カウンター 読書日記 原爆・戦争
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●“核”を求めた日本 ~被爆国の知られざる真実
                  核を求めた日本_1




 ●NHKスペシャル スクープドキュメント 
 “核”を求めた日本 ~被爆国の知られざる真実~
を見た。 

 2010年10月3日(日) 午後9時00分~9時49分 総合テレビ
 スクープドキュメント  “核”を求めた日本 ~被爆国の知られざる真実~
 ⇒クリック 

 「非核三原則を貫く」日本政府が対米従属からの脱却を視野に、核兵器保有の是非を検討していたこと、そして最終的には検討の結果「核保有」を断念したということに少し驚いた。「少し」というのは、戦後の安保条約の成立過程における日米外交史を検証すれば、そんなには驚かなかったということでもある。

 しかし、私が驚いたと言うか、信じられなかったのが、この<自主防衛⇒対米自立>「運動」に「あの」岡崎久彦氏(当時の外務省幹部、元駐仏大使)が加わっていたということだ。

 先日、「さわり」だけを紹介した孫崎享・『日本人のための戦略思考入門』にも〔日米一体派〕として次のように記されている。

 要約(p219~)
 
 「・・・ ★日米一体派の論理とは
 日本が独自の道を模索する是非を考える時、日米一体派がいかなる論拠を持っているかを見る必要がある。一体派の論点を整理してみると、大きく三つに分類できる。」として、そのうちのひとつ、「(1)〔強いものにつくのが日本の生きる道〕論(西側リーダーへの追随説)」の一人として福田恒存氏の次に紹介される。

 「・・・岡崎久彦(元駐仏大使) 『七つの海を支配しているアングロ・アメリカン世界との協調、明治開国以来これ以外に絶対ない』(『日米同盟の命運を徹底検証する』・中央公論2009年7月号)・・・」。
 註:この中央公論の記事は孫崎氏との対談だという。

 一体、岡崎久彦氏は、「転向」者なのか、一貫した<「隠れ」自主独立派⇒独立派>なのか? 

 そうであるなら、その目的は何なのか?

 
 

スポンサーサイト

●原爆投下(16)
 鬼塚英昭著『原爆の秘密 国外編』、『原爆の秘密 国内編』を紹介してきたが、
 『国外編』のほうは中途で『国内編』へ進んだので、
 最後にその目次と引用文献リストを紹介しておきます。
   


●原爆の秘密「国外篇】目次

私はどうして「原爆の秘密」を知りえたのか[序として]

第一章 アインシュタイン書簡と「原爆カネ儲け協定(カルテル)」
「アインシュタイン書簡」という伝説
ウラン鉱石を支配したロスチャイルド
ヒトラーはなぜ原爆開発を中止したのか
かくて狂気の舞台はイギリスからアメリカヘと移った

第二章 誰が何のために原爆をつくったのか
 偽装機関「管用合金管理委員会」の実像
チャーチルとルーズヴェルト、その素性と素顔
ナチス・ドイツ帝国を育てた巨大カルテル
ウラン鉱石はニューヨークにあった
「国際巨大資本」ロスチャイルド=モルガン=デュポンの暗躍

第三章 モルガンとデュポンが支配した「マンハッタン計画」
新しくて巨大な軍需産業の誕生
ロックフェラー=メロン対モルガン=デュポンの抗争
コロンブスの航海以上の冒険
プルトニウム爆弾への「1ドル」という報酬

第四章 地獄の魔王が姿を見せたアラモゴード
原爆の最高指導者スティムソン陸軍長官
原子爆弾は8個製造されていた
ハンフォード施設とプルトニウム生産プラン
原爆の父の子は「リトルボーイ」と「ファットマン」
 恐ろしくて不吉な沙漠の閃光

第五章 原爆投下のための周到工作
原爆投下はイギリスとアメリカの協定書により実行された
「私は大統領を辞めたい」ルーズヴェルトの怪死と原爆
トルーマン新大統領はスティムソンの操り人形だった
かくて完成した原爆投下のシナリオ

第六章 「無条件降伏せよ」という奸計
「無条件降伏」の由来を探る
無条件降伏はトルーマンに受け継がれた
「モルガンが送り込んだエージェント」駐日大使グルーの正体
プリンシプルのない男・白洲次郎の物語

第七章 ポツダム宣言の演出者たち
新国務長官・バーンズの手練手管
ポツダム会談はなぜ、延びに延びたのかスティムソンと昭和天皇の見えざる対決
「黙殺」発言を誘導した手先たち
「それでも原爆は日本に投下する」

 **************

●引用文献一覧「登場順」

レスリー・R・グローブス『原爆はこうしてつくられた』冨永謙吾十実松譲訳/恒文社 1964年
デニス・ブライン『アインシュタイン』鈴木主税訳/三田出版会 1999年
ジョン・ガンサー『回想のローズベルト』清水俊二訳/六興出版 1950年
藤永茂『「闇の奥]の奥』三交社 2006年
アルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』広瀬隆訳・解説/小学館 1994年
ユースタス・マリンズ『世界権力構造の秘密』天童竺丸訳/成甲書房 2007年(*1997年 日本文芸社)
ジェームス・S・アレン『原爆帝国主義』経済研究所訳/大月書店 1953年
ウォルター・ランガー『ヒトラーの心』未邦訳/ニューヨーク 1972年
トマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』鈴木主税訳/福武書店 1994年
戦史研究会編『原爆の落ちた日』文芸春秋 1972年
W・H・マクニール『大国の陰謀』実松譲十冨永謙吾訳/図書出版社 1982年
ジョン・ワイツ『ヒトラーの外交官』久保田誠一訳ノサイマル出版会 
1995年
ピーター・プリングル十ジェームズ・スピーゲルマン『核の栄光と挫折』浦田誠親訳/時事通信社 1982年
金子敦郎『世界を不幸にする原爆カード』明石書店 2007年
歌田明弘『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた』平凡社 2005年
ロバート・E・シャーロット『ルーズヴェルトとホプキンス』 1948年(『現代史大系6』所収 村上光彦訳/みすず書房 1957年)
W・L・ローレンス『Oの暁』崎川範行訳/創元社 1950年
藤永茂『ロバート・オッペンハイマー』朝日新聞社 1996年
産経新聞取材班『ルーズブェルト秘録』産経新聞社 2000年
岡田良之助十立花誠逸十出極晃編『資料マンハッタン計画』岡田良之助訳/大月書店 1993年
寺崎英政十マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文芸春秋 1991年
小林孝雄『極秘プロジェクトICHIBAN』日本放送協会 1948年
ピーター・グッドチャイルド『ヒロシマを壊滅させた男オッペンハイマー』池澤夏樹訳/白水社 1982年
リチャード・ローズ『原子爆弾の誕生』神沼二真十渋谷泰一訳/紀伊国屋書店 1995年
カイ・バード十マーティン・シャーウィン『オッペンハイマー』河遵俊彦訳/PHP研究所 2007年
春名幹男「ヒバクシャ・イン・USA」岩波新書 1985年
山崎正勝十日野川静枝編著『増補 原爆はこうして開発された』青木書店1990年
J・ウィルソン『原爆をつくった料学者たち』中村誠太郎十奥地幹雄訳/岩波書店 1990年
リチャード・ローズ『原爆から水爆へ』小沢千重子十神沼二真訳/紀伊国屋書店 2001年
ジェームズ・バーンズ『ローズベルトと第二次大戦』井上勇十伊藤拓一訳/時事通信社 1972二年
広瀬隆『赤い楯』集英社文庫 1996年
A・マキジャニ十J・ケリー『原爆投下のシナリオ』関元訳/教育社 1985年
ロナルド・タカギ『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』山岡洋一訳/草思社 1995年
アントニー・C・サットン『アメリカズ・シークレット・エスタブリッシュメント』末邦訳 ニューヨーク 1983年
足立壽美『カウントゼロ 原爆投下前夜』現代企画室 1990年
力―・アルベロビッツ『原爆投下決断の内幕』鈴木俊彦十岩本正恵十米山裕子訳/ほるぶ出版 1995年
加藤哲郎『象徴天皇制の起源』平凡社新書 2005年
エリス・ザカリアス『密使』土居通夫訳/改造社 1951年
白洲次郎『プリンシプルのない日本』新潮文庫 2006年
白洲正子『遊鬼 わが師わが友』新潮社 1989年
青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社 1997年
白洲次郎十白洲正子十青柳恵介十牧山桂子ほか『白洲次郎の流儀』新潮社2004年
有馬頼寧『有馬頼寧日記(五)昭和十七年~昭和二十年』山川出版社 2003年
柴田哲孝『下山事件 最後の証言』祥伝社 2005年
徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』新潮社 2007年
外務省編『終戦史録』北洋社 1978年
仲晃『黙殺『ポツダム宣言の真実と日本の運命』NHKブックス 2000年
迫水久常『機関銃下の首相官邸』恒文社 1954年
西島有厚『原爆はなぜ投下されたか』青木書店 1995年
P・M・ブラケット『恐怖、戦争、爆弾』田中愼次郎訳/法政大学出版局1951年
大井篤十冨永謙吾訳編『証言記録 太平洋戦争史』日本出版協同 1954年

