カウンター 読書日記 2007年09月
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


落合論文(10)-3
●陸相時代の高島鞆之助とその後の「伸び悩み」の謎
 


 明治十三年三月、一年にわたる仏独視察から帰国した陸軍少将高島鞆之助は、四月に熊本鎮台司令官に就き、翌年二月に大阪鎮台司令官に転じた。次いで西部監軍部長心得を経て、十六(一八八三)年二月に四十歳を以て中将に進級、西武監軍部長となった。以後は十八年九月に大阪鎮台司令官、二十一年五月に第四師団長となる。つまり明治二十四(一八九一)年に陸軍大臣に就くまでの十年間、ずっと大阪に駐在し、関西在住の陸軍トップとして諸般の事業に携わった。なかでも大阪鎮台指令官時代の二十一年四月、陸軍軍人の社交団体たる財団法人大阪偕行社に附属小学校を創設したことはよく知られている。現在追手門学院に発展した大阪偕行社附属小学校は、薩摩の郷中教育を建学の精神とし、さらに高島が外遊中に覚った外国語教育の必要性から、英語教育を行い国際感覚の研磨を目指し、西の学習院とも呼ばれた。

 内閣制度の発足以来、八年間にわたり陸相を独占した大山巌(一八四二生)の後、第二代陸相を高島が継いだのは明治二四年五月十七日成立の第一次松方内閣である。海軍でも大山の海陸相兼任の時期を除き、西郷従道(一八四三生)が海相を独占していたが、二三年五月十七日に樺山資紀(一八三七生)に交替した。こうして第一次松方内閣の軍部大臣には高島と樺山が揃って就いたが、十一月から始まった第二国会において政府の軍拡予算案が否定され、これに対して樺山が打った蛮勇演説で議会が荒れたので、松方は衆議院を解散する。続く第二回総選挙で、松方内閣は歴史的な選挙大干渉を行うが、それでも民党が勝利した、選挙後内相に就いた河野敏鎌の善後処置は、干渉の最も激しかった佐賀・高知両県の知事すなわち樺山資雄と調所広丈の更迭であった。閣内で選挙干渉を叫んだ高島・樺山の両大臣は、これに反対して辞表を提出したので、明治二十五(一八九二)年八月八日を以て第一次松方内閣は倒壊した。
 高島は予備役に編入、樺山も現役を退き共に枢密顧問官となる。時に高島は四十九歳、上原勇作の時代ならば陸軍少将が相当で、当然現役である。予備役入り後も陰の陸軍首脳だった高島が、日清間に戦雲渦巻く中で一体何をしていたのか、不思議である。

 二十八年八月、日清講和が済んだ後、政府は予備中将・高島鞆之助を急遽台湾副総督に任じ、追って現役に復帰せしめた。樺山総督を支援する「土匪」平定の任務で、樺山の強い要請によるものである。南進司令官として土匪討伐を果たし、十二月凱旋した高島は、翌年四月に第三次伊藤内閲が新設した拓殖務省の初代大臣として台湾総督府の監督に当たる。九月に第二次松方内開が成立するや、再び陸相(兼職)となり、三十年九月行政整理で拓殖務省が廃された後は、陸相を本官として翌年一月までその職にあった。つまり、二十五年八月を以て予備役に編入した高島は、三年後に起用されて台湾副総督となり現役復帰、その後拓殖務省さらに陸相と、二年半にわたり最重職を歴任し来るべき日露戦に備うべく軍政の重責に任じた。こうして観るに、日清戦争の直前並びに戦中において、高島が一体何をしていたのか、やはり不思議である。日清戦役の前後において、右(*上)の重責を果たした高島が位階勲等の昇叙に全く与らなかったのも不思議である。日清戦役中は予備役だったし、現役復帰後の台湾掃討の軍功は大将進級には不足だったらしい。既に十七年に子爵に叙爵、二十年に勲一等旭日大綬章を授かっていたが、勲一等桐花大綬章の沙汰もなかった。つまり、すでに達していた勲等が高過ぎて昇叙の余地がなかったことになる。結局、恩賞の沙汰といえば、大正五年逝去に際して賜わる旭日桐花大綬章と正二位(首相級の位で、追贈と思う)だけでは世間の不審が偲ばれる。

 高島は明治三十一年一月十二日陸相を辞し、長州閥の寵児桂太郎が後を継いだ。五十五歳で将官として最も油の乗る年頃での予備役編入は桂太郎による人事とされ、「その筋に大きな衝撃をもたらした出来事であった」(『日本陸軍とアジア政策』)とされる。同時に、陸軍参謀総長も小松宮彰仁親王から川上操六中将(一八四七生)に代わる。川上は薩摩藩士で、幕末に京の薩摩屋敷でギンヅルと知り合い、維新後に親密な仲になったという。桂と川上は同年の生まれで大佐進級も同日付、以後ずっと同日付で進級してきた好敵手で、軍政家の桂を陸軍大臣、軍略家の川上を参謀総長に配したのである。対露戦争計画を一身に委任された川上は、同年九月桂と並んで大将に進級したものの、翌年五月五十三歳で急逝してしまう。後任がいないので、陸軍は大変な騒ぎになるが、折しも一年半前まで陸相だった高島が予備役中将・枢密顧問官の閑職にいた。陸軍の最高首脳は高島を措いてなく、薩摩閥がその参謀総長の就任を図ったことは当然で、新発見の『宇都宮太郎日記』がその経緯を記しているが後稿で論じたい。結局参謀総長の選考から外れた高島は、四十五年四月の退役まで二度と現役に復帰せず一切の軍務に関わらず、大正五年逝去までの十八年間を枢密顧問官として過ごした。なぜ参謀総長になれなかったのか。世間は晩年の高島を評するに直情径行と才能の伸び悩みを以てするが、真相はそんな所にない。いずれ後稿で明らかにしたい。 (続)
 


スポンサーサイト

落合論文・(10)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記
 
 ★上原応援団「第二世代」 ワンワールドの逸材たち 
 

  上原応援団の第二世代も上原勇作(一八五六生)と関係が深い。
上原より一歳年長が吉井の長男・幸蔵(一八五五生)で、これが第二世代の頭と覚しい。男性は吉井の次男で高島の養嗣子・友武(一八六七生)、その義弟に当たる高島の次女球磨子の夫樺山資英(一八六八生)、樺山資紀の長・男愛輔(一八六五生)が並ぶ。女性では、野津道貰の長女で上原の妻・槙子(一八七三生)、高島の長女で友武の妻・多嘉(一八七三生)、高島の次女で資英の妻・球磨子(一八八一生)、以上が第ニ世代の主たる処だが男女別に互いの年齢が極めて接近しており、意思疎通が極めて円滑だったと想像される。

 直系子女ではないがこれに準ずる樺出資英は、薩摩藩士で各所の知事を歴任した樺山資雄の次男である。姓名からして資紀と同族と分かるが、資紀自身は橋口家からの養子である。資英の実兄の阿多壮五郎は戊辰役で戦功あり、明治四年将兵創設に応じて上京、初任陸軍大尉。征韓論の破裂に際しては西郷に従って薩摩に帰り、西南役で奮戦死したが、今日まで伝わるその勇壮さから、西南役に巻き込まれていなかったら軍人として出世し、男爵くらいにはなったと思う。父の樺出資雄は、内務省にいたため西南役に巻き込まれずに済み、当時少年だった資英も西南役を免れて、明治二十一(一八八八)年に渡米、コロンビア大学からエ-ル大学に移り法学士、同大学院で法学修士と法学博士の学位を得た。この経歴で●資英がワンワールドの逸材ということは分かるが、学費は誰が支弁したのか不思議である。明治二十六年に帰朝した資英は、二十八年五月に台湾総督府が設置されるや陸軍省雇員・大本営付通訳官、更に台湾総督府参事官となるが、樺山総督の特命であろう。明治二十九年四月、拓殖務省が新設されるや同省に転じた資英は、大臣秘書官兼・官房秘書課長として初代大臣の高島に仕え、高島の次女・球磨子(一八八一生)を娶り、高島友武(旧吉井)と義兄弟となった。三十年八月、行政整理のために柘殖務省が廃止されるや、資英は第二次松方内閣の首相秘書官に転じるが、★吉井・高島・樺山の閨閥は金融ワンワールドの日本総帥たる松方正義とも近かった。

 明治三十一年一月第三次伊藤内閣が成立するや辞官した資英は、六月の大隈内閣には仕官せず、十一月の第二次山県内閣で樺山資紀が文部大臣に就くのを待って大臣秘書官となる。三十三年十月の第四次伊藤内閣の成立により辞官した資英の、その後の十数年は未詳だが、大正三年から五年間を満鉄理事として過ごした後、大正十二年の山本権兵衛内閣で内閣書記長に挙げられた。
以後、大正十三年から昭和十六年の逝去時まで十七年にわたり貴族院議員を勤めた。授爵にはいたらなかったが相当の大物である。その余の第二世代の人物については、後で述べよう。
(続)

