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●『考証 ノモンハン事件』
●『考証 ノモンハン事件』
 
 ●はじめに(続)


1991年3月1日、『私説・あヽノモンハン 生きている「英霊」を想う・・』を自費出版し国立国会図書館はじめ、若干の公立図書館、県内各公立高校、大学図書館、主要なマスコミヘも寄贈した。最も早く反応したのは、北海道新聞であった。(後述)地元では朝日新聞甲府支局が、4月23日、「ノモンハン風化させぬ」「捕虜たちへ想い込め出版」と、〈街かど〉欄に詳しく紹介してくれた。数人の方が同著を所望してきたが反応はいまひとつだった。
 北海道新聞は、3月10日付「ほん」欄に「べ夕」記事ながら要領よく拙著の紹介記事を出してくれた。(もちろん知らなかったが)10日に、江差、小樽、札幌の人たちから電話があり、その後、郵便で拙著を欲しいと続々申込みがきたので、約20人の方に贈呈した。この14、5年の間に、この時の数人が他界されたがその後もふえて今現在、北海道だけでノモンハン参戦者3人を含め20数人の方と交友関係を保ち、いろんな情報を寄せて頂いている。

 タイミングよく、91年5月22、23両日、東京都千代田区グリーンパレスで「ノモンハンーハルハ河戦争国際学術シンポジウム」(実行委員会代表、一橋大学田中克彦教授)が開かれた。
実行委員の一人、朝日新聞社白井久也編集委員に誘われて両日、この集会に参加できたことは有益であった。この時の記録は『ノモンハン・ハルハ河戦争』として原書房から出ているので参照されたい。この集会で多くの学者、研究者、参戦者と出会えたこともたいへんプラスになった。

 第一弾の反響は殊のほか大きく続々と舞い込む書簡や資料を前に、これはこのまま埋らせるわけにはいかないと思い、第二弾『あれは何だったのか』を翌1992年4月上梓。94年9月に『あれから55年、ノモンハン事件って何だったのか』、95年11月『未完のノモンハン事件』、97年10月、最終号のつもりで『ノモンハンーそれは日本陸軍崩壊の序章であった』を何れも自費出版した。その何れも、全身全霊を傾注して制作したものであり、今もって愛着を覚える。

略10年の間に、傷痍軍人の『自分史』の制作ほか、自分史3件の手伝い、編集制作、時間をかけた郷土史関係の共著に手を貸したり、本になっていないが、木村久夫と五十嵐顕両学徒出身兵の戦争体験』(仮題)の執筆などでノモンハンに集中できなかった。

 しかし、次から次と新しい情報を入手でき、それまで疑問のままだったことが解明できたり、看過できない新事実をつかむことができたので99年秋、ノモンハン事件60周年を記念して『ノモンハンの真実』を上梓した。著名新聞社、出版社、府県立図書館へ寄贈した。『週刊金曜日』が紹介した以外、反応はゼロであった。

 それでも、数百人の読まれた方々から好意約書簡が寄せられ、00年4月、63人の方の所感集『昭和史の落丁、ノモンハンを考える』の小冊子を上梓した。この5年間にその中の草柳大蔵、石堂清倫(きよとも)、江口圭一、新井利男の諸氏ら10人が鬼籍に入ってしまわれた。
                           ¥,4r’,J ’
 ところで00年11月、米国エール大学、01年6月、カナダのブリティッシュ・コロムビア大学の両図書館から、出版貿易業者を通して『ノモンハンの真実』の注文があり、私はノモンハン関係の拙著の全部を、両図書館に寄贈、郵送した。両大学図書館から丁重な礼状が届いた。

 昨04年11月12日、99歳で永眠された反戦平和運動の支柱、元長崎大学長・具島兼三郎先生から頂いた御著『奔流』の扉に書いて下さった「良心を枉げて(まげて)安きにつく者は悔を千載に残す」のおことばは、身にしみてありがたく終生の教えと心に銘記している。

 ホロンバイルの荒野で無残な死を遂げられた将兵、不幸にも虜囚となり、故国に捨てられ他囚の人にならざるを得なかった大勢の人達に、『ノモンハンの真実』を基調に、改訂補強したこの一冊を捧げる次第である。


●ノモンハン事件戦没者遺骨収集団に参加して
          松井たかお(フリージャーナリスト・写真家)
★戦争の残酷さ痛感
 はるか地平線まで続く草洋、ゆったりと上空を舞うトビの鳴き声のほか聞こえるものは雑草の上を渡る風の音だけ。まさに静謐のノモンハン。ここで血で血を洗う戦闘があったとは信じがたい。
 今夏、ノモンハン事件から65年を経過して初めて行われた厚生労働省の遺骨収集に参加した。遺骨収集団は、厚労省職員はじめ私が所属するノモンハン事件遺族の会(東京)の島田嘉明代表=旭川市出身=ら総勢6人である。
1939年(昭和14年)5月、満州(現中国東北部)とモンゴル国境付近で起きた「ノモンハン事件」で戦死傷した旧日本軍の将兵は2万余人。戦死者は8千人といわれている。同年9月の停戦直後に4千3百86人分の遺体は回収されたが、残り約3千5百人分の戦死者が草むす屍として異境の地に放置されたままという。

