カウンター 読書日記 2007年05月
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落合論文(6)-2
  陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (6)-2

「フランス学研究」で錯綜する学歴に隠された秘密

   ここで、陸軍の幹部養成制度について述べると、明治二年九月大阪兵学寮が創設され、十二月には新生徒が青年学舎に入校した。後の士官学校である。大阪兵学寮には青年学舎のほか、三年四月に京都の仏学伝習所から移行した教導隊、五月に横浜訳語研究所から移行した幼年学舎があった。
 明治四年十一月、大阪兵学寮は陸軍兵学寮と改称し、十二月十日を以って東京に移転、同時に沼津兵学校も東京に移転して管轄下に入り、教導隊工兵生徒となった(因みに、海軍では明治二年九月に東京築地に創設した海軍操練所を三年十一月、海軍兵学寮と改称し、のちの海軍兵学校となる)。

 明治五年六月二十七日、陸軍兵学令が改正され、陸軍兵学寮管轄下の各学校は、青年学舎が士官学校、幼年学舎が幼年学校、教導隊が教導団とそれぞれ改称された。七年八月、士官学校は兵学寮から独立して陸軍士官学校と称し、翌年二月に第一期の生徒募集を行なった。幼年学校も八年五月に独立、陸軍幼年学校と改称して最初の募集を行うが、第一・二期生は陸軍兵学寮の時に入校していたため、初入試の対象は第三期生徒であった。

 野津邸に落ち着いた龍岡勇作が、将来の陸軍幹部を志望するのであれば、目指すは陸軍兵学寮の幼年学舎ということになる。ところが陸軍兵学寮もろとも四年末に東京へ移転した幼年学舎は、五年六月の陸軍兵学令の改正を以て幼年学校となるが、この年には募集を行なわず、翌六年の入校生か第一期生徒となる。一方、二月二日に野津邸の書生となった勇作は、早くも二十一日から武田成章の私塾に通い受験準備をしていたが、幼年学校が生徒募集をしなかったので南高を選び、六月に合格したものであろう。南校の入学年限は数え十六歳以上で、勇作は十七歳であった。

 伝記の巻末年譜には「五年六月大学南校(大学予備門)に入り、官費生としてフランス語を学ぶ」と記すが、大学南校は、二年十二月に開成学校が改称したもので、四年七月の大学廃止後は単に「南校」と呼ばれたから、正しくは南校である。「官費生には寄宿舎が提供されたが、依然として野津邸に寄食した上原は、明治五年十一月に至り夜学に行くことを許され、初めて算術を学び、ついでフランス学を研究し、その後、武田成章の塾に入った。野津家の用務を終えた後、武田塾に通ってフランス語を学ぶこと三か月、フランス人と直接対話できるまでになり、以後は開成学校に通った。ほどなく大学南校の入学試験に合格した」と伝記の本文は語るが、これは正確ではない。

 まず、開成学校も大学南校も、ともに南校の旧名だから、記載内容が重複しているし、五年六月に南校に入学したとする年譜との間に、前後撞着がある。真相は多分、上京直後の五年二月末から武田成章の夜学塾に通い、三か月後の六月に、早くも南校((開成学校)に合格したのであろう。

 因みに、武田成章は文致十(一八二七年生まれの旧伊予大洲藩士で、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、更に佐久間象山の門弟となり、洋式兵学を学んだ。象山の推挙で幕府に出仕し、函館開港に際してペリー提督の応接員として函館に派遣され、その後は同地に留まって函館奉行の下で諸術調所教授となった。わが国郵便制度の父と呼ばれる前島密(のち男爵、同じく鉄道制度の父たる井上勝(のち子爵)はその時の弟子である。北辺防備の強化を願う函館奉行の依頼を受けた武田が、オランダの築城書を頼りに築造したのが五稜郭で、工事は安政四(一八五七)年に始まり元治元年(一八六四)年に完成した。武田はまた、本邦で初めてストーブを発明したことでも知られている。
 維新後の武田は、明治五年頃には東京で兵学・フランス語の塾を開いていたが、勇作は二月末からひとまずそこに通い、三か月後に南校に合格した。

 伝記は錯綜しているが、「明治五年十一月云々」と明記したのは、誤解とは思えない。おそらく勇作は南校一年生の五年十一月からフランス語と数学の補習のために、再び武田塾に通うことを命ぜられたのではあるまいか。荒木貞夫が監修した伝記は、勇作の当時の境遇をあたかも野津邸で酷使される一介の学僕のごとくに語るが、私塾通いといい南校への進学といい、あるいは補習塾通いとといい、野津邸では一介の書生にあるまじき厚遇を受けていたというのが正しい。荒木編纂の伝記が、辻棲の会わぬ体たらくに終始したのは、上原自身が、自分の前半生の真相ことにワンワールド関係をひた隠しにしたからだと思われる。
 因みに、武田ほどの偉材を新政府が見逃すわけもなく、明治七年三月に陸軍入りした武田は、初任陸軍大佐で陸軍兵学寮大教授に補せられた。陸軍兵学寮の管轄下の幼年学校は明治六年になって第一期生徒を募集するが、そのあたりの情報を、近衛参謀長・野津大佐や高島侍従番長が知らぬ筈もない。明けて南校の二年生になった勇作に、幼年学校への転校を進めて当然だと思うが、それをしなかったのは、それなりの事情があるのだろう。


 


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落合論文(6)-1
 
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(6) 

「上原勇作応援団」の正体を探ると、隠された近代が見える

本稿は、陸軍元帥上原勇作の個入付き特務であった吉薗周蔵の自筆手記に、隠された日本近代史の解明を目的とするものである。
 当然ながら元帥その人を知る必要があり、それには上原を育てた陸軍中将高島鞆之助、元帥野津道貫、元帥樺山資紀、陸車大将川上操六らの事績を知らねばならない。樺山と高島は単なる軍人でなく、正体は政治家で、むしろその方に本質があった。ところが、この二人は、世間に対しいかにも朴訥の薩摩軍人らしく振る舞ったので、生存中ですら「一介の武弁」と見られていた。当今に至っては、史家も僅かにその名前を知るのみで、もしそれ論考に至っては皮相の羅列に終始し、真相を穿ったものをほとんど見ない。本稿が彼らの事績を考究するのは、そのことが『周蔵手記』の解読のみならず、近代史の隠された真相に迫るために不可欠だからである。
 極言するならば、高島鞆之助が判らなければ、日本近代史は判らない。かかるが故に、読者諸兄にはもう少々我慢してお付き合いを願いたい次第。

 1.上京直後、近衛参謀長・野津道貫邸に寄留決定の不思議

 明治四年春、御親兵募集に応ずるため上京した三十一歳の野津道貫は、七月二十三日に少佐に任ぜられ、翌五年八月中佐に進級した。七年一月大佐に任じられ、近衛参課長心得に就いた。野津の三歳年下の高島鞆之助も陸軍入りを目指したが、西郷隆盛の推挙によって宮内省侍従に挙げられ、明治天皇の近臣となった。二十八歳の高島は、妹が野津の夫人だったので、老母・家族とともに義弟の野津少佐邸に同居していた。
 龍岡勇作(のちの上原)の実兄龍岡資峻も、四年八月に御親兵を目指して上京し、近衛第二大隊に編入されたが階級は低く、翌年十月に陸軍伍長に任じられた。十六歳の勇作は兄の後を追って単身上京を決意、十二月十五目に都城を出て翌五年の一月十四日に東京に到着したが、訪ねた兄の兵舎では下宿が不可能なため、一旦柴田藤五郎の家に寄寓し、二月二目に至り野津邸に寄食することとなった。
 それを同郷人の斡旋によるものと『元帥上原勇作伝』(以下単に「伝記」とする)に記すが、上京後わずか二週間で近衛参課長邸に寄留する話がまとまるなぞ尋常ではなく、その裏では勇作の叔母・吉薗ギンヅルが采配し、同郷人を使って寄宿話を進めたものと見て間違いない。ギンヅルは明治二年に愛人の公家正三位右衛門督堤哲長に死に別れ、忘れ形見の次長(後の吉薗林次郎)を提家に認知さすべく運動しながら、浅山丸などの高貴薬を製造販売して提家の財政を支えていた。浅山丸は都城藩にとっても貴重な財源で、ギンヅルは同藩の製薬事業にも関与していたのである。
 伝記には「是れより兵学教官武田氏に就き研学す。二月二十一日、外国語学校へ入学」とあるが、勇作は野津邸に下宿した直後、高名の兵学者武田氏に就いて学んだようだ。武田は当時、フランス語の私塾を関いていたので、伝記にいう外国語学校とは、実は武田塾のことと思われる。また、上京直後、柴田が学問の方向如何を問うたところ、勇作は「フランス学を学びたい」と答え、さらに「将来の目的如何」と問うと、「軍人たらんとするにある」と答えたと伝記はいう。軍人志望を唱えたのは薩摩士族の境遇からして当然のことであるが、明治三年制定の兵制で、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式ときまったから、これは陸軍を志望する意味である。

 



続・ハイデガーがわかる
「・・・ 
 ぼくは岩波新書の『現象学』(一九七〇年)を書いたとき、シェーラーにはまったく触れていません。そのころ、
現象学の展開に果たしたシェーラーの役割がよくわからなかったのです。しかし、そこでシェーラーはかなり重要な位置を占めているのです。

 シェーラーは、当時進行中であった生命諸科学の領域での方法論的改革-たとえば、生物学の領域でのヤコプ・フォン・ユクスキュルの〈環境世界理論〉、心理学の領域での〈ゲシュタルト心理学〉、神経生理学の領域でのゲルプやゴルトシュタインの〈全体論〉-に注目し、それらの改革に共通する哲学的意味を読みとり、それを統一的な知的革新の運動として推進するところに〈現象学〉の使命を見いだしたのです。そして、たとえば生物学界でほとんど無視されていたユクスキュルの環境世界理論を広い知的世界に紹介するだけではなく、それに示唆を得て、自分でも〈哲学的人類学〉の構想を立てました。これは、ユクスキュルが動物のいわば〈環境内存在〉を問題にしたのにならって、人間をも、それが一個の生命体として自己特有の環境のなかで、その環境ととり結んでいる機能的円環関係に即して捉えようとするものでした。彼の考えでは、動物はそれぞれがその種に特有な環境にとりこまれ、それに適応しながら生きているー彼はこれを〈環境繋縛性〉と呼びます-のに対して、人間は、〈世界〉という自己特有の環境をある意味でみずから形成し、それに適応することによって人間として生きているー彼はこれを〈世界開在性〉と呼びます-というのです。

 メルロ‥ポンティは明らかにこのシェーラーに教えられて、動物の〈環境内存在〉、チンパンジーの〈世界内存在〉という言葉を使っているのです。ぼくも、ハイデガーの〈世界内存在〉という概念にどこか生物学的な意味合いがあるのではないかと予想はしていたのですが、『存在と時間』ではそうしたことをまったく匂わせないので、自信がもてないでいたのです。農専にいたときお世話になった阿部襄先失が動物生熊学をやっておられ、ユクスキュルの環境世界理論の話を時どきなさっておられましたので、多少の知識はあったのです。それを、メルロ・ポンティがあからさまにこういうかたちで論じてみせているので、やっぱりと自信がもてたわけです。そして、ぼくの予想は当たっていました。

 その後、ハイデガーの講義録、が続々と出はじめたのですが、ある講義(『論理学―真理への問い』(一九二五-二六年冬学期)で、こんなことを言っています。「<世界内存在>というと、すぐ最近の生物学の応用ではないかと思うだろうが、そうではない。」むしろ生物学者が動物の〈環境内存在〉といった概念を提出するとき、彼は自分自身の〈世界内存在〉を参照しているのであり、いわば哲学者として思考しているのだ、と言うのです。これでは、ハイデガー、が同時代の生物学から影響を受けたことの否定にはなっておらず、むしろ、それを積極的に認めていることになると思います。つまり、自分が影響を受けたのは生物学者ユクスキュルからではなく、哲学者ユクスキュルからだと言っているだけなのです。
 また、別の講義録(『形而上学の根本概念-世界・有限性・孤独』(一九二九-三〇年冬学期)では、「石は世界を持たない」「動物は貧しい世界しか特っていない」「人間は世界を形成する」といった三つのテーゼを掲げて、一種の階層理論を展開しています。そして、第二のテーゼをめぐっては、生物学の新しい知見をどんどん活用しているのです。


  よく考えてみると、ハイデガーの「世界内存在」という着想は、シェーレーが『宇宙における人間の地位』という講演のなかでつかっている「世界開在性」という概念にヒントをえたものに違いないのです。この講演は一九二七年におこなわれ、没後の二八年に公刊されたものですから、ちょっと時間が合わないように思われますが、それ以前にハイデガーがシェーラーとひんぱんに会って話しあっていたことを、ハイデガー白身がほかの講義(1929年夏学期)のなかで認めています。おそらく談話を通じて、ハイデガーはシェーラーの影響を強く受けたにちがいありません。

 二人とも結局はフッサールから破門された異端の弟子です。この時点でシェーラーはすでに破門されていたのですが、まだ破門されていないハイデガーとケルンでよく会っておしゃべりしたと、シェーラーの死の直後におこなった追悼講義(前記一九ニ八年夏学期の講義録所収)でハイデガーが話しているのです。ちなみに、シェーラーという人はすごいおしゃべりだったらしくて、スペインの哲学者のオルテガなどにもおしゃべりをとおして強い影響をあたえています。ハイデガーがシェーラーから新しい生物学の動きについて情報を仕入れていたということは十分にありうることです。

 ハイデガーは同時代の思潮にとても敏感な人です。たとえば、ルカーチの『歴史と階級意識』一九二三年)などもいちぱやく読んで、<物象化>という概念を学びとり、『存在と時間』のなかで数回使っています。ハイデガーとルカーチは年齢も近いし、若い頃から、新カント派のエミール・ラスクの周辺でおたがい相当意識しあっていたにちがいありません。

