カウンター 読書日記 2007年04月
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名著・旧著紹介 
 *『匂いのエロティシズム』 鈴木隆 集英社新書 2002.2.20刊 \680+税  
 

  <著者紹介>
 
 1961年東京生まれ 85年早大仏文卒 高砂香料工業株入社、 86-90年高砂香料ヨーロッパ研究所
 勤務 パフューマー(調香師)としてのトレーニングと実務経験を経て、
 2000年からTAKASAGO・USA勤務

 著書に『匂いの身体論』(八坂書房)『悪臭学人体論』(イーストプレス)がある。
   
 <目次>を観ただけでも魅かれるものを感じる本たちがいるものだ。

 この本もそういう一冊。先ず、目次の案内から、内容のランダムな紹介へ進む。

  ************

 <目 次>
 序 章     異性の匂い
 第一章     媚薬と香り
 第二章     エロスの進化論
 第三章     フェロモンからエロスへ
 第四章     鼻とセックス
 第五章     匂いに感じる人々
 終章      匂いのエロティシズム
 あとがき

 **************

 以下は、興味深い内容をランダムに紹介していこう。(文末の数字はページ)

 巻頭から告白的回顧調の文章が、なぜか心地よい。

 ***************
 「忘れられない匂いがある。
 はるか昔、私が高校生の頃の話である。男子校の生徒だった私は、ふだん同じ年ごろの異性というものに接する機会もなく、ただ学校と家を往復する日々を送っていた。
 あるとき、クラスの友人の家に遊びに行くことがあった。(多摩川沿いのかなり大きな家)

 友人の部屋で画集を見たり、ドビュッシーのレコードをかけたり、・・」
 (しばらくして、トイレを借りてまた部屋に戻ろうとした途中に友人のお姉さんの部屋があり、その部屋のドアが少し開いていた。)
 「・・(お姉さんは)部屋にいるのだろうか。胸の鼓動が高まるのを感じながら、その前を通り過ぎるとき部屋の中を覗いてみた。すぐに人の気配のないのがわかり、大胆にも、私は立ち止まって扉をもう少し広く開けようとしていた。・・

 カーテンが半分ほど開きかかった室内は薄暗く、それだけに一層何か悪いことをしているような気にさせたが、好奇心で一杯になった私は半身を扉の開いた部分から中に入れようとしていた。ベッドの上の乱れた布団や何気なく置かれたパジャマが目に飛び込んでくるのと、その匂いを感じたのはほとんど同時だった。いや、においを感じたというより、そのときの印象はにおいに包まれたという感じだった。

 それは、若い女のにおいと言ってしまえばそれまでだが、シーツの上に投げだされたしなやかな肢体のような賭け布団の姿と肌触りのよさそうなパジャマから漂う肌のようなにおいと、シャンプーの香りなのか化粧品なのか、髪の毛のにおいのようでもある何とも女っぽい香りがまざりあった、心地よい、体から力の抜けていきそうなにおいであった。
 その快さに立ち尽くす格好になったが、人に見つかるのを恐れる気持ちが働き、あわてて友人の部屋に戻ったのだった。

 もう一度あのにおいを嗅ぎたいと心の底から願ってはいたが、あの部屋に入る理由が見つからない。次第に、あのにおいが失ってしまった大切なものに感じられてくる。その後はそわそわと落ち着かず、話も上の空になってじき暇乞いをすることになった。」・・・(お姉さんは弥生さんといった)

 「・・今でもあのときのにおいを思い浮かべることができるし、そのにおいを嗅ぐことを想像するだけで、なんとも胸のうちがくすぐったくなるような切なさと同時に、今でははっきりとエロティックなものとわかるある種の心地よさを覚える。・・・
 ・・ずっと後になって、その友人の結婚式に呼ばれたときに、私は初めて弥生さんと顔を合わせることになる。(美しい人妻として)・・
 けれど、その姿にはあのときの弥生さんのにおいと結びつくものが何もないような気がした。イメージと違った、という意味ではない。私がそのにおいを嗅いで自分の中に育ててしまったものと弥生さん本人とは、そもそもつながりのありようがなかったのだ。」
 「将来自分が香りやにおいの仕事に携わるなどとは夢にも思わずにいた時期に出会った、この異性のにおいの魅力。エロスの底知れぬ深さについてもほとんど何も知らなかったはずの、17歳の私が初めて体験した、人生という闇の中でにおいとエロスがぶつかりあって閃光をきらめかせる瞬間である。結果的に、その後の私の人生がこのエロスとにおいをめぐって行き惑う営みに等しかったことに気づくと、我がことながら驚きでもあり、また不思議な気分にもなってくる。・・・」(以上p8~11)
 ***************

 こう書いて、次に著者は「この現象の中に、においとエロスをめぐる現代のさまざまな様相や矛盾が凝縮された形で呈示されているような気がする」90年代前半の「ブルセラ現象」から本文を始めていく。
 「ブルセラ、ブルマーとセーラー服を合成した造語だそうだが、ブルセラショップというのがあって、そこでは女子高生が身につけた服や下着、靴、靴下体操着などが売られている。・・・」(p12) 

          (続)

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名著・旧著紹介
  *コーヒーを嗜みながら世界を巡る思考を。

 中公新書・『コーヒーが廻り、世界が廻る』ー近代市民社会の黒い血液
      (臼井隆一郎著・1992.10月刊)
 


 「第一章 スーフィズムのコーヒー」から「終章 黒い洪水」まで、コーヒー好きの人には、

 特にお薦めの一冊。

 近・現代史の、それなくしては成立不可能だったろう一面を見事に描ききる。

 新書で時折「出現」する「小さな大冊」の呼称がふさわしい一冊。

 毎日のコーヒーの味と香りが微妙にしかし確実に変化しますよ。
 

 巻頭の書き出しを少しだけ。

 「コーヒーがヨーロッパに伝えられた時、その賞品イメージには、はるかアラビアの彼方に広がるエキゾチックな幸福感が漂っていた。

 黒々とした新種の飲み物を前に、ヴェルサイユの貴婦人たちは遠いオリエントの夢に浸り、ロンドンの男たちは『紅海の色は何色か』と思いをめぐらした。・・・ローマ人は、国中に芳香の漂うアラビア南端の土地を『アラビア・フェリックス(幸福なアラビア)』と呼んだ。・・・

