と禅と能の世界が、久作文学の下敷きになっている、と私は思う。

 (引用終わり)。
 ****************
  <続く>
 



●西田の死
 ●西田信春の<「転向」~死>に、いま少し拘ってみる。 (石堂本 p184)

 「・・・西田の噂はこれきり誰もするものがなかった。

 何の連絡もないのは、どこかで消されたのではあるまいか。戦前はそれを調べることそのものが危険であった。明らかになったのは戦後のことである。

 戦後にそれを調べはじめると、党本部でも北九州の組織でも、まるで西田がスパイででもあったように、協力するどころか、妙な目で見るような空気があった。私が調べたところでは、1933年2月11日に福岡で殺されていた。

 福岡の見警察部が取調べ中に殺害し、氏名不詳者として屍体を九大法医学教室にまわした。当時法医学教室に勤務し、解剖の結果を文書化した石橋無事博士にめぐりあうことができて、一切が判明したのである。

 そうなると、昨日まであらぬ疑いをかけていた連中が揃って西田をほめだした。・・・略・・・」

 ***************

 鶴見の『夢野久作 迷宮の住人』によれば、次のようである。

 以下、第二部 杉山泰道の生涯 の後半部より引用・紹介していく

 **************

 昭和10(1935)年、夢野久作(杉山泰道)は、故郷の牧歌的な環境のなかで、身体に悪いと知りながらも好きな紅茶やお菓子をほおばりながら『ドグラマグラ』の改稿の構想を考えたりしていた。
 夜、子供達が寝入った後に、妻のクラを相手に、書きあがった原稿を読み聞かせたりして、それなりに落ち着いた家庭生活がそこにはあった。

こんな暮らしの中に紫村一重が登場する。・・・

以下引用する。(文庫版 p138より)

 
 ・・・ともに新年を迎えた紫村一重は、杉山龍丸の註によれば、鞍手郡直方感田の人。17歳の時、炭鉱の鉱害への農民の抗議にくわわり、農民運動に入った。杉山茂丸の従弟・青木熊太郎の長男・青木甚三郎が連隊でおなじ中隊に属していたことから、夢野久作に紹介され、兵役がおわったあと夢野久作のところに寄食し、後に秘書となった。
「3月17日 日曜 紫村君。長崎で公判受けに夜10時出発」とあるように、夢野久作は、紫村の状況を知って、彼を秘書としていた。杉山龍丸の註によれば、この時の長崎での公判とは、昭和2年以来の共産党弾圧で逮捕されてとりしらべられ、地方裁判所から高等裁判所に上告していた、その判決をうけに長崎に行ったのである。これまで夢野久作の家にいたあいだは保釈中だった。

 紫村一重がとらえられたのは昭和8年2月11日だが、それはながく伏せられており、記事解禁となったのは昭和10年6月14日である。その翌日6月15日の『福岡日日新聞』特別号外には、「九州地方空前の共産党大検挙」という大見出しで、農村へ喰いる広汎・深刻の極左組織、いわゆる「2.11事件」(昭和8年)の全貌がつたえられている。福岡、長崎、佐賀、熊本、大分、鹿見島の6県でとらえられた人は508人に及んだ。福岡県下の被起訴者一覧という一面かこみ記事に、
 懲役1年6ヶ月 本籍直方市・・・住所佐賀県鳥栖町・・・ 学歴高小卒 職業農 氏名紫村一重 年齢28歳 と出ている。

 紫村一重自身が書いた文章によると、彼は昭和6(1931)年2月、福岡歩兵二十四聯隊に入隊中、松本三益のすすめで入党した。当時の帝国陸軍の内部で共産党に入党するというのは、今からふりかえって歴史を考えるものには、想像しにくいが、それが事実なのだろう。除隊後は、全農全会派に属して、共産党員の同志としては松本三益だけが顔見知りで、その指導のもとにもっぱら合法面の農民運動にしたがった。

 翌年の昭和7年12月の末に、福岡県八女郡船小屋温泉の会議に、松本三益に言われて出席し、それは5、6人のあつまりだったが、あいつぐ弾圧で苦しい立場にたたされた共産党の九州地方委員会を確立するための会合だった。当時、紫村一重は24歳だった。

 船小屋会議は、1日目は深夜に及び、2日目は午過ぎには終ったように思う。この日の会議で、党九州他方委員会は確立され、各専門部も設置され、その責任者も決定された。
 西田(信春)さんは会議を閉じるに当り、党九州地方委員会の確立したことを宣言するや、大きな手を私(紫村)に差しのべ、その手に私の掌を包みこむようにしてがっしりと握りしめ、低い声だが底の方からしぼり出すように、ゆっくり一語一語句切りながら、「労農提携万歳」と言って会議を結んだ。
 あれから30数年も経っているのに、私は感激した当時の自分を思い起すと共に、西田さんの大きな手とそのぬくもりを、今も忘れることができない。
 この時の会議の冒頭に、私に斎藤と名付けてくれたのも西田さんだった。その頃、もっぱら合法面で働き、地下運動の経験がなく、しかも百姓臭い私が、よほど忘れっぼい人間に見えたのだろう。そんな私を思いやり、覚え易い名前がよかろうと言うことで、時の首相・斎藤実と同じ斎藤とつけてくれた。西田さんはわれわれの会合の席では伊藤と言っていたように思う。
   (紫村一重「たよりになるオヤジ西田信春さん」、石堂清倫・中野重治・原泉編
    『西田信春書簡・追憶 土筆社、1970年)

 当時の共産党員はなるべくおたがいに会わないように自戒していた。紫村が西田に2度目にあったのは昭和8年2月10日で、この日は2人でふたつの会議にともに出席し、深夜にわかれてから生涯会うことがなかった。紫村が自分のかくれ家にかえってねると(ママ)、2月11日未明の午前4時に警察の一隊が土足で家の中にふみこみ、検挙された。

  以来、拷問に明け暮れた警察のブク箱生活から、長い未決、既決生活の間、私の脳裡を離れなかったのは西田さんのことである。オヤジはどうしているだろうか。大丈夫だっただろうかと。・・・
 

 ************
 逮捕以後、獄中でも紫村は西田の「安否」を尋ね続けるが不明だった。

 かなり長い間尋ね続けても行方不明の状態で、党の仲間のうちには西田をスパイ視する者さえあったが、もちろん紫村はそんな見方には組しない。

 このとき、すでに西田は死んで(殺されて)いたのだが、奈良に住む紫村の家族も、警察さえも知らなかった。警察は、死体を西田とは特定できなかったからだという。

  <続> 



●西田の死、ハウスキーパー
  ★佐野学の転向について、●佐野学のおごり へ戻る。

 ・・・野田醤油の争議について石堂と西田が夜遅くまで議論した。 

 その後、西田が12月末に一年志願兵で入隊することになったので、野方の家(p133の)も解散することになった。

 西田と石堂らの共同生活も一時終わりになるので、「最後の晩餐」をやろうということになり、大間知、中野も加わり銀座アスターで別れの宴をもった。

 「浮かれたようで、何となく物悲しい別離であった」。

 西田はその5年後に福岡警察部で殺された。・・・

 **************

 ここで、この<西田の死>とそれにいたる状況を石堂と鶴見両氏の著から観てみたい。
鶴見の<観相>は前に紹介しているので、先ず石堂の著から。

 『異端の昭和史』 p179 ●西田との別れ より。 

  ・・・西田は1928年末に除隊し、29年1月に上京、高円寺の中野重治方に同居して無産者新聞・編集局(表)に入った。

 裏の編集局には木下半治、三田村四郎、岩田義道、井之口政雄らが働いていた。

 西田は3月20日付で入党し、29年4月16日に検挙されたので、党員としての活動期間は、

 1ヶ月に満たない。

 3・15事件の逮捕者もほとんど党歴は少なかった。当局は党員の活動経験が未熟なうち
に刈り取っていったともいえる。

 当時の活動・運動は結果として、空想的で無意味な冒険主義に陥っていたと言える。

 3・15事件の被告と異なり、4・16事件の被告は★「改正」治安維持法(最高刑=死刑)

