カウンター 読書日記 2007年12月
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●原爆投下の謎に迫る
  ●原爆投下の謎に迫る
   
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

 ●かくて、鶴の一声が発せられた
 
 そういえば、ここまで書いてきてふと思いついた。明治神宮があるのに、大正神宮はどうしてないのか、と。自分の祖父を祭るのならば、自分の父親も祭ればいいではないか。そうか、大正天皇に子種がなかったからか、と。
 
小森陽一は東京大学教授である。しかし、彼の論は普通の大学教授の論よりもはるかに鋭い。その鋭い文章を紹介する。

 昭和天皇ヒロヒトとその側近が「終戦」=ポツダム宣言受諾をめぐって、原爆投下を誘引してまでも引き延ばしをはかった「国体護持」の、その「国体」観念それ自体が、「満洲」をめぐる一連の大元帥・ヒロヒトの判断と結合しながら形成されていった事実を私たちはここで思い起こしておかねばならない。
 「原爆投下を誘引してまでも」に注目してほしい。天皇は国体護持を確実にするために、原爆を誘引したのである。

 私は女形の持つ恐怖を読者に訴えかけた。天皇ヒロヒトは、男でもなく、女でもなく、その恋は下から上への恋闕である。これ以上に恐ろしき恋情がこの世にあろうか。
 この女形の持つ恐怖ゆえに、日本人だけでなく、韓国の人々も、中国の人々も死んでいったのである。
小森陽一が書いているように「国体」観念それ自体、すなわち、神聖天皇の誕生は「満洲国」建設と大きく結びついている。
 私は、満洲国の建設は「満業」だと書いた。岸信介、松岡洋右、鮎川義介たちは田布施一族である。彼らが「満業」の創立者たちであると書いてきた。
 小森陽一の本を続けて読んでみよう。
 特別高等警察が自らを「天皇の警察」として自負し、過剰なまでに「非国民」と「国賊」の摘発に血道をあげたように、ポツダム宣言を受諾するか否かの最終局面で、ヒロヒトが自らの「万世一系」の「統治権」を証明する唯一 (唯三?)のものである、「三種の神器」を、どう守れるのか、ということだけしか考えることができなかった、という権力者自身が自らの生み出した神話的妄想にからめとられてしまう事態が生じていた。

 小森陽一の書いている「神話的妄想」が、私の言う女形の恐怖と繋がっている。ヒロヒトの妄想的なる世界の演出により、満洲国もできたし、ノモンハン事件も起こったのである。そして必然的敗戦の時を迎え、その妄想は神話と結ばれていくのである。

 戦争犯罪を問う面からヒロヒトを追及しても、ヒロヒトはするりと身をかわすのである。従って、ヒロヒトを追及するために、私は彼の出自を洗いなおし、それからその神話がもつ仮面を剥がす努力をしてきたのである。ヒロヒトが西園寺八郎の息子ではないのか、と執拗に追跡したのも、そのゆえなのである。
天皇ヒロヒトが誰の子であろうと、問題ないのかもしれない。ただ、連綿と皇統が続きさえすればいいのかもしれない。
 「皇室の一番大きな使命は、皇室そのものを存続させることである。その皇室の中核体をなしているのが天皇である」と大宅壮一は『実録・天皇紀』の中で書いている。続けばいいのか? 私は大森実の『戦後秘史』をたびたび紹介した。90頁に、大森実が阿南陸軍大臣夫人の阿南綾さんから8月11日の出来事を聞く場面について書いた。このとき阿南は天皇に個人拝謁する。天皇は阿南に、「阿南、心配せんでいいよ、確証を得ているんだ」と言っている。天皇は重臣たちの知らない(東郷外相と米内海相は知っていたかもしれない)情報を、アメリカ側からすでに与えられていたことを示している。あの9日~10日にかけての御前会議のときには、すでに天皇の身分は保証されていたことになる。ヨハンセン・グループとスティムソン陸軍長官のルートの中で、原爆投下と天皇制護持がセットになっていることが分かるのである。
 なにはともあれ、8月10日午前7時、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言受諾の用意のあることを打電した。これが第一回目の「聖断」すなわち、鶴の一声である。
 そして8月13日、連合国からの正式回答が到着した。この中に、天皇と日本国政府は連合国司令官に「subject to」するという一句が入っていた。この英語の熟語をどう解釈するかでもめ出した。その間にもB29爆撃機は地方都市に爆弾を投下し続けるのだが、大臣、重臣たちは、天皇のことが心配でならなかったのである。彼らはそのほとんどが、天皇の身分も地位も完全に保証されているのを知らないために、この英熟語を「隷属する」と訳して、「終戦してはならぬ」と騒ぐのである。この一件は書くのにさえ疲れる。

『昭和天皇独白録』を見ることにしよう。

 8月10日の重臣会議
 10日には重臣を呼んで意見を聞いた、近衛、平沼、岡田、広田の4人は無条件降伏も亦已むを得ないという意見、東條、小磯の2人は已に聖断が下った以上已(む)を得ないが、この決定は良くないという事を暗々裡に表はしている戦争継続論であった。
 12日の皇族会議
 12日、皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか(と)質問したから、私は勿論だと答えた。
 賀陽宮、東久邇宮、久邇宮は終始一貫、弱い意見であったが、賀陽宮は松平恒雄を排斥したり白鳥敏夫や徳富猪一郎〔蘇峰一引用者往〕を推薦したりする様な時には、本人自身の気持と違った事を□にした。
 秩父宮は日独同盟を主張したが、その後病気となったので意見は判らぬ。
 高松宮はいつでも当局者の意見には余り賛成せられず、周囲の同年輩の者や、出入の者の意見に左右され、日独同盟以来、戦争を謳歌し乍ら、東條内閣では戦争防止の意見となり、其の後は海軍の意見に従はれた、開戦後は悲観論で、陸軍に対する反感が強かった。
 東久邇宮と朝香宮は兄弟であり乍ら、終始反対の意見を持つていた。
 この集会はお茶の後散会した。

秩父宮は御殿場で静養中ということにし、出席するよう言われなかった。天皇は秩父宮を恐れていた。同じ兄弟でありながら、高松宮への批評は鋭い。天皇が高松宮と口論する場面はたくさんあるが、すべて省略した。敗戦が近づくにつれ、高松宮は天皇に終戦を迫ったのである。
 天皇は貯蓄した財産隠しを敗戦前の1944年から開始していたから、敗戦の準備どころではなかった。そのメドがたってから敗戦の準備工作に入るのである。それが敗戦前の6月初旬だった。このことはすでに書いた。この兄弟仲の悪さを見ても、天皇と秩父宮と高松宮の父親が異なっているのが見えてこよう。
 ここに三笠宮がいるのに、彼の評が一行もない。それはすでに書いたのだが、三笠宮が天皇から依頼を受けて、宮中での偽装クーデター工作に入っていたからである。兄弟の中で唯一の味方が三笠宮であったことの証が、ここにも見えてくるのである。
 
8月10日の重臣会議へと戻ろう。

 主戦派とか戦争継続派とかいわれるグループと、穏健派とか和平派とかいわれるグループがそれぞれ意見を述べあった。しかし、彼らは「国体護持」の点では完全に一致していた。要するに、天皇が無事でいてくれさえすれば・・・後は何も申すことかありません・・・というわけである。天皇はそれを確認すればよかったのである。
 すべては、女形の天皇に一任するというドラマが進行していったのである。天皇と木戸と宮中の人々は、重臣(かつての首相たちが主)たちに喋りたいだけ喋らせ、そこで、ご聖断を仰ぐしかないであろうというシナリオを作成していたのである。

12日の皇族会議も同じシナリオが出来ていたのである。こうして大臣や重臣たちは自分の意見を吐露した後で、自分か何らの力もなく、空しい存在であるかを知ったはずである。そして彼らは、天皇の身の安全のみを祈りつつ、己が身のよるべなさを知らされたのである。
 ここに、得体の知れぬ魔力を秘めた、いと怪しき女形の天皇がひらりと身をかわす時、すなわち、大元帥の軍服を脱ぎ捨て、背広に着替える時を迎えるのである。

 『昭和天皇独白録』を続ける。

 豊田軍令部総長、梅津参謀総長、阿南陸軍大臣の三人は、之では国体護持ができぬといひ、東郷外務大臣は出来ると云ふ。鈴木総理は平沼枢府議長と会った結果、之では国体護持は出来ぬのではないかと云ふ様な心境の変化を見せて来た、そこで私は東郷をして鈴木と話合ひをさせて、鈴木の気持を固めさした。
 事態斯くの如しで、閣議も、最高戦争指導会議も各々意見が分裂した、安倍内相、阿南陸相、松阪法相等6人は護持出来ぬと云ふ説だった。
 阿南は陸軍を代表して木戸と激論した。田中隆吉の記事に依ると、阿南は私の処に哀願に来たことはないと云ってゐるが、事実は間接に木戸の処に哀願に来て、議論の来、物別れとなったのである。
 東條も木戸の処に議論に来た、愈々となれば陸軍士官学校の生徒隊で、天皇をお守りすると云ふので、木戸はそれでは皆玉砕する結果となるのではないかと云ったそうだ。
 話は遡るが、9日の御前会議で、私が外務大臣の案に賛成して、受諾の決心を表明する前に木戸を通じて、平沼と近衛とに私の決心を打明けさして置いた。
 
「subject to」を外務省は「制限の下に置かる」と訳した。陸軍側は[隷属する」と訳した。これから問題が生じてこじれた。
 天皇および政府の国家統治権が連合国最高司令官の制限の下に置かれる、のか、連合国最高司令官に隷属する、のかという問題であった。そこで『昭和天皇独白録』を続ける。

 かように意見が分裂してゐる間に、米国は飛行機から宣伝ビラを撒き始めた。日本が[ポツダム」言言受諾の申し入れをなしつつあることを日本一般に知らせる「ビラ」である。
 このビラが軍隊一般の手に入ると「クーデタ」の起るのは必然である。
 そこで私は、何を置いても、廟儀の決定を少しでも早くしなければならぬと決心し、14日午前8時半頃鈴木総理を呼んで、速急(ママ)に会議を開くべきを命じた。陸軍は午后1時なら都合がいゝと云ふ、海軍は時刻は明瞭でなかった、遅れてはならぬのでこちらの方から時刻を指定して召集することとし午前10時としたが、色々な都合で11時ときめた。
 陸海軍では、会議開催に先だち、元帥に会って欲しいと云ふから、私は皇族を除く永野、杉山、畑の三元帥を呼んで意見を聞いた。三人とも色々な理由を付けて、戦争継続を主張した。
 
私が今若し受諾しなければ、日本は一旦受諾を申し入れて又之を否定する事になり、国際信義を失ふ事になるではないかと彼等を諭してゐる中に会議開催の時刻が迫つたのので、そのまゝ別れた。
 午前11時、最高戦争指導会議と閣議との合同御前会議が開かれ、私はこの席上、最后の引導を渡した訳である、この会議の事は迫水の手記に出てゐる。
 『鈴木貫太郎自伝』から引用する。迫水の手記もよく似ている。涙、涙の世界である。私がいう「女形天皇」の最後の場面である。

   
 ・・純白のお手袋にてお眼鏡をお拭き遊ばされていたが、陛下は一段と声を励まされ、
 「このような状態において戦争を終結することについては、さぞ、皇軍将兵、戦歿者、その遺家族、戦災者らの心中はいかがであろうと思えば胸奥の張り裂くる心地がする。しかも時運の赴くところいかんともなし難い。よって、われらは耐え難きを堪え忍び難きを忍び・・」
と仰せられたかと思うと、玉音は暫し途切れたのである。仰ぎ見れば、おお、おいたわしや、陛下はお泣き遊ばされているではないか・・
 列席者一同は今度の再度のご聖断を給わるについては非常に緊張し、いう者も聞く音も涙で終始したのであるが、この陛下の、
 「耐え難きを堪え・・」
の玉音を拝するや、たまり兼ねた一同は御前もはばからず、ドット泣き状したのである。なかには身もだえ号泣する者もあったのである・・。