 古典の素養のあるヨーロッパ人にとって、コーヒーのアロマの発祥の地が神話的過去から『芳香』と結びついた土地であったことが、コーヒーの商品イメージに大きく貢献したのである。・・・」
  
 以下、<目次>から。

 第一章  スーフィズムのコ-ヒー

 第二章  コーヒー文明の発生的性格

 第三章  コーヒーハウスと市民社会

 第四章  黒い革命

 第五章  ナポレオンと大陸封鎖

 第六章  ドイツ東アフリカ植民地

 第七章  現代国家とコーヒー

 終 章  黒い洪水



*情報の一人歩き
   久しぶりの更新が、重い<問いかけ> 

 藤原新也氏のHPより。

 2007/04/23(Mon)
「ネット上の情報の一人歩きほど怖いものはない
しばらく留守にしている間にたまったメールに目を通していると、不可解なものが一通あった。以下にそのやりとりを収録しておく。・・」

 以下、読者との交信が続く。

   左記のリンク先からどうぞ。

 



メモ・購読リスト
  3月1日以来購読本のメモを記していなかったので。 
 
 *****************

 *最近の購読リスト・メモ
 *購読リスト (2007.2月)

 1.『霊操』 イグナチオ・デ・ロヨラ 岩波文庫 1995.10月刊
 2.『ミカドの外交儀礼』 中山和芳 朝日選書 2007.1月刊
 3.『ぼくの血となり肉となった500冊・・』 立花隆 文芸春秋2007.1刊
 4.『古代文明と気候変動』 B。フェイガン 河出書房新社 2005.6月刊 
 5.『宇宙をかき乱すべきか』 F・ダイソン ちくま学芸文庫 2006.1月刊
 6.『わが闘争』 角川春樹 イーストプレス 2005.6月刊
 7.『アルハンブラ物語』 W・アーヴィング 岩波文庫 2005.4月刊
 8.『友へ』 大道寺将司 ぱる出版 2001.5月刊
 9.『お父さんはやってない』 矢田部孝司・あつ子 太田出版 2006.12月刊
 10.『闘争の最小回路』 廣瀬純 人文書院 2006.11月刊
 11.『あやつられた龍馬』(略)
 12.『石の扉』 同上著者の旧著。(略)
 13.『持丸長者』 広瀬隆 ダイヤモンド社 2007.2月刊
 14.『グラバー家の最期』 多田茂治 葦書房 1991.12月刊
  
 【2007/03/01 17:50】

 ******************
 

  というわけで、2007.3月度。

 1.『周恩来秘録』ー党秘密文書は語る上・下 高文謙 文春 2007.3月
   
   4.22の毎日新聞・今週の本棚に、辻原登が書評を書いている。
 
 内容はまあ、当たり障りのないものだが、この上・下本の構成(上巻の注が下巻に、下巻の注が上巻にという)についてのコメントがないのは、疑問。**<画龍ではない批評に、点睛だけは欠く>と言えば酷にすぎるか。 
 「・・この大部の本を読みながらつねに『史記』の世界が思い出された・・」というが、書斎(研究室?)で読む分には不自由はないということか。八つ当たり的になってきたので、この辺で止すが、矢吹晋などは流石にきちんと批判していた。(『読書人』紙の書評)

 2.『日清・日露戦争』 原田敬一 岩波新書 2007.2月
日本近現代史シリーズ(3)

 3.『ツイラク』 姫野カオルコ 角川文庫 2007.2月
   テンポに魅かれるのだろうか?相性の良い女性という感じ。

 4.『嘘だらけの世界史』 岸田秀 新書館 2007.3月

 5.『芸術とスキャンダルの間』 大島一洋 現代新書 2006.8月
   落合論文との関連だけでもなく。
 6.『追想・芥川』 芥川文 中公文庫復刻版 2007.1月
   ありがたい企画。価格が身に沁みるが。 

 7.『未完の明治維新』 坂野潤治 ちくま新書2007.3月

 8.『植草事件の真実』 植草事件を検証する会 ナビ出版 2007.2月

 9.『満州国皇帝の秘録』ーラストエンペラーと「厳秘会見録」の謎
   中田整一 幻戯書房 2006.9月

 10.『軍務局長斬殺』 岩田礼一 図書出版 1978刊 (古書店にて)

 11.『CISMOR』(5)特集京都1 同志社大学・一神教・学際研究センター (*ネットから
  申し込めて無料。薄いパンフなのだが、充実した内容と視点が面白い。)余談だが、
  この大学のセンターの郵便物の文字の丁寧さには、いつも感心している。
  数十年前に「ガリバー旅行記」の研究書を郵送願ったときもそうだったので。

 12.『盗聴二・二六事件』 中田整一(9と同じ)文春 2007.2月 

 13.『覚悟の人』ー小栗忠順伝 佐藤雅美 岩波書店 2007.3月
   『大君の通貨』がなつかしい作家の最新作。

 14.『烈火の月』 野沢尚 小学館文庫 2007.2月
   全くの食わず嫌いだった作家のひとり。これ以降、野沢氏(故人)の<小説>は全読
   となった。
   時系列で、『魔笛』『深紅』『リミット』『ふたたびの恋』『砦なき者』『破線のマリス』。
   あえて、お薦めの一冊をあげるとすれば、『魔笛』。
   この人物が「自死」を選択するはずがない!ことを確認しておきたい。
 15.『バール・コーヒー・イタリア人』 島村奈津 光文社新書 2007.3月
   他人とは違ったほうが価値あることと考える、日本的心性とは対照的なイタリア人と
   バールの物語。コーヒー文化論の色彩が後半に進むに連れて強まるが、ことコーヒー 
   に関しては、中公新書に『コーヒーが廻り、世界が廻る』(臼井隆一郎・1992.10月刊)
   という名著がある。
   しかし、何故かこの島村本の巻末・参考文献に「名著」の記載がないので、
   ここに記しておく。
   
 16.『13階段』 高野和明 講談社文庫 2004.8月
   野沢尚『ふたたびの恋』(文春文庫版)の解説を読んで、という経緯。
   こういう拡がり方は、自分でも気に入っている。  
 




