カウンター 読書日記 2007年07月
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危機の構造は不変!これからが正念場だ。
 ★まさに、これからが正念場。
 そこで、再びDr藤原肇にご登場いただく。

 
『日本が本当に危ない』藤原肇著
(エール出版社・1994年06月25日初版発行 本体価格1262円+税 )より。
 ********************
 
<はしがき>から。

 目の前で進行している政治や経済をはじめにした日本の社会変化は、地質用語の地殻変動という言葉がピッタリなほど、猛烈な勢いで激しく揺れ動いており、ことに太平洋の対岸の米国からは鮮やかに観察できる。
 より具体的なイメージで表現するならば、日本列鳥全体が嵐の海に翻弄される小舟に似ており、波頭の上から波の谷底に落ち込んだり、次の三角波に気づかず進もうとしている状況は、はらはらする気持ちを抑えるのに苦労するほどだ。それにしても、日本列島の中で船の揺れに気付く人もいれば、レストランのご馳走に舌鼓をうって満足中であったり、バーでほろ酔い気分でカラオケに興じている者もいて、人さまざまな快感や時代精神が読み取れる。アメリカから小舟に似た日本列鳥を観察する私の目には、頭の中に衛星写真で組みたてた気象図があり、気圧配置が世紀未の低気圧の発生を示し、風に煽られ海が荒れ始めている様子がよく分かる。
 だから、こんな時期には船出の代わりに雨戸を閉め、晴耕雨読の古人の教えに従って思索したり、普段は疎遠な家の内外を整理したらいいと考えて、そんなタイプの本を過去十数年にわたって上梓してきた。
 船長や航海士をはじめ船員一同の腕が確かであって、仕事への責任感や見識がたとえ優れていても、嵐の前の船出や暗礁地帯に針路をとるのは無謀だから、私はかつて『日本不沈の条件』や『無謀な挑戦』と題した本を書いたこともある。
 だが、最近はこの船の行方を論じなくてはならなくなった。それにしても、乗客たちは楽しみに興じるのに熱中しているし、サービス要員の公僕はチップの計算に忙しく、取材のジャーナリストまで酩酊加減なのも、気がかりになって仕方がないのである。
 そんな描写だけでは真面目な読者に申し訳ないので、全体の流れを日本で普通に行われるのと逆の方向に、上位概念の側から下位概念を捉えていくという、総合に基づくシステム思考の応用を試みてみた。
 そして、文明論的な側面で嵐の危険性を浮上させることが、今の日本の実態を明らかにする上で最も大事だと考えて、本書を現時点で読者の批判に供した次第である。 一九九四年五月 藤原肇
 *******************

 何とも胡散臭い児玉、小佐野、中曽根、笹川、そして小沢と続くCIA人脈
 共通する放置現象として思い出されるのは、児玉誉士夫、小佐野賢治、中曽根康弘、笹川良一など疑惑がらみで注目された人物が、多くのスキャンダルでも厳しい追及も受けず、奇妙な具合に逃げのびてしまった事実だ。
 これらの人物は謎に包まれた影の部分を持ち、CIAとの特殊な繋がりを取り沙汰されたものだが、この中に最近やたらに不審な行動が目立つ小沢を加えるなら、何ともウサン臭い人脈のパターンが浮かび出す。
 日本の検察には奇妙な不文律が伝統としてあるようで、CIA絡みの事件は国際上の取り扱いや、厄介な日米政府間の暗黙の了解により、できるだけ介入しないことになっているとか。だから、M資金絡みの事件は解明された試しがないし、大蔵省には絶対に摘発の手が伸びないとヒントをくれたのは、「日本の黒い霧」でそれを追った松本清張だが、似た話を私は別のいくつかの情報筋から聞いている。
 そんな話を下敷きにして思い描くなら、湾岸戦争の時に自民党幹事長だった小沢が、アメリカに約一兆七千億円の戦費を貢いだ時に、それを取り仕切ったアマコスト駐日大使が、外交官よりCIAエージェントとして動いた点が気になる。
 しかも、CIAは政治家やフィクサーの弱みを掴んで、それを利用して政治を動かす戦法を得意にしており、麻薬がらみで米国に拘留されたパナマのノリエガの自白や、池田大作とノリエガの密着関係の背後に、未だ誰も指摘しない不吉な影が見え隠れしている。
 池田はパナマに出向いて公園を寄贈したので、ノリエガは池田に友好勲章を授けているし、お礼に創価学会は富士宮にノリエガの銅像のある公園を作っている。また、新日鉄の大将が第二パナマ運河計画に熱を入れ、新日鉄釜石のレジャー投資の関係で、岩手の小沢が便宜を図ったことから、小沢はパナマの縁で創価学会と密着し、そこをCIAが押さえたとも言われている。また、池田コネクションで創価学会の資金と結びつき、不用意に見せる最近の小沢の高圧的な姿勢が、得意満面とした時期の中曽根に二重写しになり、国民は安心していられなくなるのである。
 
 *******************
 ●マイケル・アマコスト
 米ブルッキングス研究所所長
 ミスター外圧、アジア外交左右
 駐日米大使の任にあった89-93年は、日本にとっても、かつてない構造変化が訪れた時期だった。湾岸戦争に際して、日本の自衛隊派遣など大胆な国際貢献を迫り、日米構造協議では大規模公共投資や各種規制の緩和を求めたアマコスト氏は、「ミスター外圧」の異名で知られた。

 68年、国際基督教大の客員教授として来日。72年にはインガソル駐日大使の特別補佐官として再来日し、対日外交のスタートを切った。以後、国防次官補代理、国務次官補、フィリピン大使、そして職業外交官としては最高位である国務次官と、一貫してアジア外交に携わり、金大中事件、フィリピンのアキノ革命でも主要な役割を果たした。
 外交官として、米国の国益を徹底的に追求し、時には政界実力者に直接、要求を突きつけた同氏は、日本にとって、ともすれば煙たい存在だった。半面、最近の「日米マクロ経済摩擦」は、耳に痛い話を「外圧」の一言で片づけようとする日本の体質に変わりがないことも物語っている。米コロンビア大博士課程卒。
 ********************

 小沢と当時駐日大使だったアマコストとの親密ぶりは有名で、湾岸戦争に100億ドル(1兆円以上)を差出して協力した。

 当時の小沢のアマコスト「崇拝」は、事務所にアマコストの写真をこれ見よがしに飾って悦に入っていたことで、その程度=レベルや政治傾向が知れるというものだ。「民主」と最も遠くに住んでいる人物かもしれない。党名はとんだブラックユーモアか。
 こんな彼が、いまや、国民の90%に喃喃とする庶民の味方であろうはずがない。

 ★<自・公>か<民主>かの選択に国民の政治レベルが留まっている限り、アメリカには痛くも痒くもない「茶番劇」にすぎないのは厳然たる事実。
 これからが正念場なのである。 
 

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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)ー1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)
 日本近代化事業の重要場面に差す「ワンワールド」の影