 の適用を受ける。

 ********
 ★治安維持法の改正

 1925年法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ
 又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。

 1928年改正の主な特徴としては
 「国体変革」への厳罰化 1925年法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、
 前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル
 任務ニ従事シタル者ハ★死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として、最高刑を死刑としたこと
 ***********

 1931年11月 西田保釈で出所。

 一旦は故郷・奈良の十津川村に帰るが、すぐにでも上京したいようだった。

 石堂の反対を押し切った形で3月初めに上京、中野重治宅(上落合)に同居した。

 中野の検挙後西大久保に移る。 

 このころ、1932年4~6月のあいだ、西田は統一公判対策委員会に入って、連日のように獄内中央委員、なかでも佐野学のところに頻々と面会に出かけた。
獄外の連中がはやりたつのに対して、彼らは冷静に批判しているようであった。 
 君主制との闘争(コミンテルンのテーゼで主張・指導された)に熱中するあまり、プロレタリアートの社会主義革命の目標を軽視するな、という主張だったらしい。

 その後、石堂が公判のため7月初めに上京、西田の西大久保の宅に落ち着く。

 その借家の2階に西田はいた。2回には中野の本棚があって、中野(獄中)に差し入れる本がかなりあった。

 翌日、西田とそろって外出しようとすると階段の上がり口近くの蚊帳のなかに、ほの白く若い女性の顔が浮かんでいるので、西田に問うと、★「中野の女房だ」とのことであった。

 その後、石堂はこの家から裁判所へ通い、ひと月も住んだが、この「中野の女房」とは一度も顔を合わすことがなかった。
 ****************


 蛇足ながら、
 ★「中野の女房」というが、鶴見本には次のようにある。(『期待と回想』p217)

 ・・・そのこと(*西田は戦中ー戦後、ずっとスパイだと思われていたが、実は最後まで非転向で、拷問死したという事実)が戦後になって明らかにされた。それは西田と交渉のあった中野重治や石堂にとっては大変なショックだったんです。それでこの本(*石堂他編 『西田信春 書簡・追憶』1970刊)ができたんです。

 この本に西田の配下だった前田梅花の書簡がおさめられている。西田にはハウスキーパーがいた。北村律子というんです。・・・略・・・

 「中野の女房」とはこの西田のハウスキーパーだったのではないか、との疑問も浮かぶ。
   

 ****************

 このころの西田はグレーの明るい色の背広を新調し、毎日北九州の地図をを一枚ずつ買ってきた。地方オルグ(組織活動)に出かける計画だと石堂には分かった。

 裁判も区切りが付き、32年7月末日、石堂は故郷に帰ることになり、大久保駅の途中まで西田が送ってきて、二人で黙って手を握り合って別れた。これが二人の永の別れとなった。

 10月29日に、石堂が判決をうけるために上京したときには既に西田の姿はなく、彼への刑の言い渡しはなかった。・・・

 西田の噂はこれきり誰もするものがなかった。

 



傑作★『犬神博士』より。
2008年1月30日 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー3
 ●現役復帰、拓殖務相などを歴任するも恩賞なしの謎

 の引用中に、以下のように夢野久作・『犬神博士』への言及があった。


 「・・・対清戦争の目的は、第一に条約改正を国力(軍事力)により推進すること、第二は日朝の連携を実現するためであった。既に国家の実質を失った李氏朝鮮国の支配を巡って、日清露の間で覇権争いが激化しつつあり、朝鮮国内では東学党の農民軍が決起を控えていた。東学党の騒乱に乗じて玄洋行が清国を挑発し、開戦の口実にしようと考えていた有様を、杉山の子息夢野久作が傑作・★『犬神博士』のなかで語っている。・・・」と。

 当該部分をここに紹介・引用しておこうと思う。以下引用はちくま文庫版夢野久作全集(5)による。(p338-342)
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 ★<百五>途中から。

 「……チョツト用があるので会いに来ました」
(福岡)知事の額から青筋万次第次第に消え失せて行った。それに連れてカンシャクの余波らしくコメカミをヒクヒク咬み絞めていたが、しまいにはそれすらしなくなって、ただ呆然と吾々二人(楢山と数え歳7歳の少年)の異様な姿を見比べるばかりとなった。
 楢山社長は半眼に開いた眼でその顔をジツと見上げた。片手で山羊髭を悠々と撫で上げたり撫で下したりしながら今までよりも一層落ちついた声で言った。

「知事さん」

「今福岡県中で一番偉い人は誰な」

「……………」

 知事は面喰らったらしく返事をしなかった。又も青筋が額にムラムラと現われて、コメカミがヒクヒクし始めたので、何か云うか知らんと思ったが、間もなくコメカミが勣かなくなって、青筋が引込むと同時に、冷たい瀬戸物見たような、白い顔に変って行った。

「誰でもない。アンタじやろうが・・・あんたが福岡県中で一番エライ人じゃろうが」

 ★<百六>

楢山社長の言葉は子供を諭すように柔和であった。同時にその眼は何ともいえない和ごやかな光りを帯びて来たが、これに対する知事の顔は正反対に険悪になった。知事の威厳を示すべくジッと唇を噛みながら、恐ろしい眼の光りでハタハタこっちを射はじめた。

 しかし楢山社長は一向構わずに相変らず山羊髭を撫で上げ撫で上げ言葉を続けた。
「・・・なあ。そうじゃろうが。その福岡県中で一番エライ役人のアンタが、警察を使うて、人民の持っとる炭坑の権利をば無償で取り上げるような事をば何故しなさるとかいな」

「黙れ黙れツ」
と知事は又も烈火の如く怒鳴り出した。
「貴様達の知った事ではない。この筑豊の炭田は国家のために入り用なのじゃ」

「ウム。そうじゃろうそうじゃろう。それは解かっとる。日本は近いうちに支那と露西亜ば相手えして戦争せにゃならん。その時に一番大切なものは鉄砲の次に石炭じゃけんなあ」
「・・・・・」
「・・・しかしなあ・・・知事さん。その日清戦争は誰が初めよるか知っとんなさるな」

「八釜しい。それは帝国の外交方針によって外務省が・・・」

「アハハハハハハハ……」

「何が可笑しい」
 と知事は真青になって睨み付けた。

「アハハハハ。外務省の通訳どもが戦争し得るもんかい。アハハハ・・・」

「・・そ・・・それなら誰が戦争するのか」

「私が戦争を初めさせよるとばい」

「ナニ・・・何と云う」

「現在朝鮮に行て、支那が戦争せにゃおられんごと混ぜくり返やしよる連中は、みんな私の乾分の浪人どもですばい。アハハハハハ・・・」

「・・ソ・・・それが・・どうしたと云うのか・・ッ」
 と知事は少々受太刀の恰好で怒鳴った。しかし楢山社長はイヨイヨ落ち付いて左の肩をユスリ上げただけであった。
「ハハハ・・・どうもせんがなあ。そげな訳じゃけんこの筑豊の炭坑をば吾々の物にしとけあ、戦争の初まった時い、都合のよかろうと思うとるとたい」