 南方の戦地やシベリア等では遺骨収集が比較的順調に実施されてきたのに対し、ノモンハン事件では遺体を掘り返すことに現地の抵抗が強いなど風習の違いもありモンゴル側の合意が得られないなどの理由があった。
 しかし、遺族の要望を受け、2002年5月、衆議院厚生労働委員会で同事件の遺骨問題が取り上げられた。これを契機に同年7月、国は調査団を送り、遺骨がまだ残されていることを確認。モンゴル側の了解も得られ、収集団派遣となった。

★あばら骨に戦車弾

 7月28日から8月11日までの日程で現地を訪れた私たちが発掘したのは、バルシャガル高地。旧日本軍の野戦重砲兵第一連隊がいたところで、旧ソ連軍戦車の猛攻撃を受けている。以前の調査で、旧日本軍将兵の遺骨が地表に現れていたことから発掘地点に選ばれた。

発掘を始めて1時間後、深さ40~50センチの地中から白骨化した遺体が出た。皆骸骨に鉄かぶとを被り、軍靴を履いている。狙撃され絶叫し絶命したのだろうか、口は耳元まで大きく裂け鬼気迫る。今も悲痛な叫び声が聞こえてくるようだった。遺骨と一緒に出た中身の入ったクレオソートの瓶や朽ちたキャラメルの箱から、若い兵士の戦場での日常がしのばれ涙を禁じ得なかった。同時に戦争の残酷さを思い知らされ、すべての遺骨を収容し故国への帰還が完了するまでノモンハン事件は終わらないのだと痛感した。

 また、あばら骨に旧ソ連装戦車砲弾を抱えた遺骨があった。その遺骨の鉄かぶとから1時20分で止まったままの腕時計や万年筆、「岩崎」と姓が判読できる柘植(つげ)の印鑑などの遺品が出た。戦死後の所在を家族に知らせたいとの一念から貴重品をとっさに鉄かぶとの中にしまい込んだのだろう。極限状況でも夫・父として自覚を待ち続けたことに驚いた。

 首都ウランバートルから約9百キロ離れた国境地帯での遺骨収集のため移動に時間がかかり、さらに雨のため、正味4日間の作業。それでも発掘した約30メートル四方の区域の中で、収集した遺骨は16柱に及んだ。

 ★胸のつかえおりた

 帰国後、私は「岩崎」という印鑑を手がかりに遣骨の身元を割り出せないかと考えた。当時の野戦重砲兵第一連隊の戦死者名簿の持ち主を捜し当て、同連隊に「岩崎」姓は岩崎久次郎上等兵一人しかいないことが分かった。千葉県に息子の昭久さん(69)が健在で「長年の胸のつかえがおりた。早く墓に入れてやりたい」と話した。早期のDNA鑑定を切望する。

 同事件研究者の楠裕次さんを介して岩崎さんの元上官、石原正一郎さん(88)=東京在住=にも会うことができた。「岩崎上等兵のことはよく覚えている。通信兵だった。戦死は誠に無念というほかない。野戦重砲兵第一連隊は三島義一郎連隊長が重傷で交代し全弾撃ち尽くして隊は全滅。代理の梅田恭三中佐は責任をとり自決した。小隊長の私は奇跡的に命拾いし、仏壇に向かい戦友や部下たちを弔う日々です。あのようなバカな戦争は絶対に起こしてはならない」と語気を強めた。
  北海道新聞(2004年10月19日 夕刊・文化欄に掲載)

<補記> 2004年9月15日(水)
TBSTV・筑紫哲也NEWS23で「ノモンハン事件65年後の“再会”」の タイトルで放映された。
  <完>
 


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●『考証 ノモンハン事件』
『考証 ノモンハン事件』 の<区切り>の意味で、最後に著者・楠裕次氏の人となりがよく表れているとおもわれる一文を紹介しておきます。
 

 ***************

●はじめに

 北緯50度30分、東シベリアの山中の小さなラーゲルに転属したのは、1946年9月半ば極く短い秋の終わり頃だった。いよいよ厳しい冬が訪れる。毎日、木の葉の色が変わり、その葉が全部落ちるとすぐ雪が降ってくる。沢山は降らないが、降れば全部が根雪となるのだ。

 殺人的なシベリアの寒さを再び味わうかと思うと、不安と絶望とがいりまじり、うちのめされた思いがしたものである。この辺りは夜、狼の遠吠えが聞こえ、姿を見たという者も何人かいた。

 退院して間もなかった私は、重労働を免れ、数人の仲間と飯盒を手にして毎日、タイガ(密林)へ、ヤーガダ(黒ふどうを小さくしたような灌木になる実=ビタミンCの補給になった)を採集に出掛けていた。