落合論文・補
  *大本教
 第二次弾圧 1935年
 
 
 1935(昭和10)年12月、日本の近代宗教史上最大の宗教弾圧がおこなわれた。
 当局者は、「大本教を地上から抹殺する」と公言して、その私設を根こそぎ破壊した。検挙された出口王仁三郎以下の幹部は、不敬罪・治安維持法違反で起訴され、憎悪に燃える天皇制官僚達によって、仮借ない追究・拷問をうけた。
 
 天皇の宗教的権威を、究極的には否定していた大本教は、天皇制ファシズム下では、その存在を許されるべくもない「邪教」であり、二度にわたる大弾圧は、近代天皇制国家と国家神道の本質を、事実において余すところなく示す結果となった。

 以下、事実関係を確認していく。
 

  昭和10年12月 王仁三郎はクーデター準備中の皇道派系右翼・青年将校グループから多額の資金援助を求められる。
 二・二六事件の直前のことである。

 *12月8日 特別検察隊250名が綾部を襲い、大本教幹部150名を検挙する。
 別働隊300名は亀岡の天恩郷に乱入。総統補出口日出麿ら60名を検挙
 旅行先の松江で王仁三郎は検挙。
 東京の昭和神聖会本部など7ヶ所が襲われ、出口伊佐男らが検挙される。
 『筆先』『霊界物語』をはじめ、文書・原稿・日記・メモ・武器類など、『不逞の目的』を裏付ける証拠物件を重点的に、約5万件が押収される。
 本部事務所・神殿などの主要な建物は、封印されて警察の管理下におかれ、鉄条網を張りめぐらして立入りを一切禁止した。
 わずか8日間で全国109ヵ所の支部が捜索され、京都市内に護送留置された幹部は44名に達した。

 *12月15日 内務省・京都府特高警察・京都地検は、共同で押収物件の整理を開始。弾圧を正当化する資料をつくりあげた。

 昭和11年1月 京都で大審院検事局・内務省警保局・京都府特高警察・京都地検の合同会議が開かれ、起訴と同時に大本教の解散と建造物の破却を実施することを決定。自白の強要がはじまる。
 王仁三郎は長髪をつかまれてひきずりまわされ、たびたび失神した。
足をくくられ廊下をひきずりまわされて後頭部の皮膚がすりむけた者
ひとにぎりの毛に血がべっとりついて抜けた者 焼火ばしを尻にあてられ責め立てられた者
あおむけに寝かされて鼻や口から水を注ぎ込まれた者
竹刀がササラになるほど打たれ、顔の見分けがつかなくなった者もまれではなかった。
『幹部の誰それは自白したぞ』とだまして、たくみに自白を引きだそうとそうとした。
出口日出麿(当時39歳)は尋問がはじまった直後に精神に異常を来たした。

 予審においては、自白を拒否すると、被告は2ヶ月も3ヶ月も、精神的動揺とあせりから自白に応じる気持ちになるまで放置された。
 拷問によって獄死または自殺をとげたり、保釈後に死亡した大本教信者の数は、事件中だけでも20名を越えた。

  <具体的事例>の列挙。
 幹部の栗原七蔵。64歳。自殺。抵抗むなしく『自白させられた直後のことだった。
 幹部の岩田久太郎。62歳。獄中で病死。岩田は肺を病んでいたが、充分な手当を許されないまま病状が進行し、一杯の水すら与えられず、『水、水』とつぶやきながら絶命した。
 埼玉県の信者の宮川剛。50歳。浦和署から京都に送られ、はげしい拷問をうけて中京区刑務支所に収容されたが、その後『重病』として日赤病院にうつされ、まもなく息をひきとった。病名は不明だが、体には拷問によってできた黒い斑点が随所にみられた。
 福島県の信者の神正彦。22歳。京都に連行された父の神守が王仁三郎の信任をうけていたので、その『自白』をとるため、病身にもかかわらず拷問をうける。病状が悪化して半死半生のまま家に帰され死亡。
 福島県の信者の加藤利七。水責め火責めなどの拷問をうけ、帰宅後、余病をおこし死亡。湯灌のさい、遺族が臀部に数条の暗紫色の傷あとがあるのを発見。

 *3月13日 王仁三郎・すみ以下の大本教幹部61人は、不敬罪・治安維持法違反などの理由で起訴され、内務省は大本教を禁止した。
 起訴理由は、大本教が『国体』の変革を目的として結社を組織し、政権の奪取を企てたということが中心点であったが、自白以外にはなんの証拠もない言いがかりである。
 政府は、裁判の結果を待たずに、大蔵省達118号『神社に紛らわしき奉斎施設の撤去』を理由に大本教の全施設の破壊に着手。
綾部・亀岡の教団所有地5万坪を『概ね賃貸価格』という超安値で強制的に売却した。

 開祖出口ナオの墓は 綾部の町営墓地に築かれていたが、当局が町議会に圧力をかけて墓地廃止を決定させて墓の移転をせまり、もとの墓は破壊。墓地の池を玉石で埋め、苑内の樹木は根こそぎ引き倒した。
信者の納骨堂は破壊。教職者。信者の墓石から、『宣伝使』『修斎何等』などの大本教に関係する文字を削り取った。

 亀岡天恩郷、綾部梅松苑の宏壮な神殿・建造物を跡かたもなく破壊し、用材は再建をおそれて短く切断した。
 亀岡に建てられていた総石造りの月宮殿はダイナマイトで破壊。本部内の地蔵・観音などの石像は首を切り落とされた。
 施設・動産の破却処分が開始され、大本教に関係のない美術品や家具什器類は売却され、大本教に関係するものは償却された。
 関係8団体の支部の解散命令が実施され、礼拝施設は個人・団体の別なく破壊され、大本教関係の書籍・物品は一切没収された。
 信者に対しては、キリシタンの踏み絵そのままの執拗な転向の強制が行われ、大阪では信者に神体を踏ませて棄教を強制するなどの暴圧すら行われた。

 大本教の弾圧と共に記憶しておく必要があるのは、政府の弾圧と歩調を合せたメディアの活動であろう。戦後多くのメディアが、政府の政策に追随してしまったことに対して反省の意思を表した。確かにその時、その場にいた者にとっては そういった行動しか選択肢が無かったと想像するのだが、政府の言動に流されてどのような行為を行ったのかは 明らかにすべきだろう。また、今後同じ行為を繰り返さない「いましめ」の意味で 知っておく必要はあるだろう。

