カウンター 読書日記 杉山茂丸
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
● 54 一世の巨豪、癌腫に斃る

呻吟10年医療の妙を尽し  解剖総て医界の料に捧ぐ  


 龍造寺が第1回の施術の腹部切開は、名にしおう当代の名医・阿久津博士の執刀であるから、存分に徹底的に行われたので、案外に結果も宜しく、日ならずして退院して、庵主の宅にも来訪するようになったから、全快次第、早速に支那に行くべく準備をして居た、一方庵主は、阿久津博士に挨拶に行って、段々話を聞くに、博士曰く、

 「元来が癌腫の事故、早くて1年、遅くて3年の中に又々病勢の増進を見るべし」
 との事である、庵主も尠なからず落胆して、此の模様にてはとても支那などに旅行せしむる心地もせず、段々研究の結果、斯う決心をしたのである。

 「父母の片身とも云うべき弟の身体が、絶対に不治の病気とある以上は、庵主の健康と力が続く限り現代の医術にて、生命の持続される限り、最善の手を尽して見よう、次ぎには、設令え(たとえ)如何なる悪性の病気にもせよ、我家に生れて、我国民人の為めに、犠牲的の観念を以て立つ以上は、此の病気を以て無上の犠牲的行為が出来ぬ事はないから、此の病気を以て十分に研究の資料たらしむるが良き事である」、夫(それ)には龍造寺に其の旨を申し含めねばならぬと思い、1日龍造寺に面会して斯く云うた、

「今回汝の病気に付いて、能く阿久津博士と相談して見るに、斯々(かくかく)の病症にて、絶対に不治の病気であるとの事故、汝は左(さ)の覚悟をなすべし、

 第一、 男子一度生を得て、発奮志を決し、国家民人の為に尽くすは、決して偏固の心を以て為すべからず、其の為し得べき境遇と、為し得べき事柄とを弁えざる可からず、此の故に汝は支那に行ってのみ然る志を成す物ではない、生きて世に尽す事能わず、死して後聞こゆる事なき其の身体を以て全部医学上の研究資料に捧げ、人間の『モルモット』となる事、我家としては光栄此の上なしと思う、若し万一研究の結果、医学上に何等かの成績を得るに至らば、兄は此の上の満足なく、又若し助命再生の好果を得なば、夫(それ)こそどんな献身的の御奉公でも出来る訳故、此の際衷心最も爽快にして、未練なき決心をなして、医師が為すまま、又飲めと云う物は喩え糞尿腐敗の物にても、決して辞する事勿れ、予も亦堅く其の決心をなし、費途と時日とを顧慮する事なく屹度(きっと)献身的に汝が身体の保護に従事すべし」

 と申し聞かせたのである、龍造寺は満身の笑を浮べて斯く日うた。

 「世に廃物利用と申す事を承り居りましたが、私の体が夫になるとは、こんな難有事はございませぬ、幼少より抜群の腕白にて、人となって処世の出発第1歩を誤まり、半世の流離困沌は、尽くお兄様に御心配を掛る計りの結果と相成り、最終に及んで聊か自覚致します、君国を思うの道に入りましたら、直ぐに斯る難病に罹り一応落胆は致しましたが、只今承われば、夫が医学界の資料になるとは、誠に以て有難事にて、此の上の廃物利用はござりませぬ、今日より私の体は、屹と『モルモット』と心得、切るも突くも医師の勝手次第にて、薬物の如きも、薬は愚か研究の為めなら、湯でも飲みますから、御安心下さいませ」

 と、快く決心の返事をしたから、庵主も大いに安堵して、夫から大抵病院住居(ずまい)をさせた、先ず東京での名家と云う名家、先ず阿久津、阪口の専門博士より、青山、林、土肥、金杉、佐藤、松本の諸博士は勿論、庵主の平生依頼する牧、杉本等の諸名医まで、種々様々の手を尽した治療を受けたのである、而して庵主の仕事としては先ず何よりも膀胱内の瘡面を清潔にすると云う条件の下に、看護人の熟練なる者を附随せしめ、毎日薬液を以て洗滌(せんでき)し、医師の指図に依って、食物に十分注意し、夫を丹念に持続せしめたのである、其の中、又膀胱内の癌の瘡面は、葡萄の実の如く、粒々腫脹して出血を始めたから、種々手当の末、又々腹部切開の事に決したのである、阿久津博士を始め、其の他の名医達も、

 「斯く繰返しての荒療治を為すも、何様疾患その物が悪性故、一時の仕事たるに過ぎず、余りに痛わ敷てお気の毒である」 と申さるゝも、龍造寺は断然聞き入れず、庵主もまた龍造寺に、根本的同意をして、飽迄徹底的施術を要求するので、阿久津博士は再び決心をして、大施術を執行せられたのである、
今度は膀胱内の組織の悪しき所を、十分に切断して取除け、其の瘡面を電気にて十分に焼灼(しょうしゃく)せられたが、何様大施術の事故、博士は満身の流汗は下着を透して、上衣まで絞るように至りたれども、十分為すべき仕事は為さねばならぬと、其の施術を終られたのは、2時間の後であった、夫より龍造寺は、例に依って施術後の摂養に注意して、とうとう又本の通り位には回復したのである。

丁度此の頃の事で、庵主の秘書役を頼んで居る、陸軍出身の清水と云う人がある、此の人の叔父君に当る老人で書家を以て業とする人があって、老年に及ぶも子供がないので、諸国を周遊して書道に遊んで居た折柄、不計(はからず)も胃癌となり、総ての医者に見放されるまま責めても死水は1人の甥の清水に取って貰わんと、人に連れられて来たので、清水氏は懇切に介抱して居る中、京都の或る寺より胃癌の妙薬を施薬すると聞き、夫(それ)を煎じて叔父君に飲ませて居たら、最早死期に迫まって居ると医師に云われた叔父君が、中々死なぬので、一同不思議に思い、尚一層其の薬を継続して飲ませて居る中、或る日血の糞便を排泄して以来、段々回復に向い、とうとう全快して、又々元の書家となって諸方を周遊して居るので、清水氏は其の薬の種を見付け出して、今夫を宅に植付けて居るから、夫を龍造寺に飲ませては如何との勧めにより、薬とさえ聞けば、何でも飲む龍造寺の流義故、早速に其の種実を得て、自宅内に50坪計りも蒔き込んで、其の枝葉を煎じて毎日の常飲料として龍造寺は暮して居たのである、折から又段々と此の薬の話を聞くに、20年前、泉州堺の人で奥某と云える人が、拳大の癌腫が胃の俯に発生し、先ず大阪病院にて見放され、夫より東京の胃腸病院にて見放され、赤十字病院にて見放され、帝国大学病院にて見放され、最後に順天堂にて見放されたので、弥(いよいよ)死期が数月の中に迫りたると聞き、夫なら帰って郷里の土とならんと思い、自宅にて療養中、或る人の勧めにて、右の植物を煎じて飲用せば、胃癌の全快疑いなしと聞き、全然無駄と思いながら、手の尽たる後の気慰みに、夫を土佐の国より取寄せ、毎日の飲料として服用して居たる処、56ケ月も過ぐるも中々死なぬので、益々気を得て服用を続けて居たるに、8ケ月目に及んで、或る朝真黒なる血の加き物を、多量に吐出したので、驚きの余り一時喪心したのを、家人は驚きて種々介抱の末、人心に帰り、今までは水さえ胃中に収り兼ね、右の煎薬だけは、種々の困難をして、やっと飲用して居たのに、夫から後は先ず重湯が嚥下出来る事となり、其の次には僅かな粥が食われ、漸次体力も回復して、爾後5ケ月にして平常に回復したので、其の薬草を以て内務省より許可を受け、治癌剤と命じ売薬として売り出したる処、売行抜群なりと聞き、丁度清水氏の話と一致符合するに付き、庵主は弟の可愛さと、研究の面白さとにて進んで此の薬の研究にも着手する事としたのである、夫から此の薬草を本として調査を遂げたるに、俗称「ハマヂシャ」と云い、和名「ツルナ」と云い、薬名「蕃杏」(ばんきょう)と云い、英名にて「エキスパンサー」と云うとの事、一見蔓生の如くして、黄なる小花を着け、菓は丸味を待って厚く、副食物としては茄て浸し物、若くは味噌汁の身などに宜敷、「しゃきしゃき」とした歯当り宜敷、少し塩気を合む味を有せり、種は堅き殼内に芥子の如く、障隔内に群列して、其の殼のまま、播種する時は、2ケ月位萌芽を生ぜず、故に槌を持って半ば打割って播種するを常とす、夫より世間に癌腫とさえ聞けば、此の薬を施薬して飲用させて見たが、脈拍が良好となる事丈けは一般に同一であるが、子宮癌、肝臓癌、膀胱癌等には一切験目(ききめ)を認めざりしが、胃癌丈けには確かに顕著なる功験があるので、庵主の友人岸博士は、大いに此の薬草に興味を持ち、専ら製薬試験の事に従事せられ、数ケ月の後、一の製薬を得
られた頃、丁度庵主の友人栗野子爵の姉君の70有余にならるる人が、又拳大の癌腫が胃俯に出来たるより、土肥博士の「ラジウム」治療等にて、種々手当も尽されたるが、更らに効験なきより、此の岸博士より製薬の散薬を貰い、夫を服用して50幾日の持続の折柄、或る日看護婦が、気たたましき報告に「御隠居様が多量の血便を排泄せられました」との声に驚き、一同駈付けて見るに、何とも形容の出来ぬ臭気にてありしと、夫から何れも応急の手当をなす内、漸次落付き日を経るに従って衰弱に衰弱を重ねたる体も、段々と回復して、とうとう後には湯も咽に通らざりし病人が、性来好物の西瓜を幾切れも摂取せらるゝに至ったとの事である、斯る薬を龍造寺が自宅内に沢山蒔き付けて、平常不断に飲用する事を継続したので、其の為か脈拍だけは何時でも丈夫で暮して居たが、何様難病故、とうとう3度まで腹部切開の施術を行い、同一の方法にて焼灼しては快癒する事を繰り返したのである。

数え来れば龍造寺が新橋停車場にて発病以来、丁度10年の間、各名医方も驚嘆する程、学理と薬剤と、施術と看護との4つに最善を尽したのは、
 第一、医学上の研究
 第二、父母の遺体に対する務め
 第三、兄弟の恩情より、万一にも全快の機はなきやとの未練心
で有ったに相違ないのである。