私はこの場面と8月9日の場面を読み、ただ唖然とするのである。「あんたたちゃ、なぜ泣くのか」と叫びたくなるのである。終戦工作をどのようにするのか、軍人たちの今後をどのようにするのか、戦死者の扱いをどのようにすべきか、泣いている場合か、である。

 
 開高健の小説『日本三文オペラ』を読む。

 ・・さいごの決定的壊滅は昭和二十年八月十四日、終戦宣言発布の一日前、しかも白昼、すさまじい攻撃によって全滅した。公開された多くの記録によればポツダム宣言受諾はすでに一週間以前に決定されていたのだから、この三十五万坪の巨大な廃墟は軍閥政治家や天皇の、面子意識と優柔不断そのものをさらけだしているといえよう。七万人の労働部隊のうち、何人が助かったのかわからない。しかし、八月十四日の夕方に帰るべき人間が帰らなかった家は、大阪市内とその近郊に無数にあったはずだということは想像に苦しくない。無数の父と夫と兄と娘は
狂気の馬鹿の虚栄心のためにまったくむだに四散した。

 開高健が見事に描写しているごとく、「狂気の馬鹿の虚栄心」ゆえに、8月14日も多数の人々が、無数の父と夫と兄と娘が、死んだのである。

 
 ●かくて、鶴の一声が発せられた  <完> 

スポンサーサイト

●原爆投下の謎に迫る
 ●原爆投下の謎に迫る
   
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

 ●かくて、鶴の一声が発せられた

 名文である。私はこの名文を幾度も読み返し読んでみて、ふと思った言葉がある。「恋闕」という言葉である。恋闕とは天皇を恋することである。天皇の言葉に号泣する軍人たちは確かに天皇に恋していたにちがいない。どうして、このような感情が生まれてきたのであろうか。その一つの理由は、正木ひろしの『近きより』(昭和21年再刊号)の中に見出せると思う。
 高級職業軍人や憲兵や検事の大部分、その他の戦犯らが戦争の継続を必死になって望んだのは、敗戦になれば、戦勝国の手による刑罰の必至であったため、それを恐れて1日も長く自分の寿命を延長するため、また絞殺されるよりは、国を焦土と化し、全国民と無理心中するため、一億戦死を叫んだもので、その残忍酷薄非人道は、地獄の悪魔の心と少しも変はるところがない。

 しかし、正木ひろしは恋闕の半分しか答えていない。正木ひろしは戦争継続を叫ぶ軍人たちが敗北を覚悟で徹底抗戦を叫んだのを、生活基盤の面から見ている。もう一つの理由があると私は思っている。彼ら老いた高級職業軍人たちは言葉が悪いが、他に表現方法がないのだが、女形の天皇にぞっこん惚れこんでいたと思えてならない。女形が持つ無機的な闇の部分に惚れこんでいたのである。あの号泣の場所は、恋のぬれ場であったと思う。犯したいが犯しえぬ一人の女形を前にして、彼らはその恋情がやがて終わりとなることを意識したのである。
 天皇に直接会える政治家や軍人はごく少数である。天皇に直接会えるということは、正木ひろしではないが、その女形の魅力ゆえに残忍酷薄非人道、地獄の悪魔の心を持って出世の階段を一歩一歩登りつめた結果なのであった。

多くの「高級職業軍人や憲兵や検事の大部分」の者たちは、犯すに犯しえぬ恋情=恋闕に憧れたのである。だから、戦争をするという行為に何ら疑問を感ずることなく、天皇の意のままに動くロボットのような人間集団と化したのである。
 敗北が近づくにつれて、その女形のもつ、いとあやしき魅力にかげりが見えてきた。日本劇場の幕切れが近づいてきた。女形は、古い恋人たちを捨てて、廻り舞台の上で乗りかえようとしていたのである。そこで、女形はあらためて、自分の魅力とは何だろうと思うようになった。この小男で、猫背で、体をいつも小きざみにふるわせている女形の魅力とは何であったのか。天皇ヒロヒトは絶えずそれを考えていた。女形を権威づけてきたものは・・・と天皇ヒロヒトは考え続けたにちがいない。
 それは大室寅之祐以来、隠しに隠してきた出自を、完璧に隠蔽できるものであった。彼は自分が大室寅之祐の血さえひいていないのを知り尽くしていた。皇統は完全に絶えていた。しかし、裕仁は連綿と続く皇統の唯一の存在者であると確信していた。それが大いなる誤謬であれ、裕仁は確実にそのように信じていた。

 『昭和天皇独白録』を見ることにしよう。
 当持私の決心は第一に、このまゝでは日本民族は滅びて終ふ、私は赤子を保護する事が出来ない。
 第二には国体護持の事で木戸も同意見であつたが、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。

この本の中に「注」がついている。たぶん、半藤一利の解説である。

 また、国体護持のためには三種の神器を確保せねばならない、とする天皇の考えは、20年夏ごろにしばしば側近に洩らされている。たとえば、7月25日、前日の伊勢神宮爆撃について語ったとき。
 「もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営そのものが捕虜となることも考えられる。そうなれば、皇祖皇宗よりお預りしている三種の神器も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持しえないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるほかはないのではないか」
 あるいは7月31日に、
 「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思う。・・・万一の場合には自分が御守りして運命をともにするしかない」と語っているのである。
 この解説者の書いている通り、『木戸日記』を読むと、三種の神器にこだわる天皇の姿がたくさん書かれている。木戸関係文書の中にもたびたび登場する。阿南陸相が戦争継続を木戸に訴えているとき、「それでは三種の神器はどうなるのですか」と木戸が反対する場面が、その文書の中に登場する。木戸は天皇の話を聞いているうちに天皇に感化されているのが分かるのである。
 この『昭和天皇独白録』について、痛烈なる批評をなしている本があるので紹介する。★小森陽一の『天皇の玉音放送』である。(2003年五月書房刊)
 
「第一」の「理由」は、迫水の語ったところと一致している。これ以上死者を出してしまうと「日本民族」が「滅びて終ふ」、「天皇」を支える「赤子」が死に絶えてしまうことに、ヒロヒトはまず恐怖したのである。
 しかし「第二」に固執しているのは「国体護持」しかも7月25日や31日と同じように神器が置いてある伊勢神宮と熱田神宮が「敵の制圧下」に入ったらどうするのか、ということなのである。ヒロヒトが「聖断」を下したのは、本土決戦になれば「神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない」からなのだ。広島、長崎への原爆投下の後も、ヒロヒトの頭の中に変化は起こらなかったのである。

 「私の一身を犠牲にしても」と、あたかも決死の覚悟であったかのように語ってはいるが、ヒロヒトの頭の中にあったのは要するに自分が戦争に敗北した大元帥になったとしても、「三種の神器」の保全を優先して「国体」を「護持」する、という神話的妄想にほかならない。
 「聖断」は、国民ではなく、「三種の神器」の安全を守るために下されたのだ。この一点を私たちは忘却してはならない。

私は「三種の神器」については書かないことにするが、一言だけ書くとすればこれは★レプリカであるとのみ書く。
 
私は天皇の「独白録」を読み、「注」を読み、そして小森陽一の説に接しつつ、思ったことかあるので正直に書いてみよう。

 伊勢神宮と天皇家は本来、関係がないのである。天皇家は仏教を信じていた。伊勢神宮は仏教を信じない人々の心の拠り所であった。
 幕末、この伊勢神宮を参った人々(お伊勢まいり)は、「ええじゃないか」の旗を立てて、革命を煽る集団と化した。この「えゝじゃないか」の旗の中に「エタでもえゝじゃないか」の旗が見えるのである。ここから明治維新の波が起こってきた。だから、大室寅之祐こと明治天皇は、この伊勢神宮に参ったのである。

 簡単な表現をするならば、(被差別)部落解放運動が明治維新となったのである。あの天皇も重臣の多くも部落出身者であった。彼らは自分たちを権威づけるために「三種の神器」という伝説を創造したのである。ヒロヒトがこの「三種の神器」にこだわる理由がそこにある。

 もう一つ考えられる。ヒロヒトは、スイスに入れた金と「三種の神器」をごったにして考えているふしが見え隠れする。最下層の生活から一変して大金を手にした人間は、擬い物の芸術作品や偽作の血統書を手に入れて、自分の出自を隠そうとする。自分の子供たちを高貴な血統(?)と結びつけようとする傾向がある。これと同じである。ヒロヒトは「三種の神器」を口にするたびに、心の中では「大室寅之祐以来、蓄めに蓄めた金」をどうして占領軍アメリカに渡されようか、と考えていたはずである。
 だから、原爆をアメリカに都合よく投下してもらい、あとは国体護持を維持することに専念する。その第一歩が「鶴の一声」であったのだ。
   (続く)
 



●原爆投下の謎に迫る
 ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

 ●かくて、鶴の一声が発せられた

 この『情報天皇に達せず』の8月8日に原爆の記事が出ている。一般の国民は全く知らされていないときに、皇室の人々は全貌を知っていたのである。それはそうであろう。文中、「公」とは近衛文麿である。
 
 然もその時、西部軍司令部は殆ど全滅したらしいとのことで、公と二人、是こそポツダム宣言に、独乙以上に徹底且完全に日本を破壊すると彼らが称した根拠であったらうと語り、或は、此の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。5時人生田出発、7時東京、直に木戸内府を訪問せらる。内府も、一日も速かに終結すべきを述べ、御上も御決心なる由を伝ふと。又内府の話によれば、広島は人口47万中12~3万が死傷、大塚総監一家死亡、西部軍司令部は、畑元帥を除き全滅、午前8時B29一機にて一個を投下せりと。敵側ではトルーマンが新爆弾につき演説し、
 「対独戦の際英国にて発明、1940年、チャーチル、ルーズヴェルトの話にて、予算29億ドル、12万人の労働者を使用して、メキシコ近くに製作に着手、現在6万人を使用せり」と。

天皇は木戸に全貌を知らせる。近衛は木戸からそれを聞き取っている。ほぼ正確である。見事と言うべきか、「西部軍司令部は、畑元帥を除き全滅」となった。
 近衛は細川に、「(陸軍を抑えるには)天佑であるかも知れん」(8月9日の日記)と語っている。この「天佑」という言葉は、原爆投下作戦の「暗号」であった可能性がある。
 8月9日に御前会議が開かれた。
 8月9日の木戸幸一の『日記』の最後の部分を引用する。
 
鈴木首相拝謁、御前会議開催並に右会議に平沼枢相と参列を御許し願ふ。
 11時25分より11時37分迄、拝謁。
 11時50分より翌2時20分迄、御文庫附属室にて御前会議開催せられ、聖断により外務大臣案たる皇室、天皇統治大権の確認のみを条件とし、ポツダム宣言受諾の旨決定す。

 この会議はポツダム宣言を受諾するために開かれた。午前10時半に重臣たちを集めた最高戦争会議では意見が分かれた。それで平沼騏一郎枢密院議長を加えることになった。受諾賛成沢は、米内海軍大臣と東郷外相。反対派は阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍軍令部総長。2対3なので平沼枢府議長を賛成派に入れて3対3にして、天皇の御聖断を仰ごうとするのである。
 鶴の一声はここでやっと聴くことができるのである。
 この日、長崎にも原爆が落ちている。長崎市の被害は死者10万人、負傷者7万5000、被災者13万8930人、焼失家屋1万8620戸、焼失率40%。その他の地方都市もB29の爆撃にあって毎日のように死者が出ている。
 この長崎原爆の投下による被害を知りながら、天皇も大臣たちも一言の発言もない。全く国民は馬鹿にされ尽くされている。
 天皇がこの御前会議で語った模様を下村海南の『終戦秘史』から引用する。