 一九二〇年代は生物学をはじめとする生命科学の大きな転換期でした。ハイデガーは、おそらくシェーラーに示唆されて、その動きに関心をもち、自分でも物質と生命と人間をつなぐ理論を構想したりしています。ですから、シェーラーをとおしてユクスキュルの環境世界理論に興味をもってもおかしくないのです。事実、講義録ではユクスキュルに言及しています。ですから、ハイデガーを理解するのに、アロン・ギュルヴィッチを介してシェーラーを勉強したメルロ・ポンティの考えがヒントになるというのは筋の通った話なのです。

 ハイデガーの講義録を読むと、具体的な材料に即してじつに平易に書かれています。ただ、ハイデガーも性格の悪い男ですから、本にするときは本当のネタは隠してしまいます。講義録では、「世界内存在」の概念はユクスキュルの環境世界理論とつなげて、じつによくわかるように説き明かしているのに、『存在と時間』では、ユクスキュルのユの字も出しません。その先駆者のフォン・ベーアという生物学者の名はちらっと出しているのですが。それを、講義録ではユクスキュルの名前をちゃんと出して、その環境世界理論に言及しているので、かなり小意地の悪いところはあります。
 日本のこれまでのハイデガー研究者たちは、そんなことは予想もしないので、ハイデガーが『存在と時間』で言っていることを繰りかえすことしかしていません。


 創文社の「ハイデッガー全集」の邦訳で読むと何か何だかさっぱりわからないけれど、ハイデガーの講義録は、普通の日本語に訳せば、平明で実によくわかります。著作と講義とは全然違います。講義には、書いたものには目立つレトリカルなところがまったくありません。ぼくも『シェリング講義』という講義録を翻訳して新書館から出しました(一九九九年)。その本の後半部はハイデガーは投げてしまって、引用でつなげているような感じですが、前半部のシェリングの『人間的自由の本質』の序論にあたる部分はじつにくわしく逐条的に解説していて明快です。どの講義録もそうです。
 講義には、学部の学生相手の一般教養科目のようなレベルのものもあれば、上級者相手のものもあります。中には適当にやっている講義もないではありません。でも、必ず一か所か二か所、泣かせるところがあります。飽きると途中で投げてしまうようなこともありますが、必ず「うーん」とうなされるところがあって、読みごたえがあります。

 だから、いま創文社でやっている全集の邦訳は文化的犯罪だと思います。あんなにわかりやすくて面白いものを、あんなに誰も読む気のしないような翻訳にするなんて。
 ハイデガー自身も講義のときは、たとえば、ナチスにコミットして動揺しているようなときは、ああ、動揺しているなとわかるような話し方をしています。また、しゃべっていて、しゃべりすぎて自分で何を言っているのかわからなくなってくるようなこともありますし、その時どきの心理状態がよく伝わってきます。書くときは、どうして、ああ勿体ぶるのでしょうか。やはり講義録では、正規の業績と認められたいからでしょうね。認められるには『存在と時間』のような書き方をしなくてはならないのかもしれません。

 ぼくはメルロ・ポンティを読んでいて、ハイデガー理解の端緒をつかめたのですが、それはぼくが農林専門学校出身だったおかげでもあったと思っています。旧制高校には文乙とか文丙だとかあって、第二外国語をドイツ語とかフランス語とか決めてしまいます。それで変な専門家意識をもってしまうのです。だから、ドイツ哲学をやっている人でフランス哲学を読む人が少ないのです。ぼくは何もかも独学で自己流ですから、妙な自己規定はしないですみました。ドイツ哲学を勉強していても、メルロ・ポンティが面白そうだとそっちも読んでみます。でも、普通はそんなやり方はしないようです。もっと専門家意識が強いということなんでしょうね。
 


木田元・ハイデガーがわかる
『闇屋になりそこねた哲学者』ヨリ 11・ ハイデガーがわかる

 ハイデガーについてはナチス党員であった事実、山荘に於ける「出来事」(後ほど記す)など対決すべき課題も多く残るが、これは純粋にかれの「思考の秘密」に迫った興味深い一文。 


「11。 ハイデガーがわかる

 話をもとにもどします。
 大学院ではヘーゲルを読んでいましたが、へーゲルをやる気にはなれません。
 ルカーチの『若きへーゲル』やイポリットの仏訳や『精神現象学の生成と構造』という大きな研究書や、それから、ハイデガーの『森の道』のなかの「へーゲルの経験の概念」などが出て、それらがほぼ同時に日本に入ってきたので、その時点ではすごくおもしろかったので、読んではいましたが、かといって、へーゲルで論文を書く気にはなれません。というより、書けなかったというべきでしょうね。それで、フッサールを読んでいました。ハイデガーをやるにはどうしてもその師であるフッサールを読まなければならないからです。
 それから、アメリカ帰りの助教授の松本彦良さんを中心にサルトルの輪読会をやったりしていました。その頃、フランスの本がすごく安かったのです。(*ただし造本もそれなりのもの)ハイデガーの『生誕六十年記念論文集』が二千五百円もするのに、フランスの本は相当分厚いものでも六百円くらいでした。これは経済的だというので、サルトルの『存在と無』や『想像力の問題』を読みました。
ただ、サルトルでも論文を書く気にはなれません。おもしろいのだけど、ハイテガーやフッサールを読んだあとでは、どこかインチキくさいのです。 本当はハイデガーで書きたいのですが、なにしろ「世界内存在」とか「存在了解」とか「時間性」といった中心的な概念が、依然としてうまく捉えられないので、書くことができないのです。その後、次々に出てくるハイデガーの本はかたっぱしから読み、本当におもしろいのですが、それで論文を書くというわけにはいきませんでした。
 『森の道』という論文集には、ヘーゲル論、ニーチェ論、リルケ論まで入っています。新カント派の哲学史には、どれもこれもうまく収められない思想家たちを、ひとつの形而上学の歴史に組みこんでみせようというのですから、本当に興奮させられました。
おもしろくてしようがないのですが、でも、ハイデガーの文章はレトリックが強く、同じことを自分の言葉で言いかえるということができません。言おうとすると、まったく別のことになってしまいます。要約も不可能です。ハイデガー自身がギリギリまで凝縮して言っていますから、それ以上、要約することなどできません。ハイデガーを書こうとすれば、ハイデガーの文章をそのまま書き写すしかない。そんなみっともないことはできません。ハイデガーは読むもので書くものではないと、ほとんどあきらめた時期もありました。 
 それから、ハイデガーというのはかなりいかがわしい、これはだまされているのかもしれないと思った時期もあります。たとえば、前に紹介した、ニーチェの『ツァラトゥストラ』と、ライプニッツの『単子論』と、へーゲルの『精神現象学』と、シェリソグの『人間的自由の本質』を読み合わせなければヨーロッパの近代はわからないという話です。どう考えてもこの四冊がつながるとは思えないのです。これはハッタリではないかと思ったこともありました。あとになって、それがハッタリでもなんでもなく、よく考えれば、ちゃんとつながることがわかってきましたが。

 仙台時代の最後の頃は、どういうきっかけからだったか、メルロ・ポンティの『知覚の現象学』を読んでいました。これもおもしろかったです。中大にきて、二年に一回くらいは論文を書かなければなりません。それで、しばらくはメルロ・ポンティで論文を書いて、やがて翻訳もはじめました。
 でも、頭のなかにはいつもハイデガーがありました。
 哲学というのは、どこか雲をつかむようなところがあって、時々自分が何をやろうとしていたのかわからなくなることがあります。仙台にいるときも、東京に出てきてからも幾度かそういうことがありました。そういうとき、ぼくは、ドストエフスキーの主な作品と『存在と時間』を読みなおすことにしていました。そうすると、自分、が何をやろうとしていたのか思い出せるからです。東京にきてからは五年に一度この読みなおしをすることを義務にして、五十歳近くまでそれをやっていました。初心忘るべからずというわけです。その頃はそれほど仕事もなく、時間もありましたし。 

 しかし、『存在と時間』も何度か読むうちにだんだん読み方が変わってきました。最初読んだときは、実存哲学だと思って読んでいました。二回目に読んだころから、これはどうも実存哲学とはちがうぞと思いはじめました。 

  実存哲学らしいことは言っています。「各自の現存在」だとか「誰にも代わってもらうことのできない自分自身の死への先駆け」だとか。それらしいことは出てくるけれど、その処理が形式的なのです。自分自身の生き方を賭けるという意味での実存哲学なら、キルケゴールのほうがはるかに切実です。
 ハイデガーは『存在と時間』で「エクシステンツィエル」と「エクシステンツィアル」という言葉を使い分けています。邦訳ではたいてい、前者は「実存的」、後者は「実存論的」と訳し分けています。そして「実存的」の方はキルケゴールに任せておけばよいと言い出します。自分、がやりたいのは後者の方、そんなふうに実存的に生きている人間の存在構造を取り出す実存論的な分析の方なのだと言っています。だから、ハイデガーにはいわゆる「実存哲学」をやる気はなかったのです。それに、人間存在を分析するといっても、人間存在を包括的に分析する気はなく、採り上げている現象もかたよっています。
 だいたい、前にもふれましたが、『現象学の根本問題』という講義録が『存在と時間』の書き直しというわりには、その二つがどう結びつくのか、はじめのうちはよくわかりませんでした。書かれたところだけ読むかぎりでは、まるで違う話しだとしか思えません。しかし、よく考えてみると、『存在と時間』という本は、ハイデガー、が本来構想した全体の三分の一しかふくんでいません。『現象学の根本問題』も、構想の三分の一くらいで終わっているわけです。両方の書かれなかった部分を考慮に入れないと、両者の結びつきはわからないのです


 『存在と時間』という本は二十世紀を代表する哲学書として大きな影響をもった本ですから、これは完璧な作品だときめこみ、それだけで完結したものとして読む読み方がドイツでも日本でもされてきました。でも、実際には、全体の三分の一しか書かれていない未完の書です。だから、書かれなかった残りの三分の二を『現象学の根本問題』を手がかりに再構築しなければなりません。そういう読み方をする必要があるということがうすぼんやりと見えてきました。
 それでも、ハイデガーがたとえば「世界内存在」「時間性」「存在了解」ということでなにを考えているのか、ぼくにはさっぱりわからないのです。三宅先生にもわからなかったようです。先生に質問すると「うーん、何やろうねえ」という答えが返ってきました。ドイツ人の研究者の書いたものを読んでも、わかっているとは思えません。

 「世界内存在」について、ハイデガーはこう言っていますということしか、誰も言っていないのです。「世界内存在」というのは変な言葉です。それなのに「現存在の存在構造は世界内存在である」といきなり言い出します。なぜ、そんな言葉をつかわなければならないのか、まったく説明していません。「世界内存在」という概念をハイデガーがどう定義しているのか、そんなことは十年もやっていればわかってきます。でも、それだけではわかったことになりません。そんな奇妙な概念をなぜハイデガーはつくりだしたのか、その心理的な動機までわからなければ、わかったことになりません。。

  ところが、それがわかったのです。わかるときは、ある瞬間、ぱっと霧が晴れるようにわかるものです。わかったのは、メルロ・ポンティの『行動の構造』を読んでいたときです。翻訳していたときではなくて、何度目かの読みかえしをしているときでした。メルロ・ボンティはケーラーのやった『類人猿の知恵試験』を検討しながら、「チンパンジーの世界内存在」という言い方をしています。それを読んだとき、ひらめくものがあったのです。

 ハイデガーは『現象学の根本問題』で「世界内存在」と「存在了解」と「超越」はすべて「時間性」を基盤として成り立つ同じニつの事態なのだということを言っています。そのことが頭にあったので、「世界内存在」がわかると、「存在了解」もわかったし、「時間性」もわかりました。「自分を時間化する」といった表現で何を言おうとしているかもわかってきました。そのような中心的な概念がわかるようになると、あれほどわからなかった『存在と時間』がじつによくわかるようになったのです。
 でも、そういうぼくの理解が正しいのかどうか、その時点ではそうはっきりとした裏付けがあったわけではありません。というのも、メルロ・ポンティは一九三八年に『行動の構造』の最初の原稿を書き上げたとき、『存在と時間』は読んでいなかったからです。参考文献表に『存在と時間』は出てきません。ハイデガーを読んでいない人の本を読んで、ハイデガーがわかるようになるなんてことは、ふつうならありそうに思えません。もっとも、メルロ・ポンティは原稿を書き上げて出版するまでの間にはどうやら『存在と時間』を読んだらしいのです。『行動の構造』の出版は、第二次世界大戦がはじまってしまったので一九四二年になります。その間に『存在と時間』を読んだらしいことは、その段階で付けたらしい注からうかがわれます。
 メルロ・ポンティは一九三〇年代に現象学の勉強をはじめます。ドイツ哲学を吸収しはじめるのです。ところが、『行動の構造』の最初の版の文献表をみると、フッサールは申し訳程度にしか出てきません。ハイデガーはひとつも出てきません。出てくるのはシェーラーです。現象学をシェーラー系統で勉強したのだということがわかります。
 そこで調べてみると、アロン・ギュルヴィッチというロシアからの亡命者が、ドイツで現象学を仕込んで、それをパリでメルロ・ポンティに手ほどきしていることがわかりました。このギュルヴィッチは、フッサールのもとで勉強した人ですが、シェーラーの仕事を積極的に評価し、その線で現象学を理解しているのです。・・(続)


白川静・『桂東雑記』など
 *「忘れられない言葉」(「競馬放浪日録」)にも紹介した白川静氏。
  近刊(2007.4.9平凡社)の『桂東雑記』の津崎史による「あとがき」には、こうある。