  <了>

 


●原爆投下(15)
 ●第6章 天皇と神と原爆と

 ★原爆で死んだ人々を見つめて  


 私は前項で、昭和期最高の聖者といわれる賀川豊彦が『天よりの大いなる声』の中で広島の8月6日を「地面は美しく掻き清められたようになり、死骸はなにも残ってはいなかった。物質はすべて蒸発してしまったのだ。気化したのだ。いや、光化したと言った方が美しいだろう」と書いているのを紹介した。
 『原爆の秘密』「国外篇」「国内篇」と書き続けてきた私のこの本は、この項をもって終わりとなる。
 私は8月6日の広島と8月9日の長崎の惨禍の姿を描かずにきた。それは、書くに忍びなかったからである。しかし、ここに、2つだけ、惨禍の様子を伝えたい。私は8月6日の広島についてたくさんの記録を読み続けてきた。その中で、心に残るものの中から一つの物語を記すことにする。

 財団法人広島県警友会編集発行『原爆回顧録』の中に収録されている、平川義明(当時18歳、練習所巡査)が語る1場面である。

 ・・・
 「お願いします」
 と岩壁の端に座っていた1人の老婆が私にひよわい(ママ)声をかけてきた。半裸になっている老婆の背中は、まっ赤な生身をむき出しにして、皮膚がぼろぎれのように腰のあたりまで垂れ下がっていた。
 「お兄さん、助けると思うて、私の背中に小便をして下さらんか。火傷には小便が1番いいのじゃそうです・・」
 虫のような小さな声だった。〔中略〕
 それだけがその日の良心であった。私はうなずいて老婆の後に回り、赤い背中に向かってやうやくかまえた。老婆はやっと動かせる両手を胸のあたりに組んで、不器用に合掌した。そしてしきりに念仏を唱えていた。私は、かまえただけで身体がよろめいて、どうしても果たせないのであった。
 「おばあさん、駄目です。御免」
 しばらくして私は断わった。
 「いいえ、ありがとうございます」
 老婆は急に涙声になり、
 「あなただけでした。私の声に耳をかしてくださったのは」
 と、感謝のこもった声でかなりはっきりと答えた。
 老婆は、私に背を向けたまま合掌して深く頭を垂れると、次の瞬間、私の股間に向かって上向きに倒れてきた。老婆の頭に押され、私はそのまま一緒に後ろへ倒れた。老婆は、それっきり息をひきとった。ひきつった目だけが空を見つめていた。・・・

 私はこの『原爆の秘密』を書こうと思ったとき、まず原爆被害者に多数会おうと決心していた。しかし、数多くの文献を読み漁っているうちに考えが変わってしまった。私が想像していた以上に、原爆投下までの謎の深さに私は戦慄感を憶え、原爆関係の文献の中に身も心も埋まってしまった。その間、私は会いたいと思う人物(死んでいるか、生きているかは別にして)のリストを作成していた。何人かの人に手紙を出してはみた。しかし、彼らは生きていても80歳を超えていた。返事はこなかった。(返事をよこした)福島菊次郎は例外中の例外であった。

 私の住む温泉町別府市には、広島原爆に遭った人々のための保養センターがある。また、長崎、広島で原爆に遭った人々も、何人かは別府に住んでいる。私は考えを変えた。それはいつであるかは分からない。偶然に賭けてみようと思ったのである。予備知識もなく、ある1人の原爆被爆者に会ってみたい、そしてその人の人生を知り、私の本がどのように変化するのかを試してみたいと思うようになったのである。
 広島に住む山岡健志さんは、私の過去の本を読んでくれている。私は手紙を差しあげ、自分の要件を書いた。返事が来て、広島に行った日は2007年10月18日であった。彼は私を東広島にある、長城飯店という中華料理店に連れて行った。そこで私は、掛井千幸さん(当時78歳)にお目にかかった。
 掛井千幸さんは2冊の本を持参していた。彼女たちは1949年に「広島市女原爆遺族会」を結成した。そして「流燈」という名の同窓会誌を発行している。1977年に出た第3編と1979年に出た第4編を彼女は私に見せてくれた。彼女の同意を得て、私は別府に持ち帰り、この2編をコピーした。

 この同窓会誌の中の「第二総軍司令部の入隊」(第3編)からその前半部分を、「両親の三十三回忌に想う」(第4編)から後半部分を引用する。重複する部分を避けたためである。また、第4編には、第二総軍司令部のことが書かれていず、8月6日とそれ以降のことが第3編より詳しく書かれているためである。両編をあわせて読むことにより、掛井千幸さんと原爆との関係が鮮明に甦ってくる。

 ・・・
 第二総軍司令部の入隊 24回生 掛井千幸

 命を捧げるつもりで第二総軍司令部の募集試験を受けたのは20年7月、日本製鋼蟹屋工場の1室であった。幸いにも合格し、いよいよ8月1日に仮入隊の通知を頂く。〔中略〕

 いよいよ8月1日、第二総軍司令部の門をくぐり仮入隊となる。見廻せば市女のみでなく、県女、山中高女もきておられ、それぞれ心構えの出来た顔、落着いた凛々しい乙女の姿があった。早速、任務は前線と司令部を結ぶ暗号モールス要員である事、1日は仮入隊で8日より入隊し軍人と共に第一線に配属されることになっていた。行先は高知県。土佐湾に地下壕があり、その中で行われる様子である。すぐ研修教育を受ける。暗号は数字を5桁ずつ、縦、横共に5段ずつあり、どの部分がその日の何に当るのかは分からないが、毎日組立てが変更になるので早く記号を捕えるよう指導される。1週間の待機中勉強するようにと、重要書類とされた手引きの用紙と、記号の計算方法と数字の練習宿題を渡された。書類を手にすると、要員の任務の重さを思わざるを得なかった。

 帰宅し父母に1週間の自宅待機を伝えると、父は厳しい食糧事情の広島にいるよりも父方の田舎行きを勧めた。1人で行くのは気が重かったが、せめて父の心に素直になりたくて行く事にし、8月6日に帰って来るようにした。早速3日の朝5時前に起きると、母は何もまざらない御飯を炊いて私のために、おにぎりを作って下さっていた。その白さに思わず「後でお米が足りなくなるよ」と言えば、ニッコリ笑って「何とでもなるよ、心配しないで食べてちょうだい」と手渡して下さる。電車も未だ走っていない時間の薄暗い道を、父が「駅まで送ってあげる。切符が手に入ればよいが」と言って天神町の家を出る。薄明りの中を見送って下さった母
のうす水色のワンピース姿。これが別れになるなんて誰が思っただろう。

 両親の三十三回忌に想う
 父と朝五時頃天神町の自宅を出て駅迄歩いた。長い列の末やっと手にした切符をしっかり持ち、父と最後の別れになることも知らず2人は、微笑ながら広島駅を後にした。田舎で口にするものは皆父母にも食べさせて上げたい物ばかり、心の重い日々だった。いよいよ帰広する日、駅迄出て汽車を待っていると、その時、運命の8時15分であった。
 汽車の開通を待ってやっとの思いで帰ったが、矢賀から汽車は不通、見たこともない怪我人の行列、父母の顔が変る変る目の前に浮び足は飛ぶ様に市内に入る。が、出た時の広島の姿はもうどこにも無く、ガレキの山々、電車の焼けただれた線路づたいに、我が家の方向へと一生懸命、死人の男女は全然分らない。唯赤黒く、むごいの一言。西練兵場近くになる。馬がお腹一杯にふくれ黄色の腸を裂け目から出して死んでいる。始めは目をそらしていたが、至るところでさけようもない。やっと相生橋にさしかかる。麗の水槽には身体が半分漬かったままで唸り声を上げている人。元安川の両岸辺に、川面に死人の連なり。まるで地獄の中に異色の人間が立ちすくんでいる。我が家跡へもう一息、運動靴の裏は灰でもう熱い、アーやっと我が家らしき水槽、玄関らしき石畳、庭の空地迄見通せる焼跡、台所の食器の散乱、ビンの溶け跡、父や母の姿ぞ何処、きっときっとどこかで生きていて欲しい。天に向って精一杯祈る。
 だが、21日間の後、其の場所で白骨となった両親に会えようとは・・
 あれから33年の歳月、やがて私の歳もあの頃の両親に近くなった今日、我が子は、19歳と、15歳。当時両親亡きあと1人死ぬる事も考えたが、やはり一生懸命生き抜く事に意義を感じた。母校市女の4年生の夏、自ら体で学んだ教訓であった。・・・

