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秋山清「性と自由について」
 p336-339

・・・ところで、このときからまる10年前、当時21歳の大杉(すでに堀保子と結婚していた)はすばらしい自由恋愛論を書いている。
 「現社会と恋愛とは、氷炭相容れざる仇敵である。恋愛の繊手を縛する鉄鎖は『資本』という嫉妬深い現社会の主人に握られている。恋愛がその美わしき頭をもたげて、自由の野に舞い出でんとするには、 まずこの鉄鎖を打ち破らねばならぬ。すなわちまず『資本』という現社会の経済組織を破壊せねばならぬ。自由恋愛の花は、共産制度の野において、初めてその高き匂いを放つのである。」(『家庭雑誌』明治39年12月)
 「離婚を非認するは、はなはだしき誤謬である。青春の男女は、必ずしも常に、当を得たる結合をなすものでない。・・・種々なる誤れる愛に陥いるものである。この場合において、もし離婚を拒絶するならば、いかにして結合の永久に幸福なるを望むことができよう。故に自由結合は、決して永久的結合を拒否するものでなく、むしろ、これがために欠くべからざる条件である。また、結合に完全なる自由を許さずして、愛を基礎とせる結婚ができるものであろうか。愛は必然に自由を要求するものである。」(同上)
自由恋愛というものはこれらの発想につきると思う。しかし実際はそうはいかない。堀保子、神近市子、伊藤野枝、この三人の女と大杉との恋愛関係の、その時間的な推移と刺殺事件を経て、最後に野枝と大杉の一組に帰結するまでこの有名な事件の筋書の骨子は、10年前に大杉が書いた「予の想望する自由恋愛」のとおりだといってもまちがいではない。ただ不自由極まる経路をへてこの結論に到達したのである。
 自由恋愛(もちろん性の自由ということでもある)について、もう一つ大杉栄の意見がある。
「どうかすれば、もう五年か十年かすれば、こんなふうな内容の、もっとも形式にはいろいろ変わりはあろうが、たとえば同じ自由恋愛でもあるいは一夫一婦のあるいは一夫多妻のあるいは一婦多夫のあるいは多夫多妻の種種なる形をとることができようが、                                    男女関係は、大して珍らしいことでもなくなって、したがって一々その男や女の心持を公表しなければならないというような必要もなくなるのだろう。」(一情婦に与えて女房に対する亭主の心情を語る文」『女の世界』1916年6月号)
たいへんな楽観論といえるだろう。このようになることが、「資本主義社会」を変革しただけで容易に出来るとは私にはまだ考えられない。世間に三角関係、四角関係といわれた、彼を中心にしてもつれた恋愛関係の中でこういっているのだから、つまり古い道徳的規制の下でこういっているのだから、進歩的な意見のように見え易いが、私はいわゆる革命社会も余程未来の方に行かないと、大杉の言うようなこの「自由」は到来しないだろうと思う。そしてその到来の時は、人間が生物としての生命的下降線を辿っているときではあるまいかと思う。「資本」の社会を変革しないと恋愛に自由がないという説に賛成するとしても、また葛藤のない恋愛、一夫多妻、一妻多夫のような状況における平穏は、何かあまりに私を刺戟しない。自由恋愛がこのような無気力な形に花咲くものと考えることは、たのしくない。私は何かこれに反撥を感ずる。もちろん、その事の時期において大杉はこう書いたのであるが、であるとすれば革命家として安易に過ぎる。資本の世の中の法律と道徳と習慣は、その自由主義者の生存をさえおびやかすだろうからである。
 しかし、大杉栄が身動きならぬ恋愛の葛藤のなかにあって、理解と了解によって、上に述べたような形で、自由恋愛と性の自由の具体化を念じたとしても、その安易さのなかにひそむ現実からの遁走の姿勢を、さほど笑えたものではない。何故なら、後にはここに至るまでの実践があったからである。
 私は戦後20数年、1970年代に居る。大杉の多角恋愛は1915、6年である。大正のデモクラシーと戦後の民主主義がともかく経験され、資本主義国家の枠内で、自由が求められて不思議がられない時代である。大杉の時代は自由は叫ばれることも少ない時代であった。性生活即一夫一婦の時代、その下での自由恋愛の実行だったのである。21歳のときの颯爽たる自由恋愛論の、早すぎた実行を助けたものは強烈な彼の自我主義であった。自己がより拡大されて生きたいという欲望、理性的感情的欲求的なる一切をまっしぐらに自己に実践するに当って、やはり社会の圧力に抗し難いものがあったのであろう。神近の短刀はその古い社会の刃であったのではないか。
 恋愛、性、の自由とは、もっとも個人的な問題が社会に規制されるところからの苦しみを伴うものとなっている。戦後に次第にそれへの風潮がつよくなり、欲求は高まって来たが、やはり「自由」からは遠いと思う。社会的規制力のもっとも強大な「国家」が、日本において「家」による呪縛的な圧力によって永くその自由を圧してきたこと、それはまだ現実に力を失ってしまってはいない。どのような形であれ、国家(または社会)が現在の如くにか、それに近い姿で存続するかぎり、性の自由などということは夢でしかない。しからば恋愛の自由はあるというのか。とんでもない。恋愛と性が別のものであるかのような錯覚がわれわれに伴っているこの事実は、この錯覚の中に権力による詐術があるということである。
かつての日本国家は恋愛(精神の)をさえ許さなかった。いまは男と女が手をつないで歩くくらいのことは大目に見ている。だから自由があるというのではない。一妻一夫の否定とか、自由セックスなどといえば、それはまだ異端でしかない。
 私の結論はだから、恋愛にも性のことにも自由は未だない、ということである。その実行があり得るとすれば、それは体制破壊の突破口となり得るはずだ、ということ。           1971年10月5日