 ある日の夕方、といってもとっぶりと日は暮れて夜になっていた。同室の作業隊員がバラックに戻り、ランプの暗い灯の下でストーブを囲んで話し始めた。

 ソ連のトラック運転手の中に、日本人がいるというのである。彼らの話をまとめると

「身なりはソ連人だが、どうみても顔立ちや表情から、日本人にまちがいない。朝鮮人や中国人ではない」

「あれはたしかに日本人だ。おれたちの話すのをじっと聞いていたが、あの目や顔つきは日本語の解る者にちがいない。普通のロスケではあんなことはない」

 「第六感ははずれない。たしかにあの男は日本人だ」と、いうのである。
 この話を聞いていた40歳近い男がすっと立ち上がって

 「ひょっとするとその男は、ノモンハン事件でソ連軍の捕虜になった兵隊かもしれない」と言った。
 みんなは「まさか・・・」と驚きの声を上げたが、彼は話を続けた。
 「みんなは知らないかもしれないが、ノモンハンでは日本軍は大敗を喫したのだ。軍の発表も新聞報道も、本当のことを隠していたのだ。俺は満鉄社員だったので、ある程度の情報を耳にしていた。実際は惨敗だった。一個兵団が全滅したと聞いた。相当数の日本車の将兵が友軍から孤立しソ連車の捕虜になったようだ。停戦協定が成立して捕虜交換があったが、日ソ同数ということだったので、物凄い数の日本兵が向こうに残ったらしい」
 
 殆どの者が初めて聞く話であり、急にしーんとなってしまった。
 「とにかく捕虜になった以上は、帰ってきてもまず軍法会議は免れない。降等はおろか軍の刑務所行きになる。一生、捕虜の汚名がつきまとい累が家族全体、一族郎党にまで及ふのは目に見えている。それで帰りたくても帰れずにそのままソ連に帰化し、ロスケの仲間入りした連中がかなりいたということだ。皆の話の日本人らしいソ連の運転手は多分そのうちの一人かもしれない」

 その場にいあわせた3、40名は大きなショックを受けた。「ふだん日本語をしゃべることがなくても、僅か5年6年で忘れるはずはない」「なぜ、『俺は日本人だ、ノモンハンで捕虜になってしまい、帰りたくても帰れなかったのだ・・・』と、俺たちにうちあけなかったのだろう。」
「その男に、あんたは日本人だろうと、声をかけたら悲しげな顔をし、返事もせずにトラックに戻り、どこかへ走り去っていった。あれはまちがいなく日本人だ・・・」と、ひとしきり話がつづいたその夜のことを、50余年経ったいまでも鮮明に覚えている。  


 「恥を知る者は強し、常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の悪名高い『戦陣訓』は、1941年1月、当時の陸軍大臣東條英機の名で示達されたもので、ノモンハン戦当時は存在しなかった。★ちなみに相当な有識者がこの事実をまちがえている著述に出合うことがある。

 日本軍将兵は、いついかなる場所、状況下にあっても頭にこびりついて離れなかったのは『軍人勅諭』にある文言である。

「只々一途二己力本分ノ忠節ヲ守リ 義ハ山獄ヨリモ重ク死ハ鴻毛ヨリモ軽シト覚悟セヨ 其操ヲ破リテ不覚ヲ取リ 汚名ヲ受クルナカレ」がそれである。



 ノモンハン戦の当時、どんな不利な状況下、たとえ絶体絶命の淵に立たされた時でも日本軍の将兵は一名たりとも手をあげて敵側に投降し、捕虜になった者はいなかったにちがいない。私は前にも書いたが、当時の兵隊は最精鋭の粒ぞろいではなかったかと思っている。多分、重傷で身動きできずにいたか、失神していたか、何れにせよ断末魔の死闘の渦中にあってやむなくソ連軍に収容されたものと思っている。

 1989年6月~10月にテレビ西日本制作の『あヽ鶴よーノモンハン50年目の証言』が放映された。若干物足りないものを感じたが、見終わったとたん、表現しようのない重苦しさ、それは肩から背中にかけて何者かに押えこまれているような、かつて一度も経験したことのない嫌な圧迫感を味わった。シベリアでの一件が蘇ってきて、なぜ、もっと早い時点で帰国できなかった

ノモンハン捕虜兵のことに目を向けようとしなかったか、当時、何かあったのか、その真相を見究める努力をしようとしなかったか、正に自責の念にかられてしばらくの間、悶々としていた。

