カウンター 読書日記 2008年01月
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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)-4
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)-4


 ●三宅雪嶺も断じ切れなかった政治家としての器

 高島のかかる冷遇を世間は怪しんだものと思う。選挙干渉以来の国民的不人気から同情に値せずというのならば樺山資紀も同断であるが、樺山は国民的英雄となった。世人の不審に答えたのが秋川書店『帝国陸軍将軍総覧』の高島評で、「大阪では鎮台司令官、第四師団長として大いに権勢を振るい、多くの新規事業も実施した。その後、陸軍大臣、拓殖務大臣など軍政家として政治的手腕を発揮したが、早く現役を退いた。直情径行のためといわれる」と月旦する。これは『大日本人名辞書』が「鞆之助豪放にして膽気あり。細事に汲々たらず、家資常に空し。政治家の器ありと雖も、直情径行にして紆余曲折の態に乏しきを以て、晩年落寞として振るはず」と評したのを受けただけで、自ら究明するところがない。小島直記『日本策士伝』も似た解説
を述べるが、三宅雪嶺の『同時代史』を借用しただけで、自身の意見はない。高島晩年の不振の理由を雪嶺は、「恐らく第四師団長以後、頭脳の発達が停まり(中略)記憶力の乏しきは何時頃よりの事か、後に人の面を忘れ、感情を害すること少なからず・・・」と憶測するが、「我執を強くし、偏狭に流れ」と評したのは、何のことを指したものか分からぬが、樺山と共に閣内で選挙干渉を主張し、関与知事の更迭に飽くまで反対した件からすると、高島に対する「案外に偏固の癖あり、思い立てることは飽くまで遂げんとす」との評も、あながち不当とは言い切れまい。しかし事実は、雪嶺自身が云うように、「まだこのときは、まださすがに勇敢だ、となお重きをおかれ」ていた。だからこそ5年後に再び陸相のお鉢が回ってきたのである。

 つまり、高島への酷評は、そこで出世が止まったから生じた結果論で、初回の陸相の時には評価のガタ落ちなどなかった。雪嶺が「高島の評価がガタ落ちした」と指摘するのは第二次松方内閣の時であるが、この内閣も5年前の第一次内閣と同様、松方が首相兼蔵相、陸相兼拓殖相に高島、海相に西郷従道、内相に樺山と、要所を薩人で固め、その他は外相大隈(佐賀)、司法相清浦奎吾(熊本)、文相蜂須賀茂詔(大名)、農商務相榎本(幕臣)、逓信相白根専一(長州)を配したもので、閣員構成は5年前の第一次内閣と酷似している。

雪嶺は「先ずこの内閣は〔欲ありて意なく、意ありて謀なく、謀ありて力なき〕閣員の集合体であった」というなら第一次内閣の顔触れも同様だ。松方・高島・樺山の薩摩三人衆が水戸黄門トリオ宜しく並び、心情的に薩人に近い榎本が加わり、他は首のすげ替えだから、両次の松方内閣に挟まれた第二次伊藤内閣が、井上・山県・陸奥・黒田の元老を並べて「元老内閣」と呼ばれたのと比べると閣員の爵位は確かに一段落ちるが、政治の評価はそんなことには関係がない。この内閣の特徴は、進歩党の大隈が松方に協力した連立内閣という点にあり、ために世人は松隈内閣と呼んだのである。雪嶺が、玄洋社と政治的立場を同じくする松隈内閣に対して悪態を吐いた心理は不可思議だが、その詮議はともかく、「そこで薩派の牛耳を執るは陸相兼拓相の高島にして」の言は流石に正鵠を得ている。両次の松方内閣で要所を占めた薩人をまとめたのは、確かに陸相高島の一言であった。したがって「第四師団長として嘱望されたときのようであれば、内閣関係者を結合する中心人物として、事実上の首相となったであろう」との評は正しい。問題は事実がそうならなかったことで、その理由を雪嶺は「豪傑肌で愉快な人と見られるのと、小事を争って策略を弄する御仁として知られるのと、どちらが本当か。世人は判断に戸惑い、それが高島信者の損となり、高島本人の損となった」と評した。評言の重点は後半部にあり、「高島が、第四師団長時代とは一変して、小事を争う偏狭な人物に変わった人材異変を原因とする」と断じたわけである。
    
   <続く>
 


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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー3
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー3

 ●現役復帰、拓殖務相などを歴任するも恩賞なしの謎

 朝鮮国では親日派政権の樹立に向けた朝鮮改革の動きが進み、これに応じた民間志士が26年8月、朝鮮独立を目指す実力結社の天佑侠を釜山に設けた。時を同じくして杉山茂丸は参謀次長川上操六中将に会い、清国との早期開戦を訴える(堀雅昭『杉山茂丸伝』)。軍拡を益々進めた清国は、しきりに軍艦を日本近海に航行させ、挑発的な軍事演習を繰り返していた。大局はもはや事事行動による解決しかないと説得する杉山に、川上は長州閥の巨頭で枢密院議長の山県有朋大将への呼びかけを懇願した。山県は伊藤・井上の平和論に押され、且つ彼我の兵力差を憂いて開戦論を拒否するが、やがて川上の意見を入れて開戦論に転向した。因みに、薩摩と玄洋社の大陸政策にとっての障害は常に★伊藤の非戦論で、その因縁が後年ハルピン駅頭の伊藤暗殺をもたらしたものと思われる。
 
対清戦争の目的は、第一に条約改正を国力(軍事力)により推進すること、第二は日朝の連携を実現するためであった。既に国家の実質を失った李氏朝鮮国の支配を巡って、日清露の間で覇権争いが激化しつつあり、朝鮮国内では東学党の農民軍が決起を控えていた。東学党の騒乱に乗じて玄洋行が清国を挑発し、開戦の口実にしようと考えていた有様を、杉山の子息夢野久作が傑作『犬神博士』のなかで語っている。明治27年3月、東学党の蜂起と金玉均の暗殺を開戦の口実として、日清間に戦雲が沸き立った。現役に復帰し海軍軍令部長に就いた樺山資紀は、講和ごの28年5月海軍大将に進級、台湾総督に補せられた。樺山総督は6月17日、台北城内で閲兵式を行い19日に南進を開始するが、土匪の抵抗が激しいため一個師団では不足と判断し、28日大本営に対し一個混成旅団の増援を請求した。台湾総督府は民政を中断して軍政に移行、8月6日、台南平定の南方作戦を指揮すべき副総督を置くこととし、樺山総督の要請により、予備役中将高島鞆之助を8月21日付で之に任じ、現役に復帰せしめて南進軍司令官とした。作戦計画を決定した南進軍司令部に対し、22日付で南進命令が下り、激戦ここに2カ月、10月21日の安平陥落を以て台南征討は成り、樺山総督は11月6日を以て南進軍の編成を解いた。

28年12月に凱旋した高島は、翌年4月、第三次伊藤博文内閣が新設した拓殖務省の初代大臣に就く。台湾総督府の監督に当たった高島は、9月に第2次松方内閣に移行するや、拓殖務相兼職のまま2度目の陸相に返り咲くが、30年9月の行政整理で拓殖務省が廃された後は陸相を本官とし、31年1月までその職にあった。3年前、25年8月に予備役入りした高島は現役に復帰し、台湾副総督から拓植務相、さらに陸相を兼務したが、なかでも1年半に亘る陸相の座は、日露決戦の時機迫る折から、国内で最も重要な職位であった。28年8月5日、硝煙いまだ漂う中で早くも軍功表彰があり、戦時中に軍務大臣だった大山・山県・西郷従道が勲一等旭日桐花大大綬章を授かり、野津道貫(第一軍司令官)、樺山(台湾総督)、川上操六(参謀本部次長)、伊東祐亨(海軍軍令部長)が旭日大綬章を受けたが、この勲章を既に8年前に受けていた高島には何の恩賞もなかった。既達の爵位勲等が高過ぎて昇叙の余地なく、次の機会にという所だったのだろうが、その機会は大正5年の逝去まで終に来ず、没時に勲一等旭日桐花大綬章を賜わるまで実に30年もの間、何らの恩賞も受けなかった(位階の正二位は侯爵・首相級で、生前の贈位と思うが年次は未詳)。

  <続く>
 



陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー2
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー2

●閣内で選挙干渉を叫び辞職、薩摩ワンワールド総長に? 

明治24年11月の第2国会において、政府の軍拡予算案が否決されると、軍部の内大臣は黙しておらず、海相・樺山が「薩長政府などと罵るが、本邦今日の隆盛を来たしたるは薩長政府の功績ではなきか」と吠えた蛮勇演説で議会は荒れに荒れ、松方は衆議院を解散した。第2回総選挙は、品川弥次郎内相と白根専一次官の長州コンビが、史上有名な大選挙干渉を指揮する。それにも関わらず民党が勝った理由は、民党の激化を懼れた伊藤及び山県・井上馨ら長州要人が選挙干渉の手加減を品川に要請したために品川が腰砕けになったからである(堀雅昭著『杉山茂丸伝』)。選挙干渉が最も激しかった高知(調所広実)と佐賀(樺山資雄)の知事はどちらも薩摩人であった。福岡では、杉山がかつて県知事に押し込んだ安場保和(後藤新平の岳父)が選挙干渉を主導し、杉山もこれに協力した。選挙後、品川は引責辞職し、後任の内相が副島種臣(佐賀)松方(首相兼務)と一時凌ぎの後、司法相兼務で就任した河野敏謙(土佐)が、人心収攬のために佐賀・高知の知事更迭を図った。閣内で選挙干渉を叫んでいた高島・樺山は、あくまで軍拡を重視する態度で、更迭に猛反対して辞表を提出、これにより第一次松方内閣は25年8月8日を以て倒壊、第二次伊藤内閣に代わる。同日高島は予備役編入、樺山資紀は退役し、共に枢密顧問官に転じた。

 この時期の枢密院議長は、大木喬任佐賀)→山県有朋(長州)→黒田清隆(薩摩)で、副議長は東久世通禧(公家)である。また枢密顧問官は、薩人では前海相・仁礼景範、元海相・樺山資紀、元海軍卿・川村純義(樺山の子息愛輔の岳父)、旧幕臣では元海軍卿の勝海舟、同じく榎本武揚、さらに前海軍軍令部長・中牟田倉之助(佐賀)と海軍の元首脳が20数名中にこれだけいた。日清の開戦迫るこの時期に、自ら軍政を離れた高島は、一体何をしていたのか。

★結論を言えば、24年4月に死去した枢密顧問官・吉井友実が保持した秘密権力を引き継ぎ、薩摩ワンワールドの総長の座に就いたと、私は考える。

海軍首脳といえばワンワールドの上席と観るのが世界の常識だが、日本も多分同じで、海軍首脳が居並ぶ枢密院は、高島にとって恰好の居場所だったものと思う。

  <続く>
 



陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー1
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)

 「大西郷の後継者」から「人格異変」? 高島鞆之助の実像
  ニューリーダー 2008年2月号


●謎多き政治フィクサー、玄洋社・杉山茂丸の暗躍
    
薩摩藩士高島鞆之助は戊辰戦争に功あり、明治4年の御親兵募集に応じて上京したが、西郷隆盛と吉井友実の計らいで宮中に入り、侍従となった。翌年侍従番長に挙げられ、天皇側近として幾多の勅命を果たした後、明治7年陸軍に転じて初任大佐、10年に少将、16年に満39歳で陸軍中将に昇り、翌年施行の華族令で子爵に叙された。21年からの大阪第四師団長時代は名軍政家として知られた高島の陸軍におけるその位置を、三宅雪嶺の『同時代史』は、「第四師団長たりしとき、大西郷の後継者たるべしと見らる」と語る。24年、第一次松方正義内閣の陸相として政界入りした高島は、時に47七歳の分別盛りであった。