「・・・バ・・・馬鹿なッ・・馬鹿なッ・・この炭坑は国家の力で経営するのじゃ。その方が戦争の際に便利ではないかッ」

「フーン。そうかなあ。しかし日本政府の役人が前掛け当て石炭屋する訳にも行かんじゃろ」

「そ・・・それは・・・」
「そうじゃろう・・・ハハハ。見かけるところ、アンタの周囲には三角とか岩垣とかいう金持ちの番頭のような奴が、盛んに出たり這人ったりしよるが、あんたはアゲナ奴に炭坑ば取ってやるために、神聖な警察官吏をば使うて、人民の坑区をば只取りさせよるとナ」

「・・・そ・・・そんな事は・・・」

「ないじゃろう。アゲナ奴は金儲けのためなら国家の事も何も考えん奴じゃけんなあ。サア戦争チウ時にアヤツ共が算盤ば弾いて、石炭ば安う売らんチウタラ、仲い立って世話したアンタは、天子様いドウ云うて申し訳しなさるとナ」

「しかし・・・しかし吾輩は・・・政府の命令を受けて・・・」

「・・ハハハハハ・・・そげな子供のような事ば云うもんじゃなか。その政府は今云う三角とか岩垣とかの番頭のような政府じゃなかな。その政府の役人どもはその番頭に追い使わるる手代同様のものじゃ。薩州の海軍でも長州の陸軍でも皆金モールの服着た金持のお抱え人足じゃなかな」

「・・・・・」

「ホンナ事い国家のためをば思うて、手弁当の生命がけで働きよるたあ、吾々福岡県人バッカリばい」

「・・・・・」

「熟と考えてみなさい。役人でもアンタは日本国民じゃろうが。吾々の愛国心が解からん筈はなかろうが」

「・・・・・」
知事はいつの間にか腕を組んで、うなだれていた。今までの勇気はどこへやら、県知事の威光も何もスツカリ消え失てしまって、如何にも貧乏たらしい田舎爺じみた恰好で、横の金屏風にかけた裾模様の着物と、血だらけの吾輩の姿を見比べたと思うと、一層悄気返ったように頭を下げて行った。

 その態度(ようす)を見ると楢山社長は、山羊髭から手を離して膝の上にキチンと置いた。一層物静かな改まった調子で話を進めた。

「私はなあ・・・この話ばアンタに仕たいばっかりに何度も何度もアンタに会いげ行た。バッテンが貴下はいつも居らん居らんちうて会いなさらんじゃったが、そのお蔭でトウトウ此様な大喧嘩いなってしもうた。両方とも今停車場の所で斬り合いよるげなが、これは要するに要らぬ事じゃ。死んだ奴は犬死にじゃ」

「・・・・・」

「そればっかりじゃなか。この喧嘩のために直方中は寂れてしまいよる。これはんなアンタ方役人たちの心得違いから起った事じゃ」

「・・・・・・」

「あんた方が役人の威光をば笠に着て、無理な事ば為(し)さいせにや、人民も玄洋社も反抗しやせん」

「・・・・・」

「その役人の中でも一番上のアンタが、ウンと云いさえすりあこの喧嘩はすぐに仕舞える。この子供も熱心にそれを希望しとる」

「ナニ。その子供が・・・」
と知事は唇を震わしながら顔を上げた。

・・・以下略・・・。  

 ***************


 ここに登場する知事は勿論、安場保和・当時福岡県令がモデルで、

 鶴見俊輔の母(愛子)の母(和子)の父である。

 算盤勘定最優先の「三角とか岩垣」が三井・三菱等の財閥であることは言うまでもない。

 興味深いのは、ここで示されている、玄洋社の楢山(頭山)と安場の交際の「印象風景

 描写」=「場面描写」の見事さである。

 歴史の状況証拠的風景はなかなか知ることが出来ないので、ありがたいことだ。

 



●石堂清倫『異端の昭和史』
●佐野学のおごり(p139-)                         

「転向」といえば何といっても、この佐野学と鍋山貞親の通称★「転向声明」が先ず問題にされるべきであろうが、鶴見・『期待と回想』には佐野学の名はみえない。

(★これは、正確には、1933年6月9日付けで為された、「緊迫せる内外情勢と日本民族及びその労働者階級ー戦争及び内部改革の接近を前にしてコミンターン及び日本共産党を自己批判する」声明で、特にその末尾にある「共同被告に告ぐる書」をいう。)

 母(愛子)方の祖父・後藤新平については、下のようにしばしば話しているが。

 幼い頃の思い出(「・・・私が小学校1年生のころー1928年―は、<鶴見>という名は<後藤>という連想を呼ぶんです。小さいときは得意ですよ。でもそれより大きくなると(母親は俊輔を無能な人間だと追いこんでいったということもあり、)私の生きる席はないと感じた」(『期待と回想』p49)ことや、

 「私は後藤新平とよく会っていたから、かれの風貌をはっきり覚えています。・・・かれが私にたいへん親切にしてくれたことははっきり覚えている。」(p83)こと、

 また「・・後藤新平は、それこそ男女関係はたいへんに放縦な人だったし晩年は家の中にお妾さんを入れて暮らしていた。そのお妾さんとのあいだに生まれた息子と私はつきあいが生じているが、ものすごくえらいひと」(p353)であったことや、

 父・祐輔の師・新渡戸稲造が弟子・祐輔を新平の娘・後藤(鶴見)愛子と結びつけたこと、そのことが一高生のあいだで批判がおこり、それを知った新渡戸が「ものすごく怒って」一高を辞めたこと(p442)、

 後藤新平のプラグマティストぶりや開けっぴろげな性格(p462)、等々・・・。


 ここで、●佐野学のおごり へすすむ前に、一文を紹介・引用しておく。

 ★藤原肇 『賢者のネジ』 たまいらぼ出版 2004.6.30刊 の

 ★第八章 大杉栄と甘粕正彦を巡る不思議な因縁(p209より)。
 対談者は、藤原と小串正三(元フランス三井物産総支配人)。
*初出は『財界にっぽん』 2002年6月号
 
 
 ****************

 藤原が以前にも小串から思い出話として聞いたという、関東大震災のときの大杉栄虐殺について、もう一度じっくりと聞かせてほしいと、対談は始まる。

 ●後藤内務大臣のスパイだった大杉栄
 
藤原: 大杉栄と一緒に殺された伊藤野枝は個性的な女性で、福岡から上京して上野高等女学園の生徒だった時に、教師だった辻潤と同棲して大スキャンダルになり、その後に辻と結婚して息子を2人つくっています。そして、次に大杉栄と同棲関係に入って子供を3人生み、中でも有名なのは「魔子」と名づけた娘です。

小串: 辻潤は・・ダダイストとして一世を風靡した作家ですね。大杉と一緒に殺された伊藤野枝が、辻潤の妻だったとは迂闊にも知らなかったけれど、辻さんもパリに足跡を残した文化人です。

藤原: 松尾さん(元読売新聞パリ特派員で、小串の外語大の先輩)から聞いたように思うのだが、辻潤は読売の海外文学特派員の肩書きで、パリに常駐して活躍していたらしいです。何か辻のパリでの話について聞いたこととか、それに関連した本についてご存じないですか。