 「・・・たしかに、何故か<父>と<死>とは結びつかないような錯覚に陥っていた。取材にみえた編集子らは、大抵が帰り際に、妖怪か仙人をみるごとく父を眺めていたものだ。そして、誰もが、小さな桂の家の、天井まで本に埋もれた空間で、いつまでも仕事をするものだと決めていた。・・・」

 「<生きの験>(いき の あかし、この「験=あかし」も当然変換できないところが一興だが)としてまとめておきたいと考え」て始まった『桂東雑記』(『回思九十年』の続編としてとも)の最終刊である。

 白川静・「お薦め本」となると答えは「すべて」以外にありようがないのだが、先ず私の「出会い」から書いておくと、始まりは松岡正剛・『遊』誌でのこと、「遊字論」「道字論」(1978~)の連載記事であった。
 以後、既に刊行されていた『漢字の話ー中国文化の原点』1・2(1976年東洋文庫)以来その「思想的一撃」を「引きずって」只今に至っている。
 

 印象的な(思想的なパンチを喰らった)文章を紹介する前に、めずらしく氏の「激情」を吐露した文章を『文字逍遥』(1987.4平凡社、1994.4.15平凡社ライブラリー)から、「第四章ー漢字の諸問題」のなかの一文、「文字学の方法」を紹介する。

 この「文字学の方法」は、

 * 文字学への道
 * 資料の問題
 * 音義説について
 * 文字学の方法
 * 文字学の目的
 という構成になっているが、これが書かれた「動機」は氏の「憤怒」である。
 
 以下要約して記してゆく。・・・ 


  *「・・私(白川)にとって、いかなる場合にも、語源は興味ある課題ではない。おそらく数十万年にも及ぶであろうことばの歴史を、わずか三千年前の限られた資料で追跡しうると考えるのは、一の妄想である。・・中国には多くの文献が残されているが、これら選ばれた文献は特定の目的に奉仕するために、本来の姿を留めていない。・・
 民族的資料も変転の激しいこの中国社会にはほとんど遺存するものがない。
 このような事情のうちに、私はこの三十余年を、その同時資料である卜辞や金文とともに過ごしてきた。
 
 私の漢字に対する理解のしかたは、必ずしも一般の研究者と同じでないかもしれない。一般に文字学は、いまでも許慎の「説文解字」を出発点としている。また文字学の方法も人によってことなるであろう。
 

  本誌(『文学』1970年岩波書店)七月号に『漢字』(白川、岩波新書)の書評を寄せた藤堂明保氏のように、私と考えかたのちがう人があるのは当然である。しかし、方法は異なるとしても、私も文字とともにくらしてきたものである。・・・
 私の研究も、清朝の学者が殆んど知ることのできなかった卜辞や金文を資料として、中国の文化と精神の原点である古代への探究を進めてきたのである。

 文字学への道は、長くけわしいものであった。・・・
 清朝の文字学研究は許慎の「説文解字」を超えることはできなかったが、その許慎の当時既に文字の原初の形態をとらえることは、甚だ困難なことであった。(戦国の分裂期には地方的な変化が激しく、字形が崩れていき、秦の統一時には統治の必要からの字体の統一ー簡略化などがあった。)
 
 藤堂氏の「字形に対する無頓着さ」や「漫画的理解」の例を具体的に列挙してゆき、続く「音義説」では「文字は音を示すために作られたものでなく、言葉の意味を示すために生まれたのである」と確認しながら、こう記す。
 「・・私の『説文新義』には、古代の賢人たちを必ず身体障害者にしなければ満足できないふしぎな学説の所有者である前東大教授(*故人)の説や、章太炎の亜流(太鼓持ち)にして古代文字=漫画としか理解できない貧困な思索力の持ち主は、」すべて相手にしていない、と。
 

 以後も具体例を挙げての痛烈極まりない藤堂への反批判が続くが、略して、この一文の文末に進もう。

   *************** 

「・・さいごに、私がこのような文章を書くに至った事情について一言し、読者の寛容を求めたいと思う。私ははじめ、このような品格をもたない書評を視する考えであった。それは氏の書評が、社(岩波)からの依頼原稿であるということであったし、またこのような節度のない非難には、もちろん笞える必要がないと考えたからであった。この書評は、あらゆる点で書評としての節度を無視している。特に私の従来の研究に対して、殆ど知識をもたれていないようであり、驚くほど理解が不十分である。それは私としては一向にさしつかえないことであるが、私がこの書の執筆者として不適当であるというような発言は、私の研究に不案内な人ならば、なお慎むべきであろう。しかしそれも、私にとっては何の痛痒もないことである。ついには本書の編集部に対しても、執筆者の選択を誤ったという攻撃が加えられた。これについては私も著者として共同の責任を負うものであるから、不本意であるが一言する必要があると思うに至ったのである。本書の企画が決定したのは、すでに七、八年も前のことである。われわれは相当の準備の上、種々の制約のために多くの図版や凸版を整理し、初稿を検討して全面的な改訂を加え、ついに成稿に達したのである。

 多くの友人たちが、私にこの書評についての感想を述べてくれたが、それは概ね二つの点で一致していた。その一つは、評者は果たして『漢字』を理解しえているのであろうかということであった。また少なくとも書評の執筆者という責任の上に立って、理解しようと努めたのであろうかという疑問が述べられた。研究上の論争ということならば、このような形式でいうべきではないからである。第二には、この書評には一種の権威主義的妄想があるのではないか、ということであった。私もこれらの感想には同感である。なお私としてもうひとつつけ加えておきたいことがある。それはこの『漢字』がやがて反動者に利用されるであろうとし、「どういう連中がそれを言い出すかは、もう目に見えている」という、思わせぶりな結末の一語である。おそらく評者は、自らが全共闘の闘士であるという自負のもとに、この発言をしているのであろうが、全く余計なことである。

 私はその書の末尾に「古代文字の世界は終わった」としるしておいた。古代文字の研究は、学問としてそれ自身のの目的をもっている。その後の漢字の歴史、国字問題としてしての漢字については、またちがった次元の問題として考える意味を、私はこに含めておいたつもりである。権威主義と学閥の愚かさをにくむがゆえに、私は今日まで孤独に近い研究生活をつづけてきた。学問の世界はきびしく、研究弧詣独往を尊ぶ。
 それぞれの研究者が、それぞれの世界をもつべきである。しかし真摯な探究者が他に一人でもいることは、大きな力であり喜びである。たとえばいま、有坂秀世のような人がいてくれたならば、私も音韻学の上から適切な批判を受け、自己の研究を進める上に、有益であったのではないかと思う。学問の世界は、あくまでも純粋なものでなければならないと考えるのである。」

 ****************
 

 『文学』1970年9月号では文末は、少し異なる。その異同を確認しておく。

  1.『文学』にはなく、本で追加された文は上記文末の「・・それぞれの研究者が、それぞれの世界をもつべきである。」と「・・学問の世界は、あくまでも純粋なものでなければならないと考えるのである。」の二箇所である。

 2.『文学』から削除されたのは文末の次の一文である。(他にも細かい訂正があるのか否かは今は不明である。)

 「・・私はこの文章を、一種の寂寥の感を以てかきつづけた。私は再びこのような文章に時間を費やし、この伝統ある雑誌の誌面をけがすことは避けたいと考えている。読者の方々も、読みづらい気持ちで読んでいただいたことと思う。ただこのような文章をかく必要に迫られた私の気持ちに対して、読者の理解と寛容とを願うほかない。」 
 
 
<註> いま、「有坂秀世のような人がいてくれたなら・・」と白川静氏に言わしめる夭折の学者については、『日本書紀の謎を解く』の森博達氏もその著で一文を呈している。
 
 「・有坂秀世
 上代日本語の音価推定の研究は少なくありません。その中で最も本格的かつ重要なものは、有坂秀世氏(一九〇八~五二)の遺稿『上代音韻攷』(一九五五年、三省堂)です。二百字詰原稿用紙三千枚という大冊です。主要な部分は、二十四歳の有坂氏が結核療養中の一九三三年に著したものです。慶谷壽信氏によれば、雛型は東京帝国大学に提出した卒業論文であったようです(「有坂秀世博士の卒業論文について」(一八八九年)。
 有坂氏は日本語音韻史のみならず、中国語音韻史でも画期的な発見をしています。名前を聞くだけで粛然とします。アイヌ語の研究者として有名な金田一京助氏は弟子を追憶して、『上代音韻攷』の序文にこう記しています。
 「有坂秀世博士が、昭和の言語学界に、彗星のごとく現れて、彗星のごとく去られた、そのあまりにも輝かに、そのあまりにもあえなさ、ぼう然としてわれらはただ驚嘆するばかりである。
 玉のような人柄に、不世出の偉才、われら生まれ合わせて咫尺(しせき)し、親しくその温容を仰ぎ 咳唾、珠を成す謦咳に接することを得たのは、何という幸せであったろう。
 有坂氏は早熟の秀才でした。没後出版された『語勢沿革研究』は、旧制一高の三年生、十九歳のときの研究ノートです。特にその第三編「古代母音の研究」は、古代日本語の母音交替の法則を発見した画期的な研究です。「かざかみ、かぜ(風)」・「たかし、たけ(丈)」・「荒らす、荒れる」はa-eの交替、「つくよ、つき(月)」・「くつわ(轡)、くち(口)」・「おく(奥)、おき(沖)」はu-iの交替というように、四種の整然たる法則性を発見し、その意義を考察しています。
 有坂氏は東大の言語学科へ進学して、橋本進吉氏の上代特殊仮名遣の研究を知ります。その知見によって研究ノートの第三編を改稿したのが、「国語にあらはれる一種の母音交替について」です。慶谷氏はこの経緯を丹念に辿って、研究ノート第三編の学史上の意義を顕彰しています(「有坂秀世『語勢沿革研究』にみえる『vowelgradationノ法則』一九六年)。

 奇シクメデタキワザナリ

 この研究ノートには、あとがきに相当する「感想」が付記されています。若き有坂氏の突き詰めた心情がひしひしと伝わってきます。十八歳の有坂氏は強度の神経衰弱にかかり、まだ立ち直れないでいるとき、ふと思いついたことがありました。
ソレハ「ふね、ふなびと」「あめ、あまがさ」ノヤウナ対ニアラハレル母音ノ変化ト、あくせんとトノ間二何力関係ガアリハシナイカ、トイフコトデアツタ。(中略)人生モ事業モ、何等ノ価値ノナイヤウニ感ゼラレテ、一切ノ頼ムニ足ラザルヲ思ヒ、(中略)藁デモ棒デモツカマウトアセツテヰタ私ハ、モハヤタダコノ一ツニ望ヲカケテ生活ヲツヅケルョリ外二仕方ガナカツタ。一度研究ヲ生活ノ中心ト定メルト、私ノ興味ハ急激二加速度ヲ生ジ、ツヒニハ熱心ノ度ヲ超エテ狂熱的二全生命ヲソレニ叩牛込ムヤウニナツタ。
 有坂氏は、研究に生の証しをかけていたのです。一高・東大を通じての同学、服部四郎氏(東犬・言語学科教授)はこの遺著に読後感を寄稿しています。
 私がまのあたりに見た大学生時代の勉強ぶりや、仄聞した高等学校時代の勉強ぶりは、全く人間業とは言えないもので、30分とぼんやりしていた時間はないと言ってよいほどだった。(中略)しかしとにかく、研ぎ澄まされた刃のようにこぼれ易い神経の持主であったことを 知っておくことは、同君の学問を理解する上に必要ではないかと思う。私も、迂闊なことに、数年間はそのことに気付かないでいたが、同君はそれほどすべての表現において控え目で、心情の表出を抑制する人だったのである。
 有坂氏の人柄を知り、研究ノートの「はしがき」を読むと、名状し難い感覚に襲われます。時ハ来タ。時ハ来タ。半年ノ間待チニ待ッタ時ハ来タ。過去五年間ノアラユル研究、、アラユル努カハ報イラレタ。誰か科学研究ヲ個人主義トイフ。コノ感激、コノ歓喜、ソレ自ラガ証明スル。奈万之奈三巻ノ中二幾度トナク繰返サレタ義門上人ノ言葉「カヘスガヘスモ奇シクメデタキワザナリ。」ノ真義ハ誰カ之ヲ解スル。」


白川氏は「生きの験(あかし)」、有坂氏は「生の証(あかし)」として「狂」を遊学する姿を我々に見事に示してくれた。


        以上。

 

ネチャーエフ文書
  <資料>  ネチャーエフ文書

ネチャーエフ(1847一1882)は農民の生まれだが、彼は革命家の一つの原型である。彼は農奴解放にたいする農民の不満がかならず爆発すると信じ、そのときにそなえて陰謀の組織つくりに全力を傾けた。カラコーゾフ事件後の白色テロル時代におこったネチャーエフ事件とその公開裁判は、政府の思惑どおり、革命的青年の声望をおとしめ、ドストエフスキーは『悪霊』でネチャーエフを病的な人間として描いた。『革命家のカテキズム』は、青年の反発を買い、モラルをもとめる傾向をうみだしたが、この文書は、70年代以降の問題を提起したのである。なお『革命家のカテキズム』はパクーニンとの共著といわれ、最後の部分はバクーニソの直接の影響が大きいとみられる。『ロシアの学生諸君に』(*これは略す)は、同志殺害後、二度目の国外脱出に成功したネチャーエフが発したもの。このアピールを執筆するころの彼は、バクーニンとわかれ、より広汎な宣伝活動に注目するようになっている。
 