 大東亜戦は予定と実際とその間に大きな相違がある。
 本土決戦といっても防備の見るべきものがない。
 このままでは日本民族も日本も亡びてしまう。国民を思い、軍隊を思い、戦死者や遺族をしのべば断腸の思いである。
 しかし忍びがたきを忍び、万世のため平和の道を開きたい。
 自分一身のことや皇室のことなど心配しなくともよい。
 以上はただその要旨をあげただけであるが、大東亜戦は予定と実際との間に相違があるといかれし内容には、
 九十九里浜の防備について、参謀総長の話したところと侍従武官の視察せるところと、非常な差があり、予定の10分1もできていない。また決戦師団の装備についても、装備は本年の6月に完成するという報告をうけていたが、侍従武官査閲の結果では、今日に至るも装備はまったくできていない。かくのごとき状況にて本土決戦とならば、日本国民の多くは死ななければならない。いかにして日本国を後世に伝えうるのか、という、今までにまったくためしのない隠忍沈黙の型を破った陛下自らの思いのままを 直言されたのであった。満場ただ嗚咽の声のみである。首相は立った、会議は終りました。
 ただ、今の思召を拝し、会議の結論といたしますといった。聖断とはいわない、思召を拝して会議の決議とし、第二回の会議は閉じられたのである。首相の車は官邸へ急いだ。時計の針は、はや8月10日午前三時を指している。

これが世に言う「御聖断」である。私が言う「鶴の一声」である。『大漢和辞典』によれば、中国末代の張端義撰の『貴耳巣』にも見える、有難きお言葉である。
 
天皇はどうして広島・長崎の被害について語らず、どうでもよいような(私にはそう思える)九十九里浜の防備について語るのか、まったく理解に苦しむのである。
 「自分一身のことや皇室のことなど心配しなくてもよい」は、真っ赤な嘘である。このポツダム宣言受諾の条件が「国体護持」であることを見ても理解できる。
 「満場ただ嗚咽の声のみである」も私の理解をはるかに超える。どうして、大臣たちは拉いていたのであろうか。彼ら大臣や重臣たちは、これ以降の御前会議で天皇の御言葉を聞くと泣き出すのである。

 さて、この同じ場面を、鈴木貫太郎首相の書記官長として出席した迫水久常の『終戦の真相』から見てみよう。

 陛下は先づ「それならば自分の意見を言おう」と仰せられて「自分の意見は外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。
 その一瞬を皆様、御想像下さいませ。場所は地下10メートルの地下室、しかも陛下の御前。
 静寂と申してこれ以上の静寂な所はございません。
 陛下のお言葉の終った瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大将でありましたが、これまた書類の上に涙がにじみました。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえたような気がしました。
 次の瞬間はすすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。
 涙の中に陛下を拝しますと始めは白い手袋をはめられたまま親指を以ってしきりに眼鏡をぬぐって居られましたが、ついに両方の頬をしきりにお手を以ってお拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。
 建国二千六百年日本の始めて敗れた日であります。日本の天皇陛下が始めてお泣きになった日であります。
   (続く)
 




●原爆投下の謎に迫る
  ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

 ●かくて、鶴の一声が発せられた

 住井すゑ(作家)が書いた「愛する故に戦わず」を紹介したい。この随筆は、葦原邦子他の『女たちの八月十五日』の中に収載されている。
 
[明、十五日正午、重大放送がございます」
 1945年(昭和20)8月14日正午、ラジオはニュースの冒頭で右のように告げた。もしかしたら、重大放送の件は、朝のニュースで、既に知らされていたのかもしれぬ。けれど私の場合、朝のうちはラジオどころではなかった。3人の子供-19歳の長女は徴用工、16歳の次女と14歳の次男は学徒動員で-を、それぞれの軍需工場に送り出すのに忙しくて。
 ところで正午のニュースは、その終りでも繰り返した。
 「明、十五日正午、重大放送が・・・ 」
 心成しか、アナウンサーの声が強張っている。
 「どう?」と、私は今は亡き夫(犬田卯=いぬたしげる)の顔を見た。多少意地悪な勝利感を胸に秘めて。というのは、この日ーつまり無条件降伏を内容とする天皇のラジオ放送が行われる日の到来を、私は一年以上も前に予言していたからだ。ことの次第は次の通りである。[略]

住井すゑは「ことの次第」を書いているがここでは省略したい。確かに彼女はこの一年以上前に、夫や知人のN君にそのことを語っている。間違いのないところである。

 私が「鶴の一声、近くて遠し」の項で書いたのがまさしく、この玉音放送であった。
 戦争に突入した。敗北に次ぐ敗北だった。多くの史家はこの敗北の模様を書き連ねるが私は一行も書かない。知りたい人は別の本を読んでもらいたい。その敗北の続く日々の中で多くの戦死者が、外地のみならず日本国内でも毎日、毎日、続出したとのみ書く。
 「どうして鶴の一声が近くて遠かったのか」
  1944年6月26日、サイパン島攻防戦の最中に、東條内閣の外相重光葵と内大臣木戸幸一が会談する。このとき、木戸幸一は「戦争の見透しと外交をいかにするか」と、重光葵に問うている。「時機到来の際は、宮中は内府に於て、政府は外相に於て、天皇は全責任を負い、聖断へ鶴の一声により事を運ぶの外なき・・・」と重光葵は答えている。

 ちょうど住井すゑが夫やN君に語っていた頃である。

 日本は敗北し続けていた。鶴の一声を待つ気持ちを、全国民が心のどこかに持つようになっていた。しかし、それから一年間、戦争は続けられた。どうしてか? 私はその答えを書き続けてきた。ただ一つ、天皇制護持の確約がアメリカから送られてこなかったからである。

 国際決済銀行は、ちょうどこの6月ごろから、天皇の財宝をスイスの銀行に入れてやるべく協力をするのである。国内にある金・銀・ダイヤモンドまでもが潜水艦や赤十字の船に載せて運び出されるのである。天皇は鶴の一声を出すまでに、なんとしても大室寅之祐以来、蓄めて蓄めて蓄めこんだ資産を海外に運び出さなければ、と思ったのである。その大半が運び出されたのが1945年6月ごろであろう。どうしてか。天皇が終戦工作に入るからである。それが6月8日の最高戦争指導会議(御前会議)となるからである。
 この会議の後に、木戸幸一は天皇から「大綱」を見せられ、至急に「時局収拾の対策試案」を作成し、翌日天皇に奉上する。このことは『木戸幸一関係文書』の中に書かれている。私は彼の日記の一部を掲載した。

 6月初旬であろうと私は推測するのであるが、一部の問題(皇后のスイス国立銀行での件)を除き、ほぼ天皇の財産が海外に移されたのである。とほぼ同じ頃に、ヨハンセン・ルートで天皇に終戦工作に伴う覚え書きが届いたはずである。皇太后への説得や天皇の諸々の動きの中に、それが見え隠れするからである。皇太后が陸軍省に原爆に耐えられる防空壕を造れと難題をもちかけるのは6月中旬以降のことである。皇太后はそれが不可能だと知ると、軽井沢に疎開することを承知するからである。
 細川護貞『情報天皇に達せず』の8月1日の日記には次のように書かれている。細川護貞と高松宮の会話である。高松宮が細川護貞に語る場面のみ記す。
 
「軽井沢に大宮様を御出遊ばすについても、スイスの公使が、米国に軽井沢を爆撃しない様にたのんだと云ふことがわかったので、陸軍の者が三笠宮の所へ押しかけて、大宮様が爆撃を御逃げになる様では面白くないと云って来た由だ。実につまらぬことに気が廻るものだが、注意すべきことではある」と仰せられたり。

『大井篤手記』については触れた。貞明皇太后(大宮様)は原子爆弾の投下のニュースを知り、狼狽する。天皇は6月14日、そのニュースを知らない皇太后を説得しにいくのであるが拒否されて、皇居に帰ると寝込むのである。半藤一利や保坂正康は、天皇の苦悩の深さに思いをいたし、天皇の心労に同情するのである。
 
しかし、ちょっと待て! と叫びたい。天皇はスイスの公使を使って、軽井沢を爆撃しないよう工作をしていたのである。それを高松宮はちゃんと知っている。
 私はこの工作にもヨハンセン・グループが動いているとみている。当時スイス公使とあるのは藤村義明であろう。彼は戦略情報局(OSS)長官ドノヴァン配下のアレン・ダレスと和平工作をしていた。そのスイス公使に「皇太后を疎開させるから、軽井沢を爆撃してくれるな」と天皇が依頼し、アレン・ダレスが承諾し、OSSのドノヴァン長官に連絡する。それを陸軍長官が最終的に認め、爆撃中止を出す・・・。よって軽井沢に爆弾が落ちるのを防いだ。
 高松宮は「陸軍の者が三笠宮の所へ押しかけて、大宮様が爆撃を御逃げになる様では面白くないと云って来た由だ。実につまらぬことに気が廻るもの」だと言うのである。
 自分の母親がいとおしさに、天皇はスイス公使を動かして軽井沢工作をするのである。これが「実につまらぬことに気が廻る」ものなのか。
 
では最終的にはどうなったのか。貞明皇太后は静かに大宮御所で暮らすのである。そして戦争が絡わって8月20日、軽井沢に疎開(?)するのである。
 これはどういうことを意味しているのか。軽井沢への疎開が陸軍の連中にばれたので、天皇や高松宮が交渉し、東京に爆弾が落ちようと、大宮様の御殿には落とさないと交渉した結果であろう。また、東京には原爆が落ちないようになったことを、天皇か誰かが、懇々と説明申し上げたからであろう。従って大宮様は7月のあるとき以降、疎開の話も原爆の話もしなくなるのである。なんと優しい天皇ではないか。天皇のこの優しさを、半藤一利や保坂正康に説明してやりたくなってきた。
   (続く)
  

       

●原爆投下の謎に迫る
 ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

  ●広島にどうして原爆が落ちたのか

 もう一度、米内海相の直話を記す。天皇も木戸も、この米内の話に賛意を示したのである。

 私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来ると云うのが寧ろ幸である。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)
 まさに、米内海相が語るがごとく、数十万人の死者を出した原爆より、ソ連参戦で満州で数十万人の軍人や民間人が死んだことより、国内情勢の憂慮すべき事態が重要であると、天皇や米内たちは考えたのである。その一つが広島にある第二総軍であったというわけである。
 その第二総軍は壊滅した。西日本の軍の反乱はこれによって鎮圧された。残るは関東一円となった。その中心の皇居を舞台に、偽装クーデターを起こした、というわけである。
 
そこまでして守らなければならない「国体護持」とは何なのか? 読者はこの点を深く考えなければならない。

 原爆投下と深く結びついたヨハンセン・グループのすべては、戦後、一人として戦犯とならなかった。アメリカ、そして何よりもこの世界を支配する「陰の政府」、それはユダヤを中心とする国際金融同盟のために働いたがゆえに、彼らヨハンセン・グループの人々は、戦後になると地位と名誉と金を手にするのである。ほとんど例外はない。国を売って得たダーティな報酬だった。
 東郷茂徳は太平洋戦争そのものに反対した。しかし、敗戦処理内閣の外相になったがために戦犯となった。20年の禁固刑。獄中死した。どうしてか。
 1948年11月12日、東京裁判の判決が出た。その判決の一部を記す。

 被告・東郷は、1941年10月から東条内閣の外務大臣として、太平洋戦争の勃発まで、かれはその戦争の計画と準備に参加した。かれは閣議や会議に出席し、採用された一切の決定に同意した。〔略〕 1945年春、かれが再び外務大臣になったときは、抗議が山積していたが、かれはそれを関係当局に回付した。本裁判所の意見では、戦争犯罪に関して、東郷が義務を怠ったということについて、充分な証拠はない。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二について、東郷を有罪と判定する。

これが禁固20年の判決理由である。


 ここで明確にしよう。国際検察局に密告し続けた二つの秘密ルートがあった。一つは天皇ルートであり、もう一つはYルートであった。ヨハンセン・グループは吉田反戦ブループである。戦後首相となった吉田茂は多くの人々をこの検察局に売った。
 東郷は原爆投下の秘密と、天皇の財宝の処理について知りすぎていた。それゆえに消されたのである。  
 
 第二総軍司令官・畑悛六はどうなったか。
 彼も戦犯となり、終身刑の判決を受けた。
 彼は広島に原爆を投下させた功労者ではあった。しかし、ヨハンセン・グループと結びついていなかった。戦後、ヨハンセン・グループを脅していたら、あるいは戦犯にならずに済んだのかもしれない。
 