 テレビ西日本の制作プロデューサー・徳丸望氏は、その反響の大きさに驚いて、『月刊民放』10月号に書いている。その一端に次のくだりがある。         

「・・・その真相が語られたことが少なく、50年が経ってしまった。仏事では50年忌を区切りに死者との縁切りが許される。
 ノモンハンで何が行われたか、その兵士たちがどのような運命に翻弄されたか、(中略)そのほんの一端を垣間見せたテレビに、多くの人々が強い関心を寄せても不思議ではなかった。いま知っておかないとこのまま何にも分からないまま、時は流れ去る。死者のためにも生者のためにも「知っておきたいこと」であった。時間ほど恐ろしいものはない。ノモンハン事件の取材は、その暗闘に向かって歩く取材であった。辿りついたところは空洞であった。番組はいまや幻となったノモンハンの捕虜たちの軌跡をぼんやりと示唆することで終わらざるを得なかった。その空洞があまりにも大きかったからである。そしてその暗闇の恐怖は、ノモンハン捕虜たちの運命を想像するだけで十分である」と結んでいる。

 復員後の40年間、私なりの社会活動もやり決して無為にすごしてきたつもりはないが、平和的家庭生活に安住してきたことは否めない事実であり、残留孤児や残留婦人の悲劇も、当時その現場を見聞していながら、彼らが帰国してきたニュースをみても何もしようとしなかった。自分自身の不甲斐なさに苛立ったり、慙愧の思いにさいなまれながら歳月が流れていった。前出『ああ鶴よー・・・』を見た後、徳丸氏の言う大きな空洞、暗闇が何を意味しているか、謎にみちたノモンハン事件を勉強してみようという気になった。
 

その頃までわが家の墓地のすぐ隣りに、ノモンハンの戦死者の墓があることすら見のがしていた。市内太田町にある時宗の名刹、稲久山一蓮寺(住職・河野叡祥)の墓地に眠るのは、陸軍砲兵伍長勲七等功七級・由井実、戒名は大考院実阿賞照建忠居士である。
墓誌に「昭和十四年六月満ソ国境事件勃発スルヤ三嶋部隊東隊二属シ東久邇宮盛厚王殿下御統帥ノ下二「ノモンハン」附近の戦闘ニ参加シ奮励努力常ニ赫々タル武勲ヲ樹テアリシガ七月二十五日ノ激戦ニ遂ニ壮烈ナル戦史を遂グ」 陸軍中佐・貫名人見誌と刻まれている。

 正直のところ、当初は墓誌を読んでもわからなかった。こんなことでは申し訳ない・・という思いにかられ、手当り次第、ノモンハン記を読み漁り、三嶋部隊とは野戦重砲兵第一聯隊(聯隊長、三嶋義一郎大佐28期)のこと、東隊とは第一中隊長・東久邇宮盛厚中尉の東をとったもの、貫名中佐は東久邇の専属武官だったこと、七月二十五日朝、敵弾が第一中隊砲列に命中、第二分隊長・由井伍長勤務上等兵(のちの兵長)戦死などがわかった。(以下略)
 この頃はまだノモンハン参戦者が元気でおられ、地元の3、4人の方に逢って話をきくこともできたし、ノモンハン関係の図書もかなり出版され、目星しい物は手当り次第購入できた。
  <続く>
 *************
 



●『ノモンハン隠された「戦争」』 エピローグ、あとがき。
                        チェルノブイリの祈り



 ●『ノモンハン隠された「戦争」』

  エピローグ より <続>。


「ノモンハン事件」には、辻政信という人物が登場する,関東軍暴走の端緒となった「満ソ国境紛争処理要綱」を起草したといわれる作戦参謀である。彼は「ノモンハン事件」の重要な局面や岐路にいつも顔を出し、日本軍を破滅の方向に導いていった男である。しかし、こうした人物を、私たちは戦後の国会議員選挙で衆議院議員に選んでいるのである。数の論理で懸案の法案を次々と強行成立させてゆく国会議員をいまだに選び続けているのである。

 権力は、そのときの私たちの姿鏡だと言ってもよい。誰か適当な人物を血祭りにあげて権力への責任追及が終わったと浮かれている場合ではない。自分たちが彼らの犠牲者なのだと言って逃げることはできない、本当の権力の責任を追及するべきであるし、同時にまた、その顔が自分自身の顔なのだという自覚を持つべきだと思う。

 従来の戦争記録は、アジア太平洋戦争においても「ノモンハン事件」においても、この点、重心のぶれを感じるものが少なくなかった。格好の人物として東條英機や辻政信といった標的を置き、彼らによって騙されていたかのような結論で事態を収束できるほど、これは簡単な問題ではない。
そこには、傷つけ、殺した膨大な数の「他者」が存在するからである。

今回の取材で力を入れようと思ったのは、アジア太平洋戦争におけるのと同様に、「ノモンハン事件」においても見られる「他者」への視点の欠落をいかにして補い、取戻すかということだった。具体的には、戦場となったモンゴルヘの視点であるが、その取材も不十分なまま終わり、ことに「満州国」の被抑圧者=「他者」への視点を全くといっていいほど提示できなかったことが、まことに悔やまれる。
 引き続き、この問題についての関心のアンテナだけは高く保っておきたいと思う。