 



落合論文(10)-1
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(10)
上原勇作応援団の華麗なる面々とその運命 落合莞爾

★忘れられた大物 伯爵・吉井友実
  

   明治四年十二月、単身上京した上原(当時は龍岡姓)勇作は、野津道貫邸に下宿しながら南校へ通った。東京大学の前身である南校は、★宣教師・フルベッキが教頭として実質的に運営しており、陸海軍の士官養成学校と並ぶ、★ワンワールド高級人材の養成機関であった。勇作の学業資金を供給していたのは吉薗ギンヅルで、宮崎県西諸県郡小林村の吉薗家に常住し、周蔵によれば「村で今の保健婦のような」仕事をしていたが、裏では鹿児島市山下町に住む実業家日高尚剛を看板にして、自家薬の製造・販売事業を展開していた。男を表面に立てながら裏面で操縦するのは島津家の側室お山羅、徳川家定の御台所天璋院篤姫、さらには島津家から各豪家に嫁いだ貴婦人の面々に共通する、★島津女の在り方と評される。

 学業資金といっても学資や生活費だけでなく、ギンヅルは上原応援団の銘々にも献金した。団長格の高鳥鞆之助(一八八四生)は長閥の桂太郎(一八四七生)に匹敵する薩閥の寵児であった。桂に木戸・山県の引きがあったのと同様、高島は薩摩三傑の贔屓を受け、西郷・大久保の亡き後は、生き残った吉井友実(一八二八生)に加え松方正養(一八三五生)の支援を受けた。世に西郷・大久保・木戸を維新の三傑と称えるが、島津図に限れば西郷・大久保・吉井を島津三傑と謂う。今は忘れられた吉井ほそれほどの傑物で、仮に維新の四傑を選べば、四人目は吉井か長州の広沢兵助になる。維新政府の軍務局判事となった吉井は、明治四年から宮内省に移り、ひたすら宮中政革に取り組み、時に侍講となって天皇親政への動きにも関係した。十二年から三年間、工部大輔と日本鉄道社長に就いたほかほほとんど世間に姿を表さなかったのは、宮中で明治王朝の基礎固めに腐心していたからである。日本鉄道社長桂は唐突の感があるが、財政難から華族資金に頼らざるを得ない鉄道事業の重責を担える者が他に居なかったからで、加えて日本の鉄道整備を急ぐワンワールドの強い要請を受けたこともあろう。伯爵に叙された程の吉井だが、職位は次宮・局長級に過ぎず、一度も参議・卿・大臣に就かなかった。これは新時代に適合しなかったのではなく、世の注目を避けるために本人が望んだものと思われる。

 高島が吉井の次男友武を長女多嘉の婿養子とし、高島子爵家を継がせたことに両人の深い関係が窺われる。吉井と並んで高島を応援した松方正義は、吉井の上を行く傑物で二度首相になり、財政畑に君臨した。松方デフレを敢行し、日銀を創設し、金本位制を確立した業績は、すべて金融皇帝ロスチャイルドの意を受けたもので、★松方がワンワールドに属したことほ疑う余地がない。財政家松方と武官高島との深い関係は、地縁・血縁に始まりワンワールド内部で強化されたものだろう。蓋し、★宗教・金融と軍事がワンワールドの三大部門である。

 高島を脇から支えた二人の副団長が野津道貫(一八四一生)と樺山資紀(一八三七生)である。高島の義弟(妹婿)に当たる野津の長女槙子(一八七三生)を上原は娶る。つまり上原の正室は野津の長女にして高島の姪でもあり、三家は縁戚として固く結ばれた。野津は生来の武弁で、政治性に欠けたが日清・日露の功績で大勲位、元帥、侯爵に昇り、軍人の栄位を極めた。樺山資紀は陸軍から警視総監を経て海軍に転じ、海相・軍令部長から初代台湾総督になり、高島副総督に助けられた後、一転して高島拓殖務相の監督を受ける立場になる。活動分野を陸と海に分けたこの二人が、陰に陽に相互扶助したのは、★「陸軍と海軍は人的に隔絶する」人事原則を逸脱した希有な事例である。
  (続)
 



新也トーク。
2007/09/26(Wed)
名月の下の貧相ども
愁謬たる風の中。

切れ込むような中秋の名月をゆっくりとよぎる夜の秋雲を見ている。

雲煙過眼。

目の前を過ぎるこの世すべて雲煙のごとく夢まぼろし。

中秋にはいつもそんな思いが過ぎる。

屍を踏み台に、生臭い政争たけなわのこの一日。

 *********************

2007/09/27(Thu)
軽佻なはったり男の麻生、根拠なき権威臭の福田
麻生と福田のどちらがよいかという質問を受ける。

麻生は博多中州のキャバクラの店長。

福田は丸の内にある新日鉄の経理か総務部長。

あたりがふさわしいと答えておいた。

 *********************
   

  >>新也氏にして、この「高」評価。

  麻生、福田両氏共に買いかぶりすぎではないか。

  中洲の店長ならびに新日鉄の部長氏の反論は如何(笑い)。

  それにしても、いまだに皇居で認証式とは、

  恐れ入ったものではないか。

  この一事でもって、正体見たり・・・ではないか。

 



「食」について(2)。

★★ 沖縄は長寿県というのは大誤解

小泉: この五〇年、何か変わったかというと、いわゆる生活習慣病の患者が、ぐんと増えたことです。昭和四〇年代に入るまでは生活習慣病の患者なんてほとんどいませんでした 四十年代になり、糖尿病だ、癌だ、血圧だという患者が目立つようになり、以後増えていく一方なのです。
 
 沖縄というと、★長寿の県だと思っている人がいまだにいるかもしれませんが、そんなことはありません。確かにかつては都違府県別の平均寿命でみると、沖縄県は男女とも一位でした。ところが今や、女性は一位のままですが、男性は二六位まで落ちてしまった。
 なぜ落ちてしまったかというと、戦後アメリカの統治下におかれていたため、アメリカの食文化が根づいてしまったからです。
 ★奄美大島と比較してみると、その違いがはっきりします。こちらもアメリカの統治下におかれたのですが、島の八割が山で、基地が作りにくい地形でした、だから、すぐに日本に返還されたのです。おかげで奄美大島には昔ながらの曰本の食文化が残っている。鹿児島大学の医学部で「奄美シンポジウム」をやり、私も参加しました。そこで知ったことは、★奄美大島、補之島、喜界島が世界で一番の長表エリアだそうです。
 ところが沖縄は肉がいっぱいでしょう。曰本に返還されてからも、★米軍の基地が依然としてあるものだから、曰本政府は、沖縄の人たちのための牛肉を買い支えている、だから牛肉の値段がひじょうに安い。おかけでというか、沖縄の人たちは、肉をふんだんに食べ続けて来た、その結果、長寿ではなくなったわけです。
藤原: 食文化は、その民族の先達たちが築き上げてきた、生活の知恵の賜物なんですね。沖縄の例でいうと、豚肉ではラフティ、角煮のことですが、脂肪分をできるだけとって(取り除いて)良質のものだけ残し、昆布で味付けすることで肉の悪いところを昆布で補う、あるいはゴーヤを食べる。そういうものが、駐戦後の米軍駐留以来、アメリカの★ハンバーグに代わったということですね。
小泉: 沖縄のオバァにチャンプルーを作らせると、例外なく、米軍が使っている缶詰でスパムとかランチョンミートと呼ばれているものを混ぜます。味がついていて、ラードまで入っているから、缶詰をパカッと開けて、そのままフライパンに入れ、後はゴーヤなんかを入れる。何やら沖縄の代表的な食事とされていますが、実はこれほどに沖縄の伝統的な食事からかけ離れているものはないんです。なのに沖縄の人たちは、かんたんに作れることもあって、大人も子どももみんな食べている。本島も同じような傾向でしょう。
藤原: 手をかけていない、先達の知恵を生かしていない、インスタント、ファーストフード。要するに安直な食生活、それは絶対に弊害をもたらしますね。