★井上友実と「日本鉄道事業の父」井上勝

明治維新の最大の人物の一人でありながら茫漠として実像の掴めない吉井友実を調べていると、近代的事業の中でも鉄道と貨幣鋳造、駅逓などの事業がワンワールドとの関連が深いように思えてくる。鉄道といえば 「日本鉄道事業の父」と呼ばれて、今も東京駅頭に銅像が立つ井上勝が、ワンワールド一員であったことは間違いない。
井上勝は前月号で紹介した兵学者武田成章の弟子であった。武田は文政10(1827)年生まれの旧伊予大洲藩士で、緒方洪庵の滴塾で蘭学を学び次いで佐久間象山の門弟となり、 洋式兵学を学んだ。象山の推挙で幕府に出仕し、函館開港に際してペリー提督の応接員として函館に派遣されたが、そのまま同地に留まって、函館奉行の下で諸術調所教授となった。函館時代の武田の弟子には井上勝のほか、「日本郵便制度の父」と呼ばれる前島密(のち男爵)がいた。
 井上勝は長州藩士出身で、天保14(1842)年生まれ、実父は藩の重職にあった勝行である。安政2年、相州警備に行く実父に従い、2歳年上の伊藤博文と知り合う。安政五年、15歳にして長崎海軍操練所に学び、翌年江戸にて砲術を学んだ。作間芳郎『関西の鉄道史一蒸気車から電車まで』には「長崎の海軍伝習所に藩から派遣され、その後長崎や函館で英語を学び……」とあるから、函館に脚を延ばしたのは、砲術習得のために武田門下に入る目的だが、英語履修もしたのなら、4年後「長州ファイブ」の一員としてイギリス密航した際にはさぞ役立ったであろう。
 因みに、英語・蘭語・仏語など語学に秀でた武田成章は、兵学者と呼ばれているが、本領は砲工部門であった。この部門は、陸軍の中でも特にワンワールドが関与する領域である。上原勇作が少年時代に武田の塾に通ったのも偶然ではなく、陸軍幼年学校長の武田を善く知る教導団長高鳥鞆之助の計らいと思える。理由は高島が吉井を通じてワンワールドに加入していたからで、武田も緒方洪庵の線でその道に入ったものと見られる。
 長州ファイブとは文久3(1863)年5月、長州藩を脱藩して渡英した志道間多(後の井上馨1835~1915)、山尾庸三(1837~1917)、伊藤俊輔(後の博文1841~1909)、遠藤謹助(1836~1893)及び野村弥吉(後の井上勝・1843~1910)のことである。翌年、志道と伊藤は四カ国の下関砲撃を防止するため帰国するが、他の三人は残留する。
 野村弥吉(在英中復籍して井上勝)はロンドン大学で採鉱・鉄道を学び、明治元(1868)年1月に5年ぶりで帰国した。翌2年、右大臣三条実美邸において、大納言岩倉具美・外務郷沢宣嘉と英国公使パークスとの間で鉄道起業の会談が行われた際、民部郷大隈重信・大蔵小輔伊藤博文も列席したが、通訳をしたのは洋行帰りの井上勝であった。同年10月、井上勝は井上馨の後を継いで大蔵省造幣寮造幣頭(造幣局長に当たる)に挙げられ、民部省鉱山司・鉱山正を兼ねた。造幣頭を辞めてから鉄道事業に打ち込んだ井上は、明治4年に鉄道頭に就き、翌年には新橋-横浜間で日本初の汽車を走らせる。後に鉄道局長官になった井上は、その功績により明治20年、子爵を授爵する。また井上は、小野義信・岩崎弥之助とともに明治24年、火山灰土の原野を開墾し欧州農法に基づく小岩井牧場を創立したことでも知られる。
日本の鉄道事業は、西南戦争後の財政危機から、鉄道民営策が検討された。これに対して工部少輔兼鉄道局長兼技監だった井上勝は鉄道国有主義を持し、明治14年、工部卿佐々木高行に対して「私設鉄道に対する鉄道局長論旨」を提出し、民営鉄道の利益優先主義は日本の鉄道の理念に反するとの主旨を述べた。政府内はもともと鉄道国営論が強く、鉄道開設の準備として東京―高埼間の測量から始めていたが、西南戦争後の財政難で工事の着工が遅れたため、民間資金による鉄道の早期開業を求める動きが生じ、14年(1881)8月1日、岩倉具視を始めとし、華族などが参加して日本鉄道会社が設立された。宮中勤め一筋だった吉井友実が12年に工部小輔・同13年に工部大輔(国交省次官に相当)を兼ねた事情は未詳だが、明治政府にて極めて重要な意味を有していた鉄道民営化に関したことは確かで、15年に宮中から出て日本鉄道会社の長に就く。日本鉄道は川口―前橋間から建設を開始し、16年7月28日、上野一熊谷間を開業し、その後も路線を増やしていった。この2年間に鉄道事業が軌道に乗るのを見た吉井は直ちに辞職し、17年7月に伯爵に叙されると同時に元の宮内大輔に戻り、24年までその地位に在った。宮中奉仕に終始した吉井が例外的に工部(建設)行政と鉄道事業に関与したのは、ワンワールドからの要請に応えたものだろう。
 

 *******************
  <追記>
 広瀬隆の新刊『持丸長者 国家狂乱編』(ダイアモンド社2007.7.26刊)に、
 ★第三章 鉄路は伸びるー「鉄道の父」井上勝として、興味深い一文の記述がある。
  御参考までに。
 




『名前のない花』
印象的な一章から、引用する。「身につまされる病と海に救われた体験」もあるせいで。

● 君よ、船の舳先を上げて走れ
 毎年夏になると、どうも子供のように落ち着きがなくなる。沖縄の海と魚が呼びはじめるからだ。昨年の夏も沖縄で釣った魚のことを書いているように、ここ十年大物釣りのために沖縄に通っている。
 私が沖縄の先島(沖縄本島以南の島々を指す)に最初に行ったのは沖縄の本土復帰直後だから(*1972年著者27歳)気の遠くなるほど昔の話だ。今でこそ沖縄というと猫も杓子も馳せ参ずる夏場の定番となっているが、当時は旅行者はちらほらしかいなかった。
 私は仕事をやっているわけではなかったので何をするということもなくあたかも風来坊のように2カ月ほど島々を巡った。沖縄先島最西端の与那国島はまったくの辺境で宿泊場所を探すのにも骨が折れた。久部良(与那国には租納と久部良というふたつの村がある。久部良はおもに漁業によってなりたっていた)で泊まったところは地元の小さな沖縄そば屋の二階の六畳の間だった。南の壁のガラス窓がすっぽりとなく、まるでスクリーンのように風景の見える大きな四角い空間が空いていた。そのスクリーソからは南の海が遠くまで見渡せた。

朝寝ているといつも暗いうちから、開け放した窓から無数のエンジンの音が聞こえた。眠い目をこすりながら窓の外を眺めると、南の海に向かって一人乗りのサバニの群れがいっせいに出航するのが見える。当時漁船と言えばみな船体全体が弓のように反り返った沖縄独特のサバニという船で(今は与那国にサバニを操るものはいない)、それが群れをなし、波を切って沖に向かう姿は壮観だった。
 窓のスクリーンから船影が消えると、やがて空に光が射し、太陽が昇る。積乱雲がむくむくと立ち上がり海はギラギラと輝きはじめる。だが強烈な太陽の圧力によって地上の音のすべてが封印されているかのようにその風景から音は聞こえてこない。やがて太陽が頭上に昇る頃、海の遠くからかすかにエンジン音が聞こえる。目をこらすと目映い太陽の光の道のなかに黒い点景が現れる。影は次第に大きくなる。やがてその影は一隻のサバニの形状を結ぶ。
 漁を終えた一番船だ。
 船の影はあたかも勝ち誇ったかのように切っ先をツンと天に向けフルスピードで波を切っている。大きなカジキマグロがどすんと載っているために船の切っ先は大きく立ち上がるのだ。その姿は途方もなく凛々しかった。

私は一番船が来るといつも部屋を飛びだし桟橋に走った。
船がぐんぐん近づいてくる。
船が桟橋に横づけされると巨大な魚体が眼下に横たわっている。方々に擦れ傷のある魚体には幾重にも太いナイロンのラインが食いこみながら巻きついており、死闘のすさまじさを物語っていた。魚はあたかも自分の突然の不慮の運命に驚いたかのように煌々と目を剥いている。死闘の興奮のまだ醒めやらぬ漁師は包丁を取り出し、肉に食いこんだラインをひとつひとつ切り離す。漁師の手はわずかに震えている。それは手が長時間怪物の強烈な引きに耐えていたであろうことを想像させた。彼は無言のまま最後のとどめを差す。すでに息絶えているかに見えた魚の脳天からドクドクと血が噴き出し、それは苛烈な日差しを受け、南国の夕日のように真っ赤に輝く。私は命と命の闘いと美をそこに見た。
 大物釣りにあこがれたのは、あの瞬間がきっかけだった。その凛々しい漁師の姿を見て、単純な私は「こんな野郎になってみたい」とそう思ったのだ。
 以降長年海外に滞在し、沖縄に行くことはなかったが、目本に腰を落ち着けるようになった十年前からあの時の思い醒めやらず、沖縄通いがはじまった。
 しかし、釣れない。
 当たり前だ。
 大物釣りは、こんな野郎になってみたいというようなミーハー気分で成就するような生半可なものではない。体力とねばり。果断と細心の注意。綿密な海と気象の読み。精密に神経の行き届いた仕掛け作り。そして釣れた時の駆け引きと十全なテクニック。人間の持つあらゆる″武器″が必要とされる。
私にあるものは強いて言えばあきらめないねばりくらいのもので他に持ち合わせているものは何もなかった。それなりの勉強はした。しかし大物釣りに関しては勉強はただの気休めにすぎない。
 私はただただ十年間、来る年も来る年も敗北した。そして疲れ切った背中で沖縄をあとにせざるをえなかった。
 二年前そこにとつぜん救いの主が現れた。
 救いの主といっても普通のオヤジである。彼、岩井さんは、漁師ではない。名古屋で工場を経営する中小企業のオヤジだ。しかもたった四年前に大物釣りをはじめた。年齢は七十に近い。リタイアし、工場は息子にまかせ、当人は沖縄通い釣り三昧。
 岩井氏が沖縄に最初に行ったのはまったく違った動機からだった。五十代の時、彼は重い胃潰瘍を患った。いずこの病院に行っても治らなかった。考えあぐねていた時、ある人から海に潜ってみたらと言われた。沖縄に行って恐々と潜った。不思議なことが起こった。一週間もすると胃の痛みが取れ、帰る時には胃潰瘍はすっかり消えていた。それが沖縄通いのきっかけだった。しかしいつしか治療目的の海は純粋に潜るための海に変わっていた。
 彼の工場はキャブレターのガソリソ噴き出し口の小部品などの金属加工のようなことをしているらしい。研究熱心な彼は血を吐くような努力を重ね、常に業界トップの製品を作り続けた。おそらくそのきわめて日本人的なきまじめさが胃潰瘍の原因と思われる。しかしやがて、何事においても追求を怠らない彼は潜りの世界をも極めるようになる。先にりールのついた水中銃を自作し、とてつもない大物を突いて周囲を驚かせたりした。
 その彼が四年前から自前の釣り船を手に入れ、釣りに挑戦するようになった。なぜか瞬く間に大物を釣った。あの人は漁師が釣れない時も釣るとの評判が立った。私は人から紹介されその船に乗り合わせる幸運に恵まれた。
 私は彼の釣りのスタイルを見て驚いた。
 まったくセオリーに反していたからだ。
 ここでその一部始終を公開するのはばかられるので一例を挙げるなら、こんなもので数十キロ級の大物が釣れるのかと疑うくらい、あっけにとられるほど釣り針が小さい。真鯛をねらってもおかしくないくらいの針だ。しかしそこには長年金属を扱ってきた彼独特の理論があるらしい。彼の釣りを独特なものにさせているのは、あらゆる製品を独自の発想で開発してきた、そのモノと人との関係が釣りにも応用されていることだ。もうひとつ彼の釣りを独自なものにさせているのは、彼は長年潜って魚の目で海を見ていたということだ。
 たとえば彼は、海に垂れた釣り糸のどの種類の釣り糸が魚の目に見えにくいかということを知っていた。そして何よりも巨魚がどのような泳ぎをする小魚を好むかを知っていた。それは意外なものだった。群れをなす小魚の中で泳ぐ力の衰えた魚をねらうのではないかというのが普通考えがちなことだが、そうではなく勢いのある魚を巨魚はねらうのである。
 大物を釣る時は沖縄ではグルクンというイワシくらいの魚をまず釣って、それを泳がせるわけだが、彼は手綱を引くようにラインをちょんちょんと手で引っ張って魚を勢いづかせる。彼の話によると45度くらいの角度で勢いよく底に向かって泳ぐ魚に大物が来るという。
 彼の釣りは人生の成果であると言えた。彼がそれまで携わってきた会社での仕事、そして胃潰瘍によって覚えた潜り。そういった人生の流れの上に立った釣り。彼が釣りをはじめたのは4年前であっても、その前に膨大な蓄積があったということだろう。私は彼の釣りを倣うことによって一挙に大物釣りに開眼した。すでに去年から今年にかけて四本の大物を釣っている。 