天皇は、もう一人の知りすぎた男、有末清三を検察局に売ろうとしていたことが後に判明する。「有末精三はどうして戦犯にならんのか」と側近に語っているのである。

 朝日新聞東京裁判記者団著の『東京裁判』の中に、「馬上の半生、長夜の夢」のタイトルで、畑悛六陸軍元帥についてのエピソードが書かれている。
 陸軍元帥・畑悛六。沈痛な、渋い表情のこの人の横顔からは、およそ喜怒哀楽の情をよむことは至難であった。終始寡黙。そして、なにかきびしいものに身を包んでいる様子は、その意志的な頬の線によっても知れるが、しいて取りすましているというのでもない。

 同被告の弁護人・神崎正義氏は、畑氏が被告控室でしたためた一枚の色紙を持っていた。それには
 「 馬上之半生 長夜之夢、俊六 」 とあった。〔略〕
 三日間の審理で召喚された証人は、宇垣一成元陸軍大将、米内光政元海軍大将、米内内閣の外相・有田八郎、元参謀次長・沢田茂元陸軍中将、元帥軍兵務局長・田中隆吉らの諸氏。
 米内光政の口述書は米内内閣の崩壊の際の畑の行動を弁護したものであるが、米内証人に対し、サットン検事が反対尋問に立ち、
 「畑は米内内閣が辞職することに賛成したか」
 ときき、これに対し米内証人、
「初めは賛成していなかった」
 と答えたのに引きつづき、的外れの返事が多く、ついには裁判長たまりかねて、
「かつて首相であった人で、この法廷に出た者の中で一番愚昧だ」
 と、前例のない言葉を口走った。・・
 
私は、米内光政が畑悛六・元帥(第二総軍司令官)を説得し、広島に原爆を投下させた可能性大と思っている。米内が首相になったとき、畑は陸軍大臣となっている。それで米内は証人として出席した。しかし、心にやましいことがあるゆえに、しどろもどろの答えを繰り返し、ウエップ裁判長はついに「一番愚昧だ!」と口走ったのであろう。

 こんな愚昧な男が終戦工作の主役の1人となり、天皇のイエスマンとしての行動を取り続けたのである。

 畑悛六元帥の判法文を記す。
 
かれの指揮下の軍隊によって、残虐行為が大規模に、しかも長期間にわたって行なわれた。畑は、これらのことを知っていながら、その発生を防止するために、なんらの措置もとらなかったが、なんらの方法も講じなかったかである。〔以下略〕

 私たち日本人は、この米内光政という一番愚昧な海軍大臣(元首相)に一杯喰わされたのだ。天皇という存在はそれほどまでに大きな犠牲を要求して、平成の今日まで生き続けているのである。
 この項の最後に、「八月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令された」ことに関し、原爆遺跡保存運動懇談会編の『広島爆心地中島』から引用する。
 当時の県視察官、後に広島一中・学校長として動員学徒に深い関係のあった数田猛雄氏は、「動員学徒誌」の「動員学徒をしのぶ座談会」の内で次のように軍部のことを述べている。
 

 私たち教育関係者としては、教育防衛(*次代を担う若者たちの教育=人材育成を天皇制軍隊の横暴から防衛する)の立場から僅かの時間でも教養を高め、学問の道の指導訓育に心をくだいたものであります。
 この間の学徒は国家の危急存亡にあたり、ひたすら勝利を希って栄養失調に陥入りながら昼夜を分かたず自己を拠ってよく精進努力してくれました。
 青雲の志をもちながら入学以来明けても暮れても戦力の増強に死力を尽し、学業を省みる暇もなかったのでこの姿では勝っても負けても将来どうなるかと心配でならなかったものです。
 そこで教育防衛のため、無理難題を言う軍部としばしば衝突したことも今に至って感慨無量のものがあります。
 原爆のため6千余人の犠牲者が出たので、その善後策は大変なものでした。・・・
   
 
 学徒を殺し、一般市民を殺し、第二総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。

 ・・陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機を茲に与へられたと云ふのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。・・・

 私は多くの非難を覚悟の上で、この「涙の項」を書いている。『広島爆心地中島』の本の最後は以下の文章である。

 ・・当時の国家総動員体制下にあって、子どもの健康、安全を第一に考えて、敢て反対の意見を述べ、また自分の責任で行動する教師のあったことは驚きであり、また救いであった。一方強引におしつけた軍部の横暴は許し難い。
 しかも原爆投下は、命じたものも、命じられたものも、そしてすべての命を奪い去った。
 さらに許し難い。・・

 私たちは、この事実から何を学ぶべきか、改めて考えさせられることが多い。

 ************

 冒頭に紹介した章末まで何とか辿り着きました。

 ・・ 私はここで私なりの結論を書くことにする。・・・へ。

 ●広島にどうして原爆が落ちたのか  <完>
  

  ●かくて「鶴の一声」が発せられた へ 続きます。




 ●原爆投下の謎に迫る   『日本のいちばん醜い日』
  ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。
 
  ●広島にどうして原爆が落ちたのか

 ・・・
 私はこの文章を読んでいたときに、ハッと気づいたのである。「どうして広島に・・」と長いあいだ思い悩んでいた難問が「ついに解けたぞ」と、ひそかなる声を出したのである。
 それは一つの仮定ではある。しかし、事実だと確信する。有末精三の次の文章を引用してから謎解きに挑戦してみよう。
 
10日早朝、双葉山中腹の総司令官宿舎に畑元帥を訪ね挨拶に行った。ソ連参戦のため急ぎ東京へ帰るべく、原爆の調査研究の一切は仁科博士一行に委任する旨報告したところ、元帥は当然至急帰京をすすめられ、独語のように、
 「君!! なるようにしかならんねェ 」
と短かい言葉を洩らされた。元来、元帥は昔から頭が俊敏で、先きの見透しのよいことで有名であった。わたしも参謀本部の演習課で勤務の折、隣りの作戦課長だった元帥(畑大佐)の評判をよく聞いていた。「五千メートルしか届かない砲弾を、七千メートルも先きの目標に向って発射するような計画には絶対不賛成」といった性格の方であった。その元帥の独語を聞いて、わたしは心なしか和平への予感めいたものを感じたのであった。

 有末精三は「それぞれ頭や頚(くび)元や腕に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀・橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡座(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・」と書いている。生き残った第二総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡座をかいていたのである。
 この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
 ひとり、★畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。

 「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精二(三の誤植)は書いている。私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎごろ、広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時すぎに、第二総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第二総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。
 
畑はヨハンセン・グループの依頼を受けた。「君、これは上の方も承知しているのか。そうか、君、なるようにしかならんねェ・・」と言ったにちがいない。この指令がヨハンセン・グループからグルーに報告された・・・。そして、8月6日午前8時すぎに、広島に原爆が落ちたのである。
 
大木操の『大木日記』の8月7日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。

 8月7日(火) 晴
 10時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
 議長、副議長と雑談。
 正午過、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を6日午前8時半頃投下。10数万の死傷の報、大塚地方総監、爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上2、3百メートルにて爆裂、直径4キロ全壊全焼、エラいことなり。
 直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。

では、『広島県史(近代Ⅱ)』の「原爆と敗戦」を見ることにする。
 
広島地区司令部の強い要請により、中国地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。

この二つの本を読んで、私は次のように推論する。

 八月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進・広島県知事と中国地方総監を説得した。第二総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第二総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。

 私の説を誤謬とする人は、これに反論する説を述べられよ。すべてが偶然と言いはるつもりなら、もう何も言うべき言葉はない。
 この軍隊を指揮した中国軍管区司令官の藤井洋治中将(広島第五十九軍司令官)も、夫人とともに被曝死している。

 一九九七年に国立国会図書館は「政治談話録音」なるものを一般公開した。木戸はその中で「原子爆弾も大変お投に立っているんですよ。ソ連の参戦もお投に立っているんです・・」と語っていた。 


 天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた。1975年10月31日、日本記者クラブとの会見のとき、アメリカ軍の広島への原爆投下に関する質問が出た。
 
天皇:「エ・・この・・エ・・エ・・投下、された、ことに対しては、エ・・エ・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、★やむをえないことと私は思っています」

 もう1人の記者が戦争責任について質問した。

 「そういう★言葉のアヤについては、私はそういう★文学的方面をあまり研究していないので、よく分かりませんから、そのような問題について答えかねます」
 
 これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。   


  (続く) 


●原爆投下の謎に迫る
 ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

 工藤美代子の『香淳皇后』の内容を補足する記事となっている。この後に驚くべきことが書かれている。東郷茂徳は原爆が投下された翌日に、赤十字の駐日代表に一千万スイスフランの寄付決定を伝達する。駐日代表は9日、受諾すると答えたが、通信事情が悪く、ジュネーブの赤十字本部に伝えたのは終戦直後の8月17日となった。その前日の16日、米英はスイス政府と合意し、スイス国内の日本資産を凍結していた。
 それでは、結果はどうなったのか。天皇の資産のほとんどは国際決済銀行の秘密口座を通じて運用された。その金は、いかなる政府の干渉も受けないという超法規条項を持っていた。それでほとんど無事であった。天皇はスイス国立銀行(ほとんどの役員が国際決済銀行の役員)に「特別勘定口座」(既述)をつくり、国際的な商取引をしていた。公的な二口座と天皇名と皇后名の二口座が確認されているが、他にもある可能性がある。
 
工藤美代子が指摘したように、天皇は終戦工作をしていた。ヨハンセン・グループから原爆投下の日を知らせてもらってからは、スイス、アルゼンチン、スウェーデンの各国の秘密口座にも資産を移した。それを「陰の政府」が支えたのである。スティムソン陸軍長官はグルー国務次官を通じてヨハンセン・グループに伝えた。そして言った。「グルー、彼らをたきつけ、持てる影響力を行使させよ」
 では、ヨハンセン・グループは天皇とその仲間たちに、どんな影響力を行使したのであろうか。私がまず第一に考えたのは、原爆投下によって数十万人が確実に死ぬが、これを国際的にも、国内においても報道するな、という脅迫をグルーから受けて約束したと思う。
 あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は「天佑」と叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。あの時だけが例外ではない。死ぬまでだ。新聞もヨハンセン一味の脅しに屈したのか、ほとんど報じなかった。スティムソンの思惑どおりである。
 
 日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。天皇はこの直後に、アメリカから「天皇制護持」の約束を与えられていることだ。そして、御前会議を開き、ポツダム宣言受諾を決定する。間違いなく、原爆投下と交換条件である。アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。どれだけの人々が、アメリカの蛮行に激怒するかを計りかねていたにちがいない。アメリカの利益、否、国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉の声をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。
 もう一度、「ジュネーブ13日共同=藤井靖」に戻ろう。この記事の最後は次のようになっている。

 寄付の形で動かすことを阻もうとする米英と、寄付の正当性を主張するスイス政府、ICRCが対立した。
 この紛争は46年6月、極東委員会と連合国軍総司令部(GHQ)にゆだねられた。極東委員会は同年10月「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定。しかしICRCは米国の弁護士を雇い、巻き返しに成功。米国務相は49年3月、スイス政府の裁量を認めて送金に同意。英国も49年5月「所有権の主張」を撤回した。
 送金は49年5月末。スイスが横浜正金の資金凍結を解除して実行された。ICRCは英国への配慮から一連のプロセスを「極秘」扱いとし、日本にも細かい経過を知らせなかった。
 
この文章に見えてくるのは、一千万スイスフランの数十倍か数百倍の金が天皇と皇后の秘密口座の中にあり、凍結されかかっているので赤十字国際委員会(ICRC)に依頼し、凍結を解除し、他の銀行の秘密口座に移そうとする天皇の壮絶なる闘いである。
 もう一度、工藤美代子の『香淳天皇』を引用する。

 ある時期、日本赤十字社の総裁の座は空席となっていた。43年間にわたって総裁を務めていた閉院宮載仁(ことひと)親王が、昭和20年5月20日に亡くなっていたのである。
 その後を承けて総裁になったのは、高松宮だった。第五代総裁に高松宮が就任するのを宮内省が許可したのは、7月1日だった。(『高松宮宣仁親王』)
 この日の高松宮の日記には何も記されていないが、7月4日には「速二戦争終末ノ仕事二準備ヲセネバ間二合ハヌ」といった記述が見える。
 高松宮も天皇と同じく、戦争を終わらせる方向を見据えていたのがわかる。