  <革命家のカテキズム>
 C・ネチヤーエフ
 ***************

 自己自身にたいする革命家の態度

1. 革命家は死を宣告された人間である。彼は、個人的関心、事情、感情、愛着物、財産、さらに名前すらももたない。彼のうちにあるすべては、ただ一つの関心、一つの思想、ひとつの情熱、つまり革命によってしめられている。
2. 自己の存在の深いところで、ことばの上だけでなく行動において、彼は、市民的秩序や教養ある人々の世界全体と、そして、この世界のすべての法律や礼儀や一般的に認められている慣例や道徳といったものと、まったく関係を断ってしまっている。彼はこの世界にたいする容赦のない敵であり、彼がこの世界のなかで生活しつづけるとすれば、それは、この世界をより確実に破壊せんがためにほかならない。
3. 革命家はあらゆる空論を軽蔑する。彼は世間的な学問を放棄し、それを未来の世代にゆだねたのである。彼はただ一つの科学、破壊の科学を願っているだけであり、このことのために、このことのためにのみ、彼は現在、力学、物理学、化学あるいは医学を学んでいるのである。このことのために、彼は昼夜をわかつことなく、現在の社会機構のもとでの人々、性質、状況およびすべての条件について、可能なかぎりあらゆる社会層にわたって生きた学問を研究しているのである。目的はただ一つ、このよごれた機構のもっともすみやかな破壊である。
4. 彼は世論を軽蔑する。彼は現在の社会道徳につながるすべての動機や現象を軽蔑し憎悪する。彼にとって、革命の勝利をたすけるものすべてが道徳的なのであり、それを妨げるものすべてが不道徳的であり犯罪的なのである。
5. 革命家は死を宣告された人間である。彼は一般に、国家にたいしても、特権をもった教養ある人々の世界にたいしても憐みはもたず、彼自身にたいする憐みも期待しない。この両者のあいだには、公然、非公然を問わず、生死をかけて連続的な非和解的なたたかいがおこなわれている。つねに彼は死ぬ用意がなければならず、拷問に耐えうるよう自己を鍛練していなければならない。
6. 彼は自己にきびしくあるとともに、他の人々にもきびしくしなければならない。家族、友情、愛情、感謝、さらには名誉といった柔弱で女々しい感情はすべて、彼のうちでは、革命の事業をめざす唯一の冷徹な感情によって抑制されねばならない。彼にとっては、ただ一つの安らぎ、慰め、報酬、満足が、つまり革命の成功があるだけである。昼夜をわかたず彼は一つの思想、一つの目標を、つまり仮借なき破壊をいだいていなければならない。冷静にたゆむことなくこの目標の達成につとめながら、彼は、みずからが非業の死をとげる用意があるだけでなく、目標の達成を妨げるすべての者をみずからの手で殺す用意がなければならない。
7. 真の革命家には、いかなるロマンチシズム、感傷、熱狂、誘惑も無縁である。個人的憎悪や遺恨すらも無縁のものである。日常的熱情となるべき革命的熱情は、怜悧な計算をともなうものでなければならない。彼は、つねにいかなるところでも、彼の個人的性向がさししめす者ではなく、革命の一般的利益の要求する者にならねばならない。

  革命の同志たちにたいする革命家の態度

8. 革命家にとって友であり愛すべき人でありうるのは、彼自身とおなじように、現実に革命家としての活動をおこなった人だけである。このような同志にたいする友情や信頼やその他の責務の程度は、すべてを破談する実際の革命事業における有用さの程度によってのみ決められるのである。
9. 革命家たちの団結についてはいうまでもない。そこに、革命の事業のすべての力があるのだから。革命にたいする同程度の理解と情熱をもった革命家の同志たちは、できるだけ、すべての大きな問題はともに研究し、一致して解決にあたらねばならない。このようにして決定された計画を実行するにあたっては、各人はなるべくみずからにたよるようにせねばならない。多くの破壊活動の実行の際には、各人は単独で事をおこない、事の成功のためには欠かせないというときにだけ、同志の忠告と援助にたよるべきである。
10. 各同志は、モの手許に幾人かの二級、三級の革命家、つまりすべてを革命にささげたわけではない人々を置いていなければならない。彼はこの人々を、革命の資本全体のうちから、彼の裁量にゆだねられた部分とみなさればならない。彼は自己保有分の資本を経済的に消費し、つねにそれから最大の利益をひきだすよう努力せねばならない。彼は、自己を革命の事業が達成されるために費やされる運命にある資本だとみなしているのである。ただ、彼は、自己を、すべてをささげた同志全員の同意なしに単独で処理することはできないのである。
11. 同志が困難におちいった場合、彼を救うか否かの問題を革命家は、個人的感情からではなく、救出することが革命の事業に有益であるか否かによって決定しなければならない。それゆえ、一方ではその同志の事業にたいする有用性を、他方では救出にともなう革命勢力の損失をはかりにかけねばならない。そして、より重要なほうが決定されることになる。

    社会にたいする革命家の態度

12. ことばでではなくおこないによって自己をしめした新構成員の組織への採用は全員一致で決せられねばならない。
13. 革命家は、国家的な特権階級の、いわゆる文化的な世界にはいりこみ、そこで、そのもっとも完全ですみやかな解体をのみ念じて生きてゆくのである。彼がもし、この世界のなにかを惜しむならば彼は革命家ではない。もしそんなことがあれば、彼は、この世界の状況、関係あるいはこの世界のある種の人間を抹殺するのをちゅうちょするようになるだろう。彼はありとあらゆるものを等しく憎悪すべきなのである。もし、彼がこの世界に家族、友人、愛人などの関係をもっているなら、なおさら悪いことになる。その人々が彼の手をさえぎるようなことがあるなら、彼は革命家ではない。
14. 容赦のない破壊をめざして、革命家は社会のなかで、彼自身とはまったくべつの人物を装って生活することができるし、またたびたびそうせねばならない。革命家はこの社会のいたるところに、最下層階級や中流階級のなかに、商店のなかに、教会のなかに、地主屋敷のなかに、官僚や軍人たちの世界に、文筆界に、また第三部や冬宮のなかにさえはいりこまねばならない。
15.この悪の社会全体はいくつかのカテゴリーにわけられねばならない。第一のカテゴリーは即刻処刑さるべき人々からなっている。この処刑さるべき人々のリストは、組織によって、番号のはやい者から順番に片付けられるように、革命の事業の成功にとってより有害な人物の順につくりあげられるであろう!
16. このようなリストを作成する際、上で述べた序列は、決して、その人物の個人的悪業とか、さらには、その人物によって組織や人民のなかにひきおこされた憎悪などによって確定されてぱならない。この悪業とか憎悪とかは、ある場合には利用価値があり、人民の反乱をひきおこすのをたすけることができるのである。序列の確定は、その人物の死が革命の事業にもたらしうる利益の程度にしたがってなされるべきである。それゆえ、まず第一に排除すべき人物は、革命組織にとりとくに有害であり、彼らの突然の暴力的な死が政府に最大の恐怖をあたえ、政府の聡明でエ不ルギツシュな活動家をのぞくことにより、その力をゆすぶることのできる人物である。
17. 第二のカテゴリーは、ほんの一時生かしておき、その人々の一連の残酷な行為によって人民を不可避的な反乱にいたらしめるようにさせるべき人々からなっていなければならない。
18. 第三のカテゴリーは、高い位についた畜生ども、つまり、とくに知性においてもエ不ルギーにおいてもひいでてもおらず、地位によって、富、縁故関係、影響力、勢力をもっている人物の多くをふくんでいる。これらの人々は、考えられるかぎりのやり方で搾取する必要がある。彼らをまきぞえにし、狼狽させ、なるべく彼らの暗い秘密をつかんでゆすり、彼らを自分達の奴隷にすることが必要なのである。彼らの権力、影響力、縁故関係、富、勢力は、こうして、いろいろの革命的な企図にとって無尽蔵の宝、強力なたすけとなるのである。
19. 第四のカテゴリーは、野心的な国家官僚やいろいろなニュアンスのりベラルからなる。革命家は彼らとともに、彼らの計画にそって防諜を企て、彼らに盲目的にしたがうふうをしながら、一方では、彼らをきびしく拘束し、彼らのすべての秘密をつかみ、彼らがあとへひくことができぬように彼らの評判を傷つけ、そして彼らの手で国家を混乱させることができるであろう。
20. 第五のカテゴリーは、いつも仲間うちや紙上では空疎なことばを並べたてながら実際には行動しない空論家、陰謀家、革命家からたっている。彼らはぜひとも、実際的な困難な活動におしやったり、ひっぱってゆくことが必要であり、その結果、彼らの多くは跡形もなく絶滅してゆくだろうし、わずかだが真に革命的な人々もうみだされるであろう。
21. 第六の重要なカテゴリーは女性であり、これは三つの主要な部類にわけられねばならない。第一は、おろかで、中味のない、魂のぬけたような人々であって、第三、第四のカテゴリーの男性と同様に利用することができる人々である。第二は、熱心で、献身的で有能ではあるが、われわれの味方ではない人々である。というのは、彼女らはまだ、真にものに動じない実際的な革命的理解には到達していないからである。彼女らは第五のカテゴリーの男性と同様に利用されるべきである。最後は、まったくわれわれの側の、つまり、まったく献身的で、われわれの綱領を完全にうけ入れた女性である。われわれは彼女らを、そのたすけなくしてたたかうことのできない、われわれのもっとも大切な宝だとみなさねばならない。

     人民にたいする組織の態度

22. われわれの組織は、人民の、つまり肉体労働者のもっとも完全な自由と幸福以外の目標をもたない。だが、この自由とこの幸福の達成は、一切を破壊する人民革命によってのみ可能であると確信しているがゆえに、われわれの組織は、すべての力と手段でもって、結局は人民に勘忍袋の緒をきって総蜂起にたたせるであろうような不幸、災厄を分離し昂進させるよう努力するであろう。
23.われわれの組織は人民革命を、西欧流の古典的な型に規定された運動、つまり、つねに財産とか、いわゆる文明とか道徳とかいう社会秩序の伝統のまえでたちどまり、現在までいたるところで、いわゆる革命国家をつくりだそうとしながらも、一つの政治形態を打倒し他のそれにおきかえることにとどまってきた運動であるとは考えない。人民を救いうる唯一の革命は、あらゆる国家組織を根こそぎにし、ロシアにおけるすべての国家的伝統、制度および諸階級をなくすような革命である。
24. われわれの組織は、それゆえ、いかかる社会組織をも人民に上からおしつけるつもりはない。本来の社会組織は、うたがいなく、人民の運動と生活それ自体からつくりあげられるだろう。だがこれは、未来の世代の仕事である。われわれの仕事は、すべてをまきこみ、いたるところで容赦することなくおこなわれるべきおそろしい破談なのである。
25. それゆえ、われわれは人民に接近し、なによりもまず、モスクワ国家権力がつくりあげられて以後、国家に直接間接に結びついたすべてのもの、つまり、貴族、官僚、坊主、ギルド世界、そしてクラーク(富農)、高利貸しにたいして、ことばだけでなくおこないにおいて反抗することをやめたことのない、人民のなかの活動的な分子と結びつかねばならないのである。それだけでなく、われわれは、ロシアにおける唯一の真の革命家であるあらっぽい強盗たちの世界と合体するであろう。
26. この世界を一つの、無敵の、一切を破壊してしまうような勢力に統合すること。これが、われの組織、陰謀、任務のすべてなのである。
   (一色義和訳)

 



『理科系の文学史』
 荒俣宏・『理科系の文学史』 1981.6.15 工作舎 
 
 パート4 二十世紀の眺望

 ケース1 ロシア・ソヴィエト

 a.レーニンが救った西洋と、レーニンに抹殺されたロシア

どうも逆説的な言いかたになるのだけれども、レーニンの登場というのは、<科学>の運命に関連付けて言う限り、病んだ西洋を救い、肝腎のロシアを殺すことになったとしか考えようがないのだ。

 その点をすこし説明しておく必要かあるだろう。最初に、ぼくはすでにいくつかの逸話を通して、ロシア、が影にこもった大国ではなかった点を立証しておいた。二十世紀の方向を決める二つの文化革命-つまり共産主義と復活神秘主義とが、一方はトロツキーによってアンドレ・ブルトンら西側へと拡がり、一方はブラバツキーやグルジェフ、レーリッフらによって耕作地としてのアメリカに移植されたこと。そしてこのロシア型文化革命がユダヤ人亡命者やロシア移民という人間の流動にともなって汎世界化したことをである。そこで次のような疑問がでてこよう。すなわち、ロシアの精神力がこの時期になぜ世界に活を入れ得たのか?これは当時のヨーロでハ思想界を眺めれば答えが自然に出てくる。問題を物理学に絞りたい。世紀末から二十世紀にかけてヨーロッパを襲ったのは、ニュートン物理学の失墜という大事件だった。

 この時代に「物質は存在しなかった!」と衝撃的な発言をした科学者、が二人も出ている。その一人はエルンスト・マッハ。この名前は、マッハ1とか2とかの単位として今に残る人物のものだけれど、それはあきらかに科学のアバンギャルド勢力であった。かれは感覚の問題をつき詰めて、あらゆる物質現象は感覚の関数にすぎないと主張した。分かりやすく言い直せば、外界のあらゆる存在もまた人間の生理現象でしかないということだ。ぼくたちの眼に映る外界は、ぼくたちと独立に存在しているように見えるけれど、本当はそうではない。それは、ある要素の塊りがたまたま眼という感覚に映った映像にすぎない。その証拠に、眼をつむり二本の指を交叉させてパチンコ玉のようなものに触れれば、それはまるで二つあるように感じるではないか。したがって、絶対空間だとか物理法則とか称するものを定めても、それは絶対的な法則でも何でもなく、たまたま人間にはそう感じられるという生理現象の〈記述〉にすぎない、とするのだ。実証主義はここで断罪され、マッハはその代わりに生理学的物質観-要するに現象論を持ってくる。だから物質についての科学は、物があるかないかの問題ではなくなり、どのように受け取るかという問題になる。この点で「ニュートンの光学が画家の技術を高めたのだろうか?」と疑問を呈した科学者兼詩人のゲーテは、かなり良い線まで行っていた。ニュートンやライプニッツの自然現象を公式化し、何も見ないでも公式をひとつ編み出せば自然現象の解明はすべてOKだとした、従来の「見ない科学」に反旗を翻して、ゲーテは「見る科学」として形態学や芸術に力を注いだのだから。