 「ノモンハン事件」の取材を終えてから、私は次に担当する「NHKスペシャル」の取材のため、旧ソビエト連邦ベラルーシ共和国に滞在することが多くなった。

 「ノモンハン事件」に登場するジューコフが副司令官を務めていた地城であり、ドイツとの「大祖国戦争(第二次世界大戦)」においては首都・モスクワヘのドイツ軍の侵攻を防ぐ砦となった場所である。凄まじい大量殺戮の舞台となり、4人に1人の住民が虐殺されたという。

 また、チェルノブイリ原発事故では、ほぼ同じ割合の人々が放射能汚染を被った。爆発時の風向きの影響もあり、もっとも深刻な被害を受けたのは、チェルノブイリ原発があったウクライナではなく、このベラルーシだった。

 ベラルーシには、ソビエト連邦時代の傷跡がまだ癒えぬまま置き去りにされている。

ここに、「国家」の歴史には登場しない「小さき人々」の声にもっぱら耳を傾けてきた記録文学作家が住んでいる。
  
 ★スベトラーナ・アレクシエービッチ。

 彼女は、ふるさとベラルーシを拠点に、旧ソビエト連邦の負の歴史を背負い続ける人々の姿を克明に記録してきた。登場するのは、ドイツとの「大祖国戦争(第二次世界大戦)」に女性兵士として参戦し女性性を奪われていった人々、その戦場で親や兄弟が殺されるのを目のあたりにしたことによってトラウマをひきずる子供たち、アフガン戦争に駆り出され「アフガン・シンドローム」に罹った青年兵士たちと家族、ソビエト連邦崩壊に絶望して自殺していった人々、チェルノブイリ原発事故で肉体と精神を破壊された人々など。いずれも暗く重いテーマであるが「国家」が隠蔽しようとするこうした「暗さ」、暗黒面を、彼女は「小さき人々」ヘのインタビュー・モノローグの手法を使って真正面からとり上げてゆく。 洋の東西を問わず、こうした営為には権力からの圧力がかけられるようで、彼女のこうした一連のインタビュー記録集は「国家の威信を損ない、国家を愛する心を傷つけ」るものとして発禁処分にされたり、不当な裁判にかけられたりしてきた。
 20年間、「小さき人々」へのインタビューを続けてきた彼女によれば、最近、人々の語り口に変化が表れているという。

前は自分の人生を語るとき、ほとんどの人が「我々は」「私たちは」という1人称を使っていたのに対し、最近では「私は」「僕は」という個人が前面に立つ自立した1人称を使い始めているというのである。

 彼女とともに訪ねたサンクトペテルブルグの母親たちは、まさにそういうロシアの変化を代弁しているかのような人々であった。
 彼女たちは「兵士の母の会」の活動を続けている。
 「国家」が命令するチェチェン戦争への参戦を若者たちに拒否させ、兵士を一人も戦場に送らないことを目標にかかげている団体だ。そのやり方も戦略的で、若者の肉体もしくは精神に何らかの病気を見出し、その病気を盾に軍隊不適格の「称号」を「国家」からいただき、徴兵を拒否させるのである。
 
私はその会で幾度もの取材を重ね、日本とは比べものにならないぼどの迫害と恐怖を感じながら、子供たちを決して殺人者にしない、という固い信念を貫き通している姿に打たれた。
 予定の取材期間が終了し、別れを告げようとしたとき、この会のリーダー的な役割を果たしているひとりの母親が近づいてきてこう言った。                       ・.
 「日本の憲法は大丈夫ですか?」
私は、その言葉がすぐさま、日本国憲法弟九条を示していることがわかった。彼女たちは、日本にこの憲法があることを知っているのだ。
 「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という条文は、極めて明確にいっさいの戦争を否定している。これこそが、彼女たちが今、歯を食いしばって到達しようとしている理想の条文なのだ。私は、質問に答えるのに躊躇した。日本では今、この条文を含めて(否、この条文を狙い撃ちにして)憲法を改正しようとする勢力が急速に力を伸ばし始めている。何と返答していいものか。
 「日本は、第二次世界大戦が終わってから一度も戦争をしたことかありません、この半世紀以上、戦争によって殺されたり、殺したりした人は皆無です」
 私は、ひとまずそう言って、
 「この憲法があったからだと僕は思っています。僕がもし、自分の国を誇りとし、自分の国の愛するところはどこかと問われれば、唯一この憲法を持っていることだと言えます」
 と、答えにならない返答をしてみた。すると彼女は、では大丈夫ですね、安心しました、と胸の上に両手のてのひらを重ね、さらに私に質問してきた。
 「でも、もし攻撃されたらどうするのですか? それでも戦いを放棄するのですか?」
 いつもくりかえされる問いである。彼女達の間でも、日本の学ぶべき憲法について議論になると必ずこの質問が誰かから飛び出すのだという。
 私はこの質問にも準備がない。何を言おうが、それは理想論で、生ぬるい平和ボケした現実を見ない者の台詞だと言われるのがオチだからである。 しかし、ものに試しだと思い、私は憲法前文を紹介した。そこには、武器をとらないことの根拠が示されているからである。