 さて、もう一度、トーマス・H・ハンディのカール・スパーツヘの命令文書を見てほしい。
 「一、・・最初の特殊爆弾を以下の内、いずれか一つの目標に投下せよ。広島・小倉・新潟・長崎・・・」
 この文書の日付は7月25日である。この手紙から見ると、[どれか一つ」で、まだ広島とはっきりと決定してはいなかった。これはどういうことを意味するのか。私はヨハンセン・グループが広島と決定し、グルーに報告したとみる。その日時も、8月6日午前8時ごろにしてほしい、と。「そんな馬鹿な!」と思う人も、どうか私の説を最後まで読んでほしい。
 林三郎の『太平洋戦争陸戦秘史』には次のような記述がある。

 8月7日、大本営は調査団を現地に派遣した。調査団は8日夕広島に到着し、調査の結果、一、特種(ママ)爆弾が使われたこと、二、身体を被覆していれば火傷は防ぎうる等の、内容を持つ報告を9日に大本営あてに打電した。
 続いて第二総軍は、一、白色の着物をきていたものは火傷の程度が好かったこと、二、防空壕に入っていたものも火傷の程度が好かったこと、三、火災の多かったのは朝食準備の最中が狙われたからであること等を報告した。
 米戦略空軍は8月9日、第二の原子爆弾を長崎に投下した。
 陸軍統師部は8月10日ごろ、全軍に対し状況を通報すると共に「この種爆弾は恐るべきものでなく、我が方に対策がある」ことを明らかにした。

次に藤田尚徳の『侍従長の回想』を引用する。蓮沼侍従武官長の奏上を聞く場面である。

 陛下には蓮沼侍従武官長から奏上したが、〔略〕 新型爆弾については、特別な御たずねはなかった様子だったが、広島市全滅の報に、陛下は深い憂愁の色をうかべておられた。〔略〕 8日朝、東郷外相が決意の色を浮かべて参内してきた。そして御文庫地下壕の御座所に進んだ外相は、原子爆弾に関する米英の放送を詳細に言上すると、陛下は原子爆弾の惨害をよく知っておられ、次のように、一刻も速やかに和平を実現することが先決問題である点をお示しになった。

 天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ヨハンセン・グループはスティムソン陸軍長官の極秘情報をグルーを通じて入手し、そのつど天皇に報告していたからである。
 ★では、どうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。
東郷茂徳も天皇から。急げ″と告げられ、赤十宇との交渉を急いだ。グルーはヨハンセン経由で天皇に8月6日の原爆投下の予定を告げていた。東郷茂徳は8日、天皇に会い最初に「無事にスイスの件はうまく処理できました。当分資産は凍結されますが、遅くと3~5年後には凍結を解除してくれるとスティムソンが申しています・・」と言ったはずである。それから天皇と原爆を「天佑」として終戦工作に入るべく相談したにちがいない。

 ★では、どうして広島だったのか。七月二十五日の時点で、スティムソン陸軍長官、マーシャル参謀長たちは爆撃予定地を新潟、広島、小倉、長崎と決めていた。この件について、日本側に最終目的地を決定せよと通知があったと思われる。新潟は長岡市に軍需工場があった。小倉(八幡)は鉄工業の町だった。長崎は国際金融資本家たち(特にユダヤ人たち)がもっとも嫌うカトリックの、日本の総本山であった。
(海軍造船基地でも) 

 では、どうして広島か?
 有末精三の『終戦秘史 有末機関長の手記』の中に、その謎を解く鍵が見えてくる。有末精三は原爆投下のあった翌日、参謀本部第二部長として、部下十名、理化学研究所の仁科芳雄博士たちと広島に視察に行っている。広島には第二総軍司令部があった。
 
わたしは直ぐに降り立ったが、誰ひとり出迎えてもいない。飛行場の短かく伸びた芝生は、一斉に一定方向、たぶん東へ向ってなびいており、しかも一様に赤く、真赤ではなく焦茶色といった方が当っているように焼けていたのに驚いたのであった。ものの2、3分たったころ、飛行場の片隅の防空壕から這い上がってきたのは飛行場長と思われる一中佐、左半面顔中火ぶくれに赤く焼けていた。〔略〕
 司令部は幸に建物は残っていたが、窓ガラスはメチャメチャに壊れていた。その司令部の前庭に運び出された六尺机の前に立ったわたしは、船舶参謀長官・馬場英夫少将の詳細にわたる報告を受けた。〔略〕
 飛行場での印象と生々しい火傷の飛行場長の数言、それに馬場少将の報告で二十数万の広島市が、一言で尽せば全滅といった驚くべき特種爆弾の威力に驚いた。・・

 この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日朝8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。

有末清三は★畑俊六元帥のことを書いている。
 
 山の中腹、松本俊一(外務次官)氏の父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課としての朝のお祈りで、神棚に向っておられたため、幸に被害はなかったとのことであった。

 私はこの文章を読んでいたときに、ハッと気づいたのである。「どうして広島に・・」と長いあいだ思い悩んでいた難問が「ついに解けたぞ」と、ひそかなる声を出したのである。

       (続く)
 



●原爆投下の謎に迫る
 ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。


 
 ●広島にどうして原爆が落ちたのか


 前項「原爆投下の謎に迫る」の中で書いたが、皇室関係者、一部の重臣たち、そしてヨハンセン・グループの人々は、確実に、敗戦前のあるときに原爆が落ちることを知っていた。それも、遅くとも6月中旬には知っていた。
 それでは8月6日、午前8時すぎに広島に原爆が落ちた謎に迫ってみよう。「原子爆弾の投下」という記事が外務省編の『終戦史録(4)』の中にある。
 
ポツダム宣言発表以来、緊迫した空気のうちに、一途にソ連の回答を鶴首していたところ、8月6日午前8時過ぎ広島に侵入したB29一機は、新型爆弾一個を投下し、その一弾のため広島はほとんど壊滅したと伝えられた。7日朝にいたり、米側ラジオは、トルーマン大統領の声明として、「6日広島に投下した原子爆弾は戦争に革命的な変化を与えるものだ。日本が降伏に応じない限り、さらに他の場所にも投下する」と伝えてきた。〔略〕
7日、この問題で関係閣僚会議が開かれた。東郷外相は、そこで原子爆弾投下云々のアメリカ放送を詳細報告した。陸軍側は、ともかく調査報告をまって必要措置をとろうと主張し、なるべくその効果を軽視しようとするもののようであった。外相は、またその席上で、原爆の出現は、軍側にも戦争終結の理由を与えることになるので、ポツダム宣言を基礎に終戦を考えては如何かとはかったが、その時、外相の提案を議題として議論するには至らなかった。
 さて、東郷外相は、原爆に関する米英側放送が引き続き猛烈なので、翌8日朝、鈴木首相と打ち合せたうえ参内した。外相は、天皇に右の趣を詳細申し上げ、もはやポツダム宣言を受諾するより他なしと思う旨内奏した。陛下は、これを聞こし召されて、原爆のような新兵器の出現をみた以上、戦争継続は不可能である。速やかに終戦措置を講ずるようにせよ、なお、その旨を首相に伝えよと仰せになった。
 東郷外相は、早速右の思召を木戸内府ならびに鈴木首相に伝え、なお首相に対し、至急構成員会議を召集せられたいと申し入れた。首相は、右様(ママ)取り計らったが、会議は翌9日開かれることになった。然るに、翌9日朝、ソ連の参戦を見、急遽右構成員会議が開催されている最中、さらに第二の原爆が長崎に投下された。

 以上は公式的な原爆の記録である。それでは、どうして原爆が落とされたか、を考察する前に、天皇の動きを別の面から見ることにしよう。 


 2002年8月13日、「ジュネーブ発13日共同電」は、「まやかし日本秘密口座」について報道した。この内容は長く複雑であるので、私が以下にダイジェストした。

――日本は1944年9月、赤十字活動の支援を表向きの目的として、スイス国立銀行に横浜正金銀行名義(天皇の銀行)で秘密口座「第一特別勘定」と「第二特別勘定」を開設した。
 しかし、横浜正金は入金する一方で、この金には一切手をつけず、赤十字活動のために拠出する金は、横浜正金東京支店に開設された在日スイス公館の口座に振り込んだ。さらに東京から中国への送金の際も円と元の公定レートを強制し利ざやを稼いだ。
 日本はこの特別勘定をスイスとの取引決済や武器調達などに使用したほか、特別勘定の資金をスウェーデンなど中立国に移す資金退避を何度か繰り返した。45年8月の時点で5860万スイスフランの残高があったが、終戦とともにスイス政府が口座を凍結。その後、英国などへの賠償金やサンフランシスコ講和条約に基づく連合国捕虜への捕償金などで没収され、特別勘定は56年に閉鎖された。―

 この記事には解説がついているが、真実を伝えていない。天皇は敗戦が近づくと、自らが戦争その他で貯蓄した大量の金を、日本銀行や横浜正金銀行から、スイスにある国際決済銀行(BIS)の力を借りてスイスに移すのである。
 天皇は国際決済銀行とスイス国立銀行に今日でも世界トップクラスの秘密資金を持っている。ポール・マニングの『米従軍記者の見た昭和天皇』にも、シーグレーブ夫妻の『ゴールド・ウォリアーズ』にもそのことが詳しく明記されている。横浜正金銀行が1944年9月にスイス国立銀行に開設した「第一特別勘定」と「第二特別勘定」も、天皇の資産隠しのために使われたとみる。しかし、天皇は、自らの秘密口座と、皇后名義の秘密口座をスイス国立銀行に持っていた。
  
工藤美代子の『香淳皇后』には次のように書かれている。

 日本でも、外面的には、あくまで戦争を続け、本土決戦に臨むという態度ではあったが、その実、敗戦を予測してのそれなりの動きはあったようだ。
 木戸幸一をはじめ、当時の日本の首脳部にいた人々の日記は、すでに幾つか刊行されているのだが、不思議なことに、敗戦を予測しての具体的な準備について触れた記述は全く見あたらない。
 しかし、実は何者かによって着々と、手は打たれていた。そう思わせる証拠の一端が、ロンドンの公文書館に保存されている。
 それはスイスの赤十字国際委員会とイギリスの外務省との間で、昭和21年8月から昭和23年9月にかけて交わされた一連の外交文書である。
これらの文書によると、昭和20年の4月に、日本の皇后が赤十字国際委員会に一千万スイスフランの寄付を申し出たというのである。
 一千万スイスフランといえば、現在のレートで換金しても約七億円近い金額である。まして、当時のレートで換算したら、莫大な金額だったはずである。
 まず興味深いのは、4月の時点で、すでにこの寄付の申し出がなされていたことである。
 これは、日本の敗戦を予測して、皇室の財産を処分しておこうとする動きではなかったかという見方ができる。それ以外に、こんな莫大な金額を寄付する理由はかんがえられないというのが、スイス側やイギリス側の見解だ。

 この工藤美代子の『香淳皇后』が出版されたのが2000年。その翌年の2001年8月13日に、「ジュネーブ13日共同=藤井靖」で、この内容を追認する記事が出た。

 日本が1945年8月の終戦直前、スイスの赤十字委員会(ICRC)に対し、昭和天皇の皇后名で一千万スイスフランの巨額寄付を提示。連合国の対日政策決定機関である極東委員会が禁止決定を出したものの、赤十字がこれを覆して戦後の49年、秘密裏に送金が実行された経過が13日、スイス政府やICRCの公文書で分かった。
 寄付は横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)がスイス国立銀行に保有し「日本の秘密口座」と呼ばれた「特別勘定」から拠出された。日本が皇后名の寄付を申し出た事実は英公文書で確認されているが、その動機は不明。公文書は米英両国にスイス、ICRCを巻き込んだ送金実行までの4年間にわたる「攻防」の詳細を明らかにしている。一千万フランは現在のレートで約七億円。当時と現在のスイスフランの購買力を単純に比較すると約三十三億円に上る。

   (続く) 




●原爆投下の謎に迫る
『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
  ●醜の章の紹介を続けています。
 