    「性と自由について」 <完>  
 


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秋山清「性と自由について」
P331~
・・・検事が「要するに彼等は情交に最も好都合な自由恋愛」と告発したものを、弁護士も「その自由恋愛はその実、自由交接主義」と同調的に侮蔑し、神近もまた「心体一致の恋愛ではなかった」と認めて、恋愛や性を汚れたものとする理解の中に片足をつっこんだままであった。
 大杉栄の同志たちが日蔭の茶屋事件で見せた態度もまた、旧道徳的であった。ある者は大杉の醜聞を社会主義運動を汚すものと考え、ある者は許すべからざる不道徳であるかのように怒っている。荒畑寒村も負傷入院の大杉の枕元に立って「大杉の『自我の拡充』はエゴイズムなかかる恋愛沙汰の合理化ではなかったか」と考え、「もう大杉といっしょに歩めない」ことを痛感したことを、後年語っている。誰も葉山事件にまで至った大杉の恋愛沙汰に、アナキストの性の自由という大きな課題を見ようとはしなかった。大杉栄自身といえども、戦後二十数年の今日私たちが、このことを回想しつつ考えるように、性の自由への先駆を自分の行為のなかに見出していたのであろうか。
 日蔭の茶屋の事件にたいする批判としては、検事、弁護人、大杉の同志との他にもっと外側的な世間の目というものもあった。新聞雑誌に現われた識者らのその輿論にたいして大杉は「ザックバランに告白し輿論に答う」(『新日本』大正7年1月)と題する意見を発表した。事件の翌年早々、まだ神近市子の公判中のことであった。それは輿論というよりも、ばくぜんたる世論ともいうべきものであったかもしれないが、そこに大杉の自由恋愛にたいする意見を読むこともできる。また「大杉事件と自由恋愛」というような特集が組まれて二十数人が動員され、そこにこんな意見もあった。
  「どこまでも自由意志で、自己の観望するところを土台として対者を選択せよ、というのが自由恋愛なのです。・・・人の夫であろうが、人の恋人であろうが、好きだから食付いて行くというのは、獣性恋愛です。」(山田わか)
 「性愛は、全然自分1人においてのみ相手の愛を占めていたい要求を持つものである。・・・で性愛とは、ある1人と1人との間で行わるべきものであって、当然一夫一婦たるべきものである。」  (山田たづ)
 「大杉氏が自分の主義がこうであるから、お前が犠牲になれと言うのは、常に平等を云々としている人としてはおかしな言葉である。それは平等でなく本当の征服である。」(武者小路実篤)
 「この痴情事件は帰するところ大杉の奉じている思想の誤謬に胚胎したのである。・・・その社会主義は科学的に健全なる社会主義ではなく、極端なる危険性を帯びる無政府主義的サンジカリズムであった。それがために数回入獄した前科者である。」(一条生)
 「人情は不変のものではない。いったん相愛して、終生かわらぬものもあろうが、また、年とともに相愛のものもある。そうした場合に、いったん夫婦になったからと言って、やむを得ず、共白髪まで睨み合って、添い遂げるなんどは、馬鹿な話、かえって罪悪を犯すものである。・・・日本社会の問題となった自由恋愛の件は欠陥のみな現社会にこれを行わんとした失敗の事件のみである。自由恋愛はもっとも進んだ世においてこそ行わるべきものである。」(坪内士行)
 「私もある意味において自由恋愛を平常から主張しているものである。しかし私の主張する自由恋愛なるものはわれわれが配偶者を選ぶ場合の選択の自由ということで、それ以外の自由を意味するものではない。すなわちいったん自由に選択して結婚した以上は、双方ともにこれに制限をせらるべきものである。」(安倍磯雄)