小串: <古い時代のことなので、不明。大杉が神近に刺された葉山事件は知っている>

藤原: (大杉は)刺される直前に後藤内務大臣の所を訪れて、300円の資金を内密に貰って来た話は、「自叙伝」の中に書いてあるから知られており、これが大杉スパイ説の根拠になっています。後藤新平は、・・・しかも各地の県知事を歴任した★安場保和の次女の和子を妻に持ち、愛知県病院に勤務していた若き日の後藤は、恩人で岳父の安場の引きで中央官界に出たのだし、この安場は横井小楠の弟子でもありました。
また福岡県知事だった安場を玄洋社の頭山満や杉山茂丸が尊敬し、しかも、後藤が民生長官として仕えた児玉源太郎総督に対して、政界の大黒幕だった杉山茂丸が私淑そていたのです。 (*ここの安場と杉山との関係は、杉山の著作からすると、逆のようにも思えるが、先に進むことにする。)

小串: じゃあ、後藤の人脈は高野長英だけでなく、横井小楠にまで広がるわけですね。

藤原: しかも、★『夜明け前の朝日』(鹿砦社 2001.5.1刊)の中に書いてあるが、後藤が名古屋時代に作った娘の静子の息子が、メキシコに渡った左翼演劇家の★佐野碩であり、彼は画家のシロイケスと組んでトロツキー暗殺に関連しスターリニストだったと考えられています。
 また静子が結婚した医者の佐野彪太の兄が佐野学で、野坂参三とは遠戚関係で繋がっており、野坂の身内は神戸のモロゾフ製菓の筋でして、その周辺には警保局長や特高課長が多くいる。しかも、後藤新平は凄い国際感覚と政治手腕の持ち主だから、弾圧しやすいようにシンパを結集するために、共産党を組織してスパイを潜り込ませたり、ソ連の外交官ヨッフェと親交を結ぶことで、英国流の帝国主義の実行を試みています。
 ★『夜明け前の朝日』については後述。
 ★佐野碩については、前記のように鶴見がかなり詳細に、このころの佐野碩の行動を述べ  ている。(『期待と回想』p427~432)

小串: 後藤新平は初代の満鉄総裁として満鉄を育て、日本における東インド会社にしようと考えたのだし、その延長の上に満洲国が作られたのです。

藤原: そうです。ただ、当時の日本は軍事至上主義に毒されていたし、民主的な植民地経営を実現するためには、ソフトの分かる人材が不足していたために、秘密警察によるスパイ工作と思想統制によって、全体主義国家にと偏向してしまったのです。

小串: 後藤新平が野坂参三や佐野学などを効果的に使い、共産党を作ったという藤原さんの仮説は、これまであなたが著書で強調していたから、ここでは素直に受け入れて置くとしましょう。そうなると伊藤野枝が大杉の内妻になったのは、純然とした恋愛ではなくてスパイのためであり、「くの一忍法」であると考えるわけですか。

藤原: さあね、その辺は個人の内面問題に関係するので、本人以外おがこうだと断定するわけには行かないし、大杉だってそこまで疑わなかったから、何人も子供を作って可愛がったのだろうと思います。
 また、カネを渡すことで大杉の軟化を試みるように、後藤に入れ知恵したのは杉山茂丸だろうし、杉山ならそれくらいの工作は朝飯前に等しく、太っ腹の後藤なら一つ返事(ママ)で了承したに違いありません。
 しかも、大杉のフランス行きの半年前に日本共産党が誕生しており、アナキストとはいえ大杉はボリシェビキと一緒に、協力してやっていけると信じていたことは、後藤が考える路線と共通していたから、スパイの秘密任務を引き受けていたかも知れません。

小串: 後藤のスパイである伊藤野枝の影響もあり、大杉がフランスに特殊任務を帯びて渡ったとなれば、その目的はどんなものだったのでしょうか。

藤原: 今の段階ではあくまで仮定の推論だが、陸軍のシベリア出兵の背後関係をはじめ、フランスのフリーメーソン(大東社)の動きについて、調べることだったのではないかと思います。だが、脇が甘くじっとしていられない大杉は、ボルトマイヨーに近い日本人会への出入りを始め、パリに住む日本人画家とつき合い、持ち前の派手な行動を大胆な形でやったわけです。しかも、第一次大戦後の円高のお蔭で当時のパリには、二百人を超える日本人画家が住み着いていたし、その頂点に立つ藤田嗣治は陸軍に頼まれて、怪しい日本人に対しての監視をしていたのです。

小串: あの藤田画伯が陸軍のスパイ役とは不思議ですね。

藤原: ちょうどソ連邦が誕生したばかりであり、シベリア出兵がらみで後藤外相が動いたし、当時パリにいた佐藤紅禄は大杉に会った時に、後藤新平の支援で渡仏したのかと聞いたほど、国際関係は非常に流動的だったのです。
 だが、そんな微妙な情勢を無視する大杉の大胆な行動は、彼一流のスタンドプレイヤー的性格のせいで、メーデー集会で演説を試みて警察に捕まり、パリの南のサンテ刑務所に勾留されてから、国外追放ということで放免になり帰国したわけです。また、大杉が日本に帰国して二ヵ月後に関東大震災が起き、その時に彼は伊藤野枝や甥の橘宗一共に、東京の麹町憲兵隊で虐殺されています。

 ・・・以降、甘粕大尉への言及が続くが、略。

 以下、上記★『夜明け前の朝日』(鹿砦社 2001.5.1刊)の中の当該箇所を紹介する。
  *******************
 
 (★上記書、p120-123)
 L:藤原肇とは30年来名前を知り合いながら一度も話し合ったことのない評論家。
 F:藤原肇
 初出は、『創』誌 1998年10月号。

 L: そうですか。それでは落合(信彦)はともかく松本清張ですが、私は『神々の乱心』を非常に興味深く読んだので、あれについてのコメントはいかがですか。

F: 私も先生と同じでとても興味深く読みました。
 冒頭にある大連アヘン密輸事件の密輸犯が、三島由紀夫の祖父の平岡錠太郎であり、吉薗周蔵という実在の人物を二人に分け、吉屋謙介と荻園泰之という主人公にして、筋を展開する清張の手腕はなかなかのものです。しかし、落合莞爾の『陸軍特務・吉薗周蔵の手記』を読んでいるので、清張が小説の中では触れるに至らない、アヘン売人の中に若き日の牧口常三郎(創価学会初代会長)がいたり、大杉栄が後藤新平のスバイだった話との関連で、ちょっと物足りないという感じがします。

L: えっ、大杉栄が後藤新平のスパイだったのですか。そんな話は今まで一度も聞いたことがないが、アナキストの大杉は後藤内相にとって、最も警戒すべき要注意人物だったはずです。それなのに、大杉が手下だったというのは奇想天外で、私にはとても信じることができないが、そんな奇妙なことがあり得るでしょうか。

F: だから、秘められた歴史の真相は興味深いのです。でも、この件に関しては『朝日と読売の火ダルマ事件』の中に、ちょっとほのめかして書いておいたのですが、先生はそれにお気づきにならなかったのですか。

●秘められた歴史のジグソーパズル

L: 後藤新平のことは正力松太郎の話の中ニ、だいぶ出て来たのは記憶しておりますが、大杉が後藤のスパイだということに関しては、恥ずかしいが、記憶に残っておりません。

F: 実は、大杉と同棲していた伊藤野枝がスパイで、彼女の祖父は玄洋社の頭山満と親しく、後藤の親分だった児玉源太郎に私淑した、杉山茂丸と繋がりがあったのです。

L: そう言えば夢野久作の親父の杉山茂丸は、明治から昭和にかけて政界の巨大黒幕だが、彼は『児玉大将伝』という非常に痛快な、児玉源太郎の伝記を書いていましたな。

F: 児玉台湾総督の下で民政長言だったのが、後に内相に就任した後藤新平だし、彼が名古屋時代に作った娘の静子の息子が、メキシコに渡った左翼演劇家の佐野碩です。静子が結婚した医者の佐野彪太の兄が佐野学で、野坂参三とは遠戚関係で繋がっており、野坂の身内は神戸のモロゾフ製菓の筋です。その周辺には警保局長や特高課長がいて、すべてが後藤に繋がっていることから、後藤が共産党を作ったと考えられるのです。