 其後庵主が、郷里福岡へ帰省中「龍造寺容体不良」との電報に接したから、取る物も取り敢えず帰京して見たれば各医師が、
「如何な龍造寺さんの健体も、今度は六ケ敷(むつかしい)と思います、夫は『ブルース』の性質が甚だ不良であるから電報を打ちました」との事であった、病床に行って龍造寺に面会して見れば、顔頬(がんきょう)も左程の衰弱は見えねども、脈と呼吸は素人にも大分多いようである、何でも10年目の病体故、予を隊長として、皆代る代わる夜伽をせよと命令して、予も夜伽看護を続けたが3日目の昼頃、俄かに段落(だんおち)がして、医師が「カンフォル」の注射を始めた、又、食塩の注射をも為た、夫から2-3時間奮闘の後、愈々絶望となって来て、もう頸髄が痙攣して来て、瞬が出来ぬように成って来た時、龍造寺は庵主に向って斯く日うた。

 「お兄様、大分気持が良くなって来ました、此の塩梅では今度も又難関を切り抜けまして回復するであろうと思います、今迄は色々の不養生を致しまして、御心配ばかりを掛ましたが、今度こそばシッカリ保養を致します、此の冬を兎や角凌ぐ為めには、熱海に頃合の家を見付けて置ましたから、体が動ける丈けに成りましたらば、腰を据えて熱海に転地仕ようと思います、来春菜種の花の咲く頃には屹度全快するであろうと思います」
 と云うから、庵主は思わず満身の血が凍る程不潤になって来た、今此の末期に及び、此れ程脳髄の明晰な男でも其の死期を知らぬのか知らん、況んや度々の施術の時も自から進んで大施術を受けたのは、已に絶対に不治の病気たる事を知って居たればこそ、其の旺盛な決心もあったのである、然るを「菜種の花の咲く頃には全快仕よう」とは、全く安楽国へ行く積りであると見えると思い、

 「そうじゃ、10年の星霜短かしとせず、今日まで汝が生命を持続したのは、全く汝が勇猛の結果である、此の上は身心共無為の境界に入り、安楽の処に転地をして心安く暮せよ」と云うたのが、庵主が愛弟龍造寺に対する今生後生と限った最後の引導であった、夫から30分立つか立たぬ中に、呼吸がごとんと響いて、跡はふーっと一つ長い息を吐いて落命したのである、此れが東京府下中野郷字中野1055番地の龍造寺が自宅の8畳の間に於てである、夫から立会医師の最後の診断も済んで、弥々龍造寺隆邦は死亡したとの知らせを為し、親近の者も最後の式も終えたから、庵主は医師に向って斯く云うた。

「我が家憲として、家中死亡者は、何物でも掛り医立会の上、悉く解剖を行わせるのであるから、先生方の御相談で、どうか順天堂で至急解剖の上、病理研究の資料として戴きたいのである」

 「夫は実に有難事でござりますから、10年以前より今日まで龍造寺さんを診察した医師の方々に、只今から至急通知を致しまして、明朝の10時に解剖を致す積りで、準備を致します」
 と云うて一同引き取られたのである、夫から其の夜は一同と共に愈々最後の夜伽をして、明朝の8時半に自動車を以て龍造寺の遺骸を順天堂に送り付けたのである、其の解剖の結果は、

1.主病たる膀胱の癌腫は「クルミ」実のように収縮固結して、之を裁断したるに綺麗に尿道丈けの働きをする事に成って居たとの事
2.腎臓は両方とも、一方は腐敗一方は全部が化膿して居たとの事
3.肺部に結核の病竃がありしとの事
4.心臓部に結核の転移ありしとの事
5.脳部の解剖は脳量も目方も抜群普通の人より多量なりしとの事

 右の如き事から幾多病理上の事を宜敷く書いて、各部の写真を添え、広く之を配布せられたとの事である、要するに龍造寺の癌は、或る形式に於て直って居たのである、死因は腎臓及心臓であると確定したのである。

 嗚呼庵主は生来始めて骨肉の弟を失うたのである、夫も3回まで人切俎板(手術台)の上に載せて、血塗れになしてである、然れども庵主の心理状態は頗る満足であった、如何なれば、如何にも夫が徹底的であったからである。

第一、効果は収めなかったが、出来得る限りの教訓を得たのである
第二、豪放不羈の男ではあったが、生涯寸時間も兄弟友愛の情を失わなかったのである
第三、癌腫の病に罹ったのを、10年間看護したのである
第四、現代に於てあらゆる名医の手にて、十分の治療をなし、また十分の研究をして貰うたのである
第五、癌に対するあらゆる薬は、善悪とも飲ませ尽して、各其の成績を調べる事が出来たのである
第六、其の遺骸は帝国大学より解剖の講師が出張して、数十人の名医立会の上、熾烈なる眼力の焼点に横わって、其の学的資料に提供したのである

 庵主は此の上此の稿を書くに忍びぬから茲に筆を擱く(さしおく)であろう、之を読む青年諸士は、庵主の兄弟が行為の善悪に拘わらず、諸士が兄弟間友情の何かの資料として呉れられなば、庵主の満足よりも寧ろ龍造寺の冥福を祈る上に於て、多大なる功徳であると感謝するのである、庵主此の間、龍造寺の後家の宅を訪うて見たらば、庵主が曾て(かつて)書いて遣った、不味い詩の掛物を壁間に掛け、其の下に龍造寺の位牌を祭って居た、曰く、

坎輠半世苦辛多 かんかはんせい しんくおおし
吾弟十年惧病魔 ごていじゅうねん びょうまにともなう

可憫呻吟唯問我 あわれむべししんぎん ただわれにとう
今秋菊信果如何 こんしゅうのきくしん はたしていかん 



 *以上で、「43 魔人・龍造寺隆邦」から紹介し続けた言わば「龍造寺隆邦伝」は<了>となります。
 
 


スポンサーサイト

●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
● 53 庵主が懐抱せる支那政策案

  壮図未だ発せず大患を起し  開腹数次俎上に戦う  


 庵主は支那政策につき、また話を続けた。

 龍造寺よ、汝支那に向って日本の政策を定めんと思わば、前に云う通り先ず「支那は永久に亡びざる強国である、日本は支那の行為によりては、直ぐ目前に亡びる弱国である」と云う事を、第1の条件に置いて考えねばならぬぞ、夫から支那に対する外交手段は、他の諸外国に対する(ものと)、同様の心得ではいかぬ、世界中で外交は、支那が1番上手い、又、商業貿易、経済政策で、支那をいじめては駄目である、商業貿易は、世界中で支那が1番甘い(上手い)、又決して組織的兵力で支那を圧迫しては駄目である、組織と器械との圧迫に抵抗するには、支那は無組織と無抵抗力と云う、強き抵抗力を以て世界に抵抗して居る、往昔から英仏共に、軍には勝って支那を領有し得た者はない、支那に向っての百戦百勝は、事実に於て損をする丈けである、夫(それ)が世界中で支那が1番其の抵抗力が強いのである、故に外交と商業と軍事の支那に対する刺戟は、恰も象と云う猛獣に対する、虻や虱の刺戟であると思わねばならぬ、然らば夫を差引いて、支那政策の資料は何が残るか、さあ此の辺を知るのが対支の識者である、其の識者が今日まで殆んど世界中に1人もないのである、世界中皆無駄骨を折りて、無駄損ばかりをして居るのである、日本も正に其の1人である、今貴様は志を其処(そこ)に立てたからには、夫を知らねばならぬのである。

 克く魂を腹の底に据え、落付いて考えよ、宇宙間に造物者の所為を凌駕して、之を具体的に変更する者は、人間より外に無いのである、今富士の山を切崩して、平坦な土地にすることの事業を思い立っても、之に関する器械は出来るであろうが其の器械の能率で、組織的に何百何十年で、綺麗に平坦にする予算を其の通りに器械を運転して実行する者は、人間でなければならぬ、左すれば支那を平穏にするには、物質と予算が入用ではあるが、其の上に人間の行為と云う事を徹底的に考えねばならぬ、故に先ず支那の人間と云う事を考えて見ると、其の端緒が直ぐに開ける。

 今支那に東亜の問題に付いて、咄しの出来る《人間》が何人居るかと云うと、俺の考えでは知らざる者までを入れても凡(およそ)30人である、此の30人と議論が一致結合さえすれば、支那の事は自由自在である、其の僅か30人がなぜ結合せぬかと云えば、各個人に一種の希望があるからである、何の希望であるかと云えば、金と権力が欲しいのである、故に先ず其の希望の金を与えるとしたら、1人仮りに2千万円を与えて、其の欲望を充たすとしたら、全部で6億円でないか、そこで今度は其の権力を与えるに付いて、独り支那だけでなく、東亜の平和に対して、腹一杯に持って居る丈けの議論を吐露し得る丈けの発言権を与えて、東亜大会議なるものを組織し、其の会議員として十分の権力を揮うべき力を与えるのである、此の場合に日本は秋毫の怨望をも有してはならぬ、誠意誠心東亜の平和さえ確立すれば、何等野心は無い単を中心に定めて之を中外に表明せねばならぬ、即ち東亜の平和が先ず消極的に日本を失わぬ第1の政策であることを理解して居らねばならぬ、左すれば結論は、金が6億万円(ママ)と彼等30人に大東洋平和会議の発言権とを与うる丈けとなるのである。然るに大事の問題は彼等が其の生命財産を保ち、また其の権力を行使するの力を維持するに必要なる確固な護衛力を持たぬのである、即ち秩序維持力が無いのである、其の場合には日本の天皇陛下が之を保証して下さるのである、夫(それ)は彼等が日本と共に議定した、東洋平和会議規則の範囲限度に依て働くのである、斯る政策が仮りに確立するものとすれば、彼等は生存中に容易に得がたき金と権力とを得て、永久無限に日本及其の他の強国に侵害せられざる事になるのである、此の場合に成って、平和を希望せざる者は1人も無い筈である、扨、平和と云う事が、仮りに実現したものとすれば、茲に始めて東洋の繁栄、即ち文明の発達を企図せねばならぬのは、又相互当然の思想でなければならぬ、即ち繁栄発達せしむるには、東洋が真丸に一団となり、全世界の諒解を求める事に向って其の宣伝を発表するのが必要となるのである、曰く、

一、全東洋の資源は、全世界の前に提供せられて、其の開拓を待って居ますぞ。

二、全支那全日本の商業貿易は、全世界の力を招来して其の接触を期待して居ますぞ。

三、夫に対する秩序上の危険は、根本より一掃せられて東洋に於ける其の各自の財産と生命とは、絶対に保護せらるゝの 組織が出来て居ますぞ。

四、東洋の資源は、世界と均等共通の力に依りて開発せらるゝ事に根本的に理解確定して居ますぞ。

五、日支の両国は、全財産と全精力とを挙げて、オリエンタル・オーバアランド・エンド・オーバシー・ゼネラル・インシューランス・コンパニーの資本に投入しましたぞ、安心してお出なさい、安心して事業をお起しなさい、安心して利益をお取りなさい、と広告し得らるるのである。