★漁獲高一位の港は成田空港

小泉: 今一つの問題は、消費者が商品を値段で判断する点です。安ければいいと。
 曰本で一番安い幕の内弁当は、たった二四五円です。何でこんなに安くできるか調べてみたら、おかずのうち、梅干と漬物は、今何かと問題になっている中国産でした。塩鮭はチリの養殖鮭。養殖は一匹が病気になると、同じ池の中にいるのですぐに感染するため、抗生物質を与え、病気にならないようにしています。ところがチリの養殖場では基準量以上を与えているので、人体への悪影響が懸念されています。(*日本でも以前、畸形の養殖<鰤・ブリ>で大問題となった。そのときは、囲い網の目詰まり予防が主目的だった・・)のあと弁当にはウインナーソーセージが添えられていますが、これも外国産。ご飯はカリフォルニア産の古米、アメリカでは牛の餌になっている代物です。
 要するに、曰本産のものは何にもない。安いからと、こういった商品に若い人たちが群がるわけです。(>>今や中年サラリーマンも同様)
 安心、安全ということから考えると、こんな怖いことはありません。中国産、アメリカ産牛肉問題で、それがはっきりしたわけです。だから、こうまで輸入に頼っていいのか、そうではなく自給率を高めることを政府は真剣に取り組むべきです、
 藤原 最近の傾向は、外国から雑多なものを入れて、外国の水準での食生活になっている。それがいわゆるグローバル・スタンダードだと肯定さえされています。ますます民族の独自性というか、食文化のDNAすら失われていくということですね。
 小泉 日本で漁獲高の一番多いところはどこだかご存知ですか。境港でもなく、気仙沼でも石巻でも、ハ戸でも釧路でもない。なんと漁港ではなく、★成田空港なんです。輸入に頼っていると、世界的に異常気象になっていますから、いざという時に、輸出国は自国の食料確保を優先し、日本に対する食料供給をしなくなるかもしれません。そういうことまで考えているのかということです。
要するに安ければいいんだということではなく、いいものを食べなくてはいけない。安いということにどうしてもこだわるのであれば、ご飯に納豆をかけて食べるのが一番いいと私は思っています。
藤原 食の業者の方も問題なんでしょう。肉の業者など、最近はほかのものを勝手に混ぜている。もう犯罪です。犯罪もいろいろありますが、食品に関する犯罪は他の犯罪に比べて、万死に値しますね。

 ★中国が北海道の鮭を買い占める

小泉 最近驚くべきことが明らかになりました。中国が釧路や復室で魚を買い漁っているんです。NHKでも取り上げていましたけれど、なぜ中国が目をつけたかというと、北海道の鮭、オホーツクで取れた鮭は世界で一番安全で、かつおいしいからです。ところが、日本人は、価格的にはどうしても高くなるから、買わない、食べない。
 業者としては、冷凍しておくとそれだけ費用がかかる。そこで中国が格安でもっていて、缶詰にしてメイドインチャイナにしてしまい、欧米に輸出して、外貨を復得しています。こんなことを許していていいのでしょうか。
藤原 もったいない、日本で食するようにしなくてはいけません。
小泉 それではどうすれば日本で食するようになるかです。食育だと言っておきながら、国は一番重要なことをしていない。それは何かというと、学教で民族文化を教えていないということです。
 全体に日本型の生活がなくなってきて、家族にしても、核家族化していき、ご先祖さまへの敬意もなくなり、バラバラになってしまっています。いかに民族の結束が大切かということなのですが、子どもたちに日本の民族文化を教えていけば、自然に昔ながらの和食に興味を持ち、復活するのではないでしょうか。
 藤原 今日は、日本の食文化の現状を憂い、小泉さんと悲憤傭慨してしまいました。ほんとうは世界各地のおいしいものを発掘されている自称「味覚人飛行物体」ないし「空飛ぶ胃袋」の小泉さんの味覚に対する見識もお伺いしたかったのですが、時間が来てしまいました。
 今日はありがとうございました。 
 ****************************

ホスト: 藤原作弥 作家・前日銀副総裁
ゲスト: 東京農業大学応用生物科学部教授・農学博士 小泉武夫

 こいずみ・たけお
1943年、福島県で300年続く酒造家に生まれる。66年東京農業大学卒、82年より現職。醸造学・発酵学の第一人者として教鞭をとる傍ら、食文化の学術調査を兼ねて世界各地を訪れ「食の冒険家」と呼ばれる。作家・エッセイストとしても活躍し著書80冊以上(最新刊『小泉教授か違ぶ「食の世界遺産)、テレビ出演も多数。食物・微生物関連で30件近くの特許を取得している。  (完)

 




「食」について。
『ニューリーダー』誌 10月号 より。・・・

★落合論文の紹介をする前に「食」についての対談を紹介する。
 **********************

 連載(作弥のハートフル対談》消費者の安さ重視で危険本域に違した食糧自給率
 

 
 ●食育は日本食文化の「DNA復活」から始まる
 ★牛乳でお腹がごろごろする日本人

藤原: 今日、ぜひともお伺いしたいのは、日本の食文化についてです。この話を語らせれば、日本の第一人者は小泉さんではないでしょうか。新聞の違載、エッセイ、講演、テレビ出演など、あらゆる機会をつかって啓蒙運動をされていて、それがいつもとてもわかりやすく、面白い。私は小泉さんが書かれているものは、「食文学」と言ってもいいのではと思っています。
小泉: ありがとうございます。
藤原: 今の人はご存知ないかもしれませんが、日本にはグルメ文学というのがあって、村井弦斎という人が『食道楽』を書いてました。小泉さんは、それに匹敵する、開高健亡き後の食文学の第一人者です。
 ところで、最近、食育が叫ばれるようになり、小泉さんも「正しい食生活とは何か、それは日本の食生活の原点に戻るべきだ(ことだ)」と言われている。伝統的な食べ物、良質な食べ物を守り、子どもたちに食育をというのは、最近よく耳にするようになった「スローフード」のことですね。
小泉: 昔は、わざわざ食育などと言う必要はなかった。自給自足の生活で、食べ物も限定されていましたから、残すなんていうこともありえなかった。なんでもおいしく食べていた。私はそういう時代に生まれ、育ちました。
藤原: ハングリーであればあるほど、食べ物のおしいさ、ありがたさがわかるんでしょうね。
小泉: その通りです。それなのに、今なぜ日本であえて食育をしなければいけないのか.
民族というのは、長い間、文化によってDNAが作られていく。日本人には日本人の違伝子がある、だから生まれてくる子どもたちは、みんな日本人の顔をしています。でも、それぞれに顔立ちが違うのは、家族の遺伝子も入っているからです。そして生まれてくる子どもたちはお尻に青いアザがある、これも日本人の特徴です。
 日本人にしか適応しない遺伝子というのもあります。たとえば牛乳を飲んでいた民族ではなかった。飲み始めたのはここ五〇年ほどです。五〇年では違伝子は作れないので、牛乳を飲むと、80%から90%の日本人は、お腹がごろごろしたり、便がゆるんだりする。乳糖不耐性という症状で、牛乳の中に入っているラクトース(乳糖)を日本人は分解できない、そのため未消化物として腸を通過するので、ラクトースが腸を刺激し、ゴロゴロしたりするんです。

★子どもが好きな和食は回転鮨だけ

小泉: 日本人は肉も食べなかった民族です。だから肉を食べ過ぎると、血中コレステロールが高くなる、中性脂肪が増える、尿酸値が高くなると言われでいますが、なによりも★子どもたちの健康状態が心配です。
 ある食品会社が東京の小学四、五、六年生二千人を対象にアンケート調査をしたところ、子どもたちは肉をたくさん食べでいるという結果が出ました。今一番食べたいもの、学校給食で出して欲しいものは何かというもので、一人五つずつあげでもらい、集計したのですが、ベストテンの中に、日本の食べ物は一つしかなかった。
 一番目が焼肉、続いでハンバーグ、フライドチキンときて、後は餃子、ピザパイ、ミートソーススパゲティ、その次にやっと日本の食べ物が登場します。それも回転鮨(笑い)。後はまた肉類になります。
 魚も鮨以外は食べなくなり、肉ばかり食べている。その結果どうなったかというと、骨が弱くなってきた。骨折が増えたそうです。鉄棒にぶらさがっていて、そこからポンと飛び降りる、それだけで骨折したりする。昔は考えられない、予想のつかない骨折の仕方をするので、先生方は困っているそうです。
 最近の研究では、子どもが肉を食べ過ぎると、★アシドーシスという症状が現れることがわかった。血液の酸性度が高くなり、病気になりやすくなります。重度になると意識の混濁、昏睡状態に至る恐ろしいものです。
 アメリカの場合ですと、肉はかなり食べでいますが、果物もいっぱい食べるし、牛乳もよく飲む、それで、中和してくれます。(*>>ただし、これは今や中流以上の家庭にしか言えない話であるが)日本人の食事には中和剤が少ないため骨のカルシウムとリンが抜けてきて、骨が弱くなるんです。
 戦後、アメリカは日本を助けるという名目で何をしたかというと、日本人が長く食べできた伝統的な民族食を突然疎外して、アメリカ型の食生活をしなさいという指導でした。実際に何をしたかというと、すぐにカロリー計算をし、そしてタンパク質や脂肪をこれだけとりなさい、というデータを示ことが今もずっと続いています。栄養士もみんなカロリーのことばかり言うでしょう。民族の食事に数字をあてはめてもダメなんです。
藤原: そういえば企業経営も、最初に数ありきで、数値目標ばかりをかかげますね。
 食物栄養学の権威である高橋久美子先生は、日本食は実にバランスがとれでいる。栄養のバランスはとれているし、カロリーも適正で、材料を尊重して、つまりなるべく加工しない
で食べる  この三要素が揃っているから、それさえ守っていれば、骨折は起きにくい。それ以上に、最近問題になっているキレる子がいなくなるとおっしゃっています。
小泉: まったくその通りです。昔の日本人は、おっとりしでいで殺伐さがなく、平和的でした。