 まず、第一次の弾圧の際は 関西の有力紙誌を中心とするジャーナリズムは、きそって大本教の拠点である綾部に乗り込み、避難攻撃を行った。
 既成宗教も大がかりな攻撃に乗りだした。
 教育界でも大本教攻撃の波が広がり、大正9年、島根県では、教師で大本教の布教をする者には退職を勧告し、信者の生徒には校長が警告を与えることを決定。金沢では信者の生徒が校長に呼ばれて棄教を勧告されたうえ、諭旨退学処分をうけた。岡山の第六高等学校では入信者が続出し、あわてた文部当局は取り締まりの強化を指令した。

 大正10年5月、王仁三郎らの予審が終結し 当局は事件の報道禁止を解除。マスコミは予審決定の全文を発表。各新聞。雑誌は一斉に大本教攻撃の報道を再開したが、事実を報道した記事はほとんど無く、政府に追従した興味本位の内情暴露記事が紙面を埋めた。政府のマスコミ操作はこのような方法によって、「国賊」・「邪教」のイメージを世人に植え付けたのである。

 次に、第二次弾圧の時の状況を見てみよう。この時は、権力に迎合したマスコミの報道は、第一次弾圧のときを上回る激しさで「邪教」大本、「国賊」王仁三郎攻撃の筆陣を張った。信者たちにとっては、社会からの迫害も深刻であった。日本帝国主義の最終段階には、全国民はファシズム支配の下で、近代天皇制イデオロギーの宣伝ときびしい思想統制を加えられていた。国内は天皇崇拝と「忠君愛国」の一色でぬりつぶされ、狂信的は「滅私奉公」の精神があおりたてられていた。
 この風潮のなかで、大本教に加えられた「非国民」「国賊」という非難は、大本教信者のひとりひとりへの偏見による差別や攻撃となって現われた。この攻撃は単に侮蔑、嘲笑のみにおわらず、村八分にされて孤立する者、職業や地位を追われたり、取引を停止されて廃業に追い込まれる者、住居を追われる者などが全国で続出し、信者たちの日常生活はいたるところで脅かされた。

   <大本教>完。
 



落合論文・補
  *大本(大本教・おほもと)について、要点を記していく。

 参考;村上重良著「国家神道と民衆宗教」・同「大本神諭」の解説
 

  大本教の開祖出口ナオは1836年(天保7年)12月16日に丹波国(京都府)福知山に生まれた。(大工職・桐村家に生まれ、後、叔母・出口ユリの養女となる。))貧しい暮らしの中20歳で大工・四方政五郎と結婚し、明治維新をはさむ25年間に11人の子をもうけた(うち、8人が成人した)。

政五郎は腕はいいが、酒好きの浪費家で、僅かな収入は浪費に追いつかず、1884年(明治17年)には、一家はついに破産状態に陥った。1887年(明治20年)、それまでも中風で寝たきりだった夫の政五郎(旧姓・四方で出口家の婿となる)は病死し、52歳で未亡人になった。それ以後もナオの家庭的不幸と生活苦は続く。

1892年(明治25年)新暦2月3日に神がかりになり、以前から親しみを感じていた、金光教会をしばしば訪れるようになり、「お筆先」という神の啓示にしたがった書をしたためるようになる。日清戦争中の明治27年11月には綾部に金光教会を開く。この後、明治30年には独立して布教を始めた。明治31年には亀岡近郊の貧農の生まれの上田喜(鬼)三郎(後の出口王仁三郎-大本教の聖師となる)と出会う。

 明治30年、妙霊教会の熱心な信者となった上田喜三郎は、明治31年に高熊山の洞窟で修行し神がかりと病気なおしをはじめる。この年に静岡県清水の稲荷講社の中監督に任じられ、鎮魂帰神二課の高等科得業の免許を得る。

 明治31年ナオと、帰村して「霊学会」を始めていた喜三郎は合同で「金明霊学会」をつくり、布教活動を始めた。明治32年喜三郎はナオの五女・すみと結婚した。しかし、ナオの天皇制イデオロギーと相容れない本質と開明と発展を求める喜三郎は対立。喜三郎は王仁三郎と改名させられる。このような忍耐を続けていた(旧幹部の中で浮いた存在となっていた)王仁三郎は明治38年に綾部を去り、京都の皇典研究所に入学して神職尋常試験に合格。明治38年には伏見稲荷の御岳教西部教庁の主事となるが、ナオの苦境を知り明治41年からは綾部にもどり、教会の建て直し、教勢拡大に尽力した。(「金明霊学会」は警察の圧迫によって 布教活動が進展しない状況であった)。

8月には教会名を「大日本修斎会」と改め、神殿も落成して全国展開をはじめる。教義の体系化にも着手する。
 大正5年(大正3年?)には「皇道大本」と改称し、王仁三郎が教主の地位に就き「皇道論」を発表。大正7年には綾部に五六七殿をはじめとする大建築が完成し、亀岡の亀山城跡に大道場を建設。「大正日日新聞」を買収して宣伝を開始、めざましい発展を遂げた。この時期には、全国に二百五十余の分所・支所を擁して、信者は五万人を越えた。

 (1917年ロシア革命、1918年シベリア出兵・米騒動) 1919年(大正8年)、5月に第1回目の警告が出された。内容は「世の立替え直し」「神政復古」「大正維新」「私有財産の否認」等の宣伝し、綾部を聖都のように説いてはならない。また、これらを新聞・出版物・講演で説くことも禁止するというものであった。こういった状況下でも布教活動は行われたので、1920年(大正9年)には二回目の警告が出される。内容は「皇室に対する不敬、日米戦争や日本対世界大戦、憲法廃止、土地私有制及び金銀為本制度の廃止、天変地異や悪疫流行などに関する予言や言説は、演説・講演・出版その他いかなる方法によらず絶対に発表を禁止すること。鎮魂帰神はひかえること。」といった内容であった。この1920年8月には、『大本神諭』火の巻が発禁処分をうけている。
 ジャーナリズムは、「邪教」として、大々的に攻撃し、大本教が進出した台湾では、植民政策と治安に害を及ぼすとして、その出版物を発禁処分とし、内務省に取締りを要請してきた。
 