 さて次に、マッハとは別の方向で「物質はない」との結論に達しのは、数学者ポアンカレである。放射性元素の発見から電子論、さらに量子論までを総合したポアンカレは、アインシュタインすれすれの相対性理論に到達し、電子という物質の質量、が電磁的性質しか持たず、ニュートソが言うような慣性的で実体的な性質をもっていないことから、「物質は存在せず」の結論を下した。
 つまり物質はトドのつまりエネルギーという力であって、一定の空間を占めたり永久に不滅だったりするような固形物ではないのだ。ただし、当時は非ユークリッド幾何学も成立して、古典物理学が軒並ダウンする危機の時代だった。この危機はアイソシュタインのE=mC2という方程式によって辛うじて救われる。つまり物質とエネルギーは相互に入れ替わることができるという救済である。これでなんとか「物質はある」という話が始められるようになった。その点でポアンカレは、この方程式の片方だけーつまり物質がエネルギーに変わるほうだけを発見して、物質がなかったことに愕然としたわけなのだ。
 ついでに書いておくと、物質もエネルギーも「世界の要素」の一側面同士であり、同じ要素の別々な現象であると考えたアインシュタインの相対性理論は、同時にニュートンカ学さえ救ったのである。すなわち、ニュートン力学を相対論のなかの特殊なケースとして併合することによって。

 ともあれ、アインシュタインがまだ出てこない時代には、マッハやポアンカレから「物質など存在しない」と断言されたとき、それでも物体はあると反撃する仕事はまずレーニンに託されることになった。その仕事は、物質の実在を前提としなければ始まらないマルクス主義にとっても重大だった。
  なにしろマルクス主義は科学であり唯物論であるのだから、物質が感覚の上にだけあるのだとか、物なんてものは霞みたいに正体の掴めないエネルギーだとか言われては、命取りも同然である。レーニンはそこでマッハやポアンカレ、それに「結果はどう転ぶか分からないから努力することだけが善だ」などと認識能力の発展性を信じないカントらを、次々に切りまくり、「現代物理学が危機だ危機だと騒ぐけれども、むしろ危機なのは、人間の意識の外にある客観的実在性を疑って妙な考え方をしだした一部科学者の頭のほうだ」と結論して、物はあくまでも意識の外に実在していることの信仰を守り通した。

 というわけでヽレーニンが西洋の危機を救ったのは以上のような意味においてである。マッハの考え方は遠くアインシュタインのような天才に受けつがれた以外、急激に忘れさられ、科学者も気楽に物質の研究とその技術的応用に熱中していれば良くなった。

 レーニンの考え方は階級闘争をペースにした弁証法-つまり、なにかやっているうちに真理に近づいていくという楽観論である。心と物質はまったく別ものであって、人間の意識よりも物質のほうが先に存在しているという立場だ。そして、世界の歴史は労働者の勝利に向かって動いてゆかなければならないともいう。
 スターリンは、さらに限定を加えて、その勝利がソヴィエトの勝利でなくてはならず、それもスラブ系ロシア人の完勝でなければならないと怒鳴りちらした。当然、ロシア国内での「勝利に関係のない勢力」弾圧とその流出がはじまる。ユダヤ系文化のシンボルだったトロツキーが敗れたあとは、ルイセンコのような奇妙な理論が国定科学にされて、コミュニスト内部での粛清さえ始まる始末である。こうなったら最後、「わたしの手法は、現実の世界と想像の世界、〈眠り〉と〈現〉、〈生活〉と〈ファンタジイ〉のあいだには明確な境界が存在しないという思想に拠っている」などと述べる『南十字星共和国』の作家ブリューソフたちは真先に首を切られるしかない。こうして大戦後の文化状況を先取りしたはずだった衝撃的なロシア20年代芸術は、とつじょ終わりを告げる。レーニンがロシアを抹殺しだのは、この意味においてであった。

 この辺の事情に関連して、きわめて興味ぶかいSF作品が『ロシア・ソビエトSF傑作集』(上)=東京創元社= におさめられた。アレクサンドル・ボグダーノフ作『技師メンニ』である。ナロードニキ出身の(ということは、本来マルクス主義者とは対立的な)かれは、レーニンにも認められた思想家だったが、のちにあの睨うべきマッハ主義に転向し、その独特な共産主義理論から人間集団も組織という現象と見て、「人間みな兄弟」の理想を実現するために血液まで共有する考えにとり憑かれた。かれは自ら生体実験に名のりをあげ、全身の血液交換実験中に事故死する!そのボグダーノフの中編『技師メソニ』を読んだレーニンは、1913三年にゴーリキーに宛てた手紙のなかで、こう言っている。「これは、労働者にも《プラウダ》の無邪気な編集者にも理解できないように隠されたマッハ主義=観念論にほかなりません。この小説は資本主義を暴露していませんし、客観的にそれを理想化しています」と。・・
  以下略・・

 **************    

 
 このテーマに関連しては、
 佐藤正則『ボリシェヴィズムと<新しい人間>』(20世紀ロシアの宇宙進化論)
 水声社 2000.3月刊

 同著者による訳、アレクサンドル・ボグダーノフ著『信仰と科学』
 未来社 2003.12.25刊
 の二冊がお薦めです。1970年生まれの学究からの誠実な贈り物に感謝!

    



(続)柄谷行人『戦前の思想』
 2.マルクスが見落としたこと

 ハイエクは、進歩するたに自由が必要てあるといいますが、同時に、自由のためには進歩が必要なのです。なぜなら、プラス・サム・ゲームが実現されないなら、貧富の差は耐えがたいものになるからです。
 ここに、いくつかの疑問があります。それは、第一に、自由放任が予定調和に至るか否かであり、第二に、無限に「進歩」が可能なのか、ということです。たとえば、市場経済の自動調整機構(アダム・スミスのいう「見えざる神の手」)には、岩井克人が「不均衡累積理論」で明らかにしたような内在的な欠陥があります。それは、原理的な欠陥です。事実、その結果として、「共産主義」のみならず、国家が介入するケインズ主義もファシズムもでてきたのですから。

 フランスの未熟な産業資本主義から出発したプルードンの考えは、19世紀後半においてもすでに牧歌的なものです。マルクスの『資本-国民経済学批判』は、そうした資本主義の(カント的な意味での)「批判」であって、たんなる否定ではありません。プルードンは、「財産は盗みである」といったけれども、こんな単純なことでは資本主義はわからないのです。しかし、マルクスはどんなにイギリスの資本制経済を批判しても、ドイツに帰国しようとは(帰国できたのに)しませんでした。なぜなら、そこには「自由主義」がなかったからです。・・(中略)・・資本主義を解明するためには、イギリスにいるほかありません。

 しかし、マルクスの認識上の欠陥は、むしろそこにあったのです。彼は、ブルジョアジーはますます豊かに、プロレタリアートはますます窮乏化し、両極分解するという見通しをもっていました。純粋に「自由主義」であるならば、たしかにそうなるでしょう。ところが、彼は、資本主義経済が、純粋に経済的ではなく、政治的な、いいかえれば国家的な介入によってあるということを見ようとしなかったし、見なかったのです。
 
 たとえば、イギリスは、アダム・スミスが反対したにもかかわらず、膨大な植民地を領有していました。そうすると、イギリス入は、労働者といえども、そうした植民地からの利益を享受できるわけです。いわば、「窮乏化」は植民地の人間が引き受けているわけです。したがって、マルクスのいうことはグローバルには当たっているのですが、イギリスのなかでは当てはまりません。

 しかし、それ以上に重要なことがあります。それは、マルクスが見下していたドイツにおいて、宰相ビスマルクのもとに、国家による介入と統御によって資本制生産が発展したことです。・・(中略)・・
 このようにドイツ国家資本主義の優位は、普仏戦争(1870年)における、ブロシャのフランスに対する勝利によって象徴されます。そして、その裏面において、フランスの敗戦によって生じたパリ・コンミューン(1871年)の敗北があるのです。この敗北は1848年以来の、いいかえれば、『共産党宣言』以来の運動の終焉を意味しています。以後、「社会民主主義」が革命運動の主流となりました。たとえば、プロシャのフランスに対する勝利に関して、ニーチェは、勝利したのは文化ではなく、国家にすぎないといっています。(『反時代的考察』)。別の観点から見れば、パリ・コンミューンの敗北も同様なことを意味するでしょう。それは、諸個人の「連合」に対して、「組織」「党」「システム」が勝利したこと、いいかえれば、革命運動のなかで、「国家」が勝利したことを意味するのです。
 

 その結果、「社会民主主義」が社会主義運動の最も支配的な形態となった。そこでは、一国のなかでの議会主義的変革、国家による計画的な経済政策が提唱されます。(晩年のエンゲルスもそれに近づいています。)レーニンはカウツキーをマルクス主義の「背教者」と呼んだけれども、カウツキ-はエングルスの考えに従っていただけてす。「第ニインターナショナル」は、そうした社会民主主義によって形成されたものですが、ここでのインターナショナリズムの矛盾が露呈したのは、第二次大戦においてです。各国の社会民主党は参戦を支持した。それは、社会民主主義が「国家」に依拠する以上、不可避的でした。

 社会民主主義にとって代わったのは、自然成長的な大衆運動とは別次元にある「前衛党」を主張したレーニン主義です。
レーニンは、マルクス・エングルスの片言隻句を掻き集めて「暴力革命」と「プロレタリア独裁」の理論を固めました。ここにおいて、「国家」の支配が全面的となります。レーニンは、社会民主主義が参戦したのに対して、「帝国主義戦争から革命へ」という戦略を掲げ、ロシアの敗戦に乗じて革命を成功させました。この成功が「マルクス=レーニン主義」の優位を確立したわけです。ここに、「共産党」による「第三インターナショナル」(コミンテルン)が形成されました。この時点では、それはなお「インターナショナル」ではありましたが、ヨーロッパにかける革命の挫折とともに、「一国社会主義」的となり、スターリンのもとでは、コミンテルンは、ロシアがそれを通して世界の運動を支配する機関となってしまいました。
 
 
   いうまでもなく、それは今日破産しています。今日各国の共産党は名を変えていますが、名を変えようと変えまいと、それは基本的に「社会民主党」に類するものです。しかし、「共産党」はまちがったから「社会民主党」にもどればよいという考えは、前者が後者からはじまっていること、それが第一次大戦で破産したことを忘れている。すなわちそれは、「国家」を自明の前提とするものであり、本質的に国家主義・保護主義であるほかありません。その点で、自由主義者のハイエクがいったことを想起すべきです。

 ハイエクは、「共産主義」はいうまでもなく、社会民主主義、福祉国家、あるいはケインズ主義を否定していました。つまり、彼はそうした思想に存する「分配的正義」(平等)という考えが自由をおびやかすと考えたのです。《分配的正義の原理は、一度導入されてしまうならば、社会全体がそれにしたがって組織されるときに初めて満たされることになるであろう》。《これはあらゆる基本的な点において自由社会とは反対の社会である。すなわち、個人が何をなすべきか、またいかにそれをなすべきかを権威者は決定する社会をつくり出すであろう》(『自由の条件』)

 それに対して、ハイエクは、市場経済の自動調整機構に任せるべきだというのです。そうしないかぎり、必ず「国家」が強くなるというわけです。しかし、自由主義は、少なくとも第一次大戦において破綻していました。1980年代の「自由主義」も破綻しかけています。特にアメリカにおいて、レーガン主義はまさに富の「不平等」を露骨にもたらしました。しかも、世界経済は構造的な不況に陥り、各国は保護主義的な動きを見せています。
ここで、現状分析をするつもりはありませんが。ただ、私がいいたいのは、「自由」と「平等」は原理的に背反することであり、それは今後においても解消されることはないということです。

  


柄谷行人『戦前の思想』
  *「自由 平等 友愛」、何度も目にし耳にもした、このスローガンに疑問を感じなかった人は少ないだろう。
 とりわけ、「自由と平等」はけっして両立することのない理念なのではないか等々と。
 

  曖昧な思い込みとそれによって(そのままの状態で)行動を起こすことは社会的な、思想的な「犯罪」に限りなく近いだろうし、できることなら(努力で叶うものなら)避けるべき「犯罪」だ。

 ここでは、「自由・平等・友愛」について、<先哲>柄谷行人の講演に学びながら考えていく。

 (1992年11月 上智大学学園祭での講演)

 タイトルは <自由・平等・友愛> 

 1.自由と平等は背反する から始める。
 
 
   1.自由と平等は背反する

 「自由・平等・友愛」は、フランス革命のときに唱えられた有名なスローガンです。しかし、これらの理念が歴史を動かしたかのように思うのはまちがいです。何気なく並列されたように見えるこの三つの概念は、根本的に異質なものであり、それぞれ違った源泉をもっています。とりあえず、これらの概念を定義するところからはじめることにします。というのは、それが明確でないと、議論が混同されてしまうからです。

 まず、「自由」に関していうと、たとえば英語では、freedomとlibertyが区別されているのですが、日本語ではその区別がありません。そのために、内面的自由というようなものと混同されます。したがって、特に、われわれはその違いに注意する必要があります。「リバティー」というのは、他人の恣意的な意志に拘束されないという意味です。もっと具体的にいえば、それは権力、特に国家権力の制限を意味します。ここでいう「自由」とは、たんにそういう意味です。しかし、「たんに」といっても、それを軽視することはできません。たとえば、宗教的・哲学的な人たちは、自由の問題をもっと深く考えようとする傾向があります。