 私が掛井千幸さんに会ったときの第1印象は「この人は本当に原爆の惨禍の中にいた人なのか」ということであった。私の前にいる人は、微笑んで、原爆の体験を私に語り続けていたからである。
 「原爆症はでなかったのですか」
 「ええ、ずーっと元気です。父の田舎に行ったら、食べるものがなかったのです。毎日、トマトばっかり食べていました。それがよかったのかもしれません」
 彼女は、父母の骨が発見される過程も話してくれた。どのように戦後を生きてきたかも話してくれた。しかし、彼女の書いた文章に優るものを、どうして私が再現しえようか。
 彼女は幾度も死を決意した。そして、「やはり一生懸命生き抜く事に意義を感じた」
 その苦しみの中から、この世を生き抜く力となる〔微笑み〕が生まれてきたのだ。
 彼女は乙女のように微笑んでいた。年を超えた美しい人である。「ああなんと美しい人なんだろう・・」と私は思い続けていた。
 この「両親の三十三回忌に想う」には前文がある。ここにその前文を記すことにする。

 ・・・
 歳月というものは心の疵をも水に流し、又癒すことも出来ると或る人は云う。だが私には拭えども拭えども消し去る事の出来ない、昭和20年8月6日がある。
 第二次世界大戦の最中、学業も取り捨てひたすら必勝を願って、飢えを忍びながら汗した学徒動員、15歳の手に被服廠の作業、日本製鋼蟹屋工場の作業、それでも未だ足りず第二総軍の通信兵に志願した。当時は幸にも採用になった。両親に取っては1人子である私の入隊がどんなに心痛んだ事だったのか。親心を知るよしもない私には唯、世相の真直中に存分な存在でありたかった。・・・

 彼女の級友たちは皆、広島にいて原爆死したのである。彼女が生きているのは奇跡に近いのである。そして、彼女は微笑みつつ、自らの過去を語り続けたのである。
 私はこの場面を書きつつ、1つの出来事を想い起こしたので記すことにする。それは、数年前のある夜のことである。私は小さな居酒屋で、日本の大企業の社員に英語を教えているイギリス人講師と酒を飲みつつ雑談をしていた。彼が私に「酒池肉林」とはどういう意味なのか、と問うた。私は居酒屋の主人にボールペンと紙を借りて、この日本語を英詩にし、彼に見せた。すると彼は「第二次世界大戦」の詩を作ってほしい、教材に使いたいと言った。私は次のような詩(英詩を日本語訳する)を即興でつくり、彼に渡した。

あなたは第二次世界大戦で
日本が敗北したと思っている
そうだ、日本は敗れ去ったのだ
がらくただらけの廃墟となってしまった
しかし、そのがらくただらけの町中で
子供たちは微笑みをたやさず遊んだのだ
私はしっかりと億えている
あの微笑みが今の日本をつくったのだ
見よ、その微笑みが、今も、これからも
日本を美しい国にしていくのだ

 私はこの原爆という、重い重いテーマに取り組んでやっと書き終えることができた。
 そして、私は自分が仕掛けた〔賭け〕に勝つことができた。全く予備知識もなく、偶然に賭けて私は掛井千幸さんに会った。そして、あの手記にあるような名文にも巡り合えた。いかなる作家でも、広島のあの日、あの時を、彼女のようには描けないであろう。簡潔にして的確、そして詩情が悲しみの中から漂ってくるではないか。

 私は、この重い重い物語を書き続けて、最後に原爆のほんとうの悲劇を伝える掛井千幸さんの名文を読者に提供できてよかったと思う。
 私は。〔賭け〕に勝った。私は〔微笑み〕を私の心の内に持ちえた。これ以上の幸せがあろうか。ここで、ながい、ながい物語の終わりとする。

  〔了〕 


 ★引用文献一覧登場順  
 但し、以下は『原爆の秘密 〔国内編〕のもで、〔国外編〕文は後記します。

 
ゴードン・トマス十マックス・モーガン=ウィッツ『エノラ・ゲイ』松田銑訳 TBSブリタニカ 1980年
『米軍資料 原爆投下の経緯』奥住喜重+工藤洋三訳 東方出版 1996年
上坂冬子『東京ローズ』中央公論社 1995年
読売新聞社編『昭和史の天皇』角川文庫 1988年
リチャード・ローズ『原爆から水爆へ』小沢千重子十神沼二真訳 紀伊国屋書店 2001年
リチャード・ローズ『原子爆弾の誕生』神沼二真+渋谷泰一訳 紀伊国屋書店 1995年
★岡田良之助十立花誠逸十山極晃編『資料マンハッタン計画』岡田良之助訳大月書店 1993年
黒木勇司『原爆投下は予告されていた』光人社 1992年
日本児童文学者協金十日本子どもを守る会編『続・語りつぐ戦争体験』草土文化 1983年
NHK広島放送局原爆取材班著『原爆搭載機「射程内二在リ」』立風書房1990年
広島市編集兼発行『広島原爆戦災誌』 1971年
織井青吾『原子爆弾は語り続ける』社会評論社 2005年
財団法人広島県警友会編集・発行『原爆回顧録』 1988年
★岡田良之助十立花誠逸十山極晃編『資料マンハッタン計画』大月書店 1993年
宍戸幸輔『広島原爆の疑問点』マネジメント社 1991年
宍戸幸輔『広島が滅んだ日』読売新聞社 1972年
宍戸幸輔『広島・軍司令部壊滅』読売新聞社 1991年
畑俊六『続・現代史資料4・陸軍「畑俊六日誌」』伊藤隆十照沼康孝編・解説 みすず書房 1983年
NHK出版編『ヒロシマはどう記録されたか』日本放送出版協会 2003年
広島県編集・発行『広島県史 原爆資料編』 1972年
畑俊六『元帥畑俊六獄中獄外の日誌』小見山登編著 日本人道主義協会 1992年
中条一雄『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』三五館 2001年
諏訪澄『広島原爆 8時15分投下の意味』原書房 2003年
原爆遺跡保存運動懇談会編『広島爆心地中島』新日本出版社 2006年
淵田美津雄『真珠湾攻撃緯隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年
奥住喜重十工藤洋三訳『米軍資料 原爆投下の経緯』東方出版 1996年
長崎総合料学大学平和文化研突所編著『新版ナガサキ 1945年8月9日』岩波ジュニア新書 1984年
林三郎『太平洋戦争陸戦概史』岩波新書 1951年
ジョージ・ウェラー『ナガサキ昭和20年夏』アンソニー・ウェラー編/小西紀嗣訳 毎日新聞社 2007年
渡部悌治『ユダヤは日本に何をしたか』成甲書房 2003年
湯川秀樹『原子と人間』甲文社 1948年
有馬哲夫「元CIA長官A・ダレスの『原爆投下阻止工作』の全貌」月刊現代2008年1月号所収
トマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』鈴木主税訳/福武書店 1994年
小畑弘道『被爆動員学徒の生きた時代』たけしま出版 2007年
仁科芳雄『仁科芳雄往復書簡集I 現代物理学の開拓』中根良平・仁科雄一郎他編/みすず書房 2006年
ロバート・K・ウェルコックス『ジャパン・シークレット・ウォー』未邦訳 ニューヨーク 1995年
湯川秀樹十朝永振一郎十坂田昌一編著『核時代を超える』岩波新書 1968年
湯川秀樹十朝永振一郎十坂田昌一編著『平和時代を創造するために』岩波新書 1963年
ジョセフ・マークス『ヒロシマヘの七時間』日本経済新聞外報部訳/日本経済新聞社 1969年
アルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』広瀬隆訳・解説/小学館 1994年
中国新聞社編『証言は消えない 広島の記録I』未来社 1966年
有末精三『終戦秘史 有末機関長の手記』芙蓉書房 1976年
家永三郎十小田切秀雄十黒古一夫編『日本の原爆記録1』日本図書センター 1991年
戸田秀『ドキュメント被爆記者』健友館 2001年
松野秀雄『あの日のナガサキ』市民出版社 1985年
長崎の証言の会編『地球ガ裸ニナッタ』汐文社 1991年
泰山弘道『完全版長崎原爆の記録』東京図書出版会 2007年
秋月辰一郎「死の同心円』講談社 1972年
家永三郎十小田切秀雄十黒古一夫編『日本の原爆記録(11)』 日本図書センター 1991年
奥住喜重十工藤洋三十福林徹『捕虜収容所補給作戦 B29部隊最後の作戦』私家版 2004年
林えいだい監修『戦時外国人強制連行関係資科集(I)俘虜収容所』明石書店 1990年
小路俊彦『長崎医科大学潰滅の日』丸ノ内出版 1995年
広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ』岩波書店 1985年
W・L・ローレンス『Oの暁』崎川範行訳/創元社 1950年
今堀誠二『原水爆時代』三一新書 1959年
中島竜美「〈ヒロシマ〉その翳りは深く 被爆国政府の責任の原点を衝く」『月刊社会党』1985年7月号所収
マルセル・ジュノー『ドクター・ジュノーの戦い』丸山幹正訳/勁草書房1981年
大佐古一郎『ドクター・ジュノー武器なき勇者』新潮社 1979年
大佐古一郎『平和の勇者ドクター・ジュノー』蒼生書房 1989年
松本重治『昭和史への一証言』たちばな出版 2001年
高松宮宣仁『高松宮日記』中央公論社 1997年
入江相政『入江相政日記(第三巻)』朝日新聞社編/朝日文庫 1994年
志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会 1969年
朝日新聞社編『原爆・500人の証言』朝日新聞社 1967年
福島菊次郎『ヒロシマの嘘』現代人文社 2003年
週刊朝日編集部編『1945-1971 アメリカとの26年』新評社 1971年
吉川清『「原爆1号」といわれて』筑摩書房 1981年
小野勝『天皇と広島』私家版 1989年
濱井信三『原爆市長』朝日新聞社 1967年
児玉隆也『君は天皇を見たか』潮出版社 1975年
ジョン・ハーシー『ヒロシマ』石川欣一十谷本清訳/法政大学出版局 1949年
スティーブン・ウォーカー『カウントダウン・ヒロシマ』横山啓明訳 早川書房 2005年
日本基督教青年会同盟編『天よりの大いなる声 広島原爆体験記』東京トリビューン社 1949年
永井隆『長崎の鐘』日比谷出版社 1949年