 これに先立つ明治17年、朝鮮国京城で甲申事変が起きた。世界史は帝国主義の最終段階に差しかかり、南下意欲を露にする帝政ロシアに対し日本帝国が存立しうる条件は、朝鮮半島の独立性確保に懸かっていた。しかし朝鮮は依然清国の属国に甘んじ、その清国すらロシアに狙われていた。

朝鮮がこの状態から抜け出すためには、日本と結ぶしかないとする金玉均・朴泳孝らの独立派が、クーデタを実行する。王宮を護衛していた日本軍も出動したが、袁世凱率いる駐留清軍に破られて、クーデタは失敗、親清派が臨時政権を樹立した。翌(明治18)年4月の天津条約で、日清両国は、朝鮮内政に干渉せず、出兵の場合は相互に事前通告することを約したが、朝鮮の政権は親清派の事大党が掌握するところとなった。海軍の大膨張策を採って周辺国を威嚇する清国の姿勢は、あたかも今日の中華人民共和国を彷彿するもので、19年には長崎に来航した清国水兵がわが警官・市民らを殺傷し、暴行を働く事件が起きた。軍拡を背景に中国兵が増長し、アジア各地で侵犯を働くのは歴史の通例である。

 明治22年12月、外相大隈重信の条約改正問題で黒田清隆内閣は総辞職する。玄洋社の杉山茂丸が不平等条約の原案を不満とし、来島恒喜を操って大隈重信を襲撃せしめたのである。代わって第一次山県有朋内閣が成立したが、何せ国際問題をすべて軍事カで解決した時代である。

26歳ながら海外事情に精通していた杉山は軍備拡張の必要を痛感し、山県内閣を動かして軍拡予算を通そうとした。しかし、翌年7月の第2回総選挙で勝利した民党が、11月の第一回帝国議会の予算案審議に大幅な予算削減案を提出して通過させるや、民党の勢いを懼れたた山県は忽ち内閣を投げ出してしまう。その後を受けた第一次松方内閣は、外相に榎本武揚(幕臣)、司法相に田中不二麿(尾張)、文相に大水喬任(佐賀)、農商務相に陸奥宗光(紀州)、逓信相に後藤象二郎(土佐)を配し、長州人は内相・品川弥次郎ただ一人であった。この内閣は、伊藤博文と山県が背後で操縦する「黒幕内閣」と呼ばれ、「世論を配慮した伊藤の智恵により薩長色を薄める人事にした」との解説が当時から専らであるが、これは長州ないし伊藤の買い被りであろう。

事実を観れば、松方首相が蔵相を兼務し、陸相に大山巌→高島、海相に樺山資紀と、要部を大陸積極派の薩人が占め、長州色はまことに薄いが、誰の目にも薩色が薄いとは見えない。長州が恰も「黒幕」に見えるのは、深慮遠謀のためてはなく、ひたすら民党を恐怖して薩長の陰に隠れたその姿ゆえである。財政家の松方さえ軍拡を最大の責務と考えた時宜なのに、長州では陸軍長老の山県さえ民意を恐れて非戦派であった。凡そ明治20年以後の近代史は、大陸積極策且つ官僚専制派の薩摩閥と大陸消極策で民党と結んだ長州閥の思惑が、光学的干渉のごとき縞模様を顕しながら進展していくが、その間にあって両者を仲介したのが玄洋紅の軒を借りた杉山であった。

杉山は、薩摩と政治的スペクトルを同じくする玄洋社に属しながら、日常の交際を専ら長州閥の要人としていた。薩摩の意思を長州に伝えるためと見えるが、或いは、杉山その人が長州浜を調略していたのかも知れず、杉山の考究なくして日本近代史は語れないが、それは別条に譲るしかない。
  
 <続く>
 

   


●『俗戦国策』 杉山茂丸 (4)
 ●日露開戦 の章に茂丸のロシア観や文学観を吐露した一文がある。

 伊藤博文との関連で紹介しておきます。

 ****************

★我が露西亜(ロシア)観

 此の如く我日本は、日露戦争以来、我国の先輩長者が身魂を砕いて築き上げて来た犠牲の結果とも云うべき、対露戦勝の我国家を、其子弟たる現代の日本国民は、又、悲惨にも、現代の露西亜が発散する高毒素の宣伝にて毒殺(poisoningshou)せられんとしつつあるのである。
彼の「レーニン」「トロツキー」の高唱したる主義は、論拠を或る学問的意義に取りて、露国民を全部、発狂せしめた、即ち其目的が、革命である、曰く、
 一、階級を破壊する事、
 二、財産を共有する事、
 其次に高唱したのは、
○目的は、手段を聖化せしむるものなり。
これらの宣伝に、天性単純とう愚(バカ正直)なる露国民は発狂して之を実行したのであるが、其目的の実行とはドンな事であったか、先ず皇帝を銃殺する事と、皇后を辱めて虐殺する事と、皇族を悉く穴に入れて埋め殺す事と、国民が先祖以来働いて蓄えて居た財産を悉く没取する事とであった。

 此等の主なる目的を達する為には、ドンナ手段を取ったか、1ケ月に平均1千人ずつの反過激派を虐殺した、国民の財産と云う財産は全部剥ぎ取った、国民の弱者と云う弱者は、男女とも全部これを凌辱した、其の他に何事もしたこと事はないのである。ソンナ手段が、ドンナ目的の為めに、聖化せられたか、世界の歴史始まって、未だ見た事も聞いた事もない程の惨害を実行して、矢張り国じゃとか、政治じゃとか名を付けて、少しも恥しいとも何とも思わぬのである、而してやはり、日夜の声を続けて「サイ
エンス」呼わりをして居るではないか。
そもそも学問とは何物であるか、地球に土地あって以来の歴史に伴うて発生したる、吾人祖先人類が、伝統的に思念考慮したる種々なる記録にして、吾人以後、尚お幾億万年も継続して、思念考慮したる発明的記録を子孫に伝統せねばならぬと云う、純然たる未製品の筆記である。
左様な不完全なる薬剤を以て、僅かに60年の「ライフ」を「リミット」として生存して居る人間に向って之を療下せしめんとするは、危険此上もない事である、此等は恰も、薬局法未定の、有毒素の粗製薬品を以て人類に手指で投薬するのと一般である。
現代の世界各国は殆んど全部、此の未製品の学問中毒に罹りて、未定薬局法、投薬の原理、原則と云う毒素に内蔵其の他の生理的機能を破壊せられて、正に死に瀕しつつあるのである。
読者よ、欧北半暮の国たる露国と云うは、往古より大豪傑も出で、大学者も出たが、其性、懇頑ならざれば深酷、一種の偏倚性を有するのである故に、彼の文豪「レフ・トルストイ翁」の如きも其流暢なる文章で一篇の小説を綴るにさえ其の罪囚を保護し、一方、官憲を罵る行文の随所にも終始一貫して彼の懇願性と深酷味は顕われて居るのである。

今ちょっと其の一節の意味を抜き出して見れば、

◎「ペテルブルグ」の監獄に繋がれて居る幾多囚徒達の運命を自由自在に左右して居る男は、沢山の勲章を侍って居る最もイカメしき老将軍であって、彼は不断、襟に慈悲の表彰たる白十字章を吊して居る大官である。

 世間では遠の昔から彼は耄碌して居ると云われて居るけれど、ソーでないかも知れぬ証拠は、彼は立派な男爵で、将軍で、監獄最高の大官である、彼はドウして斯る光彩ある位置を得たのであるかと云えば、彼は多数の百姓達を強制にて其の頭を短かく刈込ませ、強制にて軍服を着せ、強制にて銃剣を担がせ、自ら夫(それ)を強制にて指揮し、強制の表現とも云うべき軍律なる印刷物を以て総てを圧迫し、監禁、幽閉、刺殺、銃殺を以て威嚇し、而して彼等百姓達の生命を掛けて保護防衛した物は、彼の老将軍等の単独な位置や、自由や、家産や、其の血族等の幸福と安寧等とであった。而して其の目的を達した時は、彼等百姓達の死屍は何千何万と血みどろになって、累々として原野に横わったのである。

 これだけの事を強制的に遂行した功労によりて、彼、老将軍が頂戴した幾多の勲章が、アノ胸間に燦爛ときらめいて居る彼品(あれ)である、夫から又彼将軍は波蘭(ポーランド)にも勤務した事がある。其所でも彼は百姓の食を奪うたり、衣を剥いだり、鞭で叩いたりした功労によりて色々の勲章や襟飾りを頂戴した、而して彼は今や高大な邸宅の中に、世界中で一番柔かにして暖かな「アーム・テヤー」(ママ)の中に老体を埋めて、尚お且つ旧来の位置を保って居るのである。

 併し彼は長年の習慣性で、上長官の命令が一度降下すると、恰も猛獅(ライオン)が兎を見付けたように「アーム・テヤー」から刎起きて、満身の精力を傾尽して、如何なる皮の鞭でも、鉄の棒でも、氷の刃でも、鋭利な鉄砲でも軽々と操縦して、其行為の前には、慈悲も、不憫も、気の毒も一切ないのである。
彼は斯の如く厳重に命令を奉ずる事のみを大切にして、此以外には譬え自己を人類外に放棄しても、其上司の命令に忠実なる無情惨酷を平気で遂行する能吏である、夫が即ち彼の今日の位置と、富と、幸福と、安寧とを築き上げたのである、故に彼が毎日職責と称して、身心を傾けて信じて居る事柄は、幾多の男女を、網羅したる罪人を、要塞の奥の独房の中に監禁して、10年間に夫等の半数が牢死したり、狂気したり、肺病となったり、自殺したり、餓死したり、硝子の破片で動脈を切って眠死したり、網紐で縊死したり、木片で柱を摺りて焼死したりするようの待遇を、アノ禿髪、白髭、跙歯屈腰(そはくつよう)の年まで、夫を光栄として瑕瑾なく勤務したる、光栄のある役目と思うて居る、男爵で、将軍で、大官で、富裕なる男であるのである。而して彼が、巨額なる国費を以て使役する幾百千の下吏僚属は、因襲的に彼を羨み、彼を学び、尚お一層それ以上に職務の能率を向上せしめんと務めて居るのを、彼老将軍は、全く自己の良心から視て、悪い事とも思わず、多くの罪人の苦しんで居るのは、アレハ純然たる天災の、風や、雨や、地震の如く不可抗力の災難に遭うて居るのと同じように心得て、自己単独の感覚に対しては、特殊の刺戟を受けぬのである。ナゼなれば、斯る総ての事柄は皇帝の御名によりて発布し、皇帝の聖鑑によりて執行せられる法律の遂行であるから、我々に何等の関係なく、関心なく我々に月給やら勲章やらを恵まるる上司の命令をのみ大切に遵奉するのに何の不思議があろうぞ。此等の事より発生する多くの故障と損害は、総て皇帝陛下に於て責任して下さるのであるから、ドンな大変が起ろうが、大乱が兆そうが、吾人の享有すべき月給と、年度進級と、養老年金と、合理的の賄賂の上には、何等の故障も及ぼすべき事ではない、故に此老将軍の愛国と云うも、忠義と云うも、正義というも、皆全部総て以上の行為の中に含まれて居るのである、云々。

 と、この「トルストイ」大文豪はスラスラと此を書いているのである。茲で読者は一考せねばならぬ、此「トルストイ」の此筆致と云うたら、何等の深酷であろう、何等の挑発であろう。