さて私が岩井さんにかこつけてここで書きたいことは、じつは釣りの話とは他のところにある。人生の最後にあなたはどこにいるかという話だ。岩井さんはモーレツに働いて胃潰瘍になった。だが、そのことが晩年の彼を救うことになる。失礼な話だが、もし彼が胃潰瘍というストレスの病にかからずそのまま晩年を迎えたとするなら、ひょっとしたら悲惨な晩年が待っていたかもしれないとも思う。つまり長年自分を殺して働き、定年になって自由を与えられた時、その人生の空白がただの虚無に見えてしまう人はごまんといるわけだが、彼もその一員であったかもしれないということだ。
 私は岩井さんの船に乗り、真っ青な海を背景にして一心に少年のように釣りに夢中になる岩井さんの背中を見ながら、人間帰るべきところは「少年」「少女」だなという思いを強くするのである。
  




『名前のない花』
 順不同で、先ずは「あとがき」から。
 *******************
 エッセイ集は2000年に出した『映し世のうしろ姿』以来7年ぶりとなる。『映し世』の場合は新聞の連載をまとめたものだが、今回の『名前のない花』は方々で書いた原稿を収録したものとなっている。このなかにはホームページのブログで書いたものも含まれる。
 2002年に『空から恥が降る』というブログのみを1冊にまとめた単行本を出しているが、それ以降に書いたブログも1冊分を優に超える分量だったということもあり、当初はブログのみの本にするつもりでいた。だが目を通してみるといかにも荒っぽい。ブログというものはそういうものである。言葉遣いも荒っぽいし、思ったことをあまり咀嚼することもなく書いていたりする。添削もしない書きっぱなしの場合も多い。
 その荒っぽさがブログのまた良いところでもあるわけだが、今回はそれをそのまま活字にするというのはやっぱり違うのではないかという考えが生まれた。読んで味わいがあり、それを何年後かにまた読んでも古く感じさせない。そのようなものを作りたいという意識で選んでみると、それに耐えるブログはわずか二割しか使えるものがなかった。そういうことで当初の考えとは異なって新聞や雑誌で書いた原稿、書き下ろしや改稿したものを加えた。
 収録したもののなかには注釈をつけなければならないものもある。たとえば「誰かがいる誰もいないベッドの話」は以前アメリカを旅している時にも、偶然にもそれに類似した事件に出合っている。ひょっとすると西洋にはそれに似た犯罪ゲームの連鎖のようなものが存在するのではないかと想像もするが、本当のところはよくわからない。
 最近は細切れのエッセイを書く気がせず、依頼を断ることが多いので次にエッセイ集を出すのはまた遠い先の話になるだろう。そういう意味では貴重な本だと思っている。また私は自分の書いたものを大事に保存しておくという習慣がなく、かなりの記事が行方不明となっていた。あちこちに駆けずり回って集めてくれた編集の小島君の労に負うところの多い本だ。この揚を借りてお礼中し上げる。
  2007年6月    藤原新也
  >>ブログの「文章」はパロルであり、パロルをダイレクトに「ラング化」すると、ある種の、意識した話し手の「講演」でもない限り、雑になるのは、当然だろう。
 読者としても、極端に言うと、「迷惑」の限りである。
 それを(ダイレクト)を志向するには、むしろ音読にしてもらったほうが好ましいような気もするが、少なくともそれを、私は購入しない。
 *****************
 



『名前のない花』
  『名前のない花』 藤原新也 東京書籍 2007.7.9 1400円(税別)
                

 著者: 藤原新也 については下記のホームページで読めるが、一応紹介しておこう。
(東京書籍のHPより) 
当然のことだが、著者紹介文も一様ではない。
以前の経験だが、筑摩学芸文庫のバタイユの著者紹介の文章が違っていて、紀伊国屋の仙台支店長氏に問うたところ、「ちくま」の返事は「編集者の見解の違い」ということであった。(一書には「左翼」もう一書には「極左」とあったことについて質問した。)
同じ出版社の同一時期に文庫化されたものなので、疑問は残るが、「ちくま」らしいと今は言っておく。・・・

★ 1944年,福岡県生まれ。東京芸術大学油絵科中退。
インドを振り出しにアジア各地を旅し,『印度放浪』『西蔵放浪』『全東洋街道』などを著す。他に主な著作として,『東京漂流』『メメント・モリ』『乳の海』『アメリカ』『沈思彷徨』『ディングルの入江』『藤原悪魔』『ロッキー・クルーズ』『鉄輪』『映し世のうしろ姿』『末法眼蔵』『ショットガンと女』『空から恥が降る』『なにも願わない手を合わせる』『黄泉の犬』他,写真集に『南冥』『少年の港』『日本景伊勢』『全東洋写真』『千年少女』『俗界富士』『バリの雫』『花音女』などがある。
第3回木村伊兵衛写真賞,第23回毎日芸術賞などを受賞。
www.hujiwarashinya.com

<目次>

I 名前のない花

  誰かがいる誰もいないベッドの話
  汝,書初め汚すべからず
  寝子年
  小鳥寸評
  疫病神
  カニでタコを釣る
  ゴチャゴチゃ言わんと自分でやれ
  寒風
  サムゲタン
  出汁巻きの幸福
  ラーメン餃子は贅沢
  愛情の深度
  アルプスの臨界現象カレー
  第三の旅
  名前のない花
  赤い花の化石
  四国
  雲点
  語りはじめる植物
  昔の犬の散歩
  自給八百円で街の小さな太陽になれるって大したもんだ
  生け花のなかの小宇宙
  小さな花形見
  美と出会い,醜と出会う
  人生には覚醒世界と耄碌世界というふたつの世界がある
  フーリガン
  鯨のことなので放っておけない
  小さな心温まらぬ虐待
  世界の中心であっと叫ぶ
  ラッコ猫のお目覚め
  湯牧民の悲哀
  海のコンチクショーめ!
  君よ船の舳先を上げて走れ
  スズムシ
  荒海と雑草のゴルフ

II 愛国心と愛民心

  瀋陽事件に見るボケの社会学
  一億総無責任時代のなかの「自己責任」の大合唱にはゾッとするな
  境界を越えない男たち
  一国心中考
  日本人の甘いチベット観
  ロンドン―トウキョウ直行便にならなければいいのだが
  デジタル化する人間の「眼」
  なぜ殺しあう,母と娘
  エルヴィスの亡霊
  群れなす感情増幅の時代
  越境する超身体
  二十世紀最後の仕事
  報酬系と罰系
  愛国心と愛民心
  貯める臆病と捨てる勇気
  泣きなさい,笑いなさい
  昨日のオペレーター
  選挙ポスター
  臨死万相,殺生不一
  チベット――音のない銃撃
  いじめという集団の自傷行為
  海士の声

あとがき
初出一覧
 
 以下、紹介=引用していく。

 



『日本の危険』を読み直す。(3)
  引用を続ける。
 誤字等、御寛恕を。後ほど訂正します。


 私はむやみに人を批判するものではない。この中曽根式西洋崇拝、アメリカイカレが日本に及ぼしている惨害に、心が痛むからである。今の日本の物心両面の軽薄なアメリカ化は、中曽根首相登場以来急速である。日本人は従順にエライ人を見習うのだ。いろいろの面で、これは日本を心の内面から打ち壊しつつある。
 日本の文明と社会は、アメリカなどとは比較にならない、本源的に高度なものである。どうしてそれが、この学校秀才にわからないのか。
 以前に首相であった鈴木さんも、大平さんも、私は好きである。池田首相は偉かったと思っている。田中首相さえも私は弁護してきた。だが東條と中曽根首相だけは、彼らが出現した途端、私の心に突きささるものを感じた。一昨年暮から、私は中曽根首相に、なるべく早くおやめなさいと書いてきている。東條と中曽根両人の像が、私の眼底に二重写しになるからだ。
 中曽根首相は早く速陣する方が日本のためにも、本人のためにもよい。もし彼が手練手管で延命を計ってゆけば、大変な事態が起こりかねない。彼の歴史評価は東條をはるかに下回ることになる。

