カウンター 読書日記 2007年06月
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落合論文・追記ー「宇宙巡礼」掲示板より。
先ほど、「宇宙巡礼」-掲示板に以下の書き込みがあったので、紹介します。

 **********************

スレッド・タイトル:ブログ[教育の原点を考える]
名  前:サムライ氏
Eメール:
レス番号:64

 ●今週発売された『NEW LEADER』7月号に、連載中の落合莞爾氏の「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」で、フルベッキ写真を取り上げていましたので御報告致します。
目を通してみましたが、かなりの部分にわたって加治氏の手口に落合氏が填っている感があります。先ほど慶応大学の高橋先生にもメールし、上記の落合氏の意見に対する反論を一筆書いて頂けるようにお願いしてみました。反論の原稿を書いていただけるようでしたら、ブログ【教育の原点を考える】に掲載の予定です。

 **********************
 
 期待して待ちたいと思う。

  

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二つのH・ノーマン像
 ★以前(6月1日)の記事の関連で、記しておく。
 http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/20163470.html

 <二つのノーマン像>とでも題しておこう。

 先ず、『近衛文麿黙して死す』(鳥居民 2007.3.28 草思社)の第二章より、引用する。

  ********************
●ノーマンと対敵諜報局
ノーマンについて述べよう。
 ポール・ニッツを知る人は少ないだろうが、昭和史に関心を持つ人なら、ハーバート・ノーマンを知らない人はいない。かれの著作はすべて邦訳され、かれの故国では出されていないが、日本では全集も刊行されている。そしてかれの著作、たとえば『日本における近代国家の成立』を大内兵衛が褒めれば、丸山真男が称賛し、褒めない人とていない。かれの伝記を書いた人もひとりにとどまらない。中薗英肋、中野利子、工藤美代子といる。トヨタ・カナダの社長だった中谷義雄は、日本とカナダとの友好のためにノーマンのドキュメント・フィルムをつくった。かれに敬意を払う日本人がいまなお多いことから、東京のカナダ大使館はそれに応えて、大使館付属の図書館を2001年に「E・H・ノーマン図書館」と命名した。
 もちろん、ノーマンに敬意を払う人ばかりではない。前出の工藤美代子は近衛文麿の伝記を書いて、ノーマンの「仮面の下にある目はスターリンの方に向いていた」のではないかと疑惑を語っているし、政治学者の中西輝政は「ノーマンが日本にもたらした害毒は計り知れない」と一刀両断にした。
 さて、ノーマンの賛美者が、できれば避けて通りたいと望んだかれの生涯の一時期、数カ月のことを語らねばならない。
 昭和20年9月、ノーマンはマッカーサーの総司令部参謀第二部内の対敵諜報局(CID)にいた。その機関のボスはエリオット・ソープ代将、ノーマンは調査分析課長であった。
 CID、対敵諜報局はどのような仕事をしていたのか。その教カ月前まで日本に存在した陸軍省の軍事資料部が同じ仕事をしていた。軍事資料部は国内の思想、政治の監察隊だった。昭和15年には、三国同盟の締結に反対する人びとを内偵し、昭和19年から昭和20年前半であれば、反陸軍と戦争終結のために動いていた近衛文麿と吉田茂、がれらに協力する人びとに目を光らせ、密偵を潜り込ませ、作成した資料を兵務局に送り、憲兵隊に逮捕させるということもやっていた。昭和20年9月からノーマンがやったことにほかならない。
 ノーマンはカナダ人である。日本に派遣された宣教師の息子であり、軽井沢で生まれた。カナダ、英国で学び、ハーバード、コロンビア大学で日本史を専攻し、カナダ外務省に就職した。ケンブリッジ大学留学時代に共産党に入党していた。かれが入省にあたってその経歴を隠したのは、どうしても外交官になりたかったからなのか、それともそのときもソ連のために活動をつづけていたからなのか、そのどちらなのかはわかっていない。
 外務省入りした翌年の1940年に、かれは駐日公使館の書記官となって日本に戻った。戦争がはじまる気配で、両親はカナダに帰国した。1941年の7月にノーマンは夏期休暇をとり、軽井沢に家を借りた。宣教師であるかれの父親を知っていた羽仁五郎と再会した。羽仁はコミンテルンの三二年テーゼの主張から少々離れ、独白の「人民史観」を説く左派の歴史家だった。かれは昭和8年に治安維持法違反の疑いで検挙されヽそのあと保護観察の身だった。生家が裕福だったから、生活に困ることなく、歴史の勉強に打ち込んでいた。
 ノーマンは羽仁に向かって、あなたの論文、『岩波講座・日本歴史』の「明治維新」を読んでいるが、難しくて理解できない、講義をしてほしいと頼んだ。ニカ月、毎日午前中、羽仁がノーマンに講義することになった。
 こうしてノーマンは徳川封建制度の圧政を学び、「日本の大陸侵略と国内の暗黒反動組織」を最初につくりあげた西郷隆盛と山県有朋という二人の悪人にたいする憎しみを教わり、大正、昭和のいままで日本には封建主義の圧政がつづいてきたのだと改めて教わった。 この時代をとおして、徳富蘇蜂を筆頭にした日本の十本の指に入る煽動家、世論形成家となる羽仁五郎からノーマンは講義を受け、進歩と保守に善と悪を重ね合わせて、日本政府、日本の体制にたいする侮蔑を自分のものにした。羽仁は三十九歳、ノーマンは三十歳たった。
 東アジア史を専攻し、日本の勉強をしていた研究者のなかには、羽仁五郎の個人教授を受けなくても、コミンテルンの三二年テーゼに感動し、講座派のマルクス主義のビジョンに愛着を持つ者は少なからずいた。そのうちのひとりに、戦争中に太平洋問題調査会の機関誌の編集をしていた戦略爆撃調査団の団員、トーマス・ビッソンがいた。
 太平洋問題調査会は大正時代に太平洋を挟む国々のあいだの平和を促進するための民間の友
好機関であった。日米の戦争がはじまってから、日本側の集まりは解散してしまったが、アメリカの組織はマルクス主義者、日本を激しく批判する研究者の牙城と変わっていた。
 ノーマンのことに戻れば、かれは昭和17年はじめに交換船で帰国し、カナダ外務省で日本の情報分析をおこないながら、明治初期の歴史の研究をつづけた。1945年1月にホットスプリングズで関かれた大平洋問題調査会の大会については、「補遺」で述べることになるが、ノーマンはカナダ代表としてこれに出席し、日本政治の「封建的背景」について報告した。
 そして終戦後の九月はじめに、かれはカナダ外務省からマニラに派遣された。まっすぐ東京に入ることができなかったからである。マニラにいたマッカーサーの司令部の要員はつぎつぎと東京に移っていた。かれも万万フから東京へ向かうつもりだった。
 かれがマニラヘ向かう直前、カナダ外務省内のかれと同じような考えを持つ者と話し合った。日本占領の長官となるマッカーサーはまごうかたなき保守反動だ、同じく保守反動の日本派のジョゼフ・グルーと組むことになるにちがいない。グルーは部下のドーマンを日本に送り込むことになるのではないか。そこでマッカーサーとグルーとドーマンのトリオは日本の保守反動、封建勢力を庇うことになる。恐ろしいことだ。ノーマンと友人はこんな具合に語り合って、憤慨していたのだが、カナダの下級外交官の怒りはごまめの歯ぎしりにすぎず、ひとまずは極東地域に抑留されていたカナダ入の帰国を手伝うのがかれの任務だったのだから、なにもできるはずはなかった。
 ところが、思いもかけない局面となった。マニラで東京への使を待つマッカーサきかの参謀第二部の軍人たちは日本語ができず、日本のことはなにひとつ知らず、心細く思っていた。
かれらは日本文を読むことのできるノーマンの能力に感服し、日本の状況に詳しいのに惚れ込み、なによりも日本にたいする理解が知的で理論的だと思ったのであろう。日本を支配しているのは封建主義だ、対外侵略の総本山は玄洋行と黒龍会という秘密結社だ、これらの組織の幹部を捕らえなければいけない、日本の民主主義者を弾圧する日本のゲシュタポ、特高警察はただちに廃止しなければならない、監獄内の政治犯はこれまた、ただちに釈放しなければならない、日本の財閥こそ日本の侵略主義のダイナモだ、三井、三菱は解体しなければならないとノーマンがよどみなく喋りつづけるのを聞いての評価だったにちがいない。そして日本を平和な国にし、封建主義から脱却させるためには天皇制度の廃止が必要だともノーマンは説いていたのかもしれない。
 東京行きを待つマニラのマッカーサー司令部の諜報部員は、ノーマンに参謀第二部に籍を置いたらどうかと勧めたのであろう。ノーマンにとっては渡りに船だった。そしてかれの日本についての知識を高く買い、そのあともずっとかれを擁護したカナダ外務省の幹部、そのとき外務次官捕、そのあと次官、外務大臣となるレスター・ピアソンは喜んでかれを貸しだした。
*********************
 

   次に、『理は利よりも強し』 藤原肇( 太陽企画出版 1999.1.30)の
 第五章 ●アメリカの対日強硬派の虚実 より、引用する。

 **********************
 
 とくにノーマンのような特級に属する逸材は、日本が誇る最高の人材と交遊関係を築き、シナジー効果でお互いを高め合い、俳句に精通した学習院のプライス教授に肉薄していた。ノーマンは維新史を羽仁五郎から直接に手ほどきされ、都留重人、渡辺一夫、中野好夫、丸山真男といった日本の最良の人間と友人づきあいをしてヽ日本文化のエッセンスの最高級品を吸収した。 彼のおかげて木戸幸一内府は戦犯にならなかったし、天皇の戦争責任もウヤムヤで終わった。もし、彼がマッカーサーの右腕でなかったら、戦後史の内容は大きく変わっていただろう。だから、ノーマンの前ではライシャワーも形無しであるが、さすがはケンブリッジの空気の中で青春を過ごし、顧維欽の後輩としてコロンビア大に学び、最後にハーバードに行って学位を得た点では、同じカナダ系でもブレジンスキーとは月とスッポンである。・・・ 