ロスチャイルド財閥を中心とする国際金融同盟は、原子力に注目し、これに莫大な資金を投資し、ウラン鉱山の買収を大戦中に始めていた。原爆の実験はそのために是非とも必要だった。日本がその標的にされた。スティムソン陸軍長官が6月8日直前に天皇宛ての文書をヨハンセン・グループのルートで送ったとみられる。昭和20年6月8日の『木戸幸一日記』はとても長い。長くて引用しきれない。だが、歴史を知ろうとする人々は是非、この日記を読まれるがいい。

 天皇は動かざるをえなくなったのだ。たぶん、この中に、彼らの言い分に応じないと、東京に原爆を落とすぞ、という一文が入っていたにちがいない。それで思いあまって天皇は皇太后の元へ行ったにちがいない。原爆投下は別として、皇太后はこの年の1月から、樺山愛輔、関屋貞三郎のルートでアメリカの情報を入れて、高松宮に和平工作にのり出せと主張していた。天皇の疎開説得に応じなかった皇太后がどうして数日後に、急転直下、疎開に応じたのか。答えはいたって簡単である。ヨハンセン・グループから、原爆投下についての語を聞いたからである。
 スティムソン陸軍長官がトルーマンに、「彼らをたきつけ、持てる影響力を行使させる」と語った言葉(軍首脳も出席した)の中に、日本の運命が語り尽くされているのである。
 
次に、外務省編『終戦史録(5)』の中に掲載されている「大井篤手記-天皇制と太平洋戦争」から引用する。
 文中の「彼等」とは偽装クーデターを計画、実行した★畑中少佐らのことである。
 
彼等は、天皇は間違っていると考えました。彼等には驚くべきまでに、機微な情報が-その真実性は私には判りませんが-入手されていました。彼等の見るところでは、天皇は弱虫だから終戦を急がれているのである。原子爆弾が怖いのだ。その弱虫をさらに皇太后が焚きつけている。皇太后は御所内に堅固な防空壕を作ってくれと軍に催促されるが、資材不足でそれが出来ずにいる。そこへ原子爆弾の話が、尾ひれをはやして皇太后の耳に入ってくる。ジットしておられなくなって天皇に訴える。彼等はこの情報を信じておりましたし、又陸軍では一般に原子爆弾はそう恐ろしいものでないと信じられておりました。

この文章を読むと、皇太后ははっきりと原子爆弾が投下されること(目標が東京かは別として)を知っていたのだ。それで大本営に、赤坂御所に原子爆弾に耐えられる防空壕を造れ、と命じたのである。結局、皇太后は、8月20日に軽井沢へ出発すべく準備していたが終戦となった。スティムソンエ作が皇太后の防空壕建設の話にまで及んでいた。
 この話は別の面から見ると、重大な事件(事実?)を秘めている。その第一は、天皇が「原爆が投下される可能性」を全く知らなかったことになっているからである。ヨハンセン・グループの動きが、戦後史の中に見えてこないのである。
 もう一つ、若手将校たちが入手したという「機微な情報」とは何か、ということである。たぶん、これは天皇とアメリカとの秘密交渉の情報らしいことは分かる。大井篤は続けて次のように書いている。

 天皇制の楽屋裏を知っているこれら中枢機関の将校には、こんな臆病風で一国の運命が左右されてなるものかと考えられたようであります。
 
当時の軍人たち、とくに軍の中枢にいる軍人たちは、私が今まで書いてきた天皇制の楽屋裏、すなわち「皇室の秘めごと」を知っていた、と思えてならない。特に、貞明皇太后の「秘めごと」を知るがゆえに、彼女に対する非難の声を彼ら将校はあげていたのであろう。
 この手記を残した大井篤は、国際検事局の査間宮となる。彼は多くの戦犯たちを尋問する。1950年4月17日、巣鴨拘禁所で、日系人の査問官・フランク・Y・ナカムラ(中村雄二)とともに木戸幸一からも聴取している。首題(ママ)は「終戦時の回想若干」である。その中から引用する。

問 原子爆弾の出現が皇族方を非常に怯えさせ、それが天皇を刺激した為、天皇があれから終戦の即時実現に熱心に動かされたのだと云ふ説があるが、之に対し貴下は如何に思ひますか。
木戸・答 それは全くの臆説です。第一原子爆弾攻撃のことに関して皇族方で陛下に何か話しにこられた方たちは一人もありません。勿論私のところにも、原子爆弾がこわいから戦争を早くやめてくれ、と言って来たものは皇族方からも知人からもなかった。
 大井篤は木戸幸一を誘導尋問し、見事に罠にかけることに成功している。木戸のもとに「皇族方からも知人からも」、ある要望があったことが分かるのである。続ける。

 陛下や私があの原子爆弾に依って得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機を茲に与へられたと云ふのであった。
 
木戸幸一も天皇と同じく、数十万の人々が死傷したのに、悲しみの感情を持っていないのである。ただ、ただ、終戦に好都合だと語るのである。終戦に好都合なように、原爆投下を受け入れるべく、天皇と木戸とヨハンセン・グループは7月のあるときから、スティムソン陸軍大臣の手下のグルー国務次官と秘密のルートで動いたにちがいないのである。それが8月6日午前8時15分の広島の原爆投下となったのである。
 
私はそれを実証しようと思う。単なる偶然はありえない。偶然を装った必然の中で、終戦工作はなされたのである。

 ************ 


 ●広島にどうして原爆が落ちたのか  へ続く。



●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
  ●醜の章の紹介を続けています。


 (『日本海軍の終戦工作』より)
 宮中グループが本音として終戦工作をどう捉えていたかを知るうえで、どうしても引用しなければならない証言がある。それは岡田や近衛と並び、終戦工作に深い関わりを持ち続けた★米内光政の次の発言だ。

 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦が或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)

 ここには、「聖断」による戦争終結を急いだ宮中グループや鈴木内閣の本音が語られている。しかも、東条内閣打倒工作から戦争終結のシナリオを設定し、リードしてきた海軍穏健派と目されてきた代表的人物の口から見せられた意味はきわめて重大だ。
 私はクーデターを書いてきた。あの偽装クーデターは、天皇を中心とする権力機構を敗戦後も温存するために必要だった。ただ、天皇はその温存の方法が、確実に未来へとつながる方法が見つからず、終戦への努力を無為にすごしていた。そこで大きな外圧を受けて、その外圧を利用して国内の終戦工作を有利にしようとした。そこで最大限に利用されたのが原子爆弾であった。米内元海相はそれを「天佑」だと言うのである。原子爆弾が数多くの人々を一瞬のうちに殺してしまったことを!

 私がこの『日本のいちばん醜い日』を書こうとし、いろんな本を読んでいるとき、いちばんショツクだった言葉は、天皇の「あのものたちは何を考えているのだろうか・・・」であった。私はそれを「日本でいちばん醜い言葉」と表現した。その次に醜いと思った言葉がこの米内海相の「天佑」発言であった。

 原子爆弾が落ちた後、国民の苦しみの状況を嘆く言葉の一つとしてなく、天皇をはじめとする宮中人や鈴木内閣の大臣たちは、これを「天佑」として国内の終戦工作を有利にすべく(アメリカやソ連、イギリスに対してでなく)、活発に動きまわるのである。
 アメリカ側から見た原爆投下の本を読むと、もし、アメリカが、降伏条件を提出したポツダム宣言の中で、降伏条件の明確化、すなわち天皇制護持を伝えていたら、日本は即座に応じ、戦争は終結し、原子爆弾の投下もなかったとする説が主流を占める。

 J・グルー国務次官(六月十三日)、スティムソン陸軍長官(七月十六日)、チャーチル英首相(七月十八日)、それぞれがトルーマン大統領に降伏条件の明確化を訴えている。しかし、明確化はなされなかった。
 その一方でスティムソン陸軍長官、マーシャル参謀長らは独自に7月25日に命令を出す。「原爆投下の準備に入れ・・・」と。

 私は元駐日大使グルーとスティムソン陸軍長官が日本のヨハンセン・グループと深く結ばれて、情報の交換をし続けていたとみるのである。ヨハンセン・グループというのは、「吉田反戦」という言葉から作られた、日本とアメリカを結ぶ秘密組織である。このグループの首魁は牧野伸顕、そして吉田茂と樺山愛輔の3人である。3人のほかに少数の人々の姿が見え隠れする。吉田茂は牧野伸顕の娘雪子と結婚した。ここでは、樺山愛輔(伯爵・貴族院議員)に注目してみよう。
 
秩父宮妃・勢津子の『銀のボンボニエール』には樺山家と秩父宮の深い関係が書かれている。秩父宮妃・勢津子の父は★松平恒雄である。彼は自分から認めた★フリー・メーソン会員である。
 この松平恒雄と樺山愛輔は古い友人である。樺山愛輔の父は★樺山資輔(元台湾総督)。ヨハンセン・グループの使者は、グルー元アメリカ大使と商売の面でも結ばれていた。樺出資輔はJ・P・モルガンのラモント(ロスチャイルド財閥からモルガンヘ派遣された支配人)と親しく、J・P・モルガンの血族の一人がグルー元大使である。グルーはアメリカ大使であると同時に、隠れた政府の一員であった、というわけである。

さて、★樺山愛輔は貞明皇后と深い関係にある。貞明皇后が松平恒雄の娘勢津子を見染め、秩父宮の妃とした。これには深い因縁がある。
貞明皇后は自分の過去を知る長州閥を憎悪していた。それゆえ、会津の松平恒雄の娘を秩父宮妃に迎えた。
 もう一人、油断のならない人物がいる。樺山愛輔の娘正子は★白州次郎と結婚している。秩父宮勢津子と樺山愛輔の娘正子は学習院初等科時代からの親友である。白州次郎はかくて必然的にヨハンセン・グループの一員となる。白州次郎は欧米で、どうやって生活していたのか?

彼はユダヤ財閥のウオーバーグから生活の糧をもらって生きてきた過去を隠しに、隠し続けた男だ。モルガンとウオーバーグの手下が、ヨハンセン・グループにいた。

ヨハンセン・グループに近い一人に関屋貞三郎がいる。411頁を参照してほしい。島津治子の霊視の中の一つに「大正天皇の侍従の死霊―皇后の御相手-八郎氏。関屋次官の談、九条家より質ね(たずね)らる云々」とある人物である。
 この関屋貞三郎もクリスチャン。樺山愛輔もクリスチャン。彼らは貞明皇后と深く結びついている。
 
私がいわんとするのは、彼らが、牧野伸顕(元内大臣)、吉田茂(元外務次官)を含めて、ヨハンセン・グループの秘密名で、太平洋戦争開戦の翌年(1942年)の6月にグルー大使がアメリカに帰国するまで情報を流していたということである。そして、グルーが国務次官になった後も、このルートが守られていた可能性大である。それゆえ、原爆が「天佑」となる時にちょうど落ちたのではないか、ということである。太平洋戦争が始まった後に、すでに和平交渉が宮中と重臣たちのルート(ヨハンセン・グループ)により行なわれていた可能性がある。
 従って、このグループに参加した人々はすべて、なぜか戦犯に指定されていない。牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔、岡田啓介元首相、米内光政元首相たちである。
 さて、もう一度、ガー・アルペロビッツの『原爆投下の決断の内幕』を見ることにする。

 実際、6月18日には、スティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、グルー国務長官代行、レイヒ提督、そして、マクロイ陸軍次官補がそろって早期の声明を勧告していた。スティムソンは6月18日の大統頷との会談でこんな言い方をしている。
 「日本には知られざる多くの人々かおり、このグループは現在の戦争を支持していないが、その意見と影響力が日の目を見たことがないというのが、彼の意見だった。このグループは自分の足元を攻撃されれば反抗し、粘り強く戦うだろうと、彼は感じていた。彼らと正面からぶつかりあうことが必要になる前に、彼らをたきつけ、持てる影響力を行使させるべく何かをすべきだと彼は考えていた」
 