 こうした官憲の圧力によっても活動が停止せず かえって活発化したので、1921年(大正10年)2月12日に大本教に内乱予備罪を適用し、捜索を行った。出口王仁三郎をはじめ 幹部の一斉検挙が行われ自白の強要による不敬罪の適用が行われた。この後7年にわたって法廷闘争が続いたが、公判中に大正天皇の大葬(1927年5月)に伴う大赦があり、王仁三郎らは免訴となった。
 この裁判は、終始、大本教・教義をめぐって争われ、法廷は事実上、国家神道イデオロギーと大本教・教義の対決の場となった。 
 これが第一次の弾圧と呼ばれている。

 綾部の本宮山神殿の破壊で信者の四散をはかる官憲に対し、堅い団結を維持し続けた。幹部の離脱が相次ぎ 教団は危機的な状況となったが、王仁三郎による「霊界物語」の口述による新しい経典の作成によって再出発した。布教は再開し昭和4年には支部総数は772に達し 昭和10年には1990箇所にまで急増した。さらに大本教は芸術活動の推進、機関誌の発行、日刊紙「北国夕刊新聞」「丹州時報」「東京毎夕新聞」などの一般新聞も傘下におさめ、宣伝活動を展開した。
 しかし、この昭和10年の末から 第二次の弾圧がはじまる。(天皇制ファシズムの台頭期である。)

       (続)


 

落合論文・補
   *<サンカ>について。

 *サンカとは何か  


  サンカ(山窩)とは、日本の山間部を生活の基盤とし、夏場の川魚漁、冬場の竹細工を主たる生業としながら山野を渡り歩く漂泊民である。その生活実体は十分につかめてはいないが、生産技術や社会関係、信仰といった生活様式が平地民とやや異なり、平地の住民からは異端的に見られていた。サンカは戦争のたびに定住を強制され、ついに太平洋戦争を境にして不明となったといわれる。民俗学の祖柳田国男がサンカについて記述したが、柳田は警察官からサンカについて聞いたという。作家でサンカ研究家である三角寛も、サンカを知るきっかけは警察だった。三角寛は、彼らを独特な文字や掟(おきて)、伝承、厳格な組織を有する社会集団として描き、肉体的にも異能の持ち主としている。
 

 *サンカの起源 
 

  サンカの種族的系統については、縄文人の末裔説、渡来人説や落人(おちゅうど)説、中世の傀儡(くぐつ)の後裔説などがあり一定していない。
 縄文人の末裔説によれば、彼らは大和朝廷に征服された先住民族であり、原日本人である。この日本列島に、朝鮮半島や中国から水田稲作と高い土木技術をもった、騎馬と鉄の武器で武装した俗にいう弥生人がやってきた。これらの人々やその後身である大和朝廷は列島の平地部分を占拠していった。原日本人は平地を追われて山に立てこもった。侵略者たちは日本列島の主人面をはじめ、征服され、滅ぼされた原日本人の末裔であるサンカは、大和朝廷成立以前からの生活を守り暮らした。平地定着民となる事を拒絶し、山と平野の間を風のように流動し先住民としての矜持と自立を守ってきた。

  *サンカと戸籍  
 

 670年の「庚午(こうご)年籍」に始まる戸籍は、国家統治の基礎であった。しかし、明治に入っても戸籍への編入を拒絶し、国民の三大義務である徴兵、納税、義務教育を無視してきたのがサンカであった。日清戦争後にも20数万人、第2次世界大戦後の昭和24年にも、約1万4000人の無国籍サンカがいた。その当時サンカ以外の流浪人を合わせると80数万人の戸籍を持たない人達がいたという。昭和27年朝鮮戦争を契機に国家再編成を実現する目的で施行された「住民登録令」によって、この列島に住む人々は全て、居住地を決め、その住所を申請すると同時に、米穀通帳、国民年金、健康保険、選挙人名簿などを一括登録する事を義務化した。後に「住民基本台帳法」として完成するこの政令によってサンカの歴史は幕を下ろすことになる。

  *サンカと裏日本史 
 

 日本の信仰はどれも、深く山岳信仰と関わりあっている。山岳信仰と密教は密接な関係にある。真言宗の開祖空海も、中国に渡る前に山で修業している。後に修験道は真言宗、天台宗の両密教に所属するが、表向きは修験が両密に所属しているものの裏では関係は逆だという。
 サンカと修験の深いつながりは容易に想定できる。サンカと修験は同じものでないが、サンカとの関係が悪ければ、修験は修業どころか、山にいる事すらできなかったであろう。そして、日本仏教は、修験を通してサンカとつながっていた。明治以降、仏教と神道は分離されてしまったが、江戸時代まで仏教と神道はそれほど別のものではなかった。いや、山を介して深く関連しあっていた。
 竹はサンカにとって重要なものだ。お伽噺(とぎばなし)の竹取物語はサンカの物語かもしれない。竹取物語のかぐや姫が男に冷たいのは、サンカの女が朝廷の男に敵意を持っていたためだろうか。
 サンカは忍者の源流だったとも言われる。身が軽く、山の自然の過酷な環境の中で生まれ、育ち、そこで生きる知識と技能がある。また、独自の文字や連絡方法を持ち、その情報網は日本全国をおおっていた。サンカ独自の山の道も、他にはない交通網だった。そういう特殊技能と、結束、集団性は、そのまま強力な忍者集団になれる。戦国時代、サンカは忍者として諸国の大名に雇われ、情報戦を担っていたという。
 情報を握ることで、逆に諸大名を操作していたとも言う。織田信長は、サンカを裏切ったため、本能寺で明智光秀に殺されるよう、忍者=サンカが手配したというのだ。また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などは、サンカ出身だという説もある。確かめようはないが、それが間違っていたとしても、サンカと日本史の関係を考える場合、ある種のリアリティーは伝えている。
 サンカは明治初期から次第に被差別部落や都市部のスラム街に溶け込んでいったという。