 以上のような意味が、日本支那政策の根本でなければならぬ、其の外にはどんな事を試みるも、皆怨みを買い禍根を醸すの外、見るべき
成績はないのである、予は或る時、軍事当局を元老の前に引き出して、諄々と此の論を説いた事がある、

 元老曰く、「実に名論である、世界中是程穏当なる支那政策は有るまい、併し一つ合点の行かぬ事は、日支相談の上、世界に向って、『東洋の資源は無条件にて世界の前に提供するから勝手に利益を獲得せられよ、秩序の維持即ち泥棒防ぎは自費で日本が引受けて上げます』と云うと『利益は世界が取って逃げて行くに、其の事業安全の保護は日本が自費でするわ』とは道理のない事ではないか、そんな事でどうして日本の軍隊の費用は、何処から出て来るか、君は軍隊の費用は幾干(いくばく)の物と思うて居るか、殊に支那に出張すれば、日本に居るよりももっと多額を要する事になるが夫は分って居るのか」と云わるると、其の軍事当局は其の尾について「帝国の軍人は、人の営利事業の寝ずの番は御免を蒙る、第一軍隊の威厳に係わるから」と云うた。

 さあ其処で予が折り合わぬ、
「其の御両君の根性が、帝国軍人の威信を墜落し、世界に忌憚せられて終には我国を国家的盗賊呼わりをさるる元であります。
第一、軍人は平和秩序のサーバントと云うが本旨でございますぞ、夫から日本に居る時は腹干し働いて居るのですが、支那に行けば只だ増手当を取る丈けですぞ。
第二、軍隊は国家防備の完全を限度とすべき物で、果して圧制侵掠の力まで蓄えねばならぬ物でございますか。
第三、夫に我国の軍隊が、平和秩序維持専門の事業をして、何処に威信が汚れますか、防備以上の力を備えて、若し夫が圧迫を超過した侵略にまで疑わるゝの行動をしたら、何処に威信が保てますか、私は両君を前に置いて、帝国の威信を汚すものは軍隊であると叫びます。

 又元老閣下のお咄の、利益は他人が得て、秩序維持の費用は自弁とは、道理にないとの御説は一応尤ものようですが、夫が大間違いでございます、人に向ってウェルカムを云う者は、之を云う資格が無ければなりませぬ、仮りに或る商店が今日売出を致しますに付き、花客(とくい客)にウェルカムをしてどうかお出を願いますと云う其の主人の家は、其の家族中に下駄泥棒も居れば、外套盗人も居る、其の主人も隙を窺うてちょいちょい其の客人の持物をちょろまかす根性があって、客人が呼べますか、そうして其の盗人根性の取締費用は一切客人持ちとして、其の商店は客人を案内すると云う人格ある主人と云えますか、其の商店は少なくも、主僕総て一団となりて、真剣に善意を持って花客を送迎し、万一紛失物等があったら、弁償する位の覚悟が無くては相成らぬものでございます、心を静かにしてお聞きなさい、

 
 先年英米のイ(エ)ンジニヤ・クラブの報告を調査した事がございます、曰く強国が殖民若く(もしく)は未開の地を開発するには既往の統計に依るに、山岳を拓き、河川を浚渫し、諸建築をなす、所謂固定資本なる物が、資本の百分中62で、残る38が流動資本である、而して利益は大抵1割を目的とするのであると、さすれば彼等は、一朝事変があった時には抱えて逃げられない固定資本を、仮りに1千万円の資本中620万円は其の土地に投入せねばならぬのである、其の620万円は着手第一に、先ず其の土地の人、即ち東洋ならば日支の人民が頂戴するのでございますぞ、夫から1割の利益を得んには仮りに資本1千万円の或る事業に対しても、凡(およそ)3割のモンス(マンス)ペー即ち月払金凡3百万円計りは、労銀其の他の諸掛費に向って仕払わねばなりませぬ、此れも其の土地の人民が、永久に頂戴致しますぞ、即ち年額3千6百万円の仕払いである、夫に彼等の目的とする1割の利益即ち1百万円を加えて都合3千7百万円が、其の製品の売価となって世界に売出すのでございます、其の売った代価を、又持って来て其の翌年も翌年も又3千6百万円宛を日支の土人に払うて、彼は1百万円宛の利益を所得するのでございますぞ、即ち機会均等、門戸開放なるものの、日支両国の土人に対する賜物、即ち利益は仮りに1千万円の1会社を、英米の人が東洋に拵えたとしても先ず一時限りに620万円を頂戴し、次には永久に年々3千六百万円宛(ずつ)を、日支の人が頂戴するのでございます、そこで其の莫大の金を得た日支の労働者などが、セービング或は消費に対する向上は、忽ちにして購買力の増進となります、即ち其の労銀の過半は、酒を飲み煙草を吸い、毎日の放歌高唱は総て是れ民族消費の音響でございます、夫れ(それ)に対する供給の物資は、日本の努力でなければなりませぬ、四面環海であるから、原料の集収に便利である、器械と勤労の算用に敏捷な民族であるが為め、能率の増進を図る事が容易である、東亜の各国に距離が接近して居る為め、フレートその他のエキスペンスが安価である、其の結果は遠距離で、費用の沢山掛る国の商品と十分競争が出来る余地があります、斯る努力の為めに其の向上した民族の消費丈けでも莫大で、今から其の数を計算するに苦しむので有ります。、


 況んや日支の単独経営権や、合弁経営権は元の通り依然として残存するに於てをでございます、これらが世界に幾多の強国を産んだ、民族向上の顕著なる一大歴史の現象と云うのでございます、さあ斯う成った時の日本の利益は、秩序維持の軍隊費の幾倍を支払い得ると思いますか、今閣下方の権威とする、海陸の軍隊は、無用の日月を煉瓦の家の中で弁当を喰って寝て暮して居ります、幾多の軍艦は振り金玉でぶーぶー屁を垂れ、用もない海上を遊んで暮して居りますぞ、夫を世界人道の為め、東洋開発の為め、機会均等門戸開放の為めに、自発的に支那と相談をして、世界に之を高唱して其の為めに此の海陸の軍隊が、善意に努力するのが何で威信に係りますか、何で損が行きますか、私は茲に閣下方の為めに門戸開放機会均等の国家の為めに、有難い1例をお咄し致しましょう、

 昔日(むかし)浅草観音様の境内は、あの池の畔に榎の並んで居る所までで、夫れ以北は全部浅草田圃と云うて、水の溜った沼田でございましたのを、飯田某とか云う者が、1坪20銭1反60円で買って、池を掘り縦横に溝を通じて、其の土を左右に刎ね上げて、僅かに地面を拵えましたとの事故、今でも1尺か2尺も掘れば水でございます、其の地上を浅草六区と称して、門戸開放、機会均等を宣言しました処が、八方の商人が押寄せて来まして、安芝居や、女義太夫、尻振踊り、手品軽業等が集って幾多の繁栄を累(かさ)ねまして、一時は其の土地の6尺真四角の地上権が、6百円にもなったとの事でございます、さあ門戸開放、機会均等の賜はこんな物でございます、其のお蔭であの場所に、20幾万の人口が群集して生活をして居るので、即ち東京人口の10分の1は、あの場所に集って、其の利益にあぶあぶして居るのでござります、故に日支の両国は、満韓から西比利亜、松花江、沿海州、黒龍江沿岸まで、皆1坪6百円の地上権になして、世界人口の10分の1、即ち23億の人口を招集したいのでございます。只だ此処に重大なる要件は、秩序維持の法規でございます、夫が即ちちゃんと日支両国が最も鄭重に審議すべき、彼の東洋平和会議で極まる規則条件でございます、夫さえ強固に厳立して、之に対する警備さえ永久不抜の法を立て得たならば、門戸開放、機会均等位、世界に結構な物はございませぬ、
 元来が私は生れるからの軍備拡張論者でございますが、其の拡張は基礎ある計画の下にでなければ、此程恐ろしい戯れはござりませぬ、古人曰く『天の時は地の利に如かず』と、左すれば我日本は、亡ぶべき天の時は幾度有ったかも知れませぬが、地の利が世界中絶好の優勢を占めて居る為めに1度も外国に取られた事はござりませぬ、又『地の利は人の和に如かず』と申しますが、此程地の利に富んで居ても、人の和には敵いませぬ、其の人の和が3千年の訓練を経て、1種義勇の風を成して居ますから、相待って他から掠奪せられなかったのでございます、第1絶東と云うて世界の絶倫に位して、気候が中温である、夫から強国は、太平洋5千海里の向うか、又は印度、ベンガル、スエズ、地中の諸海洋を隔てておりますが、まだ器械の進歩は、北海を隔てゝ戦う程になって居ませぬ、今仮りに米国が1万噸(トン)の軍艦1艘を以て日本を敵として攻撃するとしても、其の燃料が1昼夜3百噸と見て、バンカ、ハッチに1千噸入るとし、3昼夜をはしったら、其の軍艦は息の切れた人間のように、船の土左衛門であります、左すれば又3日の航海をなさんには、又1千噸の石炭船がお供をせねばならぬ、又其の3日の後は又1千噸の石炭船がなければ、9日の航海は出来ませぬ、日本の海岸まで来るには、少なくも五艘や6艘の壱千噸の石炭船を、お伴に連れねばなりませぬ、其の石炭船に、又護衛艦が入用です、夫から日本の海岸に其の軍艦が到着した丈けでは駄目だ、夫(それ)が活動する丈けの石炭供給船が、米国から日本まで続き続きて供給して呉れねば、其の軍艦の活動は出来ませぬ、一般の軍艦でさえ夫です、少なくも日本の艦隊を打潰す丈けの軍艦に供給する運送船でも、米国から日本まで幾千万艘を要するので御座います、其の運送船を米国から日本まで連続せしむる丈けが、現代ではまだ不可能の事であると、欧米の軍事当局にはちゃんと勘定が出来て居ります、さあ御覧なさい、それ程不便な所に日本と云う国を建国して呉れた人は誰です、吾人は伊勢の天照大神宮様にお礼を申さねばなりませぬ、夫から此の民族を教養する事、茲に3千年にして、世界から見たら一種の狂人とも云うべき敵愾心が練習して有ます、其の上日本を亡ぼす丈けの軍艦を、東洋にもって来たらば、其の軍艦と兵士との食う物資がございませぬ、東洋には熱帯地も有って、1年に米が2度出来、4度も筍の生える土地は有ますが、夫は皆地の底に有る物資でございます、そこで東洋を攻略する為め、欧米の強国は、其の物資収集及製造所から拵えて懸らねばなりませぬ、好し夫程にして日本を取ってどうかと云えば、土地狭小にして山岳多く、水力燃料とも不完全にして、経営の十露盤(そろばん)が持てませぬ、1本の狭軌鉄道を布くにさえ、1,2マイルカーブと勾配なしでは出来ませぬような貧弱な国柄である為、只で貰うても引き合わぬと云う事を独逸と米国の参謀局はちゃんと数字を示して発表致しています。