 サルトルは(ナチ・ドイツの)占領下においてわれわれは自由だった、と書いています。それは、占領下において、抵抗するにせよしないにせよ、たえず個人が実存的に選択せざるをえない状況にあったという意味です。しかし、そのようにいえば、普通の意味でまったく自由がない状況においてこそ、人間は自由であるということになります。日本では、第二次大戦において戦争で死ぬ運命にあった人々が、そのような運命に能動的に従うことこそ自由があるというような論理も説かれたのです。

 しかし、私がここでいう自由は、そういうものではありません。もっと世俗的で凡庸なものですが、それがないところでこそ、自由は非常に観念的、文学的、あるいは深淵なものになっていくのです。たとえば、戸坂潤は、戦争前の日本の思想状況にかんして、こういっています。

 「元来、自由の必要は哲学者や文学者が感じるよりも先に、企業家や政治家が、感じて来たものなのだ。哲学的又文学的な自由の観念は経済的又政治的自由の観念の出しがらだったからである。(中略)自由主義はだから経済的な又政治的な範躊であって、元来哲学者的又文学者的範疇でなかったのであるが、それが現在の日本などでは、自由主義と言えば、政治上の自由の問題などとは無関係に、哲学者的に又文学者的に常識界で通用している。今日では自由主義という常識的用語は、もはや政治的範疇ではなくて文学的範疇になっているのである。    『日本イデオロギー論』岩波文庫

 ここで少し極端にいうと、「自由」とは私的所有権ということになります。自由という問題を所有の問題に還元していいのか、という疑問が出てくるかもしれませんが、逆に言うと、「私的所有」は、たんに私有財産の問題ではありえないのです。たとえば、「職業の自由」は、各人が自分の労働力を私有するということですし、「表現の自由」は同時に、表現を私有すること(著作権)と切り離せない。個人が共同体に属する存在であるならば、こうした自由はありえません。というわけで、私的所有権は、あらゆる近代的な「自由」を凝縮するものです。そして、これを制度的に保証することが近代の革命だとすれば、それは本質的に「ブルジョア革命」ということができるのです。

 この私的所有をけっして馬鹿にすることはできません。私的所有権と切り離して「自由」を考えることは可能ですが、それは、先にもいったように、決まって、深淵で抽象的なものになってしまいます。また、私的所有権を制限すると、必ず「自由」は制限されます。私的所有を疑問視する前に、それが「自由」と不可分離だということを知っておく必要があります。平田清明氏がかつて強調したように、マルクスはこの意味での私有を否定したことはありません。

 つぎに、「平等」という概念についていうと、これは経済的平等あるいは分配的正義という意味です。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という有名な福沢諭吉の言葉がありますが、これは「法の前での平等」という意味です。しかし、法の前での平等はむしろ「自由」ということに含まれるから、わざわざ「平等」という必要がありません。また、平等は、生まれつきの能力や容姿といったものの平等の問題ではありません。あくまで、平等は、富の平等(分配的正義)ということを意味していなければならない。むしろ、この意味での平等がないところでこそ、深遠な平等が考えられてしまう。たとえば、どんなに貧しくても、神の前では平等であり、あの世に行けば平等であるというふうに。

 このように自由と平等を理解することは、実は、それらが近代の資本主義のなかで見いだされるものだということです。あとで述べますが、友愛も同様です。封建制度とちがって、資本主義においては、人間が直接に他の人間を支配するわけではない。それはつねに、自発的な合意(契約)による交換を通して、媒介的になされます。マルクスの言葉でいえば、人間と人間の関係は物と物との関係としてあらわれます。したがって、各個人は、直接的には、他者の強制から自由なのです。しかし、ここでは、封建的な共同体に従属しているかぎりで生産手段をもっていた農民は、それをもつ者ともたない者に分かれてしまいます。そこに、従来とは異質な「不平等」があらわれるわけです。

 自由と平等の問題は、フランス革命などより前に、すでに産業資本主義を高度に発展させていたイギリスにおいて問われています。たとえば、自由と平等は両立するでしょうか。人が自由勝手にやれば、かならず貧富の差が生じるのではないか。自由主義者のアダム・スミスはそう考えませんでした。よく知られているように、スミスは、私的利益の自由な追求を肯定しました。それは、各人が己の利益を追求することが全体の利益になり、したがって結果的に各人の利益にもなるというものです。この考え方を見るには、ゼロ・サム・ゲームとプラス・サム・ゲームを例にとるのがふさわしいでしょう。たとえば、マージャンでは、誰かが得をすれば、ほかはみんな損をするということになります。同様に、封建制社会では、領主の富は農民からの収奪にもとづいている。これに対して、プラス・サム・ゲームでは、誰かが得をすることがほかの人の損にはなりません。

 しかし、スミスの考えは産業資本主義の発展を前提しています。産業資本主義以前の段階では、ユートピア思想は、花田清輝がいったように、「単純再生産」の社会をモデルにします。それは社会的生産の総体がほとんど変わらないところで構想されるからです。そして、それは「貧困の平等」ということになる。19世紀前半のフランスやドイツで考えられた「社会主義」は、だいたいそういうものです。それに対して、産業資本主義社会は、プラス・サム・ゲームです。アダム・スミスが、各人がエゴイズムを追求することを肯定したのも、こうした経済においてです。

 自由主義がもたらす富の不平等は、自由主義者にとって重要ではありませんでした。たとえば、スミス的自由主義を受け継ぐハイエクは、自由と平等の矛盾は、いねば時間的に解消されるといっています。豊かな人たちは高価なものを買うことができるのに、貧しい者はそうできない。しかし、産業資本主義以後の社会では、それ以前と違って、貧しい者も昔の金持以上のものを所有することができる。《われわれの知る限りの進歩的な社会では比較的に進歩するのである。比較的豊かな人々は、他の人々よりほんのわずか先に物質的利益を享受しているにすぎない。富める者の支出の大部分は、結果的には後に貧しい者に利用されるようになる新しいものの実験費用の支払いに当てられている。新しく高価な生活様式は最初は一部の人によって実践される以外には、一般に手の届くようにさせる方法はない》(『自由の条件』)。
 これを身近な例でいいますと、自動車にしてもワープロにしても、最初は非常に高価なものでした。ほんの一部の人しか買えない。しかし、誰かが買わなければ、それは生産されず改良もされないわけです。そして、今や多くの人が自動車もワープロも持っている。貧富の差は、現在を固定して見た場合明らかに存在しますが、進歩する、経済的に発展する社会においては、時間差はともなうけれども解消されるということです。これが、自由主義者による「自由と平等」の矛盾の解決です。彼らにとって、それ以外の方法で「平等」を実現しようとすれば、必ず、国家主義(理性)主義に帰結し、「自由」が損なわれるだけでなく、結果的に「貧困の平等」に帰結することになります。

 アダム・スミスの自由主義は、自由放任(レッセ・フェール)ということですが、これは具体的には、国家の介入を制限することです。彼はcheap governmentということをいいました。ここで注意じたいのは、国家stateと政府governmentは別のものだということです。スミスはたんにcheapな政府をいったのではなく、国家が不要だといったのです。つまり、自由主義の考えは、議会=政府が国家であり、政府の上に国家があるのではないというものです。自由主義経済がイギリスにしかなかったように、こういう考えもイギリスにしかなかったのです。

 大陸では、ルソーの場合がひとつの典型ですが、国家は一般意志として、あるいは国家理性としてあります。ルソーは「自由の思想家」と呼ばれていますが、彼は「国家の思想家」でもあるのです。たとえば、国家と自由を対立させるのはまちがいであり、各人は国家において真に自由であるといったヘーゲルも、ルソーをうけついでいるわけです。

 スミスの考えは、経済においては、各人の私的利益の追求が結果的に予定調和的に全体の利益になるというものです。しかし、それは経済の問題だけではありません。たとえば、それ以前では、真理は、だれか少数の者が把握するものと見なされます。哲学者・僧侶が真理を握り、あるいは国家・言僚が理性的てあると考えられる。ところが、自由主義の観点から見れば、真理は各人の違った意見が相対的に合意点に達したものにすぎません。自由主義は、けっして古来からある思想ではありません。それは、私的所有と競争がある種の自動的な秩序をもつと思われるようになった時点で、はじめて成立したのです。
 

 2 マルクスが見落したこと
  
 
  しかし、フランス革命では、まるでそれらが簡単に両立するかのように、「自由・平等・友愛」が唱えられました。もちろん、実は「自由と平等」の矛盾がすぐに露呈したのです。「自由」は、いうまでもなく、封建的な諸制限の撤廃であり、突きつめていくと、私的所有権の確保です。ブルジョア階級にとってはこれで十分でした。しかし、問題は「法の前での平等」が達成されたとしても、具体的に富の平等が達成されていないことにある。フランス革命において、第四身分と呼ばれる職人・労働者などの市民が参加しています。というより、実質的に彼らの闘いなしには革命はなかったわけです。ところが、この革命は、彼らの要求を黙殺することで終っています。19世紀の革命思想(社会主義)は、ここに胚胎していると、よくいわれます。つまり、この革命で実現されなかった「平等」を実現しようとするものとして、「社会主義」があらわれたというわけです。
 

 しかし、フランス革命が「自由」を実現したというときに注意しなければならないのは、それがイギリスの「自由主義」とは無縁だということです。イギリスにおいては、そこに至るまで17世紀以来さまざまな紆余曲折があり、具体的な制度とともに形成されたものです。ところが、イギリスの経験を模倣したフランスの啓蒙主義者においては、「自由」はアプリオリな観念になっています。フランス革命は、封建的諸制限を一挙に廃止したのですが、ロベスピェールらにおいて、自由の観念は逆に絶対的な専制政冶に転化してしまいます。少数の人間が「真理」を握り、彼らが万人を代表することになるからです。ここでは、権力の制限としての自由という視点はありません。

 むしろ、フランス革命が生み出したのは、いわゆるジャコバン主義であり、少数の真理を握る者の国家主義的独裁形態です。同時代に「平等」を主張したバブーフの「共産主義」も同様であり、後に「平等」を「自由」の上においたルイ・ブランの主張もそうです。それは、のちにレーニンのボルシェヴィズムに受け継がれます。フランスに「自由」の伝統があるという考えは疑うに値します。というのは、フランスは今日に至るまで、つねに官僚(国家)が支配する国家だからです。自由主義はそこではつねに否定されてきている。私の考えでは、ミシェル・フーコーのような人がいったのは、フランスに欠けていた「自由主義」にほかならないのです。

 したがって、フランス革命以後の「社会主義」に関しては、二つに分けなければなりません。つまり、国家によって分配的平等を実現しようとするものと、自由主義によってそうしようとするものとに。後者を代表するのがプルードンであり、一般にアナーキズムと呼ばれています。アナーキズムとは、「無政府」状態を志向するのではなく、いわば国家がない政府を目指すものです。もう気がつかれたと思いますが、プルードンはイギリスの古典経済学の影響を受けているのです。たとえば、ハイエクのような現代の自由主義者がアナルコ・キャビタリストと呼ばれているのは、それらが同根であることを示しています。

 よく知られているように、マルクスは、プルードンの主著『貧困の哲学』を批判して『哲学の貧困』を書きました。しかし、彼らが政治的に敵対したことはなかったというべきです。パリ・コンミューン(1871年)をやったのはプルードン派ですが、マルクスは熱烈に支援しています。また、マルクス・エングルスが書いた『共産党宣言』はアナーキストたちにも共有されていました。その証拠に、日本で最初に『共産党宣言』を訳したのは、幸徳秋水と堺利彦です(1906年)。そのなかでいわれているのは、国家の廃絶と私的所有の廃止という二つの原理です。これらはアナーキストに共有されていた、というより、アナーキストのものです。そして、マルクスも、この点においてアナーキストであり、国家主義者ではありません。実際、マルクスは「国有化」などいったことはありません。それをいったのは20世紀のレーニンです。たとえば、『共産党宣言』(1848年)というと、共産党の起源のように見えますが、実は、共産党など19世紀になかったし、それが目指されたこともなかった。われわれが知っている「共産党」は、ロシア革命で権力を握った「ロシア社会民主労働党」の左派が名乗り、以後各国にコミンテルン(第三インターナショナル)の支部として作られたものです。「第一インターナショナル」においてはマルクス、プルードン、バクーニンらはたんに個人として参加していただけで、ネーションを代表していたのではありません。

  マルクスがプルードンの経済学を批判したのは、彼がアダム・スミスの経済学を批判したのと同じことです。たとえば、スミスは恐慌を知りません。まだ、それが存在しなかったからです。ここで、先に述べた事柄に戻りますが、自由を確保すれば不平等が生じ、平等を追求すれば自由が失われるという矛盾に対して、自由主義者ハイエクは、自由と平等の矛盾が時間的に解消される(*註:貧乏人は少し待っていろということ。ただし、貧乏人が生きているうちにどうこうなるというという保証はない)わけです。しかし、それには、経済が成長していることが前提になります。
  