  *サンカと古史古伝 
 

 サンカには、独特の文字と神話伝承がある。『日本書紀』『古事記』に書かれた以外の歴史を伝える幾つかの古文書を一般に古史古伝というが、その中の、江戸時代に大分で発見された『上記』(ウテツフミ)はサンカ文字と同じ文字で書かれている。『上記』は、本当の古代史なのだろうか。また、日本神話である『日本書紀』も『古事記』も、サンカ言葉で読むとまったく違ったものになるという。サンカの道具であり武器であるウメガイという両刃のサンカ刀があるが、このウメガイこそがスサノオノミコオがヤマタノオロチを退治した刀だというのだ。

  *現代のサンカ
 

 かつて、山で生活し自分たちの独自の文化と社会を形成していたサンカが存在したのは確かな事だが、現在はとなると、「いる」「いない」で意見が別れている。『サンカと説教強盗』を書いた礫川全次は、トケコミしきって、消滅したという説だ。現代日本では山に行ってもセブリをしているサンカはいない。小説や物語の中でのみ、彼らに会う事が出来るというところであろう。
 しかし、その一方で、サンカの独自の結束を生かして金を集め、そのサンカ資金でエリートを育て上げ、サンカ資金の運用で裏側から中枢を動かしているという説もある。三角寛の『サンカ社会の研究』の第4章15は秘密結社という見出しでシノガラを紹介している。セブリから離れてトケコミをすると三代限りでサンカから絶縁する。しかし、形の上ではトケコミだが、絶縁しないで秘密のつながりを持ち続けるのがシノガラなのだと言う。セブリがなくなった後、サンカはシノガラとして存続しているのかもしれない。元々、明治以降、戸籍を取らせるため、また犯罪捜査のためとして警察から過酷な手入れをされるなど差別にさらされたサンカが自衛のため、法律家、政治家を育て対抗しようとした事からはじまるサンカ基金がシノガラと結びつき、秘密裏に育てた人材を、サンカの代表として権力の中枢に送り込んでいるのだろうか。民俗学者の赤松啓介は「サンカも殆んど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう」「こうした人たちの正体を調べようなどと、バカな野心は起こさないのがよい。ウラの世界にはウラのオキテがある」と述べた上に「絶対に死体が上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある」とまで言っている。(民俗境界論序説)
 『マージナル』1号では西垣内堅佑弁護士がサンカと土建・建築業界はつながりが深いと言われることをふまえながら、田中角栄元首相と政商小佐野賢治の協力関係がサンカの秘密組織シノガラと重なると指摘している。矢切止夫も「原日本人の系譜をひくサンカにはシノガラという相互扶助組織があり、その組織の元締たるオーモト(アーモト)様はスイスに存在していた」「アメリカ政府はオーモト様と連携し戦後の日本の政体について、天皇制を廃止し、日系アメリカ人を母体としたオーモト様指揮下のサンカ政権を作ることを計画していた。しかし、占領後、天皇の力が強いことを知ったフリーメーソン(33階位)のマッカーサーは、サンカ政権の約束を反古にし、天皇制を利用してフリーメーソンの影響下にある政権を作り出してしまった」という説を紹介している。また、田中角栄が拘置所から出た時に「ユダヤにやられた」と口にしたという話もあったという。現代日本の裏側でサンカが活躍しているというのだ。これは、五木寛之の作品『風の王国』ともつながる説だ。サンカは銀行も持っていて、これがサンカ基金を運用しているという噂もある。

 以上、 「歴史と世間のウラのウラ」より。
     http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/index.html
 



落合論文・補
  <サンカ>と<大本教> 
 

 以前の記事を、先ず確認しておこう。
 

  *手塩にかけて育てた政雄を、ウメノが医専に入れたのは、上田吉松・出口ナオらと組んで始めた皇道大本(大本教のこと)の仕事に携わらせる目的があった。

 *政雄は後年、祖母・渡辺ウメノの母系の丹波国桑田郡曽我部郷穴太村の上田家の伝承を、周蔵に詳しく教えた。

 *穴太村を本拠とする上田家の家伝では、上田の本姓は海部(あまべ)で、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家である。海部・上田家は、古代に渡来したイスラエルの子孫で、なかでもアヤタチと呼ばれた特殊の家系という。

 *古くからオランダとの取引をしてきた上田家には、夙にオランダ人の血が入り、吉松の五代前の先祖で画名を丸山応挙として知られる上田主水も、オランダ血統であったという。幕末の当主は上田吉松で、「言霊呼び」という御祓いをしながら、全国を巡ってケシ薬を売り、裏では朝廷の諜者として働いていた。

 *その子が上田鬼三郎(*これが本名で、どこかで喜三郎と変えたらしい)すなわち後の大本教の聖師・出口王仁三郎である。渡辺家に嫁いだ吉松のオバ(叔・伯は不明)がウメノを生むが、そのオバがケシ薬の秘伝を渡辺家にもたらしたものと考えられる。いとこのウメノを愛人としていた吉松は、同じような関係にあった出口ナオと図って、明治25年に皇道大本を立ち上げるのである。
 

「吉薗周蔵の手記」にみえる要点は、以上のようである。

 以下、サンカと大本教について見てみる。
 
 先ず、「ウィキペディア」から。

 
 <引用始>
 **********************

 サンカ(山窩) 
 山家、三家、散家とも表記される。その生業や生活形態は多岐にわたる。「山窩」は官憲の犯罪者対策や戦前の大衆小説などに用いられた蔑称的表記であり、公平性を期するには片仮名で表記されるべきである。「山窩」の表記は明治、大正期に「セブリ」、「ドヤ付」、「家持」と呼ばれた非定住の虞犯性が高いと官憲に目された不特定の人々を指す言葉として警察の内部において隠語的に発展したものだと考えられる。ちなみにセブリは「瀬降り」と言い、ミナオシ、テンバなどが用いていた生活道具であり、セブリサンカには、犯罪性が無かった事は、明らかにされている。「山窩」の表記を虞犯性が高いと目されていた事実を抜きに語ることは妥当ではない。
サンカという言葉は江戸時代末期(幕末)の広島を中心とした中国地方の公文書に初めて顕われ、(それより以前に言葉の出現を求める意見も有る)第二次世界大戦前には大衆小説を通し「山窩」として広く知られ、戦後には、映画『瀬降り物語』や、五木寛之の小説『風の王国』などによって再認知された。その初期から犯罪者予備軍、監視及び指導の対象者を指す言葉として用いられた事が、三角寛の小説での山窩の描かれ方の背景となっている。またサンカを学問の対象として捉えた最初の存在と言っても良い柳田國男やその同時代の研究者達もその知識の多くを官憲の情報に頼っている。江戸時代末期から大正期の用法から見て、本来官憲用語としての色合いが強い。虞犯性が特に高いと目されていた人々は社会構造の変化や官憲による摘発によって、他の単純な貧困層より早い段階(おそらくは大正期まで)にほぼ姿を消したと見る意見もある。

 ********************
 
 
一般的な記述に終始している。

 次に、より詳細な記述を参照するが、長くなるので、稿を改める。
 



*違和感
   
     
   選挙で当選して、「万歳」 とは如何なる意味か? 