L: そんなバカな・・・。どうして内務大臣が共産党など作りますか。

F: 共産党を作ってそこにシンパを集めれば、弾圧する時に手間があまりかからないし、世界的なスケールで展望して見るならば、情報収集をする上で非常に便利です。後藤新平は日本人離れのした大型の政治家だったから、ソ連の外交官ヨッフエと親交を結び、英国流の帝国主義を手本に使いながら、日本の政治を改革しようと試みています。

L: 確かに満鉄の初代総裁として采配を揮い、関東大震災後の東京市長としても活躍して、日本の政治家の水準を越えている人です。
 ・・・中略・・・

F: ・・・それじゃあ、話を後藤新平が持つ実力の戻しますが、日本では本当に優れていたらダメであり、三流のものしかトップにならないのです
 それは歴史書の場合においても同じであり、幕末のことを知る上で最良の本としては、マリアス・ジャンセンの『坂本竜馬と明治維新』で、その次に大仏次郎の『天皇の世紀』が来て、奈良市辰也の幕末物が続くと私は思います。小説は十番以下に来ることになり、子母沢寛から海音寺潮五郎に続いた後で、司馬遼太郎が来ると私は考えていて、日本人がなぜ司馬を持ち上げるのか不思議に思うが、彼が日本ではトップ扱いされていますね。

L: 今の日本では司馬遼太郎を国民文学と言って、・・・以下略・・・ 

  



●石堂清倫・『わが異端の昭和史』
 ●『わが異端の昭和史』 より、

 西田信春に関する記述主に、を続けていく。(「寄り道」もあるが)。


 卒業を控え、石堂には、宏徳会への借金の返済や義兄へ預けている妹たちのことなどまだ「運動」に専念することへの迷いがあった。
 *宏徳会:渡辺銀行とあかぢ銀行の頭取である渡辺勝三郎が出資者である、奨学金や学生寮を提供した。
 1927年(昭和2年)の「失言恐慌」のあの渡辺銀行である。石堂は父母を早くになくしたこともあり、多額の借金があった。
 「・・・入院費や卒業用の参考書代」「就職用の背広代」など。ー背広も当時は大変高価なもので、昭和の30年代まで、サラリーマンの背広は「オーダーメイド」を<月賦>で買ったものだ。

 ある日(1927年冬)、★佐野学のところへ行って、「労働組合で働いてみようかと思っている」と告げると、佐野は喜んでくれた。佐野自身大学を出たばかりの頃伊豆の金鉱属働者の間で働いた経験を話してくれた。
 佐野によると、労働者が一旦社会主義思想に入るとインテリの場合よりも、ずっと持続力があるものだという。

 ★佐野学については前にも藤原肇の著作等から引用して書いた(後ほどまとめる)が、

 ・・・東京帝国大学法学部卒、新人会に参加。卒業後、後藤新平の伝手で満鉄東亜経済調査局に勤務した後、早稲田大学で教鞭を取る(東海林太郎は佐野の教え子という)。1922年の日本共産党結成に参加。翌年、ソ連に亡命。1925年帰国。共産党を再建し、1927年に委員長に就任。後藤新平死去直後の1929年に中国で検挙され、治安維持法違反で無期懲役の判決を受ける。1933年、鍋山貞親とともに獄中から転向声明を出した。・・・とウイキペディアにあるが、ここでの佐野は「委員長」だったのかどうかは不明。

 1927年3月 東大卒業
 同期の卒業生は40名近くであった。
 そのうち労働組合へいったのは、★西田(鉄道従業員組合か)とわたし(石堂)のほか・・・中野や鹿地亘は文学運動へ、・・・いろいろのところへゆくことになった。
 労働運動の指導部は、直接の運動に入るものだけに配慮を与えたが、その他の学友の生涯計画については何も考えなかった。

 石堂は関東電気労働組合に勤めることになるが、「組合の約束してくれた給与では、生活さえ困難であった。」
 宏徳会への返済は当然進まない。

 「その点では★西田は気楽なようであった。」
 ★西田の全日本鉄道従業員組合は、省線浜松町駅前にあった。(石堂の勤めた)関東電気は新橋駅近くだったので、二人は京浜線沿線で低家賃の家を探し、大森駅近くの馬込に新築の一棟二軒が見つかりここへ越した。

 6・3・3畳の三室で、家賃は5円。
 石堂、西田の二人で住み始めるが、間もなく岩田義道、栗原佑、大間知篤三の3人が押しかけてきた。
 しかもこの3人が6帖を占領し、★西田は台所わき、最年少の石堂は上がり口の3帖に押し出された。

 このころは、前述のように昭和恐慌の大不況時で、彼らの生活費では切り詰めても1日2食がやっと、「栗原佑のお母さんが」送って来てくれた蜂蜜(一缶)を各人1日分の分量を決めて「しばらくのあいだ蜜を舐めてから出勤した」。
 しかし、窮迫はしていたものの皆「陽気であった。若いこと、理想をいだいいていることが生活の支えとなったのであろう。ただ本を買えないのが悩みの種」だった。
 
 ここも誰かに見張られている気配がしたが、それは、「合宿」(この谷中の家のこと)は運動上の会合には使わない申し合わせにもかかわらず岩田義道が禁を破ってここで会合を開いていたためだと後に(岩田の予審?調書で)判明した。

 いかにも「オッサンという感じ」で彼・岩田のことを理論家のように言う人あるが、「それは、間違いであろう」。
 岩田は日頃は陽気に振舞っていたが、ときに湿っぽく妻子のことを思うこともあった。
 「子供にあいたい」とかきくどくこともあった。そんなとき★西田は「そんなことを言う奴はスカザールだ」とやりこめた。

 石堂はこのころ、巣鴨駅近くの崖から若い女性がすべり落ちて電車に轢かれて死ぬ(自殺)のを目撃したりもする。

 このころ(1927年)の左翼労働組合の教育活動は福本主義を中心としていて、活動家達の「任務」は階級意識を観念的にたたかいとることで、その目的のために福本の諸著作の研究に没頭するこであった。
 組合事務所あたりで日々「不毛な討論に没頭」することとなり、当然、日常の闘争・活動はおろそかになり、組合に対する労働者の失望の声が聞こえてくるようになる。

 1927年は、中国国民革命の進展と、これに対する日本の侵略態勢が確立した年であり、
奉天総領事・吉田茂らの参加した★東方会議が注目された。

 中国国内情勢も予期に反して国共合作が挫折し、複雑になっていく。

 9月に入って、弾圧に備えるために「合宿」を解散することに決定。
 西田・石堂・大間知の3名は新人会の先輩・金井満の住居が空くのでそこに移る。

 石堂は10月半ばに無産者新聞社に行くよういわれ向かった。
 主筆は佐野学、編集局の中心は是枝恭二と関根悦郎。

 そのころ日本労働総同盟の有力拠点のひとつである野田醤油(キッコーマン)で大規模なストライキがおこっていた。

 1928年1月、石堂は急に野田ゆきを命じられ、向かう。(p137-139)

 争議団本部の幹部は左翼の介入を警戒して石堂をなかなか信用しない。
 むしろ県や市の仲裁・和解案の提示を待つのみで、「左翼のもぐりこみには注意せよ」とばかり、言っていた。