★ 本を書く冥利と書えようか、私のところには読書からいろいろ手紙が来る。たいていは返事を出すが、その中には居所不明で返ってくるものもある。それらはきまって、米国はこういう陰謀を日本に仕かけている。これをあなたの筆で日本国民に知らせてもらいたい、とする趣旨のものだ。そんな方々の純真な気持ちを私は敬重するのだが、最近来たものの一つを次に掲げておこう。

 馬野先生にお便りをするのはこれが二度目なのですが、前回の手紙が届いたかどうか自信がありません。(注・この手紙は出版社経由だったので心配をしたのだろう。その手紙は頂戴している)前回の手紙の趣旨をまず繰り返させていただきます。
 『アメリカ不自由通信』松浦南司著・同友館刊
 『ウオッカーコーラ』チャールス・レビソン著・日本工業新聞刊
 『ロックフェラー帝国の陰謀JG・アレン著・自由国民社刊
等々の本を是非御一読下さい。これらの本には、アメリカ支配層の総司令部、外交問題評議会 (注・第四部の、The Council for Foreign Affairsのこと、ただしこれは現在ではすでに公然機関になっていて、伏魔殿は別にある)とロックフェラー財閥の実体が描かれています。
 馬野さんや藤原氏(肇氏)がお気付きのように、アメリカエスタブリッシュメントは、日本をそっくりそのまま乗っ取って、アメリカ資本の支配下に置いてしまう戦略を開始しています。TOBによる日本乗っ取りこそ、アメリカ対日戦略の本番です。
 アメリカはすでに日本国内のCIAエージェントや、ロックフェラーが主宰する三極委員会を使って、日本国内でも日本乗っ取りの布石を着々と打っているのです。
 行革の目的は日本の景気を悪くするというよりも、米国が日本に「再進駐」しやすいような環境作りにあります。NTTを民営化してIBMのネットに取り込む。反米勢力である国鉄、三公社の官公労労組の力を弱める。農地を自由化して穀物メジャーによって日本の生命線を押さえる。官僚組織を攻撃して米国のような企業支配型社会に日本を変えていく。
  その後に来るのがTOBです。
 ロックフェラーと外交問題評議会は、日本を単に叩くのではなく、米国の体制の中にそっくり吸収しようと考えているのです。つまり米国の産業ソフトによって、日本産業のハードをそっくり支配下に置こうというわけです。
 レーガン大統領は外交問題評議会ではなく、それに反対するニューライト・グループの首領です。
 しかしブッシュ、シュルツ、ベーカーといった連中はすべてロックフェラー直属の部下なので、レーガン政権も内部はこの外交問題評議会に蚕食されていることになります。レーガンが権力の座を退ぞいて、ブッシュが大統領になり、口ックフェラーの大番頭であるキッシンジャーがふたたび権力の内部に復帰する時が、米国の日本吸収策が発動される時です。
 米国の支配層が夢見る日本とは、米国と統合され、事実上そのマスコミと主要産業が、ロックフェラー財閥の支配下に入った国なのです。そしてその移行は日本国民がほとんど気付かないうちに行われるかも知れません。
 ある著名な出版社、新聞社、通信社はCIAコネクションに通じるメディアですが、彼らはソ連の脅威を煽って、米国と一体化することこそが、日本の安全であると日本人に信じこませようとしています。これが彼らの手なのです。
 日本は早くあの中曽根という売国奴を叩き出して、ロックフェラー財閥との戦いに備えないと、えらいことになります。今は目醒めた人開が全力で警鐘を打ち鳴らさねばなりません。
 馬野さんは教祖的影響力と大局を透視しうる能力を持っておられます。小学館、光文社等のCIAの手が入っていないメディアを舞台にして、日本人に警告して下さい。
                       (以上昭和六十一年五月九日受取分)

馬野周二先生に再三お便り申し上げますのは、私の抱いている危惧を本当に理解していただけるのは馬野先生以外にないと考えるからです。
 米国の支配者は、ロックフェラーと外交問題評議会は、空洞化した米国の生き残りを計るために、日本を吸収し、属州化する計画を進めているのです。
 現在米国に横行している日本アンフェア論は、日本に政治的圧力をかけるために外交問題評議会が煽動したものです。
 彼らはまず、日本に対して市場開放の圧力をかけて、TOBと穀物メジャーによって日本の情報と食糧を押さえることを狙っています。行革と「第二のマッカーサー改革」と言われる日本改造計画がそれで、これは日本国内の日米欧三極委員会のメンバーとCIAエージェントが、米国からの外圧と呼応して日本を米国支配下に組み込もうと策動しているのです。ゲーリー・アレンによれば、外交問題評議会は日本と極東の産業を乗っ取るために、第二の恐慌を準備しているらしいということです。
 最終的に彼らが考えているのは、日本に対して経済政策、金融政策で主権を放棄させ、日米の通貨を一つの単位に統一することだと思われます。これが米国の産業ソフトで日本の産業ハードを支配する、外交問題評議会の目標です。
 そのために彼らは日本を米国にさらに強く結び付け、アジアと切り離す政略をとってくるものと思われます。この戦略が完了すれば、日米韓がひとつの経済圏として、米国資本の下で統一されることになりますが、これは日本が民主主義的主体性を失って、米国なみの暗黒国家になることを意味します。
 私の考えでは、これを防ぐ方法は二つあると思います。一つは日本がみすみす金をドブに捨てるような米国への投資を止めて、日本国内での投資を増やすことです。そのためにはCIA政権である中曽根政権を早く叩き潰さねばなりません。
 第二には円を決済通貨とする「円経済圏」を西太平洋に作ることでしょう。必要ならば中ソを入れても良いと思われます。日本が米国の日本吸収戦略を打ち破るには、これしか方法はないと思います。馬野先生はどうお考えでしょうか。
いずれにせよ激動と日本の危機は追っています。その以前に再びお考えを世に問われるようお願いします。
                      (以上昭和六十T牛五月二十一日受取分)
 
この手紙の主は比較的若い、純真な人と思う。民間企業に勤めている人ではないようだ。なにぷん住所姓名がわからないので返事を上げられないが、内容は本書の読者に打って付けと思われるので、ここにそのまま掲げて、次に返事の形で、私の見るところを述べよう。

 ***************

四度もお手紙を戴いて誠に有難く存じます。ただ手紙には必ず自分の姓名、居所を明らかにするのが礼儀であることを忘れないように。さもないと、世に憚る特定の集団に属している人が何かの意図を持って書いたものではないかと思われて、かえってあなたの目的に合わなくなります。
 さてお知らせの三書はよく読んでいます。Gアレンの著書をすいせんした反ロックフェラーの口―レンス・マクドナルド下院議員は、大韓航空機機事件で亡くなりましたね。この機にはニクソン元大統頼も于約していたのですが、直前になって他の便に変更したという話もあります。大韓機事件が、やらせであった可能性が高いことを、私は『アメリカは信頼できるか』で主張しています。新しいところでは、チェルノブイリ原発事故は西側機関の仕掛けた爆発物によるものという説も巷間にあるようです。逆のケースは、ソ連・ブルガリア系統のアリ・アガによるローマ法王暗殺もあります。ケネディ暗殺の黒幕は誰れだったのか。
 いざという時に、日本の原発がCIAなりKGBの手先によって内部から爆破されたらどうなりますか。あるいは東京湾に入ってくるLNG船の場合も同様でしょう。
・・・(続)・・・

 