 *************

 ★印はダブり。
 
 




●原爆投下(14)
 ●第6章 天皇と神と原爆と

 ★「神の御心のままに」逝った人々  


 秋月辰一郎の『死の同心円』については前述した(「第4章」185頁参照)。
「すべてを奪われてすっとした。これ以上失うものはない」と本の中で書いた医師である。彼は次のように自分の経歴を書いている。

 ・・・
昭和15年春、京大医学部を卒業した私は、結核医を志して郷里の長崎に帰り、まず長崎医大病院の放射線科に入局した。そのころ、放射線科教室は末次助教授が辞任して永井隆助教授が新しい部長に就任していた。したがって、私は永井先生の最初の直弟子だった。
 永井先生はレントゲン学者としてもカトリック信者としても、アララギ派の歌人としても有名で、ユーモアに富み、明るい風貌で〔銃後の街〕の中心的存在だった。それに対して、家族や姉妹に肺結核の患者をもつ私は、浄土真宗を信じて、内向的な性格だった。
 したがって、ややもすれば永井先生の外交的な人類愛やロマン的詩情を白眼視していた。つまり、性格的には先生と合わなかった私は、1年間の勉強をすませると、
 「さらに博土号めざして研究するよう」
 といってひきとめてくださる先生の忠告を退けて、大学病院を離れた。仏教的人生観を近代医学によって生かした結核療養所の建設を、長崎の銀屋町で開業中の高原憲先生とともにしたいと考えたからであった。そのとき、私の姉妹2人はすでに結核で斃れていたのである。
 高原先生は働きざかりの50歳。浄土真宗の信者で、優れた結核医だった。・・・

 秋月辰一郎は運命のいたずらか、カトリックが経営する浦上第1病院の院長になる。この過程は省略したい。私は吉川清の『「原爆1号」といわれて』と秋月辰一郎の『死の同心円』には、何か不思議な深い感銘を受けた。
秋月の本を読んでみよう。神が描かれている。日本の神でなくキリスト教の神である。息子を原爆でなくした母親に対する彼の気持ちが書かれている。

 ・・・
病院を焼かれ、自分たちの持物をすべて失っているのに、なおここに踏みとどまって看護をつづけてきた私たちに、この母親は特別の感情をもったようだった。
 「注射も薬もなくなって、すまなかったな」
 私はだれにも聞こえないようにつぶやいた。遺骸は夕方になってから、例の場所で火葬にした。林君の家は仏教だったので、私は夕闇に立ちのぼる赤い煙を見つめながら、
 「帰命無量寿如来、南無不可思議光」
 と2行唱えた。それはカトリック教徒の、
「天にまします吾らの父よ」とまったく同じであった。
 「死せる人々の霊魂が天主の哀憐によって安らかに憩わんことを」
 というだれもの共通の願いであった。
 翌朝、遺骨とあり合せの紙に書いた死亡診断書を持たせて、お母さんを大村に帰した。彼女は息子の遺骨を抱いて、看護婦や患者たちに何度も頭を下げて、病院の焼け跡を出ていった。・・・

 秋月は「原爆症、放射能障害と、いろいろ名前をつけることはできる。しかし、それはあくまで名前であって、本体は何かわからない。それは最愛の子や妻を奪ってゆく魔物であった。原子爆弾の中心地から5百メートルから2千メートルの距離で被爆した人々が、この40日間のあいだにほとんど死んでしまったのである」と書いている。この事実に基づいて、『死の同心円』という本のタイトルが付けられたのである。原爆後40日間のことが書かれている。良い薬がなかったのである。もし、あのとき、日赤がジュノー博士の申し出を受け入れていたら・・。

 ・・・
 しかもその40日は、混乱の真っ最中で、科学も救助も医療も報道も、きわめて不十分な活動しかできなかった。人々は焼けただれた芋畑や夏草の中で、ある者は親兄弟に見とられながら、ある者は幼い子どもの泣き声を聞きながら、ある者はたった1人で看護を受けられず死んでいったのである。〔中略〕
 だが、それにつづく40日間は、医師としての私にまったく異った苦しみと悲しみを与えた。なぜなら、それ以後の死は、原爆症であれ、化膿症との合併症であれ、じょじょに人間の生命を破壊していったからである。医師としての私は、確実に迫りくる、しかしどうしてもまぬがれることのできない死と対決せざるをえなかった。・・・

 この文章を読む人々は、長崎の惨禍を知り慄然とするはずである。広島よりもその惨禍はひどかったのである。これは最初から計算し尽くされていた、プルトニウム爆弾の威力であった。アメリカが原爆を落としたのは、早期戦争終結のためではなく、ソ連の進攻のためでもなく、ひたすら、原爆産業のためであったと私は書いてきた。キリスト教国アメリカが、キリスト教徒(特にプロテスタント)が、長崎に原爆を落としたのである。この点をしっかりと把握して、心の中に銘記して以下の秋月の文章を読んでほしい。

 ・・・
私は相ついで死んでゆく修道女たちが、最後まで自分たちの不幸を、
 「神の御摂理です」
 といって、苦悶の中に微笑をうかべていたことが、どうしてもうなずけなかった。これは8月9日の被爆以来、いや昭和19年にこの病院にやってきて以来、片時も忘れず、自分に問うてきたことである。私は少し意地わるくいった。
 「あれほどまでにお祈りと人々への奉仕を行なってきたあなたがたに、こんな苦しみを与え給う神がわからない」
 それでも、修道女たちは神を信じた。
 「私たちの罪です。人間の罪です。神様のせいではありません。秋月先生はいまにきっとカトリックになって、負傷者を肉体的にも霊的にも救うかたです」
 私はくすぐったくなった。穴にはいりたかった。しかし、このような祈りと奉仕に生きる人々にまで、こんなむごたらしい傷を与える爆弾を恨み、それを投下したアメリカ軍を呪った。さらにこの無謀な戦いを盲目的に進めた日本の政府を恨んだ。だが、この怨念と怒りをどこにもってゆくことができよう。つぎからつぎへと恨みつづけて、結局はとほうにくれるばかりであった。
 爆心地から5百メートル以内で被爆した人は、8月15日までにすべて死んでしまっていた。
 5百メートルから千5百メートルの距離で爆撃をうけた人々は、最後まで私に神の摂理を説いた修道女たちのように、8月15日以降9月下旬までにつぎつぎに倒れていった。常清女学校にいた23名の修道女と修道女志願者は、こうして全員が死んでいったのである。・・・