 此文豪の煽動に掛ったら殆んど踊り出さぬ者はない、飛出さぬ者はないのである。元来昔から文豪などと云う名は、動(やや)もすれば煽動名人の別号かと思わるゝのである。「ルーソー」(ママ)は自由平等の逆理窟を云うて全世界の政治界を煽動した、近松巣林子は非条理の男女恋愛を書いて満天下の心中情死を煽動した、「トルストイ」は偏倚なる反抗心を挑発して露国の下層民を煽動したのである。素より国家的統一心と常操とを有せざる戇頑なる露国民を、斯く念人りに丁寧に小説的にまで分け入って、為政家の困難する様にと煽動したのであるから、露西亜の政治は昔日から政治らしき政治は絶対に出来ぬように造り上げられたのである。ナゼなれば元々政治上の一部人として単なる罪人の監視者ばかりを攻撃する丈にても、政治的に反抗したる経歴とは犯罪者の警醒教訓と共に、一言も之を道破する所がないのである、只だ一向に筆を舞わし文を踊らして、其の彼等の犯罪と反抗とに対して、煽動奨励のしっ放しの跡より外、何物も見る事は出来ぬのである。

 ソコデ実際に於て「アナキスト」(無政府党)「ソシヤルスト」(社会党)「ニヒリスト」(虚無党)「ボルセビーキ」(共産党)等が蛆虫のように孵いて来て、露国は国でもなく、人民でもなく、単なる悪性の遊牧動物的となったのである。

此の如き露国が殆んど欧亜の地半面を占領して、其の披煽動者として、最も有力なる民族が殆んど一億数千万人も蠢動して居るから、其の気運はドウしても欧洲の他の国家や東洋の支那や日本等へも、風靡波動して来るのは当然である。而して其の風靡波動は、先づ第一に「サイエンス」に耳目を刺戟せられる学徒に媒介せられて、トウトウ教育界の色彩を混濁せしむる事となるのである。

★要心せよ日本国民

 此の故に、今日我日本帝国に於ても、現在お互の産んだ子供は悉く善良であり升、夫を学校に入れて置くと、其の日から漸次に此毒素に中傷せられて、段々に目が耳の辺まで裂けて来て、尻尾が一寸二寸ずつ伸びて来て、全部獣物になるつつある所であり升(ます)。                
 夫(それ)に直接間接に3~4億円の学費を掛けて、此の獣物を製造しつつあるのであり升、その製造掛りには、国家が、学士博士の称号を付したり、或は爵位や年俸の壱万円内外を与えて、上下官民共に挙って之を奨励しつゝある事を、決して忘れてはなりませぬ。

学問と云う物は人類の品位を飾る物にして、一日も廃してはならぬ物でありますが、人類、脳細胞の意思系統を刺戟する文学は、決して之を、意識する以上に「アップライズ」しては、大変な片輪を製造する事になるものであり升。
夫は庵主の説明までもなく、現世界の総ての人類が、理化学、科学工業以外に働きつつある文学的毒素は、露西亜その他の国家に「デベロップ」して居る事実丈けで、十分に分るのであり升(ます)。
即ち今の日本は、露西亜を征伐して勝った復仇に、学問的の高毒素を以て毒殺されつゝある所であり升。

 



●『俗戦国策』 杉山茂丸 (3)
 ●ー億三千万弗借款事件

 ★黄金王モルガンとの問答


 夫(それ)から予定の通り、米国貿易商会の社長「スチブン」氏の案内で各製造所を見て、庵主の頭に入るだけの視察と必要書類とを得て大抵要領を得、直ぐに加奈陀(カナダ)に入り、暫く「ヴァンクーバア」に船待をして其の地方を視察し、匆々に「インプレス・インデアン」号で帰朝し横浜に着いたのが其の年の11月の3日であったと思う、丁度横浜を出て153日目であった。

夫(それ)から金子子爵や由利子爵と相談を定め、今度は金子子爵の手紙を1本持って渡米したのは、その翌31年の3月1日であったと思う。          
金子子爵の手紙は、「ゼー・ピー・モウガン」商会の法律顧問たる「フレデリック・ゼニング」氏に宛たものであった。その文面は、

 「此の手紙を持って行く・・・は、子(金子)が同郷の友人であって、日本に於て最も進歩したる経済的要務を帯びて欧米を巡視する者である、子は貴下が米国に於て最善の指導を与えられん事を望む、云々」

 と云う様な事であったと思う。今度は横浜を「インプレス・チャイナ」号で「ヴァンクーバア」に向い、米国に着いてユックリした宿に泊り込み、方々の観光に出掛けて、一向、誰にも面会せぬのである、折柄金子子爵の手紙を受取った「ゼニング」氏が庵主の宿を訪問して来て、
 「貴下は何か経済上の要務を帯びて居られると金子氏の手紙で見たが、ソーですか」
 と云うから、
 「・・衷心より貴下の御来訪を感謝致します。金子氏の手紙にある如く、小生は或る経済上の視察をするのでありますが、米国はその旅行の途中の道程であります・・昨年参りまして、米国の各製造所は巡視しましたが、マダ少しも米国各地の様子も見ませんでしたから、今回は観光を主とする積りであります。昨日『ナイヤガラ』から帰って参りました」

 「ハア、そうですか、実は★金子氏からのお手紙でしたから・・丁度その頃『モウガン』氏にその別荘で会いましたから、東洋の経済問題の為、その人に1度会っては如何と申しましたら、氏は『来る水曜日に紐育に帰るから、その翌日の木曜日の午後2時頃、2~30分間位なら面会しても差支ない。併し沢山面会せねばならぬ人を断って居るから・・極秘密にして置いて貰いたい』・・・との事であったから、
幸いの機会であるから、君、お逢いになって置く方が良いと思い升(ます)が」
「夫は何ともお礼の申し様もない御厚意であり升・・世界各国の元首でさえ、此の国に来て『モウガン』氏に面会する事の困難な程の世界の黄金王でありますから、願うてもない事とは思い升が、小生は全く書生の観光旅人であって、何等日本政府の『オーソリチー』等も持って居らず、全く無責任の世間話位で『モウガン』氏に面会しては、第一敬意を欠く事になりますまいか」

 「夫は・・好き御注意ではあるが・・・私は既に貴下の事を話したら、面会すると時刻まで指示された位故、兎も角面会なさってはドウです」
 「誠に有がとう存じ升が・・・甚だ恐入ますが・・小生が全くの米国観光旅人で、何等官憲の命令も何も持って居らぬでも面会して下さるかドウかと、貴下より今一応『モウガン』氏にお尋ねを願いたいと思い升。夫が東洋人の礼儀とも敬意とも心得て居ますから」

 「貴下のお考えはよく解りました。夫では今度聞いて木曜日の朝までに御返事致します・・・「モウガン』氏は、自分の気が向くと思いも寄らぬ人に面会をします・・・此の間も突然費府(フィラデルフィア)の工学生の寄宿舎に行って、椅子も無しに講話をしました位ですから・・イヤ、屹度貴下に御面会すると私は思い升」 と云うて「ゼニング」氏は帰られた。夫から水曜日の午後の2時頃に「ゼニング」氏から、
 「明日の午後2時頃『モウガン』商会に来られよ」
 との事であった。その木曜日の1時頃「ゼニング」氏が庵主の宿の「フィフサベニュー・ホテル」に来られた。

「隙があったから迎いに来ました・・『モウガン』氏に貴下の趣旨を話ましたら『兎も角時間が明けてあるから面会する』と云われました」
 との事である。此の「ゼニング」氏と云う人は実に立派な紳士で、金子氏の手紙の為めでもあろうが何所まで親切な人であるか解らぬと思うた、夫から馬車を共にして「モウガン」商会に世界の黄金王モルガン氏を訪うた。チャンと部屋に待って居た、其の容貌は平面の顔で、頭は半白の髪が房々として、眼が鳶のように茶色の瞳子(ひとみ)から異様の光を放って居る、而して其の目元の愛嬌と云うたら、比類なしである、「ゼニング」氏は庵主と共に直立して居たら、

 「シットダウン・・・(坐せよ)」
 と云うて突然として「モウガン」氏が発する声は、最も底力のある威圧を感ずる簡明な物であった。
 「亜細亜大陸の開発は、ドウしたら好いと云う意見ですか」
 「開発を考える前に、大陸に充填する天産地産の豊富にして、夫が原始の儘封鎖せられて居る事を知らねばなりませぬ」
○「其の価値は」
 「世界無比に安価と思います」
 ○「ナゼ」
 「河川海洋の便によりて、国を狭小に区画する事を得る地形にあり升から、運輸の距離が甚だ近接になり升、故に豊富なる天産は世界無比に安価であり升」
○「日本民族の特長は」
 「情義に富んで、勤勉で忍耐にして、持操があります。その他悪い習慣も沢山ありますが、米国程ではありませぬ」
 ○「支那民族の特長は」
 「忍耐、勤勉ではありますが、人類の持操に乏しいように思います、故に威圧力善導の外、道がありませぬ・・・悪い習慣は米国以上であります」
 ○「開発の利益は何所で得られる」
 「米国の悪習慣は、理論的であり升から、仕方がありませぬ、支那の悪習慣は、無理論的であり升から、対症治療の威圧的善導で片付ます、何でも徹底的に片付かぬ事は結局損であるから、高価く(ママ)付きます、早く片付いた事は総て安価であり升」
 ○「夫(それ)では外国人は、威圧器械を特って開拓に行かねばならぬと云わるゝのか」
 「外国人が直接に亜細亜を開拓すると、世界無比に高価になり升、其の開拓を全部日本に嘱託するが一番宜いです。日本は距離が近くて、威圧器械も具備して居升(おります)」
 ○「嘱託を受ける程の信用が日本に有りますか」
 「日本は政治上の内乱と経済上の恐慌は折々来ますが、50年の長年月、外国の負債取引支払い元利共一度も信用を怠った事はありませぬ」
 ○「日本民族が世界の代表者となって、亜細亜開拓を嘱託せらるる資格は如何」

 「日本は東西両洋の文明を理解し、其の負うたる責任を果たさざる事は今日まで一度もありませぬ」
 ○「開拓の資本は誰が供給する」
 「夫は小生にお尋ねにならずとも、賢明な貴下がよく御存じと思い升・・屹度米国が貸すのです、夫は東洋の為めでなく、米国自己の為です・・・米国は世界黄金の実権を把握して居り升(ます)、鉄と小麦粉と唐もろこし(コーン)だけでも、モウ欧羅巴には売れませぬ、東洋を開柘して夫に黄金と鉄と麦粉と唐もろこしだけでも売る場所としなければ、世界坤與の上に、モウ売る場所がござりませぬ。夫を実現する方針を定める責任は、日本でも米国でもありませぬ、全部貴下御一人のお考にある事は、世界の何人に問うも異議はござりませぬ」

 ○「ドンナ方法で開拓費の『インベスト』をする積りですか」
 「絶対に米国が損をせぬ方法が基礎です」
 ○「政府が引受けるのですか」
 「日本の政府は、商売人ではございませぬ、商売を保護する者であります」
 ○「夫では資本引受会社を拵えて、政府は『セコンド・ギャランチー』をするのですか」
 「夫で結構と思います」
 ○「夫を日本政府は為し得ますか」
 「為せたら為るであろうと思い升」
 ○「夫では支那の事は後にして、先ず日本自己の開拓をする事を政府が保護して後に、支那の事に及ぶの外あるまい・・・日本だけで幾千(いくら)の資本を要する見込ですか」
「解りませぬが・・・先ず1億位から始めるが適当かと思い升(何だか此の時1億円と云う事を云わなかった・・・『モウガン』氏は夫を1億弗(ドル)と思うたと見える)」
 ○「それでは案は直ぐに立つと思う、先ず、

(1)工業開発会社を起し、其の会社が債券を発行するのに、政府が第二の保証をする事
(2)その金額は1億弗以上1億3千万弗位を限度とする事
(3)年限は50年位とする事
(4)利子は五朱以上に貸付けてはイケない、利息が高いと事業利益が少なくなるから、資本の需要が 多くならないから
(5)利息は必ず3歩5厘として、その会社が1歩5厘を取ったらよいと思う。」
 