 夫ご覧じませ、人の取って引き合わぬような処に、国家を建設してくださったお礼はまた伊勢大廟に申し上げねばなりませぬ、其の上寒熱帯の分岐点に在るが為め、気流の険悪は世界1で、元寇の乱から、今度の日本海の海戦まで、皆之を神風々々と云うて居るではございませんか、夫で世界は屹度確実に日本は欲しくない厄介千万である事を自白して居ます、只支那が欲しい為めに、総て日本に考慮の交渉を持つのでございます、故に日本の軍備は国家の防備を限度とし、次ぎには東洋の秩序維持を限度として、其の得たる平和は、夫程欲がる世界の前に、支那と共にさらけ出して、両国の誠意をさえ披瀝すれば、東洋は只だ向上進歩する計りで、来る物は幸福より外ござりませぬ、夫は門戸開放機会均等を、日支の自発的に発表するのでございます」と、予が攻め付けたので、其の元老と軍事当局の人は、永年の日支交渉の方針を誤まって居た事を繰返して、全然同意をして呉れた事があった。

 併し斯る大局の大議論は、50年弁当飯に馴れた役人には中々実行が出来ず、俺は爾後怏々(おうおう)として沈黙して今日を送って居る所であるから、予は、貴様が今度の支那行を賛成すると同時に、此の意義を含ませて、彼の地の志士をして、此の議論の圏内に入れたく、斯くは心中を披瀝して云い聞かす訳であると云うた所が、龍造寺は手に持った1杯のコーヒーも、水の如く冷えて頭と共に冷化して仕舞い、暫くして初めて口を開いた。



 「お兄さん、私は初めて支那と云う物の咄を聞きました、否、日本と云う物の咄を聞きました、今日まで私の考えて居った事は、全部間違うて居ました、是から好く前後将来の事を考え、大略の方針を極めまして出発する事に致しまする」

 と云うて、其の日は別れたのであった、夫から数日の間、音信も無かったが、其の月の22日に愈々新橋から出発すると云うから、庵主も夫是(それこれ)と気を配りて、其の日の時間前に馬車を共にして新橋停車場に往ったが、見送りの人など1人も来て居らぬから、

 「家族も書生も朋友も誰れにも知らせぬのか」
 と聞くと、

 「是はお兄さんの米国行の例に倣うたので、家族共には見送りを禁じ、友達には乗船後知らせる積りでございます」
と云うから、

 「夫(それ)もそうだ、1人の真身の兄が見送る以外、別に見送人の必要もあるまい」
 と云うて居る中に、段々時間も切迫して来て、多くの乗客も立騒いで来た頃に、龍造寺は一寸用達(ちょっとようたし)に行って来ますからと云うて、便所の方に行った、暫時待って居ても来たらず、もう発車の振鈴(しんれい)が響いてきたのにどうしたかと、気を揉んで居ると、1人の赤帽が来て、

 「龍造寺の旦那が一寸貴方を呼んで来て呉れと申されます」

と云うから、一寸吐胸を突かれ、便所に馳せ付けて見ると、龍造寺は小便所の階段の上に立って居る、其所に行って先ず一驚を喫した。それは彼の横長き尿樋の流しは全部鮮血が漂うて居る。

 「どうしたのか」
 と聞くと、

 「何だか分りませぬが、放尿後尿道より出血してどうしても止りませぬ、此の通り尿口を摘んで居りますが、出血が尿道に充満仕ますから、離すと此の通り滝のように出ます」
 と云う中、見るく顔色も蒼白を呈して来たから、此れは大変と思い、直ちに車を飛ばせて龍造寺の親友なる、木挽町の池田病院に連れ込んだ、院長は直ちに診察をしたが、何だか原因が分らぬ、種々手当の結果、一時出血は止まったが、又放尿時になると出血を伴うので、暫くは大騒動である。其の中池田院長の診断で全く膀胱内よりの出血と極まって、其の施術を行うたので、稍緩和して、10数日の後退院するの運となった所が、自宅療養後、数日の後、又々出血を初めて、体力も漸次弱るから、今度は順天堂に入院せしめ、阿久津博士の専門治療を受けて居る中、膀胱鏡などにて実見の結果、いよいよ膀胱癌と病名が確定して、入院より7日目位に腹部を切開して膀胱内より葡萄の実の加き物を幾房となく取出し、内部を電気で焼灼(しょうしゃく)して、一旦施術は終ったが、是が龍造寺最終の病気とは素人の庵主に気も付かず、只だはらはらと心配ばかり仕て暮して居たのである。

  ●53   <了>。 
 



●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
●52 支那は永久亡びぬ国

   一場の観劇心頭を刺され 対支議論傍若無人 


 段々記述する如く、龍造寺と云う男は、庵主が全国幾百千の人と交際する中で、嶄然(ざんぜん)として一色彩を輝かして居た変わり者であったと云うに躊躇せぬのである、庵主の畏友頭山翁の如きも「あの龍造寺と云う男は、貴様の弟ではあるが、貴様より「2、3割方豪い(えらい)男であるぞ」と云うて居た、庵主も常にそう思うて居た、元来が倜儻(てきとう)不羈の所に一種渾然たる柔軟性を持ち、改悛の力に富んでいるから、どんな六ケ敷(むつかしい)先輩長者でも、龍造寺の前には、ころりと転ばされて、愛僯の情を垂れられし事ある、所謂大事に接触し得る資格を持って居た事は、庵主今尚お忘却せぬのである、夫(それ)が青年の第1歩に於て其の出発を過ったが為めに、生涯此の器才を国家社会の上に試みる事が出来ずして死んだのは、庵主幾年の星霜を経過しても悵然(ちょうぜん)として愛惜の情に耐えぬのである。

 扨、龍造寺が東京住居の中に日露戦争も終息し、大勝利を占めて国民全体が戦勝の酒に酔うて居る頃、龍造寺は庵主の処に来て斯く云うた。

 「私はお兄さまのお蔭で後れ馳せながら国家社会の事を考える憂国家の仲間に這入りましたが、元来東洋の安寧を生命とする我が邦は、まだ大なる仕事が残って居ると思います、日本の存立を外から壊わす露国は膺懲しましたが、東洋を内から壊わして日本を危殆ならしむる支那と云う物がござります、此の始末を適当に付けて仕舞わねば、日本は決して安全でないと云う一大事が残って居ます、故に私は及ばず乍ら、其の始末に取掛って見たいと思いますが、日本には兄さんが居らっしやるから、私は支那に這入りまして、適当な仕事を仕手見ようと思います、どうかお許しを願います」 と云うから、

 「其の考付は至極好い、俺も永年其の事にかかって居るが、中々六ケ敷事である、併し支那に入込むのにどんな手蔓で往く積りか」

 「はい、夫はこんな書面往復の結果で参ります」

 と云うて見せた数通の手紙を庵主が見て先ず一驚を喫したのである。

 「是は支那革命の頭目数名との往復書類ではないか、殊に其の物資の問題に対する条項に対して貴様の考えはどうする積りか」

 「夫(それ)が主眼で、革命党の内外に或る力を漂わして見る積りでございます、殊に私の刎頚の友2人は横浜、上海にある英商と連絡して、此の照電を受取りましたから断然出発したいと思います」

「よし夫なら或いは東洋問題の一端を得るかも知れぬ、併し茲に1条件がある。『夫は貴様は此の事業を最終として其の成敗に拘わらず必ず死すると云う決心があるか、再び俺に遇わぬと云う覚悟があって出かけるのか』夫が聞きたい、苟くも身を君国の大事に任ぜんとする時、微塵でも死生に纏綿した観念があっては、全部駄目である、夫はどうじゃ」

 「其の儀に付いては篤と考えまして上海上陸の上、此の手紙を家族及恩顧の人々へ出す積りで已に認めて置きました」

 「むう・・・此の手紙の決心なら宜い、貴様も国事家の開業式であるから、見苦しい事の無いまで決心をして、心往くまで此の事業に身を打込んで働いて見よ、取敢えず明日は兄弟で今生の訣別式を行おう」

 と約束をして、庵主は種々の薬剤等を取揃え、夫から銀行に談判して、若干の金貨を用意し、之を庵主が青年の時、長旅に出立する前夜に、母の手ずから賜わりしウコン木綿の古胴巻に入れて待って居ると、龍造寺が来たから、直に馬車を共にして帝国劇場へと乗り込んだ、夫からあの食堂の一隅に陣取って、心にある丈けの事、心残りのない丈けの咄をして思い込めし種々の品を手渡して、夫から芝居の見物にかかった処が、其の外題が《白石噺揚屋の段》である、此れを見て居る中に龍造寺は斯く云うた。

 「兄さん、お互い兄弟が今生の離別に催された今日の芝居見は、実に生前死後の好記念とも成りましょうが、私は外題が気に入りませぬから、此の位でもう帰ろうでは有りませぬか」

 「なぜそんな事を云うのじゃ」

 「なぜって、奥州辺陬(へんすう)の土百姓の子の姉妹が、孝貞無双の女性として、其の父を暴言に討たれ復讐の念、燃ゆるが如く、幾多の艱難辛苦を経て天下に其の大志を遂行せんとする此の演劇は、此の女性を主として組立てたる作者に、此の鬚面大男の我々兄弟が何だか揶揄されて、其の鞭撻の策(むち)に耐えられぬような気が致しますからです」

 「成程貴様にそう云わるると、俺も最前から、此の女豪の小娘に責められて何だか男の一分(いちぶん)に気恥かしい心地がして居た処じゃ、まあ芝居は此の一幕切りとして、何処ぞ(どこぞ)恰好の処で咄す事に仕よう」

と云うて又帝劇を出て、ぶらぶら馬車でドライブをしてとうとう上野の精養軒に這入り、一室に陣取って又物語を始めた。庵主曰く、

 「俺は今ひとつ貴様に聞いて置かねばならぬ事があるが、此の間の咄では日本に危害を加える露西亜は懲らしたが、同じく日本に危害を加える支那が懲らしてないから、是も懲らさねばならぬと云うように聞えたが夫に相違ないか、果してそうなら、革命軍に投じて、今後貴様が仕事をするのは、支那を懲らす為めに往くのか、其処はどうじゃ」