 「神の御摂理です」とあるが、この〔摂理〕は、神の意志、神のはからいで死んだことを意味する。もっと俗に表現するならば、修道女たちは、彼女たちが信じた神によって殺されたことを意味する。では、どうして、神は修道女たちを殺したのであろうか。
 「私たちの罪です。人間の罪です・・」
 という言葉の中に明らかに語られている。私たち人間には原罪があるというのである。
 しかし、私は、キリスト教徒にはまことに申し訳ないのであるが、原罪を背負って生まれてこなかったのである。私の父も母も、その先の父も母も原罪とは全く無関係であったのだ。
 原爆投下が神の摂理なら、私はここまで、その原因を追究する必要もなかったのである。

 ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』(1949年)は、1946年9月、シカゴ・サン紙に連載され、単行本は大ベストセラーとなった。広島にあったジェスイェット教会のことが書かれていたからである。その1部を引用する。

 ・・・
 ラサール神父の背中には、窓ガラスの破片が幾十となく埋っているのだ。板の担架ではひどく痛かったに相違いない。市の外れ近くで、焼け自動車が狭い路にエンコしている。よけてまわらねばならない。片棒かついでいた者が、暗さのために足場が見えず、深い溝に落ち込んだ。ラサール神父は地べたに放り出され、担架は2つに折れてしまった。修道院からリヤカーを取ってこようと、1人の司祭が先発したが、間もなく、とある空家の傍で1台見つけて引いてきた。ラサール神父をこの荷車にのせ、それから先の凸凹道を押して行った。修道院長は聖職につく以前医者だったので、司祭2人の傷口を消毒し、きれいにシーツを包んで寝かせた。心づくしの世話を受けて、2人は神に感謝した。・・・

 私はこの全米で大反響を呼んだハーシーの『ヒロシマ』を読んで悲しくなった。どうしてか?主役がいないのである。誰が広島に原爆を落としたのか、の主役がいないのである。ただただ、荒廃し続ける8月6日の広島を描いているだけなのである。
 しかし、長崎にははっきりと主役がいたのである。それは「神の御摂理です」の中にはっきりと主役が明らかにされている。秋月の本を読みながら、中断してハーシーの『ヒロシマ』を読んで、私はそうか、と納得した。罪があるのは日本人なのだ。真珠湾の裏切り者たちに神の御摂理が登場したということなのである。神が真珠湾の裏切り者に罰を与えたということである。これは、日本人にとって、由々しき問題である。
 スティーブン・ウォーカーの『カウントダウン・ヒロシマ』(2005年)に次のように書かれている。

 ・・・
 ただひとり★、はっきりと自責の念を表明したのは、〈エノラ・ゲイ〉の尾部射撃手、1995年に他界したボブ・キャランだった。被爆者たちの写真や映画、特に焼けただれた子供たちの姿を見たときのことを振り返り、次のように述べた。「罪の意識が一時的なものであれば、救われたんだけどね。見なければよかったよ」。戦後、彼は航空機の設計者となった。銃座に飾って広島まで肌身離さずにいた写真の赤ん坊のほかに、さらに3人の子供をもうけた。原子爆弾によるホロコーストの悪夢は、年をとるに従ってますます心を苦しめるようになる。「核分裂爆弾や核融合爆弾を思うにつけ、わたしたちは神様の国へ行けないのじゃないかと心配になるよ」・・・

 広島に原爆を投下した操縦士ティビッツは「爆撃を指揮したからといって、眠れなくなったことなど1度もない」とうそぶいている。スティーブン・ウォーカーは次のようにも書いている。

 ・・・
 〈エノラ・ゲイ〉が離陸した滑走路は、今では砕けたサンゴで覆われ、半ばジャングルに呑み込まれている。かつては島で1番警戒の厳重だった極秘の場所、爆弾組み立て棟は廃墟となり、朽ち果てた基礎の上に雑草が繁茂しているだけである。隊員たちが眠り、食べ、国へ手紙を書き、戦争が終わるのを祈った第509混成航空群の敷地も、ジャングルと化した。標識もなければ銘板もない。鬱蒼としたジャングルが人の進入を拒む。ここにいた人たちは、もうずいぶんと前に家へ帰ってしまったのだ。・・・

 私は原爆投下の原因を探して長い旅を続けてきた。眠れぬ夜の連続だった。悪夢を見続けた夜だった。あの「エノラ・ゲイ」のリーダー・ティビッツは眠れぬ夜などないと語った。彼を神がしっかりと守っているのが理解できた。それが神の御摂理であることも私は理解した。
 中国新聞社編『証言は消えない 広島の記録I』の中に、カトリック宣教師のドイツ人司祭ウィルヘルム・クラインゾルゲ(帰化して日本名・高倉誠)へのインタビュー記事が載っている。彼は広島原爆で被爆した。その高倉誠の原爆観である。

 ・・・
 人間は原罪のために神の恩恵の手から落ちたのです。この世の悪は神が与えたものでなく、人間の祖先が神の恩恵にそむいたために生まれたものです。原爆も個人が招いた苦難でなく、人類が招いた苦しみです。病気や貧乏は苦しいが、それは肉体の苦しみです。だから私の心には病気のときでも、いつも平安と喜びがあります。キリストが十字架で死んだため、多くの人が救われるのです、神の御心のままに罪をつぐなうだけです。
 一見すると、日本人好みの美文調である。しかし、読者よ、この美文の中に隠れている神に思いを馳せられよ。「神の御心のままに」という言葉を熟慮されよ。そうすれば、彼らが信じ続ける神なるものの正体が理解できよう。
 賀川豊彦★は日本が生んだ偉大なる聖者である。日本基督教青年会同盟編『天よりの大いなる声・広島原爆体験記』(1949年)に、賀川豊彦は「序」を書いている。

 ・・・
 そして、8月6日の朝、午前8時15分がきた。一瞬にして広島が消しとび、16万人の生命が蒸発してしまった。
 地面は美しく掃き清められたようになり、死骸はなにも残ってはいなかった。物質がすべて蒸発してしまったのだ。気化したのだ。いや、光化したと言った方が美しいだろう。・・・

 賀川は広島のあの惨禍に眼を向けない。私はあの人々の苦しみを書こうとしたが書けなかったのだ。なにが、気化なのだ、何か光化なのだ。

 ・・・
 「-汝、心鈍きものよ! 汝、何ぞ悟ること遅き?」
 ガラリヤの湖辺を歩き給うキリストが弟子を叱るように、私達を叱っていられるように思った。-それは、黙示録の言葉がそのまま新しい時代の予言にあてはまるからであった。
 「-血の混りたる雹と火とありて、他にふり下り他の3分の1、焼け失せ、樹の3分の1焼け失せ、もろもろの青草、焼け失せたり-天は巻物の如く去り行き・・他の王たち、大臣、将校、富める者、強き者、奴隷、地主の人々みな洞と、山の岩間にかくれたり・・」(新約聖書黙示録六-八章)
 空想文学だとのみ思っていた黙示録が、私の眼の前の問題となった。
 私は、しかし、黙示録の本質をも考えた。結局真正なる社会の本質は創造のための犠牲、保存のための謙譲、再創造のための贖罪愛による外、道なく-それはキリストの教える民の罪を負う小羊の道であるということであった。・・・

 私は賀川豊彦のこの文章を読んで理解した、黙示録に登場する悪魔の正体を。悪魔は創造し破壊し、小羊たちを殺し、彼らの肉をも喰らうことを。小羊たちは犠牲となり、謙譲を強要され、再び原爆が投下される日まで、贖罪愛に生きよ、と神が説いていることを。
 そして私はまた理解した。原爆を計画し、製造し、投下した人々はすべてキリスト教徒であったことを。
 
 ・・・
 この宇宙創造の愛の意識されるまで、黙示録の記述が、そのまま進行するのだということであった。
 それで、日本の滅亡を予覚しながら、頭は少しも混乱しなかった。世間がさわがしくなるに反し森の中の湖水の如く透徹して行くことを感じた。・・・

 私は賀川豊彦のこの文章を読み、賀川豊彦なる聖者の本質を知った。日本の滅亡を予感してきた私は、この本を書きつつ、眠れぬ夜をすごし、妄想が白日夢となる日々を生きた。賀川豊彦は「湖水の如く透徹して行くことを感じられる」とうそぶく。それは、黙示録を演出し続ける神の意志を、そう、神の御摂理とやらを賀川豊彦が如っているからに他ならない。
 賀川豊彦が日本のキリスト教会における輝ける聖者である。九州の地に、長崎にも偉大なる聖者がいた。その人の名は永井隆である。