『日本の危険』を読み直す。(2)
<引用>始め。
序にかえて
馬 野 周 二
 その人の専門が何であれ、いささか一事に悦わって甲羅を経ると、何だか万事に通じる「感」のようなものが育ってくるもののようだ。本書の典著者の藤原氏も払も、以下を読み迎まれればおわかりのように、科学技術者である。外国で活動してきたという点も同じだ。
 ところがハ○年代末から今世紀末にかけて、日本も含めて世界的な社会的、経済的危核の様相が追ってくるであろうという「感」も共有するようになった。そこで、われわれの前歴からくる世間一般の人士とは異なった、その危核構造の科学的分析、言うなればわれわれなりの「鑑」を開陳して成ったのが本書である。
 わが国では対談は出版社から歓迎されない。つまり読者からあまり要求されないから、販売部数が伸びないせいである。本書も両者が別々の本を書いた方が、おそらく部数は伸びるであろうが、あえて対談を本にするのは、対談という形式が持つ特別のメリットがあるからだ。
何もわれわれを古代ギリシャの先哲に比する不遜を冒すつもりはないが、彼らの遺した書物は多く対談形式をとっている。それが論理の展開を示す最善の形式と思ったのだろうし、実際にその対話のあるものは現実に行なわれたものなのかも知れない。文章を書くとなると、どうしてもいろいろの顧慮が働き、頭の中にあることを十分に表現することにはなりにくい。対談であれば、多くの「失言」が出るわけで、はなはだ自然な成り行きとなる。本書でも随所に、少なくとも私の場合は、裃を脱いだ放談が顔を出す。
 しかも対談には、それでなければならぬ一つの重大なメリットがある。対談は1プラス1イコール2ではなく、丁丁発止のやりとりの中から、3にも4にもなる結果が現われる。対話の面白さと意義はそこにあるのだが、残念ながら本書ではその佳境にはまだ遠かったようだ。それにしても、普通の書物には見られない卒直な発言を、読者は聞かれるであろう。
 本書を題して「日本の危機」とする。丁度けさの新聞に一雑誌の広告が出ていて、高名な一評論家が「日本のマネーブームと世界恐慌前夜=一見華やかな現在の日本の状況は、世界大恐慌直前のアメリカに酷似している」というのを書いているようだ。どうも私はこんな子供向けの雑誌は読む気もしないので、彼が何を言わんとしているのか知る由もないが、かつての「油断」騒ぎにくらべれば、この方がまだしもまともなのから知れぬ。
(*堺屋のこと。)
『石油危機の幻影』 (昭和五十五年二月刊)以来の私の著書を丹念に読んで来られた読者がいれば、私か今日の成り行きを早くから警告していたことを、身に泌みて感じておられよう。
 本書は言いたいことを言う趣旨だから、はっきりと告げておくのだが、現在の日本のマスコミの表面で泡沫のように漂っている人士の言説には、取るに足るものはほとんどない。百害あって一利なきものが大部分と言ってよかろう。
 大方の読者が携わっていられる事業なり企業活動は、真剣勝負である。ヤワな泡沫評論家達の書きなぐり、言いつのる愚かな言説を聞いていてはならぬ。
あなた方をとり巻く日本と世界の状況は、きわめて厳しいものになっていく。いいかげんで目を覚さなければひどいことになろう。
 今時のわが国には「先生」と言う不思議な人種がいる。いるどころか蔓延していると言ってよい。この人種がいろいろな誤ったことを喋り散らす。一般の人達はこの現象を当り前と思って、空気のように呼吸して有難がっているのだが、これは正真正銘の毒気である。目には見えないが、こんな毒気を常日ごろ吸っていると、頭がおかしくなってきて、いずれブッ倒れることになろう。要心してもらわねばならない。
 日曜日の朝には、テレビに老人と中年男の対談が掛かる。社会勉強と思って私も時折りは見るのだが、これでいつも思い出すのは戦時中の漫才である。そのころの統制官僚たちは、高級な演劇は精神総動員と称して止めさせてしまい、代りにやくたいもない政府宣伝の漫才を全国に打って回らせた。四人組時代の共産中国と同じ手口である。
 現代日本の先生方がやっている日曜朝のテレビ対談は、これらと変わるところは何もない。漫才や江青演出劇も、もっともらしい時事論説も、そのほか大方の先生方の言いつのり、書きなぐる排泄物は、いかなる外衣をまとっていようともしょせんは子供だましである。
 彼らが無心であればまだしも救いはあるが、自ら時の握力-米国CIA、ソ連KGBを含めて-の幇間に成り下っている者も決して少なくない。彼らがそれでも良い生活か出来るという責任は、読者、聴視者であるあなた方自身にある。テレビ番組や新聞雑誌が、どれだけの無用な金銭を消費し、世俗に毒気を撒いていることか。はっきり言えば、あなた方はコケにされ、先生方に時間、すなわち金銭を盗られているのだ。本書はこの現代日本社会の 気を、いささかでも中和しようという、われわれの切ないあがきでもあろうか。
 数万年の歴史的、地理的環境から、日本人は他国人に比してまったく異なったメンタリティーを持っている。異なっていると言うのは、別に特殊なのではない。逆にわれわれは、人類としてもっとも普遍的で、給源的な性格を、今日でも濃厚に保っているのだ。ところが日本人以外は、大小深浅の差はあれ、他人種、他民族、他国家と膚接して育ったために、その性格に陰影と屈折が生じている。
 両者の是非、善悪を論じることは意味がない。それは自然、必然の地球的な時空のプロセスとしてそうなっているのであり、今日のわれわれはそれを与件、あるいは初期条件として甘受して、そこから出発するより外の立場はありえないのだ。
 二十世紀後半の今日の技術的発展は、悠遠の過去から続いてきたこの日本人の孤立的自然、社会環境を急激に突き崩しつつある。情報地理的環境は速やかに変わってゆくが、日本人の社会心理は急には変わらない。陰影と屈折というのは、下世話に言えば、海千山千と言うことである。たとえば現在の日米関係は、聾えてみれば、「強姦男=アメリカ」と、それに引き回され貢がされている「おぼこ娘=日本」と言ったところか。
 無残なのは、この娘はひどい目に合わされていることがわからず、男の心を露疑わず、無駄使いで首が回らなくなったこの男に入れあげていれば、いずれ誠意に感じて十分期待に応えてくれるものと信じ込んでいることだ。日本政府の代表者中曽根首相などは、このおぼこ娘の代表者である。この人物は政治的野心に捉われているために盲目となり、見るも無惨な情況に陥っている。
 中曽根首相の有体は、米英文配層の買弁であり、米英の対日政略のために、日本に送り込まれているトロイの木馬に外ならない。
こう言ったからといって、何も私か異心を抱いて中曽根氏をむやみに賤しめているのではない。すでに欧米の識者がそう見ているのだ。たとえば東京サミット前の外国記者座談会で、イギリスBBC放送の記者ウイリアム・ホーレー氏は次のように発言している。
(英米は)自分たちの要求を通すため「中曽根さん、あなたは立派だ。頑張って」と押すわけです。中曽根さんは日米に送り込まれたトロイの米馬だ。(朝日新開、昭和六十一年四月二十六日夕刊)
 米英の記者としては、これは不用意な発言だったろうが、東京サミット前にカナダに行ったり、レーガンにキャンプ・デービッドで破格の扱いを受けたりして、サミットの切り回しは自分ひとりで背負い、米国に男を売るつもりであったろう中曽根氏は、蓋を開けて見てびっくり、お膳立てはすべて米英両国の問で出来ており、自分の出番は何もないどころか、ひどい円高を飲まされ、おまけに「相互監視制度」という、事前に何の相談も受けていなかった重大条件を飲まされるハメに陥った。
 レーガンはウスラ笑いで、日本国首相を突き飛ばす役はサッチャーに割り当てられていた。中曽根氏はコケにされ、その後に予定されていた各党首会談にも「中曽根首相はうちひしがれていてとても会議に出席できる状況にない」(日経、四月十五日)という有様である。キャンプ・デービッドでの扱いは、殴る前にちょっとでも頭を撫でておいてやろうという、いずれ退陣を予期しているレーガンの、せめてもの思いやりと見るべきか。
 米国支配層の特神的特徴は、人を騙すとなると、じつにかも洩らさぬ周到な事前準備をすることだ。サミット前、「東京サミットでは何らかの円高の歯止めがされる」という情報が流されている。ホワイトハウスは中曽根訪米に、キャンプ・デービッドでの大統領接待をした。これらはサミットでの中曽根打っちゃりの根回しであった。彼らは中曽根首相が円高に抵抗して、会談でゴネ出すかも知れぬことを恐れていたのだ。彼にそんな背骨があれば見上げたものだが。
 可愛根な中曽根サン。
 サミット後、間髪を入れず英国のチャールズ皇太子、ダイアナ妃か来日した。これも水際立った騙しの術である。悪役を買って出たサッチャー英国首相への悪感や、円高ショックを日本国民のめからそらし、新聞紙面をサミットの記事から遮蔽するために、チャールズ、ダイアナは使われている。英国王室の存在価値はそこにあるのだから。
 チャールズ皇太子はそのことを十分知っている。彼はいやいやながら来日して演義したのだ。日本に来た彼の表情は堅かった。大阪空港からの車に浩宮か同乗しないのかと彼は心細そうに訊ねている。サミット不満、サッチャー憎しで暗殺の危険があるために、日本政府は皇孫の同乗を止めたのだろうと、彼は考えたはずだ。それが欧米人の常識である。
 レーガンと対等で、シュルツなどよりは上座になったと思い上っていた中曽根氏は、思っても見ないサミットでのシゴキに、非常に落ち込んだ。英国皇太子夫妻の歓迎宮中晩餐会にも欠席している。急に腹でも痛くなったのから知れないが、目立ちたがり屋のこの人が出席できない腹痛は、非常な神経ショック症であろう。
 中曽根氏はこれからどうするのか。
 米国支配層はいま中曽根首相の行動、日本政界の動きを、ジットと窺っている。騙し、、蹴り上げた中曽根が、腹を立てて自ら辞職するか。首相の位置に恥も外聞もなくかじり付くか。日本の政治家が中曽根を袖にするか。そのまま凹んでしまうか。日本の政治家と国民の資質がいま問われているのだ。
 これから衆参両院のダブル選挙が行なわれる。表紙カバーの写真はそれをもじった帽子を被った首相だが、自民党は円高不況風が吹き込んで、議員数が減少するのを恐れて衆院解散に踏み切ったわけだろう。それは良いとしても、中曽根三選はよしたほうがよい。
 中曽根氏は町人である。日本国民もまた、通産省高官の「町入国家論」といった聞くに耐えない妄言を、マスコミが但ぎ回っても平然としている。似たもの同士で、なるほど中曽根首相の支持率が高いわけだ。
 
今日の米国を動かしているのは、貧弱な目本国首相の頭で渡り合える手合ではない。戦前の、それなりに今日よりははるかに立派だった大日本帝国を、手玉に取って太平洋戦争に誘い込み、原爆を二発食らわした悪者どもの後裔である。生やさしい連中ではないのだ。
 