 「夫は違います、懲らす懲さぬは、其の時の模様で所謂臨機の処置でございますが、何れにしても日本に危害を加えぬと云う、屹とした安全丈は付けねば成りませぬ、元来は懲らさねばならぬ行掛りに成って居ますが、其の懲らす好機会が日本の無能外交が失なって居ますから、是から私が参りまして、甘く(うまく)工夫をして臨機の処置を取ろうと思います」

 「日本の無能外交が懲らすべき好機会を失うたとはどんな事か」

  
 「夫(それ)は日本は已に(明治)27、8年に於て、或る此の好機会を捕えたから、日清戦争で懲らしました、然るに今度も対露外交の上に此の好機会を捕えたから日露の戦争となりまして、十分な勝利を得ました故に、其の結末には又十分に此の好機会を捕えて、戦果の上に平和の条件を収めねばなりませぬ、然るに全く当局の無能外交の為めに、夫(それ)を失いましたのでございます、而して其の好機会と云うは、彼のポーツマス条約の出来た時に、日本は露西亜と戦うた血刀の儘、夫を北京政府に突付け、『東洋で乱暴を働いた露西亜丈けは、23万の死傷と27億の軍費とを犠牲としてやっと懲戒して、夫はポーツマスの日露講和条約で片付いたが、此の露西亜に乱暴をさせた国は貴様の国である、即ち支那である、日本は露清の国交に付き正当なる外交の手続を以て、10年前よりしばしば抗議と注意とを怠らなかった。

 曰く《東洋の平和を保障する日本、支那の領土保全を主張する日本、即ち日本の世界に対する生存の基礎たる主義に背戻する露清の秘密条約は、終に国家生存の意義に於て大衝突を免れぬから、日本を省いての露清条約はせぬが宜い、日本も其の間に参加せしめよ》と一再ならず警告したに拘わらず、貴様の国は大声に之を排除した、

 曰く《支那は国際公法を解釈したる帝国であるぞ、日本を参加せしむべき必要が有れば、必ず之を参加せしむるであろう、其の必要がないから参加せしめぬのじゃ、且つ思え、露清両国は、三千余英里の土壌を接した隣国である、故に土地民族に間したる外交問題は年中1日も絶えた事はない、夫を一々横から口を入れて、兎や角云われて溜まるものでない、日本に咄すべき事があれば云うから、夫(それ)までは黙って引込んで居れ》と云うたでないか、其の揚句に貴様は、あらゆる武器軍器にも超越したる、土地と云う物を秘密条約で露国に提供して、とうとう南満洲に永久の軍備的設備をさせたでは無いか、故に万止むを得ず、日本は国家の全勢力を傾けて、開闢以来未曾有の大犠牲を払い、やっと喰い止めたのである、左すれば挑発せられた露西亜の乱暴は制止したが、之を挑発した支那は、一層の懲戒を加えねばならぬのである、故に是からぱ貴様の国の懲戒に取掛る事務である、極消極に見積りても、将来永久に2度と再びこんな事の出来ぬ丈けの鎖鑰(さやく)は、押えて置かねばならぬ、日本は此の上今1度、支那の外交行為で、23万人を殺し、27億の国帑を擲って溜るものか、国家は直ちに滅亡して仕舞うから、決して2度とこんな事の出来ぬ丈けの鎖鑰を押える条件は取るぞ』と云うが、外務当局の当然の職責で、世界全国一言も云えぬ、同情せねばならぬ申分でござります、夫に日本の外交官が、北京で仕た北京条約と云うは、どんなでござります、啻(ただ)に支那を懲戒せざるのみならず、無戦争で露西亜に贈った南満洲の租借地を、戦争して大犠牲を払った日本に其の証文の儘を交附したのではござりませぬか、従来此の証文には南満洲の土地は向う幾年の間は、戦争にでも何でもお遣い下さい『露西亜殿』と書いて有った宛名に棒を引いて『日本殿』と書入れた丈けではござりませんか、夫では此の露西亜に対する年限経過の後は、直ぐに支那に引上げられて、又露西亜に名前換(なまえがえ)をされても仕方が無いではござりませぬか、夫で私は全く当局が好機会を失うたと云うのでございます、夫(それ)とても今は過去りし跡事でございますから、私は一身の精を擲ち、邦家の為めに生死を賭して、此の重要関係ある支那に乗込み、一策を画して見ようと思ますので、兄さんの御許可を願うのでございます、其の一策と云うても、今日から十分の案も定めて居ませぬが、大体に於て支那人をして、世界の大勢から、東洋全滅の運命にある事を知覚せしめ、彼の三韓満蒙の如き、印度、波爾斯(ペルシャ)の如く、今や国土と民族の精気を脱落せんとしつつあるに対して、西洋強国が、之に乗ぜんとする有様は、恰も虎狼の前の睡羊に斉しき理を説いて、自覚発奮以て東洋の連衡共立を創立して見ようと云う様な、夢を考えて乗り出すのでござります、夫から先は所謂臨機でございます」

 「むう、まあよく夫(それ)だけ考えた、俺は貴様の考えの経路を賞するのである。

 併し支那の事は、夫が名案の上策ではない、今俺が貴様の考えを定める前に、1,2参考に云うて聞かせる事があるから夫を克く理解した上で、考えを決定せよ、決して忘れてはならぬぞ」

 第1、他の国に相談を初めたり、他の国を動かそうとする時には、先ず己れの国のどんな物かと云う事を知らねばならぬ。
 
 今日本全国の大名巨姓の経綸家を、俺が委敷(くわしく)通覧して見るに、全部悉く支那に対する考えは問違うて居る、夫は
                        
 日本は新進興隆の国である、支那は敗亡自滅の国である」と、こう思うて居るのが大間違いの基である、俺は日本は「即滅崩潰の国である、支那は健全永久の国である」と信じて居る。なぜなれば、支那は往古より1度も全部統一せられらた国ではない、唐虞夏殷周、即ち兎陶文武の聖代と雖も、其の泰平は版図中の一部分の治績である、其の他は悉く自立の王国で有って、僅かに軽些貢物の実あるのみで、夫さえ永く続いた事はないのである、第1、通信交通機関と云う物がないから威令信の実を及ぼす事が出来ない、夫から其の聖朝なるものも盛衰常ならず栄枯時なくし、凋落するから、其の歴史は、黒い草紙に字を書くようにラッキョウの皮を剥くように同じ事計りをして、盛衰凋落して来たのである、始めには仁政で起こり、後には酒と女と建築の3つで潰ぶるるのである、どんな聖代でも、2、3代目から長安宮、西安宿、銅雀台と云うような大建築を始めて、其の重租に狭い区域の人民が耐えられぬ、夫から酒池肉林、夫から官女3千人、夫が衰枯凋落の結論であり、夫が4~5千年も繰り返されて居る、然るに夫でも決して国と民族は無くならぬのである、

 今は通信交通等の道が開けたから、我国より見て敗亡自滅のように見ゆれども、決してそうでない、俺は支那開闢以来の泰平は今日であると思うて居る、現に長安、西安、銅雀の大建築はない、酒池肉林もない、官女3千人もない、支那版図内に較的に世界の大勢にも通暁して来て、夫相当に民族の国家論も、不完全なりに起って来て居る、若し交通通信の無き事昔日の如き時ならば、支那大陸の大々的泰平を謳歌する時であると思う、即ち既往からあの通り、将来も永久にあの通りであって、決して潰れる気遣いのない国である、然るに日本はどうかと云えば民族土地が支那と接同して居ても、彼は大であり、我は小である、彼は此の点丈けでも亜細亜の主人である、我は亜細亜の属小であるは実際である、又文学美術も彼は師で、我は弟子である、只だ彼に勝れる処と云うは・・我は開闢以来の統一国で、彼は開聞以来の不統一国である、我は統治の威霊が益々こ顕揚して居て、彼は全く無威霊の国である、此れ丈けである、故に我天皇は此の理を夙に知ろし召されて、日本の国是を支那領土保全とお定になった、なぜなれば、若し世界の一強国が、支那の領土内に一威霊を輸入して、其の1角に軍備を成す時は、他の強国は機会均等の意義に因って、我も我もと軍備を持ち込んで来る、左すれば、日本は戦わざるに先って、已に軍備に亡滅して仕舞う故に、日本は若し支那の領土内に、軍備をなす者があったなら、国家を焦土にするも、最後の1人となるまでも、犠牲となって、其の相手を打潰して僅かに我国の存立を図る事になって居る、故に支那の対韓政策で、日清戦争を開いて之を懲し、露国の南満旅順軍備で、日露戦争が開かれて、之をヨウチョ膺懲したのである、夫を為ねば日本は直ぐに潰れるのである、即ち支那の一外交の意志で土地を割譲して、外国に与えたならば、直ぐに潰れる程の貧弱な日本である、故に貴様は先ず「支那は永久亡びぬ国、日本は何時でも亡びる国である」と云う1例として、俺の此の咄を能く知了せねばならぬ、夫を知って支那の事を画策せぬ者は悉く駄目である、第二、は支那は世界中で特殊、国家機能を特って居ることを知るのが中々六ケ敷のに、民族と、東洋立国の意義丈を疎通了解して、日本と東洋立国精神の同化を計り、決して其の他に触れざる事が真正な対支政策である。

 ●52  了。
 
 



●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
● 51 厄介な国事道楽者

 漁夫弾を抱いて敵国に向い 暴漢母を倒して其の財を奪う 


其の後1ケ年計り過ぎた頃、庵主が東京築地の台華社楼上に晏居の折柄、警視庁の刑事係が1名突然と来て面会を求めた、会うて見ると曰く、

 「貴殿の実弟たる、龍造寺隆邦氏が、今回或る北陸の漁民等数名と共に、漁船の親船一艘を仕立て、それに日露戦役軍夫と称して1種の徒党を組み、莫大の爆発薬と共に乗り込んで、能登の七尾港から出帆せし形跡がある為め、八方捜索の末、貴下の実弟なる事を聞き出し、何かと御存じの事情もあらば承り度しと思うて参上せり」

 云々の咄である、庵主ははっと思うた、「あの奴、新潟の鍋茶屋一夕で急造憂国家になって、又胆切れ(きもぎれ)の大胆な事を始めたな、困った事を仕出かしたなあ」とは思うたが、何様刑事の前で黙って居る訳にも行かぬから、