 「ソンナ事で、貴下が尽力せらるゝ事を拙者は承認し升」
 「誠に結構な御指導です・・・小生は今お話の事を『メモウ』(覚書)に書いて戴きたいと思い升」
 と云うと「モウガン」氏は暫く沈黙して居たが、庵主も「ゼニング」氏も驚く程の大声を発して
「モウガン」氏が、
 「『ゼー・ピー・モウガン』が承認(エース)ですぞ」
 と云うと共に、非常に昂奮して「テーブル」の端をドンと叩いたので「ゼニング」氏も庵主も通弁も度肝を抜かれて、顔色がサッと変わった。・・・庵主は徐に云うた。
 「今一度テーブルを叩いて戴きたいと思いますが」
 と云うと「モウガン」氏は緊張した声で、
 「ナゼ (ホワイ)」
 と云うから、
 「今一度テーブルを叩いて戴いたら、その音響が日本まで聞えはせぬかと思い升・・・小生は先日『ゼニング』氏を以て敬意を表しました通り、米国観光の一旅人でござり升、何等政府の命令も、国民の依頼も、受けて居ませぬ、併し貴下に拝顔の光栄を得る事を許されたから、恐る恐る伺候して御高諭を蒙った訳であり升、其のお話は実に日米両国の為めに、重大なる事件と思い升から、欧州行を中止しまして、明日にも帰国仕ようかと思うて居る所であり升、大には世界黄金界の大権力者たる『ゼー・ピー・モウガン』氏の、東洋に対する大なる親切の声か音かを、日本の政府及国民に聞かせたいと思い升許りであり升、小生は貴下の承認を信ずるの信ぜぬのと云うような資格のある男でない事は始めから、念を入れて申上げて置きました筈であり升、貴下が『テーブル』を打たるる音よりも、アノ美人の手にある『タイプライター』の音の方が便利ではないかと思うて願うたのでござい升」
 と云うと、暫く又沈黙して居たが、
 「エス・オーライ(承知しました)」
 と云うて、側の「タイピスト」の女にペロペロと云うた、其文書をサアッと取上げて一目してスラスラと「サイン」をして庵主に渡したのが、即ち明治31年の伊藤総理大臣と井上大蔵大臣に手渡した夫(それ)が、彼の日本興業銀行計画の基礎である。夫を伊藤公と井上候が実行すると受合って置いて、時の日本銀行総裁・岩崎弥之助氏及び重役の鶴原定吉氏が本となって反対したから、全東京の高利貸銀行の全部が反対し、「ソンナ安い金を貸されては、全銀行は上ったりじゃ、反対せよ反対せよ」と云うて、一致協合して此の案叩き潰しの大騒ぎを始めたから、金子子爵、由利子爵等、その他幾多の巨姓大名の人々が、是非とも此の低利永年賦の工業資本を輸入しようと提唱せられて、其年の議会の下院を通過せしめたが、上院では之を潰した。

 其の次の大隈内閣が不得要領であって、其の次の31年11月に成立した山県内閣で、山県総理大臣が、之を中心として危くも上下両院を通過させて呉れて日本興業銀行が出来たので、ヤット金子、由利両子爵の顔は立ったが、日本中の銀行屋や金持方が、安い利で貸されては、抵当は取上げられる、高利貸は出来ぬ事になるので、捻じてもコジても連合して、此の外資を入るゝ事を阻止して、トウトウ「モウガン」氏との契約を揉み潰して、やはり興業銀行を日本普通の高利貸銀行となして仕舞うたのである。

★黄金王モルガンとの問答  完。
 



●『俗戦国策』 杉山茂丸 (2)
●まだ<目次>を紹介していなかったので、それから。

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<目次>

●我国上流の腐敗、下流の健全
●決闘介添え事件
●黒田清隆と初対面
●生首抵当事件
●背汗三斗
●雌伏して風雲を狙う新聞売り子
●帝国憲法発布
●東亜の大経綸と大官の密議
●血を以て彩る条約改正事件
●爆弾事件(大隈伯の片足が飛ぶ)
●星亨との強談判
●決死の苦諌、伊藤公に自決を迫る
★伊藤公、韓国統監となる
★伊藤、約を破る
★藤公と一騎打 
★決然!長船則光の短刀
           ノ
●ー億三千万弗借款事件

★総理大臣相手に経済論争
★頭山翁ビックリ仰天
★藤田伝三郎の霊に手向ける
★二万円転げ込む
★素裸で茶漬飯を喰う
★黄金王モルガンとの問答

●政府と三菱の大経済戦
●悪政党撲滅論
●児玉、後藤と台湾銀行問題
●日露開戦の魂胆
●公然たる賄賂収容銀行兼賄賂行使銀行
●古鉄責め事件
●伊藤公の霊に捧ぐ
●日露開戦
●牢記せよ国難に当たれる先輩の苦心
●戦後の大経綸―満鉄の創立
●反対党も陛下の忠臣
●電車市有問題
●大隈内閣、寺内内閣、政党の罪悪
●寺内、原、加藤、田中
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以下、●ー億三千万弗借款事件 から紹介していきます。

 ★藤田伝三郎の霊に手向ける

 
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 「・・前略・・道を開いて見たいと思います為め、東京を後にして態々(わざわざ)大阪の貴下に御相談を試みた訳であります」
 と云うたら、藤田(伝三郎)は暫く考えて居たが、斯く云うた、
 「私が五代友厚等と日本株式会社の創始を相談したのも、詰り我帝国の工業を盛んにしたいと思う趣旨に外ならないので、私は一言の御不同意を申す筋もありませぬ、成程、貴下の御咄の通り松方侯野経済論は、日本内地に限られた旧幕経済であります、日本が外国と通商条約をした以上は、外資の疎通をせねば、国は開ける鍵がありませぬ、世界の国々は、決して自国の経済丈けでは其経済が発展する訳あおりませぬ・・併し私は一言貴下に私の経験上の御注意を申して置きたいです・・・貴下が米国の資本家との御相談は、貴下が金を借りて来る事ではありませぬ、金の借りられるように、金が米国から貸される様にする事でありますぞ、夫から貴下は、決して金儲けをしてはいけませぬ、貴下が金儲けをしたら、其時から人が貴下の云う事を聞かぬようになる物と御承知になりたい、貴下が金儲けを為られたら、斯く云う私も貴下の云う事を聞ませぬぞ、故に私以外の誰でも聞ませぬ・・・貴下は現代の国家に対し、日米の間に立って大切な事を為る責任がある事を、決してお忘れになってはなりませぬ・・・此の種の事で若し費用等の御入用があったら、外間の何者にも知れぬようにさえ仕手下されば、私、今は極々の貧乏でございますが・・・ドウにも仕て御入用だけは、何時でも御用達致します」

 と云うた。庵主は此の藤田の咄を聞きつつある間に恍惚として、何だか宇宙の真理を絞り寄せた咄のような心地がして、庵主が経済界に一歩踏み入れんとする矢先に、生涯忘るる事の出来ぬ大教訓を得た思いがした事を茲に明記して、謹んで故藤田伝三郎氏の霊に手向けるのである。

それから晩餐の馳走になって帰京したが、その道々でも、3千円の借用金の事の感謝は何時の間にやら薄らかに忘れて、その藤田の無意識にスラスラと咄してくれた咄の方が忝なくて耐えられず、庵主はそれを生涯に通じて、此の日の一言を忘れず、藤田翁の死後、庵主64歳の今日まで、全く庵主の第2の性質のようになったのである。


★二万円転げ込む

 夫(それ)から横浜に行って「モールス」に面会して、洋行の決心を咄したら、彼(藤田)曰く、
 「貴下は日本の工業発達の事を思念して洋行せらるゝなら、先ず米国の工業と云う物を知らねばなりませぬ、工業を知らずに、工業の資本だけ出来る筈がありませぬ、私が今、米国の各工業家に紹介状を認めて差上ます」
 と云うから、庵主は又ギャフンと参ったのである、庵主は対松方候の開墾拓殖の資本一件と、工業発展の資本一件に対抗する事許りを考えて、先ず工業を知る事を忘れて居た所に「モールス」氏の一言にて言句も出ぬ事となって、惘然沈黙の儘「モールス」氏の云うが儘に従うたのである。
夫から、庵主は書生の時からの定宿たる、横浜停車場前の山崎屋と云うに休憩して居たら、3時間許りの後、「モールス」氏が来訪して、5通の手紙を持って来て、庵主に渡した夫を一々読み聞かせたが、通弁(通訳)は明細に之を庵主に伝えた。
曰く、第一が紐育(ニューヨーク)の本社社長「ウィリアム・スチーブン」宛、次は「チカゴ」市「イリノイス・スチールオーク」の社長宛、次は「フィラデルフィア」の「ボールドインロコモチーブ・オーク」の社長宛、次は「ダンカーク」の「コロ(ロコ)モチーブ・オーク」の社長宛、次は「バッフワロー」の「カーウィル・スチール・オーク」の社長「グリッフィン」宛である、其文面は、
 「此の手紙を携帯する○○氏は、日本に未だ一度も唱えられぬ、工業発達の実際を、実現せしめんと、夫(それ)を米国人と相談の為め渡航する人である、即ち米国の将来に対して、偉大なる好得意の代表者と見なして待遇せられん事を希望す、云々」
 等の事であったと思う、夫から「モールス」氏は「ポケット」から、金2万円を出して斯く言うた。

 「此の封金は、さきに仁川鉄道の事にて、貴下の尽力を煩わした事と、神戸水道布設の事に尽力をして戴いた事との二つに対して当時薄謝を呈したが、貴下が東洋『ヒロイズム』とか云うて受けられなかったが・・・実は本社から私の手許には支払い済みとなって居るのである、永久に私の手許に預って置く事にも行かぬから、幸い今回の用に使用して下さい・・台湾鉄道創設の事に付、重役松本直巳氏より申越された事を本社に報告して置いたから、貴下はドウカ台湾鉄道の事を充分に本社長に説明をして戴きたい、夫を願います」
 と云うて、懇々との話故、庵主はトウトウ其の2万円を受取った。
 
サア、是所が今時の青年達に庵主の一言して置きたい老婆心である、諸君は三千円入用の旅費を千辛万苦してヤット出来た所に、別に2万円立派な理由でどうしますか、今日から30年前の2万円は、今の20万円よりも使い力があるかも知れぬ、夫が庵主が金とも何とも思わず、一に藤田や「モールス」の箴言を真面目に考えて其使用方法を誤らなかったためにこそ、今日斯くして、太平楽を並べて威張っているのである。

 此の時過まって居たら、誰も疾うの昔、相手にする者はなくなったと思う、庵主は元々3千円の入用であるから、此の2万円は無くても好い物である。故に一文も之に手を付けず、頭山翁其他の親交ある恩人に幾らか分配した残りは、大軍のように押寄せて居る借金取と、九州に庵主の為に破産せんとしつつある幾多の人に塩を撒くように、少しずつ分配して仕舞うたのである

 此の心と行為が、人間味の通行券となって、幾多の不満足はあっても、一人も庵主を怨むる者がなく、先生々々と今日まで云うてくれる、即ち人間でない神の声と化して居るのである。今時の人間の有様はドウじゃ、筋悪き泥棒同様の、金をかっぱらうが早いか直ぐに銀行に入れて預金帳に書いて眺める、夫から夫を使い払う有様は、直ぐに家を建てる、芸者を受出す、別荘を構える、自動車を買う、紳士々々と云われて居る間はホンの瞬間で、直ぐに手が後へ廻る、夫から法廷に立っての言論は、大恩人が有罪になろうが、男の一分が廃たろうが、嘘八百を云うても罪さえ遁がるれば「青天白日」と云うて、泥棒の本体を大道にひけらかしている。