★亜鉛野菜がキレル子、少子化の原因
 (*>>もちろん、ひとつの重要な原因ということでしょうね。主要には政治政策的・経済的な問題であること明白。)

小泉: 日本食というのは、大きく四つに分けることができます。ひとつは根菜、二つ目は海藻、三つ目は魚、四つ目は豆、大豆です。それに主食であるご飯がついで、日本食ということになります。日本食を食べていると健康の維持ができる。というのも、根菜を食べでいると、土のミネラルがいっぱい取れ、海藻からは海のミネラルがいっぱい取れます。魚からは、タンパク質、そして脂分、これは身体に負担のないごま油と変わらない成分です。豆類はひじょうに素晴らしい植物タンパクが摂取できます。
 藤原: なるほど。昔の日本の食生活はどうだったか、自らの体験を振り返ってみますと、東北で生まれ育ったということもありますが、朝はご飯に味噌汁、そしでお新香に焼き魚といったところでしょうか。昼も、どこかに食べに行っても同じような内容で、野菜のバリエーションが漬物という形で添えられている。食は、お酒を飲む人と飲まない人で違うかもしれませんが、お刺身があったり海産物があったりする。たしかに小泉さんの言われた通りの食事をしていました。
小泉: 今の子たちが、なぜキレやすいのかというと、興奮するのはアドレナリンというホルモンが分泌されるからですが、このアドレナリンを抑えるのはミネラルです。かつての和食ならミネラルが十分に取れたので、興奮が抑えられ、興奮しすぎる、要するにキレるという症状は起こらないようになっていた。
 ところが肉を中心にした現代食ではミネラルの摂取量が五分の一になってしまったために、アドレナリンの分泌が抑えられず、キレるんです。
藤原: ミネラルのひとつである亜鉛をとらなくなったので、様々な障害が出てきていると聞きました。
小泉: たとえば少子化の要因の一つになっているのですが、男子の精子の量が少なくなってきている。これも、亜鉛不足に陥っているからです。亜鉛は、海藻類、ひじきとか昆布に多いのですが、昆布でダシをとらなくなった、化学調味料を使うようになった、それでおかしくなってきたんです。
藤原: 我々が、何気なく気づかないうちに、口に入れているものが堕落してきているということですね。
 もう二〇年以上前になりますが、私は肝臓を悪くして、半年ほど入院したことがありました。同じ病室は半分ぐらいが糖尿病でして、治療は栄養素四分割法による食事療法なんです。その食事法は、人間にとって理想的な食事ともいってよく、糖尿病患者ではなかった私なども、その食事を取るようにしていました。そして肝心なことは、退院後も、同じような食生活ができるかどうか・・・。
 この食事法を編み出したのは女子栄養大学の香川芳子先生ですが、この理想食の中身は小泉さんが話されたもので組み立てられていました。肉で許されるのは脂身のない鶏肉や赤食の豚肉で、許されないのが脂の多い牛肉。
  (続)

 



再び、『間脳幻想』を読む。 (2)
藤原: 大変な仕掛けですね。ホルモンのようなすごい威力をもった、情報システムのCPU(中央制御製置)であるためには、視床下部は至高のデザインで組み立てられているわけだ。

藤井: なにしろ、人間の体に加えられた刺激が神経インパルスの形で、全部視床下部に集まるわけだから、ものすごい機能です。
 人間の五感と言われるものを総て統括しているだけでなく、感情もこの視床下部がコントロールしていて、外部からの情報を整理して大脳に問い合わせ、大脳が判断してフィードバックしてきたものを、次には、脳下垂体を経由したホルモン系の命令系統を使い、副腎に対策の実施を指令する訳で、その時に活躍するのが有名なACTHです。
 このホルモンは消炎症性ホルモン群に属していて、ACTHというのは★促コーチゾン分泌ホルモンの頭文字を集めたものです。

藤原::  今の説明によると、脳下垂体から分泌されるのは伝令ホルモンですね。

藤井: その通りで、まさに伝令ホルモンと名づけられています。脳下垂体が視床下部からの命令によって、副腎の活動をうながすための★伝令ホルモンとしてACTHを血液中に分泌するのだけれど、伝令とは言え、これは比較的ゆっくりとした伝令です。
 緊急連絡は神経系統を使うが、確実な指令はホルモンをメッセンジャーに使った方が良い。外務省を例にとれば、緊急連絡に無線による外交電報を使うと共に、詳しい指令用に外交嚢を持ったクーリエを活用するのと同じです。外交電報だと、どうしても暗号を解読される恐れが多いので、余り詳細な指令はできない。そこでクーリエと呼ばれる使者を利用するのが、外交における公式の手続きになっています。
 政治において最も精巧なメカニズムが外交システムだという点で、外務省はどうしても脳のシステムを真似せざるを得ないが、本物の脳が、ストレスに対して情報伝達回路として、複数の系統を持っているというのは、素晴らしいメカニズムだな。

藤原: 伝令ホルモンのACTHが副腎にメッセージを伝えてコーチゾンの分泌を促進させるわけだけど、副腎が分泌するコーチゾンの正体と働きについて、もう少し具体的に説明してもらえませんか。

藤井:  一般に、消炎性ホルモンと呼ばれるコーチゾンは、グルコ・コーチコイド群に属しており、副腎がビタミンCの助けを借りて、血液中のコレステロールから加工して作られているのです。
 ストレスとコーチゾンは表裏一体の関係にあり、コーチゾンはストレスを軽減する作用をします。臨床的な観察がコーチゾン発見をもたらしたのでして、それはリューマチ患者の女性が妊娠期間中には症状が消え、出産後には再びリューマチが再発したので、妊婦の血液の中にはリューマチを消すものがある、ということで調べたら、それがコーチゾンだったわけです。

藤原:  コーチゾンを作る副腎は、間脳と同じように、非常に小さな臓器だけれど、重要な役割を果たしていて、しかも、体全体のホルモンのバランスに関係している。特に、★性ホルモンは予想外なことに副腎が大本だそうですね。

藤井:  一般には、性ホルモンは男女とも性器が生産していると考える人が多いようだが、実は、大部分を副腎皮質が作っているというのが正解です。
 大体、副腎は一九〇一年に高峰譲吉博士がアドレナリンを発見して以来有名だが、アドレナリンは人間が危険にさらされて不安になったり、心配したりする時に、髄質から分泌されるホルモンで、心臓がドキドキしたり、息遣いが荒くなったり、という症状をもたらします。副腎の皮質は外中内の三層に分かれていて、外層は水分や塩分を調節する鉱質ホルモンを分泌し、中層は糖質ホルモンの分泌をする。
 そして、有名な性ホルモンの分泌が内層の分担になっており、僅か九グラムしか無いのに、副腎は生命活動にとってものすごい重要性を果たしている。それに、★面白いのは、副腎ホルモンは明け方に最低になる体温が、夜明けと共に上昇する時に血液中にほとばしり出るのであり、二四時間にわたり平均的に分布するのではないこと。
 だから、副腎ホルモンの濃度が最高になることによって、人は★朝の快適な目覚めを手に入れることができるのかもしれません。
藤原: 逆に言うと、血液中の副腎ホルモンの濃度を測定する場合、一日のいつ頃に測ったかが大切で、単なる計測値というだけでは、大して意味がない、と考えていいのですか。

藤井:  そうです。また、副腎皮質ホルモンの寿命は短くて、三〇分くらいで消えてしまうのです。

藤原: 血液中のホルモン濃度が一定ではなくて、時間によって違う数値が測定できるという事実からすると、病気に対しての身体の抵抗力も、一日の時刻によって強弱の差がある、と理解して良いのですか。

藤井:  これから段々とそう言った問題が明らかにされるようになると思うが、朝の方が抵抗が大きくて、病気になりにくいのは確かだな。だから、病気になりにくい朝にひいた風邪は、夕方に引いた風邪よりも治りにくいし、致命的な度合いが大きいと言えます。

藤原 ボディ・タイムとの関係で、いろいろと興味深いことが分かるようになりそうですね。それに、副腎に異常があると、感覚が鋭敏になると言うが、ホルモン恚感覚の関係というのも、時刻差の問題と同じように、興味深いテーマになりそうですね。
 雄鶏が夜明けにトキを告げるのもホルモンのせいだと思うが、光とホルモンの関係とか、重力波や電確波とホルモンの関係も段々と明らかになるでしょうね。