 これらの意見は、『六合雑誌』『太陽』『新聞の新聞』『日本評論』『ピアトリス』『婦人公論』等に発表されたものであり、当時意見を書いた者はこの他にも十数人を数えるが、概して自由恋愛そのものには寛大な態度のごとくである。にもかかわらず大杉がこれらに対して猛烈に反駁したのは、これらの意見が、当時の社会的現実と摩擦するものとしてではなく捉えられているからである。性道徳という、時代の道徳律の下に自由恋愛を押し込めようとするものにすぎないことを、これらの理解を示すがごとき意見の中に見て、大杉はむしろその見せかけ自由恋愛論に猛烈な反感を示したのであった。たとえば一条生の意見にたいして彼は次のようにいった。
 「先生はいずれヤソ教育者かそれに近いものであるうと思われるから、ここに主イエス・キリストの話をして聞かせる。キリストのヤソ教は、科学的に健全なるヤソ教ではなく、極端に危険性を帯びる無政府主義的ヤソ教であった。それがためについにはりつけにされて殺された大罪人である。」
これなど、現体制順応の姿勢ではどんな自由もあり得ない、ということを明確にいい切ったものである。他の論者たちも、自由恋愛に理解を示すかのような姿勢の如くでいながら、その所説のどこかで限定を付し、それによって結局は自由恋愛を否定するものでしかないことに烈しく反発したのである。しかし世論が大杉らの行為に与しなかったことはあたりまえだったかもしれないのだ。彼の同志らがこの恋愛事件に示した態度は、その人々がそれぞれの形においていわゆる真面目人間であって、その分だけ大杉に比較して、アナキズムにおいて、または社会主義において、あるいは自由への期待において、恋愛の実行において、彼らは遅れていたのであったから。それは社会体制への不同調、反抗の底が浅かったのだといいかえられることかもしれない。荒畑寒村が、「放縦なこの恋愛をジャスティファイするものではあるまいか」と考えたという、その大杉の「生の拡充」の意味を今ふりかえって見よう。
  「生には広義と狭義とがある。僕は今その最も狭い個人の生の義をとる。この生の神髄はすなわち自我である。そして自我とは要するに一種のカである。・・・カはただちに動作となって現われねばならぬ。・・・力の活動は避け得られるものでない。・・・さればわれわれの生の必然の論理は、われわれに活動を命ずる。また拡張を命ずる。・・・生の拡張には、また生の充実を伴わねばならぬ。むしろその充実が拡張を余儀なくせしめるのである。・・・かくして生の拡充はわれわれの唯一の生の義務となる。われわれの生の執念深い要請を満足さするものは、ただ最も有効なる活動のみとなる。
また生の必然の論理は、生の拡充を障擬せんとするいっさいの事物を除去し破壊すべく、われわれに命ずる。そしてこの命令に背く時、われわれの生は、われわれの自我は、停滞し、腐敗し、壊滅する。」
  「僕の生のこの充実は、また同時に僕の生の拡張である。そしてまた同時に、人類の生の拡充である。僕は僕の生の活動の中に、人類の生の活動を見る。」
 これは大杉を明治・大正の社会主義運動の中でもっとも他の者たちと区別することのできる言葉であり思索である。一ロにその特長をいえば、たとえば、社会変革の運動の最中だからそのため自分個人の欲望を犠牲にし、差控えよう、というような、そこここに在る考え方とはっきり対立していることである。自分か出来るだけ自由に、欲望の拡充の方向に生きようとすることと、反抗して現社会体制にたたかいを挑むことは、二つであるべきではない。それは1つでなければならないというのである。また社会運動をするために、世間から指弾されるようなわがままな生き方は謹まねばならぬというごとき思考は、大杉のもっとも反対するところであった。この立場から葉山事件にたいする同志たちや世論を見るとき、そのあまりな落差に目を見はらされる。宮嶋資夫が「たかが女の恋に溺れて主義主張を葬り去るとは、情ない奴だ」と大杉に向かってののしったとき、宮嶋の恋愛にたいする論理はほとんど封建時代そのものであった。★「男は女に溺れてはならない、主義のためには」という彼の考え方の中には男尊女卑が抜きがたく巣食っている。それは当時の目本の社会主義者に共通するものであった。女子と小人は養い難し、ともに大志を語るものでない、とすれば、男児有閑の時に溺れるもの、
いいかえれば女を男の玩弄物視する思想にまだ片足をつっこんでいたのだ。
 大杉の「生の拡充」を、この男対女の問題にもって来れば、男女は対等に互に自我を生かしきらねばならぬという主張であり、革命運動の中に置いて考えれば、運動のために自分の欲望や生命を投げ出せばいいというのではなく、運動することが自由の欲望を満足させるものでなければならぬと同時に個の自由、個の満足がその中に在るのでなければならぬ、ということになる。それは社会運動のためには犠牲になるべきだという青白い思考を排して、逆にその運動の中に自我を生かし切ろうとする思考なのである。アナキストとして自覚していても宮嶋や山鹿泰治は、おそらく、社会運動のために自己の欲望(この場合は恋愛と性の自由)などは差控えるべきだという思考の側に与したにちがいない。これは私の想像であるが、ふだんの座談であれば、話題として彼らもそれくらいの自由は理解し得たかもしれない。しかし、スキャンダルとしてこの上ない爆発をした「大杉刺殺」と、そこまでに至ったいわゆる大杉の多角恋愛が世間に表面化した途端に、彼らの中の極めて古い道徳性が、野枝を殴らせ、大杉をののしらせたのではあるまいか。男女平等、性愛の自由を語りつつも、その出現が社会に指弾されたとき、これらの道徳的で潔癖な人々は、とつぜん躓いたのであろう。彼らのその折の怒りと行為は、世間の大杉らにたいする思惑に加担するものでもあったのである。
 ところで、当時者である大杉栄は、いったい恋愛や性の自由について、そのことの現実とのかかわりについて、どのように考えていたのであろうか。
    (続く)
 



秋山清「性と自由について」
 性と自由について  P326~331
 

・・ここに、面白い記録がある。・・

 「……被告(註・神近市子)、栄、野枝の三人は自由恋愛の仮面の下に情夫の争奪戦に耽り居るものにて彼等三名は二六時中恋愛研究に没頭し醜陋なる生活を送れるに他ならず、取も直さず彼等は★色情狂に過ぎず、大杉栄は有数の社会主義者というも抑も何事をかなせる。要するに彼等は彼等の情交を続くる上に最も好都合なししを以て自由恋愛を唱うのみ。普通の殺人犯と目し差支えなし。
  意義の広狭を問わず、原因は嫉妬なり。・・・要するに三人とも★畜生道に落ち禽獣に等しきものなり。・・・」

 これは大正6年3月の横浜地方裁判所における検事の論告である。面白い記録といったのは隔世の感があるということである。自由恋愛の仮面、情夫の争奪戦、二六時中恋愛研究、取りも直さず色情狂、等の言葉は、そのような形容、表現を用いざるを得なかった論告者の、性とか恋愛とかにたいする観念の根底を語りつくしており、それが、ある道徳を要求する階級的優位者の側のものであることを明らさまに示していることで、いっそう私は興味ふかい回想を強いられるのである。恋愛あるいは性の行為一般をひっくるめて、劣情と唱えた精神的風上の奥底を覗かせている。