  彼が1949年に出版した『長崎の鐘』から引用する。

 ・・・
原子爆弾合同葬弔辞
 昭和20年8月9日午前10時30分ころ大本営に於て戦争最高指導会議が開かれ降伏か抗戦かを決定することになりました。世界に新しい平和をもたらすか、それとも人類を更に悲惨な血の戦乱におとし入れるか、運命の岐路に世界が立っていた時刻、即ち午前11時2分、1発の原子爆弾は吾が浦上に爆裂し、カトリック信者8千の霊魂は一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。その日の真夜半天主堂は突然火を発して炎上しましたが、これと全く時刻を同じうして大本営に於ては天皇陛下が終戦の聖断を下し給うたのでございます。8月15日終戦の大詔が発せられ世界あまねく平和の日を迎えたのでありますが、この日は被昇天の大祝日に当っておりました。浦上天主堂が聖母に献げられたものであることを想い起します。これらの事件の奇しき一致は果して単なる偶然でありましょうか? それとも天主の妙なる摂理でありましょうか?・・・

永井隆博士もまた、他のキリスト者と同じように考えている。「カトリック信者8千の霊魂を一瞬に奪ったのは、間違いなく、聖母マリアに献げられるように神がはかった〔摂理〕であるというのである。神も聖母も、血を求めて人々を殺戮してやまぬ存在であると語っているのと同じではないのか? 私にはそのように思えてならない。黙示録の演出者が神である証しがここにある。

 ・・・
日本の戦力に止めを制すべき最後の原子爆弾は元来他の某都市に予定されてあったのが、その都市の上空は雲にとざされてあったため直接照準爆撃が出来ず、突然予定を変更して予備目標たりし長崎に落すこととなったのであり、しかも投下時に雲と風とのため軍需工場を狙ったのが少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだという話をききました。もしもこれが事実であれば、米軍の飛行士は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされたものと解釈されないこともありますまい。
 終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き小羊として選ばれたのではないでしょうか?・・・

 私はプルトニウム爆弾は最初から長崎を目標としていたと書いた。「その都市〔小倉〕の空は雲にとざされてあったため」は虚構であると書いた。8月8日、八幡は焼夷弾爆撃を受け、heavy smokeであり、決して、clouded やcloudyではなかった、と書いた。煙霧であり、雲ではなかったのである(「第3章」127頁参照)。それにしても永井隆は奇妙なことを書いている。
「神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされた」の後の、「世界大戦争という人類の罪悪の價いとして」日本が攻撃され原子爆弾が落とされたと書いている。「終戦と浦上潰滅との間に深い関係がある」とも書いている。
 私はこの文章を読み続けて、やっとキリスト教の何たるかを理解できた。それは、簡単に説明するならば、血の臭いのする宗教である、との一言に尽きる。
 たしかに、スティムソンは、長崎を狙った。1つは三菱兵器工場である。そこで製造された魚雷が真珠湾で使われたからであり、もう1つは東洋の聖地(カトリック教徒にとってのみ)である浦上を狙ったのであった。プロテスタント、ユダヤ教の交じりあったキリスト教がローマ・カトリックの聖地に狙いを定めたのである。よくある話ではないか。彼らがやりそうな話ではないか。だから犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き小羊は、ローマ・カトリックの信者だけでよかったのだ。
 これは信者間の問題としては通用する。しかし、最初から原罪なんぞに関係のない長崎の市民にとっては迷惑千万もはなはだしい論理である。国際金融寡頭勢力、ロックフェラー、モルガン、ウォール街が、神になり代わって原爆を長崎に投下したことを、キリスト教徒も認める時が来たのである。アーメン! とだけ唱えている時は去ったのである。

・・・
これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから神は未だこれを善しと容れ終わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間始めて神はこれを受け納め給い、人間の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ終戦の聖断を下させ給うたのであります。・・・

この文中の「神の言葉」の代わりに、「神の代理人」のスティムソンを入れて、読者は読みなおさなければならない。日本の都市を攻撃し続け数百万の犠牲者を出しながら、スティムソンは天皇に「まあだだよ!」と言い続けた。やっと2発目のモルガン=デュポン連合の造り給いしプルトニウム爆弾を投下して、「もういいかい?」に答えて「もういいよ」と言った。スティムソンは天皇の詫びを聞き、ここに天皇は自らの地位の不変を与えられ、スイスの銀行へ財産を移し終えた。2人して、「では、日本人よ、ごくろうさん」といったのである。
 最後に天皇の軍は、千人ほどのアメリカ人捕虜を(なかには少人数のオランダ人やイギリス人が含まれていたが)現人神の命令よろしく、彼らを神隠しし、奇跡をスティムソンに見せて、戦後、戦犯からまぬかれたのである。こんな目出度い話はそうそうあるまい。永井隆の言葉を続けよう。

 ・・・
信仰の自由なき日本に於て迫害の下4百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き小羊ではなかったでしょうか。この小羊の犠牲によって今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が教われたのであります。・・・

 私はこう言いたい。神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き小羊たちが、日本にいるかぎり、神はこれを犠牲にしようと、もっと恐ろしい爆弾を日本に落とすでありましょう、と。
 さて、もう1度、秋月辰一郎に話を戻そう。秋月辰一郎医師と永井隆の再会は、原爆投下から3ヵ月がすぎた11月であった。彼が院長として活躍した病院は聖フランシスコ病院となった。秋月辰一郎は書いている。

・・・
永井先生にとってこのカトリック修道会経営の療養所は、自分の病院といってもいいような存在だった。ところが、人もあろうに、仏教信者として有名な高原誠先生をバックに、自分のもとから去っていった弟子の秋月が赴任したのである。永井先生はひどく驚いた。そして不適当だと思った。
 「浄土真宗信者の秋月君がカトリック修道会の病院に行くなんて・・彼は自我が強く、陰気な性格だ。神父や修道女たちとうまくやっていけるものか。たちまち衝突して辞めるだろう」
 先生は周囲の人にこう洩らしたという。・・・

 秋月辰一郎は「〔永井】先生は被爆の2年も前から、X線による放射能症に悩んでおられた。したがって、先生の著書や報道を通じて、多くの人々は先生が原爆症の代表的患者だと思っているが、じつはX線と原爆と、放射脳障害の二重苦を負っておられたのである」と書いている。
 長崎の聖者の1面を私たちは知ることができる。私はある医者から、秋月辰一郎と同じ話を聞いている。「彼は原爆の前から慢性白血病患者だったんだ」と、その医者は私に具体的に語ってくれたのを思い出す。
 「原爆の日、永井先生は大学病院で外来の診察中だった。大学は全滅し、上野町の自宅では最愛のみどり夫人が亡くなられた」と秋月辰一郎は書いている。また、「先生は爆心地から10キロ離れた三山町に疎開した・・10月15日には三山町を離れて上野町の旧宅跡に帰ってきた」とも書いている。秋月辰一郎の『死の同心円』から引用する。

 ・・・
〔永井〕先生は肉体を蝕まれ、衰弱が激しくなるにつれて、つまり白血病の進行と反比例して、被爆地ののろしとなり、全国の耳目を集めた。信仰的にも人間的にも、先生は、浦上の信徒が、長崎の人々が復興するための中心的存在になった。その文才、詩情、心情、絵心、そういったものが、先生の肉体の衰えとは逆に、やがてはなやかに開花していくのである。
 先生が長崎の原爆を世界に紹介した功績は大きい。【原爆の長崎】【長崎の永井】というイメージが日本全国を風靡した。しかし、その訴えが、いささかセンチメンタルにすぎ、宗数的に流れてしまったきらいがないではない。そのために、長崎の原爆は、永井博士が1人で証言を引き受けたような結果になってしまった。放射能の二重苦に悩まされ、肉体的に疲れ果てていた先生は、原爆というものを宗教的にとらえるほかはなかったのだろう。・・・

 私は永井隆博士の〔神の摂理〕について論じたのである。それはまた、長崎と神の関係を論ずることであった。広島とは全くといってよいほどに異なり、神が長崎を支配し続けようとしていたのである。その代理人を永井隆博士が務めていたのである。
 秋月辰一郎は、永井隆の『ロザリオの鎖』の一部を引用している。彼は永井隆博士に「・・この汚れた戦災者根性が、爆心地浦上の再建に禍いを及ぼしていることも疑いありません。汚れを気にせず、低きに甘んじている私らに、どうして新しく明るい文化を造り出す力がありましょうか」と問うたのである。永井隆博士は次のように答えたのである。