藤井:  私もそう思います。光や電力が一種のストレッサーとして作用すれば、当然、ホルモン分泌と関係するはずです。
 大体、副腎皮質は三〇種余りのホルモンを作っているし、その分泌が少なくなることによって感覚が鋭敏になり、その良い例が★アジソン病の患者です。この病気は他人には聴きとれないほどの小さな音にも過敏になり、音を聴きとる感度は確かに高まるのです。
 ところが、音を聴き分ける能力は低下し、★総てが騒々しく聞こえて、イライラしやすくなるのだが、ことによると時刻差があるのかもしれません。
 また、精神分裂症の患者で、分裂の症状が強まると、芸術的に素晴らしい能力を発揮するが、治療によって精神が安定すると、実に凡庸な作品しか作れない人がよくある。逆に言うならば、★優れた芸術家には分裂気味の人が多いというのも、ホルモン分泌と深い関係が参ることを意味しています。
 満月になると犯罪者も増えるが、中天にかかる満月の下で傑作をものする絵描きや詩人もいるという話もよく耳にします。
 バイオリズムが人間だけでなく、生物全体を支配していることは、神話だけでなく、生物学的な野外観察の結果も示しており、生物がマクロコスモスである宇宙に共鳴しているということです。

●バイオリズムとホルモン

藤原:  自然のリズムが生命体に脈動のパターンを与え、惑星の動きに対して共振しているのは、生命体を構成している水の属性に他ならない。水の持つ共振性は、おそらく水素と酸素の原子が持っている波動合成に関係しているのだろうが、人間の内臓も総て水のバリエーションだから、流動体としての位相が生理現象の基本になっているに違いない。だから、時間によって病気への反応度が違ってくることを詳しく調べて、バイオリズムと副腎ホルモンとの相関をシステム化したら、面白い結果が出そうですね。
サイクルという点でみると、肉体的な周期が二十三日で、感情の起伏が二八日の周期性そして知性のリズムが三十三日のサイクルを持っているという事実の背景には、先生が説明した、天文学的な惑星における位相関係が副腎ホルモンに強く影響していることが明白に、読みとれるはずだと思うのですが。

藤井: バイオリズムはドイツの医者のフリーズが一八八七年にみつけたものです。勇気とか耐久力といった男性的な活力は、二三日の周期を持ち、感受性や直観力といった女性的な要素は二八
日のリズムで繰り返し、この二つのサイクルは細胞自体が内包している、という考えに基づいていました。
フリーズ博士はフロイド先生の親友でもあり、ウィーン大学の心理学の教授だったスオボダ先生と協力しながら、患者たちの発病サイクルが生命のリズムと密接に結びついているという事実を、カルテの記録ではっきり確認した。特に、鼻の粘膜の反応が、ノイローゼ症状や性的異常をもたらすと主張し、これがフロイドに強烈な影響を与えたのです。
 月経という最も分かり易い生理現象が、規則正しい周期性を持ち、しかも、心理的に大きな威力を発揮する事実が明らかになった以上、フロイドがフリーズ理論に傾倒したのも当然です。

藤原: 月の影響力が人間の体調を支配するという現象が例として最も分かりやすい。特に、月経の場合は、旧石器時代以前から、月の満ち欠けと結びつけていただろうし、動物の行動も月の変化と関係があることを、体験的に分かっていたはずです。だから古代の人は陰暦を尺度に使ったのだし、人間の内的エナルギーの周期を月齢と結びつけるのが、一番実感を伴って理解できたのだと思うのですが、どんなものでしょうか。

藤井: そうとも言えないな。むしろ、人間の生理面では、日周変化の方が基本で、睡眠のサイクルが夜の訪れによる二四時間性だということは、月経以上に分かりやすい。
 一日という意味のサーカディアン・リズムは、古代人でも簡単に理解ができただけでなく、人間の生活のリズムが一日の単位で成り立っていた。夜がくれば眠くなることや、約八時間眠ったあとで朝になって目覚めると空腹感があるし、明るさの中で活動の気がみなぎったはずです。
 だから、体温や血圧だけでなく、脈搏とか食欲などを通じて、人間は大昔から、一日を基本単位にしてきたし、近代になると、血糖値、副腎皮質ホルモン、細胞分裂も総て日周期で動いていることが明らかになっています。

藤原:  一日とか一カ月という周期性が太陽や月と関係し、それが生理現象に大きな影響を与えていることは明白ですが、週単位の周期性との関係はどうですか。

藤井:  一週間という七日単位の周期は、一般的には、ヘブライ人の暦法だ、と言われている。しかし、むしろ、バビロン王国を築いた★カルディア人のものだった、と言うべきでしょう。
 遊牧民族のカルディア人は星を観測して宇宙の神秘を知る努力をしたし、占星術を発展させている。だが、臨床医学的な観察によると、★病気の症状が七日単位で変化することが知られているし、アレルギー性の病気にも似たような周期性が見られます。ことによると、この周期は惑星に支配されているのかもしれないし、逆に、カルディア人たちは健康上のリズムを天球儀上の星の組み合わせと結びつけて考えた可能性もあります。
しかし、現在の医学というのは、作用反作用のシステムであり、異常があれば薬を飲んで病状が現われるのを抑えこんでしまい、医者が病気の周期性とつき合うようなシステムになっていないから、週単位の変化はなかなか見つけにくい。
 それでも、そういった努力を一番やれるのが★精神病の領域で、うつ病とか分裂症などの治療には周期性のアプローチが非常に有効です。
藤原: 満月の時には狂気が発生して交通事故が多くなったり、殺人事件が多発すると言うし、狼男の伝説に有るように、動物時代の本能が甦ると言われて、月と人間の精神活動には密接な関係が有りそうだが、ホルモンの分泌と関係しているということになると、一番占い脳である副腎と言うことになるのですか。

藤井: 副腎よりは、むしろ、生体を構成している細胞内の体液の方が、月の引力の影響を直接に受けるのではないですか。
 なぜなら、満月の時に海が満潮になるのと★同じ現象が、個々の細胞レベルで当然起こっていて、長大な分子が集まって出来ているタンパク質に影響を与えることになる。すると、★タンパク質の集合体である組織や器官は、それぞれの特性や役割に応じて、さまざまな反応をして、それが人体に異常効果を発生させるであろうことは予想できます。
 しかし、仮に細胞レベルにおいて引力などの宇宙レベルでの影響力が有ると考えるなら、引力よりは、むしろ★磁力の方がより大きな支配力を持つはずです。
  
 
 *文中の★印は引用者の都合によるものです。
  ご諒解願います。  
 



再び、『間脳幻想』を読む。
 ●今回は、第二部 間脳機能と実存感覚 のうち、

 ★生命の中心「視床下部」と「副腎」 と題した一章を紹介する。

  氾濫する出版物が戯言に等しく感じるほどの会話★智慧の交錯をどうぞ。

 

 ****************
 
●生命の中心″視床下部と副腎″

藤井: 間脳は終脳が包みこんでいて、解剖学的に見た間脳の位置は、脊髄と脳髄を結びつける脳幹の最京都にあります。また、大脳には考えたり理解したりする新皮質と大脳核があるし、感情や本能的なものとより結びつきの強い古皮質がある。
 この古皮質は間脳の皮質であると考えてもよく、大脳の辺縁系を構成しているが、古皮質と新皮質が哺乳類の脳の実体に相当している。なぜならば、下等脊椎動物にはこの皮質と呼ばれるものが無いからです。

藤原: 新皮質については、運動、視覚、思考、言語、認識などの重要な機能を司っていると知られているが、大脳核というのはどんな機能をしているのですか。

藤井: 主として運動調節に関与している立一爾われています。しかし、脳の機能は、それぞれが単独で、ある分野を絶対支配しているわけではなくて、複雑に協同作業をしている。
 ただ、大脳核が損傷すると、ある種の運動面での機能マヒが起こったり四肢の痙草加起きるので、それから機能予測をするわけです。

藤原: 一番分かりづらくて混乱するのは、中脳と間脳の関係で、しかも、間脳と視床下部が入り乱れて登場するために分からなくなってしまうのだが、どのように使い分けたらいいのですか。いろんな本を読むと、著者によって用語が好きなように用いられていて、定義もはっきりしていないという印象を持つのですが・・・:。

藤井: 医学的にも、明確な定義づけが行なわれていないというのが木当のところで、間脳に関しての用語法は人によって差があり、微妙なくい違いがある。
 ただ、スイスのウオルター・ヘスが一九四九年にノーベル賞をもらってから、間脳は機能的に驚くべき働きをする視床下部の面が強調され、人体の情報センターとしての役割が、大いに評価されている。フロイド流に言うと、潜在意識の窓口が間脳に他ならないが、医学や生理学は奇妙な学問で、間接証明や消去法を余り採用せず、専ら直接証明中心主義でこり固まっていて、解剖や実験のしやすいケースを中心に、ドグマが成立してしまうのです。