諸君よ、人間とは金を摑むだけが人間ではないぞ、有情共に恥辱を知るだけが人間と云う、他の禽獣と異なる者である。斯く云う庵主の行為も、決して威張る事は出来ぬ、唯禽獣でなかっただけである。ヤット人間の度外れを仕なかっただけである、其の剃刀の刃を渡るような危険な所を、よく注意して貰いたいのである、夫から東京に帰って、3日目に藤田から手紙が来た、夫は藤田の使であった、其文面は、

 「拝啓、此の間は久々振りに御来訪被下、結構なる御咄を承り、大慶此の事に存候、其節快哉に取紛れ、失念致し候間、在京の手代を以て御意を得候、其の節3千円の御入用との事故、それだけ御用達致置候が、御用途を承り、御用の事柄筋合としては、到底アノ金高にては大なる不足と存候間、取敢えず更らに金3千円、第三銀行小切手にて差上置候間、御落手被下度候、此の上とも金銭の事に就いては一層の御注意、更らに御用も有之候わば、電報を以て御申越し被下度候、海陸御無事、一入の御健康を為邦家祈上候、云々」
 と云うようの事であった。夫から直ぐに外務省の懇意な朋友に尋ねて見たれば、
 「通弁を連れて米国に行くのに、3千円位で行けるものか」
 と、事もなげに云われて、又ギャフン・・・貧窶(ひんる)なる庵主の書生魂性から、勝手に3千円もあればと速断した粗雑な考えで、又もや恥を掻いたのである。

●素裸で茶漬飯を喰う

 夫(それ)から、早速藤田へは其調査の顛末を報告して、厚く厚く親切を謝して、6千円を正金銀行に託して、米国に向って出発したのである、夫が何でも明治30年の6月3日の事であったと思う。
通弁には「モールス」氏の与えたる、店員の清水林吉という老功の人であった。横浜から乗った船は「オリエンタル・オキシデンタル・スチーム・シップ」会社の「チャイナ」号と云うのである。当時はこんな船齢40年も経った船が、一番良き船であった。

 此の時、官界日の出の働き人(て)である農商務次官藤田四郎氏及び大学教授箕作佳吉博士が「ベーリング・シー」の海豹(シール)の問題にて、華盛頓(ワシントン)大会議の為め官命を奉じて渡米するのと同伴したのである、其の外には米国政府の大蔵次官の「ハムソン」氏とかも一緒であったと思う。
夫から船中では、黒い洋服に着換えて食堂に出るのが面倒臭い為め、庵主は「ケビン」の中に閉じ籠り、海疫(シーシック)に罹ったと云うて、素ッ裸で3度の飯を食い、日本人の「ボーイ」に賄賂を遣って、何でも甘味い物を取寄せ、缶詰の沢庵などを出して茶漬飯などに舌鼓を鳴らすので、始めの程は、藤川、箕作の両紳士は庵主を野蛮的の杉山杉山と云うて居たが、段々布哇(ハワイ)近くなって暑気が増して来たら、トウトウ両氏とも庵主の「ケビン」に集合して、日本で仙人程厳格じゃと評された箕作氏が、庵主と藤田氏の真似をして素裸で茶潰飯を食出したので大笑いとなり、布哇の「ホノルルに着いたら、島村久氏(後に大阪の住友か鴻池の番頭に入った)が公使であったので、ドヤドヤと公使館に押込んで、日本的の御馳走を鱈腹食うて3人共舌鼓を鳴らしたのである、夫から桑港(サンフランシスコ)に着いたのが、何でも24日目であったと思う。
それから直ぐに「シカゴ」に往って「イリノイス・スチール・オーク」を視たが、茲に不思議な事は、庵主は少しも其の壮大に驚かなかった、ナゼなれば、総て経済的設備に注目し、其の「ミシガン」の湖水を応用して居る処を見て、日本では海とドンナ関係に仕ようとか、其燃料の石前輪送管を使用して居る処を見ては、何、金さえあれば其の30哩に対する資本償却法は何でもないと思うた。

人間は不思議な動物であって、其の思念と境遇が緊張すれば、決して驚く物ではない、日露戦争でも、外国の観戦武官が見ての驚きは大変な物であったが、戦争当事者の日本軍人は其の戦時の責任に当面して居るから、何をしても当然の事を仕て居ると外思わぬのである、庵主も当時は、全く渾身の精が其の視察に注がれて居た物と思う、夫が観光旅人ででもあったら、只だ驚いて少しも要領を掴む事は出来なかったのであろうが、庵主は其の社長の饗宴に往っても、色々の奇矯の言を吐いて其の社長を煽だて、色々と手に入れる事の出来ぬ書類まで貰うて来て、帰朝の上、時の農商務次官金子堅太郎氏に之を提出したが、何でも金子次官がそれらを何とかして、門司の製鉄所を創設せられたそうである。
時の農商務大臣・榎本武揚氏は庵主が前から懇意の人であったから、築地の柏屋と云うに招待して製鉄所創設の事を説いた事がある、此等は帰朝後の話である。

●黄金王モルガンとの問答 へ続く。

 



●『俗戦国策』 杉山茂丸(1)
                        俗戦国策_1
 


 ★80年前の記憶ぐらいは伝えていきたいものだ。

 1929(昭和4)年、「大恐慌」の年。

 次のような文章で始まる本が出版された。著者は杉山茂丸(夢野久作の父親)。

 悪しき歴史の繰り返しは「茶番劇」だと読んだが、如何。

 以下、『俗戦国策』 (杉山茂丸 原:1929(昭和4)年 講談社刊
 2006.4.30 「書肆心水」刊)より。  

 *************

 ・・この書は、青年の為めに書くのである。

 今の青年は、就学難と戦うて、夫(それ)だけで終る者もある。又、父兄も子弟の就学を以て、父兄たる義務が了えたかのように心得て居る者もある。又、千辛万苦して、ヤット得た免状は、其の父兄子弟共、衣食の通券でも得たかの心地をして大安堵をなす者もある。
 
 夫から又、就職難に入るのであるが、此の就職難と云う戦争で、大概は戦死者となるのである。

 夫から偶々就職して勝利者となったものは、此の多くの戦場の勇者であるようじゃが、一方、人間精神上の論功行賞から云えば、全部敗北者許り(ばかり)である。其の全身に充満する物は恐怖と杞憂許りで、天下国家は申すに及ばず、社会民衆の上に往来する、人類一人前の思想さえ維持するの力もなく、此の貴重の生涯を、又、生活難と云う戦場で、殆んど悉く全部敗北者となるのである。

 それではこの勝利者、成功者は、飯を喰うて、生きられる丈け生きて居たに過ぎぬ。他の動物と少しも選ぶ事の出来ぬ者許りとなるのである。斯る敗北者に限りて、勇気と云う者が少しも無い、為めに自己の生存以外に、智力も体力も、一切の活動が停止されるのである。
 随って自己以外、他に及ぼす力が無いのみならず、自己を制する勇気さえ全部消耗して仕舞うのである。

 人間、自己の慾望をさえ制する力がなくなるのであるから、真に獣類と少しの差もない事になるのである。

 ★社会を乱す者

 自分さえ喰えば他は餓死しても構わぬ。夫が亢進して他の食を奪うて喰う事になる。自己さえ着れば他は凍えても構わぬ。夫が亢進して他を剥いで着る事になる。
 斯くの如くなる時は、自分許り大厦高楼に住居し、自分許り錦衣玉食をなし、自分許り嗜好三昧を充たして、之を抑制するの能力を失い、他は飢寒凍たい、流離困頓するも、之に同情するの意識を亡失するのである。

 而して一たび時勢の非運に遭遇して、以上の慾望に欠陥を生ずる事になって来ると、秋毫も自己の行為を選択するの知識を失い、只だ見聞に随って、把掴掠奪しても此怨望を充たさんとするのである。

此場合を号して、生活難末期の戦場とするのである。元々此戦闘には、人類最大の貴重物たる恥辱観念と礼譲の意識とを失うた動物性となって居るから、取る事の出来ぬ物を取り、喰う事の出来ぬ物まで喰うのである。故に高貴の保管物でも侵し、松島遊廓の頭でも噛るのである。終に社会的位置を失墜する事になると、茲に昔日学び得た学問を悪的にアップライドして群衆心理を説き、社会問題を高唱するのである。曰く政治の圧制、富豪の暴横を喧言して、ストライキ、サボタージを煽動するのである。其上品な議論が、ヤレ天下の人心が悪化して来た、ヤレ人類の道義心が腐敗して来たと云う。

 一体何のたわ言を云うのであるか。世界の歴史を通じて、国家の興亡は、殆んど全部其の上流社会の腐敗如何にあるのである。民族や社会が全部腐敗して、国家を亡ぼした事は殆んどないのである。

 日本に於ても藤原氏腐敗の極に達して平氏興り、平氏21年の栄華に腐敗して源氏興り、源氏の非政三世に腐敗して北条興り、北条九世は舞楽闘犬の極まで腐敗して足利興り、足利腐敗十三世にして徳川興り、徳川腐敗十五世にして藩閥政府興り、藩闘の腐敗40年にして政党政治興り、政党の腐敗10年を出ずして、正に今、禽獣社会を現出せんとするのである。

支那5千年の歴史は、聖人政治が三世位から腐敗を始めて、易姓の政治が興る事を繰り返して居る。
仏国はルイ16世にして、腐敗の極に達して革命が興り、伊大利の亡ぶるや、何時でも羅馬の腐敗が前提ならざる事はないのである。

 今の日本は、政治の最上位の腐敗から、貴衆両院と富豪の腐敗が爛熟して来て、今日の危殆に瀕して居るのである。此の純良な国民の何処に腐敗があるか、其証拠は驚くなかれ無慮20億円の租税を、お上の御用と云うて正直に納めて居るではないか。斯の如く純正無比の国民に向って、人類腐敗の先登者ともいうべき上流種族が、人心悪化だの道義心の腐敗だのと云い得るのか、故に庵主は高唱す。

 国家の腐敗は何時でも上から先に腐って、下に及ぼす物である。日本では最下層まで腐りの透った事は一度もない。故に聖者、賢者、正義者の起こる時は、何時でも国民が決起する。その度毎に国家は善良に回復するのである。
 是を我国は3千年繰返して居る。現在に於ても、日本は上が腐って居る丈けで、下は決して腐って居らぬ。其証拠は、20億円に近い租税を納入して、昔ながらの家庭を守り、勤労して居るではないか。

●人道の自覚者

此に於て庵主は、青年達に向って云う。

 「能率なき学問に中毒して、能率なき行為をしてはならぬ。学問は前途に進歩発見を見越して居る全くの未製品である。正に以て人間が使用すべき物の一つが学問である。夫に人間が使われて溜るものでない」と。人道と云う者は、簡単明瞭な物である。

 「智者は愚者を導き、強者は弱者を助け、富者は貧者を賑わす」、僅かに此三つで足りるのである。
 然るに現世界に於ける学問中毒の大勢は、総て是が反対である。
 「智者は愚者を欺き、強者は弱者を凌ぎ、富者は貧者を虐げる」

これでは決して永続きするものではないと云う事を早く知った者が人道の自覚者で、直ちに勝利者となるのである。

庵主生れて64歳、17歳より輦穀下(れんこく)に居住し、言いたい三昧を云い、為たい三昧を為して茲に48ケ年、未だ一度も警察署と裁判所の御厄介になった事がない。未だ一度も松島事件や山林事件で手を縛られた事がない。未だ一度も会社の発起人と株主と重役と、役人と商人とになった事がない。そうして、此の聖天子治下の一民として一日も休止する事なく、只働いて、又、昭和3年の春を迎えんとするのは、抑も如何なる妙術があっての事であろう。