  戦中の軽井沢での羽仁五郎とノーマンの「交通」という事実は共通認識としてある。
  議論の前提は成立している。

 
なお、★松岡正剛・「千夜千冊」のノーマン像は、下で読める。
  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0014.html
  第十四夜【0014】2000年3月13日
  ハーバート・ノーマン
  『クリオの顔』(岩波文庫)


吉薗周蔵の手記(7)-参考


 ★↑上の写真は、通称「フルベッキ写真」と呼ばれる問題の写真。
 大室寅之祐は、中央下段、フルベッキとエマの下で斜に構える細身の若者。
 後の<明治大帝の若き姿>という説もある。 

  勿論、「ホンモノ」は、伊藤博文などによって暗殺されたと、彼らは主張する。
真偽は依然定まらないが、「妄想だ!」と否定する根拠も弱い。
問題は、暗殺等の事実関係も重要だが、そういうことが(情報がということである)どのように
 日本の近・現代史で受容されていったのか、誰が利用したのか?いつ如何なる状況で、ということだと思う。例えば伊藤博文暗殺の犯人とされた、安重根の裁判時の「イトウの罪状告発」ひとつとってみても「受容」状態は推測される。
 「事実か否か」とは別に追究・考察すべき課題だろう、と思う。  

 ********************


落合莞爾氏のこの連載も第七回となり、上原勇作(伝)から「高島鞆之助とワンワールド(フリーメーソン)」、薩摩三傑・吉井友実の経歴の追究、「フルベッキ写真」の被写体の誰何、武器商人・グラバーとの交通関係など興味尽きない記述が続く。

 そこで、参考になればという意味で、ここ(第七回)の「フルベッキ写真」についての一節<<・・つい数ヶ月前にも某大学の准教授が、「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の諸士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。・・・>>、という記述のある「某大学・准教授」の考証を紹介する。  



 ●「教育の原点を考える」というブログより。
  先ずは、時系列で。
 http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/05/post_c39a.html#comment-13564088
 2007年5月 8日 (火)
 小説「幕末維新の暗号」の検討結果
 慶応大学の高橋信一助教授から『幕末維新の暗号』(加治将一著 祥伝社)の書評が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。なお、以下の「フルベッキ年表」(verbeck_relatled_chronology01.xls)も是非参照願います。
「verbeck_relatled_chronology01.xls」をダウンロード
 *****************

 http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/06/post_c844.html

 2007年6月 3日 (日)
 「フルベッキ写真」の汚名の変遷
 慶応大学の高橋信一准教授から『「フルベッキ写真」の汚名の変遷』と題する論文が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。
* ********************
 ★万が一、未読ならば、
 准教授・高橋氏にも是非お薦めしよう。この落合論文の熟読を。
 

 <追記>
 ●「フルベッキ写真」検証=行方不明の坂本龍馬はーの文中「フルベッキのすぐ下で太刀を抱えて斜に構えた若者」は、「力士隊に属した大室寅之祐だという人もある」、の大室寅之祐については、故・鹿島のぼる氏の二冊を。
 
 1.『裏切られた三人の天皇』 1997.1.20 新国民社
 2.★『明治維新の生贄』    1998.7.28  同上
 
 *上の二冊が手に入らないようなら、最近出された、二冊の要約版。
 3.★『二人で一人の明治天皇』 2007.1.15 たま出版
  をお薦めしておく。



吉薗周蔵の手記(7)-3
 ● 「フルベッキ写真」検証 行方不明の坂本龍馬は・・

 吉井友実が宣教師フルベッキに親灸したことは確かである。有名な「フルベッキと志士の写真」にも吉井とされる顔が写っている。フルベッキ写真については、その真偽について論議が喧しく、つい教カ月前にも某大学の準教授が「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の論士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。これで一件落着したかに見えたが、その直後に加冶将一著『幕末維新の暗号』が出て、問題は大きく展開した。すなわち、フルベッキ写真についての分析が最近ようやく行われるようになり、論議が表面
化する兆しが生じた。
 まず撮影場所であるが、それが長崎であり屋外であることが、同一場所で撮影された写真が出てきて証明された。明治初期、フルベッキを教え子の長崎英学所済美館の生徒らが囲む写真である。撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。
 次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢方ら推測することで、撮影時期が慶応元年(1865)か2年に絞られた。折しも慶応2年1月には薩長秘密同盟が締結され、
翌年には薩士秘密盟約が結ばれている。この写真は「これらの歴史的事件に関する政治的秘密の真相を物語る要素があるために、明治になっても発禁扱いが続いた」との加治の言に、甚だ肯綮に当たるものがある。
 さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間★奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。
 ★私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、★この人物を伊藤博文と判断したのである。
言われてみれば、確かに文久3(1863)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。
 
 ★吉井がワンワールドに入会していたのは間違いない。だとしたら、紹介者は宣教師フルベッキか、それとも長崎で親交あった武器商人グラパーだったか。加治著『操られた龍馬』は「グラバー邸で闇の儀式を受けた武士を想像すれば、龍馬を筆頭に勝海舟、陸奥宗光、伊藤博文、井上馨、桂小五郎、五代友厚、寺島宗則、吉井幸輔たちが浮かんでくる」とする。グラバー邸でフリーメーソンに入会したと推定するのである。同著にはまた次のような興味深い記述もある。
 1864(元治元)年2月、長崎でグラバーと初めて会った坂本龍馬は衝撃を受け、8月末あたりからその動きがつかめなくなる。史料によると、11月(旧暦)にぽつりと一度姿をあらわしただけで、江戸に潜伏して外国船で密航を企てた形跡だけを残して、また消息を絶つ(立つ)。加治は以上を述べた後に、次の一文を記す(208P)。「(龍馬が)次に現れたのは、それから半年後の翌年4月5日(旧暦)、京都の薩摩藩吉井幸輔邸である。吉井は、幕末の志士としての知名度は低いが、恐ろしいほどの重要人物だ。彼はまさに英国工作員として、維新をし損じることなく駆け抜けるのだが、それはさておき……」。
 行方不明だった時期に、龍馬は上海に密航していた。龍馬が少なくとも二度、海外に渡っている可能性があると指摘した加治は、龍馬がその次に姿を現すのは京都の薩摩藩留守居役の吉井幸輔邸であるとし、吉井を「恐ろしい程の重要人物」と明言し、続いて「吉井は英国スパイの外交官アーネスト・サトウらと手紙を用いて頻繁に交信し、維新実行の手配をしていた」と断定している。
 吉井が英国のエージェントであったという加治説の詳細は前掲著を見て貰うしかないが、吉井ら維新志士の多くがグラバーの呼びかけでフリーメーソン(落合はワンワールドと呼ぶが)に入会したとの説は、正鵠を得ているものと思う。
 結局、明治維新の真相の一斑にせよ、何かの形で権威を帯びて世間に公開されるまで、志士たちのワンワールド疑惑は解明されまい。だが、その裏付けとなる状況証拠はようやく整い、社会にむけて急に発信され始めた。それは、日本社会が進歩した結果なのか、それともワンワールド自身の意図なのか分からない。いずれにせよ、加治氏の一連の著作はその典型的なものと思う。 

 


吉薗周蔵の手記(7)-2
● 高島の後見役・吉井友実、謎の外遊と経歴の陰に 

  明治4年、御親兵入りを目指して上京した高島鞆之助を、吉井友実(幸輔)が特に抜擢して宮中入りをさせた。西郷、大久保と共に薩摩三傑の一人として知られる吉井は、文政11年(1828)生まれ、高島よりも16歳年長であった。出生地は維新の英傑が輩出した加治屋町方限(ほうぎり)で町内からは吉井の他に西郷隆盛、伊地知正治、高島鞆之助らが出た。野津鎮雄・道貫の兄弟は、加地屋町に隣接する上之園町方限の生まれである。
 吉井は幕末に大阪の薩摩藩倉屋敷で留守居役となり、その後は京都の薩摩藩邸を取り仕切って国事に尽力した。戊辰戦争では、伏見方面の戦いで五中隊分の兵力を指揮して幕府軍を敗走させ、その功績により明治2年、賞典禄千石を与えられた。志士たちの賞典禄を思いつくままに並べると、最高額はむろん西郷隆盛で二千石、大久保・木戸・伊藤が千八百石、大村益次郎が千五百石である。吉井と同じ千石は、薩摩藩では伊地知、土佐藩では後藤象二郎と板垣がいた。因みに黒田清隆は七百石、山県有朋は六百石で、以て吉井の位置をを知るべきである。

 維新直後は国防事務局判事、軍務官判事と軍政に携わった吉井は、明治3年4月民部少輔に転じ、7月まで大蔵少輔を兼ねた。11月にはなぜか民部大輔に降格し、翌4年7月になり宮内大丞に転じるが、これは西郷の宮中改革案を実行する目的の人事である。2月に宮内少輔に昇進し、7年3月まで約3年宮中で勤め辞職した。

 吉井がその後、フランスなどに旅行したことは左の逸話から明らかであるが、この外遊に関する記録を殆ど眼にしないのは、あながち私の浅学のせいではあるまい。それほど、維新後の吉井に関する情報は少なく、事跡が知られていない。明治7年、藩命でフランス工芸大学に留学した旧金沢藩士清水誠が外遊中の「宮内次官」吉井友実と会った時、吉井は卓上のマッチを示して国産化を勧めた。これが本邦マッチ製造の契機で、翌8年に帰国した清水は横浜造船所に勤務する傍ら、三田四国町の吉井別邸を仮工場としてマッチの製造を始めた。日欧の往復だけでも2ヶ月以上掛かった当時、欧州旅行には最低一年を費やした。したがって7年3月に宮内少輔を辞した吉井の外遊は、明らかに辞官の後で、正確には「前宮内少輔」である。