藤原: だけど、ドグマだったら勝手にこういうものだと決めつけたものであり、ワトソン・クリックの<セントラル・ドグマ>の運命と同じでヽ短期的な有効性しか持ち合わせないかもしれな。
 長い目で見たらセオリー(理論)だって短命なのだから、ドグマなんて雑巾と同じで使ってポイで良いのです。ところで、間脳の働きについてですが。

藤井: これまたドグマになるかもしれないが、ケスとフーの仲間で神経生理学者ポール・マクリーンの大脳辺緑系理論が、分かり易いだけでなく実験データからも、説得力が一番あるようです。
 彼は皮質基底部と脳幹の間に位置する間脳全体を辺緑系と呼び、その中に視束と視床下部も含めてしまうが、それは彼なりの理由があるし、辺緑系理論の旗頭が主張することだから、彼の説明に従うことにしましょう。
 マクリーンによると、視床下部と辺緑皮質を結ぶ神経繊維には三つの回路がある(*217図=略)。
 一番目の扁桃体に繋がる繊維束は、自己保存のための感情や行動に関連しており、摂食、戦闘、それに怒りや怖れといった反応がここでコントロールされている。
 二番目の中隔に結びついビいる繊維束は、社交性や種の保存に関係するところでヽそれに関係した表情や感情がこの部分でいろいろと調整されているようです。

藤原: 種の保存というと生殖作用が関係するわけで、媚びたり微笑んだりするわけですね。

藤井: ウインクもするだろうし呼吸も乱れるでしょうね。また、自己保存に関係した扁桃体の機能はノルアドレナリンの分泌が決め于であ・り、生殖や快感を司る中隔に関しては、ドーパミンの分泌によって決定づけられている。
 この上位部と下位部が二つの異なった胴内ホルモンによってコントロールされている事実は、脳の機能だけでなくて進化のメカニズムを知る上で、非常に重要なことを物語っているのです。

藤原: ドーパミンは哺乳類のなかでも特にヒト科の勤物の存在そのものを、決定づけていると言う意味ですね。
 逆に言うと、ドーパミンの存在によってヒトが万物の霊長だと言って、大きな顔も出来るわけで、ドhハミン様々と言える。

藤井: 精神分裂はドーパミンの過剰分泌から・来るという「ドーパミン仮説」からしても、ドーパミンについてよりよく知ることがク心を持ち快感を大きな生存因子にしている人間について、人間であることの意味を知る鍵になるわけです。
 一番よく知られているドーパミンと関係した病気はパーキンソン病でして、これは精神分裂とは逆にドーパミンの不足によるもので、一種の麻痺症状としての運動機能の障害を伴い、震えがきたり筋肉硬直が現われます。しかし、現在における脳内ホルモンの最大の謎のひとつがドーパミンであり、果たして、ドーパミンがエンドルフィンを相殺するのか、それとも相乗効果を発揮するのかを明らかにしていくところに、これからのエキサイティングなテーマがあると思う。★特に重要なことは、ドーパミンのバランスがとれた分泌であり、ドーパミンが快感をもたらせ感情が豊かになるからといって過剰に分泌したのでは、個体が狂うだけでなく、文明も狂ってしまいます。しかも、負のフイードバックにおけるドーパミンがストレスの面でエンドルフインとどう関係するようなメカニズムかおるのかが、間脳の謎でもあるわけです。
 それはまた、上下の二つの領域に分けてドーパミンとノルアドレナリンを区分している所が、嗅覚をコントロールしている嗅球によって占められていることにも関係する。
 と言うのは、視床下部から嗅覚器官を迂回して、前視床核から嗎蝗絆回転を経由して新皮質の前頭連合野に繋がる第三の繊維束の存在が物語る事実、すなわち、★嗅覚から視覚に重点が移ったことにより、霊長類が他の哺乳類から★大飛躍をした事実の意味が重要になるのです。
 この前視床核のチャネルが結びつく★前頭連合野は、熟考、予見、創造性、直観といった、きわめて高度な人間的な営みを司っているわけで、この部分を機能的にコントロールしているドーパミンを、いかに精神力において調整するかが、古来からの★座禅、ヨガ、観想などといったプロセスを持つ瞑想法の、究極的な課題であったと言えそうです。
 脳の中にはワニとウマとヒトが共存しているが、ヒトの領域には、未だ活躍の余地が残っているとでも言えましょうか。
藤原:  ということは、嗅覚を殺して視覚に重点を移すことが、瞑想を効果的に行なう秘訣だということになる。しかも、視覚は可視光線として眼球を通じて届くものだけでなく、眼が識別できる可視光線よりも波長の短い、X線やガンマー線あるいはそれ以下の宇宙線に感応するメカニズムがこの辺に分布し、それがドーパミンの分泌と結びついているのかもしれない。
 そうなると、素粒子よりも小さな存在の問題にたどりついている、物理学の最先端の領域と同じで、今のところでは、ブラックボックスになってしまいますね。

藤井:  それでも、ここ10年間で、それまでブラックボックスと呼ばれて来た脳の問題は、脳内ヘプチドと呼ばれるホルモンとの関係で、かなりグレイボックスになったことは確かです。
 三つのチャネルの分岐点に位置する視床下部は機能的にみて最も大切だと思うので、私は視床下部を間脳と呼んでいるわけです。

藤原:  情動を支配している辺縁系を、便宜上、間脳と呼んでもいいわけですね。

藤井:  便宜上は十分でしょう。また、辺縁系独自の嗅覚を司る嗅球と海馬と呼ぶ記憶の主みたいな器官は、学習や記憶を蓄える所と考えられている。しかし、脳に情報がすりこまれて記憶されるメカニズムに関しては、未だ多くの謎に包まれているのです。
 ところで、視床下部の機能は生命活動のほとんどを握っており、いわゆる、脳死と呼ばれるものは、視床下部が機能しなくなったことにより、人体における電気作用と化学的な分泌作用がストップしたことを指します。
 ★視床下部が直接コントロールしていないのは、心臓の脈動、血圧、それに、自発的な呼吸作用くらいのもので、その他の生体機能はこの小指大のジョウゴ型器官が全部指令しているのだから驚くべきです。★命の親とは視床下部のことを指して言うべきでしょうね。

藤原: 小指大とは、また実に小さいですね。

藤井: 小さくとも人間に生命力を与えるブラックボックスでして、すごい威力を持つのです。そして、視床下部の外側の部分は副交感神経系の働きをし、内側の部分は交感神経として、興奮と結びついた働きをしており、しかも、下底部には内分泌系をコントロールする脳下垂体が吊り下がっている(218図=略)。
 この下垂体には前葉と後葉があり、後葉は視床下部からの神経繊維の軸索が来ていて、脳下垂体前葉が分泌する★ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)、成長ホルモン、性腺刺激ホルモンといったいろいろなホルモンを分泌させるために、トリガーになるホルモンを分泌します。
 少しややこしいかもしれないが、一種の二重の安全装置が有るという意味で、視床下部のメカニズムは神技ともいえる内容を持っているのです。
  

 *文中の★印は引用者の都合によるものです。
  ご諒解願います。
 



★藤原新也氏・健在也!
★ほぼ1ヶ月ぶりの「新也トーク」のアップ。
  http://www.fujiwarashinya.com/main.html
 チェック漏れの方の為に。(老婆心で・・・) 
 

 ********************

 2007/09/23(Sun)

 ●子供に顔向けできない立派な大人の所業
 
 今は飛行機の中。
 「携帯小説現象に対する藤原のまなざし」というNHKの番組の取材で小倉に向かっている最中。
 昨日は群馬での実話小説。恋人が中年男にレイプされ自殺したという悲惨な物語。
 傷癒されぬ彼との対話。
 今回は携帯のノートパソコンを持って出た。

 ブログの更新がずっとなされてないので心配するメールがいろいろと寄せられているが、こちらいたって元気。
 体に悪いところはひとつもないし、みんなには悪いがストレスがないせいか、疲れというものを知らない。
 先日「朝昇竜問題(親方と弟子の関係)」(★ママ、でもこちらの方が良さそうな感もあり・・)にからんで”怒ることのできない今の大人”というテーマでの経済新聞の取材があった。戦争と、そして原爆を落とされた日本という国の特殊事情に暴力否定のトラウマが発生しており、それが身体的行為を否定するというところまで敷衍している、というようなことも述べたが、大人の金属疲労も上げねばなるまい。
やはり疲れていると人に怒るというエネルギーも出なくなる。