・・・
「口を開けば戦災者だと叫ぶ。原子爆弾にやられたんだと自慢気にいう。-けんかに負けたことが何の自慢になります? 彼も人間、我も同じ人間。知恵と努力が足らなかったから、原子爆弾にやられたのではないでか?」
 「世界戦争の終止符となった爆心点という意味で内外人は毎日見物に来ている。しかしこの雑草荒るるがままの荒野は私ら浦上人にとって恥でこそあれ、誇りではないのです。浦上人が誇ることができるのは- 」
 秋月君はききょうの花を引き抜いて、まじまじと見つめた。
 「この雑草を刈り取って香り高い文化の都を建設した暁のことです」・・・

 もう少し、秋月辰一郎の本を読んでみよう。昭和天皇が長崎を1949年5月に行幸したからである。

  ・・・
昭和24年5月、天皇が長崎に行幸されるというニュースを、私は多良岳の家で聞いた。天皇は焼けて黒ずんだ医大の3階屋上から被災地を視察され、1キロ離れた自宅から運ばれてくる重症の永井先生は拝謁を仰せつけられるという。
その5月27日、長崎全市は興奮にわきたった。医大の学長も、稲佐小学校につくられた救護所で被爆者を一手にひきうけた有富先生も感激に涙しているという。
 私はそれを聞いて悲しかった。釈然としなかった。なにをいまさらというのが、いつわりのない自分の気持ちであった。
 私はけっして、天皇陛下を戦犯第1号などと思ったことはない。その点では、しごく平凡で、穏健な日本国民の1人である。しかし、遅すぎた平和を思い、開戦の日の勅語を思い、どうしても素直に熱狂の渦の中にはいっていけなかった。・・・

『入江相政日記』のその日「5月27日(金)」の項には「・・それより長崎医大、ここでお迎えした学生の中には又例の薄笑の顔が見えた。屋上で御展、市長の奏上、学長の御説明の後、生残りの当時の教授、及び原爆で夫が亡くなった当時の教授夫人にお会ひの後お降りかけた2階で永井隆博士にお会いになる。2人の子どもをお引き合わせたりして少し宣伝がすぎるようだ」と書かれている。
 この天皇の行幸を機に長崎は生まれ変わろうとする。秋月辰一郎はその変わりゆく長崎を鋭く描いている。

・・・
いまはどうだ。ヤミ商人の復興、物欲の繁栄にすりかえられてしまったではないか。私はそれを思うと痛恨に耐えなかった。しかし、大部分の長崎の人たちは、原爆の惨禍が縁となって、平和と文化国家建設を唱えられる天皇陛下をお迎えできたことを歓喜したのである。
これがポイントになって、「怒りの広島」に対して「祈りの長崎」が強調されるようになった。原爆投下も神の恩寵と思い、汝の敵を愛するカトリックの精神は偉大だが、それがいつとなく戦争の残虐や弾圧に対する怒りとすりかえられていったのである。・・・

 私は「拳を握りしめ、過去を振り返れ」と幾度も書いてきた。「神の摂理」とか「神の恩寵」の意味を、怒りをもって振り返る以外に日本の未来はないのである。「民主主義」とか「平和」の言葉も同様である。平和とは何か? こんな汚れちまった言葉を捨てる時が来ているのではないか。この言葉は「たいらに、たいらげる」という意味である。せめて和を翰にかえるべきではないか。「平和都市・広島」よりも、「輪の都・広島」とか、長崎がいい。
 「わのみやこ」という古語を復活させ、汚れちまった、天皇好みの、アメリカ好きの言葉を捨ててはどうだろうか。やまとし、うるわし、わのみやこ広島、そして長崎である。
 輪とは手をつなぎ円を描くことである。怒りを込めて、涙をながして、手と手をつないで輪となすのである。そのときこそ、日本が本当に美しい国になるときである。神の摂理とか神の恩寵とか、平和とか、どうでもよい言葉を輪の中へ投げ捨ててしまったらどうであろうか。

  ★「神の御心のままに」逝った人々  <了>
 
  続く。 


 
 ★参考までに、『果てしなき戦線』(日本の百年-8 ちくま学芸文庫版)の第3章から、

 「イーザリーへの手紙」を引用しておきます。p495~6。 

 
 **********

  〔142〕イーザリーへの手紙

 8月6日、広島に原爆攻撃をおこなったエノラ・ゲイ号に原爆投下のサインを送った観測機機長イーザリー(1919~)は、12年後、言動に異常をきたし、酒乱の行動に出たり、郵便局を襲ったりするようになったため、精神錯乱者として復員局の病院に収容された。現在では正常に復したと伝えられているが、精神異常の主な原因は広島への原爆投下にもとづく〔罪悪感〕だといわれている。
 1959年夏、鈴木千鶴子ほか29人の広島の少女たちは病床のイーザリーにあててつぎのような手紙を書き送った。

 「ここに署名している私たち広島の少女一同は、あなたに心からごあいさつをお送りいたします。
 私たち少女一同は、こんどの戦争で幸いにも死だけはまぬがれましたけれども、広島に投下されたあの原爆によって、顔や手足や体に傷をうけたものでございます。〔略〕
 最近、私たちは、あなたが広島のあのできごとのために罪の苦しみに悩まされ、その結果、治療のために病院に入れられてしまったということを知りました。
 私たちが、いまこのお手紙をさしあげるのは、あなたに深い同情の気持ちをお伝えするとともに、私たちがあなたに対して敵意など全然いだいていないことを、はっきりと申しあげたいからでございます。
 あなたは、おそらく、ただだれかの命令であのことをなさったのだと思います。あるいは戦争を早く終わらせ、人命を助けたいとお考えになったのかもしれません。でも、あなたももうご存じのように、爆弾によっては、この地上から戦争を無くすことはできないのです。〔略〕
 私たちは、あなたに対して友人としての気持ちを持たなければいけないと知りました。そして、あなたご自身も私たちとおなじく戦争の犠牲者なのだと思っております。
 早く、ふたたびご丈夫になられて、〔戦争〕という野蛮なものをみんなの力で無くそうという、りっぱな仕事をしている人たちの仲間にはいってくださることをお祈りいたします。」(『朝日ジャーナル』 1961年10月22日号) ************
  
 



●原爆投下(13)
 ●第6章 天皇と神と原爆と

 ★天皇美談だけが残って、責任は消えた   


 天皇裕仁は、1947年12月5日から8日まで、広島県を巡幸した。広島市の編による「天皇行幸録」(1948年)を中心に天皇のかのときの姿を追ってみよう(小野勝『天皇と広島』1989年、より引用)。

 ・・・
アトム広島御展望
 この日、広島の空は乳白色の雲が空を覆い、周囲の山々、瀬戸の島々は霧に包まれて御遠望は十分でなかった。けれども、それはあの日焦土と化した約4百万坪の地域を陛下に御示しする為の天のなせる業かの感があった。
 放送局のマイクが遠慮なく陛下の御顔近くに差し出されて御声をキャッチする。「割合に建物が出来たネ」と濱井市長を顧みられた陛下は、御足を階段に向けられた。

 市庁舎周囲の路上から万歳、万歳の声が湧き起った。屋上の御姿を見つけた市民の歓呼である。陛下は思わず御足を留められた。そして御帽子を右手に高く幾度も幾度も打ちふられながら地上の歓呼にこたえられた。一際高く上る地上の万歳は百雷の如く屋上に轟いた。〔略〕

(*以下、「子供たちの〔天皇讃歌〕の作文等の紹介も略す」

 次に児玉隆也の『君は天皇を見たか』(1975年)から引用する。全く異なる天皇像が描かれている。

 ・・・
笑徴だ(宮本六襄・会社員・31歳)

 私たちは、天皇を2度見ました。
 1度目は、終戦直後、私が原爆孤児の寮に収容されていた小学生のころです。天皇は殿さまのようでした。2度目は46年(*昭和)の広島訪問でした。そのとき私は「天皇は象徴やなか、笑徴や、恥や」と思いました。広島にはもっと早く来るべきでした。しかも、自分の意思で。

(下口輝明・農協勤務・37歳)
 1度目の原爆孤児院では、天皇が来るというので施設の昼メシがごちそうでした。天皇よりも食べものを覚えています。天皇陛下は、あーそお、あーそお、とだけいいました。ぼくらの関心は、チョコレート色の車についている菊の紋章が、純金かメツキかに集中しました。
 46年の天皇は、慰霊碑までまっすぐ歩いていって、まっすぐかえってしまった。いまだに苦しんでいる被爆者にも会わずに、大企業の工場を見に行った。あんなことをしていたらあかんと思いました。