 シスモール
   
  同志社大学・一神教学際研究センターの『CISMOR VOICE』という冊子の紹介。
    http://www.cismor.jp/jp/top.html
 
 
   <京都>といえば・・・

 自然に思い浮かぶことは、先ず第一に中学校の修学旅行である。団塊世代の北九州の中学生は誰も

 が持つ「共通の記憶」のはず。夜行列車での旅で、翌朝の京都到着ー京都・奈良周遊だった。

 1960年代初頭の地方の中学生にとっては初めての「グランド・ツアー」であった。

 夜の旅館での思い出以外で奇妙に記憶に残っているのは「清水の舞台」である。

 もちろん当時の中学生は、東條英機の名前こそ耳にはさんだことはあるものの、「清水の舞台から・・」という東條のアジテーションは知る由もない。

 第二は、そのころ(60年安保・三井三池闘争の余韻も残る)北九州五市の合併が決まり、その新しい

 市の名前が公募され、西の京都=「西京市」という「応募投票」がかなりの数にのぼったことである。

 結果、新市名は、「北九州市」という何とも「風情」のない(と、当時も思った)ところに落着した。

 子供心にも何となく納得しがたい気分だった。今でもそうなのだが。・・・

 要するに、公募は「ヤラセ」だったのではないか?という疑念が残る。これも残念というべきか。・・

 ************

 以下思いつくままに<京都イメージ>を記していくと。

 * 銘菓というか京都土産の当時(今も?)の定番・「八橋」
   勿論、堅いせんべい状の菓子のほうで「生八橋」ではなかった。

 * 京都競馬場
   ご存知、春の「天皇賞」と「菊花賞」の開催場。
   両レースともに「自信のレース」だった、・・昔は(笑)。

 * 嵯峨野の湯豆腐
   紅葉のなかの湯豆腐はやはり湯豆腐であった。
   ただし、下心があると不味くもなるらしい。これは大昔の話。

 * 革新勢力の強いところ。

 * 乗用車「シビック」の似合う町
   これは、技術イメージが強いが、実は大のコマーシャル上手な「H社」の資金投下の影響だろうが。
 

  *そして、同志社のラグビーとりわけ、平尾誠二率いる黄金時代のそれ。

 (平尾誠二と松岡正剛=京都出身=の『イメージとマネージ』という本がある。1996.12集英社刊)
 この本で平尾誠二と正剛との出会いを知り、それ以後一流ラガーマン(スポーツマン)に対するとき
 の自身の構えが、決しておおげさでなく変わった。

 冒頭の「二人の出会い」の経緯の箇所のみを引用しておこう。

 ************

 1 イメージをマネージする
 
 そのとき平尾誠二は22歳だった。1984年、同志社大学4年生の秋である。
  平尾はその日、ごく親しい知人から「おもしろい人がいるから会ってみないか」と言われ、神戸の
 ポートピアホテルに来ていた。名前を聞くと、「松岡正剛という人だ」という。それなら平尾は少し知 っていた。すでに週刊していたが、松岡のつくっていた雑誌『遊』を見ていたからだ。
  松岡も同じ知人から「平尾に会わないか」と言われていた。当時、松岡は平尾の実際のゲームを2. 3度しか見ていなかったものの、溌剌とした同志社ラグビーとともに、平尾の類稀な判断力やプレーに
 感心していたので、二つ返事で神戸に向かった。

 ****************

 * 同志社「つながり」では、荒俣宏・『理科系の文学史』(1981.6.15工作舎)の巻末「参考文献」  で知った、同志社アーモスト館出版局『ガリバー旅行記と日本』(モーリス・ジョンソン他著、
  ムーンライトシリーズシリーズNO4)。
  私も早速郵送願ったものだった。

 * 最後に、井上真琴(1962生、文卒の男性)著『図書館に訊け』(「聞け」ではなく「訊け」
  である。2004.8.10.ちくま新書)
  この種のレファレンス・ツール案内本としては、抜群の一冊。

 *ご存知、同大出身の「外務省のラスプーチン」氏については後ほど、まとめて。
 

 ・・・思い浮かぶままに書き散らしてきたが、冒頭の・・ 同志社大学・一神教学際研究センターの『CISMOR VOICE』という冊子の紹介は、これも後ほど。 

    <補記>
 
  どうも気になるので、『図書館に訊け』の<訊>を『字統』(白川静)で確認すると、
   

   **『説文解字』に「問うなり」とあり、訊問の意。
  俘虜を訊問することをいう。
  元の意味は俘虜を後ろ手に縛り盟誓したうえで訊問を行うことを示す字。***
  とある。(要記)・・「聞く」(=原義は「神の啓示を聞く」)と較べて能動性、意志的な字だ。
  訊問するわれわれにも覚悟が求められていると理解すればよいのか。  
 
  CISMOR・五号より。
 ミシェル・モール氏(1992年ジュネーブ大で文学博士号を取得後京都に移住し、
 宗教学の研究に専念する。既成概念の再検討に挑戦することが趣味。)の
  <「聖地」としての京都>を紹介します。

 今や日本全国共通の駅前・繁華街の異様な光景と変わらぬ「古都の風景」描写からはじまる。
  
  ******************

     <はじめに>

 現在の京都には残念ながら理想の旧都と違う要素が多い。懐古趣味でなくとも、度々古都にふさわしくない風景を目の当たりにする。各交差点にはパチンコやコンビニが立ち並び、車優先の社会が作り出した主要道路は絶え問無く騒音と共に排気ガスを放出しつづけている。町の外見にこだわると、とても「聖地」とは思えない姿の方が目に付きやすい。

 それなら「聖地」の呼称を京都に当てはめることは無理だろうか。この疑問に答えるために、そもそも「聖地」とは何を指しているかを考えねばならない。ただし「聖なる場所」の特徴は、当然ながら信仰形態によって異なってくる。この欄の読者のうち、エルサレムを最たる「聖地」として思い起こす人が多かろう。つまり一神教の一般的な理解では、神から与えられた恩寵が第一の条件となる。では、一神教に属しない仏教や神道の場合、どのような捉え方をするのだろうか。

 環境や都市計画の問題から離れ、住民に日本のどこに「聖地」があるかを尋ねると、まず高野山、富士山、あるいは吉野や立山の山名を挙げる人がいる。山には自然の不思議な力が宿るから、または行者がその閑静な所を選ぶからこそ、「聖地」や「霊地」として認識されている。この「自然の不思議な力]の意味するところは、「気]という発想にほかならない。「気」という漢語は日本に道教的な響きと共に導入されたが、それ以前にも類似の感触が存在した可能性が高い。しかし文字が日本列島に上陸する前から「気」を重視する神道の原形があったと推定しても、それを立証することは難しい。

 行者が選んだ場所に焦点を当てると、京都の周りの山々には僧侶が籠もった形跡が目立つ。たとえば平安時代に高雄山と比叡山には修行道場が聞かれてくる。そして比叡山から派生した鎌倉時代の新仏敦が現れると、浄土系や禅系の多くの僧侶も新しい教えを広めるため、まず京都に本拠地を置いた。そこから自分が所属する宗派の開祖が活勤しはじめた場所を崇める仏教徒は、本山へお参りする目的で京都を訪れている。多くの仏教徒にとって、「聖地]が一方でインドにおけるブッダゆかりの名所、他方では高僧が活躍した場所を連想するからである。実践に深入りした人なら、むしろ「聖なるもの」が外的な状況とは無関係の自由自在な精神状態を指すと解釈するだろう。例えば、「維摩経」に「直心是道場」とあっって、「悟りの場」を意味する「道場」と心境との関連が強調されている。  つまり仏教は本来、心理的な次元を優先するが、民間宗教として発展したことも否定できない。特定の場所に「利益」(りやく)を求める信仰から巡礼などが実際に行われている。

 以上の概要から「自然中心」の神道系の形態と「人物中心」の仏教系の形態を大別できるが、この分類をより厳密にすることは欠かせない。そして神仏習合という形で両系統が重なることも珍しくないことは事実だ。しかし、少なくとも宗教史の観点から、奈良時代以降、仏教諸宗の開祖をはじめ京都は宗教の実践、そして、思想交流の場として常に中心的な役割を果たしてきたと言えよう。

   <権力の集中する場所>

 さらに天皇の存在から都を「聖なる場所]として位置づける時代もあった。例えば禅宗系諸宗の僧堂では元旦、今上天皇の誕生日のとき、そして毎月の1日と15日に、「祝聖」という行事が現在なお行われている。行事の目的は皇帝の長寿と国家の安定を祈ることだというが、その起源は 中国の古い信仰の転用から来ている。古代中国では「天皇大帝」は最初に北斗の神だったが、次第に全宇宙を司る神と見なされるようになり、現在は「泰山府君」として祀られている。中国において国王としての皇帝と神としての天皇大帝は区別されていたにも関わらず、日本では同じ語が使われてきた。「祝聖」(しゃくしん)は宋代の『禅苑清規』に初めて登場する行事で、意外に道教的な背景を持っている。

 したがって、「聖地」としての京都には3つの主なニュアンスが見つけられる。
 1)自然が提供する地理上の恵みとその神道的な解釈。
 2)仏教の宗祖等が開いた本山が集中し、「日本仏教のメッカ」と見なされる側面。
 3)天皇が明治時代まで住居を構えた都としての性格。
 しかし京都が権力の中心地だっただけに、逆に祭政の圧倒的な存在から逃れたい人も現れた。これは道元が今日の福井県=越前に永平寺を開いた動機とされている。いずれにしても人は京都に対して魅力または嫌悪を感じ、無関心ではいられなかった。ここでは敢えて京都を「聖地」として扱ってみるとき、「俗」対「聖」という二元的な価値判断以前、「聖なるもの」が「俗」を含めて万物に内在していることが前提である。この観点から過去における「聖地」としての性格をさらに追究し、最後に未来における「聖地」の可能性を考えてみたい。

   <平安京の歴史的背景>

 平安京への遷都が行われた794年には、その10年前の長岡京への移転の失敗を教訓に、桓武天皇はそれをきわめて慎重に実現させた。すでに前年の正月から藤原小黒麻呂などが地相調査に派遣され、予定地の葛野郡宇多村を綿密に調べていた。不可欠の条件は河川による交通の便、そして四神相応という風水に関わる地形であった。
「四神」は東の青竜、西の白虎、南の朱雀、そして北の玄武を指し、中国の古代信仰に基づいているが、調査の結果、候補地がすべての条件を満たしていることが報告された。新しい都の北の基準点として玄武を象徴する船岡山が選ばれ、西には双ケ岡、そして東には鴨川がふさわしい形で平安京を囲んでいるという結論に至った。東西の果てを「京極」と呼んでいたが、その辺りには以前から人が住んでいたことは案外知られていない。

   <先住民>

 考古学の進展により、古代史の一部が明らかになりつつある。遷都以前、今の京都の太秦(うずまさ)の辺りに住んでいたのは秦という渡来系の氏族であった。彼等は当時、葛野川と呼ばれている今の桂川の上に取水ダムを築いて嵯峨野を農地として利用しながら、養蚕業など多くの新技術をこの地域にもたらした。蚕ノ社はその遺産の一部を窺わせている。5世紀後半には秦氏が朝鮮半島東部から集団で日本に渡ったと見られるが、広隆寺の有名な弥勒菩薩の思惟像はその高い文化を物語っている。なお遷都の際、前述の藤原小黒麻呂と秦氏との親密な関係は役立ったようである。

 当時のもう1つの重要な氏族はカモ氏で、その当て字の「賀茂」と「鴨」が河川名と上下の神社の名称に現存している。カモ氏は平安京以前から葛野の地域に住居を構えた豪族で、その「カモ」の音写が「カミ](神)を指し、神事を司る一家だったらしい。神社の禰宜(ねぎ)を務め、後に阿部氏と並んで宮廷の陰陽家に任命された。この先住民は大和にもいたことから、朝廷に仕える重要な宗教家と見られる。
 

     <桓武天皇>

 遷都が決まる過程の中で、先住民の協力を得るとともに、長岡京に執着していた反対勢力を押しのけることが不可欠だった。この難しい決断を迫られた桓武天皇は周りの有識者の意見に耳を傾けると同時に、東北への軍事作戦に意欲を示し、政治的な野心の持主として知られる。桓武の別名はやまべのみこ=山部親王あるいは、かしわばら=柏原で、白壁王(のちの光仁天皇)の第一皇子として生まれた。『続に本紀』によると母の高野新笠は、百済の武寧王(ムリョンワン、在位502-523年)を祖先とする百済王族の子孫だったので、当時として「国際的な人」と見なされていたかも知れない。桓武の在位中、空海と最澄は唐に送られ、日本仏教が新局面を迎える時代に当たる。
 ちなみに804年にこの二僧の同伴をしたのは小黒麻呂の息子、遣唐使として任命された藤原葛野麻呂であった。桓武の皇后も同じ藤原氏の藤原乙牟漏で、31歳で亡くなるまで次世代の平城と嵯峨天皇の母となった。

   <長安の模型>

 平安京が設計された頃、中国の唐代の首都長安が模範となった。東西南北の通りの配列、皇居の位置などは長安に倣っている。朱雀大路が都の中心にあるという点も共通だが、やはり日本独特の地形や社会構造に合わせた点もあり、特に規模と人口に関して比べものにならない.盛唐時の長安の人口が約100万人だったのに対して平安京の人口は15万人以下だったとされている。
 
 京都市の総人口は2006年1月には約147万人(正確には1,472,666人)だったので、都づくり当初に比べるとほぼ十倍に膨らんだ。しかし生活の水準よりも生活の質を考えたとき、本当に向上したのだろうか。
 
 
   <未来における聖地の可能性>
 
 これまで過去と現在の京都に目を向けてきたが、少し未来像を考えてみたい。端的に京都を「学生とお坊さんの町」と特徴づける人が少なくない。ところが本気で学問と宗教の交流の場というイメージを謳い文句に使えば、即座に世界の注目を浴びるはずだ。・・・
     (以下略)

 

 長谷川(間瀬)恵美氏による「太秦(うずまさ)- カミと仏と一神の交流の場 -」も興味深いもの(*特に<三柱鳥居>の項)だったが、以下は皆さんでどうぞ。

 
 

寛容の文化
 *『寛容の文化』 マリア・ロサ・メノカル著 足立孝訳 名古屋大学出版会 2005.8.10刊
 
 書評者との相性というものもあるのだろうか? 私はあると思う。
 「毎日新聞」・日曜に掲載されている富山太佳夫氏の評で紹介されて、購読したものは多いが、
 これまで、「ハズレ」はなかった。