 帰国した吉井は8年4月に元老院議官に就き、10年8月に一等侍輔に転じ、11年5月からは再び元老院議官を兼務する。12年3月に工部少輔を兼ね、翌年工部大輔に昇進し、15年1月に辞官して日本鉄道の社長になった。工部省はかつての建設省、今の国土交通省で、吉井が工部小輔・同大輔を兼ねたのは政府の鉄道計画と関係があるものと思う。政府内ではもともと井上勝(前号で触れた武田成章の弟子)など鉄道国営論が強く、鉄道開設の準備として東京-高崎間の測量から始めたが、西南戦争後の財政難で工事の着工が遅れたため、民間資金による鉄道の早期開業を求める動きがあり、明治14年(1881)8月1日、岩倉具視を始め華族などが参加して日本鉄道会社が設立されたが、吉井が工部大輔を辞めたのは、その社長に就くためである。日本鉄道は川口―前橋間から建設を開始し、16年7月28日には上野―熊谷間を開業し、その後路線を増やしていった。この時期に日本鉄道社長を勤めた吉井は、2年間に鉄道事業が軌道に乗るや辞職し、17年7月、伯爵に叙されると同時に宮内大輔に挙げられた。
 当時の太政官制は、卿が大臣格、大輔・少輔が次官格、大丞・少丞が局長・部長格で、その下が大録・少録である。吉井と同じ賞典禄一千石の板垣退助は早くも4年7月に参議、同じく後藤象二郎は4年6月から工部大輔を経て6年に参議になった。吉井と同格と見て良い伊地知正治も、7年に左院議長、次いで参議となった。参議は無任所の大臣で、各省の卿ないし大輔を兼ねることが多かった。「明治維新後朝廷厚く友実を用い」と『大日本人名辞書』にはあるが、事実を見ると、実績からして参議が当然の吉井が、板垣・後藤・伊地知らが挙って参議に就いている時期に、大丞と少輔の間を昇降している。12年に至っても兼職が工部少輔とは不自然である。外遊後の8年から断続的に、都合7年にわたって就いた元老院議官や一等侍輔という職掌は、その内容が外部から窺いにくく、吉井が何か陰の仕事に携わっていた感は否めない。明治7年のフランス外遊も、吉井ほどの立場なら辞官する必要もないと思うが、きちんと退職してから旅に出たようで、この外遊には、世間や政府筋に対しては公けにできない目的を想像する。私用めいた用件、例えばワンワーールドの入会儀式に出たのではなかろうか?

 宮中に入ったまま大臣参議にならず、出世の道から外れたかに見える吉井は、明治17年7月施行の華族令で、伊藤・山県・黒田・板垣らと同じく伯爵を授けられた。その経緯は、伊藤宮内卿から黒田内閣顧問に宛てた書簡(神奈川県立公文書館蔵)に記されており、吉井友実・伊地知正治・副島種臣に伯爵を与えたのは明治天皇の意思によるものとしている。吉井は授爵と同時に宮内大輔に就き、元年の官制改革により宮内次官と呼び方が変わるが24年3月に辞めるまでその職にあり、辞職後もなお宮中庁御用掛を拝し、翌4月に死去した(叙正二位)。
経歴から窺える通り、明治4年以後の吉井は、工部・鉄道関係を除き宮中に関わりきりで、東京・明治王朝を裏から支えたフシがある。爵位勲等と職位の釣合いが取れないのはそのせいだろう。途中いかにも唐突に鉄道に関わるが、或いは鉄道事業にワンワールドにとって特別の意義があるのかも知れぬ。

 吉井の嗣子幸蔵(安政2年生まれ)は海軍少佐・侍従武官となり、その子が今日では祖父より有名になった歌人吉井勇である。次子の友武(慶応3年生まれ)は士官生徒10期の軍人で、高鳥鞆之助の長女多嘉(明治6年生まれ)の入婿となって高島家を継いだ。これだけでも吉井と高鳥鞆之助の深い関係が分かる。大正7年に陸軍中将・第十九師団長となった友武は、10年7月予備役となった。

 



吉薗周蔵の手記(7)-1
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)
 
 吉井友実から高島鞘之助へ「ワンワールド」人脈を探究する

 ●高島鞆之助はワンワールド国際秘密勢力に関わっていた

  第一連隊長乃木希助中佐と湯地静子の婚儀は、明治11年8月27日を以って挙げられた。
縁談を表で進めたのは、乃木の副官伊瀬地大尉で、裏には高島鞆之助少将がいた。
西南戦争を別働第一旅団司令長官として戦った高島は、西南戦争で軍旗を失ってからの乃木少佐の獅子奮迅を直接見て、以後その人物を大いに買ったのである。これを見ても乃木はいわれるような凡将ではない。
 宮本直和『大阪階行社附属小学校物語』には、「お見合いの日、高島春子夫人は、祝宴の後に高島邸―当時は日本式木造家屋―に乃木と静子を招き・・」とあるが、見合いの場となった紀尾井町の伊瀬地大尉の新居の近くに高島邸はあった。
 この邸は、高島が陸相の時に洋式に立て替えられ、明治45年3月高島からイエズス会に譲渡され、今は上智大学内のクルトゥルハイム聖堂になっているという。当時イエズス会からの借入話を受けて、近辺に住む軍の高官達はこぞって高値で売るための談合を始めたが、高島がこれを諌めて市価よりも廉価で売却させた。このことで、イエズス教会は今も高島を徳としているらしいが、この逸話には、何やら暗示するものを感じる。

 結論を言おう。高島はワンワールド(国際秘密勢力)=*フリーメーソンのこと=に関係していた(ワンワールドについては別条で述べる)。当今の史家からは賛同は得られまいが、状況がそれを示すし、間接的証拠なら幾つかある。示現流の達人で容貌魁偉、いかにも豪胆朴訥に見え、自らもそのように振る舞った高島だが、本質は頗る頭脳的で幼少の頃から学才で鳴っていた。侍従、侍従番長を経て陸軍入りし、初任で大佐になった明治7から3年後、西南戦争の最中に33歳で少将に進級した高島は、明治12(1879)年2月19日から1年問独・仏に留学を命ぜられる。ドイツでは近代陸軍の父で戦略の天才モルトケ将軍と会い、鉄血宰相ビスマルクにも接した高島は、宴会でモルトケの正面の席を与えられ、しきりに視線を注がれたが、ドイツ語ができないので顔を背けたと述懐している。それにしても、かかる世界史的人物の声咳に接しただけでも大事件で、益することは多かった筈である。

 高島がワンワールドの一員だったのは、諸般の事績からして問違いない。入会の時期は若年の拗、薩摩の先輩吉井友実の紹介により入会した可能性もあるが、正式入会はこの留学の際かとも思う。いや、正式入会のための欧州留学だったかも知れない。とすれば入会の地は何処か。翌年フランスに留学した上原勇作が、その地で秘密結社に入会したことは絶対に確かで、その筋道を作った者は高島鞆之助を措いて他にない。それでは高島は誰からということになるが、吉井を措いてあるまい。吉井については後で述べる。
 

  ● 決して一介の武弁ではなく朝鮮政変にも辣腕を振るう 

明治13年3月29日に留学から帰国した高島は、1ヶ月後に熊本鎮台司令官に補された。翌14年、フランス留学が決まった工兵少尉上原勇作は、帰郷の途上熊本鎮台を訪れ、2月5日高島司令官の官舎に一泊した。或いは帰郷は口実で、高島の訓示を受けるためではなかったか。
 この夜、高島が上原に諭したのは、単なる留学心得ではなく、地球を支配するワンワールド結社に関する解説とみるのが自然であろう。その4日後、高島は大阪鎮台司令官に転じ、翌15年2月6日付で西部監軍部長心得となる。鎮台司令官は後年の師団長相当職で、当時は少将を補したが、監軍部長といえば戦時では軍団長に相当する軍人の最高位で、当時は中将を補した。高島の場合、「心得』が付いたのは、まだ少将だったからで、すでに中将進級が予定された人事である(翌16年2月に任中将)
 15年7月23日、朝鮮王国の京城で壬午政変が起こる。当時朝鮮国内では、清朝の属那で満足すべしとする事大党(守旧派)と、近代化を目指す独立党(開化派)が対立し、さらに高宗の実父・大院君と高宗妃の閔妃との間に激しい派閥対立があった。後者が開化派と結び、別枝軍を新設して日本の指導による軍の近代化に乗り出すが、これに刺激された大院君の陰謀によって、守旧派の兵士が暴動を起こした。暴動の矛先は別枝軍を指導してきた日本軍人にも向けられ、さらに多くの日本人外交官や民間人が殺傷された。31日、西部監軍部長心得・高島鞆之助陸軍少将と東海鎮守府長官・仁礼景範海軍少将は、軍艦四隻に兵員を載せて朝鮮に渡り、花房公使を全権委員として外交交渉に臨み、8月30に済物浦条約を結んで一件に関する妥結を見た。
 16年2月1日付で陸軍中将に進級した高島は、「心得」が取れて西部監軍部長となる。時に39歳であった。翌17年7月の華族令で子爵を授かるが、これを壬午政変における功績とする説は誤りで、樺山中将・野津少将・高島中将の三人揃って子爵を受けており、戊辰戦争の功績を基底にしつつその後積み重ねた功績による授爵と見るほかはない。
 17年12月4日、朝鮮に甲申政変が起こり、解決のために井上外務郷が派遣される。西部監軍部長高島中将は、海軍大輔樺山資紀少将とともに外務郷の随員として参加した。つまり、高島は単なる武弁ではなく、政治外交に携わっていたのである。

 


 