 「はい、龍造寺隆邦は僕の実弟に相違ありませぬ、併し此の者は幼少より商家に養子に行き、拙家へ復籍後も、主に山業に従事し、少しも対外交とか、内政上に対する政治思想とかには没交渉の男であります、僕は故郷にて一別後、数年も面会せざりしが、昨年計らず新潟にて漫遊し、一タ宿を共にして旧事を語り明かした位にて、其の際も決して談、国事などに及ばなかったのであります、今のお咄は余りに突然なのと、事柄が余り本人と懸隔がある為め、急に何等のお答えも出来ませぬが、先ず当方でも相当の捜査を仕まして、何等か事情を得ましたら、日頃懇意に致す警視総監閣下まで直ちに申し通じましょう、何れにしても事柄が国事に関する事ですから、破廉恥罪とは違い、何等隠蔽の必要もないと思いますから、御安心の上、今日は御引取りを願います」

 と云うたので、そこそこに刑事は帰ったが、扨、龍造寺奴(め)何を仕出かしたか、何様捜査の仕様もなく、取り敢えず新潟の彼の住所へ長電を打って問合せたら、翌朝返電が来た。

 「主人は不在、居所も今日は分らぬ」

 との事である、庵主も頓と行詰まり、あの龍造寺が、今不馴れの国事道楽などを初めて、首尾始末の付かぬよう事を仕出かしては困るがなあと、分けても親身は芋汁の、味は匂いの田舎武士、若い親爺の気になって、焚く焚く愚痴る愚痴る炉の炭の、起る程には心にも、怒らぬ変な気煙で、燻ぶる儘に2、3日を、暮して居たる午前2時頃、雨にも堪えぬ門の戸をこつこつ叩く者がある、風か水鶏(くいな)か電報か、番の小憎が居穢なく、気他無く、寝込んで起きぬ焦燥(もど)かしさに、自分で起きて戸締りを、開ければ、にゅーと入り来る、夜目にも夫と知らるるは、思い続けし龍造寺である、其の驚きと嬉しさ
に、云う事さえも後や先き、先ず居間へ伴いて、扨其の来意を問うて見れば、彼はにこにこ笑いを湛え(たたえ)、

 「今夜参りましたのは、お兄様が私の事で御心配になって居るとの事を、新潟の宅から申して参りましたから、夜中お休みの時にも拘らず、参上致しました訳でございます、扨、私の今回致ました事件は、元浦塩に在る私の友人が、いつの間にかどえらい対外交の思想と成って居まして、窃かに日本に帰ったが、一の知人も無い処から、私に手渡って(たよって)来まして、現在日本外交の拙劣と、軍事計画の手後れは、切歯扼腕に堪えぬと云う顛末を物語りまして、個人行為として敵国の鉄道・橋梁その他を破壊する考えであるが、何様肝心の爆発薬が手に入らぬからと、夜を徹しての慷慨咄しでございますから、私も日本人で、彼の一死を決した覚悟と精神を見捨てる訳にも参りませぬから、此の間より聊か手蔓を得て居りました、米国捕鯨船の所有する爆発薬を、鯨を捕るよりも余計の代価で買い入れまして、其の男に遣りました処が、此の爆発物買入れ等に使いました私の手下にある命知らずの漁民共が私に膝詰めの談判を致しますには『我々は親の代かに魚と取組合をして、命を捨てねばならぬ職業であるのが、今度は千載の一遇で、敵国人と取組合って死ねる時が来ましたから、是非あの浦塩の先生と一緒に、露国に遣って下さい、私共5人は、昨年の大暴風に、3日も海中に漂うて、敦賀の救難所で救われた者でござりますから、1年前に死んだと思うて出掛けます』と云いますので、其の友人と相談の結果、大賛成を致しまして、共に出帆させる事に致ましたが、新潟や敦賀では出帆が面倒でござりますから、船を七尾に廻し、出帆を企てました処が、屹度名前の知れた人で、戸籍の証明を出帆届に要する戦時中の取締であるとの事ですから其の浦塩の友人に、私の名前と戸籍証を使用せしめて危うくも出帆させたのでございます。
 故に若し発覚しましても、其の友人が私の名前を詐欺したと云う事になるだけで、私には法律上の罪はございませぬと思います、私も段々考えまするに、其の友人を其の儘に放って置くのも面白くありませんから、お目に掛ってお赦しを得ましたら、松花江の方に往ける手蔓がござりますのを幸、富山県の漁夫数人と、漁船に乗りて出掛け、何なりと少し計りでも敵国の物をぶち破して来ようか思い、只今其の準備中でございます、已に友人と先発の漁夫共は、敵国の鉄道橋桁を破わす(こわす)には、笊で帽子を拵え、それを頭に被り、其の中に爆裂薬を入れて、川上から夜中流れに従って立ち泳ぎをして、橋桁に到着し、夫を打ち付けて頭と共に橋桁を破わすと申して居ました。是等も新発明の破壊術とは思いますが、私は此れ等漁夫共より、今少し甘い工夫をしてみたいと思うています。どうか、人間として生れ来った世に、復(ま)た遭う事の出来ぬ千載一遇の時でございますから、私の思い立ちを御許可なさって下さいませ」

 と、ぺらぺらと喋舌るのである、庵主もしばらく沈黙して彼が云う事を聴いて居たが、徐ろに口を開いた。

 「総て意外千万の事を聞く物である、汝にして左様な対国家的思想のある者とは今まで思うて居なかった、先ず我が家の血統として、斯る奉公の考えを起した事丈は取敢えず賞するが、此の種の事業としては、汝はまだ全くの素人である、生ぶ(初心)の小児である、男子仮染めにも国事に身を委ぬる事を決する時には、其の精神と生命の消耗に、一定の覚悟がなくてはならぬ、其の時々の出来心で、巧名をのみ追うて走る者、之を糞虫士(くそむしざむらい)と云う、今天下に充満する志士は皆此の種類である、陽気の加減で、孵化て(わいて)、這い登っては落ち、這い登っては落ちて、遂に糞汁汚濁の中で溺死するのである、又千百万中其の糞虫士の解脱したのが、蒼蝿士(はいざむらい)と云うのである、徒らに権要や群衆に媚びて、迎歓の説をなし、出来るだけ説を売り問題を食うて、揚句の果は、蒼蝿(うる)さがられて、撲き(たたき)殺される位が落ちである、汝の今の出来心即ち急造志士は、以上の者よりも今一層劣等である、予は天性の頑鈍ながら、苟も予は予の対国家的出発点に於て、其の精神と生命の消耗に屹度覚悟を定めて居る、第1は皇上の御為め、第2は国土民人の為め、第3は朝鮮の始末と釣り代えである、此の三つの為なら、何時でも現在の生命を提供するが、其以外には決して死なぬ、後は其の日々々の出来事に対して、適当の智才と体力とを尽すのみである。然るに汝は予の弟として、北国の漁民と同じく、笊の帽子を頭に冠りて、爆裂薬を其の上に載せて北露の橋桁と共に頭を破わして済むと思うか、目に一丁字なく、心に理非の弁えなき漁民が、大和民族の一部として、全身の血を其の一挙に傾け尽すの決心は其の分限として賞するにも余りある事じゃが、汝は已に相当の識力と、理解力とを持ち、名家の血液を受けたる1男子である、夫が自から漁夫と選を同じうするは言語道断である、汝已に口あり声あり、誠を以て道を説くに、何の不自由がある、動くには已に手あり足あり、進退坐作何の不自由かあらん、先ず夫を試みたる結果として善悪の期決に対し、腹を屠るも宜し、頭を割るも宜し、夫は其の以後に於て何の遅き事か之あらんである、君国の干城には已に軍人あり、戦陣に命を捨つるを目的とす、之に従うの軍夫又後方の勤務を以て身命を擲つ(なげうつ)、予が友数十は、已に政府の命を奉じて通訳の官たる者多々あるのである、此等は又夫を以て身命を擲つのである、蓋し汝は又何の薀蓄あって此の企てを為すか、已に悪事業の為め人の産を傾むくる事十数、妻孥(さいど)10年、離散の苦楚に吟き、その全責任ある汝が最終の結論は、漁夫と死を共にするに帰着することは、現在の兄として決して之を許す事が出来ぬのである、速かに一心を立命の地に安んじ、中心(衷心)より人に対(こた)え、世に報ゆるの策を決し、生死を之に賭する事をなすべし、殊に兄が慨嘆措く能わざるの1事は、汝自から爆薬を米船に買うて之を友に与え、又自から快諾して己の名を其の友に名乗らせながら、法律上其の友が氏名詐称になる丈けで、自分は無罪なりと何と云う賤劣の精神なるか、人を欺くは罪にして、己れを欺くは罪に非ざるか、汝は先ず已の罪を知り、今予が与うる此の1書を携えて警視総監に面接し、事実真情残らず自訴して、自欺の大罪を改悟せずんば、決して子が弟たるを許さざるべし、決して遅疑逡巡はならぬぞ」

 と、説き聞かせたのである。

 いと長き、夜半の苧環(おだまき)口尽きて、窓枠漏るる東雲の、茜さすまで繰り返し、解くも語るも口繁き、軒端の雀啼き交わし、榊売る声朗かに、隣の親爺も起出でて、拍手叩く頃となった、夫より龍造寺は、庵主の手紙を携えて警視総監の官舎を訪問れ、事件の顛末漏れもなく自首した処が、段々調査の結果、其の相手たる浦塩の友人を捕縛して対照せざる限りは、矢張龍造寺が初めに信じた通り片言の自首にして、龍造寺を其の儘罪に処する事も出来ぬので、自然其の友人が龍造寺の名を詐称して、七尾を出帆したと云う事に見倣さざるを得ぬ事と成ったそうである。

 夫から龍造寺は新潟を引揚げ、東京の住居となって、永く麻布三河台の近くに居住して居たが、其の砌(みぎり)、庵主が洋行の留守中、又小説的俳優じみた1奇事を仕出かしたとの事である、夫は或る春の日に龍造寺が千住河原へ道楽の魚釣りに往って居たら頻りに眠気を催して来たので、日当り良きとある藁小積(わらこづみ)の蔭に居眠りを仕てぐっすりと眠り込んでる中に、其の藁小積の後の里道の辺で、年頃50計りの老姐の泣き叫ぶ声がするので、ふと目を覚まして窺い見るに、30格好の頑丈の若者が、その老姐の背負うて居る荷物と、首に掛けて居る財布まで剥取らんと強迫して居るので、猶じっと見て居ると、立ち上がり様、老姐を一蹴りに蹴倒した、其の老姐は真っ逆様に横の殼溝(からどぶ)に陥り、大怪我を仕たらしいので、龍造寺は余りの乱暴を見兼ねて予て巡査も奉職していたし、捕り縄の名人ではあるし、持ち合わせた魚籠(びく)の僅かのお縄を引き解きて夫を携え一声掛けて、不意に其の曲者に飛び付いた、其の曲者も声に応じて驚いた時には、もう右手と頸に縄が掛って居て、ばた付く所を眸腹を蹴って弱わらせ、遥かの野良に居る百姓を呼んで、老姐の介抱をさせ、やっと人家まで連れて来て、直ちに千住警察署に人を遣り、自分の身許から、事件の顛末までを陳述して引渡したのである。