 神近市子の弁護人(鈴木富士弥)は、検事の論告にたいして、神近における刺殺の動機は「嫉妬である」と主張して、
   「嫉妬とは憤怒こそ主因にして、市子の憤怒は全部大杉の不誠実に対して発せるものなり。大杉には被告を愛するの誠意なく、当初より単に其肉を弄ばんとせるものなることを知るべし。彼の自由恋愛は其実自由交接主義なりしなり。而も被告は熱烈に大杉を愛したる故に相手の仮面悉く剥落するに及んで甚だしく憤怒を発せる次第なり。」
といったのである。
 検事と弁護士は、被告をめぐって対立していて然るべき言論が、ある共通な観念とその上の共通な理解に立つ同族的なるものであったことを、そのときどこまで自覚していたであろうか。それは性の自由のあまりに道徳的な理論でのみあったということである。「生の拡充」という個人主義的な主張が大杉のアナキズムの強い柱の一本として在ったのだが、認めるにせよ否認するにせよ、その論理の個人主義的な強烈さなどは、根っからここでは問題とされていない。ただ法律―それを支える道徳と生活的慣習とその観念に立つ論告であり弁護でのみあった。大杉における、神近における、自我はいささかもここではその存在を認められてはいない。弁護人よりも被告(神近)の方がはるかにナイイブであり、毅然たる意見と態度であった。
 神近が、「私の行為が、不公平な異性への反抗の為め世の婦人に代って敢えてしたと言ったなら如何にも立派に聞こえるかもしれないが、正直のところ全く『嫉妬』が大きな理由の一つである。」と認めたことは快いほど堂々としている。はるかに回想すれば、このとき神近は大杉をさんざん批判したが、その批判よりも、検事の諭告と弁護人の言葉にたいして、はからずも次元のちがう問題であることに触れたことの方が、現代的な発言であったかに見える。少なくとも恋愛と性の自由を否定する論告と弁護の言葉に対立するものであった。このとき神近は大杉にたいしての自分の思いをこう述べている。
「これを単純なる嫉妬―愛人を他に奪われる妬みからのみ出た殺意と解釈されるのは堪えられない。嫉妬を抱いたのは事実だが、あの最後の晩に大杉が公平に自分の気持を話して、どうしても貴方とは手を切るほかにないのだと言い聞かせてくれたら、もちろん悲しみも嘆きもしたろうが、少くとも殺意は起さなかっただろう。」

 こういった神近と、弁護人と検事との三者三様の形で、大杉は非難されている。ここにもう一つ、大杉の同志たちの非難を加えるなら、まさに四面楚歌である。
 これらのなかで一番いいのは、現在から見て、前にもいったように神近の公判廷における陳述である。すくなくとも恋愛と性の自由を否定するところはなかった。四囲の者たちは検事から同志たちに至るまで、彼らの性の自由の思想に否定的であった。アナキストであった宮嶋、山鹿らに至るまで、彼らの意図の如何にかかわらず検事と意見を等しくしていたのであった。
そして私は、なによりもここで、神近市子の恋愛と性の自由についての意見に注目したいと思う。神近が自己の刺殺行為の基に嫉妬の大なることを自覚し、それをかくさず自陳したのは見あげたことであった。嫉妬は女の秘むべき感情であるとするのが、日本の女に課せられた永年の道徳律であり、神近はそのことにも抵抗したが、しかし公判廷では、大杉にたいして以下のように陳べている。
 「やはり(刺殺の)根本的な動機は、大杉が長い間理論を弄び、私の感情を踏みつけたのに対する憤怒だと思う。・・・私は大杉と恋愛する前長いこと大杉を尊敬信頼して居り、恋愛関係に入ってからも通例の恋する人々とはよほど性質の違った愛を分ち合って来たと信じている。だからあの晩、私が大杉の全人格から流れ出るべきはずの愛の基調の不純だったことを知り、しかも味わった失望憤怒の内容には世間にいう嫉妬以上の種々な気持の加わっていることは勿論である。」 神近はこれにつづけて「利己的な愛で野枝が私の愛し合っている男を横から奪おうたって素直に渡すものか、という感情があった」「嫉妬は人間の一番いけない恥ずかしい感情だとは考えられない。だから嫉妬だけが兇行の原因だと非難されても、私は恥ずかしくも心苦しくも思わぬ」と割切ったことをいっている。私は神近のこの言葉は大正期の女の発言として堂々たる意見だと思う。ただどうしても私には神近にたいしてある批判的意見が伴う。それは大杉についてこういっているところである。前記の「通例の恋する人々とはよほど性質の違った愛を分ち合って来たと信じている」「大杉の全人格から流れ出るべきはずの愛の基調の不純だったことを知り」等について、私はこれではけっして、如何なる瞬間においても恋愛至上の思いではなかったと思う。つまり神近の中の女性は、女らしく恋にも性にも燃えあがったとはいえないのではないか、とうたがいたくなる。

 「市子はだまっていた。ショックの後には憤りと屈辱が咽喉元までこみあげてきた。考えたこともない保子の立場がはじめて胸にきた。市子ひとりの事でさえ、おとなしい保子が半狂乱になるほど傷つき、決して心からそれを認めてなどいないという状態を市子ははっきり思い浮べた。保子がその上、まだ野枝と夫との新しい恋愛をどうして承認するだろう。大杉のいい気な恋愛理論が市子にははじめて妻の外に妾を何人でも蓄えて恬然としている男の獣的な我ままとしか考えられなくなった。大杉はいつものように、むしろ、野枝との新しい恋の発展過程に興奮した情熱をあらわにして、当然のように市子を求めた。市子はどうしてもその夜、神経も欲情も大杉に随いてゆくことができなかった。もともと市子は、大杉と肉体関係に入って2ヶ月あまりになっていたが、一向に性愛の慶びというものにはめざめていなかった。精神が大杉への愛にあふれているから、愛する男の欲するものを与える喜びが湧くという程度に、その欲がはあくまでも観念的なものだった。キリスト教の教育で育った市子には性愛を不潔視する少女趣味的な感覚がまだのこっていて、性行為は、一種の義務的な習慣のような感覚でしか捕えられていなかった。」(★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』)