 或る時、庵主と同年の友人、亀井英三郎と云う警視総監が、専門の警官に命じて、庵主の裡面の生活を偵察した報告を見た事がある。曰く、
 「杉山茂丸、生活の裡面は、ドウしても解りませぬ、・・・併し、恐るべき犯罪が、永久的本人の心裡に潜んで居る事丈は、事実と思い升・・」
と、
総監曰く、
 「此報告を見給え、君はドウしても、一度は縛られるぞえ」
 「ムウ、夫は僕が17歳から覚悟し待って居るけれども、当局無能にして、マダー度も僕を縛らぬ、・・僕も同年の君と云う友人に縛らるれば、此上の本望はない。何時でも縛ってくれ、夫が年貢上げと思うて、僕の生存を諦めるから」
 と云うて居たが、亀井はモウ疾に死んで仕舞うて、其後の警察官は矢張り無能な役人ばかりで、庵主が64歳の今日まで一度も僕を縛りに来ぬ。

 ★庵主64年の秘策

 併しモウ庵主も何時死ぬか解らぬから、64年秘密にして居た処世の大秘事を、庵主の一番愛好する又、信頼する青年諸生に知らせて、此の庵主生存の謎を披露して置きたいと思う。

 先ず庵主が48年間、帝都に住居して、太平楽を為し通して生存した秘事は、コウである。
 「親切を以て我が本領とする事、其親切には差別がない事」、眼中素より、尊卑なく、強弱なく、貧富なく、貴賤なく、長幼なく、老若がない。而して夫が庵主の力を限度として、善悪がない。而して夫が何時も可能性なるべき事である。故に夫れの副産物として多くの青年が育った。夫が日本の本土内から朝鮮、満洲、シベリア、支那、南洋から英、米の諸州に散在して居る。

 其教育の本領は、「人間の最終目的は独立であるぞ、下駄の歯入をしても、紙屑を拾うても、独立をしたら、予は紳士の待遇をして汝等と交際する。依頼心は自殺以上の罪悪であるぞ、野犬でさえ、掃溜を漁って天寿を保って居る。汝等は野犬に劣ってはならぬぞ。夫は親に貰うた自己の全能を以て働く事と、予が教えを守る事であるぞ。人間は、大自然の創造に係る、宇宙間の善智善能(ママ)を以て結晶した最上無比の大宝器である。夫を理解せずして、其生存を粗末に取扱う者は、予の門下に居る事は出来ぬぞ」、と是丈けである。

・・・続く。
 



●『考証 ノモンハン事件』
●『考証 ノモンハン事件』
 
 ●はじめに(続)


1991年3月1日、『私説・あヽノモンハン 生きている「英霊」を想う・・』を自費出版し国立国会図書館はじめ、若干の公立図書館、県内各公立高校、大学図書館、主要なマスコミヘも寄贈した。最も早く反応したのは、北海道新聞であった。(後述)地元では朝日新聞甲府支局が、4月23日、「ノモンハン風化させぬ」「捕虜たちへ想い込め出版」と、〈街かど〉欄に詳しく紹介してくれた。数人の方が同著を所望してきたが反応はいまひとつだった。
 北海道新聞は、3月10日付「ほん」欄に「べ夕」記事ながら要領よく拙著の紹介記事を出してくれた。(もちろん知らなかったが)10日に、江差、小樽、札幌の人たちから電話があり、その後、郵便で拙著を欲しいと続々申込みがきたので、約20人の方に贈呈した。この14、5年の間に、この時の数人が他界されたがその後もふえて今現在、北海道だけでノモンハン参戦者3人を含め20数人の方と交友関係を保ち、いろんな情報を寄せて頂いている。

 タイミングよく、91年5月22、23両日、東京都千代田区グリーンパレスで「ノモンハンーハルハ河戦争国際学術シンポジウム」(実行委員会代表、一橋大学田中克彦教授)が開かれた。
実行委員の一人、朝日新聞社白井久也編集委員に誘われて両日、この集会に参加できたことは有益であった。この時の記録は『ノモンハン・ハルハ河戦争』として原書房から出ているので参照されたい。この集会で多くの学者、研究者、参戦者と出会えたこともたいへんプラスになった。

 第一弾の反響は殊のほか大きく続々と舞い込む書簡や資料を前に、これはこのまま埋らせるわけにはいかないと思い、第二弾『あれは何だったのか』を翌1992年4月上梓。94年9月に『あれから55年、ノモンハン事件って何だったのか』、95年11月『未完のノモンハン事件』、97年10月、最終号のつもりで『ノモンハンーそれは日本陸軍崩壊の序章であった』を何れも自費出版した。その何れも、全身全霊を傾注して制作したものであり、今もって愛着を覚える。

略10年の間に、傷痍軍人の『自分史』の制作ほか、自分史3件の手伝い、編集制作、時間をかけた郷土史関係の共著に手を貸したり、本になっていないが、木村久夫と五十嵐顕両学徒出身兵の戦争体験』(仮題)の執筆などでノモンハンに集中できなかった。

 しかし、次から次と新しい情報を入手でき、それまで疑問のままだったことが解明できたり、看過できない新事実をつかむことができたので99年秋、ノモンハン事件60周年を記念して『ノモンハンの真実』を上梓した。著名新聞社、出版社、府県立図書館へ寄贈した。『週刊金曜日』が紹介した以外、反応はゼロであった。

 それでも、数百人の読まれた方々から好意約書簡が寄せられ、00年4月、63人の方の所感集『昭和史の落丁、ノモンハンを考える』の小冊子を上梓した。この5年間にその中の草柳大蔵、石堂清倫(きよとも)、江口圭一、新井利男の諸氏ら10人が鬼籍に入ってしまわれた。
                           ¥,4r’,J ’
 ところで00年11月、米国エール大学、01年6月、カナダのブリティッシュ・コロムビア大学の両図書館から、出版貿易業者を通して『ノモンハンの真実』の注文があり、私はノモンハン関係の拙著の全部を、両図書館に寄贈、郵送した。両大学図書館から丁重な礼状が届いた。

 昨04年11月12日、99歳で永眠された反戦平和運動の支柱、元長崎大学長・具島兼三郎先生から頂いた御著『奔流』の扉に書いて下さった「良心を枉げて(まげて)安きにつく者は悔を千載に残す」のおことばは、身にしみてありがたく終生の教えと心に銘記している。

 ホロンバイルの荒野で無残な死を遂げられた将兵、不幸にも虜囚となり、故国に捨てられ他囚の人にならざるを得なかった大勢の人達に、『ノモンハンの真実』を基調に、改訂補強したこの一冊を捧げる次第である。


●ノモンハン事件戦没者遺骨収集団に参加して
          松井たかお(フリージャーナリスト・写真家)
★戦争の残酷さ痛感
 はるか地平線まで続く草洋、ゆったりと上空を舞うトビの鳴き声のほか聞こえるものは雑草の上を渡る風の音だけ。まさに静謐のノモンハン。ここで血で血を洗う戦闘があったとは信じがたい。
 今夏、ノモンハン事件から65年を経過して初めて行われた厚生労働省の遺骨収集に参加した。遺骨収集団は、厚労省職員はじめ私が所属するノモンハン事件遺族の会(東京)の島田嘉明代表=旭川市出身=ら総勢6人である。
1939年(昭和14年)5月、満州(現中国東北部)とモンゴル国境付近で起きた「ノモンハン事件」で戦死傷した旧日本軍の将兵は2万余人。戦死者は8千人といわれている。同年9月の停戦直後に4千3百86人分の遺体は回収されたが、残り約3千5百人分の戦死者が草むす屍として異境の地に放置されたままという。

 南方の戦地やシベリア等では遺骨収集が比較的順調に実施されてきたのに対し、ノモンハン事件では遺体を掘り返すことに現地の抵抗が強いなど風習の違いもありモンゴル側の合意が得られないなどの理由があった。
 しかし、遺族の要望を受け、2002年5月、衆議院厚生労働委員会で同事件の遺骨問題が取り上げられた。これを契機に同年7月、国は調査団を送り、遺骨がまだ残されていることを確認。モンゴル側の了解も得られ、収集団派遣となった。

★あばら骨に戦車弾

 7月28日から8月11日までの日程で現地を訪れた私たちが発掘したのは、バルシャガル高地。旧日本軍の野戦重砲兵第一連隊がいたところで、旧ソ連軍戦車の猛攻撃を受けている。以前の調査で、旧日本軍将兵の遺骨が地表に現れていたことから発掘地点に選ばれた。

発掘を始めて1時間後、深さ40~50センチの地中から白骨化した遺体が出た。皆骸骨に鉄かぶとを被り、軍靴を履いている。狙撃され絶叫し絶命したのだろうか、口は耳元まで大きく裂け鬼気迫る。今も悲痛な叫び声が聞こえてくるようだった。遺骨と一緒に出た中身の入ったクレオソートの瓶や朽ちたキャラメルの箱から、若い兵士の戦場での日常がしのばれ涙を禁じ得なかった。同時に戦争の残酷さを思い知らされ、すべての遺骨を収容し故国への帰還が完了するまでノモンハン事件は終わらないのだと痛感した。

 また、あばら骨に旧ソ連装戦車砲弾を抱えた遺骨があった。その遺骨の鉄かぶとから1時20分で止まったままの腕時計や万年筆、「岩崎」と姓が判読できる柘植(つげ)の印鑑などの遺品が出た。戦死後の所在を家族に知らせたいとの一念から貴重品をとっさに鉄かぶとの中にしまい込んだのだろう。極限状況でも夫・父として自覚を待ち続けたことに驚いた。

 首都ウランバートルから約9百キロ離れた国境地帯での遺骨収集のため移動に時間がかかり、さらに雨のため、正味4日間の作業。それでも発掘した約30メートル四方の区域の中で、収集した遺骨は16柱に及んだ。

 ★胸のつかえおりた

 帰国後、私は「岩崎」という印鑑を手がかりに遣骨の身元を割り出せないかと考えた。当時の野戦重砲兵第一連隊の戦死者名簿の持ち主を捜し当て、同連隊に「岩崎」姓は岩崎久次郎上等兵一人しかいないことが分かった。千葉県に息子の昭久さん(69)が健在で「長年の胸のつかえがおりた。早く墓に入れてやりたい」と話した。早期のDNA鑑定を切望する。

 同事件研究者の楠裕次さんを介して岩崎さんの元上官、石原正一郎さん(88)=東京在住=にも会うことができた。「岩崎上等兵のことはよく覚えている。通信兵だった。戦死は誠に無念というほかない。野戦重砲兵第一連隊は三島義一郎連隊長が重傷で交代し全弾撃ち尽くして隊は全滅。代理の梅田恭三中佐は責任をとり自決した。小隊長の私は奇跡的に命拾いし、仏壇に向かい戦友や部下たちを弔う日々です。あのようなバカな戦争は絶対に起こしてはならない」と語気を強めた。
  北海道新聞(2004年10月19日 夕刊・文化欄に掲載)

<補記> 2004年9月15日(水)
TBSTV・筑紫哲也NEWS23で「ノモンハン事件65年後の“再会”」の タイトルで放映された。
  <完>
 



●『考証 ノモンハン事件』
『考証 ノモンハン事件』 の<区切り>の意味で、最後に著者・楠裕次氏の人となりがよく表れているとおもわれる一文を紹介しておきます。
 

 ***************

●はじめに

 北緯50度30分、東シベリアの山中の小さなラーゲルに転属したのは、1946年9月半ば極く短い秋の終わり頃だった。いよいよ厳しい冬が訪れる。毎日、木の葉の色が変わり、その葉が全部落ちるとすぐ雪が降ってくる。沢山は降らないが、降れば全部が根雪となるのだ。