      <狂気の沙汰>としか思えない。


 





*続・落合論文(補)
  落合論文の関連で、<大本教>等について。
 

*大本教の実質的指導者・出口王仁三郎についての興味尽きない対談がある。
『朝日と読売の火ダルマ時代』 藤原肇著 1997.11 国際評論社刊より。 


  第二章 読売王国を築いた巨魁の奇怪な足跡
 *「歴史の証言」 『番町会グループとサンカ人脈の秘図』

 これは、明治維新以来、日本の政治・経済界を支配する、「番町会グループ」という奇妙な結束力の背後に何が潜んでいるのか、について、藤原博士がCさんと交わした興味深い対談の記録である。

 藤原氏によると、Cさんとは:関西に根拠地を持ち京都や大阪の文化史に精通し、日本人として文化の底の底まで熟知した、人物である。
「Cさんの堅い口から漏れた驚くべき秘密は、目から鱗が落ちるという形容そのままだった」という。

<引用始> F;藤原氏 

F  この前にお目にかかった時の宿題だったサンカですが、神保町の古本屋や図書館で調べても、参考になる本がほとんどなくて、苦労したけれど、幸運にも田中勝也の『サンカ研究』(新泉社)を入手し、5回ほど読んで概念と用語を整理して、後は三角寛、柳田國男、南方熊楠などの本に目を通しました。・・・
でも現在の日本の目に見えない構造を捉える上では、もっと歴史的な構造分析が必要だと考え、中世から近世にかけての聖と俗について調べ、前代未聞の鉱脈を掘り当てた感じです。

C  それは良かった。自分で苦労して答えを見つけ出すことが、人生にとって最高の喜びであるという意味で、あなたが行った研究はいい財産になりますよ。

F  ありがとうございます。
 歴史的にサンカを生態人類学的に調べたら、海系統と山系統の二つの流れがあって、海系統の海人(あま)は海や川で漁をする海部で、山系統の山人は山岳地帯に住む山部であり、海部と山部の総支配者をアヤタチと呼び、これがサンカの大統領に相当しています。
 そして、アヤタチの住むところが丹波のアヤベであり、出口王仁三郎はサンカ出身だったから、その後に政府の大弾圧で徹底的に破壊されたが、大本教の本部を京都府の綾部においたのだし、丹波はサンカ文化にとって本拠地のようです。

C  出口王仁三郎は本名が鬼三郎だった通り、確かにサンカ出身だったのは明らかだが、それで綾部に本部を作ったというのはどうかな。
 丹波は古くから全体としてサンカの聖地で、大統領はしばしばアヤタチ丹波であるし、丹波・丹後・但馬はサンカ王国の中心だった。だが、出口王仁三郎や大本の話は明治のことだし、歴史的にみれば割りに最近の出来事であり、中世に起源を持つサンカの歴史にとっては、それほど決め手になるとはいえないな。

F  その意味で一気に古代に遡って考えると、奈良時代の役小角に関係しているようだし、・・・中略・・・

C  そこに気づいたのは結構だとは思うが、それは(サンカの起源、文化人類学的アプローチ等々)学者達に任せたらいいことで、今更ここで私がとやかくいう問題じゃない。
 抽象的な話をするのは時間の無駄だ。

F  済みません。・・・以下、略。

以下、サンカと部落(被差別部落・山師とサンカ・後藤新平の死因と久原房之助=正力松太郎との関連・久原の「長州サンカ」といわれる出自。正力松太郎=サンカ説・・・等々対談は続くが、ここの本題とは逸れるので、後日。
 

 
  一読、これまで抱いていた民衆宗教・「大本教」のイメージが崩れていくのを感じたものである。

 漠然としたイメージを明確にするために、回り道のようだが、村上重良氏の「解説」(東洋文庫『大本神諭・天の巻』1979.1.30刊、巻末の同氏によるもの)によって、<大本教=出口ナオ・王仁三郎>の再確認をする。
 




*続・長崎市長射殺事件。
  *昨日の記事に関するブログの紹介です。 

1. <カナダde日本語>←ここをクリックして。
  (カナダで日本語を教えるdesperateな女教師“みにー”さんのブログ) 


2. <気まぐれな日々>←ここをクリック。
  

 疑わしきは安易に罰せず、しかし、追究し続ける!

 最大の敵は己のこころに巣食う<知的怠惰>なのだと、肝に銘じながら。
 

 *ringoさん、情報ありがとう。ブログ紹介の<追加>です。
 

3. <ネットゲリラは潜水艦戦である>←ここをクリック。
   朝鮮人の犯行を隠蔽するのは誰だ? 
  


  3.へのコメントも紹介しておこう。

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 はじめてコメントさせていただきます。
 当方の「現役雑誌記者によるブログ日記」でも、「城尾哲彌こと白正哲」と記述させていただいています。
 長崎県警が記者クラブで、発表しています。
 地元の記者から確認しております。
 マスメディアが報じないのは、それぞれの社の方針であって、それについてはあれこれいうつもりはありません。
 参考までに・・・・
まぁね、北岡氏はプロだからね。ちゃんと裏は取ってるわけだよ。そもそも警察が「ウチは哲彌っち聞いとるけどね」と言ったんだったら「けどね」の後に何が続くのか、考えなきゃいけないわけだがw で、城尾哲彌こと白正哲についてはこれ以上、検証の必要もないわけなんだが、問題は、誰がそれを隠そうとしているか、だ。

 *********************


 同様な「事件」が続くとそれは、単なる 「事件」ではない。(衆議院議員石井紘基代議士
 刺殺事件を想起したい)

 犯行主体は、「作戦」なのだと嘯いているのだろうか。

 我々には、強靭な精神力と共闘が今こそ求められている!
 