神近が「愛人を奪われることの妬みから出た殺意と解釈されるのは堪えられない」といい、また「通例の恋する人々とはよほど性質の違った愛を分ち合って」といったところ、そのような恋愛であったといったことに、かくされた問題があったのではないかと私は気がかりである。世間の思惑も、体裁も、自分の日頃の地位や立場から来る気構えなど一切を振りすてて、大杉とすれば妻のあったことさえその瞬間に忘れ、神近とすれば「通例の恋とは違う愛」などということを忘れ去った、そんな情感の湧き立ちがあったら、この事の紛れはもうすこし異なってはいなかったか。教養とか学問とか、見識とか、社会主義とか、そんなものをある短い時間に振りすてて、ただ一人の男とただ一人の女であることを現出し得る者同士の間に於いてはじめて、恋愛も性の自由も有り得るものではあるまいか。そのとき理性と感情との区別は失われなければならない。その余の時間はすべて、その時のためにのみあるのでなければならない。これは私における一個の理想論であるが、この理想主義―恋愛至上あるいは性の自由―から、神近の以上の言葉、彼女の大杉との性愛にたいする反省は、あまりに離れすぎてはいなかったか。
 
 小説『美は乱調にあり』の中の、私の引用した部分は、このような理解を伴った充分の表現であるように私には考えられる。公判廷の陳述で、自分の嫉妬を認める発言をしながら、一方に没我的な恋愛ではなかったことを主張している。これは多分間ちがいのない事実であろう。事実であったからこそ神近は、野性味に富んだ伊藤野枝の、女と男では極端に対する態度がかわったという、その捉われざる「女」の表現とその内なる「女性」に、見事に敗北を喫したのではあるまいか。
いいかえれば、たしかに恋愛や性の自由について、神近は検事や弁護士とは一線を画しているかに見えながら、それは社会制度やその基調となっている封建的な感情の面においての落差ではあったが、より深い意味において性の自由をわがものとした見解ではなかったようである。日本の封建臭のつよい、家を中心の恋愛や性の問題に比べては、神近のキリスト教的教養には自由の幅のひろいものがあったが、それは自由をその限界内において捉えるものでしかなかった。だから大杉との恋愛を許し、喜びながら、性の喜びとすることのできない教養的な観念論に支配されるものであったのであろう。
  (続く)
 



秋山清「性と自由について」。
  秋山清著作集 第7巻 自由おんな論争 よりいま少し紹介を続ける。

Ⅱ 自由・権力・性 のうち、前記「夢二と大杉」に続いての一文「性と自由について」で、
初出は、『思想の科学』1971年11月号。
 ***************
 

●性と自由について
 大杉栄が葉山の日蔭の茶屋で恋のもつれから神近市子に刺されたとき、アナキストの無軌道で不道徳な恋愛事件として、いっせいに世間から爪弾きされた。悪魔とさえいった者があるという(大杉と伊藤野枝はこの事件直前同棲し、その後出来た子どもに、悪魔の子だから、という意味で魔子と名づけたといっている)。それまで寄稿していた雑誌から執筆を断わられたりした。革命家、無政府主義者という反逆者としての彼よりも、自由恋愛を実行した彼を、日本社会は恐れたのか、毛ぎらいしたのか、おそらくその双方に依って、ほとんど彼らを葬ろうとするかのごとくであった。村木源次郎が大杉・伊藤の死後すぐ『改造』に、日蔭の茶屋事件後の窮迫した二人の状況を書いたことがあったが、その時、それまでの大杉の同志たちは村木源次郎1人をのこして、彼らを見捨てたようであった。
 
日蔭の茶屋事件は大正5年(1918)の11月であった。といえばその時は大逆事件の幸徳秋水らの処刑から6年後のことである。大杉栄は大正元年に荒畑寒村と『近代思想』を出し、まる2ケ年を経て月刊『平民新聞』を出し、再び『近代思想』の第二期を刊行し、この間にサンジカリズムの研究会をつづけて、ようやく幸徳の直接行動論の実践に近づいた時期であった。その時期において恋愛事件のため大杉は周辺の同志を大方失ってしまったのである。
 山鹿泰治や宮嶋資夫らのような、月刊『平民新節』から第二次『近代思想』に至る間の同志たちも、永い相棒だった荒畑寒村も、大杉の自由恋愛にはついてゆけなかった。
  「われわれの生活や観念を規制している現代社会の、客観的条件を変革することなくしては個人の自由も解放もあり得ない。現状のままの生活環境で恋愛だけ自由である筈がない。」
といったこのときの荒畑寒村の言葉は革命家として切実な批評であった。また道徳家寒村のいつわらぬ心情でもあった。心情的な批評として宮嶋資夫の言動はさらに象徴的ですらあった。
 