中曽根氏には日本人としての性根が欠けている。靖国参拝とか自衛力増強をいくら力んでみても、それは関係がない。上州の材木商の息子、秀才の東大出・高文合格の内務官僚は、本当の胆玉と教養を持っていない。そこでレーガンに阿諛してみたり、英語を使ってカッコを付けてみたり、外国人と立ち交わって得意になっている風が醜い。
 日本の首相であれば、少なくとも英語は自由であってほしい。そのうえ、独仏語のいずれかが読めるくらいの語学力は必要だ。だが、公式の場で外国語を使ってはならぬ。フランス人もソ連入もドイツ人も、公式の場で外国語は使わぬ。中曽根氏は六十半ばをすぎて、いまだに軽薄才子ではないのか。
 服装、態度は隙なくととのえる。だがこの人物は全くの田舎者だ。西洋文明は優れている、西洋人は偉い、彼らと対等に立ち混りたい、この辺がその心事であろう。
 

 引き続き引用する。
 今、読んでいただきたいこともある。




★『日本の危険』を読み直す。
 『日本の危険 日米対決の深層』  馬野周二・藤原肇 東明社 1986.6.30刊
 まず、巻末の著者(対談者)の紹介記事から、始めていきます。

<著者略歴>
★馬野周二(うまのしゅうじ)
 慶応義塾大学工学部応用化学科卒業。通商産業省技官を勤め,1921年よりニューヨークエ科大学教授をつとめ,アメリカ内務省のプロジェクトを指導。アメリカ民間企業の役員としても活躍,アメリカ社会の実態にふれる。
 現在,斬新な問題提起によって注目を浴びる国際問題評論家。工学博士。
著書に「衰亡の法則」「破局の論理」「大凶慌」「日米最終戦争」「日米逆転の大予言」等がある。
 1921年生まれ山口出身。

★藤原 肇(ふじわらはじめ)
 埼玉大学卒業後,フランスのグルノーブル大学で構造地質学を専攻した理学博士。アフリカ,中東,ヨーロッパ,北米などで,外国系の多国籍石油企業で開発担当のジェオロジストを歴任する。現在はアメリカに在住し,カンサス州とテキサス州で石油開発会社を経営。
 独自の文明論とエネルギー史観は海外で高く評価され,カリフォルニア州のペパーダイン大学の総長顧問に就任。現在は同校の名誉総長顧問として,太平洋時代の国際関係や21世紀にふさわしい産業社会の在り方などについて戦略的アドバイスをしたり人材のネットワーク作りに忙しい。
 1938年生まれ,東京出身。
  

  <目次>
序にかえて 馬 野 周 二 
第一部 日米経済、「ドンデン返し」の構図
  原油暴落の我慢比べ。
ドル高是正とワンセット
  ソウル五輪はピンチ
中曽根政治の誤謬
米国がねらう、ドンデン返し
日本企業にTOB
マルコス失脚の意味とレーガン政治
第二部 末期症状を呈する世界
日本はどこへ行くのか-
《一九八四年症候群》の時代
中曽根時代の黒い霧
亡国の法則とテロリズム
日本版ギョーム事件の怪
日本人とナチスかぶれの影響
フリー・メーソンの亡霊
高等遊民と寄生現象
大凶慌の時代
機動隊予備隊と国民皆銃
第三部 新しい文明時代を考える
昭和の幕末・文明の幕末
衰亡の法則と文明の波動現象
文明とその伝播
石油文明から情報文明への大転換
文明の東西伝播と南北対立
文明を考えるパラダイムと人材
事業家と山師の時代の終り
帝国主義の時代とそのソフトウェア
太平洋時代と新しい文明
第四部 米英支配層の正体
パールハーバーの謀略への内部告発
あとがき   藤原 肇
 


メッセージ・藤原新也。
★藤原新也氏から、久しぶりの若者への<重い>メッセージ。
 sinya talk http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php より。

2007/07/14(Sat)
借りた金は死後には返せない
 1カ月ほど前、真鶴の漁師の友人に誘われ、釣りに出かけた。
 鯖、カサゴなどの、まあそこそこの魚を釣ったわけだが、驚いたことがある。海水の温度が22度もあったのだ。この季節には考えられない水温だ。それよりも5度低い17度近辺というのがこの季節の海水温の正常な温度であるわけだが、5度とは異変を通り越して異常と言わざるを得ない。海水というものは気温のようにばらつきがあるものではなく、普通2度高いというと「えっ」と驚くわけだが、5度というのはむなおそろしい。
 漁師もこんな海ははじめてだという。水温異常の関係で普段は盆過ぎに出るクラゲも発生しており、かなり無茶苦茶な状態である。

 温暖化というものは学者の言うように予測係数のグラフで描けるものではなく、さまざまな現象が相乗して加速度が付き、一挙に急激な変化をもたらすのではないかというのが真鶴からの帰途でふと襲われた予感である。

 そう言った自然の異変というものは何も今に始まったわけではなく、異変を言われはじめて相当の年数が経つわけだが、農耕民族のDNAを持つ日本人のように自然のモラリティに依拠してきた民族は、かりに農耕を営まないにしろ、自然の異変によってなんらかの精神身体の変化に見舞われるのではないかというのがかねがね私が思ってきたことである。そういう意味では自然の異変が言われてきたころから今日にかけ、目を覆うような日本人の退廃は超自我(神=自然)をなくした民族の行き着く先の恐さを物語っている。

 姑息なごまかしばかりやってそれをまたウソで塗り固めている企業の役員や社長が入れ替わり立ち代り週替わりで国民の前で頭を下げている光景など、どんな後進国に行っても見られない光景だし、年金問題などはもうすでにこの国が滅びていることを表している。
 それは不正とか詐欺というレベルのものではなく、すなわち退廃に他ならない。つまり不正というものには正や善という反座標があるわけだが、退廃にはその反座標すらないのだ。
 巨大な腐ったどぶの中(厚生労働省→社会保険庁)に腐ったぶよぶよとした無数の肉片(職員)が浮いていているがゆえに、自分が腐っており、くさい臭いを発しているということすら自覚できない。それが「退廃」という言葉の意味するところのものであり、すなわち無間地獄のようなものだ。それはなにも厚生省に限ったことではなく、多くの企業集団や政治家集団にも言えることだ。
 

  ★こんな腐ったどぶの中に年金の掛け金など振り込むと、その金も腐ってしまうから、もう若者は「どぶに捨てる」ような金は使わず、自分を信じ、自分の老後は自分で支えて行く覚悟をしたほうがよい。選挙目当てに「一人残らず救います」なぞと付け焼刃的なことを政治家は言っているが、言葉を信じてはならない。顔を見ろ。
 自然が壊れているように、今日ほど政治家の顔が壊れている時代はないのだ。君たちの掛け金はきっと保証されないだろう。それは私が保障する。何十年後のことだ。いま「やります!」と大見栄を切っている政治家のほとんどは結果責任を負うまでもなくそのころには死んでいる。だから言いたい放題なのだ。
 君たちから借りた金は俺の死後にきっと返すからと言っているようなものだ。詐欺師の言葉というものは注意深く聴いていると笑えるのである。  

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↑上の写真は、新著『名前のない花』:東京書籍 発行年月 2007年7月 
 価格 1,470円(税込み)



『おいしいハンバーガーのこわい話』
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★「・・食べ物は、みんなが買う商品のなかで何よりも大切だ。
 なのに自分の口にするものがどんな風に作られているのかに思いを馳せる人は少ない。
 明日は、どんな服を着て出かけようかと悩むひとはいても。
 しかし、洋服は体の中には入ってこない。
 
 なぜか?
 マグドナルドが必死に防衛しているからである。
 なにを?・・・みんなが、考えるはじめることを。

 では、考えてみようじゃないか!・・」
 ************************

 何のために考えるのか? 

 ● はじめに みんなに考えてほしいこと
★★ 店内に入って、ひんやりした空気を肌に感じる。
カウンターの上のバックライトに照らされたカラー写真をながめてから、列に並んで注文をする。お金をわたす。おつりをポケットに入れる。それからプラスチックのトレイに食べものをのせて、あいている席を探し、座る。バーガーの包みをひらき、フライドポテトにケチャップをたっぷりかけ、
ドリンクのふたの穴にストローを突っこむ。バーガーを手に持って、かぶりつく。
 ファストフード店で食べるときの、この一連の動きは、いつも決まりきったおなじみなものなので、わたしたちはあたりまえのことと思っている。深く考えたりはしないーそれが問題だ。

>>考えてみると・・
 
・・インアンドアウトもバーガービルも、完璧ではない。だが、ファストフード会社が正しい行ないをしてもちゃんと儲かることを、身をもって示している。このほかの、アメリカ各地に散らばる数千店の個人経営の店も、同じ考えかたの持ち主だ。
ファストフード・チェーンを経営する重役は、悪い人たちではない。ただもう少し視野
を広げて、白分たちの行動に責任を持つ必要があるだけだ。消費者であるあなたが求めれば、彼らも、働く人の賃金を引きあげるだろう。あなたが主張すれば、従業員や動物や土地の扱いかたを変えるだろう。あなたの出すお金、つまり賛成票が欲しいからだ。ファストフード業界の問題をひとつずつあげていったら、100冊でも本が書ける。だが、解決は、あなた自身の行動から始まる。
 *<註>「インアンドアウト」、「バーガービル」はともに家族的経営で地元の安全な食材を使って、良質のメニューを提供し続ける店。季節によってメニューが変わるのも当然のこと。値段も決して高くはなく、従業員の待遇も優の部類という。また、店を買い取りたいという申し入れもすべて断っている。