 その中の一冊。一昨年の新聞の切り抜きが巻末にはさんであったので、まずその引用から始めよう。


 引用始・******************

 「寛容の文化」
  マリア・ロサ・メノカル著(名古屋大学出版会・3990円)

 この本を「七八六年、コルドバ」に始まり、「一四九二年、グラナダ」に向うアンダルスの歴史と宗教と文化を描き出した傑作と紹介しても、多分読者にはほとんど何も伝わらないかもしれない。伝わるどころか、まず最初に、アンダルスって何、と質問されそうだ。

 私にしてもスペインの歴史に関する知識などないに等しいのだが、それでもこの本の面白さくらいは判断がつく。アンダルスとは、かつてイスラム教徒(ムスレム)がイベリア半島を呼ぶときに使った呼称。要するにこの本はスペインの歴史についての本ということである。そして、一四九二年という年号を眼にしてわれわれが思い出すのが、コロンブスによるアメリカ大陸の「発見」なるものだとすると、この本はそこにいたるまでの七百年間の歴史を語ったものということになる。

 まず頭に浮かぶのは、そんなものが面白いのだろうかという疑問かもしれない。もちろん面白い、抜群に。この本を読み出せば、そのことはすぐに分かる。いや、読み出すまでもない。副題を見れば、読みたくなる-『ムスリム、ユダヤ人、キリスト教徒の中世スペイン』。それは三つの一神教が互いに衝突しながらも、互いに寛容になろうとして共存した時期であった。「単一の言語と蛍△の宗教」からなる国家をめざして、「統一でイスラム教徒(ムスリム)がイ と調和のモラルによって規定さベリア半島を呼ぶときに使った呼 れ、矛盾に対して遥かに不寛容な近代」への歩みが始まるのは、その時期に終止符がうたれたあとのことなのだ。
 当然と言うべきなのか、それとも歴史の教訓とはこういうものと納得すべきなのか、中世のアンダルスの歴史のうちに、アメリカ帝国が世界にのさばるわれわれの時代の直面する難問を解決しようともがいたひとつの例がすけて見えるような気さえしてくる。

 「ムスリムは、現代の世俗的なヨーーロッパ諸国家に統合されうるだろうか。原理主義的なキリスト教徒は、彼らの子供たちを信仰の教育と同じく理性の教育に、聖書上の真実と同じく進化論的な諸論理にに触れさせるべきだろうか、カトリックのクロアチア人、正教のセルビア人、ムスリムのボスニア人はバルカン半島で共存できるだろうか。寛容と不寛容はどうしたら並び立つことができるだろうか」。アメリカの研究者マリア・ロサ・メノカルはそうした問題意識を抱えながら、さらには「九・一一」以降の情勢をにらみながら、この本を書いている。

 だからこそ、この本は生き生きとしているのだ。歴史の細部がそれ本来のかがやきを取り戻すのだ。アラビア語の書物の焚書を命じ、「最も圧政的な異端審問の時代」を演出したカルロスー世をめぐるエピソードにしても、その一例としてよいだろう。彼はアラブの文化の魅力を知っていた。一五一九年に神聖ローマ皇帝に即位するとき、カルロスはかつて皇帝フリードリヒニ世のガウン、フリードリヒがまことに愛したイスラーム風の外衣、さらにはアラビア語の刺繍された大きな折り返しをもつケープを身にまとって戴冠儀礼にのぞんだ」

 それだけではない。著者はアンダルスに形成された寛容の文化をふまえて、ボッカチオの『デカメロン』を、セルバンテスを、さらには現代の小説家ルシュディまでも読み直してみせる。『ドン・キホーテ』の背後にある歴史のある部分がこんなにも鮮やかに浮上してくるとは、まったくの予想外であった。      (足立孝訳)
   
  ******************
 

 < まえがき> ハロルド・ブルーム
 

 著者・マリア・ロサ・メノカルは、この胸をえぐるような物語を七五〇年のダマスクスで始め、一四九二年、ムスリムとユダヤ人がスペインから追放されたまさにその年のグラナダで終えている。メノカルの「アンダルスの破片」と題されたエピローグでは、ちょうど五〇〇年後のセルビア砲兵隊によるサライェヴォ国立図書館の破壊の光景が、一見不自然なほど詳しく描写されている。スペイン・カトリシズムの所業である一四九二年の冷酷な惨劇とセルビア正教会の計画的な勢力拡大をともなった一九九二年の文化的な残虐行為とのあいだに、メノカルは一六〇五年のセルバンデスの『ドン・キホーテ』第一部の出版にまつわる逸話を配している。これは、わたしがこの書物でとくに気に入っている箇所である。
それは、ちょうどシェイクスピアがロンドンのグローブ座で『リア王』を初演した年でもあった。西洋文学にはそれ以来四世紀にもわたって、最大の喜劇にして唯一無比の小説『ドン・キホーテ』あるいはまた最大の悲劇であり、文芸の極致である『リア王』に匹敵する傑出した文学作品は登場しなかったのである。 


 追放から一世紀にわたるいわゆるセルバンデスのスペインは、そうした破壊的な出来事の文化的・経済的トラウマにずっと苦悩していた。それは、ユダヤ人やムスレムにとっては「第一級の土地」からの永遠の追放であり、旧キリスト教徒にとっては勝利と黄金時代に相当するはずだった。だが、セルバンテスにとってそれが何を意味したかと問われたら、解きようのない謎と答えるほかない。サンチョ・パンサは、くどいほど頻繁に自分が旧キリスト教徒の家系の出であると言い、ユダヤ人嫌いであることを何の根拠もなしに付け加えたりする。どのユダヤ人のことだろうか。たぶん彼は改宗キリスト教徒(コンベルソ)のことを言っているのだろうが、読者はすばらしくお人よしなサンチョが誰かを嫌うなどと信じられるはずもない。ドン・キホーテはといえば、最後には打ちひしがれ、騎士身分を棄て去り、信心深く死の床に就くことを望んで帰路に着く。スペインもまた、一七世紀末葉からフランシスコ・フランコの死にいたるまで、信心深く死の床に身を横たえたまま、それ以後もいまなお完全に規定されようのない何か別なものに成り果ててしまった。アメリカ合衆国やアイルランドと比べてみても、スペインはもはや宗教に悩まされることもない。たとえ死の礼賛がいまなお文化の内奥に生き続けているとしても。

 メノカルにとってのアンダルスは、「ムスリム、ユダヤ人、キリスト教徒が寛容の文化を育んだ場所」であり、たしかに健全かつ有益なある種の理想郷を一定の水準まで実現したといえるかもしれない。もっとも彼女自身、一〇六六年にグラナダで起きたユダヤ人の大量虐殺をベルベル人原理主義者に全面的に帰しているように、それとても完全に納得のいくものとはいえまい。とはいえ、『世界の宝飾』〔本書の原題〕を貫く中心的なヴィジョンにはまことに説得力がある。アンダルスのユダヤ人とキリスト教徒は、大胆不敵なアブド・アッラフマーンー世に率いられ、ダマスクスからコルドバに移った後ウマイヤ朝の統治下で経済的にも文化的にも繁栄をきわめた。ユダヤ人の文化は、バビロニアからアメリカ合衆国へといたる流浪の文化にちがいないが、その三度にわたる絶頂期は、アレクサンドリア(紀元前二世紀から紀元後二世紀まで)、アンダルス、そしてオーストリア=ドイツ(一八九〇年代から一九三三年を通じて)において現出したのである。『バビロニア・タルムード』や、『創世記』から『列王妃』におよぶ旧約聖書のほうが、アレクサンドリア、コルドバ=グラナダ=トレード、そしてウィーン=プラハ=ベルリンのユダヤ人文化よりも強い光彩を放ちつづけているのはたしかであるが、それでもこれらの絶頂期と比べれば、アメリカのユダヤ人にいたっては文化的に痛々しく見えてしまう。

 メノカルのこの書物は、かつて中世初期と呼ばれた時代のユダヤ詩人、ムスリム詩人、キリスト教徒詩人(たいていはトゥルバドゥール)に手向けられた恋愛詩である。この書物をただひとりのヒーローに捧げるのはいささか躊躇するが(メノカル本人の心情はヘブライ語詩を再興した戦士にして詩人、シュムエル・ハ=ナギドに向けられている)、もしわたしならば、やはり戦士にして詩人、ただしアラビア語の詩人であるイブン・ハズムを指名したい。彼の手になるロマンティックな恋愛の手引書『鳩の頸飾り』もまた、全盛期が永遠に過ぎ去り、朽ち果てるばかりのコルドバヘの記念碑にほかならない。メノカルは、再生不可能であるが、だからこそ忘れがたい美学的、官能的、文化的伝統を保持しようとした点て、イブン・ハズムをドン・キホーテになぞらえている。

 この書物は痛切であると同時に、そうしたノスタルジーに全面的に埋没することなく、むしろそれがもっている今日的な問題との関連性を念頭におきながら、それ自体の出処をも考察の対象としようとしている点で賢明である。今日の世界のいかなる場所にも往時のアンダルスに相当するようなものを目にすることはできない。アーヤトッラーのイランやターリバーンのアフガニスタンは極端な例であるが、エジプトにしてみても、もはや寛容の文化を満たしているとはとても言いがたい。イスラエル人とパレスティナ人は、たとえ和平を実現できたとしても、アブド・アッラフマーンとその子孫達のアンダルスからいまや遠く隔たったイスラーム世界にずっと包囲されたままであろう。かつてコルドバとグラナダが打ち立てたものを思い起こすことはその意味でも有益であるし、それはまたわたしたちの心を揺さぶるに十分なのである。

 喪失感を味わいながらメノカルの書物を読むのはこれくらいにして、想像力をかきたてる彼女の力に賛辞を送りたい。今日のマルチカルチュラリズム(わたしたちの大学やメディアにとって有害以外の何ものでもない)は、本質を欠いたコルドバやグラナダのパロディにすぎない。アルハンブラ宮殿からユダ・ハーレヴィーにいたるまで、メノカルによってまことに情熱的に描き出されたあらゆる文化的偉業は、まさしく「美学的な」栄光の所産であり、着想は強靭、つくられたものはまったく優雅このうえない。掛け値なしに文化的記憶に資するという意味で、『世界の宝飾』はまさに本物の、高揚感に満ちた魂の意思表示そのものなのである。


 *原題は  The Ornament of the World 「世界の宝飾」。


 **************

「・・われわれが旅行する時、面白い人に会ったとき、また冒険に出会っても、それらの経験を十分に味わうだけ年齢が進んでいない時には、経験をしないのと同じにしか感じないものだ。・・
経験はわれわれが経験していることがどんなものかを教えない。物事は ただ起こるだけである。
 もしわれわれが経験の中に
何を見出すべきかを知らなければ、経験はわれわれに何の意味も持たない。」
 
 S.I.ハヤカワは読書について<旅=経験>からこう語る。(『思考と行動における言語』P.306~307)
 
 

大杉虐殺と甘粕正彦
  *参考までに、『賢者のネジ』(リスト参照)から一部を引用しておく。

 大杉栄虐殺事件と甘粕憲兵中尉(当時)についての部分。
 

 藤原 ・・大震災があった大正末期の日本で、大杉栄も甘粕正彦も刑務所に入っているが、甘粕の場合は本当に殺人者かどうか疑問であり、二人が共にいわれなき罪で服役したとしたら、日本が法治国家だという幻想は空中分解です。

小串 しかし、大杉栄が後藤新平から金を受け取ったことが、スパイだという論法に従うならば、政治家は圧力団体や政商から献金を受けるので、一種のスパイ役をしていることになるから、金の勣きには細心の注意が必要ですな。

 <大杉栄の虐殺を巡る甘粕大尉の謎と大杉のフランス探訪旅行>

藤原 懐柔目的に金を貰えばスパイと同類であり、復古主義を主張している御用文化人たぢは、権力に小遣いを貰って動いている点て、現代版のソフトなスパイに相当しています。藤田嗣治画伯だって陸軍に金を貰ったので、スパイだったと言う人もいるわけだし、名目はベルリンの「国際アナキスト大会」への出席だが、大杉栄がパリに行ったのは後藤新平に、調査を頼まれたとも言われています。どこまでがスパイ行為かは厳密に区別できないが、大杉は後藤新平の指示を受けて渡仏し、かつて甘相がたどった足跡を探るために、フランスで行動したと言われています。

小串 でも、それは変です。甘粕大尉は大杉栄たちを殺した罪で服役し、関東大震災の四年ほど後に奥さんと一緒に、初めてフランスに渡ったのであれば、甘粕大尉の足跡を探るための旅行というのは、どう見たって辻棲が合わないと思います。

藤原 それは通説に従った甘粕の捉え方であり、彼の公式記録は一九一五年から十八年にかけて、三年間にわたって記録の欠落があるから、一九一七年頃に最初の渡仏をした可能性があります。それを追及したのが落合莞爾であり、彼の「陸軍特務・吉薗周蔵の手記」によると、甘粕は一九一七年頃に最初の渡仏をして、フリーメーソン(大東会)に入会しています。だから、通説や角田房子の『甘柏大尉』(中公文庫)が言うような、出獄後九ケ月経った一九二七年二月に、初めて渡仏したという記述は疑問符つきであり、その辺のきちんとした検証が決め手でしょう。

小串 もしそれが事実であると証明されれば、大きな歴史の謎が解明されることになり、大正時代の日本史が書き換えられますね。
 
 ・・以下略
 

*小串正三(おぐし・まさみ) 
 1914年生まれ、東京外語大~大手商社勤務~引退
 *「三井物産パリ総支配人」との紹介もある。

 





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