●『激辛書評で知る中国の政治経済の虚実』 (3)
 ● 毛沢東の死生観および大躍進期の餓死者数

 毛沢東は1964年8月「哲学問題についての講話」を行い、こう発言している。

 「人類もやがては終末の日を迎えるであろう。宗教家が終末を説くのは悲観主義であって、人をおどかすためだ。われわれが人類の滅亡を語るのは、人類よりももっと進歩したものが生まれると考えるからである。現在の人類はあまりにも幼稚だ。死がなかったら、いったいどうなるというのだ。もし今日孔子さまにお目にかかれるようだったら、地球は人間を載せきれまい。自分の女房が死んだときに盆をたたいて喜んだ、荘子のやり方に私は賛成したい。誰かが亡くなったら祝賀会を間いて弁証法の勝利を祝い、古い事物の消滅を祝おうではないか」(毛沢東の未公開発言・論文集『毛沢東思想万歳』所収)。
 この毛汽車発言を切り刻んで、『マオ』は「この軽薄かつ悪魔的な哲理」(this airy yet ghoulish philosophy,p.439、アメリカ版、以下同様)と評する。張戎には荘子の哲学も、毛沢車の弁証法もそもそも理解する教養がないようだ。文革期に十分な教育を受けられなかったことの後遺症であろうか。
 曰く、 「毛沢東は意図的に大量殺人をおこなったわけではないが、結果的に大量の人間が死ぬことになってもかまわないと考えており、そのような事態が起こってもあまり驚かないようにと、幹部に伝えていた」(邦訳下巻190 ページ)。
 大躍進期の飢餓がなぜ起こったのか、いまではその過程が明らかになっている。人民公社作り、鉄鋼生産運動に熱中しているうちに、自然災害が起こり、ソ連の技術援助引き揚げに伴う混乱があり、食糧不足に陥った。しかしその飢餓の現実を地方からの虚報にだまされて認識できず、対策が遅れた。中国大陸で飢餓が蔓延しているとき、毛沢東は食糧増産という虚報(誇大報告)を疑いながらも、「豚に食わせてもなお余ったらどう処分したらよいか」を真剣に悩んでいた。ばかばかしいような、ほとんどマンガ的な構図だが、これが現実であった。
 毛沢東が、「私の罪状は二つ。一つは1070万トン製鉄運動を呼びかけたこと。もう一つは人民公社作り。人民公社を発明したのは私ではないが、広めたのは私の責任だ」と自己批判したのは1959年7月23日、廬山会議においてのことだ。
 1960年4月全国農村工作部長会議を主宰した譚震林、寥魯言を相手に毛沢東は語った。
「実際の状況がはっきりしない。一部では生産量隠しがあり、過少報告している。一部では過大報告もある。中央の者がわからないだけでなく、省レベル書記にもはっきりしない」。当時河南省の一部、例えば信陽地区では大量の餓死が始まっていたが、「中央書記処の農業担当書記譚震林でさえ実情を理解していなかった」(中共中央文献研究室編『毛沢東伝1949~76』下巻1069ページ)。
 ● では毛沢東が餓死を知ったのはいつか。
 「1960年10月以後、一部の農村で餓死者が出る重大な状況が、ますます毛沢東のところにも報告されるようになった」「10月以後、毛沢東は野菜を食べ、肉を食べなくなった」「毛沢東の体重は75キロに減少した」「10月23~26日、毛沢東は華北、中南、東北、西北地区期省レベル責任者から農業状況の報告を受けた。信陽事件の資料は26日に毛沢東の手許に届けられた」(同下巻1097~1099ページ)。大冊『毛沢束伝1949~1976』には、大躍進期の状況が原資料に基づいて記されている。この大失敗を是正する過程で毛沢束路線と劉少奇路線の対立が生まれる過程も詳しく描かれている。とはいえ「天災三分、人災七分」と政策を批判する劉少奇に対して、毛沢束が「欠点は指▽不、成果が指丸本」と応戦したことまでは書かれているが、結局どの程度の犠牲者が出たのかは書いていない。このあたりが中共中央文献研究室欽定版の限界であろう。
 さて張戎夫婦は餓死者を「3800万人弱」と弾きだした。当時の平均死亡率と58~61年の実際死亡率との差から、平均死亡率を上回る部分を餓死者とみる見方である。類似の計算を私は1984年暮れにやったことがある。私が20年昔に試みた計算によると、張戎夫婦の弾きだした数字のおよそ半分だ。
 どちらが真相に近いのか、中国当局の情報公開を待つはかないが、ここで張戎夫婦が「言3800万という)数字は、ナンバー2の劉少奇によって確認されている」「大飢饉が終息する前の段階で3000万人が餓死したことをソ連チェルボネンコ大使に話している」と書くのは、きわめて疑わしい。
 なぜか。劉少奇がソ連大使に話したとする典拠は、1998年10月28日のチェルボネンコ大使へのインタビューに基づくとしているが、「同大使が劉少奇と会った日時」についての言及を欠いている。「大飢饉が終息する前の段階」という記述からすると、1961年末以前のことであろう。1960年立のソ連援助引き揚げ以後、中ソ関係は悪化の一途をたどった。やがては国境衝突まで至る当時の中ソ関係の下で、劉少奇がソ連大使に「餓死という重大な国家機密」を語ることは想定できるであろうか。もしあったとすれば、毛沢東の強い猜疑心を呼び起こしたはずだ。というのは、1959年の廬山会議における「 彭徳懐意見書」が毛沢東によって異例の扱いを受けたのは、毛沢東が 彭徳懐による大躍進批判の背後に、フルシチョフの幻影を見たからなのだ。もし劉少奇がソ連大使に対して、毛沢東の誤解を受けるような行動をとったとすれば、その時点から大騒ぎになっていたはずだ。張戎夫婦はソ連大使の証言を吟味せず、曖昧なヒアリングしかやっていないことが、ここに露呈している。
 中ソ対立からついには国境衝突にまでエスカレートした過程を無視して、ソ連側の立場に偏り過ぎているため、中ソ対立の激化と連動しつつ劉少奇を「中国の内なるフルシチョフ」として批判を激化させていった過程を見失っている。劉少奇はそのようなレッテルで批判されたが、劉少奇自身がソ連大使と内通していたわけではないのだ。
 なお、詳しくは矢吹の旧稿「大躍進の帰結としての餓死者は1500万を超える」(『蒼蒼』第三号、1985年1月10日)を参照されたい。
 

  ● 周恩来転向声明偽造事件」と富田事件の内ゲバ問題

   周恩来はパリ時代から共産党員としての活動名は「伍豪」を名乗った。「伍豪啓事」とは、国民党諜報機関員(張衝、黄凱)のデッチあげによる「周恩来転向声明偽造事件」である。張戎はこれを毛沢東の陰謀ではないかと疑う。「例の「伍豪転向宣言」も、毛沢東による捏造である可能性が十分考えられた」(上巻199ページ)
 
「可能性」で逃げたつもりかもしれないが、この箇所はたぶん高文謙著『晩年周恩来』(邦訳『周恩来秘録』、文語春秋、2007年)の誤読である。高文謙は1930年代の「転向声明事件」を文化大革命期に毛沢東夫人・江青が利用し、周恩来の晩年に毛沢東自身が再度利用しようとしたことを論証したが、「転向声明」自体が毛沢東の陰謀でないことは高文謙が明記した通りだ(『晩年周恩来』、221ページ)。
 次に富田事件の内ゲバ問題の死者数について。
 「合計で70万人ほどの人間が端金の革命根拠地で死亡したことになる」(上巻195ページ)。
 江西ソビエト時代(江西省端金に「中華ソビエト共和国臨時中央政府」がおかれていた時期)の内ゲバ殺人事件として有名な富田事件を中心とする江西ソビエトの死者を70万人とするのは、江西ソビエト地区の人口減を死者数と錯覚したものだ。共産党側の赤色根拠地は蒋介石の包囲討伐作戦の過程で逃亡者が続出した。人口減をリンチ殺人の死者数と混同するのは初歩的なミスだ(なお私は旧著・講談社現代新書『毛沢東と周恩来』1991年で、富田事件に言及していることを付加しておく)
この事件を長年調査し掘り起こしたのは、地元の党史研究者で、江西省党学校教授の戴向青であり、『AB団与富田事件始末』(羅恵蘭との共著、河南人民出版社、1994年)および戴向青ほか著『中央革命根拠地史稿』(上海人民出販社、1986年)に詳しい。 

  ★ なお、「富田事件」については、福本勝清・『中国共産党外伝・歴史に涙する時』の「第九話」
  <AB団外史>が必読。 後ほど紹介しておきましょう。(続)



●『激辛書評で知る中国の政治経済の虚実』 (2)
 ● 三笠宮崇仁の日中戦争体験

   張戎夫婦は日本車と戦ったのは国民党であり、共産党ではなかったと主張する。しかしアメリカのジョゼフ・スティルウェル将軍のように、国民党軍と比べて紅車の紀律や戦闘能力を評価した人々は少なくない。日中戦争は一五年戦争とみれば、1931~45年、蘆溝橋から数えれば1937~45年の長期にわたる。この期間の「いつの時点」での話し、広い中国戦線の「どの地域」における話かを限定しないと議論は混乱する。張戎はこのあたりを実に曖昧に議論して、自説を強引に押しつける。一例を挙げよう。
「華中では、共産党の新四軍が鉄道を攻撃しないかわりに日本軍は農村地域に展開する新四軍を攻撃しない、という取引が成立した」「共産党軍を攻撃対象にしなかった根本的な理由について、昭和天皇の弟である三笠宮崇仁が著者に明快に説明してくれた。三笠宮は、当時、支那派遣軍総司令部の一参謀だった。三笠宮の説明によれば、共産党は厄介な存在ではあるが戦略的重要性はない、というのが日本側の見方であったという」(邦訳上巻377ページ)。