 (今田恒雄・精薄児施設指導員・37歳)
 私も原爆孤児院にいました。おかけで有名人にもおうてよかったと思いますよ。しかし私が育ってきたのは、社会の恩恵であって、天皇に置きかえたことは1度もありませんでした。46年のときも、天皇のことなど前日まで思ってもいませんでした。そのとき、天皇が来るというので、農事試験所のバカが、梅に薬をかけて花の咲く時期を遅らせました。天皇はそんなことも知らないで、キレイだね、といったそうです。
 皇太子が天皇になれば、もっともっと利用されるだけの時代が来るでしょう。・・・

 この3人の原爆孤児たちの言葉に対しても私(鬼塚)は何1つ批評をしない。
 広島への原爆投下をさめた眼で見続けていた1人の女性を紹介したい。
 栗原貞子は『核・天皇・被爆者』(1978年)の中で次のように書いている。

 ・・・
 戦前派の天皇への意識が混濁し不透明であるのとちがって、戦後生まれの被爆二世たちの意識は明確であり、青年特有の鋭さとはげしさをもって天皇の戦争責任を追及した。
 1971年4月18日、天皇は島根県に植樹祭が行われた時、15、16日と広島により、護国神社に参拝し、原爆慰霊牌に立ちよった。(参拝ではない)
 被爆団体や革新団体など、組織的には何らの抗議声明も行わなかったが、被爆者青年同盟、アジア青年同盟、部落解放同盟の3団体は、天皇来広を糾弾する連絡会議をつくり、糾弾県民集会の開催やデモ行進を計画したが、いずれも行政・司法一体となって弾圧し、いったん貸した会場の許可をとりけし、デモ行進をやめさせた。4月15日、天皇が慰霊牌に立ちよりの際に平和公園に動員された機動隊は5千人と言われている。しかし糾弾県民集会は開催出来なかったが、それに先立つ3月27日大手町の平和会館で、3同盟による「天皇問題を考える」被爆者集会が行われ、50名近くが集まって各人が発言し、天皇の戦争責任を糾弾した。・・・

 1947年の天皇巡幸に熱中した広島の人々も、それから24年後には完全にさめていたことが、栗原真子の文章を通じて理解できるのである。しかし、さめた天皇観を持つにいたった原爆被爆者たちには過酷な人生が待っていた。もう1度、過ぎ去りし時代を、語り部の栗原貞子に語らせよう。同じ『君は天皇を見たか』からの引用である。

 ・・・
 〔昭和〕21年1月、天皇は神格天皇から人間天皇に転身することで戦争責任を回避した。転身した天皇は22年12月5日から7日まで広島県下へ第1回の巡幸を行ったのであるが、県議会は天皇の行幸に対し感謝決議をし、楠瀬県知事は天皇の質問に対して次のように答えた。
 - 広島の原爆の影響についての人体の健康は、全く心配がなく、ただ植物が学問的に言えば多少影響を残している程度で、決して御心配はいりません。(中国新聞社編『ヒロシマ』未来社刊)
 占領軍も民主主義勢力も行政も一貫して被爆者を抹消し闇のうちに封じこめてしまったのである。どこにも救いのない被爆者は疎開先の農村や郊外の町で「原爆の流れ者」「きたない」と疎外され、遅発性の原爆症で髪が脱け、吐血し下血して血まみれの病床で原爆を呪って死んで行った。
 医師は未知の兵器による未知の病気を診断することが出来ず、死亡診断書にも、「血を吐いて死んだのだから肺結核だろう」と推定の病名を書き、原爆症は闇から闇へ葬られた。
 原爆後遺症についての研究発表はゆるされず、臨床医学のなかった当時の状態である。・・・

 児玉隆也の『君は天皇を見たか』から再度引用する。児玉隆也は、赤提灯「六歌仙」という一杯飲み屋を経営する高橋広子さんから原爆に遭った人生を聞く。この部分はすべて省略する。天皇について語るところのみ引用する。

 ・・・
 聞き書き「陛下さま この金いりませぬ」

 陛下は、天皇は、あの人は、いったい何しに去年この広島へ来んさったんですか。どうして26年もたって、のこのこと帽子振りに来たですか。うちゃあ、腹あ立ってどもならん。うちゃあ、その2、3日まえから、□ではいわんですよ、口ではいわんが、よし行っちゃろか!と思うとった。行って、あの人の前へとび出して、「陛下さん、あんたの腹からのことをここでしやべってみい!『あっそう』いうて帽子振っとるだけじゃあ、うちゃあ納得できん。おれが納得するまであんたの腹からのことをしゃべってみい! あんたの腹ん中を見せてみい!」
 そういうて、あの人にくってかかるうちを考えとった。うちゃあこのとおり軽いから、イリコつまんだようにつままれ、はじき出される姿が、寝とっても頭ん中をめぐってねえ、いよいよ情けのうてねえ。あの人、慰霊碑に花置いて、老人養護ホームヘ行って、それだけじゃあないですか。年寄りたちが「陛下さま来られて、これで思い残すことかありません」いうた。うちやあ、「あんたがたこれだけ悲しんでおって、何か有難いか!」と、新聞引き裂いて泣きました。そのあと、あの人は、天皇は、何をしたですか。原爆病院にも行かず、無縁仏にも行かず、こともあるうに、そのあと東洋工業ば行った。社長の案内で自動車工場を見た。自動車見る暇があったら、27年間も、女房子供にも己が顔見せんと、己がケロイドの顔を包帯の中にとじこめて、屍のように生きとる被爆者に、どうして「チンがすまなかった」というてやらんですか。
 あの人は、帝王学かなんかしらんが、自分の意思をいわん人やと聞いた。あの人に罪はない、原爆病院行くかわりに、自動車会社へ行かせた県や宮内庁の役人が悪いという人もいる。それならば、なぜ、戦争やめさせたのはあの人の意思やという〔歴史〕があるのですか。「神やない、おれは人間や」というたのですか。美談だけが残って、なぜ責任は消えるのですか。
 うちゃあ情のうて、〔へ〕も候や。

  もう1度、福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』から引用する。赤提灯「六歌仙」の高橋広子さんと同じ思想を別の形で表現している。

 ・・・
 歴史は繰り返すと言うが、大本営と政治の嘘が国を滅ぼした戦前の悲劇を性懲りもなく繰り返そうとしているのである。「現人神」‐という神話時代の言葉が戦前の日本を支配していたのは幼稚の限りだが、敗戦後の日本は、「主権在民の民主主義国」になっても「朕」を憲法の冒頭に登場させ、「天皇」という正確に外国語に翻訳できない言葉が、いまだに国を支配している。
 「天皇」とは天人を恐れぬ傲慢な言葉である。天皇・裕仁がいくら権威ぶっても、しょせんは僕と同じ人間にすぎず、本来僕に死を命ずる権利も資格もない人間だった。僕は幸運にも生き残ったので、戦争責任も取れないような人間が皇位に居座るのに反対し続けてきた。戦後天皇の地位は、「現人神」から、「主権の存する日本国民の総意に基く」と、「国民統合の象徴」に鞍替えしたが、選挙による結果ではなかった。当時、戦争犠牲者の多くは天皇制に反対し、僕はいまも反対している。「国民の総意」などと軽々しく言ってもらいたくない。・・・

 この項の最後にもう1度、天皇に執念を燃やして生きた詩人の栗原貞子に天皇論を語ってもらおう。赤提灯の詩人・高橋広子さん、魂の叫びを続ける写真家と同じように、彼女も天皇を語る。

 ・・・
 今度の天皇の訪米〔1975年〕は旧敵国アメリカによって改めて天皇の戦争責任を解除され、天皇制ぐるみアメリカのパートナーとなることであり、自衛隊と米軍との円滑な提携をはかるものであった。新聞は「天皇の訪米は、大統領選挙を翌年に控えたフォード大統領のデモンストレーションであり、大成功だった」と書きたてた。大統領選挙の利用の次は戦争利用へと発展することを許してはならない。
 テレビを通じて見るパーティや送迎のたびに挨拶する天皇の口辺(こうへん)の頻繁なけいれんは病的で異様だった。菊のカーテンの中から出て明るい陽光の中で人間天皇として通されることに対する神格天皇の名残りが苦悶のけいれんをしたのではないだろうか。
 私はテレビの画面を見ながら、天皇の背後に黒々とひろがる原爆の瓦礫と渦まく死体を思いながら「あの人だったのだ」、「あの人だったのだ」と心の中で言いつづけた。
 原爆投下を誘発させ、数百万の日本人を天皇のおんためにとして死なせ、アジアの数千万人を殺させた最高の戦争責任者は、免罪されて帰国し新たな戦前が始まろうとしている。しかし私たち戦中世代は天皇制にこだわりつづけるだろう。「王様は裸だ」と言った子供のように。

 ★天皇美談だけが残って、責任は消えた  <了>

  続く。
 
 






上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。