 殺人的なシベリアの寒さを再び味わうかと思うと、不安と絶望とがいりまじり、うちのめされた思いがしたものである。この辺りは夜、狼の遠吠えが聞こえ、姿を見たという者も何人かいた。

 退院して間もなかった私は、重労働を免れ、数人の仲間と飯盒を手にして毎日、タイガ(密林)へ、ヤーガダ(黒ふどうを小さくしたような灌木になる実=ビタミンCの補給になった)を採集に出掛けていた。

 ある日の夕方、といってもとっぶりと日は暮れて夜になっていた。同室の作業隊員がバラックに戻り、ランプの暗い灯の下でストーブを囲んで話し始めた。

 ソ連のトラック運転手の中に、日本人がいるというのである。彼らの話をまとめると

「身なりはソ連人だが、どうみても顔立ちや表情から、日本人にまちがいない。朝鮮人や中国人ではない」

「あれはたしかに日本人だ。おれたちの話すのをじっと聞いていたが、あの目や顔つきは日本語の解る者にちがいない。普通のロスケではあんなことはない」

 「第六感ははずれない。たしかにあの男は日本人だ」と、いうのである。
 この話を聞いていた40歳近い男がすっと立ち上がって

 「ひょっとするとその男は、ノモンハン事件でソ連軍の捕虜になった兵隊かもしれない」と言った。
 みんなは「まさか・・・」と驚きの声を上げたが、彼は話を続けた。
 「みんなは知らないかもしれないが、ノモンハンでは日本軍は大敗を喫したのだ。軍の発表も新聞報道も、本当のことを隠していたのだ。俺は満鉄社員だったので、ある程度の情報を耳にしていた。実際は惨敗だった。一個兵団が全滅したと聞いた。相当数の日本車の将兵が友軍から孤立しソ連車の捕虜になったようだ。停戦協定が成立して捕虜交換があったが、日ソ同数ということだったので、物凄い数の日本兵が向こうに残ったらしい」
 
 殆どの者が初めて聞く話であり、急にしーんとなってしまった。
 「とにかく捕虜になった以上は、帰ってきてもまず軍法会議は免れない。降等はおろか軍の刑務所行きになる。一生、捕虜の汚名がつきまとい累が家族全体、一族郎党にまで及ふのは目に見えている。それで帰りたくても帰れずにそのままソ連に帰化し、ロスケの仲間入りした連中がかなりいたということだ。皆の話の日本人らしいソ連の運転手は多分そのうちの一人かもしれない」

 その場にいあわせた3、40名は大きなショックを受けた。「ふだん日本語をしゃべることがなくても、僅か5年6年で忘れるはずはない」「なぜ、『俺は日本人だ、ノモンハンで捕虜になってしまい、帰りたくても帰れなかったのだ・・・』と、俺たちにうちあけなかったのだろう。」
「その男に、あんたは日本人だろうと、声をかけたら悲しげな顔をし、返事もせずにトラックに戻り、どこかへ走り去っていった。あれはまちがいなく日本人だ・・・」と、ひとしきり話がつづいたその夜のことを、50余年経ったいまでも鮮明に覚えている。  


 「恥を知る者は強し、常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の悪名高い『戦陣訓』は、1941年1月、当時の陸軍大臣東條英機の名で示達されたもので、ノモンハン戦当時は存在しなかった。★ちなみに相当な有識者がこの事実をまちがえている著述に出合うことがある。

 日本軍将兵は、いついかなる場所、状況下にあっても頭にこびりついて離れなかったのは『軍人勅諭』にある文言である。

「只々一途二己力本分ノ忠節ヲ守リ 義ハ山獄ヨリモ重ク死ハ鴻毛ヨリモ軽シト覚悟セヨ 其操ヲ破リテ不覚ヲ取リ 汚名ヲ受クルナカレ」がそれである。



 ノモンハン戦の当時、どんな不利な状況下、たとえ絶体絶命の淵に立たされた時でも日本軍の将兵は一名たりとも手をあげて敵側に投降し、捕虜になった者はいなかったにちがいない。私は前にも書いたが、当時の兵隊は最精鋭の粒ぞろいではなかったかと思っている。多分、重傷で身動きできずにいたか、失神していたか、何れにせよ断末魔の死闘の渦中にあってやむなくソ連軍に収容されたものと思っている。

 1989年6月~10月にテレビ西日本制作の『あヽ鶴よーノモンハン50年目の証言』が放映された。若干物足りないものを感じたが、見終わったとたん、表現しようのない重苦しさ、それは肩から背中にかけて何者かに押えこまれているような、かつて一度も経験したことのない嫌な圧迫感を味わった。シベリアでの一件が蘇ってきて、なぜ、もっと早い時点で帰国できなかった

ノモンハン捕虜兵のことに目を向けようとしなかったか、当時、何かあったのか、その真相を見究める努力をしようとしなかったか、正に自責の念にかられてしばらくの間、悶々としていた。

 テレビ西日本の制作プロデューサー・徳丸望氏は、その反響の大きさに驚いて、『月刊民放』10月号に書いている。その一端に次のくだりがある。         

「・・・その真相が語られたことが少なく、50年が経ってしまった。仏事では50年忌を区切りに死者との縁切りが許される。
 ノモンハンで何が行われたか、その兵士たちがどのような運命に翻弄されたか、(中略)そのほんの一端を垣間見せたテレビに、多くの人々が強い関心を寄せても不思議ではなかった。いま知っておかないとこのまま何にも分からないまま、時は流れ去る。死者のためにも生者のためにも「知っておきたいこと」であった。時間ほど恐ろしいものはない。ノモンハン事件の取材は、その暗闘に向かって歩く取材であった。辿りついたところは空洞であった。番組はいまや幻となったノモンハンの捕虜たちの軌跡をぼんやりと示唆することで終わらざるを得なかった。その空洞があまりにも大きかったからである。そしてその暗闇の恐怖は、ノモンハン捕虜たちの運命を想像するだけで十分である」と結んでいる。

 復員後の40年間、私なりの社会活動もやり決して無為にすごしてきたつもりはないが、平和的家庭生活に安住してきたことは否めない事実であり、残留孤児や残留婦人の悲劇も、当時その現場を見聞していながら、彼らが帰国してきたニュースをみても何もしようとしなかった。自分自身の不甲斐なさに苛立ったり、慙愧の思いにさいなまれながら歳月が流れていった。前出『ああ鶴よー・・・』を見た後、徳丸氏の言う大きな空洞、暗闇が何を意味しているか、謎にみちたノモンハン事件を勉強してみようという気になった。
 

その頃までわが家の墓地のすぐ隣りに、ノモンハンの戦死者の墓があることすら見のがしていた。市内太田町にある時宗の名刹、稲久山一蓮寺(住職・河野叡祥)の墓地に眠るのは、陸軍砲兵伍長勲七等功七級・由井実、戒名は大考院実阿賞照建忠居士である。
墓誌に「昭和十四年六月満ソ国境事件勃発スルヤ三嶋部隊東隊二属シ東久邇宮盛厚王殿下御統帥ノ下二「ノモンハン」附近の戦闘ニ参加シ奮励努力常ニ赫々タル武勲ヲ樹テアリシガ七月二十五日ノ激戦ニ遂ニ壮烈ナル戦史を遂グ」 陸軍中佐・貫名人見誌と刻まれている。

 正直のところ、当初は墓誌を読んでもわからなかった。こんなことでは申し訳ない・・という思いにかられ、手当り次第、ノモンハン記を読み漁り、三嶋部隊とは野戦重砲兵第一聯隊(聯隊長、三嶋義一郎大佐28期)のこと、東隊とは第一中隊長・東久邇宮盛厚中尉の東をとったもの、貫名中佐は東久邇の専属武官だったこと、七月二十五日朝、敵弾が第一中隊砲列に命中、第二分隊長・由井伍長勤務上等兵(のちの兵長)戦死などがわかった。(以下略)
 この頃はまだノモンハン参戦者が元気でおられ、地元の3、4人の方に逢って話をきくこともできたし、ノモンハン関係の図書もかなり出版され、目星しい物は手当り次第購入できた。
  <続く>
 *************
 



●『ノモンハン隠された「戦争」』 エピローグ、あとがき。
                        チェルノブイリの祈り



 ●『ノモンハン隠された「戦争」』

  エピローグ より <続>。


「ノモンハン事件」には、辻政信という人物が登場する,関東軍暴走の端緒となった「満ソ国境紛争処理要綱」を起草したといわれる作戦参謀である。彼は「ノモンハン事件」の重要な局面や岐路にいつも顔を出し、日本軍を破滅の方向に導いていった男である。しかし、こうした人物を、私たちは戦後の国会議員選挙で衆議院議員に選んでいるのである。数の論理で懸案の法案を次々と強行成立させてゆく国会議員をいまだに選び続けているのである。

 権力は、そのときの私たちの姿鏡だと言ってもよい。誰か適当な人物を血祭りにあげて権力への責任追及が終わったと浮かれている場合ではない。自分たちが彼らの犠牲者なのだと言って逃げることはできない、本当の権力の責任を追及するべきであるし、同時にまた、その顔が自分自身の顔なのだという自覚を持つべきだと思う。

 従来の戦争記録は、アジア太平洋戦争においても「ノモンハン事件」においても、この点、重心のぶれを感じるものが少なくなかった。格好の人物として東條英機や辻政信といった標的を置き、彼らによって騙されていたかのような結論で事態を収束できるほど、これは簡単な問題ではない。
そこには、傷つけ、殺した膨大な数の「他者」が存在するからである。

今回の取材で力を入れようと思ったのは、アジア太平洋戦争におけるのと同様に、「ノモンハン事件」においても見られる「他者」への視点の欠落をいかにして補い、取戻すかということだった。具体的には、戦場となったモンゴルヘの視点であるが、その取材も不十分なまま終わり、ことに「満州国」の被抑圧者=「他者」への視点を全くといっていいほど提示できなかったことが、まことに悔やまれる。
 引き続き、この問題についての関心のアンテナだけは高く保っておきたいと思う。

 「ノモンハン事件」の取材を終えてから、私は次に担当する「NHKスペシャル」の取材のため、旧ソビエト連邦ベラルーシ共和国に滞在することが多くなった。

 「ノモンハン事件」に登場するジューコフが副司令官を務めていた地城であり、ドイツとの「大祖国戦争(第二次世界大戦)」においては首都・モスクワヘのドイツ軍の侵攻を防ぐ砦となった場所である。凄まじい大量殺戮の舞台となり、4人に1人の住民が虐殺されたという。

 また、チェルノブイリ原発事故では、ほぼ同じ割合の人々が放射能汚染を被った。爆発時の風向きの影響もあり、もっとも深刻な被害を受けたのは、チェルノブイリ原発があったウクライナではなく、このベラルーシだった。

 ベラルーシには、ソビエト連邦時代の傷跡がまだ癒えぬまま置き去りにされている。

ここに、「国家」の歴史には登場しない「小さき人々」の声にもっぱら耳を傾けてきた記録文学作家が住んでいる。
  
 ★スベトラーナ・アレクシエービッチ。

 彼女は、ふるさとベラルーシを拠点に、旧ソビエト連邦の負の歴史を背負い続ける人々の姿を克明に記録してきた。登場するのは、ドイツとの「大祖国戦争(第二次世界大戦)」に女性兵士として参戦し女性性を奪われていった人々、その戦場で親や兄弟が殺されるのを目のあたりにしたことによってトラウマをひきずる子供たち、アフガン戦争に駆り出され「アフガン・シンドローム」に罹った青年兵士たちと家族、ソビエト連邦崩壊に絶望して自殺していった人々、チェルノブイリ原発事故で肉体と精神を破壊された人々など。いずれも暗く重いテーマであるが「国家」が隠蔽しようとするこうした「暗さ」、暗黒面を、彼女は「小さき人々」ヘのインタビュー・モノローグの手法を使って真正面からとり上げてゆく。 洋の東西を問わず、こうした営為には権力からの圧力がかけられるようで、彼女のこうした一連のインタビュー記録集は「国家の威信を損ない、国家を愛する心を傷つけ」るものとして発禁処分にされたり、不当な裁判にかけられたりしてきた。
 20年間、「小さき人々」へのインタビューを続けてきた彼女によれば、最近、人々の語り口に変化が表れているという。