 この記述は二重、三重の誤解に基づいている。まず新四軍との「取引」とは何か。張戎は19339~40年の脈絡で記述しているが、三笠宮が旧支那派遺軍・総司令部の参謀として南京に勤務したのは1943年1月から44年1月までの1年間であり、時期が異なる。
1937年12月前後の南京大虐殺を事後に知った三笠宮がこれを強く批判したことは、有名だ。その他、張戎のこのようなデタラメ引用によって、三笠宮と日中戦争のかかわりについて、事実に合わない印象が作られるのは看過しがたい。以下、長文になるが、三笠宮崇仁にかかわる関係資料を引用しておきたい。
 

 ●三笠宮は『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)の冒頭で、歴史に関心を持つに至った理由をこう説明している。

 
 「戦前の皇室には、皇族身位令という法規があり、皇族は特別の理由がある場合のほか陸軍または海軍の武官に任ずる、という意味のことが記されていました」「当時の歴史をふりかえってみましょう。その前年の1931年には、満洲事変がはじまっていました」(10~12ページ)。
 ここで三笠官は『東京朝日』1930年9月19日付「奉天発至急報電通」の記事を引用している。「この事件より3年前、すなわち、1928年の6月にも次のような大事件が発生しています」として、『東京朝日』6月5日付の「奉天特派員発電」を引用している。「張作霖氏の乗った特別列車が満鉄奉天駅を距たる1キロの満鉄線の陸橋下の京奉線を驀進中、突然轟然と爆弾が破裂し、満鉄の陸橋は爆破され、進行中の張氏の特別列車の貴賓車および客車三台爆破され、1台は火災を起し焼滅し、陸橋も目下燃えつつあり、我守備車および警官出張中である」「埋設してあった爆薬を南軍便衣隊が(中略)爆発させたものらしく、その破壊力偉大な所は到底投げつけた爆弾のおよぶところではない」

 この記事に続けて三笠宮は言う。

 「そのころは、私もこの記事を信じましたが、やがてそれらが日本陸軍の謀略であることがわかってきました」「そして1932年には、日本海軍と陸軍が共同して上海事変を起こしました」「上海に上陸した陸軍のある師団長は、支那軍が降参しなければ、四百余州を焼きはらうと豪語したといいます。当時の日本(軍)人がいかに中華民国や中国人を侮蔑していたかがわかります」(13ページ)。
 「1936年の春、士官学校本科を卒業した私は、千葉県習志野の騎兵第一五連隊に勤務を命ぜられました」「そのころのことで、今もなお良心の呵責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです。それゆえ、精神訓話のさいには、日本軍のおこなう戦争は正義のいくさである、と部下に教えていました」(14ページ)。
 「1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして 1年間在勤しましたが、その間に私はは日本車の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例を挙げられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考え下さい」(16ページ)。
 三笠宮は南京の総司令部で「日本車の残虐行為」として何を知ったのであろうか。

 「ある青年将校(私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです)から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突き刺させるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満洲の荒野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満洲事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが、成功しなかった、と語っていました。「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした」(16ページ)。

 淡々とした語り口だが、三笠宮は南京事件の直後にこれらの事実を知ったわけだ。
 「私が上海地区の視察に行ったとき、ある師団長はつぎのように述懐されました。『われわれが戦っている敵方の中国軍と、日本車に協力している昧方の中国軍とを比較すると、相手方のほうが一般民衆にたいする軍紀が厳正です。われわれは正義の戦いをしているはずなのに、軍紀のゆるんでいる軍隊を助けて、軍紀のひきしまっているほうの軍隊を討伐することに、つくづくと矛盾を感じます』と。今にして思えば、ヴェトナムにおける米軍もまさに同様の矛盾を感じていたのではありますまいか」(19~20ページ)。
 ここで「日本軍に協力している昧方の中国軍」とは、いうまでもなく汪兆銘南京政府を指している。三笠宮が1943年5月26日に畑支那派遣車総司令官とともに汪兆銘南京政府主席と会談している。

 では「敵方の中国軍」とは、何を指すのか。文脈からして、ここでは蒋介石の重慶政府を指している。では三笠宮は共産党の軍隊をどう見ていたのか。

  
 「話はまた私が中国で勤務していた時にもどります」「日本車は中国大陸の各地で中国軍と対峙していましたが、『大同の石仏』で名高い山西省の山中では八路軍と対陣していました。長期持久戦ですから、食糧も衣料も自給自足しなければなりません。日本軍はとにもかくにも戦線の背後に鉄道を持っていましたが、八路軍の後方には山岳地帯と万里の長城が横わっているだけです。しかも、その陣地線は延々とつらなる岩山でした。そこに彼らは土を運んできては、種を播いて自給自足をはかったと思われます。われわれはその模様を空中写真から読み取りました。その情熱。これには日本車の司令官も舌を巻いていました」「彼らの対民衆、ことに婦人にたいする軍紀はおどろくほど厳粛でありました。当時、日本軍人で婦女子に暴行する者がいることに頭を悩ましていた某参謀は、『八路軍の兵士は、男性としての機能が日本人とすこしちがうのではなかろうか』と、まじめに話していました」(33~34ページ)。

  
 前述の「敵方の中国軍」として三笠宮が認識していたのは、明らかに国民党軍であったが、実は三笠宮がここで「厳粛な軍紀」に言及するとき、より印象深く感じていたのは、山西省の八路軍であったことが、この引用から理解できよう。まさに、その情熱の根源を探求するために、彼は戦後歴史や宗教を学び始めたわけだ。最後にもう一節を引用しておきたい。

 「旧約聖書を読んでいくうちに、私の心を強くとらえたのは、多くの預言者たちの叫ぶ「社会正義」の問題でありました。聖戦にあいそをつかした私は、さきに記しました宣教師や八路軍の情熱を解くカギが、この旧約聖書の中にひそんでいるような気がしてきました」(36~37ページ)。
 
 三笠宮の日中戦争体験を以上のように見てくると、張戎夫婦が三笠宮を訪問して何をヒアリングしたのかがきわめて疑わしくなる。少なくとも三笠宮の見解として張戎が記述しているものは、三笠宮の真意からはるかに隔たっているし、あえていえば張戎は三笠宮とのインタビューを売り物にしつつ発言(されたであろう)内容とはまったく食い違うことを書いていることが、以上の引用から推察できよう。
 


   ● 毛沢東の死生観および大躍進期の餓死者数 へ(続)
  


●『激辛書評で知る中国の政治経済の虚実』 (1)
 第一部 歪曲、誤解にまみれる「嫌中、嫌毛]狂想曲を読む
  第一章 常軌を逸した毛沢東像

● 張戎ほか『マオ誰も知らなかった毛沢東』

  『マオ』のイギリス版が出たのは2005年6月、アメリカ版が10月に出て、邦訳は11月に出た。毎日新聞の桐山正寿記者は、出版宣伝のために来日した著者をインタビューして「中国人7000万人の死に責任がある(毛沢東)」と題した記事を書き(2005年12月4日付)、読売新聞の植田滋記者は「冷酷非情、世界支配欲、毛沢東の実像」と題したインタビュー記事を掲げた(12月7日付)、朝日新聞の書評欄(2005年12月25日付)ではニ人の書評委員が持ち上げた。スタンフォード大学名誉教授青木昌彦書評委員のお薦め[今年の三点」のうち、一冊は『マオ 誰も知らなかった毛沢東』であり、これを推した青木の説明は次の通りである。「大躍進や文革時代の毛の凄まじい権力志向についてはこれまでも公にされてきたが、『マオ』は前革命時代にも同じような行動パターンがあったとする。ソ連邦、コミンテルンの資料や関係者の証言に基づいて、スターリン、毛、蒋介石の間の駆け引きが織りなす日中戦争と国内戦争・革命の展開について新「事実」を提供する。これからの史実的検証に耐えれば、20世紀中半の東洋史(神話)の書き直しを迫るインパクトをもつだろう」。
 三文小説にまんまとだまされた、したり顔の白髪老人(青木)の中国理解度はこの程度であったか。

 テレビ朝日系「報道ステーション」人気キャスター・加藤千洋書評委員のお薦め「今年の三点」のうち、一冊はやはり『マオ 誰も知らなかった毛沢東』だ。曰く、
 「「農村で都市を包囲する」と革命戦略を語ったのは毛沢東。「農民は動揺していない」と天安門事件で北京のデモ鎮圧を指示したのは小平だった。それほどに中国政治で決定的な要素であるはずの農民に、富農出身の毛沢東は強いシンパシーを実は持っていなかった。意外な毛像を提示したのが『マオ』だ。旧ソ連資料を用いて書きかえられた毛沢東像、中国現代史の「実相」は衝撃的だ」。
 やはり虚偽宣伝にまんまと乗せられて、宣伝にこれ努めていることがわかる。これがボーン賞を得た元中国支局長だから、ボーン賞の水準も、この新聞の中国報道も、読むに堪えないレベルであることは、察しがつこうというものだ。加藤千洋氏は『週刊朝日』2005年12月16日号に4ページにわたって張戎をインタビューした記事を発表している。タイトルは「毛沢東は始皇帝よりも暴君だった」である。これは典型的な提灯記事であり、張戎の誤謬に対する批判は皆無である。

 『朝日新聞』書評欄は、2006年1月15日、松原隆一郎教授の書評を掲げたが、これもド素人のたわごとである。問題はこれら三人(青木・加藤・松原)の無学無知な半可通が判断を間違えた事実にあるのではない。真偽を鑑定するに足るまともな中国分析を『朝日新聞』等が過去10~20年にわたって怠ってきたことが重大なのだ。大事な報道、大事な分析を怠ってきた結果がここに露呈されたと読むのが私の見方である。だからこそ由々しい事態なのだ。もし必要とあらば、その材料をいくつでも提示したいが、あえて絞り込み、●最も基本的な文献を二つ挙げよう。