大杉が神近に刺されたことをきいた宮嶋は山鹿泰治らと葉山に駈けつけたが、病院の入口で伊藤野枝をとらえて殴打したという。病室にはいって、そこでも「自分の子どもより男の方が可愛いのか」と怒鳴りつけ、また大杉に向かって、「たがが女の恋に溺れて主義主張を葬り去るとは、情ない奴だ」とののしったという。このときの宮嶋の怒りは、大杉の同志達、ひろくは社会主義運動に携わっていた多くの人々の心情であり、大杉批判であったかのようである。
私は宮嶋資夫が出家した昭和5年(1930)以前しばしば逢うことがあったが、大杉にたいする親しみとその死への哀惜をいつも口にしていた。しかし、私は宮嶋は、葉山事件で大杉をののしったあの彼のある潔癖なるもののために、大杉の思想、あるいはアナキズムを美しい社会理想として極あて狭くにしか理解できながったのではないかと疑う。
宮嶋にかぎらず、大杉の自我や主張を、また彼の恋愛と性における自由の考え方を、荒畑寒村もついに理解しなかったのではないだろうか。それを理解しなかった彼らの方がはるかに道徳的な人だったことはたしかである。そしてそこに道徳について考えねばならぬ問題があり、性とその自由について考えるべき問題が逸早く、もっとも具体的にここに提出されたのであったように思う。ただ、このような問題と取組むためには私たちは、もっと大杉栄の生き方、この場合における性とその自由についての考え方を回想してみることが必要であるようだ。

ここに面白い記録がある。・・・(続)
  



秋山清・「夢二と大杉」 四
 (続)夢二と大杉 大正の恋愛 p314~323
  

 四、
 大杉が一対二(三)という多角的な恋愛に行き当たり、それがあまりな行き過ぎとして社会から指弾されたのに比べると、夢二の一対三は時間的の間(ま)があったが、それとて大杉らが注目されたのと形はちがっても、道徳的に社会から認められる、というものではなかった。夢ニ=ドン・ファン説は、彼のかかわった三人の女性とのいきさつと、それらの前後の無責任な交渉を指しての羨望的な風評であった。夢二がその生涯を彩った三人の女性との交渉を中心に、次々と彼のファンの耳目をそば立たせたいわゆる情事なるものが、それが人気者として非難めかして伝えられたことは如何ともし難い。

 いわゆる夢二の絵の女の表情を剔出させた岸環、その環との離別を決定的とした笠井彦乃、彦乃のほとんど死の前後からモデル女として画家夢二を立ち直らせた若いお葉(永井かねよ)、夢二はそれぞれの時期にこの三人によって、制作欲を促がされて、大正の歌麿の女絵を残したのである。その女性たちとのいきさつは、羨望され、非難され、ある時は彼の仕事とともに祝福された。しかし彼がドン・ファンといわれたのは、時代の道徳的立場に、彼の女出入りが、あまり歓迎されなかったというだけのことである。なるほど代表的なモデルで愛人たちとのかかわりには時間差があり、不道徳視されねばならぬのみのことではないが、世間の気に入らなかったのは、美丈夫あるいは快男児の部には入らぬ無精ったらしい半端絵書きの癖に、夢二が女にもてすぎたからであった。
代表的なその三人の女性ばかりではなく、うわさは彼方からやってきてちらほらする。それらの女名前はなお両手の指をもって数えられよう。だが夢二の好みは、生活を知った女のうつくしさと無垢の女のあいらしさ。年増女の艶冶と少女のつぶらな眸の双方に同時にひかれた。それが夢二の画家の資格のもっとも大きな才能であった。それらの特長に同時にふさわしい女性の存在は望めない。次々に姿と情緒の刺戟を求めてその満足のために彷徨した夢二を、大正はデモクラシーの時代とはいっても、なお古風で封建的な道徳感情を以って、認めぬばかりか憎みさえもした。しかし彼の心情的彷徨は彼自身にとっては自由への要求にすぎないものであった。

 大正はデモクラシーの時代であったが、その時期まだ自由は政治にも、生活にも、甚だしい無力の中に置かれていたということである。文学や芸術が自由への憧れをテーマとし、ユートピアが社会主義とともに注目されたことは、日本をまだ明治と明治以前が支配し、その中心に在って古き世間のしきたりによって「日本」をささえた国語な家の観念が幅を利かせ、人間性の自由と独立には遠かったということである。
 夢二の恋愛に感傷の気風が深くからみ、少年の憧れのような思慕がいつも添加されていたことを忘れてはならない。このことは夢二の女絵の姿態とかかわる。その画集『花の巻』の「向うむきの女」の絵に「無花果の疲」と題されており、世上にいわれるように独善のたのしみを描いたのであったとしても、夢二の感傷性は否定されはしない。それは同時に彼が、女と男を対等の存在として認識しつつあったことを証拠だてる。女性における夢二の理想が夢二によって現実の中の女に求められつづけていたことを否定することはできない。はからずも二番目の笠井彦乃によって彼は生涯の女性を得た、と後々もそういってはばからなかったのは、そこに死者への追想の美化があったとしても、当然のことであろう。理想はいつも距離を措いて在り、彦乃の死が彼の憧れを時の彼方に理想化したことは、彼の理想主義を語る、ごくあたりまえのことである。
 近頃『夢二恋歌』という夢二をモデルの小説を読んで痛感したことがある。夢二と環の最初の結合、また夢二と彦乃とのはじめての時、いとも簡単に肉体がひらかれる。太平洋戦争が終わってちょうど三十年、映画も小説もポルノ全盛、それを追って明け暮れる人々も多い今日この頃、かかる描き方には不審もないであろう。まして「異色俊英の特別書き下ろし長編」ともなれば、こういった風に夢二の恋(その時代はまだ明治)といえども取扱われる方が現代的ではあろう。しかし、早稲田鶴巻町の絵はがき店に、その小説が語るように、毎夜の閉店後に泊り込むほどの仲となったとしても、環が、夢二の求婚に応諾をためらったのは「外国貴族から芋書生まで、むらがりつどう青年たちにちやほやされる快感を、放棄するのが惜しかったからである」といった現代的な解釈を私はとらない。もし逸早く二人の結合が済んでいたのであれば、明治・大正の日本の若者らにとってそれは十分に婚約そのものであったであろう。
 大杉栄とともに、この論文に画家夢二が登場するのは、わが大正期に、恋愛の自由のため(それは人間性の自由のため)の先駆的な実践者だった彼だからである。
日本という特別に網目の細かく出来上った国の男と女の社会的立場の不均衡即ちひどい男尊女卑、それを確固たらしめている道徳と生活とそのための習慣、それをどの一角からでも崩そうとするには、社会の敵にすら廻る覚悟でなければならず、だからそれを敢えて実演する、無法者たることを恐れぬ勇者でなければならなかった。
夢二の『恋愛秘語』(大正13年刊)のなかにこんな言葉かおる。
 「何だって、愛するものを憎まねばならないのだろう。何だって、憎んでいるものを愛さればならないのだろう。 夫婦だからだ。」
これは皮肉な蔵言とでもいうべきだろうか。
「女は、信じさせようとする。 男はそれを信じようとする。 それより外に平和に暮す道はない。」