 夫から其の老姐の身上を聞けば、生まれは埼玉県安達在の者なりしが、1人の息子が放蕩者にて、酒と博打に身を持ち崩し、とうとう其の母は故郷にも居堪えず千住に出て来て、人仕事の傍ら小店を出して微に暮して居たが、其の亭主が日清戦争中、田庄台にて戦歿せる功に依り下賜せられた金合計2百円丈けを某銀行に預け置きしに、一時其の銀行が破産に瀕した時、村の誰れ彼の世話にて、夫(それ)を受取って貰うて、以来は銀行と云うものは只々恐い物と思い込み、夫の遺物(おっとのかたみ)の財布に其の金を収め、是は夫の命の代の金故、息子の性根が直らねば決して遣らぬと、頑張って、日夜肌身に着けて離さぬ故、其の息子は常に其の母を付け廻し隙を窺うので、母も薄気味悪く、とうとう故郷の家を息子の居ぬ中に畳んで、千住に引移ったは1年半も前との事、然るに其の日どうしてか其の息子が母の居処を突止め、闖入して来て恐喝したので、母は程能く云い宥めて(なだめて)、自分の重立った手廻りの品を風呂敷に包み、王子の親類方へ逃亡せんと企たのを、其の息子が見付けて、先きの顛末に及んだとの事、の始終の咄を聞いた龍造寺は、自分が一日も父母に孝養せずして死に別れたのを、常に心の底に持って不安の念に責められて居た処故、此の事件が甚く龍造寺の頭を刺戟したものと見え、老姐を其の住所に連れ返すと共に、直ちに千住警察署に馳せ付け、彼の罪人には種々の事情があるのを聞いた故、此の儘に自分に下げ渡して呉れと懇々頼んだ所が、もう警察は一応の訊問も済み、罪状も分明なる上、前科も数犯の者故、折角の御申し込みながら、下渡しの事は不可能であると承知してくれ、又貴下が此の罪人の捕縛に対する御尽力は、其の筋へ委敷く(くわしく)報告して置いたからとの事で、止むを得ずすごすごと引き取って来たが、彼が悔恨の心は火のようになって、どうかして其の者を自分と一処に悔悟させ、母に孝養がさせて見たくて、其の当分は全く抜け殼のようになって考込んで居たが、不図其の罪人が明日浦和の裁判所に送らるるとの事を聞き出し、直ちに龍造寺は一種の大奇行を企てたのである、夫は其の日の午後4時頃、浦和街道の人里離れた所を見澄し、不意に護衛巡査に当身をして、其の罪人を連れて大塚村の或る在家に一夕を潜伏し、夜を徹して其の男に人道の説諭をなし、彼が十分悔悟の心あるを見て、龍造じそ其の罪人の衣服を全部脱がせて自分が着、又其の罪人には自分の着て居たモウニング服を全部着せ、嫌がるを無理に金を与えて、其の家より追出した後、其の家主を説得し、金を与えて大塚の警察に告訴させた、

 「私の内に是々の罪人が飛込んで来ました」と云うので直ちに大塚警察から捕縛に来て拘引され、夫(それ)から5日計り(ばか)獄舎に入ったのである。其の中に千住警察へ大塚署から照会があって、引渡された。全くの化けの皮が現われたので、改め龍造寺は自分の意思と非行とを自訴した。千住でも困って、龍造寺を警視庁の方に廻したのである。当時の総監は随分磊落な人であった為め、龍造寺はとうとう罰金で放免となった。

 此れに関聯した事を書けば、まだ面白い事が沢山あるが此処には省く。此の顛末の為め龍造寺は其の当身を呉れた巡査を辞職させて、北海道の事業の支配人となし、其の親不孝の男は、麻布の谷町辺に家を持たせ、庵主が帰朝の後、龍造寺が連れて来たから、殊更に説諭もした事があるが、悪に強ければ善にも強く、其の後は別人の加く母に孝養を尽し、是も龍造寺が世話で、其の母の死後、森岡移民会社とかの募集にじて、南米に出稼ぎをする事になったのである。龍造寺は俳児気(やくしゃぎ)の為め、生れて始めて牢獄と云う物に入られたのである。

 ● 51  了。 
 



●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
● 50 祖国の危機を憂えて

  兄弟再び南北に別れ  諺話更に雪山に深し 


 庵主は龍造寺に伴われて薄暮の頃より籠手田知事、久保村警部長に面会すべく鍋茶屋へと出掛けたのである、名にしおう北な県の冬の夕暮れ、眼も開けられぬ粟雪を、嘯く海の荒風に、卍巴と吹き捲くるを、硝子障子に隔てつつ、手炉を囲みし友垣は、10年ぶりの邂逅にて。音する鍋の沸沸に、連れて豆腐か千賀小鯛、四面八満方(よもやまがた)の物語、相互(かた)み交りの応答(うけこた)え、絶え間もなしに打ち廻る、盃の数塁(かさ)なりて、顔に漲る紅潮の、堪えに近き頃となり、さて久保村は云えるよう。

 「久方振りの酒莚、子極(ねがた)の陸の涯(くがのかぎり)にて、雪を褥の物語り、尽きぬ中にも一入に、先ず問い度きは此の土地に、思いも寄らぬ珍客のさすらい、殊に今日まで吾々に、何の信牒(しらせ)も無かりしは、事故(ことゆえ)あってか又外に、余儀なき理由のありしのか」

 と、夫とは無しになじり問う、詞(ことば)に庵主は心中に、尠なからざる警戒の、慮りを起せしが、いや待て暫し、此の2人は昔日より、一入我を知る友垣、武道の親交(ちぎり)に年古く、往き通いたる人々故、包み隠すは野暮の至、事の顛末赤裸々に、明け語って荒胆を、抜いて見るのも可(よ)かるべしと、即時に決して座を正し、

 「其の問いこそは僥倖(もっけ)のさいわい、夫を賢兄等(きみら)に告げざりしは、賢兄等に友誼を重んずる、聊かわれらの心尽し、其の訳こそは二賢兄共(ふたりとも)、首傾けずして判るべし、
抑も庵主が此の土地に、来たりし事は先月の、末つ方より二賢兄とも、既に知って居たではないか、夫に今日まで音信の、我らに無きは中央政府より、厳敷き通牒(しらせ)を受けしより、賢兄等は下僚に命を下し、事故の顛末細々と、探偵したが何より証拠、夫を我らは知らず顔、今日まで旅宿に蟄居して、過ごして居たは県にて他に並びなき大官の、旧知の友が嫌疑の眼に、掛れるを知る故である、、公私の別に賢兄等の、職務を安すくさせん為に今は賢兄(きみ)より招かれて、隠れ潜むべき時ならず、下風に趨(ゆ)いて本末を、親しく話すは身に取って、此の上もなき倖なり、我が心尽しを先ず識りて、是れから話す物語りを、私事の1節(ひとふし)と、思うて緩々(ゆるゆる)聞き玉え、

 抑も我らが新潟を、地点に選びて浦塩や、西比利亜などに耳を伸べ、露西亜北欧の鋒先に、眼を離なさざる其の訳は、帝国の廟議浅薄に流れ、安危の鎖鑰(さやく)方外に逸し、恥辱を損得の数に加えず、徒らに戦いを忌んで国力を蹙め(しずめ)、苟且偸安(こうしょとうあん)を以て国策とするを慨するより、止むなく是に出づるのである、夫国家なる物は、栄辱を以て生命となす、辱を忘るれば国家に非ず、即ち名なき民族の集団なり、国家と云う名を取除けたる物である、此故に国家には往昔より興亡の歴史あり、力足らざる物ぱ必ず亡ぶ、之を防ぐの道、宇宙間に決して無し、故に理由あれば何時にても亡ぶる物である、此の場合志士の務むべきは、只だ其の亡び方の如何にあるのみである、樽俎、揖譲、事理、道徳、如何なる事の限りを尽すも、彼れ意を只だ力の一点に注いで之を圧倒し来たらば、何を以て亡びざるを得んやである。国を解せざる鄙流の族(やから)朝に立って、「峨冠長衣」徒らに国際の理義を尽すと雖も、其の亡滅に帰するの時、何を以て其の責めを償わんとするやを問わば、只だ茫として答えるの辞はないのである、彼の印度の歴史を見よ、比爾西亜(ペルシャ)の歴史を見よ、土耳古(トルコ)、希臘(ギリシャ)の歴史を見よ、否な波蘭(ポーランド)を見よ、匈牙利(ハンガリー)を見よである。