 一つは日本で編集された『毛沢東選集』(補巻を含めて全20巻)である。これは中国語原文であるが、1949年までの毛沢東の書いたもの、話したものは可能なかぎり原文に近い形で収めて、テキスト批判を加えてある(北望社、のち蒼蒼社)。
 毛沢東論が揺れるのは1949~76年、すなわち建国以後だが、この時期の毛沢東について最も詳細に描いたのは、中共中央文献研究室の『毛沢東伝1949~1976』(上巻884ページ、下巻914ページ、計1798ページ、2003年)である。
 張戎はこの両者をまったく無視している。プロならば、ここを見ただけで、書かれたものの水準がわかるのである,張戎の無知はどうしようもないが、このように最も基本的な文献を知らないで、毛沢東を論じようとするのは、そもそも間違いである。そこに気づかないのは、専門家をかたる素人教授たちである。無知高慢は許されない。

 日本経済新聞、2006年1月8日付慶応大学・国分良成敦授(日中友好21世紀委員会委員)の書評も、あとで厳しく批判するが、文意不明の言葉コロガシである。
 早稲田大学大学院・天児慧教授の駄文「衝撃の書『マオ』の読み方」(『現代』2006年1月号)は、「衝撃」「衝撃」を繰り返した。毛沢東と小平を描いた天児著『巨龍の胎動―毛沢東vs小平』の「絶版」を宣言するならば潔いが、この程度の本を定説と自賛し、他方でまったく異なる基調からなる『マオ』を手放しでほめるのは、無節操も甚だしい。こんな支離滅裂の学説を聞かされたのでは、まともな学生は教室から逃げ出すであろう。

 大新聞、有名学者がこぞって大宣伝に努めた結果、この悪書はベストセラーのトップを続け、インターネットのブログでは、いまや『マオ』の謬論」を前提とした中国論が広く行われ、暴論が「ナウイ中国イメージ」扱いされている。嫌中・反中ムードに便乗して悪書が良書を駆逐し、日本に中国脅威論の亡霊が漂う。これを煽る悪書の代表が『マオ』だ。由々しい事態ではないか。

● 大渡河濾定橋の強行突破について

 話題に選ぶ最初のトピックは、長征のシンボル大渡河濾定橋の戦闘を否定した問題である。張戎夫婦の『マオ』は、ここでは戦闘は行われず、長征神話は中国共産党の宣伝にすぎない。エドガー・スノーのウソにだまされてきたという。『マオ』は目撃者として「濾定橋のたもとに住む九三歳の老女・李秀珍」の証言を挙げ、また国民党の戦闘計画によると八路軍が到着する前に国民党部隊は撤退していたと書く。しかし、この出来事については、兵士たちの数多くの証言があるし、それらは後日まとめられた『星火燎原』に収められている。ハリソン・ソールズベリーの『長征』、ディック・ウィルソンの『長征1935』などでも言及されていることは、周知の通りだ。

 
 ここで面白いのは、2005年10月、『マオ』が話題になったあと、オーストラリアの新聞 ジ・エイジ「the Age」が調べたエピソードである。張戎が取材したと称する目撃者を追跡できなかったのだ。逆にシドニー・モーニングヘラルド紙は、八五歳の目撃者Li Guixiu(当時15歳)を追跡できたが、この人物は張戎の主張を否定した。つまり、張戎のデッチあげた「93歳の老女・李秀珍」は存在せず、その目撃証言を否定する「八五歳の目撃者」は、確かに存在した。
 
  (続)

原爆投下について(8)
 歴史の事実を記憶して伝えていくことは、最低限の義務である。

 その時代を生きた人の、それを伝え聞いた人の。 


  「・・● 午前八時十五分(日本時間)リトルボーイは広島に投下された。
 ティベッツは機内の拡声器で、「乗務員の皆に告げる。諸君はいま歴史上最初の原子爆弾を投下した」とアナウンスした。
 リトルボーイは標的の太田川をまたぐ相生橋から五百五十フィート外れて、島病院の中庭の千九百フィート上空で爆発した。その威力は一万二千五百トンのTNT(トリニトロトルエン)の爆発と同等の威力であった。爆発点の温度は華氏五千四百度に達し、ただちに爆心地から半マイル以内に大きな火の玉が発生して、この範囲内にいた人々の内臓を一秒の何分の一かで蒸発させてしまったために、たために、人々は小さな丸焦げの塊になってしまった。このような塊が幾千も道路に、歩道に、橋の上に転がっていた。銀行の前の石段に坐って銀行が開くのを待っていたひとりの男性は完全に蒸発して、ただ大理石の石段の上にその影を残しているのみであった。
 爆発の後に発生した爆風は火災を引きおこし、市内全七万六千戸の家屋のうち七万戸が全焼した。火は至るところから発生し、全市をなめつくし、火が駆けまわるところすべてを焼き払った。人びとは、あるいは放心したように押し黙ったまま、どこへということもなくゆっくりと歩いており、あるいは、大声で肉親を探しまわっていた。数千の死体が川に浮かんでいた。語ることも描写することも不可能な悲惨と苦痛と恐怖が至るところに満ち溢れていた。そして、黒い雨が降り、人びとを放射能に曝した。最初の爆発と火災から生き残った人びとも、この放射能で死んでいった。

 後に広島市と長崎市でなされた報告によると、広島の原爆によって、二万人の朝鮮人を含む三十五万の広島の人口のうち十一万の市民と二万の軍人が即死し、一九四五年の末までに十四万人が死亡した。
 八月六日、イギリスのプリマスを後にして四日後、トルーマンはオーガスタ号の乗組員と食堂で昼食をとっていた。そこヘホワイトハウスのマップルーム配属のフランク・グラハム海軍大佐がきて大統領にメモを手渡した。メモは、「大きな爆弾がワシントン時間八月五日午後七時十五分広島に投下された。最初の報告によれば先の実験よりもより顕著にして完全なる成功であったこと、が明らかである」と告げていた。大統領は喜びの笑みを浮かべた。ただちに飛び上がってグラハムの手を握り、「大佐、これは史上最大の事件だ」と述べた。そしてグラハムに、メモを食堂の別のテーブルで食事をしていたバーンズに見せるよう指示した。バーンズもメモを目にして、「これでよし、まったくよし」と叫んだ。
 数分後に第二報が届いた。それは「これまでに行ったどの実験よりも明らかに破壊力が大きい」と伝えていた。トルーマンは食堂にいた乗組員に合図をして、「われわれはTNT二万トン以上の爆発力を持った新型爆弾を日本に投下した。それは圧倒的な成功であった」と宣言した。トルーマンとバーンズは士官室に行って原爆投下のニュースを伝えた。
 その間、ワシントンでは、ホワイトハウスの報道宮エベン・アイヤーズがあらかじめ用意された大統領の声明を発表した。これは「これより少し前にアメリカの爆撃鉄が広島に一発の爆弾を投下して、(広島がもつ)対敵効果を破壊した。この爆弾はTNT二万トン以上の威力がある」と始まっていた。さらに声明は、この爆弾は日本が真珠湾攻撃によって戦争を開始した行為にたいする報復であると述べた。その上で、トルーマン声明は「原爆はさらに製造されており、より強力な爆弾が作られている」と語り、次のように警告した。
「七月二十六日の最後通牒が出されたのは日本の人々を完全なる破棄から救うためであった。しかし、彼らの指導者はただちにこの最後通牒を拒否した,もし彼らがわれわれの条件を受け入れないならば、いまだかつてこの地球では見られなかったような空からの破壊の雨を予期しなければならない。この空からの攻撃につづいて海と陸からの攻撃がなされるであろう。そしてその数と力は彼らがこれまでに知っている戦闘技術をはるかにうわまわるこれまで見たことのないものであろう」

 トルーマンの原爆投下への対応に関して、次の三点が指摘されなけ杵はならない。第一に、トルーマンが原爆投下の報に接しかときの最初の反応はほとばしるような歓喜であった。後にトルーマンが原爆投下は苦渋に満ちた決定であったと記しているにもかかわらず、この第一印象にはひとかけらの哀悼、悔い、苦痛の感情もなかった。なぜトルーマンは飛び上がるほど歓喜したのであろうか。● まず、トルーマンが広島に投下された原爆によってもたらされた一般市民の死傷者の数についての詳細な報告をまだ受けとっていなかったことが指摘されなければならない。TNT一二・五キロトンの威力を十万人以上の死者と結びつけて理解するには、ある時間を必要としたのであろう。さらに、戦争を遂行している国の指導者として、原爆の投下が戦争の終結を早めて、自国の兵士の犠牲を少なくすることを喜んだのも当然であろう。この意味で、トルーマンは原爆の報を聞いたとき「これでわれわれは家に帰ることができるのであろうか」と聞いた水兵たちと同じ思いをもったのかもしれない。

 ● 第二に、トルーマン声明の重要な箇所に注目しなければならない。それはトルーマンがこの原爆投下を、日本の真珠湾攻撃にたいする報復として定義している箇所である。一九五四年にアイヤーズはトルーマンにインタビューを行い、次の記録を残している。
 「彼(トルーマン)は広島の人口について質問したところ、六万人であるという回答を受けとったと述べた。彼は二十五万のアメリカ兵が戦死するよりも、六万人の日本人が死ぬことのほうがはるかに良いことであると語った」
一九四五年八月の広島の人口は二十八万から二十九万人の一般市民、四万三千人の軍人、合計三十二万三千から三十三万三千人であった。
トルーマンがどこから人口六万という数字を得たのかは不明であり、この数字は後に彼が原爆投下を正当化するためにでっち上げた数字であるかもしれない。それにしても、六万の日本人と二十五万のアメリカ人を比較して、六万の日本人を殺戮することは、二十五万人のアメリカ兵を救うことからすれば正当化されると考えたことこ自体、一九四五年八月におけるトルーマンの思考プロセスを暗示するものとして注目に値する。トルーマンにとって日本人―軍人のみならず一般市民にいたるまでーにたいする攻撃とは、真珠湾を不意打ちし、アメリカの捕虜を虐待した「野蛮で残酷な民族」にたいする正当な報復であった。