*長崎市長射殺事件について。
 *17日に起きた暴力団員による伊藤一長(いとう・いっちょう)長崎市長射殺事件の謎は、深まる一方だ。

 城尾容疑者と30年来のつき合いという松尾千秋弁護士の談話が幾度となく放映されているが、この「暴力団」組長と30年も!付き合い続ける(たとい、断続的にも)松尾弁護士とは何者なのだろうか?と思うのは、私だけなのだろうか。

 私などは、何となく不思議な(イヤーナ)感じがしていたものである。なにも「暴力団」構成員などに、人権はないし、弁護など必要ないなどとは毛頭思ってもいない。

 あの神戸の大震災のときの「山口組」(犯人=被疑者は山口組傘下だと認めている)の被災者救援活動には、感動もした一人であるが。
 

  ところで、以下のような記事が目に入ってきた。長いので、要点だけを引用しておこう。

 ***********

 4月20日付の四国新聞によると、『城尾容疑者と市のトラブルは市長に報告させておらず、市幹部や市長の親族らは「(市長は容疑者と)面識はなく、個人的な恨みを持たれるはずはない」と証言している。』とのことだ。
 
 この松尾という弁護士は、「日本会議」の長崎副会長で、「新しい歴史教科書をつくる会」の長崎県支部長なのだ。「日本会議」とは、加藤紘一代議士(自民党)の定義によれば、「日本最大規模の保守主義・民族主義系の政治・言論団体」(『テロルの真犯人』 169頁)とのことで、ひらたくいえば日本最大の右翼言論団体である。
下記URLのリンク先を見ていただければわかるが、石原慎太郎は日本会議の中央役員に名を連ねているし、安倍晋三は「日本会議国会議員懇談会」の副会長を務めている。安倍内閣は、「日本会議内閣」といえるとよく指摘される。

こう見てくると、最初に引用した朝日新聞が書いた「組織的背景はなく」というのが信じられなくなってくる。二番目に引用した四国新聞の記事の見出しは、「市長射殺に共犯者か」と
なっており、日本会議の関与はともかくとしても、かなりの程度、暴力団が組織的にかかわった犯行だったのではないかという疑いが濃厚だ。

 いくらなんでも、安倍晋三自身が長崎市長射殺事件に絡んでいたとまでは私も思わないが、伊藤市長を死に至らしめたものは何かということに関して、編集者・原田奈翁雄さんの評論文が 「四国新聞」(4月20日付) に掲載されているので、抜粋して紹介する。原田さんは1927年生まれ、筑摩書房で「展望」の編集長を務め、1980年には径書房を創業、95年に退職した。1989年には、「長崎市長への7300通の手紙」 を出版した。

 *長崎市長射殺事件の意味 憲法破り続けた結果 言論死守へ不断の対決を (編集者 原田奈翁雄)

(前略) 90年1月、本島市長は右翼の銃撃を受けて重傷を負った。
 事件は大きな衝撃だった。なんとか一命を、と祈った。だが、言論の自由とテロはせめぎ合いである。言論を守るためには、暴力と不断の対決を続けていくしかない。
 それから17年、いくつものテロが重なり、事態はさらに悪化しているといえる。それは、この間、日本国憲法第九条を立法、行政、司法が破り続けてきた事実と並行している。
 被爆の町の首長に対する度重なるテロ。私たちはどこかでいまだに暴力の効用を信じ、認めているのではないだろうか。米国は9・11テロに対して最大の暴力である戦争をもって応え、当時の日本の小泉首相は進んでそれを支持、自衛隊の派遣にまで至ったのである。
 戦争を容認する社会は暴力を容認している。そして、戦争を発動し得る者は政治権力以外には決してない。世界中の政府が交戦権を持つ限り、この地上からテロリズムを絶つことはできない。憲法九条だけが軍備の保有、政府の交戦権を認めず、戦争根絶の具体的な道を明確に示している。
 ・・(中略)
 核廃絶を強く求め続けた伊藤一長市長の良識と勇気に深い敬意と共感を抱いてきた私たちは、その死を心から悼みつつ、彼の、そして長崎、広島をはじめ、すべての戦争犠牲者たちの遺志を何としてでも実現する道を一歩一歩、歩もうとしているのである。あなたにも、ぜひともに歩んでいただきたい、と切望する。 (2007年4月20日付「四国新聞」より)

 ところで、『カナダde日本語』 経由で知ったのだが、犯人が所属していた暴力団・山口組系「水心会」は、ナント安倍晋三の非公式後援会として一部では有名な 「安晋会」 と関係があるのではないかとのことだ。これは、山岡俊介氏の「アクセス・ジャーナル」(4月19日)発の情報とのことで、山岡氏は、「週刊ポスト」 4月13日号の記事 『安倍首相秘書を襲った「右翼糾弾」に「複雑骨折」の暗部』 を元に取材し、「水心会」の名を記事中で挙げているのだそうだが、このサイトは有料であり、私は登録していないのでそれ以上の情報はわからない。「週刊ポスト」の現物は持っているが、同誌の記事中には「水心会」の名前は出てこない。

 ****************
 
 
    詳細は「気まぐれな日々」 http://caprice.blog63.fc2.com/ を。
 

 <追記>
 吉薗周蔵は生前、こう語っていたと言う。
 
 ****************

 落合莞爾が吉薗明子に質問する。
 「お父さんは、日頃どういう人物を批判していましたか?」
 吉薗明子
 「まず武者小路実篤さんと、総理大臣だった岸(信介)さんです。それに父・周蔵は、藤山愛一郎さんと知り合いでしたが、戦後、岸さんと一緒にやるために政界入りをなさるということを聞いて、それだけは思いとどまるようにと、手紙を書いたことを記憶しています」

 周蔵は生前、岸など当時の政界保守派の巨頭を貶していた。。明子がその理由を聞くと、「日本をアメリカと国際資本に売ったからだ」と答えたという。

  ******************

 『天才画家・佐伯祐三真贋事件の真実』p.344より。
  (落合莞爾著 1997.5.30 時事通信社刊)
 





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