 私はこの二つの言葉を「結婚は恋愛の墓場だ」という古い流行語に絡ませて見たくなる。これらのどの言葉もむろん現在のものではなく、どれもこれも、大正時代というものでもある。社会がその制度によって人間を制約することの一つとして男女の愛の結合といえども、夫婦となれば、それが桎梏となることを、はしなくも自由人夢二は語っている。自由が自由でないことのおそろしさを、大正の歌麿がこう語ったことに、私は注目せざるを得ない。

 自由人夢二は、結婚とは互に相手を自分のみに縛りつける最悪の規制、とうけとらなかったとはいえない。出発は恋愛であっても、ともに狭い家庭に朝夕を共にし、権利ある者として互の自由を縛り合うのは、結婚と自由との相剋が、免かれ得なかった時代の負い目だったということである。いわば人間相互の自発的なむすびつき以外に、社会的なまた法律的な固めの手つづきには、規制の意味しかない、ということである。こう考えるとき「夫婦だから、憎いやつともいっしょに生きなければならぬ」となったら、人間性あるいはその「自由」にたいする最大の侮辱であろう。すでに愛情のさめ果てた者同士が、その愛のさめ果てたことを取り繕って、心にもなく平和な生活をつづけるためには、何でも相手のいうことを信じる、いや、信じた恰好をして見せる、それしかない、即ち虚偽があるのみ、ということになる。わが大正という時代には、知識人や思想家や急進的な若者たちは自由を欲することを人間の立場から堂々と論じはしたが、社会の道徳的な壁は破れず、現実に敗北して理想主義をつらぬくことは出来なかった。そのことに順応しなかった僅かな人々がいて、彼らは異端者か反逆者のごとくに扱われた。夢二がその一人であったのは知られる通りである。
 環との出遭いから同棲と結婚の道程がすでにそうであり、彦乃との恋愛の終始もまたそうであった。夢二のどこかには極端にエゴな、自立への憧れがあり、それが当時の道徳に反して見える環とのいきさつ、彦乃との同棲、あるいは彦乃の死後モデル女・お葉との生活にまで及んだが、彼の女たちとのかかわり方には、相手の自由を認めようとする苦衷があった。
 彼自身その生い育った環境からの影響もつよかったし、自堕落で自制の弱い、愛憎への歯止めの利かないものを示す一方で、最終的には、人間が孤的なものでしかないことを自覚していた。抑制されることのない愛情をしか信じなかったのである。大正の女性たちもまた自我に目ざめて、昔の女とは次のように変化すべきこと、またすでに変化しはじめていることを知っていた。
「昔は、見そめる、思いそめる、思いなやむ、こがれる、まよう、おもい死ぬ、等等の言葉があった。
今は一つしかない。『I love you』 (「砂がき」『恋愛秘語』)
むろん、この箴言には、近代の利己的な女性たちの殉ずる愛の欠落を歎くもの思いもあるのだが、その一方、自由と自己への目ざめということの厳しさの、その味わいの苦いこともよく知っていた。自立して自己をつらぬいて意志的に意地つよく生きることの辛さを噛みしめるのでなくては、男と女の恋愛が、古い道徳や習慣から脱出し得て、己自身のものとなることは出来ない。ということを夢二はほろ苦く語っているのである。

 甘さと自堕落さ、意志的に社会人として自主自律するそのことと逆に己を遊蕩させてしまう弱さを目覚しながら、夢二は自分にも、女たちにも自我を積極化することをつとめている。彼ほど未来に向けて立ち上がるであろう女たちに期待せんとした者はすくない。
『恋愛秘語」は、現代の女性への不信を語りながら、未来の女性への期待を世間の男どもに、述べる言葉でもあったのである。その中の「砂がき」の最初に、そのことを彼自身の言葉で次のように語っている。
「私の不幸は、私の夢が日毎夜毎に壊されてゆくことではない。夢がだんだん失われてゆくことだ。
 私の不幸は、女が私を欺いて、私を捨てたことではない。女の不信が、私の憧憬を打砕いたことだ。」