 ● 第三に、さらに重要なことは、この声明で日本がただちにポツダム最後通告を拒否したと断定していることである。前述したようにトルーマンは自分の回想録で、二度にわたって日本政府がポツダム宣言に回答しなかったと述べている。海軍情報部は東郷の七月三十日付電報で、日本が降伏の条件としてポツダム宣言の条項を基礎にして交渉する意図があることについて言及している。さらに八月二日にワシントンのOSS(戦略情報部)は大統領に宛てて、ベルンの日本人グループが「ポツダム宣言は日本が戦争を終結する道を示した賢明な文書である」と性格づけ、とりわけ「無条件降伏」が「日本車の無条件降伏」と修正されていることに注目していると報告した。このグループは、日本のラジオ放送が報道していることはプロパガンダに過ぎないので、アメリカ政府はこれをあまり真正直に受けとめないよう忠告し、OSSのアレン・プレスにたいして、日本の回答は「公式チャンネル」を通じてなされると述べた。
トルーマンとバーンズがこれらの報告を読んだという証拠はない。
しかし、トルーマンが後に述べているように、ほんとうに原爆投下ができれば回避したい苦渋の決断であったとすれば、ポツダム宣言にいかに日本が対応したかの報告を注意深く見守ったはずだと推測するほうが自然である。なぜトルーマンはこれらの報告を通して洩れてくる微かな明かりのゆらめきを利用しようとしなかったのであろうか。
 一つの回答は、トルーマンがこれとは対照的な情報を受けとっていたという仮定である。統合参謀本部は、海軍情報部とOSSからの報告により、日本は「決号」作戦で九州に大量の兵力増強を行っているというウルトラからの暗号解読で得た情報を受けていた。トルーマンは連合国が無条件降伏を要求したら、日本はこれを拒否して最後まで戦うことをよく知っていた。彼は無条件降伏の要求とアメリカ兵の犠牲を最小にすることヽその二つを目的としていた

● 交渉による降伏は彼の頭にはなかった。いかなる交渉であれ日本と交渉することは弱みを見せることであり、それは日本の組織意思を強固にすることである。国内的にみても、このような弱さを見せれば国民のあいだに新しい大統領への信頼を失わせることになる。トルーマンには原爆を使用するほか手段はなかった。
 これが歴史家フランクの展開する議論である。

 この議論は、日本がポツダム宣言にいかに対応するかはトルーマンにとっては興味がなかったという事実を補強するものである。トルーマンには、日本政府の公式の回答は必要ではなく、ラジオで伝えられた鈴木首相の声明だけで、日本政府がこれを「即座に拒否した」と結論するに十分であった。トルーマンをこの時点で満足させられる日本政府の回答は降伏の決定だけであり、これを満たさない情報はすべて無視されたのである。トルーマンは急いでいたしかし、フランクが主張するようにルーマンの最大の目的がアメリカ兵の犠牲を最小にすることにあったならば、無条件降伏を修正するか、ソ連参戦を待つか、この二つの選択をなぜ選はなかったのであろうか。トルーマンはフランクが主張するように、原爆より他の手段がなかったのではなく、彼が十分選択することが可能であった手段を意識してとろうとしなかった。それは、たんにアメリカ兵の犠牲を最少にすることばかりでなく、ソ連参戦の前に日本の降伏を勝ちとること、日本に無条件降伏を突きつけることが彼の目的でもあったからである。原爆は彼のすべての目的を達成する格好の手段であった。

 トルーマンは広島への原爆投下の報に歓喜した。それは、トルーマンが日本人を殺戮することに喜びを見出しだからではない。むしろ`彼とバーンズが立案した「時刻表」通りに物事が進んでいったことに喜んだのであろう。この後でなすべきことは日本降伏の報を待つことだけであった。

 


原爆投下について(7)
  ● 古今東西、独裁者ほど孤独な者はいない。

 独裁者には、自ら招いた事態とはいえ、真に心を打ち明けて話し合う友もいない。

 ただ、独裁的な権力の保持者が決断力をあわせ持っていれば、緊急な決定を要する事態には対処できる。極度な慎重派(別の言い方をすれば、臆病者)であったというスターリンの、このトルーマンの「出し抜き=ヤルタ宣言への裏切り」を確信したときの素早い反応も今では納得のいくものだ。

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 『暗闘』より続ける。

 <第五章> 原爆とソ連の参戦

 トルーマンの「出し抜き=ヤルタ宣言への裏切り」を確信した、スターリンの反応は素早かった。

 トルーマンによる「ポツダム宣言の作成と発表からの完全なソ連の締め出し」は、スターリンが計画していた「戦争開始の時刻表」の変更という結果を生んだ。 
 

 「・・ 
 八月三日には、イワノーフ極乗車参謀総長とワシリエフ少将(ワシレフスキー元帥の変名)が連名でスターリンとアントーノフに重要な電報を送っている。この電報は、八月五日までに第一、第二極東戦線のソ連軍はあらかじめ定められた国境から五十~六十キロ離れた拠点地に集結することを完了するとの報告である。ワシレフスキーは奇襲の効果を最大限にするためには、二つの方面軍の攻撃が「同日の同時間に」なされることが重要であり、攻撃の命令を受けとってから国境を越えて攻撃を開始するまで三日から五日を要すると述べている。これから計算すると、ワシレフスキーは攻撃が八月九日から十日(モスクワ時間)に開始できると考えていたことが推測される。ワシレフスキーは最高司令部に、軍事行動開始の正確な日時に関する最終的な指示と「政治的外交的問題に関する指示」を与えてくれるよう要請した。

 ●この電報は二つの重要な事実を示唆している。第一に、これはあきらかにまだ未発見のままであるスターリンが送った電報にたいする回答であり、スターリンはこの電報で、これまでに設定されていた八月十一日を一日か二日早めることができないかと打診したと推定できる。ワシレフスキーの電報は八月三日に出されているから、このスターリンの命令はモスクワに発つ前の八月二日、おそらくポツダムから出されたのだろう。トルーマンがスターリンの裏をかいてポツダム宣言をスターリンの署名なしで発表したこと、これはアメリカがソ連の参戦前に日本を降伏させる方針であるに違いないと考えたスターリンは、急いで戦争開始の日を早めたのだと思われる。ワシレフスキーの「政治的外交的問題に関する指示」という言葉は、ソ連の戦争開始のタイミングがアメリカの政策と関係していることを示唆している。

 第二にワシレフスキーの電報は、戦争開始の日時を八月九日か十日と設定されていたものの、これにたいする軍事行動開始の日時に開する最終的な指示を依頼していること、さらに「政治外交的問題に関する指示」を依頼していることから、最終的な決定というよりは、一つの提案であり、これをモスクワの最高司令部の決定にゆだねたことを示唆している。この提案を受けて、最高司令部は八月十一日に設定された当初の戦争開始の時期を早めるか否かについての討議を行ったが、時期尚早の攻撃は危険であると判断して、元のように攻撃の日時をザバイカル時間の八月十一日の午前零時(モスクワ時間の八月十日午後六時)と設定した。スターリンが求めたと想定できる「政治的外交的」観点からの攻撃開始のくり上げか、それとも軍事的観点を重視して、すべての準備がこれを想定してなされていたこれまで通りの戦争開始日時を遵守するのかの選択で、最高司令部は、この時点では戦争開始を早めることは得策ではないと判断したのであろう。

 スターリンがモスクワに帰国したのは八月五日の夕方であった。スターリンの八月五日の日程表は、彼がモスクワに到着するなりものすごい勢いで仕事をし始めたことを物語っている。彼はまず、モロトフ(外相)、ヴィシンスキー(外務次官)、ベリヤ(内務人民委員部長)、クズネツォーフ(海軍人民委員)、ミコヤン(レンドリース担当)などソ連指導部の高官との会議をこなしている。この顔ぶれから考えると、スターリンが日本との戦争、さらにアメリカの原爆使用の可能性について討議したことは確実である。ここにアントーノフの名前が見えないのは、おそらく彼とは軍用電話で連絡を取っていたからであろう。
 ソ連はまっしぐらに対日戦争へと進んでいった。スターリンは急いでいた。


 ● アメリカ、広島に原爆投下

 「七月三十一日に原爆「リトルボーイ」は実戦に使用する準備が出来た。しかし日本を台風が襲ったので、投下は延期された。その間、原爆投下のための準備が着々と進められていた。七機のB-29がこの任務につくことになっていた。原爆を搭載する一機のほかに、三機は気象観測用で広島、小倉、長崎に飛行する。二機は原爆を搭載したB‐29を護衛する任務を帯び、他の一機は原爆の投下とその結果を観察する任務をおびた科学専門のジャーナリストとカメラマンを乗せた飛行機であった。この一隊のほか硫黄島でもう一機が、原爆搭載機にトラブルが起こった場合にそなえて待機していた。
 八月四日にポール・ティベッツ大佐はブリーフィングを行い、与えられた特別任務とは広島、小倉、長崎のうちのどれか一つの都市に原子爆弾を投下することであると初めて乗務員に明かした。
最初の原子爆弾を組み立てる任務を遂行したウィリアム・パーソンズ海軍大佐が、トリニティー原爆実験の記録映画を乗務員に見せた。絶対に禁止されていたにもかかわらず、ブリーフィングでの話をこっそりノートにとっていたエイブ・スピッツァーは「まるで異常な想像力をもった人が見た奇妙な夢のようであった」と記した。
 次の日の八月五日の天気予報は、天候は良好に向かうと伝えた。この日の午後二時、グアムの第二一戦略爆撃航空軍カーティス・ルメイ参謀長が「使命は八月六日に達成されることを確認」した。この日の午後、「リトルボーイ」はB-29爆撃機に搭載された。機長のティベッツは、この爆撃機を自分の母親の名前にちなんで「エノラ・ゲイ」と名づけた。夕食までにすべての準備が完了した。
ティベッツは真夜中の零時に最後のブリーフィングを行った。プロテスタントの従軍牧師がヽ封筒の裏に急いで書いた祈祷の言葉を読みあげた。