 ●日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した
 
戦争が絶え間なく続いているロシアという国に住むその女性は、本当にそのようなことが書かれているのですか、と大きく目を開き、
 「その言葉は日本の国民だけの言葉ではありません。日本の憲法は世界の人々の宝です。その憲法は世界の人のものです」
 と言った。

それは、私が「ノモンハン事件」の取材を通して達した考えと、まったく同じ言葉だった。

 『ノモンハン隠された「戦争」』 エピローグ 完。

 ********************

●あとがき
 
 本書は、特集番組『ドキュメント・ノモンハン事件~60年目の真実~』(1999年8月17日放送・NHK総合)における収集資料・証言記録をもとにした取材記である。

 放送終了後、私の手もとには500人を超える方々から、手紙や様々な反響が届けられた。その量の多さもさることながら、私が驚いたのは「あの映像フィルムに写っていたのは私の父の遺品です」とか「番組によって上官がわかり60年ぶりに会いました」などといった生々しい遺族・元兵士からの声だった。「ノモンハン事件」フィルムとされてきた映像の中に、明らかに別の戦争の映像が混入していることをご教示くださった方もいた。神戸の松本昇氏は、、叔父の戦争体験を何度も調査して送ってくださり、とうとうご自身でもハルハ河に行かれたという。そのほか捕虜関係文書に対する問い合わせも多く、少しでも参考になればと思い、巻末に資料として掲載することにした。
 放送直後から取材記執筆を依頼されていたのだが、番組制作の多忙を理由に先延ばしを繰り返し、はては世紀まで越えてしまい、追い詰められての書下ろしとなった、わずか1カ月余りの間に書いたものであるため、誤りがある部分も多々あろうかと思う。ご寛恕をいただくともに、加筆修正のために是非ともご指摘願いたい。

 執筆に当たって99年4月25日から8月10日までに書かれた「取材ノート」をひもとくと、制作過程で出会った多くの方々の顔が浮かんでくる。貴重な文献や資料を快く提供してくださった人、長時間のインタビューに丁寧に語ってくださった人。加えて番組を一本作る陰には、身を削って関わった何十人というスタッフがいる。彼らを支えたご家族も忘れてはならない,これらの人々の力なくしては、番組も本書も作り上げることは全くできなかった。文中にも様々な方々が登場するが、ここに、さらにほんの一部をご紹介して感謝の気持ちとさせていただきたいと思う。(敬称を略させていただきます)
 ロシア外務省、モンゴル外務省、アレキサンドル・ベリコフ、ワレリー・ワルタノフ、サブリナ・エレオノーラ、ムンフーザヤ、バートルツォクト、ナサンジャルガル、ウルチバートル、フフバートル、ゴンボスレン、ダワードルジ、ノモンハン会、芝不東、向井利光、粟生田修彦、竹原敦子、田中克彦、三木秀雄、馬場公彦、下河邊宏光、浜中博久、吉田真理雄、桑原昌之、川端義則、佐々木隆夫、神山勉、大谷純子、鎌倉由里子、怠け者の私を辛抱強く待ち続けてくれたNHK出版の吉岡太郎。そして、最大の感謝を今、ここに記せなかったすべての方々にー。
ほんとうにありがとうございました。    鎌倉英也 

 ****************

 



●『ノモンハン隠された「戦争」』 ・エピローグ
 ●『ノモンハン隠された「戦争」』

  エピローグ より 。


 ・・・「ノモンハン事件」は、太平洋戦争の序曲でもあったのです。

 これは、2年前に私が記した番組冒頭のナレーションである.
 1999年は、日本でさまざまなことが起った。番組の取材を始めた4月末から、8月中旬に放送されるまでのわずかな期間に限定しても、国会議事堂の中では小渕内閣のもと「ガイドライン関連法」「国旗国歌法」「通信傍受法」「住民基本台帳法」という懸案の法案が次々と成立していった。

 私は、ロシア、モンゴルを旅しながら、以上の法案が立て続けに通ったという国際ニュースに接し、いま、日本では一体何が起こっているのかと考え続けた。

これらの法案がいずれも私たちの生活を「開放」する性質のものではなく、「管理」する性格を内包しているであろうことが、私にとっては深刻な問題に思えた。

 それと同時にこの期間、1930年代の「事件」を追って取材の旅を続けていた私は、その年代における「国家的」動静とそこに底流する「国民的」情念のようなものに触れる機会が多かったため、それらを現実に暮らす1999年と比較してみることが多かった。その結果、私には二つの時代が極めて似通った国際的・国内的ストレスを抱えているように思えた。