この文中の「彼」とはグルー国務長官代行(一般に国務次官)であろう。グルーとヨハンセン・グループが原爆投下を目前にして、活発に意見を交換している姿が見えてくる。グルーとどのような交渉をしていたのか? スティムソンは参考にすべきことを語っているではないか。
 「彼らをたきつけ、持てる影響力を行使させる」
 トルーマンはルーズヴェルト大統領が突然死去して大統領になって日が浅いので、原爆の存在すら知らされていなかった。このスティムソンの発言の意味するところを理解したかどうかも疑問である。
 ヨハンセン・グループは原爆投下の直前まで、グルーを通じてアメリカの最高の実力者の一人、スティムソン陸軍長官と通じていた。7月25日、原爆投下の準備に入ったことは問違いのない事実である。しかし、その前に、スティムソン陸軍長官らは前もってヨハンセン・グループに原爆投下の概要を教えていたものと思われる。
 
それを暗示するものが、『木戸幸一日記』の中に見られる。昭和20年6月8日の日記は最後に、「以上は余個人の意思にして、固より余の気持を率直に示し、根本の重大要件のみを掲げたるに過ぎず。交渉条件等は更に各方面の専門家を待って整正するの要あるは勿論とす」と書いている。★ある書類がアメリカから送られてきた。それが交渉条件等であろう。ヨハンセン・グループの存在が見え隠れするのである。その一部を引用する。

 敵側の所謂和平攻勢的の諸発表論文により之を見るに、我国の所謂軍閥打倒を以て其の主要目的となすは略確実なり。従って軍部より和平を提唱し、政府之によりて策案を決定し、交渉を開始するを正道なりと信ずるも、我国の現状より見て今日の段階に於ては殆ど不可能なるのみならず、此の機運の熟するを俟たんか・・・
 天皇陛下の御勇断を御願ひ申上げ、右の方針により戦局の収拾に邁進するの外なしと信ず。
 
この木戸の日記は悲情感に満ちている。6月の初旬に、ヨハンセン・グループを通じ、スティムソン陸軍長官からの「原爆投下計画書」が届いたものと思われる。それを裏付ける資料を提供する。その一つを、河原敏明の『天皇裕仁の昭和史』から引用する。

 6月14日、天皇は皇后とお揃いで赤坂の大宮御所(御文庫)に足を運んだ。〔昭和〕20年に入ってから、皇后は毎月一度の割で皇太后を訪ねて姑宮を見舞い、疎開をすすめてきたのだが、この日は天皇自身、最後の説得に訪れたのだった。
 延々一時間以上言葉をつくしたのだが、相変らず皇太后は頑なに断りつづけた。天皇は還奉後、木戸らに、
 「おたかさまは、分って下さらなかった」
 とひとこと、肩を落してつぶやいた。これまでも、疎開をすすめられたたび、
 「そのあと、大宮さまのご機嫌が大変悪かったものです」(旧側近)
 というほどで、なぜにかくまでも疎開を嫌ったのかは謎である。『木戸日記』の「右は極めて機微なる問題ゆえ・・」が何を指すのか、これまで私や各社の記者が多くの側近にただしているが、固く口を閉ざすばかりである。〔略〕
 天皇の直接説得にもがえんじなかった皇太后が、その数日後に、急転直下、疎開を承諾するに至ったのは、これまた謎という他はない。
 「文芸春秋」(2005年2月号)の「総力特集1945年-昭和天皇ご聖断へ『謎の静養』」」を見ることにする。半藤一利、保坂正康、宮沢喜一の三人による座談である。この中で半藤一利は次のように語っている。

半藤 そして6月14日の午前中、昭和天皇は母の貞明皇太后を訪ねています。いよいよ本土決戦となったときには、東京を離れ、軽井沢に避難していただきたい、とお願いするんですね。―ところが貞明皇太后は、東京を離れないと拒否された。これは、昭和天皇にとって相当ショツクだったのか、その日の午後から15日いっぱい、16年の開戦以来、ただの一日も政務をお休みにならなかった天皇陛下が初めて表御座所から下がられて、床に就いてしまうのです。
 16日に執務に復帰してから先、昭和天皇のご発言は、和平実現推進で一貫しています。20日、木戸幸一を呼び、終戦ということを考えてはどうか、と言われる。それを聞いた木戸は、大変に結構なお話です、と鈴木首相と東郷茂徳外相を呼びます。しかし、和平に乗り出すとなると、徹底抗戦を決めた8日の御前会議の国策決定を覆さなくてはならない。〔略〕

保坂 確かに6月に入って、広田弘毅元外相とソ連のマリク駐日大使の会談が行なわれ、22日以降は、東郷外相を中心としてソ連を仲介者とする和平工作に取り組むなど、複数の終戦工作が展開されますね。
 
「謎の静養」とは何かを、半藤一利(作家)も保坂正康(評論家)もまるで追求しない。ただ、静養したとのみ書くだけである。

 こんな現代史を読まされていると、読んだ人はみな、考えない人間になってしまう。この二人は、日本現代史が世界史の中の一つのもつれた歴史であることを理解できていない。日本の現代史を知ろうとすれば、どうしても世界の秘密組織に眼をやり、そこから、日本を見る以外にないのである。彼ら二人は、ヨハンセン・グループの動きも、このグループを操るグルーを支えるスティムソン陸軍長官の勣きも全く見ていない。否、知ろうとさえしていない。あえて書くなら、その方面の知識も全くないと見た。

   続く
 




原爆投下の謎に迫る
 ガー・アルペロビッツの『原爆投下決断の内幕』という本がある。彼は原爆直前のトルーマン大統領、バーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官らの動きの中に、その秘密をさぐり出そうとする。この中に「ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官、トルーマン大統領との会談についての日記の記述、1945年7月24日」が入っている。
 
 それから私は、日本人に対して彼らの王朝の継続を保証することの重要性について話した。そして、そのことを公式の警告文書に挿入することが重要で、そのことがまさに彼らの受諾を左右することになるだろうと感じていた。しかし、彼らはそれを挿入したくないとバーンズから聞かされた。また、蒋介石にメッセージを送ってしまったから、今さら変更はできないという。

 この解釈として考えられたのが、トルーマンとバーンズがうまく振る舞えば、原爆を投下せずに、降伏を引き出しえたとする説である。しかし、Fも指摘しているように、それでは、ソ連との関係上、日本を占領するアメリカの立場が不利となる。従って、対ソ政策上、日本に原爆を落としたという考えである。
 
 トルーマンはポツダムに行き、イギリス、中国とともにポツダム宣言を出す。この中に天皇制の保証を入れなかったから、日本は無条件降伏を選ばず戦争状態が続いた。だから、原爆が落ちた・・・と一般には考えられている。
 
 敗戦国ドイツのポツダムで1945年7月26日(日本時間翌27日午前4時20分)に米・英・中国(国民政府)を代表して(ソ連はこの宣言に加わらなかった)、日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」が発表された。全文は13ヵ条からなる。最終の第13条を口語訳で記すことにする。
 
 われらは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつこの行動における同政府の誠意について適当かつ充分な保障を提供することを同政府に対し要求する。これ以外の日本国の選択には、迅速かつ完全な破滅があるだけである。

 このポツダム宣言の中に無条件降伏という言葉が出てくる。この中に、天皇制護持とか、国体を守るとか、天皇の地位を保障するとかの文字があれば、戦争は終了し、原爆が落ちることもなかった、と一般に考えられている。

 下村海南の『終戦秘史』には次のように書かれている。
 
 最後の第13項目に無条件降伏を宣言し、これに反すれば日本の全的破壊あるのみと結んである。東郷外相は閣議の席に於て、本件につき政府として何等意思表示をしないことを強調したが、軍の方では軍の士気に影響するというので、首相より進んできびしく反撃してほしいという要求が強く、首相としては一面外交の手を打ちつつあるさ中であるから、挑戦的態度はとるべきでなく、一応何等進んで意思表示をなさざることとし、新聞にはただニュースとしてのせるが、これを批判せず、黙殺することとした。・・〔略】・・

 午後の記者団との一問一答中には、首相はポツダム宣言にふれては、
・・・ 私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考えている。政府としては何ら重大な価値ありとは考えない。ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂にあくまでも邁進するのみである。・・
という数語に止めた。
 
さて、仲晃の『黙殺』という本から引用する。本の題名にあるように、この「黙殺」について書いている。

ところで、鈴木首相のいわゆる「黙殺」発言は、海外にはどのようにして広がったのか。
当時、日本政府にごく近い通信社として、内外のニュースの取材と発信の本来業務に加え、海外諸国に日本の立場を広報・宣伝する役割を負い、非公式な日本のスポークスマンと見なされていた社団法人「同盟通信社」(通称「同盟」)が、鈴木首相の発言内容を英文で速報し、その中で「黙殺」(イグノア)と訳した。
 この同盟ニュースを傍受した国際通信社の代表格であるアメリカのAP通信社とイギリスのロイター通信社がイグノア=無視、をリジェクト=拒否と言い換えて表現し、これが米・英などの新聞に「日本、ポツダム宣言を拒否」といった見出しを付けて掲載された。
 
 これを見た米英の国民世論が激高し、これをうけてトルーマン米大統領が原爆投下を決断する。8月6日に広島、ついで9日には長崎に、史上初の原爆が投下された。また、ソ連もこれを絶好の口実に8日、日本に宣戦を布告し、9日午前零時に、当時日本の支配下にあった満州(現在の中国の東北)などにソ連の大軍がなだれを打って攻め込んだ。これが鈴木首相の「黙殺」言明が招いた悲惨な結果であったとされている。
 
 しかし、★仲晃はこの「黙殺」が、トルーマンの原爆投下には影響を与えていない、と書いている。正解である。『トルーマン回顧録』を読んでも、彼の日記を読んでも「黙殺」の言葉すら出てこない。しかし、東郷茂徳が巣鴨拘置所の中で書いた『時代の一面』を読むと、この鈴木の「黙殺」発言に対する怒りがはっきりと書かれている。
「・・米国新聞紙等は日本は同宣言を拒否したと報じ、トルーマン大統領の参戦声明中にも之を理由とすることになったのは誠に不幸且つ不利なことであったと謂はざるを得ない・・」と書いている。

 私は敗戦にいたる過程を書いた本をたくさん読んできた。東郷茂徳の『時代の一面』を主体として原爆投下を考える本を読んでいるうちに、これらの本の作者たちが、アメリカ側(世界覇権とか、闇の支配者たちとかは別として)から原爆投下を見ていないのに驚いた。彼らは日本の立場から、太平洋戦争の原因を見、敗北も終戦も見ているのである。私はアメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連・・の状況の中に日本史を追求している。立場がまるっきり違うのである。
                                     
 私はFと同じように、もっと大きなスケールでこの原爆投下を見たいと思う。「陰の政府」がこの原爆投下の主役と見るのである。少しだけ書いたが、ロスチャイルド財閥とそれを取り巻く国際金融財閥が中心となり、この原爆投下も演出したと見るのである。それを、戦後世界の原子爆弾、そして水素爆弾の巨大な軍需産業を支えた「陰の政府」の動きの中に見るのである。日本は現在、電力の大部分を原子力発電でまかなっているが、ここにも、その原料の大半をユダヤ財閥のルートで入れていることと大いに関係がある。
  しかし、トルーマンの弁明も聞いてみよう。トルーマンは仲晃とはちがい、「黙殺」を別の形で引用している。ガー・アルペロビッツの『原爆投下決断の内幕』からの引用である。

 ケイト〔ジェームズ・L・ケイト・シカゴ大学教授一引用者註〕がトルーマンに手紙を書いたのは、なによりも情報の矛盾に困惑したからだ。大統領は、原爆に関する最初の声明では「7月26日の最後通牒がポツダムで発せられたのは日本国民を徹底的な破壊から救うためだった。彼らの指導者は最後の通牒を言下に拒否した」と述べている。
また、公刊された1947年2月のカール・T・コンプトン宛ての手紙でも「日本にきちんとした警告を与えた」と書いている。
 この二つの発言を読んだかぎりでは、トルーマンは鈴木首相がポツダム宣言を「拒絶した」あとではじめて原子爆弾使用を決断したように思える。だが、ケイト教授、あるいは注意深い編集者が、実際の日本への原爆投下命令は7月25日に出されていることに気づいた。ポツダム宣言の発表は7月26日である。したがって、「原爆の使用が決定されたのは少なくともポツダム宣言の発表の一日前、また鈴木首相が東京時間7月28日に拒絶した2日前ではないか?」という疑問が生じる。
 