 石堂はこの野田争議の模様を報告書にまとめて提出したが、1月15日の無産者新聞にほとんどそのまま記事になった。
 読者からの反応は強く、その晩は、★西田と石堂は「労働者に真実を語ることはどんなことか・・」を遅くまで議論した。

 ●野田醤油労働争議(のだしょうゆ ろうどうそうぎ)は千葉県東葛飾郡野田町(現同県野田市)にある野田醤油株式会社において、1922年から1928年にかけて連続的に発生した労働者のストライキをいう。

野田醤油株式会社内に発足した「野田醤油労働組合」は、1922年に入って、日本労働総同盟関東醸造労働組合野田支部となったが、同年、製品封入に使用する樽の加工に従事する樽工170人が樽棟梁による刎銭(いわゆる『ピンはね』である)撤廃を要求してストライキを起こした。その後焦点は刎銭問題以外にも飛び火し、賃金体系、福利設備、待遇改善を巡って経営陣と組合のトラブルが続き、ついに1923年3月、全工員1,400名が参加する大ストライキにまで発展した。

事態の軽微ならざることを憂慮した内務省は千葉県に緊急訓令を発し、知事、県内務部長らの調停によって「蛸部屋制度」の廃止などで和解させるに至った。同年4月12日、野田町笑遊劇場で労使共同円満手打式が行われて争議はここに終着したかに見えた。

しかし、つづく1927年4月の争議は「目を覆い耳を塞がしめる」と評されたほどの大騒動となった。

野田醤油社と専属契約を有する運送業者「丸三運送店」はその従業員が全員、前述の総同盟野田支部組合員であったが、野田醤油はそれを嫌い、労使関係上つながりのない同町の「丸本運送店」に貨物輸送の一部を移譲することとした。

総同盟支部側はただちにこれを組合破壊の謀略であるとして、団体協約権の承認と賃上げの実現を迫り、9月16日、全員参加無期限ストライキに突入した。

経営者は全工員の解雇、「大日本国粋会」や「大和民友会」など、労働争議や部落解放運動の弾圧でその名を知られた右翼団体の助力を受けて、刺激的対策をとり、かつ組合側でも国会への直接請願、広範囲にわたる野田醤油不買運動の展開などあったため事態は深刻化し、さらには醸造業と無関係な全国の労働組合の同情ストが頻発して、解決の見通しが立たなくなった。総同盟はこの争議を一地方の騒動に終わらせてはなるまじと決し、全国大会で情勢を喧伝したため、社会研究家など労働運動の専門家が、全国から支部を訪れて組合員を督励し、あるいは直接に指導する者もあった。大阪から大原社会問題研究所が「今般求めたる要求につき我労働階級は如何に帰着せんとするか」はるばる調査にやって来た。とうとう海を越え、スイス・ジュネーヴの国際連盟国際労働機関にまで情報が達した。

この間、警察記録に残るものだけで暴行、傷害、脅迫事件が300件以上、一説に殺人もあった。

1928年3月20日の午後1時頃、東京駅頭丸の内ビル脇で野田争議団副団長堀越梅男による天皇直訴事件が突発した。これがきっかけとなって労使双方恐懼したため急速に歩み寄り、同年4月20日「野田醤油問題解決協定」が成立。

この日までストライキ勃発から数えて216日。日本労働運動史上空前の長い解決期間を記録した野田醤油労働争議は、ここに終止符がうたれたのである。

なお、西沢隆二にこの争議に取材した、「野田へ行く」という短い作品がある。(ウイキペディア) 


 ●第二章 運動の躍進と挫折のなかで 
  <佐野学のおごり> へ 続く。 
 




●『期待と回想』
●寄り道ついでに、もう少し。


 ( 『期待と回想』 P232-3)
 <質>鶴見さんの中には、転向しなかった人はえらいという感じがありますでしょう。

 あります。桑原武夫さんは戦時中、獄中共産党員に対する引け目がなかったみたいですね。私にはあります。同時に、獄外にいて活動した尾崎秀実のような人に対する引け目もあります。それは桑原さんとのちがいでしょうね。
 桑原さんと松田道雄(小児科医)さんは京都一中で同じ時期に中学生だったことがあるんです。ただし三年ほど差があって、松田さんには共産党に対するコンプレックスがある。日高六郎(社会学者)と私の関係がそうです。日高さんは私より五つ上です。日高さんが中学生になったころは、まだ『日本資本主義発達史講座』が古本屋で買えた。ところが私のころにはもうなかった。大杉栄は買えたんですよ。大杉栄訳の『クロポトキン自伝』は買って読んだ。この本が偶然、アメリカヘ行く前に、私をマルクス主義に対して免疫にしたんです。
アメリカで会った都留重人はある意味でマルクス主義者でした。南博もそうです。この二人から多くを教わりましたが、私の立場は動かなかった。・・・

 *************

 しかし、鶴見の日本(思想家、政治家、等)に対する失望は、日本を離れるころからはっきりとあったという。(鶴見は1922年生まれ、15歳で渡米~1942年「交換船」で帰国―6月アメリカ出航、8月に横浜着―)。
 政治家の父・祐輔と後藤新平の娘で「病的な」母の家庭の食卓の話題は政治だった。
「・・・私の親父は大正時代の自由主義なんで、いいことをいってたんだ。それが、満州事変(9.18)のころから」変わってきた、という。

 9歳の鶴見少年は「あてにならない人だな」と思う。

 無論、父・祐輔だけでなく、倉田百三や尾崎喜八、武者小路実篤といった俊輔が子供のころから尊敬していた人たちまでが日中戦争勃発(37年)を契機に一変する。
鶴見俊輔が帰国(42年)したときには「神風が吹く」と言っていた。

 「結局知識人は言葉だけなんだ」という絶望感を抱き、知識人や哲学者を全否定する。戦後の思想的出発点はここにある。

 ●もうひとつ、桑原武夫と鶴見、桑原と松田道雄、日高六郎と鶴見の関係を例に述べる、わずかな年齢の違いから来る共産主義や獄中共産党員(獄中非転向組)に対する、対応(引け目や劣等感があるかどうか)も個人の努力ではどうしようもない、避けようのない「時代の風圧」であり、「出生の秘密」(三浦雅士)の時間版というものだろう。

 そういうものとして自身をも「受容」することが戦後の鶴見の思想営為の根っこにあるのだろう。

 「1968年の2年後に大学生になるというのは、1793年にサン=シールの士官学校(アカデミー)へ入学するようなもので、生まれてくる年を間違ったような気がした。」
(『フーコーの振り子』 7。ビナー  U・エーコ 新潮社)

 「・・1969年に20歳で、立命館大学史学科3年生だった。小柄で、笑うと八重歯がのぞいた。・・・美人だった。」 高野悦子は5月23日、キャンパスで機動隊に投石し、逮捕こそされなかったが、連行され警棒で殴られ、髪を引っ張られた。
 6月24日未明、下宿を出て、列車に身を投じた。
 
 著者・関川夏央(高野と同世代)は、その6年前(1963年)の『愛と死をみつめて』の大島みちこを取り上げながらこう書いた。
 「・・・ふたりとも若くて賢明、同じ京都で学生生活を送った女性なのに、たった6年でこれだけ違う。
 60年代末、時代の空気には、彼女に限らず、誠実な青年に過剰適応を強いる悪意が潜んでいた。いたましい、とつぶやくのみである。」
 (『本よみの虫干し』 関川 岩波新書 2001.10. ) 
 **************

 続いて、山上たつひこ(『がきデカ』の)『光る風』と「マルタ」について。

 p250
 ●希望としての『がきデカ』 より。

 鶴見は、なぜ山上たつひこをとくにとりあげたか?