 言うまでもなく、1930年代とは、日本が敗戦の破滅に向かって突き進む準備段階の期間で、あった。

それは1929年10月のニューヨーク株式市場株式市場大暴落が連鎖的に引き起こした世界恐慌によって幕を開け、31年の満州事変、32年の満州国建国、35年の天皇機関説問題、36年の二・二六事件と日独防共協定、37年の日中戦争勃発、38年の国家総動員法公布という、相互に因果関係をもって連続した事件・立法が重ねられた季節であった。その週末的局面が39年の「ノモンハン事件」だったと言えるだろう,

 この「ノモンハン事件」によって準備された新たな種子が、翌40年の大政翼賛会政治で十分な水を吸収したあと、41年「アジア太平洋戦争」開戦となって発芽、その戦城の広がりとともにアジア中の地中に根をはびこらせて行く。

 国際情勢も国内情勢も経済も異なり、単純にこの図式を現在に当てはめるつもりはないがある種、通底するものを感じ、戦慄を覚えるのは私の「臆病さ」ゆえのことだけだろうか。
 
1990年代は、91年の株価・地価暴落に始まる「バブル崩壊」を出発点とし、出口のない経済不況の中で、抑鬱したエネルギーが充満、ときに暴発する事件が相次いだ。このような社会的不安は誰しもが認めざるを得ない時代事実であろう。その10年の締めくくりの年に、いままでいくつかのストッパーがかかっていた法案の留め金が外れ、堰を切ったように成立していったことは、極めて象徴的なできごとのように思えるのである。

 警戒しなければならないのは、こうした社会的不満・ストレスを「国家」的「公」優先の論理でからめとり、各々が自律的に持つべき「公」的主体を「国家」に一極集中してゆこうとする権力側の心理誘導操作である。化け物のように巨大化した怨念や鬱屈は、やがてその餌食を物色し始めるだろう。その駒に使われるのは必ず市井の名もなき人々である。

 「国旗・国歌」は公的に決めたというだけのものであるから強制はしない、という。しかし、教員人事問題をからませた圧力をもって、全国の小中学校に式典での掲揚・唱和を強制する力が働く。児童・生徒が主体的にそれを拒んだところには「国を愛する心」がないとして、誹膀されるような事態も起こっている。私は、そのことを知るたびに、1938年の「ノモンハン事件」勃発前年、大陸侵略を続ける「国家」に抵抗したために「売国奴」呼ばわりされた一人の女性の声を聞くのである。 


 「お望みならば、私を売国奴と呼んでくださってもけっこうです。
決して恐れません。
他国を侵略するばかりか、罪のない難民の上にこの世の地獄を平然と作り出している人たちと同じ国民に属していることの方を、私は大きい恥としています。
ほんとうの愛国心は人類の進歩と対立するものでは決してありません。そうでなければ排外主義です。しかし、何と多くの排外主義者がこの戦争によって日本に生まれたことでしょうか」
 
 
 反戦運動家・長谷川テルのこの叫びこそ、雪崩をうって狂気の道へ転がり落ちていった「国家」が聞くべき声であったと思う。

 ナレーション原稿には、その危惧を、「ノモンハン事件は、太平洋戦争の序曲であった」という歴史的事実から、私なりに表したつもりだった。

 2001年3月現在、再び「教科書検定問題」が浮上している。
 暗い側面にばかり光を当てた「自虐史観」を排し「明るく国を愛する心が育つような教科書を」推進する勢力が出そうとする教科書が、アジアの国々から批判の的となっている。

 今こそ、長谷川テルの言葉に耳を傾けるべきときが来ているように思う。彼女の声を抹殺し、突き進んだ戦争の残したものの決算はいまだなされていない。「戦争責任」を果たしてこなかったことは「戦後責任」として引き継がねばならない状況にある。
 「ノモンハン事件」の取材時も、現在も、慎重であることを心がけたのは、軍部の暴走、多数与党連合の横暴について、その一番の責任を問われるべきは、私たち一人一人なのだということであった。
 
 権力の責任を追及することは当然の私たちの責任である。それに加えて、いや、それより前に、そういう人々に権力を与えてしまった主権者としての私たちの責任が問われなければならないということである。              
  <続く>
 



●『ノモンハン隠された「戦争」』
 第一章 断筆 司馬遼太郎のノモンハン

日本の秘密というのは、日本の弱点を秘密にしているだけのことですね。
ばかばかしくて、こんなものを書いていると精神衛生上悪いと思って書きませんでした。
                                司馬遼太郎(「司馬遼太郎講演録」より)

未知の取材への航海は、いつもふとした、計算づくではない、きっかけから始まるものだ。はじめは誰ともわからぬ同乗者の顔が、日を追うごとに鮮明になってゆく。カメラの三脚を立てる場所のポイントが次第に絞り込まれてゆく。たどり着くべき目的の港は、そうして幾度かの軌道修正を経たのちに決まってゆく。