 理に酔うて力に醒めざる者、悉く皆、然らざる者は無いのである、今帝国の有様は、理の酒に酔う鄙流の輩に向って帝国の千鈞を一髪に掛け、力の上の亡滅に対する損害賠償を覓めん(もとめん)とするの時機である、見られよ露西亜には、多年国家呼吸器の障害に苦しんで、之をバルカンに求めて得ず、又之を阿富汗坦(アフガニスタン)、卑利斯坦(ベルジスタン)に求めて得ず、今や既に窒息の境遇に苦しんで居るのである、故に挙国満朝の力を傾けて、東洋に突出せんと企て、既に国帑2億6千万ルーブルを注いで、烈寒瘠土(せきど)の西比利亜を通じ、以て浦塩に達せんとする大鉄道の布設に着手し、国内第1の名望家にして、経済上の大識見者と謳われたる、ウィッテ伯を起して、西比利亜鉄道布設首部の委員長となし、日夜其の行程を急ぐの時、我国の大官はどうして居た、椅子に臥し酒を仰いで、「なに、云う可くして行われざるの事は西比利亜の鉄道である、あのバイカルの湖がどうして越せるものぞ、長蛇の中断は両方共に首と尾とを欠く、只だ事を構えて内政に偸安する露国1流の政策である、と罵って居たではないか。然るに豈図らんや、其のバイカルの湖は、見る間に、フェレーボー(フェリーボート)にて連絡をを取り、半成の線路ハルピンに達せんとするの時に、露国は直ちに清国との秘密条約を発表し、欠びして手を伸ばすように、「ぬーっ」とブランチ・ラインの南下を企てた、奉天、遼陽、金州、南山、旅順は、見る見る中に輸送の開始をし、あれよあれよと云う中に径ちに朝鮮に爪牙を伸べた、其の王室と内閣とは忽ちにして露国公使館に贅を贈るの有様になったでないか、歳久しく我国は、日韓協約の誼を重んじ、第1・朝鮮王室の隆盛を謀り、第2・朝鮮富強の基を開き、第3・朝鮮の独立までは無期限に資を投じて保護して遣った、其の苦楽糟糠の好誼を無視するのは、其の背後に非議非道の露国と云う姦夫あるが為に非ずして何ぞやである、今や帝国安危の一髪は、多年放縦無稽に国政を玩弄して、一時の偸安にのみ酔うて居た廟堂の汚吏に掛って、其の興亡を決せんとするではないか、二賢兄等(きみら)は今猶お此の当路に向って、現在国家の蒙りたる、損害賠償を覓めんと欲するのであるか、又夫を可能性の事と思惟するのであるか、予幸いにして永年知を2兄に辱う(かたじけのう)す、いずくんぞ肺肝を披きて教えを乞わざるを得んやである、予不肖なりと雖も、我国祖先伝統の血液を享けて、常に身を国家の安危に委ぬ、之を坐視するに忍びず、之を傍観するに堪えず、身を挺して制機の大策を立てんとすれば曰く、国法を犯す、曰く法制を乱ると、忽ちにして幾多枝葉の小属に命じて進退を拘束し、動(やや)もすれば桎梏其の後えに臨まんとす、何事の児戯ぞ沐猴にして冠するの徒、国運廻転の大豪傑を犯して、其の裳を拿かんとするやと云いたくなるのである、二賢兄等不幸にして濁世汚流の末に入って、身をユニホームに包むと雖も、元是憂国慨世の傑士、何の戯れにか、触れなば燃えんとする予を縛するの事を為さんや、又何の慰みにか手に、憂世の涙を徒放せしむるの事を為さんやである、庶幾(こいねがわ)くは、二賢兄、旧誼の私事を懐ふ勿れ、只だ旧知奉公の精神を採って済世の大業に、義奮一片の誠を贈って呉れられよ」

 と、心を傾けて説いたのである、現今の世には爪の垢程もそんな事の分る人間は居らぬが、此の2氏は素より日本武士道に精神を弁えたる、曠世の士人であるから、口を揃えて、


 「よし分った、安心して遣り玉え、出来る丈けの便利は足すよ、君が悪い事を仕たと云うても、米国の密猟船に因って浦塩に無券の旅行をさせた事と、無券の洋人を内地へ入れたる丈けであるから、夫は手続上の事を追駆け、事務にして仕舞えば幾等も前例があるから、能く調べて遣ってやるよ、其の位の事は何でもないが、縦んば(よしんば)容易ならぬ事件が起こったとしても、元々主意を国家的善意に起した事なら、我々の職務にどんな障害の犠牲が掛って来ても、此の国難を救い遂げる目的の前には、少しも恐れる事はないから、安心してしっかり遣って呉れ玉え」

 と、青竹を割ったように、口を揃えて云うて呉れた時には庵主は、

 「あー、日本はまだ亡びぬわい、日露戦争には屹度勝つわい」
 と思うた、斯る話を最前より押黙って聞いて居た龍造寺は、一言も発しなかったが、庵主は両人の好意を心より謝して、明早朝出立の事を告げて、とうとう其の夜の12時少し前に別れて宿に帰ったのである。夫から又、兄弟床を並べて寝る事になったが、龍造寺は庵主の枕元に坐して、尤も真面目な顔付きで斯く云うた。

「お兄様、今日私は始めて阿方(あなた)が知事や警部長にお咄になったのを能く側にあって聞きましたが、私が幼少より褥を同じゅうして成長した自分の兄は、こんな人で有ったかと云う事を始めて知りました、小耳にお兄様が国事国事と云うて居らっしゃるのは、一体どんな事が平民のする国事であるかと思うて、今日まで聞き流して居りまして、そんな詰まらない事よりも、男子の為すべき事は、実業の事より外はないと思うて居ましたが、実に国事と云う物は実の入った面白い事でございます、私は幼少よりお兄様と鬼ごっこも共に為ました、百姓も共に為ました、山遊び川遊びも共に為ましたが、成長して世間に対する仕事丈けは、全く別々になって仕舞いました、今日のお話で始めて自分の兄はこんな事を仕て居る人であったかと云う事を知りましたので、今では私の今日迄幾多の辛苦を累ね、幾多の失敗を積み、幾多の人の産に危害を加えて、努力仕ました実業は、夢見る片手に温い(ぬるい)風呂に入って居たような、馬鹿臭い事が分りました、私も武士の家に生れた者でございますから、今日から総ての仕事を打捨てまして、お兄様の弟子となって、国事専門に尽したいと思いますが、どうでございましょう」

 と云うから、庵主は思わず噴き出して笑うた。

 「貴様は俺より生れ勝って居る点は沢山あるが、国事に関する事は俺の方が先輩である、此の商売は中々一寸早速に出来る事ではない、其の入門の試験に四鯛病(よんたいびょう)を根治させねばならぬ、夫は『長生仕鯛、金儲け仕鯛、手柄が立鯛、名誉が得鯛』の四つである、即ち死、貧、功、名、の上の観念を解脱して、命は何時でも必要次第に投出す、貧乏は何程しても構わぬ、縁の下の力持をして、悪名計りを取って、少しも不平がなく、心中常に爽然の感が漂うて春風徂徠の中に徜徉(しょうよう)するが如き境涯にならねばならぬ、今の世の国事家は、往成(ゆきなり)に国事を触声に売歩きて、次手(ついで)に死の責任は免がれよう、次手に金は儲けよう、次手に手柄自慢は仕よう、次手に美名は得ようと云う『四よう病』に罹った患者計り故、働けば働く程、害菌毒素を第三者に振り掛けて、世に多くの迷惑を掛けるのである、今若し貴様が国事家となって入門するには、此の種類の国事屋の番頭により外成れぬのである、夫では国事上に何の利益もないのである。真の国事家は国家が事実の上に利益する事である、故に其の国事家は損して、悪名を取って、身を粉に砕き、揚句の果ては死んで仕舞う、夫が大成功であるから、普通常識の考えからは大損である、先ずそんな事は止めたが好いと思う、俺は端なくこんな家業に取り掛かったから、親を凍(こご)やし妻子を飢やし、身に襤褸(ぼろ)を纏うて道路に彷徨し、終には虱の吸う血程の月給を取る役人から、鍋茶屋で御馳走になって有りがたいとお礼を云うて、こんな古雨戸を背負ったような堅い蒲団にくるまって、此の寒国に愉快がって寝ねばならぬ者に成り果てた、故に貴様丈けは夫に仕たくないと思うから、どうか貴様は人間並に身の振り方を付けてくれ」
                   
 と云うたので、龍造寺は何と思うたか、暫く頭を下げて考えて居たが、こそこそと寝に就て仕舞うた、庵主も共にとろとろと眠ったかと思うと、窓打つ夜半の寒風と、霰(あられ)の音に夢覚めて、起きよと歌う鳥の声、朝餉の支度もそこそこに、其の宿を立ち出たが、龍造寺は善光寺まで送ると云うて、庵主に同行して呉れた、ああ持つべき物は兄弟か、丈なす雪の野中道、辿り辿りて其の晩に長岡に所用ありて1泊し、其の翌日は又直江津に1泊し、又高田の旧友の孤独に暮す老母を訪い、とうとう4日目に長野町の更科館と云う旅亭に辿り付いたのである、此の間龍造寺は庵主をして、生来始めて兄弟の親しみを感ぜしめて、今尚お夫(それ)が忘れ難いのである、道中荷物の宰領から、雨具草鞋の調度まで、一切龍造寺の世話・賄いに何の不自由もなく雪中の旅行を続けたが、此れより、是に待居たる西洋人1名と、友人1名と共に旅立ねばならぬのである、夫から幾多の艱難を嘗めて木曾街道を辿り、名古屋に到着したのは、9日の後であった、此の道中の奇話珍談は筆に尽されぬ面白味があったが、夫は後日の談片に譲るとして、庵主は此の長野に於て龍造寺と云い得られぬ哀愁の念を忍んで袂を別ったのである、或る伊国の情話に、2人の兄弟が雪の山中にて離別をする時、兄は10マイル程山奥の鉱山に、雇い主          の命に依て其の要書を届けねばならぬ、弟は8マイル先きの渓村に、弧棲する老母に糧を届けねばならぬので、両方共寸時も等閑にすべからざるの要務を持って居るから、別るべき事は双方共決心をして居た、然るに兄は弟の事を案じ、弟は兄の身の上を気遣い、或る繁れる大樹の下に火を焚いた、暫く沈黙して居たが、兄は意を決して弟に斯く云うた、
「弟よ、予は汝と共に母に顔を見せる事を無上の楽として居るから、遅くも明日の昼までには要務を仕舞うて是に来るから、汝は此の薪に暖を取り、此の餉(かれい)を食して是に待ち居らぬか」

 「兄上よ、母の糧は尚お半月を支うべし、予は予々(かねがね)兄上の往く鉱山を1度見たいと思うて居るから予が代って鉱山に往きたいから、兄上は此所に居て予の帰り来るを待ち玉わずや」
 
 「いや、予は予が雇主より予が命ぜられたる要書を他人に届けしむる事を好まぬ、是非共汝此所に待て居るべし」 と、

此の兄弟切情の話の中に、峠の方の道より下り来る1人の旅客があった、図らざりき夫が手紙を届く可き兄の鉱山の支配人ならんとは、故に兄は其の要書を親しく手渡して、兄弟共々にとうとう母の村に往って糧を渡し、又共々に顔を揃えて母に見せて、限りなき母の喜を得て、共に元の雇主の所に帰り来たのである、夫から後に段々と聞いて見ると、其の来りたる人は鉱山の支配人ではなかった、1羽の白鳥が飛来りて、其の兄の携えたる要書を其の支配人の家の窓際に置いて飛去らんとするので、不思議に思うて見て居る中に、忽ち夫が1つの老宣教師と化し「我は天使なり」と叫んで消失せて仕舞うたとの事である。

 素より1片の情話、取るに足らざれども、人種・教育を異にしたる伊国でさえ、兄弟相思の情は無言沈黙の間に、直ちに神に感応するのであると云う諷諺であると思う、庵主と龍造寺が長野駅頭の離別は伊国の兄弟と其の目的も境遇も異にしては居るが、只だ沈黙不言の中に心を浸した情合は、今尚お髣髴として忘却し難いのである。
 
 ● 50  了。
 





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。