 その取材の中で最近怒ったことがあるか、と訊かれて、つい3日前のことが頭に浮かぶというのはまだ私が元気な証拠かも知れない。

 JRの長い下りのエスカレーターに乗っていたら私の数メートル前に乗っていた中年の男(会社の部長クラスのような身なりと風貌)が両手でなにかごそごそやっていたかと思うと、上りと下りのエスカレーターの間の3メートル幅の緩衝地帯にとつぜんモミクシャにしたティッシュのようなものを2つ投げ捨てたのである。
あっけにとられた。
子供でもこんなことやらない。

「こら!なにやっちょるんじゃ!このどアホが!!」

 条件反射的に叱咤していた。

 こういった場合、若いときに荒くれた生活をしていた素性がつい出てしまってつい下品な口調になってしまうのだが、下品には下品で対応する以外何がある?
 いや、コイツは下品を通り越して下種である。
 「畜生」をコントロールするのに上品な言葉は通用しない。相対化するなら私の罵声の方が100倍も上品なのである。
 
 男はとつぜんの背後からの駑声にぎくりとして振り向く。やはり結構な企業の部長クラスの風貌。
 男はとつぜん卑屈な笑顔をつくり、頭を下げている。
 いわゆる災難をなんとかすり抜けようとしている図だ。
 会社員にありがちな卑屈な態度。
 こんな野郎を相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
 一喝して黙した。

 思うにこの世代の企業人がこの数年いかにごまかしをやってきたか三菱、不二家、雪印、等等あげつらうに枚挙に暇がない。
 あのおやじの立ち居振る舞いと、日替わりでテレビで謝っている腐った管理職が二重映しになる今日この頃である。

 *一部訂正。
 


嗚呼 甘粕大尉の唄
★閑話休題
突然だが、次のような唄を御存知だろうか。題して、<嗚呼 甘粕大尉の唄>。
奇跡の名著『南天堂』 (寺島珠雄 1999.9.16 皓星社)に記されている。
 前後の文章と共に、紹介しておこう。 P141~143による。
*******************
 

・・・中略・・・
大震災翌年七月に大阪の明文館書店が発行した歌本がある。元の所侍者が表紙に千代紙を貼りかぶせ、奥付に記載なしで書名不詳、文庫判程の本で三頁余。「安来節」「籠の鳥」から端唄、長唄まで何でもありの中に「噫々行粕大尉の唄」というのが西岡頁理生作歌で収録されている。「ハ調2/4」という略譜付きで一節の歌詞は四行、それが十二節半ばまであって以下落丁で不明というものだ。減刑嘆願が多かったという甘粕への世情の反映か。
 書店販売の本になる以前、甘柏公判の進行中に演歌師が街頭で流したものだろう。添田唖蝉坊の『唖蝉坊流生記』(82年刀水書房)にもこの歌の収録はないから略譜と歌詞を紹介しよう。ただし歌詞は頁の欠落で中途半端に切れ、甘柏に同情の主旨まで及ばない。

●大杉栄殺し
★嗚呼 甘粕大尉の唄 西岡真理生作歌

① 淋しき秋の草叢に 嶋く虫の音も身にぞ沁む 九月半ばの事なりき 世に恐ろしき殺人の
② 罪を犯せし其のひとは 陸軍大尉正七位 姓は甘粕正彦と 呼ばれて猛き丈夫が
③ 国を憂ふる誠心に 家をも身をも打ち捨て 社会主義者の巨頭と 世の人々に知られたる
④ 大杉栄を初めとし それに連る同志等を 殺害なして国の為め 根を絶ち葉をば枯らさんと
⑤ 大尉は深く覚悟して 己のが部下なる曹長の 森慶二郎と語らひて 密に時を待ち受けぬ
⑥ かかる手段のあらんとは 知る由もなき大杉は 妻の野枝子と諸共に 甥の宗一伴ひて
⑦ 鶴見を後に柏木の 家路に帰る道すがら 言葉巧みに誘ひて憲兵隊に連れ来る
⑧ 折しも秋の夜は更けて 鐘も無情を告ぐる頃 曾つて用意の大尉には 今は時こそ来れりと
⑨ 不意に襲ひて大杉を 絞殺なして次の間に 夫の身をば気支へる 野枝子も共に殺害す
⑩ ここに憐れや宗一は 共に果てなん運命とは 知る由しもなく無心にも 窓よりもるる星影を
⑪ 数へながらに居たりしを 情冷たき荒男 罪科もなき幼子を 無惨や其の場に倒しけり
⑫ 三つの屍は古井戸の 中より出でて恐ろしき (以下頁の欠落で不明)

 この歌が甘粕への同情と支持を訴える意図で作られたことは「噫々甘粕大尉の唄」というタイトルに明らかだが、さすがに幼い橘宗一には「無惨や」と書いている。欠落した部分ではどのように甘粕擁護へ転調させて行ったのか。欠落はもともとの落丁でなく古本に出てからのこととわかるので実に惜しい。
 なお甘柏の減刑嘆願は弁護士提出で五万人のほか街頭で六十五万人が署名したという。
 余談挿入。抜き写しをした歌本の発行者を湯川松次郎という。この人は昭和18(1943)年に小野十三郎詩集『風景詩抄』を発行した湯川弘文社を、昭和22(1947)年に同じく小野詩集『大海辺』を発行した弘文社を経営した。昭和大戦のさなかと戦後とに、ともに重要な小野詩集の発行者になった人が<大正>には通俗駄本を出していたということ。

 




岩波「現代文庫」と言えば
★いつか、書こうと思っていたことを、この機会に書いておく。

 『座談会 大正文学史』  柳田泉、勝本清一郎、猪野謙次編 (1965.4.20 岩波書店刊)
という、雑誌『文学』で連載された座談会を一冊にまとめた本がある。
その中の1章・「大正期の社会主義文学」に「近代思想」の文学的周辺という一節がある。 (p511~521)

 そこで、大杉栄の「婦人問題」について語り合われている。
 以下に引用する。 

*なお、発言者は、編集者と平野謙、中野重治、稲垣達郎である。


                 20070920185300.jpg


  「・・・前略・・・
猪野: 大杉栄の場合はいろいろと知人の問題がありますね。「青鞜」なども、途中から伊藤野枝が編集の責任者になっていくということもあるし。
勝本: 野枝の演じた役割は、幸徳事件の「管野スガの演じ」た役割と非常に似ていますね。それで管野スガという人が、かりに寒村と結婚した状態がつづけば、有村さんのほうが引き込まれて、ああいう事件における主役にったかも知れない……。(笑)
 中野: しかし、あれはどうしてそういうことになったのだろうか。あるいはどうしていまの勝本説が出て、それが
究極的にどうであるにしろ、いちおうみんなうなずくようになったんだろう。僕は伊藤野枝などという人は非常にお
もしろい人のように思う。管野スガのことはよく知らんけれども。伊藤野枝などは非常に激しいけれども、激しいだ
けではなくて、実際的な面もあった人じゃないかしら。
 勝本:  菅野スガの獄中書面が森鴎外旧蔵の写本「獄中消息」のなかに残っていまして、文章も情理もととのった立派なものですが、ヒステリj性格だったらしいことはいろいろ伝わっています。また大杉栄は「世話女房」という文章を書いているが、あれは野枝さんのことかしら。荷風の話ではないが、料理のうまい、世話女房タイプの女というのをえがいていますね。
中野: 家庭的な斜面もさることながら、つまり、あれがだれと結婚するにしろ、みんながもら少し実際に、自分たちの個人生活も連動も、いろいろにしてやりくりつけてでも、グッとやっていこうという腹があれば伊藤野枝というような人は、激しいものがありながら、それを逆のほうに巻き込むというようなタイプではないのだ。ああいうことは、お互いにだんだんあっちへいってしまったという感じではないですかね。