 このような解釈は、日本が最後通牒を拒絶したあとではじめて最終決断が下されたという公表されている説明とは正反対です。

 ケイト教授はヘンリー・フハップ・アーノルド将軍の回顧録から、7月25日の命令は直接大統領が承認していないように思われることを指摘している。

他でのアーノルド将軍の発言「H・H・アーノルド著『グローバル・ミッション』(ニューヨーク、1949年、589ページ)によれば、この命令は7月22日に将軍とスティムソン長官とマーシャル元帥の間で行われた会議の後で特使がワシントンに届けたメモに基づいていました。

ケイト教授は手紙を次のように締めくくっている。

 閣下が歴史に興味をおもちであることは、たいへん有名です。それに刺激されて、私も歴史家として元の情報に当たりました。問題を正確に記述したいと願うあまり長い手紙になってしまいました。閣下の多忙なスケジュールのお邪魔をしたことをお許しください。
 
この中に書かれている「7月25日」に注目してほしい。★トルーマン大統領に相談することなく、原爆投下の指令書が出ていたのである。その★主役はスティムソン陸軍長官。彼は実質的な国防長官であった。
 スティムソンはフーヴァー大統領時代は国務長官をしていた。彼の経歴を見ることにしよう。
 
スティムソンはエール大学でスカル・アンド・ボーンズの秘密結社に入会した。卒業後、ウォール街の著名な弁護士となった。彼は弁護士の時代にユダヤ王ロスチャイルドの「ザ(ジ)・オーダー」の中枢部に入った。このことは、アンソニー・サットンの『スカル・アンド・ボーンズ』(未邦訳)の中に詳細に書かれている。「隠れた(陰の)政府」のアメリカ代表であった。
 その隠れた政府から見ると、ルーズヴェルト大統領もトルーマン大統領も格下となるのである。真珠湾攻撃を日本にさせたのも、その最高責任者はルーズヴェルト大統領でなく、スティムソン陸軍長官であった。先にスティムソンの「日記」を紹介した。スティムソンの「日記」は歴史の捏造そのものである。
 
さて、話を原爆に戻す。アーノルド将軍もマーシャル元帥(当時参謀総長)もスティムソンの配下である。このケイトのトルーマン元大統領宛ての手紙には続きがある。
 
ケイトはトルーマンヘの手紙にワシントンの陸軍省発の7月25日付の命令の写しを同封した(ポツダムにいるマーシャルの代わりにトーマス・H・ハンディが署名)。この命令には大統領の直接関与を示すものは何も書かれていない。
 1945年7月25日
 アメリカ合衆国戦略空軍司令官
 カール・スパーツ将軍殿
1、第20航空軍第509航空隊は有視爆撃が可能な天候になり次第、最初の特殊爆弾を以下の内いずれか一つの目標に投下せよ。広島、小倉、新潟、長崎・・・。
2、追加の爆弾はプロジェクト担当者による準備が整い次第、上記の目標に投下せよ・・・。
3、日本に対する兵器の使用に関するすべての情報は陸軍長官と大統領に限定する・・・。
4、上述の命令は陸軍長官と合衆国参謀総長の指示と承認によるものである。参考のためマッカーサー将軍とニミッツ元帥に貴殿自身でこの命令の写しを一部ずつ届けることを希望する。
  参謀総長代理
  参謀幕僚部隊将軍
  トーマス・H・ハンディ
 
この令令書が「隠れた政府」からスティムソン陸軍大臣に渡ったがゆえに、トルーマン大統領は何一つ文句を言えなかったのである。そして、準備が整っていく。バーンズ国務長官しかりである。
 このガー・アルペロビッツの『原爆投下決断の内幕』は、8月6日についても触れている。文中、フリードとはフレット・フリードで、NBCテレビのアンカーである。1964年のテレビ番組で、かつての国務長官はフリードのインタヴューに応じている。
フリードは投下時期について明らかにしようと試みた。
 
いえ、私は時間が非常に短いことを言おうとしただけです。・・ポツダム宣言から最初の原爆が投下されるまで、一週間少々しかなかったわけですね。
〈これに対するバーンズの答え〉
そうだ。だがそれは本当に・・偶然の一致以上のものがあったのか私はわからない。われわれはできるだけ早期に原爆が使用できるように励んでおり、それはまったくの新世界への挑戦だった。その日時は不確定であり、一方で宣言に関しては完全な合意に達していた。ただの偶然だった。

 バーンズは「偶然の一致以上のものがあったのか私は知らない」と語っている。そして、その考えを否定し、「ただの偶然だった」と言いのがれをしている。私は、「偶然の一致以上のものがあった」と思うのである。トルーマンもバーンズも関与できない何かがあり、8月6日に広島に原爆が落とされた、と思うのである。
 
その8月6日必然説を追ってみよう。これはあくまで私の仮説である。確たる証拠はない。しかし、追求してみるだけの価値があるものは追求すべきであろう。

 こうけつ厚の『日本海軍の終戦工作』からその糸口をさぐっていこうと思う。

  続く。
 



原爆投下は防げたか
  「原爆投下は防げた」か?日本の科学者の助言で。
 http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/23941835.html
 の続編と今年の収穫の一冊と言う意味で

 『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
 ●醜の章 を読んでみる。

 ★原爆投下の謎に迫る


 原爆はどうして落ちたのか? この謎に迫ってみたい。「太平洋戦争はどうして起こったか」の中で紹介したFに再度登場してもらうことにしよう。Fの原爆観は非常にドライである。それだけに真実に迫る凄みがある。
 原爆が落とされた(a)理由、ならびに(b)投下先と、(c)投下のタイミング、それに(d)投下方法とに分けて考える。

 (a)原爆は武器として製造されたものであるから、その使用(投下)は必然的なものであり、別に理由はありません。武器である限り、その使用自体を否定することは出来ません。
 (b)黄色い猿(日本人)の密集地に落とすという選択肢の陰には、White SuPeriorityComplex(白人であることの優越感)があると見ます。
 (c)Global hegemony(世界覇権)の立場からは、あの時点で日本に落とすことが対ソ戦略上意義大と考えます。日本が公式に手をあげてしまってからでは、もう当分落とし先が見つからない。
(d)広島では朝の通勤時間帯をねらい、それも一旦は瀬戸内海へ抜けて、日本人を安心させておいてから、反転投下して最大の殺戮効果をあげている。長崎の場合は、福岡の通勤時間帯をねらったが果たせず(悪天候)代替の長崎への投下となったため、タイミングがずれ、かつ、殺戮効果もあまり上がらなかった。従って、ウラン爆弾とプルトニウム爆弾のスケール・メリットを比較分析することが出来なかった。

 Fが原爆投下の理由として挙げた「原爆は武器として製造された」ゆえに、「その使用自体を否定することは出来ません」とは当然である。しかし、武器として製造される以上、その理由があるはずである。そしてまた、その使用された日が8月6日であるというのも偶然ではないはずである。その場所が広島であり、長崎であったのも必然的な理由があるはずである。
 
Fの(c)について少し書いておきたい。
 私が「おや?」と思ったのは、アメリカのかわりに「グローバル・ヘゲモニィ」という言葉をFが使っている点である。私は原爆に関する本をたくさん読んできた。しかし、どの一冊として原爆投下とグローバル・ヘゲモニィを結びつける本に会ったことはなかったのである。このグローバル・ヘゲモニィをFは「太平洋戦争はどうして起こったか」の中で、陰の政府とか、ニュー・ワールド・オーダーまたは小グループと呼んでいる。私は闇の権力とか闇の支配者とかと呼んできた。ここでは「影の政府」として統一し、この政府について少しだけ解説する。その過程で、原爆投下の謎に迫ることにする。

 国際決済銀行(BIS)については幾度も書いてきた。この銀行を設立し、運営する組織がある。この銀行を背後で支えているのが、ロスチャイルド、オッペンハイマー、ウオーバーグのユダヤ財閥であり、また、この財閥の支配下にあるのがアメリカのロックフェラー、モルガンらの財閥である。彼らは国家を背後から動かす力を持っていて、実際に動かしてきた。
 あの原子爆弾製造の計画は「マンハッタン計画」という。この計画を立てたのは、イギリスのユダヤ財閥の王ヴィクター・ロスチャイルドである。彼は多くのユダヤ人研究者をルーズヴェルト大統領のもとに送りつけると同時に、秘かに世界中のウラン鉱を買い漁ったのである。
 
ロスチャイルドは、ルーズヴェルト大統領を背後で操るユダヤ人富豪バーナード・バルークと、こちらもユダヤ人ジェームズ・B・コナントを「マンハッタン計画」を承認させるべく動かす。コナント博士はユダヤ人物理学者を中心に計画を実行に移す。この計画の実質的なリーダーはロスチャイルドー族のチャールズ・ジョンソン・ハンブロー(ハンブローズ銀行会長)。
この計画を現実化したのはユダヤ人のアルバート・アインシュタイン、ロバート・オッペンハイマー、エドワード・テラー・・・。みんなユダヤ人である。

 原子爆弾を駆使して、ユダヤ財閥の王・ロスチャイルドは世界制覇を狙っていたのである。戦後、アメリカに続いてイギリス、フランス、そしてソ連が原子爆弾の製造に乗り出した。彼らは、世界のウラン鉱のほとんどがロスチャイルドー族の所有下にあるのを知るのである。

 戦後、国際原子力機関(IAEA)ができた。この機関の主要役員のほとんどはユダヤ人。しかもロスチャイルドー族なのである。

 彼らは日本に目標を定めた。そして研究・開発を急いだ。それまでは、なんとしても日本との戦争を長びかさなければならない。彼らは国際決済銀行を使い、戦争をいかに長びかせるかを研究した。その甘い汁のひとつが天皇の貯蓄した金や銀やダイヤ・・・の貴金属をドルかスイス・フランにかえて、スイスの国際決済銀行かスイス国立銀行(この銀行の役員のほとんどが国際決済銀行の役員を兼任する)の天皇の秘密口座に入れてやることであった。従って、一194年から1945年にかけて天皇は、自分の財産の移しかえに専心するのである。その過程と原爆製造の過程が見事に一致するのである。
   
 ・・・中略(後ほど紹介)・・・

 ・・私はここで私なりの結論を書くことにする。

 原爆投下は完全に避けられた。少なくとも、ポツダム宣言が出たときに、天皇がマイクの前に立ち、国民に詫びの言葉を述べ、「わが身がどうなろうとも、この戦争を敗北と認め終戦としたい。ポツダム宣言を無条件で受け入れる」と言えばよかった。
 どうして言えなかったのか。天皇と皇室と上流階級は、その甘い生活をやめられなかった。それで、スティムソン陸軍長官らの“影の政府”と交渉した。天皇制護持を条件に原爆投下を受け入れた。彼らの条件の最大のものは、天皇・皇室、上流階級および重臣たちが、原爆投下の非難の声をあげないこと、および日本国民をそのように誘導することであった。

 数々の交渉がヨハンセン・ルートでなされた。天皇と重臣は第一の原爆投下の地を広島と決定した。たぶん米内光政のルートで、畑悛六・第二総軍司令官のもとに依頼が入った。8月3日から、学徒、兵隊を入れた大動員がなされた。8月6日、第二総軍は壊滅した。

 ここに、終戦反対を叫ぶ最も恐れた第二総軍は消えた。残すのは第一総軍(杉山元司令官)のみとなった。天皇と皇室と上流階級は偽装クーデターを起こし、第一総軍を中心とする反乱を未然に防いだ。かくて鶴の一声が全国津々浦々まで鳴り響き渡る時を迎えることができた。

 原爆投下は、天皇・皇室・上流階級にとってまさに“天佑”そのものであった。
 私たちはこの事実から何を学ぶべきか。
 
 結論はただ一つ。一人、一人が真実を追求すべく立ち上がるべきである。私の“結論”について反論すべき人は、私に立ち向かうべきである。・・以下略。

 以下、初めに戻って、紹介していきます。(続)

 






上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。