「全能の父よ。貴方の御許天国の高い空を飛び、われわれの敵との戦いを遂行する者たちと共に居らせられますように」

飛行前の朝食の後に、エノラ・ゲイを背景にして駐機場で記念撮影をしてから、乗務員は全員機に入った。テニアン時間で午前二時四十五分(ワシントン時間で八月五日の十一時四十五分)エノラ・ゲイは離陸した。これを追って、二機の観測機B‐29が二分の間隔をおいて離陸した。


 


(続)南方熊楠の手紙
 最後に熊楠大人に、いま<一節>うなっていただきましょう。 

  *************
 ・・・
 学問するものは愚人に知られずとて気に病むようでは学問は大成せずとて、貧弱な村に一生おって小学の教師の代用などした天主憎メンデルは、心静かに遺伝の研究をしていわゆる「メンデルの法則」を確定したるに、生前誰一人その名をさえ知らず、死後数年にしてたちまちダーウィソ以後の有力な学者と認められた。人の知る知らぬを気兼ねしては学問は大成せず、と言い放つところへ鶴見商務局長入り来たる。この日英皇太子入京にて、諸大臣大礼服で迎いにゆくとて大騒ぎなり。
・・・(そんな国事を前にしたときの話だと思うとなお興味は募る・・)

 痛いというのと痒い(かゆい)というのとは実は程度のちがいで、海綿の海に生ずるものは件の刺大なる故つくと痛む。しかるに、淡水に生ずる海綿は至って小さなもの故、その剌したがって微細で、それでつかれても痛みを感ぜず、鍋の尻につける鍋墨に火がついたごとくここに感じここに消えすること止まず。すなわちハシカなどにかかりしごとく温かくて諸処微細に痒くなり、そのかゆさが動きあるきて一定せず、いわゆる漆にかぶれたように感ずるなり。それを撫でるとまことに気持がよい。
 
 むかし男色を売る少年を仕込むにその肛門に山椒の粉を入れしも、かくのごとく痒くてならぬところを、金剛(男娼における妓丁のごときもの)が一物をつきこみなでまわして快く感ぜしめ、さてこのことを面白く感心ぜしむべく仕上げたるなり。ちょうどそのごとく、この淡水生海綿の微細なる刺をきわめて細かく粉砕し(もっとも貴女にはきわめて細かく、新造にはやや粗く、大年増には一層粗く、と精粗の別を要す)貯えおき、一儀にのぞみ、一件につけて行なうときは、恐ろしさも忘るるばかり痒くなる。(これをホメクという。ホメクとは熱を発して微細に痒くなり、その痒さが種々に移りあるくをいうなり)時分はよしとて「一上二下」、「三浅九深」の法を活用すると、女は万事夢中になり、妾悔ゆらくぱ生まれて今までこんなよいことを知らざりしことをと一生懸命に抱きつき、破れるばかりにすりつけもち上ぐるものなり、と説教すると、山本農相はもちろん鶴見局長も鼠色の涎(どんなよだれだろう)を流し、ハハハハハ、フウフウフウ、それはありがたいなどと感嘆やまず。初めの威勢どこへやら小生を御祖師さんの再来ごとく三拝九拝して、寄付帳はそこへおいて披下い(いらっしゃい)、いずれ差し上げましょう、まことにありがとうございました、と出口まで見送られた。

 それから十五日に山本氏より寄付金もらい、二十五日朝、岡崎邦輔氏を訪い寄付金千円申し受けた。そのとき右の惚れ薬の話せしに、僕にもくれぬかとのこと、君のは処女でないからむつかしいが何とか一勘弁して申し上げましょう、何分よろしく、今夜大阪へ下るから、かの地でも世話すべしとのことで別れ、旅館へ帰るとすぐさま書面で処女でない女にきく方法を認め、即達(速達)郵便で差し出した。
 
 それには山本農相など処女を好くようだが、処女というもの万事気詰まりで何の面白くもなきものなり。しかるに特にこれを好むは、その締まりがよきゆえなり。
 さて、もったいないが仏説を少々聴聞させよう。
 釈迦、菩提樹下に修業して、まさに成道せんとするとき、魔王波旬の宮殿震動し、また三十二の不祥の夢を見る。よって心大いに楽しまず、かくては魔道ついに仏のために壊らるべしと煥悩す。魔王の三女、姉は可愛い、既産婦の体を現じ、中は可喜、初嫁婦の体、妹は喜見と名づけ山本農相、専門の処女たり。この三女菩薩の処に現じ、ドジョウスクイを初め雑多の踊りをやらかし、ついに丸裸となりて戯れかかる。最初に処女の喜見が何としたって仏心動かず。次に中の可喜が昨夜初めて男に逢うた新婦の体で戯れかかると、釈尊もかつて妻との新枕を思い出し、少しく心動きかかる。次に新たに産をした体で年増女の可愛が戯れかかると、釈尊の心大いに動き、すでに仏成道をやめて抱きつこうかと思うたが、諸神の擁護で思いかえして無事なるを得た、とある。されば処女は顔相がよいのみで彼処には何たる妙味がなく、新婦には大分面白みがあるが、要するに三十四、五のは後光が射すと諺の通りで、やっと子を産んだのがもっとも勝れり。
 それは「誰が広うしたと女房小言いひ」とあるごとく、女は年をとるほど、また場数を経るほど彼処が広くなる。西洋人などはことに広くなり、吾輩のなんかを特って行くと、九段招魂社の大鳥井(靖国神社の大鳥居)のあいだでステッキ一本持ってふりまわすような、何の手ごたえのないようなのが多い。
 ゆえに西洋人はひとたび子を産むと、はや前からするも興味を覚えず、必ず後ろから取ること多し。これをラテン語で<VENUS AVERSA>という。シナでは<隔山取火>という。されど、子を生めば生むほど雑具が多くなり、あたかも烏賊が鰯をからみとり、たこが梃に吸いつき、また丁字型凸起で亀頭をモっとするように撫でまわす等の妙味あり。膣壁の敏感ますます鋭くなるゆえ、女の心地よさもまた一層で、あれそんなにされるともうもう気が遠くなります、以下略 と夢中になってうなり出すゆえ、盗賊の禦ぎ(ふせぎ)にもなる理屈なり。(ホントか?)・・・

 マックス・ノールドーの説に装飾は男女交会より起こるとあったようだが、南方大仙などはそこどころでなく、人倫の根底は夫婦の恩愛で、その夫婦の恩愛は、かの一儀の最中に、男は女の気をやるを見、女は男の気をやるを見る(仏経にはクキョウという)、たとえば天人に種々の階級あるが、いかな下等の天人もそれ相応の下等の天女を見てこれほどよい女はないと思うがごとく、平生はどんな面相でもあれ、その究竟(クキョウ)の際の顔をみるは夫妻の間に限る。それを感ずるの深き、忘れんとして忘られぬから、さてこそ美女も悪男に貞節を持し、好男も醜妻に飽かずに倫理が立って行くのだ。むかし深山を旅行するもの、荷持ちの山がつのおやじに「こんな山中に住んで何か面白いか」と問いしに、こんな不躾の身にも毎夜良妻の悦ぶ顔を見るを楽しみにこんなかせぎをすると言いしも同趣なり。されば年増女のよがる顔を見るほど極楽はなしと知らる。(「土佐源氏」を思い出す人も多いだろう)
 しかるに、右にいうごとくトンネルの広きには閉口だ。ここにおいて石榴(ザクロ)の根の皮の煎じ汁で洗うたり、いろいろしてその緊縮の強がらんことを望むが、それもその時だけで永くは続かず。

 ここに岡崎老の好みあるく大年増の彼処を処女同様に緊縮せしむる秘法がある。それは元の朝に真臘国へ使いした同達観の{『真臘風土記』に出ており。そのころ前後の支那の諺に、朝鮮より礼なるはなく、琉球より醇なるはなく、倭奴より狡なるはなく、真臘より富めるはなし、というた。真臘とは、今の後インドにあって仏国に属しおるカンボジア国だ。むかしは一廉(ひとかど)の開化あって、今もアンコール・ワットにその遺跡を見る、非常に富有な国だった。しかる故に支那よりおびただしく貿易にゆくが、ややもすれば留まって帰国せぬから支那の損となる。周達観、勅を遣わしてその理由を研究に出かけると、これはいかに、真朧国の女は畜生のごとく黒いそひな生れで、なかなかお眼どまりするような女はない。しかるにそれをシナ人が愛して、むかし庄内酒田港へ寄船した船頭はもうけただけ土地の娘の針箱に入れ上げたごとく、貿易の利益をことごとくその国の女に入れてしまう。故に何度往っても「お松おめこぱ釘貫きおめこ、股で挟んで金をとる」と来て、ことごとくはさみとられてしまい、財産を作って支那に還る者は少ない。

 かかる愚女のどこがよいかと調べると、大いにわけありで、このカンボジア国の女はいくつになってもいくら子を産んでも彼処は処女と異ならず、しめつける力ははるかにビン詰屋のコルク閉めに優れり。どうして左様かというと、この国の風として産をするとすぐ、熱くて手を焼くような飯をにぎり、彼処につめこむ。一口ものに手を焼くというが、これは「ぼぼを焼く」なり。さて少しでも冷えれば、また熱いやつを入れ替える。かくすること一昼夜すると、一件が処女同然にしまりよくなる。

 「なんと恐れ入ったか、汝邦輔、この授文を百拝して牢く秘中の秘とし、年増女を見るごとにまず飯を熱くたかせ、呼び寄せてつめかえやるべし、忘るるなかれ」と言いて即達郵便でおくりやりしに、大悦狂せんばかりで、いつか衆議院の控室でこのことを洩らし大騒ぎとなりし由。・・・以下略
 

 



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