 そうなんだ。「夢が失われてゆくこと」ほど人間を失望させるものはない。夢二がこのようなアフォリズムをあつめて『恋愛秘語』を世に送ったのは大正13年(1924)、といえば関東大震災の翌年である。夢二の恋愛の跡を辿ってみれば、環と別れ、彦乃も遠く死の人となり、少女お葉もこの年9月に家を出で(愛人を得て去ったとも、また、山田順子への夢二のつまずきから去ったともいうが)、愛憎ともに、今は彼女たちほどの身近かな対象が杜絶していた。当時の東京市外松沢村松原(現在、世田谷区・*明大前駅辺り)の雑木林の中に自分で設計した住居を建てていたが、それは夢二式の、夢見るような雰囲気のものであった。夢二には自分の奸むものを、自らつくることのできる生まれながらの才能があった。夢二はまず愛する女たちをつくりあげた。環を下町風に仕立てて絵草紙店「港屋」の店頭に坐らせた。それは夢二の失われた日本の文化への哀惜のしるしであり、同時に商業美術家・夢二の、現実的な手腕でもあった。笠井彦乃を「山路しの」と呼びかえて、大正の下町娘を尖端的な恋の実践者とした。彦乃もまたある時、夢二描く女絵のモデルであったことはいうまでもない。現実に生きている女たちの中からえらんで、さらにわが愛の対象たるにふさわしい工作が施され、それによって相補う精神と生活を理想化したのである。その期間がみじかかっただけに、彦乃にたいするこの愛の造型には破綻がなかった。お葉の場合、形の上では完全に近く夢二の試みのままに形づくられ、夢二の女の実現化に人々を瞠目させたが、また彼女の幼さがその従順をたすけたが、精神的成長、いいかえればやがて来たその自我の自覚が破綻の動機ともなったかにも見える。夢二の恋愛の跡を辿れば、その独創の背後には反権威的な思考が見える。個の自由を妨げる現実社会の習慣と家の道徳的規制への不同調ということである。青江舜二郎がその著『竹久夢二』のなかで、まこと巧みな表現でこの夢二の特長を下のように語っている。

「路は祖先の残した最も美しい力強い創作の一つだ。・・・夢二はここに「路」の字を使っている  が、普通は道で、夢二も恐らくその積りであったにちがいない。だが路が無意識に用いられたことが私をふるえさせる。「道」はその文字のなり立ちからして、もともとすでにある  「みち」を人間が意識してあゆむものであり。「路」は足が勝手に歩いているうちにそこが「みち」になったものだと。説文などに説明されている。だから「路」という文字には道徳、騎士道な  どという使い方はないわけで、夢二は。「みち」を祖先の最もすばらしい創作という時、それはすでにつくられたものを意想していたであろうことは風景の中での「道」をかぎりなく愛した彼の数々の文章からも明らかだ。にもかかわらずここに「路」を使ったことでその内容はぐっと溌刺と人世的になる。すなわち祖先がわれわれに残した創作とは、既成の道を歩むことではなく、 われわれはひとりの「みち」を求め歩きやがてそれを「道ととなす」そのいとなみをこそ指すものであった。」(*「道」の語義については、ここでは問わない)

 既成を歩まなかった夢二におけるその既成とは、絵であり、恋愛であり、家庭であり、結婚、そして孤独であった。これは大杉栄とも共通する点だが、夢二は生涯にかかわる代表的な三人の、どの女とも結婚式らしいことをしていない。大杉もまた三人の女性との恋愛によってある時期ジャーナリズムに大きく取次沙されながら、結婚式というものをやってはいない。むろん形式よりも実践を重んじ、習俗への反撥それ自体に自我を生きた彼らであれば、当然のことであったかもしれないが、戦後新憲法の下でなお、何々家と何々家の婚礼が、明治・大正に家と家との儀式として、当然のように女は男と結婚すると同時に婚家の一員となって「家」の構成員となるというしきたりが、なおつづけられている現在に立って思うと、彼らが結婚について如何にその形式と内容にわたってのしきたりに不同調であったかを、改めて重たく受けとめねばならぬ。
重んじたのは愛であり、当事者としてのわれを大切にし、同時に相手の人格を格差なく認めたということである。

 夢二といえば、あの退廃的な女の姿と「宵待草」のうたで思いだす人の方が昔から多い。それはいわばつくられた夢二であり、あるいは欠落した夢二でしかない。自由を求めることを生活の中に持ち込んで、顧客への思惑をさほど気にもせず、だから必ずしも盛名ほどの暮らしの豊かさではなく、しかし、わが進退の自由に留意しつつ、世界の美術の風潮にも目ざとく反応したのは、社会一般の習慣の「長いものに巻かれる」ことに小さな不同調を持続しつづけたからであった。

 女々しくもあり、汚れもし、感傷癖もありながら、自我を彼の奥底で支えたものは、ヒューマニズムとレジスタンスであった。それを抱持して夢二が、孤立して日本とさえも対立し得たのは、弱い彼の、女たちへの愛情であった。社会秩序とは、この「自我」と「他我」との相互関係である。恋愛とは自他の自由がもっとも拡大され、また縮小される関係によって保たれる個的な秩序にほかならない。それを自我拡充の方面から捉えようとする秩序が恋愛である。そこに社会的秩序が恋愛の秩序によって侵されるという考えが生まれる。「大正」は自我の覚醒から、恋愛が社会的秩序に刃向かった時代であった。昭和のファシズム時代を回想するならば、この事実と歴史は忘れ難い。

 恋愛において、竹久夢二と大杉栄を以て大正のチャンピオンとするのは、それぞれに形はちがっても、社会秩序の圧力に対して彼等の恋愛を進んで取り、また守ったからである。守ったという以上に、わが秩序によって既成の社会秩序を乱した。彼等が非難されたには、そのような深い意味があった。                
 
                     1975年8月17日
  「夢二と大杉」(完)
 






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