 息子(太郎か?)が「おもしろいから読んでみろ」と山上の処女作『旅立てひらりん』を持ってきたのがきっかけだという。鶴見は読後これは「日本最初のエコロジー漫画だと思う」。

 その次に『光る風』という自衛隊のクーデターの話を書いて、・・・

 その後、姿を消したと思っていたら『がきデカ』につながる『喜劇新思想体系』を出した。
 
 「マジメな反ファシスト漫画を描いていた山上が、急カーブを描いて変わっていった。
 それに感激したんです。・・・」

 **************

 ・・・とあるが、私の印象に残っているのはそこに描かれている「マルタ・丸太」状態であった。以前(2007.2.16)、こう書いた。
 
 ●<丸太・マルタ><芋虫>、戦争のイメージ

  <戦争の悲惨さ>は、と問われて浮かんでくるイメージは、人によって様々だろうが、

私の場合は、<丸太・マルタ>・<芋虫>である。

1. 森村誠一の『悪魔の証明』シリーズによるもの。

2. 江戸川乱歩の文字通りのタイトル、『芋虫』(1929年)によるもの。
  
 ★江戸川乱歩「芋虫」(昭和4年1月発表)
 この作品は、作者のグロテスク趣味の極限を代表する佳作である.この作品が発表された当時は、プロレタリア文学の盛んだった頃で、反戦小説として激励されたりした。だが、作者はそんな意図のもとに書いたのではないと言っている。
苦痛と快楽と惨劇を書きたかったのだと言っている。これも探偵小説ではないが、探偵小説の枠を一層拡げたものと言えなくもない。(江戸乱歩傑作選、解説より)

3. 反戦詩人・川柳作家、鶴彬(つるあきら)の作品によるもの。

  * 手と足を 大陸におき 凱旋し(1930年)
  * 万歳と あげて行った手を 大陸へおいて来た(1937年)
  * 手と足を もいだ丸太に してかえし(1937年)
   (盛岡市光照寺にある墓碑には、「かえし」=「かへし」とある)

4. あの、少年警察官・こまわり君登場の『がきデカ』(1974年大ヒット)で一世を風靡した山上たつひこの初期の作品・『光る風』によるもの。

  (どういう経緯で読んだのかも、今は忘れてしまったが・・・確か「ちくま文庫」版によってだった。つまり、『がきデカ』以後に読んだ。ちくま文庫版は1997年12月刊上・下 現在品切れ。また、連載は1970年少年マガジン。単行本は朝日ソノラマサンワイドコミックス、1986年初版)。

 ギャグ漫画家としてのイメージが強いが、元々氏は『光る風』に代表されるような
 非常にシリアスな漫画を描いていた。
 
 手足をもぎ取られた、<自由度の無さ>と、それにも拘らず、<可能な思考の継続>という 状態への「関心」とでも言おうか。 
 

 


●石堂清倫・『わが異端の昭和史』
●『わが異端の昭和史』 より、
 
 西田信春に関する記述を主に記していく。(「寄り道」もあるが)。
 
 1924年(大正13年) 
 関東大震災で、どこもかも焼け跡だらけで、ちょっと風が出ると埃だらけ、そのうえ大学の校舎も急遽建設中という騒然たる東京。
そんな東京へ、石堂は金沢第四高校より1924年4月に、東大文学部に入学のため上京した。
石堂が西田信春に会うのは「5月祭」のときで、西田は一高から文学部に入学、ボート部に所属していた。

 翌1925年小樽高商の軍事演習に対する抗議行動が全国の大学に起こり、東大でも11月21日に弁論部主催で軍事教育批判演説会が開かれた。演説会はこれに反対の新人会と支持の七生会との立会い演説会となる。
新人会の勢いが七生会を圧倒したが、石堂と西田は並んで新人会への声援に声を枯らす。
西田はこれを転機に新人会に加盟、石堂と活動をともにし始め、二人は「生涯の友となった」。
この年7月、石堂の父親が死亡(母親は1923年に死亡している)。

 1926年
 1月に入ると、学連第二回大会の秘密会合に出席した38名の活動家が逮捕、新人会では4名が逮捕された。そこで新人会は陳情団を組織して、検挙反対の活動をはじめた。石堂と西田は組んで、数名の教授陣を担当した。
この反対運動の最中に共同印刷争議が起こる。

 「彼(西田)は気立てがよく、行動的で、たちまちのうちに私(石堂)は無二の友人をえた思いがした。演説会への出演を頼まれても、私はたいてい逃げるのであったが、西田は不得手の演説でも引き受けていた」。
性格は対照的な二人なので、馬が合ったとしか言いようがない。
 
 1926年4月
 このころ、会員の増加もあって、新人会の借りた新しい合宿(森川町の三河屋の離れ)に移り、石堂・西田はここに同居する。
石堂の妹・千代も同居、炊事係を担当する。
 また、大学に近いため、大勢の仲間が訪ねてきたし、上京した活動家の無料宿泊所にもなった。
 この年の新学期(4月)から、石堂らは学友会・社会科学研究部=社研の部会と読書会の拡充にともない仕事が]多忙をきわめる。
 5月から西田は大衆教育同盟本部で働くことになる。

 時代は「福本イズム」の興隆期であった。
 (*「分離―結合」、少数の知識層による理論闘争(理論の深化・先鋭化)を所謂「大衆化路線」よりも緊急・優先の課題とするもの、と要約できるか。)
 5月には福本和夫の講演会を開く。

 講演する福本は、「いかにも洋行帰りのダンディーの風があって」、聴衆には若い女性が目だった。
 福本の著書『社会の構成並に変革の過程』も出版されていて、このころから福本の著書を読む人が急激にふえた。

 「秋のある日」、赤羽に行くようにという通知がきたので行くと、それは★水野成夫の家で、その後、毎週1回福本論文を中心とする「厳しい演習」であった。
 これが、所謂「水野学校」で、石堂は戦後にやっと党組織でなかったことを知る。
 参加者は、水野のほか、石堂、西田、愛甲、常見の4名であった。

 ★水野成夫: 東大卒業、1925年に日本共産党に入党した。共産党時代に所属していた産業労働調査所を赤字経営であったのを黒字に転換させるなど、後年の経営者の片鱗を見せている。1927年日本共産党代表として、コミンテルン極東政治局に派遣され、中国武漢政府樹立に参画する。1928年に帰国するが、三・一五事件で検挙され、獄中で転向を表明する。これが、獄中での★転向声明第一号で、転向理論の原型を作ったと言われ、その後の獄中での大量転向のきっかけを作ることになる。(「ウイキペディア」)
 戦後の財界での活躍は略す。
  
 ***************
 

  ここで、寄り道して、また『期待と回想』(*朝日文庫版)からの引用を少し。

 4.転向について  p201-203

 リヒヤルト・ゾルゲ(ドイツの共産主義者。日本滞在中、コミンテルンのスパイとして刑死)の資料が、そのころ出なかったものが、ソヴィエトとドイツからたくさん出はじめたんですよ。ゾルゲの同志だった尾崎秀実(ジャーナリスト。ゾルゲとともに刑死)は第一次近衛内閣の嘱託でしたし、近衛の「昭和研究会」のメンバーだったでしょ。史学として考えれば書きなおさなければならない。