勝本: 大杉栄が結婚の条件として出している条件は、ずいぶん自分勝手なもので、つまりお互に、全部、生活的にも、経済的にも独立していくこと、それから、ほかの女といかに関係してもかまわない自由をもつということだとか、そういうことで、やはり女性側の人間性というものについての思いやりというか、それはぜんぜんない。非常に男性中心の自由論なんですね。それから女の人もその当時、青鞜派なんかの議論をみていくと、男女同権という観念が単純で浅くて、それも女性としての生理的条件を、全部無視している議論なんですね。
>
猪野: 「近代思想」のときは妻君の堀保子という人が・・・。
勝本:  編集していたわけですね。
猪野:  やはり広告取りとかそういうところでもいろいろやっていたわけですね。
勝本:  大杉自身も広告取りをやったのですね。
平野:  宮島資夫の「遍歴」のなかに、大杉栄の女性問題に対する批判が書きこんであるが、かなりはっきり書いている。しかし、大杉栄はよく知らないけれども、ずいぶん男性的というか人間的魅力があった人なんですね。
勝本:  文章もいい文章ですね。フランス語系の明晰さがあり、すかっとして線の太い、いい文章ですよ。
猪野:  大杉栄について書いた文章は、内田魯庵の追憶でも、佐藤春夫のでもおもしろいですね。やはり、あれは当人が魅力がある人物だったのだろうとしか思えないですね。
稲垣:  近代文学会の例会で、いつか「青鞜」の方に集まっていただいたことがあります。そのとき小林さんが、大杉はヘビのような目でじっと見るということでした。小林さんは、あまり立派な人ではなかったのではないか、と
いう説でした。
勝本:  だけれども、やはりその後のプロレタリア運動の分野で、やはり欠けていたある面をもっていたようですね。どうも中野さんを前にして悪いが。
中野:  君は、そういうことをよく言うのだ。(笑)
猪野:  ああやって傍若犯人に五カ国語で「どもる」というような形で行動すれば、だれでもかなり魅力的にみえてくるし、そういうところで得している点もあるかもしれませんね。(笑)
平野:  話はとびますが、辻潤とか、武林無想庵とかいう人はあの時分は「近代思想」との関係はどういうふうに位置づけたらいいですか。伊藤野枝と辻潤とは関係が深いわけですね。辻はわりに「近代思想]とも近かったわけでしょう。
猪野:  そうですね。しかし野枝さんの「転機」という小説など読んで、彼女が辻から大杉のところに移る道程には、その二人の思想上のちがいということが意外にはっきりとしていると思いましたね。
勝本:  これは幸徳以来の直接行動主義の誤解で、結局、大正期のアナーキストの連中だって、実に妙なものになっていったのです。金はゆするし、もらいにくるしといったような、妙なタイプになった。
平野:  しかし、通俗モラルなどを踏みにじることを建前として、何をやってもかまわないのだというところがあったのではないですか。
勝本:  ただ、それも個人的な自堕落な生活に結びついてくる。そして自分の身を亡ぼすことになる。これがマルクス主義の陣営にも伝染してきて、早い話が、昭加期になって「無産者新聞」の末端にいた連中などでも金がなくなると、どれ集金してこようかといって、文学者のところで金をねだり、しかも自分のふところに皆人れちゃうわけです。金を出したほうでは、自分の名前が出ては困るので、文句はいえない。受け取りの名前を新聞に出しておきますよ、などといっておいて新聞には「鈴木なんとか金十円」と出す。かりに十人から百円集めてもそれを共通の一人の鈴木なんとかの名前にしてしまって、九十円は自分のふところに入れてしまうんです。アナーキスト連中のやったことの悪い遺風が、ずいぶん後まであったように思うが、やった人自身から僕ら直接に話を聞いていますがね。
猪野:  もうひとつだけ大杉について言うと、「近代思想」なんかも、軍人であった親父の扶助料を幾らかあてにして発刊したということもいってるし、ご本人は幼年学校出身で、フランス語もそこからとってきたようなものだし、それで殺されるのも憲兵に殺された。というわけで日本の軍隊との妙な関係がありますね。それは本人もやはり意識していた面があったでしょうかね。
中野:  どうかな、それは。意識したことがないとは思わないけれども、大きなファクターではないのではないかな。軍隊宣伝なんてことを、あの人たちもやったことはあると思うけれども、その関係からということはないでしよっ。それから「白樺」の評価かあるのだが、「白樺派」の人たちでも、実際に文学者としての挙措、それから思想のうえで結びついた関係がいちばんあるのは有島武郎ではないかしら。大杉だけではなくて、「近代思想」の人々、その他の人々がいいころ加減な気持で言ったことでも、白樺派のなかでは、有島がまじめに受け取って、自分のなかであれこれところがしていったということはないですか。
平野:  有島武郎が本気になって文学者になろうと思ったのは、奥さんが死んで、お父さんが死んで、つまり大正五年以後のことですから、「近代思想」は既に廃刊になっている。つまり、有島武郎ん接した社会主義者のひとたちは、「近代思想」より少し後ではないですか。
・・・以下略・・・・ 

 
 ●勝本清一郎の発言(↑上の青い色の部分)に対して、秋山清は『展望』誌(筑摩書房)1975年10月号に発表した文章で追究した。 (続)
 *******************

 

<続> 今、梶山季之を読む(4)
●死神も不公平なのか 
              
                   20070920125343.jpg


 私にとって梶山季之は、一種奇妙な知己であった。彼の小説の材料を提供したり、その主宰した月刊誌「噂」に、坂本篤氏との対談『口伝・艶本紳士録』を一年半もえんえんと連載したりという、ごく密接な関係だったのだが、酒席をともにしたこと‥ただの一度、それもたまたま同じ店で会って、三十分ほど話したきりなのである。
 やたらと樽で広島の漬物を追ってくる、しかもそいつがどういうわけか二樽つブざまで、まことに閉口させられた。すこぶる愛郷の人であって、金箔の入った加茂鶴が、これも予告なしに仕事場に届いたり、やはり地元の何やら頼りないフワフワした煎餅が、「広島の名菓であります」と解説つきで、これも食いきれないほど配達されたりするのであった。

 「ルポライターをやめないあんたを、俺は尊敬するし、呆れてもいるよ」といわれた。銀座の飲屋で会ったときのことである、先に帰った彼は、黙って私の勘定も余分に払っていった。
 おととし東南アジアヘの長い旅に、私が出立する三日ほど前に、人を介してドル紙幣の賤別が届いた。世間並みのつきあいの常識をこえたそれは額であった。
 山谷の騒乱事件で逮捕され、琉球独立の旗を掲げ、在韓被爆者の救援をとなえて窮民革命の夢想に狂っている私を、「あれじゃ貧乏するよ」と半ば嗤い、半ば羨んでいたのだろうと思う。

 丈夫、志あるも・::・、最後に会ったのはこの四月十六日、丸山邦男の出版記念パーティの席上だった。ほんの二言、三言私の派手な背広をからかって、「田辺茂一か竹中労か、もう若返りたいトシになったの?」と、彼は上機嫌であった。
 そして、「あれ、ほんとにあんたが黒幕なのかい」とも、。「あれ」とは爆破事件のことである。昨年十月、太田竜の逮捕にからんで、私は家宅捜索をくらった。梶山にとってはそのことが、いささかの心の負担であったのだろう。「いよいよ、本格をやるよ」、パーティの雑踏を縫ってもういちど私のそばにきて、それだけをいうと、大股に歩み去っていったのである。その志を果さずに、梶山は異郷で不帰の客となった。
 しかしライフ・ワークと意気ごんでいた、大河小説を完成しなくとも、いやむしろ異端の作家として生涯を早く了えたことで、彼の文学は永遠なのである。
 梶山季之の告別に私は行かなかった。この稿で挙げた知己・友人(*吉田史子、若林美宏、神山茂夫、南部僑一郎、木村禧八郎、児玉隆也のこと。 )、いずれの葬祭も、私は参列しなかったのである。生前、当人が「葬式は無用」といっていたからではない。その日、師、南部僑一郎の蔵書を、古本屋に競売することになっていたからなのである。新聞で知った葬儀の日取りに、繰り合わせることは不可能であった。
 児玉隆也の場合は、徹夜で原稿を書いて仮眠からやっと目覚めた午後、彼の葬儀がその日行われるという新聞記事を見たのだ。南部慎一郎の告別式の日、日本列島は大雪であった。私は博多の空港で足どめをくらい、むなしく天を睨んでいた。神山茂夫のときには前述したように、沖縄へむかう飛行機の中にいた。吉田史子も、若林美雪も、その死を聞いたのは旅先であった。木村禧ハ郎もまた然り、知己の死と私はすれちがう宿命にあるのだろうか? 高橋鉄氏の場合も、新聞の誤報で葬儀の時刻がちがっていたために、辛うじて骨上げに間にあったのである。人の生は寄するがごときのみ、儀礼としての告別に、かかずらうことはないとも思うが、やはり悔いが残る。
 一人、神山茂夫をのぞいて、故人はなべて売文の場で縁をむすんだ先達であり、同輩であり、後進であり、。「恋人」であった。木村禧ハ郎にも、トップ屋時代のインタビューが機縁で、知己を得たのである。それは、私のもの書きとしての長く、かつ多様な営為が、人々の死に出会わねばならない、一期のサイクルを迎えた、ということであるのだろう。
それにしても梶山・四十五歳、児玉・三十八歳という年齢は、あまりに夭(わか)すぎはしないか!
 ー方には消えようとする生命を、現代最高の医学とやらで、″奇跡的に々支えられている政界の長老がいる。権力の側にあるものと、それに抗うものとには、死神も不公平などと、私は思ったりするのだ。

 忽ちにして人散じ  寂として謀無く

 投老  方に知る行路の難
     1975・5・30(1975 『別冊小説新潮』梶山季之追悼号)
 

 



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。