>>考えてみた・・
★★ 店内に入って、ひんやりした空気を肌に感じる。
 列に並んだら、あたりを見まわしてみよう。キッチンで働く若者たちや、席についた客たちや、最新のおもちゃの広告に目をやる。カウンターの上の、バックライトに照らされたカラー写真をあれこれながめる。そして考えよう。この食べものはどこから来るのか、どこでどんなふうに作られるのか、ファストフードを買うという行為ひとつひとつが、何を引きおこしているのか、ほうぼうにどんな影響があるのかーそういったことを、どうか考えてほしい。そのうえで、注文をしよう。あるいは背を向けて、ドアから出ていく。いまからでも遅くはない。ファストフードがいっぱいあるところで暮らしていても、あなたはまだ、自分の好きなように行動できるのだから。

 **********************

● ・・・おもにアメリカの子どもたちに向けたものとはいえ、この本は日本の現状にも少し触れています。内容的にあてはまる記述も、かなりあります。たとえば、最初のファストフード世代である三〇代の日本人男性のうち三分の一が、標準より体重が重い、と書かれています。
そして子どものころ太りすぎていると、かなりの確率で三〇代に肥満作になる、とも。
 日本でも、おおぜいのティーンエイジャーがファストフード店で働いています。食品添加物にかんしては、ものによっては、日本のほうが危険性の認識が甘いようです。そうしたことを子どものうちから知っておくのは、とても大切なことではないでしょうか。
 この本が、ファストフードを始めとするさまざまな食べものについてじっくり考えたり、家族の人たちと話しあったりするきっかけになれば、と思います。
 2007年3月 訳者

 ***********************

 シュローサーの前著『ファストフードが世界を食いつくす』より。

 <訳者あとがき>
 マクドナルドを有する任意の二国は、それぞれにマクドナルドが開店して以来、戦争をしたことがない。
 トーマス・フリードマン著『レクサスとオリーブの本』で唱えられた″黄金のM型アーチ理論″である。すなわち、ある国の経済が、マクドナルドのチェーン展開を支えられるレベルまで発達すると、その国の国民は、武器を千に取るより、ハンバーガーを求めて列に並ぶほうを選ぶ。戦争のはかばかしさをじゆうぶんに認識しているというわけだ。
 まずはそういう肯定的な面で、ファストフード・チェーンはグローバル化の先兵であり、物差しでもあると言えるだうっ。安価で均質な食べ物を地球全域に供給し、なおかつ、進出する先々で大規模な雇用を創出している。現代人の食生活はファストフードなしに成り立だないし、世界の労務環境もファストフード・チェーンを技きにしては考えにくい。
 反面、あまりに急速、あまりに大々的なその隆盛の隆で、失われたもの、ないがしろにされてきたものも多い。「食」という根元的な営みに関わるビジネスだけに、実生活上の各方面への影響は計り知れない。なおかつ、ビジネスとしてのありかた自体が、実は破壊的と呼べるほどに大きな問題をはらんでいる。
 本書は、気鋭のジャーナリスト、エリック・シュローサーが徹底的かつ包括的な取材のもと、巨人ゴリアテたるファストフード帝国に敢然とたたきつけた挑戦状である。そもそもは、若者向け雑誌<ローリングストーン>誌に掲載された二部構成の告発記事だったという。
 ファストフード・チェーンの利益は社会全体の損失によって成り立っているという激越な主張は、大きな反響を呼んだ。「社会全体の損失」とは、例えば、国民の肥満率の急騰、食品由来疾患(O-157による食中毒など)の多発、牧畜業や精肉業の斜陽化、チェーン自体の従業員の待遇の劣悪化などだ。
 シュローサーはその後、さらに広範な調査と取材を続け、あらゆる角度からファストフード業界の暗部をえぐって、この『ファストフードが世界を食いつくす』を書きあげた。
 第一章~第四章では、ファストフード草創期カリフォルニアの人物模様が鮮烈に描かれ、当時の熱気ときらめきが生々しく伝わってくる。二十世紀アメリカの産業裏面史の趣もあって、読者は随所で膝を打つことだろう。ファストフード・チェーン (とりわけマクドナルド)とハリウッド(とりわけディズニー・プロダクション) のつながりなどは、ことのほか興味深い。
 第五章~第十章では、ファストフードのさまざまな現場から、進行中の出来事が実況中継される。アイダホのじゃがいも畑、コロラドの牧場、肥育場、食肉処理場、公立学校、ファストフード店の舗・・。
 まさに背筋の寒くなるようなルポルタージュだ。安価で均質な食べ物を大量に(工業的に)生産するための、さらにそれを効率よく売りさばくための、過酷で非人間的な分業システム。
 そして、終章では、その絶望の淵から這い上がるための、希望の道筋と現実的な対案が示される。消費者の力を、消費者自身が信じ、行使せよ、と。
 これは、義憤の書である。アメリカ人にとっての憂国の書でもある。だが、もちろん、メッセージは地球上のすべての消費者に向けられている。この均質化された風景は、今や、世界のどの土地でも目にすることができるのだから。
 本書を読んだあとで、読者が口にするチーズバーガーとフライドポテトは、かなり違った味がすることだろう。いや、数多くの読者が、黄金のアーチをくぐる前に、あるいはカウンターで注文の品を選ぶ前に、その食品のたどってきた道筋に思いを致すことだろう。
2001年7月 訳者 

  次回から要点を記していきます。
  
 

『神は妄想である』
 しばらく御無沙汰なので、休日とメンズデイが一致してチャンス、映画にいくことにする。

 通常料金に200円プラスすれば、二本鑑賞出来る、という目論見だが、どうなることやら。

 これまで、二本目は<完>の文字をみた覚えがないから。

 「幕間」のために、一冊持って行くことにした。・・・ 

                     

   ★あの、『利己的な遺伝子』の著者、リチャード・ドーキンスの最新刊。
『神は妄想であるー宗教との決別』( 早川書房 2007.5.20 2500円)を読み始める。
 原題:THE GOD DERUSION 2006.9
 前にも書いたかもしれないが、わたしは、<目次>をかなりの時間読み込んでみる。
 興味の湧いてくる=読書欲をそそる<章>はあるか?
 未知の用語や項目、事項はないか?
 
 次に<目次>を引用する。あなたは何処から読み始めますか? わたしは4章からですが。

 ******************
<目 次>
はじめに
第1章 すこぶる宗数的な不信心者
相応の敬意 不相応な敬意
第2章 神がいるという仮説
多神教 一神教 世俗主義・建国の父たち・アメリカの宗教 不可知論の貧しさ NOMA 祈りの大実験 ネヴィル・チェンバレン学派の進化論者たち リトル・グリーン・メン
第3章 神の存在を支持する論証
トマス・アクィナスの「証明」 存在論的論証およびその他の先験的論証 美を根拠にした論証 個人的な「体験」をもとにした論証 聖書にもとづく論証 崇敬される宗数的科学者をもちだしての論証 パスカルの賭け ベイズ流の論証 
第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由
究極のボーイング747 意識を高める道具としての自然淘汰 還元不能な複雑さ 隙間の崇拝 人間原理-惑星版 人間原理-宇宙服 ケンブリッジでの幕間劇 
第5章 宗教の起源
ダーウィン主義の命ずるところ 宗教の直接的な利点 群淘汰 何かの副産物としての宗教 宗教への心理学的な準備が整う そっと踏んで、あなたは私のミームを踏んでいるのだから カーゴカルト(積荷信仰)  
第6章 道徳の根源―なぜ私たちは善良なのか?
私たちの道徳感覚はダーウィン主義的な起源をもつか?
道徳の根源についてのケーススタディ 神がいなければ、どうして善人でいられるのか? 
第7章 「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神(ツァイト・ガイスト)」
『旧約聖書』 『新約聖書』は少しでもましなのか? 汝の隣人を愛せよ 道徳に関する時代精神 ヒトラーとスターリンについてはどうなのか? 彼らは無神論者ではなかったのか?
第8章 宗教のどこが悪いのか?なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?
原理主義と科学の破壊 絶対主義の負の側面 信仰と同性愛 信仰と人間の命の尊厳 ベートーヴェンと中絶にまつわる大嘘 信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか
第9章 子供の虐待と、宗教からの逃走
肉体的・精神的な虐待 子供を守る ある教育スキャンダル ふたたび、意識の高揚を 文学的教養の一部としての宗教教育
第10章 大いに必要とされる断絶?
ビンカー 慰め インスピレーション(霊感) 巨大なブルカ 
訳者あとがき
文献目録 
原注 