 フランクフルト学派の創立者の中心に、ドイツ留学中の福本和夫(マルクス主義の理論家)がいたんです。清水多吉(思想家)が『評伝福本和夫』(思想の科学社)という本を出して明らかにしたんですが、フランクフルト大学の「社会研究所」というグループの名前も福本がつけた。一昨日、(*この対談は1993年9月25日鴨川会館で行なわれた)私の息子(鶴見太郎*因みに氏は平凡社ライブラリー版『わが異端の昭和史』の解説者である。)が写真を持ってきた。社会研究所のメンバーがズラッと並んでて、福本和夫が真ん中にいるんですよ。後ろにゾルゲが立っている。ルカーチ(ハンガリーの哲学者)もいる。息子がいうには、こんな資料をどうして戦争中の特高は使わなかったんだろう、と。あることはあったんですよ。でもそれの重さに気づいていなかったのか、ナチスも特高もそれを使わなかった。

 史学として考えれば、やりなおさなければいけない。史学はいつでも新資料が出てきますからね。新資料が出てきにくいのは中世史くらいです。古代史と現代史には次々に新しいものが出てくる。私の書いたもの(*『転向』中巻に入っている「翼賛運動の設計者」という近衛文麿論のこと)は完全に凌がれた。発表した段階ではわりにいいものだったんですが。史学としてもある程度のものだったんですが、それからもう三十数年たってますから。

<質>福本和夫については『共同研究 転向』の中でも触れられていますね。いま福本についてコメントしなおすとしたら、どういうことになりますか。

 スターリン主義はスターリンだけに責めを負わせることはできない。「福本イズム」というのは福本和夫だけに責めを負わせることはできないんです。明治末から大正にかけてできあがった東京帝国大学を頂点とする日本の知識人の養成過程があって、それが福本がいったことを「これだけが正しい」と思わせる原因になった。フランクフルト学派でいえば、ベンヤミンもアドルノもスターリンの共産主義に対しては批判的だった。もし福本が日本共産党の重要人物になっていなかったら、そういう道をひらく可能性はあったでしょうね。私はいまだったらもう少し慎重に、福本自身のいいぶん、根拠をとらえるようにしたと思います。

<質>鶴見さんの中には、転向しなかった人はえらいという感じがありますでしょう。

あります。桑原武夫さんは戦時中、獄中共産党員に対する引け目がなかったみたいですね。私にはあります。同時に、獄外にいて活動した尾崎秀実のような人に対する引け目もあります。それは桑原さんとのちがいでしょうね。
 桑原さんと松田道雄(小児科医)さんは京都一中で同じ時期に中学生だったことがあるんです。ただし三年ほど差があって、松田さんには共産党に対するコンプレックスがある。日高六郎(社会学者)と私の関係がそうです。日高さんは私より五つ上です。日高さんが中学生になったころは、まだ『日本資本主義発達史講座』が古本屋で買えた。ところが私のころにはもうなかった。大杉栄は買えたんですよ。大杉栄訳の『クロポトキン自伝』は買って読んだ。この本が偶然、アメリカヘ行く前に、私をマルクス主義に対して免疫にしたんです。アメリカで会った都留重人はある意味でマルクス主義者でした。南博もそうです。この二人から多くを教わりましたが、私の立場は動かなかった。

<質>丸山真男さんが『「文明論之概略]を読む』の中で、ちよっとした時代のずれが大きな差を生むことの例として桑原武夫さんを挙げています。「私は丸山さんとちがってマルクス主義者に対するコンプレックスがまったくない]と桑原さんがいったことに対して、丸山さんが感嘆の声を上げている。その丸山さんはまた、「共産党には戦争を防けなかったことに対する政治的自覚がない」と正面から批判を放った人でもあった。

戦後の日本共産党の最大のミステークですね。そこから回復できない。いまもむずかしいでしょう。・・・以下略・・・
   

  <続く>。
 



●石堂清倫・『わが異端の昭和史』
 『回想と期待』の 4.転向について

 ★転向よりも重要な問題 ― を前に引用したが、その中に中野重治や石堂清倫(ともに故人)と親しい交渉のあった西田信春という共産党員(←新人会)のスパイ疑惑(=戦後「冤罪」だったことが判明した。)について記述がある。そこを再引用して、当の故・石堂清倫の大部の自伝的「左翼」運動史ともいうべき『わが異端の昭和史』(1990年10月、勁草書房刊、後、平凡社ライブラリー2001年9月10日・10月10日刊)と遺作となった『20世紀の意味』(平凡社2001年7月16日刊)のうち特にⅢ。「転向」再論 を再読―西田信弘についての記述をチェックしてみることにする。

 ありがたいことに、手許の*平凡社ライブラリー版には詳細な人名索引が巻末に付いているので、これを参考に上巻から順に追っていくことにする。


 *****************

 ・・・転向論をやってるあいだは何でもかんでも転向と結びつけて解釈していたけど、30年たって、いまの私は、転向は人間のもっとも重要なテーマじゃない、という感じがしているなにがもっとも重要なテーマかというと、「生きていていいのか」「なぜ自殺しないのか」という問題なんですよ。哲学の問題としては、転向よりもこっちの方が重いんですね。
  
 この考え方に光を当てるために、*『西田信春 書簡・追憶』(土筆社)という本を待ってきたんです。石堂清倫(社会思想研究家)、中野重治、原泉(女優。中野重治と結婚)の三人の共著。本のタイトルになってる西田信春という人は、戦前の日本共産党の九州地方委員長だったんだが、警察のスパイだという説があった。当時の共産党の資料は調べることができませんから、戦後もながくスパイだったと思われていた人なんです。


 *この『西田信春 書簡・追憶』は、『20世紀の意味』巻末の詳細な「石堂清倫業績目録」によると1970年10月31日、土筆社刊。
 因みに、この「石堂清倫業績目録」は元々『続 わが異端の昭和史』(勁草書房版)の巻末に付されていたもので、平凡社ライブラリー版刊行にあたって、収めるべきものが、「・・ページ数の関係などで、本書(『20世紀の意味』)巻末に掲載することになった」という(木村英亮)。
 しかし、読者からすると、このライブラリー版のページ数が製本上特別「限界」とも見えず、何とも理解不能な理由で「不便」を蒙るのはライブラリー版のみの購入者だろうと思うが如何なものか。
 

私がこの本と出会うのには因縁があってね、夢野久作(作家)の伝記を書いていたときに読んだ。夢野久作が福岡で秘書役に採用した紫村一重という人物がいるんです。当時、かれは共産党員ということで起訴されて裁判が進行中だった。にもかかわらず夢野はかれを自分の秘書にした。紫村は転向したんだけど、底の底までは転向してなかった。監獄で雑役をしていたとき、自分たちの指導者を売った西田信春のことを探って、とうとうかれの警察調書を発見するんです。それを読んで西田はスパイどころか、拷問にあっても自白をせず、警察署の階段をズルズルと何度も頭から落とされているうちに死んだということがわかった。逮捕されたのが1933年2月10日で、死んだのが翌日です。その事実を警察は嘱託医をごまかして、「職務熱心でこうなりました」といっている。

 そのことが戦後になって明らかにされた。それは西田と交渉のあった中野重治や石堂清倫にとってはたいへんなショックだったんです。それでこの本ができたんです。
・・・以下略・・・ 
 
 

石堂清倫・『異端の昭和史』の巻末の人名索引では、「西田信春(山田春男)」となっており、

上巻巻末には、「西田信春(山田春男)」として、
 64、78、81、87-89、97、107、110、113、116、117、130、133、139、142、
 143、169、179-184、223 とあり、

下巻巻末には
 「西田信春」とのみなっており、
 119、285、300、312、413 
 とある。
 

 以下、ページを追って記していく。

  <続く>
 





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