 「ノモンハン事件」という、それまで何の知識もなく、それゆえに何の興味も見出せなかった航海に乗り出したときも、あらかじめ準備された海図や羅針盤があったわけではない。
 1996年春。私は、東大阪市にある作家・司馬遼太郎の書斎にいた。
 新聞をはじめとするマスコミが、その死去を悼む特集で埋め尽くされていた頃である。NHKでも業績を紹介する特集番組を編成することになり、たまたま一仕事終わったばかりで当面担当する番組がなかった私に、業務命令としてお鉢がまわってきたような按配だった。

書斎の主人は2月に急逝したばかりで、愛用の机や書棚には、執筆に向けて取村中の資料や書きかけの原稿がそのままのせられている。かつて、産経新聞の記者だった故人は、作品を作り上げるために膨大な資料を蒐集し、一方でまた、現地取材の過程を逐一、取材ノートに書き遺していた。ライフワークとなった「街道をゆく」の取材ノートをはじめ、数々の小説のための取材準備ノートなど、その数は優に百冊を超えていた。それらは、この作家が、それぞれの作品にどのような動機をもって入り、何をメーセージしたかったかを探る上では貴重な資料になると思われた。

 私は書庫に入り込み、引き出しを物色して資料漁りに没頭していた。
 「これは必要ある? まあいいでしょうね、これは。結局、書くのをやめちゃったからね」
 ふりかえると、司馬遼太郎のかたわらで蒐集資料整理を長年担当してきた伊藤久美子さんが、本棚の隅に埋もれた段ボール箱に視線をおとしている。
 「なんですか? それは」
 「『ノモンハン事件』 っていうのがあったでしょ。あれを書きたかったんですって。それでずいぶん資料も集めたし、聞き取り調査もしたんだけど全部ここに押し込んであるのよ。もう書かないから目に見えないところにしまっといてくれって言われてね。そのくせ、何でもとっておくと手狭になっちゃうでしょう。私が『あれはもう処分してもいいですか?』 って聞くと、決まって『捨てちゃ困るんだ。とっといてくれ』って言ってね。それが、この段ボール箱なんだけど・・・」

「ノモンハン事件」? それっていったい何だったっけ。
 戸惑いが先に立った。
 それは、15年以上も前の、受験勉強の記憶の片隅から突然ほじくり返された歴史用語のひとつに過ぎなかった。一夜漬けで叩き込んだはずの知識は、当然のことながら曖昧で、その事件がいつ、どこで、どのように起こったのか、思い起こすことさえできなかった。

 早速、遺族である妻・福田みどりさんに許しをいただいて段ボール箱を開封した。
 とりあえず、今回の取材の目的である『司馬遼太郎の遺産』という番組の材料のひとつにでもなれば、という気持ちからだった。ところが、出てきた取材の痕跡を前にして、私はそれが単なる番組構成上の挿話の領域をはるかに超えるものであると感じざるを得なくなった。

 そこには、この「事件」についてまとめられた様々な資料書籍、関連記事のスクラップとともに、地誌や戦闘状況について調べた取材準備ノート、大量の元軍人らへのインタビュー速記録が眠っていたのである。

 今にして思えば、1973年から(つまり四半世紀も前から)彼が訪ね歩き、集中的に聞き取り調査を行った証言者は、「ノモンハン事件」当時の参謀本部作戦課長・稲田正純や、捨て身の肉弾戦を指揮した歩兵第26連隊長・須見新一郎などを含んでおり、作戦計画や戦闘状況を知る上で大変重要な資料だった。しかし、残念なことに、当時はその鉱脈の当たりに気付くだけの知識を、こちらが持ち合わせていなかった。むしろこの時、興味をそそられたのは、司馬遼太郎の断筆の理由だった。

 なぜ、彼は「ノモンハン事件」を書こうと思ったのか。
 どうしてここまで調べ上げた資料を埋もれるままにしていたのだろうか。
 そして、なぜ「ノモンハン事件」は終に書かれなかったのか。
 
1939年5月、満州西北部満蒙国境で起った国境紛争事件。日本軍はソ連戦車軍と機械化部隊のため死傷2万の潰滅的打撃で、9月停戦協定。    (日本史用語集』山川出版社)

 高校時代に使っていた古ぼけた歴史用語集を引っぱり出してみると「ノモンハン事件」とはそういう事件である。
 1939年といえば、日本がアジア太平洋戦争に突入する2年前のことだ。・・・中略・・・

・・私は、早速みどりさんにインタビューを申し込んだ。・・・
「取材から帰ってくるでしょう。『面白かった?』って聞くのね。すると、『ふん』とか言うだけでね。あとから日をおいて『つまらなかった』とか『あんなやつ』とか、いろいろ言ってましたよ」(みどりさん)

 ・・・
 「出版社の方なんかに書くってお約束もしていたんですけれど、だんだんもういつ書くかわからないってことになってしまって・・・。それで、今でもはっきり覚えていますけれど、編集の方が『ノモンハンよろしくお願いします』って言ったときに、こう言ったんです。『ノモンハン書いたら、俺、死んじゃうよ』。皆、ハッとして黙ってしまいました」


  <続く>
 





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