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「訳者あとがき」(訳者は垂水雄二氏)も当然、読んでみる。
後半で少し立ち止まる。次のような一文に。
「・・
ドーキンスの宗教批判は徹底したものであり、哲学的・科学的・聖書解釈的・社会的、その他あらゆる側面から、神を信じるべき根拠をつぶしていき、どこにも逃げ場を与えない。科学と宗教は守備範囲がちがうという主張も退ける。こうしたやりかたで、信仰心の篤い人々を無神論に転向させることなどできるわけではなく、むしろ進化論に好意的な信仰者を敵に回すだけの利敵行為だという批判があるのは、ドーキンスも承知のことだ。それでもあえて本書を上梓したのは、神や宗教に対する疑念を秘かに抱いている人々に勇気を与えることのほうが、より大切だと考えるからであろう。
 現状を打開する方策としてドーキンスが考えているのは、無神論者が声をあげることのほかに、子供の宗教教育からの解放がある。ほとんどの人間は幼いときに親の宗教の影響を受けて信仰をもつにいたる。本書第5章でドーキンスが指摘するように、子供の脳は、目上の人間の教えに教化されやすいという生得的な傾向をもつ。すべての宗教扇動家・布教者はそのことをよく知っていて、できるだけ早くから宗教教育をしようとする。イスラム世界では、国家の教育体制の不備をついて、イスラム学校で幼い子供を集めて教育するということが各地でおこなわれており、そこからはてしなく殉教者が送り出されている。
・ ・・」
 

 ●子供の殉教者は日々世界中で生み出されている。
ファストフードという怪物も犯人の一味なのだ、とエリック・シュローサーは言い続けている。
★『おいしいハンバーガーのこわい話』(草思社 2007.5.1刊 1300円)
 漢字には丁寧に振り仮名がふられて、子供たちにもやさしい本の目次を再読する。
「第2章
子どもは大金を動かせる/
お手本はウォルト・ディズニー/
ロナルド・マクドナルドの誕生/
楽しさも売りもの/
おねだり、あの手この手/
頭のなかまで調べられる?/
なぜ、おもちゃがついてくるんだろう/
作るほうはハッピーじゃない・・」
  


労働観
★タイトルからして当然、宮城県内限定なのだろうが、先週金曜の夜、NHKで放映された番組について 意見いや異見を述べていく。
「クローズアップ宮城」という番組で、宮城(主に仙台)のタクシー運転手の現状を報じたものだ。
 全国一のタクシー激戦区である、仙台のタクシー業界・乗務員の惨状を描いたものなのだが、NHK及 び番組担当者の「労働観」「労働のあり方の認識程度」に強く異議を感じたので、以下記していく。

 その前提として、次に一文を引用しておく。『近代国家とキリスト教』 森安達也 2002.10 平凡社ライブラリー

 同書のp103~108より、引用する。(後半は、今の論議には不要だが、引用しておく)
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● 宗教改革と近代資本主義社会
 二十世紀の終わりの最大の出来事は、ソ連の解体と東欧の再編であろう。これは共産主義の敗北と資本主義の勝利と宣伝されているが、果たしてそうだろうか。少なくとも旧ソ連と東欧諸国では、社会主義経済体制は崩壊したか、あるいは崩壊しつつあるが、資本主義が勝利したなどとはとうていいえない状況にある。将来の見通しも明るくない。おそらく、「資本主義もどき」の状態が続くのではないかと予想されるが、そう思う根拠のひとつは、文化圏としてのロシア・東欧が東方正教文化圏と一部カトリック文化圏に属しているからである。二十世紀も終わろうとしているときに、いまさら宗教文化圏を持ち出すなど、見当はずれだとの意見もあるだろう。だが、かつて人々を支配した、あるいはいまでも支配している宗教が生み出すメンタリティーは、意外に無視できないものがある。

これまでの歴史が示すところでは、ある社会における宗教上の少数派が経済活動の担
い手としての役割を果たしている。ヨーロッパ各国のユダヤ人、フランスのユグノー教徒、イギリスの非国教会信徒とクエーカー派、ロシアの分離派(十七世紀中葉のニーコンの典礼改革を否認して正教会から分かれた。古儀式派とも呼ぶ)などいくらもあげられるが、これは普遍的な現象といってよい。ところが、宗教改革の結果を見ると、ひとつの傾向としてフランドル地方とイギリスのようなプロテスタント地域が経済上の先進地帯で、他方、イタリア、スペインなどカトリック地域は後進地帯となったと思われるし、あるいはもう少し時代がくだって、プロテスタントの北アメリカとカトリックの中南米という対比もありうる。もちろんそれは気候、風土といった別の要因によるものかもしれないが、プロテスタンティズムの成立と結び付くのではないか、との予見がでるのは当然である。

 十六世紀の宗教改革と資本主義社会の形成が時代としてつながっていることは事実であって、そこになにかの因果関係を見出そうとするのも自然であろう。マックス・ウェーバーは二十世紀の名著というべき『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(一九〇五年発表、日本語訳は大塚久雄訳、岩波書店、一九八九改訳版)において、経済活動に対する規制が厳しい社会で近代資本主義を助長するメンタリティーが生まれたという、逆説的なひとつの仮説を示した。ウェーバーのこの著作は、よく大学の新入生の必読書などにあげられるが、実際には著者の学問上の業績すべてが集約されたかなり難解な書物で、論の立て方はもとより、プロテスタント諸教派についての相当の知識がないと註釈も理解できないであろう。これを引用し論評を加える研究者ですら、全編を理解していないと思えることもある。もちろん、ウェーバーは近代資本主義社会が宗教改革の所産であるなどとは一言もいっていない。 


  ルターが聖書の翻訳に際して、「召命」と「職業」という異なった概念をベルーフBerufと訳しているが、これが「天職」の考え方の起源であって、単なることばの翻訳以上の深い意味をもつ。すなわち、世俗的労働に宗教的な意義を与えたわけで、それがプロテスタント各派の共通の思想となっている。以上がウェーバーの論の出発点である。ちなみに東方正教圈では、現代ギリシア語でもロシア語でも本来「奴隷の状態」という意味のことば(それぞれdouleia,rabota)が「労働・仕事」の意味で用いられており、「天職」に相当する表現はない。さて、このような「天職」の考えは、カルヴァン派の教えである「すべては神の栄光のために」および予定説の積極的な活用と結び付いた。とはいえ、カルヴァン派の神権国家では経済活動に対してもさまざまな規制があり、特に天職義務に適しない消費が圧殺された。それは中世のカトリック教会の規制よりはるかに厳しいものであった。それに対して、天職義務の教育が浸透するにつれ、価値観の転換が起こり、財の獲得が伝統主義的倫理から解放され、近代資本主義のエートスが生まれたというのである。ウエーバーは天職義務を「世俗内的禁欲」とも表現しており、プロテスタントが否認した修道制というものを持ち出して、修道制の禁欲の精神を世俗内的禁欲の先駆者としている。ここでいう価値観の転換は、常識的な思考からして理解しがたいところであるが、ウェーバーによれば、それによって利潤の追求が合法化されたばかりか、神の意志にかなうものと考えられたという。   

 カルヴァン派はのちになって、徴利行為、すなわち利子を取ることを認めた(ただし高利貸は別)が、これこそ中世の性格からの解放であった。現代人にとってあまりにも当然のことであり、また中世とルネサンス期においてもさまざまの便法が講じられたとはいえ、徴利行為は教会法が禁じるうしろめたい行ないであり続けた。したがって、徴利行為の容認だけは、ウェーバーの理念的考察によるエートスの形成とは必ずしも関係なく、宗教改革が近代資本主義の形成に果たした役割といってもよいであろう。

 このことは、イスラム世界における徴利の問題を考えてみると理解しやすい。
 世界の多くの大宗教と同じく、イスラム教の聖典コーランは徴利を禁止している。これは不労所得による財貨の蓄積を禁じるための処置であろうが、時代がたつにつれて、商業活動の疎外要因となったことは事実である。ただし、利子禁止は、投下資本から得られる利潤を禁止するものではなく、また十九世紀になると、利子禁止と明らかに矛盾する抵当権も容認されるようになった。それでもコーランの規定が近代社会の金融と商業の足かせとなっている状態は変わりなく、現在もなお西欧などと同様の銀行活動が可能かどうかの模索が続いている。
 また、カトリック教会の内部でも、経済活動のなかで複雑な様相を見せる利子の扱いについてさまざまな議論があり、十八世紀後半の回勅もそれを反映させながら、結局、「多くの場合、人は無利息の消費賃貸(生産のためではない賃貸)によって他人を援助しなければならない」としている。そして十九世紀になってようやく、質問に対する教皇または聖省の回答の形で徴利が正式に容認されるが、それも消費賃貸において利子(国家の法律によって許されている適度のもの)をとった者に罪の赦しの秘跡を与えてよいという内容である。

 さて、プロテスタントのエートスが近代資本主義の精神を育んだとのウェーバーのきわめて洞察力に富む仮説は、当然のことながらさまざまの批判にさらされた。例えば、イギリスの経済史学者リチャード・トーニーは、『宗教と資本主義の興隆』(一九二六年刊、日本語訳は、出口・越智訳、岩波書店、一九五六~五九年刊)という実証的な研究のなかで、ウェーバーの説を検証している。そして、十五世紀のヴェネツィアやフィレンツェ、あるいは南ドイツやフランドル地方では、「資本主義の精神」が十分に発展をとげていた、といっている。このような批判は、もちろん、ウェーバーのいう価値観の転換、特にカルヴァン派のそれを認めない立場から出ているのであって、近代資本主義の起源をどこで捉えるかといった検証不可能な問題については、さまざまな立場がありうるであろう。

 しかも、禁欲的プロテスタントのエートスが支えた資本主義の精神は、一過的なものでしかなかった。すなわちプロテスタントのエートスのほうはその後も保たれたが、資本主義の精神のほうは、やがて利潤の追求そのものが目的となったため、ウェーバーのいうような意味では失われていったのである。それは皮肉な結果であるが、しょせん宗教的熱情が経済制度を支え続けることはありえないのである。
    (続)





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