前は自分の人生を語るとき、ほとんどの人が「我々は」「私たちは」という1人称を使っていたのに対し、最近では「私は」「僕は」という個人が前面に立つ自立した1人称を使い始めているというのである。

 彼女とともに訪ねたサンクトペテルブルグの母親たちは、まさにそういうロシアの変化を代弁しているかのような人々であった。
 彼女たちは「兵士の母の会」の活動を続けている。
 「国家」が命令するチェチェン戦争への参戦を若者たちに拒否させ、兵士を一人も戦場に送らないことを目標にかかげている団体だ。そのやり方も戦略的で、若者の肉体もしくは精神に何らかの病気を見出し、その病気を盾に軍隊不適格の「称号」を「国家」からいただき、徴兵を拒否させるのである。
 
私はその会で幾度もの取材を重ね、日本とは比べものにならないぼどの迫害と恐怖を感じながら、子供たちを決して殺人者にしない、という固い信念を貫き通している姿に打たれた。
 予定の取材期間が終了し、別れを告げようとしたとき、この会のリーダー的な役割を果たしているひとりの母親が近づいてきてこう言った。                       ・.
 「日本の憲法は大丈夫ですか?」
私は、その言葉がすぐさま、日本国憲法弟九条を示していることがわかった。彼女たちは、日本にこの憲法があることを知っているのだ。
 「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という条文は、極めて明確にいっさいの戦争を否定している。これこそが、彼女たちが今、歯を食いしばって到達しようとしている理想の条文なのだ。私は、質問に答えるのに躊躇した。日本では今、この条文を含めて(否、この条文を狙い撃ちにして)憲法を改正しようとする勢力が急速に力を伸ばし始めている。何と返答していいものか。
 「日本は、第二次世界大戦が終わってから一度も戦争をしたことかありません、この半世紀以上、戦争によって殺されたり、殺したりした人は皆無です」
 私は、ひとまずそう言って、
 「この憲法があったからだと僕は思っています。僕がもし、自分の国を誇りとし、自分の国の愛するところはどこかと問われれば、唯一この憲法を持っていることだと言えます」
 と、答えにならない返答をしてみた。すると彼女は、では大丈夫ですね、安心しました、と胸の上に両手のてのひらを重ね、さらに私に質問してきた。
 「でも、もし攻撃されたらどうするのですか? それでも戦いを放棄するのですか?」
 いつもくりかえされる問いである。彼女達の間でも、日本の学ぶべき憲法について議論になると必ずこの質問が誰かから飛び出すのだという。
 私はこの質問にも準備がない。何を言おうが、それは理想論で、生ぬるい平和ボケした現実を見ない者の台詞だと言われるのがオチだからである。 しかし、ものに試しだと思い、私は憲法前文を紹介した。そこには、武器をとらないことの根拠が示されているからである。

 ●日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した
 
戦争が絶え間なく続いているロシアという国に住むその女性は、本当にそのようなことが書かれているのですか、と大きく目を開き、
 「その言葉は日本の国民だけの言葉ではありません。日本の憲法は世界の人々の宝です。その憲法は世界の人のものです」
 と言った。

それは、私が「ノモンハン事件」の取材を通して達した考えと、まったく同じ言葉だった。

 『ノモンハン隠された「戦争」』 エピローグ 完。

 ********************

●あとがき
 
 本書は、特集番組『ドキュメント・ノモンハン事件~60年目の真実~』(1999年8月17日放送・NHK総合)における収集資料・証言記録をもとにした取材記である。

 放送終了後、私の手もとには500人を超える方々から、手紙や様々な反響が届けられた。その量の多さもさることながら、私が驚いたのは「あの映像フィルムに写っていたのは私の父の遺品です」とか「番組によって上官がわかり60年ぶりに会いました」などといった生々しい遺族・元兵士からの声だった。「ノモンハン事件」フィルムとされてきた映像の中に、明らかに別の戦争の映像が混入していることをご教示くださった方もいた。神戸の松本昇氏は、、叔父の戦争体験を何度も調査して送ってくださり、とうとうご自身でもハルハ河に行かれたという。そのほか捕虜関係文書に対する問い合わせも多く、少しでも参考になればと思い、巻末に資料として掲載することにした。
 放送直後から取材記執筆を依頼されていたのだが、番組制作の多忙を理由に先延ばしを繰り返し、はては世紀まで越えてしまい、追い詰められての書下ろしとなった、わずか1カ月余りの間に書いたものであるため、誤りがある部分も多々あろうかと思う。ご寛恕をいただくともに、加筆修正のために是非ともご指摘願いたい。

 執筆に当たって99年4月25日から8月10日までに書かれた「取材ノート」をひもとくと、制作過程で出会った多くの方々の顔が浮かんでくる。貴重な文献や資料を快く提供してくださった人、長時間のインタビューに丁寧に語ってくださった人。加えて番組を一本作る陰には、身を削って関わった何十人というスタッフがいる。彼らを支えたご家族も忘れてはならない,これらの人々の力なくしては、番組も本書も作り上げることは全くできなかった。文中にも様々な方々が登場するが、ここに、さらにほんの一部をご紹介して感謝の気持ちとさせていただきたいと思う。(敬称を略させていただきます)
 ロシア外務省、モンゴル外務省、アレキサンドル・ベリコフ、ワレリー・ワルタノフ、サブリナ・エレオノーラ、ムンフーザヤ、バートルツォクト、ナサンジャルガル、ウルチバートル、フフバートル、ゴンボスレン、ダワードルジ、ノモンハン会、芝不東、向井利光、粟生田修彦、竹原敦子、田中克彦、三木秀雄、馬場公彦、下河邊宏光、浜中博久、吉田真理雄、桑原昌之、川端義則、佐々木隆夫、神山勉、大谷純子、鎌倉由里子、怠け者の私を辛抱強く待ち続けてくれたNHK出版の吉岡太郎。そして、最大の感謝を今、ここに記せなかったすべての方々にー。
ほんとうにありがとうございました。    鎌倉英也 

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●『ノモンハン隠された「戦争」』 ・エピローグ
 ●『ノモンハン隠された「戦争」』

  エピローグ より 。


 ・・・「ノモンハン事件」は、太平洋戦争の序曲でもあったのです。

 これは、2年前に私が記した番組冒頭のナレーションである.
 1999年は、日本でさまざまなことが起った。番組の取材を始めた4月末から、8月中旬に放送されるまでのわずかな期間に限定しても、国会議事堂の中では小渕内閣のもと「ガイドライン関連法」「国旗国歌法」「通信傍受法」「住民基本台帳法」という懸案の法案が次々と成立していった。

 私は、ロシア、モンゴルを旅しながら、以上の法案が立て続けに通ったという国際ニュースに接し、いま、日本では一体何が起こっているのかと考え続けた。

これらの法案がいずれも私たちの生活を「開放」する性質のものではなく、「管理」する性格を内包しているであろうことが、私にとっては深刻な問題に思えた。

 それと同時にこの期間、1930年代の「事件」を追って取材の旅を続けていた私は、その年代における「国家的」動静とそこに底流する「国民的」情念のようなものに触れる機会が多かったため、それらを現実に暮らす1999年と比較してみることが多かった。その結果、私には二つの時代が極めて似通った国際的・国内的ストレスを抱えているように思えた。

 言うまでもなく、1930年代とは、日本が敗戦の破滅に向かって突き進む準備段階の期間で、あった。

それは1929年10月のニューヨーク株式市場株式市場大暴落が連鎖的に引き起こした世界恐慌によって幕を開け、31年の満州事変、32年の満州国建国、35年の天皇機関説問題、36年の二・二六事件と日独防共協定、37年の日中戦争勃発、38年の国家総動員法公布という、相互に因果関係をもって連続した事件・立法が重ねられた季節であった。その週末的局面が39年の「ノモンハン事件」だったと言えるだろう,

 この「ノモンハン事件」によって準備された新たな種子が、翌40年の大政翼賛会政治で十分な水を吸収したあと、41年「アジア太平洋戦争」開戦となって発芽、その戦城の広がりとともにアジア中の地中に根をはびこらせて行く。

 国際情勢も国内情勢も経済も異なり、単純にこの図式を現在に当てはめるつもりはないがある種、通底するものを感じ、戦慄を覚えるのは私の「臆病さ」ゆえのことだけだろうか。
 
1990年代は、91年の株価・地価暴落に始まる「バブル崩壊」を出発点とし、出口のない経済不況の中で、抑鬱したエネルギーが充満、ときに暴発する事件が相次いだ。このような社会的不安は誰しもが認めざるを得ない時代事実であろう。その10年の締めくくりの年に、いままでいくつかのストッパーがかかっていた法案の留め金が外れ、堰を切ったように成立していったことは、極めて象徴的なできごとのように思えるのである。

 警戒しなければならないのは、こうした社会的不満・ストレスを「国家」的「公」優先の論理でからめとり、各々が自律的に持つべき「公」的主体を「国家」に一極集中してゆこうとする権力側の心理誘導操作である。化け物のように巨大化した怨念や鬱屈は、やがてその餌食を物色し始めるだろう。その駒に使われるのは必ず市井の名もなき人々である。

 「国旗・国歌」は公的に決めたというだけのものであるから強制はしない、という。しかし、教員人事問題をからませた圧力をもって、全国の小中学校に式典での掲揚・唱和を強制する力が働く。児童・生徒が主体的にそれを拒んだところには「国を愛する心」がないとして、誹膀されるような事態も起こっている。私は、そのことを知るたびに、1938年の「ノモンハン事件」勃発前年、大陸侵略を続ける「国家」に抵抗したために「売国奴」呼ばわりされた一人の女性の声を聞くのである。 


 「お望みならば、私を売国奴と呼んでくださってもけっこうです。
決して恐れません。
他国を侵略するばかりか、罪のない難民の上にこの世の地獄を平然と作り出している人たちと同じ国民に属していることの方を、私は大きい恥としています。
ほんとうの愛国心は人類の進歩と対立するものでは決してありません。そうでなければ排外主義です。しかし、何と多くの排外主義者がこの戦争によって日本に生まれたことでしょうか」
 
 
 反戦運動家・長谷川テルのこの叫びこそ、雪崩をうって狂気の道へ転がり落ちていった「国家」が聞くべき声であったと思う。

 ナレーション原稿には、その危惧を、「ノモンハン事件は、太平洋戦争の序曲であった」という歴史的事実から、私なりに表したつもりだった。

 2001年3月現在、再び「教科書検定問題」が浮上している。
 暗い側面にばかり光を当てた「自虐史観」を排し「明るく国を愛する心が育つような教科書を」推進する勢力が出そうとする教科書が、アジアの国々から批判の的となっている。

 今こそ、長谷川テルの言葉に耳を傾けるべきときが来ているように思う。彼女の声を抹殺し、突き進んだ戦争の残したものの決算はいまだなされていない。「戦争責任」を果たしてこなかったことは「戦後責任」として引き継がねばならない状況にある。
 「ノモンハン事件」の取材時も、現在も、慎重であることを心がけたのは、軍部の暴走、多数与党連合の横暴について、その一番の責任を問われるべきは、私たち一人一人なのだということであった。
 
 権力の責任を追及することは当然の私たちの責任である。それに加えて、いや、それより前に、そういう人々に権力を与えてしまった主権者としての私たちの責任が問われなければならないということである。              
  <続く>
 





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